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いとみち
2020年 116分 日本 カラー
監督:横浜聡子 脚本:横浜聡子
撮影:柳島克己 音楽:渡邊琢磨
出演: 駒井蓮 豊川悦司 黒川芽以 横田真悠 中島歩 古坂大魔王 ジョナゴールド 宇野祥平 西川洋子
本作はまさにその当時の私が直面したような、聞き取れないレベルの津軽弁が充満しているが、字幕はない。これは大丈夫なのだろうか……と思ったら、なんとパンフレットに台本全部載せているんだという!伊集院さんのラジオでゲストに来ていた古坂大魔王氏がそう語ってた!
そう、古坂氏が出ていたのも嬉しかったなあ。彼が青森市出身で、なんか懐かしい地名をプロフィルやインタビューから見聞きして嬉しい驚きだったことを思い出す。
北海道出身の人は北海道であることを誇らかに言うが、実は青森出身だったんだよね、という人は結構いる。完璧な標準語を喋るのは、古坂氏が語るように、テレビやラジオで特訓するからである。いや、特訓は言い過ぎにしても、テレビやラジオで標準語を自然に学び、一方で津軽弁を操るバイリンガルに、当時の私は本当に衝撃を受けたものだった。
うーむ、なんか嬉しくて、ついつい思い出話になってしまう。でも、横浜監督はいつかこんな作品をがっつり撮るような気がしていた、なんて後付けのように思うけれど、すっごく、なるほどなあと思っちゃったから。
監督の印象は哲学的というか、作家的な印象を受けていたのだが、本作はベストセラーの原作を得ている、ということもあるのかなあ、親しみやすさとキュートさがあり、すんなりと入っていける。
しかしてそこに横浜監督的譲れないこだわりが、字幕なんかつけない、聞け、感じろ、という爆裂である。
中学生だった私は、津軽弁が喋れるようにはなれなかったけど(めっちゃなりたかった!)なんとかリスニング能力は身につけた、つもりだったが、つもりだし、なんせ30年以上前だし、当時の感覚を必死によみがえらせて、耳をそばだてた。
思えば映画を観ていてこんなに必死に耳を澄ませるなんて、なかなかない体験。ぼんやり映画を観ていると、聞き取れる筈の台詞だって聞き逃してしまっていたんだということを、思い知らされる。それを監督は意図していたのかとも思う。
聞き取れないほどの原始的津軽弁を喋るのはヒロインのいとと祖母のハツヱだけで、いとの父は東京出身で標準語だし、年若いいとが由緒正しき津軽弁を喋るのこそが珍しく、同級生や、アルバイト先の先輩、客たちも、聞き取れる程度のやんわり津軽弁なのだ。
だから字幕なしに踏み切ったのだとも思うが、これもまた青森的リアリティだなあと。
いや、私が知っているのは30年以上前のほんの数年だから今がどうとかは判らないんだけれど、でもなんかこういう、青森人の中に潜んでいるアンビバレンツ的あれやこれやが、津軽弁と標準語の間に見事なグラデーションを作っている事象こそにあると、中学生時代からなんとなく印象的に感じていたから、まさにこれ、青森!!だなあ、と思ったりした。
それにしてもなんという魅力的な題材だろう!ネイティブ津軽弁の内気な女の子。他の子たちのように、それなりに解読できる津軽弁や、標準語の発音が、どうしても出来ない子。
これもまた、なんか判るなあと思っちゃうんである。同じクラスの中でも、完璧な標準語で通す子と、完璧な津軽弁の子、そしてその中間、いろんなレベルが存在していて、あんな言語世界は後にも先にも経験したことがなかった。
それが自然だったけれど、本作はまさに現代、いとのような原始的な津軽弁は珍しいらしく、先生からも交響曲のようだね、と言われたりする。内気な性格だけではなく、なじめきれてないのはその言葉のせいもあるのか。
