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「く」


2021年鑑賞作品

空白
2021年 107分 日本 カラー
監督:吉田恵輔 脚本:吉田恵輔
撮影: 志田貴之 音楽:世武裕子
出演:古田新太 松坂桃李 田畑智子 藤原季節 趣里 伊東蒼 片岡礼子 寺島しのぶ


2021/9/29/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
この人もまた、すさまじいオリジナル脚本が書けるクリエイターだったと久々に思い出す。なんかどんどん怖くなるね、この監督さんは……。田畑智子氏は吉田監督とは「さんかく」以来だろうか?「さんかく」は非常に印象に残っている大好きな作品なので、なんかバチッと思い出してしまった。
残念なことに役者引退してしまった高岡蒼甫氏が、本作の重要キャスト藤原季節君となんとなく印象が似ていて、監督さんの好みなのかしらんと思ったり。
そしてなにより、古田新太氏の恐ろしさに震え上がった。でもあの恐ろしさは、哀しみと憎しみが彼自身にも手が付けられなくなって体現化された恐ろしさなのだ。これまた衝撃作「愛しのアイリーン」の木野花氏演じたおっそろしい母親をふと思い出した。なんだか二人を対に考えると面白い。

地方の庶民的な小さなスーパー。そこの二代目店長が女子中学生の万引きを見とがめ、彼女が店長を振り切って逃走、その先で車に轢かれ、更にトラックに轢かれ、死んでしまうという凄惨なスタートである。
いや、スタートはここではない。その女子中学生、花音の人となりというか、置かれた状況というか、それを実に客観的なカメラでとらえていく。つまり……彼女自身がその状況に置かれて本当はどう思っていたのか、何を考えていたのかまでは判らない仕組みになっている。

表面上は、花音はひどく目立たない生徒、鈍重、と言ってしまったらアレだが、担任教師から、作業ののろさや、他に協力を求めない姿勢やらをやんわりとではあるが、あれは叱責だよな、という叱られ方をされている描写。
離婚して今は離れて暮らしている母親とは今も連絡を取り合い、自由に会い、仲良くしているけれど、母親のお腹が大きくなっていて、新しい家族を幸福に築きつつある。

父親と二人暮らしの花音は、おせじにも幸福とは見えない。自分が正義で気に入らないことはすべてなぎ倒し、ヤクザかと思うぐらいの威圧的な態度で周囲に接する父親は、花音と会話さえ成立しない。
恐る恐る相談事を言いかけても、んぁ?てなテンションの父親に言えずじまいになり、更には母親から買い与えられたスマホを投げ捨てられてしまう始末。

どー考えてもひっどい父親だし、ひっどい男だし、その後、非情にも花音が死んでしまった後モンスター化する様があまりにも怖いもんだから、いやいやいや、マジありえない、この男、終わってるでしょ!!と思わせるのだが、ずっとそう思わされ続けるのだが。
最後の最後になって、まさかこの男が反省とか、絶対しないだろと思っていたこの男が、その境地に至る展開になって、気づくのだ。この男、添田(そうだ、名前言い忘れてた(爆))を、不思議に見捨てない人たちがいたことを。
それが、彼と共に漁船に乗っている青年、野木(藤原季節)であり、添田が意地を張っている間、野木を引き取ってくれていた仲間の漁師であり。忘れかけちゃうのだ。表面上見えていることは、その人間のほんの一部だと。

そして本作では、マスコミの功罪、判りやすく言えばイメージ操作というものが、だってこれが正義だもん、とばかりに横行し、添田の場合は単純モンスターだからまんま映し出すだけなのだが、添田に相対するスーパー店長、青柳に至っては、明らかなイメージ操作がなされる。
これは……今も昔もめっちゃ覚えがあるから、本当に戦慄する。それこそ今現在、×××のことで連日メディアが騒いでいることはまさしくそうであると思う(こんな誰も見てないサイトで言っても差し支えないとは思うが、それでも怖いと思うほど、暴走しているからさ……)。
そしてそれが、ほんの数か月、長くても半年もたてば、ほかの話題に終始して、誰も関心を持たなくなるのは、本作で描かれる通り、そうなのだ。

スーパー青柳の店長を演じるのは、トーリ君である。生きづらいだろうなと思っちゃう、多分まず人見知り、誰かに頼るっていうことが出来ない。すんごく、手を差し伸べられているのに。
彼もまた、添田とは全然違うベクトルだけど、表面上はだめだこりゃながらも、気にかけている人たちがいるってことは、彼の本質が判っている人たちがいること、ただダメダメな男ではないってことなのだ。
添田と青柳という、ほんっとうに、地球の裏側ぐらい違う人物を配して、最終的にその共通点に落とし込めるっていうのが、もうそこまでに絶望しかないような辛さなんだけど、本当に上手いなあと思って……。

でも、辛すぎる。そこまでは、辛すぎる。なんたって、その事故描写が辛すぎた。一度乗用車にはねられ、その時点では頭から血を流して起き上がっていた。追いかけてきた青柳が慌てて近づいたその瞬間、後続のトラックにはねられた、いや、引きずられた。
想像もしたくない。トラックの下に巻き込まれ引きずられて、道路に長々と血の線を引いて、……その下の彼女の状態なんて、想像もしたくない。

本当に、容赦ない。「ヒメアノ〜ル」といい、「愛しのアイリーン」といい、近作の吉田作品はほんっと描写がハンパなくて……でもそれは、そこまでしないと太刀打ちできないほど、人間というものは、人間の感情というものは、人間の社会というものは、それ以上にえげつないもんなんだと、いうことなんだと思う。
その最たるものがマスコミのえげつない傲慢であると思わせるというのは、凄いと思う。だって、古田氏のあれだけのモンスターっぷりをこれでもかと描写して、青柳氏ならずとも、観てる観客だって吐きそうになるぐらいなのに。でもだからなのか。これぞ、効果ということなのか。クリエイターの上手さなのか。ああ、ヤラれたということなのか。

田畑智子氏演じる花音の母親は一見して、正義の側であり、花音の抱えていた苦悩を私こそが判っていた、あなたは何も判ってなかったじゃない、と添田に言い募るが、それはそうかもしれないんだけれど、花音が死んでしまった今となっては、それもまた、確かめようもない。
確かに花音は担任に叱責された遅れた作業を母親に手伝ってもらっていたし、三者面談に来てほしいということや、うつ状態になってて写真の自分の顔を塗りつぶしていることも、母親は知ってたんだから、理解者だったんだろうということはそりゃ判る。

でも、知っているだけだったんだよね、という見方も出来る。何にも知らない、知ろうともしなかった添田を元妻である彼女は責めるけれども、知っているだけで、理解してあげてるっていうだけで満足していた彼女だって、花音に対して何にも出来てなかったんではないのか。
花音の担任教師が、彼女の気持ちも慮らずに、やる気がないとか叱責してしまったことを悔やむのに対して、先輩教師が今更そんなことを言うのはズルい、偽善だというのもキビしいとは思うけど、とらえ方としては同じなんじゃないかと思ったり。

青柳側も相当である。行き過ぎた行為により女子中学生を死に至らしめた、という方向のマスコミの過熱報道、添田の恫喝、見るからに不器用なタイプの青柳は周囲に助けを求めることも出来ずに追い詰められる。
ベテランパートさんの草加部さん(寺島しのぶ)の情熱的と言いたいぐらいの正義感に、戸惑うことしかできない。そう……彼女のようなタイプの人に上手く協力を仰ぐことができるぐらいの器用さがあれば、こんなに苦しまずに済んだのだと思うけれど、本当に、人間というものは上手く行かないのだ。

いわゆる、世話やきおばちゃん。ボランティア活動にも熱心で、そこでまあまあ厳しすぎて、空いた時間でゆるゆるやる感じで参加している主婦を委縮させたりするタイプなんである。
ああ、なんて世の中は上手く行かないんだろう。人はそれぞれ事情があって、それをうまいことマッチングさせてシフト組んでいけば、こんな風に感情が入り組んで爆発したりしないのに。
本作はメインに痛ましすぎる事故があって、その直接の関係者による凄惨なバトルに目を奪われがちだけど、彼らにかかわる人たちの人間関係につながっていく上手さに気づくと、うわーっ!ヤラれた!!と思うんだよなあ。

添田は、元妻からも言われたりして、まあ反発しきりだったにしても、なんとなく娘の部屋をのぞいてみたりする。その中で、あの、自分の顔をぬりつぶしたアルバムを発見する訳である。
花音が美術部だったことすら知っていたのかどうか。花音が万引きしていたんだとしたら(これ自体疑ってる)、イジメによって強要されていたに違いないと言い募っていた添田、娘の部屋を、恐らく初めて侵入、捜索。つまりはそれまでは、関心すらなかった様子。
前述のように、花音にとってはただただ畏怖すべきご主人様、という見た目。添田がまず衝撃を受けた写真類だったけれど、娘の描いた絵画に打たれた。不器用に、画を描き始めた。心配して訪ねてきた野木が思わず笑ったイルカに見える雲の絵が、それが……。

