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ボクは坊さん。
2015年 99分 日本 カラー
監督:真壁幸紀 脚本:平田研也
撮影:柴崎幸三 音楽:平井真美子
出演:伊藤淳史 山本美月 溝端淳平 渡辺大知 遠藤雄弥 駒木根隆介 斎藤歩 有薗芳記 松金よね子 濱田岳 松田美由紀 イッセー尾形
しかし、その私の出身校は禅宗系だったせいか、本作のお坊さんたちが通う大学、高野山大学、というのは初めて耳にしたのでちょっとした衝撃。お坊さんが通う大学、高野山大学!!なんとまあ!
つーか、かつて新聞広告で「僧侶募集。宗派問わず」なんてのを見つけて大ウケしたことを思い出し、なんかどっかで、お坊さんに資格があるとかゆーことが想定外だったので、本作の中で披露されているお坊さんあるあるの中でも、これが一番のへぇ〜なのであった。
んんー、きっとあの募集は、宗派は問わないけど僧侶の資格を持った人を募集していたのであろう。
なんて、どーでもいい話。本作自体はだから、テーマ的にも興味深いし、くせのない演技派(これは案外、得難いと思う)とでも言いたい伊藤淳史君主演であることも足を運んだ理由であったが、まぁ、青田買いしたがりの気持ちもやっぱり、あったかなあ。
長編デビューと聞くとついついチェックしたくなるあたり(爆)。つまり、初見であるこの監督さん、だからそのリズムに慣れていなかったせいなのか、なんとゆーか、あちこちでつまづく。
つまづくという言い方は適当なのかどうか……それは私が、こういうリズムで来るだろうと勝手に思っているせいなのか、それともお坊さんの物語だから、ゆったりとしたリズムで描こうとしたゆえなのか??
それが特に顕著に気になったのは、高野山学校で共に学び、共にすぐにはお坊さんにならずに社会に出てみた、という立場の友達、濱田岳君演じる広太との会話シーンなんである。
会話といっても、電話越しである。この電話のやり取りが……キャッチボールのリズムが全然なくて、まるで衛星中継の時差のような間があるんである。あれは一体なんだったんだろう……。皮肉じゃなくて、本気で悩んでしまう。
広太がオフィス内であることを気にして声を潜めていたからなのかなとも思ったが、だとしたら進(伊藤君)側のタイムラグは説明がつかないし……。
このシーンに顕著だったけど、やっぱりなんだか全体的に、会話シーンの流れがどうにもつかめない。進は幼馴染三人組、溝端淳平君演じる真治と山本美月嬢演じる京子と大人になった今でも仲良しで、三人、あるいは二人のシーンが数多いのだが、なんか、スムーズじゃないんだよね。
これがコメディでオフビートなリズム、というのならあるかなと思うようなリズムだが、別にそういう訳じゃない。なんだろうこのつまづき感……と思っちゃう。
物語が後半になるとシリアスな展開になるので、そんなに気にならなくなるんだけど、前半、特に京子の仕掛ける?覇気のなさと言ったら語弊があるのだろうが……、なんか石につまづくような気持がしてしまう。進は京子に淡い恋心を抱いていたのだろうが……。
気になるところを言いだすとキリがないので、ざざっと概略を行く。
進は高野山大学を出て僧侶としての資格を得た後も、さっとお坊さんにはなってない。スーツを着て、ご出勤。檀家の長老は心配げにその後姿を眺めてる。
出勤先は書店。大変だけど本が好きだから、と同じ立場の友達と電話でしゃべる様子からは、仕事の大変さがそれほど身に染みているようには思われない。
結局、このスタートがいけなかったのかもしれない。その同じ立場の友達、いかにもなリーマンスタイルの広太、いかにもな冷たそうなオフィス、彼はこの時点で見るからにしんどそうだったが、次のシークエンスではもう引きこもってしまっている。
同じ立場の友達、の筈が対照的な結果になったことを、その対照の理由がなんなのか、明確に示せればよかったんじゃないかなぁと思ってしまう。
進が書店でどんな働きぶりだったのかは全く判らない。楽勝だと思っていたのに大変だよ、とこぼすほどの描写は皆無。
しかしそれ以上に、引きこもりになってしまった広太の描写が、全くなかったことが凄く気になるんである。彼の苦しみが明確でないと、彼らの友情も、その後の分かれ道も、説得力がなくなってしまう。
で、正直なことを言うと、人間関係も展開も、全編こんな感じという印象なんだよね。うぅ、キリがないからざざっと概略、とか言いつつ、もう脱線してるけど(汗)。
修正修正。幼馴染の二人は、進がお坊さんになることを期待して、和尚のニックネームで呼び続けている。そんなところで進の祖父が他界。死にゆく祖父の手を握って、お坊さんの名前に改名してきたと告げるシーンが、本作の中でもっともじんわり感動的なシーンであった。
名前を変えることはそりゃ大変なこと。でもお坊さんになるからと一言告げるだけでスッと役所のシーンが終わるあたりが、ここだけは、他に感じたつまづきよりも、感銘の方を受けたりするんである。
そして進は光円という名の僧侶となり、初めての仕事が祖父の葬儀。後に京子の結婚式も執り行ったり、人々の暮らしに寄り添う僧侶としての仕事がスタートする。
幼馴染のもう一方、溝端君演じる真治が、葬式以外に何をするのか、みたいな口調で切り出し、なんか説明的な感じで意外と忙しいお坊さんライフを光円さんはレクチャーするのだが、確かに結婚式というのはちょっと意外な感じであった。
