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夜明けの夫婦
2021年 135分 日本 カラー
監督:山内ケンジ 脚本:山内ケンジ
撮影:渡部友一郎 音楽:
出演:鄭亜美 泉拓磨 石川彰子 岩谷健司 筒井のどか 金谷真由美 坂倉奈津子 李そじん 吹越満 宮内良
あらま、イワヤケンジ氏だ。ここ数年のピンク映画ではほぼ出ずっぱりではなかろうかと思われるほど重用されているイワヤ氏を、恐らく一般映画では初めて見るんじゃないかなあと思って、なんだか嬉しくなる。クレジットは漢字で岩谷健司になってた。そこんところ区別しているのかなあ。
彼と夫婦役の石川彰子氏は恐らく初見だが、もう見るからに、キャラの設定年齢よりずっと若いということがまるわかりである。31歳の息子を持つ親ならば、50代〜60代といったところで、岩谷氏はまさにそこに合致するのだが、ああやっぱり、石川氏の実年齢は40歳。そうだよね。31歳の息子を持つ役としては適当じゃない。
劇中やたらと褒められる肌のきれいさは、そりゃあまだ40だものというところなのだが、明らかに不自然な白髪(みるからにウィッグ)ってあたりが、絶妙な計算なんだよね。
悔しいけど、女が50を超えれば子供を望むことはほぼ不可能になる、イコールセックスの必要性がなくなるという、不条理な図式が成立してしまうことへの、ねじれた対抗なのだ。
だって男はその図式が与えられないんだもの。子供を望むことが難しくなる年齢というものが女よりずっと高いし、あいまいだし、子供が望めなくても男はセックスの必要性が認められている、といっちゃアレだけど、でもそういう感じ、あるじゃない??
……自分の年齢に近い方のキャラにやっぱり思い入れが深くなるから、勇み足してしまった。
山内監督作品の魅力は、結構な人数の登場人物を、すべてが主役のようにその重みを塩梅する手腕にひとつ、あると思う。
岩谷氏と石川氏の夫婦と同居するのが、息子夫婦であるさら(鄭亜美)と康介(泉拓磨)である。二世帯住宅に暮らしていて、その冒頭は、嫁と姑の、微妙に距離を感じる、明らかに探りあってる会話シーンからなんである。
これは言っちゃいけない、子供を作らないのかという姑の質問、いくら、気にしなくていいんだとか、聞いてみただけだとか言ったって、それはぜぇったいに、ことに姑が嫁にただしちゃいけない質問なのだ……。
さらはお母様、お父様のことが大好きだと言い、不思議とその言葉に、百パーセントではないものの、ウソは感じられない。
会話の中からさらが、韓国人であること、康介より年上であることが明かされ、そのことですでに、水面に投げ入れられた小石が波紋を広げるようなじわじわ感があるのに、康介が不倫をしていること、コロナ禍の引きこもり生活の中で、逆にすっかりセックスレスになってしまったことが、だんだんと判ってくる。
その先である現時点での、康介の転勤辞令であり、さらは仕事が決まったばかりということもあって、義父母の家にとどまる、ということが、姑はじんわりと、納得がいかないんである。
正直、今の30歳ぐらいの子供を持つ親世代は、私世代だから、この感覚って、古いというか、むしろその価値観に苦しめられてきた世代だから、こんなこと言うかよ、という気持ちはある。
まさにザ・昭和な、子供を作ることが当然、ダンナの仕事先についていくのが当然、というのは、私の親世代では、疑問さえ持たなかった感覚であったと思う。
舅も姑も繰り返し、そんなことは気にしなくていいんだと、さらに言う。さらにしか、言わないんである。彼らの息子である康介には言わない。このあたりのズレというか、不公平感が、絶対的不条理であったその前の世代とは進歩しているのかとも思うものの、かえって、信念がないというか、相手を傷つけないために本音を言いきれないというか。
この四人の家族、そして愛人、同僚、友人、きょうだい、すべての関係において、本音が言いきれないもどかしさがあって。
さらの転職先での引継ぎ場面がことさらに刺さる。取引において、韓国語が話せることが大いに決め手になったんだという。それどころか、英語も中国語もいけるという才媛っぷりである。
韓国の人は、なんだってこう、語学力に長けてるんだろうと思うが、単にそれは、日本人の努力が足りない、世界が見えてないことなんだろうと、ひしひしと思う。
そんなことが判ってるのに、日本は何一つ、変わってない。女性や、外国籍の人たちに対する、無意識の差別、むしろ自分は理解あると思っているという浅薄さが、さらや、彼女に引き継いだ先輩女子にとって、共通の、ため息が出るばかりの現状なのだ。
さらと先輩女子がこっそりと韓国語で会話する場面、その愚痴はささやかなため息のようなものだけれど、ここにこそ本音がぎゅっと凝縮されている。先輩女子もまた日本人男性と結婚していて、彼らはハッキリと、子供はいらないという選択をしている。夫婦二人で生きていくという価値観を共有している。
さらは揺れている。子供が欲しいのかどうかという時点で、彼女には答えが出せていない。夫である康介とのセックスレス、その前に自分が年上であることへの躊躇は、康介が他に女を作ったことを知ったからに他ならないと思う。
押し出しの強い、派手な顔立ちの美女。これ見よがしにネクタイをプレゼントしてくる。高島屋の包装の。てっきりネクタイだと誰もが思っていたんだけれど。
そう、さらはね、控えめな女の子なのよ。喋り方も、お顔立ちも。物語の性質上ということはあれど、彼女は全編、あらわなヌードを披露してくれるのだが、なにかそのおっぱいさえ、美しいけれどエロというより、愛されきれない哀しみに満ちているように感じてしまう。
寝る時にはスッピンで、眉毛なんて半分ぐらいしかなくて、他の女たち……康介の愛人や、姑の教え子として訪ねてくる子供連れの女性たちなんか、それぞれ程度はあれど、女として成立するメイクをしっかりしているから、このスッピン場面はドキッとしてしまうんだよね。おっぱいは美しいけれど、ひょっとしたら、このスッピンに男は引いてしまうんじゃないか、だなんて、フェミニズム野郎らしからぬ心配しちゃったりして。
