home!

「こ」


2022年鑑賞作品

恋するオヤジ ビンビンなお留守番
2015年 70分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:五代暁子
撮影: 海津真也 音楽:大場一魅
出演:由愛可奈 松井理子 山口真里 那波隆史 竹本泰志 野村貴浩 松本渉 佐々木麻由子 佐倉萌 和田光沙 東二 小関裕次郎


2022/5/10/火 録画(チャンネルNECO)
ちょっと待ったちょっと待った。いくらなんでも那波隆史氏に75歳の老人を振るなんてそんなムチャな。フツーに美中年、年相応の渋い色男、今だって50を少し過ぎたあたりの、本作の時はまだ40代後半ではないか!!
髪や髭が白くたって(染めたのかなあ)差し出された手が若いんだもの。肌が。そんなムチャな。うーむそらまあ那波氏のファンだし彼の出演は嬉しいにしても……。
姿勢や喋り方でなんとかかんとかおじいちゃんを演じてはいるけれど、スッキリスリムな細マッチョの体格だって何もかもがステキなイイ男なのになあ。

しかも彼にはほとんどカラミが振られない。妄想の中でヒロインであるゆうなとソフトタッチな戯れをする程度である。しかも自身が若い頃で妄想している。
彼のリアル年代が全く反映されない、妄想と現実。この美中年をもうろくしかかったおじいちゃんに仕立てるなんて……せめてリアル年代で妄想してほしかった……いやだって 那波氏はめっちゃイイ男だからさあ……もったいないんだもんなあ……。

なんてことばかり言っていても仕方がないので。那波氏が演じるのは妻に若くして先立たれたやもめ男、泰三。三人の娘がいるけれど、今、腰を痛めた泰三を見舞ってくれているのは末っ子のマリだけ。
しかしそれも同居と介護という大義名分の下に隠された、マンション購入のための演技だと化けの皮がはがれるし、この事態を知らされていなかったと怒る姉二人だって、怒っているのはがめつい妹に出し抜かれたことだけであって、泰三を慮ってのことじゃないのだ……。

見舞いに来てくれていた時には泰三の好きな和食をあれこれ作ってくれていたマリなのに、一緒に暮らし始めてからは、夫の好きな脂っこい洋食ばかりで、好きなものを買ってくればいいじゃない、とにべもない。

居場所のない泰三が出会ったのが、犬の散歩をしていたゆうなというはつらつとした美女。しかしそのはつらつさは外見ばかり。
実はヒモ気質のクズ男に捨てられた矢先、その男と暮らすために借りただだっ広い部屋で、自殺するための青酸カリを実家の工場からくすねてそれをお守り代わりに生きているぐらい、病んでいたんであった。

泰三は妻と同じ誕生日で、「自分より先輩」な老犬をいつくしむゆうなと、というかゆうなの方がおじいちゃん、おじいちゃんと慕って、不思議にウマがあって、ゆうなの部屋でお茶したり、手料理をふるまわれたりするようになる。

ゆうなが泰三のことを最初から、まぁつまり、愛犬がまとわりついた時から、おじいちゃん、と呼びかけているんだから、彼女の眼には正しく、世間でいう近所のおじいちゃんに見えるという設定なのだろう。
でもさ、あーもう、私にはそうは見えないから、最初からこの美女とのあれこれが脳内妄想再生開始されちゃうからさ!

でも結局は、そうはならなかったんだよね。少なくとも物語上の中だけでは。かなりビックリな展開になるし、ラストはつまり、一人では広すぎるあの部屋の家賃を払う泰三、つまりそういう未来が見えている訳だけれど。
それはあくまで心を通わせた二人が、同棲でもない、同居ですらない、恐らくちょこちょこ訪ねてお茶してごはんしてぐらいの、今までと変わらぬ関係性なのだろうと想像される。

ゆうなが泣きじゃくりながら抱き着く時やはり今まで通り、おじいちゃん、と呼びかけるのだし、少なくとも彼女にとってこの時点での泰三は、私のことを判ってくれる信頼できるおじいちゃん以外の何者でもなかろう。
が、その時泰三の頭の中には亡き妻からの天の声が降ってくる。「あなた、がんばって」と。泰三はその言葉を受けてそっとゆうなの背に手を添えて、恐る恐る抱きしめる。それが、未来への扉を開く光明を思わせる。

で、ビックリな展開よ。ほぉんと、ビックリ。泰三の励ましで次第にゆうなは元気を取り戻し、一人旅に行って、その後職探しをします、と宣言。
もともとゆうなは看護師で、その稼ぎを当てにしてクズ男に狙われたのであった。傷心から仕事を辞めていたが、看護師は人手不足だし、きっとすぐに見つかると思います!と明るい笑顔で泰三に言う。

その旅中、愛犬の世話をお願いします、と言うのであった。そのシークエンスの前に泰三が、かつて空き巣稼業をしていた男という、見るからに怪しげなチャラ男と場末のスナックで知り合っており、なんでまたこんなキャラぶっこんで来たんだろ、と思ったら、ゆうなからのこの話で即座になるほど!と思った。用意周到に、泰三の置き忘れ癖が描かれていたから。

財布、携帯、焦って探し回る泰三がコップを割ってしまったりして、それが休日の早朝だったりして、娘夫婦にガチギレされる。ついには子供のように財布と携帯を首から下げられるという屈辱に屈するんだけれど、それでもゆうなからのお願いに有頂天になっちゃって、その大事な鍵をなくしてしまう、のだ!!バカバカ!!
結局空き巣男にピッキングを頼んで、法外な報酬を請求されて、呆然自失で腰を抜かした泰三の、スウェットのゴムの間から出て来たんであった。「なんでこんなところに……」

あくまで泰三はもうろくしかかった老人であり、その周りでマリと夫とか、ゆうなと元カレの過去回想とか、空き巣男とバーのママとか、セックスそのものは見慣れた人間関係の中に当然組み込まれるものとして描かれる。
セックスがどう描かれるかによって、その作品の立ち位置が図れるというのがピンク独特の魅力で、本作においては、これは恋愛でも性愛でもなく、現代日本のある一ページを切り取ったものであり、ピンクらしいものを見つけるならば、泰三が友人の自慢話として聞く、娘婿と風俗に行った話、それをマリの夫に頼もうとするエピソードぐらいなもんである。

マリの夫は妻が初めての相手、風俗なんてもってのほか、妻以外とセックスするなんてことは想像にものぼらないガチガチの教職者。まぁそれは理想の夫、理想の男なのかもしれんが、なんたって本作はピンクだから、本来なら娘の夫として喜ぶべき考えのこの娘婿から、泰三が目を白黒させて退散するのが可笑しいんである。
でも現実にはそういう例もなくはないのかも。娘を持つ父親は、娘の夫となる男に対して清廉潔白を求めがちに思われるけれど、実際にマジに清廉潔白な男であることをこうして突きつけられると、それはそれで、なんかなぁとなるのかも。人生の酸いも甘いもまるで判ってないってことになるからさ。

