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「ま」


2021年鑑賞作品

マイ・ダディ
2021年 116分 日本 カラー
監督:金井純一 脚本:金井純一 及川真実
撮影:伊藤麻樹 音楽:岡出莉菜
出演: ムロツヨシ 中田乃愛 奈緒 毎熊克哉 臼田あさ美 徳井健太 永野宗典 光石研


2021/9/29/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
最近立て続けに快作を送り出しているTSUTAYA企画からまた一作。ムロ氏主演が初だというのも意外だが、それがコメディじゃなくてこんな、どシリアスなものだというのも。
二つの時間軸が同時進行していることにしばらく気づかず、そんな具合に巧妙に絡ませていた訳で、やっと、黒髪の若い一男と白髪交じりになりだした今の一男の違いに気づくんである。
高校生の娘のいる一男が江津子と出会って結婚したのかと最初は思って、ムロ氏と奈緒嬢が、いやそらねぇだろうと思ったが、現在の時間軸、ムロ氏の実年齢と近い一男より20年近く若い時ということだと知れば納得納得。

いや別に、今のムロ氏が奈緒嬢のカップリングだっていいんだけどさ(爆)。冒頭、ガソリンスタンドの制服でぶつぶつと説法の練習をしている一男。そう彼は牧師なのだ。生活費を稼ぐためにガソリンスタンドでアルバイトをしている。切ない。牧師さんってそーゆー感じなのかしらん。坊さんは法事葬式で、宮司さんは祈祷やお賽銭で儲かってるような感じだけど(偏見……)。
後にこのガソリンスタンドにアルバイトに来るナマイキな青年に、神とか信じてるんっすか、とバカにしたように言われた時、気を悪くするどころか意を得たりと、神を信じるには人生というものが理不尽すぎるということに対する興味こそが、神に対する興味をそそった、とニコニコして語る。
ああ、なんかいいなあと思う。救ってくれないのに神を信じるのかとか、そーゆーデリカシーのない投げかけに対して、興味、という返しは粋である。盲目的に信じるんじゃなくて、興味がある。信じるというより、興味の先の愛である。凄く納得がいく。

一男の一人娘、ひかりは、反抗期がちらつきながらも、友達との遊びを切り上げて、ちゃんと教会の行事に間に合うように帰ってくる。遅刻したことに小言を言う父親をうるさげにはするものの、それはまるで親子漫才のようで、プロフェッショナルにきちんと笑顔を作って、教会の中に入っていくんである。
彼女自身はまだ、信者とか、神様を信じるとか、そういうところにはいない。ただ父親の仕事を手伝っているという感じだし、最後までそのスタンスは変わらない。
そして意外と一男自身も理不尽な事態に遭遇しても、その時は信仰とか、神様への恨み言とか、そういう方向にはいかないんだよね。正直、牧師という設定がどう生きるのかという興味もあったから、このあたりは拍子抜けというか、物足りない感じはしたかなあ。

ひかりが突然倒れてしまうんである。単なる貧血で救急車を呼ぶなんてと、ひかりとその友達たちは笑っていた。でも医師から告げられたのは白血病。しかも一男の骨髄の型とは合致しない。つまり……親子関係が確認できないレベルに合致しない、というんである。
この場面、研修医の若い青年が、「え、だって奥さんの連れ子なんですよね?」と口を滑らせて図らずも発覚する、という展開なのだが、これはなかなかランボーというか……。後々、骨髄移植が必要になった時のことを考えれば、主治医からきちんと、こういう結果が出たんだと正式に伝えるべき場面だと思うんだが……。

本作にはなんというか、こんな感じにワキの甘さを感じるところが散見されるのが惜しいところなんだよな、と思う。そもそもの、他の男のタネでした問題なんだけれど、先述したように私が時間軸をコンランした、江津子との出会いは彼女が恋人の浮気に遭遇して、逃げ込んだ先が一男の教会。
江津子の恋人のヒロはストリートミュージシャン。彼の才能を信じて江津子は支え続けていた。二人が通りがかる教会ではクリスマスのミサが行われている。一男とひかりが口喧嘩をしながらミサに臨む現在の時間軸と絡めて、タイムスリップ的描写にしているんである。

そしてミサでひかりが倒れる。救急車を呼んで、その救急車のサイレンが、あたかもヒロと江津子が愛し合っている窓の外で鳴り響いている、時空を超えて、みたいな描写である。
その後、江津子がヒロの浮気に遭遇してバーン!!と飛び出して、飛び込んだ先が一男の教会で……私がコンランしたの、ムリないでしょ?いや、私はやっぱりバカなのか??まあとにかく……。
江津子は若き日の一男とそんな具合に出会った。一目で彼女が傷ついていて行き場もないことを悟ったんだろう一男は、イースターの卵の装飾を頼んで引き留める。そして次のシークエンスでは、もう彼女は一男の花嫁さんになっていた。

でまあ、話は戻るけれども、ひかりは一男のタネではなかった。浮気された恋人、ヒロこそが父親だった訳なんである。その可能性を、江津子は死の直前に知った。
偶然再会した彼は子供を連れていた。付き合っていた頃、おたふくにかかって無精子だから避妊しないのだと彼は言っていたのだった。そんなこと言ったっけ、とコイツはぬかしやがった。江津子がわざわざそれを確認したのは、ひかりが産まれたタイミングがまさかと思ったからに違いなく。

ここがねえ、もちろんこここそが本作のアイディアのキモとなる部分であるんだけれど、かなりムリがあるんじゃないかなあ……。江津子と一男の結婚は、出会ったシークエンスの次でもう、結婚式!!である。彼らがどのように心を通じ合わせ、結婚にまで至ったのかはぱーんと省略されている。別にそれはいいのさ。そんなことを見せられても困るし(爆)。
でもこのキモのアイディアの前提があるとしたら、出会ってすぐ結婚、妊娠、となっていなければ、江津子がヒロに再会した時にまさかと思う訳がないんだよね。いくらなんでもそれ以降、江津子はヒロに会っていないだろうし、会っていたとすれば、ここまで疑わずに来た筈はないんだもの。

とゆーことは、教会に転がり込んで、一男と結婚するまで秒速、セックスも秒速(イヤな言い方だが)そうでなきゃ話が合わないんだとしたら、出会って結婚までのシークエンスが省略されてしまっているのは、逆に不自然でしかない。
これだけ即決で結婚を決め、子供までなしちゃったという急カーブは特別なドラマがなければありえない。幸福に心を通わせ合って、次のシーンでは結婚式、だなんてさあ。

ひかりが自分のタネではないと知って一男が苦悩するならば、このタイミングの謎を解明してくれなければウソだと思うんだよね。
江津子がクズ男に浮気されて転がり込んだことは、いくら何でも判ってたはずだし、そこからスピード結婚ならば、そういう可能性は想定できるはずだもの。実際、ヒロに再会して江津子はその可能性に思い当たって愕然としているんだから。

