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ユー★ガッタ★チャンス
1985年 101分 日本 カラー
監督:大森一樹 脚本:丸山昇一
撮影:水野尾信正 音楽:大村雅朗
出演:吉川晃司 浅野ゆう子 柴俊夫 阿藤快 佐藤蛾次郎 アパッチけん 辺見マリ 高山広士 小松政夫 松本明子 加藤善博 安田伸 広田玲央名 レイモンド・アンソニー・ドゥーハン 大谷淳 相田寿美緒 パパ 宍戸錠 山田辰夫 原田芳雄
いやあ……ビックリした。吉川晃司はやっぱりあの当時、なぜアイドルとして扱われてしまったのか、そういう時代というのもあったに違いないが、ジャニーズアイドルにキャーキャー言うのと同じように同じ年頃の女子たちがキャーキャー言っていたのが不思議だったけど、よーく見ればもしかしたらもちっと年齢層上のファンたちだったのだろうか。
つまり彼をオトコとして見るような……。今ではすっかり男性ファンが多いような印象だからホント、不思議である。
そして今の印象とちっとも変わらないステージングの男っぽさ、カッコ良さだから、今観ても(実にふんだんに、ライブパフォーマンスに尺を割いてくれるのがワクワク!)今と全然変わらないなあと改めて思うのだが(まあ肩パッドファッションは時代にしてもね)、そうか、あの頃彼は19歳だったのだなあ。いやそれは民川裕司の年であるのかなと思って調べたら、まさにそのまま。
民川裕司と吉川晃司が完全にダブッて見えてしまうのはそりゃあ、微妙にかぶせているネーミングはもとより、そもそもの吉川氏のヒットナンバーを次々に見せてくるのだってそうであろう。
これはさあ、これは……凄いことだよ。当時、最初から何作も民川裕司シリーズを立ち上げて、いわば彼をスターダムにのし上げるための壮大なる前奏曲であって、前奏曲がクライマックスにまでなってしまうというのは!!
こーゆー経緯を見るとついつい吉川氏本人の経歴に引っ張られて語りそうになるのだが、キリがないのでやめなければ。あくまで映画は映画それだけのこと。民川裕司は吉川晃司ではない。
しかし……多忙を極めたアイドル的人気の彼の生活をそのまま模写するかのような描写には、息が詰まる気持ちをマネージャー(おお、柴俊夫!彼も全然変わらねー!!)にぶつけるシーンがふんだんに盛り込まれていて、そのまんまだったんじゃないかと夢想しちゃう。
とゆーのも、その当時の彼の人気ぶりをリアルタイムで(ブラウン管(爆)のこちら側から)見ていた訳だし、そして吉川氏はジャニーズアイドルのような夢の国から来たキラキラスターじゃなくて、この民川裕司のように年上の恋人がいたりして、こっそり逢瀬したりなんかして、なんていう妄想をかきたてる男くささがあったから。
でも、すんごい意外だったのは、ステージングでは今と全く変わらないカッコよさそのまんまなのに、芝居で喋ると、ああ19歳!!の幼さがはじけることなんである。
声も幼いし喋り方も幼い。思い通りにできない苛立ちがその幼さににじみ出る。こんなのは、リアルタイムで観ていたなら到底気づけないほほえましさだと思われる。だから時を経て往年の映画を観る楽しさがやめられないんだよなあ。
民川裕司が思慕してやまないのが、オープニングで印象的に示されるCM撮影の監督である。結局その監督の合田と裕司がともに押していたハードボイルドなバージョンは却下され、バッカみたいにダジャレを繰り出して、南の島で女の子とキャッキャ言ってる方が採用されて二人ともひどく失望するんである。
合田は海外の映画祭で評価されたけれども、日本ではけちょんけちょん。大衆が求めるアンパイしか作られないと合田は慨嘆し、裕司も大いにそれに共感するんである。
このあたりは当時も今も、きっと作り手自身が実際に歯がゆく思っているところをぶつけて来たんじゃないかとは思うんだけど、それを物語上で押し通せないあたりに、商業映画の哀しさも感じ、いや、押し通せないことこそが現実なんだと逆ギレみたいに言っているような気もする。