だったらゆうなを捨てたクズ男に100%怒っちゃうのはちょっとした矛盾だともいえるんだけれど、ゆうなは娘ではなく、妻を投影する相手だったから。妄想はあったにしても、決してやましい目で見ていた訳じゃない。心配して、立ち直ってほしい、そう純粋に思った相手。
せっかく彼女が立ち直るきざしを見せたのに、鍵をなくしてしまってどうするのかなあと思った。もちろん、わんこを救出するのは当然、でも空き巣男にピッキングで開けてもらって、鍵がないんだから閉められないんだから、その後どうするのかと。
でもそんなことを考える暇もなしに、この空き巣男に脅された。とりあえず100万な、と。金目のものを物色する彼は戸棚の奥に置かれたヘネシーを見つけて、にんまりとそれを持って帰った。とりあえずだからな、と泰三に念を押して。

ホンット、この時点ではどう転ぶのかサッパリ判らなかった。中盤までは辛辣な娘(プラス娘婿)との現代社会の問題を映し出すバトルがあるものの、そっからいきなりサスペンス風味に転がっていっちゃうから。
その中でピンクとしてのカラミを妙にきっちり、配置のバランスも良く入れてくるあたりベテランの池島監督らしくてちょっと笑っちゃうぐらいだが。
でもそう……だからこそ、こんな無茶ぶりなキャスティングを那波氏にしたのかな、それができるのがベテランということなのかな。

ゆうながこっそり隠していた青酸カリは、そう、確かに彼女のキャラでは所有しているのさえ不思議なヘネシーの中に忍ばされていたんであった。
とりあえずの100万円を用意した泰三がスナックのママから知らされた、空き巣男の“自殺”。

この事実に泰三はおどおどながら次第に笑みを浮かべたけれど、この表情のチョイスというか、演出のチョイスは、うーん、尺の限られたピンクだし、例えばゆうなのクズ男はクズっぷりを示すためにあまりにも単純バカに造形されたりもしたからなかなか難しいところではあるんだけれど、ちょっとゾワッとしたかなあ。
だって、この空き巣男の言い分はそんなにムチャでもないんだもの。空き巣からは足を洗ってカタギになっている。それを、再犯させたのだから、2万ぽっちのはした金で済むと思ってるのか、と。
事前に金額の交渉をしなかったのは、脅しで釣りあげられると見込んでの、プロとしてのこの男の計算だろうし、ど素人でゆうなと彼女の愛犬のことしか考えられない状態の泰三に、そんなことが予想できる筈もなく。

でも、神様は泰三に味方したということなのか。この空き巣男はヘネシーに忍ばされた青酸カリで死んでしまった。旅から帰ってきたゆうなに泰三は言った。青酸カリは捨てたよ、と。マリオ(愛犬の名前)が教えてくれたんだよと。
そして、先述のラストに至る訳なのだが、あまりにビックリな展開だし、泰三がそれを罪悪感なしに、むしろほのかな喜びをもって受け取ったのがなんかちょっとショックだったりしたし、どう飲み込んでいいのか……。<> あ、和田光沙嬢が出ていたね!!この当時からピンクに参画していたんだ。空き巣男の交際相手、でもカラミシーンはなし。ちょっと、新鮮だったなあ。★★★☆☆


恋するふたり
2018年 90分 日本 カラー
監督:稲葉雄介 脚本:大浦光太
撮影:葛西幸祐 音楽:Paranel
出演:染谷俊之 芋生悠 田中日奈子 西川俊介 高木渉 山下容莉枝 星野真里 石井智也 井澤勇貴 森崎りな 岡野陽一 笠原崇志

2022/5/11/水 録画(TBSチャンネル1)
空気の読めない男と空気を読みすぎる女。なるほど、そういう対照として考えれば納得がいく。ただ、サチコの方の性格は充分に理解できるというか、多かれ少なかれ、ことに日本人はこんな気質を抱えているから。
でもカタギリときたら、空気が読めないというよりは自分の言いたいことは100%通す癖に、人の言うことを一ミリも聞かないという、ただのワガママ男にしか見えないもんだから、物語もかなり後半になって、彼の性格になんとか慣れてくるまでは、本気でイラッとしちゃう。

でもだからこそ成功なのかなあ、どうなのかなあ。この自己中男を笑って見てられる方が正解なのか、どうなんだろう。
演じる染谷俊之氏は私、まったくの初見。微妙な具合のイケメンさんで、その微妙な具合が確かにこの自己中男にピタリとくる。つまりまんまと私は策に陥っちゃったのかもしれない。

恋するふたり、というタイトルは彼ら二人のことに他ならないけれど、恋人じゃなくって、お互いに別の人に恋している。結局は二人とも片思いである。両思いだと思っていたのに片思いだった、というところまで一緒である。付き合っている、婚約していると思っていたってとこまで共通している。
つまり彼らは、対等な恋愛、継続している恋愛だと思っていたのが、対等じゃなかった、終わってしまった恋だということにそれぞれに直面するのだ。お互いに、恋の未熟者だったのに、それをお互いバカにしあっていたのに。

不思議な出会いである。そもそもはカタギリのおバカな勘違いだけれど。サチコはバンドマンのマヒロと付き合っている。付き合ってる、のか?というのは冒頭から観客に疑問を抱かせる。
サチコの差し入れに文句をつけ、サチコを差し置いて仲間と牛丼を食べに行ってしまう。彼女がお弁当を作ってきたことなんて知る由もなく。てゆーか、サチコの存在を丸無視である。

最初から、あーあこれ、全然恋人関係じゃないじゃん、と思って見ているのに、いざ浮気疑惑が浮上すると、マヒロの顔を見たとたん頬をぶん殴るサチコに結構ビックリする。
それが出来るなら最初からそうしたらよかったのに……と思うが、その勇気が出たのは、自己中男、カタギリの影響が着実に出ていたのかなあ。

カタギリは、サチコのバイト先に突然現れる。くっだらないマニュアル通りの声出しルーティーンにサチコがいまいち乗っていけないのを店長から叱責されているところへ、突然乗り込んでくる。
確かにプチ新興宗教じみたルーティーンは気味が悪く、サチコを強引に連れ出したカタギリにこの時ばかりは爽快感を覚える。しかしまあその後は勝手なことばかり、しかも相手の反論を一切受け付けず、マシンガン、いや、バズーカのように理想論を展開するコイツに疲れ果てちゃう。

ああでも確かに、理想論、なのだ。こうできたらいいけれど、出来る筈がないとサチコ側、いわゆる常識人側は決して言えないことを、コイツはあっさり、言っちゃうのだ。結局はお前もな!とこっちは心の中で毒づくのだけれど、コイツはマジにそれが通ると思ってる。
そう考えればうらやましい……のか??でも結局それは、それを言えない、出来ない人間に対する全否定で、彼はずっとずっと、人を傷つけ続けてきたのだろう。だからこそ婚約者(と思い込んでいただけなのでは……)のフミカに捨てられたんじゃないの。

カタギリはフミカとマヒロとのツーショット写真をゲットして、それだけで浮気相手がコイツだ、と決めつける。突然連絡がつかなくなり、行方のしれないフミカを探して、マヒロと付き合っているサチコに行き当たる。
バイト先からサチコの腕をつかんで連れ出し、サチコのことなら何でも知ってる、とプライベート情報を次々と繰り出すカタギリに、最初は恋のトキメキかと思いかけたのが、だんだん気味悪くなってきちゃう。サチコのフェイスブックの情報を熟知してるんである。

カタギリは、フミカが浮気した相手と付き合っているサチコに、彼氏に浮気させたオマエにも原因がある、とムチャクチャなことを言うのだ。
だったらおめーだって、とそらーサチコだって言いかけるけれど、言い訳なんて聞きたくない、とピシャリと遮断。おめーの言うことこそが全部いい訳じゃねーかよ、当然言いたくなるわけさあ。

そんな具合なので、ほんっとに、カタギリに対してはずうっとイライラしっぱなしである。じゃあサチコに共感できるのかというと……それも微妙である。勝手なことばかり言うカタギリに、でも、だけど、とくちごもり、カタギリに論破されるのも仕方ないような、ことなかれな意見しか言えない。
だから結局、結局結局、カタギリにイラッとしちゃうのは、彼のような自信マンマンのヤツに、サチコのように立ち向かえないのはまさに自分自身、そうなのだからなのだ。ああクヤシイ!論破し返したいのに、出来ない!!

