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母さんがどんなに僕を嫌いでも
2018年 104分 日本 カラー
監督:御法川修 脚本:大谷洋介
撮影:板倉陽子 音楽:YOSHIZUMI
出演:太賀 吉田羊 森崎ウィン 白石隼也 秋月三佳 小山春朋 斉藤陽一郎 おかやまはじめ 木野花
もう昨今はこんなニュースは途切れなく聞くし、そういう現実があるってことは判ってるんだけど、ニュースになるっていうことは、ニュースにならないそういう子供たちが、もっとずっとたくさんたくさんいるってことなのだ。
そしてその一人がなんとかなんとか大人になってくれて、そしてクリエイターとしてそれを発信する人になってくれた。なってくれた、という言い方をしたくなっちゃう。
既に原作であるコミックエッセイや小説は大きな話題になっていたという。知らなかった。そして原作者である歌川氏は、ゲイであるということも知り、なにがしかの感慨を持つ。
本作に関しては尺の問題もあるだろうからか、そういうアイデンティティに踏み込んだ描写は見られなかった。ただ、タイジが社会人になって、後に大の親友の一人となる同僚の女の子に声をかけられた時、そして彼女の恋人を紹介された時、どちらもまったく彼女に対して異性間の緊張感とか期待感を感じない描写になっていたから、ちょっと不思議だったのだ。
それはストレートがまず当然、と思ってしまう価値観がやっぱりまだまだあるのだなとの思いもあるが、そのアイデンティティにまで踏み込まなくても、原作や原作者の大切なところまできちんとすくい上げていたんだなと思い、これまた胸が熱くなる。
そんなアイデンティティもそうだけど、例えばお姉ちゃんは虐待されている弟のことをどう思っていたのだろうとか、後に虐待しているお母さんもまた、自分の母親に虐待されていたということが判明する場面もあるのだけれど、それは掘り下げないんだよね。
これはかなり、勇気のいる決断だったように思う。目の前で虐待されている弟を見てお姉ちゃんだって苦しまなかった筈はない、自分が虐待された過去を持つのにそれと同じことをしている自分に苦しまなかった筈はない、という、いわば作り手としては義務感というか、それで感動を引き寄せようという欲とか、すべての人に目配せが行っていると思われたいという欲とかが、出がちな人っていうのは、やっぱりいるじゃない??
潔いと思ったなあ。あくまでタイジという青年に寄り添う形で、その主軸からぶれることなく作品を紡いでいった。そしてぶれなかったのはもう一つ、タイジが、こんな目に遭ったのにやっぱり母親のことを好きだということ。
私はね、本当はこれを、肯定したくはないんだ。それこそこういう事件がニュースになると、「子供は皆お母さんが大好きなんだから」としたり顔で言う教育評論家やらコメンテーターが本当に大っ嫌いだった。
こんなことされるなら、嫌いになるべきだと思ったし、そういう考えは親は正しい親であるべきだということを押し付けていると思ったし、そしてほとんど「大好きなのはお母さん」であるということも、フェミニズム野郎の私の神経を逆なでしたのだ。
凄く理不尽で、不公平な気がした。母親にも子供にも。こんな親なら捨ててオッケー、子供を愛せないなら早めにそれを自覚してしかるべき処置をするべき。それぐらいに思っていた。
今も思っているかも、しれない。それこそ劇中、どうしても息子を疎ましく思う母親が、肥満児矯正を言い訳に養護施設にブチ込んだ時、むしろそれは一つの選択肢よねと思ったぐらいだった。
ただ、あの時、何よりもタイジ自身が母親と離れることに一番の抵抗を示したことが、私の心臓を撃ち抜いたのだ。あんなにあんなに、ひどいことばかりされているのに。確かに大好きなばあちゃん(会社のベテラン従業員)と離れるということやいきなりの転校という環境の変化のこともあったろうが、学校でもいじめられていたし、なんか私は、むしろ賢明な選択ちゃう??と思ってしまったのだ。
タイジがショックだったのは、大好きなお母さん……いや、お母さんに捨てられた、という事実そのものだったのか。判らない。私にはなぜここまでされて、なのにお母さんが変わらず大好きなのかが判らないのだ。だからこそ厄介な感情なのだろうけれど。
幼少期のタイジを演じる子がぽちゃぽちゃでなんか素朴で凄く可愛くて、彼を見ているだけで涙が出ちゃう。太っているというのは、確かに子供時代は単純にからかいやいじめの対象になる。家でも学校でも心休まるところがないタイジだけれど、ただ一人の理解者、ばあちゃんに自作の絵本を見せて過ごす時間がなにより穏やかな時間なんである。
ばあちゃんを演じるのは木野花。もう、それだけでマジ涙出る。後半、大人になったタイジが余命いくばくもないばあちゃんに会いに行く場面があって、ばあちゃんの弟がおかやまはじめ氏がまたもう、見てるだけで泣けてくる。ちょっとコロコロとしていて控えめな笑顔が心をつかんじゃうおかやま氏は、そうだ、きっと、幼少期のタイジのそれを思い出させるのだ。
ばあちゃんがタイジを可愛がってくれたのは、この弟の面影があったからなのかなぁ、などと夢想する。余命いくばくもないばあちゃんの元に寄り添っているのはこの弟だけだったし、家族とかいないような雰囲気があった。このばあちゃんにもきっと、いろんないろんな人生があったに違いない。
養護施設から戻ってきてすぐに、連れ去られるようにタイジは母と姉と共に引っ越しをする。父親と離婚をしたからである。後にタイジを虐待した理由が、タイジを妊娠中に夫に浮気されたからというのが提示されるのだが、母親同様これまた子供に対してまるで冷たい父親で、大好きな斉藤陽一郎だからさー、なんかフクザツな気持ちなんだけど。
彼はなんつーか、普通の男で、イケメンでもないし(爆。ゴメン!)だからこそなんだか……怖いんだよね。お母さんを演じる吉田羊はさ、凄くキレイで、だからタイジも自慢のお母さんで、周囲のコミュニティの中でもリーダー的存在だったりして。
ただ、自分の言うとおりにならないことに対しては他人を制圧したり、そういう裏の面をタイジは見てきた。このお父さんに関しては、裏どころか最初からただただ、妻に対しても子供に対しても傍若無人なばかりである。妻を愛したり子供を可愛がったりする場面は一つもない。
実際はどうだったのかは、判らない。母親を子供は無条件に慕う、というなんていうか、呪縛のようなものをちょっと先述したけれど感じなくもなく、そういう点でいえば、この夫は不幸な人だったのかもしれないと思ったりもするのだが。
高校生になっても母親に疎まれ続けたタイジは、しかも包丁で切り付けられさえし、もう限界で家を飛び出す。この映画の冒頭は、母親の得意だった、自分も子供の頃から大好きだった混ぜご飯をタイジ自身が鼻歌交じりに、楽しそうに作る場面がから始まり、何か楽しい映画が始まるのかなぁなどという錯覚を起こしそうになる。
それ以降の過酷な虐待人生に、うわ、騙されたと思うが、結果的に冒頭のこの場面に戻って行った時、ああ、彼は、そんなすべてをまさに死ぬ思いで受け入れて、今から人生が始まるんだなぁと、思ったのだ。だから映画の冒頭だったんだと、思ったのだ。
タイジがとある劇団の団員募集にいきなりやってくる、というのも、かなり鮮烈な描写である。冒頭も冒頭なので、タイジがどういう人物なのか、どんな過去があるかさえ判らないけれど、それでも、い、いきなり??という気持である。
この劇団のスター俳優でありかなりのおぼっちゃまらしいキミツとは最初からバチバチである。しかしてキミツはなぜか“庶民”のタイジにやたら興味を示してくっついてくるし、イヤなヤツ、と毛嫌いしているタイジもなぜだか振り切れず、それどころかイヤなヤツだと思うその気持ちを歯に衣着せずにばんばん彼にぶつける。
これはもう、運命の出会いだと思う。キミツはタイジのその笑顔が本当のものではないことを最初から見抜いていたし、タイジはその指摘があったからこそ、キミツに知らずに心を開いてしまったのだろう。
キミツを演じる森崎ウィンのいい感じのワザとらしさがなんとも、イイ。一体彼、何者??すみません……ちょっと無知で、彼のことは全然知らなかった!!
キミツと、会社の同僚の女の子カナ、その恋人の大将が、かけがえのないタイジの親友たちとなる。彼らはタイジのすべてを受け入れてくれるが、この時もまだ、彼らがタイジの抱えている母親への葛藤に、立ち向かうべきだと、このままでいいのかと言うのが、いいじゃん、あんな母親なんて捨てちゃえばいいじゃん、なんでそのために苦しまなきゃいけないのっ、と思っていたのだ。
でも、でも……。ごくごく幼いころから10何年も、あんなに殴られて罵倒されて人格否定されて、「そんなに母さんは僕を嫌い!?それでも僕は絶対に死なないから!!!」と叫んで、母親に切りつけられた腕から血を流しながら泣きながら家を出たタイジが、それでもやっぱり好きなんだと、母親が大好きなんだと。
ばあちゃんに当てて出せなかった手紙にも、彼はそう書いていた。まさにタイトルとなった言葉、それでも大好きなんだと。どうして、どうしてなの!?判らないよ。辛いよ。
再婚相手が死んで、家族席に誰もいないのがみっともないという理由だけで十何年ぶりにタイジを呼び出した母親に憤るのはもっともだったけど、でも彼は、立ち去りがたかった。老眼鏡をかけて夫の事業を引き継いで黙々とパソコンを叩いている母親は、あの頃の華やかさからはすっかり離れて、年老いていた。ほったらかしの薬、隠してあった督促状、今は亡き夫の愛情の思い出にすがって、どうしようもなくなっていく母親をそのままに出来なかった。
あの頃と同じように彼女はタイジを罵倒するけれど、やはりどこか弱々しくて、そして脳梗塞で倒れた。キミツと一緒に病院の外で着ぐるみパフォーマンスをするタイジの描写は若干、やりすぎちゃうかなーと思わなくもないけれど、この物語はこんな風に全編、深刻になりすぎるのを注意深く避けている感じがあるのだ。
母親から10数年虐待を受けた男の子の物語だもの。そりゃあ、もうずっぽりド深刻になって当然、不思議はない。でも、先述したように冒頭から、鼻歌まじりに料理をしている冒頭から、明るいのだ。彼の人生は、いや誰の人生も、間違っていたということはなく、間違っていたと思ったとしても、どこからでもいつからでも急ブレーキ、急カーブを切れるのだと。
母親とはね、最後まで別に、私が悪かったとか言ってオイオイ泣き崩れるとか、そういう決定的な根本的な解決が図れる訳じゃないのよ。ほんの一瞬、母親の過去が明かされることでハッとなるけれど、だから許すとか許されるとか、そんな単純なことじゃないのは、勿論作り手自身が判ってる筈だから。
リハビリが始まり、ようやく自己破産に同意して、息子が母親の味を再現した料理にしんみりと美味しいとつぶやく。弱った、ということかもしれない。でも、「タイジがいてくれて良かった。ありがとう」とこれまた、小さな小さな声でつぶやいた時に、それまでも涙っぽかったタイジが、もうみるみる涙涙で、観てるこっちも涙涙涙涙で。
ずっとずっと長い長い間辛くても、こんな一瞬のこんな一言で、救われることって、あるのかって。もう涙が止まらねーっす。太賀君、羊さん、ありがとう。
余命いくばくもないばあちゃんと再会して、まだ母親の呪縛から逃れられていないタイジに「タイちゃんはブタじゃないんだよ」と言い、それを何度も彼自身に連呼させた、あの大号泣シーンが忘れられない。僕はブタじゃない、僕はブタじゃない!!涙と鼻水をヨダレをごちゃごちゃにして吠え続ける太賀君に嗚咽が止まらねーんである。
身内じゃない大人で、支えになる人がいたというのは、タイジにとってなんという幸運だったろう。きっとその幸運がなかった子供たちがニュースになってしまうのだと思うと……これをただ単なる感動作と言って済ませる訳には行かないのだ。★★★★☆
主演の中川大志君はそもそも、そんなキテレツ系映画で井口監督とタッグを組んでいたというんだから、ますます持って惜しい!(というのもヘンだが)んである。
本作で彼が演じるのは、小さなころから女子にモテモテの、自ら言うところの“愛され男子”。しかし友人がビシッと指摘するところによると、一度も彼女が出来たことがない、観賞用でしかない男子。
そんな彼が一念発起して、彼女を作ってやる、それもこの俺様にふさわしい、難攻不落の女子を落としてやる!!とアタックしたところが、その鉄壁女子にあっさり跳ね飛ばされ、これが逆に恋に落ちちゃったという、まー、少女漫画王道まっしぐらのストーリー。
中川君は私、NHKの「LIFE」のイメージしかない、ゴメン(爆)。だからこそ彼には弾けるコメディを期待したが、出来そうな気がしたが、なんかなんか、見ていて恥ずかしくなるばかり(爆爆)。
確かにそのキャラ通り、やたら整ったお顔立ちは逆にコミカルに転化できる可能性を大いに秘めているのだが、コメディほど難しい芝居はないのかも……などと改めて思ってしまう。
彼らと一緒にきゃいきゃい言ってる男子三人も似たり寄ったりで、キメ台詞とキメポーズをやたらと繰り出すばかりで盛り上がってる感にリアリティが感じられず、もー、見てられなーい!!という感じである。
いやー、ヤハリさ、井口監督、こういうの撮り慣れてないんじゃないの(爆)。エロ雑誌に盛り上がるなんていうベタな場面ですら、わざとらしさ感があふれてちゃもうどうしようもないもん。だからだから、キテレツじゃなきゃいけないのにー!!
