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「も」


2020年鑑賞作品

もち
2019年 61分 日本 カラー
監督:小松真弓 脚本:小松真弓
撮影:広川泰士 音楽:山田勝也
出演:佐藤由奈 蓬田稔 佐藤詩萌 佐々木俊 畠山育王


2020/7/13/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
え?一体これは、ドラマ?ノンフィクション??ドキュメンタリー???何何!という、経験したことのない感覚から始まっていく。
いや、始まりは確実にドラマだ。葬儀、一人亡き妻の遺影を見上げて座り込んだままのおじいちゃん、かわるがわるおじいちゃんを呼びに来る親族たち、寄っかかってゲームをやっている孫娘。
「どうしても、おばあちゃんのために餅をつきたい」とおじいちゃんが言い出し、しんしんと降り続く雪の中に臼を出し、「ユナ、頼む」と言われた孫娘は「私??」と戸惑いながらも、おじいちゃんが振り下ろす杵に合いの手を入れる。これ以上ないドラマの始まりに違いない。

なのに、その合間合間に差し挟まれる女たちの用意する餅、そして料理、ひっきりなしのおしゃべりは聞き取れないネイティブ訛り、どう考えても今、リアルに喋っているおばちゃんたちの井戸端会議。
でもその中に、「なんでおじいちゃんそんなこと言いだしたんだろね」とか、「おばあちゃんは手まめな人だったよ」とか、観客がふと考えた先を支えるような台詞がスルリと入ってくる。

これは一体なんだ!!と思っているうちに、ユナの通う学校、文化祭に向けての踊りの練習、授業の様子等々、どー考えても、今そこで起こっていることを映しているとしか思えない描写に、あれやっぱりドキュメンタリーかと思っていると、ユナと友人のシホとの甘酸っぱい友情のやりとり……「(シホの兄の)タツ兄のこと、好きなんでしょ」「そんなことひと言も言ってない!!」とか、これはドラマに違いないのだが、その境目が、もう本当にスルリと入っていっちゃうのだ。
ドラマ部分と思われるところは、芝居初経験の彼らだから初々しさが先立つが、ドキュメント部分はこんな芝居はどんな上手い役者だって出来る訳ないという瑞々しさで、そしてそのつながりが水のようにスルリとつながってる。

プロダクションノートでちらりと見たが、やはりそこは長期間の取材と信頼関係が物語っている。実際の家族が家族を演じ、実際の先生が先生を演じ、実際の友人同士が友人同士を演じる。
いや、時に、実際の地域生活、学校生活を一年かけてじっくり撮影したというのだから、本当に境目がないのだ。

確かにアイディアとしては思いつくかもしれない。でもこれは、途方もないことだ。地域行政が依頼して作るだけでは得られない奇跡の幸福だ。
最初はもち文化のPR映像として依頼されたという本作が、その責もしっかりと担いながら、山深いひとつの集落の、春夏秋冬と、失われゆくように見えるが踏ん張ってとどめている文化を収めていく。
そして、これはもう決定事項で受け入れなくてはならない中学校の廃校というドキュメントを、映画作品という半永久的に残る芸術作品の中に、しっかりと刻んでいることに、感銘を受けずにはいられない。

そう、そもそもの基本ラインはもち文化であり、それはしっかりと描かれ、ああウチの実家を建てた時もやったやった、もちを屋根から配るの!!結構大根まじっててヤラれた!と思ったもんだが……ここではそんなコソクなことはやってないみたい。
もちはまさに神事、なのだ。そもそも米がそうだけれど、この一関という町にとって、米以上にもち、なのだ。

それを孫娘のユナにおじいちゃんが語る物語は、臼と杵がかんっぜんに男性器と女性器を表してるって話で、もちはねばっこいし、絆だし、というところに至っても、大人のこちとらはついつい顔を赤らめてしまうのだが、ユナは神妙に聞いている。
地域や親族のつながりの深いこの町に育った彼女にとっては、男性器、女性器なんてところにヘンに引っかからないんだろうと思うと急にハズかしくなる。
この地域での人とのつながりを、素直にもち文化の中に彼女は落とし込んでいる。次々出てくる納豆もちやらずんだもちやら、もー最高においしそうでお腹が空いてたまらない。

中学校も廃校になるのが決まっているし、大学進学という選択肢を持つと、どうしてもこの町から出て行かざるを得なくなる。決して、ここを捨てて都会に出る、というニュアンスがないのは、それを周到に排除しているからだろうと思われる。
だってこの地元で実際に生活している人たちが、ほぼ自分自身というスタンスで演じている(時に演じてさえいない)のだから、それは当然であろうと思われる。

ユナがひそかに恋するタツ兄は、大学の推薦が決まってこの町を出ていく。それは彼女にとって確かにとても大きな出来事だけれど、そもそも中学校が廃校になること、友人一家が隣町に家を建てるために引っ越すことも含め、少しずつ少しずつ、人だけではなく失われて行くものがこの小さな集落にはあって。
でもそれを食いとどめたいと、この地を愛している人たちも思ってるし、彼らに出会って監督さんがそれを強く感じたから、こんな奇跡の物語が出来た訳で。