神社の結婚式はイメージできるんだけど、寺でのそれはさ、あんまりなじみがないじゃない??それこそ寺は葬式で神社は結婚式みたいな……。そうか、寺でも結婚式をするのかぁ。
その京子にはちょいと恋心を抱いていた光円だから、軽い失恋??しかし、京子は出産の際に脳出血を起こし、意識不明に。ダンナが離婚する、ということに真治が激怒し、ひと悶着あり、光円は考えた末に京子の赤ちゃんを寺の子として預かることにする。
とゆーのも、父子家庭の京子の父親も酒浸りで、育てられるような状態じゃなかったから……。こういう事態になった時点で、寺の子として育てるのがベストじゃないのと思いながら見ていたから、光円さんの決断にはおおいに満足なのだが、真治のあまっちょろさには、それが彼自身の甘さなのか、脚本の甘さなのか(爆)判断しかねるものがあるんであった。
京子にホレてた光円さんならいざ知らず、純粋に友人としての立場をあっけらかんと示していた彼が、彼女と結婚し、つまり人生を丸ごと受け止めた形であるダンナに対して、植物人間になったから離婚するなんて許せない!!などと間違った男気まるだしで吠えることに、溝端君自身は違和感を感じなかったのだろーかと考えてしまうんである。
意識を失っても彼女を愛しているから離婚しない、というのがトーゼンだという価値観で真治は彼を責めるのだが、当然のごとく、その立場になったこともない癖に、と反駁されるんである。
ちょっとズルいな、と思うのは、ダンナがそもそもずっとそばにはいられない職業、長距離ドライバーという設定で、京子が倒れた時もそばにいられなかったし、ならば赤ちゃんを育てるのもそりゃあ物理的に無理。なのに彼に「子供は欲しくなかった。京子が欲しがったから」と言わせるのはあんまりだと思う。
子供を育てるのが物理的に無理、というこの設定だけで充分じゃん。彼の苦悩をあっけらかん真治が理解できていない図式で充分じゃん。なんでそれ以上、このダンナを悪役にする必要があるんだろう。
光円さんがそのはざまで悩んでいるのかどうかも微妙。彼が幼馴染としてよりも僧侶として赤ちゃんを預かる決断をしたのは凄く良かったと思うけど、真治といい、ダンナの設定といい、どうにもつまづきというか、モヤモヤしたものを感じるんだよなあ。
意識のない京子に対し、今までのように生きている存在として思えない苦悩を吐露する真治に、僧侶としての通り一遍の言葉しか言えない光円さん。そして彼は倒れてしまう。
と、凄く大事なキーパーソンをここまでに漏らしている(爆)。大好きなイッセー尾形。檀家の中でも長老として、光円さんを、そして寺を心配している。
長老、などとゆー年齢ではないと思うが、もともと一人芝居でお年寄りキャラも得意としていたイッセーさんは、どこかにそういう絶妙なフィクション味を残しつつこの長老をひょうひょうと演じてくれる。
正直、劇中に披露される、お大師さんが残したものを始め、ありがたいお言葉の数々は、映画の台詞として、音で表現されると、漢字の感覚が上手く伝わらず、これは原作であるエッセイ、そして仏教の教えの魅力がイマイチ描けていない気がしてしまっているのが正直なところ。
当然のことながらその多くを口にするのは僧侶である光円さんなのだが、たとえ感覚が上手く伝わらずとも、その存在とたたずまいで伝えてしまうのがさすがのイッセー氏であり、若さゆえの未熟さもありながらも、やってみようと思うことを体当たりで実現する光円さんを、お大師様になぞらえてひっそりと褒めてくれる場面は、イイんだよなあ。
でも確かに、光円さんは未熟そのもの。でもそれは、お坊さんといえばそれなりに年齢を重ね、徳を積んで、ワレラ下々のものにありがたい言葉をくれる、というイメージがあるからで、お坊さんだって若い頃があり、お坊さんとしての年齢や徳を積む筈であって、などとゆー当たり前のことがこんなにもやけに新鮮。
なのは、きっとその昔は、お寺やお坊さんの世界ももっともっと数がいて、年功序列があって、一つの寺の中での出世コースじゃないけど、ピラミッドがあったからじゃないのかなあ。跡継ぎに苦しんで、育てる間もなく資格を得た若い僧侶となる今の時代の皮肉めいた面白さのようにも感じるし、そこにこの長老のようなありがたい存在がいるということは、むしろ奇跡に近いような気もするし。
長老は結果的には光円さんが作った、一般の人たちと交流を深めようと建てた演仏堂のことも褒めてくれたけど、情緒ある寺の敷地に、無粋な真四角の建物は正直、センス0!と思ったしなあ……。
舞台が四国、お遍路の四十八か所のお寺のひとつ、というのが、結局はここでしかありえない環境でさ。お坊さんあるあるとか言いつつ、全ての若いお坊さんに共感を得られるかと言ったら難しそうなんだよな……。
ここでしかないよね、きっと。若いお坊さんたちだけで野球チームが作れるなんてさ!南無スターズのネーミングには思わず笑ってしまった。
今は肉だの酒だのも大丈夫なのは判ってても、酒のシーンがやたら多く、そしてへべれけになって、引きこもりの友を聖地の高野山にムリヤリ連れて行って、記憶ナシ!というのも新鮮で可笑しかったしなあ。
光円さんが僧になった途端、玄関に置きたくなったクマの木彫りは妙にアーティスティック。なんか見た覚えがある。有名な現代アーティストの作品ではないかしらん??
