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憎いあンちくしょう
1962年 104分 日本 カラー
監督:蔵原惟繕 脚本:山田信夫
撮影:間宮義雄 音楽:黛敏郎
出演:石原裕次郎 浅丘ルリ子 芦川いづみ 小池朝雄 長門裕之 川地民夫 佐野浅夫 梅野泰靖 井上昭文 草薙幸二郎 神山勝 小泉郁之助 雪丘恵介 河野弘 杉江弘 天草四郎 葵真木子 山田禅二 高品格 木下雅弘 木島一郎 英原穣二 河上信夫 柴田新三 福田トヨ
てゆーか、このオープニングタイトルバックのカッコ良さはなんなんだ。ギューン!!とうねるフリージャズに朝の忙しい中慌てて準備している石原裕次郎をいたずらして跳ねまわる浅丘ルリ子、それをギターカッティングのようにストップモーションにするその躍動感タップリのショットにガッガッとかかってくる黄色く書きなぐったキャストクレジット。
ちょーカッコイイ。この二人の喧嘩のようなぽんぽんとした掛け合いといい、まさかあんなシビアな展開になるとは思わない。
石原裕次郎扮する北大作は、現代で言うと売れっ子コメンテーターか文化人といったところか。テレビもラジオも引っ張りだこで、一分一秒先も埋まっているスケジュールに今日も疲労困憊である。
彼の仕事をぱんぱんに詰め込み、管理する敏腕マネージャーが浅丘ルリ子演じる典子である。のりこ、ではないてんこ、である。観てる時には役名の感じは判らないからここで書いてみて初めて知る。この当時の、弾けるような可愛さ美しさの浅丘ルリ子にぴったりくる呼び方である。
彼女は泥のように眠っている大作のドアに、ルンルンで数字を書き込む。734あたりまで来ていたか。彼らが出会ってからの日数を刻んでいるんである。落ち着いて考えてみると結構コワい女である。
しかも彼女はこの2年余りの間、彼と寝るどころかキスさえしていない。そうなった途端に新鮮な恋人関係は失われてしまうから、だというんである。ある意味、そうなった時を高めるためにしているんなら、こんなエロいことはないなとちらと思ったが、意外にそれは当たっていたかもしれないんである。
そんな二人の関係を、テレビマンの一郎(長門裕之)は半ば呆れて見ているけれど、そもそもそんな物理的な時間が二人にはないのだ。深夜にムリヤリデートの時間を作るも、へっとへとの大作は正直帰って寝たいぐらい。
そもそもこの二人の出会いは、鳴かず飛ばずの文学青年だった大作が、“マスコミに通じているマネージャー求む。無報酬で”というムチャクチャな求人広告に典子が応じた時から始まった。そこから数を数えているんだろうから、会ったとたんに恋に落ちたんだろうな。
この設定一発で、既に業界内に顔がきく典子が大作を育てた形であり、彼女はもしかしたらそういう飼育熱に浮かされていたかもしれない、などと思う。一方で、あっという間に売れっ子になってしまった大作は、飼育されている、とちらと思ったかもしれない、と。
実際、分どころか秒刻みのスケジュールでところてんのように押し出される大作は、そもそも表現者でありたかった筈が、そりゃ成功欲はあったにしても、何か違う、何か違う……と思い続けていたに違いなく。
そして苦楽を共にする公私共のパートナーが、寝るどころかキスさえさせてくれない、お互いの仕事に対する熱意を共有できていたからこそそれも成り立っていたけれど、ふと大作は気持ちが立ち止まってしまう。
それは、ネタ探しで引っかかった、新聞の三行広告だった。ヒューマニズムを理解するドライバー望む。無報酬でジープを九州まで運んでほしい。そういう広告。
そらー、大作は、自分がムチャな無報酬求人を掲載したことを思い出したに違いないのだが、典子の方はそんな男のロマンチシズムになかなか気づけない。
無理もないのかもしれない。マネージャーとして、タレントがうまく仕事をこなしていくのを管理するのがせいいっぱいなのだから。
それでも彼女の方こそが、何とかデートの時間を、とやりくりしているように見えたのに、管理する側だからなんとか入れ込んで、ちょっとしたジコマンがあったのかな……。大作はつまり、飼育された動物が突然脱走するように、爆発しちゃったのかな。
その三行広告が彼の導火線に火をつけちゃう。もちろんそれだけじゃないとは思う。めっちゃキーになったと思われるシークエンスがある。
雨が降って、野球の試合にからんだ仕事が飛んでしまう。分刻み、秒刻みのスケジュールが突然ポカンと3時間あいてしまう。普段あれだけ、寝る時間もないほどのキュウキュウのスケジュールにぐちぐち文句言ってるのに、この3時間を二人ともどうしていいか判らない。
典子は大作の大きなワイシャツを着てみたりする。エロカワイイ(懐かしい表現だ……)。ムードたっぷりになり、二人の間のルールが切れそうになる。むしろ典子の方が期待を膨らませていたように見えるのに、やっぱり彼女からイヤイヤをした。あんなエロ可愛かったのに、まるで生娘のようにさ……。
ホントこれが、引き金だったかもねと思う。あの三行広告は純愛のしるしでもあった。九州のさびれた村で医者をしている男の恋人が出した広告。たった一人の医者が田舎町の舗装されてる訳ない集落を診て回るために不可欠のジープを、何とか手に入れた。
その間、この美しき純愛を保ち続けた恋人同士は、その理想を叶えるために離れ離れの二年間を文通でつなぎ続けた。
ジープは手に入れたけど、運ぶ手段がない。輸送に金をかける余裕がある訳もない。つまりはボランティアを募った訳で、大作がマネージャーを募集した感じとは違うと思うのだが、ボランティア、という感覚は当時はなかっただろうしなあ。
とにかく、大作はこの美しき純愛にしびれちゃう。擦り切れた毎日に疲れてしまったこともあっただろうが、生放送で、自分がジープを運ぶ!と高らかに宣言してしまう。
慌てる典子、そして先々の仕事の関係者。どんなに典子がかきくどいても、かたくなに大作はジープを運ぶという。この先、二人の大喧嘩は何度も何度も、大変なことになる。
しかしそれ以上に大変なのは、なんたって生放送で言っちまったことで、大人気スターの大作だから、その出発から取材と野次馬が押し寄せちまうことなんである。大作にとっては一途な衝動で絶対にやり遂げる!!という気持だったのが、あっという間に世間の俗にまみれてしまう。
新聞に書きたてられる。身勝手な行動、契約不履行、そしてただ広告を出しただけでこの惨事に巻き込まれてしまった美子。
美子を演じるのは芦川いづみ。ちょっと、驚いた。可憐な笑顔のイメージが強かったから、2年もの間どこか悲壮な決意で純愛を貫いているなんてキャラクターがちょっと想像しにくかったから。
実に九州までの、行く先々で大作はマスコミと、そして典子と闘い続ける。そらまあ、そうである。ぎっしり埋まったスケジュールを投げ出してしまったんだから。
懇意のテレビマン、一郎がこの緊急事態に考えついたドキュメンタリー撮影は、当然大作にはナイショで隠し撮りし、いかにもなヒューマニズム番組として大当たりする。
そしてそれが……大作、典子、そしてこれは避けたかった、一般人である美子にまで負の圧をさらしてくるんである。
このエセドキュメンタリーからつながって、一郎はイイことしてる圧全開で、美子と2年間会っていなかった恋人の医師、敏夫との再会を番組企画で仕立て上げる。
このラストのクライマックスは、それまでにも散々赤裸々に描写してきた、マスコミの身勝手さ、ウソのドキュメンタリズムが、言ってしまえば憎々し気にさえ描かれて、ちょっと驚いてしまうぐらいなんである。
現代だって、周囲にカメラやらなんやら無数にいる中で感動的ドキュメントを求めたがるムチャな演出するけど、むしろ現代人はそのことに慣れてきちゃってて、演出側が求めるドキュメントが出来ちゃう。演技とは言わないまでも、それはドキュメントなのか……と考えちゃう場面は多々ある訳で。
そしてこのおんぼろジープでの日本半縦断の中、大作は、そして典子も散々、そんな思いを味わってきた。
典子は、最初は仕事が仕事が、であり、必死に大作を連れ戻そうと、彼の愛車のジャガーのオープンカーで追いかける。でも、彼を追いかけることだけが、目的のようになってくる。なんていうか……そぎ落とされて行く感じ。あんなツマラナイルールをお互い、突破できずにいた。キスしたい、抱き合いたい、セックスしたい、そう思っていたのに。
そこに提示されたジープが結ぶ2年の純愛を、典子はボロクソにくさし、大作はその純愛の結末を見たくて、結果的には共に九州を目指した。ひどい悪路で、大作自慢のジャガーは崖底に転落した。でも大作は、そのジャガーに乗って大作を追いかけて来た典子をその手に抱き留めたのだ。
もうこのあたりまでで、二人の、身体を含めたすべてを求める愛と欲情は最高潮に達している。
そんで、あの美子と敏夫の演出された再会である。現代ならば、同じ戸惑いを感じても、きっとそれなりに演技しちゃうだろう。
でも連れてこられた美子、突然恋人を目の前にする敏夫、そして周囲には撮影スタッフ、更に野次馬が十重二十重、そこで感動の再会に抱き合えとか言われたって。そもそもこの再会に対する動揺も収まらないのに、二人きりでもなく、知らない人ばかりで、ムリに決まってる。
テレビのドキュメントバラエティでよく見る現代となると、これがどれだけプライバシー無視で、余計なお世話であることに、なかなか気づけない。ちょっとカメラの外側を想像するだけで判るのに、判らない。こんなヒドいことだってことを、その場にどっちの立場でもなくたどり着いた大作と典子は思い知る。
大作は二人をその群衆からムリヤリ引きはがして、自分たちがやっとこ運んできたジープに押し込む。預かっていた手紙を写した美子のノートを叩きつける。「二人で始めるんだ。愛は言葉じゃない」それは、まさにそれは、言葉やらリクツやらにホンローされていた典子と大作そのものであり、典子と大作は、この思いがけぬロードムービーの中でそれに気づいたのであり!!