ある意味、自分自身を演じるユナ嬢がとても良くて。確かに芝居部分ではハラハラする気持ちはなくはない。でもそれもとてもまっすぐで、特におじいちゃんとの対話、おじいちゃんが考え事をする林の中の渓流に一緒についていくシーン、ここは、秀逸だった。
確かに用意された会話はそれなりにはあったのだろうと思う。でもここでの二人の会話は、脚本ではなかった。

おばあちゃんが自分のところに嫁入りしてくる過去をノスタルジックな映像で回想し、それはまさにドラマ中のドラマと思われるのに、おじいちゃんがその追想を感謝と共に振り返る中に、孫娘のユナの感慨が、孫娘そのままにするりと入っていく。
「努力しないと忘れてしまうものなんて、なんだか本物じゃないみたい」というのはまさしく台詞だし、やはり多少のぎこちなさは感じるのだけれど、でもこれが、この台詞が、本作の最もキモであるということへの責任を感じて発しているんだとも思われて、なんだかグッと来てしまうのだ。

ことに良かったのは、ユナ嬢のタツ兄への恋心である。ホントに彼に恋してるんちゃうん!と思わせるリアルさ。タツ兄を演じているお方はこの町の住人ではなく、岩手在住の学校職員だというから、実際の家族や友人、同級生や先生といったリアルさはないんだろうけれど、でもきっと、これだけ取材を重ねて出来上がった作品だから、彼女自身の経験を引き込んだエピソードであるに違いない。
友人の兄という存在は、幼い頃から知ってはいても、この地域ではただ一人の、近しいけれど年上という存在。たった三歳差でも、中学生と高校生じゃ、子供と大人ほどの差がある。たった三歳差、なのに!!

ユナにとって、「推薦で東京の大学が決まった」なんていう台詞は、宇宙に飛んでっちゃう程の隔たりだろう。シホの新しい家の上棟式に呼ばれて、おそなえもちを作りに訪れるユナが、もちをついているタツ兄に親し気に「カッコいいだろ」と話しかけられて、「うーん……カッコ……良くない!!」応えるあの絶妙の間。ぜっっったいに、杵をふるうタツ兄に見とれていたに違いないのに!!
冒頭の、おじいちゃんの杵に合いの手を入れるシーンから始まるので判るように、まさにもち文化は、この町に、神聖と生活そのものとしてわかちがたく結びついているのだ。

だから、タツ兄に想いを伝えようと作るのも、バレンタインのチョコのように見えて、手作りもちなんである。チョコペンでloveとメッセージを書いちゃったりして、ヤバイと頭を抱えるユナの一人問答は、まさに現代女子中学生そのもののリアルさ。
顔を覆う両手の柔らかさ、その下で見事にばら色に染まってるふっくらとした頬が可愛くて、ああ、これはドキュメント??ドラマ???結構この子に騙されてるかもしれーん!と思っちゃう!!

シホが気を利かせてタツ兄と二人きりになり見上げる花火大会とか、胸キュンの場面もいいけれど、ヤハリクライマックスは文化祭と、卒業式である。地域伝統の踊りを、生意気盛りの男子中学生もマジメに取り組んでいるのは、今年限りで廃校になってしまうからに違いないのだ。
学校が廃校になっても伝統が途切れるという訳じゃないけど、でも学校という場は確かにそれを継承、教育できていた場というのは明らかであり……。ここだけじゃないんだ。日本全国津々浦々、あちこちの小さな村落で受け継がれてきた伝統が、少子化=学校がなくなることで失われ、伝統文化どころか町の存在自体が危うくなる。だってどちらも、人間が住み、育てていくからこそのことなんだもの。

いっときはとにかく都会に出なくちゃ、田舎にいたら何にもならない、高度経済成長というものがそれを後押しし、地域文化は失われて行った。
でも今は、情報通信がかつては信じられないほどに発達し、今いる場所がどこかということがほとんど意味がなくなったし、世界中から見ても、日本の伝統文化、里山文化、それが小さく失われそうなほどに希少であればあるほど、重要視されるようになってる。

ヘンなたとえだけど、金儲けのためにバンバン象牙をとるのに象を殺すのが横行することなんて、今は出来ないのと一緒である。でもそもそも日本という国自体が、まだそのことにちゃんと気づけていない気がする。世界から言われているのに。
冒頭、ユナが寄りかかってスマホゲームに興じていたシーンが、この場合意味あることに思えてくる。ゲームという入り口じゃなく、ここにいても世界のすべてに発信できるし、世界のすべてから来てもらうことができるのだから。★★★★☆


