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「か」


2002年鑑賞作品

ガイア・ガールズGAEA GIRLS
2000年 106分 イギリス カラー
監督:ジャノ・ウィリアムズ/キム・ロンジノット 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:キム・ロンジノット 音楽:
出演:長与千種 里村明衣子 竹内彩夏


2002/6/25/火 劇場(シネセゾン渋谷/レイト)
まさか我ながらこんなにもボロ泣きするとは思わなかった。ずーずー鼻水をすすりながら劇場を後にし、夜の渋谷の雑踏にまぎれる自分が本当につまんない、ニセモノの人間のように思えてならなかった。努力のしない、できない人間ほどあんな風になりたい、こんな風に生きたいと願うのかもしれない。死ぬほどにキツくて、心身ともに厳しいトレーニングを積んでいる彼女たちをうらやましいと感じるなんて。

しかもこれはイギリス映画なのだ。なぜ、これを日本映画のスタッフでやれないのだろう!という歯噛みを感じた。しかもである。その異国で撮るドキュメンタリーを言葉で変換しようとせずに、彼女らの肉体が、精神が、言葉なき言葉になるまで、じっくりととらえていることにも感嘆した。インタビューもいくつかは挿入されているものの、それがとらえているものも言葉というよりは、それを語る彼女たちの表情、肉体言語なのだ。それが証拠に、それほど深い言葉を喋っているわけではない。このあたりが対照的で物足りなかった「エトワール」との違いが興味深い。ドキュメンタリーとしての、対象物そのものが語りかけてくる、それが映像になった時に発露する力を信じているのだ。これはカメラが向けられる対象となる人たちに、よほど信頼を得られないと出来ない話で、まったくカメラの存在を感じさせないのには驚嘆する。カメラの対象となる人がより自分の世界に耽溺していればいるほど、カメラを意識しないでいられるのかもしれない、とも思う。これぞ、ドキュメンタリーの真の姿であり、力なのだ。

長与千種率いる女子プロレス団体、ガイア・ジャパンに潜入したドキュメンタリーである。来るものは拒まず、去るものは追わず、の精神で、長与選手のカリスマ性から入団希望者は後をたたないが、その厳しい訓練に耐えられるものもまた、わずかである。本作中にも二人の入団者が登場するが、一人は再入団にもかかわらず、ある夜何も告げずに去り、もう一人はいかにも甘やかされて育った一人っ子といった女の子で(ベッドの用意を母親がしているという時点であまりにも明らか)、予想にたがわずすぐにくじけてしまう。いや、すぐにくじけるだなんていうのは酷かもしれない。彼女は厳しいトレーニングに歯を食いしばって頑張ったものの、トレーニングにくじけたというよりは、厳しいスパーリングを目の当たりにして自信をなくしたということだったのだから。いや、やはりそんなことで可哀想がるほど甘い世界ではないのだ、当然。トレーニングをこなせてはいても、自分の気持ちとどうしても相容れなくて去って行く、というところまで到達する者もいるのだし。その彼女は長与選手に自分の気持ちをぶつけて、辞めていく。長与は言う。「私はお前を一生許さない。次の人生を頑張れなんて、絶対、言わない」

この言葉は衝撃だったけれど、でもものすごい愛情のある言葉なんじゃないかと、映画も後半になると思うようになってくる。長与はここに入ってくる女の子たちに対しては、ここにいる間は、その人生をまるごと責任を持って背負っており、だからそこを去っていく者たちには、もう私は助けてあげられないんだよと、自分自身でやってけよと言っているように思えてくるのだ。それは多分、当たっていると思う。長与のインタビューは先に述べたこととは違って、さすが今までのプロレス人生を力のある言葉に出来るだけの能力を彼女は持っているから、ものすごく聞かせるし、ものすごく重い。同年代の女性の友人たちは、もう子供を持っている。私は自分のお腹を痛めたわけじゃないけれど、若い女の子たちを自分の子供のように思っている、と。厳しい態度をとり、殴れば自分の手も心も痛いけれども、長与こんちくしょう、絶対いつか負かしてやる、お前を超えてやる、と思ってほしい、と。

この言葉が発せられるのは物語もかなり後半になってからなのだが、その頃には私はすでに涙でボロボロだった。というのも、次第に一人の女の子に焦点が絞られてくるからである。最初のうちは、はっきりと主人公が定められているという風ではなかったのだが、自然とそれが決まってきたという感じである。それは入団してそろそろ1年を迎え、デビューを目指せるところまで来た竹内である。彼女は見た目はいかにも地味でおとなしそうで、とても女子プロレスといった感じではないのだが、黙々と真面目に、トレーニングをこなしていくのはサマになっている(のは、辞めていくことになる新人さんとどうしても比べてしまうからなのだが)。が、そんな風にキレイに筋トレをこなしている彼女も、スパーリングとなると、どうしても力不足が如実に出てしまう。もう何年も先輩の実力者を相手にしてるんだからそりゃそうだろうとは思うものの、でもあれだけ器用にトレーニングをこなしているのに、何が違うんだろう、とも思う。彼女のその真面目な器用さが裏目に出ているのかな、長与の言うとおり、彼女は向いていないのかな、とも思ってしまう。

一回目のプロテストはそんなわけで惨敗、長与から何ですぐあきらめるんだよ、お前ウソ泣きしているだろう、もう田舎に帰れ、お前は使えない、とこっちが震え上がってしまうような厳しい言葉を浴びせられ、涙でグシャグシャの彼女は再トライを懇願するものの、長与は背を向け、車で去ってしまう。しかしその厳しさこそが、長与の狙いだったのだ。竹内がそれでもあきらめないことを長与は見抜いていて、そしてこのままでは確かに使いものにはならないけれども、このことで発奮してくれることを期待したに違いないのだ。本当に、あんなに顔中血だらけになって、汗だか鼻水だか涙だか判らないぐらいに顔をグシャグシャにして、どうしてもどうしても力が発揮できなくて、でも絶対にやめない、やめようとしない彼女、きっとそれこそが彼女の強さなのだとこちらも願わずにはいられず、頑張って、頑張って……と祈るような気持ちになってくる。彼女に負けず劣らず、こちらも顔中涙と鼻水でグシャグシャである。

それに。試されているのは竹内自身だけではなく、彼女をデビューのリングに立たせるためにまかされた先輩レスラーたちもまたそうなのだ。長与に一から叩き込まれたに違いない彼女たちにとって、その恩を次の世代へと返す形になるわけだが、やはりまだ長与ほどの厳しさは発揮できない。確かに激しくスパーリングの相手をし、その弱さを容赦なく叱咤するものの、口を切って血を流す竹内に「どれ、見せてみ。とりあえず口をゆすいできな」という場面は女の子らしい優しさだなあ、などとホッとしたりしちゃ、いけないのだ。それがあった一度目のプロテストに失敗し、再トライを許された竹内は、今度こそ、と鬼のようにトレーニングに励む。その間に、新人さんのみならず、ずっと一緒にやってきた仲間の一人も去っていく。涙にくれてその後姿を見守る竹内の胸に去来したものは、はかりしれない。

二度目のプロテストは、一度目の時とは気力が明らかに違う。最後の対戦相手、長与に殆ど小突かれるようにしながらも立ち向かい、案の定なす術もなくやられてしまって、彼女の精神的な弱さはまだ出てしまうのだけれど、でも、合格を勝ち取る。長与から晴れの舞台でまとう緑のファイトスーツを手渡され、涙がとまらない彼女に、こちらもまた涙がとまらない。それから後のシーンは、デビューに向けて髪をきれいにととのえ、試着し、カワイイ、似合うよ、と先輩たちが何くれと世話を焼いてくれるのに対して本当に嬉しそうな笑顔を見せ、わずかな間の、この女の子同士のささやかな幸せに、とっても嬉しくなってしまう。

いよいよ緊張のデビュー戦。会場がどよめくほどの一生懸命さと健闘を見せ、先輩の里村選手(この人がまた、可愛くて。ビックリ)に負けてしまうものの、囲まれた記者会見で、目標は長与千種選手だとキリリと答える彼女に最後まで、涙。そうなのだ。長与千種、この人ときたら、本当にステキなのだ。性とかをこれほどフツウに感じさせずに、しかし、しっかり女性としてもカワイイと思えるほどにチャーミングで、しかししかしそれよりも何よりも何と言っても人間としてとてつもなく素晴らしい。こんな、魅力的な人間、他にいるかッ!と握りこぶしを作りたくなっちゃうほど。カッコよくて、可愛くて、本当にステキ!長与選手、自分のことをコノヤローと思ってほしい、とか言うし、実際正視に耐えないほど弟子たちに厳しいんだけど、竹内が目標が彼女だと何のためらいもなく言うのが本当によく判る、とにかく慕わずにはいられない人なのだ。上司にしたい人、ナンバー・ワンって感じ!(?)

都会の喧騒や、プロレスの試合会場の華やかさやどよめきが信じられないほど、田畑に囲まれたノンビリとした田舎で黙々とトレーニングを積む彼女たち。ノロノロとジョギングしている近所のオッチャンや、どこか牧歌的な、しかし生活の汗を感じさせる農作業が点景として描かれているのがとても印象的。彼女たちが、久しぶりですねー、と声をかける巡回パン屋さんも、パン屋さんに群がる彼女たち、というのがああ、女の子だなあ、って思うし、のんびりとした音楽を鳴らしながら去っていくそのパン屋さんの何とも言えないのどかさとかが、でもやっぱりそうやって生計をたてている人生の大変さがそこはかとなく現われているのが、いいのだ。彼女たち、特に次々に入ってくる練習生たちは、まだまだアコガレの延長線上で、どんなに厳しいトレーニングを積んでいても、こういうオッチャンやパン屋さんにはまだまだかなわない。竹内も、やっとスタートラインに立ったばかりなのだ。

と、思っていたら、どうやら竹内選手、退団してしまったらしい。オフィシャルサイトの舞台挨拶の記事に彼女がいないからアレレと思って調べてみたら、引退に近い退団だとか……何があったんだろう?とても残念だけど……。生真面目な彼女のことだから、割と思いつめる部分があったのかなあ……。私もプロレスをショーと思っていたんだけど、本作でそんなんじゃないって(少なくとも彼女たちのしているプロレスは、決して)本当に判ったし、そういう部分での行き違いがあったんだろうか。

ああ、でも。私もホンモノの人間になりたいよ。ふとくじけるとすぐニセモノになっちゃいそう。思えば、プロレスがショーだと思われていたりするのって、そのショーっていうのはニセモノと言い換えられたりするのかもしれない。でもショーなんかでは全然なくて、彼女たちはホンモノなのだ。だから輝いている。だから観ていて涙が出てしまう。生きる世界は違っても、この映画の、そして彼女らの発するメッセージって凄くそうした普遍的なものだ、って感じがする。単純なことだけれど、一生懸命さとか、あきらめないこととか、単純だけどだからこそ一番難しくて厳しいこと。そのことを見えないフリ、知らないフリをしちゃって、複雑なこと言ってごまかしちゃったりして。それこそただのショーの人生になっちゃう。ホンモノの人生を生きなければ、きっと後悔する。★★★★☆


壊音 KAI―ON
2002年 74分 日本 カラー
監督:奥秀太郎 脚本:
撮影:奥秀太郎 音楽:大友良英 奥秀太郎
出演:小林愛 宮道佐和子 岡光実和子 片山圭 中坪由起子 山ノ内奈穂子

