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「お」


2023年鑑賞作品

大いなる不在
2023年 133分 日本 カラー
監督:近浦啓 脚本:近浦啓 熊野桂太
撮影:山崎裕 音楽:糸山晃司
出演:森山未來 藤竜也 真木よう子 原日出子 三浦誠己 神野三 利重剛 塚原大 市原佐都子


2024/7/13/土 劇場(TOHOシネマズ日比谷)
まるで、森山未來氏自身であるかのような、演劇人である前にまずダンサー、パフォーマーである彼の仕事現場を覗き見るような場面から始まる。これは、この現場にエンディングで戻っていくのだから、彼自身の人生のパッケージのような作用も感じる。
前衛的な、映像と組み合わされた、詩的な色合いのリハーサルは、森山氏自身のクリエイティビティを十二分に感じさせ、見ごたえがある。その場に登場する舞台監督は、実名実際の人物なのだからなおさらである。

これがまさに森山氏自身のアイデンティティと確信できるからこそ、いわゆる一般的な知名度、それこそ大河ドラマに出るとか、といった側面が、父親やその再婚相手によって誇らしげに語られる場面で、彼の気持ちを思わず慮ってしまう。
いやそれは、それだってとても素晴らしいことだけれど、取材された新聞の切り抜きなんぞを父親が壁に貼っているのを見た時の森山氏の表情は、その役柄の卓(たかし)の気持ち以上に、彼自身のそれを物語っているように見えた。

なんとも、ヘンな角度から始めてしまった。これは一種のサスペンス、と言えなくもない。結果的には、本当に起きたかどうかなんてことを、卓は目にした訳でもないし、誰だって自分の正義によって見え方も違うし、都合のいいように補正していくものなのだから、確かに判らない。
それは……今や恍惚の人となってしまった父親のことだ。どんどん暴かれる、卓の知らない父親の姿は、暴かれるだなんて言い方が合っているのか。だって、それを本人は肯定も否定も出来ないところに置かれているのだから。そう考えると、こんなに理不尽なこともない。

卓は父親とはもうずっと、会っていなかった。幼い頃に両親は離婚していたから。実に30年ぶりほどに父親と会うことになったのは、後に回想される形で示される、結婚することになったからであった。
父親が再婚していたのは知っていたのだろう。会っていなくても、事務的な連絡は取っていたと思われる。それでもこの父親が、卓の母親、つまり彼の元妻の死を知らなかったことが示されると、これこそが何か、決定的なものを感じさせた。

この父親、陽二(藤竜也)と再婚した直美(原日出子)はお互いにいわば家庭を捨てて、一緒になったんであった。直美の日記に大切に貼られている陽二の熱烈なラブレターによると、直美のことだけを思い続けていて、愛のない結婚をしてしまって、ずっと苦しんでいたんだとか、こんなん、子供が読んだらたまらんと思うが、でも卓はそれを読んでも淡々としていた。どこか、他人事だった。

それが、こうした構図で描かれる今までの作品と大きく違っていた。卓は怒りがわかないのだ。オフィシャルサイトの解説では、母と自分を捨てた父親、と書かれているけれど、彼は果たしてそんな強い想いを持っていただろうか?
物心つくかつかないかぐらいの年頃だったのだし、父親とずっと会わずにいたのは、避けていたというより、この父親の方が、愛する直美との結婚生活こそが大事で、息子のことなどさほど気にしていなかったのだろうと思われる。

いや、それは言い過ぎかもしれない。息子の取材された新聞記事を切り抜いたりしていたのだから。でもそれは、先述したように、役者としての彼の一面的な側面に過ぎず、そうじゃない部分を卓は父親に、話す機会さえなかったのだから、そりゃ知りようもないのだ。

陽二と直美の結婚生活は、初老と言っていい年ごろなのに、まるで新婚夫婦のように仲睦まじかった。お互い子供をもうけた家庭を一度持って、そこから離脱して、再婚した。そこからは子供を持たなかったのは、意図的だったのか、年齢的な仕方なさだったのか。
陽二は大学教授という固いキャリアを持っていたし、折り目正しい語り口調からも、きっちりした人物であることは感じられた。だからこそ、危ないのだ。ぽきりと折れると、周囲がことのほか、慌ててしまう。ことに直美は夫婦二人きりでいたものだから……。

