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わたし達はおとな
2022年 108分 日本 カラー
監督:加藤拓也 脚本:加藤拓也
撮影:中島唱太 音楽:谷川正憲
出演: 木竜麻生 藤原季節 菅野莉央 清水くるみ 森田想 桜田通 山崎紘菜 片岡礼子 石田ひかり 佐戸井けん太
でも本作では私はふと、立ち止まってしまった。緻密な会話劇であることが、それに立ち向かう役者さんたちの芝居の素晴らしさが、リアリティと見えているけれど、そうなのかなあと。
これは単に私がフェミニズム野郎だからなだけなのかもしれない、いやきっとそうだろう。でも、まだこんなところでカップルバランスは立ち止まってるのかと、思ってしまったのだ。
一見してこの若いはカップルは対等の関係に見えるけれども、……これは言いたくないけれども、脚本を書いているのが男性だからなのか、彼の方の論理に正当性が傾いているように思えてならない。彼女が、自分のわがままを通しているのを彼の無理解だとごねているようにしか見えない。
そして彼女と三人の友達、女子大生四人から聞こえてくる会話は、30年前の昭和生まれの価値観と何ら変わらないのだ。男は経験があった方がよく、女は経験がない方が良い。処女がありがたがられる。素敵なホテルで処女を捨てたい。マジで今でもこんなこと言ってんのと思う。
どうもフェミニズム野郎全開になってしまうから、物語を追ってみる。本作は構成も凝っている。優実と直哉という恋人同士の初々しい出会いの頃と、一度別れてよりを戻し、ある事件が起こってからの崩壊へとなだれ込んでいく末期とを、交互に、答え合わせをするように、描いていく。
でもこうした、時間軸を通常と逆にしたり、交錯させたりするのも、最近ちょくちょく見る手法ではある。「ちょっと思い出しただけ」なんてその最高峰の成功例であり、本作も「あんなに純粋に好きだったのに」感があの頃と今とが交互に重ね合わされるたびに積み重なれ、胸が苦しくなる。
二人は同じ大学の、デザインを学ぶ優実と、演劇に没頭する直哉という絶妙な距離感で知り合う。優実に演劇サークルのチラシデザインの依頼が舞い込んだからである。
優実には気のおけない三人の女友達がいて、まるで高校生のようにはしゃいで温泉旅行に行ったりするのに、その会話は、他のテーブルの若者たちを大人ぶってながめて、あーあ、はしゃいでるね。一気飲みなんかして、と自分たちは充分に大人のつもりなのが微笑ましい。
海岸でキャッキャ花火したり、部屋からの絶景に歓声をあげたり、まるで女子高校生みたいなのに、彼女たちが自分らを一歩大人だと思っているのは、コイバナをもっともらしく出来るからという一点でしかないのが逆に幼い。
正直この点からして、まだここにとどまってるのか……と思ったし、かつては確かに大学に行ったらキャンパスライフ、恋に遊びに華やぎ、出席日数や課題はなんとかしてこなすだけのもの、という感はあったと思うが、今は大学まで行って何を学ぶか、有名大学とかじゃなくって、その中で得る知識や経験や技術は何か、という方にシフトしていると思っているので、まだこうなのかあ、と思うとちょっとガックリとする。
彼らが通っている大学は、デザインや演劇といった芸術系と思われるから、また全く私の知らない世界ではあるんだけれど……。
優実は友人たちの中では、経験がある方のように見える。彼女にしつこく言い寄りやたらプレゼントをくれるぼんぼんもいるし、後に問題となる一夜限りのラブアフェアもある。
でもなんたって優実はワキが甘すぎた。直哉にしてもラブアフェアにしても、ゴムなしを許してしまっていた。ラブアフェアは酔った勢いのムリヤリなクソヤローだったから彼女を責めるのもナンだが、合コンでその日会ったばかりの男を自分の部屋に上げた時点でもうそれはねぇ、ということだし。
そもそも恋人である直哉に、ホレ合ってる甘さもあって、外出ししてるから大丈夫だなんてことを許してしまっている時点でアウトというか、これぞ、いまだにこんなところにとどまってるんかいという女子の甘さ。令和の女子も、いまだこんなところにとどまっているのか……。
