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くちづけ
2013年 123分 日本 カラー
監督:堤幸彦 脚本:宅間孝行
撮影:斑目重友 音楽:朝川朋之
出演:貫地谷しほり 竹中直人 宅間孝行 田畑智子 橋本愛 岡本麗 嶋田久作 麻生祐未 平田満 宮根誠司 伊藤高史 谷川功 屋良学 尾畑美依奈 万田祐介
もひとつついでに言うと、セレソンさんもご同様なんである。なんつって、彼らのお芝居は一度観に行ったことがあるだけ。だってシゲちゃんがあんまり絶賛するから(爆)。
でもその一発でダメだった。ストーリーテラーとしての実力があるのは判る。ぐいぐい惹きつけられる展開に手腕は感じる、でも……涙を印象深くするために、“わざわざ”後味悪いクライマックスを付加している感じがどうしてもしてしまった。
それはその一度観ただけのお芝居だけが、たまたまだったのかもしれないとも思ったけど、何となく、これこそがセレソンさん、あるいは脚本、演出の宅間氏の特徴なんじゃないかという気もして、拒否反応を示してしまった。
確かに印象を強くするために、涙をより絞り出すために、後味の悪い要素というのは、ドラマチックを盛り立てる要素ではある。それは判る。
でもそれありきで、そこに向かって作劇しているように思って、……好きになれないなあ、と思った。それはまさしく、単純に個人的に好き嫌いの問題、なのだけれど。
でもその好き嫌いの問題が、映画という、より社会性を帯びた媒体として作られるとなると、やはり話は違ってくると思う。
本作で感じた“後味の悪い”要素に、あー、やっぱり宅間氏だからサ、などと、それを待ち構えたように思ってしまったが、これが“実話を基にした”と聞くと、そうではないのか……。
と反省しかけた一方で、いや、この“余命いくばくもない父親が、知的障害を持った娘を殺したという実話”にシメシメと思い、それを印象付ける“後味の悪い要素”として、バクダンとして作り上げたんじゃないのと、ついついイジワルなことを思ってしまう。
だって探っても、“実話”って部分が、この単純な事実でしか出てこない。
そりゃさ、単純な事実なんかじゃないよ。その裏にはこういうさまざまな物語があり、それこそにクリエイターが触発されたんだと言われればそうなのだろう。
でも……なんか納得いかないの。誤解を恐れずに言えば、こういう“事実”は悲しいけど、残念だけど、沢山あると思う。彼が新聞の片隅に目をとめた小さな記事だけじゃないだろう。
加えて言えば、“新聞の片隅の小さな記事”というのを強調するためなのか、映画の冒頭、その切れ端が風に乗って、乗って乗って、街を横切り、舞台となるグループホームにたどり着く、なんていう場面から始まる。
そのCGくささと、“小さな記事”を強調するやり方に、後から思い返すと更にイラッとするものを感じてしまう。
そう、こういう“事実”は沢山あるんだよ。沢山あるけど、それをこうした物語にしてしまうのが、あるいはしがちなのが、やっぱりヤだと思う。今はそんなステージではないと思う。
福祉に関しては遅れに遅れている日本だけれど、だからこそ言いたい。それでも、今はそんなステージにはいない。
そんなステージにとどまらないために、障害を持った人たちも、その家族も、そして周りでサポートする人たちも、レベルアップしようと頑張ってるし、実際、レベルアップしてる。
家族親戚、友人知人、作業所、施設、サポートスタッフ。遅れてるけど国や行政、そして何より当人の気持ちとやる気と意思と希望と……ありとあらゆる。
正直、こうした物語を作り上げて、号泣させようなんて、“今更”な気がしてしまう。
そりゃ泣いちゃうし、世間の理不尽さに憤ったりもするだろう。今だって一方ではこうした世間だろう。
でも、社会性として目を向けるなら、レベルアップするために頑張り、実際にレベルアップしている福祉の現場や障害を持つ当事者たちや家族やスタッフの姿こそを描写すべきだと思う。言ってしまえば……なんか発想が古いんだもの。
そう、こういうタイプの、世間に負けた的な、理不尽さを糾弾する、泣かせる映画は、一昔、どころかもっと昔のような気がする。
しかも、そんなリアリティの薄さを、堤監督の舞台くさい演出が思いっきり後押ししちゃう。
えー、なんでこんな舞台チックな、舞台そのものの演出するのと思ったら、そもそもそういうつもりだったんだと知って、えー……と何とも言えない気分になってしまった。
それは、一体、何故?舞台が素晴らしかったから、舞台を尊重しようと思ったとか、そういうこと?ならばなぜ、これを映画にしようと思ったの。映画にする意義は何?
庭に大きく開かれた広間、そこから二階への階段が見える作りといい、まさに舞台を、お芝居を見ているさながら、なんだよね。
でね、それって、この場合、何が有効なんだろうか、と思う。ことにこれは知的障害者のグループホームでのお話で、やはり特殊な演技が要求されるところである。主演に据えられた貫地谷しほり嬢も苦労して役作りしたと思う。
それをね、舞台そのままの世界、そして宅間氏自身がメインキャストの一人であるうーやんを演じることによって、映画としての、そこに生きる一人の人間としてのリアリティが失われてしまう。どんなにしほり嬢が頑張ったって、宅間氏はリアルな知的障害者には見えないのだ。
いや、それこそ劇中で語られているように、知的障害を持った方たちの中は、軽度重度、そのグラデーションは線引きなど出来ず、一体私ら“健常者”とされる人たちとの線引きだって、どんなにかあいまいだよなというところなんである。
この作劇にイラッとしたのはそういう部分も含めてなんだけど、それを言い出すとキリがなくなるからそれはおいといて……(おいときたくはないけど!!)。
とにかくね、宅間氏がうーやんを演じてしまうと、それは確かに“舞台的”には巧みなんだよ。ああ、こういうしぐさや言い様や、こだわりや、あるよね、と思う。
でも……。彼がそのまま舞台の、板の上に上がっているところが見えてしまう。多分、恐らく、彼自身が、舞台でもうーやんを演じていたんだよ、ね?あるいはもしそうじゃなくても、彼の脚本演出、だからさあ……板が見えちゃう。
こんな区別というか、差別はいけないけど、映画ファンとしては、その人間として生きてスクリーンに刻み付ける演じ方と、なんか違うように感じてしまう。
特にこのうーやんは……舞台でならいいかもしれないけど、映画となったら、ちょっと違うような気がした。“生きた”ハンディキャッパーじゃない気がした。
先述した、軽度、重度、その無数のグラデーションが、彼の中には見えないのよ。知的障害者ってこういう感じだよね、みたいにしか見えない。
