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「え」


2023年鑑賞作品

映画(窒息)
2021年 108分 日本 カラー
監督:長尾元 脚本:長尾元
撮影:高橋草太 音楽:吉川清之
出演:和田光沙 飛葉大樹 仁科貴 田嶋悠理 仁木紘 寺田農


2023/11/19/日 劇場(新宿K's cinema)
予告編で、和田光沙氏の新作!というんで心に留めてあって足を運んだ。いつも情報は確かに入れない、入れないけれども……全編台詞なしモノクロームというだけでもなかなかの力技作品。いや、予告編の段階からこれはどっちに転ぶか判らんが凄そうと思ってはいたが……。
どっちに転ぶか、というのは、設定、というか、コスチューム、というか。つまり原始時代のような生活をしている女は片方の肩が出ている皮革をつぎはぎしたような上衣に短パン、男は腰に巻いただけの上半身裸、彼らを襲う山賊(だったのね、解説で知った)のリーダーはシーツをまとったような怪しげな白装束、控える手下二人も微妙にマンガチックなコスチュームで、これはヘタしたら安っぽい作劇に作用しちゃうかも……と思ったりもしたのだが。

ある程度はそれも計算済みだったのではなかろうかと思う。台詞なしなのだから、オフィシャルサイトで物語なんぞを追わなくても良かったかなと思ったりする。それでなくても映画は観客それぞれの解釈でいい筈なんだから。
あれこれ気になりすぎていつもはスルーしちゃう上映後トークにも耳を傾けてみたら、この気になるタイトルの謎も改名してくれた。そもそもタイトルをつけるつもりもなかったと。これぞ映画だという意味で映画にして、(窒息)は、そりゃまぁ本編を見れば、観客側であれこれ想像出来るのだから。

この発想は凄く、面白いと思った。かつてのクラシック作曲家が、一番、二番というナンバリングしかしていなかったような。作品そのものなのであって、タイトルという概念すらなかったかのような。

まさに原始だ……そして、解説を読んじゃえばこの舞台設定もある程度明確にされているんだけれど、いわゆる時空を超えているというか、どこでもないいつでもないというか、言葉もないから日本だとかどこかのアジアだとか、そういう概念もない。
ただ、女が一人住んでいる場所が、かつての建物が骨組みだけ残ってしまったような廃墟で、あるいは、建て始めたけれど途中で放棄されたのかもしれないとか、あらゆる、つまり文明が崩壊してしまった先の人間なのだよね。だから原始じゃない。彼女を襲う山賊たちに、そうした文明の悪しき部分が残っている、ということなのかもしれない。

それにしてもサイコーな和田光沙氏!彼女が作品を呼ぶのか、作品が彼女を呼ぶのか。一番好きだったのは、仕掛けたワナに可愛い男の子がひっかかった時の満面の笑顔!!それは、食料となるウサギやらがかかった時と全く同じ笑顔というのが怖くもあり、マジでこの男の子をさばいて食べちゃうかも、やりかねん、という雰囲気が、この稀有な女優からは感じさせちゃうんである。
干し肉や木の実といった保存食、狩猟の様子、肉の解体、行商人(寺田農!)と物々交換の交渉をしたり、はるばる川まで水を汲みに行ったり、思い切ってチャレンジした毒キノコにあたって白目むいて泡を吹く場面なんてもうサイコーである。しかもこの毒キノコが後半の最重要アイテムになるあたり、気が利いている。

女はいつも、悪夢を見ている。あるいはそれは、現実なのか。寝ている彼女の足元に膝を抱いて座っている黒い人間の影。その影は彼女に覆いかぶさってゆく。そこでバチリと目が覚めて朝である。
そんな朝を何度も繰り返す間に、彼女の日常が描かれていく。まさに、生きるためだけの一日の繰り返し。水を汲みに行き、仕掛けにかかった動物を解体し、火をおこして肉を焼いて食する。朝ごはんは保存食になっている干し肉や木の実だけれど、そんな風にささやかなごちそうにもありつける。
行商人からゲットしたルーペで、簡単に火が起こせることに狂喜乱舞し、大事に大事に首から下げたり、鳥のきれいな羽を拾って集めていたりするあたりに、生きるためだけと見えながらも、実は乙女な喜びがあったんだと気づく。