結果的には合田は夢見る夢子ちゃんみたいな切って捨てられ方をしちゃう。そもそも合田に単純に憧れていた裕司がそう思っちゃうのはキツい。でも 年も経って見てみると……狭いマーケットの中で映画を作ってる日本映画界への大いなる皮肉としか、思えないのだ。
表面上は夢見る夢子ちゃんが大きな口を叩いても結局はね、と着地させながら、本当に才能ある人が映画を作れない、つまり映画は娯楽商品であり、パトロンがつくほどの芸術じゃないんだと。
パトロンなんて古いいい方しちゃったけど、スポンサーという言葉の意味が、あの頃と今とでは、露骨な意味で違ったと思うから。
マスコミのえげつない取材攻勢も、当時はフツーのこととして見ちゃっていたんだろうけれど、30年以上も経ってから改めて見ると、作り手(あるいは出役こそか)がそれに対してハッキリとした非難の態度を持って描いているのがアリアリと判る。
もちろんエンタテインメント映画だから、このムチャなマスコミとの追っかけっこを見事なスペクタクル、ジャッキー映画もかくやというような車道、歩道橋、ぬかるみの川、路地、あらゆるアレコレを使いまくって、ほんっとうに素晴らしいアクションを見せる。
だけど、執拗に追ってくる、しかも理不尽な正義を振りかざして追ってくるマスコミを蹴散らしまくって笑っちゃうぐらいのエンタテインメントにしているあたりに、ねえおかしいでしょ、コイツら!!というハッキリとした意図が感じられる。
しかもスゴいことに、このマスコミ軍団は、自分たちこそ被害者だと、ケガさせられ、報道の自由を妨害されたとシュプレヒコールをあげるんである。マジか!!
……でもそーゆー、時代だったよなあ……いや今だって、結構大差ないかもと思っちゃう。
んで、なんか気になるところばかりピックアップして結構な展開をすっ飛ばしちゃったけど(爆)、そうそう、そうよ、この映画のヒロインはなんと、浅野ゆう子!!姿をくらました合田を探しに来ている同士、夕子として裕司と出会う。
アメリカで日米合作映画の契約に関わる仕事をしているという彼女は、彼女もまた合田の才能と何より豪胆さにホレこんでいる。裕司はてっきり、二人は恋人同士と思い込んでいるのだが、そういう訳じゃなかったらしい。
合田を探す道行こそが、本作の最もエンタテインメントなるところで、合田がもぐりこんでいる高級カジノだの、合田が口八丁手八丁で金を借りたカジノのオーナー、本郷三兄弟の乗り込む豪華な船に乗りこんだりする。カジノのママは辺見マリだし、本郷三兄弟の長男は蛾次郎さんだったり、なんかいろいろくすぐるんである。
あ、そうそう、この三兄弟の妹がなんとまあ松本明子サマで、吉川氏とはそもそもそのデビューの頃からの縁があるというのを知るんである。
蛾次郎さんが金を出す見返りに妹をCMに起用するように言ったのに、上手く撮れない苛立ちに合田はアッコちゃんに「このノータリンレディ!お母さんと買い物にでも行ってきな!!」と暴言を吐く。
三兄弟のアホさでなんとなく笑い話にさせられちゃうが、今のコンプライアンスから思うと、この台詞全般、完全にNGだよなー、うわー、マッチョな時代……とゾワゾワしちゃう。
そういう観点で見ると、ほんっと、マッチョな時代だし、男が上位に立って、カッコよくいられることが何の不思議もない時代だったのだ……。だからこそ合田のように転落するとメッチャカッコ悪い、んだけど。
ところで、これまた言い忘れていたけれど、気分を損ねた本郷三兄弟から沖の上にボートで放り出された裕司と夕子。着の身着のままに見えたのになぜかポテトチップスとか持ってて、ポッキーゲームならぬポテチゲームでチュッチュしちゃう。
おいおい、そんな軽いボートの上で××しちゃったらあっという間に転覆だぞ、とゲスな心配をしたがまあそこはさすがにキスだけで、若く体力のある裕司は上着を脱ぎすてて海中に飛び込み、どこともしれぬ岸に向かってボートを押し進めるんである。
