home! |
つまり彼らはインテリなのだよね。知識階級。天皇陛下のためだの、日本が無敵だの、そういう洗脳に犯されない。世界を見る目を持っているし、判断できる青年たちなのだ。
だからこそ新兵として入ってきた時、否応なしに上官たちに煙たがられて、もうそんなシャバっ気は通用しないぞ、と頭を押さえられる。
以前観た、ひどく痛ましい、幼い少年(子供と言っていい年齢)の特攻隊映画(あータイトル忘れた!)の彼らは、兵隊さんになりお国を守る、天皇陛下のために、特攻になって体当たりして英霊になることが名誉だと本気で信じてて、嬉しがってさえも見えて、ゾッとしたものだが、つまりはそれが、子供だからと言うんじゃなく、恐らく当時の大部分の日本人の大部分の思想だったんじゃないかと思うのだ。
でももはや大学で知識を学んでいる彼らは、皆が皆同じ方向を向かない。あえて軍国主義に身を投じる者、懐疑的に理想を考える者、決死の脱走を試みて捕まる者、妻子に心を残すもの、恋人に将来を誓えずに別れを告げる者、……さまざまである。
しかし、中盤まではまるで青春映画のように明るい色彩とテンポのいい展開を楽しめる。まさしく映画黄金期の手練れといったテンポ感である。家族との面会シーンで禁止されているのに差し入れの食べ物をわちゃわちゃ食べちゃって上官に叱責され即解散になったり、同輩の妹とちゃっかり恋仲になったり、腹を下してそぞろ歩きになったところに上官の声真似をして同輩が脅かしたり、まるで何か、男子校のような楽しさもある。
でも厳しい訓練を通してだんだんと事態の厳しさがじわじわと伝わってくる。飛行訓練に燃料を惜しんで、自転車に飛行機の形の紙を貼って右に左に旋回するというのには笑ったし、自転車に乗れない者がいて、そんなことで飛行機乗りになれるか!!と言うのには、いやいやいや、自転車乗れるから飛行機乗れるのかよと突っ込んじゃう可笑しさがあったが、でもその可笑しさこそが、恐ろしさなのだ。
自転車で飛行訓練をしてるような国が戦争に勝てるわけがない。戦争に勝つ、負ける、という言い方すら現代の価値観では言いたくないおぞましさだけれど。
本作は実際の戦闘映像がふんだんに使われている。だから本作はモノクロで作られたのだろう。映画で作られた映像とつながるように作っているし、実際リアルにつながっては見えるのだけれど、ヤハリ時代が新しい映像はクリアなので、その境目は判っちゃう。
だからこそ、判っちゃうのだ。アメリカの圧倒的な軍事力。雨あられと上空から降ってくる爆弾。彼らには人が見えていない。爆弾を落とした先にアリンコのような人がいることなど想像していないのだ。でもこっちは。燃料がなくて自転車で飛行訓練をしているようなこっちは、ただただ逃げ惑うしかないのだ。
だから、もう、体当たりしかない、という決断になる。一機で一艦を爆破しなければ追いつかない、という。まるで合理的みたいに言う。実際合理的だと思っているのだろう。このあたりまでくると、インテリな彼らの意識も鈍ってくる訳じゃないけど、段々と、どうしようもない、もう行くしかないんだ、という風になってきちゃう。
あくまで特攻は志願制。強制ではない。志願するものを募る、それが、これ以上ない強制であることを、この時点までくると彼らが自覚していたかどうか怪しくなる。あれほど世界を見渡せたインテリたちだったのに。
でも、一度も、天皇陛下のためにとか、お国のためにとか、言う者はいなかった。やっぱりそこは……判っていたのだ。この戦争、そしてこの特攻という作戦がいかに愚かかということを。
燃料がなくて訓練が出来ない時、貴様らの代わりはいくらでもいるが、飛行機の代わりはないからな、と当然のように上官は言った。あまりの台詞にあぜんとしたが、言われた彼らは憤る様子さえ見せなかった。人ですらない、ただ敵の艦隊に体当たりするタマにしか過ぎないと言われているのに。
特攻に出陣したものの、トラブルがあって、引き返してきた兵士に対する炎上も凄かった。二人一組で行ったのだが、一人は銃撃で死亡していた。
“生き残った”彼が、卑怯者だと糾弾されたのだ。その彼は、死ぬことは怖くない。ただ犬死にはしたくない、と言っていた。戻ってきたのは、敵に何らの攻撃も与えられないことが明らかであるからこそなのだ。
でも同乗者を死なせてしまい、若い兵士たちから糾弾された彼は、これは、犬死にを選んだ、ということだよね。表面的にはその若い兵士と和解したけれど、身をもって自分が卑怯者じゃない、死を恐れてなどいない、そして……若い者はむざむざ死ぬことはない、ということを示したのだろう。
同乗する筈だったその若い兵士をエンジン不良だから報告に行けと降ろして、そのまま飛び立った。墜落、炎上。でもこれは、犬死にじゃなかったかもしれない。若い兵士を生かすための、信念の死だったかもしれない。
男たちの汗臭い戦争映画のように見えつつ、実は女たちの情愛が彩る場面が多いんである。
入隊中に子供が産まれ、それをヒミツの暗号で知らせてきた恋女房にニヤケが止まらない兵士はその後、面会に来るも不運なすれ違いでなかなか会えないハラハラを観客に味合わせたりする。面会時間終了ギリギリにやっと会えて、愛しい我が子をほんの一瞬抱きしめて、恋女房ともほんのいっときよ。チューも出来ないこのもどかしさ。
ダンナを探し回る彼女が駆け足で、背中の赤ちゃんがまだ首が座ってなくてがくがくしているのをめっちゃハラハラしながら見守っちゃう。佐久間良子が可愛すぎる。
そして最後の日、もう生きて会えることはないと覚悟した時、彼女はウエディングドレスを着て愛する夫と抱き合うのだ。そして突然ビリビリビリ!!ドレス破り出す!何何!!そしたら、そのきれっぱしに顔をうずめてキスしまくって、これをマフラーにして!!と……うわーうわー、なんかすげー。可愛すぎる佐久間良子がそんなことするから、なんかすげー。
そして藤純子。これまた超絶可愛い時期の藤純子。壮絶きれいな時期に至る前の、超絶可愛い初々しい藤純子。相手となるのが千葉ちゃん。おお。
主人公(と言っても、みんなが主人公のようなもんなんだが)の松方弘樹の妹である。千葉ちゃん演じる半沢は天涯孤独の身で、面会日に一人きりでいるのを、松方弘樹演じる白鳥が妹を引き合わせたのが出会いだった。ほんの2、3回会っただけなのに燃え上がるのは、やっぱりあらゆることが限られた時代で、ぎゅっと気持ちも凝縮されたのかなあと思われる。
結局さ、結局は、彼らは皆特攻で玉砕する訳だし、半沢がどうせ自分は死ぬ身だし、家族ももともといないのだから、無駄に辛い思いを彼女にさせたくないから別れを告げる、という気持は……判りたくはないけど、判るけれど。そしてこの残酷な時代に、家族の情愛や恋愛感情がいかに無力かも思い知らされるのだけれど。
でも、最終的にはすべて、すべてが死んでしまう、ムダだと明らかに判っている愚かで空しい作戦にノーも言えず、粉々になってしまう彼らに、そんな彼らを愛している家族や恋人や伴侶がいたのだと思わなければ、あまりに無慈悲ではないか。
だってね、だってだって、最後のシーンは、実際の映像だよね、あれは。飛び立った特攻たち、一機で一艦、ムリムリムリ。上空にいる時点で無数の銃撃をくらうんだもの。体当たりさえさせてもらえないのだ。トンボが突風をくらったぐらいのあっけなさで、ポンと爆発、くるくると旋回しながら海中に没する。
でもあの中に彼らがいるのだ。字幕で、「この瞬間には彼らは生きていた」と示されて吐きそうになる。まるで紙飛行機が上手く飛べなくて墜落するぐらいのあっけなさの中に、妻や恋人に別れを告げて乗り込んだ彼らがいるのだ。
そしてそれが、実際の映像なのだ。不鮮明でモノクロで、遠い時代のように見えていたことが、映画という再生機能によって、急にバチリとつながって、身も心も震える。
松方弘樹、千葉真一、蟹江敬三、村井国夫、夏八木勲を若手側に配置し、高倉健、鶴田浩二、天知茂といったキラ星スターを配置したゴーカな作品だから、キャスト一人一人のエピソードを語りたいし語るべきとも思ったけど、これはまったき戦争映画で、一人一人が尊い人間の筈なのに、飛行機の替わりはないが人の代わりはいくらでもいる、と容赦なく言われる、人間が消耗品以下の存在であった時代を描いた作品なのだもの。
夏になると宿題のように戦争映画が作られるけれど、どんどん甘々になっている気がするのは、“人間が消耗品以下”であったことが薄れて行っているからかもしれない。★★★☆☆
物語はこう。大学で出会った男女、田畑と秋好。田畑は人づきあいが苦手な男子で、傷つくのも傷つけるのもイヤだから人と一定の距離を保っている。
一方の秋好はぐいぐい田畑にぐいぐい近づいてくるけれども、それは彼女もまた独りぼっちだからに他ならない。後に田畑が言うように確かに、同じく独りぼっちである田畑を利用したといえばそうなのだ。ただそのことに秋好は気づいていない。それがタチが悪い。
秋好はものすごく正当な理想を持って、それを決して曲げる気のない女の子。講義中にハイ!と質問の手をあげて、「暴力はどんな場合でも許されない。世界から暴力がなくなれば平和になる筈」と言い放つんである。
この時点から感じていた違和感は、彼女の発しているのは質問でもなんでもなく、声明だから、ということに思い至る。
実際にどういう内容の講義に対してその“質問”がぶつけられたのかさえ明らかにされず、違う講義でも全く同じ理想論をぶっつけてくる。ここは学ぶ場所なのにそれが判ってない、自分の声明を宣言したいだけのように見えちゃう。
判りやすく、イタい女の子である。この時田畑が“愚か”とさえ感じたのは決して間違ってはいない。ただ田畑が秋好にその理想を具体化する火をつけてしまう。全く思いがけなく。
自分が思うような活動をしているサークルを見つけられない秋好に、だったら自分で作れば?と何の気なしに言ってしまったのだ。何の気なしに……?
いや多分、確かにこの時、田畑は秋好のことを誰よりも理解する一人になっていて、だから彼女の進むべき方向に気づいて示唆したのだ。それは……秋好を好きになっていたから?どうだろう……。
秋好を演じる杉咲花嬢は恐らく、この“イタい女の子パート”の秋好を、意図してわざとらしく、いわばステレオタイプに演じたと思われる。
田畑に対してのきゃいきゃいはしゃいで、歩道の白線だけを飛んで歩いたり、世界は変えられる!とか言ったり、そして何より田畑のことを下の名前の呼び捨てで呼んだり、見てるこっちがハズかしくなるような。
このサークルが田畑と秋好の二人だけで立ち上げられ、秘密結社だの、使われていない建物を勝手に活動拠点として秘密基地だのと“秘密”を分かち合うんだから、そらあ田畑は秋好のことを女として見るさ。自分が焚きつけた、ということが、自分だけが理解者、だと思い込むのも無理はないさ。
二人だけの時の活動は、小さな善意のボランティア活動といった趣で、秋好が掲げている、なりたい自分になることが世界を変える、だなんて、曖昧なのにやたら大風呂敷広げている理想論の自己満足のようなものだったと思う。少なくとも田畑はそう思っていただろうが、秋好は大まじめに、この積み重ねが世界を変えられると思っていたのだ。
そしてその起爆剤が思いがけず現れ、田畑から秋好を奪っていった。二人だけの秘密結社、いやおままごと的な活動であった“モアイ”が、組織的拡大を図り、校内だけでなく、対外的にも大きな存在となっていったのは、大学院生の脇坂がアドヴァイスしたからだった。しかも彼は秋好の彼氏にまでなったのだった。
冒頭、今の時間軸で田畑は、友人の前川に、今や大学内で知らぬ者はいない有名サークル、モアイの設立者二人のうち一人は自分だということ、そのもう一人は死んだということ、当初の理想を失い就活に有利なコネ、コビが蔓延した、単なるイベサーに成り下がったモアイをぶっ潰したい、と打ち明けるんである。
田畑の言い様は後から考えれば単なる嫉妬だと判るんだけれど、この時点では少なくとも前川はモアイに対していい印象を持っていないし、前川の感覚は、モアイを外から眺めている学生の一般的な見え方だというのが判る。
おそろいのTシャツを着て、大がかりなイベントを打って、多数の企業やOBOGとつながりを持ち、このサークルに所属すれば内定率が高くなると囁かれる、ということは、キナ臭い噂が蔓延しているということでもある。
ただそれはこの時点では噂に過ぎなかった。真実を暴いて、ぶっ潰そうぜと田畑は前川に持ちかけるんである。
もうオチバレで言っちゃうけど、秋好は死んじゃいない。田畑の言う、死んだという表現は、自分の知っている小さな世界の中の秋好は死んだ、ということなんである。
ここで先述した変形ラショーモナイズが思い起こされるんである。この場合、人によって見え方が違う、というより、田畑と田畑以外、あるいは、田畑と田畑以外と、秋好、という図式かなあと思う。
外側からはデカい顔してコネクションを自慢するイベサーに見られている、というモアイは田畑が主張する堕落したモアイであり、秋好もイコールであり、彼にとって秋好は死んだ、ということになるんだろう。
でも秋好は、自身の理想を曲げずに持ち続けていることが後に判る。だからこそ続いていっているということなのだが、秋好に見限られたと思っている田畑、あるいはキラキラした活動を羨望の目で見ている外野の視線はいつしか揶揄と嫉妬に代わっているし、秋好自身の理想がブレていなくても、彼女がモアイを外から見ることが出来てないってことだったんだろう。それを、嫉妬にかられた田畑にヒドいやり方で指摘されるまでは。
私ね、私……危険かもしれないけど、田畑の方にシンクロしちゃうのよ。確かに秋好はまったくブレてない。サークルが巨大化し、外から見た印象がまったく違っていても彼女自身の天使のような純粋な理想は全く崩れないし、その理想に感化されて集まってくる不器用貧乏みたいな人たちが支えてるし。
だから当初はモアイをうさん臭く思って田畑に協力しようとしていた前川も、モアイに入ろうかどうしようか悩んでいた後輩女子川原も、幽霊部員でヘラヘラしていたポンちゃんも、外から見える軽薄なイメージとは違う、代表の秋好が守り続けている理想に感化されて、田畑から離れて行ってしまう。
それが判るのになぜ、田畑の方にシンクロしてしまうんだろう……。それは、秋好やフロントマンとして活躍しているテンが、そりゃ実際触れてみれば真の理想に燃えていると判るにしても、外からの誤解を正す努力をしてないから。
いわば彼らに寄生して就活サークルとしてコネを得ようと肥大化したこのサークルを、でも判る人には判ってもらえると放置して、誤解がはびこるままにしたことが、うぬぼれでないとは言えないと感じてしまうからなんじゃないだろか。
変形ラショーモナイズ。当事者じゃなく、他者から見た印象の違いは、田畑の嫉妬をからめてまさに乱反射する。
田畑の、憎悪にまで発展してしまったモアイへの歪んだ視線は、でもそれが一つの真実だとどうして言えないだろう。判る人には判る、というのが、逃げとなり、こんな、取り返しのつかない事態に陥らないとも限らないのだ。
田畑はむしろ……最初から最後まで、判ってたんじゃないか。自分が見たくないところを見ないようにしてることが。オトナな大学院生にカノジョをとられただなんて、幼稚なことじゃなくて、彼自身、モアイの活動に手ごたえを感じていたからこそなんじゃないか。
フリースクールでのボランティア、学校に行けなくてギターを抱えていた少女。自分だって役立たずの人間だよ、とノンビリ声をかける田畑にその少女は心を開いた。
いかにも心配してるよという優しさの仮面で学校に連れ戻そうとやってくる中学校教師に、ハリネズミがハリを逆立てるように、全身で拒否反応を示した彼女をゆっくり受け止めたのが田畑だった。
理想論に猪突猛進突っ走る秋好には出来ないことが、田畑には出来るのだ。全くベクトルは違うけど、目指せる方向は似ていたのに。政策と実務。政治みたいだけど。
でもそういうことじゃないのか。こんな理想の二人はいなかったのに、若くて、自分のことしか見えてなくて、だから手を放してしまった、だなんて。
田畑が言うとおり、本当に秋好が死んでしまったんだと思っていたから、一見して形骸化してるように見えたモアイの、今も絶対的創立者でありリーダーとしてスローモーションでご登場あらせられる秋好にビックリするんである。
死んだ、というのは、田畑にとってのあの頃の彼女が死んだ、という意味だったのか、なんと、乙女チックな……と絶句するが、彼にとってはマジである。
結果的に彼女は全く変わらないままだったのだけれど、それは言い換えれば、全く成長がないという意味ともいえる。田畑は……ダークに成長してしまった、というべきか。
フリースクールで出会った少女は田畑でなければだめだった。まともに成長したかもしれない田畑だったとしたら、救えなかった。秋好はリーダーとして尊敬を受け続けていたけれど、弱く傷ついた子どもたちに寄り添う器量はなかっただろう。
まだハタチそこそこの秋好が、田畑のそんな“才能”にちゃんと気づけなかったのはムリない。秋好だって同志である田畑のことを大事に思ってたから、田畑がイヤだと思ったら言ってねとは言ってたけど、田畑は言えなかった。
後に、すべてが崩壊してから、言ってくれなきゃ判んないよと責められたって、たとえ時間が巻き戻せたって、やっぱり言えなかったに違いない。だってそりゃそうだよ、そんな簡単には人間いかないよ、だって恋心も絡んでいるのに!ということすら判らずだなんて、ああもう、なんてもどかしいのだ……。
結果的にみんなモアイ側、秋好やフロントマンのテンの人間的魅力に引っ張られて、田畑こそがダメ人間とされちゃって(まあその通りなんだけど)友達も全部去って、田畑はやっちゃいけないこと、しちゃう。悪意のあるでっち上げがかなり入った投稿をネットに投下してしまうんである。
最初は意識高い系サークルに批判的で田畑に協力していた友人の前川も、潜入すると決してそうではないことが判っちゃうから田畑をいさめにかかるんだけど、田畑の憎悪は膨れ上がるばかり。
だってそもそも、モアイということじゃないんだもの。秋好に裏切られたという想いなんだもの。それは……カン違いなのか、うぬぼれなのか。
いや決してそうじゃないと思うのは、田畑と出会った頃の秋好の、キャッキャウフフ、テヘペロな女子満開の振る舞いが、同性としてぞっとするほど嫌悪感を覚えるからなのか。
だって秋好、田畑にとって死んだとされたから再登場すると、全然キャラ違うんだもん。すっかり落ち着いて、白線を飛び歩いたりしない。巨大組織、モアイの代表として落ち着いて仕切っている。
それは確かに、田畑の知ってる秋好じゃないんだ。中身は変わってなくても、だったら一体、何が変わったのだ……。
田畑のネットへの投稿によって炎上、モアイは解散に追い込まれる。その説明会の直前の、田畑と秋好の口論バトルが凄すぎる。
判ってる。まっとうなのは秋好の方だって。マトモに落ち着いて聞いてみれば、田畑の言ってることは、嫉妬でしかないよ。なのになんで、彼の方に心もっていかれるのか……。
頭のいい人、自分で出来ちゃう人。いや、秋好だって以前はそうじゃなかったからこそ、無意識とはいえ田畑にまとわりついていたのに、彼のしでかしを、気持悪っ、と断罪するのはあんまりひどい。
それに対して田畑が、お前なんか受け入れなきゃ良かったと、涙がこぼれるのを必死にとどめるように目を見開き、鼻の穴をおっ開いて吐き捨てるのが、ああ、こっちに同調しちゃうのは、いけないことなの??
