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人妻とOL 乳くらべ (人妻とOL あふれる愛液)
2006年 61分 日本 カラー
監督:佐藤吏 脚本:福原彰
撮影:長谷川卓也 音楽:
出演:岡田智宏 薫桜子 平沢里菜子 本多菊次朗 青山えりな 三浦英幸 千葉尚之 佐々木基子
しかし、物語はそんな表面的なものとは打って変わった、どこか神話的で、そして哀しい愛の物語だ。結局はこの男、光夫が愚かだったということなのだが、それは彼が、妻の久恵を愛して愛して、彼女が夢見た海辺の一軒家に閉じ込めたかったからなのかもしれないのだ。
光夫を演じる岡田智宏氏の、優しさだけが取り柄のような、つまり、こんな結果を招いてしまうような優男っぷりが、バカバカバカ!!と見てるこっちがばしばしひっぱたきたくなる。でも妙に色気があって、いかにもな魔性の女、同僚の伸子がついホレてしまうのも判る気がするというか。
伸子を演じる平沢里菜子氏の魔性っぷりは群を抜いている。その魅力を生かしたいくつもの作品を思い浮かべることができる。そして可憐な妻、久恵を演じる薫桜子氏も、当時何度もお見かけした引っ張りだこの女優。
そして岡田氏も。この当時は本当に……こうした個性的な役者陣と作り手が沢山いて、良作を量産していたんだよなぁ。
物語の冒頭、海辺である。紗がかかったような、それは、久恵が見ている夢。海辺に倒れている光夫と、それを見下ろす白いワンピースの姿の久恵。
近頃何度もこの夢を見るんだという彼女の台詞は、ラストもう一度、すべてが終わってから繰り返された時、あまりにも哀しい響きをもたらす。その時、久恵も光夫もこの世にはいないのだから。
おっと、またしてもひっどいオチバレしてしもうた、ゴメン(爆)。久恵と光夫の引っ越し先でのプライベートビデオ映像から始まる。久恵の夢である海辺の一軒家、それと引き換えに光夫は明日から2時間通勤。
それでも二人はとてもとても幸せそうだった。中古とはいえ年若い夫婦には少々贅沢に思えた海辺の一軒家は、海辺の一軒家、という響きだけで、なにか乙女チックなものを感じさせた。
プライベートビデオの中で語られる久恵の内向的な性格、人とうまく喋れない性格は、引っ越し業者には立派に指示していました、えらーい!ぱちぱちぱち!と夫婦二人笑い合っていたけれど、それだけに根が深い気がした。
後に、伸子から夫との不倫を暴露され、あんなに愛していた夫なのに見知らぬ女からの進言一発を信じちゃって(まぁ事実ではあるのだが)、やさぐれちゃって、行きずりの男にレイプされちゃって、だなんていうのが、彼女の弱さであり、それを愛した夫の光夫の責任でもあるように思った。
通勤に2時間かかるとはいえ、年若いのに一軒家を購入まで出来たのは、彼が勤める不動産会社が、不良物件を売りまくり、更に脱税までしているから、なんである。それに加担するのを条件に経理部長に出世した光夫である。
もうこの時点でバカでしょ、と思っちゃう。だって、愛する妻と慎ましく暮らすだけなら、こんな危ない橋を渡ることはない。彼は、愛する妻が海辺の一軒家を所望したから、こんなブラックどころではない会社で、共犯者になることを決断したのだ。アホとしか言いようがない。
わっかりやすくパワハラを見せつける社長は、あまりにも判りやすいのでギャグめいて見えるほどだが、光夫は脱税がヤバいと進言することもできず、土下座すらしてしまう。
こんなアホ社長より怖いのは当然、その事実を握って、光夫に関係を迫る伸子であり、演じる平沢里菜子氏がもう、ほんっとに、ザ・ファムファタルで、こんな女に組み敷かれたら、そりゃ抵抗できないわと思っちゃう。
伸子はつまんない彼氏と別れたいと言い、そして中盤ではその彼氏が光夫を脅しに来て、それを伸子が返り討ちにしたり、なかなかにスリリングな展開がありつつも、散々光夫を脅し、久恵に暴露電話をし、その上でこの彼氏とセックスしちゃってるあたりが伸子、いやさ平沢里菜子氏っぽいわぁ、と思って。
重要なファクターがある。久恵が持つ予知夢という能力である。だからこそ彼女は、何度も見る、海辺に夫が倒れていてそれを自分が見下ろしているという夢に怯えている。
その予知夢は、便秘が解消されるという他愛ないものから、犠牲者が多数出た脱線事故を回避できたというものまで、それを光夫は、表面上は、ただそんな夢を見ただけだというけれど、どこまで信じていたのか。
全てが明らかになってしまい、久恵が伸子から夫の不貞と社会への背信行為を暴露され、彼女が絶望して家出した後、光夫が見たのは白昼夢、だっただろうか。こういう夢の繰り返しは、誰しも覚えがある。目覚めたと思ったのが目覚めてない、まだ夢を見ている、そんな繰り返し。
一度目彼は、久恵に許しを請うてその腰に抱きつくのに成功した。でも二度目、これが現実の時、同じようにコトが運んだはずなのに、久恵は彼に触らせることさえ許さず、すり抜けて二階へ上って行ってしまった。そして……。
少し、時間を戻そう。伸子に脅される形で不倫関係に陥ってしまう光夫。最初、誰もいないオフィスで、最初おどおどと、次第に伸子の魔性に陥落される形で、自ら彼女のオマタに顔をうずめてしまうに至る光夫は、愚かだけれど、なんたって平沢里菜子氏の蠱惑的なリードが素晴らしすぎて、これはどんな男、いやさ女でさえ抗えないと思っちゃうほど。
プレゼン能力とでも言いたいぐらい、自分の感じやすさ、すぐパンティーがびしょびしょになっちゃうの、ほらこんなにヌルヌル、こんなに柔らくなってる、とあの挑戦的な小悪魔フェイスで言われたら、降参するしかない。
彼女は更に後半、嫉妬に狂って久恵に電話するシーンがあり、そこでは見事なまでのスッピン、それまで完璧にメイクアップして、魔性の女を完璧に作り上げていたのが、眉毛ない能面フェイス、普通なら幼く見えそうなところが、かえってドスがきいていて、覚悟が見えて怖いのだ。
結局はすべての場面できちんとメイクをし、貞淑な奥さん像を崩さなかった久恵=薫桜子氏との対比がそこで最も現れた気がして。
そう、予知夢、予知夢だ……。社長はたわむれのように、税務署に感づかれる予知夢を見てくれないかな、なんて言っていた。結果的に伸子の内部告発によってその悪事は暴かれることになるけれど、その時点で既に、光夫はそんなことはどうでもよくなっていたのだ。
あれほどその露見を恐れていたのに。恐れていたのは、そのことによって、幸せな家庭生活が崩壊するからなのだった。砂糖菓子のように、はかないそれは、そんな俗な事実が露呈するより前に、とっくの昔に、崩れかけていたのかもしれないのに。
会社の汚職と、夫の不貞にショックを受けて、久恵は家を出てしまう。行きずりの男と酒を飲んで、送り狼でレイプされてしまう。一瞬、彼女の頭に夫の不貞がかすめ、隙を見せてしまったことが、彼女をどれだけ後悔させただろうと思う。
でも久恵は、あくまで夫を糾弾することを選んだ。それが間違っているとは思わないけれど、でも、せめて、話し合いが出来ればと思った。二人は、おとぎ話のような、海辺の一軒家に幸せを求めてしまったから、そしてそれを守るために、夫は自分に言い訳して、仕事にも、女にも、隙を見せてしまったから……。
夜遅くに帰ってきて、つかの間の時間を過ごすばかりの夫婦生活。愛し合っている筈なのに、いつしかすれ違いになっていたかもしれない自分たちを見ぬふりをしながら、過ごしてしまった。内向的な妻を守るつもりで、彼女が本当に求めていたものが見えなくなっていたんじゃないのか。