そーしーてー。やっとまあ、大作と典子のラブさ。その欲情を解くのが、まー、大自然の中さ。二人どろどろになって歩いている草原の中、もう、しんぼうたまらんわけさ!!
……うーむ、落ち着いて考えてみると、2年もの間の欲情を、大自然の中で爆裂させてのラストって、なんとエロい!!
てゆーか、浅丘ルリ子キレイで可愛くてヤバい!!当時のおっきなパンツさえ色っぽい、苦悩して壊れまくるのは何とも妖艶。
大作を追って九州の祭りの中、水をバッサーバッサーかけられて、荒ぶった男たちに押し合いへし合いされる時の、乱暴されるかもという恐怖の中で水浸しになってるその美しさときたら!!
石原裕次郎はちょっと恰幅が良くなってきてる時で(爆)ちょっとデブかも……と思う瞬間もなくもなく(爆爆)、まあそういう意味では、売れっ子文化人という、若さと貫禄のせめぎ合い、というあたりの役どころはハマリだったのかな。★★★★☆
勿論、創作だっていうのは判ってるけど、主人公は“今泉監督”であり、その名の通り映画監督であり、もうそりゃあ……その人本人を想起させずにはいられない、ていうかもちろんそのつもりがあるのは間違いない。
しかしここでどこまでワナにかかったらいいのだろう。その通りである筈がない。観客側にも劇中の役者やスタッフたちにもかなり嫌悪感を抱かせる人物として描いているのは、自嘲的とも、自己批判的とも受け取らせそうにもなるけれど、あるいは案外、全くの自己から離れた創作的キャラクターなのかもしれないとも思わせる。
“過去の恋人を中絶させたのに、今の彼女に子供が出来たら結婚する”なんていうエピソードはさすがに、とは思うが、本当に、どこまでワナにかかったらいいか判らないから……しかも劇中映画という二重構造、そしてその外に現実世界の今泉監督チームがあって……と考えると、ほんっとうに、どこまでワナにかかったらいいの!!と……。
最初に現れるのは、劇中映画である。“今泉組”が撮っている映画である。幼い子供を自転車のかごに残したまま、拉致されていく一人の男。そしてその映画を作っているチームの、最初の脚本の議論からロケハン、本読みから撮影に至るまでを、劇中映画に呼応させる形で重層的に描いていく。
と、後からその構成を思い返してみると非常に巧みで、自己を投影したと思われるイリュージョンに観客をドキドキとさせながら、上手いんだよなあ。
そもそも“元恋人を中絶させた”というのは、劇中では明らかにされてなかったと思うのだけれど。私がボケだから気づかなかっただけかしらんとも思ったが、物語のラストもラストに、「勝手に堕ろしてゴメンな」とその元恋人、朝子が眠っている彼にともなく独り言のようにつぶやくから、オチっていうか、爆弾っていうか、私は素直にビックリしちゃったので。
そういうことかと。なぜ“無差別殺人”という題材にイラついていた女子(役者の妻)がいたのかとか。「子供見せられるやつを撮ってよね」という台詞に対して「別にお前の子供に見せるために撮ってない」と言われて一触即発になったりとか。「この台詞を朝子に言わせるの。なんでもネタにすればいいってもんじゃない。サイテー」とこの映画を自主降板したヘアメイクの女子が言ってたりしてたのとか。
そして何より今カノの今日子が避妊をせずに妊娠をしたことに対して友人が、「ゴムなしでやってくれたら愛されてる?妊娠しただけで不安が増してるだけじゃん」と喝破するとか、つまりはすべての女子シーンにそうかと思い当たるのだ。
監督の今カノは役者としてこの映画に参戦しているのだけれど、劇中映画での登場シーンはたった一度、「主人公は完全に朝子」であり、そのことにわだかまりを感じている。
実際彼女は、元カノが彼の子供を中絶したことを知っていたのかどうかははっきりしないのだけれど、知っていたんじゃないかという気がするのは……妊娠することでつなぎとめられると、思いきれないところで、やっぱり周囲の雰囲気も明らかに示唆しているし……。
今日子の友人はこの映画に参加している役者、工藤の彼女なのだけれど、工藤さんから今プロポーズされたらどうする?と問われて、「今は……映画やってる人とは結婚できないでしょなかなか」と返す。このあたりも、映画に限らずこうした、夢を追っている無数の若者たちの、時代を問わずのあるあるなんだろうと痛感してしまう。
「お金の問題?愛の問題?」だなんていうのも、そんな台詞がロマンティックじゃなく、切実な選択問題として語られるのは、これは真実、監督が直面してきたことなのだろうしな。
劇中の今泉監督は、なんつーか、まとめ力がないっつーか、ちょっとでも自分が気に入らないことがあるとふいっと出て行ってしまうこらえ性のなさ。
ただ、その理由は観客側で見てても判らなくもない。ロケハンに旅行気分でカノジョを連れてきちゃったりとか、台詞がないなら読み合わせにいる意味ないから帰っていいかとか、そういうプロ意識のなさに対して怒る訳なんだけど、だから正当なんだけど、それを正当に納得させるとか、あるいは納得させるために叱責するということが出来なくて、まるでワガママな子供みたいに怒って出て行ってしまう。
だから彼を理解するのは半々、といった感じである。でも半々なら充分という気もする。ちょっと判りやすく可哀想な役回りの、ペイン君が、読み合わせの席で、台詞がないなら帰っていいですかと言ったんだけれど、彼は結局最後まで、なぜそれがいけなかったのか、その後の、監督の彼女に馴れ馴れしく絡む態度とかも含めて全然理解できてなくて。
しかもそれが、周囲が、この場合は監督のワガママじゃなくてペインが悪いんだよな、と思っているのが明らかなんだけど、それまでの、監督の求心力のなさが災いして、まとめきれない訳。
ペイン君が「テレビを変えたい」と言っていたのを思い出して諭す周囲のスタッフだけど、何熱くなってんのみたいに受け流して「僕なんて別に乗り気じゃない」とかあっけらかんと言われて激昂、「お前の知り合いの外人連れて来いよ」とかコンプラギリギリの怒号が飛び交ったり、本当に身がすくむのだ。
こういうあたりの、まるでドキュメントを見ているようなスリリングな一触即発が、ほおんとに、脚本力だし、そしてそれに応える、監督肝いりの役者陣だし、芹澤氏はさぁ、いやあ……凄いよね、上手いよね。この異形の風貌なのに(爆)自然演技のなんと絶妙なことよ。
はっきりと、そんな監督をカッコイイと言ったのは、劇中映画で男子側の主役となる子だけであった。彼だけが、ハッキリと監督を肯定していた。何か……むしろ彼以外が、監督を肯定する言葉をなかなか持てないのに対して、不可能に近い映画への理想を、実際の監督自身が追い求めているようにも見えた。
キャストたちにミゾグチケンジだのキタノタケシだのといった、映画界のキラ星の名前をつけるのよ。でも、監督をカッコイイと言った中平は……あっ、思わず調べちゃったらなんか有名な写真家の名前と一緒だったが、これはネライだったのか、うーん、どうだろう……。
とにかく、この映画は、元カノ朝子にこそ捧げられた作品だった。あまりにも残酷な形でだ。だってそれは、彼女に対して、“殺人を犯した”と言っているようなものだから。
劇中映画の無差別殺人集団は、普段はごくごく普通の生活をしている人々。「ダメな人間の集まり。月に一度集まって人を一人殺そう。決めとかないとバンバン各自でやっちゃうから。」というコンセプトで、その名前、BOBも深遠な意味合いこめて勝手にマスコミがつけたんだという、ということは、彼らの存在は知られているんだだろうが、本当にまるで、淡々と、月イチの部活みたいにコトを成し遂げていく彼らを活写するんである。
あんたが悪い訳じゃない。誰でもいい。でも、「殺される理由、一つや二つはあるでしょう」と。そうだ、これはMOOSIC LABだったんだ。忘れかけていた。あまりにも静かに事が進むから。
恋人関係を解消しても映画監督としての今泉のオファーに応える朝子は、強烈な歌詞を、ソフトで愛らしい歌声で、しかし空気を割くようなハイトーンで叫ぶように歌う。
「死んでも、悲しむのは意外に身内と数人の知人だけかもしれない。喜ぶ人は意外と悲しむ人より多かったりするかもしれない」やめて、やめてやめて!!そんなこと、判ってるもの。一つの命が地球より重いなんて、さすがに思ってないよ。でも、言わないで、そんなこと!!