2002/5/17/金 劇場(テアトル新宿/レイト)
意味をとらえかねて、ただただ首をひねり続けていた。物語世界が前提という考えにとらわれすぎているのかもしれない。でも、この映画に原作があるというのも不思議に感じたし、オフィシャルサイトをのぞいてみると、ちゃんとストーリーが解説されていたりする。でも映画を観ているときは、全くそれが判らないのだ。そのストーリーを読みながら、これは知っておく必要が、あるいは後からでも知る必要があったのだろうかと悩む。映画に意味付けをするのは嫌いなはずなのだけれど、どうにも捕まえかねて、印象も寂寞としていて、ただ悩んでしまう。

タイトルの通り、劇場に驚くほどの爆音が響く。監督自らが持ち込んだPAによってもたらされる、極限まで響く音。生理的に不快な音すらも混じり、鼓膜がやぶれそうになるほど、ボリュームがあげられる。映画館で観ることの意味は強く感じる。だって、もしこれがビデオなんかで観られたとしたら、間違いない、ボリュームをしぼってしまうだろうから。あの伝説の「鉄男」や、気が狂っているとまで言われた「ラバーズ・ラヴァー」も爆音が特徴的であったけれど、ビデオで再見すると、どうしても音をしぼってしまうから、映画館で観た時の衝撃は薄れてしまう。

本作はそれにこそ焦点を当てている。壊れる音が壊れる人間を象徴する。画面に揺れているのは、そう、まさしく揺れているのだ……あまりにも確実性を持たない少女たち。少女、と言っていいのだろうか……“ストーリー”を読んでみても、それに対する言及は得られない。ただ、演じているのは確かに少女で、しかし彼女らは学ランを着てそこに存在しているのだ。物語の最後には、彼女たちのうちの一人が、閉じ込められた病院(精神病院?)のベッドの上で、一枚、また一枚と思い出の写真を重ねてゆく。これがボクの男子校時代の写真、これはボクの女子高時代の写真……。え、え?何?どういうこと?この子は仮性半陰陽で途中から女の子になっちゃったとか?いや、そんな、それこそ“確実性”のあることではないとは思うのだが……。この作品から、そうした物語を喚起するイメージはどうしても得られないから。人間が壊れるんだったら、性的境界線も当然壊れ、妄想や幻覚が支配し……そういうことなのだろうか?

爆音の続きとして響き渡る、退屈で無意味な学校の授業。それを聞きながらコトリと机に頭を落とす“彼女”の口から流れ出る鮮血。きっかりとした輪郭をとうとう最後までつかまえられない、振り回されるがごとくに暴力的に動き回るカメラワークが映し出すハレーション気味の画面に、時には色彩鮮やかに、時には水墨画さながらに、しかしどちらにせよはかなく、陽炎のように揺れ動く少女たち。感覚を映像でとらえることを試みているかのようなイメージの氾濫で、彼女たちの表情も身体の動きもどこかポーズめいていて、生々しさがない。唐草模様の風呂敷包みをかつぎ、夏みかんまでふところにしまっちゃう、バカバカしいほどに即物的な万引きシーンなど、画としては確かに面白いけれど、まるで切実さがなくて。それこそが狙いなのかもしれないけれど。

いわば映像と音のコラージュ。あるいはそれらによる破壊的なオブジェ。美術館などで披露されるような感じ。はたまた学園祭とか。試みとしてはとてもトンがっていて好きだけれど、それ以上のものを感じるのは難しい。学ランを着込んだ少女たちがマネキン人形みたいに冷たい顔をして、熱のないたわむれをしているのはやたら耽美的で心惹かれるものの、その“冷たい顔”が常にひんやりとした感情を投げかけてくる。入り込むなと。共振するなと。どうせお前たちには判りっこないんだから……みたいな。そういえば最近、少女期の、あるいは少年期の痛みを描いた映画が続出していて、そのどれもが、シンパシィを感じさせるのを前提とする作りになっていたのだが、まるでその流れに反発するかのように、共感を突き放す冷たさを放っている。

しかし、予告編にも使われていたクライマックス(この予告編に惹かれて、観にきたのだ)、取り壊される校舎の“壊音”に耐えかねて、耳をふさぐ少女に、初めて、ようやく人間らしい表情が見えた。このシーンは長く長く続く。立ち尽くし、耳をふさぐ彼女の後ろにガリガリと壊される木造校舎の瓦礫が迫ってくる。このシーン単独で見ても痛烈に伝わる何かを感じさせる、非常に画になる場面で、半ばあっけにとられたようにみとれてしまう。学生時代に閉じ込められていた、そこで人格が強引に形成された校舎の崩壊。心のどこかで夢見続けてきたようなその光景は、まばゆく差し込むどこかウソめいた昼の光もあいまって、非常に奇妙な感覚を抱かせる。チクチクと傷む一方で、白けた気分にもさせるような……。この場面の直前、そう、壊される直前、彼女が黒板に何か書く。大きく書かれた文字は勿論読めるのだけど、その下に書かれた小さな一行の文章が読み取れなくて、読み取れないままその黒板がショベルカーでバリバリと壊れてしまう。もっのすごく、気になった。何て書いてあったんだろう……。

殆ど台詞のない本作にかぶさるこの爆音は、正反対に不気味なほどの静けさを感じさせる。正反対、あまりに正反対なだけに、プラスとマイナス、両極による相似を想起させる静けさ。心の中が空っぽになる、何の言葉も届かない、静けさ。それは言い換えれば、絶望、になってしまうのかもしれない。
史上最年少(17歳)で文學界新人賞を受賞したという篠原一の著した原作が気になる。というか、この映画をとらえるためには、原作を読むことは果たして必要だろうか?またまた悩むところなのだけれど。★★☆☆☆


害虫
2002年 92分 日本 カラー
監督:塩田明彦 脚本:清野弥生
撮影:喜久村徳章 音楽:ナンバーガール
出演:宮崎あおい 田辺誠一 りょう 沢木哲 天宮良 石川浩司(たま) 蒼井優 伊勢谷友介

2002/3/19/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
なぜ、このところ、こんな風に中学生の痛みを描出する映画が多いのだろう。
モヤモヤしたつらさを思い出させる映画。そう判っているのに観てしまうのは、あの頃の自分を否定してしまうことは、自分を否定することだという、無意識下のプレッシャーのせいなのか。
もちろん、この映画に表されるような過酷な運命にさらされたわけではないのだが……。
言葉にして吐き出したくて吐き出したくて、たまらなかった。静けさがつらい、無言がつらい。
「リリイ・シュシュのすべて」から膨大な言葉とドラマチックな展開を取ってしまったら、こんなふうになるのかな、とも思う。
しかし「リリイ」で語られている言葉も、中学生である彼らから発せられているわけではない。あるいは彼ら自身の言葉もあるにしても、それは音声を持って体から発せられるものではない。
本作にも、ヒロインの少女、サチ子が思いを寄せる小学校の担任だった緒方に当てる手紙が出てくる。
しかし、それは自筆の文字ではなく、黒字に白ヌキの字幕として表れる。予告編で聞かれたような、少女自身のナレーションがかぶさるわけでもない。そこには果てのない静けさが漂う。
この奇妙な共通点に、ハッとする思いがする。彼ら自身の真実、感情、言葉、そういったものを解くカギがある気がする。

感情は本当は言葉になんか出来ない。ただモヤモヤとした形而上学的な雰囲気にしかすぎない。言葉を覚える、その言葉に置き換える、という作業は、いわば嘘を覚える、嘘を作る過程と同じだとも言える。
そしてそれこそが、大人になることなのだと。
彼女らは、まだどちらにもいない。境界線上でもない。ある時にはラインのこちら側に、そしてある時にはあちら側に、浮遊している危なっかしい存在。
例えば、子供を形容する時に使う、“時間をいっぱい持っていてうらやましい”ということよりも、嘘がなくても生きていける彼らこそが、うらやましいと思う。
けれど、早くも10を越える頃になると、そうできるほどの無条件の強さが失われていく。そう、確かに未来にたくさん時間を持っているのに、その時間に確信が持てないぐらいの知恵がついてきてしまう。そして、その不安を補おうとして言葉はより緻密になり、それは嘘が緻密になることと同義になる。……ここにいるのはそんな年頃の、少女。

彼女らはまだ、その嘘を自分の体内から平気で出すほどの臆面のない大人ではない。それを作り出す術を得ていても、体はまだ嘘に浸かっていない。
だから、この映画のヒロイン、サチ子も沈黙する。言葉を字に置き換えるのは、遠く離れたところにいる愛しい人に伝えるには、そうするほか術がないから。それを自分自身の字で現すには、それはまだ嘘だから、しぶしぶ現した記号だから、そこまでは出来ない……実際には彼女自身の自筆であるに違いない手紙を、字幕方式にしていることは、そんな彼女自身の気持ちのあらわれのように思えてしまう。多分、そばにいれば言葉なんかいらないだろう。ただただ、そばにいられれば。
実際、彼女と緒方は相思相愛だったのではないか、と思う。
演じる宮崎あおいと田辺誠一は何もしないけれど……濡れた彼女の髪を(しかしなぜ濡れたのかというのは……やはりあった、ということを考えるべきなのだろうか?外には雨が降っているからそこまで勘ぐる必要はないのかもしれないけど)優しくタオルで拭く彼、などという場面にドキドキしたりするけれど、具体的なことは何も示されない。しかし静謐な彼らの演技の中にはそれだけの説得力が充分にある。

それにしても、こんな映画を観てしまうと、やはり私は親にはなれないな……なんて思う。
自分のことにせいいっぱいで、こんな風に子供をキズだらけにしてしまう。男運がなくって、自殺未遂したり、恋人が自分の娘を犯そうとしたり……そんなことになす術もない母親である彼女を責める気持ちよりも、自分のことでせいいっぱいな彼女に対する痛ましさの方にシンクロしてしまうのも、つらい。娘を襲おうとした恋人……娘を気遣うより、その恋人の行為に女としてショックを受ける彼女に。声のない叫びをあげ続ける彼女が、あまりにも痛々しすぎる。
いい人のように見えたのに、サチ子の目からは最初から彼がどういう男だったかということが見えていたのか。
それとも、男の本能だからと片づけるべき問題なのだろうか?

