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「あ」


2023年鑑賞作品

愛にイナズマ
2023年 140分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:石井裕也
撮影:鍋島淳裕 音楽:渡邊崇
出演:松岡茉優 窪田正孝 池松壮亮 若葉竜也 仲野太賀 趣里 高良健吾 MEGUMI 三浦貴大 芹澤興人 笠原秀幸 鶴見辰吾 北村有起哉 中野英雄 益岡 佐藤浩市


2023/11/1/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
ちょっと待ってちょっと待って、怖すぎるんですけど!!かんっぜんに同時期に公開されている石井監督の二作、これは意図的な、姉妹的な二作品なの??
そりゃ違う、ぜんっぜん違う二作品なのだけれど、隠蔽、という言葉が本作の主人公、花子(松岡茉優)から吐かれた時、あっ、「月」!!と思って。でも、確かに本作も隠蔽があるけど、「月」のその隠蔽が、社会的問題として取り上げられているのに対して、本作は非常に個人的な、いわば花子だけがその隠蔽によってつぶされそうになっているという物語だ。

でも、社会的隠蔽に対しては、個人は見ぬふりをすることによって自分の生活を奪われることを防げるけれど……いやそれがダメなんだけど、ダメってことを「月」は描いていたんだけれど。
本作は、その隠蔽によって個人がつぶされる、生きていけなくなる。個人の集合体によって社会が形作られていると考えるのなら、花子に降りかかった隠蔽という呪いは、より根源的な問題なのかもしれない。

しかし、しっかし、ブラックユーモアというか、不気味に笑えるというか。コロナ真っただ中、マスクをつけるか否か、路上で飲んでいる大人を正義感というまがまがしい自己陶酔に満ちた中学生が敢然と批判するような、そんな、ゆがんだ現実はあの頃そこここに見られ、うっかり自分の思うところも言えないような空気感があったことを思い出す。
石井監督はまさしくそれを、真にコロナ真っただ中だった「茜色に焼かれる」でも描いていて、あの作品ともどこかリンクした姉妹的作品に思える。

花子は短編をいくつか発表して、長編作品を撮れるというところまで来ている新進の映画監督。しかしこのチャンスをつかんだと思った先のプロデューサーと助監督がクソで、冒頭しばらくはその胸クソ悪さに死にそうになる。
プロデューサー(MEGUMI)のクソさは、最初のうちは判んなかった。確かにいなすばかりで花子の言うことを聞いてはいないなという感じはしたけれど、助監督(三浦貴大)のヒドさに観客もキーッ!となっていたもんだから。

三浦貴大氏、「Winny」といい、貫禄がついたその体形から、アクの強い役柄がビッタシはまって憎たらしいぐらい素晴らしすぎる。
ベテラン助監督だという彼はつまり、ポッと出のような若い監督、しかも女の子、というのが、我慢できなかったのかもしれない、後から思えば。人間が判ってない、あり得ない、若いねぇ、意味が判らないを連発し、最後には、業界では今までこうしてやってきた、という、百万回聞いたような腐った言葉をとくとくと浴びせかける、クッソ男である。

もう本当に、腹が立つ!!花子はなんとか長編デビューしたいから、判ってもらいたいと説得を試みるも、最初から蔑んでいるんだから、話にならない。
プロデューサーの女性も、彼はベテランで頼りになるから、と花子の気持ちを慮るようなフリをしながら、結局は、自分には権限がないからと見捨てるサイテー女。花子の渾身の企画と脚本を奪い去って、彼女を斬って捨てたんである。

あまりにもリアリティがあり、しんねりと長尺で描くもんだから、きっとこーゆーことがマジであるんだろう、石井監督もこつこつとインディーズから受賞を積み重ねてつかみ取ってきたお人だから、そのことを考えると、うっわ、本当にあるんだきっと!と思って胸が悪くなってしまう。
ああでも、本作が凄いのは、このネタ一発で一本映画出来ちゃうぐらいなのに、そうではない、ということなのだった。

結局花子は、私たち観客を味方につけた、理不尽な仕打ちを受けたにしても、悔しいけれど、あのクッソ助監督が言うように、若いねえ、ということだったのかもしれないのだ。
彼女がこだわっていた赤、カメラを持ち歩いては、赤の映りこむ様々な景色を、人間を、切り取り続けていた。赤を入れたい、と言った彼女にクッソ助監督は、またまた若いねぇ、と言って花子のみならず観客の私たちをもキーッとさせたのだが……。
花子がそもそも撮ろうとしていた家族の物語を、マジの家族でドキュメントとして撮ることになった時、父親と二人の兄に赤のトップスを着させたことには笑ってしまった。こういうところが、皮肉な、不気味な笑いで、全編にそんなオフビートなユーモアが満ちていて、まったく油断ならないんである。

てか、二人の出会いを語らねば。もう一人の主人公と言うべき正夫(窪田正孝)である。赤い自転車に乗っていた彼を、花子が見かけ、撮ろうと思ったが撮り損ねたんである。
アベノマスクと言われたあのちっちゃなガーゼマスクをしている彼と、地下に降りる階段の下にある小さなバーで行き合う。誰に頼んでも100パーセントくれる、だから100枚ぐらい持っている、節約できている、というアベノマスクを血で染めた彼は、先述した、正義で武装した中学生と、彼にいちゃもんつけられていた路上飲みの男性二人を仲裁しようとして、逆に殴られてしまったのだった。それも花子は見かけていた。

正夫と同居している友人が花子の作品のオーディションに合格した役者、という奇跡的偶然もあって二人は急速に接近する。その友人を演じているのが仲野太賀君で、花子の作品の、結局彼女が監督出来なかったビッグゲストとして中野英雄氏が登場するもんだから、うっわ親子共演、私初めて見たかも、もしかして初??とテンション上がってしまう。
でも、息子の太賀君演じる落合は、花子が病気で監督が出来なくなったと知って(それはウソだったんだけれど)なにか、いろいろやりきれなくなったのか、自ら命を絶ってしまうのだ。

その彼の葬儀で、薄々気づいてはいただろうけれど、花子はプロデューサーのクソ具合を改めて確信することとなる。優し気な風を装っていたくせに、自分には権限がないという言葉で、見えない幹部に責任を丸投げするクッソぶりを。
このまま引き下がるのかという正夫の言葉に、花子はそんな訳あるかいと奮い立ち……もう10年も会っていない家族との物語に突入するんである。

こうして書いてみると、そこから濃厚に語られる家族の物語のための、導入のためのエピローグだったのかとも思うが、それにしてもしんどすぎるものだから、むしろそこからの、内容的には確かにこちらの方がしんどい物語なのに、妙に軽さがあって、笑ってしまう。
それは、正夫が同行しているからかもしれない。正夫は、自分には夢がない、だから花子にそれを叶えてほしいと、こつこつためた預金通帳を差し出した。まだお互いの気持ちを確かめ合っていない時で、いや、お互いの気持ちは判っていたけれど、花子にも意地があったし、迷いもあった。

あの雨の日、死んでしまった落合の葬儀の日、クッソプロデューサーにくってかかったのをホコリでも払うようにあしらわれた日。
何度もかかってきていた父親からの電話を無視し続けていた花子は、連絡を取り、実家に帰ってくるんである。

ネタバレ、オチバレで言えば、父親は胃がんで余命いくばくもなく、家族離散になっていたのは、花子がまだ幼い頃に母親が突然消えてしまったことが遠因になっていた。
遠因、だろう。原因、ではないと思う。花子と次男はうっすらと覚えている程度で、理由とか事情とかははぐらかされたままだったのだから。はぐらかされたことそのものが、離散の原因だったのだろうが……。

結局は明かされてみれば、よくある、というか、大体これでしょ、という、母親に恋人ができて、出て行ったということ、本当にそれだけ。
そんなシンプルな事実を、海外に仕事に行った、なんてよく判らん嘘をついたのは、もう物心がついていて、幼い弟妹を心配した長男の入れ知恵だったと聞けば、それこそこれぞ、若いなぁ、という考えの足らなさだったと思うけれど、父親がそれを……弱った心だったからなのか、採択しちゃったもんだから。

という、オチに至るまでには、誰もがなかなか口を割らないので、ドキュメント映像を撮りながら、妙にオフビートな展開が続く。ついてきた正夫が、「家族に対しては別人のように当たりが強いんですね」と驚くのが可笑しい。
それは、正夫が見ていない筈の、あのクッソプロデューサーとクッソ助監督に対して、納得いかないと思いながら、必死に説得しようとしても上手くいかず、結局すいませんと謝ってしまっていたあの姿。それでも思い切って、私の思う通りにします、と押し通そうとしたら監督は病気になりましたと切られて、放り出された。

そのストレスが、10年も会っていなかったというのに、身内だという安心感なのか、近親嫌悪なのか、うわーッ!!と爆発するのが、正夫が戸惑うのもあいまっておかしくてたまらない。
花子は、そして演じる松岡茉優氏はマジにブチ切れているのに、それがすさまじいほどに、なんだかおかしくって。

10年という時はさすがに長い。花子、そして長男の誠一(池松壮亮)はこの家族に反発したまま、連絡を取らないままだったから、父親や母親の事情なんて、知らずにいた。
教会の神父となった次男の雄二(若葉竜也)は父親とちょくちょく連絡をとっていたらしいが、根本的なところは知らなかったみたい。

父親は、出て行った妻の携帯電話の料金を払い続けていた。基本料金しか発生していなくてどうやら使っていないらしいと判っていても。
自身の病気のことが子供たちに知れることとなったこともあって、もう何もかもを明らかにすべきという展開になってくる。お母さんに電話しようかと父親が言う。長男は止めるけれど、花子は、かけてほしい、と父親に言ったのだった。