何よりガックリなのは、“難攻不落のクールビューティー”である。いやいや、全然クールビューティーじゃない、フツーの女の子じゃん。美少女ですらない(爆。ゴメン!)。
これが「寝ても覚めても」のあのコだと後で知って衝撃を受ける。うっそでしょ、あの作品は本当に素晴らしく、今年のマイベストに必ず入ってくると思われ、それにはこの、今まで見たことのなかった女優さんが、10代最後の夏、大恋愛しました!!と吐露したほどの魂の芝居があったからであり。
別人28号。いやさ、作品のカラーも違い過ぎるとはいえ……あぁー、あぁー、役者さんって、作品との出会いでこんなにも変わるものなのね……いや、井口監督と出会ったからこその役者さんもいるとは思うが……だってこれは井口監督印の作品じゃないんだもぉん(しつこい)。
とにかく、まぁ、その、この“クールビューティー”(じゃないけど、全然)唐田えりか嬢扮する三輪美苑に逆に恋に落ちちゃう、中川君演じる古谷斗和。美苑が他の女の子のように彼になびかないのは、後に明らかになるように美術教師に恋しているということもあろうが、幼い頃父を亡くし、水商売の母親と二人暮らしで、自身もアルバイトをして生計を支えながら暮らしている、その、現実がしっかりと見えていることがあるのであろう。
しかしてしかして、この設定も、何百年前よ、とツッコミたくなるほどベタ中のベタである。彼女についていった先が、コーポとでも言いたい、二階建て、表階段のあの感じよ、そして斗和はポストをぶっ壊しちゃって美苑はクールに「いいよ、大家さんに言っとくから」後に道具箱を携えて斗和は直しに来る。あぁ、なんて少女マンガ。トンカチでケガをした彼を部屋に上げる彼女。あぁ、なんて少女マンガ。
しかも借金取りまで現れる。ベタすぎて死にそうになる。しかもそれが、ただビンボーと言うんじゃなく、母親が夫に死なれたショックで高額買い物にハマり、しかし今はマジメに働いて返しているのだが、という死ぬほどベタ過ぎる設定。てゆーか、マジメに働いて返しているのなら、つまり、少しずつでも決まった日に返しているのなら、あんな風に取り立ては来ないと思うが。なんか説明と矛盾してるんだよなー。
しかもそのこわーい取り立て屋さんが、そんな同情すべき(かどうかは判らんが)事情を、美苑に恋していると見抜いて斗和に話すってのもね。そんな優しい気持ちがあるんだったら最初から、あんなコワイ取り立てするなっての。
このあたりは、あまりにテキトーな展開なので、かなりボーゼンとするばかりである。荒川良々が出てきたとたんに、あぁ、やっぱり井口監督だよねとホッとはしたけれど、それだけで。
ところで、その美苑が恋している美術教師である。そもそも美術教師というのが、また、ザ・少女漫画である。美術教師か音楽教師だよね、大体さ(爆)。
うっわ、徹平君、年取った(爆)。最初の登場で、その目じりのしわにめちゃくちゃ老いを感じてしまって、正直凄いショックを受けてしまった(爆爆)。
私の中では彼は永遠にさわやかな青年なのよ。特に刻み込まれているのが「ラブ★コン」だったりするので……(おいおい、12年前だぞ)あぁ、高校生役だったカワイイ彼が、大人の男として主人公に嫉妬される対象になるなんて……(涙)。
美苑の亡くなった父親は、イラストレーターだった。遺影の雰囲気も、確かになんとなく、徹平君演じる美術教師に似ているんである。まだ恋愛も未経験、幼い頃亡くした父親へのファザーコンプレックスは、徹平君がそらまー、まだまだ10代の女の子にキャーキャー言われるぐらいの風貌であるのを考えると、恋と混同しても仕方がない。
ただねぇ、ひとつ、惜しいなぁと思ったのは、美苑の母親、つまり、愛する夫を失って、一時爆買いに走ったほどショックを受けた母親、というのが、全然出てこないことなのだ。
こーゆーのは設定だけで満足しちゃうコミックス原作モノに確かにありがちではあるのだが、ただ、斗和側の両親は、とっても愛し合ってる感じで、それを息子も尊重している感じで登場させているし(これは、良かった)、なんたって借金の取り立て屋が、実際に取り立てている美苑の母親を気遣うそぶりさえ見せているんだから、やはりここは、登場させてほしかったと思う。
正直、いくら設定をかまされても、常に美苑だけがあのボロアパートにいるというのは不自然だし、強引に斗和が隣に越してきて“食事だけ”の関係になるのも、母親全く無干渉かよ!と思っちゃう。
確かに、食事に関しては美苑がバイト先からもらってくる売れ残りだか不良品だか判らないけど、大量のパン、という寂しい状況、それを補うのが斗和であり、母親は食事を作ることも出来ないほど忙しいのだろうが。
でもでも、斗和と一緒に食事をとったりして、そのことをまるで気にしないというのもおかしい、そんな訳ない。なんてゆーか、母親はいる筈なのに、それが口先だけの説明で、全然気配を感じないのよ。なんつーかまぼろしで、斗和と美苑の二人の関係を成就させるためのカキワリセットのように思えちゃう。
それは取り立て屋も含めてね。あまりにもリアリティがなさすぎるんだもん。取り立て屋との一件(隣の斗和の部屋に逃げ込む。うわー、少女漫画!!!)なんかあったら、助けてくれた娘の同級生になにも挨拶ナシは、おかしくない??
こーゆーところが、コミックス原作で時折感じる、苛立ちにも似た物足りなさ、なんだよね。勿論恋は当事者同士だけで十分だが、そこに介在させてくるのが恋のライバルの美術教師だったりすると逆に更に、彼らにとってもっと重要な人間関係はそこじゃないだろ……と思ってしまったりする。
斗和の両親を好ましく登場させているから余計である。しかし、恋する女の子のために一人暮らしを「父親は応援してくれた」てのは、あまりにもあまりだけどねえ。
斗和が、美苑が恋している美術教師に勝てないと痛感しちゃってて。だってこの先生も美苑のことを心配していて、進学のことや、金銭的な理由で学校のイベントに参加できないと知ると、“助手”という形でそれをクリアさせたりして、もう大人の男で、理解もあるし、実行力もあるし、もう太刀打ちできないんだもん。
徹平君はタッパはないし、カッコ良さで言えば十分中川君に軍配が上がるとは思うのだが、あの頭ぽんぽんは反則だよねー!!そういや「センセイ君主」でもあったな(あれは撃沈だった)。
最終的に、斗和は美苑のこの片想いに協力しちゃう。先生は家庭の事情で学校を去ることになった。こともあろうにその最後の別れの日、美苑は熱を出してしまって想いを伝えられない。
斗和は彼女に肩を貸して連れ出す。あの悪友たちが車いすをチャーターして駆けつけてくれる。車輪が壊れる。美苑をおぶって走り出す斗和。電車に乗り、空港に行く先生を探し回る。
いやー、あれで見つかるとか奇跡というよりご都合主義すぎでしょ(爆)。まぁでも、先生に好きでしたと、決死の告白をした美苑には、斗和につられる形でちょっと泣いちゃったけどね(爆)。斗和、感動してんじゃねーよ(爆爆)。
先生の対応はカンペキ。彼にとって彼女は特別ではあるけれどもやはり生徒でしかなく、彼女にとっても、恋のように感じてはいたけれど、やはり父親代わりでしかなかったのだろう。
その直後に「古谷君のこと、好きになった!」は早すぎだし、それまで彼女の前ではずっとヘタレ男子だった斗和がいきなり豹変し、「イヌは狼になる」とかいって彼女の唇奪っちゃうのは、いっくら、いっくら、いっくら少女漫画でもさぁー、せっかくヘタレがちょっと可愛かったのにと思っちゃうが、そーゆーギャップが望まれるということなのかなぁ。
中川君と井口監督のキテレツタッグが見てみたいっす。見ようかなと思うっす。その方が、きっと彼は似合っている。★☆☆☆☆
いやさぁ、こんなシビアな物語なんて思わなかったのよ。だってさ、風の中の子供で、みんなくりくりの坊主頭で半パンにランニングでさ、時にはふんどしで泳いだり、ふんどしもなくてフルチンで泳いだり(爆)、めちゃめちゃほほえましい子供世界が満載なのだもの。
なのになのに、彼らは、幼い兄弟、ケンカばかりしてるけど、でもとっても仲の良い兄弟、お兄ちゃんの善太と弟の三平は大人の厳しい世界に巻き込まれてしまうのだ。
大人、ていうか、親なのだから、それはしょうがないことなのだが、いやー……全く予期していなかった。もうすっかりほのぼののどかな子供映画だと思い込んでいた(爆爆)。
タイトルからのイメージもあったが、この“風の中”というのはそうした世間の風の中、という意味合いもあったのかなぁ。
中盤までは、本当にほほえましい子供世界に頬がゆるみっぱなしなのだ。夏休み前の終業式、通信簿を見せ合いっこしながらわぁわぁ帰っていく子供たちはちゃっかり荷車にただ乗りして、しかも群れなしてただ乗りして、そりゃバレて起こられる(爆笑!)。
甲が一つもない通信簿に怒られて、友達が遊びに来ても勉強しなさいと言われてぶんむくれる三ちゃん。一方、お兄ちゃんの方は割と優秀らしく、だから最初はこの兄弟はそういう格差でぶつかり合いがあるのかなとも思うが、三ちゃんのおばかな突っかかりに「お前はバカだな、バカバカバカバカバカッ」としか返せない、ちっとも論理的じゃないお兄ちゃんの善ちゃんも似たり寄ったりでカワイイ(笑)。
そして取っ組み合い。あー、男の子。お母さんはそんな二人、てゆーか主にちっとも勉強をしない三ちゃんに厳しいのだが、それもきっと、あどけないこの子が可愛くて仕方ないからに違いない。
そしてきっとお兄ちゃんも、ムキになって取っ組み合いしたりするけど、きっとこの弟が可愛くて仕方ないのだ。それが展開していくと、本当にしみじみ感じられて。
お父さんともども、家族がみんな、仲がいいんだよね。お父さんは「男の子なんだから、わんぱくでいいんだ」と、お決まりなことを言って奥さんを怒らせるけれど、でもそのお決まりを、このお父さんは本当の意味で大切にしているというのが、判るのだ。
私ね、すっごい意外だったのだ。この時代、だって戦前よ。もう家父長的、お父さんは怖くて、近づけなくて、しつけに厳しくて、ただ行ってらっしゃいと頭を下げるような、そんな昭和の父親像しか頭になかったからさ。
すんごくすんごくこのお父さん、子供たちが大好きで、子供たちもお父さんが大好きで、ステキなんだもの!!
