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ムーンライト・シャドウ
2021年 92分 日本 カラー
監督:エドモンド・ヨウ 脚本:高橋知由
撮影:コン・パフラック 音楽:トン・タット・アン
出演:小松菜奈 宮沢氷魚 佐藤緋美 中原ナナ 吉倉あおい 中野誠也 臼田あさ美
原作はもっとずっと、シンプルな構成だった。構成は、である。この場合、構成とかストーリーとかはあまり意味を持たないように思った。眠くて眠くて仕方なかったのは、本作自身が持つ夢とうつつのあわいのような空気感にも影響されたんじゃないかと思った。
ことに、臼田あさ美嬢演じる不思議な女性、麗が登場した時の、死神、とまではいわない、悪魔、も言い過ぎだが、そうだ、夢魔という言葉がピタリとくる、あの姿がぞくりときて、夢の世界に引きずり込まれる気がしたのだ。
原作にももちろん登場するキーパーソンだけれど、監督さんは彼女の年齢設定といい、造形といい、ハッキリと別のイメージで作り込んだ印象を受ける。原作を後から読まなくても、彼女の存在が最もくっきりと浮き上がる。
劇中では案内人のような言葉が使われていたが、ベタな言い方をすればイタコのような……原作ではさつきたちと同じ哀しい立場である示唆があったが、本作の彼女ははっきりと、異世界から来た何者かである雰囲気をまとっている。
ああでも、原作のことを言うのはミスリードだ。映画と原作は違うのだから。なのについ不安になって原作を手に取ってしまった私がバカ!!
さつきと等は大きな橋がかかる下の、河原の枯れ野原で出会った。さつきが探していた鈴、あれは……原作と同じように猫の首にさげられていたものとして語られていただろうか。すいません、ねむねむだったものだから(爆)。
とにかく、その小さな鈴によってさつきと等が結びついた。手首のミサンガにつけて、常に彼と共にあった小さな鈴の音色。原作では(すいません……もう言わないと言ったのに)猫の首にさげられていた鈴、というだけにとどまっていたのが、本作では彼女の愛猫としてふくよかな三毛猫がひっそりとそばにいてくれている。
猫は、死者との世界をつむぐ存在であると思うし、ことさらにそうした役割を担わせている訳ではないのだけれど、ひそやかに何度も登場するこの三毛猫に心あたたまる。
等には風変わりな弟、柊がいた。ごめんなさい、もう原作のことは言うまいと思ったのに、ムリだわ、ちょいちょい挟むのを許してください(爆)。原作では、その風変りさをあくまで性質というか、人間性というか、そうしたものとして語っていたけれど、なんたって映画の強みは見た目のインパクトである。
原作では、見た目は手足の長いハンサムな男の子、としていたのを、見た目からしてインパクト大な男の子として提示してきた。そして彼とラブラブの恋人、ゆみこちゃんもまた、暑くて情熱的な国の血が混じっていると思われる個性的な女の子を、しかしそのユニークさに触れることもなく登場した。
静謐な中でのインパクト、これはなかなか凡百の日本映画としての描写では思いつかないことだと思った。
グループ交際なんていう古い言葉が思い浮かぶほど、四人は心から楽しく過ごした。柊は子供なのか大人なのか判らないような、本格的な料理でもてなし、食べてる様子でその人となりが判るなんて言うドキリとしたクールさを見せる一方で、電池が切れたように寝落ちしてしまうような可愛らしさがあった。
四人で、“ピタゴラスイッチ”みたいな装置を作って興じている場面、肝心なところで柊君がすっかり寝ちゃってて、もうこうなったら絶対に起きない、しょうがないなあ、みたいな三人の視線は親のようだった。
でもこれが、残酷な伏線。決して起きない柊君、だから等がゆみこちゃんを送っていった。そして事故に遭い、二人とも死んでしまった。あまりにもあまりにも突然な。
等とゆみこちゃんが、死んでしまった。柊がこんな具合に寝入ってしまったことで、等がゆみこちゃんを送っていった先で交通事故に遭った。
それをさつきは柊からの取り乱した電話で聞いた。その時から、ではない。もうこの物語の最初から、異次元感は始まっていた。等との出会いから、河原という特殊性が、いやおうなしに、三途の川的なものを思わせたし、