妊娠が発覚して、それが直哉とヨリを戻した直後で、一夜限りのクソヤローが相手なのか直哉なのかが判らないというサイアクの状態。
ここに本作のキモ、脚本のアイディアがあった訳で、この危機を二人はどう切り抜けるのか、いや、結果的には崩壊してしまうんだけれど、二人の、つまり男と女の言い分はどう違うのか、というのが、本作の最大の焦点になる。
そこに先述した、脚本の緻密さ、積み重ね、役者の腕の見せ所が全投入されるんだけれど……。
だって、優実だけじゃないんだもの。直哉の元カノもそう。妊娠しちゃうのも、彼のためを思っての行為が、彼にとっては、彼女が勝手にやったこと、頼んでないし、というのも。
避妊しなかったことで元カノ今カノの妊娠騒動を起こした(まあ、優実はどっちが相手か判らないけど)甘い認識の男の責任は重いにしても、結局はそれをズルズルに許し、妊娠という事象を振りかざして、一方は堕胎した苦しみを包丁を振りかざしてぶつけ、一方は父親になりたくないのかと話し合いを拒む女たちである。
なぁんか、ガッカリしちゃう。だってここには、男の論理こそが正当に通っちゃってるんだもの。そう考えるのは、私が女であるがゆえに同性に対して厳しくなっちゃうからなんだろうか??
元カノのあなたのために赤ちゃんを堕ろしたのに、とか言って髪振り乱して包丁振りかざすなんて、いつの時代の大映ドラマだよと思っちゃう。
今カノは、DNA鑑定したくないのは、事実がハッキリして彼に捨てられたくないのが客観的見てもミエミエなのに、それを、父親になりたくないからそんなこと言うんだ、と女の涙というサイテーの武器に紛らして論点をすり替えてしまう。
こんな時代錯誤な価値観を現代の女の子で描いてくれるなよ、と作り手に愚痴ってしまいたくなる。
直哉は、事実がどう出ても、自分は父親として育てていく覚悟はある、と言った。そりゃ判らんさ。優実がそれを疑う気持ちも判るさ。
でも、どっちの子か判らない状態では覚悟が決まらないという彼の言い分の方が客観的にはすっきり通るし、それを、捨てられるかもという恐怖感で、父親になりたくないからそんなこと言うんだ、とゴネまくる優実には、もう本当にウンザリしてしまう。
そのウンザリは、直哉がそっくりそのまま感じているのが判るだけに、余計にキツいのだ。つまり、作り手がまさにそう思って、そういう女の子を作り上げていることに思い至るから。
元カノと今カノ双方を妊娠させた(一方は、かもしれないだが、条件は一緒だから)男の子の論理の方に正当性を感じさせる会話劇が、いくら緻密に作られていても、そりゃないよと思っちゃう。
優実が直哉の帰る時間を見計らって料理をしたり、嫌いなグリーンピースを何とか食べられるようにと工夫したりするのがケンカのタネになるのも、いまだになの……と正直思う。
いまだに、今の、令和の女の子もこんなことやってんなら、即座にやめなさい!!!嫌いなものはどうやったって嫌いだし、ここのは美味しいから食べられるとか、本当に美味しいところのを、新鮮なものを食べてないからだとか言われるのが、その人のプライドを心底傷つけるとゆーのが、自分自身に照らし合わせたら、それこそ大人になったら判る筈。
そういう理屈は、その解消は、自分自身で出会ったり見つけたりするしかないんであって、この好き嫌い矯正プログラムがなぜこんなにもイラつくかってのは、これは母親の子供に対する支配欲に他ならないからなのだ。
カップル間で、女の子から男の子にこれが発動される時、まさにそれはサイアクである。男の子にとって母親は絶対。その母親の役割を、母親気取りで彼女が発動するのは一番やっちゃいけないことなのだ。
帰ってくる時間に合わせての料理は、新婚の妻気どりで、これもまた二番手にやっちゃいけないこと。
これをね、今の、現在の若い男性クリエイターが、こんな女はヤだという視点で描いてくるのが、本当に悲しいし、残念だし、つまりはいまだにこうなのかと思うと、闘い続けたワレラ昭和の女闘士の苦しみはなんだったんだろうと思っちゃう。