だったらそれがなんだったのか、というのは難しいけれど……。劇中、海辺でたわむれながら、海外旅行しようか、それとも車を買い替えようか、だなんてイチャイチャする場面がある。
でもその場面からふっと、光夫が消えてしまい、久恵はそこから……あの夢をまた見る、見てしまう。海辺に倒れる光夫を、自分が見下ろすあの夢……。
夢と現実が交錯する、その中で、特に久恵が元々持っていた自分の能力ということもあって、先読みをしてしまう。
一方で光夫は、どうだっただろう。いつしか久恵がどこかに行ってしまうんじゃないかという恐れがあったんじゃないか。だからいつでもムリをして、ブラック企業だと判っていながら出世を選び、背伸びして一軒家を購入した。
つまりは……すべてが妻のため、言いかえれば、妻のせいで、自分の人生を犠牲にしたのだと、納得させていたんじゃないのか。
イケイケ魔性の女、伸子とのオフィスやラブホでのセックスや、パワハラ社長が秘書と楽しむセックスは、こうこうと明るい中で展開される。でも、久恵と光夫、夫婦のセックスは、彼らの中に漂う、夢想感の中に常にある。
深い青の中に沈むセックスは、海の底のようで現実味がなく、光夫が出て行った久恵を迎え入れる夢を繰り返し見た時のように、抜け出せない沼のようだ。
久恵と光夫は、結局相容れず、ケンカして、階段から久恵が転落してしまった。なぜ、なぜ救急車を呼ばないの。倒れて動かなくなった久恵に動揺して、獣のように慟哭して、そんな事情とも知らず威勢よく乗り込んできた伸子に、息も絶え絶えに光夫は、(彼女が持ってきた鈍器で)、俺をぶん殴ってくれないかと言った。獣のように、慟哭しながら、そう言った。
伸子は、あんなにもイケイケの、怖いもんなしに見えたのに、怖気づいて、逃げ出した。でも思い返し見てみれば、ぶん殴ってくれとしか言わなかった、殺してくれとは言わなかったことが、ほんの少し胸に引っかかった。でもそれはラストであっけなく回収されてしまう。
光夫は、ふらふらと出向く。海岸で膝を抱えている。警察官と刑事が、職質する。ぼんやりと顔を向けた光夫、警察官の拳銃を瞬時に奪って自らの胸を打ち抜く。
そして……冒頭、その後も何度も繰り返された久恵が見ていた夢。あれは……久恵が既にこの世のものではないところから見ていた場面だったのかと、ようやく判り、愕然とする。あんなにも、光夫の運命を気遣っていたのに、その場面で彼女自身、そして彼もまた、天に召されていたなんて。
スピリチュアルな世界観、この当時の社会の感覚、役者さんたちの雰囲気たっぷりの魅力が素敵。当時の新東宝の実力が詰まってて、だから、さみしいなぁ。今、それは、ないんだもの。★★★☆☆
二組カップルがいて、一時的に目の見えなくなるのは片方の男性の方、そしてもう一組のカップルの方の女性と運命的な出会いをするのだけれど、後にその女性は声を失ってしまい、二人はすれ違ってしまう……なんというドラマティック!
そしてその男性は若き日の川瀬陽太氏であり、髪もふさふさだし(爆)、声も若い!現代ピンク映画に出会った時から川瀬氏はピンクのトップ男優であった。これまた胸アツなんだよなぁ。
二組のカップルは共に、上手くいっていない。川瀬氏演じる敦は同棲している恋人ひさみに無関心、パソコンでデザインの仕事に没頭している、のはまぁ感心なのだが、ひさみが外で飲んで帰ってきて、誰と飲んだか気にならないの、といら立っても、めんどくさそうに生返事。
その後ピンクだからカラミに突入するが、まるでぼんやりと彼女の騎乗位に無表情なのは、うわぁ……女子がそういう顔をしているツラさは見たことあるけど、男子のこの顔を見せられる女子のツラさはないわなぁ、と思う。そしてひさみは出て行ってしまう。
恐らくその時点で敦は、めんどくせぇなぁ、ぐらいに思っていたんだろうことが、その表情と、うっとうしげに手紙をおしやってしまう様子で判ってしまう。
でも思いがけないことが。仕事のデータを届けようと外に出た、接触事故で車の割れた窓ガラスの破片がクローズアップ、カットがかわると、敦の目は包帯でぐるぐる巻きになっていて、一週間ほどかかると医者から告げられる。
生活の方は……と問われてとっさに、家族がいますから、と敦は答えてしまう。ひさみに出て行かれた矢先だというのに。
家族、というのがいない訳はなかろうが、ピンクがミニマムな人間関係で描かれることが多いことを思っても、敦という青年の、それまでのワガママな考え方で押し通してきたキャラクターが、たとえどこかに家族がいたとしても、彼にとってはいないに等しい、のではなかろうか、と想像してしまう。
仕事相手に電話してみても事情を説明することさえできず、窮した彼がかけたのは電話番号案内。その電話に出たのがもう片方のカップルの女性、聡子なのであった。
実は電話番号案内の基地局はその土地の近くではなく、南の離島とか遠くにあるのだということを最近聞いたことがあって、だからこの設定はあくまでファンタジーなのだが……そうよね、近くにあるにしたって、めっちゃ近そうだもの……まぁそんなことを言うのはヤボ極まりない。
聡子は、敦から助けを請われ戸惑い、苛立たし気にぶった切られて憤りはしたけれど、彼の元を訪ねた。それは……聡子もまた、夫との関係に行き詰っていたからであった。
一度、出て行った夫。どうやらそれは、誰かほかの恋人ができたからなのか。戻ってきた夫を、聡子は許すことが出来ず、求められても拒否するばかりだった。
だから、こっちのカップルのカラミはないんだよね。敦とひさみの方は、一方的にひさみが敦を苛立たし気に押し倒して、というのが一回、出て行って戻ってきて、今度はちょっと心を通わせて一回、というのがある。
聡子とその夫とは、夫がいくら仕掛けても聡子がバイキンにでも触れたかのようにひどく拒否するから、至らない。至らない末に、ラストシークエンスで夫に首を絞められて声が出なくなるに至っちゃう。
この夫は、そのバックボーンの事情が想像するしかないもんだから、なんだかちょっと可哀想な気がしなくもないんだけれど……。
バックボーンが判らないから、聡子が毛虫のように嫌いまくるのが、そして夫が、どうしても自分を許さないのか、と苦し気に吐露するのが、なんか夫側に同情する気持ちになってしまう。
その結果として、いらだった夫が、しかも愛する妻に男の影が見え隠れしたことで激高し、馬乗りになって首を絞めてしまい、妻の声が出なくなってしまって……だなんて。
そしてどうやら妻は当然、完全に夫に心を閉ざし、他の男の元に行ってしまった、と夫側から考えると、か、可哀想かも……と思っちゃう。
でも本作は何より、視覚を失った男と、声を失った女という、それがタイムラグで起こるというドラマティックにこそ満ち満ちている。番号案内で苛立たし気にブチきられた、それこそ声だけの敦が気になって、聡子は彼の元を訪ねた。
もちろん、夫と不仲であるフラストレーションもあったと思うけれど、やはりこれは運命の邂逅であったというしかない。実際に目にしてみれば、電話口の苛立たし気な青年であった敦はすっかり恐縮して、そして聡子の助けに感謝しきり。
足代だけでも、と言われて敦の財布から結構な額を抜き取った聡子だけれど、次に訪れた時には、買い物に行くから、と彼の財布を預かり、その抜き取った額を戻し入れた。
そして、二人の、ほんの数日間、なのだけれど、とてもとても心に染み入る。数日間、だから、彼らがセックスに至るまでは確かに短いのかもしれないけれども、目の見えない敦が、聡子の声だけを頼りに信頼と愛を育むさま。
聡子の方は彼が見えているけれども、自身は声と気配だけでいわば勝負、というか、自分を信頼してもらうべくのスタンス。