いとは父親と母方の祖母と三人暮らし。ある時いとは聞いた。なぜ東京に戻らなかったのかと。父は言った。おばあちゃんが一人になっちゃうだろと。
でもおばあちゃんはお父さんとは血がつながってないのに、といとが重ねて言い募ると、それがどうした、とこともなげに父親は言った。
確かにふっと考えると、このパターンで父親だけがこの地にルーツがないのだから、気後れしそうなものだけれど、標準語のままコミュニケートしてあっけらかんとしている。彼が標準語で喋り、いとや祖母がネイティブ津軽弁で話してる、外から聞けば違う言語で喋りあっているように聞こえるのに、通じている。
この不思議も、中学生時代の私がそこここで体験した不思議である。青森はほんっとにね、そういう異次元、言葉が違う同士が通じ合えちゃうミラクルワールドなのだ。
いとは津軽三味線の名手なのだけれど、しばらくそれから離れている。足を開いて眉間にしわを寄せて、ということが女の子ゴコロ的にツラいということを言うけれどもそれ以上に……。母の死こそが、大きかったのだろうと思う。
回想というより、幻影、生霊、そんな風に、縁側にゆったり座っている母親の姿が見え隠れする。まるで少女のように若い母親。
そういう意味ではいとにとって記憶にはおぼろげな程度だと思われるのに、なんだろう……祖母にとっての弟子はあくまでいとの母親、いとは祖母の三味線を見て聴いて覚えた。
祖母はそれこそが誇らしく自慢なのだろうが、いとにとっては、自分は正統な後継者じゃないという気持ちが、ひょっとしたらあったのかもしれない。
いとの住んでいるところ、そして通う学校の近辺は、ああ板柳。懐かしい地名!青森はそらまありんごで有名だが、その中でも板柳といえば、という印象の記憶がある。
こんな具合に素朴っぽい津軽弁女子だが、そこは今の女の子、片時もスマホをはなさずにゴロゴロしている。そんな彼女が本当に、何気なく見つけたのが、“大都市”青森市でのメイドカフェのバイトだったんである。
私は父親の仕事の関係上、常に中堅都市ってな感じのところに住んでいたので、いとの生活している伝統的な青森生活事情、というのは実は知らないのだ。だからいとが、バイトの面接のために青森市に出張って、その大都市ぶりにうっわー!!みたいに右往左往するのが、凄く印象的だった。
いわゆる県庁所在地、商業都市的なところをウロウロしていたこちとらは、そういう意味では真の土地感覚を味わいつくせないまま終わってしまっていたという後悔は、当時からちょっと、あったからなあ……。
時給もあったが、なぜいとがこのバイトを選んだのかってのが、めごい制服が 着たかったからだというのが、可愛すぎる。いわゆる東京的メイドカフェの制服に比すれば、絶妙に野暮ったいのが上手いんだよなあ。
永遠の22歳だと言い張る教育係幸子さん、漫画家志望でいつか新人賞を取って東京に出ていく野望を持つトップメイドの智美さん、Uターンして雇われ店長になっている工藤さん、ゲスト出演的だがめっちゃキーマンである、オーナー成田役の古坂大魔王氏、常連、いちげんさん、あれこれの人間模様……。
オーナーは最初からアヤしげだったけれど、騙されたのか、そもそもそーゆー人柄だったのか、詐欺的な事件で逮捕されてしまって、このカフェは途端に窮地に陥ってしまう。
ゆるゆるとながらこのカフェで人間形成されてきたいとは、苦悩する。引っ込み思案、ネイティブ津軽弁で地元のトモダチとさえコミュニケートできない、津軽三味線やそれにつながる両親へのアンビバレンツな悩み……それが、この思いがけない事件によって、 内向的だった彼女の心の奥底のダイナマイトに火をつける、んである!!
