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ぼくのお日さま
2024年 90分 日本 カラー
監督:奥山大史 脚本:奥山大史
撮影:奥山大史 音楽:佐藤良成
出演:越山敬達 中西希亜良 若葉竜也 山田真歩 潤浩 池松壮亮
かといって、そこから想像されるような、選手として高みを目指していくというような、そんな物語ではないのだ。一ミリもないという訳じゃない。都会の大きなアイスアリーナへ、バッジテストに挑戦しに行く場面だってあるんだから。
でもその時にはもう既に破綻している。あまりにも切なく、残酷な形で破綻している。それまでが、奇跡のように、宝石のようにきらきらとした時間だったことを思うと、それこそダイヤモンドダストが消えゆくように、この時間のなんと美しくもはかなかったことか。
ほんの半年、もないかもしれない。北海道の小さな街、雪に埋もれた真冬の季節の数か月の物語なのだ。スクリーンサイズがワイドじゃなくて、昔のテレビ画面の比率を思わせるような懐かしさなのが、この小さな世界に閉じ込められている彼らを思って、なんだかそれだけで胸が締め付けられてしまう。
本当に、反則な程に美しい画で、自然光がほのぼのと差し込むスケートリンクはいかにも昔からあって、皆に愛されて使いこまれた感じが、寒いのにあたたかさがあって。その中でくるくるとスピンする女の子たちは、そりゃあホッケーでボッコボコになってるタクヤにとっては夢のようなんだもの。
タクヤは小学校6年生。そうか、6年生だったんだ。次の春にはぶかぶかの学生服を着て中学生になっていたのだから。男の子の小学生時代は、まだまだ本当に体格も小さくて子供で、わちゃわちゃじゃれあっているのが子犬みたい。
でも、ちょっと、アクセントがある。タクヤには少々吃音がある。それによっていじめられるとか、からかわれるとかいうことはそんなにないけれど、そんなに、という感じであるのが、逆にリアルに感じる。
もちろんタクヤ自身も気にしているのは判るし、授業での朗読を当てられるシーンなどでは大人の観客であるこっちの方がドキドキするけれど、同級生たちは、きっとずっと一緒に育ってきているから、それが自然なのだろう。
むしろタクヤのちょっとトロいというか、運動神経がイマイチなところの方が、それが絶対条件の季節である男の子たちにとっては歯がゆく、雪のない季節の野球も、冬の季節のアイスホッケーも、タクヤはいつも貧乏くじを引いたポジションに追いやられてしまう。
一方で、ホッケーの練習が終わると始まるのがフィギュアスケート教室。教室、なのだろうか。女の子たちが、いかにも寒そうなのにスカートをひらめかせてくるくると滑っている。その中で指導を受けているのが示されるのはたった一人だったから、さくらが習っているコーチの荒川が、それなりの選手時代を送っていたことで、彼女の母親が指導を請うたのかと思われる。
それは、ちょこっとだけれど、送り迎えの車の中でいかにもな鬼ママ発言をするシーンが用意されているから。これは女子スケート選手の話を聞くとあるあるな感じで、不思議と男子では聞かないのは……やっぱり女子は競争も激しいし、母親が娘に夢を託しているからなのかなぁ。
タクヤがさくらの練習風景に魅入られたのは、オフィシャルサイトの解説では恋の気持ちとあったけれど、そうなのだろうか。確かに、三者三様の恋、タクヤからさくら、さくらから荒川、荒川は地元の恋人五十嵐、と並べれば判りやすい感じはあるけれど、タクヤは魅せられたのは、純粋にスケートだったと、思うんだよなあ。
ホッケーのスケート靴でスピンやスパイラルに挑戦していたのはだからだったと思うし、そして荒川がそんなタクヤが気になって、フィギュアスケートの世界にいざなったのも、解説にあったようにさくらへの恋心を応援したかったからとは、私には思えなかった。
タクヤは、今まで知らなかった世界を、この小さな、同じスケートリンクの中で発見したことで、本能的に動いちゃったんじゃないかって、私はそう思う、というか、思いたいのかもしれない。言ってみれば、さくらや荒川の抱える想いは大なり小なり相手がいることで生じる、自分勝手さがまみえたものだけれど、タクヤは結局最後まで、そうじゃなかったと思うし、思いたいんだよね。
それは、それこそ解説で書かれていたように、荒川がタクヤの気持ちを汲んでさくらとカップルを組ませたとかじゃなく、あるいはさくらが荒川の性嗜好を知ってショックを受け、タクヤを招き入れたのは男の子が好きだってことなのかと邪推するとか、そういうところからタクヤだけは離れていて、……何も知らなかった、んだよね??知らないまま、春が来て、さくらと再会したんだよね??
