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「ほ」


2024年鑑賞作品

ぼくのお日さま
2024年 90分 日本 カラー
監督:奥山大史 脚本:奥山大史
撮影:奥山大史 音楽:佐藤良成
出演:越山敬達 中西希亜良 若葉竜也 山田真歩 潤浩 池松壮亮


2024/9/25/水 劇場(シネ・リーブル池袋)
フィギュアスケートが重要な要素になっているというのが、あれだけの人気スポーツだけれどこれがなかなかなくて。それが監督さん自身がスケーターだったということを知って大いに驚く。男子は数少ないし、しかもそこからこんな才能のある映画監督さんになっちゃうだなんて、聞いたことない!!
しかもシングルではなくアイスダンスで物語が深まっていくというのもムネアツで、ラストクレジットの協力欄にしっかと河合彩氏の名前なんぞを見つけて、フィギュアファンとしてはすっかり嬉しくなってしまう。

かといって、そこから想像されるような、選手として高みを目指していくというような、そんな物語ではないのだ。一ミリもないという訳じゃない。都会の大きなアイスアリーナへ、バッジテストに挑戦しに行く場面だってあるんだから。
でもその時にはもう既に破綻している。あまりにも切なく、残酷な形で破綻している。それまでが、奇跡のように、宝石のようにきらきらとした時間だったことを思うと、それこそダイヤモンドダストが消えゆくように、この時間のなんと美しくもはかなかったことか。

ほんの半年、もないかもしれない。北海道の小さな街、雪に埋もれた真冬の季節の数か月の物語なのだ。スクリーンサイズがワイドじゃなくて、昔のテレビ画面の比率を思わせるような懐かしさなのが、この小さな世界に閉じ込められている彼らを思って、なんだかそれだけで胸が締め付けられてしまう。
本当に、反則な程に美しい画で、自然光がほのぼのと差し込むスケートリンクはいかにも昔からあって、皆に愛されて使いこまれた感じが、寒いのにあたたかさがあって。その中でくるくるとスピンする女の子たちは、そりゃあホッケーでボッコボコになってるタクヤにとっては夢のようなんだもの。

タクヤは小学校6年生。そうか、6年生だったんだ。次の春にはぶかぶかの学生服を着て中学生になっていたのだから。男の子の小学生時代は、まだまだ本当に体格も小さくて子供で、わちゃわちゃじゃれあっているのが子犬みたい。
でも、ちょっと、アクセントがある。タクヤには少々吃音がある。それによっていじめられるとか、からかわれるとかいうことはそんなにないけれど、そんなに、という感じであるのが、逆にリアルに感じる。

もちろんタクヤ自身も気にしているのは判るし、授業での朗読を当てられるシーンなどでは大人の観客であるこっちの方がドキドキするけれど、同級生たちは、きっとずっと一緒に育ってきているから、それが自然なのだろう。
むしろタクヤのちょっとトロいというか、運動神経がイマイチなところの方が、それが絶対条件の季節である男の子たちにとっては歯がゆく、雪のない季節の野球も、冬の季節のアイスホッケーも、タクヤはいつも貧乏くじを引いたポジションに追いやられてしまう。

一方で、ホッケーの練習が終わると始まるのがフィギュアスケート教室。教室、なのだろうか。女の子たちが、いかにも寒そうなのにスカートをひらめかせてくるくると滑っている。その中で指導を受けているのが示されるのはたった一人だったから、さくらが習っているコーチの荒川が、それなりの選手時代を送っていたことで、彼女の母親が指導を請うたのかと思われる。
それは、ちょこっとだけれど、送り迎えの車の中でいかにもな鬼ママ発言をするシーンが用意されているから。これは女子スケート選手の話を聞くとあるあるな感じで、不思議と男子では聞かないのは……やっぱり女子は競争も激しいし、母親が娘に夢を託しているからなのかなぁ。

タクヤがさくらの練習風景に魅入られたのは、オフィシャルサイトの解説では恋の気持ちとあったけれど、そうなのだろうか。確かに、三者三様の恋、タクヤからさくら、さくらから荒川、荒川は地元の恋人五十嵐、と並べれば判りやすい感じはあるけれど、タクヤは魅せられたのは、純粋にスケートだったと、思うんだよなあ。
ホッケーのスケート靴でスピンやスパイラルに挑戦していたのはだからだったと思うし、そして荒川がそんなタクヤが気になって、フィギュアスケートの世界にいざなったのも、解説にあったようにさくらへの恋心を応援したかったからとは、私には思えなかった。

