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「い」


2014年鑑賞作品

家路
2014年 118分 日本 カラー
監督:久保田直 脚本:青木研次
撮影:板倉陽子 音楽:加古隆
出演:松山ケンイチ 田中裕子 安藤サクラ 内野聖陽 山中崇 田中要次 光石研 石橋蓮司


2014/3/10/月 劇場(新宿ピカデリー)
これが松ケン主演じゃなければ、私はこの映画に足を運んだだろうかとふと考えた。正直、震災映画には疲れ果てていたし、そもそも“震災映画”などというジャンルがなんとなく出来上がっていることにもイヤな感じもしてた。
いやでも、こうして“震災映画”のたびに結局は足を運び、毎回ここで言い訳じみたことを言っているのだから、同じことなのだけれど。

いやでもやはり、松ケンの存在は大きい。彼が、青森男の彼が、福島の青年を演じるだなんて、なんだか嬉しかった。
松ケンがお気に入りの役者だというのもあるし、青森もまた、私の中に大きく位置づけられる場所であるからというのもあるし、そしてやはり今は、福島なのだ。

この映画を観た翌日、私は父を見舞いに福島に帰った。福島といっても実家は内陸の福島市にあり、正直言って、震災後、ライフラインが復旧してからは今までとあまり変わった気がしていなかった。
いや勿論、暮らしている両親にとってはそうではないことは判っているけれど。たまに帰る気楽な娘の立場では、内陸の福島は以前と何も変わらないように見えたのだ。
……あれ、なんか、何を言いたいのか判らなくなってきた。なんだろう、上手く言えない。なんていうか、福島の中でのアンビバレンツというか、そう、普通に帰ってるのにさ、と思っていたのだった。

そう、普通に帰っている。でも、海岸沿いの福島は、もう普通には帰れない。多分、今まで住んでいた住人達はきっともう……。
廃墟と化した街は、津波で流された荒野のような地とはまた違った、言ってみれば映像的には“オイシイ”画であり、あらゆるニュースや映像作品で目にしてきた。もうここには帰れないのだと。
一時帰宅を許される映像などもあっても、恒久的にはここには帰れないのだと、そう“オイシイ”画は言っていたのだ。

でも、松ケン扮する弟、次郎は帰ってくる。ライフラインは当然断たれたまま、誰もいない故郷に帰ってくる。そして「自分が食べるだけだから」と野菜を、稲を、育て始める。
冒頭は、この次郎が、死んで、もう骨となってしまった牛を土に埋めている。卒塔婆のように建てた板切れの日付は震災の数日前、ということは、それはこの牛が産まれた日なのかもしれない。すっかり黒ずんで、形もよく判らないその牛が子牛かどうかも判らないほど日が経っているのだ。

そして米をとぎ、大きなかまで炊き上げる。ひどくおいしそうで、後に訪ねてくるかつての同級生、北村が、ろうそくの明かりの中でむさぼるように食う場面が、本当においしそうで、すぐにでも白メシを食べたいと思ってしまう。
でもその米も、少なくともこれから育てる米は、放射能をふんだんに浴びているのだ。と、北村もそうおずおずと口にする。彼の顔は一時雇で働いていた原発事故現場の影響で「放射能焼け」で赤くはれている。

この監督さんは、これまでドキュメンタリー作品で名をはせてきた人なんだという。本作は初のフィクション、そして初の劇場映画作品なんだという。
ついこの間、こちらはドキュメンタリーの震災映画としてそれなりの評価を得てきた某作品が、ヤラセ問題が明らかになったばかりのタイミングだったから、ちょっと身構える気持ちがあった。
ドキュメンタリーで力を得てきた人なら、この、大震災という題材は彼の腕を振るう格好の材料なんじゃないかと。

実際、そのネタで(イヤな言い方だけど)腕を振るった作品もあったのかもしれない。それは判らない。
でもそれを経ても、彼がドキュメンタリーではなく、フィクションの、それも劇映画としてこの作品を作り上げた、あるいは作りたいと思ったことが、凄く意味あることに思えた。
それは……そうしたいと思っても出来ないことを叶えられる場は、ドキュメンタリーにはないから。
帰りたいと思う場所に帰る。暮らしたいと思う場所で暮らす。あの場所に住んでいた誰もが思っていることが、今は出来ない。
それを映し出すのがドキュメンタリーであるならば、その思いをフィクションの形で叶えるために、ドキュメンタリーを捨てる選択をしたんじゃないかと、思えたから。

それは、劇的にするために、ドキュメンタリーという枠の中でヤラセをしちゃう意識と紙一重かもしれない、とも思う。
勿論作り手になったことなどないので、そのあたりのことは判らない。それに今は、あの某作品のことは考えたくはない。
でも、そう、この、フィクションを選択したことが大きな意味があったと思った。それはあの地の被災者たちの心の中の真実、いわば心のドキュメンタリーだから。

松ケンはね、凄く、イイのよ。いい意味で、現実離れしてる。薄い面立ちと白い肌、優しい手指は、それこそ現実の意味で言えば、それまで手伝いとはいえ農業を経験してきた男の子のようには見えないだろうと思う。
それこそそれこそ、うがった農業人から言わせれば、こんなヤワな手や身体はしてないだろ、といったところかもしれない。
でも、だからいいのだ。だってこれは、夢なんだもの。帰れない故郷に帰って、土を耕し、米や野菜を作る。鶏の卵を頂戴し、ぬか床から漬物を取り出す。川の水が命の水。
でもずっと長いこと、次郎はこの土地を離れていた。

一方、ここで暮らし続けていたのが兄と両親。内野聖陽演じる兄、総一は今、嫁と幼い娘、母親と共に仮設住宅で暮らしている。
食い扶持を奪われ、訴えてやると一人で息巻いて、仲間たちから足並みを乱さないでくれと困惑される。
かつて次郎が村を出て行ったのも、総一が「父親に気に入られたいと思った」と他の田んぼの水を抜いちまった罪を、次郎が肩代わりしたからなのだった。
頭のいい弟と、直情型で要領の悪い兄、しかも二人は腹違い。こりゃー、確かに、ドキュメンタリーでは描けない泥臭さである。

回想シーンでは、内野聖陽は彼まんまで演じているけれど、高校生役の次郎は若い役者に任せている。
松ケンだって充分に若いし、柔軟性のある役者だから彼まんまでもいけそうな気がしたけど、やはりここには意図があるように感じた。

この地域をパトロールしているおまわりさんに身分提示を促されて、次郎が差し出すのは高校の学生証。
「これがお前か?」「いや、こんな顔してたよな」と北村君の出す助け舟は、決してその場しのぎのようには思えなかった。
次郎は、変わったのだ。いや、真の部分は変わってない。というか、真の部分をむき出されて帰ってきたと言った方がいいかもしれない。柔らかな、松ケンになって。

兄、総一の嫁は安藤サクラ。デリヘルして働いている。彼との会話からなんとなく、彼女の客として知り合ったような気がする。
決して姑と上手くいってない訳じゃないけれど、一日中仮設住宅にいると息が詰まる、という。ていうか、彼自身が母親と上手くいっていないように思う。
仮設住宅のカギをガチャガチャと開けられないまま往生する母親を、置いて行ってしまう。彼にとっては母親といっても父親の後妻、出来のいい弟の母親、そんな位置づけなんである。

安藤サクラは、“震災映画”は二回目だな、などと思う。父監督の、「今日子と修一の場合」。そこでも彼女は身体を売っていたし、彼女自身、そんな役柄が多いなあなどと思う。
何か、刹那的な感じがするんだよね。いや、それははかなさじゃなくて、たくましい刹那。生きるための刹那。デリヘルする妻におめおめとくっついてきた夫に、負けるもんかという気概を示した。
こうこうと電気の照った店の外のベンチで、姑と魚肉ソーセージをつまみに缶チューハイをすする。
この嫁と姑は、夫にとっての直の母親ではないという分、お互い気は使いながらも、不思議に距離は近い気がする。
少なくとも、腹違いを気にしている夫よりはよほど近い。だからあのラストシーンが……まあそれは後述。

次郎は、誰もいなくなったから帰ってきた、と言ったんだよね。濡れ衣を自ら負う形で村を出た次郎は、でもその前から母親には村を出たいと言っていた。
でもそれは、ひょっとしたら兄に対する気兼ねもあったのかもしれない。そう思えば、彼が村を出ることになったシチュエイションは、願ったり、といったところであった。

でもねでもね、そういう、用意された、判りやすいシチュエイションがあっても、次郎が、「誰もいなくなったから帰ってきた」という台詞は、なんか、……射抜かれたんだよね。
もちろんさ、それはさ、兄、総一がコミュニティの中でしか生きられないという対照であるのは判ってる。
一見そうは見えない。皆と足並みを揃えず、プライドだけで突っ走る総一は、農業人としてのプライドある男のように、一瞬は見えなくもないのだ。
でも、それを突き詰めて突き詰めていくと、コミュニティも機能しなくなった、人間というものを必要としなくなった土地だから、次郎は帰ってきた。そう、生きるために、“生きる”ために帰ってきた、というのが、うたれたのだ。

本当は、そうしたい。てゆーか、そうしてると思ってた。自分が生きるために生きているだけだと思っていた。
でもそうじゃないのだ。決してそうじゃないのだ。帰りたい故郷も、そこに今まで積み上げたキャリアとプライドがあるからなのだ。
それを理不尽に失ったからこそ、戸惑い、怒る。ああ、そんな風に言ってしまったら、本当に怒られそう、いや、怒られる。お前は結局、被災者じゃないくせにと怒られてしまう。