しほり嬢は頑張っていたとは思うけど、彼女の造形が“心が7歳のまま止まっている”というのが、その判りやすい定義が、それ以上に発展させなかったような気もしている。
私も無知だからそういう定義とか判んないけど、知的ハンディを持っていたとしても、それでも成長していく訳だし、7歳で止まるとかいうことじゃないんじゃないかと思う。それは単なる、7歳程度の知能指数とか、そうした数値的なことだけなんじゃないだろうか。
ふと思い出したんだけど、昔ジュリエット・ルイス主演の映画で「カーラの結婚宣言」というのがあったのね。同じ知的障害者の男の子と結婚する!と言い出す女の子。
で、結婚っていうからには、セックスは不可欠、愛し合ってるからセックスしたい、というところまで発展、周りの家族があたふたするという、コミカルタッチのハートフルな物語だった。
リアリティという点で言えば、どっちがどうとは言えないのかもしれない。でも、“子供のままで止まっている”んじゃなくて、ハンディを持ちながらも、その人それぞれのやり方で大人になり、結婚をしたいとかセックスをしたいとか、その先に子供を持ちたいとか、そういうことに、あの当時で踏み込んでいたのに、と、本作を振り返って思ってしまうのだ。
……そうか、あの作品があったから、なんか私、余計にイライラしていたんだな、きっと。
本作が、家族やきょうだいといった身内との関係をより重視しているから、それはしょうがないのだろうか。
でもね、だったら、しほり嬢扮するマコとうーやんの結婚騒動は、彼らの子供っぽさだけを強調しているようで、余計にヤな気がしてしまう。
しかも、マコは“一見普通に見えるから”男性に声をかけられて(まあ、ナンパだろうな)ニコニコついていっちゃって、発見されたところがラブホテル。それ以来、知らない男の人と二人きりになると、パニックを起こすようになってしまった。
それもあって、彼女を男手ひとつで育てた漫画家の愛情いっぽん氏は、彼女の行く末を心配するんである。
女の子がレイプされて、トラウマになって、外部との接触が出来なくなるというのは、ハンディキャッパーでなくてもある話だし、それを、“こんな、何も判らない純粋な子にひどいことをして、かわいそうに”とか、“父親の自分が守ってやれなかったことが情けない”とか、そこからつながる、“この子は一人では生きていけない。だから自分が死ぬんなら、一緒に死ぬしかない”てな展開にするのは、思いっきり、言い過ぎなのは承知でも、言っちゃう。女に対する冒涜だと思う。
図らずも、うーやんの妹が、まあ彼女は健康体だし、うーやんがそんなトラウマを持ちようもないからだけど、お兄ちゃんと一緒に生きていくことを決意、彼らのことをよく理解したスタッフの男の子と“首尾よく”恋に落ちて、前途洋洋なのとは対照的にしたって、あまりあるんである。
やっぱりね、ちょっと、男女差の、ヘンケンな思いを感じちゃうんだよね。女としてはさあ。
それに、うーやんとマコちゃんが、お互い結婚すると決めるほどに仲良くなったのに、結局はお互いの家族、うーやんは妹の智ちゃん、マコちゃんは父親のいっぽん、それぞれこそが大事で、それぞれが自分と一緒にいてくれなければガマンできなくて、うーやんとマコちゃん同士の気持ちは、結局はさ、幼稚園児の約束レベルみたいに描かれるのがさ。
そりゃそうだわね、作り手の側に「7歳で止まってる」って意識があるんだから。もしそう思ってなければ。ハンディキャッパーであっても、いわゆる健常者と成長のベクトルが違っても、こんな風には描かない、と思う。
いっぽん氏が、娘の世話のために長いこと漫画を描けないでいたいっぽん氏が、うーやんとマコちゃんの結婚を描き、それを祝福する周囲を描き、二人の悲しい死後に、それが見事採用されて漫画雑誌に掲載された、なんてスタンスがあり、それはわっかりやすい号泣ポイントで、かなえられなかった幸せのページをめくりながら、みんなが涙を流す訳。
「だったら、踏ん張れたんじゃないか」と言う、のんだくれおばちゃんスタッフの台詞は、まさにそれこそを、ずーっとずーっと感じ続けてここまで観てきた訳でさ。
理想的だったこの施設が経営不振で閉鎖となり、いっぽん氏の余命いくばくもない病が発覚、繊細なマコちゃんが耐えられない施設から逃げだし、「いっぽんと一緒にいる。いっぽんが死ぬんだったら、私も死ぬ」という台詞に呼応する形で、それまでにも十分に追い詰められていた彼は娘を手にかける訳。
こここそが、“実話を基にした”ってトコで、“誰も彼を責められない”と、世間的に言われるところなんだろう。
世間的に、はともかく(それもかなり言いたい気持ちはあるが)、少なくとも劇中的には、納得できないさ。
いっぽんは最期の作品にしたためたほどに、マコちゃんとうーやんが結婚して、周囲が幸せになって、ということを頭の中でだけでだって描いていた訳でさ。
彼がマコちゃんを手にかけたのは、マコちゃんが一人では生きていけないからということだったけど、そんな風に超理想論としてだって、そうだったらいいな、と思った訳、でしょ?
しかも、マコちゃんが唯一心を許したうーやんのいたひまわり荘は、経営する真理子ママ&小児科医の国村先生夫婦、小さな頃から入居者と一緒に育ってきた娘のはるか等々、みんなさ、困った時にはいつでも相談してきて、というスタンスでさ。
そりゃさ、判るよ。“障害を持った子供”を他人に背負わせられないっていう、日本人的考えはさ。
……いや、判んない、判んない!!今ウッカリ判るとか言っちゃったけど、まあそれは、私自身がそういう立場ではないという判んなさもあるけど、そうじゃなくて、それを“判る”と言ってしまうことが、最初に言ったけど、前時代的なんだってば!
そんな簡単じゃない、今だってそうだと言われればそうなんだろう。でも、やっぱり、違う、違うと思う。
少なくとも“健常者”と言われる私らが、そこで止まってしまっていることが、何よりの問題なんだと思う。
愛する子供の将来を信じて、自分なんかいなくたって、生きていける。だって、こうして心配してくれる人たちがいる。そんな人たちにかける迷惑の方が、子供を手にかけることより大きいなんて、どんな親だって持たないに決まってる。
“いや、障害を持っている親御さんは……”と決めつけてしまうようなこの展開に、しかも泣き所を持ってくるなんて、私は、私はどうしても納得出来ないんだよ。
だってそれって、自分の子供だけじゃなく、周囲の人間誰も信じてないってことじゃん。しかも、今の時代に、こうしてみんながそうじゃなくするように頑張ってる時代によ!!