でもほんっと、カタギリはアホである。婚約者だと思っていたフミカ、写真一発で浮気相手だと思っていたのがただのファン、その思い込みで、サチコは思いがけずマヒロが既婚者だったこと、自分こそが浮気相手だったことに直面して愕然とする。
不倫だけは許せない、女は絶対に相手の不倫に気づくし、既婚者と付き合っている女性も気づかない訳がない。ただ見ないふりをしているだけだ、とカタギリに言ってのけた直後だったから。

サチコの言い分は判る。確かに女より男の方がことこういう方面に関しては特に鈍感だと思う。
でもサチコは、まだ女としては途上だったのだ。相手と対等な恋も出来ていなかったのだから、気づかないのも当然だ。そしてそれは、カタギリはそれ以上な訳で。

フミカがマヒロと浮気している、行方をくらましているのは楽曲制作のための合宿旅行に連れ込んでいるんだと断定して、カタギリは強引にサチコに運転させて乗り込む、というのがまず最初の旅である。そうこれは、サチコとカタギリのロードムービー。レンタカーを借りて、閑散とした田舎町をぐるぐる迷いながら、口ゲンカしながら。
サチコはバイト中連れ出されたから、その居酒屋の制服である。東北の田舎娘みたいな、それこそ彼女が趣味でコレクションしているというこけしみたいなスタイルで、一方カタギリはダサ派手な蛍光水色のジャンパーを着ての旅である。

合宿先に乗り込んでもマヒロもフミカもいない。そもそもカタギリの思い込みだったんだから、フミカがいる筈もない。マヒロはメンバーと衝突して出て行ってしまったという。サポートメンバーであるギタリスト女子は、今度こそというウンザリを全面に押し出して、出て行ってしまった。
カタギリがエラソーに繰り広げる、大したことないバンドなのに気取っちゃって、さっさと見切りつけた方がいい、というぶった切りは、だったらおめーはどうなんだよ!!と言いたくなった瞬間、あ、カタギリは別に同業者でもなく、ほんっとに彼のフラットな目線で正直に言ってるだけなんだ、そしてそれは、公平な社会の目線なんだと思い至る。

ムカつきながらも、誰からも言われないまま、ずるずると夢を見続けて、自己満足と過大評価に慢心して、カタギリの言うように、その先の人生に進むタイミングを逸してしまったら、と思ってしまうと……。
でもそれがカタギリから言われるからムカつくんだ!!だって彼は神の目線で言ってるけど、彼自身、何もなし得てないんだから。まさに後半パートでそのことに直面するんだけれど。

サチコがマヒロと決別、今度はカタギリがフミカとの関係を確認する後半パートの旅である。もうここに至ると、サチコはすっかり強くなっていて、カタギリに言い返したり、フミカを探そうと彼を説き伏せたりするパワーを身につけている。
カタギリは口ばかり達者だけれどほんっと常識に欠けていて、アラサー男で実家暮らし、定職につかず、カタギリ語録を出版するのが夢、とくっだらないブログをサチコに読むよう強要する、これはイタいわ、ダメ男だわ、と一から十まで思わせるヤツなんである。

なのにフミカに対してはやけに弱腰。いやでもそれは、恋する人間、片思いであることに気づいていないサチコもカタギリも、気づいていないと言いながら、そこに不安を抱えていたからこそ不安、だったのだろうな。
サチコがマヒロの浮気の現実に直面したがらなかった時とコピーのように全く同じく、あの自己中男が、フミカの実家に乗り込むことに、ひどく怯えるのだ。それまでは非常識マンマンだったくせに、突然常識的なことを盾にして、言い訳にして。

この時にようやく、カタギリを好きになれた、気がする。いや、てゆーか、お前にも判っただろ、と溜飲が下がる気持ちというか。
しかしいざフミカの両親と対峙してみれば、いつものカタギリ、自分の主張を通すだけのカタギリに戻り、うっわ、やっぱコイツ、ダメだと一瞬思いかけるんだけれど……そこに当のフミカが登場するんである。

近寄らないで!と制し、お腹に赤ちゃんがいるという。俺の子?と問うカタギリに、いやいやいや、あんたとヤッた覚えないから、と。
えっえっえっ。ヤッた覚えない、それで婚約者?カタギリが婚約したと思い込んでいただけなのは想像できるにしても、付き合ってたんならヤッた覚えがないというのは……そもそも付き合ってすらなかったのでは??
そこまでは言い過ぎかな、とっくに終わってるんだとフミカは言ったのだし、付き合ってはいたのだろうが……。

妊娠したことだけではないんだろう、フミカがカタギリの前から姿を消したのは。彼女がハッキリ言い渡すように、無自覚に人を傷つけるカタギリに、たまらなくなったのだろう。
まさにサチコがそれを経験してきたからこそ、フミカの言うことにただただ共感するかと思いきや、なんかカタギリの肩を持つような反論、というか、サチコが自分自身を勇気をもって見返す、みたいな長尺の論である。

でもね、途中から涙っぽくなるし、「私、何言ってたんでしたっけ」というように、観客である私もまた、なんかよく判らなくなるのだ。
カタギリを擁護していた筈なのに、自分を見つめ返す時間に帰ってくる……それは、私らが直面しているザ・人間関係に他ならないんだろうなあ。

それぞれ恋する相手に玉砕した、恋するふたり。ぶつかり合った二人が恋人同士に……なんてお手軽な予感まではないけれど、不思議な縁の、友人同士にはなってほしいと思う。★★☆☆☆


コーダ あいのうた/CODA
2012年 112分 アメリカ=フランス=カナダ カラー
監督:シアン・ヘダー 脚本:シアン・ヘダー
撮影:パウラ・ウイドブロ 音楽:マリウス・デ・ブリーズ
出演:エミリア・ジョーンズ トロイ・コッツァー マーリー・マトリン ダニエル・デュラント フェルディア・ウォルシュ=ピーロ エウヘニオ・デルベス エイミー・フォーサイス

2022/3/13/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
知っている誰かが良かったとか、勧めてくれたりしないと、なかなか外国映画まで手が回らない。なので、それに際した時にはこれぞご縁と思って足を運ぶことにしてるんである。

家族の中でたった一人健聴者のいる家族の物語。そしてそのたった一人に授けられた歌の才能。この設定をどう料理するか、お定まりのお涙頂戴にしそうな向きはいくらだってある。想像がつく。もしそうだったら私はかなり嫌悪感を抱いただろうと思う。
障害や難病をテーマに悲劇ばかりを描く作品をさんざん観てきた。障害や難病を持つ人は前向きで、優しい心根で、だから損をする、可哀想な彼らに想いを馳せましょう、みたいな。