電話に出たのは、母親のパートナーで、彼女は三年前に亡くなった、もし電話がかかってきたら、それを告げてほしいと頼まれていたのだと語った。ずっとずっと、母親の方から電話がかかってくるんじゃないかと思っていただろうし、父親の方も、かけるかどうかと逡巡したことは何度もあったに違いない。
今、突然の反抗期みたいに花子がカメラと共にやってきて、戸惑いながらも、今、と思って、二人の息子たちも見守る中で電話をしてみたら、もう、遅かった。
いや、遅かったということではない。家族としてどう咀嚼して、この後の関係性をどう構築するかなんてことは、どの時点で電話をかけたとしたって、その上で決まっていくことだし、判り合っていくことなのだろうと思う。

正夫はこの家族の間におどおどと入り込んで、でも嬉しそうだった。詳しい事情は判らないけれど、自分には家族がいないんだと言っていたし、どこか風変りな彼は、きっと友人は落合君一人だったんじゃないかと思われるような雰囲気があった。
散々、お前は誰なんだと言われ続け、でも臆せずスマホで撮影を続け、長い旅の最後、父親をハグする場面、めちゃくちゃじーんとした。

その後父親が死に、思い出話のようにきょうだいが集まる時、父親の亡霊?を見た次男が、ハグしたかったという父親の願いをかなえようということなんだけれど、実はかなっていたと。
それは、父親の生前、最後に家族が集まった時に、雷が落ちて、停電になって、父親がろうそくをともした。まずここでシークエンスは終わっていたのだけれど、いい気持で酔っぱらっていた父親が、子供たちに支えられながら、つまりハグしまくりでお布団にみんなして倒れ込んだ動画を、あれは正夫が撮っていたのかなあ……残っていて、それをきょうだいみんなで、亡霊となった父親も覗き込んで、幸せなエンディングとなる。

亡くなった元妻の携帯電話を、つまらないマニュアルのために解約できないシークエンスも妙に好きだった。店員の言う通り、謄本をとれば簡単に出来るのに、そんなことまではやりたくない、という父親の気持ちも判るし、つまりは、人間一人を証明するってことが、こんなにも困難なことなのだっていうことなのかなぁって。今生きていること、死んでしまっていること、夫婦関係であったこと、親子関係であること、友達であったこと……。

花子たち家族もちょくちょく訪れていた父親の友達が経営している海辺のレストラン、その友達の娘さんのことを、花子たちは覚えていなかった。父親が暴力事件で逮捕されたということだけは覚えていて、それを軽蔑材料にしていたのに、なぜそんなことになったのか、覚えていなかった。
娘さんはクソ男に騙されて命を絶った。憤った花子の父親は、その男をボッコボコにして、片目を失明させてしまって、逮捕されちまった。そんな話を聞かされてシーンとなる家族たち。そこに聞こえてくる、特殊詐欺グループの男達の自慢気な、騙す相手を見下げ果ててるクソ話が聞こえてきて……。

このグループをぶちのめすか否かで、家族が結束するというやりとり、アベノマスクで顔を隠そうという展開、もうここまでくると可愛くなっちゃって、どうなったかの展開を飛ばすのも、そうよねそうよね、ご苦労さん!!と言いたくなっちゃう。
きょうだいたちは皆、それなりに自分の時間を生きているけれど、ちょっとずつ、闘うようになっている。特に長男、それまでは長いものには巻かれっぱなしの彼が、妹の花子を侮辱されたことに反発して、ヘコヘコしていた社長にブチかましたのは、泣けた。それによって、これまでの成功が、金銭的なものも失われると判っていて、だからこそ。

花子が、搾取された企画と脚本を取り戻して、逆襲できたかどうかは、判らない。現実問題は、きっとそんなに簡単ではないのだろう。でも、食肉業に従事していた正夫が、得手勝手な人間のために一日で何千頭もの命が失われている現実に遭遇していて、そのことで得た大切さが見えてくる。命もそうだけれど、それ以上のもの。
それは、あってもなくてもいいのだ。でもある人は、せめてそれを得る努力をしなければ、理不尽に殺されてしまう牛さんに申し訳ない。私は正夫側のタイプの人間だと思う。夢はあったかもしれない。でもそれがそれほどの才能も情熱もなく、夢がない人間は存在価値がないんじゃないかと自己嫌悪に陥っていた。そんなことはないと、言ってもらえた気がして、なんだか、嬉しかった。★★★★★


曖昧な楽園
2023年 167分 日本 カラー
監督:小辻陽平 脚本:小辻陽平
撮影:寺西涼 音楽:Osier(LuckGun)
出演:奥津裕也 リー正敏 矢島康美 内藤春 トムキラン 高橋信二朗 竹下かおり 新井秀幸 文ノ綾 三森麻美

2023/11/28/火 劇場(ポレポレ東中野)
東京国際映画祭のコンペティションに選ばれているんだし、いい作品なのだろう、そうなのだろう。私がダメなだけなのだろう。だけどだけど……いいの、映画は受け手の数だけ価値が存在するんだから。
長尺なことは判ってて足を運んだんだし、そのことだけでうーんと思った訳ではないが、でもやはりそこが大きかったかな。途中で出て行かれた人が一人。それもかなり中盤の展開になってから。耐え切れなかったのだろうなと勝手に推測。私も一緒について出て行きたかったもん(爆)。

ここ10年ほどだろうか、ちょいちょい長尺の映画が現れるようになった。四時間近い映画さえあったりして。覚悟を持って挑むし、その覚悟に応えてくれる作品であれば、その長尺の意味をしみじみとかみしめることができる。
でも本作は……長尺にする必要があったのだろうかと思っちゃう。オフィシャルサイトを見ると、脚本作りから撮影現場に至るまで実験的なアプローチで撮影していったという。それが現場の緊張感とかに功を奏したのかもしれないけれど、作品そのものを思った時、果たしてこの長尺が必要だったのだろうかとどうしても思ってしまう。

老朽化が進んで住民たちに退去勧告が出ている巨大なマンションや、古ぼけた長屋の縁側とか、密集した建物を一望できる屋上とか、ちょっと魅力的な画はあるからこそ、歯がゆいんである。
こんなに長々と映し出す必要、あるの……と感じちゃう場面がいくつもある。

植物状態の老人をバンに乗せてどことも知れず、恐らく湖へと向かっていくドライブが最も耐えられなかった。
延々と続く道路を運転席からの視線で見せ、薄暗い車内を延々と見せ、……そこに心理が絡んでくるんなら判るけど、この道行きになにか心理が盛り上がってくるものがあるのなら判るけど、正直ただ漫然と見せられているようにしか見えなかったんだよなぁ。

二つの物語が、前編、後篇といった趣で描かれる。交差することはないが、介護、という点では一致している。
前編、交通調査員をしている達也が、身体が思うように動かなくなってきている母親の手助けをしながら暮らしている物語。正直、この母親の程度、というか、介護なのだろうか、というあいまいさがある。

母親はひざとか辛いのだろうか、動きづらそうではあるけれど、息子の分も食事を作ったりもしているし、洗濯物を干したりもしている。ただ、なぜかトイレだけが上手く行けないらしいんである。なのでブザーで他の部屋にいる息子を呼び、連れて行ってもらう。
でも、ドアの中には入って自分で出来るのだから、食事を作ったり洗濯をしたりはできる母親がなぜトイレだけは息子の手を借りないと出来ないのかが判らない。

母親はこの一人息子の行く末を心配して、スーパーの仕事を見つけて勧めてみたりする。でも、自分は大丈夫だからと言いつつ、一緒に暮らしてくれていると安心、とも言う。
達也はとにかく無口、というか本当に何にも言わずに、時に逃げるようにカプセルホテルに泊まってみたり、デリヘルを呼んでみたりする。母親がこらえきれず失禁してしまったのはそんな時だったんだろう。

どうもよく判らんのよ。達也はある日突然、もう我慢の限界だとばかりに爆発するんだけれど、そこまでに至る彼のアイデンティティとなりがさっぱり判んないんだもの。
母親の状態はいわゆる要介護とまでは至っていないから、返って息子の彼に重くのしかかっている、ということなのかもしれんが、そもそも彼がそうした線引きを判っているとも思えず、ただぼんやりとおもちゃのピストルを撃っている場面を延々と見せられても、勝手に爆発する前に、この生活をどう改善すればいいか考えろよ……とかマトモに思っちゃう。そう思っちゃったら、ダメだよね、この物語自体が立ち行かなくなっちゃうんだから。

その意味で言えば、後篇の方が物語世界という点では、引き込まれるものはあった。もはや廃墟となったマンションに最後に取り残された老人を、いわば勝手に介護している青年という設定は独創性があって、神秘的だったから。
でも、先述したようにドライブシーンが延々と続くのには本気で閉口したし、この物語に巻き込む女の子に対する仕打ちもさぁ……。

すみません、フェミニズム野郎なもんだから、女の子に対する仕打ちには敏感になっちゃう(爆)。
つまりは彼、クラゲ君は、ゲイだということなんだよね??上手く台詞が聞き取れなかったけれど、雨ちゃんの愛の告白にゴメンと言った後に言っていた台詞は、勝手に介護している老人への愛の言葉だったような気がする。

老朽化、取り壊しが決まっている巨大なマンション、その部屋の内部の壁とかボロボロで、懐中電灯で入り込む。でもその後、電気ストーブをつけたりするのだから、蛍光灯もつくんじゃないのと思っちゃう。水道もガスも普通に使えているし、契約は生きている状態なんだろうと思われ、だったらこの無意味な忍び込み感はなんなん。
ついついつまらないツッコミをしたくなるのは……こうした世界観は、ささいなほころびで簡単に破綻してしまうから。静かに横たわる白髪の老紳士を丁寧に清拭するクラゲ君の描写はなんとも胸に迫るものがあって、凄くいいなぁと思ったからこそ、こうした詰めの甘さが惜しいと思ってしまう。

雨とは幼なじみらしい。オフィシャルサイトの解説で知った(爆)。久しぶり、みたいな感じで出会い、デートとも言えぬ他愛ない邂逅を交わす彼らは、でも雨がクラゲ君に好きだよ、と言うぐらいの関係性は観客にも伝わっていたのに、クラゲ君はゴメン、と言う。
雨をこの老人の部屋に案内している場面で、濡れたのかお互いあられもないカッコで着替えをして、もうそんな感じならばさ、と思ったのに。