タクヤは、今まで知らなかった世界を、この小さな、同じスケートリンクの中で発見したことで、本能的に動いちゃったんじゃないかって、私はそう思う、というか、思いたいのかもしれない。言ってみれば、さくらや荒川の抱える想いは大なり小なり相手がいることで生じる、自分勝手さがまみえたものだけれど、タクヤは結局最後まで、そうじゃなかったと思うし、思いたいんだよね。
それは、それこそ解説で書かれていたように、荒川がタクヤの気持ちを汲んでさくらとカップルを組ませたとかじゃなく、あるいはさくらが荒川の性嗜好を知ってショックを受け、タクヤを招き入れたのは男の子が好きだってことなのかと邪推するとか、そういうところからタクヤだけは離れていて、……何も知らなかった、んだよね??知らないまま、春が来て、さくらと再会したんだよね??

タクヤという男の子が、ある意味孤高だし、触媒としてすべての人の気持ちを飲み込んで、そして大人になっていく。
小学生の男の子のタクヤはいかにも子供で、シングルスケーターとして頑張っているさくらとアイスダンスパートナーとなった時は、そりゃあ中学生の女の子のさくらと組んだらとてもとてもリードするどころじゃなく、荒川からタクヤを置いていくなと注意されたものなのだった。

荒川から突然、アイスダンスをと言い渡された時のさくらの顔ったら、戸惑いよりも不満の方が大きく出ていて、そりゃそうだなと思ったし、荒川の突然のアイディアに観客側も戸惑ったものだった。
荒川は何を思って、二人を組まそうと思ったのだろう。選手時代、シングルスケーターだったとおぼしき(仕舞われていたカレンダーや雑誌でそうと知れる)荒川が、ダンスの経験や知識がどれほどあったのかも判らないし……。
でも、アイスダンスを思春期真っただ中の子供たちにやらせるというアイディアは、めちゃくちゃ化学変化が起きそうだし、実際起きたし、それは途中まではとてもとても幸福だったんだけれど……。

アイスダンスカップルとして、めきめき上達していくのが素人目にも判るのもそうだけれど、その間、まさに男の子の成長期なのだろう、小さな男の子だったタクヤが、組んでいるさくらと対等に見えるほどに、どんどんたくましく、すっと芯が通っていくのが目に見えて判るのが、何より素晴らしくって。
そして、屋外のリンク、つまり、自然のリンク、湖が凍ったリンクに出かけて練習するシークエンスがメチャクチャ良くって、そもそも本当にこんなんあるの、おとぎ話みたい!厳寒の自然の美しさも言葉を失うし、そこへと向かう雪道のドライブ、カセットテープをかけての道行き、すべてが夢のようで、三人とてもとても楽しく、心を通わせていたのに。

さくらは荒川にほのかな恋心を抱いていた、ということなのか。確かに先述したようにサイトの解説にもそう書かれていたし、簡単に考えればそれはそうなのかもしれないけれど、そんな単純に片づけてほしくない気もする。
荒川の恋人、五十嵐との、まぁ言ってしまえばイチャイチャ場面を目撃しちゃってさくらはショック受け、……そこまでは判るけど、こともあろうに、タクヤとの関係さえも、邪推した。気持ち悪い、と、小さな小さな声で、ため息のように発して、荒川の元を去った。
あんなにバッジテストに向けて一生懸命練習していたのに、会場に現れなかった。そしてさくらの母親が、指導を断る、もう娘に近づかないでと、言い渡したのだった。

めちゃくちゃ、胸が痛い。だって、荒川は何にも悪いことなどしていないのだから。そして、今の時代、それはないやろ、とも思う。でも……時代、そうね、それが、まだ、教育としても、常識としても、今、まさに過渡期、今の子供たちの親世代が、まだまだ学びきれていないし、理解しきれていないし、だったら当然、その子供たちはさ。
でも、だからこそ、今の子供たちが大人になって、彼らの子供時代には、もうそれなりに確立されていたセクシャルアイデンティティを、大好きな先生に対して無理解爆発発動したんだと気づいた時、どんなにか、どんなにか、後悔するだろうことを思うと、たまらなくキツいのだ。