私はね、多分、もっと単純に、どちらかが見たかったのかもしれないんだ。親子愛か、恋愛か。
いや、後者こそが見たかったから、よりイライラしたのかもしれない。恋愛が、しょせん彼らにはおままごとように、ほほえましいレベルだけにとどまって、だからこそのあのラストでしょ。
うーやんはマコちゃんが死んだことさえ知らず(理解できず)、結婚式の定番のイベントとして披露されるのは、花嫁の成長のスライドショー。そのかたわらにはいつも父のいっぽん氏の姿。
つまり本作は親子、身内、きょうだいの物語であり、彩る形で恋愛……的なもの、があるってことはさ、そこには彼らが自立した人間として認めるスタンスはなく、ただ庇護されるしかない、それが出来なければ殺されても悲しい事件だね、で終わりってスタンスじゃないの。
言い過ぎだろうか、言い過ぎだろうか??でもさ、もっとシンプルで大事な要素、友情にしたってさ、この施設の入居者同士の描写も下ネタに盛り上がるいかにも子供っぽいエピソードに過ぎないし。
正直もっともイラッとしたのは、いかにも世間の視線を判りやすく示した、はるかの同級生、南の差別的視線。
南ちゃん自体にイラッとする訳じゃないのさ。はるかたちひまわり荘のメンメンは、南ちゃんにそれこそわっかりやすくイラッとしてるけど、そうじゃないの。
コテコテのギャルファッションで、「福祉のレポート書くとポイント高いから」とあっさりと言い放ち、キモいとか、あっけらかんとギャル笑いして言い放つ彼女は、まあ、かなりのステロタイプだけど、これが世間の目だという判りやすさである。
小さい頃から彼らと暮らしてきたはるかが、南に憤るのは無理のないことだろうが、それだけでははるかはあまりに世間知らずだし、その後入居者が“復讐”として南ちゃんのおっぱいわしづかみ事件を起こしちゃうのを、南ちゃんの態度のせいだけにしちゃうとなると、ますますその重責が重くなってくるんである。
てゆーか、この憎まれ役を呼び込むはるかが、今売り出し中の橋本愛嬢ってのが、若干の違和感を感じなくもない、っていうか。
しかもその理由も希薄。「あんな子だとは思ってなかった」ていうには、南ちゃん、外見から喋り方から判りやすく作りこみすぎだろ!
脚本やキャラ設定の問題なのかもしれないけど、はるか=橋本愛嬢、ただただキレまくり、吠えまくってるだけみたいに見えるんだもん。
南ちゃんに対してはしょうがないけど、登場する場面みんなに対して、ただただ、キレてる。
まあね、女子校生的テンションの高さを要求されてるキャラだけど、正直その設定時点で彼女にはあんまりしっくりこないし、だから、ただ意味もなく吠えてるようにも見えるし(爆)。
だからだから、うーやんをはじめとした入居者たちとの丁丁発止も、ただうるさいだけというか(爆爆)。
それこそ……舞台的、ひとつの盛り上がりシーンにしか思えない。いくら彼女が涙流しても、リアルに感じられない。
それを、ね。こういう環境にいると、そうした世間的視点に疎くなってしまうとか、そうやって明確にするんならいいんだけど、そのまんま勧善懲悪的、なんだよね。一応、施設の管理者である真理子ママや国村先生はたしなめるけど、印象としてはホント、たしなめる程度、である。
そんなことで誤解や中途半端な印象を与えるぐらいなら、こんな、いわゆる、“知的障害者がやらかしそうな”シークエンスを持ってこない方がいいんじゃないかと思う。なんかこれじゃさ、問題提起という点では盛り上がるから持ってきてワーッとなるけど、猿芝居で終わって放置プレイ、って感じだよ。そう、思っちゃうよ。
……なんか、本質から外れまくりな気がしてきた。いや、そもそも私はそうだけど(爆)、でもやっぱり難しい題材だし、どうそれを提示するか、という時点で受け手の一人として相容れなかったら、もう、どうしようもないんだもん。
最重要人物、いっぽん氏を演じる竹中直人、うーやんの姉の田畑智子、双方大好きな役者さんだし、本作でも入り込んでいたし、もし本作が、舞台の前提を完全に排除した、映画としての純粋なスタンスで作られていたら、彼らがそういうスタンスで臨めていたなら、どうなっていたんだろうと、それを見たかったと、どうしても思っちゃう。
少なくとも、宅間氏がうーやんを演じるべきではなかった。これを映画にするなら、彼が出演者として、つまり舞台の空気を致命的に引きずる存在として参加するべきではなかった。
製作側も、ホントにそれが良かれと思ったのか、単なる義理なのかは知らんけど、そこが分かれ目だと思う。少なくとも、少なくとも……ただの、イチ観客である私は、そう思った。★☆☆☆☆
それとも、これでも、主演はこの二人、というスタンスなのだろうか??そうじゃないよ、ね。
私ね、それで思い出したのよ、「大阪物語」。沢田研二と田中裕子という夫婦が共演という面白さこそのスタンスだった。でも実際は、その娘役となる池脇千鶴嬢こそが主演であった。
今でこそあの作品はちーちゃんのデビュー作であり、初主演作であるという見方が大方であろうけれど、あの当時はそうじゃなかった。
それは彼女がCMで注目されていたとはいえ役者としては無名で、大抜擢で、客寄せとしてはジュリーと裕子さんの夫婦共演の方が当然宣伝としては正しいやり方だったからなのだよね。
でもそういう場合、実際は、実際の主演である少女にこそ重い責任がかかってくる。真っ先に「大阪物語」を思い出したのは、誰もがまるで期待していなかった無名の少女に、誰もがハートをわしづかみにされたからなんであった。
結果、紹介記事も何もかもちーちゃんで埋め尽くされた。ジュリーの色気も裕子さんのたくましさも蹴散らかして、ちーちゃんの圧倒的な魅力に誰もが恋をした。
つまり、こういう構成の映画の場合、宣伝では有名で人気のある俳優で客寄せしても、実質主演の女の子で観客を持っていかなければ、難しい、んじゃないかと思うんだよね。
あのね正直……そこが、弱かった気がする。ハツキを演じる三吉彩花嬢はとても可愛いし、素直な演技をするし、決して悪くないんだけど……その一生懸命さが型にはまってしまって、少女だけが持つゆらめきが飛んじゃっている気がしてしまう。
それに何たって大泉センセーと麻生久美子の間に入っちゃ、分が悪い……というところで思い出す、ジュリーと裕子さんの間にいてもきらめいていたちーちゃんのことを。
……いけないいけない、過去の映画を持ち出してクサすのは、トッショリがやる一番ヤなやり方(爆)。うう、でも、少女には大人に臆してほしくないのよ。自分の感性を信じて、生身で勝負してほしい。
……相変わらずどんな映画なのか判らんまま突っ走ってるけど、まあいつものことだから、もう少し言わせて(爆)。それで言えばね、彼女の親友役のトモちゃんを演じる能年玲奈嬢の方が、持ってっちゃってるんだよね。
彼女、「カラスの親指」の時には、それこそ一生懸命さが先に立っててピンとこなかったけど、本作の、“ヒロインの親友役”というスタンスが肩の力を抜かせたのか、とてもイイの。繊細で、少女の揺らめきがあって。
仲の悪い両親の間で悩んでいる少女という、役柄的なオイシさはあるにしても、あどけない笑顔と屈託のない喋りの中に、言い出せない苦悩を抱えてる潤んだ瞳がヤバかった。いつもいつも笑っているのに、いつもいつも泣いているような、たまらなさがあった。
上手さとかじゃない。それこそが、少女女優だけが持つことが出来る、きらめきなのよ!!