これはあまりにもあまりにも、感涙のラストなんで。ここまで書き忘れていたことを網羅しなければ。
青柳、だよね。トーリ君。本当にここ数年の彼には瞠目する。宣伝でテレビ番組に出たりしている時、ひどく痩せていたりして、役作りだろうと思うものの、あまりにも仕事しすぎだし、なんか心配になっちゃう(爆)。
青柳は本当に不器用で、助けの手を差し伸べてくれている人たちはいるのに、言い方はアレだけど、それをうまいこと利用できない。草加部さんは最たるものだった。青柳に感情高まってブチューしちゃう。10ぐらい年上。アラサーアラフォーアラフィフ近辺の10歳差の微妙さである。それこそ10年前だったら、ありえないよねの一言で片づけられたか、勇気あるね、なレジェンドに奉られたか。普通なのになあ、というのはこれから検証されていくべきことなのだろう。

ぜえったいに相まみえないと思っていた、見てるだけで辛い二人が、なんか奇跡の和解、それに至るのに、双方に、それぞれさ、自分自身だけにしみる、マスコミとか関係ない、深い理解を得て……。
でもそれは、まだまだ、もしかしたら死ぬまで、納得しえないことなのだ。それを、なんか、もう、正直に、赤裸々に、子供のように、自分の理解のなさを吐露する添田と、まだまだ咀嚼しきれず、土下座するしかない青柳と。

添田は娘が描いていた絵画の、自分も同じく感じていたイルカに似た雲の画に遭遇したこと、青柳は、それまでは青柳スーパーの店長と言えばこの事件のことだけ、一緒に写真を撮ってくれないかなんてことまで言われたりしていたのが、スーパーのヤキトリ弁当のファンだった、それも二代で、と告げられる。
双方めっちゃ感動的で涙あふれるのだが、後者の方、事件のことさえ判ってないのかもしれない、もうスーパーを閉めて、今はこうして道路工事の誘導をやっている彼がね、いかにもチャラそうなあんちゃんからそんなこと言われて、「マジショックっすよ。てか、おふくろが好きだったから。弁当屋やって、またあのヤキトリ弁当食わせてくださいよ」そんなこと、言われたら!!さいっこうに無責任で、さいっこうに愛のある、泣いちゃうしかないじゃないの!!

なんだろ、なんだろうねえ。ラストはさ、あんなにも相容れなかった筈の添田と青柳の、……まあ、相容れないまま終わるんだけれど、二人だけの問題じゃないけど、二人だけの問題であるし、無責任である周囲が、その無責任度というか。
一体人は周囲に何を期待しているの、それは正当なの、いろんなことを、ああ本当に、吉田監督の凄さを、まざまざと実感させられた。★★★★☆


草の響き
2021年 116分 日本 カラー
監督:斎藤久志 脚本:加瀬仁美
撮影:石井勲 音楽:佐藤洋介
出演:東出昌大 奈緒 大東駿介 Kaya 林裕太 三根有葵 利重剛 クノ真季子 室井滋

2021/10/18/月 劇場(新宿武蔵野館)
もはや函館で映画化されるために数少なく残された作品があるような気さえしてくる、佐藤泰志氏原作小説五度目の映画化。相変わらず未読だけれど、この原作は短編小説で、そもそも原作に妻は出てこない。つまり夫婦関係は出てこないというんだから、これはモティーフとしてもらっただけでほぼオリジナルではないだろうかという気もする。
東出氏の血のにじむような芝居に圧倒される。本当に、ここ数年の彼はどうしちゃったんだろうと思う。役者に憑かれている、そんな表現さえ頭に浮かぶほど。プライベートをかき回してツマラナイ記事を書いてる奴らに、おめーらでっくんの芝居を見てるのかと言いたくなる。

まあとにかく……「BLUE/ブルー」と撮影時期どちらが先だったのかは判らないが、ひどくストイックに身体をいじめて、それが精神作用にも大きく関わってくるという点がかの作品と本作の彼とで重なる部分が大いにあって。
見ていて辛くなるというところも。双方ともに、パートナーに心配をかける、言うことを聞かない、自分のことしか考えられない、という男だが、それぐらい、追い詰められているということもそうなんである。

冒頭、まるで粘土で作ったようにいびつに頬のあたりを引きつらせた、かんっぜんに追い詰められた東出氏の顔に衝撃を受けるんである。キリギリスのように長っぽそくて硬そうな身体が、ぼきりと折れてしまいそう。
精神科にたどり着くまで、彼はほうほうのていだった、ということがラストにその場面を改めて描写することで示される。解説はされていた。どうにもこうにも動けない彼、和雄を引きずるように病院に連れて行ってくれた高校時代からの親友、研二(大東駿介)。それまでいくら言っても病院に行こうとしなかったのに、と駆けつけた奥さんが軽く愚痴る。

冒頭のこのシーンではまだ、そこまで深刻に考えていなかった。現代人が抱える辛さ、ぐらいな。奥さんの言うことは聞かないけど、友達には頼れちゃうんだな、というあたりの歯がゆさとか。
その後、お医者さんの勧めによってランニングを始めるようになると、彼はみるみる調子を取り戻していくんだから、このままイイ感じに夫婦関係も修復され、ハッピーエンドかな、なんて思っていた自分を殴りたくなる。これまで、佐藤氏原作の映画でそんな甘っちょろい展開があったかよ、と。

和雄は東京で出版社に勤めていた。奥さんになった純子(奈緒)とは、仕事の関係で知り合った。彼女は東京出身だから、和雄の故郷である函館では友人もいなくて、彼女は彼女でしんどい日々を送っているが、夫が病んでいるからそんなことを口に出すわけにもいかない。
そう、和雄の故郷に帰ってきたのは、彼が精神を病んでしまったから。後に和雄の両親との会食シーンがあるが、そこで如実に判っちゃう。この、ザ・お堅い父親と夫に逆らわない母親というお決まりの両親の図式、彼は家族の中ですでに追い詰められていたのに、そこから逃げ出すために東京に出たに違いないのに、東京でも追い詰められ、帰ってきた。追い詰められた元凶のところに帰ってきて、解決できる訳はなかったのかもしれない。

和雄の物語と同時に、男子高校生二人プラス片方の姉という組み合わせで物語が進行する。最初こそはちょっと戸惑う。とても交わりそうにない双方だったから。和雄はとても他人と交わる余裕なんてなさそうだったし、年齢にしてもなんにしても接点がなさすぎる。

でも、孤独の魂という点では、近しかったのだ。なんて陳腐な言い方をしちゃったのだろう。でもそうとしか言いようがない。
都会から転校してきて、バスケ部に所属、それなりにやっていけてる感じはあったんだけど、なあんとなくドロップアウトしちゃってる彰(Kaya)。ことさらに何か、からかわれたりとか、イジメとか、ある訳じゃない。バスケ部から離れちゃった彼を、からかうように揶揄するように部員たちが取り囲む場面はあるが、それぐらいである。高校生活というには、あまりに閉じられた部分でしか描写していないけれど、それこそが彼の精いっぱいだったという感じである。
夏休みになったら海に行って、巨岩から飛び込んでみよう、そんな高校生らしい提案にウキウキ乗っていたように見えた。でも実は泳げなくて、プールに通い出した。

そこで彰は弘斗(林裕太)と出会うんである。弘斗は彰のスケボーの技術に感動し、自分が泳ぎを教える代わりにスケボー教えてよ、と提案し、男の子はすぐに仲良しさんである。
ただ……後から思えば、そうだ、弘斗は彰に熱心にスケボーを習うけれども、それこそ山の中から倒木をえっちらおっちら運んできて、それを障害物に練習に励むぐらいなんだけど、出会いのプール場面以降、水泳を教えるどころか、プールの場面自体が一切、出てこなかった。
彰はクールでどうやら頭の出来もよくって、弘斗から見ればナヤミなんかなさそうだったのだ。だから、高校生活にモヤモヤしていた弘斗は思わず当たり散らしてしまったのだが……。

高校生男子の方の展開につい思い入れが出ちゃうのはオバチャンだからなのか(爆)。こんな彼らと和雄がなぜ出会うかっつーたら、和雄が走っているのに、戯れのように二人が走ってついてきたことが最初だった。
彼らにしてみればこんなオッサンについていけない、ってことが悔しかったんだろう。会えば競争のように一緒に走る、そんな関係。特段会話をかわすでもない。ただ、ある時から一人欠けた。相棒はどうしたんだと和雄は聞いたけれども、弘斗はその時は、答えることが出来なかった。

