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ターコイズの空の下で/
UNDER THE TURQUOISE SKY
2020年 95分 日本=モンゴル=フランス カラー
監督:KENTARO 脚本:KENTARO
撮影:アイヴァン・コヴァック 音楽:ルル・ゲンスブール
出演:柳楽優弥 アムラ・バルジンヤム 麿赤兒 ツェツゲ・ビャンバ サラントゥーヤ・サンブ サヘル・ローズ 諏訪太朗 西山潤 ウンダルマ・トゥヴシントゥシグ ガンゾリグ・ツェツゲ 佐藤乃莉
お名前から日本ルーツの人だとは思われる監督さんだけれど、ヤハリ異文化を吸って育ってきた才能は、日本の作家では思いもよらないような画づくりをするもんだとドギモを抜かれる。
そのオープニングから凄いインパクト。そらー麿赤児氏のお顔がインパクトあることぐらいは知っている。
いや、知っていた筈だったが、この異形の、魁偉とさえ言いたいお顔を、スクリーンから見切れるほどに、そして陰影あるモノクロームで真正面からばん、と映してきたのにはのけぞった。
大きく膨らんだ目の下の涙袋、どんな彫刻作家も作り上げられない神の手によって作り上げられた年輪を刻んだ皺、言葉を超えた芸術品……。
もしかしたらこれまで日本のクリエイターは、この容貌魁偉の怪人を真正面から受け止めることさえできていなかったんじゃないかとさえいぶかしんでしまう。
この年輪が物語を始めさせるんである。戦時中、彼、三郎は捕虜となっていたモンゴルの地でその地の少女と恋に落ちる。言葉さえ通じないのに。
不思議なのは彼女の父か祖父か判らないけれど、三郎に食べ物を持って行ってやれと命じたことだった。多くの捕虜がいたのに、彼にだけ。
特段三郎だけが弱っていたようには見えなかったのに、彼女はまっすぐに三郎に食べ物を差し出す。
その後、けがをした三郎は収容され、そこで看護師をしている彼女と再会する。無言で手を重ねあう。ゲルを訪う夕闇の影は、そこで二人が愛をはぐくんだことを教えてくれる。
捕虜仲間が描いてくれた彼の二枚の似顔絵の片方を、三郎は彼女に渡した。彼の子を産んだ彼女に言葉での別れを告げられず、ただただ万感の思いで見つめあって。
物語の骨子は、三郎がそれ以来探しに行くことができていない娘を、孫のタケシに探しに行かせる、ということなんである。
タケシを演じるのが柳楽優弥氏である。まるで海外セレブのような享楽的な日々の描写、絹のベッドに眠りこけた彼の周囲をあられもない姿の美女たちがはべっているという……これまた日本のクリエイターだとなかなか思いつかない描写だが、柳楽君のゴージャスな風貌がまるで違和感なく感じさせてしまう。
彼はつまりボンボンというところなのだが、特段そのキャラクターに対して深堀りはされない。祖父の三郎は簡単に、タケシの父親、つまり三郎の息子は早くに亡くなってしまって、タケシを甘やかして育ててしまった。跡継ぎはあれしかいないから、この自堕落な生活から引き上げたいのだと説明する。
タケシがその家庭環境に屈託を感じているという訳でもなく、ただ与えられてるからパリピな生活送ってるだけ、みたいな不思議な単純さは、これはほんと、日本的感覚からはなかなか思いつかない描写のように思われる。
つまりそんな些末なところに問題はない、っつー訳である。甘ったれのタケシをモンゴルの大草原にポンと送り込む、その画の面白さこそにこの物語の発想があるんだと思われる。
その案内人になるのがアムラなるモンゴル男性なのだが、彼の登場がまた壮絶に面白い。三郎の所有する馬を盗み出して、その厩舎がどこにあったのかは不明だが、とにかくかなりの山奥から、新宿都庁の見える大都会まで、パトカーに追いかけられて、ぱかっぱかっと馬を駆って逃げ続けるんである。
そらまあつかまる。三郎は馬泥棒で捕まった男がモンゴル男性だと聞いて、その度胸に感じ入ったこともあって、運命を感じる。特に多くを聞かず身元を引き受け、その代わり、とタケシの案内人を依頼するんである。
アムラがなぜこの大都会東京で馬泥棒に至ったのか、故郷のモンゴルでも馬泥棒で指名手配されていて、逮捕されちゃっていきなりタケシが一人ぼっちになるなんていう展開にもなるのだが、なぜ、ということが明らかにされないのが妙に可笑しい。
なぜ日本にいたのかとか、なぜ馬を盗んだのかとか、そんなことはどーでもいいような気がしてくる。アムラがどんな人間なのかさえ、全然判らないんだもの。
タケシを案内する途中、地元の男たちと怪しげな酒盛りに誘い込んだり、怪しげな占い師のもとに今後のルートを聞きに行ったり、まあ何かと怪しげばかりで。
でもその中でめちゃくちゃラブリーなシークエンスがある。「卒業」よろしく、結婚式真っ只中の花嫁さんを奪っちゃうんである。
モンゴルの民族衣装をバッと脱ぎ捨てると、その下はパリッとしたタキシード、嫁さんを奪い、新婚旅行に出発する用と思われる可愛らしい装飾がなされた車に乗り込んで、おしゃれなフレンチレストランに向かう。なぜかアムラは流暢にフランス語も喋れちゃう。でも当然それは夢なのだ……。
タケシにたたき起こされた時、二人が乗っていたポンコツのバンは煙を上げていた。
アムラはサイドカーを調達して、バンを乗り捨ててタケシと再出発するのだけれど、その調達した先で通報されちゃったということなのだ。
アムラが逮捕されちゃったから、いきなりタケシはこのモンゴルの大草原に放り出される。もうこの時点までタケシは、いかにもブランドもののオーダーメイドと判るオサレなスーツに身を固め、ぴかぴかの革靴が少しでも汚れれば神経質にふき取るような、そんな感じだった。
なんかね、不思議なんだけど、日本のイヤミなセレブリティという感じではないのよ。柳楽君の特異なゴージャスさは、このモンゴルの地においてはまるでアラブのリッチマンのように見える。同じアジアの立ち位置で、アムラの方が私たち日本人に親和性を感じさせる雰囲気があるのだ。
これは面白い。日本とかモンゴルとかじゃなくて、アジア的雰囲気の中での親和性、セレブリティ感覚が、こんな風に分かつのが面白い。
そしてだからこそ、予測はしていたけれど、まるでアラブの石油王子のような柳楽君が、どんどんその殻をはがされ、もともと彼が持っていた野生の血みたいなものがあらわになって、生き抜いていく感じがたまらないのだ。
だから途中、本来の目的を完全に忘れている。三郎の娘を探すこと、なのだが、この広大なモンゴルの地で、行き当たりばったりに聞き込みをしたってそらー雲をつかむような話だし、アムラは逮捕されちゃうし、そっから先はタケシの冒険譚みたいになっちゃうから、単なるキッカケとしてそのまんま終わっちゃうのかな、と思っていた。
そう思っちゃうぐらい、タケシには濃厚な体験が待っていた。たった一人、方角も判らないモンゴルの大地に放り出されただけでもすさまじかったのに、野宿をした夜、オオカミがうなりながら近づいてくる。そりゃあそりゃあ!