正直、フェミニズム野郎としては、すっかり大人になってパートナー生活を長いこと営んでいたのなら、こういう事態を予測もできただろうに、自分を否定されたことで傷ついちゃって手を離したってだけに見えるのが、どうなのかなぁと思っちゃうのだ。
本作は卓と陽二の失われた親子関係の再構築にあるのだろうから、直美と陽二に関しては手薄になってしまったのか、なにか、夫婦というより恋人同士のまま、突然のパートナーの認知症にアワアワしているように感じてしまったのだ。

それを、外側から卓は見るのだから、そりゃぁ余計に訳が判らないだろうと思う。そもそもが、父親が警察に捕まった、という、オフィシャルサイトでは冒頭の解説をなされているのだけれど、これは客寄せの大げさな言い方だよね。
正確には、直美がいなくなって、家の中のことが何とも訳判らなくなって、110番通報して事件です、と言ってしまった、というか、マジにそう思い込んでしまった陽二が、かけつけた警察によって保護された、とい図式。ものものしい警護隊は、陽二の妄想ではなかろうかと思われる。

卓は妻の夕希(真木よう子)と共に施設職員と面談する。延命治療のことまで確認されるもんだから、卓は切り口上に今決めなきゃいけないのかと切り捨ててしまう。
彼にとってはそんなつもりもない、ただ本当に何も判らない状態で、疑問に思っただけだったろうけれど、同行した夕希は、そんな態度はいけないとたしなめるんである。

卓は充分冷静だったと思うし、その後登場する、直美の息子の方がわっかりやすく激情型だけれど、なにか……親子、家族が、こんな風に公的ケアに、つまり第三者に個人的な生活があらわにされて、粛々と、すぐに答えを出せとばかりに、なのに表面上は親切そうに進められることに違和感を感じてちょっといら立ってしまうの、すっごく判る、気がして……。
決して、高圧的でも、イジワルでもないんだけれど、早すぎる、進めるのが早すぎて、態度が穏やかなだけに、こっちが悪いのか、決めるのが遅いのが悪いのかと、焦ってしまう。

ましてや卓は、この時点では、父親に対してつまりはどうとも思っていなかったんだと思う。憎む気持ちも、それほどなかったんじゃないか。30年会わなかったのは、あくまで必要がなかったから。結婚することになったらそりゃぁ、道義的に報告しとかなきゃぐらいの気持ちだったんだろう。

だから、いわば、巻き込まれちまうのだ。シンプルに、父親が認知症になって施設に入る、それだけのことなら。見た目はそれだけのことだった筈なのに。
駆けつけてみると、仲睦まじくしていた筈の直美は姿を消していて、宅配弁当の業者によれば、契約していたのは父親でも直美でもなく、別の女性の名前。後にそれが、直美の妹だと知れるのだが、自宅を整理している卓の様子をそっとうかがうように現れた直美の息子が、どうも様子がおかしい。慇懃無礼というか、何やら言いたいことがあるらしい。

直美が入院しているというのもウソだったし、それを問いただすと、彼は感情を爆発させた。
彼曰く、家政婦のようにこき使ったくせに追い出して、入院費も払う義務はないからと拒否。代わりに世話に訪れた直美の妹に、性的嫌がらせをして、それがもとで足を怪我までしてしまったと。

……これを訴える、息子の三浦誠己氏がもう、許せない、許せない!!という気持ちが爆発して。そりゃ、自分の母親そして叔母がそんな目に遭わされたんだから当然だと思う。でもそれも、結局は彼が見た訳じゃない、彼女たちからのいわば又聞きなのだ。
あぁ、フェミニズム野郎がこんなことは言いたかない、言いたかないが……決して決して、直美やその妹がウソを言っているなんてことではない。ただただ、陽二が恍惚の人であるということが考慮されてなくて、まったく考慮されてなくて。それは……あんまりだと思う。

判る、判るよ、直美の息子が、あいつはそういう人間なんだと吐き捨てるように言うのは、そりゃ判る。だって母親や叔母がひどい目にあったのだから。
でも、彼が実際に目にしたんじゃないし、陽二がじゃあなぜそんなことをしたのか、恍惚となった彼の心持ちを、想像さえしなかったのじゃない……。