ほぉんと、試されてると思っちゃう。悔しい。見た目問題。今は女性のみならず、マイノリティ問題としても取り上げられる見た目問題。ばっちりメイクで奥さんとのセックスの回数を詰問してくる愛人女性の方に、康介はやっぱり惹かれるんじゃないかって思っちゃう自分が悔しい。
そしてそれは、康介の両親、さらにとっての舅と姑にも降りかかる。姑がさらに子供のことを遠慮がちに聞いたりしたのは、その時点では語られなかったけれど、自分の母親が突然亡くなってしまったショックがあった。
死への恐怖、自分の血が残されないんじゃないかという不安……教え子が幼子を連れて遊びに来たその日、彼女は泣き崩れてしまう。孫が欲しい、うらやましいという気持ちを抑えきれず、残酷にもその姿をさらが見てしまうのだ……。
つーか、さらはあまりにも古風に、いい嫁過ぎてさ。酒好きだってのがちょっと面白いアクセントで、舅の行きつけのスナックに一緒するのね。そこでようやく解放された彼女を見ることができる。
帰り道、舅にキスされちゃう。その後何がある訳ではない。舅の妄想に、そしてそれに気づいた姑の妄想にもヌードのさらが登場するぐらい(ぐらいって、……それ自体で相当だけど)。
でもこの時のさらが、最も彼女自身だったと思うなあ。イケる口だってことも、この家族の中で唯一の他人であるさらは、無邪気に本領を発揮できなかった。椅子をすすめられても座ることさえ二度三度と控えるような、そんなん、日本だって、平安時代ぐらい遡るんじゃないのと思うぐらい。
子供問題があるから、彼女は頻繁にヌードを見せるのだけれど、それも成就されないばかりで、哀しさだけが漂うのだ。本当に彼女は、したいと思って夫に迫っているのか、姑から圧をかけられたからじゃないのか。勃たない夫に自分に魅力がないからかと思ったり、愛人の幻影を見たり……。
いやあれは、幻影だったのか?普通に考えれば、戸締りしているであろう家にあっさり入り込んで、康介が隠していたプレゼントを酔いつぶれたさらの枕元に置くなんて、さらが見た夢だろうと思うのが普通だが、さらはプレゼントの事実を知らなかった訳だし。
このあたりを境にして、ファンタジー要素っつーか、妄想要素っつーか、夢なのか現実なのかっていうのを、もうバンバン出してきて、ちょっと待ってちょっと待って、どこがその切り替えだったんだよー!!と焦っちゃう。
孫が欲しい、というのが、自分が産める、という考えに飛躍した姑が、髪を染め(たら、そらあ、実年齢が若いんだから、いきなり若くなるわさ!)、夫に子作りを迫る。夫はうろたえながら、ヌードの嫁が横たわる妄想を見る。
てか、このシークエンス自体が夢なのか何なのか。姑の教え子、彼女の妹が、それぞれ自身の子供を抱いて会いに来る。それぞれそんな感じじゃなかった……姑自体、左翼運動に没頭していて、教え子の一人は訳も分からず、私は土井たか子になる、と言っていたと思い出話をしたり。
デモに積極的に参加していた武勇伝が語られるも、そんな彼女の口から語られる言葉がことごとく、右翼的ナショナリズム、家父長的価値観を感じさせるんだから、作り手自身の強烈な批判精神を感じずにはいられないし、激しく共感しちゃうんである。
ネクタイだと思っていた愛人からの贈り物が、開けてみたら包丁だった。さらはそれを目にして、たがが外れた。壊れてしまった。
康介とは子供を作ろうと励んだ矢先だったけれど、彼がどうしても勃起せず、気まずい中、康介はジョギングに出かけた。さらは愛人からのプレゼントの包丁を目にして笑いが止まらなくなって、湯を張った風呂場に向かって……ああもう、ダメだよ、ダメだよー!!
この場面に至るまでに、子供を作ろうとさらと康介が試みる、さら側は排卵の時間とか判ってセックスの間合いをはかるんだけど、康介は朝とかそんな急に、みたいな感じで、で、これまでの後ろめたさもあるし……。
てかさ、やっぱり、すべてをさらけ出して、すべてを打ち明けて、殺し合うぐらいのケンカをして、遺恨を残さない、ゼロからスタートしなきゃ、ダメなんだということじゃないの?と思う。凄く凄く、キツいけど……。
さらが自殺未遂して、でもその直後に康介は転勤しなくちゃならなくて、フォローできなくて……。久しぶりに一時帰宅した康介を迎える両親と嫁のさらのぎこちなさ。
その後、舅とさらが飲みに行ったスナックのママのパートナーであるシャンソン歌手のライブに四人して出かける。この場面が一番のシュール。姑が夢の中に見た、数々の教え子とその幼子、もう50を超えて、独身貴族で子供を持つなんて考えもしなかった筈の妹も子供を抱いて現れる、それが、このライブシーンで、現実だったんだよとばかりに再現されるんだけど、それもまた……。
姑がハッ!と隣を見ると、嫁も、息子も、夫も、あらわなヌード姿で演奏に聞き入っているのだ。一体どこから妄想なのか、いや、これこそが真実なのか。
ラストシークエンスは、ずっとずっと見たくて仕方なかった、さらと康介の、真実お互い求め合ってる、欲望しあってるセックスである。夜明け、だっただろうか。これで赤ちゃんが出来るという愛のセックスだったろうか。
子供が欲しいのかという質問を、お互いにそっちはどう思うのかとけん制しあっていたのがずっと気になっていた。子供が欲しい、そう口に出してしまったらすべてが壊れてしまうかのように、恐れていたのはさらだけじゃなかった気がする、康介もだったような気がする。私は女だからついついさらに同情して、卑怯な男!と思ってしまっていたけれど……。★★★★★
本作の中に、ホームレス排除論を展開するユーチューバーが登場する。その動画を共感を持って見ている男。そして同じ動画を主人公の三知子も見ている。
ホームレスビギナーである彼女は、ほんの少し前までなら、もしかしたら自分だって、というかすかな想像はしていたかもしれないにしても、こんなに急激にコロナで社会が急変して、一気に叩き落されるなんて思ってなかった。
だから、どっちの想いにも揺れるから、そりゃあなたは正しいのかもしれないけれど、むかつく、という独り言に落ち着くしかない。そしてそんな三知子を襲うことになるのが、これまたどうやら鬱屈した生活事情を送っているらしい雰囲気満点の男、松浦祐也氏がピタリすぎる。