山賊に襲われて、食料はもちろん、ああ、想像したくもない、彼女を羽交い絞めにした子分、暴れる彼女の前ですとんと白装束を脱ぎ捨てて全裸になるリーダーの後ろ姿。ああ、想像したくもない!!
だから彼女にとって男というものが、汚らわしきもの、恐ろしいものだとされたんじゃないかと思われるが、その後仕掛けにかかった青年には、恋に落ちてしまった。

てゆーか、これはマジに奇跡。だって本当に、解体して食っちまうんじゃないかと思ったんだもん。本当にそんな勢いだったんだもの。
壁にはりつけにして、どの道具を使おうかなみたいに吟味して、でも一晩放っておく、みたいなイジワルさ。なのになぜか翌朝、彼女は彼を解き放ってしまうのだ。

なのになぜか(なのになぜかが多いな……)この青年、彼女の元に戻ってくる。殺されそうになったというのに、なぜか、なぜだか、子犬のように懐くんである。
これは本当に謎なのだけれど……不思議に飲み込めてしまうのは、演じる飛葉大樹氏のまさに子犬のような可愛らしさと、この経過に、命を助けてもらった、という転換をしたんじゃないかという無邪気さを感じてしまうから。その無邪気さこそが、後半恐ろしい転換となっていくのだけれど……。

彼は見かけによらず(爆)知恵者で、川まで汲みに行っていた水を、竹のといをつなげて水道を作り、住居の近くまで流すという大技をやってのける。そんな離れ業を見せられちゃったら、そりゃぁホレちまうのも無理はなく、でも考えてみれば、これって、文明、なんだよね……。
文明がはるか昔の崩壊した先で、己の力だけでこつこつ生きていた彼女にとって、これは良かったのか。いや、そうして人間は人間たる生活を得ていったのだからとも思うけれど、彼女自身が作り出したものではなく、他者からもたらされたものであり、そのことでその他者を無条件に信頼し、愛し、……これって、さ。

今ある便利な状況が当たり前と思って、何一つ自分で生み出していないのに神のように妄信している、ことにすら自覚的じゃない文明社会への危機を示しているようにも思えてしまう。
いや、観ている時にそう感じた訳じゃない。観ている時には、ハズかしいんだけれど、単純にラブストーリーとしてドキドキしながら見ていた。明らかに彼女よりぐっと年下の男の子、しかも可愛い、しかも謎になついてくれるというトキメキがおばちゃん女子をとろけさせちゃって、でもだからこそ心のどこかで、そうじゃない、なにかが違う、と思っていた。

行商人のおっちゃんも、二人がいちゃいちゃしてるもんだからあきれた様子をするのが可笑しい。でも、危機はすぐそこまでやってきている。あの三人組の山賊。
そろそろ食料もたまった頃だと思ったのか。その気配を察知して、女はひどく怯える。フラッシュバックというヤツだろう。生活力はこんなにも能力が高いのに、凌辱に対してこんなにも無力だなんて。悔しい、悔しい!!

そう思えば、そんな彼女を奮い立たせて、あらゆる仕掛けと攻撃でぶちのめした青年は、頼りになるし守ってくれたんだし、素晴らしい筈だったんだけれど……。
壮絶なバトル、アクション映画としても非常に素晴らしいクオリティで、かなりの尺をとって見せ切ってくれるのも素晴らしいのだが、でもその先には、なんとも見苦しい展開が待っている。
何より……バトルの末、やったった!とばかりに振り返った彼の顔は返り血に染められ、可愛らしいお顔立ちだけに、そして自慢げなお顔だけに、ひどくまがまがしく見えた。