岸につき、その後トラックのヒッチハイクに成功したのは夕子の美脚のせいで、メンが割れてる裕司は結局自力でコンサートが予定されている神戸に向かうことになる。
こっからはとにかくムチャムチャである。プロレーサーの練習と思しき中に混じって自転車をこぎ、そのまま駅の中に突っ込んで新幹線に乗る。着いた駅では当然のように取材陣が待ち受けている。それを、改札も通らず飛び越えちゃう。
もうね……ここまでもそうだけど、吉川氏の身体能力にはアゼンである。いやさあ……元水球選手、それも超一流の、というのは知ってはいたけれど、アクション映画出来るよ!!と思いながら観ていて、後から探ってみると、まさに吉川氏は千葉ちゃんと倉田保昭氏に憧れていたとゆーんである。
オー!ノー!だったら、彼にガッツリのアクション映画させたかった、見たかった!!
合田の夢、その大きな存在を、周囲からあれこれ言われてもどうしても裕司は彼を憧れずにはいられない。合田は廃墟に裕司と夕子を導く。ここで合田が夢見るように語る、映画アカデミーのような、企画も製作も研究も上映もすべて備わっているような場所は確かに確かに、理想であろう。でも、それだけの器量が合田にはないし、才能はあってもまだ確たる作品を残していないのに金ばかり無心する裕司は彼に失望する訳で……。
先述したようにこれは大いなる皮肉であり、そういう大きな考えを持っている才能ある人を抱えきれない社会こそを皮肉っているんであり。でもそれがその当時、吉川晃司のファンたちだけが観に行った中でどれだけ議論されたんだろう。
合田が出場する筈だった、ハワイのウィンドサーフィン大会に、世間を騒がせて謹慎を命じられた裕司が代わりに出るとか、そのシークエンスで御大、宍戸錠が満を持して現れるとか、ここだけはなんともとってつけたようで、これ必要??と思ったが……。
バブル時代のゴーカな娯楽として、カジノ、個人持ちの船、ハワイ、ウィンドサーフィン、なんつーか、豪華キラキラのアイテムとして必要だったのかな。宍戸錠を駆り出すぐらいにね!★★★☆☆
今でももちろんそうだが、このあたりから仲村トオルの色気ダダ漏れ時代が始まったように思う。多少多すぎなぐらいのぐしゃぐしゃの黒髪が、余計に疲れた男を演出する。
正直言って後に言われるように、12年間も別れた女を忘れずに思い続け、女の方も同様で情熱的にヨリを戻すなんて、こんな美男美女が12年の間何にもなかった訳もなかろうし、なんとなくロマンティックすぎな気がしなくもないが、まあそれは言うまい。
美男美女、お相手はこにたんである。仲村トオル演じる波多野は今は故郷の篠山(ささやま)に引っ込んで塾講師をやっているが、かつて東京の名門女子校で国語教師をしていた頃、生徒と恋に落ち、卒業を待って結婚した。そのことが波紋を呼び、罷免され、結局離婚と相成った。
どうやら罷免されたのは、単純な“エロ教師”という糾弾だけではなかったらしいことが、じわじわと不穏な空気を過去へとすり流し始めるオープニングから感じられる。
冒頭、塾で講義を行っている波多野は、何かあらぬ方向をぼんやりと眺め、生徒たちが不審そうにする。どうやら来ていない生徒を気にしていたらしい。
その生徒が訪ねてくる。女子生徒である。波多野は一人暮らしだし、だるだるのスウェット姿で飲んだくれていたし、彼女の勝手知ったる様子と、でもどこか遠慮というか気まずい感じで、この二人の関係は何だろう……と思ってしまう。
結局は本当に講師と生徒に他ならないのだが、波多野がかつてそうした経緯があることをだんだんと示されるに至って、あの時感じた何とも言えない雰囲気は、彼の側に自制じゃないけど、過去を思うところがあったのかと思わされる。