そしてそこに、ああ、太宰治だなんて。「ヴィヨンの妻」を、聡子が敦に朗読して聞かせるのだ。
読んでいた筈だけれどなんか忘れていたので、改めて読み返してみると、さっすが太宰な、自身を投影したとおぼしきクッソ男とその妻の物語で、聡子の夫を想起させるのはもちろん、敦もまた、パートナーの女性にとってのそんなクズ男としてカスる部分はあると思われる。
敦は視覚を奪われているから、聴覚がどんどんセンシティブになると思われ、聡子が「ヴィヨンの妻」を朗読し始めるとさらにその魅力にとりつかれていく。
それがね、外のロケーション、広々とした草っぱらとか、海岸とか、そんなところで繰り広げられるのがとてもいいのだ。ベンチで隣り合って朗読していたのに突然彼女の気配が消え、戸惑う彼に、こっちだよ!!とでもいうように、遠くで朗読する、その彼女を追って、手探りで進む彼、近づいては遠のき、それを繰り返し、わっ!と転んでしまう彼に慌てて駆け寄る彼女、うっそだよーん、みたいに、笑いながら彼女と抱き合ってゴロゴロ転がる。
なにこれなにこれなにこれ、めっちゃキュンと来ちゃうんですけど!!でも、でもそう……彼はまだ、彼女のお顔を見ていない。
でもそれは、五感のうちの一つに過ぎず、五感どころか、セックスで愛し合っちゃってるんだから、それ以上に愛し合いまくっちゃってる筈なのに、たった一つが失われているだけで、なぜこんなにも決定的に、すれ違ってしまうのだろう。
敦は、包帯がとれる日を心待ちにしていた。聡子の顔が見られるその日が来るのを。なのに運命は残酷というかイタズラというか。一方で聡子は夫とのいさかいで声が出なくなり、敦側は思いがけず、出て行ったひさみが戻ってきた。
ひさみは、きちんと別れを言うべきだったからとその理由を述べたけれど、思いがけない敦の状態に驚き、そして彼の人間性が様変わりしていたのを目にして、よりを戻すような雰囲気になる。
正直な感覚で言えば、敦はこの時、ひさみに、聡子と突然連絡が取れなくなったにしても、その間のことを言うべきだったと思うし、言わないままにひさみとセックスするとか、ないわと思ったし(まぁそれは……ピンクだからね、とも思うが……)。
カセットテープ、なんだよね。この近年、エモいアイテムの代表格のように言われるけれど、20年前のこの時は、え??あったっけ?と思ったり……。もちろん、私の青春時代ではマストアイテムだったけれど、20年前にはもはや……どうだったっけ?
聡子の朗読したテープを、ひさみが発見、敦が変わったのは怪我のせいではなく、私の知らない女性の存在だったのだと、だから私はやっぱりて行くね、と敦に手で目隠しして、そう告げて、去っていく。
本作はなんたってタイトルが着信音だし、ガラケー時代ではあるけれど、携帯電話の恩恵にあずかってあれこれの情欲が熟成しだした時代だったと思う。
タイトルである出会い系は、冒頭、聡子がクサクサした気分を発散したんだろうと思われる、赤の他人とのラブホでのセックスを映し出すのみで、着信音がどうのこうのというのもないし、こーゆータイトル付けはいかにもピンクだなと思うんだけれど……。
ホントにね、そんな、デジタルとか、現代のコミュニケーション方法とかは全然、というのはアレだけど、ほっとんど影響してなくて、まさしく、人と人、恋人、夫婦の、気持ちの探り合い、ぶつかり合い、なんだよね。
人間の、ことにパートナー同士の闘い、ぶつかり合い、っていうのは、パソコンやスマホは多少の手助けというかスパイスになったとしたって、やっぱり生身じゃなきゃ、と思う。
そして、視覚や、言語を奪われた時に、それでもそれでも、出会い、求め合い、愛し合うのだということを、私の大好きな大好きな太宰の朗読で、示してくれるというのが、めちゃくちゃ胸アツだった。
太宰はホントしょーもない、どころかクズ男で、彼自身を投影したクズとしての夫(現代で言えば、パートナーとしての相手)がダイレクトに示されているのが聡子の夫であるけれども、すべての登場人物に、少しずつその、クズっぷりはあるんだよね。
太宰が好きで、勉強していた時は気づけなかったけど、誰かに投影して、コイツがクズだと思うけれど、でもそう思う自分自身、そして誰しもにも、あるんだと、気づいた時に成長できるし、誰しもに優しくなれる。この年になって、そんなことを思っちゃったりする。
一時的にせよ視覚が失われる男、声を失われる女。すれ違いの描写、歩道橋での、電車の中でのすれ違いに、ドキドキしまくった。
下の名前を教えて、と敦が聡子に言った時、てのひらをとって指で名前を書いたのが、ラストに来たか―!!とグッときまくった。こんな若い時から川瀬氏は素敵な作品に恵まれて、印象を残しているんだなぁ。★★★☆☆
その言葉はまるで真実を言い当てていない。ここに集っていた三人は確かに親子のような年恰好だったけれど、誰一人、何のつながりもないのだった。
だって冒頭、いきなり親子の縁が断ち切れる。ユリ子は、愛する娘が無残にもトラックの下敷きになっている様を目の前にする。
その冒頭のシーンから、ピンクならではのクラシカルなフィルムの手触りの画、マットな寒色で、田舎のずっとずっと果てしなく続くだだっ広い道を、ぐっちゃぐちゃの走法で必死にかけていくユリ子。それ以降も一言もしゃべらないのに感情が爆発しているし、もういちいち画の魅力にあふれているのだよね。
誤解を恐れずに言えば、血の跡を引きずった事故現場、転がったランドセル、エンジン音を途切れなく響かせる軽トラ、遺体は見せないのにその残酷さが妙に美しく迫ってしまう。
ユリ子、という名前なのは、離婚届を書き入れるシーンで知れるが、その後の登場人物は、データベースによって知るんであって、だって喋らないから。
ユリ子は恐らく、もともといた土地からはあてどなく離れたのだろうな、それでも、どこに行っても同じような、という、こちらも寂しい地方都市に流れ着く。ふと目に入った弁当屋で求人が貼ってあった。弁当をほおばった次のシーンではもう、白衣を着てその弁当屋に勤めている。
はげちらかして太った店主(ゴメン!でも、こういうキャラは森羅万象氏、バツグン)が一人切り盛りしている。こ汚い厨房を見てしまうと、ここの弁当を買うのはちょっと……と思ってしまうような、まな板もきったない、そんな町はずれによくある弁当屋。
店主は妻と娘の三人暮らしだけれど、妻は重度のアル中、娘はそんな両親を見限って、会話もしない。いや、登場人物全員、会話はしないんだけれど。
この妻が、ほたる氏、私にとっては葉月螢氏!!私にとって、ピンク映画に出会った、その衝撃の出会いの時のまさにミューズ。女優さんの活動期が短いピンク映画の中で、ときどき彼女のように、思いがけず帰ってきてくれると本当に嬉しく、感慨深い。
重度のアル中。飲んでいるのはホワイトリカー。本来ならウーロン茶やなんかで割って飲むための、お酒の美味しさを味わうものではない、素材を邪魔しないもので、つまり……ああなんか、酒飲みとしては、本当に悲しいのだ。酒が可哀想。こんな風に酒を飲んでほしくない。
黒マジックでのむな!!と書いたのは誰なのか、ご主人なのか、本人なのか、娘なのか。その誰も、そんなことを書きそうにないけれど、ダンナが一番可能性があるように思うのは、もうすっかり諦めているように見えて、つまり夫婦仲なんて望むべくもないから、ほっといているように見えて、彼は奥さんのこと、めちゃくちゃ愛していたんだと、思い至る展開があるからなのだった。
もうこっから先もてんこもりだからさくさく語らなきゃいけないんだけど、もう濃すぎるから!!