オチバレで言ってしまえば、彰は仲間たちからやいやいせっつかれた、巨岩からの飛び込みで命を散らしてしまったんだけれど、誰も見ていなかったし、そんなことやる必要もなかった。本当になぜ??だった。
ただ……和雄側の描写と違って、彼には、まったく家族が見えなかった。弘斗にも見えなかったけど、彼には口さがなく言い合うのが仲良しの印ってなほほえましさの、気の強いねーちゃんがいたし、このねーちゃん、恵美(三根有葵)の存在を加えての三人組は、心地よい緊張感の元の楽しさ、みたいなものがあった。
こんな陳腐なことは言いたくないけど……彰は恵美がヤリマンとか言われて、揶揄されたことがガマンならなかったんだろうか??何も知らないおバカな男子高校生が、想像で言いそうなことだ。ただそれだけ、だったのに。

家族が見えない若者サイドと対照的に、和雄側は、先述のように家族が彼を追い詰めてる感がある。ただそれは、ぜいたくな悩みなのかもしれない。だってこの家族の確執は、和雄はきちんと乗り越えている。
生まれ来る子供には、自分が受けたようなツマラナイ圧迫を感じさせず、ただ、柔らかな心で育ってほしいのだと、自分なりの言葉を尽くしてお堅い父親に説いた場面は感動したけれど、でも、それは自分が出来なかったから、そして今も出来てないから、出来ていない自分に直面するのが怖くて、良くなっていると信じて、健康であるという芝居を知らず知らずにしていた、ということなのだろうか……??

自律神経失調症というのはよく聞くけれど、それだけに、とりあえずそう言っとこうか、みたいなテキトーさを感じることもある。
先述したように、お医者さんにかかる時にどれだけ深刻な事態だったのかは後から示されるので、和雄がどれだけ追い詰められて、ヤバい状態にあるのかが、観客にも、劇中の周囲にもイマイチ判ってないのだ。
ことに彼の両親のどこか腫れ物に触るような態度には、自分には理解できない、弱々しい息子、みたいな感じが垣間見える。

良くなっているんだから、徐々に薬を減らしたい、そういっても、もう少し様子を見ようと言われるんだと、和雄は穏やかに言うけれども、どこかいら立ちを隠せない。
飲み忘れたという理由でたまっている薬に、それを調子の良さに説明していることよりも、別の理由でためているんじゃないか……と観客は不安になるんである。特に昭和世代は、かつての小説家とか、そーゆー薬を爆飲みして死んじゃったりしたもんだからさ!!

まさにその通りになる(死なないけど)ことに、あーあ、やっぱりかと思っちゃう自分にもなんかヤだなと思うけど、でもだったら、どうしたらよかったんだろう。彼は、他人に、自分の弱さや苦しんでいるのを知られたくない。ことに、愛する人たちには知られたくなかったから、医者にかかるのもギリギリだったのだ。
この場合の知られてもいい友達という存在は、友達にしても奥さんにしても双方ともになかなかに複雑な思いがあるだろう。愛の種類、なのか。見栄を張りたい愛、その見栄を守るために助けてほしい愛。勝手さあ。あまりに、勝手だけれど。

そう、赤ちゃんができるんである。和雄がこういう状態だから、恐る恐るである。産んでほしくないなんて、そんなことはある訳ない。ある訳ないけど……。
二人が探り探り、本来ならやったー!!と手を取り合って喜ぶ慶事を、どこに決着点を見出そうかと探っているのが、切ない。

和雄をなにくれとなく心配して助けてくれていた研二が、もう彼が大丈夫だろうと見て取ったのだろうな、休暇を利用して、ずっと行きたかった海外旅行に行くんだと告げた時、イヤーな予感がしたのだ。
確かに見た目、和雄は全然大丈夫そうだった。奥さんの妊娠が発覚した最初こそ、自信なさげに戸惑っていたけれど、今は準備万端ととのって、何の問題もなく迎えるところまで来ていた筈、だったのだ。

研二が辞して、純子は大きなお腹を抱えて寝室で休んでる。何も、何も問題はない筈だった。特に激変したそぶりもなかったのに、和雄は、処方されている錠剤を、プチプチ、プチプチプチ、プチプチプチプチプチ……際限なく取り出して、ゴミでも集めるように掌に集めて、ラムネでもかじるように、口に放り込んでぼりぼり咀嚼した、んである。

なんだよ、どーゆーことなんだよ。何それ。だって、何も問題、なかったじゃん……。

いや、和雄が彰の死に際して、ただただ受け止めも出来ずに、ていうのはあった。それは確かに、重たい問題だった。彰がなぜ、思いついたように岩から飛び込んで死んでしまったのか、判らなかったから、余計に重たい命題ではあったけれども……。

たださ、ただ、ただ……赤ちゃんが、いるから。奥さんに、赤ちゃんが宿っているから。赤ちゃんは、何よりも何よりも大事な存在なんだもの。どんなことも犠牲にすべき、存在なんだもの。
なのに、なのになのに、お腹の大きい奥さん、親友の来訪、幸せすぎる酒宴の後、親友が去った後、彼が、旅行に出るんだと、つまりそばにいられないんだと判ったからなのか、そんな弱い気持ちだったのか、とにかく、和雄は、ためにためた薬をラムネみたいにぼりぼり飲み下して、目覚めた時にはがっつり拘束されて、閉鎖病棟の中の人、なのだ。

奥さんは、愛犬と共に東京への船旅に出る、それがラストシークエンスである。なかなかに……解説するのが辛いシークエンスである。彼女は別れる決心をしたのか、それとも、今だけ離れるつもりなのか。
和雄の方もそのあたりは充分判っていながら、どこか他人を憚ってるような通信を送る。正常である芝居で周囲をたばかってしまった彼が、同じ手法が通じる訳がないことは判っている訳で……てゆーか、なにこれ。正常って何なん??って話よ!
誰だって、芝居するじゃん。めんどくさいから、この事態をとおすために、とかさ。いっくらだって、あるじゃん。でもそれが、いったんそうだと診断されると、そういうことなのか、っていう……。

東出氏、彼はヤバいね。そして個人的には大東君が素晴らしかったと思う。心打たれた。奥さん役の奈緒嬢は言わずもがな。てか、彼女、仕事しすぎよ。最近やったら見るわ、ホント!!★★★★☆


砕け散るところを見せてあげる
2020年 127分 日本 カラー
監督:SABU 脚本:SABU
撮影:江崎朋生 音楽:松本淳一
出演: 中川大志 石井杏奈 井之脇海 清原果耶 松井愛莉 北村匠海 矢田亜希子 木野花 原田知世 堤真一

2021/4/10/土 劇場(ユナイテッド・シネマ豊洲)
SABU監督作品は結構久しぶりな感じがする。タイトルからしてそうだけど、予告編でひどく不穏な空気を感じていたので、かなりびくびくしながら観始めた。
しかしなんかまるで、さわやかな青春、友情ストーリーのようなまま中盤も過ぎていったので、あれれれ?私が見たのって、違う映画の予告をカン違いしていたのかしらん、なあんだそうか、こんな可愛らしい物語だったんじゃん、と思ったら、カン違いなんかじゃない。私の記憶は間違っていなかったんである。

予告編というのはこういうあたりがなかなか難しいところで、時々やたらと同じ作品の予告編ばかりに行き当たり、もうすっかり観た気になっちゃって足を運ぶ気がなくなる、ということはよくあることである。そして本作のように、前半と後半でガラリとテイストを変えて驚かせる作品の場合、予告編でどう見せるかというのは非常に難しいと思う。
私がこの作品の予告編を、やたらめったら見ちゃってたら、どっからどーんと突き落とされるのかなー、と待ち構えながら観てしまっただろうと思う。かといって予告編ではその作品の本質を描写しなければどうしようもない訳だし。

だから私はラッキーだったのだ。足を運ぼうと思うほどに興味をそそられる程度にしか遭遇してなかった。
本作が急に不穏さをまとい始めた時に、その不穏を象徴する、というかほぼ後半パートの主人公と言ってもいい堤真一が現れた時、ずばーんと思い出したんである。ああ!やっぱりここからだ。やばいやばいやばい!!と一気に緊張し始めるのだ。

堤真一は、ヒロイン蔵本玻璃(くらもとはり)の父親。はり、という珍しい名前は、「普通、はり、なんてつけるか?英語だったらニードルだぞ」と揶揄されるが、もう一人の主人公、正義感あふれる濱田清澄(はまだきよすみ)はそれが、“瑠璃も玻璃も照らせば光る”から来ていることを推測し、「ひょっとしてお母さんは瑠璃って名前?」言って玻璃を驚かせる。
「トイレの中でことわざ辞典を読んでる」という清澄に、玻璃はようやく笑顔を見せた。この場面は物語の転回点、いじめられっ子の玻璃が公衆トイレに閉じ込められているのを清澄が救い出す場面である。