彼らが無邪気に遊んだり食事したりしている間の会話に、しんしんと不思議情報というか、不思議世界が紛れ込んでくる。等が語る、目に見えている川はほんの一部で、地下に流れている川の水が、井戸水としてここに湧き出ているんだという話。
目に見えない川がこの町には張り巡らされているんだと聞き、さつきは、「知らずに川の上に住んでいるんだね」と感心した。川。原作でも映画となった本作でも、死者と生者が邂逅する象徴的な場所だ。
原作ではそれを、川よりも橋にこそとった。橋を絶対に、渡らないで、と言った。映画となった本作で橋は、なんていうかさ、とても立派で、近代的で、がっしりしていて、等を失った壮絶な喪失感でただただ走るしかないさつきを、無骨に支える、不器用なおじいちゃんといった印象があった。
夢魔のような不思議な女性、麗とはあくまで川、河原での邂逅であり、だからこそ黄泉の国にいざなわれるような、恐ろし気な、だけどひどく魅力的な雰囲気があった。
麗との出会いはゆみこちゃんが持ち込んだ月影伝説である。奇跡的なあらゆる偶然が重なる時、死者に出会えるという伝説である。この噂話を持ち込んだ時、まさかゆみこちゃんは、それが現実にあるどころか、自分がその対象になるだなんて、思ってもいなかったであろう。でも妙にその伝説に執着しているゆみこちゃんは、その運命を知らずに予感していたということなのか。
結婚に反対された両親、会ったことのない祖父母に会いたいというゆみこちゃん、その見た目から国際的確執を感じさせた彼女だが、いい意味でそんな判りやすいことに言及することはなかった。
ゆみこちゃんが大好きで大好きでたまらなかった柊君。彼は、うーん、なんだろうなあ……風変り、というのはあくまで今の日本社会の常識とやらに照らし合わせた上でのことで、ただただ優しく、愛のある男の子であった。
ゆみこちゃんが死んでしまって、形見であるセーラー服を着続けた。もみあげを伸ばした、すね毛もしっかりの男の子が、ギャグでもなんでもなく、亡き恋人のセーラー服を着て過ごすという、壮絶な愛情表現は、凄いことにまるで違和感なく、するりと受け入れられた。
周囲からどう見えるかなんて、まるで気にならなかった、のは、柊君、そして彼を演じる佐藤緋美君の、まるで疑問のないゆみこちゃんへの想いを感じられたからだろうか。
音、ゆみこちゃんがセーラー服の襟を立てて耳をそばだてた音。音の粒、という表現をゆみこちゃんはしていた。
音は凄く凄く、本作において重要事項である。なんたって、あの鈴の音である。鈴の音がさつきと等を結びつけ、彼が死んだ後もまた、さつきを葛藤に縛り続けている。
原作ではまったくなかった、この土地の下をひっそりと流れているという川の存在、そして、その町の歴史を聞きに行こう、という段階で、あの夢魔のような女性が、この町の語り部の助力的なスタッフとしてかかわっているところに遭遇する。今の時代にはあまりにもアナログなカセットテープへの録音で、語り部の音源を録音している彼女。
そもそもの原作が30年以上も前だし、当時のアナログ技術は失われている。原作にはない語り部に対するインタビュー音源をカセットデッキに収めるだなんて、かなり確信犯的だと思っちゃう。
二つのレバーを同時に押し込んで録音する、なんてさ!!しかも聞き取っている事実は、目には見えない地下を流れる、つまりあるかなきか判りようもない幻のような川なのだもの!
愛する恋人、等が死んでから、ぐったりくたびれるまでジョギングしたり、観てるこっちも、彼女がどうしたいのか、ただただつらい、そんな気持ちで見ている。
さつきは等が死んでから、特に夢うつつというか……自分を痛めつけて、やたら走ってて、その中で幻覚というか幻想というか。
等を演じる氷魚君が、彼はさあ、なんていうか、本当に独特の霞感つーかさ、遥かなる感つーかさ。
本作は、カンタンにファンタジーと言ってしまうこともまあできるとは思うけれど、根底には日本古来の黄泉の国、三途の川感があって、そこにはやはり、やはりやはり、捨て置けない宗教観というか、なんつーの、罪のない立場で清らかな立場で、お裁きを受けさせていただく、みたいなさ!!なんかそーゆー、日本的みそぎ感覚があるとゆーかさ!!