だから、そういうタイミングならば、江津子が浮気していたのかとか、そんな苦悩をそこまで感じなくてよかった筈なんだよね。アイディアはとても良かったと思うけれど、その齟齬がなんとも惜しい。
年頃の女の子を白血病にする、というのも何世代か前の少女漫画チックだなあという感もあるし(いやまあ、白血病ネタはいつの時代も好きなのか……セカチューの例もあるしな)

江津子がザ・浮気現場に遭遇した、その時の女の子だったと思う。臼田あさ美嬢、だったよね?彼女にその記憶がなかったとは思いにくいので、だからこそ最初こそは抵抗しつつも、ダンナの骨髄検査にだけは行かせることに同意したとも思うのだが。
あの時、浮気現場を押さえられていた時にバチッと目をかわした相手の、そのダンナが娘の命を助けてほしいとやってきたならば、最初の抵抗もしてほしくなかったなというか……。同性として勝手な思い入れだけど、女はそういう仁義は結構ちゃんとしていると思っているんだもの。

自分たちも娘ちゃんを持っている。だからかき回すな、というのがダンナの論理。だからこそくみ取るべき、というのが嫁の論理。
それは合致するんだけれど、女としては、迷惑だとか、もう来るなとか、そういう最初の抵抗もしてほしくなかったというか、女としては、……女としてのプライドがあるなら逆に、最初の抵抗、しないんじゃないかなとも思ったんだけれど、これはダンナを立てるってことなのかなあ。
そこらへんが、やっぱり男性の脚本だからなのかなあと思うのはやっぱりフェミニズム野郎だからなのだろーか??

ひかりと付き合いたての彼氏君とのシークエンスがとてもいい。ほのぼのともするし、切々と迫るし、ぐっと泣いちゃいたりもする。
ホントにね、白血病で死んじゃって、それでカンドーモノにするとかいう展開じゃなくて、ホンット良かった。ひかりはちゃあんと生還する。そこまでの展開には多少のお涙頂戴があったとしてもである。

まだまだ恋愛ビギナー、イイ感じとは思っている同士だけれど、本当に好きかとか、セックスがしたいのかとか、もやもやしたままのトキメキこそが楽しくて仕方ない付き合いはじめだった。
そこでひかりが倒れてしまって、急に深刻な事態になって。彼氏君は戸惑いながらも、恋愛の何たるかは判らないながらも、恋人までは至らないかもしれないけど、メッチャ仲良くてメッチャ大切な友達だというのは確実だから……ああなんか、愛しい愛しい!!

時に大勢の友達を引き連れて見舞いに来ていた彼は、その後は単身乗り込む。一男がヒロを見つけ出して、つまりひかりの命を救うドナーを見つけ出したことを知った彼が幼い子供のように泣きじゃくるのが、ピュアすぎて死にそうになる。
本当に好きかとか、よく判らないんだけど、とか言っていた彼の、これ以上ないダイレクトな感情の発露!!

ひかりを救うために、一男がSNSを駆使してドナー登録を呼びかけたり、ミサや炊き出しに来るホームレスさんたちをはじめ、チラシを配ったり奔走するんである。
光石氏演じるホームレスさんは、タダでメシが食えるってだけで炊き出しに来ていたんだけれど、柔らかく受け入れてくれる一男にいつしか取り込まれちゃって、最終的には一男の苦しい胸の内を受け止める側になる。
牧師だって、坊さんだって、宮司だって、……ひょっとしたら神様だって、悩んでて、誰かに聞いてほしくて、普段はそれが自分の仕事だから、余計に苦しくて。

かんっぜんに友情出演であろうと思われる小栗旬氏。江津子の元カレを探し出し、DNA鑑定まで完了しちゃう敏腕探偵さんである。マジで、ここで述べるだけのシークエンスで収まってる。なんつーか、ある意味さすがな気がする。

この日、高校生の娘を持つ父親の話、ってゆー点では共通してる映画をハシゴしたのだが、まあその対照的と単純に言うには違うにもえげつないほど違いすぎるというか……。
どんな親を持っていても、仲良くても良くなくてもいいから、子供は自身のアイデンティティを持たなきゃ、いや持つべき、でなきゃ死んじゃう、本当に、痛切に、感じたなあ。★★★☆☆


マチネの終わりに
2019年 123分 日本 カラー
監督:西谷弘 脚本:井上由美子
撮影:重森豊太郎 音楽:菅野祐悟
出演:福山雅治 石田ゆり子 伊勢谷友介 桜井ユキ 木南晴夏 風吹ジュン 板谷由夏 古谷一行

2021/3/21/日 録画(日本映画専門チャンネル)
個人的にはこういう作品を見るのは、ちょっと気恥しい感じ。だから公開時にも確かにキャストには心惹かれながらもなんとなく躊躇してしまった。
40代男女の大人の恋愛。男は天才クラシックギタリスト、女はフランスのジャーナリスト。ううう、オサレすぎる。ロマンティック過ぎる。

もちろんボーダレスな時代で、国際的に活躍している日本人がたくさんいるのは判っているが、これがアメリカならまだ……おフランスだもの。
フランスって排他的だって言われるし、ジャーナリストの小峰洋子が、そりゃまあ流暢なフランス語を操って体を張って仕事をしているのは判っていても、このアジア人めとか思われてるんじゃないかと思ってドキドキしちゃう。
偏見だとは判っているのだが……。土着的物語に安らぎを感じる土着民は(爆)、そもそも映画という世界が夢見る世界と思っても、なんかもぞもぞしちゃう。いやあ、ダメね私(爆)。

二人を演じる福山氏とゆり子様は完璧。ハズかしくなる気配なんてみじんもない。
キャリアある大人の男女。ささやかな出会いが運命になり、ドラマティックな数年間の間になんと彼らがナマで出会ったのはたったの3回。
その二度目に、彼、蒔野聡史は洋子にプロポーズしたのだから恐れ入る。しかも洋子に婚約者がいると知ってて、洋子に会いたいがために師匠の出るヨーロッパでのコンサートに客演して、彼女に会いに行ったのであった。

あ、なんかすっ飛ばした(爆)。そもそもの二人の出会いは、洋子が祖母の葬儀に出るために帰国した折、友人である是永に連れられて行った蒔野のコンサートである。
蒔野はスランプ真っ只中。皆の誉め言葉も口先だけのものにしか聞こえず、楽屋でえずいて、落ち込んでいた。
洋子は蒔野のアンコールの曲が良かったと言った。その言葉に蒔野はハッとしたようになった。アンコールの演奏だけが、その日の彼の満足いくものだったから。

洋子がフランスの有名な映画監督の娘(母親の再婚だから血はつながっていない)ことを知り、この監督の代表作の主題曲が蒔野がデビューした時から大事な作品であるという運命の出会いが、二人を引き寄せた。フランスの名監督の娘、ってあたりの設定も、うわわわ、ロマンティックオサレ!!ともぞもぞする私はもーだめだ(爆)。
しかして面白いのが、洋子の実家が長崎ののどかな日本家屋で、外国の名監督と結婚していたとは到底想像できない、風吹ジュン扮する母親はいかにも長崎にずっと暮らしてきたおばちゃんであるのだ。一体どんなロマンスが、どうやって、どこで生まれたのか気になるところだが、映画の尺では残念、そこまでは知りえない。