これはとっても難しい。身内にとっては、犯罪者の真情なんて想像する必要もないのだから。でも卓にとっては。彼にとっての父親が、ずっといわゆる普通の家庭生活での父親だったら、そりゃ全く対処は違ったのだ。
でも彼にとって父親は、30年会っていなかった、他人に近いほどの距離感である。認知症になっても妙にしゃっきりとしてきっちりスーツを着て、口走る妄想が妙にかっちりとしていて、ほらほら何言ってんのおじいちゃん、だなんてなだめるレベルじゃないんである。

彼の中にはしっかりと世界が構築されていて、付け入るスキがない。よく聞くのは、認知症の症状が出る時と、そうじゃない時がまだらのようにあって、そうなると本人が苦しむのだと。普通じゃない私が存在していることが判っちゃうから。それって辛い、辛いなぁ。そうなったらどうしたらいいんだろう。
陽二の場合は、もうすっかり次の世界に没入しているから、幸せなのか、それもどうなのか……。

卓は父親と義母の真実が知りたくて、行方をくらました義母を追って、彼女の故郷に赴く。父親が甘美なラブレターをしたためた、直美の故郷。結果的に卓は直美に会うことは出来ない。それがどういう意味なのか。直美は無事なのかさえ、判らない。
直美の妹は、つまり陽二にセクハラされて怪我まで負った彼女は、姉には会えないと言い放った。卓が持参した直美の日記も受け取りを拒否した。それがどういう意味なのか、ここにはいないのか、ここどころじゃなくいないのか、まさかとは思うが……。

結局は、そうなのだろう。あんなにも運命的な二人だったのに。ラブレターを大事に日記に貼っていたのに。その日記も、携帯電話も捨て去って行方をくらましたのだから、そういうことなのだろう。
直美の妹は、なんたってイヤな想いをして怪我までしたのだから、陽二に対して強い嫌悪を持っているだろうけれど、直美はどうなんだろうと、考えていた。正直言うと……そこんところはもやもやとしたままだった。第三者、しかも身内からの拒否こそに、直美が負けてしまったように見えてしまったから。
お互いの家庭を捨てて、初恋同士のような甘い生活を送っていた二人が、片方の認知症で逃げ出す、そんな単純じゃない筈なのに、そう見えてしまうのが惜しかった。

映画と全然関係ないことなんだけれど……エンディングテーマとクレジットされている佐野元春氏、あのインスト曲だとは思えないんだけれど。だってWORDSともなっていたし。何か、問題が起きて差し替えられたのか……気になる!!★★★☆☆


OL性告白 燃えつきた情事
2002年 59分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:五代暁子
撮影:清水正二 音楽:大場一魅
出演:佐々木麻由子 河村栞 水原かなえ 川瀬陽太 竹本泰志 樹かず 入江浩治 神戸顕一 なかみつせいじ

2024/8/25/日 録画(日本映画専門チャンネル)
映画では定番のヒロイン難病モノだけれど、ピンクでは珍しいような気がする。私の乏しい鑑賞記憶の中だけだけど、初かなぁ。
基本的にヒロイン難病モノはキライなのだが、この一種、乙女チック世界観であるところのジャンルは確かに、クリエイターが一度は作ってみたい、書いてみたいと思うところなのかもしれない。脚本は女性の五代暁子氏であるというのも、なんとなくそんな想像をしちゃったり。

一般映画のヒロイン難病モノでは、セックスにはなかなか至らないんだなぁ。恋人同士なんだからやってない訳ないのだが、それはあのセカチューが近年では一つの基本となっているからか、なぁんとなくピュアプラトニックを強いている気もする。
でもんな訳ないのだ。性愛という言葉をポジティブに描いてくれるところがピンクの素晴らしきところ、というか、それこそが最大の役割であって、本作は性愛をピュア恋愛として描き切ってくれる、本当にピュア恋愛のキュンキュンを感じさせてくれる、真骨頂。