もみの家
2020年 105分 日本 カラー
監督:坂本欣弘 脚本:北川亜矢子
撮影:山田笑子 加藤育 音楽:未知瑠
出演:南沙良 緒形直人 田中美里 渡辺真起子 二階堂智 菅原大吉 佐々木すみ江 島丈明 上原一翔 二見悠 金澤美穂 中田青渚 中村蒼

2020/3/23/月 劇場(新宿武蔵野館)
この監督さんのデビュー作「真白の恋」がその年の私にとってのベストワンだったので、その次作を心待ちにしていた。第一作が撮れても誰もが次回作を撮れる訳じゃないし、どんなに良作であってもその作品傾向が商業的には地味と思われたらますます難しくなることは、デビュー作以来名前を聞かないあまたのクリエイターを思い出すにつけ、ちょっと不安であったから、ただ、嬉しかった。
しかも第二作は、なかなかのメジャーな役者もそろえてきている。でもそれも、まるでこの監督さんの作品を表すように、そんな、地味だけど良心的な役者といった人たちばかりなのだ。緒方直人なんてまさしくそんな役者だと、なんか久しぶりに彼を見たけど改めて思ったりもする。

舞台は監督さんの故郷なのだという。雪深い富山。タイトルであるもみの家というのは、何らかの事情を抱えて心を閉ざしてしまった若者たちが、ゆっくりと再生するために共同生活をする場所。
ちょっと間違えるとかなり説教臭い題材になりそうだと思ってやや不安もよぎる。こういう場所自体がヘタすると新興宗教的や、スパルタ体罰的になる危険性だってある。あるいは主宰者の信念の強さゆえに、作品中では成立していても観客をヘキエキさせることだってあり得るのだもの。

しかし、そんなことは杞憂だった。緒方直人演じるもみの家のオーナーが、彩花とその母親にゆっくりと説いたように、ここの基本は早寝早起き、農作業。それだけなのだと。腹をくくって、じっくり見守っていただければと。
本当にそれだけで、それが何を解決するかなんて何一つ確信めいたことは言わない。これは実はかなり、凄いことなのではないかと思った。それだけで、不登校の娘をここに預ける決心をする母親だが、なんだか判るような気がした。
綿密にカリキュラムや精神指導法を説かれたら、それこそ不安がよぎったあれこれが現実になりそうな気がした。なのにここでは、ただ早寝早起き、農作業、それだけなのだ。そしてそれが本当に……本当にそれだけなのだ!!

でも親元から放り出されるように預けられるんだし、彩花なんてたった16歳だし、気の弱そう……もとい優しそうな父親が「親から捨てられると思っちゃうかもしれない」と、「もう少し様子を見てみれば」と腰が引けるのは確かに判る。
でも、母親の「もう少しって、もう半年よ!」という焦りはもっと判るのだ。ティーンエイジャーの半年の長さ重さを、改めて思い返す。親として娘に対峙しているのならなおさらだろう。

気の弱そうな優しそうな父親、二階堂智と、気は強そうなのに心配性な母親、渡辺真起子の夫婦のバランスの妙味がいい。ヘタすると、もうここでぶつかり合ってオワリになりそうなところを、お互い、娘を愛しているというところで折り合いをつけて、娘のいない夫婦二人の生活を、不安と寂しさの中ながらしみじみと送る描写を絶妙に織り交ぜるのがたまらんのだ。
勿論メインの描写はもみの家なんだけれど、いつだって観客は、子供を捨てたと思われているかもしれない、娘にそう思われているかもしれないけれど、きっといい方向に行くと信じて……娘を信じて、っていう両親のことが気になっているから、その基本にきちんと立ち返ってくれるから、なんだか安心できるのだ。

しかして、彩花は当然、納得いってないし、なじめないし、帰りたいことこの上ない。でも、「学校に行くか、もみの家に行くか」二択を迫られてもみの家を選んだほどに、その傷は深かった。
帰りたい、のは学校に行く環境ではなくて、衣食住守られて閉じこもれる家だという甘えを、最初の二択でもう示されていて、彼女自身だってそのことは判っていた。

甘え、だなんて……うっかりそんなことを言ってしまったけれど、学生のうち、親の扶養のうちは、当然の権利だと思う。学校がしんどければ、そのことによって心を病んだり死を選んだりするぐらいなら、家に閉じこもったっていいとは思う。
ただ、それこそ扶養のうちは、親が子供の行く末を考えて出してきた提案を、単純に否定することはある程度、許されないことなのかもしれないと思う。これは、アジア的儒教的な考えかもしれないけれど。でもやっぱり、親の愛であり、人生の先輩であるのだから。

この両親の選択はかなり勇気あることだと思うし、愛のあることだと思う。だって……自分の手から離す、いわば捨てるような形になることで、子供からの信頼を失う危険性だって、あるんだもの。本作においてそこんところを特に掘り下げることはしないんだけれど、掘り下げないのにその愛を感じさせる手法は、素晴らしいと思う。
まあ、オーナーの奥さんが子供を産んだところに立ち会って、「彩花のお母さんもこうやって産んだんだよ」という、言ってしまえばベタな展開はあるにしても、そこまでに特に盛り上げてく過程はないんだもの。本当に、淡々と、日々を過ごしていくから。

