home! |
ちひろさん
2023年 131分 日本 カラー
監督:今泉力哉 脚本:澤井香織 今泉力哉
撮影:岩永洋 音楽:岸田繁
出演:有村架純 豊嶋花 嶋田鉄太 van 若葉竜也 佐久間由衣 長澤樹 市川実和子 鈴木慶一 根岸季衣 平田満 リリー・フランキー 風吹ジュン
原作ではどこまで描かれているのだろう。海辺の町の小さな弁当屋で働くちひろさんは、劇中ではほとんどその来歴を明かすことはない。なるほど、元風俗嬢だという、これ以上はないインパクトのある前職を武器に弁当屋の看板娘として町の男たちを色めき立たせるものの、逆にそれは、それ以上踏み込んでこられないための、強力な鎧のようにも感じる。
だから彼女はあっけらかんと、店主の心配をよそに、おしゃべりなパートのおばちゃんにも、客の男たちにもその前職を語っちゃう。彼らはちひろさんの前職時代を想像して楽しむだけで、なぜ彼女が風俗嬢になったかなんて、考えもしない。
ということを、次第次第に突きつけられて、考えてしまう。ちひろさんの周りには、彼女によって悩み苦しみがあぶりだされ、彼女にカツを入れられてふっと楽になる、そんな人たちが、まるで蜜を求める蝶のように集まってくる。
主人公の筈のちひろさんの人生が語られることはほとんどなく、ちひろさんによって自身の人生に向き合うことから逃げていた人たちが救われていく。本当に、徹底しているのだ。
まず出会うのは、自由奔放なちひろさんにほれ込んでいる女子高校生、オカジである。オカジというニックネームがどこから来たのか、後に親友となるべっちんとの出会いで、話せば長くなるから、と言うにとどまる。
こういう具合に、ちひろさんもそうだし、すべてを語りつくさない絶妙なくすぐりというか、いい感じのもどかしさがある。すべてなんて、自分自身にだって判ってないんだから語れる訳がない。
冒頭から、オカジはちひろさんを盗撮している。路上に寝っ転がって猫とたわむれ、公園のブランコを天高くこぎまくり、小学生とマジケンカしたりするちひろさんを、後から思えばオカジはシンプルに憧れていたのだろう。
オカジが家族に感じる息苦しさは、判りにくいんだけれど、確かになんとも……言い難いというか。プロ並みの料理の腕を持つ母親の作る料理は、確かに美味しそうだけど、オカジが言う、味がしない、っていうの、メチャクチャわかるのだ。
なぜそうなっちゃうのか。醤油皿に醤油がさされてないだけで、ピタリと動きを止める父親に、動揺しまくって醤油をとりに行く母親、この一発だけで、こえーこえー、やだ、そりゃ味しないわ!!と思わせちゃう。
一見して、完璧な家族。一見して、父親は娘に優しく、経験を積ませるためにプロの陶芸家を用意したりしちゃう。でも、何気ないとか、さりげないとか、くだらないとか、そうした温かさが、一切、ないのだ……。
そしてオカジは友人グループの関係にも違和感を感じている。本当は、彼女たちが盛り上がっているアニメにそんなに夢中になっていない。
ちひろさんはそんなことまで見通していたのか。秘密基地のような廃ビルをオカジに教え、オカジはそこで出会う不登校少女、べっちんと親友になる。
ちひろさんがべっちんと知り合ったのは、小学生に絡まれていたホームレスおじさん、べっちん言うところの師匠がこの秘密基地の常連だったから。
べっちんが揃えた昭和の名作少女漫画が並ぶ。「地球(テラ)へ…」でちひろさんと意気投合するべっちん。でもちひろさんはここに長居することはないのだよね。あくまで師匠が立ち寄ってないか探しにくるだけで、オカジとべっちんを引き合わせるためにちひろさんはここに関与する。どこか神の目線。
オカジはもう一人、心許せる人物と出会う。ちひろさんにイタズラを仕掛け、しっかりと教育的指導を施されたマコトである。演じる嶋田鉄太君が可愛くって仕方ない。こーゆー素朴な男の子をよくぞ掘り起こしてくれたと。