若い頃はただただ死ぬことが怖かったけど、今はいろいろ妄想したり楽しくて、こういう作品に躊躇なく対峙したりしている。面白い死に方したいぜよ。ここでそれを、提示しちゃダメなのかね??★★★☆☆
特にキツかったのはアルビノであるM02で、うっわ中学生の演劇部、いや、そんなこと言ったら中学生に失礼かも……と思うような芝居。でも演じるあべみかこ氏は演技力に定評があるのだという。そ、そうなのかぁ……いや、演技力に定評があるからこそ、この難しい役に抜擢されたということなのか。
かなり難しい役だと思う。アルビノという見た目と共に、知的ハンディキャップを思わせる幼児のような言動、無邪気に走り回る様。これをリアリティをもって演じるというのは確かにかなり難しいと思う。
M02以外の女子4人はまあ若干、アハハウフフな気恥しさはあるにしても、いろんなタイプの女の子をそれなりのリアリティで見せてくれるのだけれど……。ああ、あと、女医さんを演じる栄川乃亜氏のおらおら芝居も正直、キツかったなあ。小柄なせいかもしれないけど、その台詞と態度ほどには、彼女の横暴さがイマイチ伝わってこないっつーか……。
物語、そのアイディア自体は面白いと思う。ちょっと、「サル」を思い出した。決して好きじゃないのに、妙に忘れられない作品ってある。「サル」はまさしくそういったタイプの作品で、新薬の治験、人間扱いされない被験者、まさに本作と共通していて、面白いことに「サル」は男性のみ、本作は女性のみ、である。
20年弱の時を経て、こんな不思議な相似形が現れるなんて、なんだか不思議だなあと思っちゃう。
冒頭、幼い女の子が、連れていかれる描写。姉とおぼしき年長の女の子が、黙って車の窓から人形を手渡した。
連れていかれた先でその女の子が目にしたものは、暴れて飛び出してきて、動かなくなる女性。死んだ、と冷たく告げられる。一体ここはどこなのか。なぜ彼女はここに連れてこられたのか。
もちろんフィクション、ファンタジーと言いたいぐらいの虚構性はあれど、それこそ「サル」に感じた忘れられない感覚は、私らが知らないだけで、こういうことが行われているのかも……と思わせる絶妙なリアリティである。
動物実験までは判る。でも動物だけでは人間に対する効果や安全性は得られない。そこを「サル」はリスクを高いバイト料で補う、という、一見合理的なようでいて、実は被験者が死んでもかまわないと思っている狂った世界を描いていたのだけれど、本作はもっと、狂っている。
高いバイト料なんて払わない。だって彼女たちは、もとから実験動物なのだから。彼女たちの前に試されるハムスターたちと同じなのだから。
しかも効率よく実験結果を得るために、彼女たちのクローンを作ってさえいる。それは噂レベルかと中盤までは思わせたが、M05が親しくしていた女の子、彼女を裏切って脱走しようとして殺された子が、今回集められたメンバーのM04にソックリだというのが、M05の回想シーンで示される。
M02が初対面の筈の他メンバーに、会ったことあるよね!!と無邪気に問いかけるのはそーゆーことで、これは暗黙の了解、というか、触れてはいけない一線、だったのかもしれない。
その割には、このデリケートな問題をさらりと処理しちゃうんだよな。自分のクローンが大量に作られて、死んだりしたりしてるかも、なんて考えただけで吐き気がするほど恐ろしいことだと思うんだけれど……。そもそも自分が本体かどうかさえ、判らない訳でしょ?一体何番目の、何十番目の、何百番目のコピーなのかどうかさえ。
うっわ、コワッ!!てな具合にかなり魅力的な題材なのに、そこはあっさり通過しちゃうのが惜しい、惜しいんだよなあ。死んでしまった友達とソックリ、というだけでしかこの設定が使われてないのが、もったいなすぎる。
群像劇だけど、主人公はいる。冒頭の、幼い頃の記憶を宿しているM01である。被験者として選ばれた彼女は、新薬を作った研究者として現れた女性が、自分の姉だと確信する。何の根拠もなかったと思うのだが、先述のように展開のあれこれがかなりフリーダムなのでまあいいんだろう。
この研究者は、どうやら妹を救い出すためにこの職に就き、この施設に新薬をもって乗り込んだらしい。口実を作ってあなただけ救い出すことができる、と決死の思いで研究者はささやくが、M01は仲間たち、特にずっと一緒にいるM02を置いてはいけない、とやんわりと拒否。それは、死を意味しているのに。そう、安楽死の被験者となるのだ。サイアク。
自分たちが実験動物だという自覚が、あるようなないような、という彼女たちである。そりゃ人間なんだからそんな自覚があってたまるかと思うが、生まれた時からここにいると思わされている彼女たちにとって、「外の世界の人間たちのお役に立って死ぬ」ことが使命、うっわなんか、天皇陛下のために玉砕するとさして変わらん心理じゃん、と思う。日本人の精神的欠陥にどっか、そーゆー考え方というか、アイデンティティが刷り込まれているような気がして、ゾッとする。