一緒に暮らす子たちとも、特にベタベタともせず、“卒業”していく子を見送ったり、“OB”のイケメン君に淡い思いを寄せていたのがこの土地を離れて行ったり、といった感じである。イケメン君に思いを告白することもない。
このイケメン君を演じるのが中村蒼君で、彼は判りやすく、もみの家から出て自立していくモデルケースを示している。彩花は学校ではなじめなかったという描写にとどまり、はっきりとしたイジメがあった訳ではないという設定だったが、OB君はかなりひどいイジメからもみの家に来たんだと語る。

どっちがどっちという訳ではない。どっちの辛さが優先している訳じゃない。私は……彩花の陥った環境が、高校一年生の時に、めっちゃ合致していたから、凄く凄く、刺さった。
ハッキリとイジメがあった訳じゃない。でもなじめなくて、友達が出来なくて、……。ハッキリとイジメがあった訳じゃなかったから、辛くても、逃げるのは卑怯なのかもしれないと思って辛かった。

OB君はハッキリとイジメの経験があって、その時に親から、逃げるが勝ちだと言われて、もみの家に来た。
この価値観は私的に激しく同意するところがあって。なぜいじめられる側が頑張って闘わなければいけないのだ、逃げるが勝ちだと、本当にそれは思ってて。

でも一方で、私も経験したような彩花のなじめなさ、自分の辛さをハッキリと主張できないしんどさをメインとしてとりあげたことが、凄い、凄いことだと思った。
昨今、ひっどいイジメ描写を映画のひとつのエンタテインメントみたいにとりあげて、見てるだけで辛くて。……そのことによってもしかしたら、彩花のように、私のように、“単なる”なじめなさに苦しんでいる子たちが、自分はわがままなのかもしれない、弱いのかもしれないと追い詰められるんじゃないかと、いうのは、本作に接して初めて気づいたことで。

もみの家にいるメンメンについて、一緒に暮らすメンバーからさらりとそれぞれの事情が語られはするけれど、特にその重さ軽さをどうこうすることはない。それがとても、イイと思う。その重さ軽さは、当人にしかはかれないことなんだもの。
ヘタしたら彩花の両親だって、なじめないぐらいで、と軽んじることだってキャラ設定としては可能だったと思う。その表面だけを見たら、そういう経験がなければ、甘えてんじゃないのと断じる危険性はあった筈だもの。

でもそれは、なかったんだよね。あんなに気の強そうに見える母親で、彩花が「自分のなりたいように押し付ける」と口をひん曲げて批判していたけれど、娘の甘さを糾弾するんじゃなくて、だったら娘のためにどうすべきかを、親である自分たちが嫌われてもいい、否定されてもいいと思っての決断は、愛以外の何物でもないんだよなあ……。

これが、遺作ということになったんだろうか。彩花が無邪気に心寄せる地元のおばあちゃん、佐々木すみ江氏である。本当に、地元のザ・おばあちゃんで、彩花が獅子舞の稽古に通うのを目を細めて見守り、おばあちゃんお手製の絶品のおはぎを彩花はいくつも頬張るんである。
なーんだかイヤな予感はしたが、やはり高齢のためか頓死し、彩花はもみの家のオーナーと共にボーゼンとしたまま葬儀に参列する。彩花にとっては喪主である息子が、ずっと疎遠で突然現れて、「母が迷惑をかけたと思いますが……」とあいさつの言葉で繰り返すのが、耐えられなかった。「迷惑なんか、おばあちゃんはかけてません」そう言って、雪降る中を飛び出してしまう。

家族のありようというものを、彼女のような若い人にどう説明すべきなのか。この描写一発では、このおばあちゃんと子供たちの関係は正確には把握はできない。
彩花が即断したような、冷たい子供たちという訳ではなかったことは、後からオーナーが彩花に諭すように、出棺の時、息子さんが泣きじゃくっていたよ、と静かに語りかけることからも判るが、本当に……年を経るにつけて、親子関係、家族関係というものが、自分の知りうる範囲がいかに狭いものなのかと、つまり、自分はなんて恵まれていたのかと思うことが多々あってさ……。

もみの家に暮らし、自立の道を探って“卒業”していくメンメンのそれぞれを詳しく語られはしないけれども、しないからこそ、チラ見せの例にこそ、その多彩さ深さを感じるんだよね。恵まれてるとか、損とか、そういうことじゃなくて、なんていうか……。
そう、本当にベタなんだけど、オーナーの奥さんが赤ちゃんを産んだ、あのシンプルな場面、本能に触れる衝撃で涙があふれた彩花、こうやってあなたを産んだんだよという言葉、もうその一発ですべてが解決されてしまうように思うのだ……。