恐怖の中でタケシが考え抜いた撃退法は、サイドカー付きのバイクのオイルタンクに火を放って、爆破させ、追い払うことだったんである。
自らも危険にさらすほどの暴挙。悪夢のような、変に美しい夢のような一夜を過ごした朝、倒れているタケシを助けてくれたのが、身重の女性だった。
当然、彼女ともちっとも言葉は通じない。体にいいからと勧められる馬乳酒をどうしても受け付けないのに、その断るすべを知らずに、ただただ注がれてしまう。
なぜ彼女はたった一人ここにいるのか。お腹の子供の父親はおろか、家族たちも見当たらない。彼女はタケシに水くみなどの手伝いを命じ、一人生きている強さを自然に見せつける。
やがて陣痛が来る。おろおろし、彼女を助けようとするタケシに、触らないで!!と繰り返す。当然、タケシに通じる訳はない。でも、そこにある鞍をとって!というのは手ぶりで通じる。
彼女はその鞍につかまっていきんで、誰の手も借りずに見事、自分だけで赤ちゃんを産み落とすんである。衝撃である。
モンゴルの女性は皆こんな風に一人で産み落とすのか、それとも、家族もいない彼女のような覚悟を持った女性に課せられる試練なのか。
彼女が再三、タケシに触れられるのを神に禁じられたことのように拒絶するのが、なぜなのかとも思ったし、そしてなんか切なかったし、悲しかった。二人の邂逅は、三郎と彼が心を交わして子供までなしたモンゴルの少女を思い出さずにはいられないから。
三郎のパートでは出産シーンはなかったけれど、きっと三郎もあんな具合に立ち会ったんじゃないかと想像されるようなシーンだったから……。
逮捕されたのにどーゆー具合なんだか、釈放されたアムラと再会、なんか切ない別れで、タケシは再びアムラとの旅に出る。かなりあっさり、三郎の娘に出会っちゃうんである。
でもその間に挟まる三郎の娘の息子との出会いは印象的である。草原の中に馬が横たわっている。明らかに死んでいる。そのそばに立ち尽くし、困り果てている男の子。ゼッケンをつけている。
アムラが声をかけ、この子を家まで送ってあげる。「レースの途中で、馬が死んでしまっていた」ことを、心配して待っていた彼の祖母に告げる。なんつーか、すべてが衝撃的である。私ら日本人は、なんと貧困な閉じられた文化の中に生きていることかと思う。
探し続けていたツェルマ、なんである。こんな偶然あろうかと思うが、思えば本作は、そして人生というものは、常にこんなことあるかい、という偶然という名の必然に驚かされるもんであるんだろうと思う。
タケシが持たされていた似顔絵の片方、ツェルマが壁にピンで飾っていたもう半分。……もうここからは、言葉はいらないよね。
日本の三郎に、電話をつなぐ。こんなとこだから、アナログ式にアンテナをピーンとたてて、携帯からかける。
お父さん、三郎、とツェルマは、きっとこれまで、暗唱し続けていた言葉を繰り返す。どうやら余命いくばくもない病に倒れていたらしい三郎は、遠いモンゴルの地からの、数十年を隔てた娘とのつたない交信に一筋涙を流した。
そして次のシークエンスは、タケシは立派に跡継ぎになっている。しかし、カラフルで野性的で生き生きとしていたモンゴルでの彼の冒険譚からは遠く離れ、冒頭で示されていたようなモノクロの、無機質な、箱で区切られたオフィスビルの中を働きアリのように右往左往する、モノクロの働きニンゲンたちの中にいる。
でも……不思議と悲壮感はない。ここはここ、なのだ。三郎もここはここで、数十年も隔てた娘への愛情を持ち続けた。そしてタケシはその思いを経験して、今ここにいるんだもの。大丈夫大丈夫!!
確かにこの冷たいビジネススタイルは、作り手側からの言いたいことをひしひしと感じるけどね!★★★☆☆
私の父親は直接的には何も言わなかったし、私みたいなフェミニズム独女野郎に対してよき理解者だったけど、本当のところは恐らく三國連太郎扮する伸一郎の考え方とさして変わらなかったんじゃないかと思う。
女は結婚するもの。仕事をするのは男。東京での“仕事”などお遊びみたいなもの……。
原案者である五木寛之氏の考えもそこに透けて見えるのだ。雪子が東京で友人の亜美とともに経営している輸入雑貨屋は、おしゃれで素敵な店だけれど、ちゃんとした顧客がつかなければ、いくら東京という大都会でも立ち行かなくなるのが目に見えるような空虚さだ。
この物語の冒頭は、亜美と雪子がロシアに買い付けに行っているシーンから始まるのだが、日本語が流暢なロシアの美青年、ニコライに案内されてのんきに観光を楽しんだり、骨董屋での“買い付け”もまるでお土産を買いに来たようなはしゃぎっぷりである。
雪子からの絵葉書に伸一郎が「買い付けといったって、遊びのようなもんだろう」と言うのがあながち当たってなくもなかったことが、後にこの店があっさりつぶれてしまうことで証明されてしまうのが、女としては歯がゆくてしょうがない。
20年前、五木寛之という御大作家から見れば、友達同士の女が共同経営者なんてままごとみたいに見えているように感じて、悔しくてしょうがないんである。
しかも、その亜美は、恋人に裏切られて自殺してしまう。冒頭のロシアの買い付けにも同行、店にもデートの誘いに現れてウキウキと出かける亜美は確かに危なっかしかった。
その町田という男は見た目からいかにも女にもてそうなイイ男で、亜美を演じる南野陽子氏の美女っぷりとはお似合いとはいえ、彼女がやたらはしゃいでいるのが気になった。
ある日、雪子が出勤すると、店は空っぽ、亜美は町田の新規出店に金を貢ぎ、しかし彼には結婚を約束した相手がいて、捨てられた、という訳なんである。
落ち込む亜美に雪子が、それだけホレたってことじゃない!と勇気づけるのがもう、ダメだなと思う。この感覚は、少なくとも20年後の女、いやさ、20年後の私にはぜえったいにないものだ。恐らく20年前にもなかったけど(爆)。
何かね、本作の中には、男は仕事、女は恋愛あるいは結婚、つまり女はマトモに仕事なんてできないし、仕事に情熱や夢や、あるいは時に諦めを持つことすらない。無能な存在なのだと言われてるみたいで。まあそこまで思っちゃうのが私のフェミニズム野郎なゆえんなのだが(爆)、でも、思っちゃうのだ。
それはまだ平成も10年ばかしのこの当時には、昭和の男の古臭い自信が、女を愛すべき弱く守るべき存在として、かろうじて機能していた最後の時代だったのかもしれない。
しかし、亜美を演じる南野陽子氏のはかなく悲しい美しさは、本作で特筆すべきものだったと思う。キャミソール姿で恋人に抱きしめられ、ベッドに倒れ込む、程度のシーンぐらいではあるが、それがたまらなく色っぽく、女っぽく、美しく、後に彼女がわざわざ雪子に吐露しなくても、”身も心も”捧げているのはよーくわかる。
深くは語られないけれど、亜美はどうやら天涯孤独の身の上であるらしく、自殺の際には雪子に身元引受人になってもらうように遺書を残し、雪子の父の伸一郎は、自分たちの家の墓に入れてやろうと提案して、雪子を安堵させるんである。
……私だったら、まっぴらだけどね。まあそりゃあ、私は天涯孤独ではない、このままいけば、家族の墓に入るだろう。でも、本作に通底する、家族こそが基本、それに対して経済的には男、その男に従属して子をなすのが女、というのが、そこまであからさまには言わないまでも、やっぱりまだ残っている感じがするよね、と思うのだ。
東京での女の仕事なんてこの程度のもの、結婚できない男に捨てられれば、死ぬしかない。入るべき墓がない女はみじめだ、とか、ああ私、フェミニズム野郎め!!