タクヤという男の子が、ある意味孤高だし、触媒としてすべての人の気持ちを飲み込んで、そして大人になっていく。
小学生の男の子のタクヤはいかにも子供で、シングルスケーターとして頑張っているさくらとアイスダンスパートナーとなった時は、そりゃあ中学生の女の子のさくらと組んだらとてもとてもリードするどころじゃなく、荒川からタクヤを置いていくなと注意されたものなのだった。
荒川から突然、アイスダンスをと言い渡された時のさくらの顔ったら、戸惑いよりも不満の方が大きく出ていて、そりゃそうだなと思ったし、荒川の突然のアイディアに観客側も戸惑ったものだった。
荒川は何を思って、二人を組まそうと思ったのだろう。選手時代、シングルスケーターだったとおぼしき(仕舞われていたカレンダーや雑誌でそうと知れる)荒川が、ダンスの経験や知識がどれほどあったのかも判らないし……。
でも、アイスダンスを思春期真っただ中の子供たちにやらせるというアイディアは、めちゃくちゃ化学変化が起きそうだし、実際起きたし、それは途中まではとてもとても幸福だったんだけれど……。
アイスダンスカップルとして、めきめき上達していくのが素人目にも判るのもそうだけれど、その間、まさに男の子の成長期なのだろう、小さな男の子だったタクヤが、組んでいるさくらと対等に見えるほどに、どんどんたくましく、すっと芯が通っていくのが目に見えて判るのが、何より素晴らしくって。
そして、屋外のリンク、つまり、自然のリンク、湖が凍ったリンクに出かけて練習するシークエンスがメチャクチャ良くって、そもそも本当にこんなんあるの、おとぎ話みたい!厳寒の自然の美しさも言葉を失うし、そこへと向かう雪道のドライブ、カセットテープをかけての道行き、すべてが夢のようで、三人とてもとても楽しく、心を通わせていたのに。
さくらは荒川にほのかな恋心を抱いていた、ということなのか。確かに先述したようにサイトの解説にもそう書かれていたし、簡単に考えればそれはそうなのかもしれないけれど、そんな単純に片づけてほしくない気もする。
荒川の恋人、五十嵐との、まぁ言ってしまえばイチャイチャ場面を目撃しちゃってさくらはショック受け、……そこまでは判るけど、こともあろうに、タクヤとの関係さえも、邪推した。気持ち悪い、と、小さな小さな声で、ため息のように発して、荒川の元を去った。
あんなにバッジテストに向けて一生懸命練習していたのに、会場に現れなかった。そしてさくらの母親が、指導を断る、もう娘に近づかないでと、言い渡したのだった。
めちゃくちゃ、胸が痛い。だって、荒川は何にも悪いことなどしていないのだから。そして、今の時代、それはないやろ、とも思う。でも……時代、そうね、それが、まだ、教育としても、常識としても、今、まさに過渡期、今の子供たちの親世代が、まだまだ学びきれていないし、理解しきれていないし、だったら当然、その子供たちはさ。
でも、だからこそ、今の子供たちが大人になって、彼らの子供時代には、もうそれなりに確立されていたセクシャルアイデンティティを、大好きな先生に対して無理解爆発発動したんだと気づいた時、どんなにか、どんなにか、後悔するだろうことを思うと、たまらなくキツいのだ。
でも、誰もが、この時、この季節の、この小さな街の誰もが、この数人の関係する子供や大人をのぞいた人たちは、気づかずに、過ぎ去っているのだろう。当事者であるタクヤですら、なぜバッジテストの会場にさくらが現れなかったのか、あんなにも幸せなスケートレッスンの時間がなぜ急に失われたのか、判らずに春が来るのだ。