洋子の故郷は長崎だが、ここに不思議につながる人物が本作のカギを握る。同じ九州出身の、蒔野のマネージャーである三谷である。演じる桜井ユキの、蒔野大好き、蒔野がいなければ自分は生きていない、ぐらいの圧が最初から観客にはエグいぐらいに伝わっていたから、この後の展開はなーんとなく、予想できたような気もした。
ただ、福山氏、ゆり子様に比してはあまりにも若く、うっかり親子にだってなりそうなぐらい若く(爆)、だから油断していたのかもしれないと思う。でも女なのだもの。自分の愛する人を取られないためには、卑怯な手だって、使うのだ。

……このマネージャーの描写と、受け取り方は、なかなか難しい。彼女は明らかに嫉妬に駆られて、二人の仲を引き裂いた。客観的に見たら、そうとしか見えない。
長年の腐れ縁の婚約者をふって、たった一度か二度会っただけの蒔野に運命をゆだねた洋子、その二人のようやくの再会を、彼女は引き裂いた。

こんなことあるの、という事態。蒔野の師匠が倒れ、搬送された。駆けつける蒔野はタクシーの中に携帯を忘れてしまう。それを取りに行ったのがこのマネージャーで……こともあろうにその中身を見てしまう。
本人確認のためにと、蒔野がロックを解除するパスワードを教えてしまったのが運の付きであった。蒔野の代わりに別れのメッセージを書き込み、知らぬふりをした。
洋子と蒔野は、愛し合っていて、その思いを確かめ合って、この先一緒に生きていこうというための日だったのに、悲運の偶然の連続で、引き裂かれたんである!!

……なかなかだよなあと思うが、ナマで会ったのが二度だけであったにしても、こんな簡単に騙されて、その後連絡も取れずに、直接会話して誤解も解けないなんて、そんなんあるかいなとも思うが……やはり、ナマで会ったのがほんの二度だからこそ、なのかなあ、判らない……。

本作に接して即座に思い当たったのは往年の名作「君の名は」なのだけれど、彼らがすれ違っているのは、マネージャーに陥れられたこの場面だけなんだよね。会っている回数は少ないけれども、「君の名は」と違って通信手段が発達している現代、会っている以上に気持ちと愛情を深める時間を過ごしてきたのに、たった一発、すれ違っただけで引き裂かれてしまうことに、切なさよりもあっけなさを感じてしまう。
そしてそれは、通信手段が発達しているからこそ、あれだけ理解しあっていたと思っていたのに、ナマの体温も声も届かない活字を、通信先だけであっさり信じてしまう恐ろしさと、むなしさである。

正直、さあ。こんなことでだまされてしまうなら、ホンモノじゃなかったんじゃないの、とちょっと思ってしまう。
なぜ突然すぎるとか、不自然だと思わないのか。ずっと通信しあっていたのにおかしくない?まあそんなことを言ったら、この物語自体が成立しないんだけれど、でもそれを納得させてくれなければさあ……。

しかもそこから数年たつと、二人ともあっさり、手近な相手と家庭を持っちゃってるし(爆)。洋子は元サヤに戻って息子ちゃんを得て、セレブリティな生活をしている。蒔野は彼命のマネージャーと幼い娘と家庭を営んでいる。

これはなかなか、観客側に共感を得るのは難しい部分があろうと思われる。出会って20年もの信頼しあった婚約者を一度ソデにしたくせに、フラれたからといって元サヤに戻ってきた洋子。
明らかに洋子に心を残しているくせに、明らかな誤解を解こうとする努力も、彼女を追う努力もせずに、それまでの経過を考えればどー考えても恋愛関係ではなかったマネージャーとなれ合い結婚のようにしか見えない結果を見せる蒔野。
映画の尺という限界はあろうが、オサレロマンティックな外見があるだけに、こーゆー雑な処理が気になりだすと、どーしよーもなくなってしまう。

いやそらまあ、洋子にも、蒔野にも、仕事や人生の苦しさがある。洋子はジャーナリストとしての仕事の中で、フランスのテロがあり、仲間が傷を負い、命さえ落とした姿を目の当たりにした。ジャーナリストとして、日本人として、何より人間として、無力を実感した。
傷ついた同僚に聞かせてくれた蒔野のギターに、同僚ともども心癒された。蒔野は逆にその時、若き才能と自身のコントロールのできなさに打ちのめされていた時だった。

この時の二人が、最高潮に盛り上がって、近づいて、チューだけだけど初めて性愛的に求め合った時だった。
それで気持ちを誓い合った、と思えば、確かにもろかったのだ。危うかったのだ。吊り橋効果とはよく言ったものだと思う。この時の気持ちの盛り上がりをよりどころにしていたからこそ、他人の、嫉妬の書き込みを、現代の通信網を信じて、あっさりと騙されてしまう。

蒔野大好きマネージャー嬢の、その愛は、アーティストとしての蒔野を支える、裏方に徹することが自分の夢だという。
その信念があるからこそ、この事実を明らかにしなければ、蒔野は真に復活できないんじゃないかと思ったから、とわざわざ洋子を訪ねてまで告白する。蒔野の復活コンサートの下見という名目で渡航してまでの、私情ごとである。

……彼女の圧倒される真剣さに押されてなーんとなく納得しちゃうけど、何、彼女は蒔野の個人事務所のマネージャーなの?彼女以外に蒔野をマネージメントとか、サポートするスタッフとか、事務所側の人間とかいなくって、ちょっと怖いっつーか、不自然な気がして仕方ない。
彼女以外に、蒔野側のスタッフがまるで見えないんだもの。そんなことってあるかしらんと思う。まあそれで言えば、蒔野が所属するレコード会社のスタッフも是永以外出てこないけど、それなりに大きな会社の風体は示されるしさ。
でも、蒔野側のマネージメントとか、事務所の様子とかは、まるでないんだよね。だからまるで、蒔野大好きマネージャーによって洗脳されているようにさえ、見えなくもなくって……。

洋子の方は、ダンナに浮気されて、離婚。親権を争って、泥沼になる。ダンナはギタリストにフラれて戻ってきたんだろう、と悪びれないが、確かに彼の言い分は判るわな、と思う。
正直、相当の覚悟で婚約者を振った筈なのに、自身がフラれたらあっさり元サヤって、そらないわと思うもんね。
こーゆーこと言うと独所、老女のヒガミと言われそうだが、覚悟を決めた女は、こんなみっともないことしないと思うけどなあ……。

あるいは、男子側は、どうなの。正直、蒔野が洋子と連絡が取れなくなって、絶望したのは判るにしても、その後たどった選択は不可解である。マネージャーとはまるで恋愛関係の雰囲気がなかったし、夫婦となり、娘まで得た現在でも、娘のことは可愛がっているし、妻とも平穏な夫婦という感じだけれど、でもそれだけなのだよね。愛している感じは、ないんだよね。
これって、これってさ!!あんまりだと、思う!!!マネージャー女子はそれも充分判ってて、でも彼のことが好きで大好きで、半ばワナのように囲い入れて、この立場を手にしたんだろうが……。