嘘くさい宗教の主みたいに君臨していた白装束の男が座敷牢よろしく檻の中に閉じ込められる。青年はこの男に何度も何度も水くみに行かせて、カメを一杯にさせてはそれをひっくり返し、を繰り返す。
女は……どうしようも手立てなく見ているように見えるけれども、二人に食事を持っていく、のね。その等分を、あれこれ移動させて、でも結局、不公平のないあんばいで持っていく。
でも青年は、そのあんばいさえ見ていなかった、よね??男に用意された食事を無慈悲に叩き落してしまった。女は何も言わずその場を立ち去った。あの時が、あの瞬間が、青年を見限った、いや、テストしたろうと思った時、だったのか。

青年を男とともに檻の中に閉じ込める。マジでビックリした。だってあんなにもラブラブだったのに……と思いかけて、そうだ、この青年、かつて彼女が恋していた青年じゃなくなっているんだ、と改めて気づいた。
文明の知識がある彼との生活は、それがポジティブなものならば、こんなに幸福なことはなかった。でもその文明の知識を、自分たちに不利益な相手に対する罰を下すそれとして使うとなると、こんなにも醜いものになる。

そして彼女は、テストしたのだ。二人の男、それぞれに毒キノコだけを与え続けた。飢えに飢えた二人がどんな決断を下すのか。青年が、負けてしまった。ある日泡を吹いて死んでいた。
檻の中に投げ入れられた毒キノコの数は数十日を思わせる数だったから、飢えに負けたのだろうとも思うけれど、でも彼女はガッカリした表情を見せた。下唇を突き出して、ふぅ、とため息をついたその顔に、戦慄した。あんなにもラブラブに愛し合って、水道を作って狂喜乱舞して、文明生活を幸せに営むことが出来ると思ったのに、まるで子供が、夕食のおかずがハンバーグじゃなかったぐらいの表情に見えたから。

でもその後、もっともっと怖い展開がある。リーダーを逃がして、彼女は元の生活に戻った。何も起こらなかったと思って戻れれば良かった。でも、そうだ、水道は、あの青年が作ったのだ。上手く行かなくて挫折しかかって、夜中に一人頑張って作って、ついに水が届いた時は、二人抱き合って喜んだのだ。
その水道、竹の細工が、まるで神様がチョキチョキと鋏を入れたかのように、次々崩れてしまう。それ以前は当たり前のように水汲みに行く毎日だったのに、この便利さが失われたことに彼女は獣のように咆哮をあげる。
そして……少し前から、あの悪夢が更に悪夢度を増している。彼女に乗りかかる黒い影はぱちりとその目を開くんである。カメラを見据える、妙に純粋な瞳。

ラストシークエンスが強烈。彼女が得た、彼女にとっての文明、現代に生きる私たちにとってはささやかなものばかりなんだけれど、水をつめたひょうたんとか、いきなり消える。そう、現代に生きる私たちにとってはささやかではあるけれど、確かにそれも、文明というものの先にあるものだった。
水道というのが明確にイメージされたから、それが崩壊したのが判りやすかったけれど、確かに彼女が持っているあらゆる細工物は、彼女が作ったものであったにせよ、それ以前の、いわゆる文明社会から恩恵を得ていたものだったのだろうから。

次々と、消え失せる。なすすべもなく彼女は後ずさりするばかりである。恐ろしいのは、そうした物質的なものの先に、音が失われた瞬間だった。
それまでだって、言葉のない世界で充分に充足していた。コミュニケーションも、商談も、バトルも、愛の営みも何の問題もなかった。なのに……音が失われ、というか、彼女自身の声が聞こえなくなったことに、うろたえたように見えた。そして閃光のような光で何も見えなくなった。闇になり、何もかもが、何もかもが、失われた!!

