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2002年鑑賞作品

バースデイ・ガール/BIRTHDAY GIRL
2002年 94分 アメリカ カラー
監督:ジェズ・バターワース 脚本:ジェズ・バターワース/トム・バターワース
撮影:オリヴァー・ステイプルトン 音楽:スティーヴン・ウォーベック
出演:ニコール・キッドマン/ベン・チャップリン/マチュー・カソヴィッツ/ヴァンサン・カッセル


2002/12/4/水 劇場(有楽町スバル座)
ニコールはやっぱりホンモノ。こちらこそがホンモノだよね(の、比較対照のもう一方が誰かは、言わないけど)。彼女はスター映画、ということに興味がないみたいなあたりが素晴らしいと思う。だって、これっていわゆる大バジェット映画、じゃないじゃない?結果的にニコールをはじめ、かなり興味深いキャストが集まってはいるけど、アイディアといいスタッフといい、結構個性派の映画。あ、それこそ、スバル座って感じじゃないんだよなあ。ああ、またスバル座だよ!何かカラーが違うって気がする……。ここに落とし込められてしまう作品は、平凡な宣伝と平凡な入りのまま、短期間で終わってしまう運命なのだよお。私はね、これシネマライズやシネ・アミューズあたりで観たって、似合ってると思ったけどな。ニコールが出ているとなると、そうはいかないの?でもヴァンサン・カッセルとかマチュー・カソヴィッツといったら、それもアリでしょ?

あ、ニコールの相手役であるベン・チャップリンという人は私、初見なのだけど……。フィルモグラフィを見てみると、見事に彼の作品、鑑賞粋からハズしまくってる(笑)。ハリウッドを中心に活躍しているみたいだから、ニコールと彼とでこの興行形態、ということなのかな。でも彼もイギリス出身の人で、純粋なイギリス人を演じることを熱望していたというんだから……。実際、彼のような風貌の人がハリウッドで活躍しているというのが、私には何となく不思議に思えた、というのは、かなり失礼?私、ひと目見たとたんに「あ、高橋和也」とか思っちゃったんだもん(笑)。眉毛や目の濃さとか、その辺りを中心にした表情の動かし方とかが、何だか似ている気がして。それだけに、独特の乾いたユーモラスさがあって、スバル座じゃないよなあ、と思ったのだけど……。

あ、そうそう、宣伝の感じは、何かサスペンス、までいかないけど、とにかくそんな感じだったじゃない?あの宣伝意図は何なのかなあ。全くハズれているとはいわないけど、でも違うじゃない?どちらかといえばウィットに富んだブラック・ユーモア(という表現もちょっとおかしいかな)で、最終的にはちょっとキュンとさせもしちゃうラブ・ストーリーで。あの宣伝の感じは、ハリウッド映画にありそうなキレた女のちょっと怖い話、って感じで、何か違うと思うんだよね。

何より、ニコールがロシア人女性、という設定でまずのけぞり、そのあと、ヴァンサン・カッセルもマチュー・カソヴィッツもロシア人だと知って、さらにビックリ。しかしこれが、三人ともなかなか上手いんだなー。なんて、本当のロシア人が見たら、ま、色々と言いたいことがあるんだろうけど。しかし実際はちゃんとロシア人俳優をキャスティングしようと思ったのが、流暢に英語を喋れる人がいなかったというのは、割と笑えない話というか……対象が日本人でも、あり得る話だからなあ。演技が素晴らしくても英語が喋れない、あるいはその逆、っていう。でも、ヴァンサン・カッセルが演じた役は別に英語が喋れなくてもいいんじゃないの?いいけどね。で、まあロシア語なんてとんと判らないこちらにしてみれば、三人の喋っているロシア語はこれがなかなかハマってて。

そうそう、ニコール、寒い国の女、っていうのが、その冷たい美貌で実に良く似合ってるのよね。それが不思議といえば不思議……だって彼女、オーストラリアの女なのに!今までは金髪碧眼のモデルタイプみたいな感じだったのが、ブロンドじゃないニコール、というのも初めて見た気がする……で、これが似合ってるんだなー。で、ケバめのくまどりメイクで、あ、確かに東欧の女っぽいっていう。彼女、ロシア人の花嫁としてベン・チャップリン演じるジョンの元に来るんだけど、最初のうちは英語が喋れない(つまりそれはウソなんだけど)ってことで、ずっと声は発せず。“返品”しようとしたジョンをその魅力で押しとどまらせちゃう。魅力、っていうのは、最初はズバリセックス。最初の夜、彼の部屋に入り込んできて(ダークな色のざんばら髪で、ちょっとホラーっぽく、ゾクっとする色気)彼を壁際に押しつけて、あられもない声を出させちゃう。声は彼の方だけよ。なんだか嬉しくなっちゃったなあ(笑)。その見切れた画面の下で何やってるの?見せてよー、みたいな(笑)。で、翌朝彼女に指輪を返そうとする彼を押し倒して、有無を言わせず騎乗位で反復運動。彼はもうそれで陥落しちゃう。スバラシイ。

もちろん、セックスだけで陥落したわけじゃなくて、言葉なくても通じ合っちゃうような数々の可愛らしい描写……セーターを編む彼女の毛糸を巻き取ってやったりとか、なんていうのに胸がほんわかさせられたりもする。しかし、やっぱりセックスの話がね……私、外国の映画で、セックスにおける緊縛の描写、初めて見たよ。ジョンは緊縛セックスのポルノ雑誌やビデオをいっぱい隠し持ってて、それを彼女、ナディアが見つけちゃう。そんで、露英辞典をプレゼントした彼に、彼女はその見つけ出した緊縛マニア、てな雑誌をにっこり笑って、どん、と置くのだ。私は思わず期待しちゃったが(何をだよ)実際のプレイはほんのわずかで、この緊縛、っていうのは、別の意味でシニカルに使われることになるのだ……なんだ、ガッカリ(だから、何にだよ)。ナディアが自分の誕生日だとカタコトの英語でジョンに教え、初めて会話らしい会話が出来たこの日、ドトウのようになだれ込んでくるロシア男二人。ナディアの友人と紹介されたものの、この二人のうちアレクセイという英語が喋れない男の横暴さからナディアを救おうと、なんとジョンは自分の勤める銀行から大金を横領してしまう。しかし、ま、当然ながらこの三人は実はグルだったわけで、グループによる結婚詐欺師たちだったのだ。彼女と心が通い始め、彼女を愛しかけていたジョンはガクゼン。しかし、“彼女と心が通い始め……”というあたりは、決して彼だけの思い込みでは、なかった。

ちょっとねー、これが泣かせてくれるというか。ジョンという男は、とにかくつまんない男、として形容されており、職場での彼の評価、というのがものすごーくズラズラと並べ立てられているんだけど(それは昇進判定かなんか、しているらしい)、実直でまじめで、地元ゆえの強みはあれど新規開拓は不得手……とにかく、この形容の羅列は、実はものすごーくつまんない男であることを示しているのだ。しかし世間的に見て何の魅力もなさそうな、ごくごく平凡な男でも、内側に入り込んでいけば、ちゃんと魅力があるんだよ、っていう……。ナディアはアレクセイの子供を宿してて、でも彼に暴力的に扱われ、で、新たなる標的としてジョンに出会った。詐欺の証拠であるポラロイド写真は、これまでも騙してきた世界中の男たちと彼らがおさまった、まさにおんなじアングルで(私、日本人が出てきそうな気がして、ハラハラしちゃった)ジョンだってそのうちの一人に過ぎなかったはずなんだけど……。

緊縛は、三人に騙されたジョンがブリーフいっちょのまま椅子に縛り付けられるスタイル。ジョンはこの水色のブリーフ姿がいちいち出てくるもんだから……(笑)。でもどうにかこうにか縄抜けした彼は(縛りが甘いね……それとも、“緊縛マニア”だから抜けられたのかな(笑))、そこに同じように縛られているナディアを発見する。ほどいてやるものの、そっからは二人、パンチの応酬!いやー、これがなかなか笑わせてくれるんだ。なんたってナディア、いやニコール、強いんだもん。ジョンの平手打ちなんかでヘコまず、スナップきかせて殴り返しちゃう。もう取っ組み合い状態にまでなっちゃうんだけど、股間に一発!しかしジョンも負けてはいず、ベッドカバーをぐいっと抜きさって、ナディアをゴロン!と床に落としちゃう。通じない言葉で四苦八苦していた二人が、この取っ組み合いでどこか突き抜けたような感じ。いやー、ニコール、かっこええわー。もともと、身体つきがアスリートなんだもん。手足長くて、腹部が締まってて。そういう意味では、決して好みの体形ではないけど、そのアスリートの身体で男をバンバン押し倒しちゃうし、こんな風に互角にケンカも出来ちゃう。んで、この時は彼女も縛られてたことで気が立ってて涙目で、白目のところが血走ってて、で、あの碧眼でしょ?結構コワいのよね(笑)おまけにこのくまどりメイクだし。彼女はくまどりメイクが世界一似合う女優だわ。気合が違うもん。あ、そうそう、ニコールのヘアメイクって、日本女性なんだね!こんな絶世の美女をヘアメイクできるなんて、凄いなあ。

で、ナディアは、実は英語が喋れることをここで暴露して、ジョンは目が点(笑)。彼女たちに陥れられたことを訴えるため警察に行こうとするジョンだけど、ナディアが妊娠していて、アレクセイにひどい仕打ちをされたことを知って、彼女とともに逃亡を図る。ジョンはナディアを信用したわけじゃないし、ナディアも心はまだ揺れている。でもこの逃亡の間に、二人の心はどんどん、近づいていくのだ。「地元で嫌いな仕事をして、ネットでロシア人の女を買う。それがあなたの夢だったの?」なんてナディアにやり込められて、膝を抱えていじけちゃったジョン(いいわー(笑))に途方にくれながら、ダッシュボードをいじくっていた彼女が見つけたのは、たどたどしいロシア語で書かれたナディア当てのカード。「君が好きだ。君と話がしたい……」

ここで、絶対ナディアの心は完全にジョンに行ったとは思うけど、でももっと大きなきっかけがなければ、国境を隔てた二人が、しかもアレクセイたちに追われている二人が結ばれるのは難しい。とりあえず空港まで彼らは向かうのだけど、その間、森の中に一泊して、お互いのことを色々話したりして、何だかすっかり打ち解けちゃって同士みたいないい雰囲気。森を抜けて歩いていくうちに、夜の闇の中に空港のキラキラした明かりが浮かび上がって、どんどん近づいてくる……ナディアはジョンに持っていてほしい、と幼い頃の思い出の品、小さな望遠鏡を手渡して……本当に、ここで二人、別れちゃうの?ジョンもお尋ね者になってるし、周りの目を気にして彼女に背を向けて歩き出すんだけど、でも、気になって、その望遠鏡で彼女の姿を探す。と、そこに追ってきた二人、アレクセイがムリヤリ彼女を引きずっていくのが見えてしまう。

ジョンは追いかけていく。ホテルマンにワイロを握らせて、三人の部屋を聞き出す。あのマジメ人間のジョンがそこまですることに感動しながらも、もっとドキドキするのは、外から部屋をのぞきこんでいるジョンの目に飛び込んでくるナディアの様子。もうアレクセイから心が離れているのが、ありありと判るのだ。この辺りは!さすがのニコールの上手さ、よねー。ジョンは小さな窓を破って中に侵入し、ひと悶着あるものの、ここはもうジョンとナディアはお互い確かめ合ってはいないものの、好き同士なんだもん、上手くいくに決まってるのだ。アレクセイを縛り上げ、二人は部屋を辞する。その時ナディアがアレクセイからスリとっていったのは……。

当然パスポート、なんだよね!それでもまだナディアはジョンに一緒に来てほしいことを切り出せずに、別れ際、どうしても立ち去りがたくて自然とキスを重ねる段になって(こういう場面はよくあるけど、やっぱりイイよね)、ようやく、ようやくジョンの耳元に囁くのだ。「一緒に、来てほしい」縄抜けしたアレクセイがすぐそこまで追ってきてるんだけど、彼のポケットには当然パスポートはなく、ジョンはナディアに教えられたとおりひたすら「ダー」と言いながら、無事通り抜けるのだ。最初の出会い、英語が喋れないフリをしていたナディアがジョンから「君はキリン?」と問われて「Yeah」と答えた時のように、でもこの時は本当にジョンは気づかずにナディアのそのロシア語の質問に「ダー」と答えちゃって。ジョンとアレクセイなんて、全然似てないんだけど、とりあえず黒髪で、写真だと割とこんなもんかな、と思っちゃうんだな。うーむ、空港警備が問われるかもしれん??