でも作品が、そう言ってるんだもの!監督だって、絶対そう思って作ってるんだもの!!
次郎は頭がいい。他のみんなとは違う。そう、ある意味バリヤーを貼っておいて、でも次郎の言い分はフラットな、いわゆる地球規模に納得のできるものなのだ。
北村君が回想する。自然を守るためにはどうすればいいかって、君の答えを聞いてみんな黙っちゃったよ。「人間がいなくなればいい」って。叶わないなと思ったよ、と。

奇しくも彼らの故郷からは人間がいなくなり、次郎はそんなことになるとは思わなかった、と言う。しかもこの土地は、自然を守るどころかという状態で、人間がいなくなるというか、人間がもてあまして逃げ出した状態なのだ。
でもそこに、次郎は帰ってきた。生きるために、帰ってきたのだ。誰もいなくなった、自分がいて何か言う人はいなくなった。腹違いとか噂話とか、そんなドロドロした、いかにも“フィクション”なことを言う人は誰もいなくなったのだ。

北村君は、友達が出来た、と言う次郎に決まり悪げに言う。このままここにはいられないよと。そんなことは判ってると次郎は笑顔である。
勿論判ってはいたんだろうけれど、二人の別れは何か、切なかった。必要なものがあれば持ってくるから、と言う北村君に次郎は、女の人、と冗談で言い、絶対ムリだから、と北村君も笑顔で返した。
冗談の応酬なんだけどそれが、北村君がもう二度と、ここに来ないことのようにも思えた。それはでも、悲しいことじゃなくて、もう二人とも、どこかで判ってることで、本作が示す、超絶ピュアなスピリット。

次郎と母親が、世間的には、社会的には、世界的には、放射能に汚染された土地で、自分たちの食い扶持だけを育てて、誰にも迷惑をかけずに、……この言葉、いざ書いてみたらめっちゃヤだけど、とにかくそうして、生きていくこと、あまりにも理想的だけど、でも、そうしたいって思っている人が、特にあの地の人が……どれだけいることか。

そして、そんな次郎をずっと案じている人がいる。母親役の田中裕子もまた、私が足を運ぶ理由の一つだった。
彼女が後妻に入った夫は、田畑の仕事などそっちのけで、選挙活動にいそしんでいた。それが野心だったのか、真にその地のことを考えていたのかは正直、判らない。ただこの家は代々、そうした家系でもあって……。
小さな村のこういう図式って、それなりに地方に住んだ経験があれば判らなくもなくって、なんともいたたまれなくなる。

母親は仮設住宅暮らしの中で段々とボケてきてしまう。無理もない。いきなりの環境の変化、しかも同じように立ち並ぶ仮設住宅の中で、迷路のように取り残されるあのシーンは、その恐ろしさが身に沁みるようだった。
可愛い孫がひょいと顔を出して助けてくれるけれど、でも可愛い孫は、やはり可愛い孫でしかないのだ。彼女の気持ちを本当に判ってくれる訳ではないのだ。

地元の仲間が自殺、その悲しみに打ちひしがれている時に、警察から連絡が入る。弟さんが帰って来て、住んでいると。
驚いた総一は、警戒区域の境界線にいる警官たちに苛立ちながら、弟に会いに行く。
のどかに農作業をしている。取っ組み合いのけんかをする。なまっちろい次郎の身体があらわになる。
あれは意図的だったのかなあ。二人の土だらけになるファイトシーンは、リアルだったからさあ。

お母さんをここに連れて、一緒に生活したい。次郎の言葉に驚き、戸惑い、怒りさえする総一だけど、結局は彼の言う通りにした。全てはこの結末に向かっていた。
最初は、次郎が、まあつまり松ケンが、排他的な故郷から弾き飛ばされた彼が、“誰もいなくなったから帰ってきた”という部分に重きがあるんだと思ってた。
「田んぼが、畑が、山も、川も、皆呼ぶんだ」という彼の台詞は感動的ではあったけど、同じみそっかす経験者としては、“誰もいなくなったから帰ってきた”って言葉こそが重いと思ったから、だから……。

警戒区域でひっそりと暮らすためには、ひっそりと入る必要がある。車で途中まで送って、山の中のケモノ道を行く次郎と母親に、総一は大丈夫かと声をかけた。帰ってきた時もここから入っていったからと、次郎は笑顔で返した。
総一の嫁は、使えるかもしれないから、とスマホを渡し、ありがとう姉さん、と笑顔を見せる次郎にテレて、姉さんだって、と頬を緩める。
この兄弟はさ、あるいは兄嫁もそうだったかもしれない、割と家族なんて、どーでもいいと思ってたトコがあるじゃない。でもここではさ……。

ああ、だって、これって、ヘタすれば、いや、ヘタしなくても、今生の別れじゃん!!どうしようもないんだよ。どうすれば……。
兄嫁の方が落ち着いてて、笑顔で義弟に手を振る。この二人は、現実の辛さを判っていたということなのかもしれない。

次郎、って、いかにも次男って感じだよね。でも腹違いだし、総一って名前は考えが尽くされた感じがある。で、腹違いだと、殊更に、置き去りにされた感がある。腹違いで、次郎、だよ??
で、松ケンじゃん……。誰もいなくなった土地、必要とされない自分、放射能、でもみずみずしく育つ作物、汗を流して開墾する土地、なんて言ったらいいのか、なんて言ったらいいのか。

次郎が母親を連れて帰ってから後、もっと、ずっと深くさまよった。母親は、ここに帰るべきだった。それは思う。でもここで、彼女はそれまでも患い気味だった認知症の症状を再認識することになった。
いやでも、いやでもでも、今生きている、その自身で生きることが大切、ていうか当然、あるべき姿なのだと、思う、思いたい。
母親は、次郎が稲の苗を育ててていることを聞いて相好を崩した。今すぐ田んぼに行きたいような、そんな表情だった。そんな母親を見て、総一が止められる訳、ない。

でもね……やっぱりこれはファンタジーなんだよ。今までも警官たちが訪ねて来ていた。ここは人間が住める所じゃない、そういって退去を促した。ここにいること自体が法律違反なんだと。
でもラストシーン、次郎と母親が田植えをしているところに来た警官2人、どうしますかと聞いた年若い警官に対し、先輩格は、その光景を目にした時から浮かべていた笑みをそのままに、きびすを返す。これまでの経過があったから、受け入れられる。
こんなん、凡百の“震災映画”なら蹴っ飛ばして終りだよ!でも、だからこそ、このシーンが、こうして受け入られられること、その場面を、ずっと見たいと思っていた、そのことに、気づいたんだ。★★★★☆


無花果の森
2014年 108分 日本 カラー
監督:古厩智之 脚本:林誠人
撮影:清久素延 音楽:大竹史朗
出演:ユナク 原田夏希 小木茂光 三浦誠己 徳井優 木下ほうか MiNo 瀬戸早妃 かでなれおん 名高達男 江波杏子

2014/6/23/月 劇場(シネマート新宿)
古厩監督だから迷いなく足を運ぶも、前作といい、小さな劇場たったひとつで、公開されてからしばらくしての発見。焦ってしまう。
うーん、古厩監督に任せれば、良質な作品を撮ること間違いなしなのになあ。ちょっとメジャー街道から遠ざかっているような気がしなくもない……。
いや別に、メジャー街道を歩いてほしいと思っている訳じゃないんだけど、なんだかちょっと悔しいのだよね。若い役者さんを作品内で育てる手腕は間違いないし、決してジコマンに陥ることのない数少ない監督さんだからさあ……。

今回はもうそれなりに、いい感じの年齢の役者さんたちだけれど、それが超新星のユナク君となればやはり“作品内で育てる”ということはあったかもしれない。
ユナク君自身が言うように、日本に来て10年の韓国人というのは自分と同じだから……という、流ちょう過ぎず、カタコト過ぎず、ラブストーリーになりえるレベルの日本でのアイデンティティを確立しているこのヨンホに、監督の長回しもあいまって、きっと大きな成長を遂げたんじゃないかと思う。

ま、長回しってのは、役者の芝居を引き出す撮影スタイルとしてであって、観客に長回しの恐怖(と思うのは私だけだが)を与えることはない自然なカット割りなんだけどね。
うん、でもそれは感じたなあ。とても日本的な繊細な感情がじわじわと生み出される感じは、きっとその、じっくりと役者を信じて待って待って撮る、そういうスタイルを切り取れるからだと思うもの。

でもまあ、凄く単純な疑問。素朴な疑問。なんで韓国人記者だったのかしらんという疑問。
原作は未読だけれど、果たしてこれは原作も韓国人記者だったのかしらんと思いながら見ていた……のは、韓国人青年であるという必要性、というか、韓国人青年であることによって、なにがしかの物語上の展開が当然あるだろうと思っていたが、まったくなかったから、あれれ……と思ったのであった。

いや私は別にアンチコリアではないし、韓国エンタメに詳しくはないけど、超新星はかなり最初の段階から日本で頑張ってくれていることもあって、結構応援したい気持ちがある。それだけに、こんなツッコミどころを作ってまでもこのキャストにすることに、何か、忸怩たる思いを感じたりもするんである。
ホント、最後まで待ったんだよ。彼がハメられて警察に追われて逃亡して、で、自分から連絡して引き渡されるじゃない。僕は闘う、そう泉に言って。