でも、タクヤは果たして、それが何故なのか、不審に思って、追究しようとしただろうか。しなかったと思う。子供時代は、こうした理不尽なことが続けざまに起こる。理不尽だとなんとなく思っていても、対抗するだけの経験値や胆力がないから、対抗するという意識さえ上らずに、哀しい気持ちのまま時をやり過ごすのが、子供時代のエレジーなのだから。
荒川はさくらからの、まぁこれはある意味仕方ない生理的拒否反応によって、結果、仕方ないにしては厳しすぎる結果として、この地を離れることとなる。
タクヤはその経過を当然知らないし、気持ち悪い、と断じた荒川から離れて、どうやらスケートからも離れたらしいさくらは、……何もかも、捨て去って、忘れてしまったのかなぁ。
女の子、って、そういうところがある。春になった、遠くまではるかに見通せる、地平線が見えそうなのどかな通学路、向こうから歩いてくるさくら、タクヤは気づき、どきどきしながら近づいていく。
これがラストで、タクヤが抱え続けてきた吃音を、いわばどうどうと、アイデンティティとして、ちょっと恋してたかもしれないさくらに対して発する、発しようとしてのカットアウト。
小さな雪国の街での、ほんの数か月の奇跡の物語は、いわば汚い部分を何も見ていなかった小さな男の子のタクヤこそが、最も成長を遂げたと思える、何か不思議な幸福感。
荒川はこの地を離れざるを得ないことで恋人と別れてしまったのかなとか、ちらりと胸にきざす気持ちはある。でもそれは、大人の事情なのだもの。子供は、未来ある、これから生きていく子供たちにこそ、この宝石のような時間を糧にしてほしい。
タクヤと子犬のようにじゃれ合う友達、コウセイがめちゃくちゃ可愛くて、良かった。不器用なタクヤを何かとかばってくれる描写も、ホントに憤ってそうじゃん!と思っての言動に見えて、タクヤが卑屈になることがない、本当の友達って感じが尊いのよ。
ホッケーからフィギュアスケートに行ってしまうから、いわば友達同士の時間が失われるのに、さくらと二人のプログラム通しの練習を見守って、感動して心からの拍手を送ったりとか、ほんっとうに、めっちゃイイ子なんだよなあ。そんな友達を得られているというだけで、タクヤは勝ち、大勝ち!★★★★★
しかも“無名の役者” 古谷連は、実際の役者、古谷連であり、最初に作られたフェイクドキュメンタリーも、どこまでかは本当のように思えるし、そして本作の中で古谷(劇中の人物だから、呼び捨てとゆー訳じゃないのだけれど、なんか言いにくいな)がオナ禁を極めるために山奥の寺に修行に出かけたというのも、実際の古谷氏が本当に行ったことだというのだ。
オナ禁のためかどうかはアレだけど(爆)、つまりあのコロナ禍で、エンタテインメントが軒並み封じ込まれたあの時、そんな風に追い詰められた演じ手側が数多くあったということは、その当時も見聞きしていた。
そして、元となったフェイクドキュメンタリーの、画面分割で会話しながらというのはまさに、このコロナ禍ですっかりおなじみになったリモート会議形式であり、実際コロナ禍で作られた映画作品の中にまんまなものが見受けられる。
あの時は、今できる形で映画を作らねばという、止まっちゃいけないんだという、そうしたクリエイターの覚悟というか、焦りというか、そういうものを観客側もひしひしと感じていた。