優実が人寂しくて、特段何の用事もないのに女友達に電話をしたり、その友達が彼氏といるからと問答無用に電話を切っちゃうとか、その双方ともにないないない、とガッカリしちゃう。本作の中で、女の子はただただ恋愛体質、友情のように見える四人も、話しているのは恋愛のことだけ。ちーがーう―!!と叫びたくなる。
直哉は演劇に没頭し、脚本を書き、後輩が書いてきた脚本に、どこか焦燥感を持ちながら目を通したり、卒業後は自身で劇団を起こしたいという夢を語ったりする。
優実の方は……ぼんやりしてるんだよね。母親の突然の死で実家に帰り、父親とのぽつぽつとした会話の中では、学内で頼まれたチラシのデザインでなにがしかの収入は得た、ぐらいの話はするけれども、彼女自身が何をしたいのか、何を学びたくてこの学校にいるのか、まるで判らない。
まあ直哉にしたって、劇団を起こしたいイコール将来のビジョンとは程遠いけれども、なんつーかさ……。
古今東西、こーゆー無鉄砲さ、最終的に成功すればオッケー、いや、失敗しても、かつてはそんな夢をもって突っ走ったけれども、てな物語が成立するのはやっぱり男だけ、なの??令和の世になっても??女はそれこそ妊娠したら、父親になってくれる男を見つけて、依存するしかないの??
時に強い女は現れる。未婚の母でもバリバリ働き、夢をかなえて、子供も立派に育てて、みたいな。でもそんなことは一握りだ。令和の世になっても半世紀も前みたいに、夢はお嫁さんと言えちゃうような、言うしかないような、そんな人生しか女は歩めないのか。そんな女にウンザリする男の方に正当性が渡され続けるのか。
……すみません、すべて、フェミニズム野郎の偏見ですので。充分男の身勝手も描かれててクソヤローと思ったし、女の子も闘ってると思った。
でも……一番のもどかしさは、男性側の視点、男性側を、頑張って汚点を付与しながらも(ゴムナシセックスね)基本、男性側の正当性を通しやがったことで、もしかしたらそれに気づいていない、恋人同士、男女のわがままを等分に書いたというスタンスなのだとしたら、違う違う!と言いたい。
言いたいのだが……これが現実なのかなあ。だとしたら、めっちゃガッカリ。★★☆☆☆
やっぱり映画って、カッティングや構成の妙というものこそが醍醐味というか、それでこそ映画だと思う。長回し信者みたいな作家さんはいつの時代も現れ、大体がハズす(爆)。本作の場合は長回しというより、まぁそういうところもあったけれど、登場人物たちに、とくに主人公の夕子に何も言わせない代わりに、彼女の苦悩の状態を延々と映し出して観客に察しろよ、と言ってるような気がして。
夕子は最後の最後、お母さんのことが嫌いだった、と枕に顔をうずめてむせび泣く。彼女自身は決してすることのなかった、母親の真っ赤な口紅を差して。
そしてカットアウト、つまりこのラストシーンを切り札のように持ってきて、それまで夕子に何も言わせない、というか、どうしても母親に対して思いを言えない夕子、というのを貫き通す。
確かにつらい。夕子の気持ちが判る。判るんだよ、こんな切り札みたいに言わせなくたって。だったら途中で言わせてあげなよと思っちゃう。
この一言が言えない、言えなかった、という切り札のようなラストに、切り札にするぐらいの、どうしても言えない夕子の葛藤が、じゃあ果たして描かれていたのか、感じられたのか、と思うと、首をかしげてしまう。この切り札一発のためにただひたすら夕子に沈黙を強いたように思っちゃう。
判るけど、判るけど。言えない気持ちは判るけど。えーと、てゆーか、見切り発車ごめんなさい。基本情報っと。
主人公の夕子、演じるは井上真央氏。彼女の母親、寛子に石田えり氏。もうこのキャスティングだけでやばっ、と思っちゃう。
石田えりという稀有な女優から作り出される母親、井上真央という誠実な、どこかカタブツな雰囲気を持つ娘、うーわー、これはキャスティングの段階から、この母と娘の関係性があれこれ想像出来て、めっちゃ面白そうと思ったのだけれど……。