田畑のしたことはサイテー、許されるはずもない。なのになのに……。自分の信念がブレてさえなければ自分は正しいんだときっと思っていた秋好が、肥大化したサークルの功罪にこの時本当に気づいてくれていたのか、判らないけど……。
ネットに流せば、すべてが変わる。今は本当に怖い時代になった。ただ忘れ去られるのも早い。それは今に限らずだけど。ただ、残っちゃう。正しいこともそうでないことも、残っちゃう。それがネットの怖さ。
それはまるで宇宙空間で回収されないまま漂うゴミのようなもので、人間はひどく忘れっぽいし、回収されないまま残っちゃうクズデータを気にする必要はないんだろう。
でもだったら、誰もが発言出来て、表現できる、それが画期的だったはずの、素晴らしき媒体の登場だった筈の、このネットって何??
★★★☆☆
6年も前だと今よりお顔がふっくらとした光沙嬢は、当時はファーストネームがひらがなだったことも初めて知ったりする。その後、「岬の兄妹」で大注目されるまでの彼女の変遷が改めて気になる。ピンク映画で活躍するようになったのはどういう経緯だったんだろう。だって本作で、私は初めておっぱい出さない光沙嬢を見たと思って、下世話な言い方だが(爆)。
最近のピンクはかつてと違ってAV系セクシー系からの派遣が多く、正直その後女優として生き残っていく人はほとんどいないから、彼女のような存在の参戦が、凄く興味深いと思って。
まあそれは単なる個人的感慨。本作は、和田光沙嬢の今のネームバリューもあるし、確かに主演だから彼女がピンで宣材写真も飾っているけれど、正確に言うと、今の彼女、あおいの時間軸から12年前の、中学校時代のあおいとがちょうど半々に描かれる構成である。
光沙嬢主演と思って観に行ってるし、冒頭はまず彼女が過去の自分に水先案内をする形でスタートするので、そっから中学校時代の描写がずっと続くことに、あれれ、光沙嬢主演じゃなかったっけ……とふと不安になったりする。
しかし後から思えば、この時代のトラウマともいえるし、経験ともいえる苦さ甘さが、いまのあおいの軸になっていて、でも彼女はそこからなんとはなしに目を背けたまま大人になってしまって、いま行き詰っているのだ。だから中学時代の、すべての原点だったあおいの姿を描き切ることは避けられないのだ。
中学時代と高校時代をひきくらべて考えれば、どちらもとても重要な時間だったけれど、なんとか自分自身を確立してそこに格納しておける高校時代に比べれば、中学時代はあまりにも柔らかく、都合よく、上手いこと立ち回ることなど出来なかった。そして友情というものも、同じように不確かで、周囲の視線や評価にさらされていた。
あおいにはお互い間違いなく親友と呼べる相手がいた。あやこ。同じ陸上部。一緒に大会のリレーメンバーに選ばれるといいねというところからスタートするが、そもそもあおいは絵を描くことが大好きな女の子だということが最初から示されているし、陸上部とはなんか意外ねと思ったが、あおいは本当に、陸上がやりたかったのだろうか。あるいはあやこが、そんな違和感を敏感に察知して、先に齟齬を感じ始めたんじゃないだろうか。
描写の中ではそれほどにも感じなかったが、あやこ言うところによればあおいは「時々自分の世界に入っちゃうでしょ。私の前では全然いいんだよ。でもそれが気持ち悪いって」と。
この当時の、グループに属するか否かで学校生活が決定づけられるキワキワのところに二人はいる。あおいとあやこが仲がいいことは周囲にだって判っていた筈なのに、まるであおいに見せつけるようにあやこだけを誘う先輩や同級生たち。
そしてあやこも、特に悪びれる風もなくそれにのっかるから、あおいは戸惑いというか混乱というか、友達ってなんなんだろうって、観客側も動揺してしまうというか。
この年代って、一対一のサシの親友同士と、グループでキャッキャ言ってる社会的価値観の友人と、二極化している感じで、そういう意味では自由がなくて。
大人になると、その中間というか、友達に知らない友達の話を聞いたりするのも楽しいし、そのつながりが広がったりとか、あるんだけど、この年代って、それが難しい。所有欲というか、この人だけが私のことを判ってると思い込んでしまうと、恋よりもこんがらがる感情になる。
あおい側から見ればあやこの仕打ちはあんまりというか、ツンデレにしたってヒドいというか。私だけがあおいの良さを知ってる、そのままでいてねとか言いながら、そういうとこ直した方がいいよと言ったり。
そしてあおいが価値観を共有する新しい友達を得かかるとあからさまに嫉妬し、「変わらないでって、言ったじゃん!!」と、自殺未遂をほのめかしたり、するのだ……。正直本当にトンでもない女の子で、こんなヤツ、捨てていいよ!!と大人の私は思うのだが、でもあおいにとっては、確かにたった一人の親友だった。
絵の趣味を共有する新しい友達がそれにとって代わる可能性があったのに、捨てきれなかった。それはあやこの中に、自分の中にも形を変えて存在する弱さを見つけていたからなのか。
風の強いこの町で、橋の見える土手で強風にあおられながら、二人帰ったり、これからを語り合ったり、あおいはあやこの横顔をスケッチしたりする。「変わらないで」というのは、このまま私を好きでいて、という意味だったのかと思ったりする。何度も何度もあやこは、私のこと好きかと、執拗にあおいに尋ねたから。それは、私が好きなほどにあおいは私を好きじゃないでしょう、という言外の意味も思わせた。
まるで恋愛だが、しかしあやこは学校生活の中における社会的地位も失うことが出来ず、自ら親友をあざむいているのに、彼女から嫌われることを極度に恐れるという矛盾さなのだ……。あやこのこの複雑さは、確かに人間の中に見られるそれであり、そのことにとまどうあおいは、あやこから見てまぶしくも苛立たしい存在なのだろう。大好きだけれど、何にも判ってない、みたいな。
あやこは精神を病み、学校に来なくなる。あおいはゴッホを教えてくれた新しい友達と親しくなりきれずに、あやこに対する忸怩たる思いを抱えたまま、大人である今の時間軸に戻ってくるんである。
大人とはいえ、大学卒業後アルバイトで食いつないでいる感じ。バイトもせずにダラダラ家にいるばかりのヒモみたいな彼氏を抱え、今日もあおいは気乗りのしない乾物屋のバイトに出かける。
バイト先でも美術教室でも、やる気がないのにとりあえず笑っちゃうあおいを、教室の先生もバイト先の先輩も、厳しく糾弾する。それはあおい自身ににだってきっと判っている、今ここから逃げていることへの嫌悪であることは明らかであり。
中学時代の緻密な痛々しい描写に比べて、大人になってからのあおいの日常は、そんな青春を送ってきたことを忘れたがっているように、空虚なんである。同じ美大で写真をやっていたヒモ彼氏が今やカメラにも触らずダラダラしていることにも、まるで倦怠期の夫婦みたいに、触れずにいる。働けよ、と笑いながら言うばかりである。
彼氏側の葛藤もちょっと見てみたかった気もするが、あおいのそれがあまりに濃厚なので、きっと彼氏も彼氏で苦悩の青春を送ってきたからこそ、突然爆発する恋人を受け止められるんだろうなと想像できるにとどまる。
気になるというか、興味深い設定として、あおいの家庭環境がある。中学生時代、彼女は祖母に育てられている。
といって、両親の存在がない訳じゃなくて、会話にしっかり刻まれるように父も母もどうやらモーレツ働き人であり、娘のあおいのことはもちろん愛しているし、それを理解してくれているおばあちゃんがあおいの世話をしてくれている、という図式である。
しかして中学生時代のパートでは、見事なまでに彼女の両親は出てこないし、大人の時間軸になっても母親しか出てこない。「おばあちゃんのお見舞いに行ってあげなさいよ」というお母さんの台詞から、どうやらあおいを育ててくれた祖母は病院か施設かに入っているらしく、お父さんの存在はこの時点でまるでなかったように消し去られている。
監督さんが相当の想いを積み重ねて作ったという本作は、つまり監督さんの体験なのかなとゲスの勘繰りもするが、この常に女系の感じ……家族も、友達も、人生の転機になった存在との出会いも、すべてが同性であることが、今彼氏はいるにしても、妙に心に引っかかる。
あおいは、おばあちゃんに尋ねたのだ。専業主婦として生きてきて、今も孫の面倒を見るためにおさんどんしている。「料理が好きなの?」と随分と持って回った聞き方をしたのは、女として疑問を持っているからこそ、大好きなおばあちゃんを傷つけたくなかったのかもしれない。
おばあちゃんはのんびりと答える。「やっているうちに、好きになった感じかねえ」あおいにとって好きなことは絵を描くことで、ただ好きだから好きなんであって、“やっているうちに好きになった”なんてことはありえない価値観なんだろう。そのまま口をつぐむ。
現在の時間軸で、彼氏は屈託なく二人分の食事の用意をするのに、想いが積もり積もって爆発したシーンとはいえど、それがあおいが食事の用意をしている場面に象徴させたのが、凄く意味あることのように思って……。
人生の転機になった“女系”は、ゴッホを教えてくれた、親友になり損ねた子と行った小さな個人美術館である。そこで絵を描いている女性と出会う。「あなたも、絵を描いているの?」判るんだ、きっと、その視線、絵に対する反応で。
そして12年後、行き詰って行き詰って、ルーツに逃げ込む様に故郷に帰ったあおいは、この美術館、画家さんと再会する。そのキャンバスに描かれていたのは……顔も描かれていないのに、どうしてかどうしてか、あやこだと、あおいも、観客である私たちも判ってしまう!!
「突然来て、私を描いてほしいと言った」というあやこに、この画家さんが心を動かされたという。心を病んで、そのまま引っ越してしまったあやこに、こんな形で“再会”して、そしてまた、あおいの心の中のあやことして、“再会”する。
リレーの選手には選ばれなかったあおいが、その当時の描写ではただ落ち込んでいるばかり、あやこが先輩たちと仲良くしているのを戸惑いながら見ているばかりだったけど、実際は、本当は、声をからして応援していたのだ。そのことを思い出したということだよね??「あやちゃん、がんばれ!!」何度も何度も、何度も何度も!!