でも、誰もが、この時、この季節の、この小さな街の誰もが、この数人の関係する子供や大人をのぞいた人たちは、気づかずに、過ぎ去っているのだろう。当事者であるタクヤですら、なぜバッジテストの会場にさくらが現れなかったのか、あんなにも幸せなスケートレッスンの時間がなぜ急に失われたのか、判らずに春が来るのだ。
でも、タクヤは果たして、それが何故なのか、不審に思って、追究しようとしただろうか。しなかったと思う。子供時代は、こうした理不尽なことが続けざまに起こる。理不尽だとなんとなく思っていても、対抗するだけの経験値や胆力がないから、対抗するという意識さえ上らずに、哀しい気持ちのまま時をやり過ごすのが、子供時代のエレジーなのだから。

荒川はさくらからの、まぁこれはある意味仕方ない生理的拒否反応によって、結果、仕方ないにしては厳しすぎる結果として、この地を離れることとなる。
タクヤはその経過を当然知らないし、気持ち悪い、と断じた荒川から離れて、どうやらスケートからも離れたらしいさくらは、……何もかも、捨て去って、忘れてしまったのかなぁ。

女の子、って、そういうところがある。春になった、遠くまではるかに見通せる、地平線が見えそうなのどかな通学路、向こうから歩いてくるさくら、タクヤは気づき、どきどきしながら近づいていく。
これがラストで、タクヤが抱え続けてきた吃音を、いわばどうどうと、アイデンティティとして、ちょっと恋してたかもしれないさくらに対して発する、発しようとしてのカットアウト。

小さな雪国の街での、ほんの数か月の奇跡の物語は、いわば汚い部分を何も見ていなかった小さな男の子のタクヤこそが、最も成長を遂げたと思える、何か不思議な幸福感。
荒川はこの地を離れざるを得ないことで恋人と別れてしまったのかなとか、ちらりと胸にきざす気持ちはある。でもそれは、大人の事情なのだもの。子供は、未来ある、これから生きていく子供たちにこそ、この宝石のような時間を糧にしてほしい。

タクヤと子犬のようにじゃれ合う友達、コウセイがめちゃくちゃ可愛くて、良かった。不器用なタクヤを何かとかばってくれる描写も、ホントに憤ってそうじゃん!と思っての言動に見えて、タクヤが卑屈になることがない、本当の友達って感じが尊いのよ。
ホッケーからフィギュアスケートに行ってしまうから、いわば友達同士の時間が失われるのに、さくらと二人のプログラム通しの練習を見守って、感動して心からの拍手を送ったりとか、ほんっとうに、めっちゃイイ子なんだよなあ。そんな友達を得られているというだけで、タクヤは勝ち、大勝ち!★★★★★


僕の月はきたない
2023年 86分 日本 カラー
監督:工藤渉 脚本:鈴木太一
撮影:関将史 音楽:零式
出演:古谷蓮 架乃ゆら 仁科貴 国保裕子 坂牧良太 吉田浩太 芹澤興人

2024/7/1/月 劇場(新宿K's cinema)
無名の役者がオナニーを自身に禁じることによって、成長したい、変わりたいと願うという、どっからその発想出てくるの!という一見、ナンセンスというか、愛すべきアホなコメディ、なのだけれど、確かにそうなのだけれど、不思議にマジで身につまされてくる。
本作の中で冒頭に置かれるフェイクドキュメンタリー作品は、実際に作られたものだと後から知って、へぇーと思う。つまり本作は、それを受けてのアンサー作品。アンサーがいわば本編になるという興味深い成り立ち。

しかも“無名の役者” 古谷連は、実際の役者、古谷連であり、最初に作られたフェイクドキュメンタリーも、どこまでかは本当のように思えるし、そして本作の中で古谷(劇中の人物だから、呼び捨てとゆー訳じゃないのだけれど、なんか言いにくいな)がオナ禁を極めるために山奥の寺に修行に出かけたというのも、実際の古谷氏が本当に行ったことだというのだ。

オナ禁のためかどうかはアレだけど(爆)、つまりあのコロナ禍で、エンタテインメントが軒並み封じ込まれたあの時、そんな風に追い詰められた演じ手側が数多くあったということは、その当時も見聞きしていた。
そして、元となったフェイクドキュメンタリーの、画面分割で会話しながらというのはまさに、このコロナ禍ですっかりおなじみになったリモート会議形式であり、実際コロナ禍で作られた映画作品の中にまんまなものが見受けられる。