オカジには妹がいるけれど、この妹はこの家族、両親のことをどう思っているのかは判らなくて、少なくともオカジとはきょうだいらしいふれあいの描写は一切ない。そう思うとこの妹ちゃんのこともかなり気になるのだが……。
マコトは、シングルマザーの母親との二人暮らし。このシングルマザー、ヒトミさんを演じる佐久間由衣嬢がめちゃくちゃ刺さる。
母ちゃんの作る焼きそばがめちゃくちゃうまい、とマコトが言うのを聞いただけで、彼が母親を愛しているのが判るし、ちひろさんに入れ知恵されたんじゃないかとか誤解して怒鳴り込んでくるヒトミさんが、必死にシングルマザーとして踏ん張って、それは根底に息子への絶大なる愛情があるから踏ん張れているというのがめちゃくちゃ判るから、もぅなんか、しみちゃうんだよね。
ちひろさんはもはや神のような存在だからさ、ヒトミさんに対して時に謝り、時にカツを入れる。ヒトミさんは、息子からこんなに愛されているということを、自信がないとかいう以前に、判ってなかったということを、ちひろさんのカツによって知る。
そして、がちがちの家族、夫に怯えるばかりの母親にマジギレして飛び出してきたオカジが、ヒトミさんのちゃちゃっと作った、マコト曰くめっちゃおいしい焼きそばに泣き出す場面に心震える。そして一方で……オカジの母親の苦悩も、知りたかったとも、思うけれど。
ちひろさんの前職、風俗店の店長と出会う場面が転換点となる。その前に、かつての同僚のバジル姉さんが訪ねてくる。ちひろさんのことを心配している良き友人ではあるけれど、一般人にはなかなか理解しがたいちひろさんの達観した価値観になかなかついてゆけていない。
二人が連れ立った夏祭りで、ちひろさんが偶然再会した店長にバジル姉さんがホレちゃったことからこじれて、一時ケンアクとなるけれど、それもバジル姉さんの方だけがキーッとなっているだけ。
男と女が二人きりで出かける、好きだという感情は男女のそれじゃない、というのが、バジル姉さんにはどうしても飲み込めない。古今東西、こーゆー理由で三角関係、修羅場が発展したものだが、本当の意味で、ちひろさんが主張する意味がマジであったパターンはなかったんじゃないかと思われる。
お父さんみたいとか、きょうだいみたいとか、口では言いつつ実際はそうじゃなかったとゆー展開に、フェミニズム野郎はめっちゃイライラしていたものだった。
ちらっと前述したけど、ホームレスおじさん(鈴木慶一!!)との邂逅が最初で、もうここでちひろさんの人となりがバチッと観客に刷り込まれるインパクト。
小学生に絡まれていたおじさんを助ける。まあそこまでは判る。勤めている
店のお弁当を一緒に食べる。それも判る。おどろくべきことにちひろさんは、「ひとっ風呂浴びない?」と自身のアパートに誘い、彼女の手でおじさんを丁寧に洗い上げるのであった。
そう書くとまさしく風俗嬢のワザ!と思いそうになるが、そうじゃない。本当に、洗い上げたという表現でしかない。愛しい存在を、丁寧に、優しく。ちひろさんの用意したビールも飲まずに、おじさんは丁寧にお辞儀をして去って行った。
ラーメン屋で遭遇した土方青年との出会いもしみる。何か理不尽なことを言いたてていた客に激高した彼が、つかみかかったところに、ちひろさんが店に入っていった。ぶるぶる震える怒りを抑えた青年と店外で話し込み、「したくなっちゃった」とコトに及ぶまでになる。
彼が語る、ここに流れてきた彼の人生、殺しかけるまでになった父親との確執、手首に彫り込んだ色即是空の文字で、自らを諫めるのだと、彼は言った。