個人的には母親役の松田美由紀氏が大好きなので、イッセー氏と共に大好きな俳優がそろい踏みで、なんかそれだけで満足な気分になる。
彼女が自分の息子なのに、光円さん、と言うのが、切ないような萌えるような、何とも言えない気分で、ああ、これが、僧の世界とゆーことなのかしらん、と思ったりね。★★★☆☆
原作は井伏鱒二。有名どころ。やばい、私彼の著作いっこも読んだことないかも(爆)。第一回読売文学賞の受賞作という触れ込み。今では歴史ある有名な文学賞のひとつの、その第一回作品というのはなかなかに感慨深いものがあり、それを原作とした映画が名画として名を残しているというのも、小説と映画が幸福な関係を築けた時代をうらやましく思ったりする。
本日休診。その通りで、戦後再開院からの一周年記念で休診日となった日、若いスタッフを温泉旅行に送り出して一人ゆっくりと昼寝をむさぼろうとしていた老先生が、休診なのに次々と訪れる患者(のみならず)に翻弄され、奔走する一日プラスアルファを描く。
そんな作品だから様々な人間とそのエピソードが描かれ、私の苦手なオムニバス的な様相を呈し、今から書くこといっぱい!!と青息吐息なのだが(なさけなっ)、でもその一人一人がとても愛しく、そのエピソードが微笑ましく、いやシリアスなのも結構あるんだけど、すべてが未来への希望に収束されていく。
それは戦後まもなくという、どん底の絶望直後だから、もう未来への希望しか残されていない、というどこか皮肉めいた時代の感触から産まれるのかもしれないけれども、だからこそ人間のすべての原点がつまっている気がするのだ。
なんかやたらお産が多いんだよね。老先生もそうこぼすんである。そもそもこの三雲医院の第一号患者が、担ぎ込まれてきた妊産婦だったというんだから念が入っている。
時に「産むことより育てることが大事」と、出産自体を否定しているのかとヒヤリとするような言葉を老先生はもらす、のは、当時の子だくさん事情、それによる貧乏事情、子供たちこそが苦しむ事情を鑑みてだろう。
でも勿論、そのすぐ後にはこう言うのだ。「でも産まれたからには、大事に育てなければ」シンプルなんだけど、現代に通じる凄く凄く、コアな価値観を持った言葉。ひょっとしたらこれこそが、本作を貫くカギになっているのかもしれないと思う。
だって、流産する女も出てくるし、それによって彼女は死にかける。それが物語最ラストだから、このまま死んじゃうのかとヒヤリとするが、助かる雰囲気でラストに向かう。
……もしかしたら原作では違ったのかもしれないという若干の不自然さ。やはり映画では希望を持たせたかったのか。
この流産しかける女、お町は淡島千景。最高に美しい頃の彼女。そして暴漢に襲われる女、悠子も出てくる。暴漢に襲われる、程度の表現で濁しているが、当然それはレイプということに他ならない。
悠子はお町に、ひどい目にあった女が幸福にならないなんてことはない。幸福になれるんだ、一緒に幸福になろう!とかきくどくんである。
子供を産む身体を持つ存在、としての女、ということが今よりもっともっと、さげすむほどにハッキリとしていた時代の、それでも未来への希望を、女の立場の向上を感じられた時代の、涙が出るこの薄幸な二人の女の幸福を祈らずにはいられない。
まあ、こんな風にずるずる書いていくと収拾がつかないんだけど、まあアレよ、そんな具合にいろんな人が交錯する訳なんだから(爆)、気にせずこのまま行っちゃおう(爆)。
この二人の女には、それぞれに彼女を愛する二人の男がついている。お町は水商売の女で、その客としての男、加吉、演じるは鶴田浩二。
見ててハラハラするぐらいのめっちゃ優男。三雲医院にやってくるのは、指を詰めるのに麻酔を打ってほしいというんだから、もはや既にヤクザとしての矜持すらゼロである。それなのに本人は肩をそびやかしているんだから、救いようがない。
後に彼の情けなさを決定づけるエピソード……お町を孕ませた金持ち男の家に慰謝料をぶんどりに乗り込んだのに、したたかマダムにあっさり追い返されるところで、もう判っちゃうよね、ホント。
このしたたかマダムのうつ芝居、家じゅうに血気盛んな用心棒が今や飛び出そうと潜んでいる、てなことにあっさり騙されちゃうんだから、ホント、バカ!