佐々木麻由子氏と川瀬陽太氏という、ピンクの大ベテラン、今や年齢の差など全く感じないし、実際の年齢差も判らないけれど、調べるなんてヤボはしないが、佐々木麻由子氏は、今も昔も色っぽいお姉さまの貫禄を全く変わらずに保ち続けているのが凄い、カッコイイ。低めの声といいそつのない芝居といい、出入りの激しいピンクの女優さんの中で、稀有な息の長さ。
彼女演じる美咲と川瀬氏演じる尚彦の出会いは、……いやむしろ、10年前から出会ってはいたのか、いやいや、尚彦はヤハリ美咲から見ると青二才に見えるから、税理士として美咲の勤める会社に出入りするようになってからは数年なのかもしれない。

その日、尚彦の目にとまった。勤続10年だというのに、今まで目に入らなかった。美咲の上司が言うところによると、ここ半年急にやる気を出してきたんだという。やる気を出してきただけではなく、見た目も当然違ったんだろう。オーラも。
それは……それまでの彼女がどうだったかということをヤボに示すことはせず、充分に観客側にも想像させてくれる。いい年をしてそれまでは実家通いだったということが後に語られ、いかに彼女が、生き直す、というか、生き切るために、生まれ変ったのだということを、詳しい事情を知らない前で、生き生きと仕事をしている彼女に一発で惹かれた尚彦、というシークエンスで判る。

尚彦が美咲に声をかけられなかったのは、弱気男子だということもあるけれど、そもそも恋人がいたからなんであった。いや、そのそもそもを、尚彦はそれほど重視していないように見えたのは、ちょっと気になったけど……。
共同経営している先輩税理士に、誘えばよかったじゃないか、お前のそういう、押しが弱いところがダメなんだと言われてヘコむぐらいの展開だったもんだから、その後恋人が間男に寝取られているのを見てボーゼンとしている尚彦、という図式は、なんとなく、もやもやするものはあった。

彼女と間男のシーンというのも……ギタリストで指を鍛えてるからイカせてやるぜ、みたいな、アイラインばっちりに髪をキラキラ光らせ、トラ柄のパンツという浮気相手、いやいやいや、髪をキラキラはないわ、シャワーで落としてこい!!と言いたくなっちゃう。
いやそれはまぁいいわ。マンガチックなキャラとしては面白かったから。でも、彼氏に現場を押さえられて、尚彦が悪いのよ、仕事ばかりで私を構ってくれないから!とか言ってわーんと泣き出す彼女には、ないないない……と思ってしまう。

めっちゃ久しぶりに聞いたわ、この台詞。めちゃめちゃ定型文。私が最も忌み嫌う、自立できてない女の責任転嫁。あーやだやだと思うが、大して重要ではない立ち位置の彼女だから、これは需要と供給、昭和世代の男子観客にカタルシスを感じさせることだと思うことにしよう。
……我ながらフェミニズム野郎と思うが、その他にもね、尚彦の先輩の婚約者、クッキーを焼いてきたんだとか、料理が上手で身を固める決心をしたとか、マジか、マジで昭和の話かと思っちゃうが、これはあくまで対比、対称なのだよね、なのだと思いたい!だってクッキー焼いてきたって!中学生だってそんな幼稚な手は使わんわ!

……なんか違うところでイカってしまう自分がイヤだ……軌道修正。美咲は一か月ごとに彼氏を変えている。それは後に明かされるところによる、彼女が余命いくばくもないことを知って、その短い人生をせいいっぱい生きようと決心したからなんである。
その方法として、もちろん仕事に邁進することもある一方で、恋に生きる、それも恋の一番いいところを味わい尽くすという選択を彼女はするんである。もし現時点で恋人がいたら違ったかもしれないけれど、観客側に想像させるそれ以前の彼女は、冴えない地味なOLさんだったんだろうから、本当に、生き直すという選択だったんだろう。

尚彦の前に一か月恋人だった相手は、取引先の男子で、彼もまたその口調から、美咲より年下男子だと推察される。つまり、独り者で、年下で、自分の制圧下における相手。決して不倫などには手を出さない。まさに少女漫画的年上のお姉さんと年下男子の組み合わせは、常に男性性に制圧されてきた昭和女子としては、永遠に夢見るテーマである。
あぁまたフェミニズム野郎勃発しちゃった、ごめんなさい。でも、それは、絶対にあると思う。余命いくばくもない、そしてそれなりに年がいっていて、今更ながら実家から独立した、遅まきながら大人の女として男の子を制圧できる、つまりはこれぞ、欲求よ。恋というのもあるけれど、制圧欲求は絶対にあったと思うなぁ。