もし、その父親とまた対峙しても、死んじゃダメだよとちひろさんは言った。それぐらいなら殺してしまえと。ニコニコして、言うのだ。自分が追い詰められて死んでしまうぐらいなら、殺してしまえと。
青年は、その時は埋めるのを手伝ってくれますか、と冗談めいて言い、ちひろさんも、ラーメン一杯で請け負うよ、と言った。
ちひろさんは、ホームレスおじさんが行き倒れているのを発見し、スコップをふるって埋葬しちゃってる。あらあらあら、いいのかな、死体遺棄とかそーゆーことになっちゃうんじゃないの、とハラハラするが、そこらへんはいい意味でのファンタジーも入っているのだろうと思う。
ちひろさんは、海辺の防波堤で死んでしまっているかもめを発見し、埋葬する場面もある。そもそもちひろさんがこの町に、というか、こうした流れ者生活をしているのはなぜなのか。
なぜ、というのもおかしいけれど、それを、指摘するというか、察知する、ちひろさん言うところの、”同じ星の人”であるからこそ判っちゃうのが、弁当屋の店主の奥さん。視力を失って入院中であり、ちひろさんが弁当屋のバイトに入っていることを隠して、本来の綾として知り合ったんである。
後に回想の形で、激しい雨が降る、夕暮れ時なのか、もうすっかり夜なのか、ちひろさんは奥さんが店番している弁当屋、後に自分が店番することになるのこのこ弁当に駆け込んでくる。
ほんの短い会話をかわしただけだった。風俗嬢だったけれど、今は辞めてお休み中なんですと、ちひろさん、なにもそんなに正直に、お弁当を買いに来ただけで明かすことはなかったのに、そして奥さんも、そうなのー、と、なんのこだわりもなく、お疲れ様というシンプルな気持ちでねぎらってくれたのだった。
不思議なんだけど、雨の中、道の向こうから店番している奥さんを眺めていたちひろさんは、もうこの時点で、同じ星の人だと、きっと確信していたんだろうと、思うのだ。
奥さんが退院し、ちひろさんによって結びつけられた人たちが集結したお月見の会。ちひろさんはこっそり出て行った。見えていないのに、奥さんは気配を感じ取って、電話をかけた。
寂しい気配がいなくなったから判るわよ、と奥さんは言い、もうどこにも行かなくていいんじゃないの。あなたはどこにいても孤独を手放さないんだから、と、そういう表現の仕方で、言ったと思う。
凄くハッとして……つまりちひろさんは、孤独を追い求めて、その手に孤独をつかんでいなければいたたまれなくて、わざわざ元風俗嬢だと牽制しながら、流れ着いたのか。
奥さんにそれを嗅ぎつけられちゃって、また明日、と言ったのに、ちひろさんは、また違う場所にいるのだ。牛の世話をする牧場。経験があったのかと訪ねられるほど、どんな場所でもそつなくこなすちひろさんに、寂しさを感じてしまう。
だって、ちひろさんに去られた店主は、奥さんから寂しいのね、と指摘されちゃった。でもそのことで、もともとラブラブだったであろうけれど、二人は絆を確かめ合った。
夫婦愛だけでなく、丁寧な仕事、手を抜かない弁当作りをすること。本作の、のこのこ弁当の、めっちゃシンプルだけど、まったく手を抜かずに丁寧に作っているというスタンスを、しかも謙虚に描写してるのがめちゃくちゃしみるのよね。
時代に逆行しているけれど、なくしたくないメチャすっぱい梅干し。旬の時期に知り合いから手に入れる筍、業務用のむいたものではなく、ひとつひとつ丁寧に向く栗。
面接の時、店主がこっそりちひろさんが弁当を食べるところを盗み見していた。見た目は全然こってないのに、カリカリの海老の尾っぽまで食べちゃう、食べたくなる、そんなお弁当と、ちひろさんの出会いは、彼女と出会う、すべての人たちとの出会いの始まりだった。