それには触媒となる人物がいる。友達がいない、と内外的に思わせていながら、いとが、まるで片思いみたいに気にしている、クラス内でもどこか一目置かれている秀才の早苗である。
同じローカル線に乗っている彼女が降車ぎわのいとになんてささやいていたのか、一度目では私、読み取れなかった。へばね、と言っていたのだ!!へば、へばの、へばね。さよならとかバイバイなんていう言葉より、ずっとずっと近しく、グッとくる、大好きな津軽弁の言葉!!それに気づいた時、本当に本当にグッときたなあ。
早苗はいととはまたちょっと違う、難しい家庭環境である。まあ現代ではよくある感じではある、シングルマザー、母一人子一人。だが、地方、それもこうした、郊外都市においては、ダブルワークを強いられるほどに苦しい経済状況なんである。
監督はさ、そういうことも、きちんと描きたかったんじゃないかなあとも思う。日本全国、そう変わらないと思われがちだけれど、実際はそうじゃない。判りやすい時給の差から、片親家庭への偏見は、現代日本の一般的な価値観ですらまだ残っているのだから、地方ならばなおさらである。
ただ不思議と、そんな偏狭的な考え方の中に、先述したような、標準語と入り混じるのを象徴するような、東京モノのいとの父親が紛れ込める余地みたいなものがあって。彼といとの祖母が会話しているシーン、まるで違う言語なのに、問題なく通じている不思議さが、まさに青森的なんだよなあ、と思うのだ。
これが、似ているようで沖縄とかとは似ていない。標準語と会話できないだろうもの。誇りの持ち方の微妙かつ完全なる違いが、この差異を産み出し、その内側に行く感じの津軽感覚が、たまらなくいとおしいのだ。それが、このヒロイン、いとに見事に集約されている感じがしてさ。
いと以外の同世代、ちょっと上も含めて、ある意味みんな、武装しているから。標準語がそれなりに喋れて、理解できる。
いとはその点で、まるで天然記念物である。つまりはアイコンであるのだと思う。こんな若い子は今は造成されないという悲嘆さえ含まれているかもしれないと思う。
しかも津軽三味線である。三味線といえば、昨今は奄美、沖縄のサンシンに押されっぱなしである。まあなんつーか、映画世界では、ってことだけど。
土着的なのに明るく、アイデンティティを迷いなく出してくる南国のサンシン。津軽三味線は、似てこれほど非なるものはないだろう、と今までは思ってた。重い重い雪の重さ、情念の重さ。もちろんそれが魅力の一つではあっただろう。でもその偏見にとどまっていたんじゃないのか。
メイドカフェの存続の危機に、いとが自分の特技、特技どころか、誇りである、そのことにようやく向き合った津軽三味線を、披露したいと申し出る、までに、父親との確執とかさ、いろいろあるんだけれど……。
案外あっさり父親と和解できたのは、思春期の数年、あんまり接触出来てなかっただけで、基本的には判りあえていたからだろうなあと思うのだ。
津軽弁ネイティブではない父親に、使いどころの不自然さやアクセントの気持ち悪さを冷たくたたきつけるいとは、でもそれって、めっちゃ愛情あるじゃん!!てことなんだよね。
ホンットに、思春期反抗期の繊細な気持ちだったら、こんな親切な指摘はしないさ。お互い家出しあって激突するところに、おばあちゃんが二人とも出ていけ!!というしークエンスもめっちゃ可愛いし。
父親の教え子が津軽弁の研究をしていてあれこれ考察したり、録りためたインタビュー音声に、彼自身が聞き取れないんだと暴露して教え子たちを沸かせたり。津軽弁に対するリスペクトと、残すべき文化遺産としての津軽弁の面白さ、美しさを、あらゆる側面からプリズムのように照射して描いていく。
30年以上のブランクを経たリスニング能力は枯れ切ってて、タイヘンだったけど、耳を澄ませて聞き取ろう、理解しよう、という、原始的な欲求を思い出させてくれた。それはまさしく、本作が示しているところの、本質なのだ。