朝子が歌う劇中映画のテーマソングは、劇中の今泉監督、そして実際の今泉監督が(実際は曲も)手掛けているもので、特にエンディングテーマは、ワナにかけられているのかもしれんが、実際に、実際の今泉監督がそう思ってるんじゃないかって、思っちゃって。
音楽を作り始める朝子から、「殺人集団にしては生きることの希望っぽい歌詞だね」と言われるも、「殺人集団なんだけど普通の人、みたいな」と監督は返し、そのまま曲をつけてくれるように頼む。これは……すべてを知った上では、あまりに残酷な言葉である。
「自分なんかが人を殺せると気づいてしまった」それは、朝子がハッキリと監督に対し、「これって、私の話だよね」ということであり、うろたえた彼が、朝子がイヤなら撮るのをやめる、というのに対して彼女は穏やかに、「愛情を感じたよ」と受け入れるんである。
愛情、それは彼女に対してなのか、堕ろしてしまった子供に対してなのか。ちょっとこれは……凄すぎないか。女にとっては、と一瞬思うが、家庭を持ち、愛娘愛息子をスクリーンに登場させているぐらいの幸せな家庭を持つ監督が、もしかしたら相当批判的な意味合いで取り上げているのか、あるいは、夢を追うためにあえいでいる無数の表現人たちが、少なからず陥っているこの事実を伝えたいためなのか。
朝子は、一緒に住んでいる女の子がいて、それは友人じゃなくて、恋人なのだ。きちんと、台詞の中で触れられる。「あたしが好きなんじゃなくて、あたしが女だから一緒にいるだけでしょ」その台詞があまりに痛くて刺さる。
朝子はバイセクシャルなのか、あるいはただ単に自分が好かれたことが嬉しくて癒されて一緒にいるのか、……後者だったとしたらあまりに辛いが、ありそうな話なのだ。
「火星のカノン」を思い出す。愛する人が過去の恋人にはっきりと未練を残している。それが判ってるし、実際は同性愛者ではない相手を、でも自分の愛の方が絶対に勝っているから、そう思って恋人になったけれど、相手は本当に恋人として自分を受け入れてくれているのか。
性愛、精神的愛、セクシャルなシーンは一切ないけれど、妊娠とか、中絶とか、役者夫婦の赤ちゃんとか、劇中に置き去りにされる幼児とか、人間関係、血のつながり、愛、あるいは愛ですらないもの、さまざまが交錯しまくるもんだから……。
「一匹狼になりたかった。でも僕は映画監督になった。多くの人と関わる中で特別なことなんてなくなる。多くの人に怯える中で、大切な人なんて忘れる。ただ音楽を作ってくれるそういう人としてだけ」
死んだように眠っているかつて、いや今もきっと愛している人を見つめながら朝子が歌い上げるこのエンディングテーマは、ヤバいよ。今泉監督が実際そう思ってこの作品を作ったのかもしれないと思うと、あまりに辛い。でも、クリエイティブだよね、フィクションだよね、映画だもの。だからこそ映画は素晴らしい。そう思いたいけど。★★★★☆
ああもう、オチバレとか言ってられないが、まあつまり、タイトル通りだ、旧家の、代々女系の跡取りが握ってきた、遺産相続のドッロドロの話。
京マチ子は長女、彼女言うところの“総領娘”だが、次女に婿養子をとらせて家業を任せ、自分は気楽に嫁入りしたものの、お嬢様育ちのワガママが原因か、出戻っている、ってあたりがややこしい。
もう一人末娘がいて、この子はまだ邪気なく男女問わずの友達たちと学生生活を楽しんでいる。しかしてそれぞれに、ヤハリ遺産、お金は欲しい。この中ではもっとも邪気のない末娘でも、貰えるもんなら欲しいワ、それで友達と遊んだり、世界一周もいいわネ、などとあっけらかんと言うあたりに、……遺産争いはドロドロの欲望ばかりでもないのだなと妙に感心したりする。
そう、三人もいるのに、ヤハリ長女の京マチ子のごうつくばり度はすさまじく、アイラインばっちりの目が色白ふっくらのお顔の中で墨で書いたようにくろぐろと鎮座し、その目ににらまれたらひれ伏して謝るしかないって感じ。
しかも彼女の大阪言葉がまた押し出しが強くて迫力があるのよね。相対する若尾文子はいかにもはんなりとした訛り具合なのだが、この好対照がたまらない!
若尾文子は京マチ子扮する藤代たち三姉妹の父親がひっそり囲っていた美女、文乃である。最後の最後には彼女はいくつもの決定的な切り札を持って姉妹たちに立ち向かうのだが、ずうっと彼女の無欲ぶりが際立ち、だからこそ姉妹たち(プラスアルファ)の強欲ぶりにムカつくのだが、果たして彼女は本当に無欲だったのか。
自分の死後の彼女を心配した旦那さんが完璧に手配りをしていた証拠を、最初から突き付けるつもりだったのか。藤代たちがあんなにも無理無体な態度ど行動を見せなかったら、文乃はひっそり身を引くつもりだったんではないか……??
と、思わせるところがコワイんである。そもそも三姉妹に披歴された最初の遺言状では、文乃に関しては何卒よしなに、としか書かれてなかったんだから。だからこそ三姉妹は、自分たちに分配された遺産にそれぞれ不服があるにしても、文乃を見下すという一点についてだけは、一致団結することが出来たのだ。
文乃が水商売だったことを知った時の、三姉妹の、唇をひんまげて彼女を侮蔑する笑いを一斉に浮かべた、あの横一線に並んだショットときたら!!……もう背筋が凍り付くたー、このことである。
しかしこの一点以外では三姉妹はそれぞれの欲に溺れ、てゆーか、藤代だけが自分がソンだソンだ、総領娘なのにこんなのおかしいとか言い募るから、自分の遺産までこの鬼姉にとられるんではないかと疑心暗鬼の妹二人、という図式にあいなってしまうのだ。
いや、それは次女に関してだけかもしれない。決してラクではない家業を婿養子と共に切り盛りして、それを相続することを「打ち出の小づち」などと姉から言われ、「自分はさっさと嫁に出たのに、今更総領娘ヅラして」と悔しさをあらわにする彼女の気持ちは、ああ、判る、判るわー、と思っちゃう。
三女は、彼女自身は最後までムジャキを通していて、彼女の後見人を任ずる叔母が、まさに代理戦争というか、欲の皮を突っ張らかすんである。
そうね……この三女ちゃんはやっぱり最後まで、無邪気だったわね。あの、文乃の出自に姉たちともども唇をゆがめて笑った場面だけだったわね。その後、文乃が父親の子供を身ごもったていることを知った姉たちは、自分たちの側で医者までたてて中絶を迫るというキチクの行動に出て、その場からは三女はハズさせるのだもの。
何をする気なの、その見切れた画面の外では何やってるの!!という、女たちのおっそろしきつかみ合い、ああ、妊婦さんにそんなどったんばったん、お前らマジに鬼畜!!……怖いよ、コワイコワイコワイ!!
次女が連れてきたお医者さんが、お医者さんとしての矜持をちゃんと持ってくれている人で、ああ良かった……。ここまで丸め込まれていないということに、医療従事者に対する作者の尊敬を感じたりして。
プラスアルファ、と書いたのは二人の男である。そのうちの一人はむしろこの遺産相続のドロドロの中で、最大のキーパーソンであると言ってもいい。遺産相続に関してすべてを任された大番頭であり、旦那様の信頼を一身に背負った大人物である、というのが最初の見方であるが、かなり早い段階から、少なくとも観客にはその化けの皮をはがしたところを見せてくれる。
薄給で何十年も飼い殺しにされている、となじみの熟女をチチクリながら、暑いさなか玉のような汗を流しつつもろ肌で愚痴る様子は、従順な大番頭という姿からはあまりにかけ離れている。
そしてこのなじみの女を文乃の手伝いとしてもぐりこませ、文乃が持っているかもしれない旦那様からの認知を示す文書かメモか、探しまくるのだが見つからない。
最初から文乃の無欲ぶりが彼らの心も打っていたから、うかうか信用しちゃう。……悪人っつーのは、意外に単純に見る目がないのかもしれない……。
しかしてこの大番頭を演じる中村鴈治郎が、まー、老練というか、手練手管というか、都合の悪いところではワザとらしく聞こえないフリするとか、思わずこっちを噴出させるようなコミカルさで、なんか憎めないのよねー。
彼はこちょこちょセコく横領して手元にため込んでて、しかし家の一番の家宝である掛け軸を、表層直ししていた骨董屋からこっそり引き出していたことが、そのよく目が、一番のボロだったかもしれんわ……。
帳簿なんかちょっとちょろまかしても、贅沢育ちのヤツらには判らんだろ、とか思っていたのだろう、セコい横領のまま済ませていたら、ひょっとしたら、さあ……。
つまり彼の誤算は、娘たちもそうだけど、大旦那様も贅沢育ちの節穴扱いしていたこと、だったと思うのだ。だって、同じ立場だもの。この女系家族の中で、婿養子として頭を押さえつけられて苦労して、だからこそ、妻に先立たれてようやく、自分の安住の場所を文乃という愛する女性の元に見つけた、ってことでしょ。
それが判っていなかった訳じゃないと思う。文乃が遺産相続に絡む欲がなければ、バックアップするぐらいの気持ちは、……ちょいとした色欲も絡んで、あったと思うのに。
遺産の仕分けの中で、どこが損なのか、得なのか。父親がよーく考えて、姉妹間に遺恨が残らないように書き記したものも、特に藤代には気に入らず、共同相続分のどれが得なのか、山林がいいかと、お嬢様のしゃなりしゃなりしたカッコで乗り込む場面は執念と世間知らずとワガママさ加減がすべて強力過ぎて、強烈である。
藤代には強力な助っ人がいる。習いに行っている踊りのお師匠さんである。うっわ、田宮二郎!もうエロくてヤバい!!彼が演じるだけで、好意だけでこの話に乗っかってる訳ないと判っちゃう!!