クライマックスは、時空を超えたあやちゃんとあおいの邂逅で、その熱い思いを抱えて彼氏の元に帰ってくると、彼氏は写真をもう一度やる、時給安いけど、写真館のバイトが決まった、と言う。この頼りない彼氏君がいい味出しまくってて、確かにヒモなんだけどそれを自覚してるし、彼女の心の動揺をきちんと受け止めるし、彼女がやりたいことをやらせたいと思ってて、それには自分自身も心に正直になるべきだと至るのが、泣かせるんである。
6年も前の作品、そして初のおっぱい出さない和田光沙嬢に、しかして改めて素晴らしい女優だと思ったし、監督と女優の出会い、まず自分の根幹に向き合うという勇気に打たれたし、出会えてよかった。
★★★☆☆
ところで、戦後の記憶がその役者自身に残っているであろう時期に量産された“戦後混乱期の日本”を描いた映画はヤハリ、今作るのとは臨場感がやっぱり違うと思っちゃう。闇市ひとつ描くにしても、その中で生き抜いている人間の力が違うんである。
朝吉(カツシン)は14年もの間従軍して復員、もうすっかり浦島太郎状態なのだが、最初は大人しく田舎に引っ込むつもりが、貞のおっかさんを引き取ったり、村の娘が進駐軍に凌辱されて行方不明になったり、なにより……恋女房がさすがに14年も待たせた上に朝吉が戦死したという誤報が届いていたもんだから(でっかい墓まで建てられているのには笑っちゃう)、再婚しちゃってた、というのが彼を元のヤクザ稼業に戻らせたひとつの大きな要因であろうなあ。
「戦争に負けて唯一良かったのは、農地改革で地主から農地が取り上げられて自分たちに還元されたこと」なんていう当時の事情も明かされたりして興味深いし、朝吉もマジメに野良仕事につくつもりではあったのだが……。
息子が死んだと思っていた老父の元に頭を下げる時、生き恥じさらしてと言われるかと思ったと朝吉は言った。父親はそれに関しては一笑に付したが、「戦争に負けたんやから、負けて帰ってきてすまないと言わんかい!」とむせび泣いた。
この感覚は、現代では決して、判るまい。いくら何でも名誉の戦死を望むってことはない。親だもの。でも、敗戦ということが当時どれだけ日本人のプライドに影を落としたか、特に年配の、古い感覚の人たちにとっては。
ワカモンはね、いつだってフレキシブルだもの。パンパンと呼ばれる女たちも、闇市で商売する人たちもたくましいもの。
で、そう、恋女房がね。実生活での恋女房でもある玉緒さんは、“愛する夫に死に別れて、泣く泣く再婚し、子どもを成しちゃったからもう後戻りはできない”というツラい役どころ。
この時期の若い玉緒さんはめっちゃカワイイイメージだったけれど、こんな役どころを演じる玉緒さんはひどく大人びている。朝吉に再会してハッとして逃げ出し、よよと泣き崩れるはするけれども、何かね、ちょっとこう、目が吊り上がっているというか、母として妻として生きて行くしかない、という感じなのよ。
なので、玉緒さんはあまり出番がないし、この時代の、生きた女として描かれるのは、彼女以外の女たち、なんである。レイプされて絶望し、パンパンになった月枝を筆頭に、パンパンたちを仕切る清次の妻(というか、妻気取りというか)のお雪、モートルの貞の未亡人で闇市で大福を売りながら一人息子を育てているお照……。
ある意味玉緒さんが演じるお絹は、男の経済力がなければ生きていけない、いわば古い女であり、ここで描かれているのは、レイプされてパンパンに堕ちた月枝でさえ、新しい時代を生き抜く女、なんである。
朝吉はなんたって浦島太郎状態だから、闇市、パンパン、もう何もかも初めて目にするものだし、そのエネルギーに圧倒される中で、モートルの貞ソックリの清次と出会う訳である。
彼はね、この混乱期の中を生き抜く力量が自分にある、と自信満々なの。単なる娼婦の元締めのくせに、これは国際交流だ、デモクラシーに基づいた文化倶楽部を経営してるんだ、と口八丁手八丁。お互いカルチャーを交換してるんだ、アーユーアンダスターンド??といった具合に、二言目には妙に流暢な英語(あのギリシャ彫刻顔だからハマッちゃうのだ……)で煙に巻く。
でも結局、娼婦の元締めにしか過ぎない。過ぎない、と言っちゃうのは、清次が、自分はトップに認められているとうぬぼれている、というか勘違いしている、というか、つまりはその単純さを利用されていることに気づいていないから、なんである。
この闇市も長くは続かない。せいぜい2,3年。そりゃあ誰もがそう思ってるさ。てゆーか、そう願っている。ちゃんと生きたいと、願ってる。
ただ、何とかここに生活の基盤を立てて先に進もうとしているのを、権利だ何だとかさにかけて突然取り上げられるのは許せない。その混乱に朝吉も巻き込まれる。
てゆーか、清次がアホ過ぎるからである。自分がデキる男として重宝されているとうぬぼれている。いや、実際、デキる男だし重宝もされているだろう。しかしだからこそ、利用されているのだ。
闇市の跡に建設される商業施設の権利金として、清次はボスにせっせと金をつぎ込んでるんである。見た感じ、証文もろくに書いてない雰囲気だから、アホか……と思う。結局長いものには巻かれろ主義が、長いものに裏切られただけじゃんということなんである。
本作で最も興味深いのは、“三国人”なんである。某元都知事が吐き捨てるように蔑視したあの呼び名、まさにあやつも戦後期の時代を生き抜いた訳だから、彼にとってはそーゆー感覚なんであろう。
あるいは本作の中でも、そういった雰囲気は見え隠れする。そして“三国人”として生き抜くためにしたたかに出し抜くヤカラももちろんいるし、いわばそこは、成功するか否かのビジネスチャンス、もっと言えばこの戦後混乱期を生き抜けるかどうかの、サバイバルなんである。
そーゆー意味では清次はもちろん、朝吉でさえもヤクザというよりそれが持つ義侠心という名の甘い優しさで問題を先延ばしした感はあるのだろう。
いやまあ、清次がつぎ込んだ大金を「自分も騙された」とかウソ言って懐にしまおうとしたボスはさすがにダメだけどさ。
朝吉はこの闇市でいろんな人に出会うんだけど、その中で、「自分は三国人です」と言うおっちゃんとの出会いが大きいと思われる。特に頓着なく会話をしていて、“三国人”に対しての思いを、朝吉はかなり直截に語ってたのね。
あの連中も長い間日本人にバカにされてひどい目に遭ってきたんだ。やっと独立したんだから嬉しさも判る。でも、こういう時こそ立派な国民性を見せることが大事で、卑怯な真似はすべきじゃない、と。
“卑怯な真似”ってーのが、清次が騙されたハゲデブオヤジであり、朝吉と親しくなった“三国人”のおっちゃんは、アイツとは違うと、クライマックスで、朝吉に言うのだ。
「三国人のボスがあんたらを売ったというけれど、ここに三国人が10人もいる」と。10人という数字が、泣かせる。恐らくもっともっと、いたに違いない。でもやっぱり弱い立場やらなんやら、あって、でもこのおっちゃんをはじめとして朝吉に心酔した仲間たちがいた。
で、つまりはさ、在日さん、ってことだと思うんだよね。ネイティブ関西なまりだもの。生まれ育った土地なのに、三国人と蔑まれる。これは……現代まで、こんな世界がめっちゃ狭くなった現代まで引きずっている問題なのだよ。この時のカツシンより現代の方が、メッチャ心狭くないか。
朝吉にホレちゃう“オネエ”様が妙に印象に残っちゃう。今はあんまり言うべきじゃないが、ホント、いわゆる“オネエ”様よ。つまり、見た目はハッキリ男性。女性に模する訳じゃないんだけど、でも美にはこだわっている。
大きな瞳が印象的なお顔は恐らくしっかりメイクをほどこしているだろうし、朝吉が二日酔いで臥せっている時に、せっせとすね毛を剃ったりしてる(爆)。
何より、木製のドアののぞき窓がハート型なのには参りました、という感じ。“オカマのおぎん”としてこの悪名シリーズの名物だったという。あれ??私……忘れてたということかな?スミマセン!★★★☆☆
今回はこまっしゃくれた女の子がヒロインである。相変わらずモテモテの朝吉は女剣劇の座頭やら、昔言い交わした恋人やら、前作から引き続いてモートルの貞の未亡人やらと大なり小なり色っぽい感じになるのだけれど、このこまっしゃくれた女の子、自身を戦争孤児だとうそぶく靴磨きの少女、ひろみもまた、朝吉にホレちゃってるんである。朝吉はぜんっぜん気づいてないけど。
彼はこのマセガキに目を白黒させながらも「わいの子分や」といってこの子を引き取る覚悟を決める。子分と言いつつ、ほぼほぼ父親のような気持ちを持っていることがあふれ出てる。
でもひろみは、こんな子供でもやっぱりオンナなんだよね。ホントにマセガキで、座頭の淳子と二人きりにさせないと!と気を回したりするんだけど、その一方で二人が抱き合っている場面を覗き見て、しょんぼりと踵を返したりする。
ひろみは芸達者な子で、この女剣劇の子役に抜擢され、このまま一座に加わらないかと誘われる。朝吉はひろみの未来のためならいいんじゃないかと背中を押すんだけど、「お母ちゃんを探したい」とウソをつくんである。
お母ちゃん、というのは、もう物語の冒頭で示されている。靴磨きのあがり金をかっさらっていった酒浸りのミヤコ蝶々である。
ミヤコ蝶々だよ!!なんとまあ、ゴーカなキャスト!!ひろみの母親にしてはかなりトウのたった感じだが……当時の彼女の年齢は知らないけど、見た目的には孫娘と言った方がいいような(爆)。
ひろみを演じる赤城まり嬢が芝居にしても歌にしてもあんまりにも達者なので、キャストクレジットを確認していなかったから、これは後々の有名女優かとワクワクしてチェックしたら、私は知らないお名前だった……。
それは、座頭の淳子役のお方もそうで、そうか……これだけ有名シリーズにこんな大きな役で出てても、意外にその後残っていかないお方もいるんだなあ……とその厳しさを想ったりする。
赤城まり嬢はホンットに、達者だったのよ。こまっしゃくれた、という前提の芝居もピタリとはまっていたのもそうだけど、歌が素晴らしくて。
その歌唱力を見込んで清次(田宮二郎)がのど自慢大会からのレコード歌手をもくろむのもナットクの歌声、センチメンタルジャーニーを歌わせてもバッチリの英語の発音とニュアンス。
彼女に教えるためにお手本で聞かせる田宮二郎の上手さにもビックリしたけど、ひろみの上手さにはマジビックリ!!
あ、そうそう、清次とは偶然の再会。彼は腰が軽いから、生きて行くための場所をひょいと見つけてもぐりこんでいる。女剣劇団が、チラシも何もかも打って公演を翌日に控えているのに、演芸館の館主がゴネて興行を許してくれない、というトラブルになってて。
前作で強烈な印象を与えたおかま(今は簡単に使えない言い方だけど、許してね)のおぎんがと再会して、朝吉はその調停を買って出るんである。その館主側に清次がいた訳で、いかにも、強い力のところ、長い者には巻かれろ主義の清次だなーって思う図式。でも朝吉に再会したことで、清次はもはや鞍替えの気持ちマンマンである。
朝吉はお人好しで、人の気持ちのウラとか読めないまっすぐな人で、強いのは腕っぷしと正義感だけだから、正直カンタンに人に騙されちゃう人だし、まあだから、こういう作劇が成立する訳なんだけど、それが判ってて清次は朝吉につくんだよなあ。
どこか、ほっとけない、と思っちゃうのかもしれないし、彼についてさえいれば、汚れない、気持ちのいい生き方が出来る、と本能的に想うのかもしれない。
この館主、朝吉の腕っぷしにあっさり降参するあたりからアヤしかったし、見るからに悪人ヅラなもんだから(爆)、その後、興行ブローカーに先にギャラを渡していた、逃げられましたな、と言われても、ぜーったいコイツが黒幕に違いない!!と観客すべてが思うだろと思う。
なのに、朝吉はじめ座頭の淳子も劇団員全員、次の興行を開拓しにこの地を離れたブローカーの大磯こそが極悪人!!と決めつけるんだから、結構ビックリする。
いやーいやー……特にこの当時の勧善懲悪モノは、もうツラが悪人であれば間違いないに決まってるんだからさ(爆)。
朝吉は自分が施主になったことで責任を感じ、持ち逃げされた分を恩義のある親分から借りることにして、淳子たちに損なく金を渡して送り出す。ちょっとラブな雰囲気もあったけど、ここは特段未練もなく別れるんである。
ひろみの女心からなるウソが発覚してひと悶着あるものの、ひろみの才能にホレこんだ清次がなんとか朝吉を説得して、彼が彼女を引き取る形になる。
そして朝吉は因島の親分さんに金を借りるために、因業館主の玉島と共に向かい、ひろみは清次と共にのど自慢大会に出場する。そこに、ひろみの母親、ミヤコ蝶々も出場していて、メッチャ音痴で自分勝手な引き延ばし戦術でステージにとどまり続ける一幕をさすがの存在感で見せ、ひと笑いさせた後で……。
正直、ね。ちょっとした顔見せというか、ゴーカキャストで客寄せ程度なのかなと思っていた。冒頭と中盤チラリと顔を見せるだけだったから。でも、この当時、戦後の記憶がまだ生々しいうちに作られた黄金期の作品群がそうであるように、当時リアルに直面した様々なシビアが、ここにもしっかりと描かれているのだよね。
戦争で夫を“とられ”、「この年じゃ、袖を引くわけにもいかない」という表現に、ぐっと胸がつまる。酒におぼれてしまった自身の弱さも充分自覚している。
一方で、姿を消してしまった子供を特段探すこともなく、のど自慢大会で偶然行き会って、突然母親顔する厚顔無恥というか、強欲さというか、アゼンとするものの、そこはミヤコ蝶々のもつ強引なチャーミングさというか、なんか、持ってかれちゃう。
ひろみをここまで連れて来た清次=田宮二郎は必死に、この身勝手な母親からひろみを守ろうとするのだが、いやー、役者が違うというかさ。
無頼漢たちがこの大会に押し寄せて、清次は銃創を負ってしまう。この大会のスタッフとして、あのブローカー、大磯がいることをひろみは発見していて、この後因島に興行に向かうことを漏れ聞いている。そんな偶然あるかい……とも思うが、まあ気にしない気にしない。
因島にいる朝吉にこの事実を伝えなければいけないが、清次はこの怪我だし、ひろみ親子にその重責を託すことにする。ひろみは見事優勝し、この興行に参加する資格を堂々得ているのだから。
地味な普段着姿から一転、すっかりせしめたんだろう、やったらマダムな洋装になってるミヤコ蝶々には思わず噴き出すが、まあ彼女の役割はここまで。
地元のシルクハット親分に直談判して大磯と対峙してみると、玉島に脅されてギャラの受取書を書かされ、しかしそのほんの一部の金だけしかもらっていないという。深夜の海辺での、濃い宵闇の中での、朝吉にドつかれて堪忍、堪忍!!と告白する大磯のなんとまあ哀れなこと……。
てゆーか、そらそーだろ、やっぱりな、いかにも悪人ヅラの玉島がしたり顔で、ギャラは大磯に前払いしましたがな、と言ったあの時から、うーそーだーねー、と観客の誰もが思ったに違いないのに、朝吉っつあん、ほんっと、お人好しなんだからさあ!!