その期待は当たっていた、裏切られることはなかった。社交性のある母親、自分の想いを伝えるのが苦手な長女。今は離れて暮らしているから、その距離感で何事もなかった。あるいは……ホンットに、何年も没交渉だったのかもしれない。
母親の寛子は夕子の弟の勝とその妻美奈、まだ赤ちゃんの孫と一緒に暮らしている。つまりここが、寛子の持ち家、夕子も勝も、妹の晶子も暮らした実家である。
早い段階で夕子たちの父親が亡くなり、シングルマザーで三人の子供を育て上げた寛子、という回想が挿入される。この回想シーンは、現実シーンとジグザグに差し挟まれる。かなり唐突なタイミングなので、どちらの時間軸が現在なんだっけ、と思うぐらいである。
そういう構成が絶妙だと思えれば良かったんだけれど……つまりはさ、夕子の母親に対するアンビバレンツ、愛憎、そこから嫌悪にまで育ってしまった気持ちを、幼少期の彼女と母親の関係を通じて観客に示してくれている、という図式ではあったと思う。
あったと思うのだが……バランスが悪いというのかなあ。かなりラスト近くになって、そうなのかな、とやっと思わせてくるというか。
寛子と同居する弟夫婦も、やはり離れて暮らす独身の妹、晶子も、寛子と上手く行っていた訳ではなかった。
寛子が起こしたボヤ騒ぎをいい口実にして、ていよく追い出された形の寛子、という図式が、彼女がこの弟夫婦に、特に直接相対する機会の多い嫁にどう思われていたのかが察して余りある、という感じだった。
そもそもこの嫁に不満を感じて、ほんの短い期間のつもりで長女の夕子のもとに身を寄せたのであった。でもそれもさ、長年没交渉であった、つまりそれだけで、お互い相容れない関係だったことがまるわかりである長女の元に行くってのが、それしか選択肢がないってのが、一見明るく社交的に見える母親の真の姿なのだ。
妹の晶子は夕子よりは如才なく母親に接するが、母親からイヤな想いをさせられると察すると、ひらりと身をかわす処世術を身につけている。夕子にはそれが出来ない。それはヤハリ長女だからということなのか。お姉ちゃんだからなのか。
寛子は駅に迎えに来た夕子に、お姉ちゃん、と呼びかけたのだった。その後はそうした呼びかけはなかったように思うけれど、この一発で、幼少期からのあれこれを想像できちゃうというか……。
弟や妹のように愛情表現が上手く出来なくっても、夕子はシングルマザーとしてきりきり働いている母親を心配し、愛していたに違いない。でも母親は、夕子のことを、何なのその態度はと言い、自分勝手で、自分のことしか考えていないと言い、昔からそうだった、育て方を間違えた、と吐き捨てるように言うのだった。
なにそれ、その台詞まんま返したるわ!と観客であるこっちは思い、夕子がたまりかねて反撃するのを待ちわびるのだが、いくら待っても恨みがましい目を母親に向けるばかりで、だからこそ母親を激高させるばかりで、彼女は何も、何も言わない、言えない。
言わない、言えない理由、というか、それだけの葛藤が正直……やたらと長く長く見せられ続ける夕子のとぼとぼ逃避行に託されちゃツラすぎる。寛子と夕子が共依存に陥る危険性があったところを、夕子が徹底的に寛子を嫌っているからこそ避けられた、とも思い、その観点から戦わせたらちょっと面白かったかも、なんても思う。
結局弟も妹も、母親とナマで対峙したらメンドくさいことは判ってるのだ。一緒に暮らしていた弟も、スケープゴートとして嫁を使っていた訳で、寛子は嫁の仕打ちをさんざんに愚痴るものの、確かに外見的には鬼嫁の仕打ちに見えるけれど、そんな仕打ちに至った今までがある筈なのだ。
長女夫婦のアパートに居候することになった寛子が、表面上はへりくだりながら、それこそがマウントとっているっていうことに本人が気づいてない。娘夫婦のアパートに短期間滞在するだけで、しかも団地で、ご近所にオミヤを配りに行くといううっとうしい外ヅラの良さ。
パートに忙しい娘の代わりにとこれ見よがしに凝った夕食なぞ作り、娘の夫にアイソ振りまく気持ち悪さ。夫のリクエストで餃子を買ってきた夕子に、どうせ出来合いのものでしょ、明日食べればいいじゃない、と言い放った時点で、夕子同様観てるこっちの堪忍袋もプチッと音を立てて切れたのが聞こえた。
