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「し」


2019年鑑賞作品

JKエレジー
2018年 88分 日本 カラー
監督:松上元太 脚本:香水義貴 松上元太
撮影:堀智弘 音楽:yuichi NAGAO
出演:希代彩 猪野広樹 芋生悠 小室ゆら 前原滉 山本剛史 森本のぶ 阿部亮平 川瀬陽太


2019/8/19/月 劇場(テアトル新宿/レイト)
JKとエレジーという言葉の対照が面白く、そしてJK=少女ならば足を運ばぬわけにはいかんと思ってレイトショーに頑張ってゆくのである。想像以上に、エレジーであった。いや、それ以上に深刻で、闘いであった。
彼女の想いは正義そのものであるのに、あれだけ頭のいい子なのに、足を踏み外した行為が愚かだったことになかなか気づかない。いや、それも正義のうちだと思い込もうとしているのが痛々しい。

一人一人一人。確かに彼女には心配してくれる友達が、しかも二人も寄り添ってくれているのに、一人。でもその友達たちだって、やはりそれぞれに一人に違いないのだ。
受験生という、高校三年生という、振り返ってもあの時が一番人生の中で不安と闘いの日々であった濃密な時間の中で、一人であることを自覚している友達がいたということは、きっとこれ以上ない幸福であったに違いない。

なんというか、いろんな思いがこみ上げて支離滅裂になってしまう。ヒロインはココアというJK。父と兄の三人暮らし、だが、父は奥さんの死後すっかり腑抜けになってしまって、実に七回忌を迎える今も病気と偽り息子の存在を隠して、生活保護をせしめては、ゴロゴロして競艇に行って負けて帰ってくる。
兄は友達に誘われて芸人になる夢を抱えて東京に行ったけれど数年で挫折、舞い戻ってきてからは研究と称してお笑いのテレビを見ながらこれまたゴロゴロ。しかも彼に関しては家から一歩も出ない。いわゆるニートというか引きこもりというか。

ココアは兄の相方であったカズオに頼まれてクラッシュビデオと呼ばれる、ある性癖の需要を満たすフェティシズム満載のビデオに出演している。冒頭からその撮影のシーンなのだが、冒頭だし、これが彼女の転落要素なのだとピンときて、それからずっとはらはらしながら見守ることになる。
クラッシュビデオという存在は初めて知ったけれど、きっともっと過激な……命あるものを踏みつぶす、というものがあるのだろうと推測されるが、ココアが応じているのは空き缶やペットボトル、時に可愛く風船を踏みつぶす程度のものである。
だからこそ、ココアはこれがヤバいことを気づきつつ、自分の心にウソをついていたんだろう。頼まれてやっているんだし、動物を殺している訳でもない。ただ無機質なものを踏みつぶしているだけだ、と……。

でも、判っていた筈。中盤、のっぴきならない状態に追い詰められたココアが、足元にうごめく芋虫をスニーカーの足裏で軽くなぶり続けるシーンがある。本当に踏みつぶしてしまうんじゃないかとハラハラする。
これは、彼女が、自分が出演している作品がどういうことだったのかを充分に判っていたという印であり、彼女自身が、供給する相手に与えるフェティシズムの幸福感とは真逆の、自分をジャマするすべてを踏みつぶしたい激しい衝動をはらんでもいて……。

ココアの父親役は、もー、こーゆーどーしよーもない男を演じさせたら、今、彼の右に出るものはいないであろうと断言できる川瀬陽太氏である。特に、エロを排除した役柄での彼を見ると、痛切にそう感じる。
奥さんが亡くなって7年もの間のグータラ生活は、よっぽど奥さんを愛していた……というのもあったろうが、恐らくそれは最初のとっかかりに過ぎなかっただろうと思われる。
この父と息子は相似形で、バイトで疲れて帰って来たココアに「なんで俺たちの分も夕食を買ってきてくれなかったんだよ」と、でもまあ、父親は申し訳なさげに、兄は尊大に妹にたかるんである。

バイト、そう、ココアはいわゆる、マトモなバイトもしている。も、というのはアレだが、それを友人たちに見せている面にしている感もある。
家庭の事情は彼女たちも知っているけれど、ヤバいビデオ作品に出ているとか、そういうココアの心情の闇までは知らない。後にそれが学校に知れて、奨学金の推薦がパーになった時、友人たちは、私たちに相談してほしかったと言い、ココアは、そんなきれいごと、と激昂しながらも、本当の、本心を吐露する……「あんたたちの前では、普通でいたかった」

この台詞が、一見、凡庸に見えるこの台詞が、一番刺さる。とても頭のいい子だし、努力家だし、このしょーもない家族を切って捨てる勇気を奮い起こして受験勉強にまい進する、そんな女の子なのに。
ヤバいビデオ作品に出演しちゃう危険性を判ってる筈なのに自分自身に言い訳して目をつぶり、嫌われるのが怖くて、プライドもあって、心底相談してくれる友人に相談できない結果のこの痛ましさ。
対等に付き合う、って、どういうことだろうと思ってしまう。自分を偽ってまで、“対等に付き合う”ことを望んだココアに痛々しさばかりを感じる。ココアをそこまで追い詰めたのは、こんな一介の地方の女子高生である彼女に頼り切っている父と兄なのだが、それはその通りなのだが……。

父親はね、ココアの決心を突き付けられて、本来はそういう、誠実さを持っている人だったのだろう……奥さんの死にそこまでのショックを受けるほどの愛妻家でもあったのだろうし……と思わせる。川瀬氏の、だらしないんだけど絶妙の憎めなさが、さ。
娘から大学に行きたいと言われて、父も兄も心底驚く、ってあたりがおーい!!と思うのだが、その決心で真人間に立ち返れるお父さんは、時間はかかったけれど……なんか愛のある人な、気がするのだ。

いや、お兄ちゃんに関しては、もう少し彼の葛藤が見たかった気がする。友人に誘われた形とはいえ、芸人を目指して、でも挫折し、ニートとなった今でも、お笑い番組を欠かさず見続けている彼に、お笑いに対する想いを感じるべきなのか、挫折したことを認めたくないということなのか、今の自分に対する評価をどう考えているのか……ココアの状況こそが描くべきところであることもあって、そこは惜しかった気がする。
彼を誘ったカズオがすまなかったな、と言いつつも、それはココアに対してであり、かつての相方と対峙する場面はないし、カズオ自身は全く芸人を目指していた気配を感じさせない。

ただ、クリエイティブであることだけを捨てきれずに、こんなヤバい系の映像に手を出し、しかもその卸先を安易に地元のヤクザ系アニキに持ち込んだものだから、あっさり搾取され、それにおずおず文句を言うと脅され。
その時点でココアのビデオ出演が学校にバレて奨学金推薦がパーになったという経緯があったもんで、このバカ、アニキの大金入ったバッグを抱えて逃走、ココアを進学させるためにと思って、というんだから、バカ極まりない!!ただ単に、巻き込むだけじゃないの!!

