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「つ」


2023年鑑賞作品


2023年 144分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:石井裕也
撮影:鎌苅洋一 音楽:岩代太郎
出演:宮沢りえ 磯村勇斗 長井恵里 大塚ヒロタ 笠原秀幸 板谷由夏 モロ師岡 鶴見辰吾 原日出子 高畑淳子 二階堂ふみ オダギリジョー


2023/10/25/水 劇場(新宿バルト9)
一度、満員で諦めた本作、前日にチケットをとった時、ハリウッド大作がかかるような大きなスクリーンに移っていて、それも満席近かった。こうした映画を作り上げた石井監督以下スタッフキャスト陣ももちろんそうだけれど、そのただならぬ映画に足を運ぶ選択をした観客たちがこれだけいることが、凄く嬉しかったし、頼もしささえ感じた。
確かに劇中嘆かれるように、見たくないものは隠蔽され、見ぬふりをするのが人間かも知れない。でも、そうじゃない人たちだってこれだけいるんだ。
そしてそのうねりは、特にここ数年で大きくなっていったように感じている。多様性という言葉が単なるハヤリから、実際のあらゆる事件や発信によって、その真の意味を受け取ろうと、隠されてきた人たちが声を上げ始めている。

それは、磯村君演じるさとくんの言うように、確かにきれいごとなのかもしれない。でも、見ぬふりをし、なかったものとして隠蔽するより、きれいごとから進んでいくことの方が百万倍マシなのだ。
この物語の下地となったのは当然あの、相模原の事件。あの事件が起きた時、世論が大して騒がなかったことがまず驚きだったし、そしてさらなる驚き、というか戦慄だったのは、その犯人の気持ちが判るとか、それこそきれいごとじゃないから、という勝手な正義のもとで、あの犯罪が、情状酌量される雰囲気があったことが、今思い返しても本当に……。

不思議なんだけど、今だったら、決して決してそんな意見に賛成する人は少ないだろう。そんなことを言うことさえはばかられるほど、優位側の人間による、想像力が欠如した側による、身勝手な神視線だと判るから。
多様性がハヤリであったとしても、表層的なところからスタートしたとしても、今はその数年前から案外悪くない時代になっていると、思いたいのだ。

それは楽観的過ぎるのだろうか。でも本作が、宮沢りえ氏演じる洋子さんが、私と全く同じ年、と1974年生まれの入所者の女性に対して言う年齢が、今現在じゃなかったから。
恐らく原作が発表された時に合わせていると思うけれど、それ以上の意味というか、希望を感じる。映画化される時って、大抵公開されるタイミングの時間に合わせるけれど、そうしなかったということに希望を感じるだなんて、うがちすぎだろうか。

ものすごい社会派作品だけれど、しっかりとエンタテインメントだという印象は、ちょっと過剰なぐらいの、ホラー味を感じるからかもしれない。森の中にひっそりと隠された障害者施設、そこで描かれる時間は常に夜で、月が出ている。
洋子さんがここに仕事を求めてきたのは、ずっと年若いけれどこの施設では先輩である、陽子ちゃん曰く、私と同じでしょう、小説のネタを求めてきたんでしょう、ということであったのか、どうなのか。

デビュー作が少し売れた後はすっかり書けなくなってしまった洋子さんは、陽子ちゃんに対して、ネタを求めて書くとウソっぽくなるから私は出来ない、と控えめに言うのだけれど、後に陽子ちゃんから酔っぱらっちゃって、という言い訳の元に痛烈に攻撃される。
洋子さんのちょっと売れたデビュー作、震災に取材した作品はきれいごとばかりだったと。私もあの時現地に行ったのだ、がれきの悪臭、遺体から指輪を盗み出す輩たち、そうしたことを、一切書いていなかったですよね、と。

陽子ちゃんを演じる二階堂ふみ氏は、その登場からすっかり目が据わっていて、やたら顔ドアップシーンが多くて、それだけでホラー&エンタテインメント、なんである。
先述したように常に夜であるホラー味も含めて、アトラクション的な圧を観客に強いてくる。洋子さんはそんなひどいこと言われても、……実はそのとおりだから、だからこそその後彼女は書けなくなったから、一言も言えなくて。

洋子さんには更に過酷な過去があった。生まれた赤ちゃんに重い障害があって、三歳になるまで口から食べることもできず、言葉も発せられないまま、死んでしまった。
夫との暮らしはその哀しみを見ないようにする、そうだ、見ぬふりをするだ……生活だった。とてもとてもやさしけれど、踏み込めない、その話を出来ない。オダジョー演じる夫は、手作りの人形やセットでストップモーションアニメーションを作っている。

まだ、芽は出ていない。単なる趣味だと言われても仕方ない。仕事もずっとしていなかったらしく、ようやく見つけたマンション管理のバイト先で、先輩ではあるけれどでっぷりと太った年若いえらそーなヤツから、海賊のアニメーション?そんなの誰も見たくないですよと、バカなのお前??ぐらいの圧で言われるも、彼は笑ってごまかすしかできない。

