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「す」


2024年鑑賞作品

水深ゼロメートルから
2024年 87分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:中田夢花
撮影:高木風太 音楽:澤部渡
出演:濱尾咲綺 仲吉玲亜 清田みくり 花岡すみれ 三浦理奈 さとうほなみ


2024/5/12/日 劇場(新宿シネマカリテ)
才能というものは、若い頃からしっかりと発露しているものなんだ。大学生を経て今、劇作家への道を目指しているという、当時高校生で舞台版の脚本を書き上げた、そして本作の脚本も担った中田夢花氏の今後が楽しみでならない。
「アルプススタンドのはしの方」、そして本作と、立て続けに高校演劇の世界から商業映画化作品が産まれ、その舞台は確かに、高校演劇という、舞台芸術の中でもよりミニマムを求められる(コストは勿論、同じ年代で役柄を演じ分けなければならないことも含め)中で、アルプスといい本作と言い、実になるほどな設定で唸らせるのだ。

本作の舞台は水のないプール。それだけ。映画化作品となった本作では、教室や野球グラウンド、グラウンドへの道筋、校舎の裏手なども描かれるが、そもそもの舞台となったオリジナルではきっと、本当にプール一発だけだったんじゃないだろうか。すみません、推測で言っているけれど……。
プールに張り巡らされたフェンスから彼女たちが眺めるスター部活、野球部の練習風景はきっと舞台では、遠く、掛け声や打球音が聞こえているのだろう。映画化作品となると、うっすらと、その練習風景は描かれるし、部員たちの後ろ姿なぞも映し出されるが、でも顔は見えない。遠く映されてもうすぼんやりとしている。

この徹底ぶりにも、唸った。あくまで舞台は水のないプール(こんなタイトルの映画があったような)。映画作品ならば、その周囲のあれこれも描き出すことで、映画ならではの、いわゆる現実描写の肌触りといった立体的感覚を掘り出してはいるのだけれど、徹底的に、野球部員を映し出さないことには、本当に唸った。
彼らはスター街道をばく進している、ひょっとしたら甲子園に行けるかもという手前の彼らであり、今、ここでからっぽのプールを掃除している女の子たちは、表面上はあるいは明るく、あるいはクールに、キメているけれど、女の子であるが故の屈託を抱えているのだった。

あぁ、いまだに、令和の世のいまだになの!女の子が、女の子のままでは闘えないなんて思わされているだなんて!
女の子は、女の子のままでいいんだよ、女の子だから素晴らしいんだよ!!とフェミニズム野郎の私は言いたいが、でも判る、すっごく判る。てか、いまだに昭和のおばちゃんが共感しちゃうような世界に彼女たちが生きているなんて、絶望すら覚える。

ここに集まっている四人の女の子たちのうち、最もわかりやすく、いわば世の中、いや、学校というかごの中にあぶりだされたオンナという弱さに拗ねて、吠えているのが、華やかにメイクを施し、カールしたヘアスタイルも可愛らしいココロ。
彼女はそれこそ判りやすく、水泳授業の補習、つまり授業を休んだことのペナルティが、なんでプール掃除なんだと。野球部の練習で飛んでくる砂をいくら掃除したって意味がない、とまるでやる気なしで、観客にイラッとさせるキャラなのだけれど……。

不思議なことに、一緒に掃除している他のメンバーが、口ではやりなよ、とか言いながら、それほど言い募らないことに、段々と、彼女たちの事情が見えてくるスタンスがあって、上手いんだよなぁ、と思う。
一番マジメにやっているのが、見た目もいかにもマジメ女子のミク。徳島という舞台、阿波踊りの練習をここでもちらりとやっているのだが、周囲からはやされるとイヤだ、とやめてしまう。