彩花は、この富山の地で学校に行くことを決める。つまり、親から離れることと、学校に再び行くことの二つの大きな選択を成し得た訳である。これは凄いことである。16歳で、言ってしまえば親から捨てられたようにも見える形で見知らぬ土地に放り込まれて、そこで学びなおすことを決意するって、すっごい、すっごいこと。
キリキリ心配していた母親にこの決意をLINEで告げ、ありがとう、とも言い添えた、あの時の母親=渡辺真起子の涙と、それを受け止めた優しい優しい夫、二階堂智との抱擁は、もう号泣号泣大号泣。だってさだってさ、10代、しかもたった16で親から離れて、自分の人生を決断するなんて、親も、子供も、凄い、凄いよ!!……私には絶対、出来なかったなあ……。 ★★★★☆


揉めよドラゴン 爆乳死亡遊戯(揉めよドラゴン 爆乳乱れ咲き)
2020年 分 日本 カラー
監督:佐々木浩久 脚本:佐々木浩久
撮影:鏡早智 音楽:広本晋
出演:優月まりな 西田カリナ 西村ニーナ 野田博史 折笠慎也 石川雄也 加藤賢崇 しじみ 吉行由実

2020/10/16/金 劇場(テアトル新宿)
なかなかヒドい(爆)。そういう意味では気楽に書きやすいが(爆爆)。
黄金期のカンフーコメディ、サモ・ハン・キンポーあたりにかオマージュを捧げたという熱意はとっても伝わるが、三姉妹の芝居がヒドすぎる(爆)。いくらコメディ描写に熱を注いでも、芝居がそれに応えられないのでは……。

改めて映画とは総合芸術だという言葉を思い出す。なんかいきなりマジメになってしまったが(爆)、でもマジにそう。そこには役者の芝居が不可欠なのだ。
ピンク映画だって当然、そうである。まあピンク映画の女優さんにはちょいちょい、芝居経験の浅いAV女優さんをそのまま引っ張ってきましたという図式は避けようがなく、なかなかツラい芝居を見せられることも多々あるのだが、それは最悪単独ヒロインにしておいてほしいものである。

一人であれば周囲の手練れ役者たちが、よってたかってなんとかしてくれる。しかし三人もとなると……しかもコメディっていうのが更に追い打ち。シリアスな芝居よりコメディの方が難しいんだという言葉もまた思い出してしまう。
一般映画ではどちらにしてもそれなりに芝居のできる役者さんで観ているからいまいちピンときてなかったが、本作を見るとほんっとに、そうだと痛感する。台詞回しは言わずもがなだけれど、身体が全然動いてないんだもの。セックスの時は動いてるけど(爆)、なんつーか、生体反応がないというか(爆)。マジで見ていて辛かったなあ……。

まあとにかく気を落ち着けて物語の方に行く。物語ったって(爆)。三姉妹が一人の男に騙された。騙されたっつーか、肉体の虜にされた。
顔半分を黒マスクでおおって黒マント、フォークギターを肩から下げて、全然コードを押さえずにジャーン!!とかきならし、俺はセックスだー!!と絶叫する、顔はまあまあイケメンさんな男。このキャラにも萎えるが少なくとも芝居は出来てるので観ていられる(爆)。

コイツに騙されたことをプンスカ怒っているのは末の妹だけで、上二人のお姉ちゃんたちはまだたっぷりに未練があって、思い出してはおっぱい揉んでおまたをいじくってアンアンやるんである。
二番目のお姉ちゃんは子持ちでもないのになぜかおっぱいから母乳がビシャー!と出る。後にそれが武器になる(爆)。今はそれを、女体ケーキ盛りにして「いちごミルクにして、お姉ちゃん」「判った」ウワーヤメロー。……まあそんなエロオバカな描写もすべてなのだが、芝居が出来てたらなあ……と思わずにはいられないんである。

ちなみに一番上のお姉ちゃんはまるで西洋人形のような美女で、その口から日本語が出てくるのが不思議なぐらい。ひどくスレンダーでおっぱいがあるかなしかの微かさ。そういう意味では中性的で、え、ひょっとして美少年が女の子になってるんじゃないでしょうね……と思うぐらい。
でもこのぐらいのサイズの子は確かにいるか。下二人が異常なぐらいの巨乳だから対照的にもほどがあるんである。
この身体つきのギャップのキャスティングには意味があったんだろうか。二番目のお姉ちゃんの母乳攻撃はあるにしても……。一番上のお姉ちゃんはホンット、フィギュアのおにんぎょさんみたいなんだよね。そーゆー意味で言えば芝居が出来てない感じの方がいいのかもしれない(爆)。