だから、本当に恋しちゃったら、危険なのだ、それが無意識にも判っていたからに違いないのだ。一ヵ月でさようならだと、カッコよく幕引き出来るからこそ、自分が制圧できる年下の純情男子を選んできた筈なのに、そして尚彦も実際そうだったのに、なんだか、何故か、懐に入られてしまった。

それは、実際にリアル制圧できる男子だったからなのかもしれんなぁと思う。それまでは、美咲とのセックスを愛だとカン違いして、気持ちの交歓もないのに、俺を捨てるのかだなどという、勝手な青二才ばかりだったのだろうことは、1月の彼氏との情交っぷりから判っちゃう。
尚彦は、自身の恋愛も未熟だった。恋人の気持ちも鑑みてやれなかった。いやまぁ、あの彼女の言い様はワガママすぎるとは思うが、とにかく、見た目は社会人男子だけれど、ヤワヤワの、育てがいのあるヒヨコちゃんだったのだ。

ビジネスマンとして型通りのスーツ姿である尚彦に、垢ぬけた洋服を買ってやったり、美咲は、彼の可能性を感じてあれこれと世話をする。臆する彼に、身体で払ってもらうわ、だなどと言い、女が言う台詞かよ、と笑い合う。
この会話も、ほんの20年ほど前だけれど、今ならちょっとアウトな雰囲気が漂うことに、時代があっという間に変わったことを感じてしまう。身体で払うのは女という定型を、女に対する侮辱であるということを、考えもせずに、いわば平和にジョークにまぎらせて言えちゃっているのが、それはそれで、確かに平和なんだけれど。

そんなつまらんフェミニズム野郎にいちいち引っかかってしまう、ごめんなさい。美咲と尚彦との一か月の恋人契約は、恐らくそれまでは情交のみの関係と思われたのが、美咲は尚彦を自分の家に引き入れ、つまり同棲生活。そこにさらりと家族のように、まさに美咲にとっては家族である隣人の、ゲイ男子みっちゃんである。
後に知れるのだが、彼にだけ美咲は自分の病気のこと、そして一か月ごとの恋人契約のことも話している。みっちゃんは尚彦を目にした途端、今までの五人の中で一番、といった。そしてのちに、すべてが明かされた時に、美咲は尚彦には本気だった。目の輝きが違ったもの、と号泣するんである。

死を意識して、生き直す決心をして、女として輝き始めて、そうして尚彦に出会って、……そうでなければ、運命の恋に出会えないのか、という意味にもとれちゃうと思ってしまうあたりが、フェミニズム野郎の悪いところ(爆)。
いや、とても、イイのよ、キュンとくるのよ。普通なら出会えない、出会っていても、実際出会ってはいたのに、目に留まってなかった二人だった。余命いくばくもない美咲の覚悟のオーラに尚彦は魅せられ、美咲は失恋したての尚彦の負のオーラに、お姉さん慰めちゃう!となった。

美咲がこっそりバイトしていたバーで二人は正式に出会い、冬の、しんしんと冷え込んだ道路を、美咲はまるで少女のように、はしゃいで走った。コートを脱ぎ捨てて。尚彦はそれを拾い、寒くないんですか、と問うと、この凛とした空気が大好きなの!!と言ったのだった。

沢山、素敵なシーンはあるけれど、私はここが一番、好きだったなぁ。車なんて通らないのよ!と美咲は言い、その森閑とした深夜の道路を、スクリーンに縦に据えて、二人が、まるで高校生みたいにはしゃいで、女の子を、男の子が慌てて追っかけていく。
まさに、恋の一番いいところ。でもそれを、これまでの一ヵ月恋人で、美咲はこんな無邪気な姿を見せただろうか。あくまでこっそりセックスにそれを見出していたにすぎないからこそ、尚彦との出会いは、本当に、恋、だったんじゃないだろうか。