幼い頃は男子も女子も一緒くたに男踊りをやっていて、それを通してきた、なのに今、男踊りをプライドを持ってやれなくなっている。女の子の体つきになって、さらしを巻いて踊っていることを告白する彼女は、ココロから女踊りをやればいいじゃないかと言われて、反論できないでいる。
子供の頃からやっていたという理由以上に、自分が男踊りを続けたい理由は何なのか、水泳の授業で水着になるのに抵抗があるという理由で欠席してしまった、そこまでのジェンダーの鬱屈がなんなのか、彼女自身きっと答えが出せないままに、ここにいるんだと思う。

補習授業とは関係ないのに、あっけらかんと登場するのが、水泳部部長のチヅルである。今まさに、インターハイ決勝が行われている。男子は大会にコマを進めている。
応援に行かずにこんなところでうだうだしているチヅルは、女子チームが決勝に行けなかったことは勿論だけれど、それ以上に、中学時代にライバルだった男子、楠に負けて、しかも彼が高校にあがったら野球部のエースとして活躍していることにイラついているんである。

うっわ、何これ、こんなこじらせ方、フェミニズム野郎としては、拍手喝さい贈りたくなる!!まるで当然のように、男女では力の差があるからと、オリンピックをはじめとした競技大会の世界では男女が分けられてきた。そりゃそうだ、仕方ない、そう思う一方で……本当にそうだろうかと、悔しいと、女子はずっと思ってきたんじゃないのか。
しかも、そうした、筋力ではない世界でも、どこでも、まるでそれをベースにして、男子が優れているのが当然という世界がこれだけ長く続いてきたんだから、私の時代よりはずっとずっと、飛躍的に考えは改められてきたとは思う、てゆーか思いたい、けれど、でもやっぱりこんなにもまだまだ、ねばっこく、残っているのかと思うと、暗澹たる気持ちにもなる。

でもそれは、いい意味で、経験値を積んでいない段階だからだとも思う。てゆーかさ、私の時代には、そのもやもやとした悩みを、こんなにも明文化することは出来ていなかった。
メイクが最強の武器だと思っているココロが苦し気に叫ぶ、女は結局、可愛い女として武装しなければ、男と闘う位置にさえ立てない、というまでの論理を、私たちは持つことが出来ていなかった。その論理が正しいのかどうかとか、そういうことではなくって。

確かにココロの言うことは判る。それこそ私の子供の頃はさ、男と闘う女は、まぁ言っちゃえば鉄の女よ。サッチャーとか土井たか子とかさ。男の鎧を女がまとうという不自然さでしか闘えず、男からは冷ややかな目で見られるという悔しさだった。本当に悔しかった。いや……もし私は当時高校生だったら、悔しかったと思う。
そうではなくなった令和の今でも、女性として闘うことが出来ている筈の今でも、高校生の彼女たちがそう思っているのかと、まだまだなのかということに、愕然としたのだ。

子供の頃からの男踊りを、水泳の授業に対する拒否感覚をきっかけになのか、自分自身に認められなくなってしまったミク。かつてのライバル、楠に負け、それが男子だからだという結論など受け入れられる訳もなく、彼は花形野球部に行ってしまったジレンマを抱えるチヅル。
チヅルを心配して訪ねてくる先代部長のユイにチヅルが、私よりタイムが遅かったのに、言われたくないですだなんてヒドイことを言ったり、あぁもう、青春もやもや行ったり来たりで、どっから言及したらいいのか!!

面白かったのは、映画オリジナルキャラであるという、野球部マネージャーのリンカ。先述した通り、野球部の練習風景は、その威勢のいい声と打球音だけで聞こえてきて、その中に、マネージャーの、水分はしっかりとって!だなんていう声も混じる。それに対してココロが苦々し気にモノマネして、イラッとくる、と言ったりする。
ミクがココロを評して言う、一軍女子である華やかさを持つ彼女が、あのブリッ子が、とでもいうように(ブリっ子は死語だろうか……)口をゆがめて言うのはいかにも愚かしいのだけれど、一方で判る気もする……と思いかけたところで、そのマネージャーたるリンカが実際に登場するんである。