店主はね、ユリ子に欲情して厨房でレイプまがいに関係を持つ。気まずげに渡したのが五千円札というのが、ショボいっつーか、見合う金額だったらいいのかとか、いろいろ考えてしまう。あとから思えば二人は……時間差はあるけれど、愛する者を亡くした同士、になるんだもの。
おっとさっそくオチバレだけれど、アル中奥さんは、ツバメをラブホにくわえこみ、酔っぱらってホテルの浴槽に沈み込んで死んでしまうんである。
そのツバメは娘の家庭教師。その性欲を娘で満たそうと思うも拒否されたところに、酔いどれお母さん登場、二人の性欲が合致して、そーゆー関係に至るのだが。
一方でユリ子には出会いがある。弁当屋に買いに来る一人の男。町に貼ってある指名手配犯に、データベースでは“似ている”という表現にとどまっていたが、そうなのだろうか??
いわゆる思想犯として追われている男、として町中に貼ってあるポスターに酷似している男。ユリ子はポスターの男に似ているから惹かれたのか、それとも……。
二人分の弁当を買い求める男が気になって、明らかにストーカーめいた尾行をしてついていくユリ子が目にしたのは、だだっぴろい草っぱらに停めた軽トラにオンナという赤ちょうちんを下げて、つまり自分の女に売春をさせている様子だった。
安っぽい赤いスリップを身にまとって、客から受け取った一、二枚のお札を彼に渡す女、空き缶に大事そうにそれをしまう男。そして、買ってきた弁当を仲睦まじそうに食べる二人を、ユリ子は遠くから見つめている。
ある日、気まぐれになのか、器用な手先で針金細工のネコをプレゼントされたユリ子、それに嫉妬した店主ともみあいになり、いつも以上にレイプまがいの交合になる。誰が誰の所有物なのか、想いを確かめ合ってさえいないのに、五千円の虚しさがからまりあう。
店主の奥さんが死んでしまって、ユリ子が黙って香典を渡したあの時、店主が思いがけず、慟哭して、正直ビックリしてしまった。奥さんは手に余る存在として、見て見ぬふりをしているんだとばかり、思っていた。
でも確かに、そうにしては、お互い試すように接触を繰り返していた。何も同じテーブルで、かたや弁当を食べ、かたや酒を飲んでいなくてもいいのに、わざわざ顔を突き合わせていた。
店主はユリ子と、奥さんは娘の家庭教師と、本当は愛してる同士でしたいのに、見ないふりしてふけっていた。ということなんだと思う。そう思いたい。
奥さんが死んで、獣のように泣きじゃくった店主、その後行方をくらまし、チンピラに殴り殺された、のだろう、と思われる(このあたりから、フシギ要素が容赦なく入ってくるから……)彼は、きっときっと、奥さんのことを本当に愛していたに違いないと思う、思いたい。
思えば本作は、やたら人が死ぬんだよね。冒頭のユリ子の娘、店主の奥さん、奥さんに死なれた店主がなんかおかしくなっちゃって、オンナ赤ちょうちんの客となった先で、そのオンナの首を絞めて殺してしまうし。
そっからの展開はよく判んないんだけど……店主は顔中包帯男になって、チンピラに娘が襲われそうになったところを助け、その後に襲撃されて、そして娘もまた……殺されてしまったのか。
オンナという赤ちょうちんをさげて、自分の女?に売春をさせていたあの男は、一体なんだったのだろう。岡田智宏氏。もー、何とも色っぽいイイ男。こーゆー、女にこーゆーことやらせちゃって、なのに他の女にもホレられちゃって、みたいな、罪な男がめちゃくちゃ似合う。
指名手配犯に似ていた、というだけにデータベースでは書いていたけれど、やっぱりやっぱり、なにがしかの事情があった男、だったんだよね??だって、拳銃を持っているんだもの……。
その拳銃の使い方を、ユリ子にレクチャーする。廃工場のようなところにもぐりこんで、みかんだかデコポンだかを標的に練習させる。
それは、なんのためだったのか。彼自身をユリ子に殺させるつもりだったのか。売春させていた自分の女が死んでしまった時、首に巻き付いた電飾コードを呆然として外していた彼に、そんな雰囲気はあるような気もしたけれど……。
そんな具合に、後半になるとがぜん、展開が難解になる。哲学かしらんと思うぐらいになる。店主が行方をくらます。行き場を失ったユリ子が呆然と店のシャッターの前に座り込む。茫然と向かうのはあの男のもと。そして娘もそのあとを追う。
そして三人、逃避行の旅に出る。軽トラ。ユリ子の娘が轢き殺された軽トラが頭に浮かぶ。あの時、運転手がどんな人だとか、示されることはなかった。ただ、引きずられた血痕、放り出された赤いランドセル、血まみれのお守り、それだけだった。
ユリ子はそのランドセルとお守りを身につけ続けていた。店主とがつがつのセックスしているのに、普段はお守りを下げた赤いランドセルを背負っている。そして彼女的に喪服な気持ちもあるのか、超ミニスカートではあるけれど、黒いワンピースを着て。童顔の朝倉ことみ嬢の風情も相まって、何とも言い難い気持ちになる。
なんともシュールな画だが、不思議に哀しい美しさに満ち満ちている。全く声のない作劇の中で、愛している同士ではないセックスの喘ぎ声ばかりが、時にレイプまがいの拒絶声だったり、酔いどれ性欲マックスの、つまり渇望を酔いに紛らせた寂しき渇望の声だったり、静寂の作劇の筈なのに、本当に耳を覆うばかりの喘ぎが、哀しすぎる。
三人の逃避行の旅で、店主の娘、設定としては高校生が参戦し、ユリ子がほのかに好意を寄せていた男と三角関係になったりする。その時、ユリ子はひょっとしたら軽蔑していたかもしれない、その男のオンナ、売春をしていた女の替わりとなって、赤いスリップで客をとっている。
その女は、あの店主に絞殺され、男は……どうやら、バラバラに切断して、ドラム缶で焼却した、のだろう、そんな衝撃の展開が、絶妙な距離の引きの画面で示される。
それでも、それでも、っていうか……ここに登場するすべての人たちがそうなんだけれど、そんなんやめてよ!!というやり方するのに、愛していたんだろうと、不器用っていう以上にバカっつーか、不運っつーか、どうしようもなかったけど、愛していたんだろうと思わせる哀しみに満ちていて、もうどうしようもない。
ラストシークエンスはなんか突然、SFみたいになっちゃって、未知の生命体から緑の赤ちゃんが産まれ出ちゃったりして、ええ!?そらないだろ!と困惑しかないのだが……なんでいきなりそうなるのと思うしさ。
まぁ登場人物のキャラ造形があいまいな部分が大きかったから、追及する側としても難しいっつーのもあるし。哲学的、詩的、情感や思想の問題をたっぷり感じさせる魅力にあふれてて、でもラストでいきなり、みどりの赤ちゃん、って、と困惑させられる。でもそんなところも、ピンク映画っぽいかもしれないな。★★★☆☆
だってね、もうどうにもたまりかねたように、三人の観客が途中で出て行ってしまった。ここまでなんとか見たけど、もうこれは限界、という雰囲気がありありだったし、めっちゃそれが判ってしまった。
私の前の席で見ていた初老のご夫婦と思しき二人、こそこそと話し合って出て行き、その5分ぐらい後に、今度は私と同年配ぐらいの一人で来ていた女性が、ポップコーンまで買っていたのに、出て行った。これはさ……相当なことじゃなかろうか。
なにがなんだか、判らないんだもの。解説を読むと宮子はアロマ店を営んでいるという。そんなこと言っていたっけ?と思うが、そんなことは確かにどうでもいいことだ。
ススメ、という名前さえ言っていたかどうか、歯科医をしている彼は誰からも先生、と呼ばれる。ザ・コミュ障の彼は同僚ともろくに口がきけない。毎朝毎朝、受付の女の子に目をぱちくりされる描写が繰り返される。
そしてススメが向かうのは、鍵のかかっていない古びたアパートの一室。アパートの一室なのにうっそうと植物が茂っている。鉢物なのだろうけれど、それが判らないぐらい、密林のようにうっそうとしている。