本作はちっともそうじゃない。ラストには涙させられるけど、親しみやすいユーモアとホットな青春がある。地域のコミュニティや友人関係、たった一人の健聴者の娘、というテーマに関わらない、誰もが直面する物語がある。
なぜ私が、障害や難病を悲劇で描く物語にイラつくようになったか、判った。そこには彼らの日常が描かれてなかったからなのだ。障害があっても難病にかかっても、一日中、一年中、そのことに悲嘆にくれてはいられない。てゆーか、そんな人だったら逆にめちゃくちゃパワーがあって、そのパワーを生きる方に向けろよ、と言いたくなる。
「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を思い出すのだ。「人工衛星スプートニクに乗せられて死んだライカ犬より、僕のほうがまだ幸せだ」あの名セリフを。
哀しいことや困難なことがあっても、日常は流れていく。その中に愛や友情があって、哀しいことや困難なこととは別に、大切な時間がはぐくまれていくのだということ。

コーダ、というのがまさに、家族の中の健聴者が通訳者として家族を助ける、そんな呼び名なのだという。知らなかった。ふと、ヤングケアラーの問題を思い出したりする。少し、共通しているような気がする。家族の世話や介護に駆り出される子供たち。
でもコーダである彼女、ルビーの場合は、赤ちゃんや老人や病人の世話をしている訳じゃない。家族と外界とをつなぐ手助けをしているのだから、それと一緒にするべきではないのかもしれない。
でも後に語られるルビーの疎外感、自分だけが健聴者で、両親と兄と意思の疎通は出来ていても、自分だけが蚊帳の外、彼らを助けるスタッフとして存在しているような孤独感は、ひょっとしたら、いずれ抜け出せるヤングケアラーとはまた違う辛さのように思う。

彼ら家族が営んでいるのが、漁業であり、市場に持って行って値段の交渉をし、搾取から脱するために、自分たちの組合を作るというアツい展開になることこそが、本作の大きな魅力である。コーダである若い才能をこの現状から救い出すだけの物語じゃ、ないんである。私自身が魚市場に勤めているから、なんだかいろいろ判る部分があって嬉しくなってしまう。
小さな個人船で漁をし、市場に卸して生計を立てている彼ら家族にとって、無線の応対や漁師仲間とのコミュニケーション、値段交渉や、もうその他もろもろ、ルビーはなくてはならない存在である。

これはマズい、このままでは彼女は一生、家族が生きていくための通訳者として、ここから一歩も出られず終わってしまう、と一目でわかる。ルビーはじめ家族たちだってそのことが判っていただろうが……。
いや、母親だけは判ってなかったかな。これが面白いところでさ、普通なら娘の一番の理解者は母親、というのが定番じゃん。それこそ私は、そのことに対してずっと懐疑的だったから(かーちゃんゴメン!)、そうだよねー!!と思いっきりうなづいてしまった。
いやその、私の母親とは全然違うけどさ、なんか判っちゃうんだよな。天真爛漫でノーテンキで、なのに子供のように臆病な、少女のようにわがままなママ。そしてそんなママと今も強烈に愛し合っていて、ズッコンバッコンやっちゃってるパパ。

お兄ちゃんが、凄く微妙な立ち位置なんだよね。このお兄ちゃんすっごく好きだなあと思う。いかにも兄と妹という関係性。仲がいいだけに独特にいがみあう、みたいな。

家族間で薄々感じていた、ろう者と健聴者の壁みたいなことを、母親は娘から問われてあっさりはっきり、「(娘が健聴者と知って)ガッカリした、私たちろう者と理解しあえないと思ったから」と当時の心境を告白する。
お兄ちゃんの方は、そんなあっさりと白状することはなかった。妹のことを愛しているから、才能ある妹をこんな田舎に、そして自分たち家族のために縛り付けるべきではないと判っていて、苦しんでいたから、妹のこと、愛しているのに、突き放すように言ったのだった。

お前が産まれるまでは平和だった。出ていけ、と。それまでに、いっくらお兄ちゃんがルビーに、家族に縛られてちゃダメだと言っても、ルビーは一歩踏み出せなかった。それ以上にお兄ちゃんは、お兄ちゃんなのに妹の通訳に頼ってしか生きていけていない家族、いや自分自身にこそ悔しさを感じていて……。
お兄ちゃんの描写だけを思い返してみると、なんかもうホントに、胸が詰まるのよ。必死に唇を読んで仲間とコミュニケーションをとろうとする、でもそれもままならない。酒飲み場という場にしたってあまりに無礼な態度をとられて逆上、取っ組み合いのケンカになったりしちゃう。

お兄ちゃんはさ、きっと漁師の仕事に誇りを持ってるし、だからこそ妹の手を借りなければ家族がやっていけないことが、本当に悔しくもどかしかったんだろう。
お父さんはね、なんかのほほんとしているというか、代々漁師だったんだから、それしか道はないだろ、というあきらめとも違う、選択の余地というものを考えるという発想もない、これは世代かなあという感じなのだけれど、お兄ちゃんには、いい意味でのフラストレーションを常に感じたんだよね。
そしてそれは、妹にも、違うフラストレーションだけれど、あったから、だから、判ったし、自分たちに縛り付け続けるべきじゃないと思ったし、なによりそんなことじゃ兄貴の沽券にかかわる訳だよ。

こんな具合に、一見して、ろうの家族の中の健聴者の娘ちゃんの物語のように見えて、ひょっとしたら彼女は家族をはじめ周囲の人たちの物語をあぶりだす狂言回し的立ち位置だったんじゃないかとさえ、思えてくるのだ。
だって、ルビーの物語はそれなりに想像できるじゃない。結果的には光り輝く未来へ足を踏み出す、家族や友人に支えられて送り出される、想像できるし、その通りになるじゃない。
でも本作が提示している重要なことって、ルビーじゃないよね。だってそうだったら、本作を作った意味がない。ろう者に縛られた健聴者が解放されて夢に向かって旅立つ話、だなんて言ったら身も蓋もないもの。

これは、多様性社会の闇と光、可能性を描いた作品だと思うし、思いたい。ちょっと、危険かなとは思うんだよね。
ろう者の家族に縛られて才納を封じ込められた娘ちゃんが未来に踏み出す物語、という立ち位置で理解されたら、絶対に違うと思うんだけれど、とらえ方としては、それがあまりにも判りやすい方法だから。

時代性も、あると思う。ネット、SNS、あらゆる通信が豊富に稼働しているこの時代では、ルビーの親友がお兄ちゃんのマッチョに欲情して、スマホのメッセージで会話してあっという間に恋人になっちゃう。
もちろん、素早いコミュニケーション、仕事現場においてはそんな悠長なことをしてられないのかもしれないが、いやそれも、結局は発想の転換だ。本作が作られた時はまだ、コロナの脅威はなかった。じかのコミュニケーションが封じられ、リモートだ、オンラインだ、遠隔だとなったのだから。

本作の製作時にはそんなテイスト、というか、思惑はなかったと思うけれどなんだか予言しているような気がしちゃう。スマホのメッセージで充分コミュニケーションが取れる、あっという間に欲情しちゃって、エッチしちゃうまでいっちゃう。
ほんの少しの意思疎通でいいのだ。なぜだか、哲学的議論まで出来なければ判りあえないとでもいうように、ひどく分断されている社会に気づかされるのだ。