なんか本筋に全然いかないままウロウロしてるけど、もうちょっと言わせて。柄本佑氏が演じているこのユーチューバー、誰もがあのメンタリストさんを想起するだろうし、髪の毛の遊ばせ方とかなんとなく寄せているのがちょっと面白い。
あの時の発言自体、到底許しがたいものであったのは間違いないんだけれど、その前年にこうした事件があったことを思い合わせると、それこそあんな事件があっても私のように忘れ去り、ホームレスは自業自得ぐらいな意識を傲岸に持ちうるんだということに絶望を覚える。
私を含め、日本人は、あるいは人間は、なんとまあ忘れっぽいんだろう。メンタリストさんのような暴言に対して、予期せずホームレスになってしまった三知子、そしてあの事件に遭ってしまった女性は、はっきりと反発の声を上げられないのだ。
だってホームレスに対する世間の視線を知っているし、ちょっと前まで、そっち側に落ちることへの不安はあっても、落ちてからのアイデンティティの確保なんて思いもよらなかったのだから。
ああもう、早く本筋に行け!!実際の事件のモティーフってことを知らなかったからさ。コロナ禍後、いち早くだったり、少し落ち着いてからだったり、リモート製作だったり、コロナの記憶を刻もうとクリエイターたちがもがいて産み出した作品が続々と出てきて、本当にそのどれもが血を吐くようで、今この時に作らなきゃ、言わなきゃ!!という叫びが聞こえて。
そして本作もそうした中の一本、という見方も出来るけれど、ヤハリ実際の事件がインスピレーションになっていると、一味違うというか……。
でもそれは、インスピレーションに過ぎない。実際の事件の女性の年齢よりは三知子を演じる板谷由夏氏はぐっと若いし、彼女の周囲にはそれぞれに事情を抱えた女性たちが、このコロナ禍で飲食店のアルバイトを切られ、窮地に立たされる。
ぐっと若い、と言ったが、劇中、三知子はホームレス先輩のバクダン(柄本明)に、若くはないですよ、と自嘲する。もちろん、バクダンの目からは充分若いというのは当然だが、この日本社会において、40代も半ばを過ぎるともはや、“若くはない”のだ。
居酒屋のアルバイトを解雇され、そのまま部屋からも追い出されたということは寮だったのだろう。なんとか住み込みの介護施設での職を見つけたと思ったら、これまたコロナの影響で採用がキャンセル。ネットカフェさえ閉鎖され、三知子は行き場を失ってしまう。
それまでは、不安定なアルバイト生活でも、勤める居酒屋は賑わいがあったし、青二才のくせに権力を振りかざすマネージャー(三浦貴大氏。絶妙!)にイラっとくることはあっても、仲間の女性たちでチームワークがあって、乗り切ってこられた。
うっわ、ルビー・モレノだったのか!!「じゃぱゆきさんて、知ってる?」と三知子にしみじみ語る女性。日本人と結婚すれば、故郷に仕送りも出来て、楽できる。そんなのは?だったと、夫に逃げられ、娘も行方不明になり、孫を抱えて奮闘するマリアさんである。
そして片岡礼子氏扮する純子さんもまた、三知子と似たり寄ったりだが、イヤイヤながらもまあ実家帰るわ、それしかないし、というギリギリの選択肢であった。
でも三知子はそれも出来なかった。母親との不和、兄に母親の介護を任せっきりにしていた負い目、認知症となった母親が介護施設に入るための費用をねん出するのも苦しい。なんとか20万振り込んで、そのあとホームレスになっちゃって、兄からはあと5万ぐらいなんとかならないか、という連絡があった。キツすぎる。
三知子が勤めていた居酒屋の店長、彼女にとっては娘ぐらい若い千春がキーマンとなる。三知子たちベテラン女性たちからは、マネージャーの恋人で、いずれ結婚するらしい、頼りにはなる訳ない、という見方だった。実際、マネージャーの傍若無人なやり方に彼女は見て見ぬふりをするのが身の振り方だとつぶやいて、でも後から思えば怯えていたんだと思う。
この時点ではおばさま方は、二人がデキてるから、と思っていたんだろうが、千春はこのセクハラ身勝手マネージャーに嫌気がさしていたからこそ、彼が毛嫌いする“おばさんたち”こそが自分がまっとうに生きるために必要な存在と思ったのだろうと思う。
いや、というか……なんか、判るんだよね、彼女の気持ち。このスタッフの年齢層の中で、年若い女性の自分が店長、おばさま方のベテランアルバイトさんたち、厨房に入っている年若い男子スタッフはマネージャーと考えが近い、というか、ほぼ同じ。すべての年若い男子がそんな子たちばかりではないとは思うが、そういう例が多すぎて、やっぱりなんか、絶望してしまう。
この布陣の中で、そりゃあ千春は三知子たちの方に救いを求めるだろう。きっと、ずっと前から、苦しかったんだと思う。
三知子はゆくゆくはこっちを本業にしたいと思っている、アクセサリーデザインと製作の仕事をしている。その店のオーナー、マリが筒井真理子氏。絶妙、ぴったり。コロナでこうしたゆったりラグジュアリーなお店もまた大打撃で、それゆえに三知子はオーナーに助けを求めることも出来なかったんだろうと思う。
マリさんが家族だったら良かったのに、とぽろりと口に出すほど信頼していたのに、彼女もまたコロナで大変だと思うからこそ、口に出せなかった。あの子はあんな性格だから、とマリさんは判っているだけに行方不明になってしまった三知子を案じて……。
飲食店が窮地に立たされたというのはそのとおりなのだが、緊急事態を抜けてなんとか持ち直して、でもその時には若いスタッフを入れて、しかもあのクソマネージャーはふんぞり返ってセクハラこいてるんである。
店長の千春は、三知子たちを呼び戻さなかったことにそもそも不信を抱いていて、その矢先にマネージャーが彼女たちの退職金を着服していたことを知るんである。
動揺しながらも、マリアさんや純子さんに確認を取り、マネージャーと、ひいては本社と戦うことを決意する千春の、年若く、いくらでも他に活路を見出せるでしょ、とおばちゃんはついつい思っちゃうような彼女の覚悟が胸にしみる。
思い出してみろよ、私!!いつだって、この日本という、永遠に男社会の中で、女子は永遠に傷つけられ、苦労し、闘ってきたではないか。だからこそ、違う年代でも、ともに手を携えられるのが女子ではないか。若い時にはセクハラ、子供を持つとなったらマタハラ、ベテランになるとうるさいオバハンと排除される。いまだにそう、いまだに!!