その床に無造作に鮮やかな柄の布地を敷いて、体育座りしたり、寝転がったり、ススメと宮子は哲学的とも思えるような会話をしんしんと、実にしんしんと続ける。
これが、魅力的に思えたら良かったのだけれど……いや最初は、魅力的だと思った。この空間の謎めいた美しさは確かに唯一無二だし、恋人なのかどうか判然としない二人の距離感と、味覚や視覚の思い出をしんしんと話し合う様子は、心惹かれるものがなくはなかった。
しかし、しかしね……限度があるよ。繰り返し繰り返し、こんな具合の彼らの様子、その会話は、あまりにも繰り返されるから結局は意味のないものに終始しているように思えてくるし。暗いアパートの階段を何度も何度もめぐりめぐり、同じ青いドア、101のドアに行きつくススメ、ススメだけじゃなく、様々な男や女。
こう書いてみればスリリングな展開じゃんと思うのだが、描写は、特に中盤までがキツい。ススメと宮子のゆっくりとした会話シーンがどんどんキツくなってくる。ことに宮子の、やたらゆーっくりとした喋り方が、これは何、キャラ付けなの?謎めいた存在にさせたいの??これが特にもう……受け付けないことこの上なしで。
それは私の感覚なので、出て行ってしまった三人の方々に、どこでもうダメと思ったのか、実に実に聞きたいところなのだが。
お二方が出て行かれたのは、ススメと宮子と、宮子が連れてきた蓉子と共に小さな劇場でお芝居を見て、そのお芝居の感想のことで言い合うシーンが終わってからだった。メッチャ判る、私もここで出て行きたいと思った(爆)。
断片的に示されるだけのお芝居だから、それをうんぬんするのはアレだけど、その断片的なお芝居が壊滅的につまんない(爆)ことがまず前提。
宮子が劇団員たちと懇意な仲で、楽屋に挨拶に行き、良かったよ、だなんていうもんだから、ススメはかみつくんだけれど、彼らの意見の相違は、劇中のキリン男の存在意義について、マジな意見を闘わせるのだ。
もうここで観客は置いてかれる。だってクッソつまんない芝居だったじゃん。断片的に見せただけだけど、こんなんを見せられること自体が苦痛だって話じゃないの、と思った矢先に、ご夫婦が出て行かれた。
ああ、めっちゃ判る、と思った。観客が登場人物の想いに一個も共感できなくなったら、もう見ていられないよ。この芝居がクッソだということを言って笑い合ったなら、そこで立て直せたけれど、そういう物語じゃなかったんだものね。
蓉子が登場してからは、少しホッとする。蓉子は宮子の友人だけれど、宮子と付き合うのは大変でしょ、とススメに意味ありげな笑みを含めて進言するように、私たち観客がわに優しい(爆)俗世間の人間である。
ススメと寝るし、ちょっとした三角関係な雰囲気もなくはないが、でも違うよね。宮子は、ススメのことを恋人だと思ったことは、きっと、ないんだもの。
でもこのあたりも……とにかく宮子は謎めきまくっていて、そういう描写に終始していて。ススメがひき逃げされて骨折したと言ったら、友人から借りてきたという車いすを持ってくる。
その友人というのは誰なのか、宮子に恋するあまりススメが見た、宮子が車いすの男性を押しているある夜の風景は幻覚だったのか。
正直、やたらゆっくりゆっくりの宮子の台詞回しと、同じシチュエイションがしつこく繰り返されることに疲れ果て……判ってる、それこそが、そういう目的の表現だってことは判ってるんだけど、それにしてもしつこすぎる、限度があるでしょ、と思っちゃう。
限度、って言葉はさっきも言ったかな……芸術的表現で、ゆっくりとした台詞回し、何度も繰り返されるシチュエイション、そのことによって意味づけをする、っていうのは、ある、判る。でも、それを観客側が負担に感じてしまったら、それは違うと思う。
そりゃね、表現の自由はあるし、高度な芸術をおバカな観客が受け止め切れないってことは、あるのかもしれない。でも、映画、いや、映画に限らずすべての創作物が、受け取る観客なり購買者なりによって成り立っているのなら、と思う。
先鋭的で観客がついてこれなかった、というパターンも、過去を振り返ればあるにはあるが、正直そうではないと思う。かえって、古いアートシネマを意識して、伝わらないまま終わったように思える。
ススメの母親は、恐らくレズビアンのパートナーがいる、ということなのだろう。ススメは母親から、話したいことがあるという再三の連絡にも、自分自身がそれどころじゃないせいなのか、スルーし続けている。しかし母親の方は、そのパートナーと共に車で乗り付けて、買いすぎたから、とパンをおすそ分けするというあっけらかんさである。
後半、宮子の呪縛から自らの努力によってもあって逃れ、インスピレーションで長崎への移住、再出発を決めたススメが、母親とそのパートナーとホームパーティー的な会食をする場面、ここに来てああようやく、なんか普通の映画になった、とホッとしたりするのは、それはそれで間違っているとは思うんだけれど。
ススメが今で言うところの、コミュ障であるというのこそが本作の大前提であり、キーポイントである。
冒頭、セミナーに参加しているススメと上司、上司はその後、同僚なのかかつての同輩なのか、に合流し、じゃあおつかれ!とススメに手を振る。一緒に飲むかとか、そんなことは皆無なのが、ススメという人の外との関係性なのだということが一発で判る。
そんな彼が、宮子とどうやって知り合ったのか、なんてことはまぁどうでもいい。密林のような宮子のアパートで触れ合う日々は幸福だった。
なのに、そこに現れる他の男、ベランダの物置に隠れてそれをのぞき見している哀れなススメ、その描写もひどくしんねりと長くて、のぞき見するススメの目が、ぼんやりとソフトフォーカスされて、延々と、本当に延々と、のぞき見の目玉が映し続けられるもんだから、もう眠くなっちゃう(爆)。
これがね、例えば20分ぐらいのアート映像作品だったらアリなのかもしれない。あるいは、ソクーロフとかタルベーラとかいう、有無を言わせないアート作家なら説き伏せられただろうが、シネコンで、しかもデビュー作公開では、難しいよ、やっぱり……。
ススメのあまりにものコミュ障、職場で同僚にも、患者にも、言い様のない距離感がある。患者から、ある場所で先生を見かけましたよ、といシークエンスが印象的である。ススメには、その場所にいた覚えはない。行ったことすらない。その患者は、おかしいなあ、確かに先生だった。声をかければよかった、とまで言う。
そばにいたアシスタントが、それは生霊じゃないですか、と、これは冗談めいた気持ちだったのかもしれないけれど、思いがけず患者さんは、そうかも、死んだ筈の友達を見たこともあったから、なんて言いだす。
それはつまり、それはつまり……ススメはもはや死んでるぐらいの生命オーラのなさすぎ、なのだろうか??確かに先生だったと言い張るぐらいの誰かが、違う場所にいた、だなんて、ドッペルゲンガーじゃないか。
でも、そんなことが起こる雰囲気が、本作には満ち満ちている。そういう雰囲気を、そういう方向性を楽しめて見ていられたら、こんなにイライラしなくて済んだのかもしれない。
宮子の部屋で、男が死んだという。遺書があったから、自殺だという。それをススメに告げに来る蓉子。このあたりの後半のシークエンスにくると、こんな具合に大きな動きがあるので、中盤まで強いられた、いわばゴーモンゆっくり会話劇からは解放される。
それまではずっと静かにしていたススメがなんか急に激高するのにはビックリしちゃうし、手練手管っぽい蓉子とのやりとりも、まぁこれまた、やりたかったんだろーなー、みたいな、側溝を挟んでの長回し的ぶつかり合い、側溝のあっちとこっちで、細い橋渡し通路を行ったり来たり、みたいな。
宮子のゆっくり感とは違うけど、蓉子に課せられた、私、全部判ってるけどね、みたいな、負け感たっぷりなのに、強く出なくちゃ自分を見出せない、そんなキャラもまた、ここに至るとかなりしつこくて(爆)。ツラかったなあ。