そして、演者という、クリエイターの想いを形にする役者さんたちは、更に過酷な状況にいたのだということを、判っちゃいたけれど、今目の当たりにした気がしたんである。
なぁんて、マジに語りそうになるけれど、基本はなんだか笑っちゃう。いやでも、古谷が(だから、呼び捨てみたいになってるけど、役名でもあるからさ)100パーセントマジではあるんである。
オナ禁というのもいかにもネタみたいだけれど、彼は大マジである。そもそもは、憧れの女性、女優さんか、グラドルなのか、写真集を大事に胸に抱えていた、その彼女に想いを伝えるために自らを鍛錬する、みたいな。
そもそもそれ自体がなんじゃそりゃな気もするが、オナニーという言葉が、日本語では自慰行為、自らをなぐさめるだなんて、なんか思いっきり後ろ向きだし、実際、その考えはオナニー的だとか、自己満足を揶揄する表現にも使われるし。
それは……あのコロナ禍で不要不急ではない、だから必要ではないとミスリードされた中でぼんやりと浮かんでいた焦り、こんな考えが蔓延しちゃヤバいよというものであったように思う。
あれ、マジな方向に行っちゃうのはちょっと違うかも(爆)。だって、いわばこのアホな古谷の愛しさこそが、本作を支えているんだもの。
この日トークショーがあって、実際の古谷氏は、当然この作品から時を経過していることもあるのだろうけれど、骨太に色気のある役者さんで、劇中の古谷とは全然違っていたのに驚いたんだよね。
まぁそりゃ、それこそが役者さんということなのだろうが、劇中の古谷は、オナ禁オナ禁とアホワードをとりつかれたように連呼する、どこか中二病のような“男子”であり、自分をキャスティングしてくれないスタッフにいら立って暴れたりするあたりには役者としての焦燥もあるけれど、でもやっぱり基本、もうこの男子、ガキだなー!という感じなのだ。
そして古谷は苛立ち紛れのように山奥の寺に修行に行くのだけれど、そもそも本作の冒頭は、彼ではなかったんであった。
マッシュルームカットがキュートな女の子、琴絵が、会社のトイレでオナっている。どうやら常習犯らしく、声だけだけれどお局様と思しき、いい加減にしてよ!という罵声とともに、バシャー!!と水がぶっかけられる。
かけるために水をためていたのか、気づいて水をためたのなら、水道の音がしたんじゃないかとか、どーでもいいことが気になったり(爆)。
謹慎処分を命じられた琴絵は、同僚である彼氏とひと悶着。ヘンタイとまで言われて決裂。こりゃ地獄だと思いきや、琴絵は古谷のフェイクドキュメンタリー作品に、つまりオナ禁を敢行している彼に感動したのだった。
古谷自身はスタッフたちに愛想をつかされて、逃げるように寺に修行に出かけたのに、琴絵はこのスタッフたちのオーディションを受け、ヒロインを獲得。尊敬する古谷が気になって仕方なく、寺に彼を訪ねていくんである。
修行とはいうものの、この寺での古谷の生活は、厳しさよりも、脱力コメディである。
先輩として修行している夫婦は、インポの夫が妻を満足させられないことに悩み、古谷に妻を抱いてほしいという流れになる。うーむ、ピンク映画でめちゃありそうな設定。
ふんどしいっちょの古谷が、障子の内側で、自らしたためた脚本を奥さんと共に読み合って旦那を興奮させるという可愛らしいシークエンスに、なんだかホッとする。