いとは、大好きな人たちと出会えたバイト先をなくしたくなくて、それまで封印してきた津軽三味線を披露しようと決意する。そのために家出までする。
そして転がり込んだ先の、へばの女子との、彼女の家庭環境、いとの欲望、なんかもう、女子友情、探り合いの先の判りあい、萌え萌えで死にそうさ!いとの三味線ライブには、当然彼女は来てくれる。しめやかに、あくまでひっそりと、というところがいいのさ。本作は徹頭徹尾、それは守ってくれるのよね。
いとの三味線ライブは圧巻だった。まさかの経験ナシ、一年もの特訓の末とは。やらせたねー。これはすごい。彼女にとっても大きな経験になっただろう。めちゃくちゃ圧倒されたもんなあ。★★★★☆
ここ数年、そんな当然であった病院での死が変わりつつあるのを感じる。数年なんかではなく、取り組んでいる医師、取り組んでいる地域は長年にわたっていたのだろうが、自治体や国自体がそれをようやく推進してきた流れを感じる。
その中での本作は、こんな豪華キャストを迎えての満を持しての企画、という気がする。これを遺作に亡くなってしまったプロデューサーである東映の岡田会長は当然、それを意識してのことだったと思う。もちろん原作としての小説が存在していたにしても。
そうした取り組みをじっくりと撮ったドキュメンタリーの良作がすでにあって、それは私がめちゃくちゃ理想としている、死もまた日常、その延長線上にある、特別なことじゃないということが徹底して描かれていた。
正直、どうしても劇映画となると、そしてこうしたテーマとなると、お涙頂戴とまでは言わないまでも、ヤハリ涙を誘うのが前提、という感じになってしまうし、実際、患者たちの死に際して劇中の医師や看護師は何度となく涙を流す。正直、そんなんじゃやっていけないよと思っちゃう。
そもそも在宅医療というものが治療ではなく患者の意思を尊重し、寄り添うものだとする院長の仙川と、医師は患者を治療するものであり、少しでもチャンスがあるなら患者は治療にトライするべきだと考える、東京の最前線救命救急の現場からやってきた白石との対照にこそ、このキモの問題が俎上に乗せられるものだと思うのだが、かなりそこは消化不良の印象である。
この二人の医師が決定的に考え方が違う、と言ったのは、現場のすべてを熟知している若き看護師、麻世なのだが、正直彼女の台詞だけでその事実が語られるにとどまる印象に過ぎない。
仙川は特段白石に指導したりしないし、白石も戸惑いながらの業務ではあるけれど、だからといって、在宅医療のなんたるか、をつかんだ様子はないというか……。
そうこうしているうちに、小児がんで幼くして亡くなってしまう女の子がメインに据えられて観客の涙を誘い、白石の父親の難病に彼女が苦悩する展開となり、最後の方では在宅医療の問題からズレてしまって、人の死をその人自身が決められないのはどうなのか、という、確かにとっても大事だけれど、そもそものテーマから外れてしまうから、それもまた消化不良になってしまったきらいがあるというか。
吉永小百合サマが敏腕ドクターというのは、とてもワクワクする。もちろん初めて見る役柄だし、イメージさえしてなかったけど、彼女の風貌とはギャップのある低くて落ち着いた声、決してキャリアバリバリのとんがった感じではなく、冷静に、しかし柔らかく救急の場面も切り抜けるリアリティ、それらが醸し出す人を安心させる雰囲気、なぁるほど、小百合サマはドクターめっちゃ当たり役やん!
しかも、そんな最前線でバリバリ働いてきたのが、在宅医療でのんびり(と彼女には見えるのであろう)患者と接している仙川にとまどうなんて、でもそれがピタリ、なんだよね。
小百合サマは確かにマドンナ女優だけれど、不思議にラブがそれほど似合わないとなんとなく思っていた。それが今までは、お母さんとかお姉ちゃんとか、なんかそういう、ふんわり温かい方向に特に近年は向いていたけれど、なるほど、お医者様か!!