ま、世間的にはインターネットの出会いが色々と言われているし、実際こういう風にそれを利用した犯罪とかもどんどん増えているわけで。でも映画で描かれるインターネットでの男女の出会いは、最初こそそんな風に殺伐と描かれても、「姉妹OL 抱きしめたい」でも、「純愛譜」でも、最後にはちゃんと肯定的になってる。結局ネットはただのきっかけに過ぎないんだから、そこからは、ちゃんと出会ってからはそれぞれの人間同士にかかってる。本当の勝負はその映画が終わったあとに始まっている。

うんうん、まさに「信頼と委託」の精神ね。ジョンの勤めてた銀行での奇妙なセラピー、力を抜いて後方に倒れる人を、後ろの人が支えるというあれ、後ろの人がジョンに気をとられたために、前の人がそのままバタッ!と倒れるシーンには大笑いしたけど(こういう身体的コミカルなシーンがこの映画は実に秀逸)、10年机を並べても同僚には判らなかったジョンの魅力が……昇進できないけど金庫の鍵の管理者を任せられちゃうような、せいぜい「いい人」で語られてた彼の本当の価値が、ぶつかり合って、そして信頼したい相手だと踏んだナディアには判ったんだもん。そしてナディアはジョンに「本当の名前はソフィア」と告げる。ラストクレジットでは、ニコールの役名はちゃーんと「ソフィア」になってるのだ。粋!★★★☆☆


バーバー/THE MAN WHO WASN’T THERE
2001年 116分 アメリカ モノクロ
監督:ジョエル・コーエン 脚本:ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン
撮影:ロジャー・ディーキンズ 音楽:カーター・バーウェル
出演:ビリー・ボブ・ソーントン/フランシス・マクドーマンド/マイケル・バダルコ/ジェームズ・ガンドルフィーニ/キャサリン・ボロウィッツ/ジョン・ポリト/スカーレット・ヨハンスン/リチャード・ジェンキンス/トニー・シャルーブ/アダム・アレクシ=モール

2002/5/31/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
コーエン兄弟初のモノクロ映画だという。いつもどこか寓話的なコーエン兄弟の映画に、モノクロは良く似合う。芸術的な美しさ、耽美さというよりは、風刺、おとぎばなし、ユーモラスを表現する手段として。1949年という時代と、サンタ・ローザという小さな町、という設定はされてはいるものの、それはどこか、いつでもない時代、どこでもない場所、といった感慨を起こさせる。偶然にしては出来すぎな、不謹慎にも笑ってしまいそうなほどの不幸の連鎖や、突然の宇宙船、くるくると回る円盤……。主人公である床屋のエド・クレインを演じるビリー・ボブ・ソーントンが、どこか腹話術人形みたいで(というあたりは、「ファーゴ」のウィリアム・H・メイシーもそうだった)、自身の髪型も人形のようにビシッとしていて、そんなところも現実感を起こさせない。

床屋の娘に嫁いだというんだから、髪結いの亭主、と思いきや、その妻は物質的豊かさが支配しはじめた時代を象徴するデパート勤めをし、彼は義兄が経営者であるその理髪店で雇い人としての床屋稼業である。手に職、という感じではなく、覚えてしまえばヘアーカットなどカンタンだ、とつぎつぎと子供たちのサッパリとした断髪頭が提示される。つん、と立った前髪やふんわりと巻いたつむじが居並ぶかすかな可笑しみ。寡黙な彼は義兄のようにお客との会話を楽しんだりもしない(というか、この義兄も一方的に喋っているだけなのだが)。仕事中もタバコを口から離さず、つまらなそうという表情すらも浮かべない無表情でただただ仕事をこなしていく。

そんな彼の中にもこうした仕事への不満があったのか。ある時訪れた見かけない客、彼はドライクリーニングという新規のベンチャービジネスを展開しているのだという。その男、トリヴァーは見るからにうさんくさいのだが(だって、床屋にくるというのにその頭の殆どは“最新、最高級の”カツラなのだから)、エドはその“ドライ・クリーニング”という未知なるビジネスに惹かれる。どうやって資金一万ドルを調達するのか……。妻、ドリスの職場のボスであるデイヴとの仲を“男の直感”で疑っていた彼は、そのネタでデイヴをゆすろうと考える。景気のいいデパートの経営者だ、それぐらいの金はあるだろうと思ったのか……でも実際はこのデイヴもエドと同じく、しがない娘婿にしか過ぎなかったのだ。しかも事前にトリヴァーと接触しており、至極カンタンにエドのゆすりは発覚してしまう。つめよられたエドは思いもよらぬ行動に出てしまう……デイヴの頚動脈をぶった切ってしまったのだ!

この時さっさと自首していれば、あるいは誤って妻が捕らえられた時に告白していれば、あるいは……今となってはせんないことだが、エドはこの殺人の罪を免れてしまい、妻が捕らえられ、弁護士を雇う金を作るために店を担保に義兄に金を借りてもらい、妻が自殺し、トリヴァーの遺体が見つかり、その容疑がエドにかけられ……とどんどんどんどん思いもよらぬ方向に展開していく。トリヴァーは殺していないけれども、デイヴは殺している。無実ではないけれども、その罪がかけ違えられた状態で、もはやエドには何をどう弁解すべきなのかも、その気力もない。どんな時でもエドは黙々と人の髪を切り続けるしかない。味方だったはずの義兄ももう信じてくれず、裁判所でエドを殴り倒してしまって陪審人たちへの悪印象は決定的、エドはもはや死刑に処される他はなかった。

留置所で、妻の不倫を疑っていた、と告白するエドに投げかけられる妻の目線は、気づいていたのかという驚愕の光というよりは、あきらめと疲れがないまぜになったどんよりとしたものである。確かに彼女はエドにバレていたなど思いも寄らなかったはずなのだが、挨拶のように愛しているとは言いながら、すでにその愛はなかったのか……。寡黙な男が好きよと彼女の方からプロポーズして結婚したというその経緯は、エドの口から語られるせいもあってかおよそ情熱は感じられなかったのは事実だけれど。あったかもしれない自分の野心や可能性をそのプロポーズによって断たれてしまった妻に対して、最初から愛などなかったのはエドだったのかもしれない。彼への不幸の連鎖はその罪に対してなのか。妻のあの疲れた目線と突然の自殺は、彼への罰なのか。しかも自殺した彼女のお腹の中には赤ちゃんがいたのだという。わざわざ知らせにきた検死官は無論、親切心と正義心からだったのだろうが、ここ何年も妻と交渉がなかったエドにとって、それは皮肉にしか過ぎなかった。二人の間には子供がなかった。しかし子供が出来ないという訳ではなかったのだ。ドリスはエドと子供を作りたくなかったのか。自分を愛してなどいないエドと。

エドは地元老弁護士の娘であるバーディに心癒される。いつも穏やかなピアノを聴かせてくれる彼女に、ストイックでピュアな愛情を感じる。彼女が弾くのはいつもベートーベン。気真面目な、努力型の作曲家であり、その音色は美しいのだけれど、どこか息苦しさも感じさせる。エドはバーディにピアノの才能があると信じ、自ら彼女がピアニストになる面倒をみることを夢見る。有名なピアノ教師のもとに、田舎であるサンタ・ローザからわざわざサンフランシスコにまで出向くが、この子には才能などないとあっさり否定されてしまう。自分の才能のなさなど自分が一番良く知っていたバーディはエドほどに落ち込むこともなく、ここまでしてくれたエドにお礼をしたいの、といきなり運転中の彼の股間に顔を埋める(!)。ピアノを弾く純な天使だと思い込んでいたエドには青天の霹靂。ハンドル操作をあやまったエドの車は空を飛ぶ……。

このバーディを演じるのが「ゴーストワールド」のスカーレット・ヨハンスン。「ゴースト……」ではひたすらソーラ・バーチにばかり気を取られていたが、本作でのキューピー人形のような彼女は、この時代の雰囲気にも良く似合っていていい感じ。エドから見た純な感じも、実際の好奇心と大胆さ旺盛な部分も共に持ち合わせている少女性を矛盾なく見せてくれる。この作品で面白いのは彼女を初めとする女たちかもしれない。無論、エドやおしゃべりの義兄や戦争体験の自慢ばかりするデイヴ、うさんくさいセールスマンのトリヴァー、サクラメントから呼んだ、いやに芝居がかっていて気取った有能弁護士などなど男性陣も超個性的ではあるのだが、男性陣がそんな風に寓話的キャラであるのと対照的に、女たちの造形は滑稽でありながら、生々しさを感じる。このバーディにしても、不倫を指摘されて自殺してしまった妻、ドリスにしても、あるいはデイヴの妻アンが宇宙船体験を語り、それを夫の不能と結びつけるのも。

そうそう、この話をアンから聞かされた時、エドは戸惑ったように目を見開くのだが、誰かが指摘したように、エド自身が宇宙人だったのかもしれないな……。思いがけず自分の出生を暴かれて狼狽したとも見えなくもない。それは確かに突拍子もない考えではあるけれど……彼の微動だにしない表情と、肉体の欲望を感じさせないロウ人形のようなたたずまいは、そんな説にも、らしさを感じてしまうほど。なぜ唐突に宇宙船なのか、というのはこの時代に宇宙船騒ぎがあったことかららしいけれども、その円盤が人の運命を左右するようにくるくると回るのがヘンに意味ありげなブラックユーモアに感じられもする。

それにしても、「未来は今」のフラフープといい、本作のドライクリーニングといい。コーエン兄弟が持ってくる、過去における未来の夢の道具は、人の人生を左右しているにもかかわらず、どこか玩具的な非現実を感じさせるのはなぜなんだろう。そのどちらも、実際に未来(つまりは現在)に存在し、ドライクリーニングなど、もはやこの時代には欠かせぬ産業となっているのに。白衣を着た床屋のエドが、同じような衛生的な職業にアコガレるというのも大して違わないような気がして面白いけれども、彼にとってはまさしく夢の事業。自分が事業主になれるかもしれないという野心の存在に気づかされてしまい、気づかなければ良かったのに、とばかりにそれが不幸を呼んでしまう。結局エドは騙されて金だけ持ち逃げされてしまい、やはりあんなのはデタラメだったのかと思いはするものの、その後雑誌で新技術、ドライ・クリーニングが取り上げられているのを目撃する。これは、時代に乗れない男はどんどん破滅していくという皮肉な見方なのか。

電気椅子に座り、処刑が執行される時、電流がよく流れるようにということなのだろう、執行官に足をそられるエド。回想シーンすら挿入されないけれど、ドリスに請われてバスタブに浸かる彼女の足を剃った、あの場面が脳裏に当然よみがえる。不思議なんだけど……愛などないように思えていた二人の間にあったかもしれない愛を……いや絆というべきかな、そんなものが不思議と見える気がした。★★★☆☆


博奕打ち 総長賭博
1968年 95分 日本 カラー
監督:山下耕作 脚本:笠原和夫
撮影:山岸長樹 音楽:津島利章
出演:鶴田浩二 藤純子 桜町弘子 名和宏 曽根晴美 佐々木孝丸 三上真一郎 沼田曜一 香川良介 中村錦司 服部三千代 小田部通麿 原健策 小島慶四郎 国一太郎 鈴木金哉 河村満和 野口泉 岡田千代 堀正夫 関根永二郎 大木勝 蓑和田良太 那須伸太朗 平沢彰 高並功 北川俊夫 香川秀人 若山富三郎 金子信雄 曽我廼家明蝶 疋田圀男 西田良 有島淳平 藤川弘 熊谷武

2002/4/8/月 劇場(新宿昭和館)
鑑賞後、とある解説本を読んでその評価の高さにビックリしてしまった。おっと、そんな名作だとは知らなかった……。ううむ、確かに良くない観方をしてしまったかもしれない。時間的都合がどうしてもつかなくて、後半を先に観て、二回目で前半を観て、というやり方をしてしまったのだ。前半を観ながら後半を思い出して、ああ、そうそう、ここがこうつながって……などと、頭の中で再構築をしていたからなあ。加えて言うと、男性陣、私の気に入りの俳優さんが出ていなかったのもちと痛かったし。鶴田浩二、最近はそうでもないんだけど、以前は本当にちょっと苦手だったものだから……。でも、こうした高評価の作品を出してくるというあたりに、昭和館も閉館に向けてのシメに気合が入っているという気がする。

博徒一門である天龍一家の組長が余命いくばくもなくなり、跡目を決めなければならなくなる。経験的にも風格的にも中井組組長(鶴田浩二)が適任と推されるが、彼は自分は畑違いの大阪出の身であるし、しかも兄貴分である松田(若山富三郎)を差し置いてそれは出来ないという。しかし松田は一家のために体を張ったことで目下服役中。中井は彼の仮釈を待てばよいと説くが、大幹部の一人、仙波はそれまで待っていられないと、中井がどうしても引き受けないならば、とその弟分にあたる石戸を強引に跡目に推薦。恐縮し、拒む石戸だが、その気の弱さもあって、拒みきれない。この“気の弱さ”が仙波の目のつけどころだったのだ。仙波は裏で政治結社を作り、暗躍をもくろんでいた。そのためには松田も、そして中井もジャマだったのである。彼らを最終的に敵対させるための、汚いワナだった……そして固い兄弟分の杯をかわしたはずの中井と松田は、悲劇のシナリオを転がり落ちて行く……。

今の世に比するとちょっとバカバカしいような、日本的な上下関係やその出所(でどころ)や、兄弟分のちぎりといった仁義、いや因習、もっと言ってしまえば恩讐に縛られまくる、仁義の中の男たちの話。任侠の映画世界の中に生きてきた鶴田浩二や若山富三郎だからこそそれが美学として匂い立つほどに醸し出せる、今じゃ絶対に作れない、いわばあの頃の役者のための映画世界。鶴田浩二演じる中井と若山富三郎扮する松田の主張する、男としての、やくざとしての仁義の通し方は結果的には決定的にすれ違ってしまうのだが、その実、兄弟分であるお互いを思いやるがゆえの小さな違いであり、二人の気真面目な任侠道は、面白いほど似ているのだ。しかし時代は大きくうねり始め、仙波のようなしたたかな男は、そのうねりをいち早くキャッチし、彼らの弱みを存分に利用しようとてぐすねを引く。中井と松田に象徴される男たちは、もはやこのうねりの中では死に行き、絶滅するしかない人種なのだ。しかし、だからこそその最後のあだ花には悲壮なまでの覚悟の美しさがある。