大磯を生き証人として連れ帰り、清次と共に玉島をブチのめす、という、最初からメッチャ予想してた(爆)胸のすくクライマックス。因島で再会した恋人と、めっちゃ湿度のある、唇突き出してチュッチュやったラブシーンにキャーアー!!と大盛り上がりしたが、結局はそこまで(いや、その後やったった暗示はあるが(爆))。
彼女はこのままずっと朝吉にいてほしかったし、そのつもりだったみたいだけど、「朝吉さんに働かせるわけにはいかない」というスタンスでは、彼がこのままここにいられる筈もなかった。ヒモになるような男じゃない。かといって、工場で働くような男でもない。たとえ未練のある女がいたとしても、朝吉の生きる場所ではないのだ。
玉島をブチのめして、ちょろまかしたギャラ分を取り戻して、一時その恋人から借りていたから、そっくり返して電報も打って、清次と共に、終わったな、と顔を見合わせ、「これからどうしようか……」。
悪名シリーズがうっかり続いちゃったこの時点でのリアルさが、ひょっこり出ちゃってる感じで笑ってしまう。まあなんとかなるさ!と二人歩いて行く先に、まさにその後の数々の悪名シリーズがあるのだっ。
★★★★☆
カツシン演じる朝吉とは戦時中、朝吉の所属していた隊の小隊長だった彼。つまり上官と部下であり、渡世人の態度を持ち込んできた朝吉をバッシバッシと殴りつけ、言うことを聞かせた、という間柄であった。
当然朝吉にとっては再会して嬉しい相手ではない。しかしその粟津修こそが朝吉を探し回っていたからこその再会。
誰かしらん男が自分を探し回っている、と相棒の清次(田宮二郎)から教えられ、八尾の朝吉を探している男を知らないか、と尋ね歩く先々で、しかし八尾の朝吉は戦死したんだろ、壮絶な死にざまだったんだってな!と行く先々で彼とも判らず言われ、ぶんむくれる朝吉が可笑しい。
このくだりは朝吉が戦場から帰ってきた「新・悪名」から引き継がれるもので、戦死したことになっていただけでなく、その死にざままで華麗なるエピソードがふくらみにふくらんでいた展開が面白かったのが、ここにも繰り返される。これがシリーズものを見るだいご味なのよね。
「小隊長殿……」と絶句するように朝吉は言う。その見つめる目線から鮮やかにカットバックされる戦時中の、修からの往復ビンタ。ほんのちょっとの回想だが、人の下に屈する屈辱など、きっぷのいい親分さんとしてならしてきた朝吉にとっては、この時だけの、まさに忘れたい過去であっただろう。
その二度と会いたくない相手が目の前にいる。そして……なんかやけに、やさぐれている。シャツの襟もとの絶妙な開け方といい、仕立てのよさそうなスーツなのにだらりと着こなしている風といい、なんていうか……育ちがいいのにスネて社会の裏街道に落っこちた、みたいな雰囲気なんである。
そしてそれはまさしく、当たっているのだ。粟津一家の跡取り。押しも押されもせぬ若旦那。彼自身は一家を継ぐ気持ちがあったのに、カタギになってほしいと東京に送り出され、大学まで出た。
彼の父親はもう亡くなっているが、その妻、若い後妻が、何より修が立派に堅気の人間になることを望んで、夫亡き後女親分として一家を支えていた。
修はつまり、箱入り息子のおぼっちゃまだったとも言えるんだけれど、それを自覚していたからこそ苦しかったに違いない.恵まれていること、カタギになってほしいというのは、跡取りとしてみなされていない、認められていないことなのではないかと、歯がゆく思ってたんじゃないか。
そう思うと軍隊で自信たっぷりの渡世人の朝吉に、上官の立場を使って尊大な態度をとっていたことも、なあんか……哀しく切なく思われてしまうのだ。
しかも修は父の後妻のお妻さんに岡惚れしている。修を心配して探しに来た彼女にまっすぐに、その想いを伝える場面に胸ドキュンである。
そしてその時に悟るんである。お妻さんも彼にホレていたんだろうと。義理とはいえ親子関係。許されないことだと胸に刻んでいただろう。
その彼女の想いに確信を持つのは、渡世人になるんだと固く想い決めている修を諦めさせるために、朝吉を誘って関係をもっちゃうという、キャー!!なシークエンス、なんである。
思い詰めた顔をして朝吉を拉致するがごとくタクシーに押し込んで、温泉宿に向かう。次のカットでは朝であり、しっぽり後の照れくささがハッキリ判る大人の雰囲気にドキドキする。
朝吉めー。お照さんという想い人がいるのに。でもこのお照さんがさ、相棒の清次の兄、死んでしまった貞の奥さんで、つまりはこれまた禁断の恋。でももう貞が死んで10年が経つのだ。
お兄ちゃんにソックリな清次も心配して、二人をけしかけるけど、いまだにプラトニックな間柄。なのに朝吉がどうやら女とチョメチョメしたらしいと察すると、お照さんはキーッ!ってなっちゃうのだ。だったら二人とも、いい加減素直になりなよ!!というところなのだが、ああ難しい男と女。
ところで清次はいつでも時代の波に乗ってちゃっかりしているけれど、ここでも、新時代の波に乗ったんや!!とばかり、キャバレーの支配人に収まっている。しかしこのキャバレーを経営しているのがカポネの親分で、その手下に清次の兄、貞は殺されたのだが、まっとうな人生を歩み始めた清次に朝吉もお照もそのことを告げられない。
しかし修が持ち込んだ話がカポネの親分とその手下たちが手を染めているあくどい所業であり、朝吉も清次も否応なしに巻き込まれていくのだ。
お照にとっての清次はあくまで弟。愛する亭主にどんだけうり二つだとしても、セイちゃん、と呼びかける弟そのものだというのはちょっと不思議な気もする。それは本作において、義理とはいえ親子の関係であるお妻と修の許されぬ(でもないと思うけど)関係を思うと尚更そう感じる。
そしてそこに挟まる朝吉は、実に10年経ってもお照さんに踏み出せないのは、ソックリの清次がいるからなんじゃないかという気もしている。まあそのあたりは、やたら女にホレられて、時々は本作のようにウッカリ関係を持っちゃうけれど、妙に律儀な純情なところのある朝吉というキャラが妙な説得力をもって響いてくる部分でもあるのだけれど。
修が持ち込んできたのは、有名なおしろいの商標をめぐってのいざこざだった。汚い手を使ってカポネたちが商標を奪ったことに義憤を感じた修は、その製造元と懇意にしていた松島組に盃を受けて取り返そうとしたのだ。そしてその助力に朝吉を探していたのだった。
修は真に渡世人になりたがっていた。まずは形からと思ったのか、半年かけて背中全面に見事な彫り物をほどこした。ここはちょっとしたギャグみたいなシークエンスで、朝吉の弟分が彫り物をするというのでつきあって行ったところ、その弟分は超絶ビビリで、針をちょっと刺されただけで飛び上がり、ちっちゃいちっちゃい彫り物をしてくださいと懇願するという情けなさ。
そんな笑っちゃう展開の中で、少々のうめき声を出しながらも、黙々と大作の仕上げにうつぶせている客人がいた。彫師も感嘆するほどに我慢強いその人こそが、修だった。
朝吉はね、彼の垣間見える純粋さに、何度となく、大学ヤクザさんには判らないだろうが、みたいなことを言うのね。時に皮肉っぽく、時に、あんたにはまっとうな道の方が似合ってるみたいな愛情を込めて。
それを受ける修=長門裕之の葛藤、屈辱、諦め、でも死ぬ気で立ち向かう純粋さ、もう、なんかさ、抱きしめてヨシヨシしたくなっちゃうのよね!!
見た目は色気だだ漏れの諦めきった男なのだけれど、その中身に、甘やかされている自分に対する悔しさ、愛する女が義理とはいえ母親であるという苦しさ、男になるためには渡世人だと思っているのに、誰からも、どこからもそれを認められない辛さがにじみ出てて……。
ああもう、彼の辛さはめっちゃ判るんだけど、なんて可愛いのと思っちゃうのはよくない?うーむ……。
カポネの親分たちは、おしろい会社のボンクラ息子を拉致(とは彼は気づいてないだろう。優遇されてハンコ押しただけなんだから)し、商標登録を正当に獲得したと主張していたのを、清次とカポネとの関係が明るみに出て深読みされて殺されかけたり、たった一人無謀に討ち入っていく修が拷問にかけられたり、もうめっちゃごっちゃごちゃさあ。
戦後の混乱期には、権利関係とか、儲け話でバーン!と関わることだから、多かったんだろうなあ。それを拳ひとつで解決できる、という訳ではないけど、どこかまだ、そんな雰囲気があってさ。
だからこそ朝吉はかつての上官で散々痛めつけられた相手に、大学ヤクザ、なんて屈辱的な呼び名でクサし、最小限の情報さえもらえれば、まだまだ腕力だけでコトを解決できるさ、というクライマックスに持ち込めるんだよね。……今は出来ないだろうなあ、と思う。
重症を負った小隊長をお妻さんに託し、……それでも二人はまだ、この時点でプラトニックだけど、ずっと想い合っていたに違いない二人、ぐったり横たわっている修の投げ出した手を握り締めるお妻さん、もう、もう、いい加減素直になんなよ!!と思う。
そして朝吉と清次はまた次のステージへと歩み出す。清次は世話になっていた組に後ろ足で砂をかけた事態になったから、ほとぼりが冷めるまで旅に出る。それを見送る朝吉は、清次からこれからどうすると問われて、照れくさそうに、お照の居候に戻るしかないな、と言うのだ。この腐れ縁というか、素直になれない男と女のモヤモヤはいつまで続くの!!ああ、萌えるわー!!★★★☆☆
だから本作の中に垣間見られるそうした日本という国の狭さ暗さに、ああいまだにこんなところでうろうろしているんだと思ったし、ものすごいアナクロニズムを感じてウズウズしてしまう。
勿論、原作も映画となった本作も、そのことに対する痛烈な批判精神があると思う。“自分で育てられない”赤ちゃんを身に宿した女性への氷のように冷たい視線はなんなのか。あんなにも少子化少子化と言っておいて、夫婦の間で産まれる子供しか世間的に認めず、インラン女、無責任女のように指さされるのはなんなのか。
片親もシングルファザーよりシングルマザーの方が圧倒的に多く、それすら自分で選んだ道だろうとか、自己責任みたいに女ばかりが言われるこの社会はなんなのか。
……常にハラを立てていることなもんだから、ついつい熱くなってしまった。でもね、本作の中で思いがけず子供を授かることになる14歳の少女が、授かったそのこと自体になんら疑問も、罪悪感も持っていないことが、それこそが大事なことだと思ったのだ。
大好きな恋人と思いを交わし合って、愛し合って出来た赤ちゃん。これ以上の自然の摂理があるだろうか。それこそ不妊治療という不自然極まりない、ただただ苦しいばかりの結果、授かる赤ちゃんの方が世間的に認知される、あるいはよく頑張ったねと言われるなんて、おかしいではないか。
……だからついついアツくなってしまう。そう、この14歳の少女、ひかりはまだ初潮さえ来ていなかったから、“生理が来ていない”ことで妊娠に気づける筈もなかった。そんな事例もあるんだ、とそれはちょっと驚く。
男性経験はありますかと医者から問われて、臆さず「はい」と答える。隣で泣き崩れる母親に、なんで泣いてんの、ぐらいのしっかりした態度である。
だって何一つ悪いことはしていない。好きな人と愛し合っただけだ。確かにお互い幼くて、避妊ということを考えなかったということはあるにしても、それを彼らに責めるのはおかしい。
なんたって日本の性教育は、精子と卵子が、みたいな理科の授業チックな現実味のなさで、ちっとも現実に役立たないのだから。……それこそその問題も現代、ようやく叫ばれてはいるけれども。
でもさ、でも……そんなに、中学生でこどもができるって、悪いことかな?あるいは高校生でも、ヘタしたら大学生なんていう成人した大人になってまで、まだ学生なのに……と言われる日本社会はあまりに幼くないか。
本人だけで育てられないなら、それは単純に経済的なことが一番のだし、親なり福祉なり、周囲が協力して育てればいい。なぜそういう考えにならずに、ただただ親は泣き崩れ、罵倒し、子供を守るどころか糾弾する側に立ってしまうのか、マジで理解に苦しむ。本当に……不思議なものでも見るような気持ちで見てしまう。でもこれこそが、日本社会の現実なのだ。
そして一方で、とてもとても愛し合っているのに子供が授からず、その原因が夫の無精子症にあることが判ってしまった夫婦がいる。
この国の常で、経済的にも心身にも負担の大きい不妊治療の旅に漕ぎ出すが、治療を受けるために行き来していた札幌への飛行機が豪雪で飛ばなくなった時、奥さんの佐都子が夫の清和にそっと声をかけた。もうやめよう、と。夫はそれを自分から言い出せなかったこともあって、号泣した。
ちょっと、珍しいパターンである。妊活を言い出したのは夫の方だった。排卵日のディナーには飲み過ぎないようにして「赤ちゃんが出来たら、こんないい店では食事できなくなるよね」と、その後の赤ちゃんを作るために愛し合うセックスをふわりと示すような幸せな夫婦だった。
でもなかなか実らず、調べてみたらの先述の結果である。しばらくは頑張って不妊治療に専念したけれど、ほんっとうにね、不妊治療って、なんなんと思うよ。妊娠しないことが病気として治療されているみたいなさ。おかしいよ。ああまたアツくなってしまう……。
夫婦仲良く暮らしていければそれでいい。そう思って温泉旅行なぞした先で、ベビーバトンという特別養子縁組を橋渡しする団体を取材したドキュメンタリー番組を偶然見ることになる。
その団体の責任者は浅田美代子氏が演じているが、恐らくそこで取材を受けている、自分では育てられない赤ちゃんを母子寮に住み込んで産む女性たち、そしてその赤ちゃんを自分たちの子供として受け取る、子供のいない夫婦たち、は、実際の人たちなんだろうと思う。
妊娠してから相手に家庭があることが判り、バイトして自分で育てれば、という言葉を浴びせられたという少女の顔にはモザイクがかかっていた。映画上の演出じゃないだろうと感じられるリアリティがあった。
ひかりは本当に大好きな人の赤ちゃんを授かったのだし、彼女自身は何ら恥じる気持ちはないし、相手の男の子と愛し合った時も、ずっと一緒だと約束のミサンガを互いにつけたのだ。
でも、男の子の方は、そうだよね、弱いよね。周囲の圧力に屈する形で、まるで彼女への想いもそれに潰されたがごとく、ごめんごめんと繰り返し、去って行ってしまう。ひかりは、ずっと一緒だって言ったじゃない!!と泣きすがるけれど、結局は中学生同士はマトモなケンカもさせてもらえないまま、大人に引き裂かれてしまう。
その後、彼の方は何ごともなかったかのように通常の生活を送っている。ひかりは進学校に通えるだけの能力があったのに、判りやすく転落してしまう。
赤ちゃんを産んで、誰かに渡して、そして受験すればいいのよ、なんていう周囲のあまりにもあまりな無理解、そして「親戚だから」とバラしてしまうデリカシーのなさ。その時点でまっ茶色の髪になりダルダルなスウェット姿でザ・不良少女になっていたひかりは家を飛び出したんであった。
ひかりが幸せだったのは、赤ちゃんを産むまでのあいだ過ごした、ベビーバトンの母子寮での、ほんの短い間だけだったのかもしれない。
同じように育てられない赤ちゃんを産むために女の子たちが集まってくる場所。それぞれに事情が違い、風俗の仕事で父親が判らない子もいるし、お腹の赤ちゃんを全然愛せないという子もいる。
ひかりが同室になってひとときを過ごした女の子と意気投合する。お姉ちゃんみたいに、ひかりは彼女に親しんだ。
その時限りの関係だったけれど……でもそれがイヤな目に出てしまう。赤ちゃんを産んだ後にひかりは家を飛び出し東京に出て、住み込みの新聞配達で働き始める。そこで一緒になった女の子に、ベビーバトンでの彼女の影を見る。
実際、ちょっと似ていた。顔立ちは違うんだけど、華やかな雰囲気、髪の色と髪型、ファッション。メイクやネイルを教えてくれたりちょっとしたメイク用品をプレゼントしてくれたりする姉御気質も似ていた。
似ていたけれども……似て非なる子、だったのだ。ヤクザもんに借金をし、こともあろうにひかりを勝手に連帯保証人にして姿を消してしまう。
この似て非なるバカ女が、ひかりの影武者のように観客を翻弄する。ひかりはとても心優しく、大好きな恋人との間に授かった“ちびたん”との別れこそが彼女の転落に直結したことを考えると、彼女は立派な母親であり、なのにそれを社会が、親でさえ、許さなかった。
この時点でひかりは、自分自身を失ってしまったのだと思う。そんな、メタファーに感じた。
この作品のクライマックスは、ひかりが佐都子、清和夫婦の元に「子どもを返してほしいんです」と訪ねてくるシークエンスである。何度もかけられる無言電話、公衆電話でプッシュボタンを押すその手は、真っ赤なマニキュアが塗られている。訪ねて来たシーンでも始終下を向いていて顔が判然としない。
パサついた金髪にスカジャン、ダルダルのパンツ姿は、ひかりが産んだ赤ちゃん、朝斗を引き渡した時に顔を合わせた、可憐な女子中学生とは似ても似つかず、しかも金まで要求してきたので、これは別人の脅しだと、「あなたは誰ですか」と夫婦で糾弾するという、緊迫のシーンなんである。
本作の原作がミステリだと言われるのはまさにこの場面であり、予告編で見た時もええ、どーゆーこと、赤ちゃん産んだ女の子が返してほしいと言ってくるのは判るにしても、あなたは誰ですか、ってどういうこと!!とめっちゃドキドキした場面だった。
実際、しばらくホントに判らなかった。めっちゃ、ひかりの手元を見ていたけれど彼女はマニキュアを塗っていなかった。
逃げた女がまさしく、真っ赤なマニキュアをしていた。金髪の髪、スカジャン、すべてが符合するから、なんらかの手段でコイツが佐都子、清和夫婦の連絡先を手に入れて、恐喝するために訪れたんだろうと思いながら見ていたのに、彼女がその連絡先を手に入れる術も展開も全然出てこないから、あれ、あれれ、どーゆーこと、これは、まさか、えーと……と思っていたら、本当に、ひかり本人、だったのだ。
あの時の可憐な少女とは似ても似つかぬ、もそうだけど、「あの子がお金を要求するなんてことはない」と佐都子が清和に吐露したように、その当時のひかりは……。いや、きっと、あの時、ふと出てしまった言葉に違いないのだ。
確かに金には困っていた。連帯保証人にされて、チンピラに返した金は、ひかりを心底心配してくれた新聞配達所の所長さんが貸してくれたに違いない。ああ、利重さん。もー、こーゆー、100%まじりっけなしのイイ人を演じさせたら彼の右に出る人はいない!!