本作は、生と死、あるいは生者と死者、ということがテーマになっているのだろうと思う。ことにこの後編のシークエンスにはそれを強く感じる。
もうすぐ死ぬのだろう、そんな状態にまで至っている老人。部屋に貼ってあった湖の写真、そこを目指して三人は旅に出る。途中の海辺で、はしゃぎ合うクラゲと雨。
中年夫婦がそこにいる。雨に話しかける夫人。あめ、と話しかけ、でも雨は気づかない。彼女のバックグラウンドは明かされぬままだけれど、恐らく彼女の両親、死んでしまっているだろう両親だと思われた。この前提があるから、雨が老人の生霊、というか、でもまぁ、そうとしか言いようがない道行きが展開するんである。

てゆーか、クラゲ君がなぜ突然、買い物に寄った先のコンビニで、雨を置き去りにして走り出しちゃったかが判らんのですけど。あまりにも唐突過ぎて、え、え?なんでなんで??と……。
まぁさ、理由付けはいくらでもできるさ。恐らくこの老人にラブだったんであろうクラゲ君、彼の最期、二人きりになって送り出したかったのかな、とかさ。だったら最初から雨を連れていくなやと思っちゃうし。

雨が両親と思しき人物と行き合う海辺のシーンもね、ここだけ突然のベタというか、カイトを上げたり、砂浜に放置されていた花火(そんなんあるかい!)で興じたり、ここだけ角川青春映画かい!!とかいう気持ち悪さがある。
延々車窓を見せたり苦しめたくせに、なにこの、使い古された青春映画的描写。で、この直後雨を置き去りにするんだからマジで訳判らん……。

生霊だか死霊だか判らないけれど、パジャマからスーツ姿に生き返った老人と雨との、会話もない道行きである。グリコチョコレートパイナップルをしてみたり、楽しげである。
でも、どこへ行くのか……結果的に二人は、老人が横臥していたマンションの一室に帰ってくるのだけれど、この前のシークエンスで、ベッドも取り払われた空虚な空間が映し出されていたのだから、そのベッドも復活しているこの状態は、妄想?生霊だか死霊なのだから、とにかく現実ではないらしい。

いわば雨の恋敵であるこの老人と、まるで心を通わせたような夜の道行きだったけれど、でもやっぱり、心を通わせたわけじゃない。
全編意識的に極端に台詞のない、喋らない展開は、だったらその中に、観客に聞こえる心の声があるべき筈であると思う。
でもちっとも聞こえないんだ。言いたかないけど、この長尺、延々と続く描写に付き合わされること、自己陶酔という言葉さえ浮かんでしまった。私に理解がない、そうだとは思うのだけれど。

介護という、現代社会の重いテーマを扱うからこそ、余計にこれはあかんやろ……と思ってしまう。
美しき前衛的描写と社会性テーマを融合させるのには、相当な腕力が必要だと思う。自己陶酔と観客に感じさせちゃったら、途中退席させちゃったら、ダメだよ。それこそ実際にそうした状況に置かれている観客がいたならば、こんなもんじゃ済まないんじゃないの。

長尺というのが逃げに感じてしまったから、だから、これを、観客に見せ切る尺として提示したら、相当な力作だったんじゃないかとも思ったり。
でもそれは、私がアホで受け入れられないだけなのかなとも思うから、もうこれは、相性の問題。とにかく、辛かった。久々の拷問映画だった。ごめんなさい。★☆☆☆☆


アナログ
2023年 120分 日本 カラー
監督:タカハタ秀太 脚本:港岳彦
撮影:板倉陽子 音楽:内澤崇仁
出演:二宮和也 波瑠 桐谷健太 浜野謙太 藤原丈一郎 坂井真紀 筒井真理子 宮川大輔 佐津川愛美 鈴木浩介 板谷由夏 高橋惠子 リリー・フランキー

2023/10/21/土 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
携帯を持たない、というだけで、現代ではありえないと思われる純愛物語が成立してしまう。このアイディア一発はとっても効いている。女性が携帯を持たない、それだけで彼女を謎めいた雰囲気にしてしまうし、連絡がつかない、というだけで素性のしれない存在、にしてしまう。
携帯のなかったころは、だなんて昭和世代は言いがちではあるけれど、他の手段で連絡を取っていたし、とろうとしていたのだ。家の電話があったし、住所を知っていたら直接訪ねていったものだろう。

なのに今は、携帯がないというだけで、それ以上の連絡手段がないということが成立してしまう。もちろん、本作の悟とみゆきは出会ったばかりということもあり、お互いの距離をさぐりさぐり進めて行っている途上だということももちろんある。
それでも悟はまず、携帯を取り出して連絡先を聞こうとしたのだし、積極的に知り合おうという気持ちはマンマンなのだけれど、携帯を持っていないから、という彼女側の返答である程度気勢をそがれてしまうというのが、現代の恋愛事情なのだった。

そして、ピアノという喫茶店で木曜日のこのぐらいの時間帯、お互いに都合がつけば、いや、会いたいという思いがあれば会いましょう、ということになった。
その喫茶店をデザインしたのが、建築デザイナーの悟だった。悟は不器用なのか世渡り下手なのか、好きな手仕事をしているだけで満足なのか、顧客に好評なデザインを上司の手柄にとられてしまってものんきに構えている。
雑誌に載っているその上司の記事を、自分がデザインしたものなのに不思議に嬉しそうに眺めている彼。そこが喫茶店ピアノで、みゆきは悟がデザインした細かいディテールを褒め、悟は有頂天になった。そんなところに気づいてくれる人がいたなんて、と。浮かれまくりの悟。

後々みゆきの素性が明らかになると、有名バイオリニストで海外ミュージシャンの青年と結婚し死別、帰国後は素性を隠してひっそりと暮らし、みゆきというのも偽名、携帯を持たないのもそういう理由だったという、懐かしの少女漫画のような世界。
なるほどそんな彼女なら、感性が繊細で豊かで美しいディテールにも気づくだろうし、なんといっても窓枠の飾りがト音記号なのに真っ先に気づいたのは、そういうことなのであった。

しかも木曜日の逢瀬が途切れたのが、交通事故に遭って脳障害でコミュニケーションが出来なくなる、という展開。おいおいおい、マジでいつの時代ですかいと思ってしまうのだが、この、ありえないまでの大人の純愛物語を見せ切ってしまうのだから恐れ入る。

それは、みゆきに出会ってからすっかり上の空のニヤニヤ状態、これって運命だよな、と浮かれまくりの悟を演じる二宮和也氏が妙に可愛らしいのが、さすがアイドル……と感じさせるからかもしれない。アラフォー男子がまるで小学生みたいだ、と自嘲するようなのが似合ってしまうなんて、なかなか出来ない。
セックスどころかキスさえない、せいぜいハグと手を握るまでしか行かないのに、海辺でながーい糸電話で、一緒に生きていきたい、とプロポーズするなんて、今のアラフォー男優ならなかなかできない。

そして何と言ってもサイコーなのは彼らの悪友である。桐谷健太氏と浜野謙太氏。彼ら三人のアドリブかと思うぐらいの丁々発止が楽しすぎて、これを堪能できるだけでも観に来た甲斐があったと思うぐらい。

それに比して、みゆきの方は、先述したように過度にロマンティックなキャラ設定だし、天才バイオリニストだからなのか焼き鳥屋に入ったこともないお嬢様チックで、悪友たちからも、どこぞの謎の美女かと、気をつけろぐらいに軽口をたたいていたけれど、その推測はあながち間違ってはいなかったということなのだろう。
最後まで彼女は悟やその友人たちに対して敬語だったし、焼き鳥屋で落語の口上を披露する意外さはあっても、見えない一線を引き続ける感は最後まであった。

悟がみゆきにプロポーズするという決意に至るには、それは悟のあまりにも、……ひょっとしてこれまで恋愛してこなかったんじゃないかと疑われるようなピュアさで。
悪友二人に、彼女の何一つ知らないじゃないかと、まぁ一応はくぎを刺されるものの、最終的には彼らも、これが本当の愛なのかも、誰かに好きだと言いに行きたくなった、と言わしめ、お互い顔を合わせて、気持ちわるっ!などと言い合うのだ。

美春みゆき、それが彼女が使っていた偽名。みはる、は彼女の死んでしまった元夫の名前をもじったもの。その時点で充分に、彼女の中にまだ、亡き夫が深く宿っているのが判るのだが、悟からクラシックコンサートに誘われるまでは、彼女自身がそれを自覚していなかった。
涙を流し、どうしようもなくなって会場を後にする。その後、何度も木曜日をスルーした。そして一方では悟のお母さんが長い闘病の末亡くなってしまう。これまた木曜日で、すれ違いが続く。

でもそれでも。プロポーズすると決めて、悪友二人に付き合ってもらって指輪を用意して、木曜日。その日彼女は、父親の世話が急に必要になったのだと顔だけ見せに来た。自分では何一つ出来ない父親なのだと、苦笑気味に彼女は言ったけれど、その後彼女が完全介護の状態になって、その世話に回るのはそんな風に言われていた父親と姉なのである。
フェミニズム野郎の私はいつも思っちゃう。身内に、特に女の身内に世話の義務がおしかぶさる、こうした描写は正直やめてほしいのだ。この流れがあるから、今は他人でも家族になろうとしていた、プロポーズ直前だった悟がそこに加わることが、美しい愛の物語になってしまうのだもの。

悟とみゆきの愛の物語をクサしている訳じゃなくて、難しいな……。フェミニズム野郎の私はね、やっぱり、女側の意志の疎通が出来なくなっていること、彼女が本当は何を考え、何を望んでいるかが判らないことが歯がゆいし悔しいし、そんな彼女を愛して一緒に生きていこうという悟=男側の純愛が称賛されるのが歯がゆいし、悔しいのよ。