この閉鎖的な国、日本で、韓国人である彼が闘うことがどんなに大変なことかを、じゃあこれからのラストシークエンスで描くのかしらんと思っていたら、あっさり時間が経って彼女と再会しちゃった。えーっっと思って……。
この役柄、あるいは最初からユナクありきで作られた企画故の変更だったのか、どうなんだろう……誠実に丁寧に作られている作品だけに、そこを納得させられないのは凄く残念だったんだよね。

きっと監督自身も、それは判っての上なんじゃないかとも思う……。だってその企画がいわば仕方ないものだったのだとしたら、あとはもう、誠実に丁寧に作るしかないんだもんね。
思えばこの作品の製作がBS−TBS、韓国ドラマてんこもりのチャンネルであり、最初から、韓国人に役柄を置き換えて作るというのが前提であったんだろうと思われる。
しかしBS−TBS、もう少し宣伝なり配給なりに力入れてよ……古厩監督にもユナク君にもカワイソすぎるじゃないのおお。

いや、ね、このキャストのバックボーンのみならず、物語自体もツッコミどころがどーんと据えられているもんだからさ、だから、原作と映画化された本作は、キャスト以上に、いろんな事情で何か色々違うのかしらとも思ったのよね。ならば、このキャストのツッコミどころは仕方ないかもと。驚くべきことに、このどーんと据えられたツッコミどころはそのまんまだった(爆)。
DV夫から逃げた女と、覚せい剤所持の罪を着せられた男が、運命的というにはあまりに奇跡的過ぎる、さびれた田舎町で再会する最大のツッコミどころが、まさかの原作そのまんまだった(爆)。

これが原作そのまんまなら、その男が韓国青年になろうがたいした問題じゃないかもしれないと思うぐらい、ビックリした(爆爆)。
えーっ、だって、ありえないでしょ!女の方は本当に無作為に降り立った田舎町、男の方は途中経過の名古屋で怪我をしたおかまバーのママ、サクラを助けたことから拾われてきた。
その場所が同じだったなんて、だからこそ二人は運命だって言う訳!?いまどき昼ドラでもオトメ漫画でもライトノベルでも(すみません、総じてバカにしてるんじゃないんです!!)ありえないよ!!

……だからそういうことも全部飲み込んで、古厩監督はこの映画を……映画監督って大変だな……。どんなに誠実に丁寧に作ったって、このツッコミどころはさすがに見逃せないもんなあ。
でもまあ、言ってみればここをなんとか、ムリヤリでもクリアしてしまえば、確かに見せ切ることは出来る。それには強力な脇を固める御仁たちが必要であり、それが小木茂光と江波杏子の両御仁な訳。
小木氏演じるスナックのママ、サクラがまあつまり男だけど女、いや女であると思えば、この四人の中に男はヨンホだけとも言える訳で、しかもそれが中性的な魅力で日本の大人の女たちをメロメロにする韓国青年であると考えると、もはやここにはむくつけき男はいないのかもしれない(爆)。

泉はまさにむくつけき男、女をパートナーどころか人間とも思っていないような鬼畜DV夫から逃れてきたのだし、ヨンホは男にも女にも、しかも信頼し、仲の良かった人たちにハメられてこの町に逃れてきた……女が嫌う、男のズルさや卑怯さからは遠く離れたキャラクター。
そう考えると、この記者さんが韓国青年、それも日本に来て10年経った韓国青年というのは、結構絶妙なキャラ設定なのかもしれないと思えてきた……。

日本に来て、頑張って勉強して就職して、仕事に対する自信や誇りも芽生えてきた、のが、結局はお前は信用されてないんだと、その程度なんだと、叩き落とされる地獄。
思えば彼の仕事場でのシーンは、上司からスキャンダルをつかめと言われるシーンだけで、ここ日本での、友人や恋人や、そんな信頼できる人たちとのシーンはまるでない。
わざわざそうと言わないまでも、彼はきっと孤独で、図らずも追われて身を隠したこの田舎町で、彼が望んだすべてがあったんであった。

小木氏のママは確かに強烈だが、これまでのイメージになかっただけで、男優さんはコレをやると途端に注目されるから、いいよねー、などと(爆)。
だってさ、女優さんの場合は逆のパターンはまあ、ないじゃない。オニイだって沢山いる筈なのだが、それがなかなか明るみに出ない日本社会(いや、世界社会かな??)はやはりまだまだ男性社会だと思う……などとゆー、相変らずなフェミニズム野郎発言はいったん(爆)おいとくとして。

やっぱりやっぱり、江波杏子よねー。とか言いながら、途中まで吉行和子と思っていた私は大バカ(爆)。
それはないだろー、彼女と親友の岸田今日子とは似ているという話はあれど……。いや別に、年を取ると似てくるとか言ってるんじゃない(言うな!!)。

と、とにかく(汗)江波杏子ですよ!!そう思えば(思えばって(爆))確かに全てがしっくりとくるのだ。
年下の詩人と同棲していた過去があって、今は絵を描くことしかしたくない、死んだ男のベッドで寝るのよ、と住み込みの条件をしれっと言う。
トイレに間に合わなかったことをひどく恥じ、ならばと簡易トイレを用意してきた泉をひどく叱責する(当然だよな)。この年になったって、女なのよ、と。
でも結局、彼女の気持ちを汲んで、簡易トイレを使って後始末を頼むというシークエンスは、映画の尺の問題もあるんだろうから仕方なかろうが、ちょっと早すぎるよなあ……信頼の経過と度合いが。

まあ、このあたりは確かに映画の弱さではある。正直、ワケアリでこの町に流れてきた泉の、ワケアリをいち早く見抜いて黙って雇い入れてくれたこの老画家との深まりは、もっと見てみたかった気がする。
タイトルである無花果は、この画家の、廃校になった小学校を買い取ったその庭に植えられていたもので、同棲していた年下の詩人が、毎年小鳥がついばむ分を残して収穫していた。
内側に花を隠して実をつくる無花果、その意味深な意味合いがまあ、あったんだろうけど、観てる限りでは正直、ピンとこなかった(爆)。
無花果、それも森とタイトルにつけられるほどの深い意味あいなのだから、ちょっともう少し……と思う部分はある。

森、森だもの。それは、この老画家が「今はこれしか描きたくない」とひたすらひたすら描いている無花果、その無数の無花果のキャンバス画こそが森さえもイメージさせる濃密さということなのかなとも思うが……。
花を外に咲かすことなく実をつける無花果は、色んなイメージを喚起させるけれど、私みたいなフェミニズム論者に言わせたらそれこそ不毛なことを言いそうだから(爆)。
イチジクコバチってのもあるしねー。いやそれはまた別の話だけど。

タイトルにもなってるし、そこんところはちょっと気になる部分でもあった。原作では掘り下げられているのかな……どうなのかな。
だってこの老画家の存在は、主人公二人よりも、ずっとずっと深いものがあるじゃない。正直、この画家の友人であるママ、サクラの存在はいわば彼女を引き立たせるためと言いたいぐらいものがある。
過去には色々あったけど、今は一人で暮らし、それに何の後悔もない。充足している。寂しくもない。
画家として裸婦を描きたいと思っている。人生の最後には、自分の裸を描いて死ぬのも悪くないと。
それを本当に実現して死んだ。自分の裸を描いている途中に心臓発作を起こして死んだ。なんて素敵なの。

夫のDVから逃れた女、というくだりもあるし、私みたいなガチガチフェミニズム的な匂いを感じて、それがちょっと、ハラハラする感じもした。
でもそれを考えると、韓国青年へのキャスト変更は結果的に成功していたのかもしれないとも思う。だってフツーに週刊誌記者の男に、つまりはフツーの日本の男に、汲み取ってもらえるのかしらんと思っちゃうもん(爆)。
いやさ、だからって韓国の男の子なら汲み取れるのかと言われればアレだけど(爆)、日本の、特に何かと疲れた大人の女たちが、彼らに癒されるのは、やはりそーゆー部分があるからだと思うもの。
もうぶっちゃけ言えば、日本の価値観で育った男じゃないだけで、そしてお隣の国だから顔立ちも親しみがあるし、優しそうだし、……ああなんか、言ってるだけでだんだん落ち込んできた……そんなに弱いつもりはないんだけどなあ(爆)。

なんか、どーでもいいフェミニズム論ばかり言っちゃって、作品自体に全然触れてない気がする(爆)。
うー、とてもドキドキするラブストーリーだったのよ。お互いに、今が初めてのキスする時!という瞬間を感じさせるなんて、そんなトキメキ、いつ以来かしらんと思ったし、そのキスはさすが大人同士、しっかりしっかり求め合いキスだし(キャー!でもそれ、ホント重要!案外、スター役者同士だと口と口パーンと合わせるだけだったりする……いまだに!)。

そうそう、自分がこの町に追われてきたことを、ヨンホが泉に言う、ひと目が気になるから自分の部屋に来てほしいという、もうそのシークエンスから、そりゃー、彼らはそうなるわな!と思ったもんね!
日曜日に出かける泉に画家先生が、あらま、おめかしして、男が出来たのかい?ともう一発で見抜くし!