そして、かつてのご近所の女の子と再会した時に明かされる、恋人はいたけれど、結婚までには至らず、それ以来一人よ、というのが、小百合サマに勝手に思い込んでいたマドンナ的な感じと全く違うのだけれど、ひどく似合うのだ。
孤高の女性。医師として誇り高く生きてきた人。なのに柔らかで、患者はもちろん、現場の同僚や後輩が彼女を全幅の信頼においてしまうような。
救急救命の場にいたから、患者さんがその恩恵にあずかっていなかった。それが、その救急の場で、医師免許を持たない事務員が、苦しむ女の子を見かねて医療行為を行ってしまったことを糾弾されている場にバーン!と入っていって、私が責任とりますから!!とその大病院の責任あるポストを辞職したんである。
そして彼女は、老いた父親が一人静かに暮らす金沢の地に、在宅医療の職を得てやってくる。
老いた父親を演じるは田中泯。もとは美術教師。妻に先立たれてからは静かに絵を描く余生を送っていたことがうかがわれる。一人娘が故郷に職を得て帰ってきたことを、静かに喜ぶ。
のちに彼は脳出血で倒れ、更に“脳の誤作動”による痛み止めでは制御できない激痛に苦しみ、自殺を試みるも死ねず、娘に殺してくれと懇願し、白石は苦悩しまくるんである。
……正直、この一点だけで一本の映画が作れちゃうし、この問題がのぼってきちゃうと、在宅医療というメインテーマが、それどころじゃないでしょ、みたいに置き去られてしまう感じがしてしまう。つまり、コロナ禍の昨今言われる不要不急がどっちか、みたいなイヤな議論である。
私が本当に見たかったのは、小池栄子氏が演じた、現役の芸者のまま、今までの日常の生活、仕事を続けている女性の経過である。
彼女だけが一人だった。そして今は、現代社会にあっては、それほど珍しいことじゃない。それこそ白石も独身のままここまで過ごしてきたのだし、劇中に恋愛の影をちらつかせるようなヤボもないし。
だったら、このケースこそを掘り下げてほしかったと思う。白石が最初に診療に訪れるシーンと、二回目のシーンで元気にお参りをしているシーンと、それだけである。ヘンな言い方だけど、彼女のような信念を持った人が一人死を迎える場面こそ、在宅医療の真の価値が描かれると思ったから、そこをスルーされたのは残念、だったかなあ。
やっぱり劇映画では、死には家族が必要だと、現代日本の劇映画では、まだその段階にとどまっているのかって、ちょっと、ガッカリというか、それ以上に……自分自身を考えて、プチ絶望的な気持ちにもなっちまったんである。
大げさ??でも、私は子供の頃から考えて来たし、私のような人は、決して少なくない、いや多い、と思う。
在宅医療のテーマの映画だと対峙した時に、私のような立場の人間が期待するのは、家族の愛の物語ではないのだ。一人でも、心配なく、悔いなく、楽しく幸せに死んでいけるかが問題なのだよ。
人は結局一人で死んでいく、というのは言葉上ではよく言われるけれど、やっぱりやっぱり、家族に看取られなきゃとか、そうでなければ不幸だとか、この国に根強くある価値観である。
ドキュメンタリー作品ではね、確かにほとんどが家族が最後までそばにいたケースだった。でもそれは、死にゆく主人公たちにとって、必須ではなかった。
そのオプションは幸せなそれではあったけど、大事なことは、自分自身で死を迎える場所を選べることなのだ。そこに誰がいるかとかは、選ぶ側のオプションに過ぎない。家族と上手くいってなければ、あるいは、家族がいなければ、ただたんに一人が好きだという理由だってあるかもしれない。その死に際に一人でいることに何の問題もないのだ。
……そこまでの議論の熟し度合いには当然至ってないから、本作のほとんどが家族とのかかわりあいになっていて、一瞬オッと思わせた芸者女性の一人暮らしが、元気なまま終わってしまったのが、ただただもったいない気がして……。