……その事態がココアの度胸一発で収束しちゃうというのは、若干の甘さを感じたけれども、この間にいろいろなことがある。父親は、立ち直った。何かきっかけが欲しかったのかもしれない。不思議なぐらいあっさりと、道路交通員の仕事に従事している場面で終わる。
お兄ちゃんは、どうしても部屋から出ることが出来ず、父親に言われても仮病を使って、妹のビデオ出演バイトのお金を総ざらえしてどことも知れず飛び出す。

……この場面一発で、お兄ちゃんは、妹がそんなヤバいバイトまでしていることを知っていたことを示唆し、しかも、そのお金を何に使いたいかも知っていたのに……いや、彼は嫉妬していたのだ。父親と自分、いや、何より同じきょうだいのひとりである自分がこんな状態でいるのに、同等の立場の子供であるお前が、大学に行くだと!!??と……。
具体的な金額も、彼を激昂させたのだろう。奨学金が使える、ということさえ……。それはていのいい借金だぞと、そんな知識はありながら、そうした公的な借金が出来るということこそが、羨望であることを、知らなかった筈はない。

なんつーか、なんつーか、結果的にはさ、ココアはもう、絶望的なのだ。学校からも見放されるし、カズオが責任感じて勝手にアニキから金を奪ってココアまで巻き込まれてもう殺されそうな状況になるし。
そりゃぁね、ココアが友人に言うように、友人も言うように、今やみんなが行くから行く大学、高望みしなければある程度、みんながみんな大学に行けちゃう時代だ。そこでどこに目標を定めるか、生きる道をどこに見定めるのか。

ココアの友人の一人はなんと、年上の恋人との愛の種をお腹に宿し、母親になることを“進路”とした。それを、出来ちゃったから仕方がないとか、進学とか就職とかめんどくさいとかじゃなくて、愛する人との赤ちゃんが出来たから。
こんな、まじりっけない理由だけで生きる道を決められたらどんなにいいかと思い、それをこの時代に描写できる作り手のまじりっけなしに、感動もしたのだ。

正直、ココアのこれから先は不安たっぷりだ。少なくとも“今年度”彼女がマトモに進学したりできることはないかもしれない。この高校三年生という、進路を強要される時期の不安と言ったらハンパなく、ここで決められなければもう終わり、と思う気持ちもすごーくよく判る。
でも……人生は、長いのだ。あまりにもココアが過酷な運命にさらされたから、逆説的な意味で、彼女は大丈夫なんじゃないかと、ヘンに楽観的に、思った。

少なくとも父親は、頼りないながらも、娘を応援したいと自立の道をたどり、ある意味兄も、妹を邪魔しないために(妹のカネを持ち逃げしたとしても)姿をくらました。それぞれ違う人生を歩む友人たちも、最後まで彼女を信じている、ことが最終のシークエンスなのだから。
お祭りに一緒に行こう、そんな可愛らしい約束が、ある意味破られ、ある意味守られ、待ちくたびれた浴衣姿の友人二人が、早朝の土手で、闘いぬいて泥だらけのココアを、むしろ喜びを含んだ屈託のない表情で迎えるのが、この物語の最大の決着地点だとしみじみと思うんである。★★★★☆


死にたくなるよと夜泣くタニシ(牝と淫獣 お尻でクラクラ)
2019年 85分 日本 カラー
監督:後藤大輔 脚本:後藤大輔
撮影:飯岡聖英 音楽:大場一魅
出演:和田光沙 新村あかり 相澤ゆりな 月夜野卍 なかみつせいじ 小滝正大 櫻井拓也 柳東史 原田夏美 菊嶌稔章 後藤大輔 青山真希 長井好太 小田歩 都義一 河島健太郎 Toshie 野村貴浩 筆鬼一

2019/9/5/木 劇場(テアトル新宿)
名前の字面がなんか見たことあるしやけに芝居が上手いから、この人絶対普通の女優さんだよね、何かで見ているんだよね、と思ったら、そうかそうか、「岬の兄妹」の!
あの作品でいきなりブレイク、というか誰もが誰誰誰!と驚いた彼女を、クレジットだけでは瀬々作品に出ていたんだ、へぇーっと思ったが、そうなると合点がいく。ピンクにはよく顔を出していたお人だったんだ。

しかしてこれが初主演なのだという。それにしても“普通の女優さん”だなんていう言い方はよくないことは判っているけれど、正直目も当てられないお芝居をするピンクの女優さんは割とよく目にするので……勿論上手い方たちも沢山いるけれども……。
でも彼女は、大体外見からしてとてもピンクの女優さんとは思えず(失礼なのかなんなのか……とりあえずごめんなさい!)、特に今回のこの役はマジでブスで(……本当にごめんなさい……)、「岬の兄妹」ではもうちょっとたわわに見えたおっぱいも、ヤハリ巨乳が跋扈しているピンク女優さんの中ではちっと貧相にも見え(……スミマセン……)、やせぎすで、ボサボサで、スッピンで、いやー……。

自由度の高さがピンクの魅力とはいえ、とりあえずヒロインは可愛くて巨乳を出しておけばという部分はありがちなもんだから、だ、だ、大丈夫??とか思ったらぶっ飛んでるのに芝居がメチャ上手くて、何者―っ!!と思ったのだった。そう、まさに「岬の兄妹」で思ったようにだ……。
しかもなんなんだこの作品は。メチャクチャ!訳判らん!ぶっ飛びすぎ!大体どういう話なのか、つじつまが合うような合わないような、そもそもつじつまなんてものがあるのか、なのに、そんなにメチャクチャなのに、手作り感満載のレトロチックなアニメーションと合わせてやたら手が込んでいて、低予算のピンク映画とも思えないのに、話はムチャクチャ、キャラもぶっ飛びすぎ、もうついていけなーい!!

……なのに、結果的にはちょっとホロリとくるラストに落ち着いちゃうんだよね。もうどこからどう手を付けていいのか……。
まず、ヒロイン、静香は腐女子である。ウム。もう、この時点で、ピンクのヒロインとしては初見の設定である。まぁ私がほんの一握りしか観てないからだろうが。

でも、ゲイムービーは片方であるものの、そんな、男同士の恋愛を妄想して萌える腐女子がはたしてピンクのヒロインとして成立するのだろーか、てゆーか、ブスで(!)協調性がなくて(!!)社内でもつまはじきにされているキモい女(!!!)とゆーよーなもう目も当てられない状態で。
んで、キャラ設定っつーか、妄想とぶつぶつ独り言とめっちゃ早足で家の前さえ駆け抜ける、なんていう女は、……なかなかここまでは振り切れない、むしろ小心だから、心は彼女と似たり寄ったりかもしれないけれど、世間に擬態しちゃうかもなぁとか考えて、共感できるような出来ないような、友達になりたいようななりたくないような、いや、ムリムリムリとか、心の中で超逡巡。

ちなみに静香、ってゆーとなかなか可愛い名前だけれど、バンギャルの母親がファンだったダンナに逃げられて旧姓の谷に戻って以来、タニシズカ、タニシ、というのが彼女のあだな、っつーか、いじめに近い通称なんである。殻に閉じこもる、という意味を暗に指しているのだろう。
なぜか彼女の勤める会社では水槽にタニシが飼われている。可愛がって育てている相葉という、これまた孤立しているおじさん社員がいるんである。最終的に彼こそが静香の運命の相手となり、演じるなかみつせいじ氏も素晴らしいのだが、それは後々のことなので……てゆーか、彼との展開が語られると、途端に物語がマトモになるという(爆)。それまではとにかくもう……ワケが判らないんだもの。

だって冒頭、なぜか静香はその水槽のタニシを飲み込んじゃう。ひとつ、ふたつと口に入れちゃう。相葉とのエピソードが後に振り返っての回想含めて語られると、その理由が判ったような気にもなるが、今思い返しても、やっぱりよく判らない(爆)。
んで、タニシを飲み込んだ静香は昏倒、救急車で運ばれる事態になる。特に異常は認められなかったが、ある日、妹とその彼氏のパンクなセックスに壁ごしに耳を澄ませて、腐女子的妄想もからめて、オナニーする。

えーと、パンクなセックスって何よと言われそうだが、それしか言いようがない。
てか、ダンナに捨てられてなおバンギャルを貫く母親のファッションとカルチャーを引き継いでいる妹とその彼氏、ってのがまた訳が判らず……彼氏、ハダカのパンクファッションなのになまっちろい身体だし……(苦笑。こーゆーテキトーさが、面白いのだ)。

脱線してしまった。で、オナニーにふけってる静香の肛門(!!)から突然這い出る二次元ペラペラアニメの虫みたいなヤツ。地獄の閻魔大王の使いだという蟯虫(ぎょうちゅう)。
静香の行いが、このままだと地獄に落ちると警告し、ご親切に?彼女の肛門から出たり入ったりして、その都度ご注進に及ぶ。なにそれ!どーゆー展開!!