声だけで聞こえていて、ココロからあしざまに言われていたことでそんなキャラが観客がわにも定着しかかっていたところに登場したリンカは、地味で誠実で、腕一杯にポカリを抱えて、抱えきれずに落としまくっているところに、ミクが遭遇して手助けして話をする。
ココロはマネージャー希望だったのが面接で落ち、リンカはその狭き門を突破し、部員たちのためにその細腕で力仕事を含め全力でサポートしているのだった。

不思議なことに、そんな確執がありそうなのに、そしてココロはミク達にリンカのことをあしざまに言うくせに、仲はいいじゃないかと問われると、仲はいいけど、すべてが好きな訳じゃないとか、あっけらかんと言う。
そりゃそうだけど、それを他人に言うなんて、本人に言えばいいじゃんというチヅルのこれまた別のあっけらかんと、意見が出来ないミクと、このどれに私は当てはまるのだろう??と思ってしまったりする。

でもやっぱり、やっぱりやっぱり、先生かなぁ。近年、ちょっとした役どころと見えるようなところで、きっちり印象を残すさとうほなみ氏。キリなく降り積もる砂を延々と掃除することを補習授業として彼女たちに課する、ジャージ姿の厳しい体育教師。特にココロと、メイクや生理を申し出る鬱屈に対してバトルをくりひろげる。

補習授業がプールで泳ぐことではなく、補修工事(シャレじゃないけど)が始まる直前に時期をずらして掃除させたのが、先生の思いやりだったかもと後に彼女たちが気づくところがいい。鬼みたいに怖い先生だけれど、友人からの飲みの誘いも断って、この夏休み、生徒たちに向き合ったり、地元の行事に駆り出されたりしているのだ。
そしてこの先生だってかつては高校生、しかもこんな若い先生ならば、近い記憶で彼女たちの辛さが判ってるに違いないのは当然なのだった。

これは……私は、時代の違いがあるからメイクに関してはちょっとなかなか判らない部分があるんだけれど、生理に関しては、体育の授業、しかも水泳、しかも男女共学ということに関しては、女性教師に対してだって、申し出ろというのはあまりにも酷だということは、判る。
でも私さ、うっかり、中学高校は北国で過ごしたもんで、プール授業がなかったんよ。小学校まではあったけどね、中学高校は、代わりに冬にスキー授業だったからさ、スキーじゃ、生理はまぁツラいけど、欠席はしなかったもんなぁ……。

一軍女子に対するマジメ女子のミクの鬱屈、そして男子にタイムで負けたことにずっとトラウマを抱え続けるチヅル、応援したい、自慢したい後輩のチヅルに尊敬されていない、とは言い過ぎかもしれんが、彼女を励ませられないことを哀しむ先輩。
男子に対する鬱屈が基本にありつつ、女子が抱えがちな学校のカースト制度、そして何より、いまだにある、特に変わらない日本社会にあり続ける、女の子は可愛くしてれば世の中渡っていけるぜ的くだらない神話の横行。

一見して、主人公は華やかにメイクを施して可愛くて、先生に盾突き、同級生にも盾突き、補習である掃除を放棄しているココロかと思った。
あるいは、あっけらかんと、関係ないのにこの場に入り込み、空っぽのプールで実況しながら試合を再現し、野球部の練習から飛んできたボールを隠そうとした、ライバル男子への気持ちをこじらせたチヅルかとも思った。

でもやっぱりやっぱり、最初の最初に登場し、次に登場したチヅルに、そしてココロに踊ってよと言われても、決して決して踊らなかったミクだ。
男踊りに対するプライド、アイデンティティ。それは、ここまで語られてきた、可愛い女の子でいたい、その上で男と、社会と闘えるのかと、生理なんていう、うざいことこの上ない女だけに課せられた苦痛を吠えたココロや、女だから男にスポーツで負けるのは仕方ないなんていう意識なんてないチヅルの、強烈に悔しい気持ちと比して、なかなか表に出てこなかった。
でも彼女たちにあぶりだされる形で、ミクのプライドとアイデンティティが彼女の中であふれ出したのだ、だって、あのラスト!!