お父さんはね、私文書偽造の疑いをかけられるんである。それをこともあろうに、兄弟の遊び仲間である金ちゃんから知らされるんである。
「お前のお父ちゃんなんか、会社をクビになって、おまわりさんに連れていかれるんだから」なんという直截な!怒った兄弟は金ちゃんをぶん殴って(汗)、真偽を確かめにお母さんの元に走るんである。
金ちゃんがそんなこと言ってた。殴ってやった。そんなことないよねぇ??あぁ、あぁ……なんてもうまっすぐすぎて、泣きたくなる(涙涙)。
お母さんは眉を曇らせる。その夜、子供の間にまでそんな話になっている、という言い方で夫に報告する。どうやら会社での立場が危うくなっていることは、もう夫婦間で共有する事態だったらしい。
もう次の展開で、四面楚歌になっているお父さんが描かれる。それを、子供たちが鈴なりになって見物しているんである!!
そもそも子供にこの情報が流れていること、恐らくここ一帯の家庭の多くが勤めている大きな会社なのだろうと思われるが、思いもしない描写にビックリする。
三ちゃんはお父さんにお弁当を届けに行っているのね。いつもお兄ちゃんにその役をとられていたのを、勉強は終わったからと言って(ウソだろーなー)、意気揚々と出かける。お兄ちゃんにお弁当をすました顔して見せびらかす様子がたまらなく可愛い。
でも届けた先はそんな修羅場で、お父さんは三ちゃんがいくら話しかけても呆然としたままで、煙草を指にはさんだまま止まっちゃって、三ちゃんは灰皿を寄せ、灰を指で落とし、しまいにはお父さんの指からそっと煙草をはずしてみても、お父さんは呆然としたまま気づかないのだ……。
状況から察すると、お父さんは工員たちに平等にお給金を配当するために動いたのが、きっと企業の汚い利害関係に巻き込まれたらしいのだ。
警察に連れていかれる。金ちゃんの言ったとおりになっちゃう。兄弟二人は子供たちからもすっかり村八分になってしまう。
あんなに無邪気にみんなでワイワイ遊んでいたのにさあ!大人の世界が子供に影響を及ぼすほど悲しいことはない。でもそれはどんな時代でも避けられないことなのだ……。
私文書偽造で会社の金を横領ということにまで発展していたんだと思う、家財道具を差し押さえられて、一家はにっちもさっちもいかなくなる。
おじさんと言う人が三ちゃんを一時預かりにやってくる。おじさん……どっち方のおじさんかなぁ。ちょっと判然としない。ピンとはねあがったヒゲがいかにもこの当時のおじさんといった感じ。
この別れのシーンでもう既に、そんなそんな、どうしてもそれしか方法がないの??と胸が痛くてたまらなくなる。この兄弟はじめすべての子供たちがそうなんだけど、愛しい素人臭さで決して芝居が上手い訳じゃないんだけど、だからこそその今しかない感じが胸に迫るのだもの。
たまらず泣きじゃくる弟の荷造りをお兄ちゃんが手伝ういたいけさがたまらない。おじさんの家は山を越えた遠い遠いところなのだ。ちょっと厳しそうなおばさんに、同じ年頃の姉と弟のきょうだい。
三ちゃんは決してそんなつもりはないんだけど、結果的には“いたずらばかり”してこのおじ夫婦を困らせるハメになる。
でも、おじさんは決してそれを否定する感じはなかった。彼もまたお父さんと同じように、本当の意味で、男の子なんだから、と奥さんをたしなめていた。
三ちゃんの破天荒に何度も肝をつぶして、時に馬を駆って助けに行く描写は、なんか胸が熱くなる。親戚とはいえ所詮は他人の子なんだけど、本当に心配して心配して、たまらなかったんだもの。
後に逸話として何度も繰り返される、「高い木に登ったり、たらいで川に流されたり、河童に会いに行ったり。曲馬団で曲馬のお稽古までしたんですよ」というフレーズが、もう最後の方になるとすっかりほほえましくなっちゃうというのが、三ちゃんの可愛らしさなんである。
このおばさんはいかにも厳しく、結局は扱いかねるという理由で三ちゃんを送り返し、こともあろうにお兄ちゃんの方なら代わりに引き取りますよ、とまで言うのだが、でも決して彼女も冷たいばかりではない。
最高だったのは、河童に会いに行った、とここんちの娘がいわば告げ口に来たのにびっくり仰天して、奥さんも、おじさんも、総出で飛び出して、しまいには村中の捜索隊が出動するという騒ぎになったこと、なんである。
「河童に会いに行った!?そりゃ大変だ!!」って、心配するのはそこ!?サイコー!
しかもその間、三ちゃんは曲馬団に紛れ込んで“曲馬のお稽古”をしていたってんだから更にサイコーじゃないの!
でもこのエピソードもさ、三ちゃんは、この曲馬団が、自分の暮らす町に行くからついていきたい、と思ってた、っていうのが、泣けるんだもの。そしてここで出会った少年、身軽に側転を披露して三ちゃんを驚かせたのが突貫小僧!そうなのかー。子役界のスター!!
三ちゃんがいない間、お兄ちゃんの善ちゃんが妄想かくれんぼをしているのが、衝撃であった。あれはそう、そういうことだよね?
いる筈のない三ちゃんの、まぁだだよ、もういいよ、という声が彼には聞こえている。みぃつけた!とふすまを開けたところに、三ちゃんが忘れていったグローブがある。それも判っているのに、彼は聞こえるはずのない弟の声を聞きながら、かくれんぼをしているのだ。
そしてそして……ついに気づいたのか、そもそも最初から判っていた筈、鴨居にかけられた着物に顔をうずめて泣きじゃくる。あの着物はひょっとして、お父さんのものだったろうか。しっかりしているお兄ちゃんだからと、たったひとりの男手として母親の元に残された彼の心細さを思うと涙が出る。
三ちゃんが帰されちゃって、お母さんはどうしようかと途方に暮れるのだが、当の三ちゃんが、僕はお母さんの代わりにご飯だって炊ける!と、お母さんを助けるから、と言うのには、もうそのけなげさいじらしさには、お母さんと共に涙を禁じ得ない。
おこげを作るなんていうのはお約束であり、そのおこげご飯をどーんとどんぶり山盛りにして、三ちゃんがやったんだから食べなさいよ、僕わりとこういうの好きだよ、という親子の会話には思わず噴き出しちゃう!
でも、お母さんが住み込みで働く約束を取り付けていた病院では、三ちゃんでは幼すぎると断られ、やはり三ちゃんは預けるしかないのか、お母さんは逡巡、三ちゃんは子供ながらに思い悩み、もういい子になって、いたずらもしない、叔父さんのところに行くと言うのだから、もう、もう!!
こんな、こんな幼い子供に、なんでこんなこと言わせるんだ!!高い木に登るのも、たらいに乗って流されるのも、河童に会いに行くのも、曲馬団で曲馬のお稽古するのも、最高にステキじゃないか!!素敵な男の子じゃないか!!なのに、なのに……。
お母さんが涙をこらえきれず、たもとで目元を押さえる、三ちゃんも、その胸に抱き寄せられる。でも三ちゃんは、えらいの。通行人が通るときちんと向き直って、お母さんに、帰ろうと促すの。男の子、素晴らしい男の子。この辛い状況の中で、お母さんを守る男の子として成長したのだ。
もう絶望的な状況と思われたところだったが、お兄ちゃんがお父さんの日記とそこに挟まれた決定的な証拠の書類を見つけ出し、急速に物語は大団円へと向かう。
こんなヒドい目に遭わされたのに、お父さんもお母さんも、やぁ、良かった良かった、とおじさんや仲間たちとなごやかに酒宴を囲むばかりなのが、う、うーむ、これが時代というものなのかもしれない(爆)。
でもね、子供たちはもう嬉しくてソワソワしてるの。大好きな大好きなお父さんが、嫌疑が晴れて帰ってきたんだもん!
庭から縁側越しの酒席を覗きながらちょろちょろ動き回って、お父さん、お父さん!お父さん!!盆栽の陰から顔をのぞかせ、画面の右から左へ走り去り、縁側の下から顔をぴょこりと覗かせる。なごやかに笑い合うお父さん、お母さん、そしてその他の大人たち。もう、泣く、泣く!!
そして久しぶりの相撲をしようと、お父さんが庭に出てきてくれる。ちょっと迷ったような感じを見せるあたりがリアルである。でも飛びついていく。しゃぶりついていく。
三ちゃんが泣きだしちゃうのには、もうこっちの涙腺も爆発である。おいおい何で泣くんだと、本当に不思議そうに言う大人たちに、ばかやろー、そら泣くわ!!と現代のワレラは思うんである。清水監督はどこまで子役ちゃんたちを演技指導したんだろう。朴訥な演技ではあるけれど、ウソがない、凄く、身に染みるんだよね。
ここで終わりかと思いきや、曲馬団が町にやってくるところを収めるのが、イイ!あの事件で子供たちの中でわだかまりがあったのが、三ちゃんが彼らを誘って曲馬団の行進に走っていくことで、もうすべてが氷解しちゃう。
三ちゃんの町に行くんだ、とこれは約束ということだと思う!突貫小僧が、おーい!!と三ちゃんに手を振る。子役ではあるけれど、もうこうなると彼も立派なプロの役者である。まぁ有名だしね。でもなんとも頼もしい感じが良かったなあ。
本当にね、兄弟の仲良しの感じが、心打たれた。お母さんに留守を言い付けられて、つまり差し押さえに来るかもというところに二人兄弟震えながら守ってる、それを打ち消すようにオリンピックごっこをしたりするのが、可愛いの!