でもこの場面は喜劇として本当に秀逸でね、あちこちのドアをバタンバタンと開けて、そこにいる人たちに構わず、早まるんじゃないよ!とか言うマダムに爆笑!こういうのって、なかなか今は出来ない芸当なんだよなあ。
そして、暴漢に襲われた悠子。休診中の老先生をまず叩き起こすのが、彼女を連れた警官なんである。暴漢一人ではなく、彼女の荷物を奪い取ることが目的の、やさぐれた男と女のチームだったってことが、事態の深刻さを増すんである。
路面電車、蒸気をブオー!と吹き上げながら、走っていく、夜の闇、当時の夜の闇。女に荷物を奪われた悠子が、男に後ずさりながら必死に時計を差し出すも……というその後、を想像させるイヤなスリリング。
警官によって診察に訪れた休診中の三雲医院。そこにやってくる、かつての患者第一号、あの時産んだ子がもう19になりましたよ、と人懐こい笑顔で押しかけてくるオバチャン。その19になる男の子こそが、悠子のお相手となるんである。
その息子、春三、佐田啓二!!ちょっとカンドー!!まずその登場が、手紙マニアだってのが、イイ!
老先生のおかげで自分は今ここにいる、ってことを、来てるんだから直接言えばいいのに、手紙で伝えるのがいいんだと、自分は病院の外で待機してる。別に引っ込み思案って訳じゃなくて、ホントに、手紙マニアなだけ。老先生が出てくればニコニコ挨拶する。カワイイ!
でね、オバチャンは悠子に同情して、行くところがない彼女を招き入れるのに、息子が彼女に恋し始めていることを察知すると、難色を示すのだ。
老先生が「あんな目に遭ったことは、あの子に何の責任もない。そんなことであの子の価値は少しも減じられないよ。それでも自分の息子の嫁となるとイヤなのか」と実にストレートに、ずばっと投げてよこす。
カットをぱきっと変えて、真正面からオバチャンを映し出すカメラは、それでも「でもねえ……」という態度を崩さない彼女を見せて、何か絶望を感じさせもするんだけれど、でも全てをこれから生きていく若い彼らに任せる空気を持たせるラストだからさ!!
いやいや、この二人の女で話を終わってはいけない。この映画で一番目を引く人物、こうした明確なエピソードを持ってはいない人物、つまりは、ちょっとしたコメディリリーフと言ってしまえるのかもしれない人物なのだが、でもやっぱり誰よりも深い深い意味を持つ人物!三國連太郎っす!
オープニングのキャストクレジットで名前を見つけた時から、その時なら相当若い三國連太郎……とワクワクしながら待っていた。判っちゃいたけど、美男すぎる(汗)。
なんつーか、もう、ロシア将校みたい、ってなんだそりゃだが、戦争は終わったのに、その狂った体験から抜け出せずにいる、いまだに中尉殿なのだから、当然軍服。だからもう、なんかロシア将校みたいなのさ。
“発作”が起きると、周囲を大音声で命令下に置き、老母(三雲医院の色々世話してるばあやさん)を困惑させる。
でもね、老先生は言うのだ。「どんな状態でも、生きて帰ってきただけいいじゃないか。」先生が病院を継がせたかった一人息子は、戦死した。甥っ子をこの病院の院長に据えているんである。
戦友の計らいで一人息子の小指だけが骨になって帰ってきた、というエピソードは、ヤクザ男の指詰めに対する作り話かもしれないとは思うが、つまりはそういうことなのだ。
シリアスに考えると、戦争の狂気から抜けられない勇作=三國連太郎はあまりにも哀れで、未来への希望なんて持てそうにないんだけど、なんか妙に魅力的なの、可愛らしいのよ、それって、すっごく不思議、凄いことだと思う!