もちろん、男子側にも、女子には判らない、あれこれがあるのは判ってる。ゴメンなさいと思う。でも、長い長い年月、女子は苦しんできたし、そして、まさか、いまだに、あるのかと。
今の、令和の女子高校生たちは、皆とは言わないまでも、こんなことで、こんなくだらんことで、こんな、先進国としては恥ずかしい悩みを抱えてるなんて、ことが、衝撃だったからさ……。

でも、当然かもしれない。生理という、これはさ、男子には想像し得ない苦行だもの。もちろん、逆のなにかもあるのだと言われればそうなのかもしれん、すみませんとしか言いようがないけれど。
なぜそれがかつては、こんなにもの苦行がかつては、男子側に理解すらされないままスルーされていたのかということ自体が、かつての先輩女子たち、いや、私らも当然その責を負わなければいけないと思う。コラー!!と思う。
男子たちに、このしんどさ、この苦痛、この苦悩を伝えてこなかったこと。めっちゃあれこれあったが、そもそもこれだったか。生理の辛さを男子に伝えてこなかった日本女子の歴史、本当にごめんなさい。

それから始まる、令和まで引き継いでしまった女子の苦悩のあれこれは、でも、ラスト、すべてを洗い流す突然の豪雨の中、かっちょよすぎる!!あんなにも躊躇してた男踊りをばきっとキメる、ミクのポーズで射抜かれるのであった。
多様性が流行のように叫ばれる中、本作の中で女子がどうだと言われる中、男踊りが好きなんだ!!と、それこそが、男女がどうだということを突き抜けたミクの、カッコよすぎ!なあのラストシーン。

アイデンティティよ。自分自身だよ。そりゃさ、ココロがチヅルにメイクしてあげるところとか素敵だけど、でもそれも、チヅルにワクワクは感じさせても、彼女のアイデンティティのわずかでしかない。
性差に引っかかるとメチャ難しいと思う時期もあるけれど、それも通る道、通らなければならない道だけれど……ああ、難しい!男ももうちょっと、ちゃんと考えろよと、思っちゃう!!★★★★☆


スミコ22
2024年 64分 日本 カラー
監督:福岡佐和子 脚本:福岡佐和子
撮影:中村元彦 音楽:ゴリラ祭ーズ
出演:堀春菜 はまださつき 松尾渉平 樹 安楽涼 梶川七海 イトウハルヒ 川本三吉 遠藤雄斗 瀬戸璃子 中川友香 安川まり 原恭士郎 黒住尚生 東宮綾音 木村知貴

2024/7/11/木 劇場(新宿K's cinema)
ありそうで、なかったかも。一見穏やかでゆるふわに見えながら、実は斬新、というか、挑戦的な構図の作品なのかもと思った。
まさに日記。いくつものチャプターに分かれ、というか、絵日記風に日付と天気がクレヨンでカラフルに扉となり、スミコの一日一日、その日常の破片が切り取られていく。
ほんの2週間ほどの、22歳の女の子の毎日は、穏やかに楽しそうに見えながら、そこに至るまでにはきっといっぱい泣いたりした日々が隠れているのだった。

監督さん自身の、自伝のような物語なのだという。大学を卒業して、社会人になって、四か月で辞めて、今はピザバーでのアルバイト生活。こんな風に書いてみればなんてことはない、どこにでも転がっているようにも思える。
あるいは、いつだってワカモンを腐したがる老害どもは、眉をひそめるのかもしれない。スミコは会社を辞めるに至った理由を、特段言う訳じゃない。チャプターの中には学生時代の仲間と恩師と共に楽しく飲み交わすエピソードもあるし、そこで今の状況をそんな風に喋ったりもするけれど、辛い想いをしたとか、そんなことは言いはしない。