彼?がもっともらしく語る、聖域を破るセックスの悪は、でも静香は腐女子な処女なんだし、……それは妄想の中でオナニーするのが悪いということ??そんなバカな!!そんなこと禁じられて地獄に落ちるんならば、世の中の腐女子に限らず色んな女子が、地獄に落ちるのかっ!!と……まぁ、フェミニズム野郎は思いかけるが、あまりにも荒唐無稽なので、なんとなく考えが鈍る(爆)。
大体、コイツの言ってることがよく判らないし、コイツを肛門から出し入れして(爆)、おケツを押さえてトイレにダッシュする静香の描写とか可笑しすぎて、その合間にみやびやかなレトロアニメがうやうやしくこの事態を説明あそばすのだが、正直全然理解できないし、もうどうしよーっ!て感じで……。

でも、相葉という営業のハゲおじさんが登場してくると、何か途端に、ラブストーリーとして落ち着くんである。いや、ちょっと違うな。そもそも相葉おじさんは、最初から登場していた。静香がイジメみたいな仕事を押し付けられて、意地になって残業していた時に、声をかけていたのが彼だった。
そして相葉おじさんがタニシを育てていた。いつも残業してる静香を、カップ麺ばかりすすっている静香を、見ていた。
「会社の飲み会で、私と谷さんだけ、座ったっきりだったんです。」つまり、他の社員たちは社長への売り込みとかで酌に回ったりするのに必死であり……。静香は全然覚えていなかった。ていうか、自分を理解してくれる人がいるなんて、ありえない、という感じだったんじゃないかなあ。

蟯虫くんに脅されて、静香はそれまでのぼさぼさノーメイクパンツスタイルを脱して、メイクしてスカートはいて、言葉遣いも改めたりして努力する。
この会社は小さな同族会社で、社長は身の丈にそぐわない立場にプレッシャーを抱えている。社長という立場に巨乳とブリブリで取り入る女子社員というのはいかにもピンクな役回りだが、彼女は案外、この社長にマジでホレていたのかもしれない。社長がイメチェンした静香に心の安らぎを見出しかけると、途端に動揺するからさあ。

社長にラブホに誘われて、静香はセックス寸前まで行くも、蟯虫君に阻まれて、おケツ押さえてダッシュ(爆笑!)そらまぁ、激怒。せっかくリア充、セックス寸前まで行ったのに!!と怒るのはまぁ当然だけれど、結果的にさ、なんで蟯虫君が静香の元に現れたのか、結果的にさ、彼女を幸せにするために現れたとしか思えない訳。なんかいい話に落ちちゃう訳(爆)。
いや、いいんですよ、全然いいんだけど、それまでが蟯虫君のあらましだの、静香のヒモ状態のパンク家族だの、静香の腐女子&スプラッタ妄想だの、蟯虫君の前世が光源氏だの(!)、もー、ファンタジーとも言いかねる、とりどりの支離滅裂が雪崩のように襲ってくるので、このまま、判らないまま、落ちていくんだとばかり思っていたからさ。

相葉おじさんを演じるなかみつ氏が、本当にイイんである。頭をそっているせいもあるだろうが、私の近い記憶からも一回り恰幅がよくなってて、え??なかみつさん??という感じなんである。
可愛がってたタニシをくっちまった女、なんだから、カタキともいえる相手なのに、多分相葉おじさんは、ずっと彼女のことが、好きだったんだろうなあ……物好きな、いや…………(爆)。

だって、なかなかよ。見た目もそうだけど、相葉おじさんが心配して話しかけても、静香は自分の記憶にないぐらい、シカトしまくっていた訳だからさ。
でも、お互い、この社内でソンな立場にいて、でもちゃんと働いている、役に立っている、身を削っている、という自負はあって、だからこそ静香は孤独な社長と心を通わせそうにもなるのだが……でも結果的に、結局、上手く立ち回る社員たちと違って、彼らは不器用で孤独なのだ。

家族の手前もあって突っ張って生きて来た静香が、蟯虫君の登場で慣れない女の子キャラに身を投じ、それを、相葉おじさんに見せたいと思ったのだろう、というところから、いい意味で、フツーのイイ話に転がり始める。
熱を出してぶっ倒れてしまった相葉おじさんを華奢な背中に背負ってうんこらせっと部屋に運び、冷えピタをおでこではなく、ワキや鼠径部に貼るのがいいのだとかいがいしく世話をし……目が合って……。

「コンドームがない」なんてことは無視して突破、「二度目は……」と言うのに、栄養ドリンクを走って買いに出かける!!そして、すっかり何もかもをそぎ落としてキレイになった静香の前に、久方ぶりに蟯虫君が現れて、もうオレはお役御免だね、と言って去っていくのだ。
おーい、おいおいおい、これまであまりにもアバンギャルドだったのに、突然いい話!!まぁいいか!!

相葉おじさんとの、運命のセックス(これが、処女突破なんだもんね)の愛とあふれる想いには、心打たれまくった。ラストが二年ごと銘打たれ、お腹の大きい静香が幸せそうにひだまりの中寝入っていて、陣痛で目覚める、というのも、なんて幸せなの!
ムチャクチャなのか、ハートウォーミングなのか、もうホントにワケ判らんよ。ピンクって、楽しいな……。

言い忘れたけど、タイトルから示される、回文が相葉おじさんと静香の間でほのぼのとかわされるのがじんわりとくる。「奈落まで腕枕な」が、最高に好き。幸福すぎる!! ★★★★☆


真実 特別編集版/ La Verite
2018年 108分 日本=フランス カラー
監督:是枝裕和 脚本:是枝裕和
撮影: エリック・ゴーティエ 音楽:アレクセイ・アイギ
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ/ジュリエット・ビノシュ/イーサン・ホーク/リュディヴィーヌ・サニエ/クレモンティーヌ・グルニエ/マノン・クラヴェル/アラン・リボール/クリスチャン・クラエ/ロジェ・ヴァン・オール

2019/11/13/水 劇場()
是枝作品だけど、外国映画だもんなぁ……とか思いながらなんとなく見逃しているうちに、“特別編集版”なるものが公開されると知り、しかもそれが通常公開版より尺が長い、ということは、こっちを観た方がお得かもとか単純に思って足を運んだが、これだけ単独で観たことが果たして良かったのかどうか、ちょっと悩んでしまった。
10分ほどの差だが、特にイーサン・ホークの出演場面が多いのだという。「イーサン・ホークファンにはオススメ」的な言い方もちと違うような気はするが、通常公開版が、いわば監督がまず差し出した正式なものだと思えば、ヤハリヤハリ邪道だけを触ってしまったような気にもなる。

だって監督がこの特別編集版は私家版、あるいはDVDの愛蔵版のつもりだったと言っているということは、こっちだけを観る、というのはやっぱり違ったのかなあと。通常公開版だけか、両方観るかの二択だったのかなあと。
ふとね、「ニューシネマパラダイス」が、後のディレクターズカット版が先の公開版にめちゃくちゃ重要なエピソードをどーん!とプラスして、映画そのものの印象を大きく違えちゃって、最初の公開版を愛してやまなかった私はひどく裏切られた気がしてショックが大きかったことを思い出したりした。

まさに、ディレクターズカット、なのだ。監督にとって私家版と言わしめるっていうのはそういうことでしょ。ただ……この特別編集版が、特にイーサン・ホークが多めになったらしいけど、“男性陣にスポットが当たる”というんだから、ファビエンヌのパートナー、秘書、元夫たちもきっと、通常版からプラスされているんだろうと思われる。
勿論メインは、国民的世界的有名女優のドヌーヴと、この母親にめちゃめちゃ愛憎乱れまくりのビノシュという、……この二人が揃うということ自体にめまいがしそうなそろい踏みの、母娘の物語がめっちゃメインなのはあったりまえの話なのだが……ひょっとしたら、この二人の圧が強すぎて、せっかくそろえた魅力的な男優陣がもったいなかったかなぁ??とか思ったのかも??と、通常公開版を観てないから、勝手な想像しちゃうんである。

ドヌーヴが演じるファビエンヌは、ドヌーヴの名前のまま演じたって良かったんじゃないかと思うほど、伝説的女優、という立ち位置がピッタリである。いや、やたら見栄っ張りのウソツキだったり、若い女優に子供のように嫉妬したり、なんていう描写がふんだんに用意されているから、それじゃぁ彼女自身もメーワクだったに違いないが、ついつい私たちは、もしかしてドヌーヴそのもの??などと夢想してしまう。
だってドヌーヴがその通りのカンロクと映画黄金時代をそのまま引きずって持ってきた、っていう彼女の印象そのままに演じるから。