この三人の元にすべてを見通した謎の老婆がやってきて、あの男を倒したいなら修行をしなければいけないという。この老婆、いやさ、少女老師と呼べと彼女は言ったが、演じるのが手練れ中の手練れ、吉行由実サマ。
もうお脱ぎにはならないよね、と思い、全部脱ぐまではいかないが、「ここまでが限界よ」とハートマークがつきそうな勢いでトロピカルなハイレグ水着姿を披露した時には思わず噴き出す。いやー、さすがである。
そして、三姉妹の家に間違い電話をかけてきただけなのに、少女老師が放ったなんか変な呪い電波を受けて狂っちゃったという、ムチャクチャなキャラ設定で登場するしじみ嬢、この手練れ女優二人がいわば、三人姉妹のダルダル芝居をムリクリ引き絞る感がある。

つーか、しじみ嬢のキャラは一体なんなんだ。電話から呪いの電波がビリビリと彼女をおおい、とつぜんピエロ、いやあれはジャック・ニコルソンのジョーカーメイクとしか思えない、しかしそれにしてもざっつな白塗りメイクで、ひたすら狂ったように(いや、狂ってるんだろうな)海岸を駆け抜ける。
「郵便貯金はいいよねー!利率がいいからー!!!」……最初、なんて言っているのか判らなくて、カタカナの呪文のように聞こえたが、実際そっちが正解かも。一体何なんだ、このフレーズは。てかもう、このメイクといい、しじみ嬢の振り切った芝居といい、耳からこの呪文が離れない……。

三人の修行場面はそれなりに楽しい。“マン力を鍛える”とかいって、電動ペニスをたてた上に膝屈伸で耐えるとか、バカじゃないのと(爆)。なぜその下に、まるでたたき割れとでもいうかのようにコンクリ片が供えられてるんだよ。矛盾してるだろ(爆爆)。
乳首をいじくられても耐えてろうそくの火を揺らさないとか、このバカバカしさは割と好きだが、だからこそ、振り切ったいい芝居でそれを見たかったわけさあ。

修行もまだ道半ばのうちに、なんつーか展開的に飽きちゃったような感じで(爆)、上二人のお姉ちゃんが男への闘いを挑みに行ってしまう。一番勝負、二番勝負と膝を突き合わせ、画面にばばーん!と明朝体のタイトルが踊る。そして決着がつくと、敗北!惜敗!!とまた踊る。これはちょっと、笑っちゃう。
母乳がゴムのようにねばりつく技を持つ次女、マン力で締めあげる長女、それぞれにワザを破られ、結局「悔しいけど気持ちいい、気持ちいいけど悔しい〜!!」突き上げられる事態になっちゃう。

末の妹は姉二人が斃れてしまって、ほぼ勝算なしに立ち向かうのだけれど、こっからもかなりのグダグダ展開である。
よく判らんインドの修行者が現れ、腕が伸びる秘術、って、どーみても継ぎ足しのハリボテ腕でぎこちなく三女のちくびをいじいじするのを、必死こいて彼女がアンアン言っているって画がとても笑えず耐えられない(爆)。安っぽさの面白さはあると思うけど、それこそここにこそ芝居力が不可欠なのだよーう。

なんか美術はやたら張り切ってるんだよな。ホントにカンフー映画に出てきそうな、天井の高い中華風建造物とかさ。
そこで三女を待ち構えている、一見していかにも徳の高そうな僧がそれこそいかにもな感じで説く言葉は、含蓄がありそうで薄っぺらで、意味判んねえなと思っているところに、まさに観客の思いを見透かしたように三女がそれを口にするから、おっと、ちょっと先越されちゃったと思っちゃう。
すっかり操り人形状態になっちゃってた一番上のお姉ちゃんを目覚めさせるまで死闘を繰り広げ(笑)、三人は真の敵に向かうんである。

真の敵って、誰だっけ(爆)。もうなんだかよく判んないけど、少女老師と俺はセックスだー!!の二人が実はかつて恋人同士、“あの戦争”で私は老い、彼はああなってしまったという。
あの戦争って??と三人が何度も首をかしげるシーンが出てきて、何度も、なので、これは単なる作劇上のフィクションとしての“戦争”ではなく、結局若い人は全部忘れちゃうのよね、みたいな皮肉なのかと思ったが判然としない。

けど、この三人姉妹が実は実の姉妹ではなかったとか、少女老師が橋の下で拾ったとかウソ定番の言い回しで言い出すから、もう訳が判らなくなる。
しかもその“衝撃の告白”シーンが、ムカデ状態で三姉妹プラス少女老師がペニスバンドでつながってアンアン言ってるとゆー、あー、もう、お腹いっぱいてなシーンでだから、もう、ハイ、わっかりましたあ!!というしかないとゆーか。

皮肉なことに、ラストクレジットに流されるNG集が一番面白いっていうのが(爆)。これは本当に懐かしいなあ。ジャッキー映画には必須のお楽しみ。
そしてここでの三人姉妹、芝居は死にまくってた三人姉妹が、実にイキイキと魅力的なのだ。ああ難しい。芝居ってホントに難しいんだな。★★☆☆☆


モンブランの女(悶撫乱の女 〜ふしだらに濡れて〜)
2020年 分 日本 カラー
監督:原秀和 脚本:宍戸英紀 原秀和
撮影:下山天 音楽:野島健太郎
出演:奥田咲 涼南佳奈 加藤絵莉 那波隆史 小滝正大 細川佳央 稲田錠 柳沼宏孝 山岡竜生