もう早々に、そーゆー場面になる。その時代だから、そんな全然見せないけど、なのにやたら、エロい!!あのムリヤリな感じに、抗いながらも、実は予測していたみたいな、あらがいながらも、受け入れる京マチ子の肉肉なエロエロさ!!この二人は、ヤバいだろ!!
正直、彼に関しては悪党というところまではいかないというか、小金をせしめていい感じに付き合えれば、みたいな雰囲気である。観客にだって、そして当の藤代にだって、なんたってプライドましましな総領娘さんなんだから、判ってたはずなのに、意外にウブなのか、このエロ師匠にホレちゃったんだろうなあ……それが身体をヤラれて、ってあたりが京マチ子のエロさらしい(爆)。
婿養子になる気でいるって、心配しているんですか?ヤだなあ、ご心配なく、とか言って、あっけらかんとただ単なる融資を申し込むコイツに、彼女ならずともショックを受けるが、でも、そもそも藤代が、自分は由緒ある老舗の総領娘、遺産問題を相談するのも、ちょっと名誉でしょうぐらいな態度だったし、それを充分判ってて、彼も彼女をお嬢様として迎え入れてた。
判ってハズなのに……本当の恋愛を、藤代はしてなかったのかなあ……。
皮肉なことだが、三姉妹からやり込められたことで、文乃は何としてでもこの子を産み、そして当然の権利を勝ち取ると決心するんである。本当に、皮肉である。あんな強欲をむき出しにしなければ、文乃は愛する人との結晶である子供と共に、ひっそりと暮らしていくつもりだったのかもしれないからである。
そして旦那さんも、どちらの可能性もあると思って、時間差の遺言書を残したのであろうと思うと、うっわ、旦那さん、すげー!!と思っちゃうんである。
文乃はしばらく、出番がない。姉妹間のえげつないバトルに暗躍する大番頭が加わり、胸が悪くなったり、思わず笑っちゃったりする。
大番頭さん自身が十分な利を得る画策をしつつの提案を、三姉妹それぞれ(三女の場合は代理人の叔母)が受け入れるのは、結局このままでは決着を見ないことが判っているから表向きしぶしぶの妥協として。こと長女に関しては踊りの師匠の色男との関係という弱みを握られたこともある。
そうしていかにも日本的な清濁併せ?む感じの決着で収まりそうなクライマックスだが、そーりゃこのままではいかないよな、というのは、このゲスな取引の間、文乃はすっかり出番がないから、なんである。
このままでいく訳がない。そうは思っていたけれど、若尾文子の可憐な美貌が青白く打ち捨てられたままになっていたから、彼女は薄幸のまま終わってしまうのかも、とうっすら思っていたところに、見事な意趣返し!!
親戚一同集めて、もうすべてが納得ずくの手打ち、そこに月足らずながらしっかりと出産した男の子を抱えて乗り込んでくる文乃の顔は青白いが、勝利に満ち溢れている。
堕胎を迫られたのも、妊娠の状況が良くなかったからで、それをいいことに鬼のような女たちに暴漢のごとく責められたあの恐ろしき場面!……まさにあれがあったからこそ、意地で彼女は産んだ。絶対に産んで、この子を認めさせるんだと。そうだ……自分はいい、この子だけは、認めさせるんだと。
それに足る最新の遺言書を旦那さんは残していて、まさかの事態に一同は驚愕。この場面の、なんと痛快で、爽快なこと!!欲の皮がつっぱった人物だけではない、この場にいるのは、親戚として、一番いい方向に、正しく運ぶべきと思う重鎮たち、その中で最も印象的な、補聴器を耳に突っ込んでいる穏やかなおじいちゃんが、常にその場で一番的確な判断を下すのだ。
そして、すっかり毒っ気を抜かれて、呆然と座り込む姉妹三人。いや、三女はそもそも世界一周か友達と遊ぶか、ぐらいに考えていたから、いややわあ、もう、とか言ってすっくと立ちあがる。
姉二人は呆然と、先祖代々の遺影、自分の母親を見上げている。父親こそが、無力だと思っていた。バカにしていた。でも女として最後愛されたのは文乃であって、婿養子としてこの家に来て、奥さんにも娘にもバカにされていたお父さんが、最後の意地で、でもこの二人が思うのは、お母さんが女として愛されていなかったかもしれないことへの、哀惜なのだ。
三女はそんな姉二人をどこか憐れみを持って見つめ、一人軽やかな洋装でさっさとこの場から立ち去ってしまう。
いやあ……凄かったなあ。女系、もうその言葉で怖いんですけど。肉感的な京マチ子とはかなげな若尾文子が、結果的にその強弱が逆転する面白さがたまらない。★★★★★
特攻といやあ、もう頭ごなしの命令で、表面上は志願を募るものの、国家による、残酷な命令というイメージがあるんだけど、本作では机上の空論で後手後手に回っている軍の幹部に業を煮やして、一少尉がトップに直談判をする、という予想外の展開なんである。
その大里少尉が鶴田浩二である。あの端正な、インテリジェンスあふるるお顔で、一人千殺の攻撃しか方法はない。トップが待っているチャンスなど、膨大な武力を持っている敵国にそんな隙がある訳がない。このままだと日本は負ける。いや……このままも何も、何をしても日本は負けると大里が思っていることが判っちゃうのだ。
ならば、少しでも敵にダメージを与えたい。自分たちが生き残るなんてことはみじんも考えていない。攻撃する時は常に死ぬ時である。その時に一人二人殺したからって敵はビクともしない。一人千殺。そして自分は、そして仲間は必ず死ぬのだ。それを何の感傷も持たずハッキリと言ってのける。
トップはそんな大里を、必殺は大事だが必死はいかん、と退けるけれど、大里はなぜ必死がいけないのでしょうか、と食い下がる。
この場合の必死、というのは、今の私たちが抱く一生懸命、というイメージじゃない。読んで字のごとくの、必ず死ぬ、なのだと判ると背筋が震える。しかも彼は、それを、いわば今できる最上の軍事的作戦として具申しているのだ。
一方で、そんな大里と対照的なのが松方弘樹扮する三島少尉である。熱血、血気盛ん、仲間たちがだらしがないと言ってすぐぶん殴るが、その理由を聞かされてたしなめられたりすると、速攻で素直に懐柔されちゃうような単純明快な男。
基地内で捨て犬を飼っている部下を叱責するも、大里からなだめられ、その子犬を抱かされると、「可愛いもんですな」とすぐに相好を崩す。
子犬を育てていたこの吉岡という男は両親を早くに亡くし、兄嫁を母のように恋人のように慕っていたのだが、訓練中の不慮の事故で大里と共に死んでしまい、三島が彼の兄夫婦に会いに行くシーンがある。
訓練中だから殉職にはならない。死んだとも言えない。なのに三島は、吉岡と間違って寄ってきた目の見えない老犬に涙を流し、おーい、それじゃバレちゃうじゃねーか。バレバレだよ!自分の口からは何も言えませんて、言ってるようなもんだよ!!と。
そしてそれは自分の両親に対してもそうなのだ。特攻前の休暇、実家に帰り、両親とのつかのまの穏やかな時間を過ごす。教師をしている父親と酒を酌み交わす。お母さんもひとつ。いいでしょう、ちょっとだけ、と酒の弱い母親を半ば強引にその中に引き込む。この不自然なまでの強引さで、最後の盃だって、判っちゃうだろ、バレバレだろ!!!と思っちゃう。
三島のこの単純さは、まさかの、中盤であっという間に死んでしまった大里の、冷静な諦念とでもいったものとホントに対照的で、三島は大里の抱いていた“必死”が本当には判っていたのか、と思っちゃうのだ。だってまるで子供なんだもの。
そうなんだよね。鶴田浩二があっという間に死んでしまうからもう、ビックリしちゃう。マジか、と。
結局終戦近くの物資不足で、予定数より信じられないほど少ない数の“人間魚雷”しか作れなかった。多少悪天候でも波が高くても、訓練の習熟には時間がなさ過ぎた。
それゆえの悲劇だったか。いつまで経っても浮上してこない。捜索しても見つからない。ゾッとする、ゾッとする!!じわじわと死にゆく艦内で大里は、意識が薄れゆく中手記を残していたのだ。
二人の遺体の前で、涙ながらにそれを読み上げる三島。すすり泣く同僚たち。特に、厳しい条件の中で製作、整備を続けたスタッフが感じる自分の責任だという悲嘆はハンパなかった。
後半のクライマックス、敵機に突入していく三島に整備スタッフは、自分も連れて行ってくれと懇願するんだけど、お前が行ったら後の整備はどうするんだよ、とたしなめられる。涙涙で、突撃指令を出す。突撃指令は、死にに行けという指令なのだ。なんということだ……。
様々な兵隊さんがいる。奥さん持ちもいる。最後の休暇に会いに行く様々なシーンが心に残る。係累がいなかったり遠方で帰れない兵隊さんには、ザ・おっかさん、といった料理屋の女将の元での休暇が与えられる。
この少年兵、本当にめっちゃ子供な彼が忘れられない。たった一日、会っただけなのに、お母ちゃんなのだ。お母ちゃん、お母ちゃん!!と……だって彼は死にゆくんだもの。怖くて怖くてたまらない。むしゃぶりつく。辛い。辛くてたまらない。
空軍の特攻映画でも描かれていたけれど、たたき上げの兵隊さんと、学生あがりの予科練生との確執がここでも描かれてくる。これはホントに面白いんだよね。価値観の違い。
でも大里だっていかにもインテリで、情勢がきちんと見えていたし、ガチガチの軍国派ではなかったんだけれど、でもやっぱり予科練生とは違う。その違いを大里がどう言っていたかを、三島が女房持ちの潮田(伊丹十三)と話す場面が印象的である。
たたき上げの兵隊さんはいかに死ぬかと考えている。予科練生はいかに生きるかと考えている。トンネルを抜けながら話すんである。声が反響してくぐもったところから抜けると、その声がいきなり明瞭になる。
いろいろとうがった見方をしたくなるような演出だけれど、でもとにかく……これは彼らの最後の台詞なのだ。いかに死ぬか、いかに生きるか。でも結局死ぬのは同じ。そのことも彼らは判ってる。判ってるけれど……。
敵機に突撃して死ぬしかない、という思想はいかにも狂信的というか、異常だけれど、それが合理的なもののように、淡々と描かれることこそに恐ろしさがある。そしてそれを、休暇をもらったといって両親のもとに帰ってきたらそりゃあ、判っちゃうんである。
三島の父親はだーいすきな志村喬である。老教師の彼は、教師だから、国が今、いかに狂信的な教えで国民を強引に引っ張って行っているか判っている。判っているけれども……。
志村喬を見ていると自動的に涙が出てしまう。彼は息子が死の前に会いに来たことも、子供たちに教えている軍国主義の間違いも、すべて判っちゃってるに決まっているのだ。なのに、なのに、どうすることも、出来ないのだ!!