ちひろさんの弟から、お母さんが亡くなった連絡が入ったり、ちひろさんが前職の店長の運転で墓参りに行ったり、すっごく気になる、彼女が決して語らない影が見え隠れする。語らないんだよなあ……それが、かえって潔い感じがして、でも、ちひろさんが、彼女を慕う人たちから離れて新天地にいるラストは、希望を感じたけど、でも、やっぱり、寂しかった。★★★☆☆
先が見えない焦燥、家族と上手く関係を作れない、夢を見る方法も判らない若者、を同時に盛り込んでしまうのは、このそもそもの興味深い題材が、薄まってしまうような気がした。
もちろん、高齢者売春クラブというものがあったということは、勤める高齢者女性、客となる高齢者男性を結びつける、彼らにとっては子供どころか孫のような年齢の人間が関わっていたに違いないのだから、その構成は当然しかるべきものなのだろうことは判っちゃいるのだが。
この事件からどこに着眼点を置くか、作り手によって当然違ってくると思うんだけれど、そして実際の事件の詳細を知らないからなかなか言いにくいんだけれど……孤独で万引きしちゃって自殺未遂しちゃうような女性がスカウトされて、売れっ子コールガールになった、そんな事例が実際にあったのかもしれないし、孫のような世代のスタッフたちと疑似家族のような関係を築いたのも実際にそうだったのかもしれない。
確かに現代社会の、家族関係や人間関係におけるあらゆる問題点がてんこもりで、正しき問題点、正しき構成だとは思うんだけれど……。
もどかしい。私は何を言いたいのか。えーとね、それこそもう10年前ぐらいになるかなあ。障害者専門のデリヘルを題材にした映画があって、それも実際の事例を基にしたと記憶しているんだけれど、その作品に当事者(顧客というんじゃなくてよ。まあ判らんけど(爆))のホーキング青山氏が出演、熱演していて、ものすごく感銘を受けた記憶がいまだ鮮烈に残っているのね。
こういことだと。性欲という、人間にまっとうに授けられている欲のひとつなのに、タブー視され、成人男性だけにその世界が解放されている(語弊があるかもだけど、平均的世間的な見方としてはやっぱりそうだと思う)、考えてみればこんな超絶差別的なことは、ないのだ。
成人女性にさえろくに解放されていないそのサービス業は、様々なマイノリティ……身体、知的の障害者、高齢者、LGBTQ、きっと他にも様々な人たちに供給されていないのだ。
この売春クラブだって、逆はないのかと、即座に思ってしまうもの。高齢女性に男性が派遣されるサービスはないのかと。きっと、あると思う。あると思うけど、本作の作り手の意識は、そんな可能性にはまるで、至っていないと思う。
風俗は男性が性欲を持て余して、プロの女性に満たしてもらうもの、その前提が動かずに、高齢者売春クラブといういわばネタで作り上げている感じが、なんか……物足りないなあと思っちゃうのだ。
そんなつらつらを言いつつ、高齢女性コールガールを演じるメンメンには圧倒される。ワークショップにより抜擢されたという、決して有名ではない彼女たちだけれど、いわゆるカラミ、まぁおっぱいまでは見せないけれど、それなりにあらわな姿、なまなましいチューまで、ああなにかもう、勇気をもらえる。
きっとこの実際にあった事件が世間に衝撃を与えたのは、リアルに彼らの年代の性欲やセックスを想像できなかったからであろう。それが親世代であり祖父母世代である若い人たちにとっては余計にそうであろう。
でも段々とその年代に近づいていくにつれ、まぁいわば生産性がないのに性欲があっていいのか、セックスを望んでいいのか、という、世間の目をうかがいみるような気持が芽生えてきて、でもそんなのおかしいじゃない。そんなことを世間から、社会から決めつけられるのはおかしいじゃない。
でも、なんたってエロな欲望だから、いい年をして、という自覚もあるから、声を上げられない。ちんまりおじいちゃん、おばあちゃんに収まっちゃう。自分もそうなるのか。だってもう、ほんの10年、20年ほどで彼らの年になる私も、そんな風に扱われるのか。
