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原作が詩であるというんだから、原作というよりはインスパイアされたオリジナルの物語という、とても作家性の強い作品だと思う。ひと昔、いや、ふた昔前ならば、良くも悪くも観客を選ぶ作品としてかかる映画館のタイプも違ってきたのだろうけれど、だから時々、こんな風に戸惑う。
もちろん、その才能を評価されて綾瀬はるかという特大スターを主演に迎えて、なのだから、大メジャー作品には違いないのだけれど、それによって足を運んだ観客もいるからこその、このなんとなくの違和感。昨今、時々そういうことに遭遇し、だったら何が正解かと言われればなかなかに難しいんだけれど。
何をつまらんことぐちぐち言っとんじゃということよね。行きましょう行きましょう。そうか、「こちらあみ子」あの子だったんだ。じゃぁ正しく女の子だったんだ(爆)。ごめんなさい、どうしても男の子に見えちゃってて、なのに娘とか、女の子とか言うもんだから、これは絶対に意味あることだと思ったのだけれどそういうことではなかったのか。
いや、そんなことはない。だって明らかに男の子を思わせる服装だし、髪形だし、声もちょっと低い感じで、……と書いてみて、やだな私、普段フェミニズム野郎のくせに、こんな判りやすく性差の記号にこだわるなんて、と気づいてしまう。
そういうことだったのだろうか。山深い川辺で出会う親子の息子君は、ハルみたいなやつがいたら学校も楽しかっただろうと言ったのだった。
息子君はハルを男の子として見ていたと感じたんだけれど、それもまた偏見だったのだろうか。多様性というのは時にとても難しい……。
ハル、それは綾瀬はるか氏演じるのり子が、彼女の母親に頼まれて探し、連れていく女の子である。その場所は、あぁもうこれはハッキリ、精神病棟であろう。のり子は清掃員として働いていて、患者から話しかけられても応えるなと言われていた、けれども……。
のり子は一見して、いかにもコミュニケーションが苦手な女性で、だからこそ、ここで過ごしている女性、理映子と波長が合った、と言ってしまったらそれこそ偏見だろうか??でもそれこそ、現実社会で生きていけるか否かの線引きが、この病棟で暮らす人たちには言い渡されているのであって、のり子はそうしたジャッジの元にはいないけれど、彼女もまた、社会からそうしたジャッジを受けているということなんじゃないだろうか。
娘を連れてきてほしいという依頼をのり子は受け、仕事で使っているバンを、いわば盗難して教えられた都会へと向かう。木賃宿に泊まって探し続け、森の中で昭和的秘密基地生活をしているハルを見つけ出す。
ここには同居している奇妙な、いや訂正、個性的な大人もいて、ハルはどうやら、いわゆる一般的な生活スタイルから逸脱、というか、ここにこそ居場所を求めているらしく……。それが、一見して男の子に見える風貌、言動もまさしくそんな感じだったのは、そういう理由だったのかなぁ??
答えを求めすぎるのはヤボだと判っちゃいるんだけれど……。見ている限りでは、ハルは家出少女、というか、家を持ってないホームレス子供のように見えた。だから、ロードムービーの果てに、ハルの行方不明がニュースとなって報じられたことにちょっと、ビックリしたのだ。
いや、落ち着いて考えてみれば、のり子がハルを探して見かけていたのは昼間の街中だったのだから、その先に森の中の秘密基地での時間があったとしたって、そりゃそうだ、家に帰っているんだろうけれど、そんなことは全く頭に上らなかった。精神病棟の母親から会いたいと言われている女の子が、森で暮らしているという図式に見えていたから。
いやでもそれは、きっと意図的だったんじゃないだろうか??のり子自身も、最終的に行きつく、つまりはここしか頼りになるところがないという風な、教師をしている姉との関係性もまた、一見したら殺伐としているように見えるけれど、絶対に存在する筈の彼女たちの親との関係性とか、見えていないからこそその外側のあらゆる要素があるんだということに気付かされるとハッとなってしまう。
最終的にのり子が姉を頼ったのはギリギリの選択だったのか、それとも最初から姉に会いに行こうと思っていたのか。
久しぶりの再会に姉は最初こそ相好を崩すけれど、夜も更けてくると、とらえどころのない妹に対する愚痴、というより、もっと強い、なんだろ……恐怖の表明というか、私のこと何とも思ってないでしょ、そういう冷たい人間よね、と、もう止まらない、制御できない、水道管が壊れたみたいに、ピアノの椅子に体育座りをしたまま、吐露する。