オサレなアイテムがちりばめられていて、うっかりロマンティックさにうっとりしそうになり、国際情勢、社会情勢を巧みに取り入れていて、硬派な作品のようにも見えるし。
でも……。個人的感情、恋愛的価値観、本当に好きなら、本当に愛を感じているなら、家族を紡ぐ重さ、そんないろんなことを考えてしまうと、どうだろう……。

すれ違いの運命の相手、お互い意に染まぬ選択を強いられた経過、そしてついに運命の再会、とかって盛り上げられても、うーん、なんか、おめーら、ちゃんと突き詰めないまま、いろんな人を傷つけて、なんかにっこり幸せになろうとしてるんじゃねーのと思っちゃう。
外見を国際派社会派芸術的オサレ的に固めているから、余計に観るこっちは構えちゃって、ほじくりたくなっちゃうからこそ、こーゆー感想にどうしてもなっちゃう気がする……。★★☆☆☆


街の上で
2019年 130分 日本 カラー
監督:今泉力哉 脚本:今泉力哉 大橋裕之
撮影:岩永洋 音楽:入江陽
出演: 若葉竜也 穂志もえか 古川琴音 萩原みのり 中田青渚 村上由規乃 遠藤雄斗 上のしおり カレン 柴崎佳佑 マヒトゥ・ザ・ピーポー 左近洋一郎 小竹原晋 廣瀬祐樹 芹澤興人 春原愛良 未羽 前原瑞樹 タカハシシンノスケ 倉悠貴 岡田和也 中尾有伽 五頭岳夫 渡辺紘文 成田凌

2021/4/12/月 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
公開が一年待たされるなんて初めての経験!!作品によっては、今公開しなければ次のタイミングがいつ来るか判らない、と踏み切るものもあったし、作品によってさまざまな決断がなされた訳なんだけれど、一年待って待ってようやく出会えた本作に、じっくり一年待つ、という決断をしたことがなんかすごく、判る気がした。
一年経ったって危機的状況は変わってない世界だったことは残念だけど、殺伐としていた去年のあの空気感の中では、このささやかなあたたかな作品が踏みつぶされてしまうような感じはきっと、あっただろうと思う。

下北沢という唯一無二の世界を持つ街から、その空間から、実に一歩も出ない物語である。その時点ですでに、ある小宇宙である。
行動範囲が狭いとか、視野が狭いとか、広い世界を見ろとか、とかく世間は言いがちである。少なくともこの東京という都会に住んでいて、渋谷も新宿も銀座も池袋もおくびにも出さないというのは、常識的に考えればありえない。この街だけで宇宙が出来上がって閉じられている、とても狭く、とても広い、矛盾を平気ではらんだ街。

その街に主人公の青(あお)は住んでいる。古着屋を営んでいる。ゆるゆると数人の客が物色していくような、時々売れるような、そんな店で、店番がてら彼はずっと、本を読んでいる。
そして日常的に通う古本屋さんもある。その古本屋さんも、ゆるゆると数人の客が物色して、時々売れるようなそんな店。とても不思議になる。こんなんで生計が立てられるのだろうかと思う。なんて言ってしまったら失礼な物言いだけど、純粋に不思議なのだもの。

それがこの、下北沢という小宇宙では当たり前の循環なのかと思うと、外側であくせくと働いているこちとらとしては途端にうらやましくなる。でも……やはり特殊な街だと思う。居心地いい人たちにとってはひたすら居心地いい街。
私は下北沢に小さな映画館があった頃は時折訪れていたが、なくなってしまって以来、すっかり踏み入れなくなった。この街自体にどっぷりと心を許す人でなければ、やんわりと拒絶するような感覚が、個人的には、あった。

ちょっと、そんな気持ちを判ってくれそうな人物が、本作中にいる。青を自主映画に出ないかと誘う、その映画の監督さんである美大生の女の子、町子を演じる萩原みのり嬢と、“朝ドラに出ていた”俳優、間宮として、本作においても友情出演という特別なスタンスで参加している成田凌君である。
町子の方はやんわりと、間宮の方ははっきりと、あたたかく流れる下北沢の生活の中で、一人ある意味孤独に生きている。

本作は今泉監督らしい、見事に人物相関図がつながっていく脚本に驚かされるのだけれど、その中でもこの二人はやはり、異質感が際立っていたと思う。
オチバレで言っちゃうと、青の元カノ、雪が大ファンだというのが間宮であり、青は間宮とその自主映画の撮影現場で出会う。実は雪の浮気相手であり、その相手を選んで雪は青を振っちまうんである。

そんなんあるかと言いたくなる恐るべき偶然だが、この下北沢という小宇宙ではあり得るかもしれないと思ってしまうんである。
他にもここがつながるのか、と思う糸がいっぱいに張り巡らされていて、もはやいちいち言っちゃうのはヤボだと思うので(決してメンドくさい訳ではない!)割愛するけれど、やはりここが最も、エポックメイキングだったなあと思う。

成田凌君はマジで天才役者だと思うし、なんにでも染まれる柔軟さがあるんだけれど、本作の中では見事に、“朝ドラに出ている”“元カノが大ファンである”という、つまり、下北にゆるゆると暮らしている一般人の青とは全く違う、色気ダダもれのスターのオーラを出してくるんだよね。
雪に執着するがゆえに、元彼に会わせろと青のもとに押しかけてくる時の、首まわりが大きくあいた無造作なシャツ姿の成田君に、うっわ、いろっぽ過ぎる、スター!!!と、劇中の青=若葉君のうろたえ同様にうろたえてしまったんであった。

そしていま最も旬な女優というべき萩原みのり嬢である。女性監督、だなんて言い方はあまりに古すぎて言いたかないが、でもまだまだ、そうした古臭い価値観の中で、学生だけれどこの作品を足掛かりに、という鼻息荒いのがうっすら見える踏ん張りようが、眼力の強い彼女の意志力から伝わってくる。

青はもちろん、製作スタッフとして青と友達になる関西なまりの女の子、イハも、この下北沢に住んでいることこそをアイデンティティにしている。
彼らが感じる“アウェイ感”は、ただ一つの芸術作品を作ってるんだという自負のもとに、下北も何も関係なく、芸術論を戦わせ、そこに男女のもつれも持ち込んで、なんつーか、クリエイター気質を振り回す美大生たちとの対照である。

もう半世紀も生きてる身からすれば、町子にエラソーに意見する元カレ君も、それにムキになる町子もこそばゆいばかりなのだが、それが今の彼らの、精いっぱいなのはひしひしと感じる。
そしてそこから青もイハも、はじかれているのだ。すんなりと、普通に生きている。だったら、映画って、創作活動ってなんなんだろうと、ちょっと作り手さん側の皮肉な視点も感じなくもない。青のゆるゆるとした生活、完全に私的空間と化した古着屋で、大好きな本を読みふける日々、そんな生活の方がいいじゃんと。

