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「ほ」


2024年鑑賞作品

僕の月はきたない
2023年 86分 日本 カラー
監督:工藤渉 脚本:鈴木太一
撮影:関将史 音楽:零式
出演:古谷蓮 架乃ゆら 仁科貴 国保裕子 坂牧良太 吉田浩太 芹澤興人


2024/7/1/月 劇場(新宿K's cinema)
無名の役者がオナニーを自身に禁じることによって、成長したい、変わりたいと願うという、どっからその発想出てくるの!という一見、ナンセンスというか、愛すべきアホなコメディ、なのだけれど、確かにそうなのだけれど、不思議にマジで身につまされてくる。
本作の中で冒頭に置かれるフェイクドキュメンタリー作品は、実際に作られたものだと後から知って、へぇーと思う。つまり本作は、それを受けてのアンサー作品。アンサーがいわば本編になるという興味深い成り立ち。

しかも“無名の役者” 古谷連は、実際の役者、古谷連であり、最初に作られたフェイクドキュメンタリーも、どこまでかは本当のように思えるし、そして本作の中で古谷(劇中の人物だから、呼び捨てとゆー訳じゃないのだけれど、なんか言いにくいな)がオナ禁を極めるために山奥の寺に修行に出かけたというのも、実際の古谷氏が本当に行ったことだというのだ。

オナ禁のためかどうかはアレだけど(爆)、つまりあのコロナ禍で、エンタテインメントが軒並み封じ込まれたあの時、そんな風に追い詰められた演じ手側が数多くあったということは、その当時も見聞きしていた。
そして、元となったフェイクドキュメンタリーの、画面分割で会話しながらというのはまさに、このコロナ禍ですっかりおなじみになったリモート会議形式であり、実際コロナ禍で作られた映画作品の中にまんまなものが見受けられる。

あの時は、今できる形で映画を作らねばという、止まっちゃいけないんだという、そうしたクリエイターの覚悟というか、焦りというか、そういうものを観客側もひしひしと感じていた。
そして、演者という、クリエイターの想いを形にする役者さんたちは、更に過酷な状況にいたのだということを、判っちゃいたけれど、今目の当たりにした気がしたんである。

なぁんて、マジに語りそうになるけれど、基本はなんだか笑っちゃう。いやでも、古谷が(だから、呼び捨てみたいになってるけど、役名でもあるからさ)100パーセントマジではあるんである。
オナ禁というのもいかにもネタみたいだけれど、彼は大マジである。そもそもは、憧れの女性、女優さんか、グラドルなのか、写真集を大事に胸に抱えていた、その彼女に想いを伝えるために自らを鍛錬する、みたいな。

そもそもそれ自体がなんじゃそりゃな気もするが、オナニーという言葉が、日本語では自慰行為、自らをなぐさめるだなんて、なんか思いっきり後ろ向きだし、実際、その考えはオナニー的だとか、自己満足を揶揄する表現にも使われるし。
それは……あのコロナ禍で不要不急ではない、だから必要ではないとミスリードされた中でぼんやりと浮かんでいた焦り、こんな考えが蔓延しちゃヤバいよというものであったように思う。

あれ、マジな方向に行っちゃうのはちょっと違うかも(爆)。だって、いわばこのアホな古谷の愛しさこそが、本作を支えているんだもの。
この日トークショーがあって、実際の古谷氏は、当然この作品から時を経過していることもあるのだろうけれど、骨太に色気のある役者さんで、劇中の古谷とは全然違っていたのに驚いたんだよね。
まぁそりゃ、それこそが役者さんということなのだろうが、劇中の古谷は、オナ禁オナ禁とアホワードをとりつかれたように連呼する、どこか中二病のような“男子”であり、自分をキャスティングしてくれないスタッフにいら立って暴れたりするあたりには役者としての焦燥もあるけれど、でもやっぱり基本、もうこの男子、ガキだなー!という感じなのだ。

そして古谷は苛立ち紛れのように山奥の寺に修行に行くのだけれど、そもそも本作の冒頭は、彼ではなかったんであった。
マッシュルームカットがキュートな女の子、琴絵が、会社のトイレでオナっている。どうやら常習犯らしく、声だけだけれどお局様と思しき、いい加減にしてよ!という罵声とともに、バシャー!!と水がぶっかけられる。
かけるために水をためていたのか、気づいて水をためたのなら、水道の音がしたんじゃないかとか、どーでもいいことが気になったり(爆)。

謹慎処分を命じられた琴絵は、同僚である彼氏とひと悶着。ヘンタイとまで言われて決裂。こりゃ地獄だと思いきや、琴絵は古谷のフェイクドキュメンタリー作品に、つまりオナ禁を敢行している彼に感動したのだった。
古谷自身はスタッフたちに愛想をつかされて、逃げるように寺に修行に出かけたのに、琴絵はこのスタッフたちのオーディションを受け、ヒロインを獲得。尊敬する古谷が気になって仕方なく、寺に彼を訪ねていくんである。

修行とはいうものの、この寺での古谷の生活は、厳しさよりも、脱力コメディである。
先輩として修行している夫婦は、インポの夫が妻を満足させられないことに悩み、古谷に妻を抱いてほしいという流れになる。うーむ、ピンク映画でめちゃありそうな設定。