……難しいなあ。だからといって、彼女たちの今後がどうなるかなんて、判らないんだけどさ。
なんかね、彩花嬢に関しては、弱い気がしたの。キャラ的に、母親、父親のような存在、親友、等々、色んな人間関係に対する立場を任される、難しさもあったからだとは思うんだけど。
で、まあいい加減内容に行けよ、って。惹句にもあるように、家族の新しい形、ってヤツ。
物語の冒頭、長い“世界ツアー”から帰ってくるヤグは、ハツキの父親ではない。でもハツキが産まれた時からずっとそばにいて一緒に暮らしてきたし、ハツキもずっと父親だと思って育ってきた。
ハツキの母親、アキは未婚の母ってヤツ。ヤグと同じパンクバンドで青春を過ごし、17歳の時にハツキを身ごもった。後に語るところによると、ハツキの父親の男はお腹の赤ちゃんを「いらない」と言い、その瞬間からアキにとってソイツはそれこそいらないヤツとなった。
二つ年下のヤグからその時プロポーズされたけど、なんたってヤグはそん時15歳のチューボー。そんなんムリ、てな訳だけど、出産に立会い、「この子たちをハッピーにする」と、ハッピー→ハツヒ→ハツキ、と命名する名付け親となった。
ヤグは交通事故を起こして保険金が思いがけず大きく入ったもんだから、音楽の夢を持って“世界ツアー”に旅立つ。そんなヤグをアキは「面白いヤツだよね」と笑顔で見送った。ヤグが二年ぶりに帰ってきても、同じ笑顔で彼を迎え入れた。
中学三年生になったハツキはいわゆる思春期&反抗期もあっただろうな、素直にこんな二人を受け入れられない訳。
進路を決めなきゃいけないことも手伝って、ヤグはこんなんだから働くとかいうタイプじゃないし、アキはシングルマザーで頑張ってるけど、ハツキが炊事を任され料理の腕を上げたり、決して“普通”の家庭ではない。
ハツキは三社面談にも来ない母親のことを担任から暗に責められたこともあって、私は就職して家を出る。お母さんはヤグと結婚して楽しく暮らせばいいじゃん、なんていう結論に達するんである。
で、先述の親友の家庭と比べたりなんてことがあってね。この親友、トモちゃんはヤグに言わせれば「箱入り娘ちゃん」つまり、裕福な家庭、らしい。そんな風に言うヤグをハツキは嫌がって、アッチが普通なの、と言い募る。
普通、普通って何、という展開は、三社面談に来ないアキを担任が訪ねてくるくだりとかにもあるし、普遍的なテーマではあるけれど、ちょっと手垢がついたテーマである気がする。
とにかく“普通”を良しとする世間の、日本のことなかれ主義は確かに問題ではあるんだけれど、それをテーマにする場合、今ではもっともっと、クリアーな結論が求められるんじゃないか、って気がするんだよね。
“ロック”を合言葉に、あるいは結論の言葉として、ハツキを女手ひとつで育ててきたアキと、やはりそれを合言葉&結論として自由人として生きてきたヤグ。“普通”という言葉やイメージに対するもどかしさより、本作に関してはこの“ロック”が何なのかのそれの方が強く感じてしまう、というのは、キビしいんじゃないのか……。
もちろん、“普通”以上にひとことで言えることじゃないさ。ハツキにキレ気味にそれを問われたヤグも、結局は言葉では説明できずに、自分の歌で、あるいはそれ以上の生き様で示すというカンドー的なラストであり、それ以上は確かに出来ないんだと思う。だって、ロック、なんだもの。
でも、ちょっと、ごまかされたというか、はぐらかされた気が、するんだよなあ。だってね、結局ヤグとアキが結婚して、それがハッピーエンドとなって本作は終わるじゃない。正直、それはないんじゃないの、と思ってしまったの。
結婚が幸せの形じゃない、血がつながってるとか、籍を入れた正式な父親とか、父親が家族を養うとか、そういうことじゃない、とここまで言い続けてきたじゃない。
ヤグが作るカレーがバツグンに美味しくて、いつもアパートの階段のところで「ヤグカレーだ」とその匂いにニコニコしながら上がってくるアキとハツキ。だからといってヤグはお母さん的立場って訳じゃなくて、お母さん的立場なんての自体がここにはなくって、ヤグであり、アキであり、ハツキである。
アキは割と判りやすく父親っぽいけど、ハツキは普段の家事を担いつつやっぱり子供の立場だし、ヤグは……ああ、そうか、やっぱりヤグは自由人なのだよね。だからこそ全てが見えているし、どんな立場にもなれる。
ヤグカレーで二人を癒し、ピリピリする二人を心配し、あるいは自分を心配させる可愛らしさを持つ。家族のような家族でないような、そんなカテゴリを持ち出したくない、素敵な関係。
アキとヤグは明らかに愛し合っている。そうに違いない。アキはヤグのことを結婚とかいう形で縛って彼らしさを奪うのならば、それはしたくないと言い、ヤグはそんなアキの気持を判っているからこそ、プロポーズを酔っぱらってとかオモチャの指輪でとかでしか、言えなかった。
そうならば、そうならば、新しい家族の形を示すならば、最後まで、籍に頼らぬ三人でいてほしかった。オモチャの指輪が韓流みたいだなんて言っておいて、マジでそれをオーディエンスの前に掲げて、30過ぎのパンクバンドの再結成で結婚を公表するだなんて、正直な気持としてはサイアク(爆)。
おっかしいなあ。若い頃は、公開結婚宣言とか、指輪とかもそれがオモチャであったりしたらなおさらドキュンだったのに、それこそ少女の気持が失われてしまったのかしらん??
でもね、でもねでもね……自由人のヤグにイラッときて、あんたなんかに家族のなんたるかなんて言われたくない、って、それこそ少女らしい憤りでハツキから吠えられてさ、ヤグはものすごく傷ついた顔をした、のは、後にアキから聞かされたところによると、ヤグは交通事故で両親をいっぺんに失った過去がある、と。
……えーっ、と、正直、ガックリくる。何その、浪花節な設定。今時。しかもアキが「それでもアイツ、いつでも笑ってた。これからも笑っていてほしいんだ」……えーっ……なんか30年前ぐらいに聞いたことあるような台詞なんですけど……。
まさかのごってりベタベタな浪花節。ウッソでしょ。そうでなきゃヤグはアキやハツキを愛せないみたいじゃないの。それこそ今なら、“普通”に、両親が離婚した経験があるとかの方がマシだよ。
実際そんな“普通”の事態に親友のトモちゃんが直面して、ハツキは人生経験、するんだからさ。トモちゃんが両親の離婚に伴って突然転校することになった時、それを知らずにトモちゃんにヒドい言葉を投げかけたハツキ、さよならとごめんは言える時に言わなきゃダメだと、青春ドラマよろしく授業中のハツキを奪還しに来たヤグ。