ケガした雁をつかまえて、負傷兵を治療してくれ、と老先生に訴え、これは航空兵だな、少年兵だ、と老先生がノると、澄み切った少年のような瞳で、そうか、とうなずく。
そして、「航空兵が脱走しました!」爆笑!!「それはきっと、傷が癒えて、両親の元に帰ったんだろう」と老先生が優しく説くと、また少年のような瞳で、そうか、とうなずく。
確かにネジは飛んでいる。でも人間として大事な部分は失わずにいる感じがして、なんかじーんとしちゃうのよ。
周囲の人たちもね、気味悪げに避けたりしない。驚きはするけど、彼の“命令”に従っちゃう。ラスト、“航空兵の帰還”雁の群れが夕暮れの空に隊列なして飛んでいくのを、周囲の人間巻き込んで敬礼で見送るのが、良くってさあ、泣けちゃう訳。
まあこうして書いてみると、確かにいろんなエピソードがある本作からは、こぼれおちている人物ではあるんだけど、キモに感じた「産まれたからには、大事に育てなければ」という延長線上に彼がいるのかもしれない、そういうことなのかもしれない、と思うのだ。
彼に限らず、ハッキリ言って生産性がなくて、どーしよーもない男たち(まあ男だよね、大抵)はウヨウヨ登場する。
産後の肥立ちが良くない女房を暗い船底に寝かせている小さな漁船の船長、盲腸の友人を担ぎ込んで、看護婦たちに散々セクハラ発言した挙句に、全部踏み倒して夜逃げしたチンピラたち、“年上女に脅されて彫らされた”イレズミを消してほしい、郷里の縁談話に触るから、とやってきた学生、もう、枚挙にいとまなしよ。お町のお兄ちゃんは稼業の炭団屋に身を入れずに、ギャンブルばかりで妹に苦労ばかりかけるしさ。
でも、そんな奴らも、みんなみんな、愛する女を思い、家族を思い、友人を思う奴らでさ、なんかズルいと思うけど、憎めないのよ。そういう、一番重要な部分をちゃんと、抑えているんだもの。
そうよ、加吉なんて、二重三重に、お町に心配と迷惑かけるんだもん。もうヤクザから足を洗うと言ったのに、お町の入院費用を心配して、賭博場に入って、捕まっちゃう。そしてそこには漁船で賭博をやらせてた、あの船長もいるという都合の良さ(爆)。
悠子を襲った二人の男女は、私みたいなフェミニズム野郎にかかれば、ぜえったいに許せない!!と思うところなんだけれど、そのあたりの処し方も見事なんだよな……。
悠子の荷物を奪ったヤサグレ女は、牢獄から逃げたいばっかりにミエミエの仮病を使って、三雲先生が呼び出される。ねぇ、先生、とばかりにしなだれかかり、ハデな宣伝文句が入った長襦袢姿になるのには爆笑!!正直、彼女のコミカルに騙されたっつーか、薄められちゃった感は、あったかも。
その後、暴漢男を三雲先生は激しく叱責するんだけれど、でもこんな目に遭った女が殺したいと思うぐらいの気持ちを、ぶつけられるだけのそれではないもんなあ……。
色々あったけどやっぱり、未来への希望、なんだよね。そしてそれが判り易く、新しい命、新しい家族であるというのが、それをさらりと示せる時代であるというのが、その直前の絶望を思っても、でも、今の時代よりずっと幸福であるような気がする。
一人息子の替わりに院長をゆだねた甥っ子に、老先生は「瀧君だろ?」ともうすっかりお目当てのナースが判ってて、ミエミエのおぜん立てをするのが、イイの!
お酒が入っててさ、イイ気持ちになってそんな話題になって、就寝中の瀧さん(岸恵子かー!!)を起こしちゃった老先生、おろおろする若先生、なんか幸福で、イイの!老先生は囲碁をさし、若先生はチェスをさしている、時代の判り易い示し方!