泉を演じる原田夏希、冒頭、ヨンホが彼女に見とれるファーストシーンでは、悲しげな表情のせいもあるけど、ほおがこけて、私のイメージの中にある、瑞々しく初々しく可愛い原田夏希からかなり遠かったからさ、うわ、なんかブスになったと思って(爆)、正直、本作観てる間中、そのイメージからあんまり外れなかった(爆爆)。
うーん、女の子、女子、大人の女、って難しいな……。有名指揮者からDVを受けている妻、という役柄の難しさもあるとは思うけれど……。
でもそれも、リハーサル中の夫にターン!と離婚してください!と突きつけたら、あっさり、勝手にしろ、と承諾されちゃうし、うーむ、今までのオナヤミは一体なんだったんだ。
いやまあ、ここからドロドロになったら、それはまた別のタイプの話になっちゃうから、これはこれでいいのか……。

なんか脱線しまくって(いつものことだが)、本筋を全然、いつも以上に言ってない気がする(爆)。
この運命のカップルは、運命のカップルだからとてもとても美しい。それだけで充分満足。ちょっとしたツッコミどころや物足りなさは、濃すぎるワキキャラが充分補ってくれる。
でも、でも……やっぱりやっぱりそもそもの成り立ちのいろんな無理が、どうしても気になっちゃう気はしたかなあ。
タイトルが印象深かっただけに、観客にとってはそれもまた、絵画とセリフの上滑りのままだった気がするしなあ……。★★★☆☆


いつかの、玄関たちと、
2014年 85分 日本 カラー
監督:勝又悠 脚本:勝又悠
撮影:古屋幸一 音楽:松本龍之介
出演:藤江れいな 橘麦 木下ほうか 山村美智 勝尾麻結奈 五十嵐康陽 森田哲矢 円城寺あや 松尾貴史 阿藤快 松原智恵子

2014/11/2/日 劇場(テアトル新宿/レイト)
「はい!もしもし、大塚薬局ですが」が私の中ではかなりのスマッシュヒットだったので、この勝又監督の新作はぜひチェックしたいと思っていたのに、知らない間にいくつか見逃しがあったことを知ってショック(涙)。うーん、最近こういうことがよくある……情報収集不足もあるけど、小さな劇場での限定期間公開とかになるとなかなか追いきれない。
言い訳だが、ホント、どんどん大作ロードショー作品との格差が広がっていって、一口に映画、となかなか言えないよなあ、この現状。

まあ、それは確かに言い訳。今回もギリギリに駆けつける。レイトはキツい、とか思いながら、やはり見つけてしまったからには見逃す訳にはいかなかった。
またしても大塚。大塚、という苗字に監督さん、何かこだわりがあるんだろうか??そして舞台は神奈川の山間の町、下村。し、知らない……。監督さんは郷土愛がハンパなく、これまでも映画の舞台にしてきたというから、きっとその、足柄のあたりなんだろうが、下村、というのは架空、というんじゃなくて実際の地名??それすら判らない、ゴメン(爆)。

そういやー、「はい!もしもし……」でも明確に地名を明かしていたかどうかはちょっと記憶にないんだけど(いつだって記憶にないの、私(爆))、この絶妙な山あい感覚、訛りがあるとか、東京が果てしなく遠いとか(これは私の10代の頃の感覚)、そういうんじゃない、絶妙な感覚が、やっぱりあったように思う。
今の若きクリエイターさんたちって、いい意味でコンプレックスがあって、そしてなくて、昔よりもずっとフットワーク軽く、そんなアンビバレンツを映し出すのが面白いと思う。思いっきり地方とか、いや生まれも育ちも東京とか、そういうのしか、一昔前まではなかった気がするんだなあ。
こんな風にピンポイントの距離感の郷土にこだわる、その感覚が面白いと思う。これは、ロケハンしてその地で映画を撮るだけの、、外からの感覚じゃ得られないんだもの。

物語はふたつの流れがある。一つは、自分は一人娘としてこの下村という小さな町で育ってきたと思っている、ごくごくフツーの女子高生。「ここで友達作っても仕方ない。どうせ出て行くんだから」という感覚こそが、この山あいの町の全てを物語っていて、そしてだからこその展開が待っている。
学校からまっすぐ帰る帰宅部、とわざわざ言うにも更に気合のない感じの彼女は、友達の影もない。かといっていじめられてるとか、クラいとか、そういう感じでもなくて、まさに、「ここで友達作っても仕方ないから」の現実主義で、進学は東京の専門学校に推薦を頼んでいる。
したたか、というほどではないけれど、まだ世間の荒波を知らない感じの、現代っ子という感じはする。

そんな彼女に大波が訪れる。ある日家に帰ると、「はじめまして、だよね?私、すみれ。あやめのお姉ちゃん!」
しかも彼女の娘だという、同い年のいとこまで登場!すっかり混乱したすみれは同時にすっかりぶーたれて、コミュニケーションをとろうとしない。

そんな中、なぜこんな事態になったのか、すみれがこの家を出た事情や、戻ってきた事情や、その間の絆や、そして未来や……時間軸が何度も行ったり来たりして示されていくんである。
この町を出て行くこと以外は、家族という形さえぼんやりしていたかもしれないあやめが、成長するほどに。

正直なことを言うと、すみれ側の事情が時間軸行ったり来たりでミステリチックに描写されるようになると、あやめの影がすっかり薄くなる感が否めない、ような。
冒頭からあやめがヒロインとして据えられているのはハッキリとしているし、これが二度目のタッグだという監督の、藤江れいな嬢への信頼も明確に感じるんだけれど、あやめの存在が、必要だったのかしらんと思うほどに、影が薄くなっちゃう……のが、もったいない気がして仕方ない。
いわばあやめは両親からすっかり騙されていたんだから、もっと修羅場なり展開があってもいいと思うんだけど、まあスネてむくれて食事をボイコットするぐらいはあるものの、あとはすっかり、すみれ母子のシリアスなメロドラマに追いやられてしまうんだよね……。

18歳で身ごもって、恋人と共に覚悟してこの町を出て行った、そして18年間、お世話になったやまじゅく(塾のような、コミュニティセンターのような)の夫人とあたたかな手紙のやり取りをしていた。
それは、ダンナが急死した後も、娘によってつなげられていた。そのことをすみれ母は知らず、……なんていうカンドーの展開に向かっていくんじゃあ、下村という町に未来を持てず、友達も作らず、突然の家族にも背を向け(まあ、仕方ないけど)、彼女自身がなかなか見えてこないあやめちゃんの影が薄まるのは、まあしょうがないというか……。

正直なことを言うとね、この下村という町の、そうした“仕方なさ”、郷土愛を持つほどの要素もない、とバッサリ言っているような、言ってしまえば冷たさを、あやめちゃんだけに背負わせると、すみれ母子のドラマの強さにかき消されてしまう感が、どうしてもあるんだよね。
この町の何もなさ、を、すみれ母子がラストで見事に、何かあるものにする未来を作り出そうとしている力強さで終わるだけに、余計にあやめちゃんのアイデンティティの弱さが目立って……いや目立ちさえしない。だって、すみれ母子の話だけで成立しちゃうんだもの。

いや、すみれさんの娘、あやめちゃんと同い年の茉祐子も、途中まではかなりそんな感じ。茶髪に、制服スカートの下の切りっぱなしのジャージが主張を感じるぐらい。
いやでも、あのジャージは切り方、もうちょっとなんとかすると思うけど。ワザとというにも投げやりすぎるギザギザ。茶髪にするだけのオシャレ感覚を持っている子が、あんなギザギザにするかなあ……いや、その辺の感覚は、私のようなクサレ女子には判らないんで(爆)。

でもホント茉祐子ちゃんはあやめちゃん以上に、キャラ、というか何考えてんだか判んない状態で進んでいくのよね。すみれ母子のつつましい生活が、時間軸さかのぼって明らかになっていくと次第に、お父さんお母さん大好きな、実に出来た娘だということが判ってくるんだけど、凄くそれに時間がかかる。
やまじゅくの夫人とお父さんが手紙のやり取りをしていたことをお母さんに内緒にして、お父さんが死んだことを知らせられなくて、お父さんの字を真似て返事を出し続けた、そんな女の子。
やまじゅく夫人から、あなたの字はとても可愛いわ、と言われて、お父さんの手紙に顔をうずめて涙するシーンは、まさにここがクライマックス。

そう、やっぱり、すみれ母子の物語なのよ。あやめちゃんはいわば、この田舎町をアンビバレンツに思いながらも、基本両親に愛されて幸福に育ってきて、なんとなく東京への進学を決めて、地元への思いはあいまいなままであって。
そうした思いって、きっといろんな地方の子たちにあると思うし、その思いを掘り下げるのって凄く画期的なテーマだと思うんだけど、思いっきりドラマティックなすみれ母子の話にかき消されてしまう感があるのが、もったいない気がしちゃうんだよなあ。

ていうか、そもそも両親は、お姉ちゃんがいることをなぜあやめに言わなかったのかしらん。
確かに世間的に言えば不肖の姉、というところなのかもしれんが、両親にとっては愛する娘であって、迎える様子からしても、自分たちに恥をかかせたとか、親不孝者とか、思ってた訳じゃないでしょ?ずっとずっと心配して、初孫にだって会いたいと思っていた筈だと思うんだよなあ。
そういやあ、娘に対する久しぶり感、よく帰ってきた感はあったけれど、孫の茉祐子に関しては付属品……までは言い過ぎだけど、同じフラットな対応、という感じで、それこそが茉祐子の印象が中盤まで、あやめ以上に薄かった原因なんだよね。