ヤグは確かに両親をいっぺんに失う悲劇に見舞われた訳なんだから、この台詞は真実味はあるけど、トモちゃんのことを箱入りちゃんと呼んだりもしたし、先述のようになんか時代遅れで、彼に現代の子供たちの痛みが判っているかどうか、微妙なんだよなあ……。
キャラとしては立ってるし、親が喧嘩ばかりして離婚に至ってしまったトモちゃんが「ヤグちゃんみたいなお父さんだったら良かった」とうるうるの瞳で切なく口元には笑みを浮かべる、そんな存在感は確かにあるんだけど……。
てか、ハツキがね、子供とはいえ、まだ中学生とはいえ、トモちゃんに対して想像力働かなすぎなんだもおん。両親が離婚し、転校しなくてはならなくなったトモちゃんが、それを言い出そう、言い出そうとしているのに気づかず、「ヤグがお父さんだったらいいだなんて、全然判ってない。私の身にもなってよ。今日、トモちゃん、ヘンだよ」ヘンだというのは気づいてるんじゃないの……ならばなぜ……。
いや、このシーン一発ならしょうがないかとも思うけど、こういう至らなさ、二度三度、あるでしょ、ハツキ。映画の尺だから仕方ないのかもしれないけどさ……そこを感じさせないようにすることが、脚本や演出のやり方ってヤツじゃないのかなあ。
ラストシーン、もう一度バンドを組みたいというヤグに、アキも応えて十数年ぶりのライブステージ。プロになるとか、音楽の夢を追いかけるとかそういうことじゃなくて、単純に、純粋に“やりたいことをやる”。
若き頃に人気を博していたらしい彼らの再結成に結構な数のオーディエンスが集まり、盛り上がる。結婚の報告をし、娘をステージに上げる。
春休みでか転校先の熊本から遊びに来ていたトモちゃんも、色々ビックリに大盛り上がりである。トモちゃんのくるくる変わる表情はとっても良かったんだけど……。
ヤグとアキの結婚宣言、“愛する娘”に捧げる“ロックの意味”を示すシャウト、そして娘をステージに上げて共にシャウトしちゃうクライマックス、盛り上がり必至の筈なのだが、どうも彩花嬢が大人しすぎる(爆)。せめてステージに上げられたのなら、あんなボーダチじゃキビしいよう。
彼女の、あるいはハツキのキャラだとしても、見てるこっちが盛り上がらない(爆爆)。ちょっとピョンピョン飛び跳ねるだけでも違うのになあ。いや表情も、なんか、なんかさあ、このシーンをソツなく終えるって感じなんだよね……。
題材も、展開も、キャラも、魅力的なだけに、なんか、なんか、消化不良な気がしてならない。★★☆☆☆
でも、やっぱりかあ。協力クレジットに劇中の風俗店、ハニーリップの名前があったから、てことは実在であり、これはフィクションとして作られた話じゃなくて、実際こういう風俗店、風俗嬢、お客となる障害者たちがいるんだ!と興奮したから。
興奮というと何か意味合いがアレだが(爆)、でも劇中で言っているように“唯一の店”で“市場を独占している”のだろうか?風俗って一番、どんな環境にも根強くたくましく入り込んでいく商売のように思っていたから、そこでさえも、“差別”が産まれているのか。
それにしてもこの企画を蹴るなんてNHKも情けない。それこそEテレ「バリバラ」で障害者の性をとりあげているのにさあ(「バリバラ」めっちゃおもろいよね!)。あ、だったらNHK大阪に持ってったらこの企画通ったかも、とか思ったりして。
まあそれはともかく……この作品を作るためだけに映画監督になったというのなら、もしかしたら彼は、この一作のみの映画監督になるのかもしれない。
でもそれでもいいと思う。あまたの、デビューはしたけれどその後続かぬ、頭でっかちになりがちな若き一発屋のスタンスとは違うんだもの。
この物語を、フィクションとしてでもいいから届けたかったという思いが、本作を、存在する意義の重要性だけでも大きなものにしている。
物語の冒頭、風俗店店長を演じるツダカンが言う、この国には何百万人の在宅の障害者がいて、その比率で言うと、この街には何万人の障害者がいる筈。なのに、見ないだろ。日本は障害者が生きづらいことこの上ない国なんだ。だからわざわざ外に出ようとは思わない。この街に何万人がひっそりと息を潜めて生きているんだ、と語った時、そうそうそう、ホントそう!と思った。
いる筈の障害者を、全く見かけない国、日本。教育の場からも、職場からも、差別より先にまず区別して遠ざける国。それが“彼らのため”だと言う国、日本。
見慣れないから、たまに見かけると“健常者”のワレワレが“障害者”にギョッとしてしまう国。どう接していいか、どう話していいか判らないと思ってしまう国。どうも何もない。同じく接すればいいのに、それが出来ない国。
時を同じくして、乙武さんの「だいじょうぶ3組」が公開され、奇しくも同じようなことを言っていたと思う。
それこそ乙武さんはバリバラファンで、障害者が頑張ってるとか、感動的に語られることがイヤで、障害者も同じ人間、情けないヤツもいれば、悪いヤツもいて、同じなんだと言っていた。まさにそれなんだけど、乙武さん自身がスーパーマンだからさ(爆)、やっぱり特別なんだもの。
そう、本作の中で、ヒロインである風俗嬢、沙織が客である健司に言うのね。盲目でピアノコンクールで世界一になった人、テレビで見たよ、と。彼は言う。そんな人は一握り。俺はピアノも弾けない。何の才能もない、と。
障害者といえば負けずに頑張ってる姿を見たがる日本人、24時間テレビなんてその際たるモンだけど、健常者と呼ばれる私らだって、そんな特別頑張る訳じゃないじゃん。普通に穏やかに、生活したいだけじゃん。その中で、最低限、やりたいこと、楽しいことを享受していたい。
と、いう中に、性の喜びがあるのも当然である。性の喜び、なんていうとカタい、つまりセックスしたい欲望である。それにつながる恋愛の問題も、健常者と同じくそうそう希望通りには叶えられない、というのを示すためだったんだろうな、沙織自身が客にストーカーされて今の職場に逃げてきたという過去が加えられるのは。
正直、今まであまりにも“五体満足”な人間たちだけでエンタテインメントが語られてきた。加えられるとすれば、不治の病の悲恋物語ぐらい。“五体満足”でなければ死ね、てな具合である。
実際、本作にもそれを皮肉った訳でもないだろうけれど、「自分の病気、進行性筋ジストロフィーは平均寿命が30歳なんだ。でも俺はもう34歳になってしまった」と言い、しかし劇中で急死してしまう顧客が登場する。
全身にタトゥーをほどこした彼が最初の客として登場するシーン、沙織が彼の服を脱がせて現われるタトゥーの、なんかもうそれだけで生き急いでいる感じが出ちゃう息のつまるような切なさがたまんないんである。
