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ちょっと思い出しただけ
2021年 115分 日本 カラー
監督:松居大悟 脚本:松居大悟
撮影:塩谷大樹 音楽:森優太
出演: 池松壮亮 伊藤沙莉 河合優実 大関れいか 屋敷裕政 尾崎世界観 渋川清彦 松浦祐也 篠原篤 安斉かれん 郭智博 山崎将平 細井鼓太 成田凌 菅田俊 神野三鈴 國村隼 永瀬正敏
でもさ、本作は、凄く好きなのだ。連想は確かにした。あんなに大好きだったのに別れてしまった二人。でもその一点で、そんな映画はいくらもあるけれど、連想してしまうのは、「花束みたいな……」があまりにも大ヒットしたせいであるだろうと思う。
あるいは確かに、この二人が一本の映画が大好きでそれでつながっているということが、運命的に趣味嗜好が一致している「花束みたいな……」を連想させたというのもあると思う。
でもたった一本の映画であり、それは監督さんが、まさにこの一本、運命共同体のような存在のクリープハイプ、尾崎世界観氏の大事な一曲、その一曲が大事に大事に愛した一本の映画がインスピレーションという以上のオリジナルクリエイトの豊穣になっているんだから、まったく違うのだ。
私が「花束みたいな……」にイラッとしたのは、私たちサブカルに敏感なオシャレカップル、みたいな、恋愛の気持ちより、そっちの上から目線がどうにもこうにも腹が立ったからなんであった。
本作と決定的に違うのはそこで、彼らをつながらせるたった一本の、大事な大事な映画、「ナイト・オン・ザ・プラネット」、確かにある時代のサブカルを彩った一本ではあるけれど、その時代を過ぎた時、リアルタイムで公開時に観ている訳ではない若い恋人たちが小さな画面を寄り添って観る時、しかも何度も何度も観るそのたびごとに、彼らの関係性が深まっていったことを後から知るにつけて、ああ、愛しい映画ってこういうことなんだ、と思うのだ。
私も確かに公開時観ていた筈なんだけれど、本当に恥ずかしながら私は観た映画をそばから忘れてっちゃうので、ただ、大好きな映画、大嫌いな映画、つまんない映画、観たことさえ忘れちゃう映画、っていう感覚でしか、残らない。
そしてジム・ジャームッシュは、大好きと言えるほどに理解力のある観客ではなかったけれど、観たことを忘れることは決してない、そう思う作品であり、監督であったと思う。
劇中、伊藤沙莉嬢演じる葉が池松壮亮君演じる照生と寄り添って観る。車中でその場面を再現して笑い合う。葉はウィノナ・ライダーかっけぇ、としみじみつぶやく。
そう、ウィノナ・ライダー、あの当時のウィノナのカッコよかったこと!その後の彼女の人生はいろいろあったけど、だからこそ、あの当時のウィノナのカッコよさが永遠に輝く。そうだよなー私、当時は外国映画も結構観ていたのよ。
葉がしみじみ「ナイト・オン・ザ……」のウィノナに憧れるのは、その役柄同様、彼女もまたタクシードライバーだからである。物語の冒頭、乗せた客が失業したからこの職に就いたのかと質問する。彼女は笑って、いや、意外と長いんですよ、と返す。
この時には物語の構成がどうなっていくかなんてことはもちろん判ってないから、童顔の彼女の、意外と長い、という経験年数がどれぐらいなのか、そして同時進行で描かれる照生との彼女の関係性も、まったく違う他人のようにしか見えなかったから(相変わらずめんどくさがりで情報入れないもんだからさ)、これはある二人の人生を並行して描くのかと思っていたぐらい。
だから葉が、ミュージシャンの客をトイレ休憩させている間に覗き見た、終演後の舞台で一人踊っている照生とかつて恋人同士だったなんて、思いもしなかったのだ。でも、なぜあんなにも、熱い視線で見つめているのかと思っているところで、一年、さかのぼる。
一年、 一年とさかのぼっていく一日が、照生の誕生日であったことに、なんか観ている間はピンと来てなかった自分の鈍さに腹が立ってしまう。多分それは、先入観で、女の子は誕生日を気にするけど、男の子はそうでもない、という、昭和なヘンケンがあるからかもしれない。
照生の誕生日、一番新しい先頭で、彼はいつも通りの一日。サボテンに水をやり、猫にごはんをあげて、照明スタッフの仕事に出かける。その帰りに出くわす女の子と会話で、彼がかつてダンサーだったことが明かされる。
女の子の方は輝く未来が待っている。「私、成人したんですよ」という台詞と、路上に簡易なイスとテーブルが置かれるような大衆的な飲み屋で友達とわいわい飲んでいる、ちょっと背伸びした感じ、彼女がティーンエイジャーの頃からの仲間で、彼女と彼の時間の経ち方は、10代と30代で明らかに違うのだ。