母親が留守の間に家に入り込んだ男、獲物のおびえる気持ちを見透かしたかのように、サチ子に襲いかかる。イヤなシーンだ……。「リリイ……」でもそうだけど、レイプシーンほど滅入るものはない。しかも、「リリイ……」にしても本作にしても、それが必要不可欠の要素として挿入されることに、納得しつつも、ひどく本能的な抵抗も感じる。
女はどうして、こんな風に、自分の性に対して、絶望的なほどネガティブな事態にさらされなければならないんだろう。
それも、こんな幼い頃から。そのことによって、女が男の二番手だということを……いや、二番手どころか、簡単に力で制圧されてしまう存在だということを、強烈に自覚させられてしまう。そう、“させられて”しまうのだ。
しかも。だからこそ、女はそれを武器にしようと弱々しい抵抗を試みる。
本作にも、サチ子がホテルの前を行ったりきたりしてエンコウをしようとする場面がある。結局彼女はそれに踏み切れないのだが……。
でも、それを武器にしようとすることは、自分の弱さを本能的に察知しているとも言えて、見ていてつらい。
もちろん、知っているからこその強さとも言えるのだけれど……。

サチ子のたった一人の味方ともいえるのが、彼女とは随分と対照的な夏子である。
サチ子に対して冷ややかなクラスメイトに反抗するようにして、彼女は懲りずに不登校のサチ子のもとに通う。夏子が出てこないサチ子にあきらめて去りかけると、玄関から出てきたサチ子が学校とは反対方向に歩いていったり、ピアノの音が呑気に聞こえてきたりという、ちょっとユーモラスな挿話も入る。
結果、夏子のネバりが効いて、サチ子は再び学校に通うようになる。すっかり見放したクラスメイトをヨソに、夏子はサチ子と友達になり、くだんの事件が起きた時もいたわるように彼女によりそい、自分が思いを寄せていた男の子がサチ子を好きだと知っても、サチ子のために何食わぬ顔で仲を取り持つ。
夏子役には、「リリイ……」で娼婦にさせられ、そして自死を選んだ少女を演じて強烈な印象を残した蒼井優。役柄的にはかなり違うが、「リリイ」の印象があるせいか、彼女のほがらかな表情の下に、どこか暗い影を見てしまう。

ここで示される蒼井優の少女像は、その明朗な明るさゆえに、好きな男の子に対するシーンなど、普遍的な青春の甘酸っぱさえ感じさせてくれるほど。
でも、それが単純な青春ものとして結実させてもらえるほど、甘い作品ではないのだ。
夏子が好きな男の子も、結局はサチ子が好きで、夏子に仲介を頼む始末だし、夏子は結局苦しむサチ子を救いきれない。
夏子はとても判りやすい正義感を持ち、それに従うことによって失恋も飲み込み、自分よりはるかに過酷な運命を背負っているサチ子をかわいそうに思い、彼女と友達になって救おうとするのだけれど……、救えない。
よく、友達は人生で最も大事なものだとか、何かそんな風に謳歌する向きがあるけれど、私自身はそれに対して大いに懐疑的である。
それは……私自身がそうはなれなかったから。私は友達をなくしたことがあるから。……というより、自分から遠ざけてしまって、そういう結果になってしまったことがあるから。
そんな事態になるまでは、友達が困っていたら助けてあげようとか、そんなフツーのことを思っていたけれど、いざ直面したら、私にはそれが出来なかった。
それ以来、自己嫌悪も含めて、私はこと友達という定義に対してひどくトラウマ的な反応をしてしまう。
少なくとも、こんな風に友達ということを純粋に信じて行動できる夏子を、そしてそういう年頃を心底うらやましいと思う。
でも、友達って本当に助けられるものなのだろうか?
友達には本当に意味があるのだろうか?
夏子は本当にイイ子だけれど……サチ子にとって、もしかしたら夏子は重荷だったのかもしれない。

サチ子は不登校をしている時、当たり屋などをして気ままに生活している男の子と出会う。
彼はどういう経緯でそんな生活をしているのか……しかし重要なのは、彼がサチ子を性の対象として見ていないことである。サチ子自身が気を許して身をゆだねても、彼は知らないフリをしてそっと身をかわす。一緒に遠くに行こうと言っても、待ち合わせ場所には現れない。
何か、女の気持ちと本能のズレをつかれるような痛さを感じる。
彼女と彼には、ビルの屋上?で縦横に渡された鉄柱を適当に歩き、身をかわし……という叙情的ないいシーンがある。
でもそれは、相手と感情的に直面しても、それを受け止められない、受け止めきれない幼さ……ううん、違うな、大人になっても、それは出来ないのだから、人間の根本的な弱さを象徴的に感じさせて胸に響く。

サチ子はケガをした彼の為にエンコウして金を稼ごうと思うけれど、結局は出来ない。彼のまねをして当たり屋をしようと思うけれど、それも出来ない。
それはもしかしたらサチ子以上にいろんなつらい目にあっているかもしれない彼に叶わないと言っているかのよう。ならば、人間はつらい目に合わなければ、一人前になれないのか?それもまた、それこそつらすぎる。
彼が仲良くしている精神薄弱者のキュウゾウさん。「たま」の一番のキャラ者、石川浩司が好演する。それにしても、「少女〜an adolescent〜」のヒロインの兄がやはりこういったタイプの精神薄弱者だったり、あるいは「非・バランス」のゲイの男性とか、少女が、あるいはもっと言ってしまえば女が友達になれる男はいつもこのどちらかの造形である気がするのは、気のせいなのだろうか?何かそれって……三者全てに対して、ひどく差別的であるように思う。
いや。最も差別的なのは、そうではない男性に対してなのかもしれない。
“友達”ということに対して幻想的なまでに理想的で、厳格な規定を持って阻む男性に対して……。
力で抑圧されてしまうこの三者は、そんな理想や規定なんて信じない。きっと、だから本当の友達が持てるんだと思う。思いたい。
本当、思いたいな……。

このキュウゾウさんと火炎瓶を作って無邪気に遊ぶサチ子。その火が民家に燃え移り、業火の惨劇になる。
不覚にも私は気づかなかったのだけど、この家は夏子の家だった。最初からそうと判っててサチ子は標的にしていた。何だかああ、やっぱり、などと思ってしまう……。
それから必死に逃れるサチ子。キュウゾウさんすら置いて、ヒッチハイクの果てに向かったのは、愛しい人、緒方の勤める原子力発電所。
緒方は仕事の途中、車がエンコして、サチ子の待つ喫茶店になかなか現れない。待ち続けるサチ子に、一人の男が声をかける。君、家出してきたの、お金に困るんだったらいい仕事があるよ、と。
待てども来ない緒方に絶望したのか、サチ子はこの男に着いて車に乗ってしまう。その時、すれ違いざま緒方が喫茶店に駆け込むのをサチ子は確かに見たのに、彼女は降りようとせず、去って行く。
なぜ、降りなかったのか。緒方に会いたくて会いたくてここまで来たに違いないのに!
あるいは、でも……あの“嘘”の言葉を綴るしか出来なかった、緒方との距離と時間が、彼女をふと思いとどまらせたのかもしれない。
私は、あの時の私ではないと。
まだ、こんなにも幼いのに……!!

と、言いつつ、宮崎あおいも、そして蒼井優も実際の年はもっと上。このサチ子に声をかける男が「17歳?」と聴くのも、その点信憑性があるというか、あながち当たってなくもない年なのである。
しかし、そうは見えない。本当に柔らかく、キズだらけになってしまうほどの幼さに思える。それが演技力ゆえなのだとしたら、極めて恐るべき子供、もとい、女優だ。
その宮崎あおいをもっともっと幼い頃に抜擢し、あらわなシーンすら撮ってしまった大林宣彦監督は、うーん、さすがに少女発掘キングである。あの作品では勝野雅奈恵と佐野奈波にばかり気を取られていた自分の目のつけどころのなさに歯噛みしたりして……。
影を影として演じて表情に刻む宮崎あおいと、あくまで明るい風貌の中にこっそりとそれを閉じ込める蒼井優。タイプは違うが、二人とも実に優れた少女女優。これから先が実に楽しみ。

言葉のない静謐さとかきむしられる痛み、断ち切るようなエピソードとそのカッティング、そしてそれらと矛盾なくハジけるナンバーガールによるギターサウンド。それらが混然となったリズム。塩田監督の緻密な演出にはまたしても脱帽。こんな風に感情的に訴える作品を撮りながらも、職人的な落ち着いた上手さを感じさせるというのは、それこそが個性であるのだと思う。
ところで……「害虫」というタイトルの意味は?サチ子が自分をそう思っているということなのだろうか。自分ではどうにも出来ない子供であるということが、いなくてもいいという気持ちよりも更に発展して、いない方がいいと思うほどの?そんな……そんなのって!

この気持ち……言葉に出来ないまでも、すぐ近くに気持ちがあったあの頃。でも、今はその気持ちも、あるいはそれを引き戻そうとする手段である言葉さえも、遠く地平線のかなたにあるような感情にとらわれる時がある。だから、痛ましくてたまらない彼女たちでさえも、うらやましいと思える。
それは、自分が言葉(=嘘)にばかりこだわっていたから。そのことによって、どんどん自分ではなくなっていく気がするから。でも、それが……大人になるということなのだろうか? ★★★★☆


ガウディ アフタヌーンGAUDI AFTERNOON/TARDES DE GAUDI
2000年 97分 アメリカ=スペイン カラー
監督:スーザン・シーデルマン 脚本:ジェームス・マイヤー
撮影:ホセ・マリア・シビット 音楽:ベルナルド・ボネッツィ
出演:ジュディ・デイヴィス/マーシャ・ゲイ・ハーデン/リリ・テイラー/ジュリエット・ルイス/コートニー・ジンズ/マリア・バランコ/クリストファー・ボウエン/ペプ・モリナ/ビクトル・アルバロ

2002/7/11/木 劇場(新宿テアトル・タイムズスクエア)
監督が女性で、メインのキャストは皆女性といういわゆる“女性映画”の範疇に入るものなのだろうけれど、こういう“女性映画”は嬉しすぎるよね!三人いる女性キャストの役柄がジェンダー入り乱れまくりで面白すぎるんだもの。今までそうした入り乱れたジェンダーの役は男性に独占されてきた感があるけれど、実は女の方がしっくりきて違和感がないんじゃないかと思っちゃう。勿論、キャスティングの素晴らしさがまずあるからなんだけど。だってだってだって、ジュディ・デイヴィスとリリ・テイラーとマーシャ・ゲイ・ハーデンとジュリエット・ルイスだなんて、この並び、ちょっと凄すぎるもの!このクレジットを見た時はホント、うわあ、と思ったぐらい。

特にリリ・テイラー、この人もう私本当に大好きで、でもその強烈な個性のせいか、彼女を映画で見かける機会はなかなか少ないんだけれど、この人は本当に素晴らしい。風貌がまず唯一絶対で、画面の中の彼女を知らず知らず追ってしまうような不思議なカリスマ性を持ってて、ひきつけられてしまう。そしてジュディ・デイヴィス。彼女も大好き。女っぽさを残しながらさっそうと男性的で、どこか奇妙な可笑しさがただよっているような個性。そして確かに年齢どおりちゃんと?年をとっているんだけれど、それを踏まえていつも美しいところが素晴らしい。この二人はねー、まずダントツにカッコいいのだ。私ってば頭が古いから女性が煙草を吸うのってまだ抵抗がある方なんだけど(なんて、酒呑みの私が言うことじゃない?)、この二人は断然許せちゃう。だって、ものすごく似合ってて、ものすごくカッコいいんだもの!男装の似合うボーイッシュなベン役であるリリの場合は、もう身も心もまんま男だからそれも当然とも言えるけれども、カサンドラ役のジュディ・デイヴィスがね!ずっと一人で生きてきて、その孤独をまぎらすようにスパスパ煙草を吸っている彼女の、突っ張った感じがやたら板についてて、切ないカッコよさなんだよね。特にこういうところ……疲れきって家に帰って、ドサッとベッドに倒れこみ、煙草に火をつけて吸うともなく口の端にぶらさげてる。そこに電話がかかってきて、その煙草を口にぶら下げたまま電話に出るところとか。なにげないんだけど、凄くカッコいいんだよなあ、ホント。

彼女たちを賛美していると物語を書いとくのを忘れそうだからこの辺で書かなきゃ(笑)。舞台はスペイン、バルセロナ。ガウディの建築物が至るところにある個性的で芸術的な古い街並み。18歳で母親の元を飛び出して以来、世界中を放浪しているカサンドラ(ジュディ・デイヴィス)はラテンアメリカ文学の翻訳で食いつないでいる。彼女を訪ねてくるのが、自称女優の、グラマラスな美女、フランキー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)。通訳をかねて夫を探してほしいのだという。高い報酬に釣られてついつい引き受けてしまったものの、その後に発覚した事実は頭がコンランするようなことばかり。最初にカサンドラがベンだと思い込んだ男性はベンではなく、ハミルトンというマジシャン。彼のアパートに転がり込んでいる一見少年のように見える女性がベンであり、現在そのベンはやはり一緒に暮らしているオンナオンナしたエイプリル(ジュリエット・ルイス)とレズビアンの恋人同士であるらしい。そして何より驚愕する事実は、どこからどう見ても完璧な美女、フランキーが男であったということなのだ!つまり、確かにフランキーの連れ合いはベンなのだが、その男女は逆転していたというわけ。フランキーが性転換を決意したことで二人の仲は決裂したものの、彼らには一人娘、デライラがおり、彼らはその親権を取り合ってモメている。

