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燕 Yan
2019年 86分 日本 カラー
監督:今村圭佑 脚本:鷲頭紀子
撮影:今村圭佑 音楽:堤裕介
出演:水間ロン 山中崇 テイ龍進 長野里美 田中要次 宇都宮太良 南出凌嘉 林恩均 平田満 一青窈
その画もひどく美しく、長編デビューの監督さんがもともとはカメラマンさん、しかもあの「新聞記者」のと聞けば大きく納得するのだ。あの作品はまず、深い水の底のような映像に引き込まれたものなあ。
画の色の深みは、作品世界のそれにきちんとつながっていっているということが、この監督さんの尋常ならざる才能を物語っているように思う。
このボーダレスな物語はオリジナル、なんだよね??そもそもまず、こうした作品を日本映画として作ってくれたことを嬉しく感じる。これだけ世界が狭くなって、国や人種というものの垣根を超えていける時代に、日本は立ち遅れているということを、ことに文化の面でつくづく感じていた。
ハーフだから、国籍が日本じゃないから、そんなことで、日本人じゃないのに大きな顔するな、なんていうつい最近の、匿名性ネット社会の陳腐なバッシングに、日本はどうしてまだまだこんなところでうろうろしているんだろうと思った。日本人というナショナリズムにこういう時に本当に胸糞が悪くなる。そんなことを思っていた矢先だったから、まさに心が洗われる思いだった。
それは、侵略国である日本が大抵のアジア各国に嫌われている中では、奇跡的な親日国である(勿論、百パーセントではないにしても)台湾との物語であるということに、少しほっとする想いもあるけれど、でもヤハリ、その中でも日本的ナショナリズムは胸糞悪く語られる。
餃子の中にコインが入っていたらその人はラッキー、そんな楽しい食文化を、子どもが飲み込んだら危ないだの、ここは日本なんだからそんな習慣を持ち込むなだのと、主婦連中が押しかけてクレームをつける、まあいわばベタな画ではあるけれど、そんな場面にああ日本だな、と感じる。
その当時幼い弟君だった主人公、燕(日本ならツバメ、台湾ならイエンイエン)は、台湾人のママであることがイヤでイヤで、なんでママは日本人じゃないの、と泣きじゃくった。その言葉がどんなに彼女を傷つけるかも判らずに。
お兄ちゃんは……ほんの三つか四つかの年の差かと思われるが、小さな頃のその差は大きくて、もうその頃にはお兄ちゃんは“外国人”であるお母さんの苦悩が判るし、日本語が得意じゃないお母さんを助けて、クレーム主婦連に頭を下げたりする。彼だって弟と似たような思いは抱いていただろうに、それが大好きなお母さんを傷つけることが判っているから、決して口には出せないのだ。
この時の兄弟の、仲は良かったのに、でも決定的な年齢と抱いていた想いの違いが、哀しき断絶となって実に20数年、彼らは離れ離れになった。それだけじゃない。燕はお母さんとは永遠の別れになってしまった。
お父さんは日本人。離婚によって兄弟が引き裂かれてしまった。燕は突然母と兄が去り、手紙も何も来ないことから、大好きなママに捨てられたと思い込んで、今の時間軸、もうすっかり大人、社会人となった今の時間となるんである。
なんたって、この主人公、水間ロン君である。フィルモグラフィーを見れば散々遭遇している筈。確かに顔も見覚えがあるような。でも顔と名前が一致したのは本作が初めてで、そして……なんという、私好みの(爆)繊細な、深い精神性に根差した芝居を見せてくれるんだろうとムネアツである。風貌といい、ちょっと加瀬亮を思わせるような。
彼をはじめとして、母親役の一青窈はもちろん有名だが、台湾や中国と日本のルーツを併せ持つ才能あふれる俳優陣が、……こんなにもいたんだということに今更ながらに思い当たり、ああ、私こそ、日本的ナショナリズムの檻に閉じ込められていたと,思っちゃうんである。
デザイン系と思しき仕事についている燕は、社長から心配されるほど仕事に没頭している日々である。後から思えば彼は自分のアイデンティティを保つために、仕事に自分を没頭させていたんじゃないかと思われたりする。