「あの子が小学校の時に書いた綴り方が出て来た。大きくなったら三勇士のように、お国のために戦死したい」そう書いてあったと、母親は言う。
父親は、軍人になってお国のために死ぬことが名誉だという教えを、当たり前のように子供たちに説いてきたことを、それが間違いであったとさえ言えずに、今、我が子が死にゆくのを目の前にして、どうすることも出来ずにいる。
お国のために死ぬことが将来の夢だなんて。だったら両親は、何のために子供を産み育てたのか。お国に命を差し出すためなのか。
女たちや、兵隊にとられる年齢を超えた男たちや、そして目の見えなくなった老犬や……彼らを愛する“お国のために役に立たない”人(以外も)たちが、空しく彼らを見送る。どうすることも出来ない。
そして、敵、敵、と言われるしかない、彼らが命を散らす艦隊の、その中にいる人たちだって……。まるで見えない、まるで見えないのに!!
まるで巨大ロボの中に無意味に突っ込んでいくようだ。一人千殺。その言葉通り、出来るだけ多くの敵の命を奪うことこそが目的なのに、ただ一人として、その敵は見えない。
いや、見えていたら、こんな攻撃は出来なかっただろう。敵、敵というばかりで、何国の艦隊とか、そんなことさえ言わないのだ。あまりに漠然、あまりに抽象的で、その中に命があることさえ想像もできない。
あの少年兵。遠方で帰れず、料理屋の女将とデートみたいな甘やかな時を過ごした少年兵。なんでもほしいものをと問われて、白いマフラーが欲しいという。
もう物資不足最高潮の時期で、絹の白い布なんてある訳がない。だけど女将さんはたったひとときで息子のように思った彼に、どうしてもそれをプレゼントしたいと思う。
方々探し回って、情に打たれた問屋さん(藤山寛美!!)が「娘の嫁入りのためにとっといたんだけど、このご時勢じゃしょうがないから」と、奥から出してきてくれる。泣ける。
その白い絹布は取り合いになるのだ。俺にも作ってくれ、俺にも、と……。もう死ぬのに。ちょっとカッコイイ白いマフラーを首に巻いたからと言って、もう死ぬのに、死ぬのに!!
“靖国神社へ向かいます。さらば母さんお達者で”死ぬ前に、凱歌をあげる彼らの歌声は、なぜか喜びに満ち満ちている。
靖国神社。私はよく判らなかった。なぜあんなに、靖国神社への政治家の参拝が問題にされるのか。ようやく判った。英霊ってなんだよ。“お国のために”殺された彼らを英雄として称えるのか。ようやく判った。
これまた実際の映像は見るに堪えない。その中に人の命がある筈なのに、まるで見えずにアリンコ以下だから。
無意味無意味無意味。何のために闘っているのかさえ判らない、“敵”というあいまいな概念が何より最悪。★★★☆☆
で、本作はもはや設定からそれをしっかと提示する。なんたって軍艦が宙に浮かぶんだから。観光旅行に乗り込んだ浮かれた乗客たちを、一気に飢餓への恐怖に叩き入れるのにこれ以上のおぜん立てはない。
どことも連絡が取れず、海の上にいるならいつかはどこかの陸に着くとか通りかかった舟に助けられるとかいうチャンスもあるけど、空の上に浮かんじゃったら、もうどうしようもないのだから。
なんつー設定。てゆーか、海の上にいる間に既にひと山起こる。ひと山、などと軽く言うことじゃない凄惨な事件なのだが、軍艦が宙に浮き、権利の奪い合い、仲間割れ、殺し合い、人肉食いと発展していくと(……おっとすっかりオチばらしまくりだが)、“海の上にいる間の凄惨な事件”が単なるひと山に思えてくるから怖い。
ちなみに、どーやらゲスト出演というか友情出演ぽいオダジョーはこの最初のシークエンスであわれ殺され、海へとドボンである。そんなことがヘーキにおこなわれること、しかも国政を担う、次期大統領とも目される議員の腰ぎんちゃくが、彼に女を差し出すためだけに、その恋人のオダジョーをぶっ殺しちゃうというアゼンの展開は、……後から考えればファンタジーだもんね、と思わなければ、それこそ韓国政府からクレームが来そうである。
フィクションだと判っていても、レイプシーンというのはいつでも見るに堪えないものである。しかもオダジョーの恋人で本作のヒロイン(オダジョーから名前は呼ばれていたと思うが、思い出せない。解説ではイヴと名付けられてる)だけでなく、やはり恋人同士でこの船に乗った女の子も餌食になる。男の子は鉤のかけられたドアの前で震えながらコトが終わるのを待つしかないのだ……。
オダジョーに至っては、恋人が凌辱されている間にボッコボコにされて刺し殺されてしまうというヒドさである。議員と息子とその取り巻きのチンピラたちが、他の船客と明らかに差をつけた部屋や食事をとっているのに、異議申し立てをした彼に、このチンピラグループのボスが逆恨みしたという感であった。
コイツがね……コイツがまさに、キーマンであったろう。そもそもキャラクター的には長いものに巻かれまくり、美味しい目に合おうという、態度はデカいが小者感満載のヤツ。本当に悪党なのは自分のことしか考えてない、時分以外は下等ぐらいに思っている議員の方なのだが、この二人がギブアンドテイクというか、腹の探り合いというか、力を持つものがいい目にあうのは当然、そして力を持つものの腰ぎんちゃくになればいい目にあうのは当然、みたいなさ、もうクズ同士で。
このボスにもまた、役名が与えられていないのか。ちょっとトヨエツを思わせる風貌で、いつもにたにた笑って余裕ぶっこいてるのがめっちゃ腹が立つ男なのだが、つまりそれだけ目を惹きつけるものがあるのだ。イヴを議員に差し出す前にちゃっかり“味見”をし、もうその時点で見るに堪えないのに、その後、議員、そして議員の息子にも凌辱されてしまう……。
ところで本作はいくつかのシークエンスに分けられて語られる。私の記憶が確かならば(爆)、人間、空、時間、そしてまた人間、……あれ、なんか足りないような(汗)まあそんな具合に(適当……)“また人間”に戻ってくるのが、怖いんである。
通常の航海の時点から、特別扱いされている議員とその息子とその取り巻きに対する船客たちの目は厳しかったが、どことも連絡が取れない宙に浮かんだ緊急事態になると、館長たちから権利を武力(拳銃)と暴力で奪い取り、食料の分配をめっちゃ不公平にする。自ら暴動を誘いだしているようなモンである。
その中でも金欲しさに食料を横流ししたり、売春婦さんたちが身体を資本にありついたりする。実に……実に、人間の図式である。
しかしそこに、不思議な展開がある。そもそも、ただ一人浮世離れしているのがアリアリの老人。一人で乗り込んでて、自分だけの空間があり、船の中にホコリのようにたまっている土を小さな箒で丁寧にかき集め、その土に食材から採取した種を植えて植物を育て、かすめとった鶏卵を温めてヒヨコにかえして育てているんである。
後から思っても彼が一体何者だったのか、にわかには言い難い。韓国はキリスト教徒が多いし、神という概念にひとかどならぬ思いがあると思うのだけれど、あのキチク議員は神なんている訳ないと、言外に、権力のあるものが神、それはオレだ、と言いたい雰囲気満載である。
息子はマトモな神経の持ち主でそこからなんとか逃れようとするが、そもそもレイプ事件の時、味見2に加わったんだから、ヤハリ信用は出来なかった、ということなのか。それとも人間の欲望というものはそんな簡単に片づけられないということなのか……。
ところでオダジョーにしてもヒロインの藤井美菜嬢にしてもまるでフツーに日本語を喋って、韓国語は字幕だし、うーん、これは本国では彼らは吹き替えなのかな、だったら日本でもそうした方がいいんじゃないかなとか思ったり、そう思ったら、議員の息子役のチャン・グンソク君は時々日本語で台詞喋るし、だけど時々だし、時々ならなんかそこに意味があるように思っちゃうし、なんかもう、訳判らん!!