三知子がホームレスになって、魅力的なホームレス先輩にたくさん出会う。もーこれは、さっすが伴明監督の人脈を突きつけられる。バクダンなる呼び名の柄本明氏に、いわば監督が代弁して語らせる彼ら世代の、若い世代の叫び、学生運動ということに集約してたその叫び。
結局あしらわれて終わった、ベトナム戦争に武器供出を協力したようなクソ政治を糾弾しても、蹴散らされて終わった苦い過去。いかにも伴明監督世代って感じのアナクロさも正直感じるけれど……。
ちょっとうわっと思ったのは、当時の安倍総理の実際の会見映像を使用したり、アベノマスクを揶揄したり、真っ向勝負しとるわー!!って。
バクダンが語る学生運動時代、その時に作った爆弾をもう一度作ろうとか、根岸季衣大ベテランが派手派手なババアキャラで、当時の政治家のスキャンダルを夜の女の目線で語るのも面白い。
その中で……ベテランホームレスの中で、ああ、大好き大好き、下元史朗氏である。センセイと呼ばれる彼。苦しんでる三知子を優しく迎え入れる。
もう夜が遅い、私は先に失礼します、と言って、夜空に向かって手を組んだ。何を祈ったんですか、と問う三知子に彼は、ああ、なんという言葉。明日こそ目覚めませんように、と、答えたのだ!!
この言葉に、誰も、何も、言うことはできないでしょ。ぱっと見はゆるゆる穏やかに暮らしてるように見えるけれど、そりゃあさあ……。
そして三知子はバクダンの手引きで爆弾を作り、都庁近辺に放置して、テロを企てるんだけれど、心配した派手ババアも参戦するんだけれど、結局、セットした目覚まし時計が鳴り響くだけだった。三知子のことをきっと、救ってくれた。
バクダンの若き頃の学生運動の話、ひょっとしたらその先も活動してたかもしれないと思わせる、これはヤバい爆弾の作り方秘密文書である。高橋監督、そして、バクダン役を担った柄本明氏は当然、リアルタイムであろう、めちゃくちゃ恐ろしい。
そして……なんだろうなあ、私はね、三知子を演じる板谷氏とは、実年齢も、役年齢も恐らく同等だろうから、板谷氏とは実際は3歳違い。一緒でしょ。いやーまぁ……40代と50代っつーのはなかなか壁があるからアレだけれど、そこは一緒で進めたい。
ならばうっすら、学生運動とか、日本赤軍とか、きっと、自分のアイデンティティにどう組み込むかということを考えていると思う。だからこそ、彼女をキャスティングしたんだろうと思うし、片岡礼子氏もさ、当然そうだよね。
その中に、観客としてだけれど、入れてもらえると嬉しいかもとか思っちゃう、平和アホな映画ファン。でも、凄く凄く、社会問題考えてるから!!
元になった実際の事件では、殴殺されてしまったホームレスの女性。でも三知子は死なない。直前に千春が駆けつける。大声で男を蹴散らかす。マネージャーが横領していた退職金を差し出して、それは、三知子の居所が判らなかったから、千春自身が確認書類を偽造して、取り戻したものなのだ。
私も辞めてきました、だから同じです!笑顔を見せる千春をぼんやり見上げた三知子が発した言葉は、「爆弾作らない?」……あれはどういう意味合いだったのだろう。
でもとにかくとにかく、現実とは違う未来だっていつだって切り開けるのだ。こうして手を差し伸べられる人間になりたい。もちろん自分自身が落ちてしまう可能性だってあるけれど、手を差し伸べられる社会にしたい。
★★★☆☆
この風雅なタイトルは、ヒロインの咲が尊敬する国語教師の南雲からその意味するところを教えてもらった一句だ。
自分の気持ちと相反する表現をして、実は切に桜を慕う気持ちを表現する手法は、おくゆかしいとも、素直になれないともとれる、日本人の複雑なアイデンティティの表出方法。
そしてそれが……今の時代につながって、良くない方向へも影響があるのだとしたら。ああ、そんな解釈の仕方は間違っているとは思うけれど、咲や南雲先生がそうした、裏の裏に隠すコワザ、生きていくための器用さを持ち合わせてないから。
くだらない人間にまっすぐに反応して、屈して、今、どこにも進めずここにいる。
咲は不登校になり、終活アドバイザーのバイトをしている。南雲先生はすっかりやさぐれ引きこもりになり、咲は心配してちょくちょく訪ねては食事を作ったり片づけをしたり、今やすっかり幼なじみか姉妹かみたいな親密さ。でも、一点、二人が共有している重要な部分には当然、触れていないまま。
後に明かされる、南雲先生の授業をバカにし、無視や嘲笑を浴びせたヒドいイジメ。
耐えきれず教室を飛び出して廊下で号泣した南雲先生を、更に残酷に笑いのめして動画まで撮り始めた同級生に、それまでは何も言えずにいた、恐らくクラスの中でも大人しく隅っこにいるタイプだったであろう咲が、ブチ切れた。
まさに、ブチ切れたのだ。そんなタイプじゃなかったであろうことは、後の彼女を見ていても判る。慎重に、目立たないように、コミュニティの中に潜んでいるタイプだったのだろう。
そして恐らく、本来なら南雲先生だってそんなにがつがつしたタイプではなかったのだろうけれど、子供の頃からの夢だった先生になって、肩に力が入ったところに生徒から軽くナメられたのを重く受け止めちゃってエスカレートしたのかなあ、などとたらればな想像をしてしまう。
判らないけど……先生が絶対だった昭和女にとっては信じられない事例だけれど、でも、容易の想像ができるのは、いじめの手法が巧妙になり、その対象も自分より弱い立場というならば、同級生とか後輩である必要はない、という事態に膨らんでいるのが目に見えてきているから、生徒が先生をイジメ倒して退職に追い込むのも、そうか、あり得るのだと。
南雲先生が退職し、咲もまた不登校になった。南雲先生は一応自立した大人だから、無職だろうと引きこもりだろうと、冷たい言い方で言えば本人の責任だが、咲の不登校に対して家族の影が一切感じられないのはさすがに気になる。
学校側としては捨て置けないことだと思うのだけれど、まるで南雲先生と対等のように、まるで彼女もまた一人で生きているかのように咲を描写するけれど、そうじゃないのだから、未成年、高校生、絶対に保護者の問題がかかわってくるのだから、それが一切スルーされるのはさすがに気になる。
ちょっとでいいのよ。娘を心配する親が一瞬でも出てくれば。それがなかったから、リアリティという点で格段に落ちてしまった感は否めない。