中井はいわば理性の人。松田を跡目にしたいという願いが断たれても、破滅を呼ぶような無駄な争いはしないよう、最大限努力をする。一方松田は感情の人。仁義にはずれたことを許すことが出来ず、それが破滅を呼ぶと判っていながらも、行動せずにいられない。中井は再三そんな松田を説得し、牽制し、懸命に守ろうとするのだが、ついには松田をその手にかけなければならなくなる。それもまた、中井の中の仁義の許容範囲の中に松田が入りきらなくなってしまったのだ。中井は松田を殺したくなんかなかった。そしてその許容範囲は仙波によって巧妙に操作されたものであり、それを知った時、中井は仙波をその刃の下に倒す。斬られる直前、仙波は中井に言う。叔父貴に向かって……それが仁義なのかと。中井はその仁義が、自分だけのものだったはずの仁義が、こんな汚い奴の手によって汚されていたこと、そしてもはやそんなものの価値が消え去ってしまったことを、それこそ死ぬぐらいの怒りと哀しみで押しつぶされそうになりながら、しぼり出すように吐き捨てる。「俺はただのケチな人殺しなんだ」と……。

まるで連鎖反応のように、“仁義”という名のもとに次々と血が流されてゆくのを、半ばあっけにとられる思いでスクリーンの中に眺めながら、日本的なるものの人間関係に対する、強烈な否定であるとともに、それがくるりと裏返る強烈な肯定でもあることをひしひしと感じながら、ああ、でもこの時代は終わったのだと痛感させられずにはいられない。中井と松田を取り巻く、彼らを愛する人たちの“犬死に”の美しさも強烈。松田の弟分、音吉が中井の刃から松田をかばって死ぬ。中井の妻、つや子が彼を逃がした責任をその身に引き取って切った手首を湯につからせて、死ぬ。結局、彼らの死は松田の死以上に何も結実しない。無駄死にであればあるほど、彼らの愛の重さ、深さが美しさとなってスクリーンにほとばしる。そして死にはしなかったけれど……自分の兄が愛する夫をその手にかけた、その場面、松田の妻(藤純子)が、階段を下りてくる中井を不穏な確信を持って見上げ、駆け上るシーンも痛切。

中井の妻役、桜町弘子の肌の荒れが、何だかとっても気になってしまった。藤純子がその点も完璧な美しさであるだけに……。ううむ、しかしこれも板挟みの中井組の姐さんであるという気苦労のせい?いかにもな悪役、仙波に扮する金子信男のギャグのようなちょびひげとその下の、とがらせ気味な口といい、非常にキャラ立ちしていて、物語の悲壮さの中でのコメディリリーフと言いたくなるぐらい、その風貌はちょっと不謹慎なまでの可笑しさ。最後までストイックな任侠道を体現する鶴田浩二のたたずまいと、彼とは対照的にガキ大将のようなワガママさがカリスマ的な魅力になっている若山富三郎のコラボは実に素晴らしい。★★★☆☆


博徒七人
1966年 92分 日本 カラー
監督:小沢茂弘 脚本:笠原和夫
撮影:鈴木重平 音楽:斎藤一郎
出演:鶴田浩二 藤山寛美 山本麟一 待田京介 小松方正 山城新伍 大木実 桜町弘子 加藤嘉 松尾嘉代 西村晃 関山耕司 加藤浩 汐路章 遠藤辰雄

2002/4/15/月 劇場(新宿昭和館)
あ、これもシリーズものだったんだ。博徒シリーズ、思い返せば、一作だけ観てるんだわ。飛車角シリーズで人気を博した鶴田浩二の任侠シリーズだそうで、「飛車角」、といえば、仁侠映画道では大先輩の私の父上様が、仁侠映画の原点は「飛車角」なのだと教えてくれたんだったっけなあ。しかし、その飛車角シリーズはフィルムが残っていないのか、名画座は勿論、ビデオソフトでもとんとその作品を観たことがないんだけど。ところで、私、実は鶴田浩二って今ひとつ苦手だったんだわ。実は、というほどでもなく、このサイトで鶴田浩二の映画の感想文を書くたびに言っているような気もするけど。多分、覚えてないけど、最初に観た作品のファーストインプレッションで苦手意識を持っちゃったのかもしれない。あるいは、あの声でかな。でも、仁侠映画を私に教えてくれた昭和館の、この押し迫ったプログラムで、今更ながら鶴田浩二にホレてしまう映画に出会っちゃうなんてー!

その、一作だけ観ている「博徒対テキ屋」でも、これはコメディリリーフ的なキャラだったけど、とにかくやたらと可笑しくて、彼だけでポイントを稼いじゃった藤山寛美が本作では七人の中の一人、重要なメインを演じる。んで、相変わらずおっかしいんだけど、結構シリアスだったりするんである。ううむ、意外!ところで七人といえば、当然ながら即座に思い出す「七人の侍」。しかし本作で用心棒として雇われたのは最初は四人で、しかも、雇われ先が悪徳なヤツらだと知って、その敵である方に寝返っちゃう。敵方にいたたった一人の用心棒と、そして悪徳業者に使われていてその腕を見込まれて後釜の用心棒に据えられる二人が鶴田浩二扮する半次郎と博徒仲間だったことが判明して、彼らも寝返る。かくて、物語もクライマックスを迎えるに当たって、ようやく七人が勢ぞろいするのである。

ところで。なぜ私がニガテとしていた鶴田浩二にホレてしまったかというと、これがまた、物語が進んでいくうちに、とかじゃなくて、もう最初っから、ひと目見た時から陥落しちゃったのだ……恥ずかしながら。鶴田浩二扮する半次郎は過去のケンカで片目をつぶされちゃっているんだけど、何とまあ、それだけで……その風貌のニヒルな色っぽさだけで、参っちゃったんだよう!うー、こんなことって、あるかしら。しかも、最初から藤山寛美扮する鉄砲松との絡みで進んでいくんだけど、そのぽんぽんやりあう軽い可笑しさが、今まで観たことのない鶴田浩二で、これまた陥落。藤山寛美もなんかもう若くって、瞳なんかキッラキラしちゃってやたらとカワイイんだけど、それとまた対照的に鶴田浩二のいなせな着流しが、あああー……この人ってこんなにカッコよかったのねー!

ちなみに鉄砲松は片腕のない鉄砲の名手。ただ一人ハイカラな飛び道具だが、百発百中一瞬の隙もなくキメちゃう姿はかなりイケている。着物の下に仕込んだ弾を、かたひざついて鉄砲に充填する姿なんか、画になる。その他、怪力の生臭坊主は片足、ずば抜けた聴力で針を命中させるめくら、最初は敵方である、爆弾バンバン使っちゃう用心棒は顔に大やけどのケロイド、後から加わる二人は背むし男とつんぼ&唖の二重苦の男(以上、差別用語使用をご容赦あれ)。皆が皆、五体満足ではなく、そんな彼らがしかしいささかもひがんだ様子を見せることなく、それどころか自らの腕に絶対のプライドを持っているところがカッコよすぎる!それにこういうこと言うと語弊があるのはわかってるんだけど、どこかに傷を持っている男って、なんとも言えない色っぽさがあるんだよねー。それが七人もそろっちゃあ、こりゃ、強力だわ!

そんで、もう一人、呑んだくれの医者がまたイイ。呑んだくれ、っていうのも、一種の欠陥よね。同じように、そこんところが彼をチャーミングに見せている。呑んだくれだけど正義感は人一倍強くて、そんなところにホレこんだ半次郎は、彼のところに居候を決め込んじゃう。もともと半次郎がこの仕事を引き受ける要因になったひとつには、その仕事場が、自分が斬ってしまった男のいる島であり、彼のドスを家族に返し、供養をしようということだったのだ。残っていたのはその男の兄と、男が残した母親も判らぬ幼い娘。その兄は、あんなメイワク者の弟の話など聞きたくない、と半次郎を追い返すのだけれど、島の争いに巻き込まれて、あわや焼け死ぬところだった娘を助けてもらったことで涙を流し、半次郎の思いを受け入れる。

最初に半次郎と鉄砲松をスカウトしたのは、最終的に彼らに力になってもらうことになる美人のお澄さん(桜町弘子)。彼女は代々切り開いてきた山をくだんの悪徳業者にのっとられそうになるのを苦慮して、腕が立ち、人情に厚い用心棒を探していたのだ。つまりは、金はないんである。彼女が母親の形見であるというダイヤの指輪を差し出してまで雇おうとした二人は、それを盗み見ていた悪徳業者にあっさり現ナマでつられてしまう。このダイヤの指輪はその後お調子者の鉄砲松によって、彼がホレた女郎、加代ちゃん(松尾嘉代。しっとり適度ななまめかしさもあって、ホント可愛い。彼女には生臭坊主とメクラ男もホレちゃうんである)にプレゼントされ、果ては悪徳業者のワナに使われ、そのことでお澄さんに岡惚れしていた爆弾のプロフェッショナル、兵隊安(大木実)が半次郎との対決で壮絶な死を遂げてしまう。

この場面は、ホント哀しすぎた。いわば使用人である兵隊安がお澄さんにホレているのは、彼自身、隠そう隠そうとしているんだけど、だれもが判るぐらいモロバレで、で、これも何にも言わないんだけど、ひょっとしたら彼女の方も、安に惚れていたんじゃないかって節も見受けられるんだもの。結局、安はそれがワナだということは判った後に死んでいくんだけど、彼女自身の気持ちは、知らぬままである。こ、これが……あまりに切ない!血の付いたドスを持って半次郎が歩いてくるのをお澄さんはハッとした表情で迎え、あの人、死んだのね、とつぶやく彼女に、苦悶の表情を浮かべる半次郎。彼女は涙を流し、そのダイヤの指輪を、安の寂しい墓に埋める……ああッ!

このワナに使われた、鉄砲松と加代ちゃんのカップルは、純情というか、何かもう、かわいいんだなあ。とりあえずの条件は果たしたと、殆ど騙し取りのようにして悪徳業者からふんだくった金を、加代ちゃんの借受金にそっくりあてる(同じく加代ちゃんにホレてる例の二人も。この辺は結構男の友情っぽくて、感極まって感謝する松がカワユイ)。しかし、件の指輪の件で誤解し、激昂した安に斬りつけられて松は負傷しちゃって、その松を心配そうに介抱する加代ちゃん。半次郎が安の仇討ちに行くと知ると、俺は半次郎兄貴と同じ場所で死にたいんだ、判ってくれるよな、とすがる目つきの加代ちゃんに言い含めて、その負傷した体で医師の元を抜け出す。しかしその後の活躍は、立ち上がるのも困難なほどだった状態とは思えないけど(笑)。

あとから加わった二人は、殆ど数あわせじゃないかと思うほどに今ひとつ見せ場は少ないのだけど、とにかくここで先に逝ってしまった安の他の六人がそろい、敵の陣地で暴れまくる!相手は鉄砲だ爆弾だとハデな戦法でくるんだけど、その鉄砲の弾を木で出来た卓でふせごうってのは、ちょいとムリがあるんじゃ……(思いっきり穴あいてんぞ(笑))。ついでに言うと、ハチマキに爆弾を差して乗り込んでくる敵のヤツらの風体が、まるで怨念でロウソク差してるみたいで、可笑しかったりして。どーう考えても思いっきり不利なのに、彼ら六人が勝っちゃう(笑)。でも、この暴れまくりのシーンは実に痛快で、スッキリする。

彼らとの別れを惜しんで、涙しながら六人+加代ちゃんを乗せた船を見送るお澄さん。半次郎さん、ありがとう!と叫ぶ彼女に、必ずまた帰ってくるから!と笑顔で返す半次郎。その後はわからないけど、とりあえず、彼ら二人の間に色恋めいたものがなかったところが良かったわ。★★★★★


パコダテ人
2002年 分 日本 カラー
監督:前田哲 脚本:今井雅子
撮影:浜田毅 音楽:山本姫子
出演:宮崎あおい 松田一沙 徳井優 松田美由紀 大泉洋 粟田麗 前原星良 萩原聖人 木下ほうか 深海理恵 森崎博之 佐藤重幸 音尾琢真 金子政 宮川宏司 大蔵省 坂井正子 勝地涼 野村恵里 黒岩茉由 澤村奈都美 大森南朋 馬渕英里何 安田顕 荒良木亮 飯田克彦 伊藤松則 伊林茂喜 高橋裕 飛塚優 根本直樹 橋本高師 皆方昭司 米田哲平 高木孔美子 ラビットリング 上村恵 森中慎也 和久井薫 工藤準基 明石英一郎 中島静佳 木村洋二 桐田咲智代 福永俊介 熊谷明美 三好りさ 磯田えり子 大島康孝 小林恵明 藤本恭子 吉田光子 片岡真悟 寺尾修一 スレットラーナ・コーネワ

2002/5/2/木 劇場(銀座シネパトス)
職場からの帰り道、いつも通る銀座シネパトスの上映予定掲示板に「パコダテ人」というキュートなネーミングのタイトルとプリティなポスターを発見してから一ヶ月、楽しみにしていた映画がついにやってきた。“ビミョウな故郷”(「日々雑感」参照)函館の映画、しかも、今ノリにノッている宮崎あおい嬢主演とくれば、これは期待しないわけにはいかない。予告編で、しっぽの生えてきた女子高校生の話だというので、ちょっと不安になる。確かにその予告編は明るくハジけていて、楽しそうではあったのだけど、その設定のどこかノー天気なファンタジーっぽさが、安っぽい、寒いものに転がりそうな心配を感じさせたから。しかし、実際観てみると。確かに昨今の日本映画におけるひとつの方向性である、どちらかというと暗めの、作家主義的な方向とは明らかに違い、そうしたノー天気な部分は見受けられるのだけれど、そうしたカルさをつくり手や演じ手自身が大いなる遊び心を持った上でやろうというポジティブな意気込みが感じられて、しかも物語、そして心情的にきちっと波を作った丁寧なつくりなので、クライマックスでは思わず落涙を禁じえないほどだったのだ。これは意外な拾い物だった。

ヒロインのあおいちゃんはトレードマークであった長い髪をバッサリ切り、今までの、演技力を見せつけた役柄での暗さを払拭、私の見てみたかった明るい少女像を見せてくれている。これは嬉しい。せいぜい膝丈だった紺サージの制服に窮屈にその身も心も閉じ込めていた「害虫」とはうって変わり、シッポが生えてきたことで超ミニミニのスカートをしぶしぶおろして「ダッサイ……」と嘆息するような、爪もきれいに塗られ、指輪にブレスレットもするような、カラフルポップな女の子。そしてそのしっぽに驚くよりも「カワイイー!」とノリノリに感動してくれる、赤毛の爆発頭のお姉ちゃん、松田一沙はこの作品で実に拾い物だった少女女優。他の作品でもメチャメチャ観ている筈なのに(ご指摘多謝)、他の女の子に気を取られて気づかなかったらしい。「リリイ・シュシュのすべて」なんて2回も観てるのにー!……うう、恥ずかしいです。彼女が妹によって救われた思い出話をする場面など、彼女のその表情だけで泣けてしまうぐらい、こういう明るいキャラではなかなか出しにくい心のこもった演技力を見せてくれる。オフステージでも存分に仲の良かったというのがうなづけるぴったりの姉妹っぷりがとにかくほほえましいこと!