もう最終的には、そもそもこれはファンタジーなんだから、世界言語で喋ってるんだということにする(爆)。この船が、退役した軍艦、つまりはかつては人の命を奪った兵器だということを、あっという間に死んじゃうオダジョーが彼女に語る。その時はそんなもんかねと聞き流したが、これこそが大きな意味を持っていたように思えてならなくなる。
だって軍艦だから、武器庫もあって、それがこのバトルロワイヤルに壮絶に拍車をかけるんだもん。手りゅう弾なんて、そうでなければギャグとしか思えない。生き残りたいがために意味のない権力を振りかざした議員が、船客たちを騙して閉じ込め、手りゅう弾を順々に投げ入れるシーンには、ファンタジー、ファンタジー、と心に言い聞かせながらも、平常心がとてもとても保てない。
でも、やはりこの時点ではまだまだファンタジー、だったのだ。映画の世界において殺人、殺戮、大量虐殺さえも、フィクションのエンタテインメントになりうるんだもの。拳銃がどっちの手に渡るか、弾丸がいくつ残っているか、そんなスリルがエンタメになるんだもの。
でも飢餓が襲ってくると……まさに目を背けるしかない事態になってくる。艦長がこの暴走、暴動を止めるために身を挺して、残った食料に火をつけた。激怒した議員に撃たれて死んだけれども、彼の“仕事”は、まさに意味あるものだった。
この時点で生き残っているのはほんの数人。議員が血眼で生き残りを殺しまくっている最中に彼自身が自業自得の凶弾にたおれた。そしてチンピラボスは、食欲と性欲のはざまでイヴを思い出し、彼女を襲いかけたところで、アダム(議員の息子)と情を通じていた彼女に殺されちまうんである。
このボスが、最も人間としての正直な姿を現していたように思う。とんでもないクズだしキチク野郎だが、最初から“金が欲しい”というシンプルな欲望に忠実に権力のイヌに自ら成り下がっていたし、その卑小な自分を暴力という判りやすい武器によって補足していた。
手下たちの卑怯な振る舞いが議員の迷惑になると平身低頭し、イヌと呼ぶのも可哀想なぐらい、忠実なしもべ、そしてその権力を誇りに思ってる、つまりはバカな男、ぐらいに思えてくる。まあ、ムカつくのはムカつくんだけど(爆)、本当に目が離せなくて。
その思いが決定的になったのは、権力者が有利な条件を持つ、ということまではなんたってイヌなんだから当然の権利でウハウハ受け取っていたけれど、緊急事態下で、このままじゃみんな死んでしまう状態で、明らかに暴動を引き起こすのが判っているのに、このクソ議員が、まあそんなら殺すしかないでしょ、とかいう態度に出始めてから、ようやくこのイヌも、判るんである。トンでもないヤツにかしずいていたことを。
でも彼はまだ、幸せだったかもしれない。まだ飢える前に、殺されることができたから。
イヴのお腹には赤ちゃんが宿っている。……この状況設定、日数計算からはツワリが確認されるのがいくらなんでも早すぎるような気はするが(爆)、まあそんなヤボなことは言うまい。
当然こんな状況で宿された赤ちゃんを産みたくない彼女。そもそも、恋人が殺された時点で自分も海に身を投げようとしたところを、あの老人に助けられたのだ。この老人、アン・ソンギ。そうだ!アン・ソンギだ!!うわー!!韓国の俳優さんといえばのお人だ。なんと素敵な年の重ね方をしておられる!!
ひとことも台詞はない。ただただ、微笑むばかりである。イヴが言うように、ここで起きるすべてのことを、そして今どこにいるかを、判っているとしか思えない落ち着きようである。
理不尽に殺された死体に合掌し、自室に運び、……おっと、そのリアルな包丁はなんですかい。ドーン!ギャー!バーン!!ヤメテー!!……イヴはなんて残酷なと見てもいられないが、考えてみればもうすっかり亡くなっていて(ヘンな表現だな)、痛みも感じない状態な訳で、そもそもこんな理不尽に殺されたことこそが残酷に違いないのに、それは一瞬で、解体は血だらけでやけに生々しいから、なんか錯覚しそうになる訳、なんだよね……。
最初の死体は食肉には使われない。生ごみ処理機みたいなのに入れられて、滋養タップリの土に生まれ変わる。育てている野菜や果物はぐんぐん育つ。その恐ろしさに震えながらも、やけに上手く出来てるなあ……と心の中でクスリと笑いそうになる気持ちも禁じ得ない。
その後はそんな機械にかけることなく、人肉を口にしなければ飢えて殺し合いになるような事態に陥る訳なんだけど……。
結局この、微笑むばかりの老人は何者だったのか。本当に神だったのか。でも肉体を持っていた。腹を減らして殺気立ったアダムとイヴに、まずは死体を処理した人肉を与え、どうしようもなくなって、自分の肉を与えた(!!)。
アダムの方がガマンがきかなくなった。コイツは、父親に対する反発もあって、常識人のように見えていたし、イヴと心を通わせて、誓いも立てていたのに、空腹にはあっという間に負けてしまった。
最後には、最後には……この神かとみまごう老人は、自分自身をすべて切り刻み、……ああならば、どうやって血だらけでも階段を登っていって海に身を投じられたのか。
「これで何日かは生き延びられるな」と口元を血だらけにして生人肉を頬張るアダムは、お腹に守るべき命を宿したイヴと決裂するのは時間の問題だった。
イヴは自分の肉まで与えてアダムをなだめようとしたのに、自我を失ったアダムをどうしようもなくなって、殺してしまう。彼の肉を食べ、自分と子供の命を生きながらえさせる。
老人が育てた植物、鶏、そして死体に頭を下げながらその傷口に植えた種たちが、わさわさと育ちだす。さび付いた軍艦が空に浮かび、緑がまとわりついている様は、イキイキしているのか、廃墟なのか判らないおかしさがあり、この奇妙な空間の中で、誰も知らない空間の中で、不思議な親子は生き延びているのだ。
もはやもう、森のようになった船の中、母と息子は幸福に暮らしている。そこここに白骨死体が転がっていることも、産まれた時から、そういう環境にある息子は特に思わないらしい。
しかしある日、幼い息子はさびついた拳銃を見つける。しかして、それを試そうとしたのはそこから数年たった思春期……16、17ぐらいかなあ、と思われる時である。のどかに歩いている鶏を撃とうとした息子を、顔面蒼白になって止めるイヴ。
息子はしかし、次に母親のむき出しになった太ももに手を伸ばした。一度、二度。イヴは逃げ出した。追いかける息子。「そしてまた人間」イヤだ、絶対、イヤだ!!息子だって、一対一だって、レイプはレイプだ。見たくないよ!!……と思ったところでラストクレジットが流れ始める。
レイプの果てに妊娠が判ったイヴが命を断とうとして、それを老人が止めた。恋人の子供かもしれないものね、と思い直した彼女は、その考えさえも捨てた。
自分の子供でしかないと、守るべき自分の分身でしかないと思って産んで育てたのに、「そして人間」は彼女に同じ、それ以上の試練を与えるのだ。時間も空間も止まってしまった、誰もが狂ってしまうこの場所で。★★★☆☆
ならば本当の主人公は誰か。二番目に名前が出てくる妖艶な人気デザイナー、岡田茉莉子とも言えるしその貫禄は充分だけれど、それも違う気がする。
やはりやはり……一発目から登場する、しかもニューヨークのハーレムから大金を掴んで日本にやってきた、ジョニーとしか私には思えない。
ところで某有名データベースには、信じられないことに彼の名前が見当たらず、うっそおと思って他を当たったら演じていたのはジョー山中。聞いたことあるー、ボクサー出身のロックンローラーで俳優、って凄いな!