心を開いていない訳ではなくて、大事な仲間同士だって、何もかもをあけっぴろげに言う訳じゃない。スミコが今大事にしているのは、今自分が思っていること、好きなことを確かにつかむこと。
それが今まではとてもはっきりしていたのに、好きではないものとの境界線が曖昧になって、きっとそれが、自分自身が何者かが判らなくなってしまう恐怖だったのか。
こんな風に書いてしまうとなんだか陳腐だけれど、判る気がする。というか、もう、すっかり忘れ果ててしまった数十年前、一番辛かったけど一番充実していたあの時が、確かに私にもあったから。

でも、共感するという訳じゃない。それは、いい意味で。劇中でもそれは明確に示される。スミコが好きなのはサーモン。待ち受けにするほど大好き。バイト先のマスターが好きなのはきゅうり。今や育てているぐらい大好き。
へぇーと言い合う様は、こうして文字で書くと交差していないみたいだけれど、それぞれの愛をいい感じに興味を持って眺めている。

ああこれでいいんだと判っていれば、もっとラクに、イイ感じに、友達関係、人間関係考えられたのかもと、教えられる。共感しなくてもいいのだ、共有すればいいんだもの。同じ趣味を持つとかを必死に探していたことが、なんて馬鹿馬鹿しいことかと思える。
特にこんなにも多様性の社会で、同じ趣味、というのが奇跡に近いし、趣味が同じであったって、その好きになり方も違うし、それ以外の嗜好、正義、何もかも、まさに千差万別に違うのに。

スミコが社会人になって苦しんだのが、どういうことだったのか、あるいは、監督さん自身の体験がベースとなっているということだったけれど、監督さん自身も、明文化出来る感覚ではなかったのかもしれないと思う。
すっかり老害になってしまって思い返すと、頑張ってるよ、ちゃんとやってるよ、大丈夫だよと、やっかいな大人になってしまった自分を恥じながら過去の私、そしてスミコのような若い人たちに言ってあげたい気持ち。明文化できなければという苦しさもあるのだろうと思う。そんなことをする必要ないということも、言ってあげたくなる。

でも、スミコの日記のような日常は、とても愛おしいのだ。バックボーンに、そんな風に苦しさはあっても、表面上スミコが苦しさを示すとすれば、何よりも愛している実家の飼い猫、おこげを思い出す時、なんである。猫をスケッチしたり、猫Tシャツを着たり、猫愛満載である。
いくつものエピソードの中で、私が一番好きなのは、コンビニ店員の女の子にそのTシャツを褒められた場面であった。その店員さんの飼い猫はおかゆ、スミコの実家の猫はおこげ。なんともほっこり、じんわりした。

スミコは今は実家から離れていて、おこげのことを愛しく思い出す。可愛らしいクレヨンのスケッチを、友達のはなに見せたりして。
はなとは、同居しているんだよね??無粋な説明などされないから、なかなか判りづらい。はなとルームシェアしてることは確信出来るんだけれど、エビフライパーティーや、スミコの誕生日パーティーからの流れで朝食の目玉焼き談議に突入する、プラス男子二人は、違うよね?ルームシェアじゃないよね??
あぁ、こんなところを明確にする必要もないのに、その区画が気になってしまうあたりが、昭和のおばちゃん!!

でもそれこそ、それこそが、大事なのかもしれないと思う。それこそ、私たちの時代の男女感覚とは全然違うけれど、でもそれが、うらやましいと思う。こうであるべきだと、その価値観を、私は子供の頃からずっとずっと、待ち望んできた。
ここ数年、は言い過ぎかもしれんが、十数年で、急速に、その感覚が、私の望んだ形に、変わっていっている、気がしている。その理想形が、本作の中に凝縮されているように感じた。

学生時代、バイト先、仲間のみならず、恩師や上司でさえ、こんな関係はなかなか、紡ぐことが出来なかった。
いや、それは時代のせいにするのは違うのだろう。関係性は、それこそ千差万別なのだろうけれど……でも、やっぱり、ことジェンダーの関係性は、本当に、目覚ましい進化を遂げたと思う。自分自身の人生や、人間関係には、追いつけなかったけれど。

だからこそというか、昨今、ことさらに男女間の恋愛に対して言及しないというか、どう言及すべきか、そのスタンスを探っているような感覚がある。本作においての恋愛事情はスミコ自身やその周辺では見られず、通り道で見かけるカップルの、可愛らしいエピソード……自販機でボタンを同時に押して、どっちが出たかで付き合うかどうかゲームが描写されるぐらい。
でもこのエピソードは、めちゃくちゃ可愛くて好きだったなぁ。ズルするんじゃないかと女の子に疑われて、絶対にそんなことしないと、ジャンプして肩で同時押しするのを、しかも引きで映し出すのがめちゃくちゃ可愛かったなぁ!