そういう意味ではビノシュもまた、ピタリである。彼女はドヌーヴがキラキラの黄金時代の美人女優だったのに対して、決してザ・美人女優という訳じゃないのに、なぜか目が離せない、あの当時彼女に出会った映画ファンたちが、ひどくスリリングな思いをさせられた新時代のスターであり、ほんっとに、ドヌーヴと好対照、なのだ。この二人の女優が同じフランス産であることが、不思議に思えるぐらい。
だから、ビノシュが演じるのは女優ではなく脚本家であり、それはこのキラキラ母親から逃れる気持ちだったのは……どこかであったのだろうと……今はアメリカで、アメリカ人俳優と結婚して暮らしているのも、そもそものアイデンティティから離れたいとか、自分だけのアイデンティティを確立したいとか、あったように思えてならないんである。

んで、このこじれた母娘がどれぐらいぶりに再会したのかは判らないが、名目は母親の出版した自伝本の出版祝い、である。……特にパーティーとかが催される訳じゃないから、最初からきな臭い匂いがプンプンしている。
ゲラを送ってと言ったのに、あら、行き違いだったんじゃないの、という最初のやり取りから、このゴージャスな母親が見栄っ張りが故に娘にまで平気でウソをつくというのが、あっけらかんと明示されるんである。

案の定、自伝はファビエンヌにとって都合のいいことばかり、娘のリュミールは自伝に書かれていたように母親に愛された記憶もないし、何より彼女がガマンならなかったのは、大好きだったサラのことを一ミリも触れていなかったことなのだ。
サラというのは、ファビエンヌと同業の女優“だった”。名前だけで、その姿は回想ですら、一度も出てこない。ただ、ファビエンヌが今撮影している作品で共演している若手女優が、サラの再来と評判だった。ファビエンヌはその見栄っ張りと皮肉さで、決してこの女優、マノンを最初のうちは、認めようとはしないのだが、そもそも共演しようと思ったのだから……。

サラが決まりかけていた役を、ファビエンヌが監督と寝て奪った。それは、サラの方が女優として優れていたから、そうするしかなかったんだと……てなことが、最終的には暴かれ、うっわ、なんかベタな内幕モノだわね、と思ったりする。リュミールはサラにこそシンパシィを感じていた、のは、ひょっとしたらファビエンヌに言わせれば、弱者同士、相哀れむ、といったところなのかもしれない。
後に、ファビエンヌが母親としても女優としても、サラに嫉妬していたことをリュミエールに告白して、この母と娘の確執は美しく溶解するのだが、あれま、案外単純に解決しちゃうのね、と思っちゃう。ここまで引っ張ってきといて、意外と道徳的な結末……と思っちゃうのは、やっぱり是枝作品に相応の厳しさを感じていたからかもしれない。

確かに、監督が男性陣に細やかな愛情を注いでいるのは感じられる。いわば、ドヌーヴとビノシュの母娘は、スター女優を配していることもあって、それだけで確立しちゃっている感も正直、ある。
リュミールが連れてくる愛らしい娘、つまりファビエンヌにとっての孫娘、シャルロットや、象徴的立場に立たされる若手女優、マノンはいわば緩衝材であって、魅力的なエピソードや印象は残すものの、それはどこか、甘やかな感傷のようなものに過ぎない気は、するんである。

かといって、男性陣が彼女たち強い女二人に、なにがしかのインパクトを与えられたのかといったら、それもまた、疑問が残る。この感じだと、通常公開版ではただ暖かで優しい男性陣、という印象に置かれていたんじゃないかという想像をついつい、してしまう。
ファビエンヌがプライドもりもりで記した自伝に、長年仕えていた自分が一個も出てこなかったことにショックを受けて、初老の秘書が出て行く。名目は、もう年をとったし、孫たちの面倒を見て過ごしたい、という、あまりにもありがちな理由。リュミールも、ファビエンヌの元夫も、事実と異なることを、しかもなげやりあっさり記されて傷ついて、一触即発になる。

……ファビエンヌの元夫、つまりリュミールの父親は、もういかにも老人で、よぼよぼで、玄関先でファビエンヌに門前払いされそうになるところを、リュミールが気づいて迎え入れた。
出版祝い、理由は同じ。てことは、本当の理由も同じ……死んだことにされた彼は、でも苦笑いだけで済ませてしまう。それは、自分よりももっと傷付いている人が沢山いることを、慮っていたのかもしれない。例えば娘とか。

ところで、イーサン・ホークである。いわばこの特別編集版は、どこかイーサン・ホークファン向けにアピールされている感がある。てゆーか、監督自身が私家版を後悔することの照れ隠しに、隠れ蓑的に言っているような感もあるけれど。
彼だけが、異邦人なんだよね。フランス人の嫁さんをもらったけど、彼自身はほぼフランス語が判らない。娘ちゃんはヤハリ、そのあたりはバイリンガルに育てられているようである。
ムコの彼が、嫁の実家に、しかもあんなデヴィ夫人みたいな存在感の(……観てる間中、ドヌーヴがデヴィ夫人にしか見えなくてホント、困った……)尊大な国民的どころか世界的女優を前にして、言葉が判らなくてもイヤミ頻々に言われていることはやっぱり判っててさ、うわー、みたいな……。

ファビエンヌにとっては、アメリカの、しかもテレビドラマでようやく芽が出たような役者なんて、クズみたいなものなんだろう。しかもどうやら、このムコ君はアルコール依存症っぽい……酒を飲まないように飲まないように、でも、このイヤミな姑を前にして、我慢しきれなくて飲んじゃう(爆)。
経済的に家庭を支えているであろう妻に頭が上がらない感じ。ああなんか、日本的と思っちゃうのは、そらぁ作り手が日本人だからなのか。あるいはこーゆーのは案外世界共通なのか。

言葉が通じないことや、当たり前みたいに母国語と英語を話しちゃう感じについていけない哀しさは、それこそ日本人的感覚の描写だなと思う。
イーサン・ホーク=アメリカ人に、英語以外は言語じゃないぐらいに思っているような圧を感じる国に、その劣等感がどれだけ伝わっているのかとか思うが、他の国から嫁さんをもらって、その嫁さんが英語をマスターしてたら、日本人の同じ立場以上の劣等感を感じるのかもしれない、と思う。いや、判んないけど……。★★★☆☆


新宿タイガー
2019年 83分 日本 カラー
監督:佐藤慶紀 脚本:
撮影:佐藤慶紀 喜多村朋充 音楽:LANTAN
出演:新宿タイガー 八嶋智人 渋川清彦 睡蓮みどり 井口昇 久保新二 石川ゆうや 里見瑤子 宮下今日子 外波山文明 速水今日子 しのはら実加 田代葉子 大上こうじ

2019/4/8/月 劇場(テアトル新宿/レイト)
えー、私知らなーい、知らなかった。新宿も映画観にまぁまぁ足を運んでいると思うけど、一回も遭遇したことない。それこそ、新宿の映画館は網羅しているというタイガーさんなのだから、一度ぐらい遭遇していても良さそうだが、一度もない。
どういう時間帯に観ているんだろう。早朝は新聞配達、会話の内容からは、どうやら夕方も新聞配達。夜はゴールデン街とかで飲んだくれているのが常だというんだから、睡眠時間も考えると、一体この人はどういう活動時間帯なんだろう……などとどーでもいいことの方が気になる。

タイガーマスクのプラスチックお面に常に顔を隠し、頭にはピンクアフロのヅラ(ウィッグなんてシャレたもんじゃない、宴会の仮装に使うようなヤツ)、ペラペラ化繊の極彩色おばちゃんみたいなファッションにかなり年季の入った(言ってしまえば薄汚れた(爆))ぬいぐるみを無数にぶら下げ、寺の境内の店にでもぶら下げてあるような、がしゃがしゃした花飾りを背負い、後はもうなんだかよく判らない……。
そして、しかも、自転車!新聞配達なんだから、まさに商売道具。それで新宿の街を、そんな重たそうな格好ですいすいと走っていく。見たことない、見たことない。聞いたことも……あるような……いや、ない。全然知らなかったなぁ。