この生徒、広瀬の方も、決して波多野となんのという感じはなく、家庭環境に恵まれない彼女が、波多野と、この時には存命だった母親に不思議に懐いて、なんとかこの難しい年頃を乗り切った、という感がある。
そしてまるで波多野の跡をなぞるように、東京に出た後、広瀬もぐっと年上のおじさまと恋に落ちてしまう。更にそれが、波多野がかつて追われた本当の理由に抵触してしまって、波多野は否応なく、二度と戻ることのなかった前職の学校、東京に降り立ち、そしてかつての恋人(妻)とも再会することになるんである……。
ああ、ミステリ、ああ、サスペンス。言うべき内容がてんこ盛りで大変大変(爆)。もうメンドくさいから早めに言っちゃうと、名門私立学校の理事という名誉、そして理事長をもくろむ欲得、四年制大学の設立にからむ利権、単にカネを欲しがる輩は弱みを握ってはゆすりたかりにかかる。
当時、波多野はその渦中にいたのに、なあんにも気づいてなかった、ということだよね。もちろんラブまっさかりだとゆーこともあろうが、そのラブまっさかりを利用されて追われた、とまでは気づていなかった、のかもしれない。
波多野がまっとうに糾弾した、コネ転入してきた理事の娘、ぜんっぜん成績も達してないし、素行も悪いし、言うこと聞かないし、業を煮やして波多野は職員会議にかけた。それこそが真の原因だったのだ。
まだ新進の理事、小さなメンテナンス会社の社長であった池辺が理事長への道を目指してのし上がろうとしていたところを、教師として当然の義憤で波多野が立ちはだかった。池辺は怒り、判りやすくスキャンダルな騒ぎを起こしていた彼を追い払った。それでコトは済んだはずだったのだが……。
そう考えると、こにたん演じる雅子と別れることになったのは、こうしたドロドロの欲得に巻き込まれた訳じゃなく、本質は本当に……二人の問題であったということなのだろう。
再会後、まさに本心を吠える雅子が、「国語の教師の割には肝心な言葉が少なすぎる。10代の女の子が10歳も年上の男にそんな簡単にホレると思いますか。私たち二人が悪かった。あなただけじゃないでしょ。あなたはいつも一方的。あなたの里に行くことを拒否したのをどうして責めないの。どうしても私を一人前扱いしないのね。尊重の意味を間違えてるわ、波多野先生。」という具合に、長くてすんません、全部が印象的な言葉すぎて、思わずメモっちまったのさ。
決して決して、子ども扱いしたという訳ではないだろうが、彼女を大切に思うがゆえに苦悩した結果の決断だったんだろうが、19歳の女の子にとっては、大人ぶって、全部ひっかぶって、全然分かち合ってくれないことが、絶望的なほどの寂しさ哀しさだったに違いない。
この台詞、19歳でも本気で考えてる、と本当に好きな人に出会った時の女の子の強さを、12年後の波多野の教え子、広瀬が、まるでデジャヴのように彼の前で繰り返すんである。
広瀬のお相手は彼女のバイト先のバーで出会った角田という男。奇しくもこのバーのママが雅子であるというのは運命的としてもあまりにも出来すぎな気はするが、まー、気にしない気にしない。しかも角田が、波多野が勤めていた名門女子校の経理担当だったという偶然も……気にしない気にしない……。
角田を演じるのはうじきつよし氏。広瀬を演じる南沢奈央嬢とは実に20は離れている。波多野と雅子の10歳差程度とは訳が違うし、自分の例もあるから波多野は彼女の目を覚まさせようとするんだけれども……。
いや。てゆーか、そもそも波多野が東京に来た理由は広瀬を探すため。広瀬のおばあちゃんが危篤なのにちっとも連絡がつかなくて、もう出てくることはあるまいと思った東京に出てきた。
この時点で観客は、波多野が東京にいた過去があることを知らない。だから、なんか不穏な輩に追っかけられて、巧妙に逃げおおせる彼に、「あいつ、ここに土地勘ありますよ」と輩が言う台詞を聞いて、えっ、と思うんである。
後に判ることだけれど、波多野を付け回しているのは池辺の子飼いのヤツら。陣頭指揮を執っている中込は、当時の若手イケメン君、窪塚洋介。先述したような、金さえ稼げればしがらみを感じないタイプである。