水泳……前畑頑張れ、だよね、製作年度の前年のオリンピック金メダルだもの!第三コース、ドイツ人、とか言うのが可笑しい。そして弟を忘れて「あ、そうか。特別コース!」もぉー、可愛すぎる!不安が払しょくされると二人してでんぐり返ししたり、もうなんだかな、表現の仕方が可愛すぎるんだよな。もうもう。★★★★★
とはいえ、有名役者が出てくるわけじゃない。フィルモグラフィーを見れば何度も目にしている筈の人々だが、例によって顔を覚えられない私は、メイン級で出てきてくれなければ一致しないんである。そして、こんな素晴らしい役者たちを見逃していたのかと驚くんである。それも、タイミングというものだろう。
そもそもこの物語は、主演の松浦氏の実体験だという。クレジットで原案に名前を連ねているのを見た時から予感はしていたが、マジか、と思う。うっそ、壮絶。てことは施設育ちだというところから、友人を詐欺に合わせてしまったという展開から、それゆえに婚約者に去られてしまったというところまで、なのだろうか!?うわーうわーうわー。……だからあんな真に迫った芝居だったのか……いやいや!そーゆーことではないだろうけど!!
勿論、その出身も、実話なのだからそうである。五島列島。五島列島出身の俳優と言えばふと榊英雄を思い出したり……五島列島というレアな地域から(失礼かな……)、こんな素晴らしいクリエイターや役者を輩出するんだなぁ、などと思っちゃう。
島言葉ばりばりの親友二人のじゃれ合い、ぶつかりあい、そしてすべてを受け入れた二人のラストに、動悸が収まらないんである。やっぱり、この言葉があってこそだと思う。
勿論、そうじゃなくったっての力作。だからこそ国際的に評価されたのだから。でもこの……もう、そうよ、アイデンティティよ。それこそ島こそがかぞく、その母体、そういうことだったんじゃないかと思っちゃう。でなければ……だって、哀しすぎるんだもの。
だってね、つまりは、旭は五島列島で共に育った親友の洋人の方を優先しちゃったから、婚約者の佳織にアイソをつかされちゃったんだから!!
そう言ってしまえばミもフタもないのだが、結果的には旭は自分のアイデンティティこそを、つい、無意識に、優先しちゃったんじゃないかな……と思っちゃうのだ。だってだって、結婚を決めたほどに愛した女性、なのになのに……。
家族というものが判らないのだと、だから結婚が不安なのだと、久しぶりに再会した洋人に旭は素直に心情を吐露した。洋人の方はもう所帯を持っている。明るく「俺に出来るっちゃけん、大丈夫や」(方言がアヤしいのは許して)と肩を叩く。
その久しぶりの再会は、漁師である洋人にダイニングバーをオープンする予定だという喜多という男を紹介するために呼び寄せたのであった。旭はボクシングトレーナー、ジムに通ってきているいわば常連、疑うこともなかった。
結局その喜多は店をオープンすることもなく、洋人の収めた魚の代金を踏み倒して行方をくらましてしまう。松浦氏はなんたって実話なんだから本当にボクシングトレーナーであり、あの「百円の恋」でトレーナー役で出演しているという!!うわー、見直したい!!
旭は自分が孤児であること、家族を知らないことに凄く引け目を感じてて、それは婚約者である佳織が“普通の家庭で育った”と思い込んでいるから、なんだよね。普通の家庭、などというものは存在しない、というか、普通の家庭ってなんなのとも思うが、でも親がいてきょうだいがいて、おばあちゃんなんかもいて、なんていうのは、旭にとっては想像外のことなのだろう。
佳織はそんな“家族”を持ったことで苦しんでいる。“施設育ちで、安定した職業でもない”旭を認めようとしない母親は、それ以前にこの家から飛び出したことを思えば、佳織にとって忌まわしいともいえる存在なのだろう。
ため息をつきながらの帰郷(というほどでもない、都心に数時間で出られる距離だ)の、母親の、娘が帰ってきているのに、無視というにもヒドすぎる、見えていない、いやそれ以上の不気味な無表情にゾッとするんである。
妹がいる。こんな母親を押し付けられてさぞかしと思いきや、彼女は姉に理解があるんである。佳織も妹のことは気にしている。だから、この家族を捨てきれないのか。
もう一人いる。認知症がどんどん進んじゃっているおばあちゃんである。おばあちゃんがしっかりしているうちに式を挙げたい、それが佳織の願いだった。でももはやこの時点でおばあちゃんはほとんど恍惚の人である。
だから、旭が洋人の窮地を救うためにお金が必要になり、結婚式の延期を言いだした時、「言ったよね、おばあちゃんがしっかりしているうちに式を挙げたいって」と声を荒げたのは……彼女の意地というかなんというか、お母さんなんか来なくっていいから、私一人で幸せになれるんだから、ということだったのかもしれない。
一見して、友達の窮地なんて関係ないでしょう、そもそも旭が責任感じる必要ないんだしさ、という、実にまっとうな……まぁ、ちょっと冷たいかなと思わなくもないけど、その通りだよね、だってこれで結婚式延期したら、それこそ洋人が気にしちゃうじゃん、逆に友情的にはナシでしょと思うしさ。
そのあたりが。結局二人の思惑って、お互いにぶつけあっている言葉の裏側にあるから、しんどいんである。旭の方はそれが顕著である。ホント見てて、バカじゃないの!!とスクリーンの中に飛び込んでどつきたくなるぐらいである。
ちゃんと説明して、自分の気持ちを土下座してでも判ってもらう努力して、ウソは絶対についちゃダメ!!だって後でバレるの判り切ってるじゃん!!とゆーことを、もう再三再三、旭はやっちゃうんである。
披露宴の食事の試食という大イベント、その直前に大ゲンカしちゃったってことがあるにしても、喜多との大一番に向かうってことを言えなくて、急な仕事が入ったから、て言っちゃうんである。アホーアホー、そら仕事場に電話されてバレるわさー。
どうして、どうして言えないの。だって元から、披露宴のスピーチを頼むほどの唯一無二の親友だってこと、佳織もほほえましくそれを受け止めてた。だからかなぁ、なんで判ってくれないのかと思っちゃうのかなあ。
いや、やっぱり決定的なのは、アレに違いない。旭は佳織の母親に正式にあいさつしたいとずっと思ってた。母親、ということは、離婚なのかな。まぁ今時珍しくはないけれど、あの母親のかたくなさはそれ以上の何かを感じさせた。
旭にとっては両親揃ってようと片方だけだろうと、自分にとっては経験のないことだし、結婚に際してきちんと挨拶をするっていうのは、世間の常識であり、佳織が抱える屈託に気づくすべもなかった。
正直観ている時は、旭がなぜ佳織にきちんとすべてを打ち明けないのか、自分の気持ちを判ってもらって先に進まないのかと思っていたが、佳織だって同じだったんだよね。佳織も旭に自分の家庭の事情を正直に言えなかった。
そして言ってはいけない言葉を叫んでしまった。「いろいろあるの!それが親ってものなの!!」だめ、だめ、だめだよー!!判ってる筈でしょ、判ってるからこそ言っちゃったの??
この時から二人は決定的に気まずくなったから、旭だけを責めることは確かに出来ないんだよなあ……観ている時は、なんでちゃんと言わないの!ウソはだめだよ!!とか思ってたけど、やっぱりそれは、同性として佳織側についつい立ってしまったのかもしれない。
旭が気にしてしまうのは当然だけど、洋人だって旭にそこまでしてもらいたいと思っていないのは当然。てゆーか、親友である旭が自分のせいで思い詰めていることを察知して、「俺のことはよかけん、佳織さんのことばちゃんとせれ」とくぎを刺す。
そらそうだよなー。頼んでもないのに婚約者を犠牲にしてさ、別れちゃってさ、洋人はその後、自分の力で活路を見出し、それを喜び勇んで旭に報告する。当然、一緒に喜んでもらえると思って、である。当然、である。
洋人は旭が責任を感じているのを痛感してたし、そのことに彼自身責任を感じていたし。なのにそれに対して旭の反応は……哀しすぎる、哀しすぎる!!
佳織に去られて、それ以来洋人との連絡を拒否していた旭に、イヤーな予感はしてた。おーまーえ、だっておめー、自業自得やん、洋人には何にも頼まれてない。それどころか、それを危惧して心配していたのに。なのに、自分がいかにメーワク被ったかみたいな、なのにお前は自分で勝手に上手くいってホクホクしてるのか、みたいな(みたいなばかりですみません……細かいところ突っ込まれるとヨワいんで(爆))、もう激昂しちゃう。
洋人はまさに、ハトに豆鉄砲、である。彼は親友のことを何より大事に思っていたし、親友が結婚を決めたことも嬉しく思っていたし、スピーチを頼まれて、真剣に推敲を重ねてた。その親友が、自分が原因で破局していたことも知らず……それを親友が言えずに懊悩していたことも知らず!!