でもね、でもでもでも、なんかカタいことばかり言ってしまったけど、本作は本当にあたたかな愛とユーモアに満ちているのよ。絶妙な田舎町、港町。ルビーが通う高校は、ついつい外国の高校ってオシャレで大人っぽくて、日本とは全然違う!!と先入観を持ちがちなのだけれど、そうじゃない。
ルビーがまずそうなんだけど、オーバーオールとかチェックのシャツとかパーカーとか、なんかもう、親近感バリバリでさ。私らが打ちのめされていたオシャレ海外ハイスクールビジュアルじゃないことに、なんかとてつもなくシンパシイを覚えちゃう。
先述のように漁業や市場が私の仕事にばっちり近しいので、魚臭い問題とか、判る判る!!と思っちゃう。

ルビーは合唱クラブに入る。そこで才能を見出される。ルビーがクラブに入ったのは、最初から彼のことが気になっていたのだろうか??申し込みの場面で、マイルズが合唱クラブに申し込みをしたのを見て、決めたのだった。
指導する先生はアツいパッションの持ち主。宮本亜門氏が頭に浮かんでからは、どーにもこーにも亜門氏に見えてしまって仕方ない(爆爆)。いやこんな風に、アツすぎる指導をするのかどうかはしらんが、なんか似てるんだもんなあ。

ルビーとマイルズの青春の恋の交歓はもちろんムネアツだが、オバチャン的には、これはきっと、青春の一ページにとどまるんだろうな、という予感である。あくまで、ルビーが旅立ち、家族が、家族として自立するための、過程に過ぎないのだから。

先生に才能を見出され、名門音大を目指して特別レッスンを受けることになるルビー。同時進行で、不当な搾取をされる市場から脱却して、仲間たちで協同組合を運営することになる。ルビーは家族の通訳者だから必須で駆り出されて、レッスンに遅刻することが多々になり、問題が露呈するのだ。
ルビーとしては、この事態に至るまでは、判っていなかったというか、気づきたくないと、目を背けていたのだろう。家族のため、というか、自身を含めた家族の生活のために、通訳者として、早朝漁船に乗り込み、その後学校に行って寝不足で居眠りして怒られ、外にも交渉やらなんやら、一日中仕事をしているような状態。学生なのに、子供なのに。

後に恋人となるマイルズから、慣れた調子で家族の注文をレストランで伝えていた、ビール二つ、なんて、カッコよかった、ということを言われてルビーは戸惑うけれど、そうだ、彼女のパパが言うようにルビーは最初から大人だったのだった。
ママは、私のベビーが行ってしまうのよ、と哀しんだが、パパは、違う、ルビーは最初から大人だったんだと幼い思想の妻をたしなめた。
そして、お兄ちゃんもきっと幼い頃からそれが判っていたから、悔しかったし、だからこそムリヤリにでも健聴者の仲間の中に入り込んでいっていたのだ。闘っていたのだ。

ろう者の家族の中の健聴者、歌の才能、学内の発表会。予想しちゃったさ。きっと、手話で歌詞を説明して涙涙になるんだって。身構えたさ。
しかし、ならなかった。お父ちゃんがね、そう、お父ちゃんの、聞こえない世界になった。静寂。シーンという音が聞こえそう。周りを見渡した。涙を拭いているご婦人、リズムをとっている老夫婦、自分たちと同じ、あるいは先輩の聴衆が、娘の歌声に心動かされていたのだった。

歌とか音楽とか、ろう者には本当に伝わらないアートなのか。これはさ、これは……禁断のテーマというか、映画でもちょいちょい描かれてはいたし、凄く考え続けていたことではあった。
本作では、お父ちゃんは、そもそも音、というかリズムを感じる感性に長けているキャラクターなので、だからこそ、彼こそが直に、ストレートに、娘の才能を感じ取る、という、これはアイディアな場面。
原始的、本来的、歌を歌う娘の首を触って、振動を感じて、そこから魂、エナジーを感じた。娘を送り出そうと思ったのだ。

実際の事例がどうなんだかは判らないけれど、なんかね、思い出しちゃったね。あれは、音楽の授業だったか、理科の授業だったか忘れたけれど、音が出る時には必ずその元が震えている、って。
お父ちゃんは、ルビーの首を触った。位置を変えながら、娘の声を、のどの震えで感じた。だって、ラップが大好きで、爆音でラップのベースの響きを楽しんでいたパパなんだもの。響きを、娘の歌声の響きを、無骨な漁師の手で聞き取ろうと耳を、いや、手を澄ます。

高校の発表会で、手話しながら歌うのかな、と思っていたところが、スカされて、ああ、私浅はか!!と思っていたら、大学受験シーンでやりやがった!!くっそー。
宮本亜門似の先生も伴奏の助っ人に駆けつけ、そしてマイルズ君は落ちてしまい(爆)、彼女はひとり、旅立つ。家族に見送られ……やっぱりね、やっぱりやっぱり、お父ちゃんだったんだなあ。★★★★★


こちらあみ子
2022年 104分 日本 カラー
監督:森井勇佑 脚本:森井勇佑
撮影:岩永洋 音楽:青葉市子
出演:大沢一菜 井浦新 尾野真千子 奥村天晴 大関悠士 橘高亨牧 幡田美保 黒木詔子 一木良彦

2022/7/11/月 劇場(新宿武蔵野館)
あみ子、という名前のヒロイン、あれ?と聞き覚えがあって。まったくの偶然で何の関係もないんだけれど、「あみこ」という映画。
本作のあみ子は小学生から中学生、「あみこ」という映画の彼女は高校生だし、本当に何の関係もないんだけれど、その強いまなざし、おかっぱ気味の漆黒の瞳、そしてなにより、一人の男の子に執着しまくって破綻する様が妙にリンクしてて。
地方都市というのもそうで。なにこれ、関係ない筈なのに、その「あみこ」がまた強烈なインパクトの若い才能の映画だったから、凄く覚えてて。

本作はなんたって芥川賞作家の衝撃のデビュー作だというんだから、私が未読なだけであってよく知られた原作なのだろうと思う。
そう……それこそ未読だからうっかりしたこと言えないんだけれど、映画化作品はそれはそれでまた別の作品だからもうそれで印象を受けるしかないから。

イントロダクションでは風変わりな女の子、というスタンス、純粋無垢過ぎるから、という表現になっていたけれど、発達系のハンディキャッパーなのでは……と感じるところがある。
偏見になってしまうのが怖いのだけれど、むしろ彼女のことを風変わりならまだしも、純粋無垢過ぎるという言い方をするのが、何か逃げているようにさえ感じる。

上映後、私の後ろにいたカップルの女の子の方が、見てられない、特にクッキーのチョコレートの部分をなめて渡すところが耐えられないとこぼしていたのが、私としてもなんか判ると思っちゃったというか……。
もちろん、あのシークエンスが強烈なポイントになっているからこそ、クライマックスでもう一度繰り返されて、あみ子はいわば……親に捨てられる形になるのだから、強い印象を残すという点では成功している。

あみ子の言動はどれもこれもヒヤヒヤすることばかりで、確かに純粋すぎる、正直すぎるというくくりでなんとかしのいでこられたけれど、チョコレートクッキーのチョコだけなめとって好きな男の子に食べさせる、という生理的嫌悪感を観客に差し出すあのインパクトで、逆に、彼女自身から私たちは逃げてはいけないんだと思った。
風変りだの、純粋だのといって、もしかしたらかつての私かも、だなんてやわなことを言っちゃいけないんだって。