そして、どんなに苦しいことがあっても、きっときっと、こんな風にあなたを心配してくれる人が必ずいるよというメッセージを、素直に信じさせてくれる人、なんである。
佐都子から、あなたは誰ですかと言われた時のひかりの心情を想像すると、心が爆破されるぐらいの辛さ。必死の思いで、私は本当にあの子の母親なんですと絞り出すけれど、ただただ頭を下げて、その場を去るしかない。
佐都子たち夫婦は判然としない想いを抱えたままいたところに、警察が訪ねてくる。職場からいなくなったというひかりの写真を見せられる。警察が、事件性もないのに失踪したぐらいでこんな本格的な捜査をしてくれるのかしらんと思わずうがった気持ちになるが(爆)。
そこは利重さん演じる新聞販売所の所長がチョーいい人だから、強く警察に働きかけたとゆーことにしておこう。佐都子はその写真と、告げられた名前に茫然とする。ひかりだったのだ。あなたは誰ですかと突き放した相手が、ひかりだったのだと。
佐都子は飛び出す。必死に探し回る。意外に簡単に見つかる(爆)。号泣しながら、気づけなくてごめんなさいと言う。息子の朝斗も一緒にいる。いつも話していた広島のおかあちゃんだよ、とひかりに紹介する。
まだものごとがちゃんと理解できていない年頃の朝斗だが、繰り返し、産みの母親のひかり、育ての両親の自分たち、その仲介をしてくれたベビーバトンのことを言い聞かせて来た。
あどけない朝斗とひかりのやりとりは、映像オフして音だけでほんのり明かされるのみ。それでいいのだ。これからなのだから。
朝斗もこれから、この事実の何たるかを明確に知っていくだろう。傷つくこともあるだろう。でもなんたっておかあちゃんが三人もいるのだ。こんなに心強いことはない。やっぱ、おかあちゃんになるのか。おとうちゃんは、ソンだわね(ふふふ)。
実子か養子か、という問題に関わらないところで、幼稚園でのママ友、子供同士のいさかい、嘘、そんなスリリングな展開もある。
それはつまり、養子だの実子だのということを既に彼らが超えていて(ひかりが“脅迫”に来た時、その事情は幼稚園もご近所さんもみんな知っているという事実が示されるから)、人間的、社会的にきちんとぶつかり合ってる。
特別なとか、可哀想とか、そんな関係性じゃないんだということを示していて、凄く心に残った。★★★★☆
いや、それ以上に、この実在の浅田政志氏という人の、写真家としてのスタンスが、“事実”だの“ドキュメント”だのといったうさん臭さから全く離れて笑い飛ばしているような、ザ・フィクションという可笑しみがあるというのが、なんとまあ絶妙なのだ。
この写真家さんのことは、うっすらと聞いたことがあるような気はしたが、これだけ“事実を元にした”を連呼するということは、この中のどの要素が“事実を元にした”なのかなあ、というのは気になるところではあった。
自分の家族でコスプレしてフィクションたっぷりの写真を撮る写真家、というのは無論、事実であろうが、劇中のもう一つの大きなファクターである、東日本大震災の泥にまみれた写真の洗浄と返却のボランティアに関わっている、というのもそうなのかな、どうなんだろう、と観ながら最も気になったところだったんであった。
このボランティア活動のことはニュースで見知っていて、ただその活動の中にプロの写真家さんがいたということは不勉強ながら知らなかったんである。ザ・フィクションな写真を撮る写真家さんが、ザ・ドキュメントな写真洗浄のボランティアとなる。この妙味。
いや、一般家庭で普通に撮られた家族写真だって、ドキュメントではない筈。浅田家写真のように作り込みまではしなくても、どこかよそ行きの表情で映ってたり、イベントごとで映されるのが多かったり、ただ単純にピースサインをして映るのだって、決して日常の普通の現実、ではないのだ。
でも私たちはどこかで、写真はドキュメントとして一瞬を切り取っていると思いがちである。だからこそそれを逆手にとった、浅田氏のフィクショナルな“家族写真”が新鮮で魅力的に映る。
でも実は、程度の差だけであって、写真を撮るとき、フツーの私たちだって、それなりにしゃっちょこばって、いつもと違う自分でそこに時を刻むんじゃないか。
そしてその背景でどんな生活をしていたか、何を考えていたか、一緒に映っている人たち、映してくれた人と、どんな会話をしていたか、と思い出すんじゃないか。
なんかそもそもを全部すっとばして思いつくまま書きたくなるのはヤハリ、東日本大震災が大きなテーマとなっているから、なんである。でも、メインテーマではない。そこがミソである。
私は未だに、東日本大震災をいわばネタにした作品にアレルギー反応がある。ただ……時代の共通認識として避けては通れない、いわば歴史としての刻印がなされることは受け入れざるを得ないというか、当然のことだと、ようやく思えるようになったあたりだった。
本作はあくまで、浅田政志というたぐいまれなる才能を持つ写真家を描くものである。誤解を恐れずに言えば、彼が関わることになる東日本大震災のボランティアは、彼の写真家人生に影響を与える一要素として描かれているのであって、東日本大震災自体をメインにはしていない。
それが、凄く、腑に落ちたというか、納得出来た気がした。写真家としての浅田氏が、写真とは、家族とは、事実とは、フィクションとは、ドキュメントとは、ということを、口に出してこうだと示す訳じゃないんだけど、それをまさに実地で、現地で、示していく感じが、ドカンと来たのだ。
あれからもう10年近く経って、あのがれきの映像をどうやって撮ったのか、いやまだまだそういう状態なのかとか、今更ながら衝撃のロケーションの中、ニノ君演じる浅田氏は歩み進む。
一瞬だったけど、テレビカメラが明らかにがれきの掃除をやらせてるおじさんをこっちからあっちからヴィヴィッドに見えるようにと撮影している様子に遭遇する。おじさんは、あきらかに、やらされていることにやる気がない感がアリアリと出ている。浅田氏がハッとして、でも通り過ぎるしかない……。
浅田氏がそんな仕事をした訳じゃない。自身のフィクション味たっぷりの写真集で評価され、ブレイクした後、家族写真を請け負う仕事で全国を回っていた。その中で彼は、その家族の中で大切にしていることを掘り起こして、一瞬の笑顔に凝縮させた。
そのための演出は惜しみなく、だから浅田家写真集と同じくフィクション味たっぷりではあるんだけど、その中に、本物の気持ちが映るように腐心していた。
それこそが彼の写真が評価されたことだったんだと、今こうして思い返して思う。そしてそれが、いい画や映像をとるために、平気で指示演出する、それがヤラセだとも思ってない撮影側を一瞬で切り取り、震撼させるのだ。
なんか言いたいことをバーッと言っちゃって、この作品の成り立ちも何もすっ飛ばしてしまった。ヤバいな。
そもそも震災に遭遇する中盤までは、浅田政志というダメダメ男を実にコミカルに描いていく。演じるニノ氏の軽みが絶妙で、つまぶっきー演じるクソ真面目なお兄ちゃんはこのグダグダな弟のことを、表面上ではクソミソに言うけれども、結局は全部彼の言うとおりに奔走しまくる。消防車やらサーキットやらの撮影許可に米つきバッタみたいに頭を下げて最大限の協力を惜しまない。
そう、口では、両親が喜ぶからやってるんだと言い、自分ではそれが出来ないことをモノローグで愚痴ったりはするけれど、めちゃくちゃ弟のことを心配し、そして誇りに思っているのが判るから、グッときちゃうんだよなあ。
そしてこの浅田家は、今ではそういう家族もフツーにいるだろう(と思いたい。希望的観測)と思うが、母親が働き手で父親が主夫業に従事している。
この家族は私ら世代にほぼリンクするので、私自身は子供の頃からこーゆーの理想だよなと思ってはいるけれど、理想だよなと思うってことは、現実には即していなかった訳で。
ただ男女の役割がそれまでの常識と入れ替わっただけなのに、“男が働かないでフラフラしている”とか、“女に働かせてプラプラしている”とか言われる時代、なんである。
平田満演じる父親は息子に、「お母さんは昔から看護師になりたかったから」その夢をサポートするために主夫生活に入ったんだと言う。私の感覚では、この世代は看護師という言い方もしてなかった。看護婦、婦長、つまり女が男に邪魔されない絶対的キャリアだったのだ。
これは過渡期であっただろうと思う。この絶対的昭和の時代、この価値観を社会と共有するのは難しい。それがこの両極端の兄弟に反映されていると思えば非常に判りやすい。
兄も弟も、自身の価値観、相手の価値観に、未練というか、100%欲しいとは思わないけど、自分自身100%では生きづらいなと思っている感じ。両親のことを大好きだから、否定なんかしてないから、でもその時代の社会性から見ると、だったら自分はどういう進路を選べばいいのかと。
政志の幼なじみで、彼の才能をずっと信じ続け、煮え切らないコイツに逆プロポーズを叩きつける若奈である。演じるはこれまた最高!!の黒木華嬢。アパレルの仕事をしたいと、政志を置いて先に東京に出る。かなり経ってからようやく腰を上げた政志が、絶対に成功するから、出世払いで置いてくれ!と土下座する。だからこれは、同棲じゃなくて居候生活である。
出版社に持ち込むこと数十社だが、とんと拾われない。若奈が見かねて、とにかく個展をしろと言う。尻込みは承知の上、もうギャラリーの予約を入れちゃってる。
見事アタリがある。写真集専門の出版社の女性社長が見に来ていた。バカウケして、名刺を置いていった。池谷のぶえ。サイコーである。
めっちゃ手狭な、ゴチャゴチャした事務所で、スルメをあぶって一升瓶の日本酒をどぼどぼ御馳走してくれる。じゃあ出版すっか!みたいなノリでこぎつけちゃう。
書店で平置きするぐらいだから、写真集の出版社としては力があったんだろうが、「予想以上に売れなかったねー」と社長は言いながらもあっはっはと、今日も日本酒どぼどぼである。
「でも、いいものだって思ってるからね」この台詞につーんとした直後、まさに直後、私でも知ってる木村伊兵衛賞受賞の連絡が届く。社長の目は、確かだったんである。
授賞式の父親のスピーチ、家族の照れくさくて誇らしい感じ、その後の、これも作品になる、授与シーンの写真。まずここで一区切り。
政志はプロ写真家としてスタートを切り、“家族写真撮ります”の仕事で全国を飛び回ることになる。スタンスは自身の浅田家と同じ。やりたいこと、好きなことを聞き取って、一枚の家族写真に落とし込む。
予告編でね、「家族写真撮れるの?」「撮れるよ」という被災地の女の子と政志の会話、目を真っ赤にして涙をこぼしながらシャッターを切るニノ君のショットがそれにかぶせられたから、てっきり、震災で家族を亡くした女の子の家族写真を撮る展開でのカットかと思ったら、違ったんだよね。
脳腫瘍を患った幼い男の子とその家族を撮った時のことで、後にその子は亡くなってしまったことが示唆されるんだけれど、その時は、家族一丸となって病気と闘ってる。でもずっと戦闘モードな訳では当然なくって、家族写真撮りたいってなった時に、闘病している彼が口にしたのが、窓の外に一瞬見えた、凄いぐらいの虹、だったのだった。
当然それを再現することはできないけれど、だったら永遠に消えない虹を描いちゃおう!と、幼い妹がいっとう先に食いついて無邪気にクレヨンを手にして白いTシャツに描き始めた。抗がん剤でだろう、つるつるの頭がいたいけなお兄ちゃんも丁寧に塗り始めた。
途中、お母さんに甘えて、コアラみたいに背中にしがみついてきた。重いよ、……成長したんだね、とお母さんは困った風を装いながら嬉しくて涙を流した。それをじっと政志は見守っていて……。
出来上がった虹Tシャツを家族四人でつなげて大きな虹になって笑顔で寝転んでいる、シャッターを切る時、政志は真っ赤な目で涙をこぼしたのだ。
震災の時じゃなかった。その時は、彼は涙をこぼすことはなかった。その演出の選択が、私は嬉しかった。だって彼は当事者じゃない。それが示唆される場面がある。被災地を撮りに来たマスコミかと思ったと。先述のように、“そういう画”を撮りに無数のカメラが来ていたんだろう。
政志は以前家族写真を依頼して撮った家族が被災地の住所だったことから、その行方を捜してこの地に来たのだ。そして、写真洗浄ボランティアをしている青年に出会い、その活動が人の輪で拡大していく。
まだその活動が小さな時、ナンクセをつける人物が登場する。ああ、もう、登場するだけで胸が詰まっちゃう北村有起哉氏である。「まだまだな人だっているんだよ!」この表現、つたないけれど、判っちゃう。単なるクレーマーじゃないこと、判っちゃう。
まだまだ。掘り出された写真を、それが他人のものであっても、泥だらけの中から掘り出された写真というものを、見ることさえ辛い、“まだまだ”な人間がいるんだと。
活動を始めた青年、菅田君演じる小野君はけちょんけちょんにやられてしまう。でも、政志はじめ、周囲の人の想いでつなげていくことなんである。
更に、これは当然、予期していたこと。北村氏がおずおずと訪れる。政志は彼が入りやすいようにと、誰でも見ていいんだよね?とわざとらしく周囲に声をかける。
彼が訪れたのは、……娘ちゃんの遺体が見つかってしまって、だから、遺影を、ああもう、書きたくないよ。でもそう、遺影に使える写真を探しに来たのだ。でもなかなか見つからない。無数の写真の中から探し出すのは難しい。
政志はハッ!と思う。卒業アルバム!!卒アルも何冊も泥だらけの中から救出されていた。みんなで必死に探して、見事探し当てる。バトミントン部のスナップの片隅で可憐な笑顔を見せる娘に嗚咽を漏らす有起哉氏に、劇中のスタッフともども、良かったね、良かったね、と思う……。
政志が避難所で出会うリコちゃんが、お父さんの写真だけ見つからないと言い、私も家族写真が撮りたい!と言った時に、なんとなくオチが見えた気がしたが、そのオチ(父親が撮影者だったから、父親が映ってる写真がそもそもない)を、政志が自分の父親に投影したことこそが、感動的だった。
リコちゃん家族の撮影シーンでそれがうやうやしく提示されてリコちゃん涙、ハッピーな家族写真、というシークエンスは感動的ではあったけど、かなりベタな感じがしたし、この要素は浅田家がそうだったんだよね!!という感動にこそつなげてるんだよねと思ったから。
予告編でも既に示されていた、父親の葬式シーンがまさか、「浅田家」写真撮影の場だったとは!!