社長は、そんなんじゃデートも出来ないしフラれるぞと冗談めかして言い、燕はデートもしてるし、フラれませんよと返すものの、恋人の存在が描かれる訳でもなく、彼は厭世的な空気を濃厚にまとっているんである。
父親から頼みごとがあると呼び出される。実家で相対する母親は、明るく彼を息子そのものとして迎えるのだが、やっぱりちょっと違う気がする、のは、後からの後付けの印象操作かもしれないけれど。
病気を患った父親の、「検査の結果はそうでもなかったんだけど、すっかり気が弱くなっちゃってね」と母親が解説する彼の頼みは、仕事が上手くいっておらず借金も抱えた今の状態、もしもの時に家族に迷惑をかけたくないと遺産放棄(遺産は借金も含むからね)のサインを台湾に残してきた長男、龍心にもらってきてほしい、というものだった。
燕が言うとおり「台湾に行かなきゃダメなこと?」ということでは、なかったと思う。送ってサインを書いて返してもらうということだって、出来た筈。
でも父親は、燕を行かせた。行かせたかった。燕が吐き捨てるように言う「(母親の)見舞いにも葬式にも行かなかったのに」という台詞は、父親に対してなのか、自分に対してなのか。あんなに愛していた母親なのに、なぜそんなことになってしまったのか。
オチバレから言うと、母親は燕に手紙を書いていたし、会いたいと願ってもいた。ずっとずっと、龍心はその想いを聞かされていた。だからこそだった。
燕が母親に捨てられたとウラミに思っていたように、龍心は自分が母親を守ろうとそばにいるのに、母親は弟のことばかり毎日毎日口にする。愛されていない、弟だけを愛して、だから悲しんでいると思ってしまった。
兄弟それぞれが、母親に愛されていないと思って苦しんで、だからもう会えない、会いたくもないと思い込むほどに募った憎しみを抱えて、断絶したまま、すっかり大人になってしまった、のだ。
時間軸が自由に交錯する。幼ききょうだいは本当に仲がいいし、見ていてほっこりするじゃれあいである。その愛しき息子たちをいっしょくたにハグして、優しい中国語で人間の基本を教え込む。
中国語、なんだよね??兄を訪ねて台湾に渡った燕が、植民地時代に日本語を覚えさせられたおじいちゃんと会話する場面があって、燕が話しかける中国語が判らないこのおじいちゃんは“台湾語と日本語しか判らない”のだというのだ。
こういうちょっとした描写に、私たち日本人がいかにも無知な、言語というこれ以上ないアイデンティティを優しく描写していく。燕も兄の龍心も中国語と日本語のバイリンガルではあるけれど、それぞれに慣れない言語フィールドで別れて育ち、苦労した経験は同じなのに、いわばそれが真逆、それぞれ違う土地、そしてそれぞれ母親への愛を信じられない状況に叩き込まれたから……。
本当はさ、お互い、判ってたはず。だってこんなん、あまりにガキっぽい発想だもの。両親が離婚して、兄弟が離れ離れになった。そのことでどっちかの親に捨てられたと思うなんてさ。まあ、お兄ちゃんが嫉妬して、母親が弟へ書いた手紙を止めてたという事実はあったにしても、父親は別れた妻や息子と連絡は取り合っていた訳だし……。
そんな訳で燕がお兄ちゃんを訪ねて台湾に行く。でも、そう簡単には会えない。同居人であるトニーが間に入るんだけど、最初は彼こそがあやしさ満点で、顔すら見せないし、大丈夫なのという不安さばかりが残る。でも結局、彼がこのぎくしゃくした兄弟を焦ることなくやんわりとつないでくれるんである。演じるテイ氏が素晴らしく、彼もまた、名前は散々見ているのに、今回バチッと初めてハマった気がする。
トニーはお兄ちゃんの恋人だろう。明確にそうとまでは言わないけど、トニーが燕の心を解きほぐすために“普通じゃない自分”の苦しい過去を、ビールを飲み交わしながら語る場面で、そう、明確という下品なやり方じゃなくって、そうなんだ、と思わせる、つまり観客を信頼する解き明かしが嬉しいのだ。
てことはお兄ちゃんもまたそのアイデンティティに苦悩し、一度は結婚したものの離婚して、子供を引き取ってトニーと共に育てているという図式が、そうだと説明されないまま観客に理解せられるというのが、素敵なのだ。