1972年、私の生まれた年に24歳だったというんだから、ウチの両親とほぼ同世代。まぁ、なんというエネルギッシュな、と思う。正直言ってあの風貌に遭遇したら、私は、ちょっとイカれたホームレスさんかも……などと思い、距離を置いちゃうような気がする(爆)。そーいうあたり、私はいまだにイナカモノ気質を持っているのかもしれないと思う。
そんな風に思っていたから、彼が大好きな女性の前であっさりと仮面を脱ぎ捨ててマシンガントークするのには、驚く。新宿の人たちはまるで頓着なく、タイガーさん、タイガーさんと呼びかけ、親しい人たち(これが無数にいる!!)はタイガー、と呼び捨てにする。
いずれ名誉区民に、と公的な人が満面の笑顔で言うほどの、いわば“まっとうな有名人”で、しかしその存在は、まさにナゾ、ナゾ、ナゾ……なんである。

正直言うと、そのナゾが明かされたという感じはしない。消化不良のまま終わってしまったという気持の方が強い。
それでこそタイガーさん、なのかもしれないが、タイガーさんを描くんじゃなくて、新宿、そして日本の高度経済成長、革命の霧散、薄まっていく国民的、文化的意識……といったものを、タイガーさんを背景にして、彼を知る人たちにインタビューする形で、構築していく、という形になった、気がする。

監督さん自身は恐らく、最初からそんな気持ちは、なかったんじゃないかとは思う。本当に、このタイガーさんという謎の人物の隅々まで解析してやろうと思っていたんじゃないかと思う。
しかし結果的に、彼の正体は何も、判らない。いや、つぶさに判ることはある。彼の日常と人となりである。
朝日新聞のベテラン新聞配達員で、映画が大好きで、美しい女優が大好きで、その女優たちに毎日、いや一日の中でも複数で恋を繰り返して、新宿の映画人、演劇人の間では、まるで同朋のように扱われている。飲みに訪れれば、タイガー!と声をかけられ、映画談議に花が咲く。

何度も、タイガーさんは映画、あるいは演劇人で、彼らと長い間苦楽を共にしたんじゃないかと錯覚を起こしそうになる。
しかし違う。言ってしまえばタイガーさんは、失礼を承知で言えば、私たちと同じ単なるイチ映画ファンに過ぎず、尋常ならざる熱意があるにしても、この「ラブアンドピース」のファッションと人懐こい人柄で、愛されてしまった、ということに、ま、言ってしまえば“過ぎない”のだよね。

なんか、ひがんでるみたいに、聞こえるなぁ。確かに、うらやましいから(爆)。映画ファンなら、自分が好きなスターに認識されて、やぁやぁと声をかけてハグし合って、一緒に酒を酌み交わすなんて、夢のまた夢に違いないんだもの。
もちろんタイガーさんはそれを数十年かけて構築してきた訳なのだが、だったらきっかけとか、そういう人たちとの出会いとか、なぜこの格好とか、出自とか、気になるじゃない??てゆーか、そもそもそれを目指して作られたんだろうと思うのに、結局、何一つ、判んない!!

もともとタイガーさんが所属する販売所のサイトに彼の紹介動画があって、もうそこで、この作品で“掘り下げられている”彼の“素性”はすべて語られているのだもの。つまり、新しい発見なんつー物は、何一つない訳よ。
そら食い下がるよ、気軽な世間話の延長線上でインタビューを再三試みるよ。時には彼の長年の付き合いである、お気に入りの美女ライターを巻き込んで聞き出そうともするよ。

でも同じ。タイガーマスクのお面を見つけてラブアンドピースで生きていこうと思った。その繰り返し。それ以外に何もあろうはずはない、とタイガーさんはかたくななのだ。
いや……かたくな、というより、のらりくらり。すぐに酔っぱらってしまって、ろれつが回らなくなるし。なんか後半になると、タイガーさんの本性探しはどうでもよくなるような感がある。

だって、住まいに潜入することさえ、しないんだもの。あくまでタイガーさんは新宿という街に住む人、というスタンスだからなのかもしれないが、最初に私が抱いてしまった印象そのままに、ホームレスちゃうん??と思ってしまうよ。
だって、いつも同じカッコだしさ……え?私がそのシーンを見逃した訳じゃ、ないよね……?そんな具合に若干イライラしたけど、最後まで目をぱっちり開けて見てたつもりだけどなぁ。

しかしてヤハリ、次々出てくる映画人たちに、こちとらそらー胸を躍らせずにはいられない。タイガーさんがろれつの回らない(だけでなく、もともと早口のおしゃべりおじさんは、なかなかに聞き取りにくいのだ……)口説き文句を繰り出す、夜ごとに違う美女たちは、なんだかロマポル、ピンク系が多い気がするなぁ。やっぱこれは、“お世話になった”ということだろーか。
……そう言われてみれば、新宿は最後の最後まで、封切り成人映画館が頑張っていたもんなぁ(今は一体、都内にいくつあるの??)。

その流れで、最終的に“本命”として里見瑶子嬢が登場なすった時にはうわーっ!!と心の中で大絶叫。しかしタイガーさんからのとめどのない愛を受けて困惑気味というか、笑顔を顔に貼りつけて、どうせいっちゅーの、という具合に見えたのは、ひねくれた見方だった、だろうか??
それまでの、タイガーさんが夜ごと恋する女優たちは、本当にタイガーさんと近しくて、それこそ、タイガー、と呼び捨てにしてて、長年見てきてくれたよねぇ、という雰囲気だったから、里見瑶子嬢だけ、違った気が、したんだよね……ただその違いを明確に作品上でこう!と提示した訳じゃなかったので、私の思い違いなのか、作り手さん自身がどう思っているのかが、ちょっと判らなくて……。

本当に、最初はワクワクしたのよ。私の知らない舞台女優さんにぞっこんのタイガーさん、きっと演劇界では名の通った女優さんなのだろう、キャリアもあって、確かに美人で素敵で、タイガーさんとの付き合いの長さを感じさせるその人が……「僕、この人も大好き」彼女の夫として現れたのは八嶋智人!!どひゃーん!!
一番のけぞったのは、ほんっとうにセッティングしてなくて、タイガーさんの日常を流し撮っている時に、ふらーりとケイズシネマの方向に向かって自転車に乗って現れた渋川清彦!気づいたタイガーさんが呼び止めて、「僕、この人大好き」とハートマークがつきそうな勢いで渋川氏と親し気に会話する場面には本気で衝撃を受けた……。

いや、どちらかとゆーと、渋川清彦が、自転車に乗ってふらーりと新宿界隈を流していることにこそ。だって、だってだってだって、ゲーノー人とゆーか、役者さんたちが、どういう風に行動しているのかって、全然、判んないんだもん!!つまりは同じ、普通の人間だということなんだろうけれど、でも、判んないじゃない??
女優さんたちだって、どこから有名無名の線引きがあるのかとかさ、ついつい私たちは考えちゃう。電車に乗るのはどこからの線引きなのか、とかさ。でもタイガーさんにはそれが、ないんだなぁ。里見瑶子嬢をフツーに新宿駅まで送って行って、彼女が困惑するほどしつこく(爆)改札を入った彼女に手を振り続ける。

うらやましいような、うらやましくないような、複雑な気分である。そら私だって、時間できっちり終わるような仕事について、人間関係に煩わされず、老後のお金のこととか気にせず、映画ばかりを観て、しかもこんな風に時に役者さんたちと交流出来たりしたら、夢みたいだ、卒倒しそう。
でも、出来ない。なぜ、出来ないのだろう。そしてそれが、タイガーさんにはなぜ、出来るのだろう。

タイガーさんは映画だけじゃなくって、惚れ込めば演劇にも足を運ぶし、そのためには新宿に閉じ込められている訳でもなくて、池袋の大きな劇場や、浅草の老舗演芸場にも足を運ぶのだ。それはめちゃくちゃギャップがあるんだけど、そもそもタイガーさんがどこに出没してもギャップがありまくりなんだから、逆にどこにだって行けるんである。
タイガーさんが、新宿の昔ながらの神輿をかつぐ祭りにくぎ付けになり、街ゆく人々、時には海外の観光客にも声と視線を送られながら、それににこやかに(お面をかぶってるからよく判らないけど(爆))対応しつつ、でも本当に、ずーっと、見守り続けるのが、なんかちょっと、……それこそ何かをね、タイガーさん自身のなにか、アイデンティティに触れる部分があったのかも、とか勝手な推測をしちゃう。