この姉妹と、そして家族がこの映画の主役のひとつ。母親が、もう私、大好き!な、可愛いお母さんをやらせたらこの人、の松田美由紀と、お父さん役をやっているのは初めて見る、自分のことをまもるちゃん、と呼ばせるのがミョーに可愛い徳田優。一家の生業が銭湯だというのもイイ。大正湯という実在の銭湯で、モダンな外観とレトロな内装が実にナイスである。娘のしっぽに仰天し、しっぽを切ろうと包丁をかまえるお父さんが、家族に取り押さえられてビニール縄跳びで縛られる場面は、その小道具があまりにもハマッてて、メチャ好きだなあ!

この夫婦のほかにも、これはあまりにもキテレツに作りこみ過ぎじゃないの?と苦笑してしまう木下ほうかだの、あまりに自然すぎて不覚ながら気づかなかった(とけ込み過ぎだよ!)市役所職員、大森南朋だの、独特のコメディエンヌの空気を持っている、その名のとおり麗らかな女優のキャラ者、粟田麗だの、こうした地方発信映画、文化映画、作家主義的映画と、各方面で役者としての信頼度の厚い萩原聖人だの、何だかやたらとイイ役者が勢ぞろいしている。そういやあ、この監督の名前、どっかで聞いた事があるんだよなあ……と思っていたら、ははあ、なるほど、木下ほうかがプロデュースした「SWING MAN」の監督さんだったんだ。木下ほうかや粟田麗あたりはその流れであり、その他の役者陣も監督&ほうか氏からの人脈なんだなあ、なるほど。キラ星系スターというよりも、実に良心的な、まさしく“イイ役者”が集まっているこの雰囲気が、とてもいいんだ。

そして北海道で今一番のスターであるという大泉洋氏をメインに、このしっぽの原因であるウルトラシップを発売した長尾製薬若社長、安田顕を初めとする、地元演劇人もちゃんと活躍している。私、全然知らなかったので恥ずかしいんだけど、北海道が、北海道エリアだけでこれほどきちんとした文化圏を作っているっていうのがね、一応北海道の人間だったくせに、本当に知らなくて。地方発信の映画がもっと出てくるのを切望している、とか言いながら、結局東京に文化の中心があるのは仕方ないみたいな考えだった自分が恥ずかしくて。地元テレビ、ラジオ、新聞などのマスメディアの連携はもちろん、大泉洋氏を擁する演劇集団、TEAM−NACSが北海道では絶大な人気を誇っており、彼らが主演の映画も道内で3万人を動員して近々東京でも公開されるという、そうした動きっていうのは、まさしく私がそうあるべきだと思っていた、中央集権的な文化の有り様に物申す痛快さで、そのことを知って実に、実に嬉しかった。

この映画がかかった銀座シネパトスは文化映画やピンク映画やこうしたローカル映画や、そうした心のある映画をきちんと救い上げてくれる実に良心的な小屋(地下鉄の音はするし、大人のオモチャ屋さんに面してはいるけど(笑))。実際ここではやはり地方発信映画として、めんたいこムービーと冠された福岡発の映画「ちんちろまい」が上映されたりし、今回予告編で見た、やはり少女女優の成長株である蒼井優嬢が主演する作品も地方映画っぽかったけど、そうなのかな?それこそその「ちんちろまい」というのは、福岡は東京にゲーノー人を多数送り出している県であり、そうした出身者をここぞとばかり出してきて鼻たーかだか、みたいな感じだったんだけど、結局は彼らはいまや東京人であって、地方に在住して活躍している人ではないわけで。あるいは折々見る関西発の映画なんかにもそういう感覚を受けるんだけど、それと決定的に違う本作の、きちんと実力のある北海道在住の演劇人たちの出演、というのは、地方発信映画としてのあり方として、実に正当なものだという感じがして、それもとても嬉しかったのだ。

実際、あおいちゃんとともにメインの一翼を担った大泉洋氏は、観ている人をたらんとリラックスさせるような、不思議なポカン度がチャーミングで、多少のテレも感じさせるクライマックスのテレビカメラに向かってのプロポーズ場面など、当のあおいちゃんを食っちゃった感もあるぐらいなんである。ことにこの場面は、家族と引き離されて、どことも知らない場所に連れて行かれることを自ら決意するあおいちゃん=ひかると家族との別れという、かなりの泣かせの場面で(実際、私泣いちまいました……最近すっかり涙腺弱くて、イヤ、もう)、そこに大泉氏演じる市役所職員(この妙にカタい職業がイイよね)古田が、自分もパコダテ人(しっぽが生えている)ということを、お尻を突き出して告白することで、この作品のカラーらしく、シリアスになりすぎるのを絶妙に薄めるんである。しかしそれに続く、長尾製薬重役たちによる、いっせいに横並び、お尻突き出し、しっぽ突き出しの謝罪場面は、うおっと、こ、これはさすがにちょっとハズかしいものが……。でもそもそもの設定とか、木下ほうかに代表されるマンガ的キャラとか、こういうのって、かつてアイドル全盛だったその昔は、映画でも、あるいはテレビドラマなんかでも、そのナンセンスなノリを作り手も受け手も充分に了解した上で、そうしたものを楽しむ土壌があって、結構量産されていたと思うんだけど、最近ではそうした、いわばポジティブな余剰がすっかりなくなり、こうした作品を観る機会が薄れていたからなあ……。それこそこんな場面でテレることなんてなかった昔の方が、娯楽を受け止める成熟さがあった気がするんだよね……うん。

あおいちゃんは、前半のハジけぶりと、後半の演技派のシリアスぶりが、いいバランスでやっぱり上手い。パコダテ人が実はキタキツネというガセを流され、それが寄生虫で感染するというさらにデマが流布され、あっという間に、手の平を返したように街じゅうの人たちが冷たくなり、マスコミに追い掛け回され、バッシングされる彼女は、帽子を深くかぶり、顔がわからないようにしなければ外に出られない始末。それでも心無い小学生に見つかり、やいやいはやし立てられる……その場面で、へたり込み、帽子をますますぎゅっと深くかぶり、うつむく彼女は、顔が見えないのにそのヘコみぶりが充分にわかる全身演技。その場面を助ける好きな男の子との甘酸っぱい、そして切ない帰り道の小さな道行き。この男の子も青春映画のヒーローとして過不足ないサワヤカ系のカワユい男の子で、あおいちゃんとのカップルが画になる。落ち込んだひかるがこの男の子、隼人と短いメールで“会話”する、Re.Re.Re.……の応酬なんか、ひかるは大正湯の屋根の上に上ってて、そのはるか向こうには海が見えてて……っていうロケーションも抜群で、離れていても、カップルとして画になってた。

高校生である、若い世代がその青春をはつらつと繰り広げる函館の街は、そうした生活としての日常=ケと、青春としてのハレをリアルに感じさせる。その空気はやはりどこかに北の、函館特有の湿った寒さとでもいうべき、独特の肌触りを感じさせるのだけれど、それを暗さにせず、ひたすら明るさ、心地よさに転化する。私は、こういう函館をこそ見たかった……というのは、辻仁成監督が描いた「ほとけ」での函館が、あまりにさびれた寂しさだったから。でもやはり函館人である私の母などは、函館って確かにそういう感じではあるよ、とは言っていて、所詮私などは函館は生まれただけで住んだことのない人間だし、だからそんな、それこそノー天気な願望を抱いちゃうんだな、なんて思ったんだけど、でも前田監督がこういう函館を描写してくれたから、とても、嬉しかった。それこそ、辻氏は函館で過ごした事のあるお人であり、ひょっとしたらちょっとしたアンビバレンツがああいう画を生み出したのかもしれないけど(というより……あれは彼の作家的な表現の仕方かな)やはりある程度の外の目をプラスすると、見え方ってこんなに違うんだよね、という……。

函館映画と言いつつ、いわゆる函館弁が殆ど使われていないのは、うーん、今の若い世代の人は、それほどまでになまりがないのかなあ?ちょっと残念。それを補うかのように出てくる「清く正しく美しい函館を守る会」の三人のご婦人のメンメンがベタコテな函館弁で、これが完全にコメディリリーフになっているのも、何かなまりに対する否定的な気分にも感じられちゃってね。まあ、確かにぱぴぷぺぽのパコダテ語は可愛いんだけど……。村松健氏のコンサートで大感激した夜景の見えるクレモナホールが長尾製薬の会議室という設定、しかもここはこのシナリオが生まれた、函館港イルミナシオン映画祭が行われる所だというんだから、完璧だよね。この会議室のシーンもちょっとテレるようなコミカルさだったけど、この横長に夜景が一望できるロケーションと、シルエットの重役たち、若くてハンサム、長身の二代目若社長の苦悩のアクション(笑える)が、これまた画になるんだよね。

函館の映画といえば、いまだに私のベストムービーの中に入る「とどかずの町で」が忘れられないんだけど、今回ちょっと調べてみたら、函館ロープウェイ映画祭(当時。現函館港イルミナシオン映画祭)上映作品だった。本作は同映画祭で賞をとった脚本によって作られたものだし、函館映画を生み出す実に優れた場なんだなあ。ところであおいちゃん、ふと気づくと映画デビューは尾道だし、ブレイクした「EUREKA(ユリイカ)」は九州だし、「SWING MAN」は違ったけど「害虫」もどこか地方っぽかったし、地方映画クイーンかも。あ、でも少女映画で輝いていた女の子たちって、石田ひかりも真田麻垂美も田中麗奈も松尾れい子もみーんなそうだよね。お、ここは指摘どころではないですか?

ひかるの姉、みちるの作り出したしっぽファッション、パコダテール=pakodatailというネーミングがとてもしゃれててキュート。そのロゴのポップなピンクもめちゃ可愛い。あのきゅいきゅい動くミニミニしっぽは私も欲しいよーう。★★★★☆


PUZZLE
2001年 20分 日本 モノクロ
監督:山田勇男 脚本:
撮影: 音楽:
出演:

2002/1/18/金 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
監督曰く、ブニュエルの「アンダルシアの犬」に出演した少女への偏愛がモチーフ、なのだという。遠い記憶になってしまったので、こんな感じの少女が出ていたか、もはや思い出せない。

どうやら学校のようなのだけれど、妙に洋館的な、半月の形の窓とか、繊細なうずまき文様の手すりが装飾的ならせん階段とか、そんな中を一人の少女がすべるように探索していく。時には屋上の手すりから落ちんばかりにして下を覗き込み、らせん階段を行きつ戻りつし、半月形の窓辺で寝そべって本を読む。少女は目元が特に濃いメイクを施して、そのヘアスタイルも格好も、確かにどこかサイレントキネマの少女のよう。実は少女という年ではないんではないかと思わせるあたりも。あの頃の映画を思い出させるような、セピアがかった感じのモノクローム。輪郭も柔らかくボケていて、本当に古いフィルムを見ているよう。鏡の中に映し出される、時代も空間も超えた世界をのぞき見ているかのような雰囲気。階段を上り下りするイメージが何度となく反復されるのも、階段にはどこか時間的イメージがあって、そこを反復することによって、無の時間を感じさせるため、だろうか。

消費される映画への反発、ということを言っていたのは山崎監督の方だったと思うけれど、この時間の反復による時代性の拒否は、くり返し、あるいは様々な場所で観られるタイプの映画を作っているという、自負というか自覚が感じられる気もする。本来映画とは、確かにそういう部分を、例えばテレビなどよりも色濃く持っているのが特徴だと思うのだが、昨今は……。そのことに対する、主張のようにも思える。★★★☆☆


ハッシュ!
2001年 135分 日本 カラー
監督:橋口亮輔 脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾 音楽:ボビー・マクファーリン/ヨーヨー・マ
出演:田辺誠一 高橋和也 片岡礼子 秋野暢子 冨士眞奈美 光石研 つぐみ 沢木哲 斉藤洋介 深浦加奈子 岩松了 寺田農

2002/5/7/火 劇場(渋谷シネクイント)
橋口監督、この人もまた、本当に待たせすぎる人!しかし待つだけのかいのある人!別に寡作だからといって、待たされた時間だけ生み出される作品が傑作だという訳では勿論ないんだけど、そう言ってしまいたいほどに、深く、深く染み渡った。素晴らしい。そのひと言ですませたいぐらい。

橋口監督自身のパーソナリティであるゲイの世界が本作でも取り上げられているわけだけれども、それはあくまで監督の人間の一部であり、ろ過であり、それを通して見つめた感情の、生き方の、弱さや愚かさや、そしてそれが最終的には美しさに到達する人間賛歌がたまらなくイイのだ。昨今、人間の弱さについてのおよそネガティブな映画ばかりが出回り、それらもまたそれがひしひしと感じさせられるという点において素晴らしいものではあったのだけれど、この作品に出会って、それをも含めて、いやそれがあるからこそ人間っていいじゃない、素晴らしいじゃないと思えるんだとすっかり嬉しくなってしまった。