あの場面が、一番辛かったけれど、ある意味、本作の中で、一番のエンタテインメントだった。
ごめんなさい、ここまでにあれこれ出会う人物もいるし、エキセントリックなエピソードも数多くあるのに、全部すっ飛ばしてここを選んじゃうのは……やっぱこここそが、のり子という、ここまで今一つ計り知れなかった、いかにも不器用そうな女性の本質を説明してくれる場面だと思ったから。
で、そう、思いっきりあれこれすっ飛ばしてしまった。清掃のためのバンをあっさり盗んでいっちゃう場面は、からっぽの駐車場に立ち尽くす先輩女性のワンカットについつい笑ってしまう。
食事に立ち寄った閑散としたレストランで、おっきなワンコ二匹をつれた真っ赤なドレスの老婦人に、この子たちは三つ子、逃げ出した三匹めを探してほしいと強引に頼み込まれる。
その過程で老婦人にバンを盗まれ、呆然と山道を歩いていると、ひっくり返った車を発見、その中に呆然と座っている老人男性。死んでるかと思うほど呆然としていて、でも二人の後をついてくる。そして先述した、現実社会に絶望した若い父親と息子との出会い。
こうして書き起こし、思い起こしてみると、そのどれもがとても印象的で、絵画のように美しい画で、カメラのシャッターを切ったように心に残るのだけれど、それだけに、その時間の流れについていけなかった私自身が悔しく、恥じてしまう。
でも、でもさ、もったいないと思うんだよなぁ。この、赤いドレスの老婦人、レストランにワンコを連れ込み、店員から外に出してくださいと何度言われても、はい、と言いつつ応じず、このレストランは目を凝らさなければ見渡せないような絶妙な暗闇。
話しかけられたのり子は、有無を言わさず応じなければいけなかった、のは、ハルがおっきな大人しいワンコたちにすっかりべったりになってしまったから。この不思議に絵本のような画もとても美しく闇っぽく魅力的で、だから私自身の、長尺リズムが耐えられない体力だけが原因なのかなぁ、やっぱり。
森の親子はなんたってお父さん、高良君だし、死んでるかと思ったぐらいクラッシュしている車の中に呆然と座り込んでいたおじいちゃんは、まるで夢のようなお迎えへ向かって、カヌーで漕いでいく。
あぁ、何度も言うけど、あれこれ思い返してみると、本当に夢のように美しい画が素晴らしいタイミングで用意されているし、どれもがたっぷりと用意された尺でのシークエンスで、役者さんのお芝居を堪能するという意味では、これ以上ない贅沢さなのだけれど。
何だろ、私は何が気に入らないのかなぁ。単に私自身の体力の問題だと言われればそれまでなのだが。でも、そうね……フェミニズム野郎として、その矜持として、ムリクリほじくり返すとすれば、それはやっぱり……のり子自身のバックグラウンドが、見えなかったことかなぁと思う。それは、微妙な関係性であるっぽい、お姉ちゃんとのシークエンスが濃厚であったからこそ、なおさらである。
本作の、オフィシャルサイトではないけれど、データベースでね、のり子のことをあっさり、孤独な女性、と説明していたのが、すっごく、ヤだったのだ。孤独かどうかは、その人自身が決めることであって、これはさ、めちゃくちゃ外からの勝手な視点じゃん、って。
でも、そうカテゴライズされてもおかしくない、のり子の見え方だったんだよね、と思うのだ。仕事をしている時、ハルと出会った時、ハルを連れての道行きで出会う人たちとの場面、結局はすべてがオフビートで、ふくろうと会話できるとか、そんなほっこりコミカルを挟まれても、可愛らしいエピソードだけで、結局のり子のディスコミュニケーションはそのまんまで終わってしまう。
ディスコミュニケーションはいいのよ、そんなん、それでいいのよ。コミュ力が重視される社会に、それこそ反発、対抗したいのだから。でも、のり子はさ、そもそもそこに対する対抗意識すらあるのかどうか。生きづらい女性ということに対しては甘々に共感しがちだけれど、彼女自身のアイデンティティが見えなければ、そこはやっぱり厳しくジャッジせざるを得なくなってしまう。
正直、綾瀬はるか氏が、チャレンジングな役柄だったと思うけれど、結果的に、ぼんやりしたままに見えてしまったのが辛かった、もったいなかった、残念だった。
無造作そうに見えてきれいなカラーのパーマヘアが常にきれいにまとめられているのも、ロードムービーなのになぁと現実味がないように思えてしまったのもあったかなぁ。★★★☆☆