その中で、ロシアから日本に来て、トランペット奏者としてオーケストラ団員を目指すニコライ、金沢で堅実な郵便局員として働いている昌治はどうであろうか。
彼らは、雪子にとって心揺れ動く二人である。昌治は幼なじみ。いかにも気の置けない相手で、頑固者の父親が病院に入りたがらないのを男手を頼んで手伝ってもらったりしている。
ニコライが金沢フィルのオーディションにトライするために訪れた際には昌治の家を宿にしたのだが、勝手知ったる場所とばかりずんずん案内して、昌治の母親から「結婚したら、尻に敷かれる」と苦言を呈される始末なんである。
結婚。そう、この二人は、彼らよりも周囲が、まあこの二人は結婚するだろうと、思われている。なんつーか、……懐かしき風景、である。いい意味でも悪い意味でも、こーゆー感じは現代ではなかなかないだろうなと思われる。
少なくとも昌治は、おそらく小さな頃からずっと、雪子が好きだったんだろう。そういう雰囲気がアリアリであり、雪子も悪びれず、そのことを口にする。そして時にぼんやりと、「やっぱり私、昌治と結婚するんかな」とつぶやいたりする。
うわー。これは、彼女をずっと好きでいる男にとってはたまらなく侮辱な言葉だわ。しかもこの時、ニコライという存在がいるんだもの。ロシアから東京での再会、彼の才能と熱意にほれ込み、東京のオーケストラのオーディションに落ちてしまった彼を、何とかしてあげたいと思った。
ニコライのトランペットに舞い上がっている雪子に、亜美はもうずばりと、ホレたね、と言ったものだった。雪子はまるで恋に恋する中学生みたいに、違うよ、彼の才能が凄いんだよ、と本当にそれを信じているかの如く言う。
実際、この時彼女はそれを信じていたんだろう。ニコライに、故郷に残してきた恋人がいると聞いた時に、思わず知らず受けたショックで、うっすらと自覚していく。
でも、愛している、というまでのことだったろうか?客観的な描写でも、ニコライはあくまで誠実な青年であるばかりだった。雪子の厚意に感謝こそすれ、よこしまな感情や行動に出たことは一度だってない。それはきちんと、観客に示されていた。
でも不思議なもので、周囲の人間、ことに、誰と誰が結婚して、この地で子をなし、骨をうずめるか、ということに重大な関心を示す郷里の人間たちは、異国の人であろうが何であろうが、妙齢の、可能性がある異性が現れたというだけで、そろばんをはじくのだ。
少なくとも私にはそう見えた。ニコライがかき乱すとか、雪子に誘惑するとかには、見えなかった。そこが重要だと、思った。ニコライはあくまで、雪子に対しては親愛の情であって、異国で親切にしてくれた大事な友達。
そして彼女の父親と、かつての戦争時代には敵国同士。雪子の父親にとっては数十年前の、ニコライにとっては父親が命を奪われた直近の忌まわしき戦争の体験を共有しあった。
きっと本作にとっては、原案の五木氏にとっても、このシークエンスこそが最も大事であったのだろうと思う。製作年度は2001年。新世紀を迎えたことで、五木氏、あるいは脚本を担当した新藤兼人氏は特に、最後の数作は繰り返し、自分の経験した戦争体験を残していたことを考えると、どこか焦りのようなものを、感じるのだ。
新世紀、2000年を超えて、戦争というものが忘れられてしまうんじゃないかと。過去の戦争も当然だけれど、今現在も、世界各国で、大戦はないにしても、むしろそれより質の悪い内紛、民族紛争、宗教戦争が後をたたない。しかもそこには常に大国なり経済的利害なりが汚く絡んでいて、そのために、末端の罪なき人たちがばたばたと死んでいくのだ。
その一方で、豊かなり日本での死である。伸一郎は頑固な昭和の父親だが、私の理想とする人生の終焉を実践してくれる。病院にかかりたくない、ちょこっとの延命にしかならない手術なら受けたくない。家で最期を迎えたい。……めっちゃ、共感する。
それこそ20年前のこの当時は、自宅で死にたいというこのシンプルな願望がとても難しい時代だった。私の父親が亡くなったのはさらに最近、10年も経たないけれど、自宅で看取りたい気持ちは家族のだれもにあったけれど、それを言い出せないほどのいろいろな難しさがあって、できなかった。
病気の程度、どの時点まで希望を伝えられるほどに意識がはっきりしているのか。弱っていくどこかの時点で、決定権が、自分の生き死に、最期の迎え方を、選ぶことができなくなって、家族の都合に従うしかなくなって……。
ということを、当時も、後々も、父親の想いを想像するたびに、その時には最善だと思ったし、それ以外に選択肢がなかったし、それぐらいギリギリにその都度選び取るしかなかった状況だったんだけど、でも、考えてしまう。
この作品が20年前、わがままな父親という描写で押し進める形ではあっても、私の理想とする最期を見事彼は迎えるのだもの。知人友人たちに、自分の病気の経過、自宅で死を迎えたいこと、すべての想いを伝えるために、なんとまあ宴会を催し、これを公式にしてしまう。
そして、手術も受けずに、むしろ元気になってバリバリ仕事をこなし、ニコライとの語らいでかつての戦争体験を思い出し、かつての敵国の青年であるニコライの、現在進行形の戦争体験を聞き、深い人間同士の絆を得るんである。
この深い深いシークエンスで、もはやニコライの使命は完了したと感じたから、雪子が、私はニコライを愛しているのかも、ビザが切れて本国送還された彼を訪ねてその想いを確かめたいから、昌治ついてきてよ!!というラストシークエンスには正直アゼンとした。