みんながここを出て行く、友達なんて作ってもムダ、というぐらいに小さな町なら、両親がひた隠しに隠していたって、町のウワサで知れてしまうんじゃないかと思っちゃう、というところもなんだか気になったところ。
それとも、若いモンは皆出て行くほどの町だから、同世代から漏れることはないとか??それはないよな……実際、両親の同世代と思しき、電気屋さんは声を潜めて「帰ってくるんだって?」と狭いコミュニティの噂話の伝わる速さを示すし、18年間、あやめちゃんがお姉ちゃんとイトコの存在を知らずに来るというのはかなりムリがあると思うんだよな……。

確かに、見も知らぬ姉、そして同い年のイトコと突然相対するというインパクトは映画的魅力があるけれど。だからこそ同い年同士の衝突が見たかった、なんて思うのは、ベタなメロドラマ傾向??だって、あやめと茉祐子は全然ぶつかり合わないまま、茉祐子があやめの引越しの手伝いとかして終わりじゃん。
それを言ったら、一人ファミレスで食事をしていたあやめに近づいた同級生も、引っ越しの手伝いの場面に現れ、まあ茉祐子と大して変わらないほどの位置関係よね。

……あやめにしても茉祐子にしてもこの同級生にしても、彼女たちティーンの掘り下げは正直……。
すみれさんの、物語なんだよ、これは。この狭いコミュニティの中で18歳で妊娠して、追われるように恋人と出て行って、慎ましくも懸命に作り上げた家庭が夫の急死で崩壊して。
しおれるように帰った故郷で、しかし夫のアイデンティティ、そしてそこからつながる自分と娘のアイデンティティを見つけ、やまじゅくを再生することを決意。

それはつまり、「ここで友達を作っても仕方ない」という価値観を覆すこと。あの頃そうだったように、皆が集まるコミュニティを作ること、友達を、時には恋人も作れる、そんな場所を作ること。
公営バスも巻き込んで精力的に動くすみれと、両親を愛している茉祐子も、ほぼ見知らぬ町のこの地に残るのだ。髪を黒く染めて。

てな大団円の前に、あやめがブーたれてたこともあって、すみれ母子はこの地を去ることを決意する。しかしそれを、すんでのところで止めるのは、ほかならぬあやめちゃん。
そうそう、なんかこの流れではなかなか言及するタイミングがないのだが、のほほんとした両親、特に父親の木下ほうか氏の気の抜けたひょうきんぶり(ひょうきんという言葉自体、若干の死語感があるが(爆))がなんともいえず癒される。
娘から自然にビールをつがれるのが納得できるような、肩の力の抜けた父親。彼のようなキャラの父親が、こんな秘密を娘に隠し続けていられたことはヤハリ、疑問だけどねえ(爆)。

個人的には、すみれさん家族が慎ましく暮らしていた場所の隣人、ひとり者のオバサン、円城寺あや演じる住川さんが、なんつーか、身につまされる感じで、忘れられなかった。
彼女が一番、現代日本社会でリアルな感じがした。まさに自分の何年か先だもん。オバサンなんて言えるほどに、遠い未来じゃないもん(爆)。
自分で選択した一人の生活、一人の未来も、こんな風に寂しいと、隣人のぬくもりを感じたいと思う時がくるの、かなあ、やっぱり……。

だって本作はやっぱり、家族のぬくもりの物語なんだもん。すみれは、父親からの手紙で、それまでの意地っ張りがくじけて戻ってくる。「て、母さんが言ってた」っていうテレがミソである。
そうして故郷に戻ったけれど、あやめちゃんともなんか上手くいかなくて、出て行こうとするところを、当のあやめちゃんにとっつかまる。
「故郷ってのは、覚悟決めて出て行き、戻ってくる場所なんだよ!!……って、お父さんが言ってた」この台詞を聞いている時のすみれ姉さんは、ほっぺたがギリギリ動いてて、歯を食いしばるようにして泣くのを我慢しているのが、その動きで判って、決定的な台詞を言うあやめちゃん=れいな嬢を凌駕しちゃう。
うん、だって、本作は結局、すみれ=橘麦嬢が実質的な主人公だったと思う、彼女の力でそうしちゃったと思うもの。

ラスト、進学のために東京に出て行ったあやめが、家族からのプレゼントのDVDを見る。それを贈られた時には意地張って見なかったんだろうな。
それまで笑顔を見せていなかった茉祐子が家族の一員としてニコニコ笑っているのも印象的だけれど、あやめの幼い頃の映像が荒いビデオ映像で愛情たっぷり収められているのがまったき大団円にふさわしい。
8ミリのようにも見える画角と荒さだけど、彼女の年代だったら普通にビデオカメラかなあ。8ミリのように見えるから、なんか私ら映画ファン世代にはなんとも胸苦しいような切ない甘やかさ。なんとも映画的、なのよね。

このタイトルは判るようで判らないようで、ちょっと謎な気もするんだけれど??★★★☆☆


祖谷物語 -おくのひと-
2013年 169分 日本 カラー
監督:蔦哲一朗 脚本:蔦哲一朗 上田真之 河村匡哉
撮影:青木穣 音楽:川端啓太
出演:武田梨奈 田中泯 大西信満 村上仁史 石丸佐知 クリストファー・ペレグリニ 山本圭祐 森岡龍 河瀬直美

2014/6/12/木 劇場(渋谷ユーロスペース)
169分という長尺にかなり腰が引けながらも、アンコール上映だし、これは観とかなきゃいけない作品のように思って恐る恐る足を運んだ。思ったよりも169分はあっという間に過ぎたし、思ったよりも学究的な、芸術的な作品ということもなかった。
いや映像はもの凄い。何よりこの舞台がもの凄い。どこを切り取っても凄い映像になるのが間違いないような、まさに秘境。
秘境などとカンタンに言いたくはないが、秘境というものがもしあるのならば、確かにそれはここだろうと思える場所。

しかもこの映像をデジタルではなく35ミリで撮っているというのだから、素人の映画ファンに過ぎない輩にだって、それがどんなにトンでもないことかぐらいは察しがつく。デジタルの方がこの色彩とかキレイに残るんじゃないのかなあ……などと余計なことを思いつつ。
確かにかつてのフィルム映像にあった、その中に何かが隠されているような、奥行きというか手触りというか柔らかさというか、そういうものは、ああ、フィルムだなあと思った。
だからか、こんなにも秘境の環境の厳しさを見事に描きながらも、どこかおとぎ話の様に感じるのは。いやこれだけ秘境なら、もうおとぎ話になるしか、ないんだけど。

でもきっと製作陣は、最初はそんなつもりはなかっただろうと思われる。のは、オフィシャルサイトに残されている言葉からも判る。この秘境の奥の奥にならば、お爺と春菜のように暮らしている人たちがいるんじゃないかと。
でも腐った藁ぶき屋根と廃集落だけだったと。今の日本には、秘境に自給自足で暮らすお爺はいないのだと。

でも、その痕跡があるのだということは、かつてはきっと、いたのだということでもある。そんな人物を探して歩いたということは、製作陣はもっとドキュメントタッチで描くつもりだったのかしらんとも思う。
そもそも、本作の存在自体に、そんな匂いを感じていたので、いざ対峙してみたら全くのフィクションで、どこかおとぎ話の雰囲気まであるから驚いたぐらいなんである。
しかもそれが、秘境の環境が厳しくなればなるほど……そう、本当に驚きの、冬の、雪に埋没していくような描写になればなるほど、そんなおとぎ話感が強くなるのはどうしたことだろう。

それだけ、私ら現代の日本人が、自然の厳しさという、ごく当たり前のことから離れているからに他ならない、なあんてことを書くと、ホントに陳腐でイヤになってしまう。
でもそれを、改めて示すように、ちょっと驚きのラストシークエンスがあるから……それはまた後述としても。

お爺と春菜。お爺は山で木を切り倒して売り、鹿を撃ってその肉をとる。観光客相手の旅館でだってなかなかお目にかからない釣られたいろり鍋で、春菜は夕飯の用意をする。
ごはんに一汁。一菜もないよね、という質素な暮らし。夜にはランプの明かり。現代でまさか、という生活。

だから、おとぎ話みたいと思うなんて不遜かなあと思いながら観ていた。祖谷という地名さえも初めて聞いたという無知への恥ずかしさもあったから、その地にはこんな人たちが実際いるのかもしれないと思った。
遠くに墨絵のようにいくつも重なる山々。天秤で水を汲み、畑にまく。うわ、まるで「裸の島」みたい、と思ったのは、後に大西信満氏扮する、都会から”ドロップアウト”してきた青年、が、それでなくてもへっぴり腰だったのに、急な斜面の畑に天秤で水を運んでくる途中、足を滑らせて苦労して運んだ水をムダにしてしまった場面で。
いや、それでなくても、なんか結構、最初の方から思ってた気がする。この地は四季がしっかりとある美しい秘境なのに、そう、”秘境”なんだもの……。厳しいのだ、厳しすぎるのだ。

四季がしっかりとある美しい秘境。そして鹿や猿などが暮らす自然。だけれども、畑を荒らすそうした”害獣”は、駆除される。それを食用に回すならいいのだけれど、そのまま土に埋めてしまったりもする。
そうした光景は、それこそなまっちろい現代人にはなかなかに厳しい情景であるけれど、自分がなまっちろいと判っているからこそ、マイケルさんたちのように、声高に声を上げるなんてことは出来やしない。