正直、ヒロインの沙織を演じる小泉麻耶には不満も残る。風俗嬢の役なのに、グラドルで当然ナイスバディーなのに、客とのシーンはまあ、それなりではあるけれど、舌カラミチューぐらいはやってくれるのに、おっぱい、出さないよねー……。
一瞬だけ、乳首がスクリーン下に見切れそうで見切れなかったのは、処理ミスだったのか??客の手で手ブラ状態だったり、なんか、消化不良!風俗嬢の役でそれはないでしょと思っちゃう……。
客の方にはバラエティ豊かな顔が揃う。その中でも唯一の“ホンモノの”障害者で、日本人初(というかほぼ唯一)の障害者芸人として活躍するホーキング青山の存在感はさすがハンパない。
「めんどくさい客」として店長のツダカンから紹介される彼は確かにメンドくさくて(爆)、「カネは倍払うから、ホンバンやってよ」としつこく迫る。
でも彼のその“メンドクサさ”は、風俗嬢を呼んだ客である以前に障害者であることにこだわってしまう(のは、先述のように、日本の悪しき環境ゆえなんだけど)のと違って、本当に単なる“風俗を呼んだ客”なんである。
でもね、彼は沙織に、こんこんと説くんだよね。自身の障害のこと、産科医が死産で片付けますかと提案したことに両親が大反発したこと。
「障害者って、かわいそうだと思う?」「君とボクと、どっちがかわいそうなのかなあ。だって君は男のチンポをくわえるようなこの仕事を、誰からも止められない訳でしょ?」
“障害者”と区別される人たちがこの日本という国でどういう立ち位置にいるかということを、こんな風にイチから説明しなければならないほど、壁を作られて、排除されて、区別されて、……差別、されて、いる訳で。
そのことを、こんな風に、物語の冒頭で、解説よろしく語らなければ本作を劇映画として楽しんでいけないような、不健全さ、なのだ。
でも、この時の彼の台詞の中にも、少々の不穏分子がある。物語のラスト、沙織はこれからもこの仕事を続けるとさわやかな笑顔で言い、顧客以上の思いを結んだ健司に、また来てほしいって言ったら、軽蔑する?と問われて「しない。会いたくなったら、指名して」とニッコリとした。
風俗嬢がイコールかわいそう、なのだろうか。その仕事に誇りや楽しさを持ってはいけないのだろうか。
健司は中途障害ということもあってなかなか現実を受け入れられず、ベッタリの母親、カップルで押しかける心無い友達という状況もあって、すさんでいた。
この友達たちに関しては、沙織が恋人設定で乗り込んでいって、セックスにも飽きたから、可哀想な友達をお見舞いに行きましょうよ、てことでしょ?と喝破する。
正直このシーンは、かなり唐突な気がした、のは、麻耶嬢の芝居力のせいもあるんじゃないかと思うんだけど(爆)、でもそれ以前に、こんなロコツに無神経な“お見舞い”するかなと思っちゃう。
てか、障害を持ったけれど、別に病人じゃない。普通に生活しているのだもの。こういう部分も、“健常者”に欠けている部分として、強調されているんだろうと思う。ワザとらしいのも、仕方ないか(爆)。
障害者を装って、沙織を指名してきた彼女のストーカー、沙織をラブホの風呂に何度も沈めて半殺しの目に遭わせ、店長の通報によってブタ箱にブチ込まれる。
二度と会いたくなかったその男に、沙織はわざわざ面会に行く。涙を流して、ここを出たらまたお前につきまとってやる、と言う彼に、彼女は毅然として言う。もう怖くない。今まで指名してくれてありがとう。嬉しかった、と。
そこまで彼女を強くした根拠はなんだったんだろう。ちょっとね、うろ覚えなのよ。最初の客だった、全身にタトゥーをほどこしていた進行性筋ジストロフィーの男性の死、友達になってくれないか、寂しいんだ、と言う彼の言葉に、イイですよ、と軽く答えた。
沙織はその後、“友達”としての役目を果たすためだろう、仕事ではなく訪ねたら、彼の妹が出てくる。
「兄は三週間前に死にました。“友人”なのに、知らなかったんですか」口ごもる沙織に、「私がいない時に来ていた風俗の人でしょ。……気持ち悪い」吐き捨てるように言って、妹はドアをバタンと閉めた。
この妹の気持は判る気も、する。特に若い女の子は、潔癖なところがあるから。オトメだから。身内であれば余計に……。オバチャンになって若い頃を考えると、若い頃の方がよっぽどエロ欲望パンパンなんだけどね(爆)。
ああ、でもだからこそ、そんな自分が許せないっていうか、それは通常の自分じゃない、普段はきちんと常識の持った人間として生きていけると自身に言い聞かせてるからさ。
だからかえってこの年頃の女の子は、始末におえないんだよなあ……自身のエロを認めようとしないから、余計に他人、特に身内、特に異性の身内に対して厳しくなる。
性が、エロが、セックスが、こんな素敵なことはないんだと、まあ老成して素直に思えれば、この物語は、ある意味“普通の”素敵なヒューマンドラマとして受け取れるんだと、思う。
「女の子に触れれば、生殖機能が復活する」と信じている健司の母親。それって何とも日本的実子主義、タネをつながなきゃ人間として失格、御先祖様に申し訳ない、的な感覚でさ。
そうした意識が、全ての日本人を苦しめてきた。で、その差別感覚が、まず障害者に向けられるのも、ちょっと考えればおかしなことだと判るはずなのに。
ペット感覚で息子を閉じ込め、勝手に風俗嬢まで呼び寄せた母親から逃げる形で“家出”した健司と道行きする沙織のシークエンスがクライマックス。
ちょっと恋人になりそうな雰囲気もありつつ、健司が車いすごと海に飛び込む自殺未遂、美しい朝焼け……いいシークエンスなんだけど、肝心の自殺未遂の彼を飛び込んで救う沙織、飛び込んだ彼を追いかけて慌てて駆け寄るトコはやたらカメラがブレて臨場感タップリなのに、いざ飛び込んでみるといきなり動きが静止しちゃう。
彼が動けない身体だから……というのもあるけれど、なんか、なんか、もったいない!!大げさでもいいから、こここそカメラをブンブン回してほしかったなあ……。
そうよ、だって、せっかくフィクションにしたんだからさ!リアリティなくても、二人を恋人同士にするぐらいの勢いがほしかったからさ!
……でも、一番正直なところを言えば、NHKを蹴ってまでの本作、フィクションであっても、障害者側のキャストは全部ホンモノでそろえるぐらいの気概が欲しかった、などというのは勝手だと判ってはいるけれど……。
だって、いわゆるナビゲートキャストとして、これ以上ない“ホンモノ”ホーキング青山氏がすっばらしい活躍を見せてるんだからさ!