みゆきの姉が言うように、こんな状態になって、あなたが離れるのは何の問題もない。負担に思うのは間違っている。それが普通の感覚であろうと思う。恋愛に限らず、あらゆる人間同士の関係性はコミュニケーションが取れるか否かにかかっているから。
それを今まで培ってきた家族間においては、コミュニケーションがとれなくなったからいきなり遮断するということにはならない、それとはあなたは違うのだという理屈は確かに通っている。
悟は、家族ではないけれど家族になろうとしていた、という一点で押し通し、それが結果的には功を奏して、みゆきのために悟は海辺に個人事務所を設立、毎日みゆきに会いに行きお散歩をし、という生活を送るようになる。

その結果、あの感動的なエンドを迎える訳だけれど、……これは、めちゃくちゃ、奇跡の結末だ。みゆきの症状がどの程度であるのか、脳障害でコミュニケーションがとれない、半身不随で車いす生活、それだけしか示されなかったんだけれど、コミュニケーションがとれないというのは、そもそも彼女がこちらの言葉を理解しているのか否かの違いで天と地ほどに違ってくる。

ただぼんやりと中空をみつめているばかりの描写で、判っているのかいないのか、それをつかむのは周囲の努力次第、みたいな雰囲気だけど、……それは違うんじゃないのかなぁ。意思の疎通が出来ているのかを確認することは、基本的な医療の問題だと思うのだけれど。
そして身体のリハビリも一瞬、足を曲げ伸ばししているシーンが挿入される程度で、ずっと車いすにぼんやり座っているだけで、周囲が泣いたりなんだりしているだけのように思えちゃう。

それでもまぁ正直……生きていてくれてよかった、とは思った。木曜日に現れないまま、悟もまた木曜日にピアノに行けない……大阪への出向……があり、そんな中、悪友二人が深刻な顔をして大阪まで訪ねてきた。
有名バイオリニストとしてのベスト盤のCDを、山下(ハマケン)の奥さんがラジオ局の仕事関係で頂いてきた。その中に記されていた衝撃の経歴と、そして……ネットに載っていたニュース。みゆきの乗ったタクシーの追突事故。重体……と言って声を詰まらせた悪友二人に、重体なら死んではないよね??死ぬとかいうオチ、マジでサイアクなんですけど!!と思ったから。

でもそれでも、無事生きてはいてくれても、ぼんやりとしたコミュニケーション出来ない状態のみゆきに会った悟のシークエンスでは、これはキツい、この先、この状態の彼女と共に生きていくことで美しきラブストーリーにするのなら、死んでてくれた方がマシ(いや、言葉が過ぎた。フェミニズム野郎を許しておくれ)ぐらいに思ったのは事実。
武士の情け、っていうやつよ。こんな姿をさらすなら、死なせてくれ!!と、女だって思うんじゃないかと、思いたい。

最終的には、最後の最後には、毎日のような海辺への散歩、ピアノのマスターから頂いた美味しいコーヒー、ひざかけやマフラーであたたかくして、ゆっくりと時を過ごす。
そんな中で、いつも一方的にみゆきに話しかける悟のその手に、じわじわと手を動かして、重ね合わせた。今までも通じていたのか、段々と判るようになったのか、そこまでは判らない。でもみゆきのお姉さんが危惧したように、もう何も判らないのかもしれない、だから、同情や負担で巻き込む訳にはいかないと思った、親族の当然の想いを、みゆきがくつがえした瞬間だった。コミュニケーションがとれないと、あっち側が思ってても、思い込んでいても、内側で、そうじゃないかもしれない、そうじゃないんだと。

ハンディキャップを持つ様々な多様性には、コミュニケ―ンこそが最も重要要素であると思う。今は高度な技術によってそれがかなえられていて、正直本作に関して、純愛というテーマ性の下にきちんと取り上げてないような気はしたかなぁ。
天才バイオリニストとか、早世した旦那さんとか、天才肌で純粋なデザイナーとか、木曜日だけ会う恋人同士とか……確かに魅力的ではあるんだけれど、こんなフェミニズム野郎にも説得し倒せるほどには、柔らかすぎたような気もする。

もちろん、こんな風に、大人でもピュアな恋愛が成立すると思いたいし、そんな物語に酔いしれたいと思う。
でもさ……あぁもう、つまりは私がフェミニズム野郎だから、自分の意志が伝えられない状態で、男や身内に世話になるしかないなんて、そんなことはないと主張したいし、耐えられないのさ!!

……すみません……とても美しい物語なのに……。二人を見守る喫茶店のマスターリリー・フランキー氏、みゆきのお姉ちゃんの板谷由夏氏、ウザい上司の鈴木浩介氏、ワキを固める布陣が素敵だった。
みゆきを演じる波瑠氏が毎回違うオシャレなお洋服で登場するのが、とても素敵なんだけど、か、金持ち……と思ってしまったら、それはいかんね(爆)。★★★☆☆


ABYSS アビス
2023年 105分 日本 カラー
監督:須藤蓮 脚本:須藤蓮 渡辺あや
撮影:須藤しぐま 音楽:辻田絢菜
出演:須藤蓮 佐々木ありさ 夏子 松本亮 浦山佳樹 三村和敬 二ノ宮謙太

2023/9/20/水 劇場(渋谷シネクイント)
相変わらず情報入れてなかったので、ラストのクレジットで驚いてしまった。ええ!あの端正なお顔の主演の彼が、監督も、そして共同で脚本も手掛けているとは!オドロキ!!
しかもその共同脚本者は人気実力ともトップオブトップの渡辺あや氏!この超若手才能とのコラボレーションはどう産まれたのか興味津々。彼の才能が引き寄せたに違いないことは、すべてが感度増し増しな世界観からビシバシ伝わってくる。

さすがメンズノンノ出身の端正なお顔の須藤蓮氏だが、単純に美しいだけでなく、どこか土くさい、無骨な男子らしさが漂い、ただならぬオーラを放つ。
冒頭、須藤氏演じるケイが故郷へと走らせる車を運転させていた年配の女性は、誰だっただろうか。物語のラストで、金持ちのマダムを捕まえて食い扶持を得た彼だったから、この当時のそんな“カノジョ”の一人だっただろうか。

思えばこの故郷で運命的な出会いをするルミは、年齢は明らかにはされなかったけど、ケイの死んでしまった兄の恋人だったというし、23歳という年齢が彼だけは明らかにされるケイと比すると、やはりルミは年上に見える。
お兄ちゃんの恋人。その響きには何か、甘やかな憧れのようなものを感じる。いや、ケイは自分をボコボコにした兄への恨みつらみばかりで、死んでくれてよかったとまで言い放つのだけれど、でもなぜだか、そこにねじれた愛を感じてしまう。いや、これが、愛憎というものか。

兄の葬儀にあらわれて泣きじゃくった女性、後から思えばケイはこの時点でもう、ルミに見覚えがあった、というか、きっとずっと忘れていなかったのか。
兄の部屋を覗いた時に乱暴されていた女性。少なくともケイにはそういう光景に見えていた。後にルミと親密な仲になると、彼女がクズ男に搾取されるクセのある女性であることが判ってきて、だから兄もまたそうだったのだと思ったのだろうけれど。
そうだったのかもしれない、でも、そうじゃなかったのかもしれない。少なくともルミはケイの兄を、自分の元から姿を消した恋人を、その死を知って涙を流した。

この日の葬儀に用意された遺影は、最近の写真がないからと、若い頃のものを適当に加工したものだったらしく、ケイは誰だよ、気持ち悪い、と吐き捨てる。冒頭で死んでしまっている兄は当然、そして彼ら兄弟の人生に決定的な影響を与えた父親も、登場しない。ケイから語られるばかりなのだ。
ルミはケイの声が、兄の声とソックリだという。電話がかかってきた時、彼からかかってきたのかと思ったと吐露する。

遺影に違和感を感じていたケイといい、ケイの兄という存在が、妙に揺らぎだす。まるでケイが、ここに生きているのに今葬儀をされているみたい……。
そして、兄に暴力をふるっていた父親、その兄がケイに暴力をふるっていたというネガティブなピラミッド状態をケイは語るけれど、兄は死に、父親は話だけで登場しない。

後半になって、彼ら息子たちも放り出して逃げ出したらしい母親とケイが会うシークエンスがあって、父親のカードを使ってくすねた金を母親に渡すと、母親は極度におびえてその金を受け取ろうとしない。
見えない亡霊に怯えているみたいだ……兄も父も、観客にはちっとも見えてこないのに、ケイも彼の母親もルミも、その幻影に翻弄されているみたいだ。

渋谷という町に、二人は縛られている。ここから出て行けないと、思い込んでいる。ケイは兄の後釜に入る形で同じバーで働き、高圧的で暴力的な先輩に押さえつけられている。
なぜこのクソ先輩から逃れられないのか、こんなところは辞めて、いくらだって働き口はあるじゃないかと外野は思うが、彼は逃れられない。同じように逃れられず、逃げ出した同輩たちは、なのに同じ渋谷の街の中でこのクソ先輩に見つけられて恐怖で逃げ惑ったりしている。

ケイもルミも、居場所がないと言い、ここにしかないと言い、こんな小さな東京という都市の、さらに小さな渋谷という喧噪から抜け出せないバカバカしさにため息が出る。
物理的に考えればそれがどんなにあほらしいことか判る、彼らだって判ってる。なのに抜け出せない。一緒に逃げようと手に手を取り合ったとて、その先は見知った土地、ケイが二度と戻りたくなかった海辺の故郷の街でしかない。でもそれでも、逃げ出せたのに。渋谷なんて猥雑な街から逃げ出せば、なんとかなる、確かにそうだった筈なのに。