若く可愛い男の子を釣りあげた時点で、ヤバい感じはしていた。そういう意味では独女ババァの奥底の欲望を発見され、叩き潰された動揺も大きい。掘り起こさないでよ、そんなところを……一生懸命生きているんだからさぁ……。★★★★☆


エゴイスト
2023年 120分 日本 カラー
監督:松永大司 脚本:松永大司 狗飼恭子
撮影:池田直矢 音楽:世武裕子
出演:鈴木亮平 宮沢氷魚 中村優子 和田庵 ドリアン・ロロブリジーダ 柄本明 阿川佐和子

2023/2/15/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
原作のことは知らなかったけれど、予告編の段階でもう、そして本編に接してすぐに、ああきっと、龍太は死んでしまう、と思った。あと付けで言うんじゃなくて、本当にそんな予感があった。
そういう運命まで観客に透けて見せる役者さん、その役の人間に魂を乗っ取られるような作品に時々出会う。そしてそれは、とても哀しいんだけれど、なぜかひどく多幸感があるのだった。

本当に、予告編に遭遇した時から、ざわざわした予感が止まらなかった。女子はことに男子同士のラブが好きなものだが、なにか、そう……橋口亮輔監督以来の、あの「ハッシュ!」以来の、リアルラブ男子の傑作に出会う予感がした。
「ハッシュ!」はリアルでありつつコミカルで、ハッピーな大団円に向かっていく、今でも大好きな作品だが、本作はリアルラブ男子はそうだけど、真逆というか……無垢で無邪気な、可愛い年下の恋人、理想のボーイフレンドのその先の悲劇がなぜか見えてしまう。
それは……このタイトル、エゴイストとつけられたその意味をずっと考えていた先に、その答えはあったのだろうか。

エゴイストというただならぬタイトルに、ずっと不安な予感を抱えながら見ていた。ゲイであることを隠して生きている(故郷に対してはそうだけれど、都会に暮らす周囲に対しては、そんな感じはあまり受けなかったが)浩輔(鈴木亮平氏、素晴らしすぎる)が紹介された龍太(宮沢氷魚君。これまた素晴らしすぎる……)、龍太もまたゲイだということは織り込み済みだったのか、そのあたり、そう言っていただろうか??展開が早かったし、恐らくそうだったんだろうとは思うけれど……。

そういう意味での紹介ではなかった。忙しい生活の中で、意識して身体を鍛えるためのパーソナルトレーナーとしての紹介。
フリーでまだまだお客がいなくて、という龍太に対して、人助けぐらいの気持ちもあっただろうし、ゲイの友人たちとの楽しい盛り上がりの中で、可愛い男の子との出会いは一つのネタぐらいなところもあっただろう。

でも意外と、意外とというか……自分が生きる実社会では出していない素の、ゲイの友人たちとの楽しい盛り上がりも、そちらもどこか、虚勢を張っているように、後から思うと感じなくもない。故郷の同級生たちとは関係を断っていることや、父親にも自身のパーソナリティを言っていないことや、そんな話を彼らとはしない。
モテるための肉体のことや、恋愛事情を面白おかしく語らって盛り上がる彼らの中に、時々は本音が混じり、時々だからこそドキリとするけれど……。日本では同性婚が認められていないけれど、婚姻届けを取り寄せて書いてみた、なんて、なんかいじらしくて、リアルに考えたら辛くって、ぐっとくるんだけれど、そんなエピソードも、笑いの中に紛れてしまう。

浩輔が龍太と恋に落ちたことも、その中に入るエピソードだったのだろう。でもその恋が、一世一代の恋だったように、面白おかしく語られる友人たちのあれこれのエピソードも、それぞれそれだけの重みがあったに違いない。

そして、そう……なんか脱線しちゃったけど、ずっとずっとこのタイトルの意味を考えながら、というか、このタイトルの意味を示す展開になる怯えをずっと感じながら、見ていた。どちらかがどちらかを裏切るとか、純粋な見た目をしておいて実は裏があるとか、ベタな想像しか出来ないのがハズかしいんだけれど、でもそうじゃなくてほしいと願いながら見ていた。
お金が絡むからかな……とは序盤から思っていたけれども、それを認めたくはなかった。最終的には、それは、避けられない議論だというのは判るのだけれど。