旭はさあ、やっぱりさあ、五島列島に戻りたかったんじゃないのかなあ。予告編にも印象的に使われていた、「東京以外で暮らすことって考えたこと、ある?」という佳織への問いかけは、それ以外に考えられないもの。
でも、それ以降、その問いかけはなされることはなかった。ただ、旭は常に洋人を優先して動いた。結婚する筈の佳織を、いわばさしおいて……。家族を持った経験のない旭は、これから家族になる筈の佳織より、兄弟同然に施設で育ってきた洋人を優先した、のだよね。
ラスト、ヒドイ言葉を投げかけてしまったのに穏やかに受け止めてくれる洋人が泣きじゃくる旭を胸に抱き留めて「かぞくやけん」と言ってくれるのは、とってもとっても感動的だし、血のつながりばかりが家族じゃないよね!!という普段から思っていることを肯定してもらえた感はある。
でも、やっぱりすこうし、澱のようなものは残る。家族って何かなあと思う。旭が佳織と築くはずだった家族は、それこそ最初は他人から始まるものじゃないのと思ったりする。旭がこだわり、佳織が苦しんだ家族を、イチから始められたじゃないのと思う。なのに、なのに……。
とにかく役者陣、特に運命の親友であり“かぞく”を演じる松浦、梅田両氏にヤラれる。なんつーか、ナマな人間、ナマな男、そして……ナマな孤独の魂。
キラキラ系役者で構成される映画も楽しいけれど、時にこんなセキララを見せられると、本当に胸が熱くなるし、鳥肌が立つし、本当に嬉しくなるのだ。だからその分、女優さんが美人過ぎたような気もするけどねー。
★★★★★
九州のどこかの都市、なんだろうか。どこだと明確には示されない。贋作づくりで口に糊している夫、正。彼の才能を信じているから歯がゆく、贋作もマージンがとられる上に支払いが遅いことに腹を立てている妻、良子。
夫の仕事を妻も納得の上で手伝っているのだし、そういう意味では決して仲の悪い夫婦という訳ではないのだろうが、正がヤキモチ焼きの短気で良子に暴力をふるい、しかもそれが表からは判らない、横っ腹とかをどかどか殴りつける、というんだから始末に負えない。
しかし、正がそんな、いわばしたたかな部分を持っているっていうのが、劇中からはなかなか推してはかれないんだよね。ただ単に、ヤキモチ焼の短気の暴力夫。なのに暴力振るう時になると急にそんな冷静に、ズルい計算が働くのか……なんかピンとこない。
こーゆーあたりが、展開ありき、オチありきの安易な作劇だと感じてしまう。
そして同居しているイヤミくさい姑ともギスギスとしている。良子はしかしそれに黙って耐えているのではなく、結構負けずに言い返す。夫に暴力を振るわれるのを判っていながら仕事のことに強気に口を出したりするあたりから、結構まぁまぁな女、なんである。
そう思って見始めていたのに、なんか後半ガラッと印象が変わるんだよね。てゆーか、暴力を振るわれると萎え萎えになっちゃうというか。いや、暴力こそが圧倒的に悪いんだからそこをあれこれ言うのもなんなのだが、なんていうか、性格と行動に、観客側がすんなり受け取り切れるだけの整合性が、なんとなくないような気がして。
姑は確かにヤな奴だが、例えば夫にそのことを相談して、全面的に姑の側に立たれるとかいった描写がある訳でもなく、先述のように結構バチバチ言い返すので、世の中の嫁姑のあれこれの厳しさを見聞きしちゃってると、なんか、イマイチ響いてこないんだよね。まぁ、そういったベタな情報慣れしている観客側の問題もあるのだろうが……。
夫は姑に加担、というより、妻に執着している感じ。水商売のアルバイトに出かけるのが、気に入らない。気に入らないのは水商売だからなのか、そのアルバイト先が彼女の弟の店だからなのだろうか。
良子の弟である、ということに、しばらくの間、気づけずにいるんである。なんかかなり序盤の方で疲れを覚えたせいか(爆)、あんまり耳に入ってなかったかも……(ダメじゃん)。
なんかね、でも、恋人みたいに感じたんだもん。だから夫が嫉妬しているのだとばかり思っていた。つまり、お前がバイトに行ってる先のマスターと出来てるんだろう、みたいな。
でも、それはあながち外れていた訳でもないような気がするんだよなあ。なんでなのかはよー判らんが、なんとなく、この世に二人っきりのきょうだい、みたいな雰囲気がアリアリなんだもん。二人でバスに隣同士、きつきつで座ってる場面とかさ。あんなすいてる夜のバス、姉と弟なら一人ずつ座るだろと思うもん。
お姉ちゃんの横っ腹のあざを、下着をめくって確認する場面なんか、ちょっと危険な匂いを感じたもんね。だからちょっと期待したところもあったのだが、つまりつまり、エロな危険さをね。全然なんだもん。思わせぶりにした意識すらないのかーっ。
ところで良子がこの弟、圭人の借金を少しでも早く返せるようにと??なんて、そんなこと言ってたっけ?(オフィシャルサイト参照……)。つまりバイト代なしで働いてるってこと?それとも、お客さんをつなぎとめるために、っていうことなら、自分、売れっ子やんねー。
まぁ、そこそこきれいだけど……なんか、どことなーく、しっくりこない。てっきり、贋作商売だけじゃ、マージンも取られる上に支払いも遅いし、経済的に不安を感じてアルバイトをしていたのかと思っていた。マージンをとっている男に食ってかかっている場面もあったし。
あれあれ、この男が水野、だよね?圭人が義兄の殺しを依頼しちゃったヤツ、だよね??なんか結構ねむねむになってくるので、自信がなくなってくる……。
圭人はこの依頼のみならず、なぁんかこの水野に弱みを握られている風、なあたりが、借金をこしらえている原因なのか。つまり水野はヤクザなのか。そうなんだろうなぁ。こういう手数料でしたたかに稼いでいくあたりは、そうだろうなぁ。
お姉ちゃんラブな圭人は、にっくき義兄を水野に殺させて、その代金が、正の保険金から一千万。おーいー、なんとゆー、とらぬ狸の皮算用だ。事件性があるとか思われて下りなかったらどうすんだ。そもそも、いくら保険金をかけてたとか、そんな会話を姉と弟でするのか……。
実際、その一千万を差し引いても充分な保険金をかけており、そんなに一般的にかけるもんかなぁ。いや、私は独女なんで、なんかそーゆーことはよく判んないんだけど……。
しかしその保険金がなかなか下りない。名義の書き換えとかで時間がかかる。てゆーか、この保険屋さんの描写が雑過ぎる。姑のサインがいる書類のことを「すみませんが、失念しておりまして……」あ、あ、ありえなーい。
しかもそれを、家でサインをもらってきますから……てんじゃ、てっきり彼女が筆跡を変えて書いちゃうのかと思ったら、フツーに持ち帰って書いてもらってるし。そもそも、そういうのって、目の前で書いてもらわなきゃ、意味ないのでは……そうでないんだったら、こんな思わせぶりなワンブランク、作劇上、意味ないのでは……。
保険屋さんだけじゃないよ。葬儀屋さんにしても、来週取りに伺いますので……とか言っちゃって、第一発でそれ?振り込みとかの提示全然ナシ?そして保険金がすんなり入らなかったことで良子は手持ちの金がなくなり、「あとは来週……」と封筒の現金を手渡すのだが、内金の領収書も出さずにバッグにしまって、判りました、では来週伺いますので、って、半世紀前のヤクザの取り立てぐらい雑でアゼンとしてしまう。
そういうところにガッカリすると、もうダメ、シンクロして見ていられなくなるんだよなあ。そもそも、病院に搬送されて、救命救急、手術室からバタンと出てきた医師が、「全力は尽くしましたが……申し訳ありません」いや、実際は知らんよ、本当にどう言うのかは。でも、ホントにこんな昔のドラマみたいにクサイ台詞、言うの??その上に、芝居もクサい。見てられない。
問題は姑だけではなかった。正が死んで、彼の妹夫婦が乗り込んでくる。息子の死にすっかり茫然自失、言ってしまえばボケてしまった(今は認知症とか言うべきなのだろうが……この雑な描写にはボケてしまった、としか言いようがない)姑に義理立てすることは全然なく、さっさと任せて出てっちゃえばいいのにと思うが、まぁ、その名義の件とかもあってなのだろう、ぐずぐずととどまっているうちに、どうも形勢がアヤしくなってくる。
どうやら、どころかもうまっすぐに、この妹夫婦は保険金目当て。妹のダンナは無職らしく、求職する気があるのかどうかも怪しく、なぜかたんまり保険金が下りることも知っていて、家をリフォームして、私たちがお母さんを世話しながら住むから、とか言い出す。
母親を心療内科に連れていって、その薬をネコババして転売している、なんていうシーンが出てきて、いやいやいや、いくら認知症になってるとはいえ、一緒に暮らしている良子が、あからさまに薬がなくなっていることを全くヘンだと思わないと考えて……いるんだなぁ、これが。
実際、思ってないんだもん。ボケて捨てたとでも思っているのか、全然そこを追及しない。追及しないから、“ボケて捨てたとでも思ってる”ってのは、観客側の優しい推測よ。
だったら、保険の効かない“飛んじゃう”ほどにヤバい薬も、妹夫婦が裏から手を回して処方させたとか??そもそも保険がきかない薬を「よく効きますから、替えましょう」とだけ言って、その説明もしないで窓口で高額請求されて驚くなんて、おかしいじゃないの。こーゆーところは突っ込まずにはいられないんだよなあ。
圭人は、段々罪の意識に耐えられなくなってくる。姉ちゃんのためにしたことなのに、この先、水野に脅されて、おどおどしながら一生を過ごすのか、と、自分がしたことなのにそんな風に姉に訴え、自首して水野も巻き込んで姉ちゃんを楽にする、とか言うんである。アホか。弟を言いくるめて夫を殺させた鬼嫁になるに決まっとるやんか。
でも、良子は、あるいは監督さんは、そこまで考えてはいなかったように思うなあ。そんな緻密なしたたかさは、全然、感じない。自失呆然となっていく姑に対してどんな感情を抱いていたのか、自責の念から多少の愛情を覚えていったのか、それもまた、ただただ泣いて取り乱すばかりの良子からはうまく汲み取ることができない。
幼い息子の描写もいまひとつ、なんだよなあ。母親からゲームをとりあげられて、反抗して、夫さながらにお母さんの横っ腹をグーで殴る場面があって、彼女も観客もハッとなるが、もうしないでね、うん、で終わり。
つまり息子はお父さんがお母さんを殴る場面を見ていたから真似したのか、そういう親子の血が彼の中にも流れているのか、そういう部分、ぜぇんぜぇん、スルーなんだもんなぁ。
で、まぁ、もうラストシークエンスは眠くなっちゃって(爆。レイトショーだったので……いやそれは関係ない)、半ば恍惚の人になってしまった姑にすべてのことは明るみに出たのか、どうやら普通に納骨はせず、川?池?湖??にボートに乗って散骨にいったのか。
タイトルの「形のない骨」は、骨壺に入らない骨は崩してくださいと言われて、良子が泣きながら、入りそうな骨だったのにざくざく崩していた正の遺骨だが、それがこの物語にどう象徴していたのか、判らん。★★★☆☆
もう、しんっじられないぐらいダメな主人公なの。まぁ最初の内は、こういうダメ男、いるよなー、映画でもよく見るよなー、と思ったけれど、そういう男も中盤ぐらいになれば、そしてあるきっかけをつかめば目が覚めるものじゃない。そこからのカタルシスがある訳じゃない。まー、それが全然こないの。
きっかけは何度も来る。それでなくても成績の上がらない中継ぎ選手の彼が、戦力外通告を受けた時点で、妻子もいるんだし第二の人生をマジメに考えるかと思いきや、飲んで、荒れて、チンピラとケンカしておまわりさんのお世話になってしまう。
迎えに来た奥さんに罵声を浴びせ殴りつけるなんてことになればそらー、離婚は必至、次のシーンでは親友の店でほそぼそとアルバイトをしている。どうやら実家に帰ったらしい。そんな中でも万年床に吸殻がぎっしりの灰皿、ビールの空き缶だらけの机の上のきったない部屋でこれまた勝てないパチンコに明け暮れ、息子の誕生日プレゼントを買う金も母親に無心するだらしなさ。
心底心配してくれている親友の奥さんとねんごろになるわ、息子と会える日もパチンコに溺れて夜になっちゃうわ、おーまーえ、ほんっとに、バカなの?バカ以上てか、大バカ!!
しかも競輪学校に入ってからもそのバカさ加減は直らず、なんたって40手前になって入った学校だから、周りは二十歳そこそこのワカモノばかりで、そこで殊勝になるかと思いきや、逆!自分はプロ野球という厳しい世界で闘ってきたんだから、お前たちガキだろ、みたいな上から目線!
当然体力が追いつかない彼は、同輩たちに全然ついていけないのにそんな風に嫌われちゃって嫌がらせされちゃって、連帯責任!となっちゃって余計恨まれちゃう。たまの休みには飲んだくれちゃって(当然禁止されているだろうに)、二日酔いで練習もゼイゼイ。ほんっとうに、ほんっとうに、バカなヤツなの!!!