という事実が、探偵よろしくベンを探しているカサンドラの前に次々と提示され、もう何がどうなっているのやら、こちらの頭もかなりのコンラン状態である。加えてカサンドラはエイプリルに気に入られちゃって色気ムンムンのマッサージをされて逃げようもなくうろたえたり(憮然として目を白黒させるジュディ・デイヴィスが可笑しすぎる!彼女こういう表情がホント、上手いんだよなあ)、子供なんてどう扱っていいのかも判らないのに、なぜだかデライラになつかれちゃったり、コンランの色合いは増すばかり。

このデライラ役の女の子は可愛かったなあ。このぐらいフツウの感じの子役がイイよね。演技も的確にフツウで、変にオーバーアクトだったり感動モードだったりしないし。髪はブロンドだけど、割合顔立ちは地味な方で、メガネがカルトな感じでカワイイ。こまっしゃくれているというよりも、本当に物分りのいい頭のいい子、って感じで、それがイヤミじゃなく可愛いのよ。ハミルトンに着せられたと思しき、マジックのステージで着るようなふわふわのワンピースが、似あわなそうで似合っちゃうような感じとかが。彼女は男女が逆転しているような複雑な両親の間で翻弄されてて、それだけでも頭が痛くなりそうなのに、ちゃんと二人とも大好きだから、余計に苦悩しているわけで。

フランキーとベンのいざこざに巻き込まれる形で、静かな生活に戻りたいと思いつめたハミルトンにかっさらわれてしまうデライラ。その彼女を救出したカサンドラは、ハミルトンのことを身勝手な男と思いつつも気持ちが判ってしまう、というか、今までは自分も確かにそっち側にいたから、ちょっとフクザツな気分になっている。親のことで悩んでいるデライラが「あなたにもママはいるの?」とカサンドラに聞いてくる。私は18歳で家を出た、と話してあげるカサドラに、私もそうする、とデライラ。何を言っているの、私のような女になりたいの?と思わず声を荒げると、デライラは純真な瞳で彼女をまっすぐ見つめ、うん、なりたい、と答えるのだ。その時のカサンドラ=ジュディ・デイヴィスのなんとも言えない表情!ちょっと涙ぐんでいたんではなかろうか。そしてそのあと、デライラを迎えに、フランキーとベンとが連れ立ってやってくる。ケンカしないように努力するから、パパもママもあなたのことを一番大事に思っているんだから、と懸命に訴える二人に、デライラはちょっと迷ったようになりながらも、とことこ二人の元に歩いていく。抱きしめあい、手をつなぎあって帰っていく三人。それを見送るカサンドラの、これまたなんとも言えないちょっと哀しげな寂しげな表情……。

今まではこういう、女性のシングルをただ否定して、家族を持つことこそが大事とかいう描写には真っ向反発する用意があったんだけど、ジュディ・デイヴィスは勿論、マーシャ・ゲイ・ハーデンとリリ・テイラーもまたやたらと説得力があって、何だか陥落してしまった感じ。そしてそのあとカサンドラはこの地を辞して母親の住むミシガンの街へと帰る決心をする。そう、別に結婚するとか子供作るとかではなく、基本である家族を大事に思う気持ちを思い出したということへの決着で、ああ、良かった、と充分に満足。これだけ大人になっても、成長し、発見することってあるんだなあ。それこそ、この作品の舞台になったガウディの建築物のひとつ、サグラダ・ファミリア聖堂のように、人間はいつまでも未完成で、退行を繰り返しながらも常に成長に向かっている。だから面白い。くたびれた女だったカサンドラが、そのシニカルな味はそのままながらも、どこか生気を取り戻したようになっているのを見て、そんな風に感じ、勇気づけられてしまう。そう、エイプリルに“試してみる”キスも、成長の証し!?

デライラの大家である、子だくさんで夫とケンカして追い出してばかりいるから、殆ど母子家庭のビビアンもなかなか良かった。それでもやっぱり夫とラブラブだったりするんだけど。彼女は子供や家族の愛をまっすぐに信じている女性で、一人で生きてきたカサンドラにとって、そんなまっすぐさは真っ向から受け止めきれないまぶしさで、ついつい皮肉な口をきいたりしちゃう。でもビビアンはカサンドラの親友と言ってもいいんじゃないかな。子供嫌いのカサンドラをうとましがることもなく、真から心配してくれてて。普遍的な形としての美しい家族愛の姿もこんな風になにげに描いたりしているあたりも心憎い。

スペイン語をペラペラとあやつるジュディ・デイヴィス、カッコよかったなあ。ひょっとして本当にスペイン語ペラペラとか?彼女ならありうるよね。本当に素敵。★★★★☆


火星のカノン
2002年 121分 日本 カラー
監督:風間志織 脚本:小川智子 及川章太郎
撮影:石井勲 音楽:阿部正也
出演:久野真紀子 小日向文世 中村麻美 KEE はやさかえり

2002/10/22/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
見ていられないほどに、とてつもなく辛い。ヒロインと同じような年だから、やっぱりいろいろと身につまされる部分があって、正視に耐えないというか、あまりにも辛くなってしまう。辛くて辛くてしょうがないのに、すごく好きだっていうようなヘンなアンビバレンツを感じる作品は、「M/OTHER」以来、かなあ……。風間監督の映画はこれが初見。女性監督の映画というのは、女の部分を出しすぎてこちらが自己嫌悪的な拒絶反応を起こすような作品も時々あるんだけど、それとはまるで違う。女の本能的に弱い部分があますところなくとらえられていて、それでいて、へんに生々しくない。決して優しくはないけれど、見つめている。見守っている。このカメラの目線とは思えない、見つめるまなざし。画面の中の彼女や彼らの心の変化をじっと待っているような、そのまなざし。

30歳目前のヒロイン、絹子は10以上年上の家庭ある男、公平と関係を持っている。彼とは週に一度、火曜日の夜にしか会えない。彼は家庭を持っているから、週末は家族のために使われてしまうのだ。行く先は決まって焼き鳥屋からラブホテル。そして彼は一定の時間が過ぎると、時計を気にする。時計に目をやる彼を見るのが、彼女は嫌に違いない。それでも彼女は彼といられて幸せだった。そのつもりだった。見てはいけない部分には目をそむけようとしていたのかもしれない。彼女が現れるまでは。
その彼女とは、聖。前の仕事場で一緒だった年下の可愛い女の子。不倫関係を持っている絹子に対して、彼女は若い女の子特有の潔癖な正義感で、そんなの間違っている、すぐに別れるべきだと説得を試みる。あなたに何が判るの、不倫なんて安っぽい言葉使わないでよ、と反発する絹子。だけど、聖自身は、そんな単純な感情では、なかったのだ。

不倫なんて、そんな安っぽい言葉を使わないでよ、と言う絹子にも、それが結局は世間的にそれだけの価値しか持たないことが判りすぎるほどに判っているのが伝わって、辛い。ただの恋愛だと、素敵な恋愛だと思いたいのに、それはやはり決してただの恋愛ではないことを、彼女は知っているから。
そういえば、不倫を扱った映画は、絶対にハッピーエンドにならない。恋愛映画にすらならない。それはまるで不倫はマナー違反だと、いましめているよう。正直今まではそれがどこか歯がゆかった。不倫は本当に、恋愛ではないの?あてがないだけなの?と。本作でも、絹子と公平の関係が成就されることはない。それはやはり不倫はいけないことなのだと戒めているようにも正直思われるのだけれど、恋愛ではない、というところには微かに抵抗を試みているように感じられる。少なくとも、絹子の方は。

女は恋人を、男は愛人を。常に求めている対象が違うんじゃないかと思うことがある。男は家族という組織に属すると、その他に恋愛は個人的なこととして受けとめ、でもそれは決して“恋人”ではなく、愛人なのだ。少なくとも女が解釈する恋人じゃ、ない。だって、男にとって家族は組織。恋愛とは別なのだ。でも女にとって、家族は恋愛の延長線上にある。だから不倫なんて思いたくないし、この関係を結婚に持っていけたら、と願う。でも男はそうじゃない。だって、この逆のパターンって、ないじゃない?大抵、90パーセント以上、家庭持ちの男と独身の女の不倫の話だ。男は組織には絶対服従。会社には絶対なのと同じ。でもアイデンティティを求めたいのか、個人としての恋愛を求めるのだ。愛人を持つことを。そして、個人は組織には勝てない。女は、負けてしまう。

なんて、思いっきりフェミニズムなことを思ってしまうのは、女の悪い癖なのかもしれない。でもスポーツ新聞に「愛人の作り方の基礎知識」なんていう本が大真面目に宣伝されてて、その中身はご丁寧なことに、愛人の喜ばせ方と、あとくされない別れ方までご教授されているらしいのを目にしたりすると、そんな思いを強くし、嘆息してしまう気分を否めないんである。絹子の気持ちがあまりに判って、辛い。でも、女は本当にそんなにも生活の全てを、心の全てを恋人に捧げているんだろうか、本当に?女はそうで、男はそうじゃないから、男は女ほど傷つかないの?否定したいけど、ある部分ではやはりそうかもしれない、と思う。週に一度だけしか会わない。それは距離を置いているようで、逆効果。その間にどんどん想いが募っているであろう絹子に容易に想像がついてしまう。その一方で、火曜日以外は家族という組織に従事している公平が、フレキシブルに双方を逃げ場としてバランスを取っている、なんて考えに及んで、憎らしくなってしまう。

想いが募るのって、凄く怖い。だから絹子みたいにはできず、仕事とか趣味とかに一生懸命なふりしてしまう……私だったら、そうしちゃうけど、でも、本質的なところは一緒なんだよね。いつでも心の隅っこで想い続けてるし、想いが募ってる。自分にはほかの何かがあると思っていても、やっぱりそれとは別で……。それに、女は、ことにこんな年頃の女は、つまり世間的に結婚がどうとか言われがちな年齢の女は、不安定で、頼る人が欲しくて、こんな年頃の男に確かにコロリと弱いのだ。……などと思ってしまうのは、この公平を演じる小日向文世があまりにもあまりにも素敵だから。そりゃちょっとおでこが広いし、絹子よりもやや背が低いくらいだし、40も過ぎてて確かに世間的にはオジサンなのかもしれない。だけどいつでもにこやかな笑みを浮かべ、若い恋人とは違って、穏やかな時間を共にすることも、逆に強引にその手に抱きしめることも、さすがキャリアの差を感じるというか……弱い女は陥落してしまうのだ。

全く!小日向さんてば、何でこんなに素敵なの!?「非・バランス」ですっかりホレてしまったけれど、あの時はオカマさんで、でも、ここでは年齢相応、性別相応の(笑)役。風邪をひいている絹子を見舞って、さっさと服を脱ぎ捨てて全裸になっちゃったり(これ、言葉だけで書くと、何か訳判らんくて、スゴいわ)キスや抱擁、どれをとっても、そうした絹子との恋人の行為が何かもうもの凄くステキで、思い出すだけでドキドキしちゃう。そう、例えば、いつもの火曜日の約束をスッポかした絹子の職場(ディスカウントチケットショップ)に翌日、帽子を深くかぶって現れ、「温泉旅行のチケットが欲しいんだけど。家族とじゃなくて、彼女と行くんだ」と言って帽子から笑顔の目を見せた時には、もうほっんとうにドキドキしたわ。絹子じゃないのに(笑)。しかも、カウンターに入ってきて、病気じゃなかったんだ、良かったとか言って彼女のおでこに自分のおでこをつけたりするじゃない?その後の軽い抱擁とキスも、もう見てるだけでツボおされまくってヘロヘロって脱力しちゃうぐらい、完璧に素敵なんだよなあ……もう、ズルイよ!