昌治はホレた弱みで彼女についていくけれど、それもどーかと思ったし、なんつーか……雪子のニコライに対するふわふわした少女めいた気持ちや、昌治が学生時代から抱える雪子への青臭い恋心がもやもやしたまま、ロシアに向かう訳なんだけどさ。
結局、全然スッキリしないのよ。てゆーか、最初から判ってたじゃんて感じでしょ。ニコライはただただ誠実な青年。雪子に対して彼から積極的にアタックしたこともなかったし、異国での理解してくれる相手に感謝する以上の態度は一ミリもなかったのだ。
だから雪子がニコライを愛しているのかもと言い出し、それを確かめるために昌治についてきて、というのにははあぁ??とオドロキ、呆れ、怒りすら覚えるほど。
まーこーゆーキャラが、ギリギリ、バブル時代の売れっ子役者が、文芸作品を演じる上で許されちゃう浮つきさなのかしらんと思ったり。
まあ、つーか、雪原ロシアのロケーションの壮大さを示したかっただけなのかもしれんが……。だって、ニコライと会うこともしないんだもの。
そらーまあ、確かに、彼女さんはいたよ。洗濯物を干しに出てきたよ。でも判んないじゃん。妹とか、お手伝いさんとか、姪っ子とか、判んないじゃん。洗濯物を干しに出てきただけなんだから。それすら確かめずに、悄然と昌治のもとに戻ってくるなんてどうなのさ……。
この場面に限らず、壮大な画を用意できれば、後は内実がショボくても気にしない、という感覚が見え隠れするのが、残念だと思う。
ニコライは日本のオーケストラに受かって成功したかったんじゃないの??なのにビザが切れていることで本国送還されて、特にそれ以降、日本、あるいは海外への執着が全く描かれず、新妻との幸せな生活をのんきに謳歌してて、だったらなぜ、あんなに必死だったんだよ。
成功を夢見ている、それはそんなにも軽いことだったのか。経済的な窮乏ならば、こんなテキトーな描写にならないと思うが、どうなんだろう……とか、いろいろ考えてしまう。★★★☆☆
草刈正雄はそんな私らの時代の親世代よりずっと若いし、娘役の木村文乃嬢が30そこそこの年齢であることを考えると、いまだ“退職すると途端に役立たず”な男子が当たり前に存在するということこそが、おっそ!まだそんなとこウロウロしてんの!!と驚かざるを得ないが……。
さすがに、今の30代、40代夫婦あたりからは変わっていると思いたいが、どうなんだろう。
本作においては、定年退職して途端に役立たずな夫、ではなく、役立たずな父親、である。シングルファーザー。いやこの場合、その言い方すら使いたくない。その名称から予想できるような、苦労して男手一つで娘を育て上げた、なんてヤツじゃない。
物語の冒頭がもう、その状況をこれ以上なく示している。私はね最初、夫婦の朝食の風景だと思ったの。娘の弓子が横顔のまま、幼稚園の先生みたいなやぼったいエプロン姿で、父親が差し出す空のマグカップに黙ってコーヒー注いだりしていた、その空気のような、ツーカーで判っちゃう関係性は、親子というより、それこそ私が恐れていた、女中のように旦那様の身の回りをご用意する専業主婦の悲哀、そのものだったから。
あれ、娘ちゃんだったんだ!と思わず巻き戻してしまった。ああ、娘だ、若い娘だ。なのに彼女は、父親の妻、いや女中、いや、奴隷に成り下がっている。これが本当に妻だったら、今流行り……どこじゃない、今や定年退職する男たちが戦々恐々とする、熟年離婚つーことになりかねない状態。
つまり夫ではない父親、道太郎は油断していたのだ。妻だったらそもそも他人、この状況じゃ、定年退職したとたんに捨てられたっておかしくない。でも娘だから。血がつながっちゃってるから、親子だから。
それが後半、まるでハートウォーミングな要素みたいに語られるけど、ケッ!!と思ったね。まあ劇中、道太郎は今更ながら様々な人間関係を学んで、今更ながら大人になっていくけれど、それでも私が弓子だったら、そもそも定年退職まで、なんて律義に我慢しなかったなあ。
うーんそこは、母親が亡くなってしまったという経験などしてないから判らんにしても、冒頭の朝食の場面で、あ、こりゃダメだ……と思ってしまったもの。
道太郎がそうして、たった一人の家族さえもろくろく顧みずに無遅刻無欠勤で勤め上げた会社は、しかし彼の融通の利かない性格故大した出世もせず、送別会の居酒屋のシーンでも、彼の挨拶もろくに聞かずにがやがやとして、おざなりに拍手するありさまである。
キッツい。こんな送別会なら、やってもらわない方がいい。若い社員たちは、タダメシ、タダ酒を食らいに来ているだけなのがありありなのだから。
先に退職していた道太郎のかつての上司が駆けつけてくれる。物語の前半ぽっくりと死んでしまう平泉成だが、彼は身に染みて定年退職後の男の生きざまのむずかしさを痛感していた。「孫はまだ10歳なんだ。成人になるまでくたばれないよ」そう言っていた矢先にぽっくり倒れて死んだ。
道太郎は孫どころか、一人娘はまだ独身である。その一人娘に対してだって、彼女が結婚するとか、家を出ていくとか、それまではくたばれないなんぞと、一度も思わなかったに違いない。
物語の最後には弓子の結婚があり、そこで道太郎は、娘を守るためにがむしゃらに働いたとか言うが、甘い甘い甘い。
働くなんてことは誰もがしている、基本的なことだ。それを子供のために頑張ったとか転嫁するなんてサイテーだと、私は思うんだけどなあ。
とゆー、フェミニズム野郎な私の基本的な気持ちが邪魔して、なかなか本題に入っていけない(爆)。そうだよ、これはタイトル通り、体操しようよ、なのだから!忌野清志郎氏の同名タイトル曲のことは知らなかったが、その曲がモチーフになっているのだろうか?