聞こえた、のに、夕子は、何も言わず、その態度が悪いと母親に逆ギレされる。パート先の店長の送別会で遅くなっただけなのに、何時だと思ってるの、言い訳なんか聞きたくない、何よその態度、私に恥をかかせて、と叱責される。
……はぁあ??ここは夕子と夫の居住場所。寛子が世帯主のような態度をとる筋合いはない。もはやすっかり成人して自立している娘に、何時だと思ってるの、だなんて質すとは……もはや腹が立つ以上に、気味が悪くなる。
親にとって子供はいつまで経っても子供だとは言うが、それとは違う。これは異常だ。こういうクズ親はきっと世間的に珍しくないんだろうと思うが、だったらそれをここで、言い返せないだけで処理し、死んでしまって言えなかったことに後悔する、ことで終わらせてしまっていいのか。
妹や弟も多かれ少なかれ同じ想いがあった筈なことが感じられるのに、きょうだい間でそれを共有しきれなかった。でもそれは、そんなもんなのだろうなあ……。
夕子たち子供たち側の気持ちが存分に判るだけに歯がゆく、そう思うと母親側が、誰一人彼女の真の姿というか、ホントにいい面というか、社交的な外面のよさとか八方美人とかいう思わせ方じゃない、彼女自身が本当はどう考え、どう生きて、どう子供たちを愛して、育ててきたのかが、見えてこないのが辛い。だって、三人の子供をシングルマザーとして踏ん張って育てたことは本当なはずなのに、身勝手な、マウントとってる母親にしか見えないのが辛い。
夕子の言いたいことは最後の最後、ラストシーンで吐露されたが、母親の寛子の本音は、まぁ、夕子にしてみれば寛子は、本音を垂れ流しにするデリカシーのない母親ということだったんだろうけれど、本当にそうなのだろうか。
私は妹だから、期待のかけられなかった方だから、お姉ちゃんという付加価値がうらやましすぎた。大人になった今なら、そんなプレッシャーなくてよかった、お姉ちゃん大変、と判るのだが。
本当にね、駅で、数年ぶりに夕子と母親が相対するシーン、お姉ちゃん、と呼びかけたのが、めちゃくちゃ示唆してると思って。
夕子のもとに身を寄せた寛子はさっそくご近所さんに挨拶に行き、そこの幼い娘ちゃんを手なづける。手なづける、ってのはアレな言い方だが、実際幼い女の子はすっかり寛子になついてしまう。
この女の子のお母さんが実際どう思っていたのかは気になるところで、そこんところが描かれないのは正直片手落ちちゃう、と思ったりもする。寛子の、いわば自己満な社交性が、それでも子供の心は溶かし、大人たちの眉を顰めさせているという図式が、ここでしっかりと示されるか否かで、夕子の葛藤が明確にあぶりだされるタイミングだったから。
と思ったのは、私がこの女の子の母親だったら、……正直、ヤだなと思っちゃったから。自然なスタンスで仲良くなるというより、私は子供大好きおばちゃん、仲良くなろーねー!みたいなのが、凄くイヤ(爆)。
恐らく夕子も、母親としても、他人のおばちゃんとしても、その嫌悪感をもって見ていたんじゃないの。
ことに、結婚してないとか、結婚してても子供がいないとかいうことを、しかも旅先の第三者に対して、お恥ずかしくてねーみたいに平気で口にするんだから、そらー夕子ならずとも妹の晶子もヘキエキするに決まってる。
いまだにそうなのかなあ。私の親世代なら、なんとなく判る。いや、私の親世代でも、そういう女性の社会での窮屈さを判ってくれて、それこそ私なんかのクソ独女のことを、理解してもらえてる。これはそんな古い価値観が残る田舎の物語というわけでもないし……。
夕子が幼い日、切羽詰まった顔で帰ってきて、黙って母親に抱きついたのは、あの時何があったのだろうか。母親は仕事に行く直前、忙し気に振り払って、行ってしまった。
赤いランドセルを背負ったまま座り込む幼き日の夕子に何があったのか。痴漢に遭ったのか、生理が来たのか。そんな年頃の女の子だった。女同士だから、女として辛いことがあった時に判ってもらえないっていう記憶はきっと相当なトラウマであり、これが決定的な夕子の母親に対する反発だったのか。