こんな絹子をほっとけなく思って、彼女の隣の部屋に越してきちゃう、なんていう行動にまで出る聖。彼女は、絹子のことを愛しているのだ。スーパーで子供と楽しそうに買い物している公平に、絹子と共に行き会い、それにショックを受けてしまう絹子に向かって嫉妬も交じって叱咤するも、「そんなに簡単に落ち込むんだよ。それでも別れられないんだよ」と涙を含んで言い放つ絹子に反論できない。……この台詞には、参ったな。何というか、もう説明もつかないほど、あまりにも凝縮されてて、耳にするだけで身も縮むような台詞。

こういうふうにあられもなく落ち込んでいる時の絹子=久野真紀子が凄く、ごめんなさい、言ってみれば凄くブスッぽいというか、顔も心もスッピンのまんまで傷ついているのが、あまりにリアルで。彼女、火曜日に公平と会う時には、凄くバッチリとメイクするじゃない?ルンルンとオシャレして。でもこの時の彼女は、メイクしてない青白い顔に、服装も普段着で、そのハダカの自分のまま、つまり防御していない状態のまま、いきなり生爪をたてられたような、そんなショックがあまりに、手に取るように判るから。聖ちゃんの言うことの方が正当だと判っていても、絹子のショックに100パーセントシンクロしてしまう。……でもやっぱり、だから最初から負けているんだよね、絹子は。公平の前では素の彼女じゃないんだもの。彼女が彼を部屋に入れたがらなかったのは、境界がどこか判らなくなってしまう、と彼女は言ったけれども、彼女そのものを見せる覚悟がやっぱり出来ていなかったんじゃないか、とも思う。風邪の彼女を見舞ってくれた公平を心底嬉しく感じながらも、二人の関係が崩れてしまった境界線は、やはりその部分だったんではないかと思ってしまう。

こんな風に公平とのことで傷つくと、絹子は聖ちゃんのおいしいごはんで癒される。例えば、念願の公平との温泉旅行、でも絹子は積年の思いをついつい公平にぶつけちゃって、しかもその時に彼の娘の急病が携帯に知らされて、温泉旅行は一日で終了。ワインをボトルごと抱え込んで、それも切らして冷蔵庫にのそのそ這っていって、でも段差につまづいたのか、開いた冷蔵庫の前でひっくり返ってしまう絹子がさざめ泣くシーンは、その2ドアの冷蔵庫までが一人を強調してあまりに切なかった。小さな冷蔵庫がほの白く照らし出すランプの灯りまでもが。彼女の泣き声を隣でじっと聞いている聖。絹子からのお腹すいた、のSOSに飛んでいく。ごはんを食べさせてあげて、そしてついつい奪ってしまう唇。ごめんなさい、と正気に返って飛び出していく聖ちゃんを絹子は追う。ごはんって……威力、あるんだよね。それに、女って愛情に対して割と固定観念がないから、完全な同性愛者ではなくても、愛情を注がれたら、それに応えることができる能力があると思う。それにこういう方向に心が弱っている時って、カワイイ女の子の優しい介抱には弱いよ、うん。

この聖ちゃん役の中村麻美、今までで一番、良かった。凄く、監督の感性に引き出されているって感じがする。まっすぐで、繊細で、愛に傷つく心はひょっとしたら絹子よりも持っているかもしれない女の子。そして彼女のビミョウな親友の真鍋くんがまた、すっごくいいんだなあ……路上詩人の彼。実は聖ちゃんにホレてるんだけど、ずっとフラれ続けで、でも親友という関係は持続してて、公平への当てつけから絹子に体を求められたりするんだけど、その気持ちもちゃんと汲み取ってて、「大丈夫、明日からはいつもの真鍋君でいられます」だなんて、なんて泣かせるんだろ。ホレてしまう男はなぜだか公平の方、真鍋君にホレることはない……それもまた妙に納得してしまうのが哀しいというか……本当は真鍋君のような男にホレることが出来たら、良かったのにね。女って、やっぱりバカなのかな。

公平との温泉旅行で、部屋出しの食事を二人向かい合って食べるシーン。こんな風な食事は初めてだよね、と絹子は言い、何か二人だけの生活みたい、と口にしてしまう。何とも言いようがなくて、絹子を抱きしめる公平に、卓球やろう、勝ったら何でも言うこと聞いてくれるんでしょ、だったら結婚して。と冗談めかして言う絹子。いや、冗談なんかじゃなかったんだろう。「……お前なあ」と思わずまじまじと絹子を見つめて言葉につまる公平に気おされたように「冗談だよ」と返す絹子が、言わざるを得なかった、という感じなんだもの。でも、この、二人だけの生活での食事みたい、と言う絹子の感想も、それがあくまで、みたい、であって、ホンモノではないことを図らずも言い当ててしまったよう。ごっこでしかなくて、ホンモノにはなり得ない、ということを。週に一度しか会えない方が、まだ良かった、だなんて。一緒にいればいるほど、この関係をホンモノに出来ないことがあまりにも判ってしまうんだもの。

だって、ただの恋人同士にさえ、なれないんだよ?“不倫関係”って、言っちゃいけない台詞が多すぎるんだ。この温泉旅行で絹子が口にした台詞はどれも、その禁句ゾーン。相手がそれに応えられないこと、判っててどうしても言わずにはいられない。言っても何の実にもならない、暗黙の了解の台詞。何か……あんまりだよね。恋人同士って、何でも言い合えるべきだよね、そうでなきゃ恋人同士じゃ、ないよね。……ああ、だから、愛人、なのかなあ。決してその存在を公的に知られたらいけない関係。それはまさしくまぼろしの関係なのだ。だってさ、ヘンな言い方だけど、愛人って、それこそ有名人のそれでもなければ、歴史に残らないじゃない?歴史、と言ってヘンなら、家系図と言ってもいいのかな。それって、いらない人、いなかった人と言われているみたいな気がしちゃうんだ……もはやそこに名を刻んでいる家庭持ちの男には、こんな喪失感、判らないのかなあ。いらない人間だと自覚してしまう辛さが。

そんな絹子を愛するがゆえに公平が憎くて、彼の奥さんに暴露の手紙を渡そうとするも失敗する聖は、待ち伏せていた公平と二人、対峙する。「何で君、そんなにうるさいの。不倫撲滅運動の組織の人かなんか?」そんな風に冗談めかして言う公平に「絹子さんが、欲しいんです」と挑戦的に言う聖に、残念だけど、それはムリだな、と笑顔で公平は返す。それは私が女だから?とくってかかる聖に、だって君には彼女をイカせられないだろ、と公平。こんなことを言う小日向さんにはむっちゃドキドキしちゃったけど、でも帰結がそこに行っちゃうことに、ああ、やっぱり彼にとっては恋人ではなく愛人なんだな、などと思う。彼は確かに絹子を愛しているのかもしれないけど、そのつなぎとめる手段は、愛しているという言葉と、イカせることなんだな、だなんて。男が、女をイカせることをどの程度に重要に思ってて、なぜそう思っているのかよく判らないけど……。

でも、男が、女は男にしかイカせられない、と思っているのは大いなる間違いだと思う。だってさー、同じ女同士の方が泣かせどころを知ってるじゃん(って、私、何言ってんだ……)。とにかく、男って何でそう、女をイカせることに自信満々なのかね?幸せな人種だよ。男はイクのに証拠がいるけど、女はいらないからいくらでも演技できちゃうのにさあ(って、更に私、何言ってんだ……)。そんなの、すでに名作と化した「恋人たちの予感」てな頃からの常識ちゃう?

で、めでたく?絹子と聖ちゃんは心と体の契りを結び、一軒家を借りて二人で住むこととなる。でもそこにもう一つ波乱が。あれ以来、別れたはずの公平との対峙がまたやってくる。公平の娘、ありみが、夫婦喧嘩で家を飛び出した父親を探しに、絹子にくっついてこの家までやってきてしまったのだ。そしてありみを引き取りに公平がやってきて、四人で奇妙な雰囲気の食膳を囲む。かつての恋人と、言葉もなく向かい合って食事する絹子は、彼がかつて自分にやっていた愛情の行為……口の端についたご飯を取って食べる、というのを娘に対してやっている彼を見つめている。彼らを送り出した後、優しい聖ちゃんの腕の中で眠る絹子は、夢を見る。公平に抱かれて「これからはずっと一緒だよ」と言われる夢。涙で頬をぬらして目を覚ました絹子に聖ちゃんが気づいて、どうしたの、怖い夢でも見た?と肌を寄せると、絹子は涙を流したまま「ううん、とても幸せな夢」と返す。本当に幸せそうな笑みを口元には浮かべて、でも涙に濡れながら。それが、切ない切ないラストシーンになる。

好きな人がそばにいないと生きていけない人。心の中に好きな人がいれば生きていける人。絹子が後者ならば、前者であるよりは、幸せなのかもしれない。それは実際に自分のそばに誰かがいるかどうかというのとは別で、それは聖ちゃんに知られてしまったら残酷なことではあるんだけど、でも、聖ちゃんは、きっと気づいていると思う。だって、絹子を愛しているから、だからきっと判っていると思う。自分じゃ代わりになれなくても、それでも絹子と一緒にいてやりたい、いたい、と思う。傷ついた心はさまざまで、絹子のそれも聖ちゃんのそれも、修復できるものではないけど、そうやって人は人と共に生きていくんだよね。それも幸福のひとつなんだよね。子供の頃には、考えもつかないタイプの幸福だけど。★★★★★


風に逆らう流れ者
1961年 81分 日本 カラー
監督:山崎徳次郎 脚本:山崎巌
撮影:横山実 音楽:大森盛太郎
出演:小林旭 浅丘ルリ子 藤村有弘 白木マリ 信欣三 山内明 近藤宏 土方弘 楠侑子 島津雅彦 神山繁 木浦佑三 河野弘 神山勝 八代康二 山之辺潤一 天草四郎 二木草之助 戸波志朗 小林亘 瀬山孝司 松丘清司 高橋明 荒井岩衛 志方稔 福田文子 スリー・バブルス

2002/10/22/火 劇場(中野武蔵野ホール/小林旭特集/レイト)
小林旭は凄く好きで、でも彼のシリーズものをなぜか観る機会がなかったので、特に一番代表作として聞こえてくる渡り鳥シリーズを切望していたんだけど、今回、これだ!と飛びついてみたら、渡り鳥じゃなくて流れ者だった。あ、でも何が違うのー?だってこれもギター持って旅してるじゃん。あ、でも背負ってはいないか、持ってるだけだ。そういう問題じゃない?とまれ、小林旭の魅力は何たって、このカルーいフットワークなのよねー。あ、そういやさ、小林旭って、やっぱりどっちかっていうとこういう、洋装のバタ臭いイメージなのかな?私の好みではもう少し年をとって腹のあたりに少々貫禄が出てきたあたりの、着流しが似合うイメージなのだけど。ま、それはおいおい探していこっと。

5作作られたシリーズの最終作なのだという。おっと!初見がいきなり最終作かよ(笑)。安っぽいデザインをほどこしたギターに縄状のストラップまでもが妙に笑える我らが主人公、旭扮する野村浩次がかつての親友、瀬沼に会うために豊橋を訪れる……っと違った。冒頭は小林旭じゃないんだわ。小林旭を後回しにして冒頭をぶん取るのは、物語中にはいつもその影があるのにもはや死んでて可哀想だからってことなのかしら、というこの瀬沼さん。侵入者と格闘して、こいつが仕掛けた爆弾によって研究室もろとも吹っ飛んで、死んじゃう。冒頭からナカナカスペクタクルを見せるけど、あの爆発シーンの研究小屋は、うーむ、ミニチュアよね。破片の飛び方がそんな感じ。違う?