だってそれ以外は、彼はとにかく映画と女優、永遠のマドンナはオードリーという、基本中の基本をもってぶれなかったんだもの。恋愛とか、家族とか、そういう話は一切、出なかった。インタビュアーも、話を聞いた周囲の人も、そういう話は一切、しなかった。
意図的に、違いない。だってヤボだけど、これって人となりを知る上の基本だもの。タイガーさんはそういうところから最も離れたところにいるのだろう。もしかしたら神??……なぁんて。 ★★☆☆☆


人生をしまう時間(とき)
2019年 110分 日本 カラー
監督:下村幸子 脚本:
撮影:下村幸子 音楽:
出演:小堀鴎一郎 堀越洋一

2019/12/10/火 劇場(渋谷シアターイメージフォーラム)
そうか、これ、もともとはNHKBSのスペシャル番組だったんだ。知っていたら、絶対に観たに違いない。これこそが、私の理想なのだ。最期を病院ではなく、自宅で。たとえ一人暮らしであっても。
ほんのちょっと前、少なくとも20年前ぐらいまでは、死ぬことが判っている人が自宅で死ぬことはできなかった。ヘンな言い方だが、死ぬことが判っていない人が自宅で死んだ時と同じ扱い……変死となり、事件となってしまう、という矛盾は、よく聞いた話だった。

判っているのに。その死を病院で迎えようが自宅で迎えようが、その時が遠からず迫っているのが判っているのに、判っているから病院に入れられてしまう。
住み慣れた家のお布団で息を引き取ることができない。病院のベッドで、心音を表示されながら、死ぬしかない、だなんて。

でも、今は、こんな風に在宅で最期を迎えることが出来るのだということを、私は不勉強で知らなかった。とゆーか、国が医療費を抑えるためにそれを推奨しているのだと。
なかなかに苦々しい理由だが、むしろその在宅の終末医療に従事している医療スタッフは、病院でのそれよりもずっとずっと激務だろう。舞台となっている堀ノ内病院でだって、二人の医師で140人を看ているんだというんだから。

しかも始終携帯で呼び出されて。医療費を抑えるために、志のある医療従事者たちが激務にさらされている現実には心が痛むが、でも、ここには私の理想があった。
国のずさんな考え方に腹は立つが、少しずつでも、この形がスタンダードになって行ってほしいと思ってやまない。

そして、ドキュメンタリーのあるべき姿をしみじみと痛感する。こないだ観た、フィクションではあるけれど、ドキュメンタリー番組を撮るスタッフの傲慢さを痛烈に皮肉った作品のことを思い出す。被写体の言いたいことではなくて、スタッフが言わせたいことを強引に言わせる、そんなドキュメンタリー番組は、残念ながら散見せられる現実がある。
本作が最も素晴らしいのは、この激務に当たる医療従事者、福祉従事者、そしてそれを受ける側の患者、家族、が、言いたい言葉を言っていると、感じられることなのだ。

それでなくたって、死に瀕している人、そしてその家族に息を引き取るまで密着するなんて、まず撮影の了解を取ること自体が想像を絶するし、つまりその了解をとるということは……信頼を得ている、ということなのだ。
カメラがそこにかまえているのなんて想像できないほどにありのままを映され、言葉を発する、ということは、それまでに要した膨大な時間も容易に想像されるのだ。ドキュメンタリーを作る覚悟というものが、被写体を通して伝わってくる。

やはりほとんどが、ご高齢の方で、中には100歳を超えて、とてもきれいにしてらっしゃる女性なんて、死にゆくなんて感じじゃない、むしろ、家族との微妙な確執をこそエピソードにしているぐらい。
勿論病気を患っている人も数多いのだけれど、その事情は本当に千差万別。それは後述するとして……その中に、ただ一人、明らかに、異質なほどに若い人がいた。吐き気をこらえて布団の中につっぷしている場面がしばらく続くが、そのふっくらとした頬だけでも、そのとびぬけた若さが感じられた。

52歳。女性。子宮頸がん。ここに取り上げられるということは、そういうことなんだと、どきりとする。確かに苦しんではいるけれど、ふっくらと、若々しく、スッピンが30代にさえ見えるような感じなのに。
70代後半の母親が、娘の看護をしている。この年の感じ、私と母親、ソックリ同じだと思って、さらにどきどきとする。私は乳がんをやったけど、早期発見でばっちりとって、なんの問題もない、めっちゃ長生きするマンマンだけど、でも、こうなる可能性がひょっとしたらあったのかもしれないんだ……と思っちゃったんである。

それは、彼女がこの年齢でどうやら……つまり、母親の元に身を寄せているというのが、独身で、父親は先に亡くなってて、もう老いて小さくなった母親の元に、死にゆく子供である自分をどうしようもなく身を寄せているっていうのが、そういう可能性もあったし、あるんだなと、同じ境遇だから思って……。何か、たまらなくなってしまったのだ。
本当に、見た目だけでは、死ぬような感じには全然、見えなかった。他のご高齢の方たちが、ゆるやかに死を迎えるのと明らかに違っていた。

そしてね、これもヘンな言い方なんだけど……他のご高齢の方たちがゆるやかに迎えた死の先の死に顔は、そのまま、だったのよ。なんていうのかな……延長線上にあるというか。
でももうそろそろ、モルヒネも使わなくては苦しい、という先に息を引き取った彼女の死に顔は……その直前までとまるで、違っていた。ふっくらとした頬が短時間で急激にそげて、……ごめんね、こんなこと、言うべきじゃないのかもしれないけど……急に物質になった、感じがした。

多分、ご高齢の人は、少しずつ、ゆっくりと、その場所に近づいているから、そんなギャップというか生と死の違いをそれほど感じないのかもしれないと思った。
でもねでもでも……ご高齢の方の死に顔も、やっぱり、生きている人じゃないんだなって。当たり前なんだけど、ドラマや映画で死体の役で、ただ目をつぶって動かないだけじゃ、そうじゃないんだって、凄く、思った。
やはりそこには、明らかに命が宿ってなくて、心も宿ってなくて、石みたいに、ぽつんといる。それが一番、ショックで。

そういうのを、身内の死を経験していても、実際はリアルには判っていなかったのかもしれないと思ったりした。お医者さんが言ってくれるように、いい顔をしていると、そう思って手を合わせて。でも死んでしまったら、本当にそれっきりなんだなあと……思ったりした。
でもその直前まで、彼ら彼女らは、家族や医療スタッフと心やすく、時には苦しみを吐き出していたのだ。なのに、なのに……。

印象的な人はたっくさんいる。順序だてていく。身体が動かなくなって二階から動けなくなって、旦那さんがすべての介助をしている。ものすっごくまめに奥さんのお世話をしている旦那さんは、めちゃくちゃ奥さんのことを愛しているのが伝わってくるし、それをじっつに嬉しそうに受けている奥さんも、実に実に満足そうである。
でも、老老介護そのものである。旦那さんがいくら大丈夫だと言っても、周囲はそのままにはしておけない。いわゆる福祉サービスも一切受けていなかった彼らが、この先行き詰るのは目に見えている……というのが、おせっかいだったのか。そうは思わない。思わないけれど……。

介護ベッドを入れ、入浴サービスも受けて、気持ちよかったよ、でも、もういいよ、と奥さんは言うのだ。
そして、今まであんなに、天真爛漫に、陽気で、よく喋って、確かに動けないけど、めちゃめちゃ動いているような元気さがあった、のに、最先端の介護ベッドに身を縮こまらせるようにもぐりこんだ彼女は、もういいよ、来なくていいよ、めんどくさいよ……と声も小さく、明らかに生気を失ってしまった、のだ。