そして、悠子と春三のカップル、勇作を荷物持ちにさせてのピクニック。老先生はせっかく釣りの用意をしたのに、てぐすを忘れて、勇作が老先生の白髪をてぐすがここにある!とむしり取ろうとしておっかけっこをする、ナンセンスながらも、なんとも幸福なシークエンス。
このシーンと雁の群れに敬礼するシーン、それまではただただキテレツだった勇作が、何か、幸福の示唆をするような存在に変っていく感じがして、やはり三國連太郎、最初から釘付けだった彼が、やはりやはり一番のキーマンだったのかも、と思った。★★★★☆
こうして書き出せば判ってしまうだろーけど、私はなんか……うーんと、首をかしげてしまった、というのが一番ピタリとくる感じかなあ。
予告編や何かのパッケージの段階では凄く、面白がれそうな気がしていた。BLオタク女子、妄想が突っ走り、ゴールがどこへ着くのか判らない、しかもその女子の隣には妙に美しい美少年が付き添う。画的にもバッチリ!!と思ったのだが、妙に静かにしんしんと映し出す展開にあれれ、と。
ポスタービジュアルからのイメージで、コミックスのコマ割りにフキダシ、擬音語、擬態語が飛び散りまくる、キッチュでポップな作品かと思っていたのよ。
むしろそんなことを期待する方が古い?キッチュでポップ、だなんて、もうそれ自体死後的表現??実際、それそのものような突っ走り方をした「渇き。」には、まさに古さを感じたもんなあ。
でもそれは、作り手の感性の問題で、正しく使えば(ヘンな言い方だが)、やっぱりそれは、有効な手段だと思っている……というか思いたいフシがあったからさあ。
キャラクターはオタク女子と彼女にアゴでこき使われる美少年、そしてオタク中年、そしてイマドキの(これまた古いか!)JK(女子高校生、とせいいっぱいイマ風を見栄張ってみる(爆))たちが“にわかオタク”としてダラダラな感じで花を添える。
お膳立てはバッチリと、例え年頃が一緒でも、決して壁ドンが出てくるような青春モノではありえない。
それだけに前述のようなハジけ飛ぶ感じを期待したが、でも考えてみれば、このにわかオタクのJKたちの温度の低さ、青春どころか人生投げてるような低さなのに、なぜか人生楽しんでいるように見える感じこそが、本作の底辺、つーか、もしかしたら基礎の部分になっているのかもしれないし。
一方、ヒロインのぼんちゃんは、中盤あたりまではそのテンションの低さをキープしつつ……本人は高いのだろうが、ってあたりの受け手の感覚とのギャップがまた面白い……しっかりと描いているのだからなあ。
そういやー、このJK二人は、主人公二人の妹、なんだよね。妄想突っ走りの救出大作戦に出た二人を、ネット中継を駆使して見守る。見守る、つーか、温度低く楽しんでる。
彼女たち二人を主人公にしてほしかったほど、このダラリとした二人が面白かったのよね。家具売り場や電気店のマッサージチェアで、まるで我が家のようにピルクルだのスナックだの持ち込んでリラックスし、ダラリJK言葉を駆使し、しかしそこで交わす会話は時として妙に哲学的だったりするのだ。
「やべ、やべやべ、死ぬの考えてたら怖くなってきた」なんて。本作のどの展開よりも、このJK1の言葉が強い印象に残って……って、あれ?それじゃ一体何の映画を観ていたんだか??
うーむ、でもそうかそうか、そういう風に、先入観なしに、フラットな状態で観れば、それこそぼんちゃんの中の混沌も、そこまでたどり着いていない少年のリンちゃんの戸惑いも、それらを経験してなお、未経験のことが多すぎるベビちゃん(中年オタクさんね)のことも、愛しく思えたのかもしれない。
個人的な希望としては、せめてオフィシャルサイトには、語録とか、用語辞典的な、ぼんちゃんが喋りまくる言葉の意味とか用法とか、載せてくれたらなー、と思う、すっかり老いた私(爆)。
喋りまくる、という感覚もちょっと違うの。並べ立てる、いや違う。そんな温度はやっぱりない。誤解を恐れずに言えば、ぼんちゃんの膨大な台詞は、念仏のようなフラットさを持っている。
時々、イイことを言ったりもしている。よーく耳をそばだてて聞いていれば。例えばベビちゃんに対して、負け組のモデルケースになっているとか……あれ?違ったかな……なんかぼんちゃんがあまりにするする言うから、残るようで残らないというか……。
そういう意味ではホント、今までにない映画だし、今までにないヒロイン。でもあまりの聞き取れなさに、でもそれこそが面白さなんだし、このまま最後まで突っ走るのなら、それはそれで、面白いのかもしれないと思ったのだが。
なーんて、思わせぶりなところでふと止める。だって相変わらずのことだけど、これじゃ全然、判んないもん(爆)。
冒頭にね、もうこれまでの、というかこれからのこともほぼほぼ推測できるような、説明が、手書きクレジット、リンちゃんのモノローグ文字版、て趣で現れるのね。
肉便器というヒドい呼び名で呼ばれているのは、ぼんちゃんがこれから救出に向かおうとしているオタク友の女子。しかし実際、肉便器=みゆがオタク女子であったという形跡すら残らず、それすらぼんちゃん得意の“妄想”だったんでは、とも思わせる。
あ、でも、妄想、という言葉は本作のキーワードであり、ラストクレジットの、これまた手書きのモノローグでも使われているけれど、少なくとも本作でのぼんちゃんは常に現実に即して言動しているし、それこそ期待したような妄想女子の大暴走、ってのは、感じられない。
いやでも、言っていたかな、それこそあの温度の低いフラットな物言いで言っていたかな。なんつーかさ、彼女の信念も妄想も同じトーンで喋られるから、区別がつかんのよ。しかもき、聞き取りづらい(爆)。
小津かと思うぐらいストイックに静かに進行して、その中でぼそぼその早口。つ、辛い(爆爆)。
