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「ら」


2022年鑑賞作品

ラストサマーウォーズ
2022年 80分 日本 カラー
監督:宮岡太郎 脚本:奥山雄太
撮影:古谷信親 音楽:中村巴奈重
出演:阿久津慶人 飯尾夢奏 羽鳥心彩 松浦理仁 小山春朋 上田帆乃佳 井上小百合 長妻怜央 デビット伊東 櫻井淳子


2022/7/10/日 劇場(シネ・リーブル池袋)
イントロダクションで「カメラを止めるな!」だの「スタンド・バイ・ミー」のタイトルを出しちゃうもんだからさ。
言わなくても判ってることを言っちゃったら更に作品の独立性というかアイデンティティが下がっちゃう。ヒット要素というかウケどころを入れてます!というのをわざわざ発信しちゃうことないのに。そうでなければ、可愛らしい映画、で終われたのになあ。

映画好きの小学生男子。転校してしまう憧れの女の子に「僕の映画のヒロインになってください!」と決死の告白。そこからスタートする小学生の映画製作。監督、助監督、脚本、プロデューサー、カメラマン、照明、と、映画製作に最低限な、かつ基本となるスタッフをまさに適材適所で集めての映画作り。
いいじゃないのいいじゃないの、ワクワクするわぁ!と思った。昨今の上手すぎる子役ちゃんたちとは違って、どこか懐かしい初々しいお芝居がこれまたその世界観を後押しすると思ったし、実際予告編の時点ではかなり期待大、だったのであった。

と言っちゃったら、期待を下回ったと言ってるようなもんだが(爆)。子供たちの初々しさについては100点満点。こういう初々しい子供たちの芝居を見ることが今はなかなかにかなわなくなったから。
舞台は入間市で、いかにもご当地映画なのだが、お茶の産地ののどかなロケーションをふんだんに使い、地元の神話を基にした映画内映画の作劇も、うっかりすると地元教育的にもなりそうなのだが、神話の女神を演じるヒロインの美少女っぷりが良く映えて、夏休みの自由研究チックな感じにもなって、意外に上手くハマってた。

じゃあなにが不満かって、そらあなた、観た人みんなが思ったでしょ。展開が単純すぎる、上手く行きすぎ、そしてぶち当たる壁が突然すぎる上に、説得力がなさすぎ。そのバックグラウンドも説明薄すぎ。そしてあっさり解決されすぎ。
見た目は起承転結きっちり行われているんだけれど、まるで四等分で起承転結作ったみたい。物語の起伏って、もっとこう、ジグザグとするものでしょ。

まあとにかく、最初から行く。主人公の陽太は映画好きの男の子。いつもスマホで往年の名作を観たり、猫や鳩といった“小動物”で小さな映画を撮ったりしている。
小動物、と言ったのは彼のお兄ちゃん。なんで小動物ばかりなんだよ、と言われて陽太は、だって友達がいないから……と言った。お兄ちゃん指摘するところの陰キャの陽太君、なんである。

そんな陽太君が憧れの女子、明日香に先述の、思い切った台詞を口にできたのは、彼女が海外に移住してしまうと思い込んだから、なのであった。
結局ラストにそれがカン違いだったことが判るのだが、恐らく彼のカン違いに気づいていたのは仲間たちも、担任の先生もきっとそうだったに違いないのに、そのまんま泳がせて夏休みの映画製作はスタートする。

担任の先生は新任間もないといった若さで、本当は映画監督になりたかった、でも学生映画製作中のトラブルのトラウマで諦めてしまった、という過去を持つ。そのあたりは判りやすく回想で示され、悪夢に見るほどのトラウマなのだけど、教え子の陽太君から映画好きなことを看破されると、あっさり映画製作のイロハを伝授しちゃう。
まぁいいんだけど、彼女自身が後悔した過去は後に語られるからいいんだけど、でもその後悔があったから子供たちを後押ししたい!というのが、ネタばらしみたいにクライマックスで明かされるまでいまひとつピンとこなかったのが、せっかく重要要素としてあったのに惜しい気がして。

脚本は、ネット小説でブレイクしている、これまた陰キャの夏音。彼女がいち早く、これは陰キャ同士のアンテナが張ったのかな、陽太の映画製作計画に気づいて彼女から声をかけた。
メンバーの中では彼女が私的には一番、シンパシィを感じたかな。活字オタクな感じ、撮影がスタートすればやることないからと、自分が書いた脚本の責任を引き受けて、何十役もの鬼ゾンビを引き受けたりとか。