なぜ、上手くいかないんだろう。金の問題、確かにそれはある。でもそうじゃない、やっぱり、そうじゃない。
ケイとルミは、その出会いは兄の葬儀だったけれど、なにか、純愛が始まりそうな予感がしていた。ルミはケイの中に愛していた恋人を見たし、ケイがルミに固執したのは、彼自身は認めないだろうけれど、それはヤハリ、兄の恋人だったからに違いないのだ。

いい意味でそれが進行すれば、二人が共通するケイの兄に対する思慕があったならば、哀しくも切なくも、純愛が成立したかもしれない。でもそうはならない。
しかも、どうにもこうにも、ケイの兄、そしてルミの恋人であった人物の、本当の姿は見えてこない。ケイもルミも、自分の失ったかけらを埋めるように、自分が抱える今は亡き兄、あるいは恋人の面影をたどるしかないのだ。

亡失の物語だ……本作に感じるどうしようもない空虚な哀しさ。一見すれば彼らは、現代を生きるイキイキとした若者(死語っぽい……)で、私らシニア世代から見ればキラキラまぶしいほどだ。
でも彼らがふと抱えてしまった亡失、そこにどうしようもなく絡み合ったアイデンティティを思うと、こんな小さな街なのに、確かに巨大な街である渋谷から抜け出せなくなる追い詰められ感が判るような気もしなくもない、けれど。

ケイは悪友とつるんでプールバーでナンパしたりもするし、何よりルミの職場であるポールダンスクラブに顔を出したりするし、この渋谷という街を臆せず泳いでいる。
でもルミが、借金を抱えてヒモ男に貢ぐために風俗嬢をしていると知ると、途端にひるむ。渋谷の街を泳いで、せいいっぱい虚勢を張って、亡くなった兄やクズな父親を罵倒するのに、こんなありがちな、ヒモ男に貢ぐ風俗嬢が自分が愛する女だと、途端に、うろたえる。

あのね、オチバレだけど、結局、ケイもルミも、戻っちゃうのだ。せいいっぱいの勇気を出して、逃げ出した筈だった。それまでには二人、まるで高校生カップルみたいな、青臭いデートをしたりもした。カラスにエサをやって公園のおじさんに怒られてケイがくってかかるのをルミがなだめて、後で二人笑い合ったり、プラネタリウムを見に行ったり、ルミの部屋に行ってみるも、彼氏と一緒に住んでいると言われたら何もできなかったり……。
そう、結局、あんなに葬儀で泣きじゃくっていたルミなのに、ケイの兄に去られた後はヒモ男とはいえ彼氏がいたのだし、なのにケイと初々しいデートを重ねたり、なかなかに食えない女、なのかもしれないんだけれど。

どうなんだろう……ルミの気持ちは同じ同性でも、なかなか、計り知れない。共同脚本としてあの渡辺あや氏が入っていることを思うと、どう解釈して書き込んだのか、聞いてみたくなっちゃう。
正直言うと、同性から見るとルミという女の子は、ところどころイラッとする感がある。でもそれは、自分自身の感情に正直なところに対する羨ましさが、そういう感情になっちゃうということかもしれないと思う。

ルミに会いたくてケイが待ち伏せするのが喫煙スペース、しかも密室状態の、というのが非常に独特。今はさ、喫煙って、本当に排除されがちだし、女性となると更に、である。フェミニズム野郎としては、それは!!と立ち上がりたくなる一方、タバコ大嫌いなので、うーん、どちらに立つべきかと(爆)。

なんかね……特にケイは、たばこを吸うことが、自分を大人に保っているように、そのために吸っているように見えた。それは、彼を子ども扱いする良くないことかもしれないかな。
でも最近、喫煙シーンって、なかなか見ないから。世界的にもネガティブなイメージだし、価格もどんどん高くなってるし。わざわざ喫煙という設定にするってことは、キャラ設定、アイデンティティとして意味あることだと感じざるを得ないから。

海の目という印象的かつ、重要なファクターがある。お兄ちゃんが、どこか脅かしめいて、夜に海を見ると、海の目に飲み込まれて、死んでしまうんだと、語った、神話めいたお話。
結果的に、ケイのお兄ちゃんは、それに飲み込まれて、あるいは自ら飲み込まれに行って、死んでしまったのだろうか。

渋谷の街の暗い喧噪、そしてケイの故郷である海もどこか暗く、逃避行でたどり着いたケイとルミは、危なっかしく、ケイの兄の自死をたどるように、波打ち際で時を過ごす。
ルミの行方が判らなくなって、ケンカになったり。夢なのか現実なのか、海中で二人、一糸まとわぬ姿で清かなキスをかわしたり。
でも、そうね……これは理想、現実じゃない、判っちゃう。逃避行ったって知ってる土地にしか行く勇気がないし、結局渋谷に舞い戻ってしまう。ルミはもといた風俗店に戻り、そしてケイは、どうするのだろうか。

逃避行が、こんなに逃げきれない、結局は自分の知らないところに行けないのか、というのが、ガッカリというか、なんか……人間って、冒険できない、っていうか、本当に覚悟を持つことって、めちゃくちゃ難しいんだってことを、痛感した。
だってさ、こんなにも、傷だらけの純愛男女のストーリーなのに、しかも彼らのテリトリーはめちゃくちゃ狭いのに、なぜそこから抜け出せないのか。狭いからなのか、渋谷という街のプライドがそうさせるのか。
ああ、くだらない。本作は、そういう観点で語っていた訳じゃないと思うけれど、結果的に、さぁ……と思う部分があると、フェミニズム野郎としては、モヤモヤして終わってしまうんだなぁ。★★★☆☆


あぶく銭
1970年 81分 日本 カラー
監督:森一生 脚本:星川清司
撮影:森田富士郎 音楽:大森盛太郎
出演:勝新太郎 天知茂 野川由美子 藤岡琢也 高城丈二 水野久美 酒井修 成田三樹夫 北城真記子 水上保広 五味龍太郎 丘夏子 早川雄三 伊達三郎 堀北幸夫 石原須磨男 勝村淳 和田かつら 園かおる 伊吹新吾

2023/4/7/金 録画(日本映画専門チャンネル)
オープニングクレジットで、天知茂っ!キャー!!!ともう飛び上がりまくり。カツシンと天知茂なんて、もうもうもう、座頭市物語ではないか、もうもう。
しかし天知茂はなかなか出てこない。本当に中盤になってからである。しかし現れてからは、ああもう美しき私の天知茂(いやその)。なんなのあの、マフラーというにはただの布切れのような白い、でもマフラーなのかな、スカーフじゃないしな、をなびかせ意味不明だけど、それが妙に色っぽい。

カツシンとは、天知茂が仕切っていた賭場を荒らされてメンツをつぶされたことを恨み、執念深く追ってきているという間柄で、あらまぁ天知茂ほどの美しき男が、そんな女々しいキャラとはと思い、実のところその想いは最後までちょっとした違和感として消えないのだが、でもいいもん。
私の大好きな大好きな、男二人、バディ二人で敵地に斬り込む、任侠映画でハズせない、腐女子が泣いて喜ぶ萌え萌えクライマックスがあるんだもん!

あー、久しぶりだわ。しかも画作りが非常に繊細で、凝っていて。土砂降りの中、天知茂は赤い番傘に着流し、カツシンは黒革のロングコートに拳銃。
土砂降りで暗くて、どんな時間帯なのか、上からのアングルで、トタン屋根に土砂降りがうるさいほどに音を立て、二人の男の頭が、敵地へと共に向かう、時には下からあおって、ほの明るい光の差す橋の上を絶妙の距離を保って歩いていく二人の男。あーもー美しすぎる。こーゆー任侠映画の様式美、大好き。久々に堪能する。

おーいー。天知茂に頭イカレすぎていきなり訳判らぬクライマックス語ってしまった。最初からね。
カツシン演じるヒゲ松は、爺さま(藤岡琢也、うわ!!)、ガキ(酒井修。見たことあるようなないような……)の三人で、賭場を拳銃で荒らしまくって金を奪って回っているとゆー、荒くれ者。
冒頭、オープニングクレジットをバックに、そんなムチャな所業が描かれるのだが……そらー無茶だわ。こんなん、任侠として仁義に反しているし、双方に恨まれるに決まってる。
天知茂のキャラが女々しいとか言っちゃったが、それこそ任侠道にマジメに邁進している男にとっては、こんな浮薄なヤツらは許せないに決まっている。そーかそーか、ゴメンゴメン。フツーに考えてみればそうだった。

つまりはこんな、向こう見ずな、言ってしまえば後先考えない子供っぽさが、本作の展開を産むというか、もう裏目裏目に出ちゃうんだもの。
ちょっとね、可愛いのよ、この三人。全員いい年の大人なんだけど、風呂場で三人して沈めあいっこしたりして、まるで修学旅行の男子中学生みたいに無邪気この上ない。その無邪気さこそが、金の生まれるところに出張って行って大暴れして奪い取る、それだけで、ホント、子供よ。

でもヒゲ松は、ある男にホレちゃう。腐女子的じゃなくて、まあ腐女子的にはそう見えるけど(爆爆)、男気溢れる橋本組の代貸、七蔵に惚れこんじゃう。
ヒゲ松がたまたま、橋本組の二代目がチンピラに絡まれているのに遭遇し、単純にイラッとしてのしちゃったのね。ちゃっかりその絡んだ相手の組に出張って行って治療費をせしめているあたり(爆)。

しっかり礼を尽くす七蔵、感服したヒゲ松がそこにいた食堂のおっちゃんに、イイ男だな、おい、とささやくのが、好きすぎる。男が男にイイ男、と感服するの、腐女子は大好物。もういろいろ妄想しちゃう。
でもまだ大好きな天知茂は登場しないのさ。カツシンったら、天知茂の前に七蔵に恋する?なんて??裏切り者!!(どうも頭がおかしくなってきた……)。