ふんどしいっちょの古谷が、障子の内側で、自らしたためた脚本を奥さんと共に読み合って旦那を興奮させるという可愛らしいシークエンスに、なんだかホッとする。
オナニー、オナ禁、つまりはそうした、性への欲求を必死に抑制するテーマであるから、どこかでそれがヤボに爆発することを恐れる気持ちが観客側にはあるのに、古谷は結局はとことん、それは自分と向き合うことであり、まさに、まさに、役者としての、葛藤そのものを、最後まで貫いていたことに気づかされる。

だーかーらー。そんな風にマジになると、なんだかヤボなんだけど!でもさ、特筆すべきは、女子側のそれが描かれる、そもそもそれがオープニングだという画期的さもある、ということなんである。
古谷のオナ禁は、役者としての成長もあるけれど、その前に、憧れの女性への想いがある。修行である寺にもこっそり写真集を持って来ている。つまり、こう言っちゃナンだが古谷にはズリネタがあるんだけれど、琴絵にはそれは示されない。

まぁ一般的にもよく言われるところの、男子は具体的な材料、女子は脳内妄想でするんだという、それも個人差があるだろうし、都市伝説かもしれんが(爆)、端的に示されている。
そしてそれが、古谷の場合はただ一人のズリネタ(爆)であるのが、純愛とも言えるのに対して、琴絵は、自分が自分であるための、生き延びるための、オナニーなのだ。彼女自身がそう明言している。不安を解消するための手段なのだと。
自慰、自らをなぐさめるという言葉の意味をポジティブに解釈すれば、確かにそのとおりかもしれない。だから、そのネタは具体的な誰かである必要はないのだ。その誰かに頼りたいわけじゃないのだから。

そう考えると……誰か一人を思っている男子は、やっぱり女子よりロマンチストで、純粋で、ちょっと、弱い部分があるのかもしれない。先輩修行者の夫婦愛に当てられたり、僧侶のおおらかな性の思想に感銘を受けたりする古谷だけれど、結局は琴絵のオナニーを目撃したことによって、強烈に開眼するっていうのがスバラシすぎるのだ。
覗き見はいかんよと思うし、オナニー見られるのなんて、マジで死ぬ、覗き見た相手を殺すぐらいの恥ずかしさ、それはつまり……それだけ、滅私である瞬間なのであった。

決して、ヘンにエロな描写にはなってない。ヘンな言い方だけど、本当に純粋なオナニーで、手元をアップにしたりなんていう無粋なこともせず、琴絵の上気したお顔を遠く、覗き見ている、古谷の目線のショットであった。
とても美しかった。古谷はくぎ付けになる。見ているのがバレて、琴絵は翌朝、憤然として出て行ってしまうのだが……。

その前に、琴絵を追って元カレが現れるシークエンスがある。あれだけ琴絵をヘンタイ扱いして罵倒していたくせに、彼女のインスタからこの場所を特定してきたという、おめーこそがクッソヘンタイヤローなんである。
もちろんこの時点で琴絵は、オナ師匠の古谷の影響もあって、この元カレがクソ男だということが判っていて、古谷と共に小芝居をうって撃退する。

このシークエンス、好きなんだよなぁ。このクッソ元カレが、結局は古臭い男上位の価値観でさ、一緒のお墓に入りたい、と言ったのは、きっと彼の方だったのに、それを彼女の方だと、重いだの圧だのヘンタイだのと言いくさり、なのに、自分の手の内にあった女が離れると、探偵よろしく場所を特定して追っかけてきて、結婚しよう、一緒の墓に入ろうと、言うんである。
キッショ!おめーが最初に、それを言ったんだろ。なのにそれを言質とられたら、重い女だとか突き飛ばしたくせに!愛の言葉さえ言えば女はバカだから、そうした経過を忘れると思ってるんだろ、死ね!!

……すみません、フェミニズム野郎なもんで、過剰反応してしまった……。でもさ、本作は、この側面、意識してくれてるよね??と思うのだが……。
ただ、一方で、古谷が恋焦がれ、オナ禁までして自身を磨いた上でアタックしたいと思っていた女優さんが、どうやら……死んでしまったらしい。それが、自死なのか、事故死なのか、その原因も明らかにされないまま、古谷は呆然と時を過ごし、琴絵を見送った。

琴絵のオナニーから生きる力を得て、その次の場面では、辞めたと決心した役者業に戻っている。琴絵の主演映画、そのほんの、エキストラ。海岸の、水着姿の女の子たちに囲まれて、インポがなおっちまった古谷は、駆けだす、暴走する。驚くスタッフたちだが、お前最高だよ!!と古谷を主人公として被写体として、追っかける。延々と、追っかける。
常に勃起したアレを触りながら、咆哮しながら古谷は海へと突っ込んでいく。こりゃー、かなりの、なかなかにかなりの、狂気のラストエンド。いい感じに観客置いてけぼりなあたりがイイ。

私的映画が自由に製作される現代、玉石混合の中で、ささやかな宝石に嬉しくなることがある、そんな作品だったと思う。これは、今の時代でなければ、ありえない。★★★★☆


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