第一に脚本が素晴らしい。勿論、橋口監督自身の手による本。何といっても、このヴィヴィッドな言葉が素晴らしい。言葉が、本当に、真の意味で、生きている。息づいている。言葉が鮮やかなのだ。それを体全体で受け止めて、体全体で放出する役者たちもまた素晴らしい。この三人。主人公の三人、大好き!ゲイのカップルと、彼らに絡むヒロイン。カップルは高橋和也と田辺誠一。高橋和也、本当にこの人って上手いんだよね。意外にきちんと評価されていない気がするんだけど、出る作品、出る作品、う、上手いッ!と膝を打ちたくなるぐらい。冒頭は彼=直也のシーンから始まる。恐らくその晩だけの関係であったろう男が、彼の部屋を出て行く。携帯の番号を教えようとする直也に目もくれずに。でもそのシーンで「……なんだよ」と一人ごちるものの、その次には自転車に乗ってさっそうと出勤する彼の姿に暗さはない。カミングアウトもし、ペットショップでの職場環境も良好。一見、悩みなどなさそうに見えるのだけど……。

その相手で、ハッテンバで知り合うのが、こちらはゲイであることを隠している勝裕。演じるは田辺誠一。高橋和也と田辺誠一が、橋口監督の作品でカップルを演じる、と聞いただけでドキワクものだったけど、まさしくそれにドカンと応えてくれたのがすっごく嬉しい。彼は私の気に入りの役者さん。その異彩を放つ個性的な顔だちと色っぽい骨格、ミステリアスなイメージとはギャップのあるつぶらで可愛らしい瞳。絶対に、日本一美しい男優だと信じているのだ。彼は直也と違ってゲイであることを隠している。お役所系列の固い仕事場で、好意を寄せる、思い込みの激しい女の子をどんどん勘違いさせちゃうような、優柔不断な、でもある意味普通の弱さを持つ男性。もしかしたら、直也があれだけの強さを持つに至ったなにがしかの辛い経験を、彼はまだしていないのかもしれない。そしてその辛い経験に、まさに今これから直面することになる。

この二人の場面っていうのが、もう本当に可愛くて。二人とも(うん、特に田辺誠一が!)可愛くって、仕方がない。というのも、彼らはゲイのカップルなんだけど、ゲイということにこだわらず、普通に恋愛映画、恋愛の感情としてすっごくドキドキさせてくれちゃうんだもの。例えば、心ここにあらずの勝裕に直也が怒って、アイスクリームを食べ出す。と、勝裕、怒った?と問うと直也は怒ってないよ、とさらに食べ続ける。勝裕は、だって直也、いつも怒るとアイス食べるじゃん、と真顔で突っ込む。あああああ、もう可愛い、カワイイ、二人とも!ホント、こういう場面とか台詞がヴィヴィッドでないと、こうまで素敵なシーンにならないよねえ。フテ寝するがごとく先にベッドに入っちゃった直也に対して、勝裕がごめん……と所在なげに立ち尽くすと、直也が布団をのけて、入れば、と促す。ベッドで抱きしめあいながら何度もキスしあうその二人の、ああ何という愛情と幸福感あふれるラブシーン。いいなあ、もう!

三人目の主人公で、この作品のピンの主役と言ってもいいのが、片岡礼子扮する朝子。彼女は本当に本当に、素晴らしい!橋口監督の長編デビュー作、「二十歳の微熱」で彼女もまたデビューし、それから10年たって、これほどまでに素晴らしい女優になったかとまさしく感嘆する。彼女は、セックスする相手はいるものの特定の恋人もなく、かといって恋愛や結婚にさしたる願望も感じられず、仕事に情熱も感じられず、ついては部屋を片付ける気力もないような、30女。……全てではない。もちろん、全てではないんだけれども、あるいは全てが違うのかもしれないんだけど、何なんだろう、このシンパシィの振れぐあいは!

年下のセックスフレンドとの、何の情愛も趣きもない、相手の欲望だけを仕方なく満たしてやっているような(しかもコンドームもさせてもらえない)、ただ入れるだけのセックスシーンで見せる彼女の、絶望と言うにはそう思うほどいいことなんてなかった、あきらめと言うにはそう悟るだけの人生を経ているわけではない、やりきれなさ。ああそうだ……これぞやりきれなさ、という表情があまりにもあまりにも生々しくて……。それに彼女の住むアパート。後にそこを訪ねることになる直也と勝裕が「女の部屋とは思えない」「なんか、かゆくない?」とまで言うぐらい、ぐっちゃぐちゃのめっためたに片づいていないのもそうなんだけど、そもそもが、ガタピシいいそうな古いアパートで、台所なんてじめじめ暗くて板とかはがれそうで、一人暮らしの、独身の女性がそこに住んでいるっていうのが、あまりに思い当たるというか、ほんと、これまた生々しくて……。だってさ、こういうのって、テレビドラマで同じ年頃の独身女性が出てきたって、絶対こういうふうにはならないじゃない?でもどちらが本当に近いかっていったら……やっぱり圧倒的にこっちだって気がする。だって、思い当たっちゃうんだもん。だから、ラスト、彼女が引っ越して、明らかにここよりはマシな住居になって、そのことで生き返る、生き直すという明るさで終わるのが、すごく嬉しかったんだ……。

彼女は子宮内筋腫を患う。その原因を医者に聞いてみると、心ない医者は、俗にヤリダコなんて言いますよね、違う相手とやってると雑菌も入るしね。それにあなた二回子供堕ろしてるでしょ。などと、こ、こいつ医者のくせによくもまあ……てなことを平然と言う。しかし朝子はそれに対して反駁する気力もなく、あっさり摘出手術を受ける……ように見えたのだが、勿論、彼女の内側はそんな単純なものではなかった。彼女は手術を受ける前、偶然出会った勝裕(ちなみにその時には直也もいた)に強くインスピレーションを感じ、突然、彼に子供の父親にならないかと提案する。彼らがゲイのカップルであったことを彼女は見抜いていて、隠そうとしていた勝裕はショックを受けるのだけれど、朝子がそれに対する偏見が微塵もないことや、そして入院している彼女を訪ねた時、赤ちゃんを見つめる彼女の顔などにも思うところがあったのか、彼女の提案を真剣に考えようとするのだ。

この、朝子が勝裕にトンデモナイ提案を持ちかけるシーン、勝裕の仕事場を朝子が訪ね、そう切り出すのだが、このかなりの長さのワンシーン、ワンカット、何というテンションと躍動感にあふれていることか!本作にはほかにもこうしたヴィヴィッドなワンシーン、ワンカットがそこここに見られるのだが、このシーンが最もスリリングで、ドキドキする。しかも片岡礼子も田辺誠一も、“緊張感の自然体”がまさしく最高潮で、芝居とは思えないほど、まるでドキュメントみたい!こういうのを見ると、力のある役者で映画を観ることのできる幸福をひしひしと感じてしまう。

ゲイである勝裕も、そして直也も、自分が父親になることなんて、イメージすらもしていなかった。その可能性があるのかもしれない、と反対しきりの直也に勝裕が一生懸命に問うと、直也はあっさりそれを否定する。一人になる覚悟が出来てなきゃ、こんな世界で生きていけないでしょ、と。これ……この台詞、すっごくズウンときた。この台詞、朝子が聞いてもズウンときたと思う。ある意味、朝子もまたこの点において先に進めないでいるんだから。朝子が結婚は考えていないけど子供が欲しい、と思ったのって、この部分にとても通じるものがあるんじゃないかと思うから。彼女にはあまり恋愛や結婚に対する匂いが感じられない。彼女がそれまでどういった遍歴を持っていたのかは判らないんだけど、彼女のそうした資質と、ゲイである彼らに不思議な共通点を感じるのだ。彼らは結婚し、子供を持つ、ということが基本的に出来ない。でも一人ではいられない。恋愛感情としてのパートナーを持って、その相手が家族になることを願う。そして朝子のような女性は、家族を持つための恋愛、結婚が自分にしっくり来ない。でも一人ではいられない。女性であり、子供が生めるのなら、子供を生んで家族が欲しいと願う。

実は私は子供の頃から今に至るまで、結婚をしたいと思ったことが一度もない、んだよね。本当に。結婚できないかもとか、結婚したくないとかいうんじゃなくて、“結婚をしたいと思ったことがない”ということが、それって人間としておかしいことなのかなって結構ネガティブに悩んだりもしたし。その昔、恋愛まっさかりでラブラブだった友人に「山下さんは本当に好きな人にまだ出会ってないんだよー」と言われた時には、まるで欠陥人間だと言われたのと同じぐらいグワンとショックを受けたことがあって……実はこの時の言葉はいまだにしくしくと私の心を蝕んでいる。もしかしてそうなのかなと思ったり、あるいは好きな人が出来ても、やっぱり結婚したいとは思わないんだよな、とも思う。決して恋愛そのものに対して否定的だったり懐疑的になっているわけではないんだけど、それが自分の性質であり、体質であるんだから仕方ないとしか言いようがなくて。それとは違うのかもしれないんだけど、何だか朝子に対してそういう部分で似た感覚を感じたというか……。私は子供を作る、という考えには至っていないけど、そうならないとも限らないと思うのは、この先の人生の終焉とか、あるいは自分の血が残らないのかな、なんていうことに対してやっぱりちょっと考えちゃうことってあるから。

勝裕が直面する辛いことというのは、家族の問題。彼は京都の出で、その家は格式を重んじる旧家タイプの血筋。兄が結婚して家を継いではいるけれども、弟である勝裕がケシカランことになっていることを知り(というのも、くだんの思い込みの激しい同僚の女の子が知らせちまったからなんだけど)夫婦して東京に乗り込んでくる。いかにも男尊女卑タイプの家父長に見えた兄が実は勝裕がゲイであることを知っていて、好きなように生きろと言ってくれ(光石研、素晴らしい)、義姉である容子(秋野暢子)の方が、自分がろくに恋愛もしないで結婚してしまったこと、世継ぎを生まなければいけないプレッシャーに押しつぶされそうになっていたこと、それらが彼女の中に夫よりも深く、愛憎の入り混じった固定観念を生み出し、修羅場となる。この場面、自分の思いを懸命に伝えようとする朝子=片岡礼子の名演と、それを通してしまったら自分の人生が無意味になるとでもいうように、頑なに拒絶する容子=秋野暢子のこちらも名演がぶつかり合う、これがまた名場面なんだ!片岡礼子なんて、この時が特にほんとダッサイ格好してて、30女の体のたるみとかバレそうな感じで(いや、たるんでなんかいないんだけど、そういう風に感じさせる服なのよ)、それであの低くて太い声でしょ。実際はとってもチャーミングな女優さんなのに、ほんとすごいと思っちゃう。というか、めっちゃカッコいい!

この時、朝子は過去のあらゆること……神経を病んでいたこととかもあらわにされてしまう。二人に今までありがとう、と言って去る朝子。今のって、さよならってこと?と直也が言い、そして二人して朝子を訪ねるのだ。うー、もうここ、すっごい、好き!直也は朝子に対して嫉妬心もあったのか、ゲイの仲間を使ってちょっとイジワルしたりしたこともあったんだけど(この場面がまた秀逸なんだよねー。反発心あらわな態度で捨て台詞を残して出て行く朝子がカッコよすぎ!)、今や勝裕とともに、彼女は大事な友人、仲間なんだ。朝子はあのキッタナイ部屋で、安心するという家具の間に挟まれて、ひとりぼーっとしている。そこに二人がコンコンと訪ねてくる。朝子は立つ気力がない。いないのかなあ、と二人言いあい、ドアや台所のすりガラスに顔をくっつけ、あ、ここから見えるよ、などと言ってるのがたまらなく愛しい。おーい、生きてるかあ、ジャンクフード買ってきたぞお、そんな二人の声に、クスクス笑いながら、たまらず涙がしみ出てしまう朝子の、いや片岡礼子の、ここが一番、最高に、素晴らしい!もうもう、泣く!ほんとに。

結局、勝裕の兄は事故であっけなく死んでしまい、あんなに容子が固く守り通そうとしていた古い家もあっさりとただのさら地になってしまう。……何というあっけなさ。本当に、あっけなくて……。でもこの土地に、家に縛られ続けてきた勝裕が、家の建っていたその意外に狭かった土地の、その土をなぜるのが……そして三人、河原で水切りをしているうちに、彼がたまらず泣き出してしまうのが……そんな彼を静かに見守り、そして静かに寄り添ってやる直也と朝子が……。ああ。人生ってあっけなかったり、信じていたものもそれほど強いものじゃなかったりするけど、でも人生って、やっぱり素晴らしいな。この場面の三人を見るだけで、そう言ってしまったっていいんじゃないかって、本当に思う。

ベビー用品売り場で、赤ちゃんてやわらかいなあ、とベビー服にほっぺスリスリする直也と勝裕とか、精子を保つのにコップ冷やした方がいいのかなと悩む勝裕に突っ込む直也とか、二人にスポイトを提案して、最後にはやけに本格的なスポイトをそれぞれにマイスポイトとしてプレゼントしちゃう朝子とか。コメディ部分が最高に冴えてて、純粋に笑える映画としても充分に合格点になってしまうところが、すごいよね。だって、哀しかったり痛かったりするところは本当に辛いほどなのに、ちゃんと可笑しいんだもん、矛盾なく。軽い障害を持ってるってところが、残酷なんだけどすっごく効いてる同僚のストーカー女。相変わらずつぐみちゃん、サエてて、夜の公園で勝裕に迫る時に着ている、白のワンピースの胸元に入った赤い炎みたいな刺繍、血かと思ってビックリするよね……ああいうところの狂気もすごい。そういう部分のシリアス度がやたら高い一方で、直也の母親があの家族の修羅場で一人トンチンカンなこと言ってそれもまた浮かずにパズルのピースみたくピシッとはまっちゃったりとか、本当に、すごい。細かいところでも、朝子が入院する病院で、眉毛抜きすぎちゃってどうよ、これ、と言い続けている女性とか、やたら可笑しかった。朝子を辛くさせるあの年下の男の子も、お姉さんときちんと付き合おうと思うんだけど、なんて言っても嫌な印象にならず、朝子がダメ、と明るく言うだけですっぱり彼女が過去を断ち切る合図になるのがいい。演じる沢木哲も、ホント良かったよね。