ヒゲ松たちが奪った金が、橋本組が借金返済のために用意していたものだと知ったヒゲ松は大慌て、これは返すぞ!!と宣言して、爺さまやガキを驚かせる。
しかし隠しておいたはずのその金が、きれいさっぱり消え去っている。そもそも、この金の輸送現場を襲ったのは、ヒゲ松たちの前に何者かがいて、その上前をちゃっかりはねた形だったのだから、なかなかに事情は複雑になってくる。
輸送現場を襲ったのは、簡単に判る、橋本組の縄張りを根こそぎいただこうとしている悪徳な磯部組なのは明らかだけれど、ヒゲ松たちが隠した金を誰が奪ったのかは、最後の最後のクライマックスまで判らないまま。

結局ヒゲ松、そしてヒゲ松を演じるカツシンが、彼自身を投影する形で、各シリーズ、あらゆる作品で発揮してきた女好きが原因な訳だけどね!!
大金を持ってすっかりいい気持の三人は、女郎屋で女をはべらせていい気持ちになっちゃって、結局そこの女郎、ヒゲ松にやたらアピールしていた蝶子がネコババしていた、というのが、クライマックス場面で明らかになり、お前か、という一言がずしんと響くんである。
でも蝶子はヒゲ松たちが隠したの、どうやって知ったのかなあ。ただ単に私が見逃がしているだけか……。

蝶子にすっかり尻の毛を抜かれていたヒゲ松なんだけれど、金をなくして安宿に移ったところにいたのが、おしまだった。演じるは水野久美。なんつーか……めちゃくちゃ……ワケアリオーラに満ち満ちている。イイ女だというのは当然だけれど、陰の雰囲気が充満していて、薄い眉毛がちょっとコワい(爆)。
幼子を抱えて人探しをしている旅の途中、ここで女中をしているのだという。ひとめ惚れしちゃったヒゲ松は、金をエサにおしまを誘い出すも、言われた通り彼女が来ちゃうと、何で来たんだよ、そんな女なのか、みたいにさ、傷ついちゃう訳、すねる訳。

中学生か、お前はっ。でもこーゆーのが、たまらんのだよなあ。しかもこのシーン、海岸でのシーン、二人、なにか言いたい、伝えたい、でも、何故ここで二人いるのかという理由から、素直になれない、みたいな。
近づいては離れ、触れようとしてすれ違い、そんな繰り返しを、寒々しい海辺で、二人っきりで、繰り広げる、もう、歯がゆくも、たまんない!!

おしまさんは、ヒゲ松のこと、決して憎からず、であっただろうと思う。カネをエサに口説いたくせに、そんなんで男に身をゆだねるのかよ、と理不尽なスネ方をする男、いやさカツシンに惚れない女はいないでしょ!!
でも、彼女には想い人がいる。探しに探して、この地で運命の再会を果たしたのである。それが、天知茂。さむらい政。ヒゲ松の天敵。そんな偶然あるかいと思うが、まぁいい。
おしまさんは、彼の子供の存在を告げ、つれない態度をとる政だけれど、その真意をくみ取って、見抜いている。その場に居合わせたヒゲ松もまた、二人の相思相愛を目撃しちゃう。

天敵同士の再会、すわここで決着を、と海岸で二人、やり合いになるんだけれど、まぁ当然、ここはおしまさんが止めるよね。この時点で政はまだ、にっくきヒゲ松め、という感じだったのだけれど……。

橋本組と磯部組の攻防である。磯部組がつまりは、悪徳ヤクザで、橋本組の親分さんが亡くなって、二代目襲名という、スキがある、シマを奪う格好の機会、というのがそもそもの物語の展開である。
困ったな、悪役である磯辺弥市が、成田三樹夫。やっべ、めっちゃ好き、成田三樹夫。ああ、たまらん、相変わらず苦み走ったイイ男っ。

でもさ、任侠映画大好きだけど、ほぼ毎作品思うけどさ、こんなん、相手の激怒誘うだろ、当然、そのまま黙っちゃいないだろ、修羅場になるだろ、という、根回しとか取引とか全然しないのね、という、つまりは物語を展開するための、やり口だろと。
それを言っちゃあおしまいなのだが。それがあるからこそ、私のだーい好きなバディ斬り込みクライマックスがあるのだが。

てな訳だから、天知茂が登場するまではお気楽三人組の中学生修学旅行のようなわちゃわちゃが楽しかったのに、おめーらどっか行ってろ、みたいになって爺さまとガキが排除されるのはちょっと寂しい。
すべてが終わって、また道行を共にする三人の、わちゃわちゃ仲良し感は癒されるけれど、いわゆる本編には関係してこないから。

かなりの、かなりの辛さである。結局は、ヒゲ松の単純さが、裏目に出まくって、男としてホレた七蔵を、そしておしまを死なせてしまう。
七蔵に、金を返したいと思った。自分が奪った、そして更に誰に奪われたか判らない金を、だったら作り直せとばかりに、よりによって橋本組の敵対する磯部組の賭場のあがりを奪い取った。

そして、何も言わずに橋本組の上がり框にこっそり置いて……バカだろ。いいことしたとでも思ったのか。出所が判らない金をすんなり受け取るバカがいるか。
てか、もう、かぎつけた磯部組から橋本組に乗り込んでくるのは当然で、訳も判らず出所不明な金をとがめられた七蔵は、磯部組のメンメンとやり合いになり、殺されてしまう。そしてその場に偶然行き合わせたおしまさんもまた……。

そうね、おめーのせいだわ、ヒゲ松よ!!そしてもう一人、自分のせいだと落ち込むのは、橋本組の二代目。自分の幼さふがいなさにようやく向き合い、七蔵の死に自身を責めまくる。
このぼんぼんの物語をもうちょっと、知りたかった気がする。優秀な父親の死、代貸によって支えられていることが、自分はもちろん、周囲も皆判っているという辛さを思うと本当に……。

それにしても、七蔵さんや、おしまさんまで殺しちゃったら、そりゃさあ、ただでは済まないだろ、悪賢く、頭がよさそうに見えたのに、磯部組の弥市、愛する成田三樹夫、もうあっさりとあっさりと、銃弾の下さ。
時折こーゆー、頭よさそうなのにないだろ……と思うことはあるが、成田三樹夫だから、大好きだから、ただ冥福を祈ろう……。

とにかく、カツシンと天知茂の二人の道行きに萌えまくり、天知茂の、着流しからさらしを巻いたもろ肌になり、いい感じに脂肪もついた、使えるマッチョな上半身、裸、ら、ら!!ああ、神様ありがとう……。
高倉健ならいざ知らず、天知茂のもろ肌脱ぎはなかなか見られんよ。ヤバ過ぎ!!

そして、そしてね、斬り込みが終わってさ、ヒゲ松と政が改めて対峙してさ、本来は天敵、殺し合いをする同士。お前との決着が残っている、と言う政に、バッカ野郎、お前に残っているのはお前の子供よ、とヒゲ松は、いやさカツシンは、目をおっぴろげて、言うのだ。
そうよそうよ、そうですよ!!そもそも、つまんねぇ意地の張り合い、特に政にとってはさ、男のプライドなだけでさ。それの犠牲になったのがおしまさんであり、口には出さないけれど、明確には言わなかったけれど、ヒゲ松はそれを、ビシリと言い渡したのだろう。そして、いつでもやるぜと言い残してヒゲ松は去る。その足元、ぬかるみの二人の足元、パーンアップして政の、天知茂の、困ったような、言ってもらって実はありがたかったような、照れ笑いのような上目遣いのあのお顔!!キャー素敵素敵!!

その後、ヒゲ松が合流するのは、ああホッとする。爺さまとガキ。先述したように正直言って適当に追い払われた感があったけど、ツラいエンドになりそうなところが、ハッピーなこれからを感じさせる、良き決着でホッとしたなぁ。★★★★☆


あみはおばけ
2023年 72分 日本 カラー
監督:今野恭成 脚本:今野恭成
撮影:星潤哉 音楽:pachi
出演:小橋めぐみ 浅田芭路 村上純 照井野々花 加藤櫻華 五明拓弥 渡辺早織

2023/12/17/日 劇場(池袋シネマ・ロサ)
驚くべきアイディア。そしてその稀有なアイディアが、人間の深層心理を深堀りしていく恐ろしさ。タイトルもひとひねりあり、なるほどそういうことかと唸らされる。

本当に、最初は何が起きているのかと思った。小学校3年生ぐらいだろうか、阿美はシーツをかぶってお母さんとお化けごっこをしている……会話からそうと知れるのだが、どうもシルエットがおかしい。
ゴトン、と角型の重そうな音がする。ゴメン、お母さん!と慌ててベッドから降りる阿美。そこには見た目は完全にディスプレイ、懐かしのブラウン管テレビのような、でも不思議なことに電源とかコンセントとかが何もない、なのにその画面にはお母さんが映っているのだった。痛くないし、壊れないから大丈夫、と優しい笑顔で言うお母さん=三香子。

そして朝食の場面では、父親と阿美の食卓にどっかりと、その筐(はこ。オフィシャルサイトの解説で、こういう字を当てているんだと知る)は置かれていて、普通に家族三人の会話をしている。
ということは、この幼い女の子の中だけの、少女らしい妄想ではないのか……最初はそう、思っていた。ベッドでのお化けごっこのシーンでは、そんな娘を父親が心配する、みたいな図式を思い描いていた。ああ単純な私、バカバカ!