もうさあ、予告編で散々見ちゃってたし、作品冒頭で、ここに帰ってくるよね、てな感じで示されていたし、展開の中盤で父親が倒れちゃって、意識は取り戻したってところで政志は被災地にとんぼ返りしちゃってひと騒動あったりしたからさあ。すっかり騙されちゃった。ホントにパパ死んじゃって、お涙頂戴くるかと。
あのね、監督さんはとても才能あると思うし、毎回泣かされるんだけど、そもそも最初の作品で、難病モノにして死なせて泣かせるっていう展開が、個人的に大嫌いと思ってしまったから、号泣しつつも納得できないんすけど!!とか思っていたんだけど、その後、泣かせつつも絶妙に軽く仕上げる手腕にヤラれた!!と思わされ、本作はそれを飛び越えて、騙された!!だったなあ。
死んでないんかい!!鼻の穴に綿突っ込むなんてイマドキあるんかいと思った矢先やったわ!何この使い慣れてない関西弁!
ずっと、次の浅田家の撮影はいつかと父親からせっつかれていた、そのオチか!!めっちゃ乗り気の父親を死なせた葬式写真とは!!ヤラれた!!感動しかけてソンした、いや、得した!!★★★★★
まあでも、とにかく内容ギッシリなのだから。舞台はとある貿易会社の営業&総務といったスペース。バリバリの男子たちが忙しく電話をかけ、パリッと美しい女子たちがタイプライターを叩いている活気のある場所。
しかして主人公の一人、桜井大伍は夜通し飲んで“ステーションホテル”(ホームのベンチ)で夜を明かし、ヨレヨレの背広で一番乗りな顔して出社するのを、同僚の山吹桃子に見抜かれるところから始まるんである。
最初の数分で、この会社、ひいてはこの当時の会社風俗とでもいったものがいろいろと垣間見られて面白い。その遅刻を社長に見つからないようにコッソリ現れる宮田課長が森繁。社員の間を小間使い的に動き回る、学生にしてはトウのたった詰襟上着の小男がいたり、だからお茶は女子社員じゃなくて彼が淹れていたり。
なぁんか、私がイラっとしていた女子のお茶くみなんてないじゃん、女子たちもキラキラと働いているじゃんと思って、いつから時代は後退したのだろう……とか思っちゃう。
で、そう。大伍はだから、グータラ社員なのかなという印象での登場なので、ラストの一発逆転ホームランはかなり驚くのだが、その前に、とにかく恋のさやあてである。
大伍と桃子はお互い気が合っていて、特に明言はしていないもののこの先のゴールインがお互いなんとなく見えている。デートの約束だってしちゃう。
しかしそこに、「結婚するために貯金した」からお目当てのエレベーターガールとつないでくれという大伍の同僚からのややこしい相談が入る。しかも大伍がそれを桃子に頼んじゃったから事態はさらにややこしくなる。そのエレベーターガール、酒井杏子はほかならぬ大伍にご執心だったからなんである。
それを聞いた桃子の、若尾文子の、困り顔の可憐なことよ!!しかして桃子、いやさ若尾文子は食えない女で、この友達が二番手の男も挙げたことから、自腹を切ってコンサートの切符をそれぞれに押し付けて、くっつけちゃう。なんとまあ、強引な手引き!!でも二番手を言っちゃってたんだから仕方ないか!!
カワイソウなのは、爪に火を点すように貯金をしていた、いかにも冴えない男の(ゴメン!)同僚君だが、まぁ、どーゆー物語でも割を食う役回りというのは必要だからねえ。
てゆーか、大伍を演じる菅原謙二氏とゆーのが、私多分初見……いやきっと見ているのだろうが、記憶にない(爆)。確かにハンサム男だけれど、イマイチ印象に残らない感じがする(爆爆)。まーそれは、私が森繁に心もってかれているからだろうが……。
森繁扮する宮田課長は、なんでかこの青二才を信用している。てゆーか、宮田夫妻に大伍と桃子が信頼されている雰囲気なんである。なんでかはよー判らんが、とにかくこの新旧カップルの、お互い好きでたまらんくせにさっさとくっつけ!!とゆー可愛さがたまらんのだが、特にそれは宮田夫妻がもーたまらんのである。
宮田の妻を演じる市川春代氏もまた、たまらなく可愛いのだ。私、多分、初見……じゃなくやっぱり覚えてないだけだろうが(爆)、この二人のラブラブっぷりがね、だからこそ嫉妬しちゃうのがね、本当に可愛くて可愛くて……。
森繁は女好き(役柄の上でね!!)のイメージだけど、私にとっては結構、映画の中で愛妻家の印象がある。ちょっと芸者さんとかについついフラっときても、奥さんのことを頭に思い浮かべるという二段構えで余計にそう、感じるんである。
幼い一人息子がいて、でも仕事が忙しくてなかなか遊んでやれない。でも仕事を第一に考えてるんじゃなくて、本当にそのことに歯がゆく思っている、というのが、つまらないケンカで奥さんが息子を連れて出て行って、奥さんの作戦でその息子がケナゲに一人、会社に訪ねてきた時の、宮田課長、いやさ森繁のたまらない愛ある触れ合いに感じちゃうのだ。
なあんか、さ。もうずっと、昭和のモーレツサラリーマンなんか、仕事さえしてればいい、金を出して家族を養ってるんだから、みたいな哀しさばかりを思っていたけれど、この森繁の、愛妻、愛息子、ああ、なんて愛!!だから森繁好きなのよ。こーゆーのを、てらいなく、純粋にキュンキュンさせてくれるのが!!
奥さんも旦那さんが大好きだからこそ、……怒ったのは女関係じゃなくて、昇給やボーナスをヘソクリにされて秘密にされたことに怒った、ってトコがカワイイじゃないの。
だから奥さんもプンスカ家を出たものの戻る気マンマン、でも表面上は怒りまくって、桃子に様子見を頼むのは、懲らしめるためじゃなく、気になるからに他ならずで。
桃子と大伍の手引きで再会を果たした時、お互い意地を張り合う筈が、もう道を隔ててその顔を見た時からお互い相好崩れっぱなしでなんなの、もう大好きやんか!!ああー超理想の夫婦、理想の家族、夫婦で幼い息子を挟んでランランと帰ったりして、心配しただけムダだった!!
てゆー……なんかただ単にアテられただけの痴話げんかの仲直りに奔走したのが大伍と桃子だったんだけれど、その前につまらぬカン違いで絶交状態だった訳。“明日は日曜日”で、ハチ公前で待ち合わせたその日、手編みのプレゼントの途中経過を紙袋に抱えて大伍のアパートに行ったら……思えば待ち合わせ場所じゃなく、部屋に行っちゃったってことは、桃子も意外にエロい期待があったのかもしれんが(爆)、その前にエロいことした女が出てきた。
ただし、大伍が同僚に頼まれて一夜の部屋を貸したってゆーのが真相。大伍は同僚から妹が上京するからと言われて貸したのだが、そのつまらない嘘は特に意味をなさず、最初から彼女とチョメチョメしたいから貸してくれよと言われていた方が良かったかもしれない。
大伍はその一夜を宿直室で過ごすのだが、思いがけず強盗が入り、見事ぶった押す。宿直当番の老社員は自分一人だったら……と大伍に感謝するが、大伍はこの手柄を老社員のものとするんである。
いかにも若手がバリバリ働いている感じの職場で、いつクビを切られるかと戦々恐々としていたこの老社員と不思議に大伍は仲が良くて、彼を助けたいと思ったのだった。表彰までされて、恐縮しきりのこの老社員、きっとこれがどこかで効いてくるのは判るよなあ、判る判る。
基本的には恋のさや当てだし、大伍と桃子がつまらぬ誤解で仲たがいしているのをやきもきして見守る、という感じではあるのだが、こーゆー具合に当時の会社事情とか、まあ当時はそう思って描いたわけではなかったろうが、現代から見ると新鮮だったり趣があったりして相当面白い。
課長森繁が、社長のお供で芸者遊びをする場面なんか、まさにである。社長はいかにも遊び慣れていて、怖気づく課長に色っぽい芸者をあてがって体よく追い払う。芸者たちは手慣れたもので、エロエロにしなだれかかり……まあどこまでいったかは、それを追究するのはヤボって感じで。
でも宮田課長に関してだけ言えば、踏みとどまったように見えるけれど、だからこそなんかやたらと新旧いろっぽすぎる芸者にホレられちゃって、社員旅行の温泉で偶然遭遇すると、社長そっちのけで課長にベタベタ(この場合、偶然の出会いだからカネは発生しないと考えると、マジである)。
愛妻家宮田=森繁という図式を思うと、なあんか判っちゃう判っちゃう、と思っちゃう。そしてなんたってこの社員旅行は外国との取引が上手くいった、社員への慰労で企画されたもので、それプラス、宮田は世話になった大伍と桃子の行く末をめっちゃ心配しているんだもの。
この、温泉旅行に行く道行も、かなり興味深い。みんなでランラン徒歩で向かって、途中、草っぱらでピクニック休憩したりする。そして宮田課長は二人を始終、心配している。自分は寂しく、でもあれは愛妻弁当だろうな、を頬張ったりしている。
温泉旅館では、桃子に言い寄るプレイボーイとの結構シビアなバトルがあったり、一触即発な感じがあるのだが、社長からの電報という思いがけぬ展開で和気あいあいとした社員旅行は中止されるんである。
ここから先は、かなり意外な感じだったなあ。それまでもかなーり詰め込んでいたと思っていたのに、こっからビジネス要素を、しかもインターナショナルに詰め込んでくるとは、思いもしなかった!!貿易会社という舞台もそうだが、当時の、ただただ発展するしかない日本の勢いを臆せず盛り込んだのかなという感じがする。
自信ある商品に理不尽なクレームがつけられる。そのことに義憤を感じた大伍が、残業でタイプライターを打ち、英字新聞に怒りの投稿をブチまけるんである。なんと!!
クビも覚悟の上である。カッコいいが、ちょっと唐突な感じがしたとゆーか、あくまで本作は開発とか製造とかの現場からは離れた、そっから先の事務的、営業的ところにあって、しかもそれまでは恋のさや当てだったもんだから、いきなり義憤を感じてる、とりあえず登場は酔いどれグータラ社員だった大伍が、急にって感じは正直否めないというか……。
その商品自体も口頭で述べられるだけだし、大伍はじめ彼ら社員に商品に対する誇り、以前に理解すら感じられなかったのは、もったいなかったかなあ。
ナマイキな暴走をしたことでクビになりかけるところで、あの老社員が桃子にあのコトの次第を打ち明け、いざとなったら……というところで、海の向こうで彼の投稿によって議論が巻き起こり、取引が元に戻った、という奇跡が起こる。
奇跡すぎて、“コトの次第”の誤解の可愛らしさすぎることにドキドキするが、奇跡すぎるから誤解してたわ!!とかいうシークエンスすら用意されず、だったらそもそもまるっといらなかったんちゃうと思うぐらいだが、まーそんなことは言うまい。
そーゆー意味で言えば、同じ?老人キャストとして、老社員藤原鎌足の悲哀より、まるで意味なく(爆)、なんで!?という感じで登場した、“会社に押しかけて来た押し売り、だけど、大伍の恩師である校長先生”とゆー、意味判んない設定のズビズバパパパパヤに持ってかれてるだろ!マジで意味なかったのがサイコーなんだけど!!