咲がバイトする終活アドバイザーというのも、彼女がこだわるマニュアルが口先だけ(ヒドい言い方だが……)に終わってしまっているのも、もったいないと思う。かっちりとした流れなり、専門分野への引継ぎなりという、形が示されてこその、崩される魅力であると思う。
それを、マニュアルにはないことを崩す、という咲と敬三の台詞のやりとりだけで終わらせてしまうもんだから、この相談室の説得力がイマイチなくって、言ってしまえば、制服コスプレしたお爺さんと女の子のコンセプトショップみたいに見えちゃう。
さくっとだけでも、凡例というかさ、こういうのが一般的なお客様、というのが示されればよかったんだと思うんだよね。私、ホンットつまんないこと言ってるのは判ってるんだけど(爆)、つまりそれだけ観客がバカだとさらしているようなもんなんだけど(爆爆)。
でも……それは、観客の理解力を疑うんじゃなくって、その上で、こんな珍しい相談を持ち込むお客様もいるんだ、というスタンスになるから……。
確かに二組ともとても魅力的な、珍しいお客様ではあるんだけれど、なんだろね、言い方悪いけど、こういうの舞台的というか。
舞台って、非現実的なことがそもそも前提なところがあるから、わざわざ、普段ならこうなんだけど、というのは確かに示さないよなと。でも映像作品だと、映画だと、やっぱり違うのはここかなと思ってしまう。
それでもその二組(てゆーか、相談に来るのはひとりだけなのだから、二人か)はとても魅力的である。
健康だし、死にたいんでもない、むしろ、最初の彼は、結婚し、もうすぐ産まれる子供もいて、でも「仕事で遠くに行かなきゃいけなくて。職業柄、遺書を書かなくてはいけないんです」と言う。
もうこの時点でピンと来て、判ったー!!と思って、それがラストに明かされてやっぱそうでしょ、当たった当たったと思って、嬉しかった(笑)。
そう、彼は宇宙飛行士。今は亡きお父さんは、写真や遺品のキャップから推測するに、ファイアーマンだったのかな。同じく、遺書が書けずに、白紙のままの遺書が残されていた。
この男性は最初こそは、何も遺言も残さずに死んでしまったから残された家族は大変、とか言っていたけれど、本当のところは、お父さんと同じく、遺書を書けずに悶々としていたのだ。
事情を知らないままマニュアルをとうとうと述べだす咲を制して、敬三さんは提案したのだった。とりあえず、部屋を整理してみてはどうですかと。
思いがけずそれが彼の心に響いた。部屋は、彼の部屋ではなく亡くなった父親の部屋、手付かずのままだった部屋。その中に、彼は答えを見出したのだった。
二人目は、最後に、余命いくばくもないことを明かす、初老の男性。小柄でちゃきちゃき喋る、徳井優氏が凄く雰囲気を出してくれる。
定年を迎えて仕事を辞めて、自分の仕事のことを記録映画として残したい、そう言って訪れたのだった。終活アドバイザーには手に余る依頼だろうに、今度は咲の方が敬三さんに先んじて依頼を受けた。
咲のことを常に心配してコンタクトを取ってくれる同級生男子君をカメラマン兼荷物持ちとして駆り出し、川の仕事をしていたという彼の、仕事の場所を撮影する。
川じゃないのだ、隠された川。暗渠だと彼は説明した。かつては川だった場所に、通路が敷かれている。そして一方では、広大な人口川もある。同級生君は素直にスゲー!と感動して、彼を涙ぐませちゃう。自分の仕事が、こんな若い人にそんな風に褒められるなんて思いもしなかったと。
なぁんか、ね……この場面、私も思わず涙ぐんじゃう。彼が言うように、自分の仕事のこと、好きとかそんなもんじゃない。そんな、単純なことじゃない。
でも縁あってその仕事に携わることになって、一生懸命にやってきて、定年を迎え、思いがけず余命も切られて、ふと、懸命に働いてきたこと、人生の意味を確かめたいと思って、何気なく、そう、きっと何気なくだ……ほんのひとつのことだったのだ。
終活の一環としての記録映画作り、形として残したいだけだったのに、本当に思いがけず、素直な若者のキラキラした目で、すっげぇ!と言われて……ああ、またしても、私も、涙ぐんじゃう。
ラストシークエンスは、敬三さんと奥さんの心の旅である。敬三さんの幼い頃の戦争体験、学びたかったのに叶えられなかった幼少時代、満州から祖国にようよう帰ってきたものの、学校になじめなかったところを、同級生だった、今の奥さんに救われたこと……。
不思議なことに、咲の今の現状に、敬三さんの幼き頃、それこそ半世紀以上も前の出来事が、いちいちリンクするのだ。時代、歴史、全然違うけど、人間の、ことに子供たち、ティーンエイジャーが遭遇することって、その現状、環境の違いはあれど、大体おんなじことなんだなあ、って。
豊かな時代なら、それはそれで、心の置き方の違いだけで、同じように現れるのだ。そしてそこに……きっといつだって、その時代なりの救いの手が差し伸べられると思いたい。
咲にとってはもちろん敬三さんだったし、南雲先生だったし、同級生君だった。咲が、南雲先生を率先してイジメていた女子を待ち伏せして、どーゆーつもりだったのかと糾弾する場面があるけれど、ムリだよね……。この女子がこんな場面で改心するとも思えない。改心するとしたら、そこにも一本の映画が出来上がるぐらいの、知られざる葛藤の物語がある筈なのだ。
そう考えなければ、人間は何も考えず快楽だけでイジメるイキモノだということになってしまう。糾弾すればオッケーになってしまう。それは信じたくないのだ。だってそうであれば、……おしまいじゃないの。ただ、泣きぬれて、時に死を選んじゃう悲劇が重なるばかりじゃないの。
吉行和子氏が登場すれば、そらまあ間違いないのだった。敬三さんの奥様。咲は、二人のために思い出の桜を映像に収めたいと、同級生君を伴ってみごと探し当てたけれど、もはや老木であった。咲は泣き崩れたけれど、同級生君は、それをあえて提示した上で、かつてそうだったであろう満開の桜を、CGで再現する。
そこまでの根回しをきちんとしたのが有効だったし、秀逸だった。しゃっきりダンディな敬三さんに対しては、提案すれば返ってくる手ごたえがある、年齢差とか関係ない、人間同士の、仕事仲間同士の信頼があって、だからこその実現だった。
同級生君のビデオ編集術に子供のようにワクワクして見入っている敬三さん=宝田明氏、もうそのものだと思っちゃうもの。