ただ……この、閉じられまくっているように思える中でも、過去として、現在として語られる、悲哀がある。青が通っていた古本屋のマスターは今はいない。その死因は明らかにされないが、直前に顔を出した“ヴェンダースが日本に来た時には必ず立ち寄る店”がその時満席だった。
「満席じゃなかったら、死ななかったのかもしれないとか考えるんだよね」と店主が語るところを考えると、事故、だったのかなあ、と思う。

マスター亡きあともその古本屋を切り盛りしている女の子は、どうやら彼とデキていたらしい、ことを青は不用意に訪ねてしまって、彼女を怒らせてしまう。不倫なのかとか、そういう生臭そうなところに行きそうで、そうはならない。
何か……今はいない愛しき人に対する追悼を、彼女の怒りや、しみじみと語るカフェの店主や、それに対して思い出話でぽつぽつと相槌を打つ青とに、感じるのだ。
留守電のメッセージだけに残された、今は亡き、愛すべき人の声は、古着や、古本や、ふらりと立ち寄る小さなライブハウスで演奏される身に近しい音楽と同じ匂いをもって迫ってくる。

だから、町子や間宮は違うのかもしれない、と思うんである。この穏やかな下北沢の日常に、劇場を持ち込んでくるような感じ。
自分の自主映画に出てくれないか、と町子から請われた時には、青はちょっと、舞い上がった。受けるべきかなあ、なんて行きつけの小さなバーにわざわざ台本を持ち込んでまで、相談という名の、あれはやっぱり自慢だよなと思う。
下北沢の小さな古着屋にいるばかりの自分が、外側から見つけられたという高揚感を、そこまで明確に思ってなかったにしても、客観的に見ると、そんな風に見えてしまう。

そのバーで行き会う、小説家なんだか役者なんだか、青にとってはとらえどころのない小太りの男性がいる。役作りのために太っているんだ、と最初の登場シーンでは言っていた。
青が台本を持ち込んだシーンでは、その役を関取に奪われたと言った。荒れまくっていた。
のちに、小太りではあるけれど、まげもなく、髭面の、元関取、という男が、すまなそうな顔で訪ねてくる。関取、というのは、青が自主制作映画の現場で出会うスタッフ、イハの元彼の話であるんだけど、彼女は今も現役関取だと言っていたし、ここは違うのかなあ。

という、いろんな糸が様々に張り巡らされてる。彼女、雪と別れるまでは、ゆるやかに、穏やかな下北ライフを送っていたであろう青が、彼女から別れを告げられてから、この狭い、広い、小宇宙の下北沢の中で、いろんなことが起きる。
私の一番のお気に入りは、現場スタッフの女の子、イハと、まるでまじりっけのない、本当の友達になったことだった。先述したようにアウェイ感を感じた同士、二次会に行きたくなくて、イハは青を自分の部屋に誘った。

凡百の作品、あるいは昭和的平成的感覚なら、男女が、どちらかの部屋に招き入れてそれを受け入れ、その先は判ってるでしょ!!ということだろうし、イハもそれとなく青に確認すれば、青はうっかり入ってしまったことでそれなりの緊張を強いられていたことが判る。
そのあたりは、そうした古い日本的感覚が残っていたのは仕方ないにしても、双方そういう気持ちがないと判れば、なんかもう、親友にバチッと出会っちゃった!!てな具合に、めちゃくちゃ話が盛り上がるし、信頼感を覚えちゃう。

ああ、この感覚を得るまでに、一体何年の、何十年の月日が費やされただろう。いまだにね、男女の友情はありえないという向きもあるし、判らなくもない。ジェンダーレスの時代と簡単に言うのも違うかとも思うが、でも簡単に言えば、そういうことだ。
永続的過去からなかなか取り去れなかったその価値観が、ようやく今ここで、そうだよね!!という実感を持って共有されている実感に、嬉しくてならない。

それをまるで復唱するように、いい加減おめーら判れよ、とでも言いたくなるように、イハの束縛してくる彼氏、間宮を袖にして本当にほっとする相手である青に帰ってくる雪、二人が行きつけのバーのマスター、三つどもえどころか四つどもえで、誤解しまくりの落語みたいな会話のぶつけ合いに噴き出し、大団円に向かうんである。
そしてそこには、ここまでうっかり言い損ねていたけれど、ちょっとウザいが(爆)、なんか捨て置けない、“血がつながってなくて年の近い姪っ子に恋している”おまわりさんが、冒頭では青に、このラスト近くでは雪に、同じ話を繰り返す。ここに意味を見出すべきか、特段、気にするべきではないのか(爆)。

町子が見出したように、自分の店で本を読んでいる青はとても自然体で画になり、町子が被写体にしたいと思ったのは判る気がした。どうやらそこには、彼女自身がこだわっている個人的なイメージがあったらしいことを知っても、でもそこは、信じてあげたい気がした。
芝居なんてしたことないというスタンスで、がっちがちのテイクしか残せず、あんなに大騒ぎしたのに全カットされるという切なさ、でもそれを、言葉を濁す町子や、糾弾する古本屋の女の子に対して、「ヘタだったから」とあっさり切って捨てるイハが、とても素敵なのだ。

そうだ。それ以外に何があるのか。ヘタだから青は切られた。それを、作品のためとか、青君は頑張っていたのにとか、そんな忖度やら正義論で探りあっている女子どもに、まさに事実を放り投げたイハはかっこよかった。
一方で、切られてただろ、と気にしている青に、いや、ちょっと映ってた、と彼女が言ったのは意外で、友達の意識としてなのか、ちょこっと、そうじゃないような部分が予測出来て、フェミニズム野郎としては複雑な気分だったかなあ。★★★★☆


まともじゃないのは君も一緒
2020年 98分 日本 カラー
監督:前田弘二 脚本:高田亮
撮影:池内義浩 音楽:関口シンゴ
出演:成田凌 清原果耶 山谷花純 倉悠貴 大谷麻衣 泉里香 小泉孝太郎

2021/3/21/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
タイトルだけで勝ちだと思ったのは、なるほどこれがそもそもオリジナル企画だからというのもあるのかも。
まず観客の目を惹かなければというのは映画に限らずなんでも一緒だとは思うけれど、ベストセラー小説やコミックスの原作となると、案外そこがクリアできてないことが多いから。

さて、つまりまともじゃない二人の自分成長物語、なのだが、清原果耶嬢扮するヒロイン、香住が連発する、”普通”という言葉は、普通が判らない相手の成田凌君扮する康臣に通じないのは当然だが、実は観客であるこっちにもあまりピンと来てない。
それは、香住自体がなるほど普通じゃない女の子だからと言うことも出来るだろうが、彼女自身に普通が定義できていないことが一つ。そして、ひと昔、ふた昔前なら、共通認識として思い浮かべられていた“普通”ということが、多様化の時代、マイノリティ尊重の今の時代になって、存在すら危うくなっていることも挙げられると思う。