まあ、そんな無粋なツッコミはしちゃいけない。この野村は、瀬沼が私服を肥やして、切羽詰まっていたんだとこの研究室を擁していた会社の関係者から聞かされるんだけど、いや、彼はそんな男じゃない、と事件解明に首を突っ込む。んで、小林旭の登場シーンで暴漢に襲われていたのを助けた子供と美女がこの瀬沼の遺児と妹で、この会社の関係者が集まる酒場で飲んだくれているのを助けたオッチャンが瀬沼の父親。で、このオッチャンを送っていった所でこの子供と美女に再会するんである。な、なんとゆー、ご都合主義な……そんな都合のいい偶然って、ありかい!あるんだなー、プログラム・ピクチュアの場合は。そこがいいのよ。

渡り鳥シリーズでもこのシリーズでも、旭の強力な相手役であるヒロイン、浅丘ルリ子。頬骨がまだ目立たない程度にふっくらとした若いこの頃が、やっぱり一番美しいよね。本当に、おにんぎょさんみたい。こういうたっぷりとしたフレアーのワンピースとか、凄く似合ってて。それこそ彼女はバタ臭い顔で、そういう洋装がフランス人形みたいによく似合う。町の乗っ取りを狙う悪徳社長、塩沢がその美貌に目をつけ、彼女を手に入れようと父親を脅しつけ、娘をよこさせるというひっでえことをやりやがる。しかし……このエロオヤジに追いかけ回され、外の騒音(バンドが入っている酒場の中の一室なもんで)で声もかき消されちゃう中、このオヤジにソファで強引に組みしかれ、顔をイヤイヤしながら必死に抵抗を試みるルリ子さんは、ううッ、も、もんのすごい嗜虐的な美しさで、そ、そそられるうー。そこに旭が救助に入ってくるのは確かに当然なんだけど、あーん、何で入ってくんだよう、なんて思っちゃう?

塩沢社長に金もうけの話を持ってくるうさんくさいカップル。いや、うさんくさいのは男の方だけだわな。ヘンな中国なまりで、一緒に連れている女はナカナカの美人な上、ダンスの腕前は香港仕込み(上海だったかな?)の一級品。この女の方が旭、じゃなかった野村にホレ込んで、何くれと彼に協力してくれる。でもこの男の方はそれに嫉妬しまくって彼女にいちいちついてきちゃう。この攻防が実に爆笑モノ。野村は瀬沼の実家の温泉旅館で出会ったちくわ屋の親父さんに気に入られて、そこの二階に居候しているんだけど、そこにこの女が訪ねてきて、当然この男もついてきちゃう。だってお腹がすいてたんですもの、とうそぶく女に、「ちくわが食べたいんなら、僕に言いなさい!」と言うのにも笑ったが、悪ノリした野村が、「ちくわゲンカなら止めてくれ」とドヘタなシャレを言うのにものけぞったわ。ち、ちくわゲンカ……(ビミョウに笑えるー)。

あ、そうそう、なんでちくわ屋の親父さんに気に入られたかっていうと、露天風呂で聞かせたそののどなのね、つまり。哀愁のダンチョネ節だぜ!(そっかー、「舟歌」の中に入ってくるあの歌は、こんな感じなんだ)しっかしいくら露天風呂、気持ちいいからって、あんなに思いっきり本気で歌う奴、いるかあ?かなりヘンだぞ……ルリ子さんの入っている女の風呂の方までバッチシ聞こえてるんだから。リサイタルかっつーの。ま、このへんがさすがこの時代の旭映画と言うべきか……ギターをかき鳴らして酒場に歌いながら入っていく場面(そこにはワルのメンメンがいて、彼らへのあてつけなわけね)も、爆笑モノ。何モンなんだよ、おめえはよ!ていう……しかも、なぜかバンドは彼のギターと歌にしっかり合わせて演奏してくれるんだよね。おいおい、彼は飛び込みじゃないの?どこでリハーサルしてんだよ!

ケンカの腕には覚えのある野村はめっぽう強く、どんな大勢相手にも負けない。「ケンカを売りに来たんじゃない」と言いながらメッチャ挑発してて、態度が思いっきりケンカ売ってんじゃん、全く(笑)。偵察のためにわざと悪ぶってこの塩沢社長の用心棒になろうと売り込みにかかるのだが、そこに現われるライバルのキザな拳銃使い、拝島(神山繁)。風貌は弱いのに(失礼)キャラは思いっきりキザ男で、結構笑える。なんつっても、旭との拳銃対決がねー。標的のグラスに銃を向けたかと思いきや、ちょうど入ってきた踊り子に目標を変え、狙った弾は彼女の衣裳をハラリと落としちゃう(ルパンかよ(笑))。しかしキザさでは、我らが旭は当然負けてはいないのだ!彼は宙に舞わせたいくつかのダイス(この拝島から奪ったダイスね)に向かって一瞬のうちに全てに命中させ、いかさまダイスは見事バラバラ。この拝島とはクライマックスの船の上でにわか相棒となって悪者どもを撃ちまくる。その時の旭さんときたらまたしてもライトというか……マストによじ登り、下に向かってはたきでもかけてるみたいにかるーくバンバン撃ちこんじゃうんだよねー、反動も何もないんだもん。さすが旭!って違うか?

彼を慕うヒロインを置いてまた旅に出てしまうのはこのシリーズのお約束なのだろうけど、あれだけ彼女と固く約束しといて、そんでもって特に理由もなしに出てっちまうというのは、うーむ、さすが旭映画というか。それが流れ者の宿命なんですかい?あんな美女をそでにして、手もつけずにかい?あー、もったいない。★★★☆☆


カタクリ家の幸福
2001年 113分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:山岸きくみ
撮影:山本英夫 音楽:馬飼野康二 遠藤浩二
出演:沢田研二 松坂慶子 武田真治 西田尚美 忌野清志郎 丹波哲郎 遠藤憲一 塩田時敏

2002/2/26/火 劇場(渋谷シアターイメージフォーラム)
リメイクはストーリーを(忘れないために)書いとかなくていいから、ラクよね、などと思った私がバカだった。何といっても、相手は三池監督である。三池監督がリメイクを引き受けたと聞いた時に、意外とか楽しみとかいうことよりも、まず感じなければならないのは、危険!デンジャラス!!ってことなんだったー!というわけで、元ネタは韓国映画、「クワイエット・ファミリー」。韓国との映画交流が盛んになる中で、韓国映画のリメイクもここの所相次いでいる。「時の香り 〜リメンバー・ミー〜」からはじまり、明言してないけどこれから公開の「ミスター・ルーキー」だって、あれ、「反則王」が元ネタじゃないのお?と、そうそう、オリジナルである「クワイエット・ファミリー」も相当キテいたから、確かにそのリメイクで、対抗するにはクレイジー三池ぐらいしかふさわしい監督はいないのだが、それにしてもここまでぶっ壊してくれるとは!

だってさあ、まず冒頭から、ええっ?私って、三池監督の映画を観に来たんだよね?ヤン・シュヴァンクマイエルを観に来たんじゃないよね?と気が動転。あの冒頭のクレイアニメは一番ワケわからんかったが……女の子のノドチンコを正体不明の生物が引きちぎって飛んで行く、という……そしてことあるごとにこのクレイアニメはあらわれ、つまるところは、崖から落ちそうになったり、火山が爆発したり、っていう、CGとか使わなきゃ撮影が難しそうなところに出てくるんだけど、でもこのクレイアニメだって相当に大変なわけで、実際、どっちが手がかかってんだかわからーん!ってあたりの不条理?さが三池監督らしいというか……。それにしても、クレイアニメ、ねえ……三池監督からは、そんな発想、全然出なかったんだけど、手がかかるもののはずなのに、やたらヤッツケに見える爆裂っぽさが三池監督らしいんだよねー、ほんと。このクレイアニメを多用したのは、R指定を避けるためもあったのかなあ?今回はプロデューサーからR指定がつかないように、とのお達しがあったとの話だし、正直、三池監督の映画でR指定がつかないなんて、「サラリーマン金太郎」とか「アンドロメディア」みたいな種類の映画以来じゃないのかなあ、なんて、ちょっと信じられない感じすらするよね。

ミュージカルにする、というのは、まあアイディアとしてはそんなに珍しくないかもしれない。メジャーでこそナカナカ出てこない発想ではあるけれど、トンがったインディーズの世界では折々見かける手法ではある。しかし、この豪華なキャストが、いかにもツクリモノっていうキッチュな大自然ロケーションで、宝塚もマッツァオな大仰ミュージカルを繰り広げるとは……。特に武田真治あたりが信じられないんだけど……この人って、まあバラエティとかも出たりはするけど、本質はわりと生真面目っぽくて、こういう悪ノリってしなさそうじゃない。他のキャストは皆、ああこういうこと喜んでしそうな感じする、と思うんだけど(松坂慶子サンも最近、コワれてるからなあ……)その彼が、むしろ一番切り込んでその気真面目な顔で歌い踊るから、心底、のけぞった……。

近々大きな道路が通る、という言葉にノセられて、脱サラしてペンション「白い恋人たち」(……なんとゆー、ベタな名前……)を始めた一家が、ぜっんぜん客なんか来ない上に、来た客は次々と死んでゆき、ペンションの未来を考えて、その証拠隠匿に走るわけだが、終いには一家心中しそうだと勘ぐって先に穴を掘ったりしちゃうまでに……。しかも、偶然そこに飛び込んできた人をじっと見詰めておもむろに土をかけたりしちゃう!この時の丹波さんの“おもむろに”の間が素晴らしく、武田真治の「埋める方向かよ!」ってツッコミが更にオカしい。この、さまぁ〜ずの三村さん的ノリのツッコミがおっかしいんだよねー。最初の死人が出た時、警察には知らせず、埋めて隠してしまおう、と言い出す父親に、尻込みする家族たちの中で、妻だけは「お父さん、やるなら早くやらないと」と言うのに対して、「やる方向かよ!」と突っ込むのからはじまり、沢田研二もまた、二人目、3人目の死人が出た時、「……またかよ!」と……。まあ、でもこういうツッコミ方もある種時代の流行りみたいなものがあるし、時間がたてば新鮮味は薄れるのかもしれないんだけど。

そ、それにしても、しばらく見ない間に、おーい、ジュ、ジュリー、そんなに太ってたんかい!ああ、ショック……「大阪物語」の時には、枯れていながらもまだまだ色っぽさを残していてドキドキしたのに……。でも、松坂慶子とのデュエットで♪まごころよりどころ をきらびやかに歌うシーンでは、やっぱりジュリー!と思わせるのはさすがよね。しかもこのシーンでは、やっぱり松坂慶子!なんだよねー。二人とも、劇中のキャラクターとはまさしく別人みたい。でもミラーボールがきらめいていたり、思いっきりワビしい演歌調だったり、哀しいほどに、ダサっぽいんだけどね……。ある意味、完璧なほどにさあ。

色ボケ、カマトトねえちゃんは「クワイエット・ファミリー」にももちろん出てきたが、本作の西田尚美は割とノーマルにキュートである。ピンクハウスの服も、それほどわざとらしく見えず、可愛く似合っているのは、ひょっとして失敗だったのかも……?でも、何だか随分痩せちゃったよねー。痩せすぎだよ。最初、平家みちよかと思っちゃったよ(何だ、そりゃ……)。出戻り娘の彼女が出会うのが、結婚詐欺師で手配中の自称、イギリス王室の血をひくアメリカ軍人の(……はあ?)リチャード。それにしてもさあ、彼を最初っから外国人だと信じて疑わないってあたりが、アホというか……。そしてこのリチャードを演じるのが、な、な、何と忌野清志郎御仁!彼のラフィータフィーに参加している武田真治が出ていることを考えると、これはどっちかからどっちかがつながってのキャスティングかなあ?やはり。白い海兵隊?の制服で、ムリのある外国人なまりを駆使するキヨシローさまは、ううッ、キュート極まりなし!