でも判らない。理解が及ばないキャラクターに関して単純にハンディキャッパーかもと言うのも間違っているとも思うし。
ただ、そう……あまり言いたくない言葉、空気の読めない子、だというのは確かだ。空気なんて子供は読まなくってもいい、確かにそう思っていた筈。子供は子供らしく天真爛漫で、正直で、それが一番と思っていた筈。
でもあみ子が、まさしく空気を読まず、思ったままのことを言い、望んだままのことをすることに、大人だけでなく、あみ子の同級生たちですら眉をひそめる。それは子供たちもすでに、空気を読むことによって平穏な生活を営む術というか、そうでなければ子供たちですらこの社会で生きていけないのを知っているからなのだ。

それはあみ子が中学生になると判りやすい形になって現れる。風変りな、異形な存在は、判りやすくイジメの対象になる。
空気を読んでいればそうはならない。そしてイジメてる側も、空気を読んで、異形な存在を排除することによって自分たちを成り立たせているのだ。

心の中がもやもやしっぱなしなもんだから、一回立ち返らなくては。あみ子の登場は小学生。どこかよそよそしいお母さんは書道教室の先生、そしてお腹が大きい。
優しいお父さんはあみ子の誕生日にいくつものプレゼントを買ってきてくれる。ケーキのろうそくも吹き消さずにプレゼントの包装をやぶりまくるあみ子と立ち尽くす母親、という図式を待たずとも、ここまでの母親と彼女の空気感で不穏が漂いまくっている。

後に示されなくてもなんとなく判っちゃう、父親側の連れ子での再婚。あみ子さん、と敬語を使う母親は、あみ子の傍若無人な生活スタイルにほとほと疲れまくっていたのだろうことは想像に難くない。
それでも新しい家族が出来ればと。今は自分だけが他人であるこの家族の中で、私が産む赤ちゃんが産まれればと……まぁなんかベタで俗な想像だけれど。

でもそれは叶わなかった。死産だった。あみ子はその現実が判ってはいたけれど、それを母親や父親の苦しみとまで理解できるほどではなかった。
小学生女子、無理からぬ話だ。それこそ現代では、そんな子供でも空気を読めという時代性だが、無理からぬことだ。不幸なことは、あみ子が良かれと思って庭先に建立した“弟の墓”が母親をどん底に突き落としたことである。

これは、これは……やっちゃいかん!やっちゃいかんことだが、だが、だったら、良かれと思ってやったあみ子に、事前にそれをどう判ってもらえれば良かったのだろう??
自身の子を失って、急にあみ子に対して優しくなった母親、もう私はこの中で生きていくしかないと思ったのだろうか。だとしたら哀しすぎる。そしてあみ子の“仕打ち”が彼女のその砂上の楼閣を打ち砕いたのだとしたら、本当に悲しすぎる。

思えばあみ子の誕生日のごちそうを、あみ子が無神経に残したりしていた(無神経だなんて、子供なんだから……空気読む価値観の悪しき習慣だ)ことに、お母さんよりも優しいお父さんの方が気にしていた。
お父さんは優しい、でもそれだけなのだ。風変りな娘にひやひやしながらも、新しい家族が増えれば、楽しい家庭が築けると思っていたのだろう。

でもそれがあっという間に崩壊する。妹をよくフォローしていた優しいお兄ちゃんが突然暴走族の仲間入りしてグレちゃったのも、彼もまた空気を読み切れなくなったのだろう。
お父さんも、お母さんも、あみ子の大好きなのり君も、同級生たちも、みんなみんな!!

お母さんはすっかり精神を病んでしまって、入退院を繰り返し、床についている状態である。小学生だったあみ子は中学生になり、お兄ちゃんはグレて家に寄り付かなくなり、食事はコンビニ弁当をお父さんと向かい合ってぼそぼそと食べる。
あみ子はサイズの合わないぶかぶかの制服を着て、上履きを隠されているからハダシで、気にかける大人がいないから風呂にも入らずクサい状態で、学校にも行ったり行かなかったりである。

こうして改めてその状況を書くと、こ、これはかなりとんでもない、福祉による保護が必要な状態と思われるのだが、あみ子という女の子が妙に強靭というか……。自分が陥っている状況が理不尽な、守られるべき子供に対してあまりにも理不尽だということが、判ってない。

それこそが、彼女の哀れなのだろうか。あみ子は常に一人、本当に、たった一人だ!!あみ子は幽霊の気配を聞く。
優しいお父さんも、今や表面上の雰囲気だけが穏やかなだけで、すっかり疲れ切って、あみ子の言うことなんて聞いてない。中学生の息子がタバコを吸っていたって、表面上は寛容に、そんな時期もあるさという雰囲気を出しながら、実際は向き合う気力がないだけである。

あみ子が、あみ子だけが、対相手に全力でぶつかっていた。でも、その相手がみんな、それを拒否した。あみ子の全力に対抗できる気力がないから。空気を読むほうが楽だから。
空気を読み続けた結果がこの大崩壊で、その最大の犠牲者となるのがあみ子だというのは……ああ、判っちゃいたけど、空気を読むことがすべてをぶっ壊してしまう。誰一人幸福にならない。

ただ一人、なんかめちゃくちゃ好感を持てる男の子がいる。いがぐり坊主のあみ子の同級生。お母さんが営む書道教室の生徒だったんだけれど、大好きなのり君しか目に入らなかったあみ子にとって、幼なじみの筈の彼はまるで認識されていない。
お母さんのお腹の中の赤ちゃんが死んでしまって、お墓事件で家庭崩壊、それに巻き込んでしまったのり君から決定的に絶交を突きつけられ、同級生からも先生からも疎まれる中学生のあみ子が、無意識に話しかけることができ、無邪気に受け応えるのが、その坊主頭の男の子。

名前すら、きちんと紹介されない(爆)。あみ子と仲良く話したりすれば彼だってそれなりに大変だろうと思われるのに、まったくあっけらかんと、のり君の書道の掲示はこれ、ちなみに俺はこれ。のり君の名字知らなかったのかよ?とか、なんかね、なんともさ、自然な無邪気っ子で、涙が出るのよ。
まぁお前も大変だよな、なんてぽんぽん肩を叩いたりしてさ。引っ越すんだろ、と訳知り顔で言い、あみ子が自分のことなんて目に入ってないことを承知の上なのに、なんか、なんか、イイヤツなのさ!!

なんだろうなあ……たった一人、本当に、一パーセントでいい、こういう、無条件に、しがらみなく、まぁ幼なじみだかんな、お前変わってっけど、頑張れよな、みたいに言ってくれる、思ってくれる人がたった一人いるだけで、いいんだと、凄く凄く思った!
あみ子以外はみいんな空気読んで、それが社会的常識で、その予防線を超えてあみ子が来るから、彼らは傷ついてしまった。

正直どちらが正解かなんて判らないし、どちらも正解だと思う。あみ子の、世間的に言えば心無い言動に打ちのめされた母親の気持ちを思えば胸が痛いし、板挟みになって娘を捨てる決断をした父親(言い方キツいけど……あみ子だけを祖母に託して逃げ出すというのはキツい)も、彼が私自身の年齢と変わらないと思うと、大人に見えて、ちっとも大人になれていないんだよということが判っちゃう。
ただ子供にとっては圧倒的大人だから、それが判ってるから、どうしたらいいか、判んなくなっちゃうんだよなあ……。