だって、ギッシリだから、しょうがないよ(爆)。しかしてそのウラミがあるから、この部分だけ切り離して一本の映画が作れたんじゃないのとも思ったりするが(爆爆)、ハッピーに終わったんだから、まあいいか! ★★★☆☆
とまれ、物語は渡哲也扮する隆三が出所してくるところから始まる。まず訪れた先は古くからの知り合いで今はトップスターの踊り子に成長したキム・松村のステージが行われているキャバレー。
隆三はかつてオリオンプロという興行社を持っていたのが、マネージャーの不始末からライバルの新々プロの人間を刺し殺してしまい、実刑を受けちまったんであった。
そのマネージャーたち残ったスタッフはオリオンプロをいかがわしい“エロダクション”に貶めてしまっており(密室で、高額の金を払うエロジジイたちの前で、裸の女の子たちを踊らせるとゆー)隆三は怒って彼らを解雇してしまう。
残ったのは、地道にギター流しで糊口をしのぎながら隆三を待っていた小城と塚原。そしてひそかに隆三に思いを寄せていたキムは新々プロを飛び出してオリオンプロに入り、そしてもう一人……エロダクションを解散させた時に来ていた踊り子の一人、あけみという女の子と偶然再会し、彼女の男気(というのがピッタリ)に引っ張られる形で、そしてあけみの友人たちも加勢して、新々プロの嫌がらせにもめげずに、オリオンプロは再建に向けて邁進していくんである。
あけみを演じるのが松原智恵子。渡哲也とツートップで名前が上がっていたが、登場はちょっと待つことになるので、キム・松村が松原智恵子?なんか違うような……とか首をかしげていたら、そら違ったわ(爆)。
そしてあけみとつるんでいる、まーはすっぱというかよく言えば元気がいいというか、不良娘なんていう古臭い言葉が妙に新鮮にピタリと来るプラス4人が、着てるファッションのカラフルキテレツも相まって、ああ時代、素敵、と思う。その中に梶芽衣子がいたのには気づかなかった!言われてみれば、あああの子か、そうか!と……。
あけみがまずそうなんだけど、恐らくプラス4人も、それぞれにそれなりに事情がありそうというか、家族とかそういうところからは縁の薄そうな感じなんである。
あけみは後に知れるが孤児で施設育ちで、今や家を持たず、友人の家を渡り歩いているというが、他の4人も似たり寄ったりのような感じがする。お互い深く探り合うことはないけれど、シンパシィの元に寄り集まっている、見た目よりずっと絆が深い寂しき魂たち、という気がしちゃうんである。
オチバレで言うと、あけみは余命いくばくもない状態である。白血病をほったらかしなんである。ひどい貧血に何度も襲われているのに、これまで病院に行かずにしまっているのは、お金がないというのもそうだろうが、彼女自身どこかで厭世的な覚悟が出来ているような感じがする。
あけみが倒れて、その病名が発覚した時、この一心同体の4人が胸の内の心配を出さないようにして明るく見舞いに来るのがなんとなくグッとくるんである。それぞれのキャラを掘り下げる訳でもないんだけど。
で、そうそう、宍戸錠である。彼は最初オリオンプロの用心棒だったが、隆三があこぎな商売をしていたスタッフたちを解雇してしまったところに彼扮する今川がフラリと現れる。約束の金をもらってないんだがな、としかしなぜか笑顔で余裕たっぷりに隆三に持ちかけるが、隆三が真面目に真摯に、すまないがこういう訳で金はないんだというと、なんかめっちゃ楽しそうに嬉しそうにそれじゃ仕方ないなと引っ込むんである。
隆三を実刑に追い込んだマネージャーの前田は、この件で更に逆恨みを募らせて新々プロに乗り換え、そこに売り込みというよりは恐喝同然で入り込んだ今川だったが、最初から隆三たちオリオンプロを助けてやる気だったに違いないと思っちゃう。
いや、彼は人生いかに楽しむかというタイプの人間で、そんなことは知ったこっちゃない、ただ渡り歩いているようにも見えるんだけれど、「弱いものいじめは性に合わない」とか言って、それをカッコイ言い訳みたいにして、ことあるごとに新々プロの卑怯なやり口からオリオンプロの窮地を救うのだもの。
そこはさぁ、悔しいけど、悔しいけど萌えちゃう男同士のアレコレよね。友情というのも単純すぎるような、特にこの映画黄金時代に量産されまくった、目配せで相手の価値が判る感じ、たまらんのだよなあ。
隆三の母親が、なんともいえない、ザ・昭和の母親という感じである。隆三が刑に服している間、彼女の夫、つまり隆三の父親は死んだ。会話上だけだが、どうやらいわゆる昭和の傍若無人な男で、家を空けることもしばしばだったらしい。
知らなかった父の死に隆三はショックを受けるが、彼自身は父親の生き方を踏襲したくないために頑張っている感じが、物語の隅々にまで現れているんである。
その一方で、母親はある一方でのザ・昭和の妻で、夫に従い、子に従う女性である。おどおどした感じがあまりにも歯がゆい。息子が帰ってきた時、その表札はもう息子を家父長として大きく書いて、自分の名前をまるで女房のように小さく記していた。この時点で父親が死んでいることが知れるというのが、昭和的女の立場をよく示していた。
だからこそか、キム・松村やあけみ、そしてあけみの友人たち=パンチガールズの奔放さがまぶしく目に映るのだ。それはまさしく、映画黄金期にキラキラな女優たちが跋扈した、新時代を象徴するものだったろう。しかして一方は失恋し、一方は白血病で余命いくばくもないという描写は、まだまだ女は弱きもの、という当時の雰囲気を伝えるような気がしなくもないが。
だからこそか、男たちの単純な描写が妙に可愛く映るのは。はすっぱあけみはあちこちで騒動を起こしているらしく、パンパンだとバカにされたと、片田舎の厚化粧の娘二人が、ザ・チンピラを携えて報復にくる。偶然居合わせた隆三が普段は封印している腕っぷしで彼らを追っ払う。
後にこのチンピラと隆三がまたしても偶然出くわし(そんなに偶然はないと思う……)、彼らはあけみに逆恨みして襲おうとして、しかし彼女が倒れちゃって救急病院に運ばれた、という展開の後。
隆三からあけみの行方を知らないか、と聞かれて、思いっきり目が泳いで顔を見合わせて、知らないよ、なぁ、ってさ!それに対して隆三が間髪入れずに「知ってるな」爆笑!!これは、ウケを狙った訳じゃないの!!いやー……まるで隆三が慧眼で見抜いた、みたいな風に描いてるけど、みんな判るって!ギャグなの、どうなの、可笑しすぎる!!
作り手側がどこまで判っていたかはナゾだが、知らず知らずのうちに、女の強さがきちんと出ているというのはなんとも興味深いんだよなあ。
だって基本的には、本作はまだまだ男の義侠心、正義感、恋愛感情にしたって、いずれ死にゆく彼女に対してのストイック、プラトニック、チューどころか手のひとつも握らないという、しんっじられないほどの純愛なんだもの。
それに比して女側は、特に描かれることはないけど、どんなピンチにも度胸たっぷりのパンチガールズにせよ、努力の末売れっ子にのぼりつめてもあっさりオリオンプロに飛び込んできたキム・松村にせよ、それまでの過去をついつい、想像しちゃうじゃない??男は表面上に出る苦労なんだよね。まぁだから可愛いんだけど(爆)。
あんなふうに、夫に従い子に従い、裏切り者の元社員に重要書類を渡してしまってプロダクションをピンチに陥れるお母さんだって、実はそれにめげない強さを持っている。たおやかなるが故の、蘆のような強さ。事務仕事を引き受け、あけみの面倒を見、息子の彼女への想いにいち早く気づく……強き女性、なんである。
えーと、オリオンプロと新々プロの決定的なバトルシーンのあたりは、ちょいと眠くなっちゃってよく覚えていないが(爆)、ふと気づいたら、死にそうになってたはずのあけみが持ち直して、ハワイにいるというまぶたの母に会いに行くのに、彼女への愛を自覚した隆三が同行するシーン。
今は空港の通路から直結して乗り込むのが、まるで政治家かセレブみたいに、滑走路に置かれた飛行機に直接乗り込むのを、パンチガールズやキム・松村や隆三の母親が見送るという、時代やなぁ、というラスト。
正直、あけみが死ぬか、あけみの母親と再会するか、再会してあけみが死ぬか、というパターンを想像していたので、そのどれでもない、中途半端のような……未来への展望が持てないのに、なんか喜ばしいような……だってあけみが死ぬのは確実なんだからさ……何とも言えない結末にモヤモヤしつつである。まあ、殊更に悲劇にする必要はないのかなあ。★★★☆☆
てゆーか、もう本作は半世紀後の腐女子大興奮である。ああ、義兄弟、ああ「兄貴、いてえよ」ああ、「こうして(手を握り合っていると)心がピタッとくっついてるのが判るな」ああ、もうやばいやばい。違う妄想ばかり頭に浮かんでしまうっ。
それを、和風男気健さんと、洋風美少年谷隼人が目と目を見つめ合ってやっちゃうんだから、そしてラストには血だらけで、キャーーーッ!!
……うーむ、大興奮だが、しかし健さんはなかなか苦労するんである。この悪ガキどもを集めたボランティア施設の監督とでもいう役回りとして、もともと世話になった人に頼まれる形で関わるんである。その中の一人が谷隼人で、今は全然面影のない石橋蓮司とかもいて楽しい。
そもそもオープンニングがハデすぎる。悪ガキどもがどこから調達したかライフルで武装して、赤んぼ背負った女性を人質に警官隊とにらみ合っている。
そこにさすが健さん、まるで丸腰で近づいてって、しかしその腹には鉄板を仕込んでいて、とにかくその威風堂々で悪ガキたちを屈服させちゃうんである。
空撮も駆使したひどく派手なオープニングは一気に惹きつけ、そしてこの悪ガキどもは行くところがなく、そんな弱みをこの町の悪徳ヤクザに握られてこき使われているというのが示される。しかしヤクザの手先、というのが彼ら悪ガキにとっては勲章にもなっていて、こんな騒ぎを起こした、ってところなんである。
この悪ガキどもとつながっているペコと新坊というこれまた悪ガキが、健さん扮する橘に興味を持って近づいてくるところから始まる。ペコと新坊は悪徳ヤクザ、門間組の下でクラブを根城にガキたちを仕切っている衆木(もろき)に会わせる。この時には橘はガキどもの生意気なお出迎えにおかんむりで、ガキを使って何やってやがんだ、とツバを吐く勢い。
後から思えばこの台詞が、衆木にそのまま立ち返ってくることになるんである。衆木はガキどもを使い捨てにするような男じゃない。橘が手助けする施設とは全くベクトルは違うけれど、行き場のないガキたちの生きる目的を持たせている、という気持があったんじゃないかと思う。
ペコや新坊が橘を彼に引き合わせたのも、それだけの信頼できる人だということがあっての雰囲気があったし、なにより演じる川津祐介の品のあるたたずまいが、観客にそう信じさせてくれるのだ。
しかししばらく衆木のことは忘れている。だって腐女子大爆発だから(爆)。橘と施設の悪ガキたちとの攻防は、楽しすぎる上に、ウエストサイドストーリーまんま入れてくるハチャメチャさにワクワクしっぱなしである。谷隼人扮する武の、テロテロの赤いシャツの胸元が大きく開いた感じとか、まんまじゃん!!と思う。
エネルギーを持て余した悪ガキどもが、ギターをかき鳴らして汗飛び散らかして踊りまくるシーンにも心躍るし、それを「やかましい!」と“大人”である橘にジャマされて、ウエストサイドストーリーよろしく、指スナップで迫っていくあの感じ!!
橘、いやさ健さんはまっすぐな男の気性で悪ガキたちを組み伏せるような印象があるけれど、実はかなり考えられた教育的作戦だと思われる。
感情的になってあれこれ言うだけでは言うこと聞かない悪ガキだからこそ、タチが悪いのだ。橘は、厳しく叱りつけながらも巧みに、彼らがやっているガキっぽい抵抗がくだらないことだということを実地に示していくあたりが上手いんである。
教育者としてプロじゃないかと思われるやり方が散見されるが、それを、橘がまるで無意識のようにやっているみたいに見せる作劇の仕方、なんだよね。無意識じゃなかったら橘は金八先生になっちゃうもん。
すべての悪ガキたちがそれぞれの事情を抱えているのだろうが、その中の象徴として武がピックアップされる。母親が再婚した義父が飲んだくれのクズで、母親と弟に心を残しながらも彼は家を飛び出した。
施設から突然姿を消した先は、やはりその実家だった。ひょっとしてハジキを持っているかもしれないという仲間たちの噂に心配して武を探しに来た橘は、自分の境遇とあまりにも似ている武に、まっとうな道を進んでほしいと思った。
武は橘に子供っぽく反抗していたのに、追いかけてきてもらったのが嬉しいとはたから見ても判るように、追われて逃げても逃げきらないんだよね。
そこはなんか、なんだろう……川でもなく沼でもなく巨大な水はけの悪い水たまりみたいな、印象的な場所で、まるで逃げ場のないこの先の二人を象徴しているような場所なんだけど、その中を、泥で汚れるのもいとわず、武はあいまいに逃げ、追いつかれ、もともと心酔していたであろう橘にひれ伏す形で義兄弟の契りをかわす。まずここで腐女子大爆発である。
武はすっかり改心し、博多人形の工房に住み込みで就職することが決まる。衆木との話し合いもついた。盛り場に顔を出すなという条件だけならと安堵した武である。
この条件というのに、イヤな予感がした。衆木はもとより話の分かる男だというのは一見して判っていた。ただ……こんな条件が出される、というのは、作劇的にそれが後にイヤな展開になるという約束事のようなモンだからさ……。
その前に、施設の悪ガキ3人が悪徳ヤクザ、門間組に釣られてしまう。武の居所をリークした見返りという甘いエサは、未成年という立場を利用しての殺しの仕事の強要である。武はそれを拒否して、ひどいリンチに遭う。
もうこの時点で衆木はクソヤクザの門間組にうんざりし、盃を返す決意を固めるのだが、コトはそう簡単にはいかない。武を売った悪ガキたちは、門間組の幹部に甘い言葉で更に騙され、施設で働く春子の存在を知られ、春子は哀れ……レイプされてしまうんである。なぜ、なぜ。意味ないじゃん。商売に関係してる訳でもない。ただ、イイ女がいるんすよ、というのに興味本位で拉致して犯しただけみたいな!!