私の目には彼は完全にハーレム生粋のブラックにしか見えなかったので、回想(というか解明)の形で彼が母親に向かって流量な日本語を(巧みに英語を絡ませて)話すのにはマジでビックリしてしまった。生粋の黒人には思われない肌合い、ってそう言われればそんな気もするが、本当に溶け込んでいたから……。
ジョニーは日本に来た途端に、殺されてしまった。岡田茉莉子扮する人気デザイナー、八杉恭子のファッションショーの真っただ中に、会場へと向かうエレベーターの中でフルーツナイフで胸を刺されて昏倒したのだった。
しかし刺された場所は別、そこから虫の息でエレベーターに乗り込み、こと切れたという不可解な行動。
そして並行して起こるもう一つの殺人事件……不倫カップルの女がひき逃げされる事件。これがまずつながっちゃうという偶然が、本作で次々に起こるあり得ない偶然の積み重ねの始まりなんである。
もうめんどくさいからネタバレで言っちゃうと、ジョニーを殺したのは恭子であり、ひき逃げ事件の犯人は恭子の息子の恭平である。そんなんあるか、である。
そしてそしてもうメンドくさいからオチバレで言っちゃうと、ジョニーの母親が恭子だったんである。すべての事実が明かされてからも、何も殺すまでするかな、という動機の薄さを感じずにはいられないんである。
恭子は今は人気絶頂のファッションデザイナーで、しかも夫は有力政治家という、押しも押されもせぬセレブリティだが、そこに至るまでには戦後の混乱の中、壮絶な人生を歩んできた。ジョニーを得たのも、駐屯していた米兵のウィルシャーと恋に落ちていたからなのだ。
回想されるこの“親子三人”は実に幸福そうで、いくら今の立場がそうした過去を知られたくないものだったとしても、愛した息子を殺すまでするかねーとどうも首をひねらざるを得ないんである。
そしてここに偶然と言えばあまりにもあまりの偶然、松田優作扮する棟居刑事が絡んでくる。米兵にからまれた恭子を助けようとした棟居の父親がリンチを受けて死亡、棟居は彼女の顔を決して忘れておらず、父親を見殺しにした女として胸に刻んでいたんである。
そしてあり得ない偶然はもう一つ、この時父親をボッコボコにした米兵の内の一人の手の甲のタトゥーを彼は覚えていて、それが、ジョニーの出生を捜査するために訪れたニューヨークの担当刑事の手の甲に刻まれていたんである。そんな偶然あるかっ!である。それを言っちまったらこれ以降も枚挙にいとまがないんである。
しかしてなんかもう、当時の角川映画の気合に押し切られちゃうんである。国際派映画、って肩に力が入った感じムンムンである。
それがためには多少の矛盾は押さえつけちゃう。まあそのあたりは、松田優作始め、当時のどシリアス役者たちが問答無用で押さえつけちゃう。
ところでもう一方の殺人事件である。恭子の息子恭平はなんとまあ、若くて可愛い岩城滉一である。子供っぽいワガママ不良少年の雰囲気は、今でさえ引き継がれてるあたりが楽しい。
大富豪で有名人夫婦の一人息子として、それ故に窮屈さを強いられているボンボン。いかにもコドモって感じだが、大物政治家の父親が外妾を作りまくり、それに対して母親が黙認しているということこそに傷ついているというのが、哀れだが、それもまたボンボンの甘やかさである。
そしてそんな一人息子を母親が愛してやまず、可愛さゆえに破滅に追い込むというのもさらに哀れである。しかも一人息子、じゃなかったのに……。
恭平がひき殺した女、なおみ(范文雀)は恭子のショーに不倫相手のエリートサラリーマン、新見(夏八木勲)と共に訪れており、その帰途の不幸だったんである。
なおみの夫は帰ってこない妻を半狂乱で探しまくり、新見の存在を突き止める。しかして新見もまた連絡のつかないなおみを心配しており、ここに奇妙な友情が成立するんである。
そんなんあるかと思うが(爆)、目の下にクマを作り、髪を振り乱して愛妻を探している長門裕之と、申し訳なさと同じ女を愛した者同士の憐憫で接するセクシーな夏八木勲との、なかなか考えにくいカップリングのケミストリーは不謹慎ながらちょっと楽しいと思ったりする。
新見がなおみをタクシーからおろした場所に、胸騒ぎを覚えて舞い戻って拾った証拠の品、日本には四つしか入ってきていないオルゴール時計だったとか、その販売元にひとつだけ残っていて、それを執拗に売ってくれと恭平が掛け合ってきていたとか、判りやすい謎解きにドキドキしちゃう。
人殺しをしたという呵責に耐え切れなくなった恭平は母親に告白すると、こともあろうか母親は、“悪人は悪人らしく最後までその苦しみを背負って生き続けるのがあなたの責任の取り方”だの、“刑務所に入って後悔して罪を償って許してもらおうなんて甘ったれてる”だのと意味不明のリクツをつけて息子をニューヨークに逃がすんである。
正直言って、ここで素直に自首させた方が彼は生き延びられたし、幸せだったろうと思うのだが、何かね、ここでのリクツはセレブリティとしての自分たちにキズが付く故としか思えないものなのに、最終的には恭子は母親としての息子への愛、いや、溺愛を吐露しまくるんだからなんだか意味が判らんのだよなあ。
時代が時代、戦争の記憶も生々しい、棟居刑事も子供の頃は食うや食わずの“浮浪児のような生活”をしていたと述懐するし、今や華々しいデザイナーの恭子も、その連れ合いの大物政治家も、苦しい時代を経験している。
ことに恭子は、棟居が自分の父親を見殺しにされたとウラミに思っているあの場面で、警官を呼んできたことで米兵たちに更に取り囲まれ、……輪姦されちまった、んである。
その直後の息子ジョニーとその父ウィルシャーとの別れは、単純に駐屯地からの帰還であったろうが、ジョニーは知らなかっただろうけど、ウィルシャーはその凄惨な事件を果たして知っていたのかどうか。
泣きながら愛する男と息子を見送った後に、絶望に駆られて自殺しようとしていた彼女を救ったのが今の夫、トシロウ・ミフネ演じる郡陽平であった。
葉巻をぷかぷかふかして和服姿でふんぞり返る姿は、わっかりやすく成金でのし上がった感で、ボンボンといえど息子が反発するのもさもありなんなのだが、そーゆー過去を見せられると、ならばなぜ、その後愛人を作りまくって、苦労を共にした嫁を大事にしなかったんだよーっと、道義上というよりむしろ今の仮面夫婦っぷりが不自然にさえ思えてしまうのだよね。
まあ母親は子供、特に息子を溺愛するものだから、夫を切って、息子と共に新天地のニューヨークで暮らすことを決意し、先に息子を、逃亡の意味もあって送り込むのだが……すっかりやさぐれちゃった息子は、銃とか手に入れちゃうし、もう破滅は目の前な訳で。
恭子の、そして恭平の殺人の証拠を手に入れるために、ジョニーの残した言葉や、大事に持っていた西條八十の詩集と麦わら帽子を元に、西條の詩に書かれていた場所、霧積(きりずみ)に向かうもキーマンの老女、たねは口封じと思われる理由で既に殺されている。
たねが連絡をとっていたイトコの、これまた老女を訪ねて、ようやくつながる。霧積に訪れていた、「初めて見た黒人」一家のこと、たねが横須賀で経営してたバーで働いていたのが恭子だったこと……。物証はない、が確信をもって棟居はニューヨークに飛び、思いがけずそこで父の敵に出会うという、あり得ない偶然は、もう先述したところで。
棟居のいわば仇であるニューヨークの老刑事、シュフタンを演じるのが、ご招待つかまつりました!!てなハリウッドスター、ジョン・ケネディである。
彼と同僚との間で交わされる、日本人、というか、日本兵、いや、日本軍に対する想いが語られ、同僚のおっちゃんは「俺は真珠湾で弟を亡くした」と吐露する。
それに対して、シュフタン自身が何を抱えているのかここでは明かされないんだけれど、棟居が父の仇の証拠である手の甲のタトゥーを発見しても、彼をブチ殺せなかったのは、部屋に飾られているモノクロ写真、彼が愛したと思しき日本女性とのツーショットの写真が、大事に飾られていたからなんである。
鏡に映ったシュフタンを撃ち抜くだけで彼は思いを胸に閉じ込める。言っちまったらよかったのにー。
松田優作の相棒である先輩刑事がハナ肇で、しかしめっちゃシリアス一辺倒。なんかつまんなーい。
恭子もまた自ら死を選び、てゆーか、刑事たちは逮捕せずに彼女の動向を見守ったってことは、多分自殺するんだろーから、見守ってやろーぜ、みたいな雰囲気で、それって結構ザンコク……と思ったりもするが。
ところでこれは角川映画であり、イケイケのフジテレビが関わってるんであり、イケてるデザイナーの恭子を取材する華やかな番組のアナウンサーが露木茂氏!!若いのに老けてる!!面白ーい!!★★★☆☆
これは考えつかなかった秀逸なアイディアだけど、でも恐ろしいリアリティ。あるかもしれない、いや、きっとあると思わせるのは、実際の失踪者の数、実際の自己破産の数、ネット難民の数、エトセトラエトセトラ……が絶妙のタイミングでグサリと胸にナイフを突きさすように提示されてくるからなんである。
その町には拉致されるようにして連れていかれるのにも関わらず、その町の住人となった人たちは誰もが満足している。いや、ホッとしていると言うべきかもしれない。
それは、どこにも居場所がなく、それどころか追われていて、生きて行く手段を失ってしまった人たちだから。逃げたいと思っても逃げ場がないと思っていたところに突然ポンとそれが提示されて戸惑いはするけれども、ホッとする。
ここは自由と平等の場所だという言葉に奇妙な違和感を感じるのは、スクリーンのこちら側で安穏と眺めている私たちであり、彼らはその言葉をまんま飲み込む。いや……元の世界に戻りたくないから、必死に飲み込もうとしている、のかもしれない。
中村倫也君演じる蒼山は、いや、蒼山、という名前自体、劇中で発せられていたかどうか判然としない。名前も、そして戸籍も消滅しているというのは、後に知り、戦慄することとなるんである。
彼はまさに借金で首が回らない状態、ヤーさんにボッコボコにされているところに、不意に背後から近づいてきた黄色いツナギの男がそのヤーさんをボッコボコにした。何のために助けてくれるのか。いや、後から考えればこれは助けるというのに当たるのか。
オチバレで言っちゃうけど、タイトル通り人数の町、蒼山たち“デュード”と呼ばれる住人たちは、外の世界(現実世界)で使われる人数合わせのためだけに集められた、亡霊のような存在なのだ。
そうだ、“一度も投票に行ったことのない人数”もカウントされていた。その投票用紙、というか、その名簿をどっからか売り買いされ、投票用紙はきっとその人の元に届かず集められ、“人数”の彼らが投票をする。もちろん特定の候補者に、である。
テロの被害者のサクラ、社会啓発のデモ活動、いいことのように見えるものも含まれるのが気味が悪い。そんなことも、亡霊で買っているどこかの誰かは、本当にいいことをしようと思っているのか。その裏にはきっと何かがあって……ゾッとするばかり。
この町での食事のありつき方も、非常に見事なアイディアである。最初のうち蒼山は部屋に備え付けられたカンパンを食べるしかないと思っている。しかし、プールで出会った美女が笑いだす。彼女がこの町のシステムのすべてを教えてくれるんである。
ぞろりと揃えられた端末から言われたとおりの“絶賛コメント”“ディスりコメント”を打ち込みまくれば、目の前に真空パックの様々な食事が届く。それは……そうだ、私たちがメッチャ目にした記憶のある、まるで意味がなく、悪意だけがある、空虚な“炎上”という名の言葉たちである。
いや、そうか、悪意すらもないのだ、もしかしたら、実際にもそうなのだ。だってここの彼らは悪意なんか何にもなく、悪意があるだろうという言葉を打ち込んでいく。それでメシを食う。炎上になるコメントを書き込んでいる有象無象が、実際に悪意を持っていたらむしろあんな空虚さはないだろう。
でも実際の炎上も実に空虚だ。悪意というのがあるとしたら、むしろそこには感情があり、熱意がある筈なのだと思い至るのだ。これはなんという……痛烈な社会批判であり、そして、本当にこんなシステムがあるかもと思わせる恐ろしいリアリティ。
そこに、異分子が紛れ込んでくる。行方不明の妹を探しに来る木村である。演じる石橋静河嬢より妹役の立花恵理嬢の方がひどく大人っぽい。クールビューティーのモデル体型を惜しげもなく水着や下着姿でさらしたりもするもんだからさ。
石橋静河嬢だってクールな美人ではあるのだが、ここではボブカットや、不安げな様子がなんとも言えない可愛らしさを感じさせる。
彼女の登場シーンは、妹のダンナに暴力的に部屋を訪問されるシーンである。このシーン一発で、妹がどんな目に遭ってきたかが判る。お姉ちゃんは妹とその娘の行方を知らないけれども、知っていたって死んだってコイツには吐かないに違いない。
そんな中、お姉ちゃんは町中で起こったテロ事件の映像、よくある、一般視聴者が撮影したというその中に妹を発見してしまう。ああこれもまた、まさにまさに、現代なのだ。“町”の人々は、そんなことで発見されるなんてことは思ってなかった。
「一般の客が、怪我した(見た目の)彼らを助けようとしたらどうしますか」「そんなヤツ、いねえだろ」というのは、確かに……哀しいけど確かに、当たっていた、かもしれない。助けはしないけど撮影はする、というのが余計に恐ろしい。
その映像が流出し、本当に心配している人の目に触れることまではチューターたちは考えなかった、のは、ここに集められた人たちは“人数”でしかなかった、からなのだ。なんてこと、なんてこと!!