生産性、そう、生産性、だ……。LGBTQの人たちに対して発せられたあの言葉は、まさに高齢者の性欲に対しても発動されるからこそ、それに対してこそ大きな問題があると思うから、私は本作に、なんともこう……物足りなさを感じたのだと思う。薄まったというか、結局未来ある若者に重点を置いた物語になってしまったように思う。
茶飲み友達を募集するという表向きで、高齢男性を顧客にしたデリヘルサービスを行う風俗店、茶飲友達(ティーフレンド)を営むマナ。新聞の三行広告で、茶飲み友達募集、というアンテナに引っ掛かってくる高齢者男性に、お友達か、それ以上の関係のお友達か、というサービスを提案する。
まぁ確かにこの手口自体だけを見れば、詐欺的かもしれない。そして、日本のゆるゆるのエロサービス業界において、本番をやってないと言いつつ実際はやっているというのは、劇中、どうやら性病をうつされたらしいキャストの、そうは言うけど、誰だってやってるじゃない、という台詞を待たないまでも、暗黙の了解というか、プロのキャストが客と交わす密約のようなものであろうことは想像に難くない。
だから時々目にする本番しちゃってたから摘発、という事件は、こうした、特異なジャンルだからこそ目を惹く訳で、これがフツーの、フツーといったらアレだけれど、誇りをもってその仕事に従事している人が、需要と供給が合致する顧客にサービスしているのならば、密室の密約があるかもと躍起になって暴いたりはしないだろう。
ああ、なんか自分の想いがあふれちゃって、映画そのものに全然行けない。本作はね、本当に面白いのよ。高齢者、なんていうのははばかられる、ベテランパイセン女性たち、個性バクハツの人気コールガールたち。ナンバーワンとしてあらゆる客層をこなす女性、パチンコ依存症でしょっちゅう前借りをしている女性。
そんな中、偶然スーパーで万引きをみとがめられた松子を、マナはとっさに娘の振りをして救った。それは経営者としての目で見抜いたからなのか、自身が母親に愛されていないことを抱えていたから、本能的に彼女の孤独を察知したのか。
松子を演じる磯西真喜氏、まさにおちぶれた孤独のおばあちゃん。でもマナから「もったいない、美人さんなのに」と言われた。いやいやいや、と思っていたら、ぼさぼさの髪にくしを入れ、メイク、といってもハデではなく、最小限と思われる程度のものをほどこしただけで、びっくり、まさに、美人さん、だった!!
……私はフェミニズム野郎で、メイクにも懐疑派なもんで、ハズかしいんだけれど……めちゃくちゃ、驚いた。そうね、若い人がね、地が美しいのに、可愛いのに、そんなごてごてメイクすることないのに!と思っていたが、じゃなくて、シニア世代こそが、必要なんだなあ。誤解を恐れずに言えば、人間になれる、ぐらいの衝撃。
でもそれこそ、そこにも性差の差別はあるように思う。メイクによって変身できる女性、というのがいいようにも思いそうだけれど、それが出来ないこの世代の男性にも、メイクの変身を望まない女性にも、厳しい目線があるように思う。
難しい。すべての人に望まれる構成はそりゃできないんだけれど。でもほんとに、松子さんが、しょぼしょぼのおばあさんだったのが、本当にきれいな、こりゃセックスしちゃおうぜ、みたいな(爆)、変身っぷりを見せたのが、本作のキモだったなあ。
でも、本作は、マナがヒロイン、主人公だったのだろう。だからこそ、モヤモヤしちゃったのだろう。実際の事件、高齢女性がデリヘル嬢となり、高齢男性の元に派遣されるというのが元になっているのに、ヒロインは元締めであるマナ。