そんな男がなんでここまでのし上がったのか……池辺の腰ぎんちゃく、ってゆーか、自ら「一生兵隊です!!」とまで言う、大森(菅田俊)と年恰好もキャラも何もかもあまりにも対照的なもんだから、池辺が何を思って中込のような何を考えてるか判んないような青二才を取り立てたのか、ホント、不思議でさ……。
元アマチュアボクサーで、めっぽうケンカに強い、というだけなら、大森も同様に喧嘩殺法に強いのだもの。ただ手加減が出来なくて吐かせるつもりが相手を殺しちゃうようなアホなところはあるけれども(爆)。
理事長の金子美篤が不慮の事故死を遂げた、というのがこの欲得ゲームが表面化した出来事だった。
美篤理事長はリベラルな思想の持ち主で、追われたとはいえ波多野も一目置いていた人物。だから事故死、ということに当然、不審を抱く。四年制大学設立の夢矢先、しかも工事現場での転落事故とはあまりにも不自然すぎるが、そのまま放置されていた。
波多野は数少ない味方だったかつての同僚、そしてちょっと忘れていた当時から勤めている事務員と接触して、真相に迫っていく。
ちなみにこのかつての同僚、杉本哲太は、愛人であるこの事務員、サトエリが、「もともと、お前の方だったんだよ」とその痴話げんかの原因を耳打ちするんである。そんな具合に波多野はドンカンで、自身の色気に自覚がない男なんである。あー、罪作りなんである。
雅子が母親から受け継いで由緒正しき上品なバーのママになっているのは、それ以上の意味はなく、大森が吐き捨てるように「エロ教師め。お前が捨てた後、スナックのママになってるよ」なんてことでは、決して決して、ないんである。
きっちり上物の和服を着こみ、お客様を接待する雅子、そして店の雰囲気は、外側から見える外看板のそっけなさこそが不自然なほど、上級クラブの雰囲気である。
ちなみにママを受け渡した雅子の母親というのが江波杏子で、彼女もまたこの事件にいっちょかみ。美篤理事長の愛人(本人曰く、節度を保った、つまり大人の恋愛だけど、純愛度の方が強い)であったのだった。
郷里が同じで、偶然の再会で恋の炎が燃え上がった。偶然……ありえない偶然が多すぎるのはミステリやサスペンスとしてどうなのとも思うが、まあこの際言うまい。母親としては、娘の幸せを願うから、波多野のことはそりゃあ許せない部分はあるけれども、含んで、送り出すんである。
正直、雅子が危ない目に遭っちゃうんじゃないかって、ハラハラした。最初の再会の時にはお互い遠慮がちというか、探り合いというか、そんな感じで別れたんだけれど、次には火がついた。
その時にはもう事件のあらましがあらかた判っていて、今度こそ教え子を守り切る、と波多野は愛の一夜を過ごした雅子の部屋を後にする。……正直、このまま会えなくなる方がリアリティあるなと思ったから、この別れにはかなり緊張する。
広瀬が愛した角田が死んでしまったことが、後からどう考えても、やっぱりやっぱり、哀しすぎて。原作に沿ったとか言うことなのかもしれないけど、波多野と雅子のかつてを忍ばせる、年は離れているけれども本気の恋を、波多野と雅子は12年の時を超えて成就して、広瀬と角田は彼らの時代の負債をもろに受けて破壊されてしまうなんて、そんなの、ツラすぎる。
せめて映画だけでもなんとかならんかったの。二組のカップルが時空を超えてハッピーエンドじゃダメだったの。
ラストシークエンスはひたすら男たちの死闘アクションを見せるくだりで、確かにコーフンするけど、角田さん生きていてもそれをジャマすることはなかったんじゃないの……。
今を生きている女の子が、運命の恋をした相手が目の前で死んでいて、彼女自身も死の危険にさらされ、その後恩師に助け出されるって経過があったとしたって、愛する人の死を目の当たりにして、あんな風に、良かったねー、なんて結末、ちょっとないんじゃないのかなあ……。★★★☆☆