オナニー、オナ禁、つまりはそうした、性への欲求を必死に抑制するテーマであるから、どこかでそれがヤボに爆発することを恐れる気持ちが観客側にはあるのに、古谷は結局はとことん、それは自分と向き合うことであり、まさに、まさに、役者としての、葛藤そのものを、最後まで貫いていたことに気づかされる。
だーかーらー。そんな風にマジになると、なんだかヤボなんだけど!でもさ、特筆すべきは、女子側のそれが描かれる、そもそもそれがオープニングだという画期的さもある、ということなんである。
古谷のオナ禁は、役者としての成長もあるけれど、その前に、憧れの女性への想いがある。修行である寺にもこっそり写真集を持って来ている。つまり、こう言っちゃナンだが古谷にはズリネタがあるんだけれど、琴絵にはそれは示されない。
まぁ一般的にもよく言われるところの、男子は具体的な材料、女子は脳内妄想でするんだという、それも個人差があるだろうし、都市伝説かもしれんが(爆)、端的に示されている。
そしてそれが、古谷の場合はただ一人のズリネタ(爆)であるのが、純愛とも言えるのに対して、琴絵は、自分が自分であるための、生き延びるための、オナニーなのだ。彼女自身がそう明言している。不安を解消するための手段なのだと。
自慰、自らをなぐさめるという言葉の意味をポジティブに解釈すれば、確かにそのとおりかもしれない。だから、そのネタは具体的な誰かである必要はないのだ。その誰かに頼りたいわけじゃないのだから。
そう考えると……誰か一人を思っている男子は、やっぱり女子よりロマンチストで、純粋で、ちょっと、弱い部分があるのかもしれない。先輩修行者の夫婦愛に当てられたり、僧侶のおおらかな性の思想に感銘を受けたりする古谷だけれど、結局は琴絵のオナニーを目撃したことによって、強烈に開眼するっていうのがスバラシすぎるのだ。
覗き見はいかんよと思うし、オナニー見られるのなんて、マジで死ぬ、覗き見た相手を殺すぐらいの恥ずかしさ、それはつまり……それだけ、滅私である瞬間なのであった。
決して、ヘンにエロな描写にはなってない。ヘンな言い方だけど、本当に純粋なオナニーで、手元をアップにしたりなんていう無粋なこともせず、琴絵の上気したお顔を遠く、覗き見ている、古谷の目線のショットであった。
とても美しかった。古谷はくぎ付けになる。見ているのがバレて、琴絵は翌朝、憤然として出て行ってしまうのだが……。
その前に、琴絵を追って元カレが現れるシークエンスがある。あれだけ琴絵をヘンタイ扱いして罵倒していたくせに、彼女のインスタからこの場所を特定してきたという、おめーこそがクッソヘンタイヤローなんである。
もちろんこの時点で琴絵は、オナ師匠の古谷の影響もあって、この元カレがクソ男だということが判っていて、古谷と共に小芝居をうって撃退する。
このシークエンス、好きなんだよなぁ。このクッソ元カレが、結局は古臭い男上位の価値観でさ、一緒のお墓に入りたい、と言ったのは、きっと彼の方だったのに、それを彼女の方だと、重いだの圧だのヘンタイだのと言いくさり、なのに、自分の手の内にあった女が離れると、探偵よろしく場所を特定して追っかけてきて、結婚しよう、一緒の墓に入ろうと、言うんである。
キッショ!おめーが最初に、それを言ったんだろ。なのにそれを言質とられたら、重い女だとか突き飛ばしたくせに!愛の言葉さえ言えば女はバカだから、そうした経過を忘れると思ってるんだろ、死ね!!