そうそう、ゾンビってのもね、まんまカメ止めだよね(爆)。こんなまんまなら作中で言っちゃえば良かったのに。作中では往年の名作映画のタイトルを続々出してきたりして、それを否定するような動きにも見えて、ちょっとなあと思っちゃう。
サブスク時代になって、以前では考えられないような、年代関係なく、様々な時代、様々なジャンルへのファンが産まれているけれど、その前提として語っているようにはどうにも見えないんもの。言い訳に見えちゃうんだもの。

なんか脱線してしまった。んで、夏音は自身で陰キャとか言いながら、完全陽キャでネットワークの広い茶屋の娘、志穂を助監督&プロデューサーとしてスカウトする。
このあたりも都合が良すぎるっつーか(爆)。そもそも二人は友達なのか、少なくとも志穂側は夏音じゃーん!!と親友かってなノリだが、夏音が私も(友達がいないのは)同じ、と言っていたように、彼女側は志穂のことをこの時点では友達だとは思っていないだろうと思われる。
つまり、志穂は誰にでもこういう感じなのかなとは思われるが、そこんところも、あくまでうってつけのスタッフゲットというだけで、その謎は解明されずに終わっちゃう。本作に対する不満は、終始こういうところにあったんだろうと思われる。

カメラマンはユーチューバーの俊、録音にムダに力持ち(この表現久々に聞いたな……昨今では肥満児はむしろひ弱なイメージなのだが)の基雄。
認知症気味のおばあちゃんを長老役として起用、台詞を言ってくれないのをアフレコで乗り切ったり、明日香が落下事故に遭って動揺したチーム内でケンカになってしまったり、いろんなトラブルが起こるものの、時には見守っていた担任の先生の助けが入って、結束を強くしていく。そしてあと一歩でクランクアップというところまで来ていたのだが……。

まあさ、大体が親の反対さ。ことに子供が主役の場合はそうさ。しかしこれはさ……。このチームのすべての親が製作中止に乗り込んでくるのだが、そもそもまずそれにムリがある。
子供たちだけでの映画製作は危険、という考えそのものにムリがあって、陽太の母親以外の親たちがそれに即座に賛同するのが違和感があって。

そらまぁ、明日香の落下事故というのはあって、映像にも残されちゃっていたというのが決め手なのだということなんだろうけれど、結局ケガをしたわけではないし、この映像を他の親たちは見ていない訳でしょ。
陽太の母だけがヒステリックに反応して学校にねじこんで、モンスターペアレントに怖気づいた学校側が他の保護者達に連絡したという形なのだが、そもそも全員がこの映画製作のことを親に言っていなかったというのが不自然じゃない?

だって、悪いことをしているという感覚はない訳だし(そもそも悪いことじゃないし)、スタッフルームとしてメンバーの豪邸の一室を借りてたりするんだったら、フツーに知れてる筈、だよね??
映画製作が危険だなんてセンテンス、トラウマがある陽太の母親以外にすんなり通るとはどうしても思えない。むしろ、えー凄いじゃーん、と子供をほめる側に向かうんじゃないの?ほめる親と止める親との戦いが合ったりする方があり得るだろうが……そんなことをしていたら尺が足りない、それともそんな展開を考えてもいないんだろうか??

陽太の母親の異常なまでの神経質は、過去の記憶にあった。小学生の陽太の親にしてはちょっと年配な感じだな、というのは感じていた。陽太のお兄ちゃんは10は年が離れている感じ。そのお兄ちゃんが幼い頃負った怪我こそが、映画好きがらみだったのだった。
本当は両親とも映画が好きだった。父親の書斎にはたくさんの映画ソフトが並んでいた。母親がそれを排除したのだ。幼い息子が映画のヒーローに憧れて、ダイブして、大けがをしてしまったから。

それが、10年ほども経っても克服されておらず、そんな事情など何も知らない次男に映画=危険!!と言い渡すほどガッチガチな深刻さだったのに、メンバーの親たちもすべて従わせるぐらいのガッチガチだったのに、すげーあっさり撤回するんだよな。
そらまあね、担任の先生の決死の訴え、自分がした後悔は子供たちにはさせたくない。それに彼らが作っているのは遊びじゃない、しっかりとした映画ですよ!という台詞はうるうる来たし、この台詞が母親の心に届いたのは、まぁいいさ。