かつて親友を裏切り、脱走の罪によって目の前で殺され、深い闇を抱えているM05だけは、この体制に対する不満と抵抗を抱えていて、一時は仲間たちとの平穏な日々に癒しを感じて穏やかになっているけれど、基本は狼なのがクライマックス、牙をむく。
彼女だけが、自分たちは人間だと、外の世界とか、外の人間たちのためとか関係ない、そう思っているのだ。そう思うキッカケとか、彼女自身のアイデンティティとかがあったら、グッと入り込めたのになあと思っちゃう。
尺の問題もあろうが、5人の中でぼんやりとした幼い頃の記憶を持ち、自分は実験動物ではなく、両親がいて、姉がいた、一人の人間なんだとハッキリ自覚しているのは、主人公のM01だけなんだよね。もちろん、彼女にしっかりフォーカスを当てられるという点では、間違ってないのだろうが……。
M05がとっさに女医を羽交い絞めにしてかんざしを首に突きつけ、「逃げて!!」と吠える。あっさり女医が彼女の要求をのんだから、これはあっさり取り押さえられるという自信があるからだろうなと予測できちゃう。その通りになって、まずM05が撃たれて死ぬ。
彼女たちは、安楽死の被験というまでには予測出来てなかったにしても、この施設内では長く生きられないことは自覚していた。その理由はぼんやりとしていて、ただ、自分たちが成人女性の年齢まで生きていることこそが、奇跡なのだということだけが、刷り込まれていた。つまり彼女たちは、こんな長生きをしている自分たちはラッキーだと思わされていた、ということなんだけれど、実際は、実験動物ならぬ実験人間として、次々死んでいっただけなのだ。
でも、人間としての知能も思想も持ち合わせるまでに成長した彼女たちに、ここまで生き延びたからラッキーというだけで、安楽死の被験者となるのを当たり前のように告げるのは、それはあんまりかもしれない。だったらそこまで、徹底的に洗脳しとけよ、と思っちゃう。
なんだか女子高みたいなんだよね。5人が集められた部屋で、あやとりをしたり、本を貸し借りしたり、スケッチブックに絵を描いたり。絵を描くのはM02で、物語のキーポイントになってるし、感動ポイントにもなってるんだろうけど、明らかに幼稚園児が描いたレベル、でさえない、それを模倣した稚拙さ、という、なんつーか、ちょっと、あらゆる方面に向けてやっちゃいけない稚拙さの表現をしているのが、かなりハラハラしちゃうんだよなあ。
体調のいい、データのとりやすい人から被験者となる。M03、M04が内服、苦しまないで死ねる筈が、かなり息苦しく胸をかきむしって死んでいく。ヤンキー女医が、冷徹に脈と瞳孔をみて死亡確認する。
そう、ここがポイントだったのだった。苦しまないで死ねるはずの安楽死薬なのに。その強さを調節したと言って、最後に残ったM01とM02に投与される。最後の最後、死んだはずのM01の死亡確認を、ヤンキー女医はしなかった。その時点で、女医は場を離れていた。それだけじゃなく、M01はM02と明らかに症状の出るタイミングがズレていた。
それは、M03とM04の時にはそもそも、潔く死んだM03の後に、抵抗したM04,というタイムラグがあったから、個体差というのがあるのかどうかが判らなかったのが、観客側にその疑問を抱かせないテクニックとなった。
でもつまり、つまりは、M01は服用していない、あるいは、プラセボであり、死んだフリして死んでなかった、ってことでしょ?死亡確認を、彼女だけがされてない。
てことは、あれだけ彼女たちに厳しい態度をとっていた女医もまた、どっかの時点で丸め込まれていたということ??それはなかなか考えにくいんだよなあ。そうだとしたら、それを示唆するシークエンスが欲しい。ほんのちょっと、示唆するだけでも、ああそうか!!と思うじゃん。これじゃ、単なる言葉足らずか、つじつま合わないことになっちゃう。
でもどうだろう……。なんたってこの施設内には、クローンたちがあまたいるってんだから、ラストクレジットの後という、念入りに用意されたラストもラストで、研究員を訪ねてくる、顔は映さないけれど、絶対に、ぜえったいに、妹であるM01は、あの時死んでしまった(かもしれない)彼女のクローンかもしれない訳だよね??
うーむ、不用意にクローンとかゆー設定を用意しちゃうと、なんかこんな具合にややこしくなっちゃう訳よ!!作り手側ではしっかり納得しているのだろうが……。
先述のように、芝居自体にかなり気になる部分はあり、それはなんとか飲み込むにしても、ばっちりつけまつげは、この設定ではいくら何でもないかなあ、と思った。名前さえも与えられない孤独な実験“人間”つけまつげかあ……と思っちゃうよ。あからさまにつけまつげって、判っちゃうんだもん。★★☆☆☆