いやそれは、トニーの、演じるテイ氏の、柔らかな、相手を知ろうとするゆっくりとした段階の踏み方というかさ。トニーは自分が裕福な家庭で苦労なく育ったというけれど、それは謙遜で、そんな家庭で育ったからこそ、アイデンティティを理解されずに苦悩したのだし、兄弟もいなくて頼れる相手がいない孤独に震えていたのだし。
トニーが言う、「きょうだいがいるってだけで、うらやましいけどね」という言葉は、その時はさらっと聞き流しちゃったけど、この兄弟の物語と、その兄の恋人であるトニーと、ということを考えれば、こんな切実な言葉は、ないのだ……。
そしてイイのが、燕君にとっては甥っ子、お兄ちゃんの息子のユウアンである。保育園のお迎えに来たトニーに、「なあんだ、トニーか」と言っちゃうほど、パパを愛している。もうこの場面一発で涙が出そうになる。そしてワザとスネたトニーに、トニーも大好きだよ、と言わんばかりにラブラブに抱きつくこの罪深き程にかわゆい男の子に、もうそれだけで号泣しそうになるんである。
「イエンイエン。パパの弟、おじさんだよ」と突然引き合わされて戸惑う燕だけれど、それこそ血のつながりというものなのか、ずっと前からの仲良しのようにラブラブになっちゃう。なのになぜ、なぜなぜ、お兄ちゃんとは目を合わすことも出来ないのか……。
トニーが気を利かせて、先述のカミングアウトを燕に聞かせてから、龍心が飲みに行った店に送り出す。そこで二人は、まるで幼い子供時代のような無邪気過ぎてバカバカしいまでの想いをぶつける取っ組み合いのけんかを、泣きながら、泣きながら、するのだ。
大嫌いだ、俺だって大嫌いだと言いながら。本当は本当は、大好きだからこそなのに!!
真の愛情がなければ真の憎しみは生まれないというのはよく言ったものというか……もうね、だからこその揺り戻し、なんだよね。二人とも、判っていたのに、認めたくなかったみたいなさ。お兄ちゃん役の山中崇氏も本当に素晴らしいのよ。
ママが燕に向けて慣れない日本語で一生懸命に書き綴った手紙を、校正ありきだから鉛筆で書いては消して書き直して、というその手紙を、すっかり消しゴムで消しちゃったのはお兄ちゃん、だったのだろう。でもその消しゴムで消して筆圧だけ残った手紙を捨てることは、出来ないままだった。
その積み重ねられた出されなかった空白の手紙を、弟に差し出した。もうこれだけで号泣必至だったんだけれど、その下から出てきた写真の束があった。お父さんが彼女に送ってきただろう、成長の記録。
ヤバいのは、その写真の裏につたないひらがなで書かれた燕に送る気持ちで、実際は自分の中で消化するだけの、湿度千パーセントの想いである。がんばったね。えがうまくなったね。おおきくなったね。……本当に、つたない簡単なコメントなんだけど、その一枚一枚の成長に対するママの想い、会いたいけど会えない、手紙に対する返事が来ないことも、絶対に苦しく思っていたに違いないし。
もうさあ、誰が悪いとかないじゃない。離婚が悪いなんていう時代でもないしさ。でも親は、ママが彼らに言っていたように、ずっとずっと永遠に子供のことを思っている。そう思いたい。
子供はそうじゃない、という反復も、そうかもしれないと自嘲的に思う。親からの愛情を当然のように思って、それが受けられないとウラミに思う子供の身勝手さは確かにあるのだろう。親からの愛が当然の権利だと思っているから。
燕の甥っ子ちゃんがね、彼から「僕は日本人、台湾人、どっちだと思う?」と問われて、うーん、と無邪気な顔で一瞬だけ思い悩んだ顔をして、どっちでもいいよ、と言い、それを受けて燕がそうか、どっちでもいいんだ、と涙っぽくなって、この可愛い甥っ子を愛しく見つめたシーンが、もう、たまらんかったさ。
甥っ子ちゃんにとって、この新時代の、いやそんなことすら関係ない、ただ、今、この時代のこの地球に生きているコドモにとって、産まれた国とか、国籍とか、そんなことは理解の範疇にさえないのだ。ただ自分が好きな相手であり、あるいは自分が好きな人とつながりのある人であり、なのだ。
また元に戻っちゃうけど、日本的ナショナリズムが、そういうシンプルな美しいつながり、愛情を排除していくものなのかもしれないと思うと、さ。ああもう、なんかなんか、心洗われたし、この偏狭な日本というクニがほんとイヤになったさ!