デビュー作の頃から構想はあったというけれども、やはりこの作品はある程度のキャリアとある程度の年齢が積み重なったからこそではないかと思われる。
つまり、監督自身がこうした子供たちの親となりうる年齢になった、ということじゃないかとどうしても思ってしまう。というのは、勿論子供たちもすさまじいんだけれど、親たちが凄まじくて、その形相が彼らの内面の凄まじさを抑えきれなく出しているみたいで。
それはクリーチャー的なことではなくて、こうなるだろうと、こうなるしかないというのを、監督さんが腹を据えて描き込んだからのように思えてならないのだ。
少年が、いじめの果てに、というか、いじめの中のほんの偶然か戯れのように相手を殺してしまう。しかし証拠不十分(だって彼は隠滅したんだから)で不処分となる。しかし世間は許さず、激しいバッシングに逃げ回る日々となる。
家にベタベタと張られた張り紙や罵詈雑言の殴り書き、ペンキを叩きつけたような跡。加害者家族に浴びせられるこうしたお約束ともいえる描写が、もはやそれを遠くから眺める彼らにとってはひえびえとそびえたつあたり、もうそんなところに問題はないのだと、言っているような気がして。
少年事件が、その罪が決定的だったとしても、少年法に守られて自由になってしまう、その理不尽さは残酷な事件が起こるたびに取りざたされてきた。20からたった一年違う19であっても、とか言っているうちに、中学生、いやもっと下の小学生でも凄惨ないじめからの自殺、殺人事件さえ起きた。
それでも彼らは名前も明かされず、“のうのうと”どこかで生きていけることに、同世代の子供たちも大人の私たちも憤慨を感じた。けれども、どうしたらいいのか。そもそも彼らに罪の意識はあるのか。罪とは何なのか。愛とはなんなのか。
こう書いてしまって思わずその記号的な言葉に自分ながら赤面してしまったが、でも本作の中で答えの出ないそれを、追究していることは確かなのだ。
答え……私は、同級生を殺してしまった絆星(きら)が、そして彼を愛という名のもとに意地になって信じ続けてどこまでも一緒に逃げ続ける母親が、結果どうなるんだろうと、その答えをずっと待っていた。どう決着をつける気だろう、……つまり作劇のオチを待っていたのだ。
これは映画観客の悪い癖のひとつで、物語は起承転結があるべきで、納得できるラストがある筈だと、ついつい無意識に思ってしまう。でもこのテーマにオチなんて、つまり結論なんて、出る筈がないのだ。
殺された子どもは生き返らないし、殺された子どもの親は、口では真実を知りたいだけと言っていたって、真実が明らかになって加害者がこうべを垂れても決して決して彼を許すことはない。
世間という怪物は安全な場所から神の目線に酔って、加害者のみならず被害者までも都合のいい理由をつけてバッシングし、匿名の世界でやられるそれはつまりは単なる暇つぶしで、相手を疲弊させて追い詰めたことさえ自覚せずに、暇つぶしの標的は次に移ってしまうだけ。
というのが顕著に示されるのは、絆星がバッシングの嵐から流れ流れて転居を繰り返した先、ついに偽名を使って学校に通い始めるもバレて、そこの、いかにもザ・正義感の男子と女子に追い詰められるシークエンスである。
そもそもその学校では“演劇部の先生と付き合ってる”というデマの元に一人の女子が女子グループに執拗ないじめを受けている。面白いのは、イジメを受けている桃子がイジメている四人の女の子よりずっと大人びていて……てゆーか、四人の子たちがまるで子供で、なんで優位に立っていると思い込んではしゃいでいるのか、見ていてパラドックスのように思えてきておかしな気分になってくるんである。
桃子のいじめがホームルームの議題に上がるが、いじめっ子たちはちっとも頓着する風もないし、クラスメートたちも大人びた意見を交わすけれども、やはりどことなく他人事である。何よりも、いじめられる側にも原因がある、という論調に傾きがちなところが、赤裸々である。