いやいや、そんな判りやすい原因で親子の断絶を語っちゃいけないし、むしろ女子としてはそんなことで語るなと怒るべきだし。
夕子が歯を食いしばって昨日は御免と謝っても、なによ、テキトーに謝って、いつもそうだと怒る母親にだんまりを決める夕子。
私が邪魔なんでしょと憤然と母親は出ていった。いたくない場所から夕子のもとに避難してきたのに、いたくない場所が反転して戻っていった。そして、突然死んでしまった。
結局、寛子に心休まる自分だけの場所がなかったのかと思うと、キツすぎる。でも、いまだにこんな感じのことが横行しているのかとも思う。寛子の持ち物である家を、息子だからと明け渡したというか、実際は寛子の持ち物のままに、世話になっているという図式を作ってしまった。
日本社会にありがちな齟齬で、いくつになっても、子供がいても、子供が結婚して、一緒に住もうとか世話をするよとか言っても、だめだめだめ。いや確かに、昔々はさ、老いては子に従えとか言って、姥捨て山とか、ヒドいことがあったよ。通用しないでしょ、今はさ。
だからこそ、従えないからこそ、姥捨てありえないからこそ、一緒に住むべきでも、どちらに従うというんじゃだめなんだよ。子が成人したら、親も子も一個の大人の人間関係を保つべき。本当にそう思う。
夕子の夫はとてもいい人で、寛子に優しく接してくれるし、夕子の気持ちを慮ってもくれるけれど、違うんだよ。寛子は夕子の母親。確かにそうだけど、それは肩書に過ぎず、一人の人間として、母親として娘に対してのそれとして、どうなのかということなんだよ。
とてもいい旦那さんとは思うけど、不器用な夕子のもどかしさを完全に拾ってくれるまでには至らない。まあそれは、夕子側が母親に対して臆しすぎという面が大きいのだけれど……。
とにかく、もどかしさばかりが大きかった。パート先のおばちゃんといい感じに雑談してるのに、相談相手として全然成立してないし、退職に追い込まれる店長の送別会でキスされるやったら長い長回しは一体意味があったのか。店長とそんな雰囲気もなかった上に、キスしたのを確認するのも難しいとおーいロングショットの長回し。
なっがいなっがい!もうねぇ、自己満足ですかぁ??とそろそろ言いたくなっちゃうよね。見えないよ、老眼だからさぁ。
久しぶりの井上真央氏、石田えり氏だから、余計に、残念な結果。女系家族の心情やら何やらを、きちっと取材して作ってほしい。★★☆☆☆
実際、澤江さんがこの地元のコミュニティにどんな具合に関わっているか、というのはあえてなのか、明確にはされない。私たちは澤江さんを親しく思って見ることができるけれど、実際の澤江さんをそうして理解している隣人がいるのだろうかと、ふと思う。
もちろん、本作は澤江さんと白鳥の関わり、そこを通して見える人間と自然との共生の難しさを描いていく訳で、そんなことはどうでもいいのかもしれないけれど、ふと気になってしまうのだ。
だってそれが、それこそが、澤江さんの愛する白鳥を守れるか否かに関わってくるかもしれないのだから。
作中、白鳥の住みかであるため池が、その水質を維持するために一度水を抜き、水草を枯らすという一年に一度の作業が描かれる。本来ならその時期、白鳥はシベリアに飛んで行って、いないから、なんである。
でも今年は、翼が折れて飛べなくなった、ああまさに翼の折れたエンジェルなのだろう、澤江さんにとっては(これを即座に思い起こしちゃったから、よくできた、などと言いたくなっちゃうのだ)、帰れなくなった白鳥がいるのだ。
その白鳥のために澤江さんは、水抜きの作業をしなくてもいいようにと、一人奮闘して池の水草の駆除に乗り出すが、見ていて危なくて仕方がないと住民から苦情が出て断念してしまうんである。
この時に、あれっと思ったのだ。白鳥に魅せられた澤江さんに、こっちこそがすっかり魅せられていたから、もうすっかり地域の有名人、富山に飛来する白鳥は観光資源としても有名で重要なのだろうから、彼は白鳥愛護者として認知されているのかと思っていた。