そして、彼らのエピソードはその後日談が続かない。本来ならば当然受けられるべきサービス、受けるべきサービス、孤立しないように、抱え込まないようにとの心づくしが、旦那さんの負担は確かに目に見えて減ったにしても、だったらそれが、良かったのかどうか、それを言葉少なに報告するスタッフたちの場面かぎり、彼らのその後が出てこない。
なんという、難しさ。人それぞれ、という言葉は安易で単純、その真の意味をまるで理解していなかったと、観客側にもつきつけられる。

本当に、様々な事例がある。父ひとり娘ひとり、しかも娘は全盲(でも、生活スキルは問題ない)、父親はひとり残される娘を気にかけているが、それは医師側がそう推測するばかりで、本当のところは判らない。
医師側が推測するのは、この礼儀正しく取り乱さない娘が、父親が死にゆくことを、判ってないんじゃないか、ということなんである。元気だし、このまま元気になるんじゃないか、確かにそんな言葉を彼女は口にする。そうじゃないんだ、もういつその時が来てもおかしくないんだと医師は言うが、でもそれも、なにかどこかやんわりというか、もう死ぬんだから!!とはそりゃ言わないわな、というところは当然、ある。

一人残される娘、しかも全盲の、ということに、父親もそうだけれど、医療スタッフたちもとらわれていたんじゃないかと思う。判ってない、その時が来たら取り乱してしまうんじゃないか、そんな心配は……残念ながらというか、なんというか、杞憂だったのだ。
観客側も、本当に教科書通りの、完璧に、周囲に礼を尽くし、言葉遣いもしぐさも丁寧な彼女に、……それこそ見えてないから、父親が衰えていくのが判ってないから、なんてちょっと、やっぱり、思っていたんだろう。

なんたること!!彼女は100%判ってたさ。見えてないから、なんて、なんという不遜なことを思っていたんだろう。
その声、息遣い、触った皮膚の感覚、すべてが、ぜぇったいに私たちより鋭敏に感じ取れていたに違いない、そして父親の心も、命の灯火の残りもだ!
死にゆく時も、彼女の暖かな冷静さ(ヘンな言い方だが、そうとしか言いようがない)は変わらないのだ。父親の手を握りしめ、駆けつける親戚たちの声を聞き分けて父親に教え、のどぼとけの動きを触って確かめ、そして……呼吸が止まるその時を、正確に刻んで、席を外した医師に伝えた。

舅に献身的に、というか、楽しそうに仕える娘婿、自分の家にいたいのに、高齢ゆえの認知症からくるワガママで、家族に迷惑をかけるって説得で、施設に入らせた母親の乗る車を見送る、残された家族のどうしようもない切なさ。
一人暮らしの母親の元に、その最後の時に詰める娘という形態は、私はほんっとに、この先のことを思ってしまう。たった一人で、母親の手を握り締めて、その死にゆく様を看取ることが私に出来るのかと、映像には示されない、翌朝の、こっちもまたすっかり白髪の娘の姿に思う。
それだけ長生きしてくれていれば、躊躇や後悔もそんなにないのかもしれないけど、でも自信がないのだ。

実に140人の患者を訪問して看る二人の医師は、共にイイ男である。そのうちの一人、主人公とも言うべきメインの森先生は、なんとまぁ、森鴎外のお孫さん!ビックリ!!鴎の字入ってる!!本当に偶然、日本文学全集の森鴎外の巻に入ったところだったんだよ!!彼は実に80歳で、それまでは腕に覚えのある外科の名医で鳴らしていた、だなんて、なんかマンガみたい!!しかして、80歳なんて、到底、見えない!!なんという若さ。
志が、彼の肉体をも支えているのか……。ご高齢の患者たちにとって、彼は友達なのだ。女性患者にとっては、ちょっと恋しちゃうような相手で、判るなーと思う。そしてそれがエネルギーになることも、めっちゃ大事だと思うしさ。

もう一人の医師もまためっちゃエリートで国際的に活躍、これもまた技術エリートで、患者そのもののと向き合うことが苦手だということに向き合うために、飛び込んだのだという。
……なんかさぁ、こんな風に理想に燃えた人の出現に頼らなければ、在宅医療、在宅終末が実現できないのだとしたら、あまりにお寒い。そら、テキトーなお医者さんに来られるのも困るが(爆)、なにか、日本は、浪花節なことに安住しちゃうところがあるから。
これを美談にせずに、法整備をきちんとしてほしい。ホンットに。そして福祉、介護従事者の待遇さ、これこそがさ!!★★★★★


新聞記者
2019年 113分 日本 カラー
監督:藤井道人 脚本:詩森ろば 高石明彦 藤井道人
撮影:今村圭佑 音楽:岩代太郎
出演:シム・ウンギョン 松坂桃李 本田翼 岡山天音 郭智博 長田成哉 宮野陽名 高橋努 西田尚美 高橋和也 北村有起哉 田中哲司 望月衣塑子

2019/7/19/金 劇場(角川シネマ有楽町)
やっぱりはじめのうち、ウンギョン氏の発音の微妙な違和感が気になって、後に彼女が演じる吉岡の出自が、母親が韓国人であるということが示されたもんだから、それ早めに言ってよーっ、集中できなかったじゃん、とか思ったりする。
うーむ、些末なことだとは判っているが、だってそんなことより素晴らしい芝居力の方が重要なことなのだから、そんなことが気になる自分がヤだったけど、そういう設定を用意しているんなら早めに言ってほしかった気がする。それともそれを全面に押し出しちゃうと、この物語のテーマに余計に作用してしまうと考えたのかもしれないが。

しかししかし、このキャストがどうやって実現したのかも興味津々だ。公式サイトもキャスト情報が全然なくって、しかも監督さんはこんな社会派映画をまかせるにはビックリするほど若くて、作品はコンスタントに発表しているけれど私は初見で、キャリアというにはこれもかなりビックリの抜擢だと思われるのだが。
でもでもでも、やはりこの作品だからなのかもしれない。失うものなどない、むしろ挑戦しかない若い才能、これはヤハリ、それなりの売れっ子監督さんだったら、二の足を踏む題材かもと思うもの。

そして女優さんであっても、そうだと思うもの。悔しいけど、このヒロインに挑戦できる日本の女優さんはいなかったのかと思っちゃうもの。
トーリ君は特に昨年の、同世代から一歩抜きんでたジャンプアップで、この挑戦が出来たと思う。いわば、これはいわば……今の日本の国、政府、首相に刃を突き付けるような作品なのだもの。

つっても私は、恥ずかしながら政治に興味がなくって、てゆーか政治家は誰がなっても同じじゃんぐらいに思ってて、市井の人間が大勢で作り上げている経済こそが国そのものだという感覚があって。
でもそれは、豊かな国になったから抱いてしまう錯覚であり、自分に累が及ばないと思うから政治に無関心になるのだ、と思う。
だから、国、政府を盲信し、誇り高き兵隊として愚劣極まる仕事を部下に命じる、内閣情報調査室(内調)のトップ、田中哲司演じる多田の、まるで政府に対する狂信者のような姿の方が私には異様に思えて仕方ないのだ。でも、意外にそんな人間は、今の日本にもいるということなのだろうか。

ところでこのしびれるような現代性のある告発的作品、実際に東京新聞の記者であるお人の著作が“原案”となっている。
“原案”ってところが、しびれる。未読だから当然、その作品自体がどういう内容であったかなんて判る筈もないのだが(たまには読め……)、新聞記者が国、政府、内閣、首相の暗部を追究していくという点が基本的な根底にあったのだとしたら、それを今の、まさにリアルな今の、同時性を持たせたのだとしたら、こ、これは、すっごい、勇気あるどころじゃない、命知らずな挑戦に違いないのだ。

こんな挑戦を指示できるのが、言ってしまえばローカル新聞の東京新聞であるということが、逆説的なリアリティをもたらしてる。
最終的に圧力に苦しめられながら吉岡が真実をつきとめた政府の暗部のニュースを、「朝日、読売、毎日も後追いをしている」とここは実際のメジャー紙の名前を出した、ということは、もともとの原作にはあった、違う案件のなにかで、実際そういうことがあったんじゃないかと思われるんだもの(著作を読めばすぐに判ることなのだが……)。