そもそもなぜ競輪学校に行こうかと思ったのか。それは、なじみのラーメン屋で勧められたからなんである。お前は身体は丈夫だし、いけんじゃね?てな具合である。
年齢制限がないというのが、何よりの理由であるが、そうなのか、と驚く。でもそこに至るまでにはそれこそ、息子と会える日にパチンコとか、親友に泣きながら絶交を言い渡されたり、もうどん底になるバカなことをしつくしているんである。
当然、競輪学校に入れば過酷な日々が待っている。自分はプロ野球という世界で闘ってきたんだから、と思っていた訳ではないだろうが、いや、やっぱりそう思っていたからなのかなぁ……一人激しく落ちこぼれる。なのに同輩たちを見下している。そりゃぁ孤立するのも当然である。
教官は鬼どころじゃない厳しさで、特に濱島をイジメのようにしごき倒す。ちょっと、不思議だったんだよね。こんなやる気のない落ちこぼれ、地獄の坂道15本(何あれ、下から見たらまるで直角じゃん!!)でも一人行き着けなくて倒れちゃって、ゲーゲー吐いて最後には泣いちゃう。ヘタレ中のヘタレよ。こんなプライドばかり高い使えない“オッサン”(と周りからは呼ばれている訳)、しごくだけムダじゃんと思っていた。
濱島もこの教官のことは毛虫のように嫌っていただろう。なぜなのか。それが、濱島がもうやめる!!と駄々っ子のような感じで荷物をまとめて学校を去ろうとした時、校長と教官との会話でそれが明かされるのだ。モロ師岡演じるニコニコ校長(好きだなー)が言う。「もうちょっと、優しくしても、いいんじゃない」「自分の仕事は生徒すべてをプロにすることですから」「えらいねー!!」
あーん、もう、泣けちゃう!!「たまには一杯付き合ってよ」「判りました」「おごってね」「イヤです」こんな会話にもふふふと笑っちゃう。この校長、この教官、最高だなぁ!!
ところで結局、濱島はこの時、学校をやめなかった訳。この会話が行われている時、同期の中でもとびぬけて優秀な久松が、夜が更けても一人黙々と練習し続けている。そこに濱島が入っていく。
それまでも濱島にとって、いや濱島のみならず、孤高の存在である久松は、すべての生徒たちにとって特別の存在だった。誰とも交わらず、休憩時間も、たまの休みの日も、黙々と練習をしていた。
休みの日に既定のネクタイ姿を林の中で着替えて、居酒屋で飲んだくれていた濱島はそんな彼を、「競輪バカだな」と吐き捨てていたけれど、彼だって久松のことは気になっていた。でもそれは単に、同郷だからというだけだったのか、本当の意味で、彼の凄さは全然判っていなかったのか。
やめようとしていたこの時、濱島はたまらずに久松に聞くのだ。なぜそこまで出来るのかと。久松はぽつりと返した。「これしかないっちゃ」
濱島だって、濱島だって、そうな筈じゃなかったのか。そのことに目を背けて、努力することを忘れていたんじゃないのか。久松の言葉に子供の様にむせび泣く濱島は結局、学校をやめず、あの地獄の坂道も制覇し、競輪学校を無事卒業してプロになる。ようやっと改心したかと思ったのだが……。
なんであれで、改心できてないのか、バカかおめーは!!プロとなって、坊主頭から元のオレンジ頭に戻っている時点でイヤーな予感はしたのだった。元プロ野球選手として話題も集め、名も通っている彼は、学校時代同様、選手たちから嫌われ、あからさまな嫌がらせを受ける。
いや、レース中のあのぶつかり合いは、競輪の世界をよく知らないから、濱島同様、明らかに嫌がらせ、反則じゃないの!と思ったけれど、どうやらそういうことじゃないらしい。
後に濱島が雲の上の存在の久松に一世一代の勝負をかける場面で、同じようにぶつかり合いをし、もろとも転倒、彼に致命的な怪我を負わせるのだが、その時濱島を訪ねて来たあの鬼教官が、黙って酒を傾けながら、「あのレースは、お前は間違っていない」と言ったのである。
そして久松が復帰した再戦となったレースでも、彼らは容赦なくぶつかりあう。これこそが競輪なのだということを、知らなかったから衝撃だったし、凄く興奮する。ギャンブルだからというぐらいに思っていたけれど、このレースに興奮するっていうのは、判る気がするんだなぁ。
でも、客席はあまりにもパラパラ。こーゆーあたり、満員に埋めて盛り上がらせない、つまりこれがリアルな状況なのだろう、その描き方にまた本気度を感じるんである。競馬はぎっしり満杯のイメージがあるからなぁ。それとも競輪ファンは、あのラーメン屋みたいにテレビで見るのが基本とか??
もう一人、濱島にとって必要な、というか、不思議と慕ってくる同輩がいるんである。濱島と同室だった彼は、マッサージさせられたりとか使われてたし、今では濱島より成績を残しているのに、なぜかなぁ。
いかにも素直な性格の青年で、インタビューで「努力することが大事だと、同期の濱島選手から教えられました」と屈託なく言うんである。濱島―!この台詞を聞いて判らなきゃ、マジお前最後だぞ!!
あー、なのに、この何度も訪れるきっかけの、ここでも、彼はまだ判らないんだよね……。努力ではなく、ぶつかりあいで久松との転倒を生みだしてしまう。だから教官が間違ってないと言ったことが不思議だったのだが……。
教官に促されて、久松を見舞いに行く。そこでは壮絶なリハビリに取り組んでいる久松がいる。あんな、あんな状態じゃ、まるで歩けもしない、赤ちゃん以下のあの状態じゃ、もう、もう、競輪に戻るのは無理なんじゃないの、と思えるぐらいの状態で、歯を食いしばってどころじゃない、死ぬ思いで彼は、リハビリに取り組んでいる。
もんどりうって倒れる。思わず手を差し伸べる濱島を払いのけ、自らのふがいなさになのか、濱島のことを認識しているかどうかも判らない、とにかく久松は号泣するんである。よだれを垂らして、身も世もなく。
もう、濱島は声も出せない。謝るとかそういった問題じゃない。悄然としてその場を去る濱島だが、ふと立ち止まる。何かに、まるで忘れものに気づいたかのように。スローモーションになる。子供の様に跳ね回る。判った、判った、判ったー!!!
えっ、何何何、まさか、判ったって……。その後、まさに人が変わったように、まずは生徒時代のように丸刈りにし、家もトレーニング場状態にし、あの慕ってくれている同期に請うて、「競輪を教えてくれ!」なんという台詞!!
そして二人して学校に赴き、校長と教官に頭を下げて、個人レッスンを受けるんである。てゆーか、てゆーかさ!今なの、今判ったのかよ!!つまりは努力だけが結果を産む、それしかないって、それ、今まで何度も何度も、それに気づくきっかけがあったし、何より学校時代、20も年かさの自分が追いつくにはそれしかなかったぐらい、判らなかった方がおかしいっつーの!!
でも人間なんて、そんなものかも。それこそどんなに何度もきっかけをもらっても、気づけない人の方が多いのかも。映画みたいに中盤に一つのきっかけで目覚めるなんてこと自体が、ウソっぽいのかも。
それを、この主人公で、それを演じる、あぁ、私は今まで知らなかった、この役にすべてを、命を、それこそ死ぬ気で注ぎ込んだ安部賢一という役者を。
野球で甲子園を目指すが挫折、競輪選手を目指すが挫折、まさに濱島を演じるために今まで埋もれてきたような彼よ!そういう出会いってあるのだ、奇跡のような役者と作品の出会いが。それを目撃してしまった!!
久松との再戦。校長も教官もかたずをのんでテレビを見守り、濱島の母親と孫である濱島の息子も来ている。それまでも、このクズ父親をそれでも大好きで、お母さんを気にしながらも会いたくて会いたくて、さ!!
このレースシーンはもう、本当に……濱島の目線カメラやスリムなタイヤが一直線に駆け抜けていくスリリングさは当然のことながら、濱島や久松、それ以外の選手すべてのそれまでの人生が、まさに走馬灯のように駆け抜ける。
言いそびれていたが、久松があんなにもストイックに打ち込めるのは、出て行った父親、酒浸りの母親、そして母親が今や恍惚の人となり、息子のことさえ判らないという、しかも母一人子一人の彼が、その全てを背負っているという、過酷なこれまでの人生があったのだ。
そして濱島のクズ人生もまた、厳しい人生であったことには違いなく、それ以外の選手の、そう、例えば子供が産まれたりといった、シーンが、目まぐるしいレース展開の中、彼ら一人一人に肉薄して描かれる。
総毛立つ。一体この監督はどこからこの映画の着想を得て、そしてここまで役者を追い込んで、こんな凄い映画を作っちゃったのか。
濱島は初勝利とはならなかった。努力は必要だけど、しかし努力だけで勝てるほどに甘い世界じゃない。しかし写真判定よ。競馬じゃないけど、もう鼻先何ミリと言う世界。四位だったけど、もう、なんていうかね、子供の様な嬉しい笑顔で周回する、母親と息子にその満面の笑顔で手を振る。泣いちゃうよ。
最終的に勝つことによるカタルシスを予測していただけに、このカタルシスにはやられちゃうよ。だって終わりじゃない。ここからが始まり、すべての選手にとってね!そうなんだもの。
こんな小さな公開であることが歯がゆくて仕方ない。こんな本気の映画に出会えることはそうない。たくさんの人に、この不意打ちの驚きに出会ってほしい!★★★★★
綿矢りさはこんな勢いのある恋愛を書くんだなあ。いや、彼女が若い頃の本を1、2冊読んだだけだから(爆)。
映画となるとそこはエンタメだから、この妄想女子の物語を楽しく眺めているんだけれど、ふと落ち着いて考えてみると……何度となく戻っていく中学生時代の彼女は、ああまるで、私みたい。重たい前髪、重たいメガネ。その当時も同窓会で会っても、クラスメイトからは名前どころか存在すら認識されていない。
ああ、私みたい。でも映画となると可愛い女優さんがやるから、こんな可愛い子はどーやったって可愛いだろとかひがみ根性で思ったりもするが(爆)。
そう、ヨシカはそんな女の子だった、いや、今でも。ただいま24歳、経理部所属の会社員。年齢の分だけ彼氏いない歴。でも片思いはずーっと10年以上。中学時代のクラスメイト、イチ。
イチ、っていうのはクラスメイトもみんなそうやって呼ぶし名前なのかなと思うが、その後ヨシカにアタックしてくる同じ会社の営業の男の子のことを二、とヨシカは呼ぶし、どうなのかなあ。まぁ、そこはシャレということなのか。
ヨシカにとっては二人の彼氏なんてまったくもって予想外のこと。いや!彼氏じゃない!!イチとは10年も会っていないのだから。
10年会っていなくて10年片思いというのがどこかおかしいことなのだということに、ヨシカは気づいていない。だってつまり、彼女の中ではイチはいつまで経っても中学生のままのイチであり、脳内妄想恋愛しているそのヨシカもつまりは中学生のままであり。そして再会してもその矛盾に気づかず大人になったイチに胸キュンするんだから、この病は相当重いのかもしれない。大人になったイチが、見えていない気がしちゃう。
再会、というのは、かなり後になってからの展開。まずは同じ会社での同期会という名の合コンからの物語の展開。そもそもこの同期会は、二がヨシカとお近づきになりたくて企画したもの。
二、としかホントに呼ばれてなかった?いや、ヨシカの同僚の、普通にイケてる女子、来留美はちゃんと彼の名前を呼んでいた気がするが、覚えてない(爆。ホント私、ヨシカみたいだな……)。
イケイケドンドンでヨシカにアタックする実に愛しい男子、二を演じるのは、もうピッタリ!!ベストキャスト!!の渡辺大知君。営業部に間違った伝票を突きつけに来たヨシカに、胸元に無造作に赤い付箋をくっつけたまま現れた彼女に、彼はゾッコン参っちゃったって訳。