こういう、どうしようもない、情熱だけでは埋まらないことが、だんだんと、だんだんと、物語を切なく浸食していく。それは、残酷な構成によってである。先述したけれど、さかのぼるのだ。一年ごとに、照生の誕生日に、さかのぼっていく。
一番新しい時間軸、最初のエピソードでは、彼はいつものように仕事に行き、誕生月クーポンで髪を切り、缶チューハイを飲みながら帰宅途中、先述した未来ある若き女子ダンサーと再会し、懐かしいバーで飲み交わした。
懐かしい、というのは、この後ことあるごとにこのバーが登場するからである。國村隼氏演じるマスターが切り盛りするアットホームなバー。最初から明らかにされる訳ではないけれど、マスターはゲイで、今絶賛片思い中。そしてこの最新の時間軸に、最後に戻ってくる。
ヘンにオネエキャラにせず、話を聞いてくれる信頼できる他人、という感じがまさに國村氏で、それぞれ、なんだよね。照生も葉も、それぞれ、マスターに話を聞いてもらってる。かつてはここで、恋人同士時代の時間を過ごしたこともあっただろうに、それは描かれない。照生の誕生日でさかのぼっていくから、その年のその日は、彼らはそれぞれの想いを抱えて、一人、マスターと対峙するのだ。
一年ごとさかのぼっていくんだから、いわば等分のエピソードではあるんだけれど、やっぱりクライマックスはある。別れのシーンである。
後からつらつら思うにつけ、当たり前のことではあるけれど、こっからはどんどんラブラブの過去をさかのぼりさかのぼり見せられるのだから、何度もあの別れのシーンに立ち返って、なんでそうなっちゃったの、なんでなんでと、でも、そうだよな、でも、こうできたんじゃないかと、観客を苦しめるというひっどい(いい意味です!)構成になってるんである。
こうしたさかのぼり構成の作品に接すると、いつも「ペパーミント・キャンディー」を引き合いに出しちゃうのだが(「花束みたいな……」と同じく、こーゆー意味ない比較が良くないことは重々承知なのだけれど)、かの作品が、構成上はさかのぼりながらも撮影順は順撮りで、そのことによって、何もなく幸福だった筈の最初の彼が、その時点でかさかさとした悲哀に満ちた予感を示していた、という意図がすんごく印象に残っていた。
忘れられない作品であったのは、それが果たして正解だったのかどうかということが、ずっと心のどこかに引っ掛かっていたからだろうと思う。本作に関しては、猫が明らかにそれを否定している。そらまあ同じ猫ではなかろう。同じアメショーの、子猫と成猫を登場させていたにすぎないのだろう。
でもそれが示唆していると思うのだ。明らかに、タイムスリップが如く、タイトルの通り、ちょっと思い出しただけ、それを一年ごとにスリップしていく。一番新しい先頭、冒頭では、当然ながらみんなマスクをしているのに、次第にその感覚も変わっていく。
当然のようにマスクをしている。神経質にマスクをしている。ラフにマスクをしたりしなかったり、ずりさげマスクになったり。そして……今はもう懐かしいと思うぐらいの、まったくマスクをしていなかった時があった。確かに、あったのだ。
コロナ禍の中で、その日常をどう描写するか。どれぐらいこのコロナ禍が続くのか判らない時には、それ以前の日常を、撮影が大変ながらもなんとか再現する向きも見られた。でもこれはどうやら、短くないこの時期を見ないふりをすることが不自然だということと、クリエイターさんたちの真摯な想いが、マスクをしている日常の、それこそが産み出す現実に向き合う方向に向かわせた。
そして本作は……もうもはや、ここまで来てしまったのだ。もうね、コロナ禍の、マスク生活がどこまで続くとか、いつ終わるのかとか、考えるのも無意味な状態に突入している。でも確かに、そうではなかった時があって、ほんの2,3年前なのに、そんな時があって、葉と照生は恋に落ちたのだ。
葉はもうタクシードライバーとしてかたく仕事をしていたけれど、かつて演劇をやっていたことで、友人の芝居を観に行った先で、照生と出会った。忌憚ない意見をぶつけた葉に照生が惹かれる形だったんだろうと思うが、そんなヤボな説明はなされない。なんたって照生の誕生日の一日だけが、描かれ続けるのだから。
ホントにそれが、良かったんだよなあ。そらさあ、二人にはいろいろと、いろいろと,あったに違いない。でも照生の誕生日に、ギュッと凝縮される。一番いい時期、ラブラブな時には、来年プロポーズしようかな、いや、明日にしようかな、なんて、「ナイト・オン・ザ……」を二人して観て、小さなケーキをシェアして、顔中クリームだらけにしてふざけ合ったりしていた。ザ・同棲したてのウキウキカップルだった。