] あみ子を、ただただ普通の、一人の女の子としてとらえるべきなのか、偏見は承知で、発達系ハンディキャップがあるのかもという女の子なのか、というので全然違ってくるとは思うけれど、でもそれこそグラデーションで、今はその判断というか、アイデンティティの価値基準の判断をどうとらえ、社会生活にフィードバックしていくのか、それこそ子供社会において迅速に考えなければならない問題だと思うし。
本作が、原作の小説の時点から、そういう点においてどうとらえられているのか、単純に大人の無理解としてなのか、大人社会に翻弄される子供社会なのか、あるいは……。

チョコレートクッキーのチョコだけを舐めまくってクッキーだけにして、という描写が、先述のようにカップルの女の子や私のみならず、恐らくすべての観客の背中をゾゾゾとさせてしまったのは、このコロナ禍の過剰なまでの衛生感覚もあるとは思うけれど、他人と食べ物を共有することが、基本的な人間関係の親密さであり、現代社会でそれが出来てないからというのもあるのかもしれない、とか思ったりする。
まだ関係性を作れてない新しいお母さんが作った誕生日のごちそうも残してしまって、お腹の赤ちゃんが死んでしまった後のしらじらしいピクニックでお母さんが作ってくれたお弁当を食べるシーンは引きの場面でイマイチよく判らず、お母さんが床についてしまったら、味気ないスーパーやコンビニからの調達。
その中で、あみ子がナメナメしたしけったクッキーがいわば親愛の印の食べ物として登場するというのは……赤ちゃんに対して口の中で柔らかくして食べさせるぐらいの近さがないとさあ……。

……どうもこのシークエンスが強烈過ぎて、何度も繰り返してしまう。ラストは、おばあちゃんちに“捨てられた”あみ子がパジャマ姿でぼんやりと海岸に歩いてくるんである。心配して声をかけた地元のおっちゃんに、元気よく返事して本作は終わる。
捨てられたのに。実のお父さんに捨てられ、お父さんは(あみ子は離婚したと思っている)お母さんの方を選んだ結果であり、グレて家を出ていたお兄ちゃんだって、あみ子をおばあちゃんのところに託したってことは、その手続きはきちんとしたってことは、お兄ちゃんの所属は変わらず、あみ子だけが手に余って捨てられたんだと思って……。

不思議な“あみこ”のネーミングの共通から始まり、地方都市、女の子のアイデンティティ、地方の問題、セクシュアリティ、母親、父親、きょうだい、もう、自分の中でモヤモヤする、叫びたい問題ばっかり!!
私はね……あみ子にもうちょっと、いや、もっともっと、叫んでほしかった。自覚して、自分がどういう状況に接しているのか、なんてことは、あと10年、いや20年経たなきゃ気づかないのだろう。今私はそれを、かつての私を思い出して、じりじりと待っている。この繰り返しじゃ、いつまで経っても追いつけない。★★★☆☆


この子は邪悪
2022年 100分 日本 カラー
監督:片岡翔 脚本:片岡翔
撮影:花村也寸志 音楽:渡邊琢磨
出演:南沙良 大西流星 桜井ユキ 渡辺さくら 桜木梨奈 稲川実代子 二ノ宮隆太郎 玉木宏

2022/9/5/月 劇場(新宿バルト9)
これはもう反則なんだけど、上映後、劇場のエレベーターの中で二人連れの女の子が、一緒に来れなかった同じファンの友人に当てて言うべく、りゅちぇ(大西流星君)がウサギになったって言っちゃおうか、なんて笑ってるのを聞いて、心の中で思わず噴き出してしまった。
めちゃくちゃオチバレだわ。いや、ホントそんなこと言っちゃ、いや、ここでも書いちゃダメだわ(爆)。そういうサイトだから許してね、許されないかしら(爆爆)。

そう……もうそう言い出すと、それを前提にしか語れなくなっちゃう。だって最初っから意味ありげに登場するうさぎたち、それは愛娘や患者たちを癒す目的なのかと思いきや、診療室の壁に沿ってずらりと、正確に並べられた一匹ひとつのかごに、そらなんらかの意味を感じずにはいられないのだ。そりゃまあまさかの結末ではあったが……。

純の年齢設定はいくつなのかなあ。大西流星君の実年齢は成人越えているが、丸顔の幼さ、通っている学校がちらりとしめされるが、この年頃の男の子たちが幼く見えるせいか、高校生というより中学生に見える。
純は心の壊れた母親と無口な祖母との三人暮らし。彼の日課は、町の中に散見される、母親と同じように壊れてしまった大人たちを観察すること。時に写真に収めたりして、彼の心境はこの時点ではどういうものだったのか。まさか母親の魂がウサギと入れ替わらせられただなんて(おっと、もう言っちゃった(爆))想像だにしないし、そんな神のワザを持つ心理療法士に、最初から太刀打ちできるはずもなかったのだ。

ああ、オチバレバレで物語を進めると、観ている時に感じていたミステリ感覚充満の魅力が薄れまくりなのは判っちゃいるが、ミステリ苦手で見慣れてないので、感想文もどう導いていいか判らないわ(爆。言い訳)。
本作はダブル主演という趣。純を演じるなにわ男子の大西流星君は私、初見だが、女子側は、もうここ数年の映画界(どうやらドラマ界もらしい)を席巻している、とりあえず彼女をキャスティングしときゃ間違いない、とさえ言いた南沙良嬢である。純が町で観察を続ける中でたどり着いた、小さな診療クリニック、そこの長女、花を沙良嬢が演じている。

純がそのクリニックにたどり着いた時、視線を感じて二階の窓を見上げてぎょっとする。白い仮面をかぶった幼い少女が見下ろしているんである。
スケキヨかよ!!とゾッとする。この白い仮面にビックリするのはこの場面だけで、顔面に負ったやけどによって心の傷も負ったこの少女、月(るな)が、その後さまざまなバリエーションの、……この年頃の少女らしく、可愛らしいうさぎの面やらキラキラのストーンをあしらった面やらをかぶってくるに至ると、いじらしい思いにしかならなくなるのだ。
そうか、うさぎの面をかぶっていたっけ。うさぎ、だよね。耳はよく見えなかったが、大きな瞳の、あきらかにアニマル面だった、あれはうさぎだったんじゃないか。もうあの時それを示唆していたのか。

オチバレまくりなのでもう言っちゃうと、顔にやけどなんか負ってないのだ。いや、実際の月は負ってた。この診療クリニックの一家四人、院長の窪氏、奥さんの繭子、長女の花、次女の月が遊園地でメリーゴーラウンドに興じている時に、トラックが突っ込んできて大惨事になった。
メリーゴーラウンドにトラックが突っ込んできた、って言ってたよね?あまりにも思いがけない奇想天外な交通事故(これは交通事故というんだろうか……)だし、メリーゴーラウンドに乗っている一家四人の幸せそうな回想シーンが何度も、時に巻き戻され(それは窪院長が施すあやしげな療法に必要な描写なので)、示されるのだけれど、トラックが突っ込んだとか、事故シーンは描写されることはないので……。

だから、一体事故は本当にあったのかとさえ思うが、それはいくら何でもあったんだけど、こういうもやもや感が上手いのだ。またまたオチバレで言っちゃうと(私、ミステリ感想ヘタすぎ……)、窪氏は愛する家族を守るため、いや違うな、失いたくないため、やってはいけないことをした。神でさえやってはいけないことを。
いや、さらに違うな。彼はこの時初めて神の領域を犯したわけじゃないんだから。その前から、それこそ自分が神だというぐらいの意識で、療法士としての神業を(ああ、“神”業と言ってしまった!!)を町中に施していたのだから。