だから言っちゃえば、本作がテーマに掲げていることって、平成どころか昭和っぽいっつーか、ちょっと古い価値観だな、と思わなくもないのだ。
いや、いつの時代も、特にこの保守的な日本という国の中では確かに、普通はそうでしょ、というのは口癖のように言われ、学校でも職場でも頭を押さえつけられているものだとは思うが。そう感じたのは香住がなんとなく入っている女子グループの描写がかなりステロタイプだったことも原因の一つだったように思う。

女子がどこかのグループに所属していなければ学校生活を生き抜けないというのはいまだに横行しているのか、とも思うが、その中でただなんとなく輪の中にいる香住は彼女たちの、暇さえあれば他人の悪口、根拠のないうわさ話に軽蔑以下の、興味さえない、会話に加わりもしない強い心臓の持ち主なのに、なんでここに入っているのかなあ、という疑問がもたげる。

だって、そんな具合でいられるのなら、彼女は充分学校の中で孤高の人でやっていけそうなんだもの。いわゆる“普通”の女子高生たちを一方で表現するためなのなら、かなりバカにした描写だよなあ、などと思う。
香住に実際は気を許した友人さえいない(この時点では)ということの重大さに、作り手自身が気づいているのかどうかも判断しかねる、そもそものこの人間関係の設定には少し、頭をかしげたところもある。

でも、そんなことが些末だと思えるほど、何とも言えず魅力的なのだよね。本作はいわゆる会話劇、と言いたくなる、脚本の魅力に満ち満ちている。
康臣は予備校の教師、香住はその教え子。数学を愛してやまない康臣は、“普通”な人々の言動が曖昧過ぎて、上手く理解できないんである。
いや、そもそもわれら“普通”の人々は、ろくに理解もしていないのに、世間的なマニュアルにのっとって受け流しているに過ぎない。その処世術が、数学という確実性の世界こそが価値観である康臣に理解できないのはもうこれはしょーがないとしか言いようがない。

そしてそんな康臣にイライラしているのが香住なのだが、彼女だって“普通”に受け流す処世術など持っていない。
それは、陰口や噂をしゃべちらかすグループの女子たちが、実は持っているものなのだよね。彼女たちの唾棄すべき無責任さは、でもそのグループ内の駄話の外を出ないのだ。悪意を持って外に垂れ流す気もない。ここの場面で気軽に話してオワリである。

確かに彼女たちのような子は私だってヤだなとは思うが、香住が判ってないのは、彼女たちがまき散らすくだらない会話が、特に意味がない、悪意がない、その場で雲散霧消してしまう“普通”だということを判っていない、ことなのだよね。
だから彼女たちが口さがなくののしる、イケてる女子とイケメン彼氏とのデートを、見せつけてるヤな女、あいつ、ガールズバーで働いてるらしいよ、とかピーチクパーチク言うのを聞きとがめて、香住はその真相を突き止めに行っちゃう。

でもこれが、この物語の大きな転換点、なのだ。見せつけてるのでもなく、ガールズバーで働いているのでもない。彼女たちこそが、普通の輝きを持っているという展開こそが、本作の大きな大きな転換点である。

脇にばかり気がそらされて、ちっとも本題に行けないが(爆)。予備校講師といえど先生相手に、香住はタメ口以上の、かなりナマイキな口をきく。しかして康臣もそのことに特段気にしていないどころか、彼女の繰り出す攻撃に、知らず知らずオウム返しのように質問をして再三再度、怒られる始末なんである。
最初から、不思議に、かみ合ってないようでかみ合っている二人だった。普通を判っていると信じている香住と、普通を知りたいと懇願する康臣は、実はめちゃくちゃ相似形だったのかもしれないと思う。

香住は、教育玩具メーカーの若き社長に恋焦がれている。香住が生きづらさを感じている教育現場でのがんじがらめ、今の価値観では絶望的な社会を全否定して、根本的に変わる未来が来る、と断言する、しかもイケメンの社長、宮本にすっかり心酔した。高校三年生、この先教育者となって、宮本の推進する未来にかかわっていきたい、と夢見ていた。
講演会に足を運び、声をかけて会話も交わした。……なぜ香住は、その時自分が受けた侮辱をスルーしてしまったのか。そこに現れた婚約者の存在にこそ、キイッとなってしまったなんて、それこそ“普通”極まりないじゃないの……。

この社長を演じるのが小泉孝太郎氏で、誠実で、未来の日本を憂いている青年実業家、うっわぴったり!なのだが、これが困ったことに上っ面だけの薄っぺらエロ裏切りウソつき男であり、彼の誠実なキャラが浸透しているだけに、……なるほど、香住とともに観客にショックを与えるに充分なんである。
裏口でタバコを吸っていた彼に声をかけ、禁煙続かなかったんですね、と笑いかけたまでは、良かった。そこに彼の婚約者が現れ、タバコを咎めたらこともあろうにコイツ、香住のせいにしやがったんである。

その時点で切って捨てておかしくないのに、香住はむしろ、婚約者の存在に衝撃を受けて、二人を別れさせたいと思っちゃう。そして、センセイの恋愛修行の名目で、婚約者である美奈子を口説かせる計画を立てる。
上手くいくなんて、思ってなかった。だって康臣は見た目はいいから、告白されたりはしていたし、香住が仕掛けたナンパに乗ってくる女子もいたけれど、彼はいつも、全然話せなかったのだもの。ガッチガチに固まって、結局は“普通”じゃないこと言って、ドン引きされて終わりだった。だからまさか、だった。

孤独の魂が惹かれあったのか、康臣と美奈子はいい感じになっちゃう。その前に、ダサダサファッションの康臣をお嬢様の美奈子に釣り合わせるために、一張羅のスーツを仕立てて臨んだ。まあその前にいろいろ小細工が失敗しているんだけれど、それは計画を立てた香住はイライラしたけれど、常に前向きな康臣は次に次にと香住を急き立てた。
そもそも似た者同士なのに水と油みたいな二人がすれ違っていくのは、香住が康臣に対する恋心に気づき始め、康臣が、美奈子に対する恋心に気づき始めるに至るからなんである。

正直、香住同様、意外でしかなかった。まさか上手くいくとは、だった。
美奈子はホテル経営者を父に持つお嬢様だが、厳しいしつけのもとに、苦しんで育ったトラウマを抱えていた。
その父のビジネスパートナーである婚約者と、一度は別れる決意をした美奈子だったけれど、運命的出会いと感情を持ったとはいえ、結局は康臣のところに行けなかった。

先述からかなり時間がたったけど、いったんは“普通”に押しやられていた、口さがなく罵倒されていた、校内一の美人、君島さんと、その彼氏、柳君のエピソードである。
宮本が好きだった筈なのに、だから美奈子との仲を引き裂くために康臣を利用した筈なのに、康臣が美奈子と仲良くなっていくことに胸の痛みを覚えた香住は、女子グループの口さがないうわさ話に押されるように、だったら確かめればいいじゃん、とずんずん行くんである。