オフィシャルサイトのBBSで、朝子が子宮筋腫をヤリダコと言われることに対し、配慮がないんじゃないかとすっごく攻撃していた人がいた。そうか……そういうことを自分や身内に経験している人だったら、そうも思うよね、と思い……ただその人がその部分にすっかりとらわれて、作品全体が見えなくなっているのが哀しかった。誰が何を言っても、どうしてもダメという感じだったのが、確かに納得できるだけに、余計に哀しかった。でも、朝子があの言葉に傷つき、子宮取っちゃえば、などと考えもなく言われることで子供を産もうと決心する流れで、やっぱりあの医者のあの描写は必要だったと思う。それに、女性が子供を堕ろしたりすることに対する世間の目って、女性だけの非を見てあんな風に冷ややかだってことを実に辛辣に批判している部分でもあるし。映画って、観るだけで終わるんじゃなくて、そこからいろんなこと考えたり、話したり、どんどん広がっていくものだから、だからすごい、素晴らしいものなんじゃないかな。時間が経って、あの人もこの映画を落ち着いて観られる日が来るといい。だって、朝子のこと、あんなに愛情持って描写してたじゃない。決して橋口監督は、心ない人なんかじゃない。それどころか、心いっぱい、いっぱい持ってる人だよ。★★★★★


華の愛 遊園驚夢/遊園驚夢
2000年 120分 中国 カラー
監督:ヨン・ファン 脚本:ヨン・ファン
撮影:ヘンリー・チュン 音楽:アンソニー・ロン
出演:宮沢りえ/ジョイ・ウォン/ダニエル・ウー/タン・マンジア/ジャオ・ジーカン

2002/5/24/金 劇場(テアトル新宿)
モスクワ映画祭で宮沢りえが最優秀女優賞を獲得し、彼女を今ひとつ使い切れなかった日本映画界に強烈なパンチを浴びせた感のある本作。美少女の代名詞であった彼女は、今や美女の代名詞となり、奇跡のように美しい女優になった。確かに今、日本では美しさを純粋な美しさとして扱う映画は作られにくい状態にあるという気もする。女優は華、と言いつつ、そうした女性の美を発揮した作品にあまり出会えない。りえ嬢の魅力は無論それだけではないけれども、その美しさからくる存在感がまず前提にあるのは明らかで、日本映画でこれ、といったものに出会えず(良かったけれどもやはり「釣りバカ」ではねえ)、それが絢爛たる中国圏映画で花開いたのはさもありなんという感じ。中国映画は吹き替えが普通だから構わないんだけれども、りえ嬢の落ち着いた可愛らしい声が好きな私としては、この吹き替えの声に慣れるのにちょっと時間がかかってしまった。<

監督のヨン・ファンは写真だけで彼女をヒロインに抜擢した。何も日本人である必要もない役柄に、しかも写真だけでというのは驚いたけれども、なんでもヨン・ファン監督は写真家出身なのだという。……納得!ふかーく納得!この監督の作品を観るのはまだ二本目だけれども、前作の「美少年の恋」にしても本作にしても、耽美の美を画として完璧に表現することに腐心しているのが判るのだもの。どの場面でストップをかけても、どの場面をスチールにしても、完璧に美しい、一枚の絵画になるように。気づかないほどに微かでゆるやかな短いスローモーションが使われるのも、その美しい時を封じ込めたいと願うからなのではないか。

貴族文化が没落の一途をたどった1930年ごろの中国、蘇州を舞台に、名家、ロンの第五夫人として嫁いだかつての歌姫、ジェイド(宮沢りえ)と、彼女と姉妹のような、恋人のような、友達のような、それらとも違う深い情愛を交わすロンの従兄妹、ラン(ジョイ・ウォン)。二人を軸に華やかで退廃的、はかなくもろい世界を耽美的に映し出す。りえ嬢ももちろんだけれども、喜んでしまったのはこのジョイ・ウォン!随分と久しぶりに見た、ということ以上に、この妙齢の美しさを匂やかに立ち上らせる女性としてスクリーンに姿を見せたことに大いに感激した。しかも!この男装の麗人の何たる美しいこと!この人ってこんなにスラリと背が高く手足の長い、スタイルのいい人だったとは知らなかった。そのマニッシュな魅力に、ひたすら見とれてしまう。しかもその彼女が華のように美しいりえ嬢とツーショットで絡む場面では、さらに放心状態で見とれ続けてしまう。まったく、まったく、何と画になるのか!しかもしかもこの二人が寄りそうシーンはふんだんにふんだんに実にふんだんに取り入れられているので、ご同慶の至りの監督がもんのすごく喜んでこの画を撮っているのが想像できてしまう……。だってこの監督ってば、来日会見の時にりえ嬢の隣で頬を赤らめてやけに嬉しそうな感じで、だから撮影中もそんな感じだったんじゃないかとか想像しちゃうんだもん。

売れっ子歌姫だったところを見初められた、という設定だから、りえ嬢が歌う場面もふんだんに出てくる。むしろ見初めたのは彼女の夫ではなくランの方だった感じなのだが。歌うジェイドに重ね合わせるように歌いだすラン。ジェイドに対する夫の愛が冷めた後も、前より以上にジェイドに寄りそうラン。本当に、何でキスぐらいしないのと思うぐらい、歌い合い、ダンスをし、抱き合い、触れあい、寄りそう二人の場面は、ジェイドのはかない美しさとランの凛とした美しさが完璧な構図で、匂いたつ官能に、まさにアヘンに酔ったようにクラクラしてしまう。まず最初に、ジェイドの弱さと孤独が描かれる。世間から見れば玉の輿、他の夫人たちも彼女には冷たく、愛してくれるはずの夫も自分より、珍しいオウムの方に興味があるといったありさま。息がつまりそうになることから逃れるかのように刺繍を切り裂いたり、阿片を吸ったりするジェイド。ランは阿片が身体に良くないと判っていながらも、その様子があまりに美しいので止めることが出来ない。

こんな場面が印象的である。雑技団?の一行がロン家に呼ばれる。ジェイドとランはその中の一人のかわいい男の子を部屋に呼ぶ。ガチガチに緊張している男の子を二人してからかうように彼の前でイチャイチャとするジェイドとラン。賭けをしましょ、と紙マージャンを取り出し、賭けるものがない、というこの男の子に、あらあるでしょ、と一枚ずつ服を脱ぐように示唆する。最後の一枚、となった時、ランはジェイドを残しひとり出て行く。女の身体の欲望を持て余しているジェイドを慮っての行為。自分ではそこまで満たしてやれないから(いや、試してみれば良かったと思うんだけどね?)。ジェイドの女としての孤独と、ランの愛ゆえの孤独が交錯する。

ランはこうした古風な名家に育ちながら、そうしたものがもう力を持たないこと、女でも一人で生きていくべきだという考えのリベラルな女性。英語教師として、この国の将来を担う女の子たちを育てている。男装の麗人のランも素敵だが、そのすらりとした肢体を細身の上衣と丈の長いスカートで包み、軽いボブカットを揺らす姿も魅力的である。この学校に調査員としてシン(ダニエル・ウー)が派遣されてくる。今まで感じたことのない男性への抗いがたい本能の感情。故意か偶然か、彼が水浴しているのを見てしまったランは、彼の鍛え上げられた肉体に釘付けになる。そんな彼女の気持ちを見透かしたようにランをその手に落とすシン。落とされてしまったランは、ジェイドに対する思いとは別の感情があるのだということに戸惑いながらも、彼に対する激しい欲望を抑えきれない。

ダニエル・ウーである。ヨン・ファン監督の前作「美少年の恋」からの連続登板の彼。ヨン・ファン監督の中では、美しい男性といったら彼のことなのだろう。実際、こんなにいい身体をしているとはオドロキである。そのすっとした顔立ちのせいもあって、それにかなり着痩せするタイプなのか、まさかこんな彫刻のような肉体が隠されているとは……。彼の水浴の様子……その肌に水の玉がはじけるさま、その筋肉、下半身ギリギリまでおりていくショットの数々は、もちろんランの目線を表現しているんだけれど、こっりゃ監督の目線ちゃうんかい、と思うほどの執拗さだ。どちらかといえば現代劇に似合ううっすらとした顔立ちだけれど、その肉体の存在感があり、そのうっすら加減が結局は去っていく男としての逆説めいた存在感として残る。ジョイ・ウォンよりもかなり年下のはずで、劇中ではどちらが上か下かということは示されないものの、やはり年若い男に溺れる女という図式は明確で、これまたかなりの耽美さを感じさせる。繰り返されるラブシーンは、むさぼるように唇を求める彼女と、それに応える彼という図式。成熟した女の美しい美脚がスリットからこぼれ、この年下の男にからみつく。

ジェイドはその時、窮乏に陥ったロン家から出され、娘のパールとともにランを頼ってきていた。見限られた哀しさ寂しさも、喜んで迎えてくれたランの情愛が救ってくれた。でもシンと一緒にいるランを見てしまって、ジェイドは動揺する。森の中で一人泣き濡れ、家を出て以来やめていた阿片を吸い、その心を隠そうとする。シンに出会ったことでジェイドへの思いは意味をたがえたけれども、でもその愛情は変わらないと思っていたランは、愛する女性のそんな姿に、なす術もない。抱きとめても、ジェイドの心は遠くにある……。ダメだ、やはり彼女でなければダメ……ランはシンと決別してしまう。あっさりと去ってしまうシン……やはり彼の存在はジェイドとランのお互いの気持ちをあぶり出すものだったのか。そのことによってジェイドとランの心には新たな傷がついたけれども、それは避けては通れない道だったのだ。

その頃ジェイドに届けられていた、ロン家の第二執事イーの日記。あの豪奢な豪邸でランのほかには彼だけが大切に接してくれた。ジェイドが出て行く前に、彼は兵役につくためにロン家を辞したが、彼はひそかにジェイドのことを愛していたのだ。ロン家の歴史をしるしている、と言って書かれていたのは、実際はジェイドへの思いを綴った日記だった。ランがシンと別れ、傷が落ち着くだけの月日がたった時、そのことを語るジェイドは、その時哀しかったのは私のせい、それともイーの日記のせい?とランから問われ、答えられない。ただ哀しかったのだと。どちらでもいいわね……とジェイドを抱き寄せるラン。ランの胸に自分の横顔を埋めるジェイド。非常に美しいこのラストシーンは、目をつむるジェイドが静かに眠りに……ひょっとしたら永遠の眠りにつこうかとしているように映り、はっと胸をつかれる。阿片によって蝕まれた彼女は、何度か吐血しており、そう予感させられるだけの伏線が張られていたからだ。でも……うん。これはハッピーエンドなのかな。だって、そうだとしたら二人の思いは、少なくともジェイド側の思いは永遠に昇華されるのだもの。

華やかな宴で空に舞う無数の花びらから始まり、はらはらとこぼれ落ちる黄色く色づいた落葉が、金色の光にきらきらと反射するラストで終わる。栄枯盛衰を象徴する流れだけれども、そのどちらもが、非常に美しくて、どう転んでも、どの時点でも、人生は美しいのだと、この退廃的な作品でもつまるところ行き着くのはやはりその境地。画としての美を、そうした形のない美になぞらえる、それを表現し尽くせるだけの美しい女優二人を得て。これは宮沢りえ&ジョイ・ウォンを思いついた時点で勝負あり。★★★☆☆


バニラ・スカイVANILLA SKY
2001年 137分 アメリカ カラー
監督:キャメロン・クロウ 脚本:キャメロン・クロウ
撮影:ジョン・トール 音楽:ナンシー・ウィルソン
出演:トム・クルーズ/ペネロペ・クルス/キャメロン・ディアス/カート・ラッセル/ジェイソン・リー/ノア・ワイラー

2002/1/31/木 劇場(日比谷スカラ座1)
まあ、もともとオリジナルである「オープン・ユア・アイズ」にそれほど熱狂したわけではない。★★★☆☆しかつけてないし、でもそれは自分と同い年である監督の才能に対する嫉妬めいた気持ちも働いていたかな、とそのアメナーバル監督チーム(彼は音楽のみで監督はマテオ・ヒル)の次作「パズル」を観て思い、思わず反省したものだった。本作は「オープン・ユア・アイズ」にホレこんだトム・クルーズが映画化権を買い、自分主演で映画化、という話を聞いた時からイヤな予感はしていたのだが、しかしその一方で、あのどこか悪魔的な雰囲気のある映画をハリウッドでピカピカのスター、トム・クルーズ主演でリメイクしたらどうなるのかな、という興味はあった。しかししかししかし、……なんでまたこうもつまらなくなるのだあ!?