……すみません、フェミニズム野郎なもんで、過剰反応してしまった……。でもさ、本作は、この側面、意識してくれてるよね??と思うのだが……。
ただ、一方で、古谷が恋焦がれ、オナ禁までして自身を磨いた上でアタックしたいと思っていた女優さんが、どうやら……死んでしまったらしい。それが、自死なのか、事故死なのか、その原因も明らかにされないまま、古谷は呆然と時を過ごし、琴絵を見送った。
琴絵のオナニーから生きる力を得て、その次の場面では、辞めたと決心した役者業に戻っている。琴絵の主演映画、そのほんの、エキストラ。海岸の、水着姿の女の子たちに囲まれて、インポがなおっちまった古谷は、駆けだす、暴走する。驚くスタッフたちだが、お前最高だよ!!と古谷を主人公として被写体として、追っかける。延々と、追っかける。
常に勃起したアレを触りながら、咆哮しながら古谷は海へと突っ込んでいく。こりゃー、かなりの、なかなかにかなりの、狂気のラストエンド。いい感じに観客置いてけぼりなあたりがイイ。
私的映画が自由に製作される現代、玉石混合の中で、ささやかな宝石に嬉しくなることがある、そんな作品だったと思う。これは、今の時代でなければ、ありえない。★★★★☆
自由死が選べるという恐るべき設定、えっ、これってまんま「プラン75」じゃんと思うが、これだけ少子高齢化となると、無責任な国や政治家がいかにも言い出しそうなことだと、誰もが想像するからなのだろう。
表面上は個人の尊厳を尊重しているように装い、税を優遇するとか、子供や孫のことを思えばとか、それは宗教の洗脳とどこが違うのかというようなことを、人間は歴史上ずっとやってきたのだから。
池松君、一体今年何本めなのよ、働きすぎよと思っちゃう。しかもそのどれもこれも、なかなかにしんどく重たい役柄である。
母一人子一人で育ってきた朔也は、ある日突然、母親を亡くした。それも目の前で。
意味深な電話がかかってきた直後だった。大事な話があると言われたのに、朔也は用事があると言って、同僚と飲みに行ってしまった。近頃ぼんやりしている母親がおかしいんだと言って、こんなに晴れているのに雨が降っているんだと朔也は話していたけれど、帰宅途中の電車の中で、窓の外が突然どしゃぶりになった。胸騒ぎを覚えて家路を急ぐと、水かさを増した川辺に、水面を覗き込んでいる母親がいた。
そこから朔也の時間は飛んでしまう。飛び込んで母親を助けようとしたのか、大けがをして実に1年、病室の窓の外にはマンガチックに桜吹雪や、真っ赤な紅葉が流れては過ぎる。
目覚めたら母親は死んでしまっているというし、しかも自殺だというし、同僚から聞くにはAIに仕事をすべて奪われて工場は閉鎖してしまったという。
何もかもを受け入れられないまま朔也は同僚が紹介したリアルアバターの仕事に就き、更にその同僚の紹介で、VFで会いたい人を作れるという場を訪れるんである。
いつもながらのオチバレで言っちゃうと、母親は自殺なんかじゃなかった。いやそれは、誰も判りようがない、いわば作者の神の視点で、母親はえさをあげていた黒い子猫を追いかけて、川にはまったんじゃないかと心配してのぞきこんでいたんであった。
黒猫……それは、朔也が後に出会う、三好彩花なる女性が仮想空間の自身のキャラクターに選んでいるもので、そのつながりは、あったんだろうか。まさか、今朔也が対峙している彩花は実は本当に黒猫……?まさか。
そう、三好彩花。見ていて、音で聴いているだけだから、えっ、これって本人役??何何!と驚く。原作にも登場する、演じる三吉彩花氏と一字しか違わない、同姓同名と言ってもいいぐらい。
こんなことある!原作者の平野啓一郎氏が、彼女をイメージしていたのかなぁ。そりゃぁこれが映画化されるとなったら、三吉彩花氏が演じるしかないじゃん!凄い!