でも違う、このクライマックスに取り込まれてしまうのは違うのだ。この、たった、一時間あまりの物語、原作も長編読み切りだというのは、劇場用アニメ作品としては聞いたことがない。でもこれが理想形だと思う。人気でシリーズになってる原作を映画作品にすると、どうしたってひずみがでる。縮めるにしても、チョイスするにしても。そもそも親和性がないのだ。
でも読み切り作品は確かに。そしてそれを、通常映画作品の尺と考えうる2時間前後にするんじゃなくて、この58分の中に集中して描き切って、まさにその時間、その場所に連れて行ってくれた。
舞台がどこなのか、明示はしてなかったと思うけれど、山あいの田園風景、京本の訛り方といい、東北地方だと知れる。京本が進学する美術大学の舞台も、実際に山形にある東北芸術工科大学だという。
小学4年生の藤野は学年新聞にいつも四コマ漫画を描いて、同級生たちから絶賛されていた。サインをくれだなんて言われもした。本当は根詰めて描いているのに5分で描いたなんてうそぶいていたのは、強烈な自負があるからに違いなかった。
でも強力なライバルが現れる。それも姿の見えないライバル。不登校である京本が描いてくる漫画は、漫画というより情景描写というか、四コマなのに空気や時間の流れを感じさせるような圧倒的な画力で、藤野を打ちのめす。
本当はさ、そんなに落ち込む必要はなかったのだと思う。藤野の持つストーリー創作の才能、場面転換のセンスは、後に京本から熱烈な賛辞を待たないまでも、それまで同級生たちにだってウケていたものなんだから。
でも、ただ、画、画の才能で打ち負かされてしまい、それを、一人、たった一人の同級生が何気なく口にした「京本の絵を見ると、藤野の絵は普通」という言葉が、彼女を本当に、打ちのめしてしまった。漫画としての絵と、絵画としての、本作においては、京本が目覚める舞台背景としてのそれは、違うのに。
藤野が、小4で私より上手い人がいるなんて許せない!!と、もうそれからは基礎画力特訓、来る日も来る日もデッサンを重ね、スケッチブックが積みあがる。友人たちとも疎遠になる。6年生なって、絵ばかり描いていたらオタクと思われるとか、友達に言われてしまう。
……すっごい。こんな、小学校4年生から6年生という、全部夏休みでもいいぐらいの時に、上手くなりたい、京本に負けたくない一心で描いて描いて描き続けているだなんて。でも大事なのは、友達の言葉が原因じゃなくて、藤野が描かなくなったのは、やっぱり京本にはかなわないと思ってしまったから。
なのに、思いがけない形でそれが崩される。不登校だった京本に卒業証書を届けた時、廊下に積みあがっていたスケッチブックの山、藤野自身とまるで同じ!
この時、その場で描いた4コマ漫画が手が滑ってドアの隙間から京本の部屋に入り込んで、彼女を誘い出した。出てこい、出てくるな、引きこもり選手権、京本選手!でも四コマ目は、ガイコツになった京本。
最終的に思い返せば、藤野を苦しめることになるブラックユーモアではあるけれど、この当時、骨格標本をひたすらスケッチして画力アップをはかっていた彼女を思えば、ただそれだけのことなのだと思う。
だってだって、京本は藤野の大ファンだったんだもの。藤野先生、だなんて言って、引きこもりの部屋から飛び出して追いかけた。自分のはおっていたどてらの背中にサインしてくれ、だなんて、なんて愛しいの。
そしてそこから二人はタッグを組み、京本は背景を担当して漫画作品を生み出していく。たった13歳でその才能をみとめられ、見事漫画賞を受賞、読み切り作品を何本も連発し、順風満帆に見えたのだが……。
どこが、悪かったのか、だなんて、そんなことではない、絶対にない、とは思う。京本が、背景美術の世界に魅せられて、美術大学に進学したいと、だから、連載は手伝えないと伝え、藤野と進む道が分かれることになった。
京本は、手伝えない、と言ったのだった……。二人の名前をミックスしたペンネーム、チームでの漫画家生活だった筈なのに、手伝えない、と言ったことが、すべてを物語っているように思った。
京本も、自分自身が主人公の人生を歩みたかったのだろうかと。判らない、そんな、即物的な言い方はしたくない。チームを組んで、共作で、しっかり等分に力を注いでやってきていた筈なのだから、そんな簡単に言えない。
京本が進学先の大学で凄惨な事件の被害者となって、そのことを藤野は、自分が彼女を外に出してしまったからだと悔やみ、それが本作の、素晴らしいオリジナリティを産み出す。
京本があの部屋から出てこなかったら、つまり、藤野の描いた4コマ漫画の、1コマ目の出てくるな、というのに従って京本が出てこなかったら、という、苦しみぬいた藤野の、あれはいわば妄想の世界、会ったかもしれない世界、パラレルワールドが語られる。