そうではないのか。テレビにも取り上げられた、と澤江さん自身が職質された時語っていたが、でもそれも逆効果なのかもしれない。地方というものは時に、目立つ動きをする人間を排除したがるものだから。
澤江さんは親から引き継いだガス工務店とでも言えばいいのだろうか、地方に根差した、ご近所さんのプロパンガスの交換やメンテナンスをおこなう小さな会社である。
プロパンガスというとアナクロなイメージもあるけれど、あの大震災の時、私の実家はプロパンガスだったからガスが生きていて、都市ガスやオール電化で困っていたご近所さんへの炊き出しも出来たという。
豪雪地帯である富山では、そういう意味でもプロパンガスはまだまだ有効性があるのだろうと思う。プロパンって、北国のイメージなんだよね、勝手に。
澤江さんは、きょうだいもいない感じかなあ。一人息子で、この店を継いだ。白鳥おっかけおじさんである今は、簡単にできるそばばかり食べている一人暮らし、ボロボロのソファにくたびれたタオルケットを敷いて眠る生活に特に苦もない。
膨大な白鳥の動画データに埋もれ、長い相棒である白黒猫と共に暮らしている。
この愛猫がいるからこそ、白鳥との距離感というか、スタンスが、興味深いのだよね。どっちが大事か、なんていうのはヤボだろう。いわば白黒にゃんこは奥さんのようなものだ。世間は理解してくれない旦那さんの大事なものを、彼女(かどうかはしらんが)だけは判ってくれてる。
膨大な数の白鳥たちを、毎年飛来する何羽かでも認識している澤江さんには驚嘆する。お花ちゃん、と名前をつけていたりもする。
でも、澤江さんと共に本作のもう一人、いや、もう一羽の主人公と言うべき翼の折れた白鳥に、澤江さんは名前を付けない。つけてしまったら死んでしまうかも知れないというジンクスを恐れているという。
でもそれは、澤江さんだけの経験に基づくジンクスなのだ。かつて、やはりシベリアに帰れなかった白鳥に名前を付けた。でも、次第に弱って、死んでしまった。
驚くべきことには、その死の間際、そしてむごい遺骸も澤江さんは泣きながら撮影しているのだ。ただ、このテレビクルーが入るまでは、とてもとても見れなかったという。そりゃそうだろう……だとしたらこの取材は、澤江さんに大きな意識の変化をもたらしたに違いない。
優れたドキュメンタリーに接するたび、カメラと被写体が存在する以上、これは純粋な意味での記録ではない、と実感する。
作品である以上やっぱりエンタテインメントだし、それをどこまで演出として許されるべきなのか、被写体との信頼関係はもちろんだけれど、本作の場合、更にその先の被写体、白鳥が、白鳥たちがいるのだから。
作中、白鳥(野鳥かな?)の管理センターみたいな場所と、そこの研究員が紹介されるし、当然、県自体で飛来する白鳥を管理、観察していることは、あるのだろう。
でも、澤江さんが苦し気に告白したように、基本的には、野生動物の生態に人間が手を出すべきではない、傷ついた白鳥が獣に食われても、それは生態系の自然として当然のことだ、というのが、こうした公的施設でも、富山県民の一般感情でもそうなのだろう。
それに対して、澤江さんが突拍子もない答えを出した。私は白鳥、白鳥が白鳥の世話をしているだけなのだから、と。これだけ聞けば思わず噴き出しちゃうけれど、その前段が、心に刺さった。
「心の隙間がどういうわけか白鳥の形をしていたようで。」「私は人間の形をしてますが、自分は白鳥だと思ってます。」
心の隙間が白鳥の形をしていて、そこに白鳥がすっぽりはまってしまった、だなんて!こんな美しい詩を、私は聞いたことがない。
この一言を産み出しただけで、澤江さんは至上の詩人だ。詩人が見つめているから、名も無き白鳥が、奇跡の白鳥になる。
実際、なる。これまでシベリアへ帰れず残された白鳥が生き延びた記録はなかった。富山とはいえ、今の日本の夏は厳しい。30度を超す猛暑を白鳥が耐えられた実績はない。