……健常者が障害者を演じるっていうのって、そりゃ演者としては大きなものがあると思うけど、ここまでずっとずっと言ってきたように、この国にはまず、普通に目にする土壌さえ、ないんだもの。
で、これは、“身体”障害者に固定しててね、知的、精神障害者を排除している“差別”がある訳。劇中、沙織が「身体障害者なら、動けないから怖くない」と言い、それは、ストーカー被害にあった過去からの発言ではあるけれど、翻って考えれば、本作の甘さであるとも言えちゃう。どこまでも永遠に仕切りのある人間社会、いや……日本、かな、やっぱり。★★★★☆
いや、この子がオバケとバレバレなのは、予告編とかでこの男の子=ミノル君が暗闇の砂場で「ねぇ、遊ぼうよ」とこっちを向いている画でもう示しちゃってることもあるんだけど。
監督の意図がそういうところにあったのならば、別にオバケバレバレでも良かったということなのだろうか。
ていうか、この画、映画の中にあったかな。あんまり記憶にない……この画が示す怖さがストレートに描かれていたら、ホラー映画としての怖さが伝えられたような気もしている。
彼はクライマックス後、モンスターと化して主人公二人を恐怖に陥れるけれど、こういう子供の本当の怖さって、変貌する前、普通の子供に見えているとき、だよね、やっぱり。
なんか見てて、「チャイルドプレイ」みたいだなあ、なんて往年のホラー映画を思い出したりしてしまった。
あれも、人形が変貌したコワイ顔が独り歩きしてるけど、本当に怖いのは、人形が人形のままである時だったように思う。その不気味さだと思う。
それに男の子のオバケものはやっぱり、「呪怨」に一歩も二歩もリードされている感もあるしなあ……まあ、あの白塗りは“普通の子供”とは言い難いけどさっ。
本作の舞台はタイトルどおり、団地である。なんか昨今、ちょっとした団地映画ブームである。思いつく限りでも四本目である。
高度経済成長期に、その景気の良さを判りやすく示すかのごとく乱立された、“ニュータウン”と言ってしまえばカッコイイけれど、団地というと、後々何か貧乏の象徴のような、かぎっ子の寂しさのような、人と人とのつながりの希薄がここから始まった、みたいに責任転嫁される場所、なんである。
団地のニーズや価値観が失われていき、住む人も減ってくるとメンテをする余力もなくなり、こんな風に外見的にもさびれていき、ますます人が住まなくなるという悪循環を起こすことを、建てられた時には想像もしなかったであろう。
いや、建物を建てる時には、何十年後かを想像して建てなければいけないというのが、今の常識だと思われるから、やはりその点でも時代から取り残された産物。
そうして外見的にも中身的にも幽霊屋敷と化した団地は、確かに現代のホラー映画にピッタリの舞台で、様々な作品を残した団地映画の最終バッターとして実に期待が持てる作品だったんだけど……。
そう、だから、せっかくこんなおあつらえ向きなんだから、社会性だのなんだのとっぱらって、純粋なホラーだったら、さぞかし怖かっただろうとも、思うのね。
監督は「僕のエリ」にインスパイアされたと言ったけれども、団地というのが、先述したような社会の問題点を判りやすく提示できる場だというのが、逆にクリエイターにとっての落とし穴だったようにも思う。
こういうこと言ったら良くないかもしれないけど、これは日本だけに通じる問題で、この作品を海外に持って行って果たして共感してもらえるのか、という疑問も残る。
それこそこういうさびれた人間関係の薄い団地で(人間関係の薄さは、その建物の形状から充分推測できる)起こるホラー映画としてならば、世界共通認識だったように思う。
ヒロインは前田敦子嬢。彼女は決して悪くない女優さんと思うのだが、本作の彼女は私的には壊滅的。
ていうか、ホラー演技って、難しいものなのね……と今更ながらに思う。ただキャーキャー絶叫してればいいってもんでもない……ていうか、彼女、あんまり絶叫もしてくれないが。
まあそこは演出なんだろうけれど、なんかハァハァ恐怖呼吸(そんなもんがあるのかはしらんが)を繰り返すばかりで、なんかそれが一生懸命やってる感じで、イマイチ伝わってこないんだよね……。
彼女、明日香は一家ともどもクロユリ団地に引っ越してきたという設定。
後から思えば、若く働き盛りの両親を持つ家族が、わざわざこんなさびれた団地に引っ越してくるというのは不自然で、伏線でもある。
それだけ団地はステイタスを失っているという逆説的な意味合いも感じる。
彼女たちの家族の風景は、最初から伏線だらけで、問題はオバケの男の子ではなく、彼女の方にある、この家族は現実の家族じゃない、というのが、最初から判りやすく提示される。
「今度の連休は休めるのよね?」「ああ、大丈夫だろ」という両親の会話が何度も挿入される。
いやその前に、その何度もに娘の明日香が不信を感じる前に示される、ひとつのエピソード。
両親からのお祝いだと渡された腕時計が、「明日香にはちょっと大人っぽすぎるかしら」しかしリボンがデザインにあしらわれた腕時計に彼女は「えーっ?子供っぽすぎるんじゃない?」と言いながらも笑顔で腕に巻いた。
幼い弟がうらやましがるのを、「サトシにはまだ早いでしょ」といなすと、「お姉ちゃんだって僕とそんなに変わらないじゃん」
明らかに10以上離れている弟のそんな言葉に、笑ってツッコむのかと思いきや、明日香はただほほえみでじっと返すだけで、その静かなワンショットが妙に長く続いた。
……ああ、これは、この家族は現実じゃない。この姉と弟が“そんなに変わらない”というカラクリがどうなっているのか、彼女が、自分が死んでしまっていることに気づいてないのかな、というのがぼんやりとした予測だった。
ホラ、よくあるじゃない。亡者に悩まされていると訴えるその当人こそが、「お前が死んでいるんだよ」と言われるという、怪談話の王道。
まあ、それは王道過ぎる、単純な推測だったから。つまりは逆だった。死んでいるのはこの家族たちの方であり、明日香ひとりが進学のためにこの団地で一人暮らしをするために越してきたんであった。
確かに今の時代でいえば、団地のこの程度の間取りは、家族というより一人か二人暮らし程度が似合ってる。
引っ越しの時に意味ありげに示されていた妙に古い段ボール箱の中には、別にバラバラ死体が入っている訳ではなく、家族たちの形見が大切に保管されていたのだった。
思えばあんな、ザ・専業主婦ってなエプロンとか、前時代的だよな、と思いながら見ていた。まあそこまではさすがにうがちすぎかもしれないけど……でも、平和な家族の象徴、という感じはしていた。
明日香は介護の専門学校に通っている。そして孤独死のニュースに、隣人のおじいさんが気になって訪ねてみると、まさに孤独死を見つけてしまうんである。
団地内の小さな公園で一人遊んでいたミノル少年が、「本当のおじいさんじゃないんだけど」自分と遊んでくれているんだと語っていた老人である。
亡霊チックに明日香の悪夢に現れたりして、高橋昌也御大がコワすぎる。こういうザ・老人を演じさせたら、彼の右に出るものはいないよね。
逆に言うと、役者さんもオシャレ老人ばかりになっちゃって、彼のような存在はホント得難い。
この老人の亡霊にとりつかれてしまった明日香は、介護の実習の時にも抱きつかれて「オマエ、シヌゾ」とささやかれる。
後から明らかになるところによると、これは彼女を思うがための忠告であって、とりついているのはあのミノル少年。
この老人もまたとりつかれたゆえに死んでしまって、孤独死で置き去りにされている状態を発見してくれた明日香には感謝している。だから彼女を救いたいと思った、てなことを、後に霊能力者から知らされるんである。
どうかな、どうなんだろ。判んないけど、団地=人間関係の希薄さ、孤独死=不幸、そんな判りやすい提示が、そうかな……そんな簡単かな、と思ってしまうこともあったりする。
団地だから人間関係が薄くなると100パーセント言ってしまうことも団地世代にとっては抵抗があるだろうし……。
特にそれはね、団地で生まれ育った世代の作り手が、その青春を投影した「ニュータウンの青春」で感じたことでね、そこで子供同士として生まれ育った子たちは、充分そこで、人間関係を築いたんじゃないかな、って思ったから、そんな風に、一般社会的に、すげなくは言えない気がしたのだ。
そして、孤独死をやたら不幸扱いするのも、看取る家族がいないことが人間として不合格、みたいな単純思考でさあ……。
本作の設定は、夫婦だったんだけど妻が先に亡くなって、子供もいなくて、もうすっかり老年の彼にとっては、この死に駆けつけるような親戚もいない、みたいな。
まず、子供がいないってことに、結婚したら子供作るだろ、みたいな非難的な目を感じ(るのは、考え過ぎだろうか……)るし、独り身のまま生涯を終える人たちはいつの時代もいる筈だし、今はますます多い訳だし、そんな人たちに対する非難の目も感じ(るのは、ますます考え過ぎだろうか……)、死ぬ時は誰だって一人なんだから、看取られないってそんなに不幸だろうかと思う(のは、……もうやめた)。
医学が発達した今は、自宅で死ぬことがなかなか難しくて、でも誰だって自宅で、住み慣れたところで終焉を終えたい筈。
こんな風に呪われて、とりつかれて死ぬのはヤだけど、そうじゃなければ、“孤独死”と言われても、私は住み慣れた場所で死にたいなあ。
今はもうそういうことを考える時期と段階に来ていると思うし、一人暮らしの老人をケアする地域福祉という構図も徐々に出来始めてる。
団地=孤独=孤独死というイメージを、こうしたノリノリ商業映画で持ってくるのはあんまり良くない気がしている。
それこそ一昔前なら、社会的問題にも一石を投じた映画ということになったのかもしれないけど……。
家族旅行先で事故に遭い、両親と弟を失った明日香。
団地に家族して引っ越してきた、と思っていた彼女の目の前から突然家族が消える。そりゃ元からいなかったんだから当然だけれど、突然がらんどうの部屋に取り残され父親の携帯もつながらず、パニックに陥る。
その前に相談していたのが、孤独死した老人の部屋に清掃に来ていた青年、忍。
死んだ者の時間は止まっている。生きている人間は関わらない方がいい、と彼女の様子に忠告していた彼は、明日香からのSOSに飛んでいく。
その間に、様子のおかしかった明日香を心配して、専門学校の先生が彼女の家を訪ねる……先はあの団地ではなく、一軒家。
明日香の兄夫婦の家で、弟夫婦と下の息子が観光バスの転落事故で死んでしまっていたことが観客に示されるんである。
忍を演じるのは成宮君。あまり好きなタイプの役者さんではないけど(爆)、そうした好き嫌いを別にしても、この忍というキャラはちょっとツメが甘いんじゃないかと思ってしまう。
原因は隣人のおじいさんではなく、実は死んでしまっている家族でもなく、成仏できずにこの団地にとりついているミノル少年であるということを特定できているのに、一刻を争うと判っているのに「早くここから離れた方がいい」と言うだけで、そのままおいて帰っちゃう。しかも表面上はメッチャ心配しているそぶりがあるのに!