あー、そうですよ、私はもう、若い人(という言い方するようになったら、もうダメだー(涙))の言葉も聞き取れない老人なのよーっ(涙涙)。
……えーと、相変らず脱線してしまいました。軌道修正。で、そう、肉便器ことみゆちゃんの救出作戦。男と同棲すると言って飛び出して、その男から暴力を受けているという電話の後から、連絡が取れなくなってしまった。
肉便器という呼び名はトーゼン、ぼんちゃんが性欲を嫌悪しているから。「つけたのはリンちゃんだから」と言いつつも、リンちゃんが言うように、「どっちがヒドいあだ名をつけられるのかのゲーム」であったんだろうその名前を、みゆちゃんそのものとして使っているのはぼんちゃんの方。
「16歳と62か月」を自称するぼんちゃんは、大好きなBLを語る時にはヒヤリとするほどエロ、どころかSM的な言葉さえ発するのに、「結婚すればヤリまくれるのに、性欲に支配されるとは」と吐き捨てるように嫌悪しているんである。
どうも判りづらいけど、ぼんちゃんは大学生、らしい。それは後に再会するみゆちゃんの台詞から知れる。
みゆちゃんの言う通り、大学に行かせてもらえる、っていうのは、ある程度余裕のある家庭、ありがたい境遇。みゆちゃんはぼんちゃんの目からは男と同棲するために飛び出した感あれど、理由はそれだけじゃなかったのかもしれない。
かもしれない、というあたりが……。
フツーサイドのおばちゃん側としては、みゆちゃんの言う言葉の方がすんなりと入ってくるんだよね。まあそれだけ、平凡な価値観と平凡な言葉と言ってしまえばそれまでなんだけど。
「なっちゃんは何も判ってない」それこそ平凡な言葉だけれど、結局はそれが一番集約している。
デリヘルやってるみゆちゃんが、お客さんに喜んでもらえることに喜びを感じていることを、どう言ったって今のぼんちゃんには判ってもらえることなぞ出来ないだろう。それはみゆちゃんサイドから言わせれば、そんなことが必要のない、恵まれた環境にいるからなんだ、と。
……こうして書いてみると、すんごくつまんない。平凡。実際、みゆちゃんと再会を果たしてからいきなりフツーのドラマになっちゃう。
みゆちゃんを演じる比嘉梨乃嬢がぼんちゃんの佐倉絵麻嬢と比べて“フツーに”芝居が出来てしまって、それに対して、せっかく今まで独特のペースを貫いてきたぼんちゃんがあっさり崩されるからさ。
いや、そもそも肉便器と呼んでいた、つまり性欲のドレイになっていた友達への蔑称を使っていたのに、みゆちゃんという呼称に切り替えるのはかなり早い段階だし、自分と距離も価値観も離れて行ってしまった友達を取り戻すことで、自分自身の価値観、つまりはアイデンティティを取り戻そうとする物語、という図式がかなり早々に見えてしまって、しつこいようだが先述のようにキッチュでポップなオタクムービーを期待していた向きをちょっと失望させちゃうんである。
つまりね、私だって映画ファンという意味では、ちょっとはオタクかもしれない。そんなプロフェッショナルオタクにはなれないから、うっかり言えないけどさ。
でもそういう……オタクという言葉への尊敬と憧れがあるからこそ、他人、いや一般人、いやフツー人、いや……誤解を恐れずに言えば、何にも夢中になってないつまらない人々(爆)に対して、堂々と声を上げるほどのものを見たかったのだ、きっとそれが正直な気持ち。
結局ぼんちゃんは、処女を失ったからこそ見えてきたものがあるみゆちゃんに負けちゃうんだよ。この負け、がどういう意味合いのものであるのかは、上手く言えない。
そりゃ処女、童貞のまま行っても、豊かな人生を送る人はいくらだっている。そんなことで計れることではないことは判ってる。でも、ぼんちゃんはまずそれを否定しているんだもの。肯定したみゆちゃんを非難しているんだもの。
正直、みゆちゃんがデリヘルやってる、という設定が来た時に、またか……と思った。つい最近、今時デリヘルで女の子の人生感やら性感覚やらを試すのかよ、古っ!と思ったばかりだった。
本作でもデリヘルに遭遇した時、そうか、私が古いと思っていたのはそういう風俗(セクシャルな意味でも、社会的な意味でも)が一番盛り上がっていた時のことを思い出すからで、もうすっかり現代に定着しているってことなのかな、とも思ったけれども、でもやっぱり、古いなあ……という感覚は否めなかった、かなあ。
ぼんちゃんのBL好きという設定自体、観客を呼び込む面白さ以上のものは引き出せなかった気がする。オープニングキャストクレジットで扇情的なBLコミック場面を、しかしフラッシュ的に置くだけで精いっぱいってのは、あまりに勇気がなさすぎる。
その後、いくらぼんちゃんがアナルだの入口だの出口だのと赤裸々な言葉を使って魅力を語ったとしても、伝わらないよ。だって基本、ぼんちゃんは草食女子なんだもの。
そう、なんかこの言葉、浮かんじゃったよ。草食男子というのは近年よく言われるところだが、本作には出てこない。みゆちゃんと同棲していた男子は当然SEXしてる。だって彼女から性病を移され、HIVにさえ感染したんじゃないかと怯えているんだもの。
一生モテ期が来なさそうな(爆。ゴメン!)ベビちゃんは、素人童貞、つまりフーゾクの経験は豊富。だってあれだけ部屋中を二次元エロ女子で埋め尽くしているんだから、女の子は普通に好き、三次元も好き。
それはカツアゲで一文無しになったぼんちゃんたちを部屋に泊め、決死の思いで「好きなんだ!!」とぼんちゃんに抱き着くという暴挙に出ることで、明確にされるんである。
草食男子という言葉と対照する形で、肉食女子ってのはやたらと言われたけれど、ぼんちゃんは明らかに草食女子、てゆーか、見方を変えればいつの時代よ、というほどのウブな純情女子であり、……でもそんな風にぼんちゃんを読み替えられる展開にしてしまうのこそが、凄く、凄く残念な気がしちゃうのよ!!