蒼山は木村に、一目惚れしちゃった、んだろうなあ。この“町”に来てから、確かに衣食住には困らないし、それどころか性欲にだって困らない。はいフェローとあいさつを交わし、お互い褒めまくり、気に入った相手には部屋番号の紙片を渡して双方合意すればセックス、なんとまあ……原始的というかなんというか。
でもお互い、番号でしか知らない。衣食住もセックスも満たされているのに、この一点に、まるで監獄、と感じ、まるで??まるでどころか監獄じゃん、なぜそれに気づかなかったのかとボーゼンとする。だだっ広い敷地内だし、ゴーカなプールはあるし、なーんにも縛られることなんてない。
ただ、外には出られない。いや、時々は出られる。先述のように、違う誰かの選挙権で投票したり、デモしたり、テロの被害者を装って演技したり、観光バスに乗り合わせて、その“仕事”をしにいく。
そうだ、仕事だ……。外に行かなければ出来ないから管理された中で外に出ていくだけで、町の中で絶賛やディスリコメントを打ちまくってるのと同じことだ。
スマホやパソコンに向かうだけで外とつながっている気になってる、ただ空虚な言葉を打ち込んでいるだけ、というしたり顔の言い様があって、それは確かにそうだよなと思っていた。
でも、もしかしたら、もしかしたら、こんな風に、見た目的には外には出てて、でも、してることは、端末に向かって打ち込んでいることと何ら変わりない、コメント数と同じように人数としてしかカウントされない誰かが、何かが、いるんじゃないかって!!
木村の妹には娘もいた。だからこそ余計に心配していた。この町では、子供は別の場所に集められて保育(という名の管理)をされている。足に無造作に綱をつながれて、適当におもちゃを置かれただけの空間に放置され、食事は大きなバットに一緒くたに持ってきてドン!と置かれるだけのその環境は、……ああ、まるでまるで、家畜のようだ。
大人の住民にはそれなりの自由が与えられていたのは、ヤハリ騒がれたら困る、ということだったのか。子供たちはただ生かされているだけだ。保育だなんて、そばにいて目配りしたり、遊んだり、教えたりする大人なんて一人もいない。
ここに子供をとられている住民がもう一人登場する。後から考えれば彼女はちょっと、正気を失っていたように思う。蒼山に番号札を渡したんだけど、セックスをしたい訳でもなさそうで、なんか上の空のまま、半笑いで彼を子供たちが集められているところに連れていく。
本来はこの場所に親たちが来るのだってNGだろうし、場所を知ってることさえヒミツなのだろうと思う。なのに彼女は、まるで初恋の人にヒミツを教えるような夢見る目つきで、あれが私の子供なの、と何も心配していない目で、いとおし気に我が子を見つめ、可愛いでしょ、一番可愛いよね、と、言うのだ……。
だから私はてっきり、この子が木村の妹だと思っていたら、違った。町の中でも一番のモテ女、女王様のようにふるまっている、そう、木村が緑、と呼びかけなければその名前さえ、当然知らなかった。木村の出現で、つまりは蒼山は人間としての自分の存在を取り戻したということなのだろう。
この広大な町のぐるりには、抑止力があるとは思えない低いフェンスが張り巡らされているだけ。度胸試しだ、と何も知らないのをネタにされる形で、蒼山は古株さんにけしかけられてフェンスの外に出た。フェンスから離れていったある一定の場所になって、突然頭の中にガマンならない音響爆弾が鳴り響く。それは強固な壁よりも、なによりも、強力な抑止力。
しかし、それを知っても、木村は妹とその娘を助け出したいと願う。いや、妹はもう大人で、自分で決断してここにいる。ならば幼い姪っ子だけでも助けたいと、願う。
このより分けもなかなかに残酷である。蒼山は音響爆弾を止める端末を盗み出すことで逃げ出す計画を立てる。でもそれは充電が切れるとまた襲ってくる。だから一度は失敗したかに見えた。
でも二人を助け出したチューターが、“人数”の秘密をポロリと洩らし、それだけでとどまっていたら良かったのに、“人数”への侮蔑をこそ、漏らしてしまった。
上に立つ、圧倒的な上に立つ人間の油断だったのか、でも後から思えば、チューターになるのはデュードからの落ちこぼれなのかもしれないのだ。それが大半かもしれないのだ。だとしたらなんて……ねじくれたプライドだろう。
ああ、またオチバレしちゃった。そう、蒼山は、ラストのラスト、チューターになってる。逃げ延びるつもりだった。なんとかなると思った。
でも戸籍が抹消されていると、何も出来ない。部屋を借りるなんてことはもちろんのこと、バイトひとつできない。ケチなコンビニ強盗でとりあえずの金を得たって、先は知れている。
そして……充電が切れてしまう。あれは、あれは、車で充電とか、出来ないの??車の免許持ってないんで判んないんす、スミマセン……。とにかく、もう切れちゃって、蒼山は死にそうになってて、でも次のシーンで診察受けていたのは木村だった。
なんと、妊娠していた。母子手帳はと言われた。ある筈ない。蒼山を町に連れていったチューターが来ていた。蒼山の決意を一笑に付した。町に向かうバスの停留所と時間のメモを渡した。その時には蒼山は行くつもりなんてなかった。なかったのに……。
そもそも、木村の赤ちゃんの親は誰なの??物語の進行具合では、蒼山とは思い難い。あの町に着いて、木村が妹にすげなくされて、乱交パーティーに連れ込まれる場面があるが、まさかその時に??それとも蒼山との逃避行の中で、そういう場面があった??それだって、妊娠するまでには時間的になさすぎると思うんだけれど……。
なんか、ぐるぐるぐる。まさか妹のダンナにナニされたとか……考えられなくもないようなキチクダンナだったけど、いやまさか、とか。
この謎が解かれないまま、どうやって戸籍もなしに生きて行くのか、とチューターに嘲笑されるように突き放され、次のシーンでいきなり、本当にいきなり、幸せそうな家族の早朝の場面。今にも産まれそうな大きなおなかの木村と、彼女の妹の娘のももちゃんは既にすっかり木村と蒼山の間の娘という存在になっている。
「パパ、もう仕事に出かけるんだって」あんなに、この現実世界で生きて行くのは難しいことを突き付けられていたのに、仕事って??と思ったら、蒼山が町に連れていかれたあの場面にソックリの展開がなぞられる。でもその話を聞かされているのは当然、蒼山じゃなくて……ああ、ああ、その話を聞かせているのが、蒼山、なのだ。黄色のツナギを着て、この町こそが、至上の楽園だと説いているのだ。なんたること!!
まさに、衝撃のラストだった。蒼山がそう落着するのは判らなくはない。でも木村が……それは母性本能で、正義もプライドも捨て去ったということなのか。
演じるのがそういう部分では鉄のガンコさをイメージさせる役者である 石橋静河嬢であるからこそ、余計に衝撃なんである。
本作は、一見秀逸なミステリの形を借りて、現代、いや、これまでの日本社会を痛烈に皮肉る、批判する作品だと思う。ただそれを糾弾するためには、一人の人間として生きているという、真の自覚を持たなくてはいけない。それが決して当たり前のことではないんだという恐ろしさが、たまらなかった。★★★★☆