つまりかなりすっ飛ばしちゃったが、ここでようやくまともに二人は会話を交わし、急速に親密になる。出会いは、高校三年生である清澄が寝坊をして駆け込んだ全校集会、一年生の後ろにこっそり並んだ清澄が目撃した、一人の少女に対するいじめ行為。上履きまで投げつけられそうになったところを、清澄は矢も楯もたまらず止めた。
そもそも清澄はまっすぐな正義感の持ち主だった。父親の血を引いたのかもしれない。父親は、彼が生まれるのを待たずして死んだ。洪水の日、増水した川にはまった車中に閉じ込められた人たちを救助して、自らは命尽きたのだった。そんな父親を、尊敬していたに違いない。母親もまた、父親の思い出話をするたびに少女のように頬を染めていた。

この物語の冒頭は、清澄演じる中川大志君じゃないんだよね。北村匠海君。彼が全く同じエピソードを冒頭で語るから、その後清澄として高校生活を送る中川大志君が登場しする。
あれ?冒頭のは匠海くんだったよね……見間違えたかな?そして母親は原田知世サマだった筈なのにこれも違う……どゆこと??と混乱するが、中盤までの、清澄と玻璃、そして彼らを取り巻く友人たちのエピソードがとてもさわやかで、可愛らしくて、心打たれるものだから、うっかり忘れかけちゃうんである。

とはいうものの、玻璃が受けているいじめは壮絶なものである。一年生全員から嫌われている、という話まで聞かれる。それを頼まれもしないのに清澄の耳に入れたのは、一年生に妹がいる同級生の尾崎であった。
明らかないじめにあっている玻璃を気遣って声をかけたのに、異常なまでの拒否反応の悲鳴をとどろかせてかけ去っていった玻璃に清澄は戸惑っていたが、気にならずにはいられなかった。
清澄の親友の玄悟は彼の勇気をたたえるが、どうやら玻璃が抱えるものはただ事ではないらしいことを察知し、親友が深入りすることを案じるようになる。玻璃の味方になる尾崎姉妹もまた、完全に玻璃を理解するまでに至らず、戸惑うんである。

清澄だけがなぜ、どこまでも臆せずに玻璃に入り込めたのかという点については、彼のまっさらな、子供のような純粋さとしかいいようがないのだろうか。演じる中川大志君の、端正ながらもどこか隙がある美貌にそんなことを思ったりする。
玻璃は打ち解けてしまえばとても普通に可愛い、いい子である。それが判っちまったら、恋に落ちるのは当然である。玻璃はなぜ、いじめられていたのだろう。オチバレで言っちゃうと、悪魔的な父親からの支配に逃れられなかった彼女が醸し出す、他人に心を開かない、いわば異形の存在としての浮き上がり方をしていたからかなとも思うが、清澄に心を開く彼女は、本当に、ただただ、普通の女の子なのだもの。

清澄は確かに正義感あふれる男子だが、特段特殊な才能や、男子的魅力を振りまいたわけじゃない。彼だって最初は、野良猫が毛を逆立てるように拒絶する玻璃に、なんだよ……と憤りにも近い戸惑いを感じていたぐらいだったじゃないか。
なのになぜか、切り捨てられなかった。気になってしまった。正義のヒーローになるのが彼の夢だった。父親が、正義のヒーローになって、お星さまになってしまったから。

そうだ、本作はとても重要なファクターがある。玻璃が信じてやまない、UFOからの攻撃を迎え撃つ、という妄想である。妄想というか、哲学というか、彼女の人生を支えているものである。
玻璃の父親はまさに悪鬼、家を出ていったと玻璃が思っていた母親は父親によって殺されていて、母方の祖母もまた、おそらくこの恐ろしき義理の息子によってギリギリまで虐げられて、衰弱死にまでなってしまったんだろうと思われる。
その死体遺棄に玻璃も加担させられた。これで共犯者だなと、父親はニヤリと笑ったのだ。

なんてことが判明するのは、ずっとずっと、後になってからのことである。中盤もだいぶ過ぎてから、いきなり暗転する。それまでは、玻璃に対する理不尽ないじめも、ヒマ先(ヒマな先輩)と呼ばれだす清澄の正義感あふれる行動に、彼の親友である玄悟や尾崎姉妹がまず味方につき、なにより玻璃自身が変わりだした。
貞子みたいな風貌だったのが、顔を上げ、胸を張って、声を出すように努力した。それでも陰湿ないじめはなくならなかったけれど、玻璃はもうちょっと頑張ってみる。お父さんには知らせない、心配かけたくないから、とけなげに言うんである。

イジメられる理由なんか、ある訳はないんだけれど、なにかこの、玻璃の抱える闇を、誰にも相談しない、誰にも判ってもらえる筈がない、と悟っているというか、諦めている感じが、残酷ないじめっ子側のアンテナにイラッと響いたのかなという気がしている。
玻璃の不幸はイジメなんてものではなかった。それもまあそうなんだけれど、本当の不幸に比しては、学校でいじめられているなんてことは、大したことじゃなかった。それが証拠に、こんな陰湿ないじめを受けていても、彼女は毎日学校に来ている。つまり、学校に来ている方がマシだということなのだ。

彼女にとって家こそが地獄だったけれど、それもまた逃げられない。父親が勤めから帰ってくる時間までに戻らなければ、さらなる地獄が待っている。公衆トイレに閉じ込められていた時、清澄の助けが来なければ、彼女は自力で出られなかったんだし、門限までに帰れなかった筈。もしかしたらこの時玻璃は、不可抗力によって家に帰れなくなることを望んでいたのだろうか。
清澄が助けに来た時、執拗なまでに助け出されることを受け入れようとしない彼女にメッチャイライラしたもんだけれど、すべての事情が判れば、彼女が帰っても帰らなくても地獄、という事情が判っちゃえば、さあ……。

いじめっ子たちからバケツ4杯もの水をかぶった玻璃、助け出した清澄は制服を乾かすため、クリーニング店を営むおばに助けを求める。着替えをさせたおばが、体中にあざがあった、と悲痛な報告をしたのを、ああだって、いじめられてるからだもんね、とあっさり、観客も、清澄も受け取ってしまったことが、バカバカ!!だって玻璃は、いじめられてはいるけれど、けがをしたりはしてないし、もうちょっと頑張る、と言っていたではないか。

そらまあそれが、彼女自身の強がりだと受け取ることはできるが、確かめもしないで、そして清澄は玻璃の手に痛々しく残っている、何の跡か判らない、赤黒いあざに気づいていたというのに。
明るく前向きになっていた玻璃なのに、清澄と彼の母親が玻璃を送っていった先に、明らかに異様な父親と対峙した、キーポイントになる場面、あの時から、学校に来なくなってしまう。

あのキーポイントの場面は、忘れられない。いかにも地方の田舎道、舗装もされていない、田んぼに挟まれているような中を進む。玻璃が、お父さんの車!!と悲鳴にも似た声を上げる。窓を開けて、お父さん!!と叫ぶ。
前方を行く車は、突然猛烈にバックしてくる。何何何、もう、恐怖でしかない。ホラー映画である。ようやく止まった車から出てくる父親、顔を引きつらせて駆け込む玻璃。

清澄の母親は、強心臓である。絶対にこれは、おかしい。そう思ったのだろう。私おしゃべりなもんで、という空気をまといながら、矢継ぎ早に的を射た質問を浴びせる。一緒に住んでいる母方のおばあさんの介護、収容されている病院か施設……。
でも結局、これに答えた玻璃の父親のでたらめな情報が、フィードバックされることなく惨劇に突入しちまうということがもったいないっつーか、せっかくここで引き出したのになあという感覚は残る。それぐらいの働きは出来そうな、ちゃきちゃきした清澄の母親、そしておばだったからさあ。

とゆーわけで、後半は一気に、スプラッタホラーと言えるぐらいの、惨劇である。堤真一、コワすぎる。完全に、狂っている。支配欲、何だろう、彼を狂わせたのは。
妻と、妻の母を殺し、スーツケースに入れて、沼に沈めた。妻の母の時には玻璃を同行させ、共犯者にさせた。祖母が市立病院に入院してるなんて嘘を清澄の母親に誘導される形でついちまったもんだから、清澄の母がその市立病院に勤めていることがバレちゃって、事態は急転した。

玻璃は監禁され、でもそれを何とか脱出して、清澄とその母に危険が迫っていることを知らせに来る。
正義の味方、ヒーロー、UFOからの攻撃を迎え撃つ。客観的に見れば子供じみた妄想が、二人の絆だった。玻璃は清澄を守り、清澄は玻璃を守る。ギリギリの極限状態の中、玻璃の父親の犯罪の証拠をつかんだところで、彼らはつかまった。

もうさあ……この後からの描写は見たくないし語りたくない。無力な二人をゴルフクラブで全力で殴り飛ばすとか、ありえないだろ……見てられない……。
久々に、こんな、同情の余地のない、こうなったのは世間や社会に問題があるとか、そんなこと全くないね!!と言いたくなる殺人鬼を見たよ……いや、殺人鬼とすら言いたくないね。そんな矜持?すら、ないよ。

だってコイツが殺しているのは、自分の支配下に置きたいけれどうまくいかないっつー、外の責任からは切り離された身内だけなんだもの。罪に問われても、自分の支配下の人間だったから、メーワクかけてないでしょ??てな目線なんである。
怖い、怖すぎる。娘に投げかけた台詞でそれが明らかになる。だから殺されちゃうんだよ、お前、とうっとうし気に投げつけた台詞にこれまでの彼の罪がすべて凝縮されている。そしてそれは……いじめっ子たちの論理もそうだったのかもしれないと思うと……うわあ!!