ストーリー自体にさしたる変化は見られない。というより、私は夢オチだということだけ覚えていて、詳細なストーリーを忘れていたので観ていくうちにああ、こんな話だっけ、とつらつらと思い返す始末だった。しかしそれでもあの「オープン・ユア・アイズ」、そう、こんな風にストーリーを忘れていても、★★★☆☆しかつけていなくてもなぜか印象にだけは残っていた。そうだ、印象に残る映画なのだ。これは今までも何度か言及したことがあるけれど、映画は印象に残ってナンボなのではないかというのが私のつたない持論なのである。ことに私みたいに忘れっぽくて、こんな風に感想文でも残さないと観たことすら忘れてしまうことがあるような輩にとってそれはとても重要な要素である。どんでん返しがどうとか、スターが素敵とか、結構そんなことはどうでもよくて、そして印象というものはそれが感動につながったり、衝撃につながったり、まあ時には嫌悪につながるものもあるけれど。とにかく、印象のない映画は、ほとんど観なかったことにすら等しいのだ。

私が昨今のハリウッド映画に失望するのは、この点にあるし、今回のリメイクに失望したのも、まさにこの点にある。“ストーリー自体にさしたる変化は見られない”ならばなぜなのか。なるほど、確かに監督が言うようにオリジナルとは明らかにトーンが違う。これはリメイクには重要な要素だろう。でも、オリジナル版の何が良かったかといえば、ストーリーというよりはどこか不気味な空気、サスペンス、ミステリーを監督の感性で新しい世界へと押し広げたその感覚である。つまり、“世界”があったのだ。この作品のみの、唯一の作品世界というヤツが。それが、その最も大事と思われる部分が、本作では“ハリウッド映画”または、“ハリウッド式ドラマの語り方”みたいなものですっかり覆われて、跡形もなく姿を消してしまった。

正直、ストーリー自体は、まぁ、夢オチでガクッときたせいもあるけれど、言うほど斬新なものとは思われない。しかしリメイクではこのストーリーこそ作品の核なのだという捕えかたをし、ほとんどスターへの媚ではないかと思われるほどしんねりとキャラクターを描写し、観客には理解する頭がないと思っているのではないかと疑われるほどにしつこく説明的台詞や描写を繰り返し、結果、オソロシク長々と舞台説明しているような映画になってしまった。“ストーリーこそ……”以下は、ハリウッド映画の体質そのものであり、この点において皆が驚くほど同じだからこそ、ハリウッド映画は皆同じように見え、そしてつまらなくなっていくばかりのような気がしてならない。なぜ、なぜこの「オープン・ユア・アイズ」をリメイクしようと思ったのか、その動機の結果が本当にこれで良かったのか?トムさんよお。

キャラクターにも変化を遂げたものはある。その一番顕著なのは、ストーカー女。本作でそのジュリーを演じるキャメロン・ディアスがスターだから書き換えたんじゃないのかと思われるほど、友達だと口では言う裏では彼を真実愛しており、彼もまた友達だと言いつつも自分を愛してくれていると信じているケナゲな女になっている。彼女に非があるような描き方は微塵もしておらず、トム演じるデヴィッドの彼女の扱い方が悪かった、という捕え方になっている。しかも、しかもである。それならばデヴィッドがワルい男と思わせるキャラにしているのかと言えばそうでもなく、セックス・フレンドと割り切っているのは、本当に友達なんだからいいじゃん、とでもいうような悪びれのなさで、ペネロペ・クルス演じるソフィアに出会って真実の愛に目覚めることで、まるで全てが許されたみたいな印象なのだ。これがスターに媚びた描き方じゃないと、誰が言えるのか?それに対照的に脇役の描写……デヴィッドに夢の登場人物としての存在を与えられた顧問弁護士(カート・ラッセル)の苦悩なんてのはものすっごくうっすい触り方しかしてないあたりも徹底してるしさあ。

でもね、キャメロン・ディアスはそれこそなかなか“印象”に残っていた。こういう、憎めない、同情的なキャラにもかかわらず、不気味な印象を残そうという奮闘がかすかに感じられた。ブロンドで冷たい色の目をした、典型的なハリウッド女優だけど、アヒルっぽい口元にどこか愛嬌があって、そのややバランスを崩した部分に、ホレた男にすがろうとする女のアンバランスな哀しさが見てとれた。彼女は「マルコヴィッチの穴」なんかを考えても、見た目より役者に野心のあるらしい女優だし、こういうキャラに書き換えるより、もっとアブない女をやらせてみたかった気がする。「チャーリーズ・エンジェル」で培ったか、と思われるような、トムに浴びせる強烈キックもなかなかだったし。なんといっても、くるまったシーツ?からのぞく、とんでもない美脚に目ん玉飛び出るね!正直、オリジナルから連続登板のヒロイン、ペネロペ・クルスより、ずっと良かったんだけどなあ。

そう、ペネロペ・クルス。彼女はスペインにいたままの方がいいんじゃないかしらん。それは、決してネガティブな意味ではない。大体、ハリウッドに引き抜けば成功、だなんて考え方が間違ってるんだってば。イナカの才能をきらびやかな舞台に引き抜いて花咲かせてやろう、みたいな意識がさ、ハリウッドが外国から才能をピックアップする時にすごーい、感じられるわけよ。ジョーダンじゃないよ!って思うのよね。ハリウッドが世界なのかい!確かにちょっと昔ならば、そういうものも通用したかもしれない。でも今は違うし、それが正常な姿なんだよ!ペネロペ・クルス、ハリウッド式のピカピカスターに挟まれて、彼女自身の繊細な魅力が全然発揮できてなかった。もったいないよ。自分の才能を生かせるところで、花開いてほしい。「オール・アバウト・マイ・マザー」とか、ホント素晴らしかったじゃないかあ。

オリジナルも117分あったから、決して短かったわけじゃないけど、本作の2時間17分は異様に長く感じられる。2時間を越えているんだから確かに短いわけじゃないが、オリジナルより余計に、それを考えなくてもやたらと長々しく感じられて、だんだんウンザリしてきてしまう。トムは顔を醜く崩すメイクで大熱演だが(その崩し方も「夜半歌聲 逢いたくて逢えなくて」の時のレスリー・チャンみたいに美形ラインを残すようなズルッコはせず、しっかり崩してる)、ハンサム顔の時のアップもやたらに多くてこれまたウンザリ気味。うーん、それにしてもトム・クルーズ。ちょっと前まではホントにこの人、ハンサムだと思ってて、それこそこのキャメロン・クロウ監督と組んだ「ザ・エージェント」とか大好きだったのに、本作ではなぜだか美しくない?と感じるのは私だけなのかなあ……。常に笑ったような口元をしているのはこの人の地顔のクセなのかもしれないが、何かそういう部分に気づいたりすると、そればかりが気になっちゃったりして。もっと顔引き締めろよお!とか思っちゃうのよね。

「突然炎のごとく」のポスターをデヴィッドの部屋に貼らせてジュリーとの心中劇を暗示したり、往年の名アルバムのジャケットを模したソフィアとのツーショットを夢見てみたり……そうした小道具的なものはシャレてはいるけど、あざといような感じも与える。ことに、やたらとアメリカンミュージックに彩られているあたりが自信に満ち溢れたアメリカ賛歌、という気分もして……。あ、アメリカンミュージック、といえば、印象的だったのはビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレーション」。ただ単に「テルミン」を思い出しただけかも?でもあのテルミンの揺れる音は夢と現実の境界線の揺らいだ感じを象徴していて、ちょっと効果的だったかもね。

冒頭の、ニューヨークのど真ん中で人っ子ひとりいない、というのも、「ターン」を観る前ならば、驚いたかもしれないけど、ね。何度も何度も目覚める、という、本作のキーポイントと言える描写が、オリジナルでは畳み掛け、倍化していく混乱の恐怖に、リメイクの本作では、説明過多の説教臭さになっているということで、決定的な違いが説明できると思う。あるいは、“人生は何度でもやり直せる”というもっともらしい本作でのテーマが、オリジナルに対してはひどくシニカルに響くであろうというのも……。確かに前向きに、楽観的に生きたいとは思うけれど、どちらに説得力があるかといえば……言うまでもない。★★☆☆☆


ハリー・ポッターと賢者の石/HARRY POTTER AND THE SORCERER’s STONE
2001年 152分 アメリカ カラー
監督:クリス・コロンバス 脚本:スティーブ・クローブス
撮影:ジョン・シール 音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ダニエル・ラドクリフ/ルパート・グリント/エマ・ワトソン/ジョン・クリーズ/ロビー・コルトレーン/ウォーウィック・デイビス/リチャード・グリフィス/リチャード・ハリス/イアン・ハート/ジョン・ハート/アラン・リックマン/フィオナ・ショー/マギー・スミス/ジュリー・ウォルターズ/ゾーイ・ワナメイカー/トム・フェルトン/ハリー・メリング/デビッド・ブラッドリー

2002/6/24/月 劇場(浅草公会堂)
なんでまた今ごろハリー・ポッターなんだと言われそうだけど、もともと観るつもりはなかったのだ。というのも、あれだけ原作がシリーズでベストセラーになってて、その原作と映画との比較というのがさんざん世でなされているのを見ると、原作を読んだことがないこちらとしてはどうにも肩身が狭いというのが正直なところで、観る資格がないんじゃないかなー、などと思っていたわけで。じゃあ、なぜ今ごろ?というと、こたえは単純、タダ券につられただけの話なんだけど。でもこれがねー、スクリーンに映し出されている画面がめちゃめちゃテレビ比率なんだけど。これってもうビデオもDVDも出ているし、ひょっとしてそれをプロジェクターで映しているんじゃないでしょうね?なんか大スクリーンで観ると、やたら人物が細長いように思えるのは気のせいなのかしらん。ということは、ソフト化の時点でワイドスクリーンの比率を圧縮しちゃってるのかなあ。それもヒドい。

言うまでもなく、超大ヒットとなった本作、「千と千尋の神隠し」までも抜いたというのはうー、シャクだけれども、ある種の判りやすさと願望を満たしてくれるという点では、それもまた納得かも。監督、クリス・コロンバスなのかー!知らなかった。それなら深く納得。彼は時々エンタメに走りすぎて、えー、何もそこまで……と思う描写に引いちゃうこともあるんだけど、今回は(多分)原作の展開は勿論、雰囲気にも忠実に、できるだけその世界を裏切ることなく再現しようと腐心したのだろう。そういったやり過ぎ感はなく、アメリカ人監督ではあるけれど、スタッフ・キャストに原作どおりイギリス陣営を持ってきている成果もあり、非常にブリティッシュ・クラシカル&ロイヤルとでもいったような感じが良く出ている。

寄宿学校、上下関係はきっちりあれど、それをも超えた仲間意識。こうしたギムナジウムの中で上級生に可愛がられる少年、というのは、ついつい萩尾望都や竹宮恵子を思い出してニヤついてしまうが、ここでは無論、純粋な意味でのそれである(当たり前だ。何考えてんだっつーの)。でもね、そんなことを考えちゃうほど、つまりは、ああ、私ってばこんなにショタコンだったかしらー!?ハリポタ役のダニエル君がかわいくて胸がキューンとしちゃうんだもん!子供は嫌いなハズだったんだけどなあ?でも確かにショタコン気味はあったかもしれない。このぐらいの適度に幼い男の子が頑張っている様に弱いのよ。「あの、夏の日 とんでろ じいちゃん」の男の子にもメロメロに参ったもんね。女の子は女の子でいるだけで良いのでそこまで求めないんだけどさ(我ながら勝手だなー(笑))。あ、女の子、主人公三人組の中のハーマイオニー役のエマ・ワトソン、凄く美少女ね。利発でおしゃまなところがまた良くて。彼女にもいちいちドキドキしちゃったなあ。

ハリー=ダニエル君は確かにあの荒木浩広報副部長に似ているところが(笑い方とかも妙に似てるのよねー)微かに引っ掛かった笑いを感じさせるけれども、この子の博士キャラなところがまずとってもツボなのよ。おとなしそうでメガネ、というとヘタするとのび太キャラになる危険性がありもする。このハリーは潜在的能力はズバ抜けてはいるけれども、ハーマイオニーのように勉強が出来るという訳ではないので、その危険性は大いに高いのだけれども、彼のどこかカルトな香りのする風貌が、それをしっかりと押しとどめているんだな。確かにキャスティングは重要よね。原作は読んでいないけれど、オーディションで彼こそハリー・ポッターだ、と見出したスタッフは大正解。

可愛い少年少女がコスプレをすると、お姉さんはもっと喜んじゃうんである。コスプレなんて言っちゃいけないんだけど、言いたくなっちゃう、あまりに可愛くて。黒の長いローブをまとうそのなで肩が、ああッ、もう愛しすぎるじゃないの!そう、ハリー君はなで肩なので、そのローブがよく肩からズリ落ちているんである。くそうう、カワイイじゃないか!最初こそはタイも帽子もきちんと身につけている彼らが、学校生活に慣れるに従ってそのタイを崩したりしだすのがまたカワイイのよ。しかもハリー君ってば、その崩した襟元からのびる細い首すじが時々妙にイロっぽかったりするんだもん。こう顔を上にこころもち傾けて喋ったりする時にね、もうお姉さん、ドキドキですよ。光の加減で黒にも茶にも見える髪の感じもまたいいんだよなあ。

優れた魔法使いだった両親が、その能力ゆえに嫉妬されて悪い魔法使いに殺されてしまった。彼らの血を受け継ぎ、そしてその悪い魔法使いの手からも逃れたハリーは、素晴らしい魔法使いになるべくして生まれたスーパーヒーローで、彼自身が魔法使いだと自覚せぬままマグル(魔法使いではない市井の人。あ、説明不要ですか?)の中で育てられている時から、魔法世界では超有名人なのだ。しかし、それまでのハリーは、叔父夫婦のもとで理不尽に虐げられて育てられてきた。ということはこれはシンデレラ的な物語?いやいや、というよりもみにくいあひるの子かしらん。階段下の、本来なら物置になるようなところに部屋があてがわれている、っていうのも、ホントそんな感じで。なんにしてもこういう童話の王道な設定って実に久しぶりに観た気がする。今だったらこういうベタな設定にうるさいからさあ、ホント久しく観てなかったよなあ。ハリーが11歳になる直前から突然彼宛にホグワーツ魔法学校というところから手紙が来出す。不自然なほどに理不尽な叔父によってことごとく破棄されるものの、手紙はその度つぎつぎと来て、郵便の届かないはずの日曜日には大量の手紙が嵐のごとく家中を飛び回る!