あぁそうだ、スミコ自身が関わる恋愛事情も、あるにはあった。でもそれは、妄想なのだけれど。高架下でリコーダーを吹いている青年。路上ライブなんていうレベルとも思えない、かといって練習というにも微妙な感じ。
そこを通り過ぎる時、スミコは彼と恋人同士だったら、という妄想をするんである。でもそれは、本当に可愛らしい、お互いリコーダーを吹き合ったり、向き合って食事をしたり、なのであった。
あぁもう、老害エロ妄想ババァは反省しちゃう。でも少し、すこうし、心配しちゃう。少なくともスミコは自身の恋愛対象の自認は明確にされているんだからと思ったり。ゴメンね。私たち世代が、自認さえも無視されて、結婚しないの、誰かいい人いないの、とぶしつけに言われてきたもんだからさぁ。

信号待ちをしてる女性、白のスキニーパンツで靴ひもを結び直している時に、アンダーパンツがばっちり透けて見えてしまうことに毎回気になってしまうスミコ。この場面だけ、バキーン!とその透けたパンツを大写しにして、コミカルではあるけれど、結構強烈である。
正直ここだけ、テイストが違うんだよね。その他のシークエンスはどれも、基本ほんわかしていて、そのバックグラウンドを端々に聞こえてくる台詞やスミコの様子からなんとなくは察知するにしても、ここだけが、違ったから。

ちょっとここに意味を感じちゃったのは、私が昭和野郎のフェミニズム野郎だからなのかもしれんが(爆)、やっぱり女性のスキというか、意図せずにアピールしていると勝手に思われるということに、ホンット、ダメダメダメ、やだやだやだ、と思っちゃうもんだから。
ごめんなさい、絶対に、作り手側はそんなヤボなことは思っていないだろうし、この女性とスミコはちょっといい感じに仲良くなって、スミコのショートフィルムに参加するなんてところは、本当にめっちゃ好きだし。

ヤボな言い方をすれば、アイデンティティと社会との関りに落としどころを見出せずに悩んでいるスミコが、パンツが透けてる女の子や、自販機に体当たりする男の子といった、一見なんのつながりもなさそうな人たちとさわさわとふれあい、それが、まさに、人生というものなのだよね。
あぁ、オバチャンは、ベタに、余計な味付けをし過ぎた。本作のテイストは、本当に日記で、フリスビーを投げ合ったり、給料日に通帳を胸に抱いてウキウキしたり、本当に、ささやかな日常の積み重ねなのだ。

最終シークエンスがスミコの誕生パーティーで、冒頭のエビフライパーティーの時のように、その場にいる人数ではない数でケーキを切り分ける、しかもエビフライの時も、ケーキの時も、その切り分けの数を観客にしっかり確認させるがごとく、エビフライ、ケーキ、その切り分ける様を画面いっぱいに示す。
スミコはなぜ、人数の数で切り分けないのだろう。エビフライは、十代の頃のようには一本以上はいけないね、ということで残った一本を切り分けた。人数以上に。ケーキは最初から、人数以上。
特に意味はないのかな、遊びのような感覚なのかな。均等にいかない人生だなどという、ダサくヤボ極まりないことを言いたくなるロートルを蹴飛ばしてくれ。

スミコが友人たちに見せる「映画」。出会った人たち、ワンコやニャンコを気持ちよくつないだキュートな作品に、笑顔がこぼれる。これこそが、本作を凝縮して示していると思ったなぁ。★★★☆☆


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