もう絶対、死んじゃうよねと思ったのが一発逆転だったのが、隙を見て玻璃が、もう瀕死状態に見えていた玻璃が、父親をボッコボコに、これ以上なく、100%以上に撲殺するというカタルシス……とはかなり違う、なんともいえん、いや、殺されなくて良かったけど、玻璃も清澄も何とか生き延びてくれてよかったけど、というもう本当にギリギリの気持ち。
清澄と玻璃は、こんな事態だから、その後長年、会うことすらできなかった。玻璃は身分を一新した。別人になった。彼女を守るためにそうなったから、清澄が会える筈もなかった。清澄は進学し、就職し、そしてある日、地元に戻って、再会した。再会してしまった。してしまった、という言い方は、どちらに取るべきなのだろうか。

冒頭を、思い出す。父親を亡くす記憶が同じだった二人は、同一人物ではなく、親子だった。北村匠海君は中川大志君演じる清澄の息子だったのだ。原田知世サマ演じる北村君の母親は、玻璃であったのだ。

清澄と玻璃は、再会した。結婚した。なぜそのまま、ハッピーエンドにしてくれなかったの、と思ったが、ハッピーエンドでなかった訳でもないのかもしれない、とも思った。
でも、切ない。正義のヒーローは、誰かを助けて命を落とす。でも愛する者のそばにはいる。美しい決着だけれど、愛する者のそばにリアルにはいてくれないじゃないの。

だって、命を落とすのは他人のためなんじゃん、と思う。でもでも、他人とそうじゃない存在ってなんだろう?清澄は全くの他人の玻璃のためにすべてを注いだ。
なにかね、宗教的な、キリスト教的な感覚を覚える。自己犠牲っていうのが、青春物語の中では単なる正義感だけだったんだけれど、清澄の父も、清澄自身も、最終的にその信念のもとに命を天に捧げたことを思うと、これって宗教的、形而上学的物語だったのかしらんと、思っちゃう。 ★★★☆☆


グラスホッパー
2015年 119分 日本 カラー
監督:瀧本智行 脚本:青島武
撮影: 阪本善尚 音楽:稲本響
出演:生田斗真 浅野忠信 山田涼介 麻生久美子 波瑠 菜々緒 村上淳 宇崎竜童 吉岡秀隆 石橋蓮司 金児憲史 佐津川愛美 山崎ハコ

2021/12/12/日 録画(日本映画専門チャンネル)
公開当時なんとなくチョイスから外れていたのは、伊坂幸太郎氏原作の映画化作品に最初に出会った時が、なんか相性が合わなかったせいもあるけれど、これだけ映像化がされているのにいっこもその小説自体を私が読んでいないという負い目もあるのかも。ちょっと苦手なジャンルというか、ミステリというか謎解きというか、見事なストーリーテリングというタイプが苦手なの、私バカだから(爆)。
本作はまさしくそうしたタイプの物語だけれど、これもまた何の根拠もないんだけれど、なぁんとなく、原作ファンは映像化された井坂作品を良く思っていないような気がする。ホントに根拠がないんだけど(爆)。

それはなんだろなあ、本作から感じる、あくどい地下組織のメンメンやら殺し屋やらそのエージェントやらが、確かに豊かなキャラクター造形ではあるんだけれど、ファッションや押し出しのインパクトを重視していて、なんていうか、劇画チックな感じがするせいかもしれない。
確かに深く迫力のあるエンタテインメントで、そうした濃いキャラたちが跋扈するのが遜色なくワクワクはするんだけど、基本のキモの重く深い愛情物語が、そうした劇画チックなキャラクターによって上手く響かない気がするというか……。

なんてことを言うとまるで、その深く重い愛情物語を引きずっている主人公のトーマ君が薄いと言ってるように聞こえるだろうか(爆)。
でも確かに彼は周囲に押され気味である。それはそもそものキャラ的にそうである。だって彼、鈴木はこんなバイオレンスな世界に身を置くようなタイプじゃないのだ。

虫も殺せぬ気弱な中学の理科教師。給食室に勤めている百合子という恋人にプロポーズしてイエスの返事をもらった直後、彼女は事故死してしまう。薬物中毒の男がハロウィンでにぎわう渋谷のスクランブル交差点に突っ込んだ。
呆然自失の鈴木が事故現場をさまようと、その目の前にひらりとメッセージが書かれた紙が舞い落ちる。本当の犯人は別にいる。フロイラインの寺原親子を調べろ、と。

もうめんどくさいからオチバレで言っちゃうと、フロイラインという怪しげな美容商品を売る会社を隠れ蓑に、寺原という男(石橋蓮司)が闇世界を牛耳っている。非合法なクスリの市場を独占するためにこの事故を起こした。
取り締まりを強化させる裏で自分だけが甘い汁を吸う。つまり考えたくもないが容易に想像がつく癒着のために、何人もの罪なき人が犠牲になったんである。 そしてさらにオチバレで言うと、愛する婚約者が巻き込まれた鈴木を利用する形で巻き込むのが、「別に正義の味方って訳じゃないの。アンダーグラウンドの互助会っていう感じ」と明かす、最終的にフロイラインの悪党どもを一網打尽にした、ニセ一家プラスアルファ、なんである。
そこに至るまでに、寺原が子飼いに使っている殺し屋同士の接触や下剋上がゴーカな役者陣によって繰り広げられ、うーむめんどくさい、物語がゴーカすぎるわとかひっどい観客の私(爆)。

殺し屋なのに自殺に見せかけ、いや、自殺に追い込み手を汚さない殺し屋、鯨(浅野忠信)は、そんな巧妙な手を使ってるくせに、自殺に追い込んだターゲットたちの亡霊に悩まされる。もはや三密どころでなくギュウギュウに彼のキャンピングカーに集っているさまは、笑っていいのかどうか。
その鯨を、同業者なのに寺原からの指示で始末することになる岩西(村上淳)。岩西はエージェントで、彼の相棒である親子ほど年が違うであろうナイフ使いの金髪少年、蝉(山田涼介)がその任に当たることになるのだが、鯨がその仕事のやり方ゆえに事情を知りすぎたから同業者に消させる、というあたりのゆがみからやはりこれはおかしい、といことになるのだが……。うーん、これは恐らく、映画にした時のはしょり方のムリ加減も相まっているのだろうが、そこここになんとなくの違和感は正直感じるのだよね。

鈴木が謎のメッセージによってフロイラインに潜入するのだって、あまりにあっさり入れるのがどうなのかと思う。だってあんな悪事を働いてる組織、なのに鈴木を指導(というか調教)する比与子はヤバいクスリで中毒に追い込むんだとあっさり教えちゃうし、そもそも特段バックグラウンドも調べずに、こんな頼りない男を雇っちゃうのが解せない。
鈴木の中学時代の教え子だと声をかけてきた、いかにもバカそうな女の子を会長のおもちゃにできそうだからという理由で拘束するってのも、鈴木をあっさり雇用するのも、彼の教え子だという女の子を拘束するのも、あまりにワキが甘すぎないかと思っちゃう。

そらまあ、私はバカだから、見てる時にはそんなことには気づかないさ。でも、でもでも、なんたって佐津川愛美嬢だから、ただのバカな教え子で終わる訳ないとは判るさね。
まぁ確かに彼女には騙される。可愛らしい童顔、アニメチックな高音、メインでもサブでもいつも驚かされる振り幅である。
彼女はかなり長い間放っておかれる。鈴木自身がそれどころじゃなくなるし、彼が直接相対しない、寺原親子とその周辺の攻防こそが、実は本作のメインであって、鈴木は狂言回しにすぎなかったんじゃないかという気がしてくる。

伊坂幸太郎氏原作の映画化作品で、唯一(とゆー言い方をするべきではないかもしれんが)、めちゃめちゃ好きなのが「ゴールデンスランバー」であった。ああそうだ、伊坂作品はいつもオシャレな音楽がモティーフになってて、無知なこちとら側からはそこがまたハードルだった。
本作も、殺し屋エージェントの岩西がジャック・クリスピンの言葉を引用せずにはいられないのを、蝉がからかい気味に揶揄するシークエンスが何度も出てくるが、オシャレ言葉にしか聞こえず、共感として落とし込まれない。