隣人みっちゃんのバースデーパーティーに、彼のゲイ仲間が集い、尚彦も美咲も学ランとセーラー服のコスプレをしてはしゃぎ合う。ラストシークエンスで、尚彦が美咲との一ヵ月を回想する時にこの場面も当然入ってきて、彼女との恋の期間のみならずである、尚彦が美咲と出会ったことで人生を、彼もまた人生を生き直したことをきちんと示しているのが凄く良くて。
だから、彼が成長したからこそ、ラストに、その先をどう解釈するかを、あれは観客にゆだねていると思うから、それを、いい方に、というか、私がそうだったらいいなと思う方に、思いたいのだ。

めちゃくちゃラストシークエンスはロマンティックなのよ。悲恋だけれど、ロマンティック。2月いっぱいで終了と言い募る美咲と痴話げんかみたいになって、そこで美咲が倒れちゃって、病気が発覚。
みっちゃんの手を借りて入院。美咲のすべての事情を尚彦は知って、そして美咲は、自分が弱っていく姿を見せたくないと、彼に別れを告げるのだけれど……。

この先が、凄く切ない、美咲と尚彦の、やりとりがあって。それは、彼らが恋人同士として愛し合った時にめちゃくちゃエロティックに展開した、目隠しされた尚彦を美咲が愛撫する、という前提があって。
それをね、それを……目隠しされて、私の気配がなくなるまでそのままでいて、と言う美咲に、尚彦は、無自覚になのか、歩き始めた。鬼ごっこみたいに、ふらふらと、手を差し伸べて、美咲の名を呼び続けた。立ち去る筈だった美咲は、彼の手が触れるまで立ち尽くし、これ以上なく、抱きしめ合い続ける。

そして、彼女が世を去った後という時間軸になり、尚彦が、彼女との思い出の場所である公園のブランコで一人穏やかな表情でいる。
これは、美咲が望んでいた、少なくとも、尚彦にはそう告げていた、実家に帰って、ホスピスに入って、最期を迎える、というのを、くつがえして、尚彦が最期まで看取った、ということなのかな、そうであってほしいな、と思う。
美咲の言っていた、弱い自分を見せたくない、というのは、判る、判るけれど……ピンクの短い尺の中で、時にマンガチックな甘やかさにないないと思いつつ、でも最終的にはそんな甘さを信じたくなる。

無数に2月のカレンダーを壁一面に貼りつくして、2月は終わらないんだと言った。あの場面が最高にロマンティックで良かったなぁ。★★★★☆


お母さんが一緒
2024年 106分 日本 カラー
監督:橋口亮輔 脚本:ペヤンヌマキ 橋口亮輔
撮影:上野彰吾 音楽:平井真美子
出演:江口のりこ 内田慈 古川琴音 青山フォール勝ち

2024/7/23/火 劇場(新宿ピカデリー)
橋口監督の新作と知り、慌てた慌てた。またしても間空きすぎ!9年ぶりて!本作は映画オリジナルではなく、テレビドラマの再編集版だという。ドラマのサイトを覗いてみても写真も同じだし、撮り足すこともなく本当に再編集版なのか。
それもまた珍しいような気がする。そうした縮めた感じは全く感じなかったけれど、確かにこの三姉妹の延々と続く口げんか……にとどまらない取っ組み合いにまでなるバトルを、毎話毎話、楽しみに見てみたかった気もする。

元々は舞台が原作、それもめちゃくちゃ納得なんだよなぁ。あぁ、舞台っぽい、舞台って感じ!がしていた。
時にそれがマイナスに作用することもよくあるんだけれど、ひなびた温泉旅館のみで構成させ、部屋から部屋、お風呂から食堂、時には外に出て、旅館へと昇りゆく急な坂道で車のタイヤがとられたり、ザ・町中華でラーメンと餃子を男子が一人ほおばったり、いい感じの狭い広がり具合が、舞台劇を映画に移した時の、とてもいい親和性を感じさせた。