演歌調、ミュージカルそのまんま調、ジャズ調、サスペンス調、と様々な歌をカタクリ家プラスアルファの人びとが様々なシチュエイションで展開してくれる割には、意外と中だるみするというか……?あらためて「クワイエット・ファミリー」を自身の感想文で思い起こすと自分でもほとんど忘れていた(オーイ!)数々のエピソードがかなりバッサリ切られてるんだよね。それもブラック度の高いあたりが特に、というのはくだんのR指定のことを考えたせいなのだろうか。はたまたミュージカル、という要素に没頭したのかとも思ったけど、全編歌っているわけではないし、特に中盤はそれほど歌の披露はなくって、今ひとつバランスが悪いというか……正直、全編ひっきりなしに歌っていてくれたらなあ、と思っちゃったんだけど、それってやっぱりワガママなのかなあ?

それにしても、やっぱり丹波さん、最高だわ。そういやあ、何かのインタビューかなにかで、丹波さんが三池監督のことをすごくホメてて、丹波さんが三池作品に出るってこと知らなかったから、思わず感心して、ヘエーって思ったんだけど、でもこうして三池作品に出ている丹波さんを観ると、さらにさらに感心しちゃうわ。丹波さんって、こんなにビッグな人なのに、こういう悪ノリの映画にすっごく、すっごくはまるんだよねー!「ねじ式」の時にもホント、ホレこんだけど、本作のじっちゃんも、ステキ。冒頭から意味不明の奇声を発する、その“奇声”からしてセンスを感じるし(!?)、何たって霊界の死者だから?死人に対する落ち着いた態度も堂に入ってるし!?、それに何よりスバラシイのは、クレイジー監督の、こおんな映画に出て、その上で三池監督のことを褒め称えている、っていう部分なんだわ(って、私、三池監督のことを持ち上げてるのか何なのか、我ながら判らん……)。

突然の妻殺し乱入(遠藤憲一、今回はマトモなキャラクターで良かった……)で、あわや刺された!かと思い、感動の最期の言葉で締めくくった武田真治、しかし腹をめくってみると、かすり傷。何だ、かすり傷だよ、かすり傷……と囁くように家族みんなが連呼するのがビミョウに笑える。とそうこうしていると、突然の火山の大爆発!活火山のふもとにペンションなんか建てるなー!そっからはドトウのクレイアニメで、溶岩に押し流される家族たちが絶叫しまくり……と、父親がふと気づくと、青々とした草原の中に横たわる彼を、家族全員が覗き込んでいる。良かった、助かった!って、また随分とご都合主義!?だって犬まで助かってるんだぜえ。しかも周りを見渡すと、ここはスイスかよ!っていうほとんどアホじゃないかと思うぐらいのカラフルな自然が広がり、なぜかゾウだのキリンだのいて(そしたらスイスじゃないか……)口アングリ。そしてお定まりのハッピーなエンディング歌謡とあいなるが、おじいちゃんだけはふと遠い目をして、彼の一年後の死がナレーションされる。天にズコーン!と召されるおじいちゃん。この天に召され方はひょっとして丹波さんアドヴァイスのもとかしらん……。

すっかり三池組の常連となってしまった塩田さんは、今回も最初の死人を怪演。ここまで一人の監督に肩入れし、しかも俳優として花開いちゃー、もはや映画評論家やめて役者になっちゃった方がいいんじゃ!?ブラックユーモアでシニカルな味付けだったオリジナルと比べ、ほとんどノーテンキなまでにはしゃぎまわる本作。ブラックユーモア&シニカルは三池監督のお得意だと思っていただけに、こうした変わり方をするのは意外で、ちょっともったいない気もしたけど。ところでこの犬は、「ペエスケ・ガタピシ物語」のペエスケなんだそうで……って、随分とお年なんじゃないの!?★★★☆☆


完全なる飼育 香港情夜
2002年 96分 日本 カラー
監督:サム・レオン 脚本:サム・レオン/トミー・ロー
撮影:フォン・ユン・マン 音楽:吉川清之
出演:伊藤かな トニー・ホー 竹中直人 ラム・シュー

2002/12/16/月 劇場(銀座シネパトス)
「完全なる飼育」の第三段、である。第二段を見た時、原作や第一段、第二段映画から感じた偏りを全て網羅できる、より“完全なる”第三段を望みたい、などと書いたのだけれど、まさか本当にそれが作られるとは思わなかった。最初に映画のタイトルとしてつけられたものが、そのままシリーズの名前となって継承され、そして継承されているのはそのタイトルと基本的な設定だけで、原作である「女子高校生誘拐飼育事件」からはどんどんと離れていく。もとより、この原作はかなり作者の推測の強い、エロティックな描写のキツいもので、どこまで事件に肉薄しているかというと難しいところのある内容。しかし映画がその原作として魅力を感じているのは密室劇であることと、その中で最小単位の人間、二人の男女の気持ちに変化が現れていくことを描けるという点にあって、第一段、第二段、そして今回の第三段と、エロティックな描写はどんどんと陰を潜め、よりソフトになっている。カゲキな映画として喧伝されている割には、R指定モノだったのは第一段ぐらいだったのではなかろうか。あの和田勉監督版を観た時には、そのあまりの悪ノリのコメディにいいのかね、と苦笑したぐらいだったのだけれど、こうして第三段まで作られてみると、もしかして原作小説に一番近かったのはあの第一段映画だったのでは、と思われるぐらいなのだ。

本作で最も違うのは、主人公の男がこの少女に対して思い入れが募った上での誘拐ではなかったこと。強い孤独の中に生きていたタクシー運転手である男が、え、これは豚のかわり!?という感じで偶然乗ってきた少女をそのまま家に連れ帰り、監禁する。なぜ“飼育”かというと、もともと原作小説では、主人公の男が自分の性の奴隷として、純潔な少女を“飼育”していく、というどこかマニアックというかコレクター気質というかそういう部分があった。その意味でいけばすでに本作では(あるいは三作全てかもしれないけれど)飼育ではなく単なる監禁である。もしかしてこの“飼われている”ということを現したかったのか、彼が飼っていた豚の代わりみたいな描写と、彼女をゴシゴシと家畜に対するようにブラシで洗ったのは。

そしてもうひとつ、舞台設定が香港となり、当然ながら二人の間に言葉が通じなくなることである。それこそ言葉(とセックスのテクニック)の手練手管で少女を落としていった原作とはここは本当に大きく違う。あるいは、第一段、第二段とも最も異なるのがこの部分で、この言葉が通じないことで、二人の間はかなりの間進展がない。この男、アボウは最初こそ逃げられそうになったこの少女、愛をレイプまがいの強引さで引きとめるものの、そんなことをしてしまった自分に唐突に気づき、ひるんだような表情をして彼女から身体を離すのが実に印象的で、それ以降は決して彼女に手を出そうとせず、ブラシで身体を洗った最初以外は、風呂も彼女自身に任せるのだ。アボウが何もしないからこそ、愛がこの彼にだんだんと心を許していくのが無理なく受け止められるし、そのあたりは上手いと思う。このアボウ、もしかして経験がないのでは、と思わせるようなオクテっぽい感じも効いているし。

さらに。彼女が外の人間と接触できる、というのも大きな違い。接触できるといっても、どうやら知的障害者らしい青年、ソーガイと、ひたすら耳の遠いおばあちゃんの二人で、愛の助けを求める声は空しく通り過ぎるばかりなのだけれど、青年の持ってくるヒヨコが彼女のなぐさめになり、やがて外に出られるようになると彼女は二人とごく親しく接するようになる。やはり、飼われている感じはない。彼女は外に出られることに気づいても、まず逃げようという気持ちが全く起こらないらしく、木に引っかかっていた凧を外して遊んだり、アボウの洗濯物を洗ったりして彼の帰りを待つ。それが全く違和感なく描かれているのが、凄い。彼女が逃げようという気持ちを持っていないことが、もはや観客にも納得できているのが。アボウはもしかしたら、カギを開けていたのはあきらめに近い賭けがあったのかもしれず(だって言葉が通じないから、このくだりに関して原作にあったようなやりとりも出来ないわけで、彼の一存だけで開けていったわけだし)だから帰宅した彼は、彼女がいることに、声には出さないものの、オドロキの表情を見せる。何かこの時、ヘンな言い方だけど……この青年を許せるような気が、したんだな。あ、でもこのカギを開ける描写は、映画では初。二人の信頼関係を試すエピソードなので、これを入れられた意義は大きい。

知的障害者の青年ソーガイがなかなかいい。アボウは仕事で街に出てもおざなりの知り合いしかいなくて、彼をひいきにしていたウェイトレスも簡単に他の男にくらがえし、この人ごみの中でこそ孤独を痛烈に感じてしまうんだけど、そんな彼に対してソーガイは終始一貫、全く変わらず毎日豚のえさを売りに来て、もう豚はいないと言っているのに売りに来て……アボウはそれを黙って買ってやってて、でも多分、そうして自分に変わりなく接してくれるソーガイは、彼の大きな慰めなんじゃないかと思う。そしてこのアボウを演じるトニー・ホーがちょっと香川照之を思わせるような風貌で、でもどっかで聞いたことのある名前だと思っていたら「花火降る夏」の主人公であったとは。なるほど、あの頃からどこかこんな風に内面的な感じのする役者だった。彼の、どうしていいか判らない、戸惑ったような瞳が全編を通して実に利いているのだ。実際、彼のとった行動は原作やこれまでの作品とは違って、ちっとも用意周到じゃなくて突発的で、だから彼は、これからどうしていいのか判らずどこか途方にくれているんだけど、でもこの少女は離したくない、また一人になりたくない、というのが、その戸惑いの瞳にありありと浮かんでいるのだ。手出しをせず、ただただ少女を後ろから抱きしめて眠る彼の姿は子供のようで、だからむしろ、愛し始めたのは彼の方というより、この愛の方が先だったような気がするのだ。そして彼を愛し始めた彼女の意志で、逃げられる状況にあっても彼女は彼の元に残り、彼に初めての身体を許し、そして本作で初のハッピーエンドを迎えることになる。

しかし正直、連れ去られる最初から、愛に恐怖の感情があまりに希薄で、それはどこか違和感を感じはしたのだけれど。確かに今までと違って、この少女は家族の愛情から見放され、だからこそこのアボウに共鳴し、最終的に家族のもとに帰ることを拒んで彼の元に戻っていくわけだけど(しかし残される母親は彼女を構えなくなるほど傷ついていたわけだし、その母親を見捨てちゃうの?とも思っちゃうんだけど……)、それにしても誘拐されたんだから、殺されるかもしれないんだから、これは本当に凄い恐怖のはずなのに、どうもアッケラカンとしている感じで……。だって、逃げようとして追いかけられて草むらの中に押し倒され、服をビリビリに破かれて、なんていうレイプまがいの体験までしちゃうのに、何かこの少女にそうした恐怖感を感じることが出来ないのだ。でも確かに恐怖感から始まったら、それが信頼に変わり、愛に変わり、という過程を描くのはより大変になるのは事実ではあるんだけど、でもそれがあるからこそこの設定が意味のあるものなんじゃないかと思うのだけど?これは監督の演出意図なのか、あるいはこの少女を演じた伊藤かなのパーソナリティなのか……。この伊藤かなという少女は、本作で濡れ場が思ったより少なかったのが不満だったらしいのだけど、何かそうした自信が、負の演技に対してマイナスになっている気がするのだ。