それが、ああそうだ、苦手意識の始まりだったんだ。「アヒルと鴨のコインロッカー」で瑛太君演じる河崎がディラン好きなの?とというところから始まり、それがキモになる展開が、うっわ、私判らん、と思ったことがめっちゃ強烈だったのを思い出す。
本作もほぼその時と同じ苦手感覚、「ゴールデンスランバー」の時だけは、ビートルズの曲であるというそのタイトルのことは、まったく頭に上らずに見ていた。その違いはどこにあったんだろう。

そして、「ゴールデンスランバー」といえば、冒頭で爆死する吉岡秀隆氏である。本作でも非常に印象的かつ、キモとなる人物として登場し、彼は、そして彼の(ニセ)家族だけは、先述したような劇画的キャラを感じさせない。

寺原の息子を殺した“押し屋”と呼ばれる殺し屋である吉岡氏、フロイラインの女上司から命ぜられて彼を尾行する鈴木。殺し屋であるのに普通の家庭を営んでいることに鈴木は驚く。
鈴木も観客も当然、彼が自分の本当の仕事を家族に隠していると思って、なんとか彼に、フロイラインから狙われていることを伝えようとするも、まるで禅問答のように、哲学者のように、押し屋はけむを巻き、次に鈴木が訪ねた時には、まるで幻のように、まるで痕跡を残さずに、空き家になっているんである。

善と悪が真逆だけど、今年の衝撃作の一本、「孤狼の血LEVEL2」でを思い出したりする。善と悪が真逆、いやそれも、あくまである立ち位置から見た価値観に過ぎないから、どちらも同じようなものかもしれない。

ナイフ使いの金髪青年の山田涼介君。悪いけど、いかにもジャニーズバーターな気がしちゃう。美しいお顔立ちだし、芝居もきっちりしていて何の問題もないんだけれど、彼が最も、劇画チックキャラのトップオブトップで、ちょっと見ててほっぺた赤くなっちゃう。
彼に合わせるがごとく、エージェントとして彼を雇っている岩西を演じるムラジュンがまた、伊達男をキメたようなお帽子までかぶったファッションも物腰もすべてがキメキメで、悪い意味でのマンガチックな感じというかさあ。

まあ他のキャラもそういう感じではある。菜々緒嬢お得意の高飛車セレブ系女は最たるものだし、悪オブ悪である寺原=石橋蓮司はもちろん、ナチュラル系である浅野忠信だって、シックな殺し屋ファッションでキメて、どこで切り取っても絵になる写真が撮れるスタイリッシュさである。
でも、山田君はちょっと、アレだったかなあ。若さだったのかもしれないけど、いかにもトーマ君のバーターな印象が否めなかった。熱演が故に、余計にハズかしい気がしちゃって。

冒頭で死んでしまう、恋人の百合子=波留嬢である。ここを突っつくのはいかにもフェミニズム野郎だからなあとは思うが、死んじゃうっていう悲劇的なことからスタートする時点でうーむと思うし、給食室で働いているというのを免罪符にするかの如く、当たり前に女子が料理を提供して男子がそれを喜んで食う、という、昭和な展開が繰り広げられる。
さらにそれを追いうち、というか、決めきるかの如く、この悲劇の前に彼女が食べきれなかった分の料理を冷凍した、それをタイムマシンのようだと、味に付随した記憶がよみがえるんだということを、実に1年も経って、すべての事実を知って、鈴木は冷凍庫からそのスープを取り出すっつーね。

家庭の冷凍庫で一年はヤバいし(基本三か月以内。せいぜい半年だわね)、大きめのタッパに半分ぐらいのスープ、めっちゃ空気入っちゃってる、冷凍保存を駆使する料理女子(給食室の職員なんだから!)なら絶対にやらない基本中の基本のミステイク。
しかもこれが最後の最後の大事な部分、レンジでたった数分チンするだけで、味と共に記憶がよみがえるというスタンスで、基本をハズしてたら、これはめっちゃNGだわさあ。

タイトルとなってるグラスホッパーはトノサマバッタ。通常は緑色だけれど、群集心理で黒くなり、凶暴になる。その黒いバッタさんをやけにリアルにCG再現、っていうのも、ヘンに気になっちゃうだけで、違う気がしちゃう。★★☆☆☆


グラデーション
2020年 64分 日本 カラー
監督:椎名零 脚本:椎名零
撮影:安井彬 音楽:椎名零
出演:斉藤拓海 岡崎至秀 谷口昌英

2021/6/25/水 劇場(池袋シネマ・ロサ)
ジェンダーや性的自認に対する理解が飛躍的に深まったここ数年の、その時代でなければ産み出されなかった作品のように思う。一見して不思議なゆったり感を持つ作品だけれど、実はアイデンティティという非常に強い根っこを持っているように感じる。
これは、例えば10年前でだって決して作りえなかった作品だろう。もちろんいつの時代にだって、こんな風に“グラデーション”な自分に悩む人はいたに違いないが、声を上げることすら出来なかった。
もっとずっと古い時代にだっていた筈なのだ……と思うと、長いこと男と女、そして異性愛というものにがちっと固められてきた息苦しさをしみじみと感じてしまう。

そんながちっと固められている前時代的な人物も登場する。揺れ動くジュンの悪友であるヒロキである。彼はまるで昭和の男とでも言いたいぐらい、その言動といい考え方といい、実にマッチョである。
女の子にホレるのも、その子が可愛いからというだけ。警戒されただけでフラれたと落ち込み、キャバクラに憂さ晴らしに行き、キャバ嬢にあっさりホレる。淡泊なジュンにお前ホモか、それでもいいけど俺にはホレてくれるなよ、とか今じゃ冗談でも許されないことをまるで悪びれずに言う。ホモ、という言葉をわざわざ選んだあたりに、そうした前時代的なものを確信的に意識しているように感じる。

ホモて。ひさっしぶりに聞いたわ。それこそ私ら昭和の小学生が何にも判らずに差別的な心持ちで使っていた、いわば死語だ。
ゲイという言葉が一般化して久しい中、わざわざホモと言わせる、そのことで観客側にこの無邪気な悪友に対して反発心を起こさせるものの、当のジュンは執拗な悪友の揶揄にようやく怒りを覚えるのは、自身の中のもやもやが、もしかしてそうかも、という意識に向かい始めてようやく、なんである。

なんかよく判らない感じで書き進めてしまった(爆)。ちょっと整理しよう。ジュンとヒロキは大学生、ということなのか。
劇中では特に明らかにされなかったから、フリーターなのかと思ったが、これは夏休みの出来事とか、そういうことなのかもしれない。ひと夏の出来事、と思えば更にゆらゆらした感情の切なさが増幅される。

ジュンは見るからにユニセックスな男子である。女っぽいという訳じゃない。男の子は男の子なんだけど、彼自身、男の子としての認識が薄い、という感じなんである。
端正な顔立ちだから、色恋と無縁ではない。実際、切れ目なく連絡してくる女子がいる。ジュンは彼女を、さん付けで呼ぶ。自宅に呼ばれて、彼女が肩に頭をもたせかければ、義務のように、ああまさに義務なのだろう、「する?」と提案する。

それは提案でしかないのだ。ジュンは男の子としての性で、女の子とセックスするポテンシャル、っつーか、なんて言ったらいいのかな……本能的なものは持っているんだけれど、彼女に恋愛感情を持っていないことは明らかなのだ。そしておそらく、そのことを彼女に対して申し訳なく思っているんだけれど、どうしたらいいのか判らない、みたいな。
かつて少女漫画で言われたような、友達以上恋人未満なんていうんでもない。正確に状況を把握するならば、これはセフレとしか言えない。でも彼女の方はジュンにホレてる。ジュンもそれを認識している。決して彼女が嫌いなわけじゃない。でも……みたいな。そんな中ジュンが出会うのがヤスさんなんである。

ジュンのバイトしてる立ち飲み屋に、朝の時間帯、三つ揃いのスーツをバシッと着て、サクッと飲んで帰っていく常連客。
のちにヒロキに連れていかれたキャバクラで、ボーイ(というか、執事という感じ)として働く彼に偶然出会う。立ち飲み屋で親しく話をかわすようになる。写真という趣味が二人をより強くつなぎとめる。

趣味、いや趣味とは言うものの、二人とももっと強い気持ちがあった。あった、という過去形はヤスさんの方に強い。彼は写真専門学校に通っていたし、個展まで開いたぐらい本気だったけれど、今はキャバクラのボーイである。諦めきれない思いを抱えていたところでジュンに出会ったことが、彼のタガを外させたのかもしれない。
ジュンの方は、自分の才能など判りようもなく、一歩も踏み出せていない状況である。ヤスさんに写真を見てもらえるという第一歩で心が浮き立ち、更に深く話を聞けたことで、オクテなジュンの野心が燃えだす。いやでもその前に、ジュンのヤスさんへの想いが、その種類っつーか、それが何なのか、彼は苦悩する訳なんである。