道太郎の定年退職の送別会の夜、モヤモヤを抱えて深酒した彼は、海岸沿いの広場のベンチで寝てしまう。朝、遠慮がちに彼を起こしたのが、本作のヒロイン、和久井映見サマ演じるのぞみである。後々、嫁ぎ先の温泉旅館の失火の原因となって、自らも、一人息子もやけどをおわせたことで、追い出され、たどり着いたのがこの海岸の町だった、という過去を持つことが明らかになる女性。
ラジオ体操仲間のおじさまたちは、皆もれなく彼女に恋しているが、そんな深い事情を知っているのは、きたろう氏演じる会長さんただ一人である。まるで死にそうに蒼白な顔をして、ボストンバッグ一つで海岸の町に流れ着いた彼女に、ラジオ体操をしないかと声をかけたのが会長だった。その一言が、のぞみを救ったんである。
会長さんは骨折しちゃって、のぞみに会長代理を申し付ける。道太郎は頼りなげなのぞみを助けてやりたいと思って、空回りしちゃう。
その前に、道太郎はのぞみの紹介で、会長が切り盛りするほとんどボランティアのような便利屋稼業の職を得る。だって暇だし、やることないんだもん。
そこで出会うのが、一見やる気なさそうにダルダルしてるけれど、大事なところはしっかり見えている青年、薫である。演じる渡辺大知君は、こーゆー、頼りなくて愛しくて、誤解されやすいけど最終的にイイ奴ってことが判る感じがピッタリだよな!!と思う。
正直、この物語の人間関係は偶然のつながりが多すぎて、まず道太郎の上司がラジオ体操の会員として彼を誘うという近さにいるのも、あります?そんなの??と思うし、弓子の勤めるパン屋がのぞみの喫茶店に収めていたり、一番は道太郎の同僚となる薫が弓子の彼氏だったとゆー、オチじゃないけど、そんなんあるか!!てなさ……。
確かに狭い街っていう雰囲気はあるにしても、そこまでの都合よさはちょっとなあ、と感じる部分はあった。
でも本作は、そうした近しい人間関係もそうだけど、いわゆるコミュニティの醜い確執、というのも、結構正面切って描くんである。
会長の負傷で代理となったのぞみを助けるべく鼻息荒く道太郎がしゃしゃり出て、ゆるいつながりが心地よかったラジオ体操チームをスパルタにしちゃうのね。
それでなくてもみんなのマドンナ、のぞみに近づくヤカラとして目の敵にしていたちびっこおじさん木島(徳井優、ぴったりだなー)がクーデターを起こし、のぞみと道太郎の元に残ったのは微々たるメンバー。
何とか人数を増やそうと、のぞみは弓子を、道太郎は薫を誘ったもんだから、思わぬ修羅場が勃発。
しかしひょうたんからコマっつーか、その事態を聞きつけた会長さんが提案したのが、まさかのこと。のぞみが長年会えていないくだんの息子のところに、追い出された婚家の温泉旅館に、道太郎、弓子、薫と共に弓子を送り届けろ、というんである。
結果的には、やけどの跡が首筋に生々しい息子君は、母親だと察知したけれど、察知したからこそ、苦々しく、ザ・他人の態度で背を向けた。のぞみは、元気そうでよかった、会えてよかった、と必死にその背中に声をかけた。
こんな姿を見せられたら、それなりの確執を持ってはいても、のぞみのそれに比べたらなんてことはない彼らが、自分たちを顧みるであろうことはそりゃそうであり。
会長さん、演じるきたろう氏は、まさにきたろう氏でしかなく、彼自身の人生のあれこれ、家族との関係などということは全く語られない。ただただ見守る優しきボスなんだよね。
本作の中にはカリスマ俳優が沢山出てきて、先述した道太郎の上司だった平泉成、認知症になっている老人小松政夫、それぞれに、家庭のそれなりを抱えてて、ああ、人生の終末をどう終えるべきかって、すんごく考えさせられるそれぞれで。
でもその中で、きたろう氏だけが、なんつーか神の目線っつーか、彼自身のしがらみが語られないのが、もしかして意味あることだったんじゃないのかって、思ってしまう。そういう、可愛らしい浮世離れみたいな雰囲気が、あるんだもの。
道太郎は他の男子諸君のご多分に漏れず、のぞみに岡惚れしていたし、その想いを伝えようと思うんだけれど、あれはワザとかなあ、やっぱり。道太郎が言いかけたのを無邪気に遮って、のぞみはこれまで逃げ続けていたけれど、息子と相対していこうと思います、と笑顔で告げるもんだから、道太郎は何も言えなくなる。
そしてこれまで通り、楽しくラジオ体操。娘の弓子と彼氏の天体観測マニア青年、薫との結婚も決まり、ラジオ体操の縁でつながったあたたかな縁の人々に祝福される、ささやかな結婚披露パーティーに心温まる。
私、幸せになるよ、と静かに、だけど高らかに宣言して、軽トラに引っ越し荷物を満載にして弓子と薫は旅立つのだ。
弓子は、さあ。自分勝手で、家事も料理も何にもできなくて、そのことに危機感さえ感じていない父親を、……心配していたのだろう、愛していたのだろう。
そうでなければ、あんな冷たく突き放して、主婦稼業がどれだけ大変か、週休0日、しかも無休、それが出来なきゃお父さん、これから生きていけないよ、とわざわざ教えてあげたりなんぞ、しなくていいんだもの。もはやこれまで、と見捨ててよかったんだもの。
手取り足取り教えてあげちゃったら、その苦労、その大変さ、つまり、男がカネさえ稼いでくれば女子供を守ってやったったという大間違いを、大きな寛容で導いてやったったってことさ!(結局、フェミニズム野郎出ちゃった……)。
物語の割と前半部分に、道太郎の妹として余貴美子氏が登場、しょぼくれた弟のために見合い写真を持ってくるのだけど、それはあっさりスルーざれる。
その後、のぞみに岡惚れする展開で話が持っていかれるんだけれど、キャストクレジットで示され、顔も判別できない引きの場面で数度登場する、路上の落ち葉を掃いている女性、あれが片桐はいり氏だよね!!
のぞみとケンカになっちゃった後、悄然となった道太郎に、ふりそぼる雨の中がっくり歩いている彼に、傘をさしかける場面、これまた引きで顔も見えないんだけど、すっごく心に残る画で。
どうかどうか、この名もなき、きっとずっと、道太郎を見守ってきた彼女とお近づきになってほしい!!と願ってしまう。
運命の人は、思いがけない近くにいる。顔さえ判別できないほど通り過ぎているところに。そう願いたい!★★★☆☆
それでもそれでも、いつ原爆が爆発するか、犯人の脅迫と、それを受ける刑事の攻防が、本当に、圧倒的に面白いのだ。
見覚えがある。時限爆弾を盾にとって、秒針の音を刻んで、赤か黒かどちらの線を切ればいいかだなんて、ルパン三世あたりでさんざん見た覚えがある図式だ。
なのにそれは単なる時限爆弾じゃなくて、時限原子爆弾なのだ。ビルを爆破するぐらいじゃすまない。東京中の人間が死んでしまうのだ!!