でもそれが、さとくんの所業により、夫君が、人を傷つけることは許されないことだと、それを自分の主張していい正義として言うべきなんだと悟るとしたならば、さとくんの所業はあまりにもあまりにも……代償が大きすぎたのかもしれない。
さとくんを演じる磯村君は、一見して、入所者さんたちに対して、優しい、いいスタッフに見えた。非道な所業が隠蔽されたこの世界に憤慨する陽子ちゃんこそが最初から攻撃的で、この現実をみんな見ぬふりをしている、隠蔽されている、声を上げても変わらないと、圧の強いあの表情ドアップで叫んでいた。

でも彼女は……いわば正義だったのだ。そう言えるだけの強さがあって、ずっと年上の洋子さんにかみつくだけの勇気があって、したたかさがあった。仮面夫婦な両親に反発出来るだけの若さがあった。でも、正義だったのだ。

さとくん。あの相模原の事件の犯人をストレートに刻印する人物像。生産性がない人たちは生きている意味がない、その主張は、後に政治家たちがLGBTQや独身者たちに対する暴言としてハッキリと糾弾されることとなる。
そうなると、さとくんも、政治家たちもあっさりと方向性を変える。人でなければ存在している意味がないと言い換える。ゴキブリを叩き潰すのと一緒だと。心を持っているか否かを、丁寧に聞いてから殺しますよ、と。

本作は冒頭できっちりと、しっかりと、そのさとくんの暴走に対して警告している。声を上げられない人がいるのだと。勇気を出してとかそういうんじゃなくて、本当に、物理的に。
本作で最も象徴的な入所者は、洋子さんが自分を投影した、生年月日が全く同じ女性、きいちゃん。ベッドの上で寝たきりの彼女は、所内の虐待により歩けなくなったらしいと、陽子ちゃんは言った。目も見えていたらしいのだけれど、弱視に光が良くないと勝手に判断されて、真っ暗闇の中に10年間も閉じ込められている。

洋子さんは、このきいちゃんが、きっと目が見えている筈、私たちの言っていることが判っている筈、と直感する。後に訪ねてくるきいちゃんの母親(スッピンの高畑淳子氏が泣ける)が、私も娘と話せるんですよ、と言うように、洋子さんは、きいちゃんと話せていると、確信している。
それはさとくんに言わせれば、きれいごとの自己満足なのだろうし、陽子ちゃんも、この施設のネタで書こうと思っていたことなど、さとくんが糾弾するように、勝手に想像して、こんな風に思っていると寄り添った気でいて、きれいごとだろ、ということなのだろう。

そうだ、そのとおりだ。勝手な思い込みだ。でも、百パーセント、単なる思い込みだと言い切れないじゃないか。
さとくんは結局、問うても通じない相手に、心がないと判断してブチ殺した。それが人かそうじゃないかの境目だと断じた。声を上げられない、つまり、こちら側の価値観で言葉が通じない相手が、人じゃないと、ムダな存在だと、切り捨てたのだった。

こうして書いちゃうと、それこそさとくん側からは、きれいごと言うんじゃねーよと言われるのだろう。施設内の苛烈な描写はそうしたさとくんの言葉の方が支持されてしまいそうなところは確かにある。現実を知らない大部分のこちら側は、ただきれいごとを言って済ませているということなのだろう。
でも、現実を知らないから、知っている人たちを許していいのか。知らないなら、知っていって……それが今の現在進行形だと思いたいし。そして本作の、先述したようなどこかホラーエンタテインメントめいた惹きつけ方は絶対に、希望的観測があると思う、思いたいし。

夜の見回りの中、最も衝撃的だったのは、園長から絶対に入るなと言われていた入所者の部屋、大きな音がして、さとくん、洋子さん、陽子ちゃんで入ってみると、全裸でうんこまみれでオナニーしている髭面おじいちゃんという、衝撃過ぎる画であった。
これが現実、だから閉じ込めなければ、ということなのだろう。でも……。彼らからすれば、外側から眺めているからのんきなことを言っているのだと言われるかもしれないけれど、ずっとずっと昔から思っていたのは、こんなオナニーおじいちゃんも、ずっと壁に頭を打ち続けるお兄ちゃんも、同じ歌を繰り返し歌い続けるお姉ちゃんも、そういう人たちが、排除され、隔離されているから、周りにいないから、慣れていないから、怖いと、おかしいと、思ってしまうんじゃないの。
一緒に生活出来てない、一緒の社会にいない。なんで、なんで??とずっと、思ってきた。うんこまみれオナニーおじいちゃんだって、隣の長屋にいて、もうー、またうんこまみれでオナニーしてる、とか目にしてれば、こんな風に、夜の暗闇の中の、鍵をかけて閉じ込められた中で、バケモノ扱いされることはなかったんじゃないかと思ってしまう。

声を上げられない、コミュニケーションがとれないことで、人ではなくなってしまう、という断じ方に対して、昔昔のヘレンケラーでさえ、そうじゃないことを証明した。
私も無知だったけれど、もうろうというハンディキャップを持つ人たちの、手に書く手話で意思を伝えること、進化し続ける医療技術で、かすかな目の動きなどで意思を伝えることが可能になってきた時代。