あの時は、今できる形で映画を作らねばという、止まっちゃいけないんだという、そうしたクリエイターの覚悟というか、焦りというか、そういうものを観客側もひしひしと感じていた。
そして、演者という、クリエイターの想いを形にする役者さんたちは、更に過酷な状況にいたのだということを、判っちゃいたけれど、今目の当たりにした気がしたんである。

なぁんて、マジに語りそうになるけれど、基本はなんだか笑っちゃう。いやでも、古谷が(だから、呼び捨てみたいになってるけど、役名でもあるからさ)100パーセントマジではあるんである。
オナ禁というのもいかにもネタみたいだけれど、彼は大マジである。そもそもは、憧れの女性、女優さんか、グラドルなのか、写真集を大事に胸に抱えていた、その彼女に想いを伝えるために自らを鍛錬する、みたいな。

そもそもそれ自体がなんじゃそりゃな気もするが、オナニーという言葉が、日本語では自慰行為、自らをなぐさめるだなんて、なんか思いっきり後ろ向きだし、実際、その考えはオナニー的だとか、自己満足を揶揄する表現にも使われるし。
それは……あのコロナ禍で不要不急ではない、だから必要ではないとミスリードされた中でぼんやりと浮かんでいた焦り、こんな考えが蔓延しちゃヤバいよというものであったように思う。

あれ、マジな方向に行っちゃうのはちょっと違うかも(爆)。だって、いわばこのアホな古谷の愛しさこそが、本作を支えているんだもの。
この日トークショーがあって、実際の古谷氏は、当然この作品から時を経過していることもあるのだろうけれど、骨太に色気のある役者さんで、劇中の古谷とは全然違っていたのに驚いたんだよね。
まぁそりゃ、それこそが役者さんということなのだろうが、劇中の古谷は、オナ禁オナ禁とアホワードをとりつかれたように連呼する、どこか中二病のような“男子”であり、自分をキャスティングしてくれないスタッフにいら立って暴れたりするあたりには役者としての焦燥もあるけれど、でもやっぱり基本、もうこの男子、ガキだなー!という感じなのだ。

そして古谷は苛立ち紛れのように山奥の寺に修行に行くのだけれど、そもそも本作の冒頭は、彼ではなかったんであった。
マッシュルームカットがキュートな女の子、琴絵が、会社のトイレでオナっている。どうやら常習犯らしく、声だけだけれどお局様と思しき、いい加減にしてよ!という罵声とともに、バシャー!!と水がぶっかけられる。
かけるために水をためていたのか、気づいて水をためたのなら、水道の音がしたんじゃないかとか、どーでもいいことが気になったり(爆)。

謹慎処分を命じられた琴絵は、同僚である彼氏とひと悶着。ヘンタイとまで言われて決裂。こりゃ地獄だと思いきや、琴絵は古谷のフェイクドキュメンタリー作品に、つまりオナ禁を敢行している彼に感動したのだった。
古谷自身はスタッフたちに愛想をつかされて、逃げるように寺に修行に出かけたのに、琴絵はこのスタッフたちのオーディションを受け、ヒロインを獲得。尊敬する古谷が気になって仕方なく、寺に彼を訪ねていくんである。

修行とはいうものの、この寺での古谷の生活は、厳しさよりも、脱力コメディである。
先輩として修行している夫婦は、インポの夫が妻を満足させられないことに悩み、古谷に妻を抱いてほしいという流れになる。うーむ、ピンク映画でめちゃありそうな設定。

ふんどしいっちょの古谷が、障子の内側で、自らしたためた脚本を奥さんと共に読み合って旦那を興奮させるという可愛らしいシークエンスに、なんだかホッとする。
オナニー、オナ禁、つまりはそうした、性への欲求を必死に抑制するテーマであるから、どこかでそれがヤボに爆発することを恐れる気持ちが観客側にはあるのに、古谷は結局はとことん、それは自分と向き合うことであり、まさに、まさに、役者としての、葛藤そのものを、最後まで貫いていたことに気づかされる。