ああ、そんなことって、ある?ヨシカとそっくりな学生時代を過ごしても、大人になってそんなおいしいことはなかったぞ!!それはやっぱり、ヨシカがホントはカワイイ女の子だからじゃないの??いやそれは、カワイイ女優さんが演じているからか!(しつこい)。
でもさでもさ、やっぱりそういう、それこそ妄想はあるさ。学生時代は残酷なまでの格差社会。大人でもそうだけど、大人になれば個人個人で逃げ道が作れるもの。だから個人それぞれも寛容になる。
学生時代なら、ヨシカに来留美のような友人が出来るなんてハッキリいってあり得ない。いや、ヨシカは単なる同僚と思っているのだろうか。でもそうだとしたらそれはきっと、ヨシカ側にやはり自分を卑下する気持ちがあるから。
来留美はヨシカの妄想癖も含めて純粋に面白がりながら、だからこそ心配しながら、本当に友達だと、思ってる。いやー、これがさ……素敵なことなんだけど少しツラいな、と思ってさ。
ヨシカはきっとそう思ってないんだもの。イチに会いたいがために同窓会を企画する時も、今まで友達が出来たことがなかったから、頼る人がいないから、海外に転校した人気女子になりすましたSNSを立ち上げたぐらいなんだもの。
私は友達いないから、ということに、ヨシカはまるでこだわりない調子で語った。友だちということがどういうことなのかも、判らないみたいだった。つまり、来留美は友だちなのに、少なくとも来留美はそう思っているのに、ヨシカはそう思ってない、気づいてない。それがツラくて。
と、いうのが表面化してくるのはまだまだ先。イチにマジ告白されて、人生で初告白された!!と有頂天になったヨシカは、街の人々とハイタッチしかねん勢い。
てゆーか、これも妄想。これは判りやすい妄想。でも、おにんぎょさんみたいな喫茶店のウェイトレスに、駅員のお兄ちゃんに、コンビニの青年に、和菓子屋のおばちゃんに、濁った川で始終釣り糸を垂れているおじさんに、実に楽し気に自分の今をくっちゃべっているヨシカは、まるで、本当に、たくさんの友達がいる、みたいだった。
彼女にとっての、理想の友達、ニコニコして、そうだね、って聞いてくれる、腹が立つことがあったら、そうだよね、って一緒に怒ってくれる、勇気を出したい時には、それ行け!と背中を押してくれる、……つまりは、都合のいい存在。そしてそれは、イチも同じ。
アパートでボヤ騒ぎを起こして、死ぬかもしれん!と思ったヨシカは、もうこーなったら前のめりで死んで行ってもかまわない、イチに会うんだ!!と、同窓会にこぎつける訳ね。
イチは来てくれたけど、「本当は来たくなかった。いじめられていた」と吐露する。ヨシカは愕然。みんながイチのこと好きだから、かまいたくて仕方ないからだよと言い募るが、もうこの時点で観客側には判っちゃう。
ヨシカにはイチの何にも見えてなかった。そりゃまぁ、まっすぐ見ることも出来なくて、視野見(視野の端っこで見る。ヨシカの造語)してたぐらいだったからもあるけど。それ以上に存在を抹殺されている自分にとって、イチは他のクラスメイトにかまわれまくっている、つまりはそういう意味でもまぶしい存在だったということなのかなあ。
対照的な意味で、イチもまたクラスメイトからの仕打ちに苦しんでいたのだ、ということに気づかなかったのは、ヨシカが自分の中だけに閉じこもっていたから、なのかなあ……。
思いがけず、再会したイチとは意気投合する。奇跡的に趣味が合致するのだ。絶滅した動物が好きという点で……何とも言えぬ悲しみ。
いや、それこそ「あの頃、こういう話をしたかったな。友だちになれたかも」と言うイチに心躍りながらも、ヨシカは引っかかっていた。「イチ君て、人のこと、君、っていう人??」「あ、ごめん……名前何?」
正直言って、このことでヨシカがそんなにもショックを受けるというのは、なんだか意外な気がした。だってだって、あんたこそ人の名前全然覚えないことで来留美から散々言われてたじゃないの。
自分の名前は憶えていてほしいなんて……それは、イチが、他の皆がイジッてくるのにヨシカだけは視線を外している、だから俺のことを見てほしい、なんて殺し文句をぽろりと吐いちゃった過去の記憶が大いに作用しているとはいえ、さ。
ヨシカのキャラクターって、そういう意味でほぉんと……自らを省みて恥ずかしくなって、死にたくなるっていうか(爆)。まぁ人間そーゆー自分勝手っていうことなのかもしれんが、ヨシカの中学生時代があまりにも自分っぽいから、余計に自己嫌悪感が募るんだよね。
そんなヨシカに恋する二ってのは、そーらー、ある意味変わり者だわ。でも大知君が演じるから、そのまっすぐさが愛しくて、なぁんかアリかなと思っちゃう。
ヨシカのことを心配している来留美から色々情報を仕入れて、危ないなーと思っていたら案の定、ヨシカがぜぇったいに知られたくなかった、年齢=彼氏いない歴、つまり処女だってことが彼に知られてしまったことでヨシカは爆発。
それは判らなくもないが、イコール会社全体に知られてしまったのだと思い込み、来留美に対する怒りもねじれまくった形で爆発、勝つにはこれしかない!!とウソの産休届を叩きつけ、会社を辞める……と言ったが、そこは上司は「とりあえず、有給にしといてやるから!」そーゆー周りの優しさが、ヨシカは判らないんだよね。
でもね、ちょっと判る気持ちはあるというか。恋愛経験がないヨシカのことを、純粋で可愛いと思った、という二に(そんな単純な理由ではないんだけれど、ヨシカにはそう聞こえたってこと)、処女だから可愛いっていうのか、だったら付き合って処女じゃなくなったら好きじゃなくなるのか、そんな男は大嫌い!!ていう……極端だけど、この理論は判らなくもない、フェミニズム野郎だから(爆)。
正直、このヒロインの設定、学生時代から隅っこで、誰にも認められてなくて、妄想だけでしか生きられない、っていうの、今の時代ならちょっとしたサブカルチャーみたいに、こんな風に作劇も出来るけど、なんつーか、これって、伝統芸、だよね。言っちまえば、女の白痴美に萌える文化っつーかさ。言い過ぎかな(爆)。
でもさ、近年だったら「海月姫」もそうだったけど、そーゆー女子なら一周回って可愛い、つまり守ってあげたくなる、みたいな?そういう感覚ってあるじゃない。これが逆だと考えにくいというか……うーむ、「電車男」はあったが、確かにあれもまた、エルメスの方が完全大人女子で、リードする立場だったしさ。
本作の場合、二を演じる大知君がすっごくチャーミングで、それこそ彼だって恋愛慣れしてなくて、それでなくても未知だらけのヨシカにホンローされっぱなしなのが可愛いもんだから、うっかりその問題点をスルーしそうになるのだが……でも、ダメダメ!フェミニズム野郎としては、ここをスルーする訳にはいかんのだよ!!
ヨシカの中で周囲の人間はほぼ妄想友達状態だったが、隣人のオカリナ吹きのおばちゃん、だーいすきなはいりさんだけは、現実のまま、だった気がする。ヨシカのことをそのまま、見てくれてた、気がするなあ。
コンビニの眉毛つながった青年とイイ仲になってチューまでしちゃうのにはビックリドキドキ!!はいりさんは、妄想女子の妄想世界にも、二次元にも三次元にも四次元にも、もーどこにも入って行けるステキ女子。ホント、憧れるんだよなあ。
恋人ももちろんだけど、友達を、友達だと自分を思ってくれた人を、大事にしたい!! ★★★☆☆
でもとにかく作品に罪はないんである。そしてこれだけ驚くべき口コミが広がったという作品力こそに目を見張るべきである。ただ、映画は相性で、どんな小さな映画でも誰かにとっての特別があるもんだと私は思ってて、だから本作が特別に秀でているということではないような気がする、いや、普通の意味でさ。
どんな作品にも大なり小なり口コミの世界は存在していて、それがどっか、防波堤が切れると、まさに雪だるま式って、こういうことなんだなぁ、と思ったり。むしろこれがきっかけで、小さな映画にみんな目を向けてほしいなぁと思ったり。
これだけ話題になっちゃうと、ネタバレ禁止タイプの映画でも、なんとなく雰囲気で漏れてしまうもんである。構成が、と言われれば、じゃぁ、ゾンビ映画という“構成”だけじゃないんだな、と判っちゃう。そして尺が90分と判ってれば、序盤、ラストクレジットが流れ始めても、いや、まだある筈、というのは判っちゃう。
そーゆーところが情報を得てしまうと判っちゃうつまんなさではあるし、正直言うと、ネタ明かしというか、これはゾンビチャンネルの企画映画だったのね、という中盤が現れると、ガラリと雰囲気が変わることもあるけど、若干の中だるみは感じる。
この時点では、そんなに本作が騒がれることにピンと来てなくて、それでなくても期待値が上がりすぎていたのでちょっと身構えていたところもあって、あれ、大丈夫かな、などと不遜にも思ったりした。
でも本作の魅力は本当の意味でのネタバレの後半にこそあり、それがまさに、まさに映画愛にあふれているのをまざまざと見せつけられると、胸が熱くならずにはいられるかっつーの、ということなんである。
そしてそれが観客のハートをつかみ、ここまでの社会現象になったことこそを嬉しく思っちゃったり、するんである。
それでもツカミはやはり序盤の、実に37分のワンカットゾンビムービーである。ワンカットは映画のある意味神話。
フィルム時代には一巻の長さしか不可能だったからこそ神話になったが、今はそれこそ無限なので一時期ダラダラ長回しにヘキエキしたこともあったが、「アイスと雨音」など、若き才能が長回しの新時代を作り始めている、気がする。
とはいえ、なんたってゾンビ映画を生中継で撮る、という設定なので、カメラはブレブレ、私もう、カメラ酔いでゲロゲロであったま痛い。あぁ、みんなこれ、平気なんですかーっ。
でもその、カメラはブレブレ、というのも後に、ギックリ腰で倒れたベテランカメラマンのカメラを奪い取って、ポチャピチカメラウーマンが疾走する、というのが明かされれば、そうかそうか、と思うんだけれど(女の子にヨワい)。
生中継で撮る、っていうのはもちろん、中盤のネタ明かしにならないと判らないので、何か構成のウラはあるんだよなと探りながら観てはいても、ゾンビ映画を撮っていたらそこに本物のゾンビが現れた、という二段構えこそが番組構成だとまでは推測できないから……。
あれ、カメラに血がついたのをぬぐってるとか、「こんなところにオノが、ツイてる私」とか、これはツッコミどころ?でもこれだけ話題になってて、そんな雑なミスは犯さないよね……と、これは大ヒットしちゃったからこそヘンに疑心暗鬼になってしまうという、ある意味初めての体験(爆)。
これが番組の企画なんだと判れば、待ち時間の役者とメイクさんの間で繰り広げられるヘンな間のあいた会話も、意味もなく出て行こうとするスタッフも、突然のゾンビらしからぬダンスのような動きも、それこそ落ちてるオノも、何もかもが、すべて整合性がつけられるということに、まさに驚嘆するのだ。
チープなゾンビ映画に突然起こったハプニングと思わせておいて、それがすべて、ガッツのある撮影スタッフ、キャストによって乗り越えられてきたことがひとつひとつ、まるで答え合わせをするように、それこそワンカットの序盤さながらに緊張感をもって追っていくのが、ワクワクするのだ。
そもそもこの監督役は、ちゃんと役者が演じる筈だった、んである。企画を依頼された時、早い、安い、質はそこそこ、をウリに再現ドラマでもPVでも引き受けていた日暮である。
しかしイマイチやる気のない役者たち、しっぽりの仲になった監督役とメイク役が、撮影当日事故を起こして来れなくなってしまう。
「私は落ち着いてるわよ」という血まみれの顔で歯をむき出したあの顔が、迫真の演技、ではあったのだろうが、予想外のアドリブ演技でスタッフ、キャストを震撼とさせていたなんて、当然観ているこっちは判る訳ない!!