マナからの視点になると、母親から愛されなかったゆえの家族への渇望、風俗に身を投じた自身の経験に基づいた高齢者売春クラブの立ち上げ、その中に見出した仲間との結束があっさり崩れ去る虚しさという、そっちが主軸になってしまう。高齢者売春クラブという目を惹く設定が前面に押し出されていながら、実際はマナの物語であるんだよね。
そうなると、他の登場人物……本当にあらゆるエピソードが、しかもそれぞれ重く語られるんだけれど、結局は、それぞれそれなりになっちゃうというか……。
不倫相手の子供を宿した女の子のエピソードは結構重かったけど、でもそれも、マナたちの正義感を示すために劇的に盛り上げたという感が強かったし、だからこそ、そもそものテーマから外れる違和感も大きかった。
ここに集うキャストもスタッフもファミリーなんだという仲間意識を大きくうたっていて、そうかそうか、老いも若きもいろんな事情で、孤独に陥る人たちがいて、縁を得てファミリーになるんだなと感動思想にもなるんだけれど……。
どこまで踏み込んでいたんだろう、あるいは、踏み込もうとしていたんだろう。マナが松子さんと疑似親子関係を築いたんじゃないかと思われるほどの親密さは、でも確かに後から考えてみれば、お互いに踏み込んだ話はしていなかった。
松子さんが仕事現場で、お客さんの自殺を目の前にして、逃げ出してしまった。保護責任者遺棄、そして当然、ティーフレンドも摘発される。仲間だと思っていたメンメンはみな……。
いやでも、そらそうだよ。それは、最低限の信頼があってこそだもの。いやでも、あんまりな描写だったかなあ。特に、事務所の金庫の有り金をかっさらって逃げるハラボテ女子は、そらないわと思ったわ。不倫男子を追い詰めて、産まれる赤ちゃんはみんなで育てればいいよ、とマナが言って、フェミニズム野郎、ひょっとしたら共産主義野郎かもな私はおお―!とカンドーしたのにさ。
それもなにもかも、否定したってことでしょう??いやつまり、この一発で、マナを信頼できなかったってことでしょう??
昭和的ドラマティックを優先するかのごとくな、どーも納得できねーな、な印象は、このクライマックスで最も、感じたかもしれない、と思う。
すべてのスタッフが、本当にすべてよ、去ってしまう。松子さんのウラギリ、っつーか、現場から逃げ去ったことに対して、彼女が、いきなりキャラ豹変しちゃうのも解せないんだよね。急に、あなたには判らないわよ、とか、わがままティーンエイジャーみたいなゴネかたして、一体これまでの、松子さんとマナとの、ゆっくり築き上げた関係性は何だったのと思っちゃう。
まぁそんな風に、突き放されるシークエンスは多々あって……パチンコ依存症からどうしても抜け出せないとか、母親とどうしても相容れなくケンカしてしまうとか、一方的に激情を見せられるだけで、納得できる感情の説明もないから、そう、それこそ、あなたには判らないでしょ、と観客側に突きつけられちゃう、それで説明終わっちゃう。
それはね……ないよねと思う。それぞれの事情を抱えた観客が、ここには集っているのだからさ。それはとても失礼なスタンスじゃないのかなあ。
高齢者施設、いわゆる老人ホームに顧客を見出し、自分たちが摘発されたために彼らが退去を強いられたことを知ったマナ、被疑者として取り調べを受けているマナが、髪振り乱して女性刑事に食って掛かるラストシークエンスが見ていられなかった。
マナじゃなくて、女性刑事の方ね。マナをたしなめる言動が、半世紀前ぐらいの古臭さに感じてしまった。家族、孤独、自分勝手、そんなすり切れた概念でマナの、いや、顧客とそれに応じたプロの彼女たちを斬って捨てる女刑事もナイわと思ったし、そのアナクロ女刑事にあっさり陥落してしまうマナは、もっとナイわと思った。
女子、女子!!!女子はもっと、強い筈だよ。こんなことでへこたれてる筈がないんだよ!!!★★★☆☆