看護師麻世ちゃんは、交通事故で死んだ姉の子供を育てている。白石を慕ってこの地に来た野呂君は、国家試験に合格できないままの落ちこぼれ君だが、この地で医師になりたい、なるんだ、という気持ちが大きく膨れ上がる。
麻世ちゃんと野呂君の間にほのかに芽生える恋心ぽいのは正直ジャマだなーと思うが、まあしょうがないのかなあ。こうした旬の俳優さんたちの華やかな展開はどうしても必要なのか……。
私はただ、ただただ……人生を終える時には、自分の部屋で迎えたいと思い続けて生きて来たし、なぜそれができないのか、本当に純粋に疑問に思っていた。
きっとみんなそう思っていたからこそ、在宅医療の流れが急速に進んできたんだろうと思うけれど、これを、こうした劇映画で、涙涙で終わらせてしまっては、意味がないのだ。生も死も日常だし、淡々と行われていくものだし、だからこそすべての人に平等にもたらされる権利なのだ。
劇中、経済力がある人物に対しては、新薬や新治療が受けられるというシークエンスが示される。それは確かにそのとおりである。ただ……だったら、経済的にそれができない人たちとの対比は当然すべきだと思う。
それができる彼が、大会社の経営者で、全社員が彼がその治療を受けられることをおー!!ともろ手を挙げて喜んでいるさまを見せられて、感動しろ、とばかりに白石医師の満足そうな顔で決着つけられるってのは、そりゃないよと思っちゃう。
ここは皮肉に、経済力によって受けられる治療がこんなに違うんだよということじゃないのと。
小児がんの女の子が、新薬を試してもらえないまま死の時を待つことになる。両親は狂ったように、病院に見捨てられたんだという。
新薬を試してもらえない、という文言を効果的に残しながら、白石が彼らに説得するのは、彼女がもう治療に耐えられないまでに衰弱していて、これ以上の治療は命を縮めるだけだ、と言うにとどめるんである。
先述の、経済力のある男への対応を考えると、ヤハリ首をひねらざるを得ないよね。
最後の望みで新薬を試したいという気持ちが子の親たちには当然あり、しかしそれが、莫大なカネがかかるということは、患者である女の子と仲良しだった野呂君によって後に示される。でもそんなこと全くおくびに出さずに、体力的に無理だから、もうあきらめるしかないでしょ、みたいな雰囲気に持っていくことが、……仙川先生とは違って、治療、トライに重きを置いていたくせに!!それで説得できるのかよ!!とか思っちゃって……。
結局さ、この子の最後の願い、生まれ変わったら人魚になりたい、だから海に行きたい、なんて、おーいおーい、こんなファンタジックお涙で収拾すんのかーい!!とかなり納得できない気持ちはあるんだよなあ……。
抑えに抑えてたが、ついついいろいろ爆発してしまった(爆)。死が悲しいこと、苦しいこと、家族が関わらなきゃならないこと、ほかにもいろいろあるけど、私はそのすべてに否定的なのだ。
死はその人個人だけのものであり、でもその個人だけでは支えきれない。でもその支えに家族は介在すべきではない。個人的な問題なのだから。プライベートな問題なのだから。
その死にかかわる医師、看護師、福祉関係のプロの面々、行政のスタッフ、すべてがきちんと一人の死にかかわるのが、これからの、いや、もうすでにかもしれないが、社会に必須であると信じている。
そうでなければ一人で死ねないよ。必要書類みたいに家族を揃えられない人が大半だよ、これからは。一人の人生のアイデンティティこそが死に必要なものであり、本作に描かれる家族のかかわりは……美しかったけど……私は、その描き方にこそ危機感を感じてしまった。
家族がいることがマストだなんて、かなりのパーセンテージの人たちにとってキツ過ぎる。この時点でカンドー物語にはならないのだ。★★★☆☆