一年後に飛ぶ。敬三さんは奥さんを見送り、今はひとりで受付にいて、久しぶりの咲の来訪に喜んでいる。
なんだろう、なんだろうなあ。こんな繰り返しなのだよ。年寄りとワカモンが、入れ替わる。それを、きっと遠くから、かつての年寄りが眺めてて、かつてのワカモンは忘れてて、年寄りになった時想い出すのだろう。★★★☆☆
昔から難病ものが好きじゃなかった訳じゃない。結構単純に白血病映画で号泣してたりしてたけど、だんだんと、なんかヘン、というか、何のために難病ものが作られるんだろうと考えるようになったというか。
死ぬことが感動と引き換えになったり、それがより若いと涙度が比例したり、病気と闘っている気高さとか、一日中一年中その病と闘っている苦しさにさいなまれているような、違うんじゃないかなーと感じることが大きくなってきたから。
「コーダ あいのうた」でちょっとそんな話をしたけど、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」のイングマル少年のように、哀しい気持ちの他はきちんと日常で、楽しいこともあるし、もともとの哀しさと他の苦しみもある。
そうした人間の生活というものを無視したものが、つまり外野から無責任に眺めて、可哀想だね、と涙してスッキリするような感じがし出して、次第に遠ざけるようになってしまったのだ。
だから本作に接して、ヒロイン、茉莉に投影された原作者さんが亡くなっていると知ると、そんなことも書きづらくなっちゃう。でも判らない。原作を読んでないから。原作では彼女の日常の楽しさがちゃんと別枠で描かれているのかもしれない。
いや、映画となった本作だってそれがない訳じゃない。ただそれは、自分の死に巻き込みたくない、恋人との日々にほぼ限定されているから、切り離して考えるのが難しい。
茉莉が大学時代の親友が勤める出版社でWEBライターとして働く日々こそがそれを期待させるのだけれど、記事を書いたり掲載されたりする描写はほんの一瞬で、それで生計を立てるというよりは、言い方悪いけど片手間のように見えてしまう。
一人の人生の仕事としての生活としてのそれに見えないから、ああここにも難病もの誕生と思ってしまったりする。
なかなか、言いづらい。これが、よく見知っている病気ならば、例えばがんとか白血病とかならば、今は医療が発達してるわ!そんな死なないわ!フツーに生活してるわ!!と言えるのだが、数万人に一人に発症する難病と言われたら、途端に言いづらくなる。
しかも原作者さん自身を投影していると知ったらなおさら言いづらい。そうじゃなければ、そういう、難病中の難病を設定に持ってくるなんて卑怯千万!と怒れるのに、それも出来ない。
難病中の難病をこういう作品に持ってきて、で、死んじゃうと、なんだかもう救いがないような気がしてしまう。確かに医療は日々発達している。でも、風邪やインフルエンザ、いいとこがん治療だのが日進月歩なのは、それだけ患者が多いから、研究成果があがればバックがあるからというシビアな現状があるから。
難病であればあるほど、医療の発達にそれほど期待が持てないというのが、一般的な考え方なのは否めない。そのことこそを糾弾すべきで、それを糾弾出来ている作品だったら良かったのだが、当事者が原作者さんだと、そんなジャーナリスティックなことを求めるのも違うし。
そういう意味で本作はかなり感想をつづるのが難しいと感じる。この難病の患者さんが本作を見たらどう思うのかなとか考えちゃう。結局は死ぬんでしょ、でも私にはこんな理解ある友人や恋人や(ひょっとしたら家族だって)いないし、とか思っちゃうんじゃないかって、余計な心配をしちゃう。
なんかつまんないことをつらつら書いてしまった。それとは切り離して物語に行こう。
小松菜奈嬢と坂口健太郎君という、見た目好感度抜群の二人。小松菜奈嬢扮する茉莉と坂口君扮する和人は中学の同窓会で再会する。茉莉の方は彼のことを覚えてなかった。和人は茉莉のことを当時から好きだったらしい。
次に会ったのは、和人の自殺未遂で、同じ上京組のタケルから連絡があったから。家族との軋轢で甘えた自殺願望を告白した和人に茉莉は拒絶反応を示してしまう。
茉莉と再会して彼女への恋心を再燃させたこともあって和人は心を入れかえ、タケルの行きつけの居酒屋で働き始める。茉莉は大学時代の親友、沙苗の紹介でWEBライターを始め、沙苗はタケルと付き合いはじめ、和人との距離も縮まっていくのだが……。
ちょっと方向を変える。茉莉の家族である。松重豊、原日出子、黒木華という完璧な布陣で、皆が完璧な父であり母であり姉である。
だからこその感動であるんだけれど、アマノジャクな私は、こんなうまい具合にイイ家族はいないだろ、と思っちゃう。ごめんなさい、原作者さんへの冒涜だってことは重々承知だし、私だってとてもいい家族に恵まれているんだからそんなことを言う筋合いはないんだけれど。
でも、なんだろう……そうだなあ……難病ものに折々感じる違和感なのだけれど、結局は自分一人で受け止めるしかない筈なんじゃないのかなあということなのだ。
難病ものには必ず、家族、恋人、友人が重たく付きまとう(言い方(爆)。それこそ平凡な乳がんをやった自身の経験からしても、むしろ家族や恋人や友人と接するのは、患者である自分ではない、日常生活を送っている自分でありたいと、それが病気うんぬんよりももっとも強い願いだったように思う。
年齢にもよるのかな。私はすっかりおばちゃんになって、独身生活にどっぷり浸ってからの罹患だったから。
お姉ちゃんは黒木華。凄く素敵。妹とのいい感じの距離感の仲の良さ。いわゆるセカンドオピニオン、一縷の望みをかけての、肺移植治療ができる病院への転院を恐る恐る提案するシークエンスは辛い。
茉莉はこれまで何をやったって駄目だった、私は闘うのをやめたんだと言い放ち、どっちが可哀想なんだろうね、と禁句を言ってしまってハッとして、誰もが涙涙になってしまう。
ここってさ、これってさ、凄く難しい提示だよね。現在進行形で、治療法が模索されているんだろう、その一つなんだろう。家族は一縷の望みに賭けたい、でも患者本人が拒否する。
もちろん、患者本人にこそ絶対的な決定権がある。その権利がある。それにおいて、本作では、見方によっては、生への希求を諦める選択をした、患者本人がそれを是とした、と見えてしまうのだ。それが……私にはどう咀嚼していいのか判らなくて。