燕は渡り鳥。台湾と日本を越境する。越境なんて、彼らの意識にはないであろう。人間だけが、壁を、境界線を作る。燕。イエンイエン。その優しい音の響きを思い出すだけで、涙が出てしまう。★★★★★
グリコ・森永事件。私の子供の頃。被害に遭った菓子メーカーを応援するためにと、きっちり検品されラッピングされた菓子の詰め合わせを会社で買い上げたのだろう、父親が持って帰ってきたことを思い出す。そうだ、私もあの頃小6とか中1とか、そのあたり。まさに“罪の声”を吹き込まされた子どもたちと同年代ではないか。
原作者がそのことに思い至り、ゾっとし、この子供たちの物語を書いてみたいと語っているのが、凄く真に迫っていた。しかも当時の関西地区に住んでいたのならなおさらだ。
あの関西弁の脅迫文の滑稽な恐ろしさ、防犯カメラに映ったキツネ目の男の映像が何度も何度もテレビで繰り返されていたあの記憶。そしてラフスケッチみたいなキツネ目の男の似顔絵が、へんにラフなのがなんだかこれまた怖くて、現実にいる男じゃないみたいだった。
いや逆に、どこにでもある顔のような、その平均値を出した顔みたいだったから怖かったのかもしれない。本作でそのキツネ目の男を、ソックリの顔の役者さんを出してきた時には本当にゾッとした。それがまず写真の中だったから余計だった。本当にいた!!そう思った。……とにかく細密にリアリティを積み重ねていく手法に恐れおののいた。
時効をとっくに迎えている。この事件を調査せよと命じられた文化部の阿久津(おぐりん)は首をひねる。
人が死んでいる訳でもない、金をとられている訳でもない。つまりは犯人側が示してきた脅迫はことごとく失敗している訳で、その滑稽な脅迫文の数々と共に、マヌケな印象も確かに与えていたんである。
だから阿久津は軽視するんだけれど、確かに言われてみれば、とふと考えてみる。一体犯人の目的は何だったのか。本気で金をとりたいなら、本気で人を殺して恐怖を与えたいなら。こんな幼稚でずさんなやり方はなかったのだ。
表面的な滑稽さに騙されて、なぜそのことに気づかなかったのか。時効を迎え、更に何年も経って、この原作者さんだけがそのことに気づいたのか。それとも当時からそのおかしさは指摘されていたのか。判らないけれど……。
実は私はサスペンスやミステリといったものは苦手で、本作もあまり食指が動いていなかった。ただかなりロングヒットになっていたし、母親が面白かったと言っていたし(照)、重い腰を上げたのだったが、まさに私の世代、利用された子どもが私の世代、そういえばそうだった!!と思い当たるに至って、そしてこの事件の根本のおかしさに気づいて、はたと膝を打つことしきりだったのだ。
カセットテープ、というのがまた時代で胸を熱くさせる。私ら世代の家庭にはこんな風に、家族のたあいない会話を録音したカセットテープというものが必ずあったのだ。
ホームビデオなんてものがなかった時代、8ミリを回すなんてシュミ者かお金持ちさんであって、一般庶民はカセットテープだった。私の家にもあった。専用の缶ケースに大事に保管されていた。しっかり親のインタビューに答えている姉の声の後で、まだ言葉を喋れるか喋れないかぐらいの私の声がワイワイ参加している。
本来ならそんな風に、ステキな記憶を封じ込めるもののはずだったのに。曽根(おげんさん)だってそれを発見した時にはそう思ったし、聞き始めた時には確かにそんなほほえましい音源だった。
ただ、途中から上書き録音されている音源で彼の笑みは消えた。それは身代金を運ぶ指示を読み上げる声だった。そして自分の声だった。うっすらと記憶にある食品メーカーをたて続けに脅迫した事件のその音声。インターネットを検索してそのまんまの音声が出て来た。曽根は絶句する。