このディスカッション場面はかなり興味深く、この作品自体が少年犯罪について子供たちがワークショップを重ねたというんだから、子供たちのナマな意見がかなり反映されているに違いないのだ。そして、いじめられる側に原因を見出すのが、それは公平に見るべきと言う“頭の良さ”なのかもしれないと思う一方で、じゃあ公平とはなんなのか、とふと立ち返らせるのだ。
それは罪とはなんなのか、愛とはなんなのかという、先述の想いに立ち返る。つまり、私たちはその言葉の意味を判って使っているのか。そもそも言葉というのはそこにある現象を極めて曖昧に定義しているにすぎないのだ。
それを、繰り返し繰り返し、思い知らされる。そもそも絆星は、樹を殺して“しまった”ことを、“しまった”としか思っていない、と思われる。いじめているという自覚は、殺してしまったことによって初めて登ってきたんじゃないかとも思われる。
作品の冒頭、幼い絆星が血だらけになってさまよい、それを母親が抱き留めるというシーンがあって、それは彼がいじめられてそんな目にあったんだと父親が語るんである。だから絆星はいじめの痛みが判っているんだから、友達をいじめるなんて絶対にない、と。
……一見通りそうな理論だが、実は理由にはなっていないのだ。それは数々の実証があって、いじめられないためにいじめっ子になる、パワーバランスは常に変動するものであって、親は常に子供が天使だと思いたがるが、そうじゃないのだ……。
ただ、絆星は、確かに家ではいい子だった。両親とカラオケに興じ、洗濯ものを畳む、だなんて男の子としてはなかなかだ。でもそれはあくまで家族に見せている姿だ。
父親は、割と早い段階で息子がやっちまったんじゃないかと、思ったんだと思う。母親の、つまり妻の勢いに押し切られてしまっただけで。
「絆星はそんなことをする子じゃない」母親は、愛という武器を殊更に掲げて、息子を信じようとする。そうだ、守ろうじゃなくて、信じようとしただけなのだ。それは息子への愛だっただろうか。自分を守るために息子をムリヤリ信じようとして、それを愛だと言い張っていたんじゃないか。
その場合の愛とは、まるで記号化されただけの“愛”だ。絆星は、信じているとか愛とか、そんな言葉を多用しまくる母親に、結局は自分が犯してしまったことを言えなくなってしまう。彼にとっては“罪”という言葉もあまりにも形骸化しているから。
割りばしで作ったボーガンで矢も割りばしを削ったもので、びくびくしている樹を脅かすように的を絞り、どうせ当たらないと思ったのか、当たっても割りばしなんて大したことないと思ったのか、あるいはそんなことも深く考えずに引き金を引いたのか……恐らくそのどれもが当たっていたのだろう。
絆星はやはり、コドモだったのだ。年齢的にも精神的にも。こんなおもちゃの引き金を引くことでどうなるかと想像できなかった。だからただただうろたえて証拠隠滅して、お山の大将だったからその場にいたメンバーに脅しめいた口止めして。
そう、お山の大将だったんだよね……友達じゃなかった。絆星側につくか、いじめられ側につくか。樹と共にいじめられていた子は絆星が殺したと真実を告白するけれども彼だけで、結局不処分になると彼は裏切り者としてまさに樹の身代わり状態になってしまう。
しかし時代はSNS社会。絆星に対する“正義警察”が有象無象になって襲いかかる。弁護士が、証拠はないんだと、他の子たちを恫喝するも同様に、不処分という好成績を残したことが、逆に絆星たち家族を崩壊へと向かわせてしまう。
この女性弁護士の形相も凄かった。目を見開いて、飛び出ちゃうんじゃないかと思った。そして絆星の母親の、私はぜえったい間違ってない、息子を愛で守るんだ!!という、……女性とは思えないような鉄のような鬼の形相に背筋が凍り続けた。なんと彼女はソウルオリンピアンのスイマーだという!!