突然の、知りもしない相手の、すさまじい気迫に押されながらも、このカップル、めっちゃいい子たちなの!もちろん、ガールズバーでバイトしてるなんて嘘、君島さんの親の自営が商店街のスナックであり、しかし彼女は大いなるプライドを持って、「バーだから!!」と譲らない。
その“バー”の常連客が柳君の父親で、双方飲んだくれの親を持つ二人は、そもそも同じ商店街の顔見知り、幼馴染だったのが、ある夏祭りの晩、酔いつぶれた親を介抱、“バー”のあちら側で二人きりになって片付けモノをしたあの日が、「そうだったよな」と二人、顔を見合わせた。

ずっと知り合い同士でも、バチッとくる瞬間がある。突然、聞きたいんですけど!と突撃してきた香住に困惑顔ながらも、そういえばなあ、と思い出し思い出ししながら語ってくれるこの二人の好感度と来たらなかったし、この瞬間から、つまんない陰口とうわさ話を垂れ流していたアホ女子たちは完全に消え去った。
まあでも……あまりにも単純な女子グループ設定だったから、ちょっとかわいそうな気もしたけれど。

センセイに対する恋心に自覚して、酒も飲んでないのに(当たり前だ。未成年なんだから)香住は荒れまくる。
君島さんと柳君が店を切り盛りするところで、無責任な大人たちに囲まれながら(川瀬陽太氏とか、吉岡睦男氏とか、なんかもう、胸いっぱいになるキャストで涙が出そう!!)センセイへの想いを、指摘されたがっているんだろうと思われるほどに露骨に、遠回りに、私は苦しいんだ!!でもどうすればいいんだ!!と叫びまくる香住が可愛すぎる。

君島さんが正論で、だったら告白しろ!!と切って捨て、柳君が、それができなかったから苦しんでいるんだろ、とフォローする。
ちょっと男女逆転、本来はね、女子は話を聞いてもらいたい、それを男子は判ってない、ということなのに、君島さんはアニキなんだな!!ああ時には、そんな風に背中を押してほしい!!

個人的には、クズ男と別れられない美奈子さんと、彼女に静かに別れを告げる康臣に胸を打たれた。
でも、それぞれの人生、なのだよね。香住と康臣は、お互い好きという感情を共有したけれど、その尺度を康臣らしく気にして、香住は例の通り呆れ、これから先、それなりの時間を要するのだろう。
普通、なんて、もはや今の世にはないよ。それでもいまでも、学生さんたちは、その価値観に苦しんでいるのかなあ。★★★★☆


護られなかった者たちへ
2021年 134分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:林民夫
撮影:鍋島淳裕 音楽:村松崇継
出演: 佐藤健 阿部寛 清原果耶 倍賞美津子 吉岡秀隆 林遣都 井之脇海 永山瑛太 緒形直人 黒田大輔 鶴見辰吾 三宅裕司 石井心咲 西田尚美

2021/10/17/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
しばらくの間は震災を扱った映画自体が受け止め切れなくって、なかなか観られていなかったし、震災そのものをがっつり描いている作品はいまだ抵抗がある。震災をことさらに感傷的な角度から映した作品に苛立ったこともあった。
本作に接して、それまで徐々に心の中に積みあがってきた気持ち、それはもう起こってしまった事実というか歴史として存在して、今の私たちがあるんだという気持ちに改めて向き合う気がした。それはこのコロナ禍のことも大きかったかもしれない。もうなかったことにはできない。コロナがあって、マスクをしている生活の今があるように、震災があって、忘れられない体験を様々に重ねて今があるのだと。

そういう意味では、震災で母親を亡くした幹子(清原果耶)はまだ、そこから抜け出せていない気がする。もはやオチバレしそうな雰囲気になってるけど(爆)。本作の主人公は佐藤健君扮する利根だが、幹子はいわば裏主人公といった趣がある。
健君は10年後とはいっても20代の10年間ぐらい、といった推移だから彼本人がそのまま演じているけれど、幹子に関しては小学生の時に避難所で出会って、そこから10年後社会人になって、というスタンスだから当然子役からのバトンタッチである。

その間に高校生の時間も挟んでそこも彼女が演じてはいるものの、幹子の中に、震災の時に子供だった自分をそのまま持っているような、そこに時間を置き去りにされているような感覚を、そう、それこそオチが判った時、感じたのだった。
子供の時間を育てられないままである部分を抱えていた幹子は、震災が、もはや起こったこと、なかったことにはできない。という考えに成長させられなかったということなのかもしれない、って。その“原因”を取り除けば、いや、取り除かなければ、という一心で、少女は幼き決意をそのまま大人になって叶えてしまった。

幹子と利根、そして老婦人であるけい(倍賞美津子)が避難所で出会っている。それぞれたった一人。幹子はたった一人の母親を失い、利根はそもそも孤児で仕事仲間にもなじめないまま職場も住処も流された。
けいはもともと一人で慎ましく暮らしていた。ここがキモであったなんて、思いもしなかった。けいがあくまで単純な一人暮らしのお年寄り、だと思い込んでいたことが、落とし穴だったなんて。
幹子も利根も家族というものの喪失感を強く抱えているんだから、けいにそうしたものがありかなきかが気になっても良かった筈なのに、それを全く考えなかった、というところに、実は深い根っこがある。

しかし、その深い根っこは若干、すり替えられたような気にもなる。そろそろオチバレで言っちゃうと(ガマンが足りない……)、利根と幹子が勧めた、けいの生活保護申請を巧妙に辞退させて餓死に追い込んだ福祉役員二人が、監禁されて餓死させられるという事件が起きて、まあ後述するけど、つまりはけいを死なせたヤツらに対する幹子の復讐だった訳で。
でもそう、幹子は考えもしなかったのだ。けいに家族がいるかもなんてことは。自分自身が家族を失ってあんなにも喪失感に苦しんだのに、それを埋めてくれたけいが、お役所仕事で殺されたも同然の死を迎えたことで逆上した彼女は、いっかなそのことに気づかなかった、ということなのだ……。

本作の展開の中で、ことさらその、矛盾というのはちょっと違うけれど、そこにしっかりと言及するというか、こうべを垂れるというか、というところまでには至らないのが、少し違和感というか、気になる部分ではある。
本作は震災を共通認識としての事実、歴史としてベースにし、近年取りざたされることの多い生活保護の受給に関してとりあげる。不正受給はホントに近年……鬼の首をとったように有名人やらなんやらをやり玉にあげるあの風潮に、マスコミって一体、何様なの、そしてそれをあっさり信じ込んで攻撃する私たちって、何様なの、とめちゃくちゃイヤな思いを抱えていたから……。

もうオチバレさんは言っちゃいますけど、けいを死なせたお役所の担当官三人をぶっ殺すために、幹子は自らその職場に身を投じたのであった。
この職に就くために、けいが餓死した当時高校生だった彼女は、その後、その職に就くために血のにじむような努力をしたんであろう。もちろん、生活保護を受けるべき人たちに受けてもらうという信念はあってのことにしたって、ヤハリ復讐のために、いま彼女はここにいるのだ。