凄い、アイディアだと思う。確かにこの子供の声の指示音声は記憶にある。でも当時の私は、原作者さんのような思いに至らなかった、のは、東北に住んでいた私は、関西弁自体遠い国の言葉だったし、関西ということ自体が遠い世界だったというのはあったと思う。あの道頓堀のグリコの看板さえ知らなかった。
曽根は今は亡きお父さんの跡をついでオーダーメイドの紳士服を作るテーラーになっていた。妻と娘と穏やかで幸せな生活を送っていた先に突然降ってきた事実だった。本当に偶然……クリスマスツリーを飾り付けるための、、電気備品を探し出すために手の届かない収納スペースをごそごそやっていたら出て来た。
そう、本来ならそうそう手を付ける場所じゃなかった。思い出の品をしまっておくには、厳重すぎるということにはこの時点では気づけなかった。お母さんは知っていたのだ。知っていたどころか……。
学生運動、国を、社会を変えるためにと闘う方向が次第にゆがんで内ゲバに発展していった、曽根の親世代が没入していたあの世代。
私は最近、実家に眠っていた私が産まれる前に刊行された文学全集にハマっていて、ちょうどプロレタリア文学にさしかかったところで、その理想があまりにも……フェミニズム野郎の私の心に刺さってしまって、もしかして私は共産主義野郎なのではと恐れている(爆)。
しかしこの時代の学生運動やら日本赤軍やらは、プロレタリア文学の頃には確かにあった純粋な正義と思想からは徐々に離れている。曽根の母親は学生運動に没頭した。しかしその“徐々に離れている”ことに従うように、普通の生活に戻っていった。
過去を消して結婚、幸せな生活を送っていたところに、夫の兄がかつて学生運動をしていた時の同士だと知る。あの罪の声を息子に喋らせなければ、彼女はそのまま幸せな家庭生活を、家族を愛し、家族から愛された人生をまっとうできたのに。
でも、彼女の気持ち、判るのだ。判っちゃうのだ。日本ほど、グダグダな国はない。民衆の声は何一つ反映されない。頭を押さえつけて、そうなると簡単に人々は大人しくなって、反抗したことさえ忘れたようになってしまう。
曽根の母親の思想は確かに幼かったのだろう。突き詰めて押し通すまでの覚悟と勇気はなかったんだろう。でも夫の兄が今もその思想の元に活動をしていることに心揺さぶられてしまう。あの頃の怒りがよみがえってしまう。
ただ、彼女が間違ってしまったのは、それを自分自身でやれないという自覚のないまま、言われるまま自分の子供にそれを肩代わりさせてしまったことだったのだ。それが後々我が子にどんな思いをさせるかを考えずに。
曽根は幸せに暮らしてきた。何も知らないまま幸せに暮らし続ける可能性の方が高かった筈だ。阿久津たち文化部の企画で、時効を迎えた事件を追う企画など持ち上がらなければ。
でも……“罪の声”を録音させられたのは曽根だけじゃなかった。あと二人。うっすらと記憶にあった。動物園に連れて行ってもらった記憶。写真もアルバムに残っている。
その時に音声を録音させられたのか。幼かったから曽根の記憶は曖昧だったが、写真の日付と事件の経過が微妙に異なっていることで、判明した。母親こそが、息子に指示書を読ませて録音したのだと。
同じく“罪の声”を録音させられた、彼らはあまりにも残酷な運命をたどる。その父こそが活動の首謀者であったからこそである。
内ゲバまではいかないまでも、金儲けのために集められた集団が崩壊するのに時間はかからなかった。この、何の目的か判らない劇場型犯罪の真相は、株価を操作して巨額に売り抜ける目的だった。なんという!あり得る!!原作者さん、天才!!