絆星を演じる彼も剛毛眉毛といい厚ぼったい唇といい深い二重のぐりぐり瞳といい凄まじいインパクトで、他の子どもたちも誰一人、カワイイとかイケメンとかいないのだ。
なんていうか、時に悪魔的というか、誰もかれもが頭にこびりつくインパクトのある風貌で、……やあっぱこの監督は(いい意味で)狂ってるなと思った。ただ単にバイオレンスの残虐さで恐ろしいと思うんじゃない(それもめっちゃ恐ろしいのだが)、その異形の風貌、形相の中に、人間の……恐怖からくる、保身からくる、自分勝手さが、罪や愛といった都合のいい言葉を盾にして現れてくるのだ。
罪を言い募るのは子供を殺された親で、愛を言い募るのは加害者になった親で。そしてその子供同士は、一方は死んでしまっているから口がきけないけれども、生きている加害者である絆星も、この親たちの罪と愛のバトルに口をはさめず、生きている絆星でさえ、彼に殺された樹と同じように、現実に生きている気がしない。
樹はもう死んでしまって、絆星の前に亡霊のように現れるけれども当然何を考えているかなんて判らないし、絆星は、そう、まだ子供なんだもの、それを恐怖という感覚的に受け止めるだけで、それが自分がしでかした“罪”というものなのか、向き合う余裕も精神的許容力もないのだ。
絆星は桃子と出会って、殺してしまった子の親に謝るべきだと言われ、なんとなく心動かされて勇気を出して向かうけれども、そもそも自分がしでかしてしまったことが、罪、という遠い言葉にどうにも結びついていない幼さを見てるこっちはどうしても感じるし、そしてそれが……理不尽だと思うし。
不完全な法律だとは思うけれど、少年法、というものを議論するべきところなのかと、逡巡しながら思うのだ。
罪、というのは、大人社会が作った定義で、罪を償う、という定型になると更に形骸化される、というのは、こうして少年犯罪を通してみるとひどく心に刺さるんである。罪、愛、罪を償う、愛と信頼。なんて薄っぺらく、頼りない言葉。
自分が確かにしてしまったことに、ひどいバッシングやリンチや、時に自分からケンカをしかけてボッコボコにしたりして、どうしようもないモヤモヤにじたばたしている絆星が、哀れになるのだ。いじめられていた過去があった少年。それが心優しい少年になる可能性だったのに。
……いや、逆だ。いじめられることがつらいことだとうちのめされたら、いじめる側に回る。何の不思議もないロジックだ。それは大人社会の、成功者の論理と同じことだ。なぜそれに気づかなかったのか。
キャストの中には名前さえ非公表のプロではないキャストも多数いて、映画の覚悟というものを痛切に感じさせる。ここには名の通った役者は一人もおらず、だからまるで現実を見せられているような恐ろしさにさらされ続ける131分なのだ。
名前も顔も見えないSNSという暴力と、生身の暴力も匿名によって行われる。絆星が偽名で暮らさざるを得ない、名前を失った時、名前がないってことは、生きてないってことじゃないかって、唐突に思った。
SNSの中傷も、貼り紙や落書きも、成敗してやると突然現れてブチのめす子供たちも、誰もが。亡霊なのに肩ひじ張って“生きている”つもりでいるなんて。なんて悲しいの。
★★★★☆