処女でもいいし、場合によってはベビちゃんにヤラれちゃってもいいから、彼女のBLへの思いを、オタクという最高位に位置づけられた信念を、貫き通してほしかったのよ!!
ぼんちゃん、という名前の由来が、りぼん好き、というところから来ている、て時点で、ダメかなあ、と思ってしまった。
ぼんちゃんは、自分もリンちゃんもファッションとかには興味がないんだけれども、外の目を気にしてそれなりの格好をしてしまう、と説明し、それを一切なさない、ザ・オタクなカッコのベビちゃんをほめる訳なんだけど、正直、映画として成り立つための言い訳としか思えない。
ぼんちゃんはフツーに可愛い女子で、そのオタクゆえの低温な、ういっす、的な物言いと頭の振り方(こう、口元から首を経てスライドするような感じ……上手く言えない!)の、意識的に女子度を排除するようなトコが逆に可愛くて、そしてファッションが“それなりのカッコ”でしょ、フツーに可愛いんだよ!!
そしてリンちゃんも、フツーに美少年。てか、リンちゃんは画的にめっちゃ成立してたけど、彼自身のアイデンティティは、ど、どこにあったの(汗)。
BL好きってのもぼんちゃんに影響された、って説明で、時々コミックスの中の台詞や仕草をぼんちゃんの流れで再現して見せるけど、彼自身からBLへのアツい思いを感じることは正直、出来ないもんなあ。
あ!でもそれ言ったら、ぼんちゃんからも結局あんまり感じられない。ダメじゃん!そもそも、ダメじゃん!!!
私ね、ずーっと、ホントにぼんちゃんとリンちゃんは姉弟だと思ってたの。彼らがそうじゃない、って言っても、そうだと思ってた。てか、そうとしか見えなかった。
まあそれこそ単純に、姉弟だけどアブない関係、ってあたりを期待していたのかもしれない、心の底で。でもリンちゃんはただ美しい男の子ってだけで、冒頭の文字モノローグでは狂言回しになるのかなと思ったけどそれすらなく、ベタに男子のモヤモヤをぼんちゃんに判らせる立場なのかと思ったらそれもなく、い、一体なんだったのかしらん(汗)。美しい少年だったけど、タイトルロールを任せられるには存在が薄すぎる(爆)。
あのクライマックスでは、ベビちゃんと共にただ黙り込んでるだけで、ベビちゃんはまださ、デリヘルの客として誘い込む役柄、そしてついついその役得を頂戴しちゃおうとする、それこそベタだけど男の役割を演じてくれたからさ。一体、リンちゃんは何だったの。女の理想というにも、描写がなさすぎるよーっ。
個人的には、二人が地方から東京に出てきて、先に東京に出てきたみゆちゃんに世間知らず扱いされる、という図式が、地方出身者としてそれなりにいろんな思いがあるから、嬉しくもあり、それ以上にたんまりとした物足りなさもあり、である。
結局、本作のキモはオタクってことより、こんなスタンダードなテーマにあったんであり、そのギャップを楽しめたらよかったんだろうけれど……私のみならず、ほぼほぼ大多数が、オタク女子のキテレツ映画を期待してたでしょ、と思うもん。
うーむ、なぜオタク映画はイマイチ私の心にヒットしないのだろう。近作では「海月姫」も同じように、テーマをすり替えられた肩透かし感があった。そんなにオタクを追求し貫き通すことは、難しいことなの??
★★☆☆☆