何にも、ないんだよ。二人の間には。手さえつながない。てゆーか、ホント、写真という趣味でつながった、偶然出会ったソウルメイト。それこそ前時代的解釈なら、かけがえのない親友、というところに落ち着いてオワリだっただろう。でも少なくともジュンは、そこに落ち着いていられない。

それは、ほぼセフレ状態だった女の子から別れを告げられたタイミングと、悪友から散々、それはホモってことだろ、と揶揄されたことが重なったからってこともある。
ヒロキはさ、言葉のチョイスを間違わなければイイこと言ってんだと思うよ。つまりはジュンのヤスさんに対する気持ちが、なんか、捨て置けないってことは感じ取ってアドバイスしている訳だからさ!!でも、グラデーションなんだよなあ。最終的にも、とどのつまりにも、明らかになる訳じゃないから……。

一時間余りの短い尺の中でも、大きなクライマックスはヤスさんがジュンを自分の部屋に招き入れるシークエンスである。腐女子としては当然あらぬ妄想を抱いてワクワクする訳だが、何一つそんなこたあ起こらない。
一時期草食系男子なぞという陳腐なキーワードがはやったもんだが、あれがどんだけつまんない間違った解釈だったか判る。

男の子として女の子とセックスは出来る。恋愛やセックスに興味があるかどうかってことがそもそも判らない。でも、人との関係、友情と呼ぶのか、愛情と呼ぶのか、恋愛と呼ぶのか判らないけれど、それに対する欲求はある。
そもそも、人間との関係に、前提が必要だっていう今までの前時代的考え方が、なんとまあ、窮屈だったろうかと思う。

ヤスさんが珍しく、仕事終わりではなく、休日に、私服で現れる。一瞬、誰だか判らないぐらい。だっていつもびしっと三つ揃いのスーツ姿で前髪あげて、ザ・臨戦態勢だったんだもの。
それが前髪たらして、コットンパンツの上にオーバーシャツという無防備全開。今日は飲みたい気分だからとバイト終わりのジュンを自宅に招き入れるなんて、腐女子の期待をあおりまくるだろ!!

でもそーゆーことじゃないのだ。ヤスさんの性的嗜好は最後まで判らずじまいだったが、ジュンに対しては本当に、心許せる友達ができた、という雰囲気で、だからこそ切なかった。
でもジュン自体だって、最後まで自身の性的嗜好、性的自認がハッキリした訳じゃない。てゆーか、彼はそれを明らかにしようとはしてない。それもまた、自由な権利だから。
そのことに気づいてハッとする。何もかも白日の下にさらして、きちんと生きていけと強要する昨今の風潮に、モヤモヤしていたのはこういうことだったのかなあと思ったり。

ジュンとヒロキは地元の祭りに参加している。お囃子の稽古の様子が、何度か挿入される。
特段このお祭りの描写をするとかいうことはないんだけれど、二人が、それぞれにキャラは違うまでも、生まれ育った小さな下町で、そのお祭りに欠かさず参加して、小学生の女の子たちを指導したりしてさ、なんか、愛情をたまらなく感じるんだよなあ。

本作はね、舞台となる場所はここ!!というだけの、本当に動かない、ここだけ、という感じ。ここだけで働き、出会い、別れる。唯一、最後のシークエンスでジュンがヤスさんの故郷の山梨に会いに行く、そこだけが飛躍するからこそ、ものすごく印象的になる。
めちゃくちゃ閉じられた居心地のいい空間で、恋なのか何なのか、もやもやした幸せを感じたジュンが、突然のヤスさんの行方不明から、まるで箱入り娘が意を決して駆け落ちするがごとく、“県外”へ、“恋人”に会いに行く。

だからさ、実際そういうことじゃないし、そういう感情じゃないんだけど、がっちりとメインの舞台が下町に定められて、そっから山梨のぶどう園に飛び、そんな思い切ったことしたのに、なんたってジュン自身がグラデーションのままだから、なんてことない会話をして、そのまま別れちゃう。

でも……なんてことない会話、じゃなかったんだよ、きっとね。ヤスさん側はジュンのもやもやした気持ちを判っていたかどうかはかなり微妙だけれど、でも、ヤスさん自身も、あんな色っぽい職場にいながら、ひどく淡泊だった。見た目は美形で実際キャバ嬢に言い寄られていたのに、うるさげに振り払っていた。
だからなんかね、ちょっともったいない気はしたかなあ。いや、彼ら二人のエロを見たかったというんじゃなくて、それもあったかもしれないけど(爆)、ヤスさんが、その抱えるものが、めっちゃあったに違いないのに、語られないまま終わっちゃったのがもったいなくて。

せっかく祭りのリハーサルとかしっかり描いたのに、秘蔵の笛までいただいたのに、ジュン君は姿を消したヤスさんを探しに行っちゃったからねえ。でもまあ、そうしたあれこれが、地元密着、協力を充分に得て作り上げたのが伝わって、凄く良かった。★★★☆☆


くれなずめ
2020年 96分 日本 カラー
監督:松居大悟 脚本:松居大悟
撮影:高木風太 音楽:森優太
出演: 成田凌 若葉竜也 浜野謙太 藤原季節 目次立樹 高良健吾 飯豊まりえ 内田理央 小林喜日 都築拓紀 城田優 前田敦子 滝藤賢一 近藤芳正 岩松了 

2021/5/23/日 劇場(テアトル新宿)
そういやあ、アラフォーという言葉がはやりだした時に、その前提としてアラサーという言葉が先行していたのだということを思い出した。すぐ調子に乗っちゃう日本人はアラフィフだアラカンだと、なんか言葉のルール変わってんぞというものまで飛び出したが、そうだ、最初はアラサーであった。
今となりゃあアラサーだなんて若い若い、だって20代なんでしょ?私の子供世代やんか!(いないけど)とも思ったのだが、そらあ自分のことを考えてみても、いやおうなしに節目をつけさせられる年齢であったのだった。

劇中にあるように、かつての同級生の中には結婚する者も出てくる。実際彼らは、友人の結婚式で久しぶりに集うのである。
そして彼らのうちで外見的には一番うだつが上がらないように見えるソースはもはや子供までいて、そして……鬼籍に入る友人が出てきたりもする年齢かもしれない、と思った。

例えばこれが、彼らが出会った高校生の時だったら、自殺とか事故とか、なんか映画やドラマとかにもなりえるような悲劇だが、大人になり、人生の岐路が見え始めた年頃に、ああ、こんな風に、突然の心臓発作なんてことで、彼らの目の届かないところで友人が死んでしまうことが、あるんだよな、と思ったりしたんである。

それが成田凌君扮する吉尾である。ヨシオ、と呼ばれるその音からてっきり下の名前だと思っていたら、彼の訃報を友人一堂に知らせてくる父親からのメールの文面で、あれ、名前が違う……と気づき、彼が名字で呼ばれていたことに遅まきながら気づくのだ。
吉尾、吉尾さん。そうだ、先輩からは名字の呼び捨て、後輩からは名字にさんづけ、それは何か、彼の高校生時代の、いやそもそもの人間的立ち位置のようなものを思わせて、なんか身につまされる。だって私も、友達からさえさん付けされるタイプだったから、なんか判るなあ、とか思っちゃって……。

吉尾たちは総じて帰宅部で、文化祭の出し物をやろうぜってなことで集まった有象無象であった。この辺も絶妙である。部活に汗を流したとか、そんなんじゃないのだ。
しかもその文化祭の出し物にしたって、ウケたウケた!!と盛り上がってカラオケ屋で打ち上げやってるところに、コワモテの先輩につるし上げくらうという図式で、その実際の出し物がどうだったのか、本当にウケたのかすら、観客には判りようもないのだ。

そしてその出し物を、10数年後の今、友人の結婚式の余興でやろうというんである。赤ふんダンス。いやいややめとけ。聞いたとたんに誰もがそう止めに入っちゃうだろうさ。
しかも内部分裂しまくり。マジで赤ふんいっちょでやるのかよ、いや当然やるだろ、という両極から、なんとなくその中間をウロウロするヤカラから、ちっとも意見がまとまらない。とにかくカラオケ屋で打ち合わせしようやということになるが、歌って盛り上がりすぎて、疲れちゃう(爆)アラサーだから(爆爆)。

そんな男子的くだらなさの中で、次第に彼らの関係性、そして……決定的な、触れなければならない一点に踏み込むことになる。
吉尾は言う。おずおずと、これは確かめなきゃいけないだろ、という雰囲気で、「俺、五年前に死……」オラオラオラ!みたいにふざけに紛らわして吉尾に最後まで言わせないほかの五人。