手作りの原爆、という思いもよらぬアイディア。荒唐無稽に思わせながらも、緻密な計算と、DIYながら慎重に綿密に作り上げた工房で、見事作り上げる様を、こここそが長尺になった最大のシークエンスとして、じっくりと、しつこいぐらい、見てるこっちも手作りしている劇中の彼と同じぐらい気持ちの中で汗だくになりながら見守る。
荒唐無稽が一点だけあるとすれば、それは「プルトニウム239さえ盗み出せば」専門知識のある大学生でも原爆は作れる、という、その「プルトニウム239」を盗み出すというシークエンスである。まさにありえない、冒険活劇、それこそルパン三世かよと思わせる荒唐無稽さでアクションもたっぷり、楽しませてくれる。
リアルさの中に突然放り込まれるエンタテインメントの魅力が、まず起点のここで強烈に示されるから、その後、ついつい原爆という重いテーマを忘れそうになるぐらい、スリルのある展開に心から楽しんでしまう。
でももちろん、常にそのテーマを抱えながら見ることになるのは当然である。原爆を手作りする、なんていうこれぞ荒唐無稽の主人公、城戸を演じるのは沢田研二。
高校の理科教師という役柄で、“ジュリーの面影”を色濃く残す、長髪で、風船ガムを始終くちゃくちゃプーとしている理科教師。生徒と一緒に遅刻したりするやる気のなさは、生徒たちからはすっかりバカにされているし、彼自身もまるでやる気がない。
しかし事件が起こる。親睦会と称した課外実習的なものだろうか、その先で起きた突然のバスジャック。彼と担任のクラスまるまる、散弾銃をかまえた頭のおかしいオッサンに占拠される。
このオッサンの要求は皇居に行け、天皇陛下に言いたいことがあるのだと言うことだった。その口ぶりから、彼の息子は戦争の何らかの犠牲になったと思われたが、原爆がどうこうと言ったわけではなかった。
てゆーか、この事件が城戸の原爆作りに結びついたわけじゃない。このバスジャック事件の前に城戸はこれも手作りの催眠ガスでおまわりさん(水谷豊!)を襲って拳銃を手に入れているし、原爆作りは彼の、理科教師である前に純粋な、オタクと言うには危険すぎるほど純粋な、美しき数式が作りだす結果としての宝物だったんじゃないかと思う。
理数にからっきし弱いバカ系の文系である私にとっては、永遠の憧れ、数字や数式に美しさを感じ陶酔する理系さんたち。そーゆー数学教師いたなあとか思い出す。
その美しさを、黒板やノートの上だけでは満足できなくなったのだ。その手で作り出したくなったのだ。
この世で最も美しいもの。タイトルから考えると、それを彼は太陽と思ったのか。人間を生きとし生けるものにしてくれている神のような絶対的存在。
原爆を本当に作り上げちゃって、時にキッチンのオーブンをバクハツさせたりとか、ハンドメイド感満載で、その喜びは、理系男子の夢をかなえた、ぐらいのことだったのかもしれない。でも作っちゃったものが原爆だとすると……。
いや、城戸が言うように、何をしたいのか、原爆を作って自分は何をしたかったのか、と戸惑う、そんなシンプルな気持ちがそもそもだったのだろうと思う。
彼が最初に出した要求が、あまりにも子供じみていたことが、その戸惑いをよく表している。野球中継がいいところで放送時間終了になることに憤って、試合を最後まで中継しろ、というのが最初の要求だった。その要求に、東京中の人の命をかけたのだった。
そしてその時交渉役に呼ばれたのが、バスジャック事件で犯人と死闘を繰り広げ、城戸と共にすっかりヒーローに仕立て上げられた記事を新聞に書きたてられた刑事、山下である。
山下を演じる菅原文太が、あのジュリーを食ってしまいそうな圧倒的存在感である。いや、ジュリーVS菅原文太というべきか。
なんか不思議な気がする。中性的な色気のジュリーとザ・男の菅原文太が一騎打ち。腐女子の私はついつい、妄想たくましくしてしまうのだ。
城戸は、結局最後まで、自身が何をしたいのか、判らなかった。原爆を作ったのは、理系男子としての彼の、究極の理想、言ってみれば子供の夢みたいなことだったんだろうと思う。原爆が、広島、長崎で惨状を繰り広げた爆弾だということさえ、城戸の中にはなかったように思う。
見てる限りでは、感じられなかった。ひどく純粋に、数式の中で作り上げられる人間の叡智が作り出した傑作、神をあがめるような、そしてその神が作りたもうたものを自分が作っちゃった、自分が神かもしれないという、いや、それは言い過ぎかな、とにかく、コドモみたいに無邪気に、作り上げたことを、喜んでいた。
この当時はきっとなかったであろう言葉、認証欲求。それを使えばしっくりくる。バスジャック事件でひどく男らしく狙撃犯に立ち向かった刑事、山下(菅原文太)を指名したのも、自分が原爆を持っているんだということを、公開収録のラジオジョッキー、ゼロ(池上季実子)にナマ電話で告げたのも、自分の話を聞いてくれる相手だから。
ゼロに関してはその職業柄の興味本位もあっただろうが、山下刑事に関しては、……腐女子のこちとらは、ついついいらぬ妄想をしてしまう。山下刑事だけが“選ばれて”いたら、それこそそういう妄想をあちこちに発生させちゃうのは必至だが(いやまあ、当時はどうかしらんが)、それを、池上季実子という美女を配置させることで巧みに迂回させてるんちゃう、などと考えるのは、それこそ腐女子の悪いクセであろう(爆)。
でもなんかさ、城戸は女に興味がないというか、それ以前に、数学や数式にしか興味がないというか、そんな感じだった。いや、彼自身がそう思っていたんだろうけれど、自らの大傑作、原爆を作っちゃったことで、急に人とつながりたくなった、そんな風に見えた。そしてチョイスしたのが山下刑事とゼロだった。
ゼロはなんたって池上季実子だからさ、ジュリーと池上季実子だからさ、そーゆー雰囲気にもなるさ。「原爆の兄ちゃん」からの電話、公開収録だから、長年のカンだろう、観衆の中でサングラスで挙動不審の彼を、原爆の兄ちゃんだと確信し、番組そっちのけで後を追う。
倒れ掛かるように見える高層ビルを支えてるんだ、と手を添えている城戸を見つけ、なんだかその雰囲気にのまれる。そのままお茶をし、そのままなんとなく一緒に過ごして、夕暮れの埠頭でなんとなくイイ感じになる。なのに彼は、キスまでしたのにゼロを抱き上げて海にザバン!と投げ落としてしまうのだ。
なんかね、この瞬間に、城戸は女に興味がない、というか、恋愛とか友情とかそういうのに興味も縁もないままきちゃって、でもどうしたらいいか判らなくて、こんなことになっちゃった、という確信めいた気持ちになった。
なんたってジュリーが演じているし、ジュリーのオーラそのままのキャラ設定だし、だけどだからこそ余計に、自由闊達に生きているように見えて、実際そうなんだろうけれど、だからこそ、人間関係、なんていうとめっちゃヤボでヤなんだけどさ、それがきっと苦手なんだろうと。
彼が好きで、美しいと思っている数学の織りなす世界を、原爆を手作りするなんていう方向じゃなく、判りあえる同志がいたらと、絶対にいる筈だったのにと、思うのだ。
城戸の作った原爆をめぐって、野球中継の延長、ローリングストーンズの来日公演と、次々にムチャな要求を通してゆく。どこか子供じみた、可愛らしい要求だったのが、最後の最後はいきなり生々しく、5億円の要求になった。城戸が自身の被ばく状態を自覚したからなのかもしれないが、かなり唐突な印象はあった。
自身の番組を盛り上げるためにという名目もあるけれど、城戸のムチャクチャについてきたゼロが、激しいカーチェイスの末に、命を落とす。城戸はそれなりにそのことにショックを受けた感じはあるし、だからこそもう一度原爆を奪い返して山下との対決をし直したということはあるけれど、やっぱり、結局、山下刑事との対決、なんだよね。
女であるゼロの立場は、彼女自身は城戸に惹かれていたと思う、番組を面白くするためにとムチャな中継プロジェクトを遂行して自ら命を散らすほどのことになった訳だし。でも結局……彼女の存在って、結局はなくてもよかったっていうか(爆)。かなり、彩り的な立ち位置だったというか(爆爆)。
うーむ、でもそれは、やっぱり私が腐女子な気持ちで観ちゃうからなのかなあ。だって絶対、城戸は山下刑事にホレていたからこそ、この暴挙に出たに違いないって、思っちゃうもん。あのバスジャック事件で運命を共にして、命をさらした山下刑事、いやさ菅原文太に男が男にホレたってヤツよ。
だからこその菅原文太だし、三つ揃いのスーツをバシッとキメた細マッチョの文太サマのカッチョイイこと!!ジュリーのカッコ良さとは真逆の、だからこそこの正反対のイイ男のくんずほぐれつ(いや、対決なのだが(爆))ヤバいって!ああもう、色々その先想像しちゃうじゃないの!!