半世紀も生きて来ちゃってるのに、こーゆー作品を理解し、堪能できるような、大人な人間になりたいと思っちゃうのはどうなの(爆)。うーんでも、やっぱり違う、違ったと思うんだよな。
解説に行間という言葉が使われていた。行間はあくまで、文章スタイルの作品に当てはまるものだと思う。それを言い訳のように映像作品に使ってしまったら……もちろんそれが、作用する作品ならと思うけど、本作は、きっと違うと思うよ。
試写室ではそんな人はいないだろうけれど、劇場で、たまりかねて出て行く観客がいる、そういう事実を思って、自己実現だけじゃなく、観客に届く映画を作ってもらいたい。★☆☆☆☆
滝藤賢一がドラァグクイーンかぁ、それだけで観る価値ある。滝藤氏演じるバージンはスランプなのか何か思い悩むところがあったのか、かつては伝説のダンサーだったのが、もう一年ほど踊らずにいる。
伝説のダンサーだということが知れるのは、このネット時代、郡上八幡という地方都市の女の子にまでその存在が知れ渡っていることが後半、知れるからなんである。
しかしなぜ踊れなくなったのか、その事情は明かされることがなく、克服してもう一度踊ることもない。ちょっと、消化不良の感はあったかもしれない。
てゆー、またしてもどーんと先走ってしまう私の悪い癖!物語の始まりは、モリリン(渡部秀)からの電話である。踊ることからは遠ざかっていたけれど、自宅でのダンスレッスンは欠かさないバージンの元にかかってくる電話。
それは、バージンたちにとってボス的存在のなっちゃんの死であった。とるものもとりあえず駆けつけるバージン。
モリリンはなっちゃんが営む、あれはバーというか、なんだろ、店の全景がイマイチ見えないし、なっちゃんの死から話が始まるから、店がどういう形態だったのか示されないのでよく判らないんだけれど、つまり飲ませる店で働いていて、なっちゃんの死によって店のこの先も判らないし、なによりなっちゃんのことを、具体的にはまるで知らなかったもんだから、魂だけでつながっていたから、途端に彼らは困ってしまうのだ。
もう一人、売れっ子オネエタレントでもあるズブ子(前野朋哉)も合流するけれど、誰もなっちゃんの家すら知らない。葬儀屋からお身内の方ですかと問われ、思わずうなずいてしまったモリリンはバージンからたしなめられるけれど、この問題はLGBTQが急速に浸透してからも常に議論されるところなのだ。
婚姻関係を持てない彼らは、パートナーとして暮らしていても、こういう状況で、公的に関われない。なっちゃんは一人死んでしまったけれど、パートナーなのに死に際に病室にも入れないという話はよく語られるところである。
この問題に関しては、本作のキモとなるところと思われる(仲間なのに、実際生活に踏み込んでない、踏み込めていない)のだから、ちょっと物足りない気持ちはしてしまう。
秘密主義だったなっちゃんは、自分がオネエであることを家族にも隠していたから、仲間に自身のナマを出すこともなかったというのはそうなのだろうが、だったらだからこそ、その寂しさの根源を、掘り起こしてほしかったと思う。
そもそもなっちゃんが自身のアイデンティティを秘匿していたというのは、あいまいというか……。もちろん、性自認において同じ仲間たちと共有していたことはそうだけれど、家族に対してはどうだったのかまで、バージンたちは知らなかったし、踏み込まないことが礼儀だと思っていたんだろう。
でも結局、お母さんは知っていた、それはカミングアウトしていたんじゃなく、母の直感だったのかどうなのか判らないけれど、性自認のカミングアウトにせよ、バージンのスランプにせよ、そして何より、タイトルロールであるなっちゃんがどう生きてきたのかが全く見えないから、結構もやもやしたというのが正直なところかなあ。
なっちゃんを演じるのは、つまり死んじゃってるもんだから、遺体と写真だけ、動かない、喋らない、カンニング竹山氏である。回想とかでドラァグクイーン姿を見せてくれるのかな、と思ったが、それもなしで、まさに死んだだけ(爆)である。
これはもったいないというか……まぁ想像で、竹山氏がドラァグクイーンだったらそりゃあ面白そうだなとは思うし、やっぱり見たかったし、これだけ慕われているなっちゃんの、その慕われ証拠というか、エピソードが皆無なので、言葉だけでなっちゃんに助けられたとか言っても、ただ死んでるだけの(爆)なっちゃんに、観客の私らは今一つピンとこないのがツラいんだよな。
そして物語のキモであるロードムービー。なっちゃんのお母さんから、ちょうど郡上おどりの時期だし、実家でお葬式をやるから、ぜひ来てほしいと言われ、三人はオネエであることをひた隠しにし、普通の成年男子三人として弔いに行くことを決心する。
これに関しても、趣旨が今一つ曖昧というか……。なっちゃんに、最後のショーを見せに行きなさいよ、とオネエ仲間から言われてバージンは旅行きを決意する、ということは、カムアウトがその中に当然含まれている、オネエ(と言っちゃってるけど、これは適切なのかどうか……)仲間として、なっちゃんの最期を弔う、という意味合いととれると思うんだけれど、三人はひたすら、普通の男としての喋り方、立ち居振る舞いを特訓し、旅立つのがよく判らなくて……。
お世話になったなっちゃんを見送るために、オネエであることをひた隠しにして、それがバレちゃって、というのなら普通に飲み込めるのだけれど。
一台の車に三人がひしめきあって乗り込み、その道中では、タレントのズブ子がスッピンなのにバレバレで取り囲まれちゃったり、色気ダダもれのマッスルトラック運ちゃんにナンパされたモリリンが乙女のように怖気づいて逃げ惑ったり、恋人から別れを告げられて度を失ったズブ子が二人とケンカ状態、それをハンサムなスーパー店員が、彼は自身、そういう意味合いで彼らを救ったのかを知ってか知らずか、そんなあれこれが描写される。
うーん、ちょっとね、どうだろう……。ドラァグクイーン三人旅、ロードムービー、魅力的と思ったけれど、彼らが遭遇するこうしたあれこれが、あんまり、なんだろう……彼らの性自認に対しての、コミカルにしても軽すぎやしないかしらん、と思ってしまう数々。
私自身、そうした知り合いもいないし、知る由もないけれども、ついこの間、ドラァグクイーンではないけれど、ゲイの仲間たちや恋愛事情を繊細に描いた「エゴイスト」が圧倒的に素晴らしかったもんだから、正直ちょっと、本作が本当に踏み込めているのか、疑問に感じることが度々で。
そう、なっちゃんのバックグラウンドなり、バージンたちに与えた影響なり、エピソードなりが語られていれば、と思ったんだよなあ。なっちゃんはカンニング竹山氏でしか、ないんだもの。
葬儀に参列し、お母さんの挨拶に感涙して度を失って棺桶に駆け寄った三人、押しとどめる参列者、ドカーン!とひっくり返って飛び出した遺体には、スカートが履かされていた。つまり、お母さんはなっちゃんの性自認を知っていた訳で、後にいたずらっぽくお母さんは、私が知っていたことはあの子にナイショね、と唇に人差し指を当てて、笑って見せた。
母は偉大と言ってしまえばそれまでだけれど、この一発だけで済ますには、カミングアウトの問題は大きすぎる。そもそもバージンたちは、ただ弔いに来たのか、なっちゃんの最後のショーを彩りに来たのなら、なにかを考えていたのか。
休憩した宿で、伝説のダンサー、バージンさんの存在が知れ、バージンは踊らなかったけれど、モリリンとズブ子は地元民の前であでやかなドラァグクイーンパフォーマンスを見せ、喝さいを浴びる。バージンは所在なげに浴衣姿で縁側に座り、宿の主人に、すみません、ヘンですよね、と話しかける。