阿美は学校にさえ、その筐を持っていく。隣の机に置いて、お母さんは常に、阿美の動向をうかがっているのだ。
そのことに対して、阿美はまるで疑問を持っていないし、児童たちからヘンだよと指摘されても担任の先生はまるでぼんやりと、特別に許可しているんです、お母さんが亡くなったから、とこともなげに言うんである。

見ようによっちゃ、単純にファンタジー、死んでしまっても娘が心配で、あの世からこんな不思議な装置で見守っているお母さん、と見えなくもない。
でも、なぜか、なんだか最初から不穏だった。実際にこのお母さん=三香子が行動を起こす前から、不穏な感じがしていた。だってなんだか、おかしいんだもの。
この学校、出席の取り方が、名前を呼ばれた児童が、はい、元気です、と答える。何それ、いや、今の小学校ってそうなの?違うよね?どうなんだろう……なんだか、異様に思えたのだ。元気です、と答えなければいけないというのが。元気じゃなかったら出席が認められないのか、って。

お母さんが来ているなんておかしい、しかも死んでいるだなんて、と同級生の男の子がからかい、死体だ、くっせぇ!と揶揄し、この筐を土に埋めようとする。陰湿とまではいわないけれど、小学生ならやりそうな、なかなかに直球なイジメだ。
三香子はそれに猛然と反発、PTAの理事となり、その男の子の母親に、他の母親たちがいる前で、その事実を暴露するんである。困惑するのは阿美であり、そして私たち観客もアゼンとしてしまう。

愛する娘を見守る、ハートフルなファンタジーじゃないのか。死んだ先でもモンスターペアレントになってしまうというのか、と思ったら、更にその先があった。
突然場面転換。うつ伏せ状態で、また違った形態の筐を覗き込んでいる三香子。そこは、彼ら家族が暮らしていた部屋であることは間違いないのだけれど、がらんとして、三香子だけがいる。

そう、こちらこそが現実。三香子が死んだんじゃなくて、阿美が死んでしまったのだった。父親が科学者で、死んでしまった阿美が生き続ける仮想空間を覗き見できる、こんな装置を作った。
そして今、三香子とその夫は別れているのだけれど、三香子は筐の中の阿美の成長を嬉し気に電話で夫に報告し、後に知れることになるけれど、夫も、現実じゃないと判っていても、娘が元気に成長していると思えるような気がしていた。

三香子が覗き見る時間だけ、阿美は成長する。だから、死んでしまった時から、ほとんど時は動かない。三香子だって生活するために仕事をしなければいけないのだから。
レストランでの仕事仲間の葵が、興味深げに接触してくる。三香子はついつい、筐を覗かせてしまった。そこから狂いだすんである。

いや、そこから、ではなかったと思う。三香子が見ているのはあくまで仮想世界。本当に阿美が生きている世界ではないのだ。判っている筈だったのに、三香子は、本当にあちらの世界で阿美が生きていると思い始めているような感じがした。
でも、三香子の、先述したようなモンスターペアレント的発露が、仮想空間の阿美を、いわば成長させてしまった。

そう……これはまるで、どころか、まんま育成ゲームだ。三香子の邪心が、仮想空間の阿美を、それまでは理想的な素直でいい子だったのに、捻じ曲げて行ってしまう。
それはまさしく、三香子が仮想空間の中で得手勝手にほどこしたことを、踏襲しているだけ、つまり、母親のやり方を娘が学んで行っているだけ、なのだ!!

秘密を誰かに喋りたくなったのか、同僚の葵を家に招き、うっかり筐をのぞき見させてしまったところから、ほころびが出始めた。いや、それはきっかけに過ぎなかった。先述したように、三香子はモンスターペアレントの片りんを既に見せ始めていたのだから。
いじめっ子の母親を他の親たちの前で糾弾するだけではなかった。これはやっちゃいけない……娘の阿美の前で、自分の夫を罵倒した。勉強ばかりしているから、世間が判っていないのだと。

科学者である夫が作り上げた、この仮想空間なのに。そして、世間知らずは三香子の方だというのは、観客にはひしひしと判り、罵倒されている夫があまりにも不憫で、そしてそれを聞かされている阿美はもっと不憫で……。

仮想空間の阿美が、両親のこんな不毛な衝突を見せられて、その上での“成長”は、ママのやっていることを踏襲すること、なのだ。現実に生きている子供なら、ほかの社会性とも適合しつつ、自分の自我を成長させていくのだろう。でもここは、三香子が牛耳っている仮想空間なのだ。

同僚の葵に覗き込ませたことで、仮想空間にも葵が産まれ、夫の同僚から恋人に発展した。しかも阿美も懐いている。動転した三香子は、実際の夫、別れた夫から、なんとかこの女を消せないのかとムチャなことを言いだした。
困惑する夫だが、方法はあると言った。三香子自身の中にある、閉じ込めたら絶対に出てこれない場所に閉じ込めることが出来たら、その存在を消すことができるかもしれない、と。

三香子はこの仮想空間をどこまで、仮想空間だと、思っていただろうか。だって、愛する娘が、死んでしまった娘が生きている世界だと、それを心のよりどころにしていたんだから。
その中で、生きている人間を、消す、ということが、どういうことなのか……それとも、そこだけは都合よく、仮想世界だから、とムリヤリ割り切っていたのか。

仮想空間の葵を消し去ったことで、阿美もまたその邪悪思想に感化される。イジワルする男の子を消しちゃいたいんだけど、と言う。ママがしたように、閉じ込めたらいいんじゃない、だなんて、阿美がなぜそのことを知ったのか。
てゆーか、三香子にとって阿美は、そんな女の子じゃなかった。でも、自分自身をそのまま投影した、邪悪な存在になっていた。そして、三香子世界の同僚、葵の娘ちゃんが入り込むことで、更に世界線がややこしくなる。

葵の娘ちゃんは、どこか達観しているというか、シングルマザーの母親が、恋人とよろしくやるために三香子に預けられても淡々としている。人見知りというか、子供見知りというか、上手く対応できない三香子を見透かすような雰囲気がある。
筐の中の世界で閉じ込めて消し去った筈の向こうの葵が、不気味に復活して三香子に交渉する。そっちに私の子供がいるんでしょう。こっちの阿美ちゃんと交換しようよ、と。扉が開いたのだと、だから可能なのだと、ギィギィとバイオリンをこすりながら、言うんである。

この時点ではさ、三香子の元夫は、散々忠告していた。仮想空間であっても、その世界にも刑罰はあるから殺人なんてもってのほかだし、ということから、それ以外の手段を三香子に教えちまった訳だが。
それが、娘を愛するあまり、実際の娘じゃないってことを、自分の頭から追いやってしまって、実際の娘じゃない娘が、どんどん怪物になっていく、という恐るべき皮肉に展開していくのだった。

SF、ファンタジー、そう言ってしまうのは簡単だけど、急速に普及したAIの可能性を見るにつけ、全然あり得る世界観だと思う。その中に、わざとアナログめいた、ブラウン管を思わせる筐の造形を持ち込んでいる感じが、懐かしさというか、昭和的ロボット感覚も思わせるが、その先に見えない未来の恐ろしさがつながっている。
でも、なんだろうな、そうした未来的なことはもちろんそうなんだけれど、やっぱりやっぱり、今、今の現実、死んでしまった阿美ちゃんじゃなくって、今生きている三香子とその夫、葵やその娘ちゃんのことを考えてしまう。

仮想空間から阿美を取り戻せると思った三香子だけれど、そんなことができる訳がない。阿美はクローゼットから出てきて、三香子を抱き締め、自らを葬り去った。あの筐を、浴室でシャワーを浴びせかけ、ぶっ殺した。

現実の夫も、仮想空間の夫も、三香子をけん制し続けたけれど、結局きちんと糾弾することはなかった。阿美の父親であり、三香子の夫なのに、そのどちらも弱腰で、でもそれが、三香子なり阿美なり、強い女たちにふっとばされている気がして、なんだかかわいそうな気もした。

最後、仮想空間から阿美を取り戻したと思ったのに、開けたクローゼットの中は、雑然とした生活用具であふれている。呆然と座り込む三香子の後ろ姿でラスト。
よく思うことなのだけれど……こうした全きファンタジー、フィクションでも、実話を基にしたとかいうのでも、なんでも、なんだか母親の苦しみオンリーなのはどうしてかしら。本作でも父親は都合よく見守る側に回っているのが解せないわ。あぁもう、私、フェミニズム野郎!!★★★☆☆


アンダーカレント
2023年 143分 日本 カラー
監督:今泉力哉 脚本:澤井香織 今泉力哉
撮影:岩永洋 音楽:細野晴臣
出演:真木よう子 井浦新 リリー・フランキー 永山瑛太 江口のりこ 中村久美 康すおん 内田理央

2023/10/10/火 劇場(ユナイテッド・シネマ豊洲)
いやー、これは……。心震えてしまった。物語を思い返すとちょっとしたミステリのようにも見える構成なのに、印象はまるで違う。傷ついた心を、弱い心を、隠しているうちに自分自身にさえも見えなくなって、その事実が突然突きつけられる痛ましさ。愛していると思っていた人の突然の欠落により見えてくるのは、恨みではなくあらたな愛や優しさである不思議。
何よりこの、静かな静かな町、凪のように静かな川沿いの町の、町の中には誰も歩いてはいなさそうなのに、かなえ(真木よう子)が経営する銭湯「月乃湯」にはタバコ屋の老主人、シングルマザーとその娘、時に湯にさえ入らず、あやとりしたり将棋をさしたり、そんな風に集まってくる優しい場所。

優しさはいつも、その陰に苦しい傷をたたえている。冒頭、かなえは、貼られていた休業中のお知らせをはがした。手伝いのおばちゃん、木島さんとかなえが交代に番頭に座っている形態はずっとそうだったように自然に見えたけれど、そうじゃなかった。
夫(永山瑛太)が失踪した。銭湯組合の旅行先から忽然と姿を消した。かなえに対しても周囲に対しても穏やかな好人物。結婚して4年、不穏な空気など見せたことがなかった。

最終的にかなえは、本当は気づいていた、なにかを言おうとしていたことを……と探偵さんに吐露するけれど、誰もが、こんなささやかな気づきをしても、それを追及することなどしない。
それは言い訳かもしれない。そんな些細なことを一つ一つ追及していたら人間関係が成り立たないとか、嫌われるかもしれないとか、今は言いたくない時なんじゃないかとか。それもこうした結果が出てみれば後悔をしてしまうのは当然だけれど、どうしようもない。