それでもそれは、限られた人たちに対して与えられる恩恵であるのは確かにそうなのだろう。でも、その恩恵があるということは、すべての人たちに意思が伝えられる可能性があるということなのだ。
つい先日観た「アナログ」で、交通事故によりコミュニケーションがとれなくなってしまった女性に対して、もうそれだけで、何も判らなくなってしまった人、家族が面倒みるしかない人、という見方になり、だからこそ彼女を愛する彼の献身的な姿が純愛ストーリーになってしまう、というのがめちゃくちゃ悔しく歯がゆかったのもそうだ。いろんな可能性がある現代でも、いまだにこんな断じられ方をしてしまうってこと。

さとくんが、心がない人は殺していいんだと言い放った時、彼の行動を予感して声をかけた洋子さんは、さとくんの、絶対に間違った正義に、それでもあまりにも強硬に言い放つもんだから心折れそうになりながらも、絶対に絶対に認めない、と言い続けた。

洋子さんの中の、いわゆる偽善的な部分をついてきて、僕は洋子さんと同じ考えだと、丁寧な口調で圧をかけてくるさとくんは本当に怖くて、そして……ああそうだ、同じ考えだと言わせたいのだ、自分が間違ってないと、あなたは僕と同じでしょうと、それでからめとることで、自分は正しい道を進んでいるんだと思いたいんだと思った。

思ったけれども……そんな単純なことでもないのだろう。さとくんはこの施設の中で葛藤し、闘い続けてきた。入所者に虐待を繰り返す先輩たちに反発するも逆にシメられるし、園長に進言しても聞き入れられない。
洋子さんが最初に接したさとくんは、入所者のために花咲か爺さんの紙芝居を用意していた。一見とても優しそうな青年に見えた。だけど……欲張り爺さんが臭いものを埋めてしまう、臭いものを掘らせた犬を殺してしまう、それを妙に笑顔で披露しているのが凄く怖くて……。
臭いものだと提示した犬を殺し、その臭いものにフタをする。洋子さんがこの施設に入った時から、さとくんはそうした心持だったのだろうか。

洋子さんの夫、オダジョー氏演じる昌平が、最後の最後、小さな国際映画祭で彼のストップモーションアニメの作品が賞をとるのがめちゃくちゃ嬉しかった。
それまでに、この夫婦は、死んでしまった小さな命を介して、お互い芯を食った会話が出来ていなかった。向かい合わせに座ることさえ、出来なかった。お互いクリエイティブ作家、でも洋子さんは長年書けないまま、昌平は認められない手作りのアニメーションを作り続けるまま。

まさに今、施設内でさとくんが障害者を殺戮しまくっている時に、その時に、洋子さんと夫の昌平は、心をひとつにしたのだった。洋子さんの中に宿った命に、また障害を持って産まれてくるかもしれない、と恐れる洋子さん、お互いの仕事のこと、そもそも出会った時の気持ちを思い起こして、二人は決心した。
洋子さんが意を決して、施設での経験をしっかりと落とし込み、書く決意をしたことが大きかった。そして、昌平の作品が、小さいながらも海外の映画祭での受賞。それを分かちあうシーンの、洋子さんの、宮沢りえ氏のくっしゃくしゃの泣き顔がたまらない。

生きていてよかった、そう、洋子さんは言ったのだ。夫の昌平は、小さな映画祭だし、賞金なんて五万円ぐらいだよ、と照れ隠しに言うのだが、洋子さんは、そんなの関係ない、関係ない!と繰り返した。
めちゃ、泣いてしまった。それはね、それは……生きている意味の、話なのだもの。さとくんは巧妙に、存在する意味をすり替え続けた。昌平と対峙した時、殺すべき相手は心がないこと、言葉でそれを証明できなければ殺すのだと言って、昌平を激怒させた。

三歳で死んでしまった息子は、言葉を発することができないままだったのだと。さとくんは、絶句したまま、それに対して答えを返せず、いいように証明の条件をすり替えたのだ。
結局はそういうことだ。洋子さんはそれをうまく彼に説明できなかった。丸め込まれた。それは、自分自身が、ハンディキャッパーさんたちに相対する経験がなかったから、それに単純に付け込まれたのだ。

確かにさ、誰だってそうだよ。でもその理由で、経験がないからって、だから判ってないんだと、ダメなんだと、判ってるこっちの経験則からの判断が正しいんだということに丸め込まれるのは、絶対にダメだ。経験がないことと、常識がないことは、絶対に絶対に違うのだもの!!

さとくんを演じる磯村君といい、陽子ちゃんを演じる二階堂ふみ氏といい、マジで圧怖すぎ!である。本作が、きちんとエンタメとして見せ切って、その上で、とんでもないものを見てしまった、その作品に自ら足を運んだんだ、という、大きなうねりを、しっかりとつないでいってほしい。本当に、とんでもないものを観てしまったなぁ!★★★★★


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