宿の主人は菅原大吉氏。いかにもそうした、ドラァグクイーンには拒否反応を示すかと思いきや、だから遠くから眺めていたのかと思いきや、ゆったりと、余裕たっぷりで、郡上おどりと変わらないだろうと、優しい土地訛りで、言ったのだった。
凄くこれはいいシーンで、いいシーンだからこそ、郡上八幡の、そのカルチャーが、マイノリティーカルチャーに対する理解があるという説得力があればよかったんだけれど、と思う。
正直、郡上八幡に招き入れた、いわばこれはご当地映画感がある割には、郡上おどりの魅力がいまいち……実際のなのか、再現したのか判らないけれど、カメラワークの角度が微妙過ぎて全貌が良く見えないし、三人が腕を組んで踊りの輪に入り込むけれど、踊っているシーンの前にカットアウトして、エンドになっちゃう。郡上八幡まで来てなんだったの、というのが正直なところなんだよなあ。
実際、LGBTQの方にも、オネエさんにも、ドラァグクイーンにも知己を得ていないので言う資格もないとは思うんだけれど、いわゆるオネエキャラに対する一般的イメージを増幅させて、時にうわーうるさい……と耳をふさぎたくなるぐらいのハイテンションだったりして、これって、当事者の方たちが見て笑えるのだろうか……と思ってしまった。
ドラァグクイーン三人を演じるそれぞれはとても素晴らしく、ズブ子を演じる前野氏なんて、いかにもこんなオネエタレントいそう!!と思ったし。
スランプ中のバージン姐さんを演じる滝藤氏はさすがの一言、曲線で出来ているようなたたずまい、指先までの美しさ、普通のおじさんじゃないだろ!という、しなやかなポージングが、バージン姐さん!!なんである。
ドラァグクイーンとして登場するのはつまり冒頭だけ、自室でのトレーニング描写だけなのだから、他は素の、バージンさん自身のしなやかなたたずまいで。男でも女でもないのよ、バージン姐さんなのよ。男か女かなんて、そういうことじゃない、一人の、バージンという人間なんだってことを示していて、さすがだと思ったなあ。
超どーでもいいことだが、宿に集まったギャラリーに応えて、モリリンとズブ子がパフォーマンスする、ズブ子はプロのタレントだということもあってか腋毛をきちんと処理しているが、モリリンわっさわさ生やしていたのが気になったんだよね。
あれは、ネタだったのか、ネタならばそれをツッコむくだりがなければ成立しないと思うのだが。モリリンのドラァグクイーンっぷりが、まるで本物の女子、女優のように美しかったから、あの腋毛がツッコまなければおかしいだろ、という違和感アリアリだったからさあ。気になってしょうがないよ、もう!!
……ていうね、正直、詰めが甘いなあ、という印象だったかなあ。今の時代に繊細なテーマだから、余計その甘さが目立ってしまったのが気になってしまった。コミカルはいいんだけれど、それだけに真摯にテーマを追究してほしいと思ってしまった。★★☆☆☆
昨日のように、だけれど、本作の公開が2005年、実に20年近くが経っていて、登場する監督たちはじめ数多くの関係者が、10年後はどうなっているか判らない、と口にし、その10年後から今はさらに10年近くが経過していることを思うと、なんとあっという間だったことかと……。
本作がピンク40周年の記念的作品として作られ、若松孝二氏や足立正生氏といったレジェンド、そして当時の新進気鋭であった黒沢清氏などを証言者として引っ張り出し、そこに今まさにピンクの現場で苦闘している若き監督として女池充氏を配する。
これまでのスリリングな歩みと、今まさに闘っている現場とを行ったり来たりの構成はめちゃくちゃ見応えがあり、公開当時観ていたら、私、どう想っていたんだろうと思う。
本作中でも言われるように、確かに当時からピンクの製作数はどんどん減っていて、製作会社も新東宝、国映、オーピー、エクセスのみになっていた。
というのはその当時観客として対峙していた私にとっては新しい知識で、正直よくは判っていなかったのだが、それからほぼ20年後の今、オーピーのみになり、去年度など新作は15本にも満たないまでに落ち込むとは……。新東宝がなくなる、というのが驚きだった。当時、傑作の数々はほとんどが新東宝、いうイメージだったから。
数々の興味深いエピソードに惹きつけられる。偶然、同時期に「全裸監督」を見始めて、AVとピンクというのは似て非なるものであるけれど、境遇とか、やっぱり似ている部分は多々あって、そして当時の時代にもあって、いろいろとシンクロして興味深い。
特に、AVはビデ倫、ピンクは映倫による、くっだらない規制に苦しめられているという図式がまんま一緒で、本当に面白い。
性器やヘアに対する映倫の過剰反応は、映画ファンになりたてのローティーン時代の頃にも、フランス映画の新作とかで取りざたされ、そこから愛のコリーダ事件を知り、ピンク映画への興味につながっていったように思う。
今やガチガチのフェミニズム野郎の私だが、子供の頃からぼんやりと、隠されることが逆に差別だと、いかがわしいものだと排除されているのだと、思っていたような気がする。
映倫との闘いの話はすんごく、面白いんだよね。男女のカラミに見えてはいけない、って、セックスがそう見えていけないって時点で不条理なのに。
男女の裸の腰がぴったり密着するのがダメだと。だから角度をずらしたり、セックスなのに男がパンツはいていたり。セックスで一方がパンツはいてるって、と可笑しそうに足立監督が述懐する。
ピンク黎明期は、ヘアどころかおっぱいの乳首もダメだった。それが、特段何の理由もなくどんどん甘くなる。当然、若松監督の作品が海外映画祭で評価され、それを国辱とさげすんだのに国内で大ヒットした途端掌返し、というような、歴史的経緯が変えていった部分はあるだろうけれど。
でもそれこそ、「全裸監督」でも描かれていたように、こうした規制委員会のつまらないこだわりは、おんなじなんだな、と思う。ピンクやロマポルに課せられた、一定のカラミシーン、それで映倫と闘えとハッパをかけられた、とレジェンドたちは述懐する。
カラミの長さを指摘されるのに、レイプだと、女性がイヤイヤと抵抗しながら展開するから許されるのだと、なんじゃそりゃ!!イヤだというセックスならオッケーなのか、はたまた、イヤイヤと抵抗し続けるから切りどころがないのか。
いずれにしても……フェミニズム野郎としてはバクハツしそうになるが、レジェンドがあっけらかんと、レイプのカラミがピンクのドル箱だと言われちゃぁ、まぁ確かにそうだけど……と思ったり。
レジェンド若松監督と渡辺護監督が、おたがいをクサしあうのを、早送りで観客に聞かせないのには思わず噴き出しちゃう。何を言ってるのか聞かせてよ!!と思っちゃう。
彼らレジェンド、そしてピンクは一作きりだったけれど、その作品も伝説だし、デビューであるそれが相当いろんな思いがあったらしい黒沢清監督が語る、一定割合のカラミがあれば自由に作れるピンク映画が、監督になりたい彼らにとってどんなに夢のような場であったかが、改めて判る。
それは、ピンクに魅せられた観客のすべてが、そのきっかけとなったところであり、でもだんだんと、疑問を持つところでもある。本作ではさらりと触れられるだけだったのがもったいないなぁと思った四天王こそが、当時のサブカルムーブメントの一端を担って、私のような凡百の映画ファンにも届いたのであった。
本当に衝撃を受けたし、まさに、カラミがあれば何でもあり、四天王たちは成人映画館の昔からの客層にはそっぽを向かれる作家性の強さ、というのが、当時のサブカル信者たちには刺さった訳だが、まぁ私もその一人なのだが(爆)、でも段々と、それはある意味どうなのだろう……と、好きになればなるほど感じるようになる。
カラミありきなら、そのカラミが意味のあるものであるべきなんじゃないかとか、恋愛や愛の先にあるセックスの筈が、カラミさえ入れれば好きなように作れる、というクリエイターのエゴに対する反発とか……。