オチバレで言っちゃうと、周囲には好人物に見えていた夫は、行方が突き止められて再会した時に彼が言うには、自分は嘘つきなのだと。いつも嘘で人生を渡ってきて、その辻褄が合わなくなると逃げ出す、その繰り返しだったのだと語る。
交通遺児だと語っていたのに両親は健在だったし、出身地も言っていたのと違っていた。前の会社で同僚の女性の使い込みをかばって辞めたと思われていたのが、彼に言わせれば、自分こそが彼女に罪をかぶせたのだと言った。そうやって、嘘の整合性がつかなくなって、逃げ続けてきた人生なのだと。

彼の言うことは本当かも知れないし、そうじゃないかもしれない。実際、彼が罪をかぶせたと言った同僚の女性は、彼は自分をかばって辞めていったと証言しているし、かなえ自身、夫が自分に?をつき続けてきたのだとしても、その整合性がつかなくなったのが何だったのか、判らなかったし、それを聞いても、夫は満足な答えを言わなかった。
愛を理由にしたようにも思えたし、愛を言い訳にしたようにも思えた。

そしてそれは……かなえだって、同じなのだ。夫に言ってなかったことがあった、いや、彼女自身が記憶を封印していた、と言うのは、結局はそれこそ言い訳に過ぎないのか。
何度も繰り返される、かなえが水の中に仰向けに倒れるイメージ。銭湯の掃除が終わって、たたえられた水の中にふっと、倒れるように、かなえが沈み込む。その首を絞められている、のが、最初は判らなかった。ゆらゆらと揺れる水面に、かなえの表情があいまいに揺れる。

またまたオチバレで言ってしまうと、彼女が幼い頃、仲良しだった女の子のさなえちゃんが、今は埋め立てられた池に浮かんで……死んでしまったという過去がある。繰り返し水の中に沈められるかなえのイメージは、その時一緒にいて、見知らぬ男に追いかけられ、さなえちゃんが捕まってしまって、かなえは命からがら逃げた。
彼女に投げられた男の、バラしたら殺す、そう言っていたように思うが記憶違いかもしれない……とにかくその言葉にかなえは怯えて、さなえちゃんのお母さんや大人たちに執拗に責められても頑として口を割らなかった。

これは……キツい。この時かなえが証言していたら、タイミング次第ではさなえちゃんは命を落とさずに済んだかもしれない。でもそれはタラレバに過ぎないし、幼い女の子が怖い男に脅されたら、それに従ってしまうのは仕方のないことだ。
でも……大人になっていくにつれ、その自分の判断が仕方のないことではなかったのではと思うのは当然だし、いや、それより前に、もうこの時点で、かなえは記憶を封鎖してしまっていたんじゃないかと思う。
おぼろげに思いだされる、紗がかかったようなさなえちゃんとの記憶。かなえの長い髪を結わえて、同じおかっぱ頭のように見える、ソックリじゃない?私たち、なんて言い合った二人。

そのさなえちゃんを、いつも遊んでいた駄菓子屋へ迎えに来ていた彼女のお兄ちゃん。それが、月乃湯に働きに来た堀さんだった。演じる井浦新氏の、もうこれは彼にしか出せない森閑としたたたずまいが、それだけで物語を産み出す。
確かに手伝いは必要だったけれど、ボイラー技師の資格も持っているような彼が、臨時で働くような場所じゃないとかなえは戸惑うし、住み込みと聞いてきたと聞いて、更に戸惑う。

昔、職人さんを入れていたころの条件が漏れていたのかとかなえは思ったけれど、最初から堀さんは、ここに住んで働くつもりで来たに決まってる。
もう本作はオチバレだらけでしか語れないけれど、言っちゃう。堀さんはさなえちゃんのお兄ちゃん。彼もまた嘘つきだ。出身が九州だなんて言ったって、訛りがないからすぐにたばこ屋のおっちゃんに見抜かれちゃうしさ。

でも、ほっとした。次第にかなえの過去が明らかにされてきて、彼女の前に現れる可能性のある男は、二人いたから。
さなえちゃんのお兄ちゃんだろうと、確かにまず思ったけれど、今も捕まっていない、さなえちゃんを殺した、かなえが口をつぐんだために逃げられたその犯人の男だったらどうしよう……と思った。

この事件のことは、当時大人だった、タバコ屋のおっちゃん、木島のおばちゃん、みんなが知っているのだ。そして、まさかかなえがその記憶を取り落としているとは思っていなかった。
いつも月乃湯に遊びに来ているシングルマザーの娘ちゃんが行方不明になった時、急速にかなえの記憶がよみがえり、異様に動揺し、無事見つかった報告を聞いた時には倒れてしまい、数日間動けなくなってしまった。

かなえから、さなえちゃんていう子、いたよね、引っ越したんだっけ……と問われた木島のおばちゃんの表情と言ったら、なかった。
その記憶を封印してしまうほどに傷つき、こうして大人になってかなえがその傷に再び直面した時のことを恐れる、優しい大人の顔だった。

本作は、かなえの友人の菅野(江口のりこ)が紹介してくれた怪しげな探偵(リリー・フランキー)によって、失踪した夫の知られざる姿が浮き彫りになるタームが一つの軸となっていて、別の一方で先述したようなかなえの封じられた過去が徐々に明らかになってゆく。
かなえは、まぁなんたって真木よう子氏が演じるんだから、タバコ屋のおっちゃんや木島のおばちゃんが言うように、一見気が強そう、というのはそうなんだけれど、堀さんはその意見に、そうですかね……と首をかしげる。彼にとっては、まるでそう見えていないのだ、最初から。

最初、というのは、幼い妹と仲良しだった頃から。妹が非業の死を遂げてから、家族も崩壊し、この地を避け続けていた。でも仕事の都合で通りがかった。それもバスの中から遠く見ただけの、犬を散歩させているかなえの姿で、すぐに判ったのだ。
いや、判ったというか……妹に、見えたのだ。妹が、大人になったら、こうなるだろうという姿とソックリだったと、タバコ屋のおっちゃんに掘さんは語った。

常連のおっちゃん、堀さんとはボイラーの前で、のんびり将棋を指す仲。このおっちゃんを演じる康すおん氏が最高で、このお名前、めっちゃくちゃいろんな映画で観てきたのに、イマイチ名前と顔が一致してなかった。白状しちゃうと、女優さんの名前かと思ってた(爆)。
和テイストのオシャレなファッション、詩を朗読するかのような味わい深い語り口。おっちゃんが、見抜いたのだ。彼の亡き妻が切り盛りしていた駄菓子屋によく来ていた二人組の女の子、さなえちゃんを迎えに来るお兄ちゃんだと。

少し年が離れていたけれど、いつも一緒に遊んでいた仲のいい妹だったと堀さんは語った。年が離れていたから、一緒に遊ぶことを周囲かからからかわれていたと。
そんな時期だったのだろうか。彼はかなえのことを認識してはいても、遠くから眺めている程度だったのか。この年頃の女の子の友達同士が、私たちソックリじゃない?双子みたい、だなんて鏡に姿を映してる、その妹を迎えに来るお兄ちゃん、そして、悲劇が起こって、数十年後、もし妹が生きていたらという姿をまとって、かなえは彼の前に現れた。

なんか、言い様のない切なさを感じる。すさまじい、暴力的なまでの切なさ。捕まらなかった犯人じゃなくて良かったとは思ったけれど、この事実を、堀さんがかなえに打ち明けるまでが、耐えらえないぐらい苦しかった。

月乃湯を存続させるため、薪で火を焚いていたのを重油バーナーに替えるため、譲ってくれる先を探していた。組合通じての知り合いの知り合い、何時間も車を飛ばしてみたら、火事を起こして当人は行方知れず。聞いてみれば経営状態、身内状態に問題を抱えていたという。
どこもかしこも、あれこれ、事情を抱えていて、それを打ち明けられないまま、解決できないまま、行方をくらましてしまう。ここに、まさに、かなえは、夫の失踪を重ね合わせたに違いなくて。

この道中、かなえは、思い切って、堀さんに問いかけた。私のことを好きなのですか、と。堀さんは、応えなかった。かなえは、黙っていなくなることだけはしないでください、と懇願した。
夫に去られたことが心の傷になっているのはそうだけれど、かなえは、堀さんを好きになってしまったからに違いなかった。そう明言はしなかったけれど……。

この点に関しての回収は、堀さんにとっては妹の親友で、大人になった妹そのものに見えてしまったかなえ、だから、ホッとしたようにも思うし、ガッカリしたようにも思うし、どうとらえていいか、とても、難しかった。
でも、かなえ自身、そんな単純な恋愛感情のベクトルではないと感じていたんじゃないかと思うのは、失踪した夫との、糾弾して当然の彼に対して、彼から投影される自分を見つめた時に判る自分自身、記憶のあれこれがあったから。

だから、堀さんとの関係性が、彼への感情がシンプルな恋愛感情なのかと、かなえも思ったし、観客も感じていたけれど、そうではない、いや、そうではないとも言いきれないけど、映画作品として決着をつける本作に関しては、含みを持たせるというか、静かな未来への想いがそこにあるようなラストだと思った。
さなえちゃんのお兄ちゃんであるという吐露、それを受けるかなえの表情は辛かったから、ブラックアウトした先の場面がどうなるのかハラハラしたけれど……。かなえが犬を散歩させてる。その絵で終わったら、堀さんは去ってしまったということかとドキドキしていたら、大分距離をおいて、堀さんが歩いてきた、歩いてきてくれた!

これは、これはさ……希望をつないでいいってこと、だよね、だよね…?恋愛も素敵な関係性だけれど、そうじゃない男女の関係性もある、と思いたい。もちろん、この先、二人が違う関係性を歩む可能性はあるけれど……。

嘘をついて、生きている、私も、誰しも。嘘の程度が何割なのか、そのパーセンテージで許され方が違うのか。
かなえも夫も堀さんも、結局その嘘を白状してしまう、バカ正直なヤツなだけなんじゃないの。でもさ、嘘をお互い、どの程度、把握していたら、愛と言えるのか、幸せと言えるのか。もう辛い、知りたくないけれど。★★★★★


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