2020/10/22/木 劇場(テアトル新宿)
脱いだらすごい巨乳だからセクシー系から来たお人だということは判るんだけど、着やせするタイプなのかコンビニ店員姿の時、帰り道の外出着、部屋の中のダルダルしたスウェット姿に至るまでそんなたわわな巨乳が隠されているとは思えない。
スレンダーというより普通の、本当に普通の、かき消されそうなオーラの薄さでたたずんでいるから、ああこんな人、きっといると思わせる。

それは彼女自身が今、“生きて”いないからである。コンビニ店員なんて浮世草な仕事をしているのも、亡きおじが残したボロ家に「家賃タダだから住まわせてもらってる」のも、つまり彼女がかつて“生きて”いた場所からは離れているのだろう。
コンビニから帰ってくればチューハイをすすってぼんやりするばかりの日々。彼女の背後に遠く見えている写真は、後に“モンブランさん”に「遺影かと思ったでしょ」てな飾られ方をしている。そしてしばらく観客には、そこに誰が映っているのか、男か女か子供か大人かも見えない位置で、彼女が何を抱えているのか明かされないんである。

そして一方の“モンブランさん”である。近くの町工場の寮に住み込んで働いている影のある男。
演じる那波隆史氏は、近年のピンク映画で陰影ある渋くて色気ダダもれ男を演じさせたら右に出る者のいない役者さんで、彼が出てくるとこれはもう間違いないと思っちゃう。

もうオチバレで言っちゃうと、彼はかつて小さな会社の経理をしていた。若い女子社員と深い仲になり、溺れた。父親が残した借金があるという彼女の言葉を鵜呑みにして、そして「会社のお金盗んで、二人でどこか逃げようか」という彼女の戯言を、戯言だと彼女も言ったし彼自身も充分判っていながら、その言葉にも溺れた。
彼には家庭があったのに、魔が差したのか、本気だったとしたって隙がありすぎる。彼女が加担したなんて証拠のない横領は当然彼だけが罪をかぶることになる。彼は逃げる選択をしてしまった。時効まで逃げ切る、と。

つまり“モンブランさん”も“生きて”ないのだ。存在を消し去り、転々と拠点を変え、「履歴書のいらない日払いの職場」である町工場に行き着いたのは、後から思えばそういう場所にワケアリの人たちが住み着くという意味では追手にはバレバレだった気もする。
次々と偽名を変え、もはや彼自身、本来の自分の名前さえ判らなくなるようだったんじゃないかと思われる生気のなさ。

ワケアリ同僚の中には、理不尽に仲間たちを仕切って搾取するような荒くれものがいて、目立たないようにしている、つまり自分たちにへいこらしない“モンブランさん”はあらゆる意味で標的になる。
いわば、“モンブランさん”は利用されたんである。彼に親しく口をきいてくる年若い男が、“モンブランさん”がチクったということにして彼らの悪事を会社にバラす。
結果的にはそのことで彼らが駆逐されて職場環境が良くなるんだけれども、荒くれものにとっても、彼らを駆逐するために“モンブランさん”を利用した若い男にしても、“モンブランさん”はつまりその程度の、形骸化した、生きて喋っている気のしない存在なのだ。

そんな似た者同士が出会っちゃうと、スパークする。生きちゃう。そもそも玲子(やっと名前出てきた)が彼のことをモンブランさんと呼ぶのは、お昼の弁当を買いに来るときに、不定期にモンブランを一緒に買っていくからなんであった。
「今日はモンブランを買う日」そう心の中でつぶやく様子を、サイレント映画のようにひそやかな明朝体のキャプションで示される。彼女の心の中のさざなみは、もちろん、この影のある男に妙齢の女の本能で心惹かれたこともあるだろうが、後に彼に語るように、「息子が好きだったの」っていうことなんである。

このコンビニはフランチャイズ店ではなく、地方に時々ある個人経営のユルい感じの、酒屋か煙草屋から転身したような、これまた薄味のお店なんである。
玲子ともう一人、若い女の子がバイトに入ってるきり、店長の小太りの男はこの女の子と関係を持っていて、妊娠したかもということで切羽詰まっている状態になっている。……まさかそれが、そんな深刻な展開になるとは思わなかったけど。

それはさておき。荒くれチームにボッコボコにされたモンブランさんを見かけて、警察呼びましたから!!とウソを言って、川に突き飛ばされてびしょぬれのモンブランさんを自宅に招き入れる。
「男の人の服とかなくて」という訳で、ぱんついっちょで毛布にくるまっているモンブランさん。この台詞はもう、自分には男はいないからと主張しているようなもんだが、どうやら彼女に自覚はないらしい。