でもその後の変換が早すぎないか。このトラブルで当初の撮影スケジュールがとん挫、でもどうしても作り上げたい!!と、ムチャな突破計画を立てて、反対する親たちを潜り抜けてのクランクアップに向けたクライマックスだった。
最後の最後は、まだどうするか決まっていなかった、大量の鬼ゾンビを女神が制するラスト。このラストが提示されていたそもそもで、なんとなく予測できちゃってたけどね。

この予測できちゃってたのもイタいんだよなあ。絶対、親たち参加しちゃってるでしょ、って判っちゃう。しかもさ、このラスト以外は、地元のおばあちゃんをキャスティングしたり、鬼ゾンビ用の汚し衣装のために古着を集めたり準備万端なくせに、ラストシーンのエキストラをまるで用意していないのはおかしいでしょ。

んで、先述したように、この場面に至るともうそれまでの軋轢はまるでなかったかのように、楽し気に参加する陽太の母親、っつーね。
てか、父親がさ、もうちょっとさ。このクライマックスで楽し気に夫婦でゾンビになる時の会話で、俺たちの子供なんだから、そりゃ映画好きさ、みたいな重要な台詞をサラリと言いやがって。
まぁその直前にお兄ちゃんによる先述の秘密はあったにしても、そう思ってたんなら、こんな、事件が起きてからじゃなくって、そもそも息子をフォローしろよー!!と思っちゃう。
実はこんなバックボーンがありました、というのが、キャラの肉付けに生かされず、それ後から言っても言い訳にしかならないから……とかゆー浅はかさでしかないのがすべてに満ち満ちているんだもん。

材料が良かっただけに、ご当地映画ゆえの甘さが際立ってしまった印象かなあ。
ホント、カメ止めだのスタンドバイミーだの言わなければ良かったのに。言っちゃったから、余計安っぽく感じちゃう。★★☆☆☆


LOVE LIFE
2022年 123分 日本 カラー
監督:深田晃司 脚本:深田晃司
撮影:山本英夫 音楽:オリビエ・ゴワナール
出演:木村文乃 永山絢斗 砂田アトム 山崎紘菜 嶋田鉄太 三戸なつめ 神野三鈴 田口トモロヲ 福永朱梨 森崎ウィン

2022/9/11/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
うわ、アッコちゃんの曲が先にありきの作劇なんだ。参った。そっからよくぞこんな、はらわたえぐりだすような、でもなんか泣き笑いしちゃうような、優しいとも違う、厳しいんだけれど、どうにかこうにか何かが始まるしかない、こんな物語を紡ぎ出すなんて。

深田監督作品に出ると、特に若い役者さんは、それまでもしっかり実力派であっても、その変貌ぶりに驚かされてきたが、今回は、木村文乃嬢も無論だが、ヤハリ永山絢斗氏のそれである。
永山君だよね、そうなんだけど、確かにそうなんだけど、顔つきがもう、違うというか……。本作は登場する誰しもに負わされる苦悩がハンパないのだが、いわば愛を試される(あーもう、こう言っちゃうと平凡きわまりないのだが!)二郎を演じる彼は……本作で本当に、一皮も二皮もむけた感があった。

巨大な団地。一時期ちょっとした団地映画ブームが起きた時があるが、それは、団地が夢のマイホームをかなえる場所であった、その両親のもとで育った子供たちの、取り残されたさびれゆく団地というテーマ性のもとであった。
団地というのはもはや日本においてはそういうもの、という感覚があったので、本作の、いまだそのマイホームの価値、そこに思い出を染みつかせている両親が健在であり、その子供が成人してそれを引き継いでいる、というのは、意外の感に打たれた。

しかしこの巨大な団地群はそれを頷かせるほど、それまでの団地映画とは違ってメンテナンスが行き届いていて判る気はすると思いつつ、あまりにも巨大すぎて、部屋を間違えそうになるんじゃないかしらん、と思うほどだった。
そういうラブコメディ映画を観たことがある。台湾映画だったか、一夜を共にし、買い物に出て戻ろうとして彼の家が判らなくなる女の子の話。そうだ、あの映画ぐらい、何棟も林立してて、しかもかなり高層まであって、後半の方で夕暮れ時に次々に通路の明かりがつく引きの場面が、……こういう美しさを団地に感じるとは思いもよらなかった、と思った。

なんか団地ばかりに引きずられているけれども(爆)。でも本作は、いわばこの団地が一つの主人公のような気さえする。敷地の通路と駐車場を挟んだ棟のあっちとこっちで、嫁と姑が大声で会話をかわすシーン、そして、ベランダから見渡せる広場は冒頭とラストで全く違う顔を見せる。
同じ直方体がずらりと並んだ団地は間取りだってなんだって同じであろう。なのにそこに、決定的な違いを言い立てるのが、ナンセンスと言えなくさせるだけの事件を起こしてしまうんだから!!