……ヤメなさいって。結局文太サマ=山下刑事は城戸との死闘の末に、城戸が揶揄したように、犬として生き抜いて、死んだ。
城戸は、またしてもルパン三世のようにありえないアクションで奪い取ったお手製原爆を、山下刑事の死と引き換えにその手に提げながら、ちっとも、解除しようとしない。カチカチカチと秒針が刻み続ける。ヘロヘロの状態で、手に提げたバッグの中の原爆、何も知らずに行きかう街頭の人たち。ええー!ちょっとちょっと!!そんなあ!!
ドカーン!!……。
ブラックアウトした後の、音だけ。無論フィクションだし、この表現の仕方だから、いかようにも解釈は出来るけれど。この期に及んで、判っちゃいた、原爆が常に観客の胸の中に重くのしかかってはいたけれど、巧妙なエンタテインメント描写に楽しんじゃっていたから……。
色っぽいジュリーと、ザ・男な菅原文太、それに原爆!!誰がこんな組み合わせを考えたやら!!こんなすげー映画を、こともあろうに、8月初めに観ちゃった私、マジうなされるわ!
こういう作品を作っちゃう気概というか勇気というかムチャさというかが、今の時代には果たしてあるのかと思っちゃう。★★★★★
吉本興業製作ということだけれども、あれだけの大メジャー会社だからこそ、こうしたささやかな作品や小さな試みも、思い切って出来る、そこに売れっ子芸人さんたちが力を貸すというスタンスは、実はとてもいいことのように思う。
しかも売れっ子芸人さんたちは、彼らのオーラというよりも彼らそれぞれの持つ人間性というか、素朴な魅力を溶け込ませていて、本当に、インディペンデント映画の居心地の良さのようなものを感じさせてくれるのは、逆に凄いと思う。なんの逆なのかと言われるとアレだけど(爆)。
監督さんが「祖谷物語 -おくのひと-」のお人であるということを観終わった後に知り、ビックリする。それ以降はお名前を聞いていなかったけれど、「祖谷物語」は、記憶力に難のある私にすら、ちょっと、どころか、到底忘れられない映画であった。
あの作品は山の山の奥、天狗でも住んでいそうな山の神秘だったが、本作は山は遠く美しく見渡せて、のどかな海がすぐ近くにあるという町。
たまの映像詩集というタイトル、たまの、が「たま」のなのかと思っていたぐらい、たまってなんだろ、とか思っていたぐらい、全然知らなくて、玉野市というのを、恥ずかしながらホントに知らなくて。
だから観ている間は、この玉野市が岡山県にあることすらわからなくて。競輪場のある町。全然知らなかった……。それは、北海道民ならばんえい競馬が当然あることを知っているけれど全国的知名度はない、という感じをちらりと思い出したり。
地元では当然のことが、どの程度知られているのかすら判らない、自信がない、ついつい自嘲的になってしまう、という感覚がなんか判ると思っちゃう。
それは第三話目、ゆりやん嬢と空気階段の水川かたまり氏が移住者に対してアンビバレンツ、以上に、完全に自嘲で反発するエピソードに非常に良く表れている。
ともかく、第一話目からいこう。「美しき競輪」。第一話でじっくりと描かれ、第二話、第三話と、遠く近く見え隠れする、本作の主軸。第一話の主人公、大島選手を演じている三宅伸氏は実際の競輪選手なのだという。大ベテラン。
第三話目でゆりやん嬢演じる地元育ちの素直子(なんて読むんだろう……劇中では名前を呼ばれていただろうか)が、同じ地元っ子の浩(水川かたまり氏)に、「大島選手って、うちら小学生の頃からいたやんなあ。サインもらったことある」(方言をどう言っていたかはアヤしいので、ご勘弁)と言っていたのは、その通りなのだろうと思う。
カズ選手やイチロー氏などが言われるけれど、競輪や、他の公営競技では、そういうケースはよく聞く気がする。
身体能力はもちろん、駆け引きの頭脳がキャリアがものをいうからなのかもしれないけれど、それにしても、銭湯(なのかな?)で見せる肉体はもちろん素晴らしく、思わず見入っちゃう。
彼はどうも我慢がきかない性格で、新人君に厳しく当たったりして、そんな自分を反省して怒りを抑えるセミナーに参加したりするあたりが可愛い。
なのに、突撃テレビ取材にキレちゃって、あらあら、と思ったら、ちゃんとセミナーの成果が発揮されて、テレビ的に“オイシイ”リアクションをとって、風呂上り、一緒にその番組を見ている同僚たちと共に大爆笑である。本当にチャーミングな人。
そして、自転車からつながる第二話目である。この第二話目が、本作のメインタイトルに採用されているのは、人気者の尼神インター、渚氏が主人公だからというのもあるのかな、と思う。
でも“渚”であり、“バイセコー”なのだよね、確かに、この三話ともが。うららかな海、競輪場に象徴される自転車。でも、渚氏が出会うのは競輪の自転車ではない。ないけれども、一話目の大島選手が突撃バラエティ番組取材にキレて、芸人さんが引いてきた自転車を海に投げ捨てちゃう、その自転車(だよね?)が、渚の訪れる海岸に漂着するんである。
第二話は、渚とその父親(ジミー大西)二人だけが登場する、最終的にはどこかファンタジックな世界観である。もういい年の娘と父親の二人暮らしというのがどういう経緯を経ているのかを説明する無粋なことはなく、ただ父親は、拾ってきた自転車を乗り回す娘に、もう結婚するような年なのにとか、いつの時代よ、という台詞を投げかけるんである。
これは、なんだろうなあ、地方ということもあったり、あるいは、実家にずっといて家業を手伝ってはいるものの、ずっと親がかりという訳にも行かないし、というのが、自立というより嫁に行けという感覚ってのは、私ら昭和世代にはあったけれど、でもいまだに、地方都市、その価値観は根強く残っているんだろうなあ。
渚が自転車に乗って、海岸沿いを疾走したりして、本当に気持ちよさそうで。でもどこからが、幻想か夢か、だったんだろうなあ。競輪場に迷い込んで、トラックをぐるぐる走り回る、なんてのは、妄想のようだけれど、三話目のキーアニマル、ヤギさんが登場するあたり、絶妙な現実感があって、上手いんだよなあ。