意地悪い言い方をしてしまえば、そうすりゃより難病ものの感動ポイントに到達できるだろう。発症時からお世話になった主治医に最後まで自身の命を託し、家族を悲しませることを悲しみ、恋人ともそんな理由で別れ、自分の生きた証を小説の形で親友に託す。
正直言って出来すぎているというか……なんだろう……私は何に違和感を感じているんだろう。
これも時代かなと思う。男の子が躊躇なく涙を流すようになった。昭和のおばちゃんはそれを、恥ずかしいようなまばゆいような愛しいような気分で眺めている。膝からがっくりとくずおれて、恋人の余命告白を受けるクライマックスなんて、ほんの10年前ですらなかったなあと思ったりする。
坂口君扮する和人の造形に関しては、レールを敷かれた父親の会社で働く道を捨てて、今は勘当同然、という状態がまさにそれだけのセンテンス説明で終わってしまって、自殺未遂までした苦しみなんだから、茉莉からの叱咤でころりと改心できちゃうというのは軽すぎるんじゃないのかなあ。
その後、居酒屋のバイトに入り、独立に至るまでやけにすんなりと更生してしまうのが、ヒロインである茉莉側に重きを置くということはあるにしても、一体彼は具体的に何をどう悩んでいたの??と思っちゃう。
和人と短いながらも楽しい恋人期間を過ごすも、余命10年の終焉が近づいている茉莉は、プロポーズをされたのに、彼に別れを告げる。
涙涙の別れ。茉莉は悪くなる体調の中、自伝とも言うべき小説を執筆し、沙苗に託す。和人は自分の店を持つという独立へと邁進する。その店の名前は彼女の名前……「まつり」である。
もう命が途切れるという時、茉莉の脳裏には叶えることが出来なかった和人との波間でのたわむれ、結婚、出産、幸せな未来のあれこれが、言い方がヘンだけど走馬灯のようにめぐる。
出版前の茉莉の小説を沙苗から開店祝いに贈られ、和人は最愛の人の病床に全速力で駆けつけるんである。もう意識がほとんどない茉莉だったけれど、彼の問いかけに、弱々しくも手を握り、うっすらと瞼を開いた。
中盤、母親に抱きつき、苦しみを吐露する場面がある。和人に別れを告げて、帰ってきた時である。それまでも、家族の、特に母親のやけに理解がいいというか、母親が娘に対するべったり感というか。この年頃の娘の母親が、こんな昭和的主婦キャラかなあとか、ついついイジワルなことを考えてしまった。
茉莉の年頃で、こんな昭和な専業主婦のお母さんなのかなとか、まあそれは人それぞれだろうけれど、世間的に言うほどに、母親と娘ってこんな風に姉妹的友人的仲良しじゃないんだよね、っていうのは、この年になってというのもそうだけれど、知人友人の話を聞いても、そっちの方が絶対的に多いんだよね。
まあ、茉莉は若いから、この設定でいいのかなあ。もう年を取るごとに、自立するごとになのかもしれない、母親にこんな風に、思いのたけを吐露するなんて、 ないない、絶対にない!だって、年代的にも立場的にも、自分を一番理解できない人だもの。
冷たい??でもそうだよね。同僚でもなければ友人でもなければ年齢も違う、冷たい言い方だけど、ただ自分を産んだだけの人だ。そんな思いを持つ自分がなんて人でなしなんだろうと苦しみながら、でもそれが大人になるということだと思って、それを通って本当の意味で、母親といい関係を築けたのかなと思うのが今の私。
でもそうよね、茉莉ちゃんは、その年齢設定はまだ若いんだもの。でもそれって、苦しいなあ……。
一体私は何を言いたいんだろう(爆)。難病ものに噛みつき、家族のありかたに噛みつき、それは全部、私の勝手な価値観だろって(爆爆)。
でもひとつだけ、ひとつだけ言いたいのは、病気であろうとなんであろうと、ただ平凡な、いつも通りの、なんてことない日常が、人にはあるんだと。ドラマチックで、乱高下激しくて、涙涙で家族や友人や恋人と抱き合うなんて日常は、ないんだって。逆にそんな観点を主眼にした作品が産まれないだろうかと思っちゃう。★★★☆☆
それにしても、映画作品でだけ触れている作家さんというのも珍しい。いや、私が読んでないだけだけど(爆)、でも、なんていうのかな……。
読んでないのに、それぞれ監督も違うのに、これだけ心の肌触りといったものが、彼や彼女の湿度が、この小説家が渾身の心を込めて書いたものなんだなあ、と思って、それがこれだけ、映画というものに親和性があって、なんかもう、それだけで満足しちゃうというか(いやだから、読みなさいよという話なのだが)。
物語は、慎一がいかにもワケアリの母子を迎え入れるところから始まる。自分は離れのプレハブに移り、彼女たちを自分の部屋に住まわせる。
すぐに部屋を探すから、と恐縮しきりの彼女、裕子だが、二人の距離感は微妙というか絶妙というか、知り合いなのは間違いないけど、どういう知り合いなのか、部屋を提供するほどの関係性とはなんなのか……。
長屋のようなところなので、好奇な目を向けるお隣のおばさんが気になる二人。あいさつした方がいいのかな、でもどう説明したらいいか、だなんて言ってなんとなくスルーしていた。
でもそれもラストに、彼女もまたワケアリの女性で、出戻りのダンナを照れくさそうに紹介するところで、慎一も裕子も、世間というものを気にしていたのは自意識過剰というか、世間が敵とか、自分が孤独とか、誰にも判ってもらえないとか、思い込んで閉じこもっていたんじゃないかってことを、この隣のオバサンの謎解き一発で示したような気がして。それを藤田朋子氏が演じているというのが、めちゃいいバランスで。
でもそこに至るまでには、もう暗い暗い。慎一も裕子も、暗いトンネルから抜け出せない。メンドくさいから二人の関係言っちゃう。慎一の恋人を、裕子のダンナが奪った。離婚して行き場のなくなった裕子に、住居を提供した慎一、という図式。
こう書いてみると慎一の元カノと裕子のダンナがひっど!と思いそうになるが、この結果が示される前に、慎一が元カノを束縛しまくり、とゆーか、まったく信用せず、店長と何かあるのかとそんなに疑うなら家にいるよ、主婦になりたい、と彼女からやけくそ気味に言われる。
それに返した彼の言葉、何だと思う。俺にたかって生きていくつもりか、だよ!おーい、おーい、おおおおーい!!!