ウラミある同僚や上司が殺された事件に対して、あの二人が殺されたなんて。清廉潔白、人格者、恨まれるなんてことはありませんでした、と証言するも、その表情は硬く、こわばっている。
確かに表面的な捜査においては、監禁餓死させられた二人は、彼女の言う通りの模範的役人だった。その手口から絶対に怨恨だと(まあ実際、その通りだったんだけど)血気盛んにやいやい吠える若手刑事(林遣都)に、お前に捜査方針を決める権限があるのかよ、と濃い無精ひげが人生を投げ出してる感ハンパない笘篠(阿部寛)は斬って捨てた。

笘篠たち捜査する警察側と、利根側はくっきりと分かれていて、中盤ぐらいまでは若干戸惑う気持ちにもなる。まるで違う二つの物語を見せられているようで、不安な気持ちにさえなる。
拉致監禁して放置の上餓死させるという不審な殺人事件が同時進行で描かれ、彼らが勤務していた福祉事務所を放火した後服役していた利根に疑いがかかる。そう、服役していた筈だったから、幹子は彼の登場に動揺するのだ。疑いが彼に向けられたことに。

模範囚だったから仮釈放された、という利根はもうこの時点で当然幹子の手によるものだと確信して会いに行ったんだろうし、この時には決定的な会話は省かれていたんだけれど。
だからこの時点では、あの幼い女の子がこの幹子だったのかというオドロキにジャマされて、そこまでの推測には至らなかったんだけれど。

幹子が真っ先に手を下したのは、申請を取り下げさせた担当官、その次は、それを指示した上司。ただ……けい達に最初に対応したのは別の人物だった。吉岡秀隆氏演じる上崎で、今は代議士になり、国会議員としてこうした貧困問題を解決すべく奔走し、若い支持者も多数抱えている。
吉岡氏が演じているから、誠実さはきちんと伝わるけれど、結構リスキーな役どころではあると思う。この日本という国は、政治家がどんなに信念を持っていても基本的に変わらないし、変わらないから、政治家が持ってる信念が単なる、選挙に勝つだけのアピールにしか見えないという悪循環がはびこっている。
これまで政治家さんのドキュメンタリーの秀作に感銘を受けたこともあるし、決して決して、アピールだけの政治家ばかりじゃない、むしろそう見せているのはマスコミであり、それに乗っかる私たち大衆だと判っちゃいるんだけれど……。

幹子は10年前、避難所で、というか、遺体安置所で、笘篠に会っているのだ。双方、彼女の方は叔父に付き添われて母親の遺体を確認しに、笘篠は奥さんのそれを、という立場だった。でもそれも……どこか幻想というか、妄想というか、そうだったかもしれない、こんな出会いをしていて、それは彼や彼女だったかもしれない、ということかもしれないのだ。
その想いをさらに強くさせるのは、すべてが終わって、すべてが明るみに出て、利根が当時のことをとつとつと語りだす場面においてである。自分の目の前で黄色のパーカーの男の子が流された。助けようと思ったけれど、水が怖くて、飛び込めなかった。避難所で黄色のパーカーを着た幼い女の子、かんちゃんと出会って、この子は絶対に守ろうと思った……。

判らないよ、判らない。本当にあの時、笘篠が出くわした黄色のパーカーを着た女の子が幹子だったのかさえ。偶然同じカッコをした子だっていたかもしれない。
ただ……あの時、幹子は男の子みたいな感じだった。ショートカットにジーンズ。あの年頃の、どっちともつかない中性的な雰囲気が、利根にも笘篠にも、錯覚を起こさせたのだ。あれは男の子だった。でも生きて目の前にいるのは女の子。死んでない。生きている。未来がある彼女に、復讐なんかさせちゃいけないのだ。

生活保護受給に関しての問題提起こそが、震災に絡めてはいるものの、本作で一番言いたいところなのだろう。本当に近年、やたら取りざたされるが、そのどれもが、不正受給によるものばかりで、本当に不正なのか、そうさせた役人側のずさんさより受給した側が非難されるおかしさ、受け取るべき立場の人たちがそれによって追い詰められるおかしさ。
そもそも日本に蔓延する恥の文化や、一人でも身内が残っていれば確認という名の責任が及ぶ古臭い家族価値観こそである。

震災は関係なかったのだ。けいさんが追い詰められたのは、彼女の根っこに巣食っている日本的恥の価値観、離婚により置き去りにしてしまった娘への贖罪、というか、やはりここも、恥の意識であった。

凄く複雑な問題ではあると思う。誰か一人でも身内が、親族がいたならば、連絡しなければというのは、まあ正直納得いかんけど、遠くの親戚より近くの他人やろと、それこそを無責任に言いたてやがるシークエンスもあるんだから、その通りやろ!!と思うのに、日本という国は、とにかく、血縁が一人でもいたら、ダメなのだ。もう忘れてるぐらい、他人ぐらい、遠く、記憶も時間も関係も離れていても、ダメなのだ。
ああ、なんとゆー、日本的な!!それを、そんな具合に、もう全然関係ないからさ!!と、今の時代の、私ぐらいの年代からは言えるであろう。でもけいさんを演じる倍賞美津子世代あたりは……まだまだ、紙の上でのつながりだけでも、気にして、迷惑かけるかも、と思って、そんな風に娘に思われたくない、と思って……。

ほんっとね、こーゆー、しめっぽい家族制度、価値観、日本という国の、政府の押し付けがホンットイヤで、子供の頃は漠然と考えていたけれど、こんな風に映画とかに接してきて、次第に、ホンット日本って国は風習も役所の制度もマスコミもそれにあっさり追随する大衆もホントにサイアクだなと思ってさ。
それをね、それを……こんなに若い、すべてから自由である筈の女の子が、震災というものに捕まっちゃったことで、そうしたすべての自由を奪われて、子供のままの、子供が抱えてしまったウラミツラミ理不尽さを、なんかこんな、斜めに発射してしまったというのが、ツラいっつーか、これはダメっつーか、なんつーかさ……。

劇場版が公開間近で、ヒットドラマであった某刑事ドラマで、一度起訴されたらいくら反駁しても覆せないというのもそうだし、一度こうだと断定されたら、もう駄目ぐらい、くつがえされたとしたって、最初のイメージがついちゃって、死ぬまで言われちゃうというこの日本。
私は基本的にこの国が好きだし、日本語しか喋れんし、ほかの国に行くとかないなーとは思ってはいるんだけれど、時々……そう、こういう、頭ごなしな価値観に接する時に、たまらなく日本という国がイヤになる。

そしてそれがさ、こんな、未曽有の事態にならなければ明るみに出ないっつーか、いや違うな、今まではテキトーに処理されていたのが、未曽有の事態になることによって明るみに出ちゃう、サイテーじゃないの!!
時々日本という国が大嫌いになるのはこういう時。目を背けていることが、やっちまったな!!と攻撃されるタイミングが、こんな、未曽有の天災に至るまで気づかないというのが、日本という国の救いようもないノー天気さなのだ。★★★★☆


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