しばらくは、私の頭が悪いせいだろう(爆)事態がなかなか飲み込めなかった。いや、説明をあえてしないままスタートするのは、もちろん計算だったと思う(私の頭の悪さじゃないと思う……)。
夫の両親、というか父親に結婚を反対されたまま、妙子と二郎は結婚、今日もぎくしゃくとしたまま、息子の敬太のオセロ大会優勝を祝う会に招待する、という展開。それは作戦で、夫の父親の誕生日を、夫の同僚であり父親の部下たちによってサプライズで祝おう、というスタートである。

おめでとう!の文字を掲げるのが、ベランダから見える広場であり、それがスタートなのだけれど、その前に若夫婦と夫の両親はバチバチに緊張感が走っている。
私は最初てっきり、彼らがデキ婚だからだと思っていたら、舅から「話が違う。こんな中古」という言葉が飛び出す。この中古、という言葉に全員が凍り付くのだが、中古?どういうこと??と……だんだんに判ってくる。

デキ婚じゃない、妙子の連れ子が敬太。つまり中古、というのは妙子に向かって放たれたあまりにもあまりな言葉であり、姑は慌てて夫を諫め、妙子に寄り添うのだが……。
でもむしろこの姑の方が本質的には敵であったのだ。「気にしないで。でも、いつか孫を抱かせてね」つまり、彼女は敬太のことを孫だと思ってない、ってことをここで露呈してしまった。

その直後の、敬太の事故死。水を抜いていなかった浴槽に誤って転落という痛ましさは、自分が殺したと妙子はどん底に突き落とされ、姑は敬太の遺体が自分たち家族の思い出の部屋に運び込まれることに取り乱し、行方をくらましていた敬太の父親が葬儀に現れて……。

敬太の父親を演じる砂田アトム氏がめちゃくちゃイイ。いわばダメ男なのよ。韓国籍(韓国と日本のハーフ)のろう者であるというキャラクターなのだけれど、その事実は敬太の葬儀に派手な黄色いシャツで現れた時に判る。
いや、その前に示されていた。敬太と妙子が二郎にナイショの話をするときに手話を使っていたから、元夫がろう者なんだろうということは推測されたけれど、そこにさらに韓国籍、というか、韓国で生まれ育ったんだから韓国人、と言った方がいいかな、という思いがけぬバックボーン、物語のクライマックスは、泣き笑いしちゃう、韓国への旅行きが用意されているのだ。

敬太が思いがけぬ痛ましい事故で死んで、真っ先に露呈されたのが、判らず屋の夫を抑えて理解ある姿勢を見せていた姑が、“孫でもない”敬太の“遺体”が自分たちの思い出の部屋に運び込まれる“ケガレ”に全力で拒絶反応を見せる、という見るに堪えない修羅場だった。舅が、そう……昼間の場面とは立ち位置逆転、あまりに非道なことを抑えきれずに泣きじゃくる妻を諫めるのだった。
ああ、どちらが残酷だったのだろう。結婚直前まで行ったという二郎の元カノに好感を持っていた舅が(そのことは後に判るのだが)妙子を中古呼ばわりした時には、なんてひどいジジイだと思った。でもその場の波風を立てずにやり過ごそうといい顔をしていただけの姑だったのかと思い知らされて……ああでも!!

この姑が思い出の場所だからといい募るにしても、先述のように同じ団地の間取りなんだから一緒に決まってる、今住んでる違う棟の間取りと一緒だろと思っても、そっくりでも、違うのだ。
それは妙子側にもはっきりと示される。敬太が死んでしまった、それも(彼女が思うところによる)自分の不注意で死んでしまった浴室を、彼女はどうしても使えない。そうだろう……愛する我が子が沈んでいたのを、妙子自身が発見してしまったのだから。