引っ越す用意があるとかなんとかなんて、それこそアンタんとこのトラックでごっそり引き上げてくりゃいい話だし、明日香は親代わりとなって育ててくれた父の兄夫婦の家があるんだから、“一刻も早く”そこに身一つで帰っちゃえばいい話じゃないの。
あるいは、これにちょっとはラブが絡むのなら、忍が明日香を連れて帰ればいいだけの筈。これじゃ、明日香がミノル少年にとりつかれるためだけの、観客を納得させることなんか考えてない状況設定に思えてしまう、よなあ。
幼い弟の影をミノル少年に見出し、いけないと判っていながらドアを開けてしまった明日香が、目の下に真っ黒にクマを作って忍を振り返る場面は、いろんな意味であーあ……と思ったよ。
忍は明日香を助けたいと思って、知り合いである強力な霊能力者に助けを求める。
演じているのが手塚理美。……悪いんだけど、彼女がおとものオバチャンたちを従えて大マジにお祓いを繰り広げるシーンは、笑ってしまう。それも苦笑というか、失笑というか(爆)。
このシーンがそれこそ大マジに受け取ることが出来たなら、大分違ったと思うなあ。つまりそれまでの展開で片手落ちが色々、色々、あったからじゃないかなあ、とついつい思ってしまう。
そう、最初に彼女に助力を仰いで、明日香に会ってもらった時に、問題はおじいさんではなくて、ミノル少年にあるということが判って、今度訪ねてきても部屋に入れてはいけない、と忠告を受けた。
人は場所に憑いているんじゃなくて、人の心に憑いている、だから一度入り込まれたらどこまでも追いかけてくる、というんだから、明日香がたとえ伯父さん夫婦の家に戻ったとしても条件としては同じだったのかもしれないけど、でも一人でいたからドアを開けちゃった訳、じゃない?
この時点で明日香をこの部屋から連れ出さない忍、あるいはそういうアドバイスもしない霊能者も解せない。
んで、結果的に大捕り物みたいになっちゃって、耐えられなかったのは忍の方だった、ってなんじゃそりゃ!
てか、忍側の事情、交通事故で、助手席に乗せた恋人を植物状態にしてしまい、彼女の親から見舞いも拒否られ、意気消沈している青年、という趣。
な、なあんかこれ、これもまた、古い……30年前の少女マンガか、大映ドラマチックな設定。
などとよく知りもしないのに言ってしまうのもアレだが、植物状態の恋人とか、その原因となった彼氏に激昂する父親(母親はなだめ役というのも含め)、なんか、な、懐かしすぎる……と思っちゃう。
しかもね、だから彼が明日香を心配するっていうのも、え、なんで?イマイチよく判らないんですけど……あ、ああそうか、自分だけが生き残ったっていう……。
いやいやでも、最初に彼が彼女を気にした出会いの時は、そうした事実が明らかになる前だったよね。
彼が気にしているのを気づいた上司が「似てるんじゃないか。瞳ちゃんじゃなくて、お前と」と言うんだけど、それもただただ???私が何か、鈍いのかなあ。汲み取れないのは……。
結局、植物状態の恋人の幻影に負けて彼がドアを開けちゃって、おいおいおいおいおいー、お前、ここにいる意味何もねーやねーか!とツッコむ間もなくミノル少年によって彼は連れていかれちゃう。
ミノル少年の哀しき過去、団地の友達とかくれんぼをしていて、ミノル少年はゴミ集積場の燃えるごみの大型缶の中に隠れ、開かなくなって、誰からも気づかれず、そのまま生ごみもろとも焼却場に落とされた。
想像するだけで、ていうか、想像もしたくない痛ましい事故。事故というのもヒドい、あらゆる社会の目が欠落した事故。
それこそ、ここにこそ、社会の、人間の希薄さがあるのだろう。でもそれは、今から何十年か前の話であり、今の社会問題としては認識されない。
これを契機にしての、今の時代まで続く社会問題として提示できていたらまた違ったのかもしれない、と思う。
いや、提起している、のかな。でも、明確じゃないよね。私はなんか、感じ取れなかった。鈍感女だから(爆)。
結局ドアを開けちゃって、忍が連れ去られて、ミノル少年が受けた生身のまま焼け死んだ地獄を味あわされる。
床の下に引きずり込まれた忍を目の当たりにし、狂ったように床をひっかく明日香。すっかり正気を失って、少女に戻ってしまった彼女を、伯父夫婦が引き取りに来て、幕。
これじゃ、またミノルが明日香のもとに現れるよね、とも思うが、そうした恐怖の予感が一切ないまま、正気を失った明日香=前田敦子嬢に注目する形で終わってしまうのも、な、なんかなー!
結局はこれはやっぱり、最初からそうかなとは思っていたけど、前田敦子のための映画なのか。
と、確実性を込めて思ったのは、ラストクレジットで“企画:秋元康”と出てきたのを見て。
なんか、これ一発で、すべてが氷解したように思えた、のは、ヘンケンあり過ぎ??
でも、前田敦子嬢は、彼から離れた方がいい仕事が出来ると思うなあ。だって、あの成海璃子嬢と共に、市川準監督に抜擢された女の子なんだからさ!!
★★☆☆☆