この時点で彼は鳴かず飛ばず状態の小説家。彼に実入りがないからこそ彼女が働いていたのだ。働きたくて働いている訳じゃない、という彼女の言葉は、その後の主婦になりたい、という台詞はうだつの上がらない、ヒモ状態の彼への当てつけだったと思うけど、前段は、働きたい仕事で働いているんじゃない、という意味にもとれて、そりゃ出て行かれるさ。
そもそもここまで我慢したのが奇跡よ。離れのプレハブを仕事場にしたのだって、慎一が勝手に彼女をウザがって、嫉妬しまくって執着しまくっているくせに完全に逆ギレして、自分を正当化してのことだったのだ。
それは過去の回想で、ざくざくと、ランダムにそれは入ってくるのだけれど、今、彼は、それを後悔している。そう明言する訳ではないけれど、明らかに当時の彼はヒドかったし、そらあ出て行かれるのはしょうがないでしょ、という感じだった。
でも、相談に乗ってくれていた信頼する職場の先輩が、俺が話してやるよと言ってくれていたのが、彼女とデキて、離婚。だから今こういう状況。彼女をとった先輩の奥さんとその子供を、慎一は迎え入れているんである。
彼女に対する慎一は本当に、クッソ彼氏だったからさ。本当に……それは、鳴かず飛ばずの自分自身への自信のなさもあったのだろうが……作家仲間とのテキトーな飲み会で、それぞれ自分勝手に自分自慢をするんだから、マジにとったらダメなのにさ、激高しちゃう。
このシーン一発で判っちゃう。ああここなのだと。自分の才能への不安、焦り、それを他人へのいらだちに転嫁しちゃって、さらに追い詰められる愚かさ。作家仲間にならまだしも、それを彼女、そして邪推して彼女の職場を荒らしたらもうダメ。
出て行った彼女を取り戻せる訳もなく、相談に乗る、と間に入った先輩に取られてしまった。取られてしまったというか、この場合は、単に恋愛関係よね、とも思われ。
だから、正直、裕子側の事情というか、彼女と夫との関係性というのは判然としないのだ。夫婦として登場した場面は、ダンナが慎一の相談に乗っている、家に呼び寄せて一緒に飲んでいる場面だけだった。
妙に控えめというか、妙にいい奥さんな型にはまった感じはあるかなあと思った。突然招き入れて、泊ってけよとか言って先に居睡りしちゃうダンナに、もー!とか言うんじゃなくて、いいんですよ、おつまみ足りてますか?ちょっとならいただこうかな、みたいな、思えばこの時から、夫と仲良しこよしなんていう雰囲気じゃなかった。でもこれくらいが普通とも感じられる微妙な温度感。
それを踏まえて、慎一の部屋を間借りする彼女を思うと、彼女は一見、表面上では常識的というか、そんな人間に見えるんだけれど、どうだったんだろう。
裕子は幼い息子を寝かしつけてから、夜な夜な男漁りに出かける。うーん、この言い方はちょっとキツすぎるな。まぁ、なんか寂しかったらしい。いや直截に言っちゃうと、妙齢女子の性欲抑えきれない系(爆)。
ジャンルによっては、そーゆーストレートな描き方も出来るだろうし、そっちの方が正解なんだろうと思う。
松本まりか氏というのが絶妙なんだよね。彼女は声が独特で、その可愛らしい風貌もあいまって、同性嫌悪されるような役の向きも多かったと思うんだけれど、いい感じに妙齢になって、声もかすれて(爆)、本作のキャラの、いわばズルさというか、自分自身のはっきりしなさがこの事態を招いたっていうことの自覚があるのかないのか……みたいな。
自分自身は男漁り行く欲望が抑えられないくせに、息子に対しては「期待させないで」と慎一にクギをさす、のは、いや、自分自身の期待に対するけん制だというのはアリアリだ。
そらそうだよ。困っている自分と息子を救ってくれて、しかも妙齢男子、何よりお互い被害者同士……。こうなることが予感されていたからこその牽制だったし、早く部屋を見つけると言い募るのもそうだった。
でも思えば、ラストシークエンスで不動産屋にふらりと入る描写を入れたってことはさ、ふらりと入る、だなんて、つまりそれまで、まったく行動してなかったってことを裏付けているに他ならない。
彼女は最初から待っていたんじゃないのか。予感して、お隣さんに挨拶するのをどうしようかっていうのだって、計っていたんじゃないのか。息子が慎一に懐いたのも、父親のウラギリに彼が傷ついていたこともあったろうが、子供というのは、特に息子というのは母親の感情に敏感なのだもの。息子が懐いたというより、大好きなお母さんの大好きな相手と察知して懐いた、というのが自然な理解な気がする。見知らぬ他人に無邪気に懐くほど、子供は甘くない。
でもそれを、慎一も、裕子も、ひょっとしたら書き手さえ、意識していたかどうか。何かね……決して揶揄する気持ちじゃなくて、本作においての、慎一と裕子、そして彼らの元パートナーたちの物語において、この幼い息子は、人格を与えられていないというか……触媒のような、彼らをあぶりだす存在としての機能という気がする。
慎一、裕子、幼い息子のスリーショットは微笑ましいし、慎一と裕子が葛藤しながらお互いの想いを確かめ合い、その先に、新しく構築する家族としての三人、というのは、希望あるみらいのカタチであることは間違いない。
でも、やっぱりまだ、おぼつかない。慎一と裕子は、拭い去れない被害者意識同志と、避けようのない性愛の欲望がスパークして、そうなってしまった。性的な求め合いに、どう理由付けをするのか、理由付けをしなければならない、大人の事情を抱えてしまった人間の愚かさがあるからこそ、ヤッてしまってからが、より複雑になる。
ああ、メンドくさい。ヤッちゃったら、もうラブラブでいいやんか、というのが通用するのは、もう今の時代では、AVですらないかも。
幼い息子が、慎一にひどく懐いている。慎一君、と呼ぶ。慎一君と一緒にご飯が食べたい、慎一君も一緒に海に行きたい、と言い募って裕子を困らせる。
単純に慎一に懐いている、訳じゃないことは判ってる。父親が恋しいのだ。裕子の元ダンナとのシーンはなかったけれども、会話や展開で、コトが起こる前の裕子たちの家族は普通に幸せだったことが推察されるから、息子君にとっては青天の霹靂だったろうことが推察される。だから、息子君にとっては、慎一は代理キャラなのかもしれないけれども……。
こういう場合の子供は幼いから、彼や彼女のアイデンティティはとりあえずなきものにされていて、それは仕方ないというか、当然の処置だと思うけれど、結構、この年頃の子供たちが、後から思い返してだろうけれど、現場を見聞きしてるし、推察もしてるし、最も事態を把握している存在、なんだよね。
その視点からの物語……それは、コンプラ的に、労働基準法的にやっぱムリ?見たいけどねえ……。★★★☆☆