往生際悪く、郵便のこないところへと逃げ出した一家を追って、今度はハリーを迎えにひげ面のコワモテだけど、実は心優しくて口の軽い(笑)ハグリットがやってくる。彼の案内でロンドンの隠れた街に赴き、ホグワーツ魔法学校で使うさまざまな用品を買い揃えるハリー。学校に入るワクワクと、魔法使いになるワクワクが相乗されるシーンで、ハリーの潜在能力が発露される杖を買うシーンなども秀逸。ここでハグリットがハリーにプレゼントしてくれる相棒のふくろう、その名前がヘドウィグだとオフィシャルサイトで知って、もうビックリ!なんでよりにもよってヘドウィグー!!

ホグワーツへと向かう汽車は9と3/4線である……うーん、思わず「マルコヴィッチの穴」の7と1/2階を思い出しちゃう。この汽車の中で出会うのが、親友同士となるロンとハーマイオニー。ロンは代々ホグワーツに入学している魔法使い一家の子供で、その赤毛がトレードマーク。ハリーに比べると一見単純な、平凡な、とりえといえばひとなつこいところぐらいなコなんだけど、実はチェスの名手で、その能力を発揮して大クライマックス、悲壮な決意でハリーを救うところなんざ、くう、この子もイイじゃないか!と気の多いお姉さんはあっさり陥落してしまうんである。この活躍が認められてハリーともども50ポイントを獲得するんだけど、その場面でハリーたちを良かれと思って止めにかかったオデブちゃんもその勇気に10ポイントもらえるとこがまたイイんだよねー。

いかにもワルモノそうに見える教授が、実は生徒たちのことを真に愛してて、気が弱くてやさしそうに見える教授が、ウラで悪事を働いている。うんうん、子供に対する教育的説法なニオイは確かにあるけど、こういう映像にした時にそういうのって本当に力を発揮する。だって、オトナの私たちだってアッサリ、ワルモノそうな方をワルモノだと思い込んじゃうんだから。そして世の中もそうなんだから。ある意味、この学校の雰囲気に染まっていて、生徒に怖がられている教授は、そういう部分で非常に純粋というか、愛すべきものを感じてしまうんだよね……全てが明らかになったあとは。

そう、この“学校のコワさ”。夜になると学校という巨大な建物が突然とてつもなく無気味に、コワくなるというのは皆が経験してきたことで、このホグワーツはそれが昼夜構わず常にそうした雰囲気に包まれているのだ。こうした学校のコワさというのは、コワイコワイといいながらも、夜の学校に遊びに行ってみたいとか、そういう子供の純粋な好奇心も反映しているから、ホグワーツの世界というのはそれを100パーセント満たしてくれる場だから、こんなにワクワクするんだろうなあ。

ところで、オフィシャルサイトで、“入学手続き”をし、クラス分けに挑戦してみたら、私は見事ハリーたちのいるグリフィンドールに!嬉しい〜(でも、もしかして皆グリフィンドールになるというしかけ?)。★★★★☆


春の日は過ぎゆく/ONE FINE SPRING DAY/
2001年 113分 韓国=日本=香港 カラー
監督:ホ・ジノ 脚本:ホ・ジノ/リュウ・チャンハ/イ・スクヨン/シン・ジュノ
撮影:キム・ヒョング 音楽:チョ・ソンウ
出演:ユ・ジテ/イ・ヨンエ/ペク・ソンヒ/パク・イヌァン/シン・シネ/ペク・チョンハク

2002/7/16/火 劇場(渋谷Bunkamura ル・シネマ)
やられまくった「八月のクリスマス」のホ・ジノ監督の最新作は、語り口は確かにこの監督のものだし、痛い恋愛を丁寧に綴っていているのはとても良く伝わるのに、なぜだかうーん……と考え込んでしまうような感じだった。どうしてかなあ、と考えながらオフィシャルサイトのBBSを覗いてみたら、ヒロイン、ウンスに関しての解釈がさまざまに割れていて、結局彼女は彼を愛していたのかどうかさえ懐疑的になっている意見もあり(でもそれにはかなりナルホドと思った)、このあたりのモヤモヤがそう感じさせたのかも、とうすうす判ってきた。でもそうだとすればこれは結構画期的な恋愛映画かもしれない。彼の方、サンウの気持ちは判りすぎるほどにハッキリしていて、ちょっとストーカー入るほどまでに彼女のことが忘れられなくて、こんな風に好きになってくれるなんてうらやましいと思うくらい。だから彼にだけ感情移入してああ、可哀想、と思う事だって可能なわけなんだけど、最終的にどうしても気になるのは彼女の方なのだ。それは監督やウンスを演じたイ・ヨンエの中でキャラに対する解釈が固まっていないとも言えるし、あえて固まらせなかったんだろうとも言える。そのことに対して異と思うよりは、そうした心理の方が、より人間としての生々しさを感じられる、という画期的さである。

彼、サンウと彼女、ウンスは、録音技師とDJ兼プロデューサーという間柄で出会う。ほあほあの集音マイクはなんだかかわいらしくて、ヴェンダースの「リスボン物語」などを思い出してしまう。そのマイクにていねいに櫛をかけるサンウ、という図も優しげなほほえましさを誘う。彼と彼女は、ラジオ番組に使うための自然の音を丁寧に拾っていく。竹林に風がそよぎ渡る音、ささやかな川のせせらぎ。集音マイクが拾い出すそうした音のひとつひとつにじっと耳を傾ける二人。心地よい静寂。こんな風に映像の中で音に耳をすませる喜びに浸れることはなかなかない。音が主人公だとも言えた「記憶の音楽―Gb―」での哲学的な音の解釈ともまた全く違う、音に対する自然でまっすぐな愛情。

そうしたサンウの音に対する気持ちの向け方は、その後のウンスに対する気持ちとも重なる。彼は、好きになった音にはただひたすら愛情を持って耳を傾ける。ただ好きになれば、それで充分だと思う。一方のウンスはその音を採取した土地の老人などにインタビューし、音に解釈をつけ、番組を作り上げる。川の音を採取している最中にも、ふと鼻歌がもれたりする。その“鼻歌”もサンウは丁寧に拾い上げるわけだけれども、このあたりですでに彼と彼女の気持ちの角度とでもいったようなものが現われていたのかな、と思う。恋愛関係が深まる前、風による音待ちをして寺に一泊した二人、サンウの方が深夜のかすかな鐘の音に先に気づいて録音を始めている。しんしんと降りしきる雪の音さえもハーモニーを奏でていそうな、かすかなかすかな、静寂の音。風が鳴らさなければ音が聞こえない、と思っていたかもしれないウンスとの差はここでも感じるけれども、その音に遅ればせながら気づいて起きだし、サンウとともに雪の中、微かな音に耳を傾けるウンス。その時の二人が、一番気持ちが寄り添っていたのかもしれない。あまりにもひそやかで美しいシーン。

彼、サンウの方が若くて、恋愛に関しても殆ど未経験な感じ。それは、彼女に会いたくて乗り込んだタクシーの、友人である運転手に「好きな人が出来たんだ」と言うシーンで、その友人が「ホントか」と返すそのリアクションからも想像できる。一方のウンスはバツイチの大人の女性。年齢的にはせいぜいが5つか6つの開きといったところだけれど、もともと子供の頃から女の子の方が先に大人になるというし、ましてや離婚を経験しているウンスは恋愛、結婚に関してイヤというほどさまざまなことを考えてきた筈。ごく自然に恋に落ちたように見えながらも、彼女の中でいろいろなことが渦巻いていたことは想像に難くない。思えば全てが彼女のリードで決まっていた。彼女から彼を部屋に誘い、泊まっていけばと言い、セックスのタイミングも、一ヶ月の冷却期間も、そして別れの言葉も彼女の方から。彼女のことを本気で好きになったウンスが父親に紹介したい、と言い出すなど、彼に決定権が与えられるような言動を示しだした時から、彼女の態度が急に硬化し出すことを考えると、“彼女の方は彼を愛していなかったのかもしれない”という説も確かに否定できないものを感じられるのだ。

でも、ウンスはそうやってサンウからまじりっけのない愛情を受け出した時、うっとうしがるというよりは、何だかとても辛そうだった。彼女らしくなく酔っぱらって帰ってきて、気持ちを隠そうとするように彼にまとわりついて、そしてベッドに倒れこんで抑えきれぬ涙を流すウンス。彼女自身、自分の気持ちを上手く説明することは出来なかったのかもしれない。彼が自分を愛してくれている、その気持ちに応えるだけの自分でいられているのか、自信がなかったのかもしれないし、結婚に至ったあの恋愛と情熱の程を比べてしまったのかもしれないし。この上手く説明できないけれど、一人になりたい気持ち、という方が、何となく判るような気もする。サンウみたいにハッキリと気持ちを決められれば、好きな気持ちに確信が持てれば……でもそれは若い頃の特権なのかもしれないな、と。結婚という決着点をつけなければ、この関係、この気持ちを確かなものにすることも出来ないのかもしれないと。「一緒にお墓に入ろうか?」と言い出したウンスに、言葉とは裏腹な、そんな揺れる気持ちが見える気がして。

最初から彼と彼女は対等じゃなかったのか……そう考えるのは純粋なサンウに対して辛すぎるけれど。実は彼女の離婚歴というのはそう声高に言われるわけじゃないのだ。出会った時、彼女がほんのひとこと言うだけで。でもそれがこんなにも彼女のキャラに影を落とすなんて考えもしなかった。いや、見ている間は、むしろそんなこと全然考えなかった。彼女の気持ちがつかめないことばかり考えていて。でもなぜか気になるのは彼女の方だから、どこかシンパシィの針が触れるのは彼女の方だから……ある意味彼女を好きだという気持ちがゆるがないサンウはその若さゆえか自分の気持ちに自信があふれており、ウンスは自分の気持ちに自信が持てない。その自信の持てないところに、共感の針が触れるのかもしれない。

サンウは少々ボケが始まってきた祖母(ハルモニ)とともに暮らしている。このハルモニの夫、つまりサンウのおじいさんは、大恋愛の末ハルモニと結婚したのに、その後浮気をして家を出て行ってしまった。ハルモニはその事実を心から追い出し、若い頃のアツアツだった夫の影をずっと追っている。もう死んでしまったその夫を駅へ迎えに行き、いつまでもいつまでも待ち続ける。サンウは自分の恋愛が行き詰まってくるに従って、そんなハルモニを見ているのが辛くて仕方がない。しかしハルモニは決してすっかりボケきってしまったわけじゃなく、ちゃんと判っているのだ。孫が彼女にフラれてしまったことも。「去ってしまった女とバスは追っかけるもんじゃないよ」なんて言って慰め、ハルモニの胸で声を上げて泣くサンウ。ハルモニの気持ちが決まったのは、あるいはこのあたりかもしれない。ベビーピンクのキレイなチマ・チョゴリ、あれはやはり結婚衣裳だったのだろうか……それを着て去っていくハルモニはそのまま帰らぬ人となった。ハルモニの心中は想像を絶する過酷さがあるけれど、彼女がサンウにかけたちょっとおどけたあの慰めの言葉は、そのままこの時のハルモニにも当てはまる気がして。恋に身を投じる家系なのかなあ……。

別れてからしばらくして、ふとサンウを思い出したウンスは彼を呼び出す。つくづく残酷な女性だけれど、会いたい気持ちに正直になっただけ?……でもそれだけじゃ上手くいかないんだね。サンウの方がそう思えなくなるほどにウンスによって大人にさせられてしまった、と言うべきなのかもしれず、それって随分と皮肉なのかもしれない。辛い気持ちが彼女の方に先にきて、別れを言い渡されて今度は彼の方が死にそうに辛くなって……辛い気持ちが同じに来ていたら良かったのに、でもそんなこと、ありえないものね。何で上手くいかないのかなあ。サンウほどにハッキリしていなくても、やっぱりウンスもサンウを好きだったと思いたいから、そんな歯噛みを感じてしまう。でも、今までいつでも彼女にだけ決定権があったのが、この久しぶりの再会に決別を選んだのは、サンウの方だったから……いつまでもいつまでも、焦点がブレながらも彼女の姿がなかなか消えない画面の手前で、あまりにもあまりにも辛そうな顔をしているサンウに心を痛めながらも、やっぱりこれしか選ぶ道はなかったんだよね、と不思議に納得してしまうのが、また哀しくて。

でもラストシーン、風そよぐ草原の中、あのほあほあの集音マイクを担いで風の音に耳をすますサンウはこれ以上なく幸福そうに目を閉じて微笑んでた。きっと彼は愛される幸せよりも、愛する幸せを知ることが出来たのかな……そうだといい。そうだ、きっと、そう。

そう言えば、サンウを演じるユ・ジテは「リメンバー・ミー」のお兄ちゃんであり、年上の女との恋が何でだか似合う人なのね。こんなにたくましい体の人とは気づかなかったけど(たくましい録音マン……うーむ)。「リメンバー・ミー」では直接的なラブ・シーンはないに等しかったからだなあ、きっと。本作では可憐で華奢なイ・ヨンエを折れそうなぐらいに抱きしめたりする場面で、うわー、何だか随分おっきな人だなあ、と思わせるんだけど、その大男なところが、大きな子供、とでもいった純粋さをよりかきたてるんだから不思議なものである。喜怒哀楽、ことに哀しい顔が本当にくしゃくしゃに哀しくて、参っちゃう、ホント。

恋愛映画の佳作、秀作が次々出てくる韓国映画は、ふと気づくと恋愛映画だから、出演スターの年齢の幅がほぼ一定していて、なるほどスターシステムなんだなあ、と納得させられるものがある。日本じゃその同じ図式がそのまんまテレビドラマにとられてしまっているからなあ……。★★★☆☆


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