この事件、この犯罪をつぶさに見ていくと、やり口というか、作戦というか、その方向性が変わってきてずさんになってきて、というあたりを、見事な説得力とリアリティでこの仮説に導いている。
この事件を、もう時効だからどうにもならない、つまりはエンタメとして文化部企画で追っている阿久津と、否応ない過去に向き合う曽根が出会って更に化学反応が火花を散らす。
阿久津はもともと社会部記者として、中央でバリバリ働いていた。でも、他社とのスクープ合戦、紙面を埋めるために被害者家族に同情ヅラして近づく取材、疲弊していた。たった30歳で、故郷のしかも文化部に逃げ帰った。
彼の上司言うところの“カッスカスの紹介記事”をこなして、おつかれさーん、と気楽に帰っていく身だった。この時効事件だって、乗り気じゃなかった。なのに、どんどん引き込まれていく。
曽根との出会い。同じ世代。自分はあの事件をショボいと思っていたのに、曽根が、自分が知らずに巨悪に関わっていたことに衝撃を受けていること。そして、曽根と同じ役割を担った子供たちが行方知れずだということ……。
結果的に、後二人の子供たち、姉と弟の二人、姉は逃げ出した先で事故死し、弟は生き残ったが、犯人グループに母親と共に拉致される状態で苦しい、あまりにも苦しい若き頃を送る。
彼を心配してくれた同僚に、まあいわばそそのかされる形で放火、母親を残して逃げた。最後まで躊躇していた。でも、母親は、炎うずまく中で、息子に、逃げろ逃げろと叫んだ。
何が悪かったの。殺された父親が悪かったの。そりゃ悪かった。持ってる思想を使うやり方が間違っていた。でもそれだけならば、こんなことにはならなかった。信頼する仲間を集められなかった。分裂した時に、その淘汰を審議しなかった。判らない、判らないけど……。
こうして書いていくと、曽根も阿久津も、確かにメインキャストなんだけど、結局は狂言回しに過ぎないことが判ってくる。過去をあぶり出すための、現在の語り部。
“罪の声”の当事者である曽根でさえそうなのだ。生き残ったもう一人は命からがら逃げだし、曽根がアポをとったその時、まさにその時、首をくくろうとしていた。何度となく、曽根は恵まれていた、何も知らないままここまで来た、と示される究極の場面。
曽根が悪い訳がない。それは阿久津も何度も言い募る。でも、でも……。何も知らずにここまで幸せに生きてきて、同じ条件なのにこんな辛い目に遭って、一方は死んでしまって、なんて事態に遭遇したら、落ち込むなということ自体、そりゃムリじゃないか。ああ、でも、どうすればいいんだろう。
本作はね、海外ロケも積極的に行っていて、そもそもの主犯というか、はじまりである、曽根のおじを追ってイギリスロケーションも展開される。
曽根のおじは宇崎竜童氏であり、なるほど、かつての革命戦士の雰囲気をぷんぷんと感じる。曽根の母親役の梶芽衣子もそうだけど、オーラというか、目力というか。
彼らは心底真剣だった。本気で社会を、国家を変えられると信じていた。それは、その当時の社会も、国家も腐っていたからだ。変えられる、という自信も根拠もまるでない。でも、変えたいという気持は今の私たち、私にもあるよ。あきらめたくない。
阿久津はくすぶっていた文化部から、社会部に呼び戻される。うーむ、文化部めっちゃバカにされている気もするが(爆)まあいいか!
おぐりんのヴィヴィッドな関西弁と、彼と丁々発止する上司の松重氏、古舘氏、もういろいろ面白い!そして、阿久津が曽根の店にオーダーメイドスーツを発注しに行くラストが泣かせるじゃないの。もう!
★★★★☆