澤江さんが、名前をつけたことを悔いたほどの残酷な記憶のビリー、それでも澤江さんは、名前をつけない白鳥を諦めることができない。暑さをしのぐ寝床を作り、羽ばたき練習をして行方不明になれば青くなって探し回る。
奇跡は起こる。ひと夏どころか、何回も夏を超える。シベリアから帰ってきた仲間たちとの感動的な再会に号泣し、でも傷ついた翼ゆえの体力の衰えもあってか、あるいはやはり、仲間たちとの距離があってなのか、一緒に帰れない。
そもそも一羽残された時、パートナーとの別れがあった。ギリギリまでパートナーは彼(澤江さんが、嫁さんと再会できれば、と言っているのだから、雄なのかな、澤江さんが雌雄の別まで判ってるかどうかは判んないけど……)と一緒に帰ることを模索していた。
でも結局、かなわなかった。その後、何度かの仲間との邂逅のうちに、奇跡的としか言いようのない、仲間との触れ合いや、一時のパートナーもあったけれど、皆、シベリアへ帰っていった。
翼の折れた白鳥は、次第にその安住の地も追われていく。まるで自らを追い込むように、穏やかな池から、川へと移動していく。流れが速く、近づけない川にちょこんといる白鳥に、エサを与えられなくて澤江さんは苦労し、ひどく心配する。
そして豪雪の季節になり、車を使うことも歩くこともままならず、数日様子が判らずに、死ぬほど心配する。
なんか、なんかさあ……。澤江さんが名前も与えないのに心底愛している白鳥を、でも自身で囲う訳にも行かず、この過酷な環境の中見守るしかなくて、でも必ず探し出すから、と誓って奔走するのが、さあ……。
先述したけど、なぜ彼はひとりなの。誰か、親しき隣人はいないの、想いを共有する人はいないの!!と思っちゃうが、でも……。
これを、どうとらえていいのか。澤江さんが一人奔走することに単純に感動していいのか。なぜ彼と共鳴する人が一人も現れないのか。
澤江さんが独り身で、親から引き継いだ店も、継ぐ気のない子供というのすらいない、物理的に子供がいないのだと自嘲気味に言うのは、いやいや、物理的な理由も現代でよくあることだから!と思うけれど、でも澤江さんの言うことは、凄くよく判るのだ。
判る判る!!と思う、この年代、そうね、澤江さんの年代プラスマイナス10歳あたりは、判る判る!!だと思う。まさに私がそうだからさ……。
独り身で猫を飼ってる。もうこれだよねーと思っちゃう。そう、親しき隣人なんていないよ。私がつい澤江さんをうらやましいと思っちゃったのは、猫との生活をとがめられないことよ。都会の集合住宅では、理不尽な苦情で室内飼いの猫すらとがめられる。でもそれも、隣人との理解を深められていないからなのか……。
本作から受け取る共感というか、問題をどう受け取るっていうのが、結構千差万別かもしれないと、こう書いてきて、しみじみ思った。
これを、自然との共生と動物愛護をどうせめぎ合うべきか、という、いわゆる社会的観点で見ることは簡単だし、そういう問題提起をしている映画として、とても優秀だと思う。でも……。
実はこれって、現代社会の、少子化、コミュニティ、福祉の連携、職質なんかされなくて済むような、自治体や警察と住民たちとの関わりこそが浮き彫りにされているような気がしてならない。
澤江さんに接して、ああ私だ!!と思ったのは、私含め、どんなにかいることか、なのだよ。澤江さんは、富山に飛来する白鳥に魅せられた、という点で、その点だけでオンリーワンだけれど、その特殊な愛情をそれなりなあらゆることに置き換えれば、澤江さんはたっくさん、いるんだもの。
むしろ、この特殊な愛情ゆえに、たっくさんいる、私含めの有象無象にスポットを当て、私らはどう生きていけばいいのか、猫と二人暮らしで、愛情を注ぐものは他にあって充実した人生ではある。でも、その愛情を注ぐものを引き継ぐ人や手段を思って不安になる、伝えたいと思っても手段がない。
なんかね……ほんっとうに、今までにない、ことだと思う。性の多様性もようやく叫ばれるようになった今、独り身の多様性も緊迫化してる。白鳥さんにあぶりだされる形というのは、すみませんという気持ちになったりもするけれど。★★★★★