「これはオレの作品だ、ゴチャゴチャうるせえこと言うんじゃねえ!!」とか言う感じで監督が主演俳優にキレまくる場面は、かのスキャンダルがあったもんだから、うっわこれ、そんなことが起こることが判ってた訳じゃないよねーっ、とかヒヤヒヤする。
“中だるみ”(爆)の、作品が企画され、撮影までの準備段階でのシークエンス、売り出し中の若手俳優が、納得できなければ芝居が出来ない、とかいってゴネまくることへのフラストレーションだった、ということが明らかになったりする。
こーゆー話は古今東西あるよね、と思う。若手俳優だから、コイツ生意気、と言えるが、これが大御所俳優だったらそれも言えなくなることを考えると、至極危険である。いろんな考え方があるだろうし、役者さんも役を演じるプロとしての矜持があるんだろうけれど、素人感覚の気持ちとしては、ヤハリ映画は(ドラマでも、なんでも)、監督のものであると思う。
プロデューサーのものでもなく、原作者のものでもなく、ましてや役者のものである筈もない。みんなで作り上げる、だなんてことは幻想だし、やはりそこは、割り切ってもらいたい気がするんである。
よく役者の対談とかでこーゆー話は出るけれども、私の好みとしては、自分がコマだということをわきまえている、というか、それこそがプロだと自負している役者さんが好きだと思うんである。
ちょっと、脱線してしまった。でもそーゆーことも言いたい映画だったのかなという気がするんだよね。監督の娘ちゃんが、やはり監督志望で、目薬使う子役とその母親にキレてクビになる場面がある。ことなかれ主義でテキトーに現場をやり過ごしてきた父親である監督は、そんな娘をやんわりといさめるけれど、彼だってそういうアツい気持ちはあったに違いないのだ。
娘の姿を見たこともあり、そして一本の単独ドラマを任されたこともあり、彼は、そもそも“早い、安い、質はそこそこ”を買われて、つまり妥協オッケーだという部分こそを買われていたことを判っていたのに。
一度は現場のトラブルにプロデューサー側に折れそうになる。それを救うのがこの娘ちゃんで、中盤から登場、活躍するのは後半なのに、すべてのキャストをブッ飛ばして、強烈な印象を残す。
最初はね、お気に入りの男優が見たい一心でついてきた現場だった。なのにやっぱり“血は争えない”ってヤツ。ベテランスタッフを叱咤して、シナリオのブッ飛ばし、クレーンカメラを人海戦術でクリア、なんてことまで差配しちゃう!
このラストシーンは本当に、感動である。これは映画じゃなくて番組だと、笑顔で監督をいさめるプロデューサーをブッ飛ばし、今動ける人何人ですか!!と、組体操っすよ、しかも出番が終わったゾンビキャストも全員、目をむき出しにして、手足プルプルしながら!!
あぁ、感動。いつも観るばかりで、裏側の苦労なんて判らない。だからこそ、こーゆーの見せられるとマイっちゃうのだ。大事に映画を観なければいけないなと思うのだ。本当に。
この娘ちゃん、本当に可愛かったね。判りやすく美少女ではないけど、何とも言えないチャーミングと、ガッツのある演技。殆ど素人同然の挑戦だというのは信じられない。主演女優役のアイドル美女をさしおいて、大手事務所に所属が決まったということなので、今後の活躍を期待したい。
今回ノースター映画ということが凄く言われてて、それはその通りなんだろうけれど、数々の意欲作を送り出してきた、今やインディペンデント映画の一角と言いたいENBUゼミナールがこの大ヒットをかっ飛ばしたことが嬉しいし、キャストにすっごい今泉監督作品の出演俳優がいるんだよね。
あー、なんか悔しい。今泉監督にもこんな風に……いや、やはり映画は出会いと相性と、自分だけの大切なもの。ちょっと今回はそれを考えさせられたなぁと思う。
てゆーか、一番強烈だったのは、このチャンネルの一番の責任者、ちっちゃいオバチャン、風貌怪異と言ってしまったら、あまりにも失礼だろうか!!でもでも、こんな一発逆転みたいなキョーレツ女優がいたの!!という衝撃!!日本映画をいくら観ても観ても、知らない世界がいっぱい!!★★★★☆
ほんの何日かの物語であり、初夏の透明な光の中、白くまばゆい夏服に身を包んだ高校生の彼ら彼女らは、今の時代から見れば少し幼いようにも見える純粋さである。
主人公、というよりかは語り部というか、結果的にはレズビアンである女の子の思われ人となっているのが月乃である。月乃を思っているのは女の子らしいロングヘアと色白肌がフェミニンな桜。
二人プラス数人で、高校生には定番の友達グループが形成されている。でもそれは昨今感じるような、派閥っぽいイヤな感じはなく、月乃が所属する吹奏楽部も並行して描かれ、クラス自体もふんわりといい子たちが集まっている感じである。
一人、この問題に波紋の石をどっぽんと投げ込む男の子はいるが、彼だって戸惑いの表現をそうすることしかできない、ある意味素直な男の子なのだ。
つまりは、桜が保健の先生に女の子への恋心を相談したことから、きっと教師同士で話し合いがもたれ、突然のひとコマ授業、LGBTについて、がこのクラスでだけ行われた、という展開。
このクラスでだけ、ということが判っちゃって、「ウチにクラスにいるんじゃね?」とこのイントネーションそのままに、ワイドショー的興味そのままに嗅ぎまわるのが、先述した波紋の石どっぷんの男子。ニヤニヤ笑いながら嗅ぎまわる彼にクラスメイト達が総じて嫌悪感をもってぶつかり合うのが、嬉しくもあるが、しかし彼らもまた、その嫌悪感をどう正しく表現していいのか、判らないのだ。
その男子から「そんな風に、ハレモノに触るようにすることが、公平じゃないんじゃね?」と言われたら、ぐっとつまってしまうのだ。
“いるんじゃね?”というのが事実かどうかも判らないのに、そっとしておいてあげるべきだという短絡な考えに陥ってしまう、のは、それはつまり、それこそ、この彼の言っている通りかもしれない事実から目を背けたいからなんじゃないかということを突き付けられるからこその、葛藤なのだ。
そこまで明確に彼ら彼女らが言語化して意識している訳では、ないのかもしれない。でも、少なくとも、犯人探しみたいにニヤニヤ嗅ぎまわるこの男子君に素直に感じる彼ら彼女らの嫌悪感が、凄く素直で、頼もしいなと思ったのだ。
だってつまり、彼らはここから考えようとしている。なぜそう感じるのか。もしクラスメイトにいるのなら、どう接すればいいのか、どう接すればいいかなんて考えること自体がおかしいのか、とか、戸惑っているのが、凄く純粋で、頼もしいなと思っちゃうのだ。
この波紋の石男子君は、「ウチのクラスにそのキモイヤツいるんじゃないの」とサラリという。サラリと、なんである。
悪意はないんだろう、それこそが、社会の、教育の未熟さを示していて、決してこの男子君が悪いコという訳じゃない。それを象徴するキャラクターとして、まぁつまりは、よく出来ているのだ。
ひとコマだけの授業をしてしまった保健の先生は困惑する。やっちまった、と思ったかもしれない。自ら、一割弱LGBTが存在する、と言っておきながら、それはつまり、クラスに一人か二人はいる計算になるんだから、なのに、このクラスでだけ授業をしちまった失敗であると思う。
この率を言いつつ、先生たちも、きっとこの桜ちゃんをネタにして(イヤな言い方だけど)モデルケースにしようとしたんじゃないかという考え方も出来るのだもの。
今までの教育未熟さもあるが、なぜ波紋の石男子君のような考えが産まれるのかというのは、LGBTの元となっているレズビアン、ゲイ、という言葉が日本社会において、ある意味クイアー的なとらえられ方をしているせいもあると思う。
直截に言っちゃえば、もう、セックス、なのだ。セックスの相手が誰なのか、という意識なのだ。それはもちろん、根源的な問題だし間違ってはいないのだけれど、日本はその問題に対して隠ぺいと露出の両極端の国で、なんつーか、ねじ曲がっているからさ……。
ただね、どちらかといえば今までは、ゲイ、つまり男の子が同性への想いを持っている、という話が、こと日本の映像メディアでは多かったかな、という気がする。それはいわゆるやおいモノという文化のせいも、あったかもしれない。
女の子同士に関しては、日本的一過性文化というか、宝塚的にカッコイイ女の先輩に憧れたり、親友以上、恋人未満みたいな、蜜月な友達関係を過ごす少女時代はそれこそ数多く描かれてきた。
波紋の石男子君が、月乃たち女子グループに、お前たちがレズなんじゃないの、とからかい気味に(半ば本気だっただろうが)問いかけたのが、凄く象徴している。少女同士の柔らかな恋愛未満の友情は、日本のサブカルのひとつであったのは間違いない。
でもその中に、きっとこんな風に、本当の恋に悩んでいた子が少なからずいたに違いない。そしてそれは、レズビアン、ゲイ、という生々しい言葉の印象に怖気づく向きに、ひとつの真実を教えてくれるのだ。
恋、なんだと。そうだ、確かに、あのひとコマの授業の中で、美人の保健の先生はその言葉を使っていた。セックスしたい相手じゃない、恋する相手なのだと。
一つ一つ時間を刻印して、犯人捜しのようなテイを成してくるけれども、クライマックスまで行くと、最初の時間に戻る。桜が、保健の先生に月乃への恋心を相談している場面である。
それはまさに、心がキュンとくる、恋、なんである。その笑顔に胸が苦しくなる、恋なんである。その時点で、セックスしたい!!なんて思わない。恋なんだから。それをね、それをそれを、やわらかな女の子の世界で描いてくれたのがね。
でも、桜は、自分で暴露しちゃうのね。これが、凄くグッときた。興味本位に嗅ぎまわられて、友人たちに、それこそハレモノに触るようにいたわられて、それまでは、友達として、心から笑いあっていたのに、壁が出来て、何より、好きな相手に……たまらないよ。
私が、桜が、レズビアンだと、自分で黒板に書いたんだと、泣き叫ぶように友達たちに、言って、それは、それはさ、最初は月乃にこそ判ってほしいと思って言おうとしていたことだった。それは恋の感情そのものだった。
でも、友達に、クラスメイトに、すべての人に、自分が自分であることを、勇気を振り絞って言ったことに、本当に胸を打たれたのだ。そこからしか始まらない。でもそれを、こんなにも負荷をかけられなければいけないいまだにの日本なのか。
でもでも、それを必死に受け止めている彼ら彼女らは、柔らかく瑞々しいその感性が、充分に頼もしく思えるのだ。
カランコエ、それは月乃にお母さんがくれたシュシュが、その花に似ているからと、花言葉は、あなたを守る。劇中、殊更にそれが言われる訳じゃない。結局は自身が自身を守るしかないのかもしれない。そういう意味合いだったのかもしれない、辛いけど、切ないけど。
でも友達たちが、あなたを大事に思っているのは確実だから大丈夫。恋や愛はアイデンティティにつながる外せないものだけど、残念ながら、友情よりかは永遠性がないから、さ。★★★☆☆