そう、この美しい秘境に、その美しさを純粋に信じて、それを利便性で壊す住民たちにNO!を突きつける、「僕の活動をネットで知って集まってくれた人たち」であるマイケルさん、そしてマイケルハウスの人々。
ドロップアウトしてきた工藤が最初、マイケルハウスに紹介された時にはちょっとヒヤリとした。演じる大西氏自体がそういう雰囲気ではないし……。

ていうかこの人、こういう、ザ・深刻な役でしか見ないんで……いつもビッグネームの相手役で、彼自身熱演なのに、なんか結構ワキに置かれるというか、そんな感があってアレなんですけども……。
そろそろもっと違う面、ラブストーリーとか、コメディとかも観てみたいが……などというのはここでは関係ない話だが、なんか大西氏がいつ見てもこんな感じの役なんで、さすがに気になってしまって(爆)。

で、えーとなんだっけ。そうそう、マイケルハウスね。彼らの登場には、それまで感じていたおとぎ話チックな雰囲気が一蹴される感じがあって、あれ、やっぱりこれって社会派映画なのかも……と思わず背筋が伸びたりもした。
ただこのマイケルハウスの活動は、確かに彼らの信じる正義なのだけれども、「ザ・コーヴ」を見た時のような、幼稚で勝手な容赦のなさを感じて、そう感じる私、大丈夫かな、そう感じていいのかな??とドキドキしたりもした。

でも、きっとそれで正しかったと思う。山の景観を損ねる、祖谷の自然を守れとトンネル工事の入り口で人間バリケードを張る彼らは、だけど真に厳しい季節にはいなくなる。それは、工事を阻止できなかったと言えばそれまでだけど、雪に全てが覆われ、作物も育たず、寒さとひもじさに震える冬には、それぞれの国に帰ってしまうのだ。
彼らの言う、拡大造林が山を死なせ、食べ物を失った獣たちが畑を襲うことになったというのは真実なのだろう。マイケルハウスの人たちと、地元住民はきちんと話し合いの場を持つ。正論はしかし、ならばここで生きていくためにどうすべきなのか、という結論を持たない。

だってマイケルハウスの人たちは、ここで生まれて育って、生きていく人たちじゃないから。
この不毛な話し合いから抜け出した若い青年は、そのどちらの立場でもない。トンネルが出来たらその先の街に出て、つまりここを捨てて違う人生を選ぶ人間だ。
トンネルは、自然の景観を損ねるうんぬんよりも、利便性=人間が出ていく問題に直結していて、それは製作陣が、この秘境にはお爺がいなくなったことに直面したこと、そのものなのだよね。

マイケルさんたちが言うように、トンネルが出来たぐらいで景観が損なわれるとも思わないし、山あいに渡される橋は美しい。そもそも、その損なわれる景観を、誰が惜しむのかと思う……などと言ってしまったらもうおしまいだけど、でも結局はそういうことだよね。
自然は景観のためにあるものじゃないし、そこに人間が住まわせてもらうことになれば、そのままではいられない。
拡大造林がいけなかったというのなら、計画的造林ならばいいというのなら、それは人為的、景観が損なわれるとか、人間の勝手ということにはならないのか。

……おっとっと、なんか思わずらしくない社会派発言しちゃったが(爆)。うん、本作のメインテーマはそこじゃないんだよね、きっと。いや、メインテーマがどこにあるかなんて、そもそも映画にメインテーマが必要かどうかさえ、段々判らなくなってくる。
本作がおとぎ話と感じたもう一つは、ヒロインの春菜が、一緒に住んでいるお爺と血がつながってないこと……物語の冒頭は、急な崖から転落した車の、フロントガラスから飛び出して死んでしまった女性の娘と思しき赤ちゃんが、その先の、凍った川面にはいつくばっていて、それをお爺が発見し、抱き上げるところからスタートするんである。

これをおとぎ話と言わずして何とする、である。この状況で、なぜ赤ちゃんが無キズ(だったかどうかは判んないけど)で、お爺を見上げていたのか、もうこれは、日本昔ばなしでしょ!
そう……観ている間、日本昔ばなしのイメージがかなり頭を横切っていた。この秘境は、山々で構成されていて、それもかなり険しい山々だから、この冒頭のシーンでも、春菜が行方不明になったお爺を探し回るシーンでも、急な斜面に足を取られてゴロゴロ転がり落ちるぐらいだからさ。
だからおだやかな場面では……春菜が学校からの帰り道、道の先にお爺を見つけて、その背中を押して歩く引きのシーンなんて、ホンットに斜面で、山の斜面を直角に登っていくような、日本昔ばなしのイメージそのまんまなんだもの!

このヒロイン、春菜を演じているのが武田梨奈嬢。なんか聞いたことある名前だと思ったら、「 ヌイグルマーZ」の男装の麗人!うおー!!
それでなくても彼女は、アクション女優としてここまでのキャリアを築いてきたというんだから、な、なぜここでこの役!?面白いよなー、こういうの……。
でもそれぐらいの強さがなければ、お爺に田中泯という強烈な存在感と対峙するのは難しいかもしれない。

おとぎ話感を感じたのは、先述したけどこの藁ぶき屋根にいろり鍋のごはんと一汁もそうなんだけど、彼女のモンペ姿だったりもするんだよね。も、モンペ!?とか思って(爆)。
小学校の閉校を描写しながら、少ない人数で学ぶ高校で結構イマ風の同級生の女の子と、彼女の家が経営する旅館で、だだっぴろい宴会場でカラオケに興じる場面とかさ、しかもこの女の子が地元の細眉の青年(先述の、トンネルからここを出ていく青年よ)に「ジャスコ連れてってよ」と言ったり、絶妙に現代の女子高生事情を入れ込んでて上手いんだよね。

でもその中で、やっぱり春菜はどこか浮世離れしていて……ジャスコには勿論いかないし、カラオケも歌わないし、お爺の夕食の支度をしなくちゃいけないと帰ってしまう。
この細眉の青年から、使わなくなった原チャリを譲り受け、運転を教えてもらって登下校に使うシーンなんぞは、秘境&おとぎ話な感をさらに強くする。

公道じゃないこと、そしてやはりどこか、現実、現代感から外れていることが、こうした描写をすんなり入れ込めることになるんだと思う。
実際、春菜がここから出ていくと、……自身も、周囲も、何より観客が、春菜はここから出て行かないだろうと思っていたのに、出ていくと、いきなり現代の都会に生きる女の子になるんだから、やはりここは、そうではない場所、だったのだ。

まさにそんなシークエンスを境に、春菜は都会の女になった。突然いなくなったお爺を探して探して、雪の中をさまよって、通りがかった車に乗ったら、それはきっと、キツネかタヌキかイタチか。
人間が住むと水がけがれる、と言って真顔で振り向いたとたんに、崖からおっこった。気づくと、もう何年もそこに放置されたような、シートはぼろぼろで、枯草が忍び込んでいる車の中だった。
場所は、ああ、赤ちゃんだった彼女がお爺に拾われた場所だよね。でもお爺はいなかった。叫んでも叫んでも。

そして突然、変わるのだ!目覚めた春菜は、いきなり、都会のマンションの一室、といったところ。ベッドには男が一緒にぐーすか眠っている。
え、え、ええ??いくら今までおとぎ話チックだと思っていてもあまりの飛躍に戸惑いまくる。
春菜は満員電車に揺られ、研究所のような場所に出勤。河P直美扮する所長がけん引する、水を、生態系をキレイにしてよみがえらせるバクテリアの研究で、その研究がまさに今、成功したところである。

皆で祝杯を挙げる。しかし、社会の縮図に押しつぶされる。こんな研究がなくたって、この都会の人たちは生きている、と屋上でバクテリアの球を燃やしながら所長は自嘲する。
春菜はとぼとぼと家路に帰る……途中で、橋の上からバクテリアを投げ入れる。橋も川も、故郷のそれとはあまりにも違うものだけれど、そのバクテリアが川の水の中で光る、その先に、春菜は何かを見つける。走り出す。
上着もバッグもパンプスも脱いで、コンクリで固められた都会の川の階段をそろそろとくだる。都会の闇に沈んだ、コンクリ川の側道に、人影のようなものが見える。ドキリとする。春菜がしずしず近づいて行って、傍らに寄り添う……。

ここまでうっかり言い忘れてたけど(爆)、かなり大事なこと(爆爆)。春菜が登校途中に立ち寄るおばあ。劇中死んでしまって、雪の中の野辺送りは美しいが、ここもまた、都会から来た子供や嫁が、墓は近くに移した方がラクだよ、などと言い合っている。このことについてはウチの家族がそうしちゃったから何とも言いようがない(爆)。
そう、うっかり言い忘れていたかなり大事なことは、この墓の問題じゃなくて、このおばあちゃんが手作りのかかし、というか、人間の服を着せたかなりリアルな感じの人形を、家近辺のそこかしこに設置していて、これがかなり怖かった。本当に、ジョークな感じじゃなくて。
お顔はぬいぐるみな人形の感じなんだけど、背丈や着せている服がそのまんまで、なんていうのかな……身の代、というか、そんな感じがしたんだ……。

こけしというのがさ、”子消し”だっていう話もあるじゃない。そんなことも思い出した。この、おとぎ話のような、つまり非現実的な地からどんどんいなくなっていく人間を、まるでミイラのように身代わりに設置している。そんな感じがして。
しかもこの人形たち、動き出すんだもの。その始まりが、工藤が苦労しつくして挫折しちゃった、雪に凍った畑に打ち捨てられたようなかかしがほんのりと動き出すところからだから、本当にぞわりと怖かった。
そこから次々と、打ち捨てられた人形たちが、これがまた、リアルに人形チックな感じで動き出すから、本当に怖かった。この土地を否定しているのか肯定しているのか判らないこの描写が、本当に怖くて……。