なので、違う棟に住んでいる夫の両親の風呂を使わせてもらうことになるんである。棟は違えど同じ団地の同じ浴室、ソックリどころか同じだろと思うのだけれど……そりゃまあ、妙子たちの浴室には、敬太のために50音表とか貼っていたにしたって……。
判ってる。ソックリだろうと同じだろうと、違う、ってことは判ってる。だからこそのこの団地のチョイスに、作り手さんの意地悪さに、ゾクゾクきてしまうのだ。結局はただの箱、ただの空間にしか過ぎない、この空虚な想い出の場所、それは、夫の両親が引っ越していってしまってからよりその感覚が増す。

空っぽになったこの部屋に、ほどなくしてホームレス状態になって行き場のない妙子の元夫、パクが同じく行き場のない子猫と一緒に住み着くことになる。彼をほっとけない妙子と、つかの間の無邪気で幸福な時間、そこに二郎が入っての修羅場……。
二郎の側にもそこまでにいろいろあって、団地の一区画、思い出の育った場所、空間への執着なんぞ、もはやどうでもよくなりかけていたところだった。想いこそが、愛と呼びたいことこそが、ようやく、この臆病な男に芽生え始めていたのだった。

冒頭、二郎の父親の誕生日を同僚部下たちが祝う場面で、奇妙な気まずさが発生しているんである。それが、先述した二郎の元カノの参画であった。
演じる山崎紘菜嬢も、それまで何度か見かけてはいたけれど、本作でむき身の、生身の、女を見せたと、思う。

言ってしまえば山崎(同じ苗字の役名)は、二郎と長年付き合ってきた恋人、彼の両親にも気に入られていた彼女であっただろう。どたんばでフラれたにしても、恋愛なんてそういうもの、ということだとは思う。
でも二郎が彼女をフッて結婚したのが、コブ付きの再婚女であることに、まだそういうことに、この国のこの社会は、彼らの感情や経過も想像する前に、単純にえーっと思っちゃうのが否めないことを、この元カノの存在で更に明確にあぶりだされてしまって、めげてしまう。

敬太が死んでしまったことを、彼らの幸福をねたんで呪った自分の気持ちがそう導いたんじゃないかと泣き出す彼女は、こう書いてみてもあまりにも乙女チックで、ないない、と思うのだが、現実に幼い男の子が、自分の呪いの直後に死んでしまったことを想像すれば確かに……とも思う。
でもその元カノにわざわざ会いに行って、慰めのキスまでしちゃう二郎は甘すぎる。それを見抜かれて、目と目を合わせられない彼のことを山崎は諦め笑いのように口にする。

目と目を合わせられない、というのは、奥さんの妙子も気にしていること。いつからなのか。結婚直前までいった山崎を捨てて、妙子と結婚した、その経過がどうだったのかは明らかにされないけれど、この悲劇的な事故、警察から非情な取り調べで明らかにされたのは、二郎が敬太を籍に入れていないことだった。
親に認められるまでは、というのが夫婦の共通認識であったけれど、妙にしつこく聞かれて、二郎が敬太を息子にしたくないんじゃないかと言われてる気がした。いや、実際、そう二人は感じて……決して決してそうじゃなかったのに、敬太は二郎になついていたのに。
そこに実の父親が現れて、ドラマティックに妙子にビンタしたりして、それから自分にもビンタしまくったりして。砂田氏演じるパクが、まさしく切り開く。ドラマティックに、強引にさえ見える形で、切り開く。

言ってしまえばこのパク君は、クズなのよ。最後の最後に、前の奥さんとの間の息子の結婚式に出たいがために、父親が危篤だとウソついて、妙子夫婦に金を借りるというシークエンス。おーい、コイツもバツイチだったのかよ!!と言っちゃいけないツッコミを心中でしちゃう。
この場面は、二郎が元カノとケリをつけて、戻ってきたところでの妻とその元夫とが仲良くやっているところに遭遇、というところからの展開である。

上手いんだよね。それに気づくのが、カラス除け、でも効くのかどうか、おまじないみたいなもんです、だなんて妙子と姑が会話していた、懐かしのCDを軒先にぶら下げるというアレである。その盤面が太陽光を反射して、向かい側ベランダで楽しそうにしている妙子とパクの様子に二郎が気づいちゃう、ってことになるんである。

ろう者に限らずマイノリティ、多様性を、だって実際、さまざまな個性が生きているんだから、というのを、いかに映画(に限らずだけど)に描いていくというのはものすっごい課題だと思うんだけれど、本作に関しては、成功だったと思うなあ。
クズ男なのに可愛らしく、憎めないのがズルい!!でもきっと彼自身は一生懸命で、今やれる最大限のことを考えて考えてやってるんだろう、みたいなチャーミングさで、ヤラれてしまう。