母親が、登場しないんだよね。宣材写真から三姉妹プラス三女の彼氏のみの登場だったし、冒頭の、送迎車のタイヤがぬかるみに足をとられて、三姉妹が車を押す場面から、うっすらと帽子をかぶった姿が車の中に覗かれるのみだったから、予測はできていた。
でも、本当に、それを全うして、キーマンとなる母親がいないのに、その母親が原因となっている姉妹バトルがバチバチ繰り広げられるのが本当に凄いと思って……。

勿論、オリジナル脚本の素晴らしさにあるのは当然。それを、橋口監督が脚色し、ドラマとなり、映画となった経過が気になりまくる。オリジナル舞台には同じ次女訳として内田慈氏が出演していたんだという。この、ちょっとだらしない色っぽさがある次女が彼女にめっちゃピッタリ。
そして長女に江口のりこ、三女に古川琴音という、なんてなんて、大好きすぎる布陣!!この大御所(と言ってしまいたい)二人に対峙する古川琴音氏の堂々たる渡りっぷりが素晴らしいんだよなぁ。

母親を喜ばせるための温泉旅行なのに、母親が出てこない。映像化作品となったなら、ここで母親を登場させる手もあったと思う。見えない登場人物に対峙することで、舞台上のキャラクターがあぶりだされるというのは、演劇特有の一つの特徴であるようにも思うから。
映像化というのは現実味というか、リアリティを求められる部分が出てくるし、彼女たちのそもそもの存在理由となる母親が、そこにいる筈なのに登場しないというのが、映像化ならではの作用で、どこかホラーじみたというか、本当はいないんちゃうん、という気持ちにもなってくる。
彼女たち三人がトラウマに縛られている象徴として、どこか中空に存在していて、今、そこから抜け出したくて、お互いをののしり合って、もがいているみたいに。

なんてつまんない考察をぶっ飛ばすぐらい、三姉妹のバトルは面白くてたまらない。まさにこれこそ脚本の素晴らしさ。妹たちを制圧する長女の、何も受け付けない強大さ、なのにちょっとつつかれると弱腰になるズルさ、もうホンットにイラッとくるどころじゃないんだけれど、江口のりこ氏がめちゃくちゃチャーミングで、笑ってしまうんだよね。
そう、笑ってしまう……観客がその圧に耐えられなくなりそうになったところで実に絶妙に、ふっと彼女のチャーミングな愚かさが露呈して、噴き出してしまう。これがある意味ズルいというか……本当にいがみ合っているきょうだい同士だったら、こうした、いわゆるオチはないであろう。いや、本当にいがみあっていたら、こんな風に言い合うことさえないのか、とハッと気づかされる。

母親を喜ばせるための温泉旅行、そのサプライズに、三女が結婚相手を紹介するというのを出してくる。この結婚相手、実はバツイチ子持ちのシングルファーザー、酒屋の跡継ぎという、そらまぁ、お姉ちゃん二人からはありえない!!と大罵倒される負け札。
でもそれも、バツイチであることも、シングルファーザーであることも、酒屋の跡継ぎであることも、提示されなければ、いきなり結婚するという話で驚いたにしても、可愛い末の妹の幸せなら、いくらあまのじゃくなお姉ちゃんたちだって、そんなにも拒絶反応しないのでは、と思った。

ちょっとね、長女と次女は、私たち昭和世代に近い感覚が、あるんだよね。長女はハッキリ家父長制度礼賛な発言をする。
三姉妹だから、誰かが婿を取らなければ血が途絶えるとか。次女は、違う女の産んだ子供の母親になれる訳がないと言う。女が幸せになれるのは、幸せな結婚にあると、自由奔放に見える彼女は実は、思っている。

私より10以上若い彼女たちが、いまだそうなのかと暗澹とするけれど、確かにいまだ、そうなのだろうと思う。そして、それを、同じ女が、女親が、強烈に頭を押さえてきたことも、そうなのだろうと思う。
長女が母親の期待に応えようと、いい成績、いい学校、いい就職と叶えてきたのに、さっさと結婚して孫の顔を見せろと、40になって言われて愕然とする。次女は、長女の出来がいいばっかりに、自分をかえりみられなかったことで、なんだか人生迷っている。三女は、彼女だけが親のそばに残って、このお姉ちゃん二人を冷静に見て、自分はこうならないように、と思っていた筈なのに、実際は、どうだったんだろう。