だからこそ、春菜が都会ですっかり汚れたこの身の代人形を見つけて、肩車をするようにこの人形と共に故郷に帰ってくる場面、人形だらけのおばあの場面より更に、ゾクリとしてしまった。
もうすっかり春菜は大人になっているし、高校生時代は、特に意識せずに、人形だらけのおばあと親しく会話していたからさ……。
春菜はでも、そういうところがある。その、怖さをあまりピンとこずに、過ごすところがある。でもそれは、確かにティーンエイジャーにあるかもしれない、後から思えばちょっと怖い、ある種の無神経さである。あるいは、それこそが、今は得られない若さの強さなのかもしれない。

そうだ、何より大切な、強烈なファンタジック。お爺の背中に苔が生えて、どんどんそれに侵されていくこと。
春菜はそれを誰にも言えなくて、どんどんどんどん、お爺の背中はしっとり深緑になっていく。春菜は工場でバイトを始めて、お爺との生活の糊口をしのぐ。
時にお爺のお布団にもぐって、このまま一緒でいいよね、お爺、とつぶやく。
これは、これは……やはりおとぎ話ではないか。血のつながらないお爺と孫娘の愛の物語。いつもいつもさびれた祠にお参りしていたお爺の思いが届いたような、奇跡的なラストは、私の思い違いかもしれないから、うっかり言えない(爆)。

私ね、裸足の春菜がトンネルを抜けて、たどり着いた時点で更なる超絶おとぎ話だと思ったし、お爺、と彼女が呼びかける姿が本当にお爺だったのかはかりかねたから……そっからもう、よっしゃ!てな空撮のドーンと引き引き!になったから、なんか自信なくてさ……。
だって、大西氏扮する工藤があんまりにもこれっきりな気がしたのもあって、この若く見えたお爺が一瞬、工藤なのかなとも思ったから……でも違うよなあ。

これじゃ、どう結末をつけていいのか判らない。ただ、何か胸かきむしられる、懐かしさのような、憧憬のような、残酷のような、ただただ美しさのようなものがあった。それだけは確かなこと。★★★★☆


イン・ザ・ヒーロー
2014年 124分 日本 カラー
監督:武正晴 脚本:水野敬也 李鳳宇
撮影:木村信也 音楽:イ・ドンジュン 
出演:唐沢寿明 福士蒼汰 黒谷友香 寺島進 日向丈 小出恵介 加藤雅也 及川光博 和久井映見 杉咲花 松方弘樹 草野イニ イ・ジュニク

2014/9/18/木 劇場(丸の内TOEI@)
まあ普通……という具合に片づけてもいいような気がしたが、なんとなくいろいろと引っかかってしまった。
この映画を観る直前に上司と世間話していて、「日本映画は決まってお涙ちょうだいの話ばかりで見る気になれない」と話していた人がいると言っててね。
いやいやそんなことはない、千差万別、いろんな映画があるよ、とまあまっとうに私は反論したのだけれど、確かにいわゆるテレビ予告にかかるぐらいのバジェットの日本映画は、そんな傾向は確かにあるのだ。でも本作は違うと思っていた。

日本独自のサブカル、特撮ヒーローものに欠かせないスーツアクターの世界。その世界に50の声を聞いてもこだわり続ける一人の男が主人公。
職人気質やスタッフを大事にする気持ち、そして完全主義の裏方気質は実に日本的。
クールジャパンのひとつとして世界にも出したいと思える、この企画アイディアはとても面白いと思ったし、私の好きなタイプの、人情喜劇というか、泣けるとしても笑って泣けるタイプの映画だと思っていた。

そう、言えなくは確かにないんだけど。でも唐沢氏主演なら、それをもっと追求出来たように思う。正直、凄く予測通りに話が進んでいくもんだから、いや、もうちょっと……という気持ちが一番だった。
いやいや、予測通り進むというのは、決して悪いことではないとは思う。意表をつくばかりが、作劇の面白さではないと思ってる。
昨今は、とにかく意表を突くこと、どんでん返しばかりをネラう作り手……特に頭の良さそうな若手作家にありがち……なんだけれど、観客は必ずしも予想を裏切ることばかりを求めてはいないのだから。
王道、お約束、その先のお涙ちょうだいは、決して悪いことではない。んだけど……。

それは私が、映画を観る直前にそんな世間話をしてしまったから悪かったのだろうか??
でも脚本家のクレジットを見てあれっと思った。とても見覚えのある名前ではある。でも、脚本家として見覚えがある訳じゃないよね、と思う。
日本の独立系映画の一時代を築いた名プロデューサーが、脚本のトップに名を連ねている。思わず、あれれ、この人、脚本家スタートだったのかな、と慌ててプロフィルなんぞを調べてみたが、やはりそういう訳ではない。
もう一人脚本担当が名を連ねているから、こちらがサポートなのかなと思ったが、そのもうお一方も(あくまで私の狭い知識では)微妙な経歴のお人である。

うーーーーん……この“凄く予測通りに進む”お話が、その気持ち良さの方向ではないことは、この辺に原因があるのだろうか……なんて思うのは、すんごく先入観たっぷりだってことは判っているんだけれど……。

でも誰もが思いつくじゃん。

50の声を聞いても貧乏ボロアパート暮らしのスーツアクター。仲間たちからリーダーと慕われている彼は、若手人気俳優がナマイキな態度をとるもんだから老婆心(婆じゃないけど)でスタッフの苦労やチームワークなど聞かせてみても聞く耳持たずで、仲間たちもご立腹。
しかしその若手役者は彼らのプロ意識に目を覚まされ、真摯に特訓に励むようになる。
一方のリーダーは命の危険さえある大きな仕事が舞い込み、悩むも「自分のために」と挑戦、見事成功し、家族ともども涙する……。

なんてさ。

うーん、でもこうして書き出してみても、それ自体がそうそう悪いこととも思えないんだよね。やはり見せ方、なんだろうか……。
いや!でもこの若手俳優の設定は、やはりあんまりだと思う。そらー、確かに福士蒼汰君は、この条件に皮肉なほどピッタリくるような、今最も旬な俳優ではあるよ。皮肉なほどピッタリくる、ってあたりを、もっと突き詰めても良かったんじゃないかと思うぐらいだよ。

なんたってあの、あまちゃんの先輩なんだからさ!(見てなかったけど……)。そうか、案外突き詰めてなかったもんだから、あんまりピンと来なかったのかもしれないよなあ。
ここまでピタリとくるタイミングの役者さんなら、セルフパロディぐらいやっても良かったと思っちゃう。いや、製作時期がそれを出来るタイミングじゃなかったらどうしようもないけど……。

いや、そこんところじゃないのよ。あんまりだと思ったのは。セルフパロディじゃない、いわゆる“生意気な若手俳優”としての単純なキャラへの不満は確かにあったよ。
特撮を子供のものだとバカにしたり、スタッフの仕事を軽く見たり(小道具を粗末に扱ったりね)とか言うのは、すんごくありがちじゃん。
ガムをかんでるとかいうのもね。歯が白くなるからハリウッドセレブは皆噛んでる、つー説明じゃあ、後の伏線としては頭悪すぎるしさあ……。

いや、だからそれも違うんだって(爆)。なんか色々言いたくて、どんどん脱線していっちゃう……。
あんまりだと思ったのは、彼が“突然姿をくらました母親に替わって、幼い弟妹を育てている”という設定よ。同情しどころというか、泣かせどころをそんなところに持ってくるところよ。

序盤戦で、この若手俳優……そろそろ名前言おうか(爆)……一ノ瀬リョウとちょっとだけ心通わすシーン、大衆居酒屋で、唐沢さん扮するリーダー=本城渉が彼の夢を聞き出す。
「アカデミー賞を獲ること。勿論、アメリカの」それを聞いて、「最高の夢、持ってんじゃねえか」とリーダーは彼の肩を叩くのだ。
正直、これだけで充分じゃんかと思っちゃった……後に、姿をくらました母親だの、幼い弟妹だのの設定が出てきた時には。

売れっ子の若手俳優なのに、セコく弁当を三つも持って帰るのは、この幼い弟妹のためだと言うのには更にケッと思ってしまった。
いまどきの男の子なら、ちょいと料理を作るぐらいのシーンを見せろよと……。ちょっと時代錯誤よねと感じる。後に、黒谷友香姐さんが料理の腕を振るう場面が出てくるに至って、余計にそう感じる。

大体、姿をくらました母親が、「アメリカのどこかにいる」って、それはいくらなんでも……。本作のオチ(もはや感動とかハッピーエンドとか言いたくない……)のためだけの設定としか思えない。
つまり、男を追ってアメリカに行ったと?まだ可愛い盛りの子たちを置いて?なんか女をバカにしてない??

いや別に、男を追って、と言っている訳ではないのだが(爆)、ここまでお約束な展開だとそういう雰囲気を感じてしまう。
んでもって、こうして苦労しているリョウ君がそれでも、「恨んでない、って伝えたい」って、何それ、男は寛容だって、言いたい訳??
一体どういう思考回路なら、まだ役者として新進の彼が、超ナマイキな態度をとってスタッフたちを怒らせている彼が、そういう達観に至る訳よ?