政治に無関心な私でも、大学新設における首相の私的な関係をめぐる騒動は、あれだけうるさく報道していればイヤでも耳に入ってきている。本作はいわば、それに大胆な脚色をしたのか、あるいはもしかしたら、実際にそういう疑惑があって、フィクションという形で斬り込んだのか、そう考えると、本当にゾクゾクしてしまう。
勿論、推測、疑惑だけで記事になぞ出来ない。それは本作の中でイヤというほど語られる。ということは、もしかしたら今の段階では、ということなのかと憶測してしまう。

だからこそ、なんとまぁ、めちゃくちゃリスキーな、と思うんである。メジャー紙や大手マスコミはうかつに手を出せないだろうと思われる筋立てで、もともとの著作者を抱えている東京新聞が打って出た、表現の自由の名のもとで、ジャーナリズム生命をかけて出た、そう思うと、震えが来てしまうのだ。

新設大学を、文科省やらを無視して、内閣の肝いりで作ろうとしている。その疑惑が、匿名のFAXで東都新聞のもとに届くところから話は始まる。国の私有地だのなんだの、私にすら聞き覚えのあるあの話にソックリである。首相とお友達関係とかもである。
この問題の責任者である内閣府の神崎という人間が自殺してしまう。それが、トーリ君演じる外務省から内調に出向している杉原の元上司で、内調では神崎が新設大学に関わっていたことは誰もが知っていたのに、杉原にだけは伏されていたんである。
もしかしたら最後の最後に神崎は杉原にSOSを求めていたのかもしれないのに、である。どうだろうか……でも、杉原が一切知らないらしいことを察知して、神崎は、もう、自分一人が被るしかないと思ったのか。

新設大学の本当の目的は、生物兵器の開発。こーゆーことを安易に言うのはよくないと思うが、いわば神格化した憲法を現代性視点でナンクセつけて、変えたがりまくりの今の内閣(つーか、今の首相)なら、あるかもとか、思っちゃう。
勿論、何十年も前に、押しつけで作られた憲法を改正すべきという論調は判るが、私の個人的な感覚では、理想的シンプルな人間の生きるべき方向を文言化したものであり、それは時代だのなんだのを超越しており、変えていくのならば、そのシンプルな精神を元にした枝分かれした法律や条例を変えていけばいいだけの話ではないかと、思うんである。

だから、やたら憲法の文言を変えたがる今の政権に不安を感じるのはそれであり、本当に頭のいい人ならば、憲法を変えなくてもやりたい方向に引き寄せる政治が出来るんじゃないかと思っちゃう。
そう……戦争をしたがってて、表現を取り締まりしたがってて、女性や社会的弱者を排除したがっているんじゃないかと、思ったりしちゃう。

かなり作品そのものから話が脱線してしまった。ゴメンなさい。というぐらい、本作が挑戦的だということなんだけど、それにしても、緊迫した役者の演技を支える緊迫した演出、カメラワーク、そこまでやる!!??と思っちゃうような、独特な照明、映像処理に感嘆する。
特に杉原が勤務する内調の、ずらりと並んだパソコンに向かう無機質な同僚たち、内調のシーンは常に、目を凝らさなければその表情が見えないようなスモーキーなブルーグレーに支配されている。

事実を隠ぺいするための、それなら人間の尊厳も何も抑え込むような、不気味な空気感。
仕事は内閣を守るためにそれに歯向かうニュースソースを、一般民を装ってSNSで攻撃しまくる、言ってしまえば愚劣な稚拙な、仕事ばかりである。
仕事??これが仕事なのだろうか……。配られる資料をもとに無機質にキーボードをたたく無数のスタッフたちの姿が恐ろしい。

杉原は、外務省からの出向で、そういう意味では最初から部外者だったのかもしれない。出産間近の妻と、見事な夜景を望めるということは、どちらの意味でも高そうなタワーマンションに住んでいる思しきである。
杉原に最後の想いを託した神崎もまた、家族には何も明かせずに死んでしまったことを考えると、それでなくても仕事仕事で大きなお腹を抱えた妻に不安ばかりを課している杉原の苦悩は判るのだが、このあたりは、まだまだ、配偶者に対する男の見栄っつーものは、そんなもんかなあと思う。

女性側の主人公、吉岡もまた、新聞記者の父親がスクープをすっぱ抜いたのに、誤報だという濡れ衣を着せられ、自殺に追い込まれている。それもまた、家族への波及を恐れたのではないかと思われる。
自身のプライドもあったのかもしれないが……いや、家族を背負っているという気持こそ、プライドであるのだろう。正直、くだらないと思う。死なれた家族たちは、そう思うだろう。自分たちをプライドにしてなんて、くだらないと、涙を流して責め立てたいだろう。
このあたりはヤハリ、男と女の、やたら家父長制度を背負いたがる男と、何もない女の、違いなのか。

だからこそ、吉岡は、圧力に怯えながらも、同僚や上司の支えで、勇気を奮い立たせられたのだと、思ったりする。
吉岡の上司、陣野を演じる北村有起哉や、同僚を演じる岡山天音がとてもステキである。どんな硬派な映画でも、女一匹難題に飛び込むと、手を貸してくれる男子の誰かとアヤしい雰囲気にかすかにでもなるものだが、そんなゲスな思いを忘れるほど、それが一切ない。

それこそトーリ君演じる杉原とも、まあ彼は身重の妻を抱える身だから余計だけど、でも本当に、一切ないんだよね……。この映画に単身異国から飛び込んできたウンギョン氏の、孤高の、孤独感が、そのまま投影されている気がしちゃう。

父親も新聞記者、彼のスクープは誤報とされ、父親は自殺した。本当に誤報だったのか、いやそもそも、そんなことで自殺したのか、葛藤を抱えながら自らも父親の母国で同じ職業に就く。
そして父親の過去をネタに、お前も死にたいのかと脅しをかけられる。彼女の脳裏に、その時々にフラッシュバックする辛い過去。父親の遺体と対面した時、それが神崎の葬式の時にマスコミに囲まれた娘の姿につながり、矢も楯もたまらずかきわけて声を上げ、……その時に杉原と出会うんである。

本筋としては、政府が表向きはマトモな大学設立、しかし実は兵器開発のためというセンセーショナルな筋書きではあるのだけれど、今の日本で、それが脅威だと、どれだけの人間が思うのかと、いうことは、難しいところだと思う。
特に主演の二人はめちゃくちゃ熱演だし、素晴らしい切り込みだとは思うが、結果的にじゃあ二人が、その危機感にどこまでヤバさを感じていたのか。

それよりも、国からの圧に、今のポスト以上に、家族や自身の命の危険を感じたからこその危機感なんじゃないか、つまりそれって、今の日本が、兵器とか戦争とかはどこか絵空ごとで……表面上は軍隊もないし、戦争放棄だし……ってことで、やはりそれが、平和ボケしているってことなのかと。
ここで彼らが脅威に思うのは、家族への脅しであって、国の危機ではないのだと。ただ、吉岡はそうではない。新聞記者というのもあるけれど、やはり半分は韓国のルーツがあり、アメリカへの留学という経験もあるというスタンスが、どこか、どうしてもノンビリとしている日本人たちに、打ち込む大砲の役目を果たしたと思う。

最初はね、新聞ってさ、今は後手後手のメディアみたいに思っていた。今、新聞を読む人が、新聞に重きを置く人が、どれだけいるのか。みんなネットで情報を得て、それを信じている。
でも……常に新しいニュースを……それがどんなにくだらないものであっても……を提供し続けなければならないネット、そしてニュースというよりもスキャンダル、人の目を引くことが第一の週刊誌ソース、その二つがほぼほぼ同時に連動している現状を考えると、裏をとり、絶対に真実でなければならないことが前提で記事を書く新聞の重要性を改めて感じるし、その仕事に矜持をもって挑んでいる記者さんたちを信じたいと思うし、尊敬したいと思った。

正直、ラストシーン、もしかしたら上からの圧に屈してしまったのかもしれないという暗示は恐ろしかったけど……でもそれだけ、真実を知るために払う犠牲を、私たち末端が負わなければならないのだ、真実を伝える彼らを信じることで、そう思った。
ダブル主演のトーリ君とウンギョン氏の素晴らしさに、ただ感服したい。★★★★☆


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