三女が酒屋のバツイチ息子と結婚を決意したのは、もちろん愛し合って、とてもいい人だし、その子供ともいい関係を築けていて、と思っていただろう。いや実際、そのとおりなのだけれど、彼女自身がやっぱり気にしていた、バツイチ、子持ちであること、いやその要素以前に次女から、同窓会で再会してくっつくとか、私の周りにもいたけどあり得ない、と口をゆがめて揶揄されたことも、お姉ちゃんたちから言われるだろーなーということだったんだろうと思う。結婚に焦って、条件が悪いのも目をつぶって、手近で済まそうとして、みたいな。
長女も次女も独身で、二人ともそれに対していろんな思いがあるに違いなく、そしてそれを……母親のせいにするのは確かに簡単だし、ある意味そのとおりではあるんだけれど、それはやっぱりやっぱり、言い訳なのだよね。

でもきっと、次女や三女が言うように、長女はお母さんソックリなんだろうなぁ!江口のりこ氏がまさしく怪演で、自分のプライドを母親によって押しつぶされてきていたのに、母親を否定しきれないお姉ちゃんが、もうその言動がイラつくも超絶なんだけど、なんか可愛くて、愛おしくて、抱きしめたくなる。
サプライズを否定されて母親と大喧嘩し、アイラインが溶けて真っ黒な涙をボーボーと流してのたうちまわる彼女が愛しくてたまらない。そんな具合にちょいちょい、メガネの鼻のところにティッシュを押さえたまんまだとか、ヌケてて、めちゃくちゃ言動は腹が立つんだけど、憎めないんだよなぁ。

三女の彼氏をどのタイミングで紹介するか、ということが、いかにも演劇的なシチュエイションで、ヌーボーと登場するこの彼氏を演じる青山フォール勝ち氏が、ザ・舞台女優たちのバトルの中に丸腰でぽーんと投げこまれた感じが何とも可愛らしい。
本作は全編長崎弁と思われる言葉で展開されるのだが、女たちのそれが、とにかく喧嘩上等!に発されるのに対して、彼はこの状況が判っているのかいないのか、というのんびり加減がイイんだよね。次女のエロかましにちょっとドキドキしたことを言わんでいいのに自白しちゃったり、こういう役柄を、いわば手あかのついていない芸人さんにゆだねるというのは、ホント、ヤラれちゃうんだよな。

お姉ちゃんたちと壮絶なケンカになって、彼氏を全否定され、もう!あんたに子供がいなかったら良かったのに、なんで子供がいるの!!と、……これは、絶対に言っちゃいけないことを三女が言っちまって、彼氏が黙ってその場を辞する。
もうこれはダメだと思い、三姉妹がまぁそれだけじゃないけど、なんとなく和解した翌朝、ヌーボーと表れた彼氏、「聞いてなかった。凄く怒ってたから、とりあえずこの場はいない方がいいかと思って」てなこと言っていたけれど、ホントかなぁ。本当はいや絶対、聞こえてたし、傷ついたし、一晩まんじりともせずに車の中にいたんじゃないの?あぁ、この人を離しちゃダメよ。長男とかバツイチとか子持ちとか跡継ぎとか、そんなんじゃない、あなたを判ってくれる人が大事なんだから!!

原作となった舞台がほぼ10年前ということもあるのかもしれないけれど、そしてここ数年で急速に社会の価値観が変わったこともあるだろうけれど、そして……希望的観測かもしれないけれど、世界の、社会の、女性に対する視線が確実に変化していることもあって、いい意味で、アナクロニズムも感じた。
でも、でもまだまだ、まだまだ、家父長価値観に翻弄されているのは、特にこうした地方都市ではまだまだあるだろうし。

私の世代で終わりにしてほしい。結婚しないの、結婚して子供を産むのが女の幸せ、片付けもできないなら結婚なんて出来る筈がない、長男はやめときなさい、やりたいことがなければ東京に出てはいけないのか、等々……。
男女平等などということをわざわざ言わなければいけない時代は、私の時代で終わった筈じゃなかったのか。コミカルさに救われても、黒い影が私の心にスーッと降りてきちゃう。★★★★★


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