だーかーらー。そんな風にマジになると、なんだかヤボなんだけど!でもさ、特筆すべきは、女子側のそれが描かれる、そもそもそれがオープニングだという画期的さもある、ということなんである。
古谷のオナ禁は、役者としての成長もあるけれど、その前に、憧れの女性への想いがある。修行である寺にもこっそり写真集を持って来ている。つまり、こう言っちゃナンだが古谷にはズリネタがあるんだけれど、琴絵にはそれは示されない。

まぁ一般的にもよく言われるところの、男子は具体的な材料、女子は脳内妄想でするんだという、それも個人差があるだろうし、都市伝説かもしれんが(爆)、端的に示されている。
そしてそれが、古谷の場合はただ一人のズリネタ(爆)であるのが、純愛とも言えるのに対して、琴絵は、自分が自分であるための、生き延びるための、オナニーなのだ。彼女自身がそう明言している。不安を解消するための手段なのだと。
自慰、自らをなぐさめるという言葉の意味をポジティブに解釈すれば、確かにそのとおりかもしれない。だから、そのネタは具体的な誰かである必要はないのだ。その誰かに頼りたいわけじゃないのだから。

そう考えると……誰か一人を思っている男子は、やっぱり女子よりロマンチストで、純粋で、ちょっと、弱い部分があるのかもしれない。先輩修行者の夫婦愛に当てられたり、僧侶のおおらかな性の思想に感銘を受けたりする古谷だけれど、結局は琴絵のオナニーを目撃したことによって、強烈に開眼するっていうのがスバラシすぎるのだ。
覗き見はいかんよと思うし、オナニー見られるのなんて、マジで死ぬ、覗き見た相手を殺すぐらいの恥ずかしさ、それはつまり……それだけ、滅私である瞬間なのであった。

決して、ヘンにエロな描写にはなってない。ヘンな言い方だけど、本当に純粋なオナニーで、手元をアップにしたりなんていう無粋なこともせず、琴絵の上気したお顔を遠く、覗き見ている、古谷の目線のショットであった。
とても美しかった。古谷はくぎ付けになる。見ているのがバレて、琴絵は翌朝、憤然として出て行ってしまうのだが……。

その前に、琴絵を追って元カレが現れるシークエンスがある。あれだけ琴絵をヘンタイ扱いして罵倒していたくせに、彼女のインスタからこの場所を特定してきたという、おめーこそがクッソヘンタイヤローなんである。
もちろんこの時点で琴絵は、オナ師匠の古谷の影響もあって、この元カレがクソ男だということが判っていて、古谷と共に小芝居をうって撃退する。

このシークエンス、好きなんだよなぁ。このクッソ元カレが、結局は古臭い男上位の価値観でさ、一緒のお墓に入りたい、と言ったのは、きっと彼の方だったのに、それを彼女の方だと、重いだの圧だのヘンタイだのと言いくさり、なのに、自分の手の内にあった女が離れると、探偵よろしく場所を特定して追っかけてきて、結婚しよう、一緒の墓に入ろうと、言うんである。
キッショ!おめーが最初に、それを言ったんだろ。なのにそれを言質とられたら、重い女だとか突き飛ばしたくせに!愛の言葉さえ言えば女はバカだから、そうした経過を忘れると思ってるんだろ、死ね!!

……すみません、フェミニズム野郎なもんで、過剰反応してしまった……。でもさ、本作は、この側面、意識してくれてるよね??と思うのだが……。
ただ、一方で、古谷が恋焦がれ、オナ禁までして自身を磨いた上でアタックしたいと思っていた女優さんが、どうやら……死んでしまったらしい。それが、自死なのか、事故死なのか、その原因も明らかにされないまま、古谷は呆然と時を過ごし、琴絵を見送った。

琴絵のオナニーから生きる力を得て、その次の場面では、辞めたと決心した役者業に戻っている。琴絵の主演映画、そのほんの、エキストラ。海岸の、水着姿の女の子たちに囲まれて、インポがなおっちまった古谷は、駆けだす、暴走する。驚くスタッフたちだが、お前最高だよ!!と古谷を主人公として被写体として、追っかける。延々と、追っかける。
常に勃起したアレを触りながら、咆哮しながら古谷は海へと突っ込んでいく。こりゃー、かなりの、なかなかにかなりの、狂気のラストエンド。いい感じに観客置いてけぼりなあたりがイイ。

私的映画が自由に製作される現代、玉石混合の中で、ささやかな宝石に嬉しくなることがある、そんな作品だったと思う。これは、今の時代でなければ、ありえない。★★★★☆


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