毛布にくるまっているモンブランさんと玲子が、なにか、磁石が引き合うように、徐々に徐々に距離を詰めて小鳥のようなキスから始まるのがなんだかおかしくて切なくて、二人の孤独の魂が引き寄せられたようでドキドキしてしまう。
こんなダダもれ色気の男なのに、びしょぬれで毛布にくるまってなすすべもなく丸まってるモンブランさんが、ひどく愛しいのだもの。

一度関係を持ってしまったら、もう性急に求めあう。特に彼女の方が、その飢えを隠そうとしない。それは恐らく、この時点で玲子がモンブランさんの事情をまだ知らないからだろうと思われる。
寮から玲子の住む家へたった二つのかばんで“引っ越して”きたモンブランさん、その一つのかばんの中には札束が無造作に入っていた。見てもかまわない状態にしてたのは、彼は玲子に打ち明けたかったからに違いないのに、玲子は目も耳も閉ざす。
見なかった。何も見なかった。そうしてまた、モンブランさんにむしゃぶりついて性急なセックスを繰り返すのだ。

玲子がモンブランさんを、もうなかば強姦のように、感情がかき乱されるたびに、したくてしたくてたまらないと挑んでいくのが、次第に辛くなってくる。
確かに二人は運命の相手だけど、愛で結ばれているとは思うけど、目の前の辛さが辛ければ辛いほど、肉体の欲望の渦に飲み込まれて、熱情的にセックスしても、してもしても……哀しくなるばかりな気がするんだもの。

玲子はすべてをモンブランさんに打ち明けたあと、思い切って息子に会いにいくと言い、朝早く起き、おしゃれをし、念入りにメイクをする。モンブランさんが、きれいだよ、と言うのにテレたりする。
そうだ……玲子は、とてもきれいな人なんだけれど、コンビニ勤めの時にはすっぴん??家に帰ってからの感じと変わらなかったからそういう設定だったのかもしれない。

もちろんそれなりのメイクもしてるしとても美人さんなんだけど、息子に会いに行く!!と決心してきちんとしたメイクをした彼女はやはり……みちがえるのだ。全然、違う。それまで、いかにおざなりだったかが、判る。
でも、会えない。そもそもムチャだった。何年も会えてなかったし、この学校に通っている筈という情報さえも怪しかったと思われる。元夫には愛人がいたのに親権まで奪われたのは、夫に問いただすことも出来ず、買い物地獄に陥り、逆に夫と姑から切り捨てられたから。

玲子も、モンブランさんも、踏み外してしまう前までの自分の人生を、平凡だと、こんなもんだと、思っていたというところに共通点がある。でも決定的な間違いがある。結婚という一点において、平凡や平穏を守りすぎて、本当は愛していた筈の相手と対峙しないまま望まぬ方向に落ちてしまったことだ。
これは……日本という国における結婚という名の不思議な安住ブランドが時折、いやしょっちゅう起こす罪である。

だからね、だから……玲子とモンブランさんは、運命の相手なのかと言えば、そうじゃない気がして仕方ないのよ。それぞれ、過去を清算しきれてないまま、生きていないまま、ここに流れているんだもの。
だからどう決着させるのかと思った。モンブランさんの横領と逃亡に追手が迫る。玲子は彼と別れたくなくて、外に出ないで、と連絡する。彼を閉じ込めようとしたわけだ。

時効まで4年。それまで鳥かごの中に閉じ込めるようにするつもりだったのか。この時点でそこまで考えてはいなかったと思う。でも観ている側には……観客としては、ああ、これはダメだ、彼が従う訳がないと判ってしまう。
案の定、玲子が帰るとモンブランさんは姿を消している。札束の入ったバッグは残されていて、玲子は泣き崩れる。でも結局、行くところがないと、彼女の元にモンブランさんは帰ってくる。自分の本名を口にする。モンブランさんでいいのだと、玲子は彼の首っ玉にかじりつく。
何も、解決はされてないんだよね。このままだと早晩、モンブランさんはつかまるだろう。その方がいい気がするのに。

玲子の同僚で、店長と関係を持っていた女の子が妊娠したと思い込んでのひと悶着も、印象に残る。こんなさびれたコンビニでバイトしているという点で玲子と同じくそれなりの事情を持っているだろう彼女は、ハッキリしない店長に業を煮やしている。堕ろす金など当然、ない。
モンブランさんが勤める町工場の青年(陥れたヤツね)と深い仲になり、彼の方がのぼせて、店長を襲う。中絶費用と、ついでに脅すだけの筈が……殺しちゃう!オイ!マジか!!

しかも逃げていく途中彼女、「あ、生理来た」オイー!!!でもね、でもでもでも……女だけが味わう恐怖、責任逃れする男への絶望、そこから救い出してくれるというだけで、大して判り合わないまますがっちゃうとか、ああ女って、女って、マジ、ソン!!
そしてこの、そもそも存在してなかった幻想の子供、玲子が胸に抱き続けるその成長を見ることすらできない子供、そしてモンブランさんの方だって、さ……。★★★★☆


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