本作で紅一点、女性監督として証言者となる吉行由実監督は、やはりそのあたりを、やわらかく指摘してくれる。そもそもこんな導入でセックスに至るかよ、みたいな(笑)。
すんごく、難しいと思う。だってとりこになった最初は確かに、カラミさえ入れれば作家が自由に表現できる、その鮮烈なクリエイティビティこそに衝撃を受けたんだもの。
映画ファンとして後追いだから、ロマポルも若松プロもATGもごちゃまぜに観まくっていた当時だから、正直考えはまとまっていなかったところはあるけれど、でもその中で、唯一ほぼリアタイで見ていたピンク映画は、そうしたジレンマの最先端の苦悩を感じ取れたものだった。
唯一ほぼリアタイ、だなんて奥歯にものが挟まったような言い方だが(爆)、劇中吉行監督が言ってくれたように、女性が成人映画館に入るのは至難の業だった。女性専用シートとかカップルシートが用意されていたのは、私も記憶があるけれど、でもやっぱり怖くて入れなかった。
それがすごく悔しくて、イベント上映でしか見られない自分が情けなくて、トライしたこともあったけど、当時は私も若かったから痴漢に遭って泣きながら退避したこともあったしなぁ……。
フェミニズム意識をめちゃくちゃこすりまくるジャンルだったということも、惹きつけられた要因だったのかもしれない。本作に登場する関係者のほとんどが当然のように男性で、ピンク映画は女優が花だと言われながらも、撮影現場のプロの女優さんの闘いがヴィヴィットに描かれても、彼女たちに話を聞いてはもらえていないのが残念。
あ、でも、男優さんにも聞いてないか(爆)。これはちょっと、残念な部分ではあった。今、一般映画やドラマでも大活躍している川瀬陽太氏や、亡くなってしまったベテラン、伊藤猛氏の奮闘ぶりを見せてくれているから、彼らにもじっくり話をしてほしかったが、本作はあくまで作り手側、裏方スタッフ側のことに重点を置いているから……。
すべての関係者に目配りしたらとっ散らかっちゃうから仕方ないのかもしれない。結局は、今、当時から20年近く後から見るとさ、やっぱり、あの当時では考えられなかった、ピンクに出ている役者たちが一般作品にクロスオーバーしている、それは役者だけでなく、監督さんも、というのが見えているから、あぁ、ここで聞いておいてくれれば、とついつい思っちゃう。
でもそれこそ、20年近く前の当時も、そこからどうなるか判らないと口をそろえて彼らが言っていた10年後ですら、予想できない未来だったのかもしれない。
監督も役者も、ピンクから一般に抜け出したら、もう二度と戻れない、てゆーか、戻りたくないがゆえに、抜け出る、という印象があった。
判りやすい例で言えば、大杉漣氏。ピンク時代のデータを公的プロフィールに残さなかった。
正直、黒沢清監督もそんな印象があったから、本作で大いに語っているのは意外だった。ロマンポルノも撮っていたのを知らなかったから……ロマポルでお蔵入りにされて、ピンクの自由さを知った、なんてことを語ってくれる。
ピンクのこれまでと現状を語りまくってくれるのが、ミスターピンク、しゃべくりマシーンの池島ゆたか監督。20年前の彼が語る、先輩男子たちの、戦時中ティーンエイジャーだった、もんもんとしていたけれど決して言えなかったエロを、彼らはデープと表現したんだとか、うっわ、もう、20年経った今じゃ拾えない面白エピソードがどんどん出てきて。
そうか、20年経つ今だとさ、戦争を知っている存命の人は、当時はもはや子供時代であり、性欲を抱えたティーンエイジャーを過ごしていた人たちはもう大抵鬼籍に入っているのだと考えると……人間の種を残す、その本能を正しく伝える意味で、エロカルチャーはめちゃくちゃ大事なものなのだと、改めて思う。
池島監督は、AV男優の経験もあり、ピンクでもまず男優として出まくりまくって、監督デビューはなんと40歳。悩める若手監督の遅れに遅れた製作をあっさり引き受けて公開の穴埋めをするというプロフェッショナル。
その、遅れに遅れた、悩める監督が女池充氏で、私、なんかイメージ違った。女池監督はめちゃくちゃ攻めた作品を取っている印象で、で、表に出てこないというか、いろいろイベント上映があった中でもトークの印象がなくって、勝手に、攻めた監督、とんがったイケイケ監督みたいな、イメージがあったのだった。全然、違った!!悩みすぎ!!悩んで死にすぎ!!
低予算のピンクでは、撮影日数は三日から四日が相場なのを、気がついたら10日が過ぎていて、怖くて電話連絡も出来なかったというエピソード。密着する撮影現場で、カラミシーンで悩みまくる監督。
ちょっと驚愕。フェミニズム野郎のくせに(爆)こんなにも繊細に、言ってみれば犯される女の感じ方の描写というか、心情からくる感じ方を、悩みまくって演出しているなんて、思いもしなかった。
その細かく繊細な演出に、泣き系ですか?それじゃマグロじゃないですか?しまいには、そんなセックスありますかね、と辛らつに指摘するプロフェッショナル女優さんにかっこよ!!と快哉をあげつつ、そうですよね……と、床にべったりと顔をつけて、死んでんじゃねーかってぐらいにぐったり悩んでいる女池監督に、そ、そんな……。本当に、ビックリした。個性的で攻めた、時に政治にさえ鋭く切り込むような作風だったから、そんなイメージなかったからさ……。
でもだからこそ、レジェンドたちの証言と共に、今闘っている監督としての姿が対照的で印象的。レジェンドたちの現場では怒号が飛び交っていた、監督の絶対的立場があり、現代の優しき彼らをレジェンドたちは憂うのである。
そして現代の女池監督は、そうすべきなのだろうという思いがありつつ、出来ない、というか、やはりそれは時代が変わっているのだ。私も魅せられたレジェンドたちの時代はそれが確かに有効だったのだけれど、違うのだ。でもそれが、今、ピンクの衰退の原因になっているのだろうか??
ピンク映画はとにかく予算が少なく、その金額が妥当なのかどうかがあれこれされる。ピンクとロマポルを経て、当時一般映画やVシネでばりばり売り出し中の黒沢清監督は、ワレラ凡俗も当然想像できる、結局はその差はギャランティーだということを、ハッキリと言ってくれる。有名役者を使う一般映画だからこそ、ピンクやAVとはけた違いに金額が違うのだと。
でもそれでも、ボランティア気質が集う映画好き現場であるピンク現場で、キャストやスタッフにあと5万円上乗せ出来ないのかと、彼は問う。それで、350万になるか、400万か、500万になるか、と。
そう出来ることで、ピンク映画が、保たれるのかどうだったのか。黒沢監督が提言したことは、多分……俎上には上らなかったと思う。ただ、劇中、言及された、CS放送との提携でペイできるというのが、今まさに私はさ、うわー、めっちゃ新旧のピンク放送してくれてんじゃん、いつから?私気づくの遅かった!!って、歯噛みしてるぐらい。
でもそれは……良かったとは思うけど、結局製作本数どころか、製作会社も激減していることは、そこに起因したことが、あったのだろうか??
だって、今、オーピーだけなんだよ……一社だけなんてさ、あんまりじゃん……。でも監督や役者さんたちの一般映画やドラマへのクロスオーバーを感じ始めた時は、正直嬉しかったのは事実。
激減したピンクの中で、本作の中でも、今見ている中でも、賞味期限が短いと言われる、20代で終わりと言われていた女優たちが、ほんの数例ではあるけれど、そうではなくなってきたと感じている。
監督と兼業している吉行氏を筆頭に、エロ業界隙間産業を公言する、倖田李梨氏が代表人物じゃないかなぁ。私にとってのピンクミューズ、葉月螢氏のインタビューを最近目にして、復帰してくれるのかなと期待しちゃうし、かつて活躍したピンク女優さんたちが、今の時勢なら、きっと戻って活躍できるはず、と思うのだけれど。★★★★☆