浩輔は龍太よりそうね……10は年上だろうか?彼らの実年齢もそうだし、実際の役柄のキャラクタ―的にもそんな感じ。
絶妙なんだよね……これが15とか20とか違うなら、恋人同士になっても庇護するものされるもの、と割り切った線引きの上に恋愛が成立したんじゃないかと思う。

でも10程度だと……もちろん10違えば人生経験、生活程度、まったく違う。ことに浩輔はコンプレックスをばねにのしあがって、めっちゃ高そうなだだっ広いマンションに住んでるぐらいだから、母子家庭で、古ぼけたアパートに身体の弱い母親と住んで、働き暮らしている龍太とはそりゃあ全く違う。
でも10歳の違い、って、微妙、なんだよね。浩輔がことあるごとに龍太に、お母さんへと称してお高い手土産を手渡すのは、15や20違えば、龍太は躊躇なく、遠慮なく、受け取ったであろうと思う。そしてその場合、関係性ももちろん、違う。

ずっとずっと、これでいいのかなと思い続けて、ハラハラしながら見ていた。そして、龍太が、母親を養うためにウリをしている、本気で浩輔を好きになったから辛い、もう会えない、と連絡を絶った。
浩輔が客のフリして、てゆーか、マジに客になって、自分が専属の客になるから、一緒に頑張っていこう、と提案した。つまりはエゴイストの定義はそこから始まった、ということ、だよね??

その前から、幾度も手渡されるお母さんへという定義の手土産に、断って断って、すみませんと受け取る、という、いかにも日本人らしいやり取りが、二人の関係性をネガな方向に変えてしまうんではないかとハラハラしていた。
エゴイスト、というタイトルの言葉が、この物語をどう定義するのか、この素敵な恋人同士が、辛い結末を迎えるのはタイトルから決定されているように思えて、そしてこのタイトルである言葉が決定するのならば、辛すぎる結末しか予想できなかった。

実際、辛すぎることは辛すぎたけれど……ちょっと、というか、その予想の角度とはまるで違った。
エゴイスト、というのは……浩輔が、いやきっと彼だけじゃない、彼に代表されはするけれど、龍太も、龍太のお母さんも、心の底で、そう思いながら、それでも必死に自分の愛の感情を信じていたのだと思う、思いたい。

浩輔の友人が使えもしない婚姻届けに恋人との対等の関係を夢見たエピソードが、浩輔と龍太の関係性を重く、思い起こさせる。
配偶者。夫と妻。扶養関係。フェミニズム野郎の私はこのテーマにはマジかみつきたくなるけれど、いまだ夫が妻や子供を養うことが当たり前の日本社会において、その偏見的制度を賢く利用して、てゆーか、賢く利用しなければ世の夫婦、家族は、平均的生活さえ送れないというこの国なのだ。

そんな前時代的国家の中で、婚姻関係さえ認められない中で、養うとか、お金でとか、肉親かどうかとか、もう、生々しすぎて、これを愛というものに変換できるのか、っていう議論すら出来ないほどに生々しすぎて。
浩輔と龍太の愛は本物だった、筈なのに、銀行の封筒に入れられた、結局はただの印刷されたアイコンに過ぎないお札に苦し気に縛られるだなんて。

しかもそれが、龍太が死んでしまってからこそが、もっと、ある意味真実の愛とは何かを問うように試される。龍太の母親、身体が弱くて、夫と離婚した後、龍太は早くから働いて彼女を支えてきた。ウリをしなければ生活費をねん出できなかった、というところで浩輔に出会い、彼からの援助以外は、肉体労働、皿洗いに精を出してまかなった。
龍太が突然死した時、ウリをやめさせて他の仕事を苛烈にしてしまったことを悔いた浩輔だけれど、だからといって龍太の母親に、ウリをしていたことなど話せる訳もない。龍太も、本当にやっている仕事を母親に話せることが嬉しいと言っていたのだから。