本当に、笑っちゃったよ。妙子はこの元夫と敬太という愛息子を得て、幸せに暮らしていたんだろう。なのにある日突然、夫は行方をくらます。訳が分からず必死に探し回るうちに、二郎と出会う。妙子自身は逡巡があっただろうが、結婚。
逡巡は、妙子以上に、いや、妙子とは違う種類の逡巡で苦しみながらも、彼女を愛するがゆえに元カノを切り、敬太を息子と迎えて結婚した二郎の深い決心を物語後半ではそうかそうかと判っちゃうからさぁ。
憎めないものの、苦しんでいることが判るものの、それ以上に妙子がパク君を捨てきれない。なんかやけぼっくいに火が付きそうな、可哀想、私が、私だけが彼を!という感じになってきて、これは危ないなあ……となってくる。

なんかね、良かったのかもしれない、こういう結末が。決してね、コミカルにごまかしたということではないよ。でもコミカル。パク君が、思いがけず、思った以上にクズ男だったというだけ(爆)。
これが、本当に、なんか、優しさを感じたなあ。妙子は彼に結婚歴があったことさえ知らなかった訳でしょ。しかも自分にしたのと同じように、前の妻子も捨て去った訳でさ。

その、前の奥さんは許さない(当然!)のだが、息子は自分の結婚式に来てほしいと思った。その手紙を、父親が危篤だから旅費を貸してほしいとカマしやがったことが明らかになっても、……なぁんか、憎めないんだよなあ。
なんか、脱力しちゃう、ひざから力抜けちゃう。パク君だって、敬太の死に打ちのめされていたし、妙子とその点で和解して、妙子はちょっと、やけぼっくい感情に目くらましされたっていう、韓国への道行きだった。

でも、違うのだ。パク君は愛すべき人物、敬太の死にちゃんと哀しんではいたけれど、彼自身の人生もあって、成人して結婚した息子がいて、その事実を妙子に言えなかったというのは判るにしても、案外あっけらかんと幸せそうなのが、なんか、グッときてさ……。
息子ちゃんがね、妙子と、口話より手話ですんなり通じ合えるのが泣かせるのよ。手話は言語より世界共通の部分が多くて、すぐに意思疎通しやすい、と聞いたことがある。本作にもその空気を感じて、素敵!!と思ったなあ。

結局はさ、妙子が悄然と戻ってくるのは……息子の敬太にしても、元夫のパク君にしても、……あらゆることで、自分がいなければ、支えてあげなければ、といのを、ことごとく崩された、ということ、だったんだとしたら、うわー……キツいな。
日本って、日本語って、排他的で独特だからさ、残酷だしさ……。パク君が息子の結婚式ではしゃいじゃって、息子が真摯に妙子に対応して、で、豪雨で、もう、妙子は置き去りなのよ。ザーザーぶりの中で、ずぶぬれのまま。

二郎と妙子が相対する、その前の、パク君と、逃げ出した猫を探すシークエンスも含めて、すっごくヒリヒリするのだが……。猫が出てくると、もう過剰反応しちゃうしさ(爆)。
ああでも、辛かった。辛かったのは、何でなのか……やっぱり、さあ、今度は孫、というあの台詞。子宮か!とお腹を押さえちゃったよ。……産めるもんなら、ですよ。それぞれ事情があるじゃないっすか。それを、さああ、と、こんな具合には大抵フェミニズム野郎は苦悩する。みんな、頑張れ!!★★★★★


ラプラスの魔女
2018年 116分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:八津弘幸
撮影:北信康 音楽:遠藤浩二
出演:櫻井翔 広瀬すず 福士蒼汰 志田未来 佐藤江梨子 TAO 玉木宏 高嶋政伸 檀れい リリー・フランキー 豊川悦司

2022/5/4/水 録画(チャンネルNECO)
ミステリ苦手なこともあるし、東野圭吾という作家さんが極めて精緻なストーリーテラーだということも判っていたから、公開時はついつい避けてしまったのかもしれない。
そして原作や原作者が有名であればあるほど、どうしても整理せざるを得なくなってしまう映画という尺において、原作が未読だということが、いくら映画作品とは別物とはいえ、鑑賞者として不完全な部分があるかもと、身構えてしまう。