そして、池松君演じる朔也は、この彩花に、遠い初恋めいた記憶を呼び起こされるのだが、それは、同僚、かつての同級生でもある岸谷によって強引に引き戻される感がある。
その初恋めいた相手は、売春をしていた。何か事情があったんだろうが、きっと周囲も、そして何より教師が、口をゆがめて冷笑したことが許せなくて、朔也はコイツの首を絞めてしまった。
暴力事件となり、逮捕され、傷がついた彼は、まともな職につけなくなった。本当に、判りやすく、いまだにこの世はこんな社会。その事情を汲むことなく、前科はそのまま転落人生となる。
この時の彼女にソックリの彩花に出会ったことを、岸谷は、友達として心配していると言いながら、しつこく介入して来るもんだから朔也はついに激高してしまう。
岸谷を演じる水上恒司氏は、絶賛売れっ子で目にすることも多いけれど、彼の持つ端正さを、うぬぼれや狂気に見事に昇華させたこうしたキャラクターは、初めて見る。
恵まれていない自分たちを、世の中から捨て置かれている自分たちを、その社会に憤り、拗ねたりするけれど、でもなにか、曲がっている。そこから抜け出せないのは、その状況に甘んじていることに心地よさを感じているからじゃないかと思ってしまう。
それもまた社会のせいなのかと言ってしまったら残酷なのだろうが、それゆえに彼は、つまらない仕事に手を染めてしまって、捕まってしまう。
まさかこれを予測した訳じゃないだろうが、でもそうかもしれない。ここ最近世間を騒がしている闇バイトの構造とソックリ。結局“近未来”というものは、ある意味ヤボな意味で予測できちゃうだけのものだということなのか。
母親の死の真相を知りたい、自由死を望んでいたのだと警察から知らされて、信じがたい朔也が選んだのがVFで母親をよみがえらせること。
こう書くとあまりに荒唐無稽だが、私たちがここ数年触れてきたAIというものが、最初こそいかにもぽんこつだったのが、情報を入れるほどに、コミュニケーションを重ねるごとにどんどん成長して、補完して、進化していくことを目の当たりにしてしまったものだから、そういうこともきっとあるだろうと、ついついすんなり受け入れてしまう。
実際問題、実現できそうな技術だとは思うけれど、でも本当に実際問題としては、禁断の、禁じられた領域であると思う。綾野剛氏演じる、ナビゲーターとして登場するVFが、自分には心がないとハッキリ言いながらも、自分を作り出してくれた娘への感謝と、その対話において補完されていく自分に対して、心……あるんじゃないかと、迷うような心もとなげな笑顔を見せる。
今はAIやVFになったけれど、ひと昔……いや、もはや半世紀前ぐらいかな、まではロボットがSF社会のその問題に直面していて、学習すればするほどに、心を持ち得るんじゃないかというのが永遠のテーマだった。
でももはやロボットはエモいと言われるような過去の遺物となり、情報を与え続ける限り半永久的に、いわば本物に近づいていく、劇中の企業の代表、つまぶっきー言うところによると、本物以上になるというVFは、ゴーグルをつけなければ見えない、現れない、映像だから、触ることもできないから、逆に、懐かしいというか、幽霊だよね、これって。触れようとすると、スカッと通っちゃうんだもの。
これは後戻りなのか、なんなのか……。ロボットは、触れることができる。ぎこちないロボットと対話をし、友達になっていく、それは確かに昭和的懐かしさだけれど、漫画の世界では、人型ロボットがリアルに進化し、本当に人間そのものとなって、でもだからこそ、死ねない苦しさという領域にまで達していた。
それは、人間が産み出した生命体にアイデンティティを持たせる究極であった。そう思うと……実態を持たないAI、VFのそれは、人間が欲しい答えを得るための、それだけのための禁断のわがままなだけなのかと、そうなんじゃないかと。
彩花は、朔也の母親と職場の同僚であり、腹を割って話し合える友人同士だったという。少ない情報で作り上げたVFの母親は、息子が心に隠し持っている初恋のような女性と彩花を、同一人物のように重ね合わせて朔也を困惑させる。