とはいうものの、この伊藤かなは、歴代シリーズのヒロインの中で、最も美少女。第一作の小島聖はその官能味がエロティックさを、第二作の深海理恵は普通の女の子といったところがリアルさを与え、そして本作の伊藤かなは、彼女こそが、思いを募らせた男に連れ去られるのにもっとも似合っている美しい少女(なだけに、この突発的誘拐がちょっとね)。くっきりとした二重の瞳はぱっちりと大きく、ふっくらした唇は少女の初々しさと相反する色っぽさを感じさせ、そして脱ぐとスゴいんである。これまでで最も美しいヌードの持ち主。バストの豊かさにも目を見張るのだが、何といってもその肌のきめの細かさには驚かされる。その肌が湯をはじき、湯気をあげるさまは、思わずあっけにとられて見とれてしまうほど。

愛は、家族の愛情に見放されていた。それは、それ以前には仲のよい家族だったから、彼女の失意は大きく、ひとり孤独をかかえて、学校でも孤立するようになってしまっていた。だからこそ、彼女が自分と同じように孤独なアボウに惹かれていく気持ちが、そしていったん引き裂かれてしまう時の切ない気持ちが、とても伝わる。そう、あのシーン……もうすっかり香港人になりきって、アボウのいない間、自由に食事の支度の買い物などしている愛、しかし街の騒動に巻き込まれてケガをしてしまい、病院に運ばれた先で自分の身元が判明してしまう。彼女は自分が香港人だと言い張り、迎えにきたアボウにすがりついて彼と一緒に帰ろうとするのだけれど、もちろん、そこで引き裂かれてしまう……この場面、お互いに向かって必死になって叫ぶ二人が、ものすごく切なくて。切ない気持ち、を本当に感じられたのは、本作が初めてだった。そして愛は、日本に帰る、というその時、付き添っていた担任の先生(竹中直人)に笑顔を残して、アボウの元へと走るのだ。それを担任もどこかあきらめた微笑で見送る。彼もまた、似た魂の持ち主だったのかもしれない。

どちらかというと、気持ちよりも身体の変化、少女が女へと花開かれていく描写に重点が置かれていた原作と第一段、そして気持ちの方にシフトしてきた第二段、そして完全にそれが気持ちに置き換えられた本作、と、こういう展開はやはりハードな描写とは比例させられないから、ソフトな描写になるのは無論、仕方のないことなのだ。確かに濡れ場を想定してこの役に挑んだ、という自負があった彼女には物足りなかったかもしれないけれど、役者として難しく、やりがいがあるのは、むしろこちらの方であるのは間違いないのだから。ちょっと彼女にはその部分、荷が重かったような気もするのだけど……でも、まあ、これはこの美少女に見とれる映画だと思えば。アボウを演じるトニー・ホーはその点、凄く上手いと思うし。それに彼女、今後、園子温監督の短編映画で主役を演じるなんていう、なかなか意欲的な活動をしているみたいだから、期待したいところなのだ。

原作からこれだけ離れて、しかしこれだけ気持ちの部分を抽出したサム・レオン監督は、何と日本映画学校出身。しかも、横浜放送専門学校時代ということは、ウンナンたちと同じ頃では?香港と日本の映画界をつなぐ牽引者であり、だからこそ今回の抜擢に応えることが出来たわけで、こういう若い才能がいるとは頼もしい。彼が映し出す香港郊外の風景、古い中国のそれを思い出させるこの乾いた風景が、とても美しいのだ。あのレイプ(未遂)シーンでさえ……丈の長い草原の中、黄色い花がついたその中を、伊藤かなの美しい肢体があらわにされ、そのもみくちゃにされる草の動きと、彼女の必死の抵抗の動き、それが流れるように美しい風景として溶け込んでしまう。こういう風景は、日本じゃ到底望めない。★★★☆☆


関東無宿
2002年 92分 日本 カラー
監督:鈴木清順 脚本:八木保太郎
撮影:峰重義 音楽:池田正義
出演:小林旭 松原智恵子 平田大三郎 伊藤弘子 中原早苗 高品格 進千賀子 江角英明 木島一郎 野呂圭介 河野弘 井東柳晴 衣笠真寿男 長弘 佐々木景子 柳瀬志郎 瀬山孝司 澄川透 久松洪介 高緒弘志 戸波志朗 伊藤雄之助 安部徹 信欣三 殿山泰司 千代田弘 重盛輝江 漆沢政子 松丘清司 澄田浩介

2002/4/4/木 劇場(新宿昭和館)
昭和館で鈴木清順を観るなんて、初めてではないだろうか。この「関東無宿」、クライマックスシーンであっ、と思ったんだけど、一昨年ぐらいに鈴木清順のレトロスペクティブをやっていて、私は結局、行こう行こうと思いながらも一本も観に行けなかったんだけど、予告編ばかりやたらと見ていて、その中にこの「関東無宿」のクライマックスシーンもあった。よほど有名なのだろうと思わせる、清順式美学の真骨頂、小林旭が敵をバッサリと斬ると、背後の襖がゆっくりと倒れていき、全面、鮮やかな赤い照明が現れるという……。そう、一昨年、「ピストルオペラ」の公開にあわせてか、やたらと鈴木清順がクローズアップされてて盛り上がっていたんだけど、その一本であるハデな本作が、こんな風に閉館間際の昭和館で、チラホラの観客の中ひっそりと上映されているっていうのが……なんとも言えない気分だった。

本作は確かに小林旭が主人公なのだけれども、気真面目な彼はどこか狂言回しのようなノリがあって、割とおとなしい。やたらとぶっとい眉のメーク(何でも歌舞伎の様式を取り入れているのだとか)をしたりしてはいるのだが、ホレた女がイカサマ師の妻だわ、そのダンナに一本とられるわ、どんなヒドい目にあっても面白がっちゃう強心臓のねえちゃんが印象強烈で場面をさらわれるわ、しかもこのねえちゃんを探しに行ったはずなのに、ホレた女に会っちゃうとそれがぐずぐずになっちゃうわで、こと有名なクライマックスに至っても、彼の印象は、……うーん、何だか薄いまま?もともとこの主人公のキャラ設定というのが、時代の波に取り残されたような古いタイプのヤクザを信仰に近いほど信じているような男で、ヤクザらしからぬ、卑怯な手を使う親分とことごとく対立、でもまだまだ自分の力不足で、ともすると自分よりも格下の奴にまで振り回されるような青さを持っている……というのが、初々しい魅力といえば魅力なのだが。というのも、私はライトなノリの小林旭が観たいッ!という願望があるので、小林旭、やった!と思ったのもつかの間、あ、ライトな小林旭じゃない……とちょっと失望にも似た思いを味わったものだから……。いや、それなら渡り鳥シリーズでも観ればいいんだろうけど、機会がなくて……。

しかしやはりここは鈴木清順なのだからして。とか言いつつ、私は鈴木清順監督に関してはホント、無知蒙昧で、だからこそ本作など、もっの凄く新鮮な思いで観ることが出来て楽しかった。冒頭、女学生たちの会話から始まるんだけど、彼女たちそれぞれの、顔が見切れるほどのどアップで次々と台詞が紡がれていく導入部から、その独特のリズムに度肝を抜かれる。主人公の小林旭に思いを寄せる、組の娘、トキ子(松原智恵子)を含む三人の女学生たちはことあるごとにその可憐な制服姿、時にそのスカートの下に翻る白いペティコートをチラリズムさせながら、画面の中をクサいと思われるほどに弾みまわり、青臭い色香を感じさせる。それは、彼女たちが決して清純一辺倒ではなく、恋愛につきまとうあれこれにきちんと知識も興味もあり、しかしまだまだ子供で女の子同士手をつないで走っていったり、枯葉を両手いっぱいに救い上げて撒き散らしたりといった、無邪気でそして同性愛的な青臭さが不思議な色となって映画に乱反射しているのだ。男女のシーンより、やたらと心の動揺を掻き立てる。

ホレちゃいけない危険な相手だとは知りつつ、小林旭扮する鶴田が溺れてゆくイカサマ師の女。彼女もまた、鶴田に思いを預けていく……のだが、この女は割と何考えているのか判らないようなところがあり、しかも彼と彼女のシーンでは彼の気持ちが盛り上がるのに反応するかのようにいきなり部屋の照明が落ちていったりする、かなりトンでもない、清順式様式美がここかしこに展開されるものだから、それが必要以上にこの女の“何考えているのかわからない”雰囲気に拍車をかける。かなりコワそうなダンナに付き従い、イカサマの助手をつとめるこの女。ある賭場で、鶴田はこのダンナのイカサマ……ライターなどの光り物を使って相手の札を読み取るという初歩的なもの……を見破り、これなら勝てるかもしれないと思ったのか、彼に対決を申し入れるのだけれど、女はやはりダンナが恐いのか、あるいは鶴田に対する態度が演技なのか、差し入れの寿司、そのふちまで張られたしょう油皿によって同じ手口でダンナに鶴田の手を読ませてしまう。勝負が終わったあとそれに気づいた鶴田は、……負けたよ、と憤然と席を立つのだが、その台詞がダンナに向けられたものなのか、女に向けられたものなのか。

鶴田のいる伊豆組と対立している吉田組の、ダイヤモンドの冬(平田大三郎)。彼はまた、このイカサマ師の女の弟でもあり、そして彼は女学生の一人である、やたらと物事に前向き?な何でも面白がる女の子、花子(中原早苗)にホレる。シャンと形容されるその花子は、顔のパーツがことごとく大きめで、化粧を施すとそれがまた良く映え、実に強い印象を残す。彼女は伊豆組のケチなチンピラ、徹(野呂圭介)によって行き当たりばったりに騙され、売り飛ばされるのだが、そんな目にあっても、本気で、面白そう♪と臆しないのだから、恐れ入る。実際、ホレていたのは冬の方だけだったらしく、この花子が流れ流れてついには親分集の前に愛人候補として?現れるにいたり、ようやく再会できた冬にも、彼女はつれない態度。冬は1人前の男になるため、と説き伏せられて、7、8年ブチこまれるのを覚悟で、組のために一仕事やるのだが、その間待っていて欲しい、と花子に言っても、10年もたてば世の中変わるのよ。ヤクザも変わる。そしてあんたもあたしも……と、そのおきゃんな口調はそのままながらも、まだまだ子供っぽい冬に比べて、大人びた表情を見せる。

組のためにと鶴田は敵をその手に討つのだけれど、彼が命を張った組長もまたあっさりと殺されてしまう。それも、冬によって。そんなこんなで男たちはどこか古い美学をつっぱしり、使いきり、燃焼して果ててしまうようなところがある一方で、女たちはしたたかにもまずは保身こそが大事、と割り切っているような強さを持ち、結局はそれが勝ち逃げの結果になっているように映る。

ああ、それにしても、今度の今度こそ、ライトな小林旭が観たい!本作、面白かったんだけど、ストレスだったのはその部分だけ。そして私が求めているのは、まさにそこなんだもの!★★★★☆


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