そんなことない、そんなことはないんだけど。だからついついウィキペディアなんぞを覗いて、確かに落とされたり変えられた設定やエピソードはあるみたいだけど、基本的なものは変わってなさそうでホッとするあたり、小心者すぎるか(爆)。
未読だから恐らくとしか言いようがないんだけれど……きっともともとはあくまでフラットな三人称で描かれているのであろう物語を、青江という地球化学の研究者(教授ではあるけれど、研究者、学者と言った方がキャラ的にしっくりくる)をいわば狂言回しにすることによって、彼がつぶさに見届けることになる驚くべき展開を、私たちも彼の目を通して見ているような気になる。

あ、もう一人いるか。青江とほぼほぼ同じ位置と視点をもっている人物。不可解な中毒死事件の真相を追う刑事、中岡。青江はその事件が自然発生の事故になりうるかどうかの調査を依頼された立場として、彼と出会う。
いわばこの二人が、いろんな秘密を抱えているいろんな人々に出会い、その秘密を小出しに見せられ、しかしその関係者の誰もが思いもよらなかったどんでん返しのクライマックスに陥るんである。

ああ、もう、めんどくさい。こーゆーオチがある壮大な物語は、オチを言いたくて言いたくてうずうずしちゃう。とりあえず言いたいのは、ここには数学(化学というべきか、確率というべきか)と映画という、まったく対照的な、理系と文系の、なのにそのどちらにも、神が宿ると信じている輩がいるんである。
確かに平和な論理や会話上でならば、そんなことはいくらでも言える。数学も映画も、時に神が舞い降りたと、それを信奉する人たちが思うほどの深遠さがある、のであろう。

でもそれは、信奉する人たちが神なのではない。独裁者が神と勘違いするように、本作の中では映画を信じたヤツがその勘違いに陥った。
哀しいことだ、映画ファンにとってはさ。数学の方は……悪魔に魂を売り渡したという自覚をもって、この勘違いカミサマヤローをぶっ殺した、という図式なんである。

ああもう、なにもう、訳判らん。抽象的にばかりなる。これは不可解な中毒死事件から端を発する。遠く離れた温泉地で、共に硫化水素の中毒死。屋外で硫化水素によって自殺したり殺人を犯したりするのは、不可能に近い。
近い、というところに中岡刑事がかみつく。青江はあくまで学者として絶対はない、という意味で言ったに過ぎないのだが、結局はまさに、可能性はゼロではない、というのはまさしくだったのだ。神、いや悪魔、いや魔女が、存在したのだから。

タイトルとなっているラプラスの魔女は、広瀬すず嬢演じる羽原円華が青江に、君は何者なんだ、と問われた時に返す台詞である。ラプラスというのは、円華と謙人が得た驚異的な予測能力、それをはるか昔に提唱していた数学者の理論である。
その場のすべての可能性を瞬間に計算しつくすことが出来れば、預言者のように未来を予測することが出来て、つまり神のように何もかも見通せるということを、あくまで数学的見地によって可能性を示唆した伝説の学者。

すず嬢扮する円華が幼い頃、母親を竜巻で亡くしたところから物語はスタートする。これまた全く違った家族の悲劇を抱え持つ謙人と出会った時、すでに彼はラプラスの悪魔の力を得ていて、それでも雷や竜巻といった乱気流を予測するのはまだまだ難しい、と言った。
でも可能性があるのだと、円華はとった。だからその危険な被験者に自ら名乗りを上げた。自分が駄々をこねて予定を狂わせたことによって母親を死なせてしまった、と思っていたから。奇しくも謙人にその力を授けたのが自分の父親だったから。それこそ悪魔のような運命の出会い。

謙人の父親は鬼才として知られる映画監督、甘粕。演じるのが豊川悦司氏だというんだから、もう波乱は承知の上、である。硫化水素、かつては自殺の手段としてハヤリぐらいな知名度。その硫化水素自殺を図ったのが甘粕の娘で、家族が巻き込まれた、というのが最初の認識だった。
家族を愛する映画監督としてのイメージを世間に向けて信じさせていた甘粕だから、この事件は悲劇でしかなかった、のだが、観客にもそう見せられてきたのだが、中盤、いや、中盤の後半あたりになって、急激に雲行きが怪しくなる。

一人生き残った息子、謙人のことだって、甘粕にとっては計算外だった。でも生き残ったことで、映画的にはドラマになるだろうと甘粕は喜んだ。
そう、そうなのだ……映画の神が宿ったとうぬぼれたコイツは、完璧な家族が自分に用意されなかったことを不運に思い、ならば家族を作り直そうと殺しを計画。
息子を殺しそこなったが、それこそドラマティックな映画の神様が舞い降りたと喜んで……植物人間状態、かすかに意思疎通ができるようになっても、どうやら記憶喪失になっているらしい息子とのエピソードを感動的なブログにしたためて、なにやらイチモツ腹に飲み込んで、行方をくらましてしまう。