トラックをぐるぐる走り回る、なんかメーメーと聞こえてはいるけれど、ヤギさんが映るのは走り抜けるほんの一瞬で、あれ?目の錯覚だったかしらん、そもそもこの状況がおかしいしなあ、と思わせるあたりがさ。ヤギさんは第三話目の、直島でカフェを営んでいるというでぶっちょ男が競輪デートに連れてきたキーアニマル、なんである。
渚の父親は、娘が拾ってきた自転車を、軽トラの荷台に無造作に放り込んでいたから、捨て去ってしまったのだと思う。渚は海岸でうたたねしていて……妄想と事実のないまぜが、ずっと起こっている感じ。
自転車が捨てられたクズ山が、ぶわあっ!と拭き上げられて、クズたちがまるでスイミーのように(なつかしー)集合体となって大きな車輪となり、夜も眠らない工場地帯を、町を、巨大な車輪だけで、進んでいくんである。
渚が見ていた夢だったのか。ぱちりと目を覚ます渚、拾った時と同じように、帰ってきたよとでも言いたげに、あの自転車が再び漂着している。それを、渚は恋人が帰ってきたかのような喜びで抱きしめる。
第三話目は、最も現実的というか、さらけ出しているというか。住みやすい町、自然いっぱいでいいところ、そんな風にキャピキャピ移り住んでくる都会からの移住者、だなんて。
まあつまり、こんな言い方をしてしまったけれど、こんな考え方がぬぐえない、大都会へのコンプレックスを抱えたまま、移住者たちにやたらほめまくられても、といったような、アンビバレンツ、自嘲、混乱、それを描いてくるのが本当に絶妙、なんである。
ゆりやん嬢扮する素直子と水川氏演じる浩は工場勤め。工場つっても町工場っていうんじゃなく、めっちゃ巨大な、めっちゃ規模のデカい、何作ってんだか判んないレベルの、高い技術が必要そうな。
そうか、造船工場か。凄い迫力。これもまた、玉野市の大きなファクターであるのだろうと思う。
しかし浩はここを辞めてしまう。その口ぶりは、この工場の凄さが、地元っ子ゆえに、近すぎるゆえにイマイチ判ってない、こんなダサいところ、地元で働く場所ここしかないから、という自嘲、自虐、アキラメがありありである。
きっと子供の頃からずっとずっと彼のことを好きなんであろう素直子は、彼をストーキングしちゃう。オシャレかき氷移動販売の女子のサポートに入っている浩を覗き見て、歯噛みしている。
その後も二人のデート(ではなかったんだよな、結局彼女には彼氏がいたんだから)に無理やり割り込んだり、競輪場にもひそかについて行ってるし、そのストーキングっぷりはいかにもコントなんだけれども、でも結局は彼女が真実をあぶりだしたんだよね。
素直子は、浩が入れあげてる移住者女子に、つまんないとこですよ。芸術で有名なのは直島だし、そのおこぼれをもらってるようなもんだし。どれもこれも、みんな外からの人が作ったもんですよね、と。これがまあ……めっちゃリアリティっつーか、その通りなんだろうと思っちゃう。
観光でお金を落としてもらいたいと思いながら、外から来た人たちに作られた町のイメージで観光地として成り立つ苛立ち、かといって、ただただ静かに暮らしてばかりもいられないというか、財政的にも人口的にもこの先を考えちゃうと、というシビアな問題。
住みやすくて素敵なところ、と移住してきた若い男女の描き方はそういう意味ではその過渡期の初期も初期というか、かなりこれから、すり合わせも理解のしあいも大変そうというか。
少なくとも本作の中では、ウキウキ移住してきて、かき氷だのカフェだのといったオシャレな浮き草稼業で地元に割り込んできている、みたいな描写が、まだまだ、まーだまだ、隔絶を、隔絶しか感じさせない。
オシャレな浮き草稼業と言っちゃったが、それこそだからこそ、根付くのは大変な訳で、それは二つの見方が出来る。根づかず、一過性ですぐにいなくなってしまうか、苦労しながら、地元の人に迷惑をかける中で関係性を気づいて行って土着するか。
……本作でのイメージは、前者以外に考えられなくて、つまり外部からの侵入ではなく、地元の中で地元の良さを見つめなおそうという結論なのかなとも思うが、そこに作品中でも逡巡を感じるし、それだけでは確かに、限界があるんだよね。
でも、それこそそれは、昭和の話だと思う。むしろ本作の描き方は、少し古いようにも思う。ああでも、あれかな。やはりコロナ前と後だ。日本は世界から頭一つ二つ遅れていて、いまだギュウギュウの満員電車に乗って、オフィスに行かなきゃ仕事が始まらないと思っていた。
そんな訳ないのに。リモートワークという言葉が叫ばれる前から、まず簡単にメール、そもそも元からあった電話、サーバーを介して共有できるデータ、遠隔操作、スカイプなんて20年も前からある訳だし、出来る筈だったし、日本以外の先進国はフツーにできていたのだ。
コロナ禍になって、ようやくそれが出来た日本のヨチヨチ度であり、ようやく、会社至上主義、東京至上主義、直接コミュニケーション至上主義、あらゆるうっとうしい接触主義から、解放された。まあ、コミュニケーションが一気に希薄になるという危惧はあるにしても、何より、世界が狭くなった。
距離だけじゃなく、いろんな事情で、直接コンタクト出来ないケースは無数にあるんだもの。身体的問題、家族的問題、精神的問題……コロナは本当に大変なことだったけれど、正直世界から200年は遅れてるよ、と思っていた日本のコミュ障を、ようやく自覚させてくれたという点では、災い転じて福となす?なあんか、考えちゃうよなあ。
犬、猫に続いて、映画に親和性が高いのが、ヤギかもしれんと思っちゃう。頭の中に思い浮かぶのは、犬、猫の次はヤギである不思議!!
つーか、デートに連れてきて、デートの補助みたいになってる浩に預けっぱなしで忘れちゃって、彼女とイチャイチャ帰っちゃうって!!それこそ、移住者はさ!!と言われちゃうじゃん!!★★★☆☆