それはあまりにも胸が苦しくなる、こうだったら良かったという可能性の世界。京本を凶行から救い出す藤野、まるでアクションスターさながらに。そもそも確かに、絵も上手いけれどスポーツも得意な藤野は、同級生からスポーツ選手になったらいいと言われたりもしていたのだから。
でも、違う。藤野はやっぱり漫画家になりたかったし、なるんだし、それが前提のもう一つの可能性の世界は、慰めでしかない。
そんな風に言うのは、あまりに残酷だろうか??でも、藤野は、京本に、彼女の才能に対する焦がれや嫉妬を、言わなかったから。告白していなかったから。京本があんなにも藤野のファンだということを熱狂的に伝え、その後も藤野によって外に連れ出してくれたことに感謝をしていた。その先の、京本自身の夢の発見であった。
それを許せなかった藤野は、……藤野自身が、京本への、京本の才能への嫉妬、いや、賛辞を伝えなかった、伝えられなかったことが、作用していたに違いないと思う、思うけれど、作中でそれを明確にする訳じゃない。あくまで京本を外に連れ出してしまった自分への罪悪感になってる。
……どうなんだろう、実際のところのスタンスは。京本の才能によって藤野自身が、嫉妬という強烈なガソリンを注入されて成長したということを、藤野が自分の中にだけ秘めて、京本に対しても憧れられているスタンスを崩さずに袂を分かち、そしてこんな、言い難い悲劇の結末になったことが、たまらなかった。
藤野はあくまで京本を外に連れ出したことに対しての責を感じているけれど、京本の才能に嫉妬したこと、賛辞されっぱなしで自分は京本に対してそれをしてなかったこと、それこそが、大きなファクターなんじゃないかと思えて仕方がないのだ。
あの凄惨な事件を思い起こさせるクライマックスで、創作、クリエイティビティということの難しさに立ち返らせる。藤野にとって京本は、彼女からあがめられた瞬間から逆転し、自分が創作し、背景画家として雇ってるぐらいの気持ちだったのか。
いや、そんなことない、そんな筈はない。もちろん、漫画作品での担当の住み分けはある。そうしたリスペクトは絶対にあった筈だし、京本が去ってからアシスタントがなかなかいつかない様子がマネージャーの電話の会話でしめされるのだから、そんな簡単なことではないのだ。
それが判っていたのに、判っていたからこそ、京本が自身の道に進みたいと言った時、あんたなんかに出来ないと、自分の奴隷のような言い方をしてしまった藤野は、あの時、どんな思いだったのだろう。
だって、何より何より、二人で漫画製作に没頭する、一部屋の四季折々がたまらないのだ。部屋の中だけど、着ている服や、窓から吹き通る風や、アイスにかぶりついたり、どてらを着ておみかんを頂いたりする様子でしんしんと感じちゃうのだ。
持ち込んだ原稿が見事入賞した紙面を、コンビニで二人確認してメチャ喜ぶ場面とか、たまらない。たまらないから、この場面がきっと彼女たちの頂点で、きっと切ない方に進んでいくんだろうことも判っちゃう。まさかあんな、激烈なことになるとは思わなかったけど……。
小学校時代に運命の相手に出会ってしまうというのは、成長エネルギーがめちゃくちゃ爆発しているから、最高の幸福のようでもあり、気持ちのコントロールが出来ないうちだから、最高に難しいとも思う。あんなにも、世界が狭いということを、あんなにも、気づいていなかった時代はないんだもの。
藤野が自信をもって描いた漫画が掲載されている学年新聞が配られる場面が、まるで判を押したように教師の同じ台詞、同じように机が並んだ様子で示される。この狭い世界が彼女にとってすべての世界で、そこで勝てない相手が出てきたら、もう終わりなのだ。
でも本当の世界はとてつもなく広く、無限で、だからこそもっともっと苦しい。それが判らないうちに、最大のライバルで最愛の親友は、いなくなってしまった。
藤野が妄想する、もう一つの世界は、果たして本当に有効だっただろうか。小学校時代に二人は出会わず、藤野の力によってでなく京本は外に出て進学し、藤野は漫画を描くのを辞めて空手に邁進、その技で京本を凶行から救い、再び二人の漫画人生が始まる、だなんて。
そりゃ、0じゃない。なくはない、けれど……。やっぱりやっぱり、二人はお互いへの強烈なリスペクトとジェラシーを持ちあってローティーンのうちに出会い、ぶつかり合い、……哀しい結末ではあるけれど、藤野は京本へのその気持ちを言えないままだったけれど、やっぱりやっぱり、それしかなかったのだと、思いたい。★★★★★