龍太の葬式で、崩れ落ちるように浩輔が泣き崩れ、もうどうしようも、立ち直れなかったシーンが忘れられない。斎場に用意されたぺったんこの茶色のスリッパを、履こう履こうとしても足を入れられないほどに腰が抜けていた。
突然すぎて信じられなかった、以上に、彼はこの時、まさに、愛の意味を、思い知ったんだと思う。

それは、それはね……その後、龍太のお母さんを半ば強引に説き伏せて、金銭的含めて援助する生活に突入して、疑似親子のような、幸せな生活を送るも、お母さん、倒れて入院してしまうのね。
ステージ4の膵臓がん。腰痛はそのせいだったのねと弱々しく笑う。この時点までで、浩輔と彼女との関係は、恐る恐るというか、どこかまだよそよそしくも、愛する存在を共有する関係として、ほとんど身内のような塩梅ではあったけれど、まだ今一つ踏み込めてはいなかった。
敬語だったし、なにより……生活支援を申し出る、あの、封筒に入った現金のやりとりの延々たる差し戻しが、しばらくはこの二人の間に境界があるんだな、と思わせた。

でもね、そうね……難しいんだよ。二人とも、母親を亡くした浩輔、息子を亡くした龍太の母親、お互い理想を追っているような感じもあるんだよ。
そういう気持ちを、龍太はきっと判ってたから、しっかり支えられる息子として、ウリをしているのを(そしてゲイだということも)隠していたんだろうし、浩輔も故郷には武装に武装を重ねて、ブランド服に身を包んで、隙を見せずに帰省していた。

でも結局、二人の親は知ってた、判ってた。龍太の母親に関してはそれが明確に示され、龍太を愛する同志として疑似親子、いやそれ以上の絆を感じ合う。でもそれも、エゴイストなのかと言われれば……難しい問題ではある。
どうしても介在してしまう封筒に入った何枚かのお札によって、それを否定するのかどうかという苦しさがつきまとう。
婚姻届けが有効にならないゲイカップル、ならばそれがお金で代替できるのかという切なさ、それを生涯かけて、愛という概念が信じられるまで行きたかったのに突然死んでしまってそれを断ち切った愛しい愛しい恋人……。

龍太の母親を演じる阿川佐和子氏は、浩輔が息子の大切な人だと勘づいていたし、息子の死後、援助を申し出る浩輔ともいい関係を築いていた。一緒に住みませんかというのを、自分のわがままだからそれは出来ないと信念を通すのも、いい感じだった。
浩輔の、すっかり大人の男に見えて、人間のアイデンティティの複雑さがちょっと見えてなかったかも、みたいな感じが良かった。庇護すべき相手からの思いがけない反駁、みたいなものに、子供のように面食らって、頑張って咀嚼しようとしているのが、可愛かった。

だから、最後の最後、彼女との別れを遠く予感しながらのラストシークエンスこそが、本作のキモだったのかもしれない、と思う。腐女子をキャーキャー言わせた美しき男子カップル、年長男子が年少男子を庇護する、いわばマッチョな魅力もまた、女子をキャーキャーさせるところなのだが……。
でも、もう、もっと深いのさ。浩輔にとっては、リアル家族ではない。でも、彼のリアル母親はティーンの頃死んでしまっている。ちょっと、御伽噺的存在であると思う。本作の最後の最後シークエンスで、母親が死の淵にいた時の、父親との、つまり、夫婦のやり取りを聞くシークエンスがあり、多くの子供たちがそうであるように、両親って親でしかないから、夫婦としてのナマな、しかもこの場合、死を覚悟した夫婦の会話を聞くことになって、浩輔も、観客も、ガツンとくるわけで。柄本明氏は、昭和の古い父親を体現しつつ、そんな夫婦愛を、照れもせずに息子に語って聞かせるのが、泣かせる。

まじでタイトルがヤバかったなあ。ダブル主演、鈴木氏、氷魚君、本当に素晴らしかった。そして今も、エゴイストの意味を考え続けている。★★★★☆


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