それぐらい面影があって、岸谷なぞは同一人物だろと言い募るぐらいだし、VFとなった母親もそういう発言をするぐらいなのだが。それはつまり、そのかつての彼女と彩花が、セックスワーカーという同じ仕事をしていて、それに対する、特に男性側の冷笑的偏見が、単純に結びつけるという愚かしさなのだろうと思う。
だってさ、その職業の顧客はおめーら男だろということだし、その上で冷笑的見方をするってことは、ザ・女性蔑視、男が女を性的に征服できるのが当然って思ってるってこと。
朔也の母親の大きな秘密が、最終的に明らかにされる。彼女はレズビアンで、精子提供によって朔也が産まれたのだと。その大恋愛の相手はどうなったのか、精子提供の相手は誰なのかは明らかにされないけれど、朔也が日記によって知るこの事実にメッチャ衝撃を受けるのが、これは、それこそ、今の時代では、ちょっと違和感があるかなぁ、という気がする。
10年、いや、20年前ぐらいなら、判る気がする。もちろん、ザ・母親としか思っていなかったのだから、今の時代だってショックは受けるだろうけれど、そんな筈はない、と受け入れることさえできないというのは、それはないなぁと思って……。
それとも男の子はいつの時代も、そんなもんなんだろうか??田中裕子氏が演じる母親は、実際の時も、VFとなっても、ちょっと昭和というか……そうした保守的感覚を確かに感じる。池松氏の年頃の母親の年齢としては上すぎるかなぁとも思うから、価値観が全然、違うと思うんだよね。
そう、それこそ、池松氏の親世代の年齢、私だもん(爆)。思わん思わん、子や孫のための税制のために死のうなんて、ぜぇったい、思わん!!……いやスミマセン、それは、自分勝手に生きてるシングルクソ女子が吠えてるだけなのだが。
冒頭に感じていたことを言ってしまったように、本作は、何かね、先々古びてしまうかも知れないことを恐れずに、今盛り込めることをぎゅうぎゅうに詰め込んでいるエンタテインメントだと思った。
朔也が一年間眠り続けて、いわば浦島太郎状態で近未来の世界に放り込まれ、その最たる出来事が、仲野太賀氏演じるイフィーなる人物との出会い。イフィーて。まんまルフィやろ、しかも近年、犯罪組織として話題になっちゃってるしさぁ。
車いすユーザーとして登場するイフィーは、ハンディキャッパーへの理解がまだまだ進んでいない、なのに理解あるよ!と言いたげな今の日本社会において、なかなかに取り扱い注意である。
イフィーは再三、自分の境遇についてネガティブな発言をするし、だけど、いわば金にものを言わせられる立場を利用するし、なのに妙に弱気で、恋する彩花に直接想いを伝えられず撃沈する。
圧倒的立場のネット社会の王様、そして車いすユーザー、その彼が豪華な生活をしているとか、想い人に直接想いを伝えられないとか、これは……すっごい、偏見を、まぁ世界的有名人だから、いいでしょと、やっちゃってる気がして、ちょっと怖い!!
イフィーが、朔也が正義の味方と持ち上げられた動画が、編集されたものと承知で彼に接触してくる。この裸の王様は、自分が裸の王様と知っているから、信頼できる人をずっと探し続けているようだった。朔也とは全く違うベクトルだけれど、本当の友達を求めているところは一緒な気がしたから、切ない気持ちは確かにした、けれども……。
朔也と彩花がぎこちない同居生活をしながら、朔也の母親と、ゴーグルを装着せずに、なんだかよく見えないわと言いながら対話、というか、ぎこちないコミュニケーションをしながら進んでいく。
300万も投資して母親を構築したのに、いや……そのことによって、彩花と出会い、リアルアバターの仕事で顧客にひっどいバッシングを受けながらも、朔也は、目覚めた、覚醒した、のだと思う。
被災していくところがなくなった彩花を招き入れ、敬語禁止もなかなか進まない微笑ましさ、双方料理が得意じゃなくて、味のない鍋をつつき合う場面とか、胸がきゅーんとなってしまう。究極の純愛映画だったのかも。★★★☆☆