そもそもさあ、幼い弟妹を抱えて苦労している、てな設定なのに、ゴーカなマンション暮らしってのは、一体どういう状況なの。
今までの生活を保持しているという雰囲気は感じるけれど、保持できる、ってことは、出て行った母親は資金的な援助は残していったということなの?
そもそもこの家族の実父は?実父が援助してるの??そういう“??”を観客側に残すのは、一番やっちゃいけないことだと思うんだけどなあ。

主人公は唐沢さんなんだから、こんなところで足踏みしていちゃいけない……。でも、この本城さんに関してこそ、色々と思うところがあった。
何より、本作は、唐沢さんがどこまでノースタントでやっているかということばかりが気になって見ていた。

この本城という人物に、確かに唐沢さんは理想的だと思う。アクションクラブでスーツアクター出身の人気俳優なんて、そうそういないだろうと思う。
それこそ劇中、「スーツを着てるからこそ表現力が大事になる」という台詞は、本作のテーマにも通じるところであり、そのルーツを持つ唯一の俳優と言っても過言ではないと思うから……。

確かに、いまだ衰えぬ唐沢氏の身体能力には舌を巻くばかりだった。確かに確かに、リーダーと呼ばれてアクションクラブの皆から慕われる本城、であった。
本作に際しての特訓は確かにあったとは思うけれど、通常俳優(?ヘンな言い方だが)になってからも、トレーニングは続けていたんじゃないかと思えるキレだった。それも、判り易くストップモーションとかで見せつける訳じゃないからこそ、リアリティがあった。

後からオフィシャルサイトの写真とか見ると、改めて判るんだよね。若い福士君より、より、というか、及びもつかないほど、ハイキックの足がきれいにまっすぐに上がっている。腰の位置が決まっている。走り姿に、美しさと、それだけじゃない重い存在感がある。
それだけに、この本城という、スーツアクター、アクションスターの夢を追い続ける男を、どこまで唐沢氏が体現できるのか、という興味にこそ、本作の見どころはあったと思う。
それこそ、この映画をアイディア、企画倒れにしないためには、それはとても重要だったと思うんだけれど……。

本作のクライマックスは、リョウがオーディションに通ったハリウッド映画の“ノーワイヤー、ノーCG、ノーカット”のムチャぶりアクションシーンに、ハリウッドスターも怒って帰っちゃって、このままだと日本シーンがまるまる削られることになるという危機に、伝説のアクション俳優、スターではない、スーツアクターの本城氏が抜擢されるという場面に他ならない。
ブルース・リーに憧れて夢を追い続けてきた彼にとって、またとないチャンスだが、首に致命的な古傷を抱え、これまでもギリギリでやってきた。
別れた妻にキレ気味に反対されたことをはじめ、リョウの合格がアクションクラブの役者の士気をそいだこととか、色んなプラスマイナスに苦しんだ末、本城氏は、“自分のために”と、この仕事を引き受けることにするんである。

そうそう、別れた妻、である。これもねー、……ま、お約束というか、王道と言えるほどのもんだったら、良かったんだけど。
いい意味の年相応の可愛らしさで年を重ねた和久井映見がホント、可愛くて、ああ、いいなあ、と思うんだけど、“老母に高価なマッサージチェアをプレゼント”するような実業家の登場はど、どうなの(爆)。
確かにこれもお約束な判りやすいキャラだけど、お約束すぎるほどのキャラだから、しかも演じるのがミッチーという徹底ぶりなら、もうこれは、半ばギャグでしょ。

東京とはいえ見るからにさびれた下町商店街、ミッチーは、まあつまり、成功した個人実業家ってなキャラなんだろう、坪単価だの利益率だの持ち出して、地域の薬局の役割は行政の問題、と切って捨てる。
……まあ、この言動に素直に憤られれば良かったんだろうが、そりゃムリだって……。

そりゃね、わっかりやすく、憤りやすい設定にはしてあるよ。和久井映見が切り回している小さな薬局は、いかにも地域に何代目かって感じて根ざしてる。つまり、地元に古くから住んでる年寄りしか来ない。利益は上がらないだろう。
でも、必要性という点では??……とゆー、夕方の情報番組あたりで取り上げられそうないかにもな感じよ。

勿論、切実なことだとは判ってる。でも判ってるからこそ、ここでの取り上げ方は、夕方の情報番組……より劣ってるのさ。
だって、メインはスーツアクターの話だからさ。でもね、優れた映画は、メインテーマがどこにあろうと、ツッコミどころがない筈なんだけどねっ。

やっぱりさあ、クライマックス、なんだよね。命を賭けて本城氏が挑んだ、ノーワイヤー、ノーCG、ノーカットのクライマックス。
スタンリー・チャンが日本で撮るんだ、と知って以来、ソワソワだった本城氏の、一世一代の場面だ。
実名で出てくる大スター、松方弘樹はじめ、辞めた筈の後輩以下、本城氏を慕うメンメンが黒々と集まってくる画は確かに感動的で、もうここでさっさと泣いとけば良かった(爆)。

やっぱりね、あれだけ最初から、ハリウッド監督がノーワイヤー、ノーCG、ノーカット、とこだわっていたからさ、無意識の中でも、それを期待する気持ちがあったんだよ。
ノーワイヤー、ノーCGはまあそりゃー、余裕でクリアさ。でも、ノーカットは……。

劇中映画とはいえ、この場合のこだわりは、ノーカットこそだったんじゃないかと、思う訳。映画好きが最初にぶつかる、名画の条件さ。それに反発するところから、オタク道、もとい(爆)、映画ファン道は始まる訳さ。
カット、つまり編集こそが映画だという向き、いやいや、ノーカットの臨場感を使えてこそ映画芸術だという向き。
……私はね、前者だったのよ。だった、つーか、なのよ。映画は編集してナンボだと、思ってる。ロングのワンシーンワンカット、大嫌い。たまにそれを魅力的に魅せられると、悔しくてたまらない(爆)。

だからこそ、設定上はワンカットだったシーンが、めちゃめちゃカット割られると、“判っちゃいても……”すんごいガッカリしちゃう……。
本作の最初からなんとなーく思っていたこと、なんだけど、この企画アイディアは確かに秀逸だけど、これを大バジェットでやっちゃうと、逆に失敗しちゃう……それは言い過ぎかもしれんが、カンペキを期待する映画ファンにとっては、失敗に終わったと言われそうな感じがしてた。
いや、決して私はそんな、志の高いファンじゃないけどさ(爆)、でも何を差し置いても、このシーンだけは、ワンカットで見せるべきではないかと思った。

いやそりゃまあ、一番のキモ、ワイヤーなしで落っこちる場面はナシにしてもよ。それこそ死んじゃうもん(爆)。
でもここまで細かく、それこそハリウッド映画だよねってほどカット割られちゃうとさ、このシーンのそもそもの成り立ち、基本、重要性をやる気がないんじゃないのと思ってしまう。
言ってしまえば、キモのシーンで死んでもいいぐらい頑張ってくれれば、後のシーンがどうなってもいいと思うが(爆)、これじゃ最初からやる気ナシだと思われても仕方ないじゃん……。

しかも、ここまでは、トレーニングのシーンとかなら問題なく、って程度だけど、唐沢氏のノースタントを確認も出来たけど、目だけ出した“白忍者”でカット割り割りじゃあ、型だけじゃんとか思っちゃったら、もう確認しても仕方ない、って見る側のやる気もすっかり薄れてしまう。一体何のために、本作を作ったの、って思っちゃう。

武士道、そしてその基本となる有名な言葉。もはやこれは、その道を究めようとする外国人の方が理解してるぐらいだから、こんなとこでウッカリ言えないよ。
ああ、なんだろ……。これ、インディーズの方が良かった気がするなあ。マジに今の年までプロでアクションやってる人を、その愛すべきバカさを見たかった。
あるいは、もうちょっと若い頃の真田広之とかで見たかった。彼ならワンカット、顔見せでやれただろうなあ、なんて。そういう企画だったと思う。

離婚してなかなか会えない愛娘とのシーンとかも、ねえ。父親のハズかしい正義感を示すファミレスのシーンは、ここで笑わせてほしかっただけに、かなりキビしい。
高圧的な客に泣きそうに困ってるウェイトレスを助けるために立ちあがって、逆に迷惑がられる、という王道のシーンなのだが、ちょいとカンフーアクション見せたぐらいで、あれだけ泣きそうに困ってたウェイトレスが「警察呼びますよ」と逆転するのは、解せない&笑えないわ。
それともあれがおばちゃんウェイトレスだからだというのなら、これぞ単純、女性蔑視でフェミニズム野郎は黙ってないからね!

唐沢氏はこなしてるし、面白いけど、やっぱ老けてる、若い人(福士君)と並べると(爆)。
いや、それでいいのか……この趣旨だと……。今の時代、色んな年代が主人公となるべきだとは思うが、こう、高画質で見せられちゃうと、なるほど、若い人が美しい肌でメインを張るのは確かに判る(爆)。

面白かったのは、ピンク役、つまり女性役としてスーツアクターやってる寺島進。これは絶対、彼のキャラとのギャップを狙ってると思ったら、本当に寺島氏自身、そういう経験があるという。ビックリ!
ラストクレジットに、特撮史の中の様々なプライベートフォトが登場し、若き日の唐沢氏、寺島氏の2ショットが、……あれは、合成……かもしれないけど、スーツアクター時代の二人であることに間違いはなかった、と思う!なんかカンドー!!★★☆☆☆


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