だからここが彼らの先頭かと思いきや、付き合うか付き合わないか、どう思ってるのか確認するのか、なんていう、高校生みたいなウブなところまでさかのぼるもんだから、結構驚いてしまう。
本当に本当に、恋が産まれるところに観客を立ち会わせる。共犯者にさせる。だからこそ、なぜ、なぜ、別れたんだよ、と思わせる。恋愛初期の、こっちがほっぺた真っ赤になるような台詞とエピソードに接すれば、ちょっと危なっかしいなあと思いもするけれど、その最初から見せられちゃったら、運命だと思っちゃうしさ。
別れのきっかけを見せられれば、そりゃダンサー生命を断たれる怪我をしてしまった照生の苦悩は判るものの、同性としては、葉の気持ちの方が判っちゃう。自分の苦しみだけに入っちゃって、私がどんなに心配したか判んないでしょ、という葉の気持ちが判っちゃう。
でも、言いたかないけど、これが男と女の、それぞれの自分勝手の違いなのだと思うのは、先述した、國村氏演じるマスターと恋人の菅田俊、ちらりと仲の良い感じが描かれるだけにしても、やっぱりそういう意図があると思うんだよなあ。
もう一人、というかもう一組、というか。永瀬正敏氏演じる、公園のベンチで亡くなった奥さんを待ち続けるという男である。これもまた、一年ごとに状況がさかのぼり、照生と葉は、奥さんご存命の頃の、仲睦まじい夫婦の時からお知り合いなんである。
それを思うと、彼は奥さんを亡くした時から、時間を亡くし、自分を亡くし、未来から来てくれる奥さんを、公園のベンチで待ち続けているんである。そのつぶさを二人は見守り続けている訳で……。永瀬氏はさぁ、こういう役が似合いすぎる。ゾーンに入るというか。彼が、そして今は亡き奥さんが、二人が葉と照生に与えた影響はどんなものだったのだろう。
照生と葉がもうすっかり離れている時期、数合わせの合コンに呼ばれた葉が、一服するために外に出て、火を借りた他の合コングループの男、これまたウンザリして一服に出ている男と、なんかうっかりみたいな感じで一夜まで共にしちゃう。
ホントにうっかりという感じだった。ともにつまんない合コンから抜け出したいと思っていたということもあろうが、男の方が妙に積極的にLINE交換を要求、あれよあれよという間にホテルでの事後の場面になり、行きずりの相手と葉は当然思っていただろう、ベッドから抜け出てタバコを一吸いした時、起きた相手から、一生大事にすると、熱烈な愛の言葉をもらっちゃって、はぁ、ありがと……と戸惑いながら返すしかなかった。まさかまさか、マジでこの男と家庭をなすことになるだなんて。
そういうことなのだろう。人生とはそういうことなのだろう。一番最新の時間軸で、葉も照生もお互いを思い出している。ちょっと思い出しただけ。このタイトルの切なさは、その思い出した相手が、運命の相手ではなかった、でも、その時間を過ごした時は、運命の相手だと思って疑わなかったという切なさなのだ。
でも決して決して、だから今が不幸な訳じゃない。本当の運命の相手というのは、案外平凡に出会い、ふと気づくと、愛しい結晶をその腕に抱きしめていたりするのだ。
それでも思い出す。ちょっと思い出しただけと言い訳しながら、たらればを想像しながら。
これよ、これだよ。「花束みたいな……」でイラッとした私が観たかった、感じたかった切なさは。恋人の倦怠期なんてものを見せて説得力が得られないなら、NGなのだ。まぁそのグチをここでは言うべきじゃないけど。運命だと思った恋人同士がなぜ別れに至ったかということに対する、観客に充分説得できるだけの材料はやはり必要だと思うのだ。
照生が葉から責められて、覚悟が決まって彼女への想いをタクシーを待たせて吐露する場面、そのヘンな声も好きだよ、っていうの、めっちゃ好きだった。伊藤沙莉嬢のパーソナルな魅力をキャラクターに落とし込んで、観客も巻き込んだキュンキュンだった。
そして……「どこかで会ったことありますか?」尾崎世界観氏と池松君の何度かの台詞の応酬、葉の乗せた乗客であるということ、照生が担当したミュージシャン。そしてそして……これは双方、気づいていたんだろうか?
路上ミュージシャンだった彼と、出会ったばかりの二人、深夜の、誰も見ていない、誰もいないシャッター商店街での、ギターの弾き語りと二人のアドリブダンス。夢幻だよ。夢で見ているみたい。運命の相手だと思った。あの一瞬だった。アシストで空中を舞った。でも今は。
マスクをしなければいけない今、いろんなスタンスで作品を作っている。意外にこの手法、本作の、マスクをしなくても良かった時にさかのぼる、気持ちもさかのぼる、意外になかったし、もうねぇ、なんか……遠い昔のよう。きっと若い人ほど、その長い長い時間を感じているんだろう。★★★★☆