この地方都市では、信頼できるドクターとして有名だった。虐待を受けている子供たちを救うための活動を積極的に行っている、いわば聖人。いや……彼自身が、本気で、自分のことを、そう思っていたのだろうということが怖いのだ。
虐待されている子供たちを救うために、その親たちを、壊す。もう最初っからオチバレになっちゃってるから、いいでしょ(爆)。ウサギに魂を移して、人間のイレモノにウサギが移っちゃうから、見た目廃人、ってわけで。

この神の技を持つ療法士、窪を演じるのが玉木宏氏。端正な顔立ちの中でぐりっと強い目力、ちりりんと鳴らす鈴で誰もをあっさり手の内に落としてしまう手腕。
そして何より……自分は子供たちを救うために正しいことをしている、愛する家族を救うために正しいことをしている、とマジに考えて、「器が替わっただけだから」と魂の入れ替えを、善行だと言ってはばからない、いや、信じて疑わない、あのイッちゃってる目がコワいのだ。

事故により植物状態になってしまった奥さんの魂を、息子を虐待して離縁された患者の女性に入れ替え、あの事故で死んでしまった次女の魂を、虐待されていた女の子を連れ出して入れ替え、そしてその器がからっぽになった人たちは、うさぎになり、奥さんに関しては、器だけになってしまったから、死んでしまった、自ら死亡診断書を書いていた、けど、え??それどういうこと??
あくまで診療クリニックを営んでる窪、奥さんが入院していたのは普通に他の病院で、呼吸器外して、いわば殺して、自分で死亡診断書書くとか、よく判らないんですけど。本作はこーゆー具合になんかバカな観客がついていけなくなるところがあるんだよなあ。

結局は、窪院長が圧倒的な力を持ってるから、花が、本当のお母さんじゃない、と戸惑おうが、純が、自分のお母さんがこのクリニックの患者だったことを突き止めて何かがあった筈だと嗅ぎつけようが、ちりん、と鳴らすあの鈴で、あっさり窪氏の手中に落ちちゃうんだもん。
でもそれも穴があるというか……純は一度ならず二度までも、窪氏の手中に落ちちゃうんだけれど、花から、責め立てられると、ハッと正気に戻る、みたいな、なんかそのあたりの詰めの甘さはちょっと感じちゃったかなあ。

キャラの中でもっとも印象的だったのは、やはり仮面をかぶっていた月である。まず最初にその白仮面でぎょっとさせ、なのにその後は、その仮面姿がいじらしくなる、という魔法がかかり、しかし実はその顔はやけどなんか負ってない、そう思わせられていた、実際のやけどの少女は死んでしまっていた、という、こんな幼い少女に負わせるにはあまりにあまりな重荷が次々と明らかになる。

月の、いや、月ではない、さらわれた彼女の父親もまた虐待ヤロウであり、窪氏は子供を救うために、この父親の魂をウサギに移した。結果、見た目廃人になってしまった父親を、町中の“お母さんと同じような人”を観察していた純が確認していたのだ。
月に仮面をかぶせ、外に出られなくしたのは、さらってきたという罪を外に漏らさないためなのだろうに、それを罪だと自覚していない窪氏は、愛する娘の魂が入った、つまりは娘そのものだと主張し、魂をうさぎに移してしまった、つまり娘のために人間としての魂を殺してしまったことを、家族を愛しているからだと、家族を守るためなら何でもすると、なぜその愛の想いを判ってくれないのかと、本気でいぶかしんでいるのだ!!

玉木氏の熱演にダブル主演の若手二人が押し切られるというか、ちょっと脚本的に弱い気もするというか……。騙してたんだろとか、お母さんじゃないとか、直接的な自身が感じた感情をぶつけるだけで、そりゃ負けちゃうだろ、と思っちゃう。
せっかく謄本とかとって、証拠を押さえて、月は死んじゃってるし、母親は今も病院で眠ったままだし、ってことを確認するのに、あっさり鈴の音で白目向いて手の内に落ちちゃうんだもんなあ。

ただ一人の頼りであった純が、すっかり心を失った、赤い目をしてぼんやりこちらを見ていることに、花と共に観客も衝撃を受ける。この時点では、さすがにウサギに魂移されたなんて思いもよらなかったから。
後にこの時の純が、赤い目をしていたことが繰り返して確認されるけど、魂移された黒いウサギは、目は赤くなかったけどね(爆)。

純に何をしたんだと詰め寄り、ウサギに魂を移されたという衝撃の事実が明かされ、お母さんもやはりであり、器が替わったお母さんは、でも、中身はお母さん、私はあなたのお母さん、と言い募る。
怖い怖い!!これをどうとったらいいの。本当に神業で、魂が入れかわったと想えればいいけれど、純も花も、窪氏の洗脳によって、彼らの両親も、町の大人たちもおかしくなったと、思っていたのだし、常識的に考えればそっちの方がよほど自然。ウサギに魂が移しかえられたなんて、言うだけで頭おかしい人になっちゃう!!

本作の難しいところはそこんところで、窪氏は世間からはそう思われるだろうというスタンスで自分のワザを発揮して思い通りにしているのだけれど、“世間からはそう思われるだろうから”というずるがしこさが感じられず、かといって行き当たりばったりの穴がある訳でもなく、むしろそれが露呈するのは、あまりにも無力なまま、刀のないまま打ち込んでいっちゃうワカモン二人があっさり返り討ちになるという展開にあるというのが、そりゃあんまりじゃないの……と思ってしまう。

クライマックスの凄惨なシークエンス、妹の素顔がさらされ、純の祖母が敵討ちに現れ、窪は彼女をざっくざくに返り討ちにし(エグい……)、もうこうなると、娘たちはドン引き。
次女が、あの幼い次女が、ついさっきまで仮面の中に自分を押し込んでいた月が、お父さんを刺す。小さな果物ナイフで、もう嫌だ、と言って、刺す。お母さんは……イレモノは違うけれど魂はお母さんのお母さん、言いたかないけど、本当にそうだとは思いたくないけど、お母さんは、愛する夫をかき抱いて泣きじゃくる。

このお母さんに対する違和感こそが、花が感じていた違和感こそが、重要なポイントになっていたので、お母さんのキャラ、アイデンティティをどう処理するのかなと思ったのだが……正直、消化不良だったかなあと思う。
すんごく、重要、彼女こそが本作の最も重要ポイントだったからさ。ホラー的ビックリで観客を翻弄したりもしてくれて楽しめたけれど、本来の彼女の哀しみであり、魂の彼女も容れ物の彼女も、……これじゃ、ぼんやりと、窪氏の手の内で転がされたままじゃないか。

いやー、実際……まさかのウサギだよね。おばあちゃんが、孫の魂が入ったウサギを狂ったように求めてきて、結果、窪氏に惨殺されるのはあんまりなんだけど、ウサギがさぁ……。
純の魂が入ったウサギ、純の母親の魂が入ったウサギ、その二匹が、今やあるじのいない、のどかな日本家屋の一室で、仲良さげに飛び回ってる、なんて!!

ああこれ、例のTSUTAYAのプロジェクトなんだ。このプロジェクトは、まぁその、疲れるね(爆)。毎回オリジナリティ半端なくて疲れちゃう(爆)。 それだけハズレなしってこと!★★★☆☆


トップに戻る