こういう構図はあくまで、オチがすべて明らかになった後半になってからのことなんで、でもまあ百戦錬磨のトヨエツ氏だから、そんな一筋縄ではいかないだろうなというのは薄々思ってはいたけれど……。
キーマンとなる謙人を演じるのは福士蒼汰君。途中までマジで中川大志君だと思ってた、ゴメン(爆)。甘粕の若き日の写真がだんだん福士君に似せてくるのは、ちょっと合成してるんだろうなあ。なんとなくそのあたり、ゾッとホラー的な気分も感じてしまった。

謎の美少女、円華に振り回される中で、しかし目の前に信じられない現象、ピンポイントに立たされて、そこにピンポイントでドライアイスの流れをたまらせる、あり得ない!!現象を見せられた青江は、信じざるを得なくなる。
てゆーか、もうこの前に、円華の父親である極秘研究機関のトップである羽原から、まさに国家機密を打ち明けられてコンランする青江。

中岡は刑事として、素直に国のために働いていると信じているが、素直に国のために働いているのは同じなのに、中岡とは対極の、公安というやつらが不気味に立ちはだかるのだ。
将来的には国の戦力になる研究だからというだけなのか、なにかそこにはきな臭いものがあるんじゃないのか。
まさしく神レベルの能力を持つ謙人や円華は、黒服の男たちに包囲され自由がない、だけれど、なんたってすべてを予測できる彼らだから、あっさり逃げ延び、こんな物語も出来上がる訳で。

クライマックスは、ハリウッド映画もかくや、それこそインディジョーンズを思い起こさせるような、廃墟ぶっ飛ばしだった。謙人はにっくき父親を、ずっとずっと、廃人のクソ芝居を決め込んでいた父親を、相手が自分を殺すつもりなのを承知の上で、相打ちを望んで、呼び出した。
ああもう、物語が緻密過ぎてここまで全然言えてないのは判ってるんだけど!!

なんだろうねえ、なにかなあ……見た目はメッチャエンタテインメント、なんたって桜井君だしさ、三池監督だしさ、広瀬すず嬢、福士蒼汰君、胸時めく布陣だしさ。
でも……数学と映画の神様、特に後者がさ、映画ファンとしては、結構よく使っちゃうワードで、どんだけ神様いるんかよとツッコミたくなるようなさ。でも、そう……神様なんてそんな量産しちゃ、いかんのだよ。

本作を、リアルタイムで観ることなしに、今こうして接すると、ああもう、映画業界、いろいろ起っちゃったじゃないですか!
言いたかないけど、それこそ、映画の神様だと、だから何やってもいいんだと、オレは神に愛されて日本に、あるいは世界に認められる作品作るし、役者にチャンスを与えるし、経験値与えるし、ブレイクさせるし、みたいな、だから、俺様神様みたいな、さ……。
こんなタイミングで観ちゃって、ヘンに内容とリンクさせちゃうのも違うんだけど、なんかね、妙に、妙にさ。

ラスト、青江が円華に問う。未来が見えているのかと。円華が青江に言う。知りたいですかと。青江は当然、やめときますと言った。そりゃそうだろう。それが幸せに違いない。ということは、円華は、そして、行方がしれない謙人は……。

自分もろとも、にっくき父親を殺すために、乱気流が起きる、父親自慢の映画セットの場所に誘い込んだクライマックス。父親に使われて自分の家族を殺した映画プロデューサーと売れない役者を殺すために、プロデューサーの奥さんを巻き込んでの、この事件だった。
奥さん、経過の関係を語られるだけで、ラストシークエンスではめっちゃボッコボコにされて気の毒なんだけれど、自分の意志で、とゆーか、謙人君から利用してごめんなさいと言われて、違うと。自分が利用したんだと毅然として言い放つのは、凄く、意志を感じられたかもしれない。

強い役者布陣がある割には、こうして思い返してようやく、真実にたどり着けるような気がしている。
一番のパワーアクター、豊川氏が、本当に最後の最後のバクハツだったから、観客側としては、えっえっえっ!?という感じだったというかさ……。太刀打ちできないもんなあ。★★★☆☆


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