そうか、吉尾は死んでいるのか……とこの時点で観客は了解するものの、不思議なことに、友達の5人以外のいわゆる第三者にも、吉尾の姿は見えている。
結婚式場のスタッフの女性、吉尾が高校時代から片思いしていたヒステリックなミキエちゃん。ことに後者の彼女に関しては、友達五人のように吉尾が死んでいることに対して逃げを打たず、死んでるから何?死んでたらえらいの!?と訳の分からない御立腹ぶり、なんである。
本作はその要素に置けるならばまったきファンタジーともいえるし、ラストのぶっ飛びかげんはまさしくそうなんだけれど、なんか笑っちゃうコミカルさが、でも不思議にのちのち胸を締め付けてくるのだよなあ。

彼らの10数年が行ったり来たりで回想される。高校生からアラサーぐらいまでなら苦も無くやれちゃう彼らの若さにまたしても、若いからなあと思いつつ……でも自分たちだけにしか判らない年齢を刻んだ外見の違いが、確かにあったなあと思わせる。
実際は今の時間軸より5年前に死んでしまった吉尾は、それどころかほかの5人にとっては高校生の時から時間が止まっていると言った方がよく、死んでしまった吉尾から、お前ら老けたなあ!と言われると苦笑いを返すばかりなのだ。

私らトッショリの目から見たら、みんなみんな若いのに!でも……確かに、高校生の時にわちゃわちゃやっていた時とは違う。あの時だって、充分に苦しんでいた。悩んでいた。ひょっとしたら人生で一番つらい時間もあったかもしれない。
でも、高校を卒業し、それぞれの道に行く彼らが、それぞれの生き方をポツンポツンとしたタイミングで確認しあう時のあの切なさ、そしてお互いの悩み苦しみの重さを、高校時代のようには安易に共有できない。

友達には違いない、かけがえのない友達には違いないけれど、それぞれの人生ですれちがっていくんだなあということを、もしかしたら初めて思い知らされるのが、卒業からの10数年の中でも、突然ウソみたいに姿を消してしまった吉尾が死んだ、5年前ぐらいのタイミングだったんじゃないかと思う。

20代半ばといったところである。6人が最後に一堂に会した時だった。それまでも、大学生、フリーター、劇団で役者、就職してサラリーマンと、違う道を歩んだ彼らが、それぞれの道で悩む愚痴を理不尽に友人にぶつけたり、相手の生き方を説教してみたり、そして気まずくなったりしたもんだった。
でも6人が一堂に会した最後は、劇団で頑張って役者やってる欽一と明石の公演を東京まで観に行った時だったんだった。そう、その時吉尾は仙台にいたから。あれ、そもそも彼らはどこで青春時代を送ったんだろう。特段明確にされたような覚えはないけれども……。

彼らはさ、学校の中でもクラスの中でも、いわゆるカースト制度の中で最下層にいた人たちだろうと思われる。
私の子供ぐらいの世代だから、そーゆー価値観が彼らの時にも残っていたのかどうかさえ危ういが、ミキエちゃんを演じる前田敦子嬢が昔懐かし紺サージのセーラー服、そして口うるさい清掃部員とか、なんか昭和の少女漫画みたいだからさあ。

吉尾はさんざん、後の五人から童貞童貞とからかわれる。実際、吉尾は童貞のままだったんじゃないかと思う。一度、否定はするけれども、肉体の結びつきがセックスだというのはどうなのか、みたいな宗教的だか哲学的だか判んないことを口走り、友人たちに、絶対童貞!!と決めつけられる。
たしかにそうなんだろうと思うが、吉尾の言うことはちょっと、判るんだよな。挿入だけがセックスならば、ブロック工作と変わらないもの。吉尾の持ってるロマンチスト気質は、なんたって男の子たちだからさ、からかいあうことで処理されちゃっていたけれど、本当は他の五人にも響いていたんじゃないのか。

結婚式での余興がダダ滑りになり、二次会まで3時間もある、というこの時間が、不思議なタイムトラベルになるんである。ようやく事実に向き合う。吉尾が死んでいること。なのに今、重たい肉体をきちんと持って、ここに存在していること。
いまだに成仏してないのかよ、とからかい気味に友人たちは言う。逆にそれは、友人たちが忘れられないからじゃないのか、という意見が出る。

人間には二度の死がある……とか言い出すヤツがいる。どきりとする。ここで私が何度も何度も触れている「トーマの心臓」だ。ニ度目の死は、その当人を知っている人達の記憶から消えた時に訪れるというもの。
だったら忘れるわ、忘れる忘れる!!と、冗談めいている中にちょっと本気度も混ぜて、彼らは吉尾を振り捨てて歩き出したりする。本気になれない。どこかふざけちゃう。それは決定的な結論を見たくないからなのか……。

後半のシークエンスは、それまではなんとかリアリティを保っていたのが、急にファンタジーつーか、それこそおふざけに本気はいりました!!みたいなことになって、あれれれれ、どど、どうしよう!!と戸惑ってしまうんである。
昔話をしながら歩いている、かなりどっぷりしんみりである。それまで、成仏しないな、と言っていたのが、ふと回想、というかタイムリープ的なところから我に返ると、吉尾はいなくなっている。

こんな感じなのかと彼らは笑い合い、結婚式の引き出物や、今回の余興に使った、ネジ(地元のネジ工場で働いてて、地元のことは一切取り仕切ってくれる頼もしい老け顔男子)が吉尾から借りていたウルフルズの8インチシングルCDをどうしようかということになり、ここに埋めちゃえ!!とテキトーな畑で掘り出すと、おらの畑でなにしてんべや、とあらわれたのが、なんと消えた筈の吉尾!
そしてそこからが、それまではなんとかしんみり保ってきたメモリアル的雰囲気が一気にぶっこわれる。どうしたどうした、これは破綻か??とドキドキしながら見守る。

吉尾は天空に飛ぶ。それは高校時代の余興の時に演じたフェニックスの超絶再現らしい。めっちゃわざとらしいCGで炎とかで焼き尽くされたり、各自の胸からドクドクいってる心臓が取り出されたり、いかにも高校生が理科準備室でやっていただろうと思われる寸劇が、しかしリアル実力派若手俳優によって全力で演じられ、どど、どうしよう、という感じである。
しかも全力の先には、これは明らかにあの世であろうと思われる夢のように美しい菜の花畑の中に彼らは横たわっていて、しかしそこで彼らが演じるのは、二次会では大爆笑!現実ではない、だろう、もうここまでくるとよく判らないが、感動的なまでに全力の赤ふんダンスなのだ。ウルフルズの「それが答えだ!」に乗せて、完璧なキレキレダンスを、ここにいる筈のない吉尾も出席者の拍手喝さいを浴びている。

そして……あの世の吉尾に別れを告げた5人は、過去を書き換えよう、あの時に戻ろうと言って、巻き戻されたのは最後に吉尾に会った、公演がはねたあのシーンなのだが……書き換えることなんてできない。
新幹線に乗り遅れた吉尾からの電話に出られなかったことを悔いていたけれど、吉尾が死んでしまったのはその半年後だし、そんなことは仕方のないことだ。だから彼らが、過去を書き換えるって、どうするのかと思って ……。

何一つ、変わらないのだ。いや、何一つ変わらないのは台詞だけ。明らかに五人はこの後に何が起こるか判って、同じ“演技”を繰り返してる。演技……?これはどういうことだと思えばいいのだろう。タイムリープ。同じ場面を、まったく変えずに同じ台詞で繰り返す。
でも五人はこの後吉尾が死んでしまうこと、これが六人が集う最後になること、そして、そのためにこの場面を繰り返していることを知っているから、泣き出すのを必死にこらえて、こらえてこらえて、この茶番みたいな繰り返しを演じるのだ!!
これはどーゆーことなの!!過去を書き換えるって、いやでも……何一つ変わらないのに、彼らの中で確実に書き換えられた、六人最後の夜のまるでエチュードのような赤裸々さに胸の動悸が止まらないのだ。

アラサーもアラフォーも超えて、アラフィフになっちまったこちとらとしては、もう結構、死ぬのもそのうち来るんだろうなという感覚だし、若さへの感傷はこんな具合に愛しさに変わりつつある。
ウルフルズのパワフルな楽曲が彩ったのが良かったなあ。彼らは昭和な土臭さを持つ。彼らアラサーにとっては、懐かしさどころか、俺こんなん知ってるしー、みたいな感じっぽいのがそうか……と思わせるが、永遠だよね、音楽は。
こんな風に、彼らの時代じゃない音楽を、歌ってくれると胸がざわめく。「リンダ リンダ リンダ」とかね、思い出しちゃうんだよなあ。★★★☆☆


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