春子はこの施設で働くことで更生の道を目指していた。かつては街角に立っていた女だということを恥じて、橘に励まされたこともあった。
でも、こんな目に遭って、自分はもう本当に汚れてしまった、とふるさとの阿蘇の火口に身を投げようとしたところを、再び橘に救われる。人間のきれいか汚いかは、身体で決めるんじゃない、心だ。心がきれいなら、人間はきれいなんだ、と愚直なまでの表現で抱き留める橘にすがりついて、春子は泣いた。
春子はまだ、10代だったんだね。成人のお祝いを楽しみにしている、という台詞にかなり、ボーゼンとしてしまう。街に立っていた女というのが10代であり、さらにあんなヤクザのオッサンに暴行されたのが10代……そりゃあ阿蘇の火口に身を投げたくもなるかも……と改めてその痛ましさに胸がつまる。
しかし春子は橘に救われ、成人のお祝いを無事、施設の悪ガキたちに祝われるんである。ただ、そこに、もっとも祝ってほしかった相手はいない。
義兄弟の契りを交わした武、そして武をかばった衆木が死んだ。武の死に際には間に合い、腐女子鼻血ブーな血だらけ抱擁、兄貴、俺、約束守ったぜ……と息絶える。
息を引き取る前、施設長の鬼虎(アラカン)に二人、“手錠”だと指に巻かれた糸を橘はといてやろうとするが、「兄貴と一緒じゃなきゃ手錠はほどけねえ。いつでも一緒だって言ったろ。」てな台詞でこと切れるのにはまたしても鼻血ブーである。
谷隼人が、あのちょっと歯並びの悪い感じがまた悪ガキっぽく、薄い茶色の瞳がぱっちりと見開かれてる様とか、なんつーか、アンバランスな美しさで、マジキャーッ!となっちゃうんである。
川津祐介も美しい男だから、こっちとの腐女子大作戦も見たかったが(爆)まあそれは、贅沢贅沢。
てなわけでラストシークエンスはお決まりの、悪徳相手への斬り込みである。あ、衆木の奥さんもちょっと気の毒だった。彼女は純粋にダンナを愛してて、門間組のクズさにイマイチ気づいてなくて、武を売っちゃう張本人は彼女、なんだよね。
そのことを死ぬほど、それこそ死ぬほど後悔したろう。愛するダンナはその武をかばって死んでしまい、ようやく門間組、いや門間の親分がいかに、手下たちをゴミクズ以下にしか考えていないことに気づいたんだから。
ダンナを取り立ててもらうためにと、門間の親分に武を売ったのに。売ったという意識さえなかったかも。ただ居場所をリークするだけでダンナのためになると思った。それが……。
その衆木の奥さんに見守らせる形で、橘は思う存分門間組を襲う。どっから日本刀調達したの、とか言っちゃいけないかな。
そしてそれは、博多の祭りの真っ最中で、めっちゃ盛り上がる祭りと斬り合いがカットバックされる。
前半の悪ガキたちがギター演奏で踊りまくるシーンと呼応するような、なんかもう、トランス状態の祭りとトランス状態の斬り合いのカットバック。めちゃくちゃスゴイクライマックスである。
特に関係ない感じで、春子を探しに行く際に乗っけてもらうトラック運転手として登場する田中邦衛のハシャギっぷりがヒドすぎる。遊びすぎだろ!!でもこういうのが楽しいんだけどね。★★★☆☆
それにしてもこのどことなくの不思議さはなんだろう。表面的な物語だけなぞれば、売れっ子俳優だった男が転落、実家の稼業をついだが、彼を転落させた“親友”と再会することによって穏やかだった生活が侵食されて行く……といった、ちょっとした心理スリラーのようなものは効かせてあるもののそれほど変わった物語とは思わないのに。
なんだか、どこだか、妙なのだ。異質感、異物感。なんだろう、これは……。そしてそれこそが、本作を唯一無二たらしめているのだ。
物語は15年前から始まり、何度か今と行き来する。日出男は売れっ子俳優だった。風貌はゆるキャラみたいな小柄ぽっちゃり癒し系。なるほどこういうなつっこさを感じさせる個性派俳優が売れっ子として引っ張りだこになるって感じがリアルに感じさせる。
ヘタにイケメン俳優の方向にしないあたりがイイ。演じるアベラヒデノブ氏がまた絶妙で、芝居もいい。てゆーか、本作の役者さんたちは皆とても達者である。時々ピンクは特に女優さんにうわっと思うことがあるが、それもない。
ピンクだからキチンとセックスの割合はこなしているが、見事なまでにそれが、必要な要素として織り込まれている。
自身が売れっ子役者から転落した、しかし運命の相手であるセクシーな女占い師との溺れるようなセックス。妻に逃げられて堕落した老父が、オールドミス(これは死語かな……失礼)の経理社員に溺れているのを舌打ちしながら見ている様子。御曹司である自分ではなく、造形作家としての自分を尊敬し認めてくれる部下の女の子との、探り合いながらのドキドキの初セックス。
しかし最後に帰ってくるのは、やっぱり、「あなたは天狗」だと断定した女占い師とのめくるめく、夢のような、ひょっとしたら悪夢だったかもしれないセックスなのだ。
その女占い師を、日出男の親友だと自称してはばからない光司はブチ殺した。引きめの画だったけれど、なんか切り裂いた腹をかき回すような手つきをして、その血をどろりと顔に塗りたくって振り返った。
「お前のためにやったんだよ」腰が引けている日出男をまっすぐに見つめて。
この光司こそが本作の異質感、異物感そのものの人物であり、彼がいるからこそ物語が回り始める人物でもある。
彼は日出男の親友だと言い張るが、どー考えてもそうとは思われない。そもそも日出男がひどく嫌がっているし、単純に見た目だけ見ても、光司が日出男をいじめていたんじゃないかと即座に想像されるぐらいのそぐわなさ、なんである。
光司を演じる三浦知之氏は、ダイヤモンドユカイ氏を思わせるようなロック系細マッチョのイイ男。ゆるキャラ系のぽっちゃりボディがキュートな日出男とは正反対、いかにも女を泣かせてきたぜ系に見えるし、経理女子をさっそくくわえこむあたりは外見の通り!!と思っちゃう。
そう、光司は出所後、まんまと日出男の父が経営する自動車修理工場に就職する。てゆーかこの事件を起こしたことも日出男のためだと父親にすっかり思い込ませているんである。
日出男をボンボンだとどこかバカにしている社員を、闇夜にまぎれて鈍器で殴って昏倒させたり、日出男とイイ感じになっている女子社員になれなれしく接触してきたりする。口癖のように、「お前のためなんだよ」というたびに、あの振り返った血塗りの顔が思い浮かぶ。
日出男は気が気ではない。彼女は自分に間違いなく好意を寄せてくれていると確信しているし、幸福なセックスがその想いを強固にさせたけれど、光司は「お前のため」だといって女占い師をぶっ殺した男なのだ……。
日出男に近づいてくる男がいる。街角でポン引きをしている男だが、「お前ばかりが幸福に生活しやがって」と耳元でささやき、日出男はハッとする。部下の女子とラブラブになりながらも、日出男の心の片隅には自分のことを、天狗だと、世の中を変える男なのだと囁いたあの女占い師のことがこびりついて離れていない。
このポン引きの男は、“天狗”の座を日出男に奪われたことが明らかになる。日出男のことは殺したいほど憎んでいるけれど、本当に殺すべき相手はもちろん光司である。
つまり同志として不思議な出会いで二人は意気投合する。日出男が仮面の造形作家になっているという展開も面白い。日出男の行きつけのバーに常に展示されてあって、時にはいい値段で売れたりする。
自分の気に入りの仮面をつけてみたりしながら酒を飲むという趣向らしいこの店は、このダークな物語にとてもマッチしていて魅力的である。マスターが特に展開に関わらずに傍観している存在なのも素敵である。
ポン引きの男も光司に殺される。そしてあの運命の場所に光司は日出男を誘いだす。キチクなことに……日出男の愛する彼女を仕事を理由にして連れ出して。
その顔つきで、そしてポン引きの男を殺したのが光司以外にあり得ないと確信している日出男にとって、彼の目的は判りすぎるほどに判っているのだ。
なぜ、なぜ自分にそれほどに光司は執着するのか。自分に関わる人間を、その好悪の感情関係なくぶっ潰す、自分だけが日出男に必要な存在だと誇示するかのように薄笑いを浮かべながら!!
かつて女占い師と睦言をかわしていた廃倉庫、後ろ手に縛られた彼女は既にあられもない姿で、凌辱を受けまくっている。またしても光司はお前のためにやってるんだぜ、と言ってはばからない。お前のためとは言うけれど、なぜそれが日出男のためになるのかちっともわからない。
二人は幼なじみ。光司は懐かしいような口調で言う。親友だったのに、お前だけが抜け出て、売れっ子俳優なんかになって、浮かれて……。でも日出男の感覚は違う、全然違う。外見で判断は出来ないってのは判ってるけど、二人の外見の明らかな違いは、日出男こそがさえない子供時代から踏ん張って飛び出したことを判りやすく示し、光司はバカにしていた日出男にだしぬかれたという逆恨みである。
いや……そんな単純なことではない。この執着は、光司は……ホントに、そういうリアルさで、日出男のことが好きだった、いや好きなんじゃないのか。あんなに女にモテそうな、細マッチョなちょいやさぐれなイイ男、女に苦労なんかしなさそうということは、裏返して言えば……。
だっていつもいつも、「お前のために」と言っていた。日出男からすれば、それは光司のプライドの高さからくる押し付けであり、ずっとずっとそれを相手に言えなかったのを、もう殺すか殺されるか、っていう状況になって、血を吐くようにぶちまけるのだ。いつもお前はそうだ、俺に押し付けるな!!そう言って……。
こんなにも外見がハッキリと違う二人だけれど、この時ふっと、まるで合わせ鏡のようだと、実はひどく似ているんじゃないかという思いが降ってきた。日出男はそこから抜け出した。だから光司は嫉妬した。それだけで、それが反転する現実だってあったんじゃないかと。
それぐらい、その方が現実的だと思うぐらい、光司はイイ男で、周囲をだまくらかせるぐらいの器量とふるまいを持っていたし。むしろ日出男の方がめっちゃ不器用で、社員からもナメられていたし、だからただ一人、判ってくれてる彼女がよりどころで、彼女をとられると思って、焦って……。
物語の冒頭がね、ラストな訳。最初に示しておいて、なぜそうなったか、ってことになって、返ってくる王道のパターンなんだけど、日出男は光司を(ポン引きの男が持っていた)拳銃で射殺、日出男の方はというと……その前に光司にこの拳銃でなぶるように急所を外して撃たれているけれど死因は窒息死である。
愛する彼女にまたがってもらって、愛する彼女の秘所をなめながら、彼は幸せいっぱいの顔で、窒息死したんである。ああ……。まさにそれが、女占い師に教えてもらった性愛の極地であり、もしかしたら彼女は、それを知ってて、ちょっとした嫉妬心もあって日出男の息を止めた?いや……。銃創で結構瀕死になっていたし、どうなんだろう……。
通報した彼女は、全裸のまま膝をかかえ震えている。私が彼を窒息して殺したんだと刑事に告白するんである。榊英雄扮する刑事は自分の上着を着せかけてやって彼女を署に同行させるべく連れて行く。
彼女は空を仰ぎ見る。そこには……雲が龍の姿になっている。彼が天狗、そして女占い師が龍だと言っていたと思ったが……。これはどういうことなのかなあ。龍が日出男、そしてポン引きの男も連れて行ってしまったのか。
このラストが、彼女のお尻で窒息した日出男の幸せそうな死に顔がオープニングで示されるから、てっきり尻フェチ男の哀れな末路みたいな、彼のゆるキャラ的な外見も含めコミカルな物語を想像していたら……全然違った。
愛憎という名の哀しさと不気味な異物感が魅力の見たことのない雰囲気の作品。★★★★☆
劇中も2020年。そしてコロナで激動であったこの時期。主人公の佳子さんがマスクをつけてきたら「風邪?」「花粉症なの」だなんて会話は、本来ならばあり得ないのだ。
だからちょっと、やっちまったかな、という気がした。2001年に宇宙の旅は結局は出来ていないようなものだ。そして2020年から先、コロナと共に社会生活は営まれて行くのだから、と思ったんだけど、脚本を書いたじろう氏が、「佳子さんは今どう生きているだろう」と新しい公開日が決まった後にコメントしているのを見て、はっとした。
確かにこの2020年はあり得ない世界、なんだけど、この中の佳子さんは彼女の人生を生きていて、そして今も、このコロナ禍の中で天使のような若林ちゃんや、ぐっと年下の恋人、岡本君と、いい距離を保ちながら生活しているのだ。
パラレルワールドじゃないけど、このスクリーンの中の2020年もまた一方できっとあった世界なのだ。……書いててなんかよく判んなくなっちゃったけど、上手く言えないけど。
ところで佳子さんは派遣社員だったのか。オフィシャルサイトの解説にそうあったが、劇中でそんなことを言っていただろうか。正直、彼女が具体的にどういう仕事をしているのか判然としない。
後輩の若林ちゃん含めてフロアに4、5人が机を詰めて仕事をしている。どうやらここはひとつの部署で、このオフィスビルに様々な部署があって、後に出会う岡本君は他の部署の社員、ということになるらしい。
もう40代に突入してしばらく経っていると思われる佳子さんと後輩の若林ちゃんの関係は、やたらなつっこく距離を詰めてくる若林ちゃんを見てると、ずっと前からの仲良し同士のように錯覚しそうになる。
でも、佳子さんの方はなんでこんなに好かれているんだろ、というような腰の引け気味だし、佳子さんの誕生日が昨日だったことを知ってぶんむくれる若林ちゃんとか、出会いから時間がそれほど経過してないであろうことが、確かに示唆されていることに後から気づくんである。
そして佳子さんの住むアパートは、そう、アパートという感じだ……マンションというより。
その部屋の中は妙齢の女子らしくいい感じの生活味と大人女子的甘味のバランスがほどよく存在していて、とても感じのいいものだけれど、途端に思いついてベッドを買うまではなんと布団生活を送っていたりもして、なんというか、つつましやかである。
これもまた……現代社会の派遣生活、ということを描写しているのかなあと思ったり。
でも、ちょっとリアル40代独女としては、美しすぎる生活な気は、したんだよね。いやその、恐らくそれにはヘンケンがあるに違いないと自分でも判ってる。男性であるじろう氏が書く脚本は、女性の描写が繊細ではあるけれど、やはりどこか女性を神聖視しているというか、独身女の毒の部分が見えていない感じがどうしても、しちゃう。お酒の好みはそれぞれあると思うけど、あんなオシャレにキッチンでよく名前の判らない“甘いお酒でうがい”するかなあとか思っちゃう。
ほぼほぼキッチンドランカーと思われるほどの酒飲み描写なんだけど、洋酒を基本に飲み方も慎ましく、ボジョレーヌーボーに心躍らせたりする乙女心を見せる。一応、何が解禁だよ、とか毒づかせるけれど、別に特に美味しい訳でもないボジョレーに40女は心躍らせないと思うのは、私がすっかり汚れ切ってしまったせいなのかしらん……。
本作は全編、佳子のモノローグによって進んでいく。そもそものコンセプトが、彼女がつけている、「誰にも読ませないし、自分で読み返すこともない、ただ書いているだけの日記」だという。
そもそもこの佳子というキャラクターが、脚本のじろう氏が長年コントで演じてきた女性だという。……どう想像したらいいものか。つまりこのオシャレ系派遣酒飲み40独女が、笑いをもって演じられていたということなのか。想像できない。
こと本作に関しては、佳子のモノローグはひたすら心地よい。どこか世間知らずで乙女で、年下の男の子を「すぐ好きになっちゃう」と自己嫌悪したりする一方で、それなりに恋愛経験は重ねていて、時にはバーで隣り合わせたおじさまと一夜を共にするなんてオトナな一面も見せる。
駅のホームで「母親に似た後ろ姿」を見つけて老母をなつかしんだり、字の大きいらくらくホンと思しき携帯で、一生懸命メールを打っている高齢の女性の姿にうっかり涙ぐんだりする。
不条理な夢の中にはお父さんが出てきたりするが、「お母さんも出てくれば良かったのに」という台詞が付与されるあたり、彼女のお母さんへの思慕は絶大と思われる。
これもね……むしろ女性は母親に関してはこんなまっすぐな思慕よりも、アンビバレンツな複雑さを持つ方が多いと思うよ。この感覚はハッキリ、息子が母親に持つ思慕だと思う。どうしても、男性が脚本書いてるんだよなあと思っちゃうんだよなあ。
でもでも、本作でとにかく素敵、素晴らしかったのは、後輩の若林ちゃんである。演じる黒木華嬢が可愛すぎる。そらまあ彼女が可愛いのは元から判っていることなのだが、こんな、ザ・カワイイ黒木華を設計図に従って、だなんて、こらー、じろう氏か、あるいは監督かが彼女が好きすぎるからに違いない。
あーもう、こーゆー後輩欲しい。売ってるなら買う。この距離のつめ方、親愛の示し方、時々しでかすドジ、なんなん!
ああでも、これまた、めっちゃ偏見なんだけど(爆)、送り先を間違ってメール送る感じとか、椅子の上で体操して一回転してひっくり返るとか、ちょっと間違うとかわい子ぶってるとか、あざといとか同性から思われる一歩手前の描写で、それは黒木華嬢が振り切って、リアルさよりもワザとらしさを強調してやり切っているから、乗り切れたのかもしれんなあ、と思ったり。
だってじろう氏、若林ちゃんにすっかりホレ込んで書いてるでしょ、と判っちゃうもん。そしてそれに応えてまー黒木華嬢のカワイイこと!!
なんで誕生日教えてくれなかったんですか!!と先輩にぶんむくれてずずずとそばをすする、佳子と岡本君との仲を取り持って、付き合いだしたことを知った時にうれし涙をうちわで乾かそうとする、することなすこと可愛くて仕方なく、優しさに満ち溢れ、佳子が「この子は天使の生まれ変わり」だとモノローグするのもうなづけるかわゆさなんである。
凡百の物語なら、そもそも年恰好は若林ちゃんと彼女の大学の後輩である岡本君の方がハッキリ合っている訳だが、最初から若林ちゃんは大好きな先輩の佳子さんに岡本君をめあわせようとするんである。
……若林ちゃんがあまりにも天使で、例えば若林ちゃんの方に彼氏さんがいるとかいう描写があるんだったら、すんなりこの親切を観客も受け入れられるんだけれど、ちょっとそのあたりは、観客に疑念を抱かせちゃうかなあという気がする。
確かに、若林ちゃんのような、天使な女の子は理想だ。めっちゃチャーミングだし、こんな後輩、マジで売ってるなら買いたいぐらい。
それぐらい、なんていうのかな……彼女は佳子さんのために存在しているようなキャラで、凄く可愛いし、素敵なんだけど、ヴィヴィッドで、見てて飽きない女の子なんだけど、……ちょっと佳子さんにとって都合がよすぎるというか、若林ちゃんの人生が全然見えてこない、ペット的というか、ぬいぐるみみたいな感じは、したかなあ。
二回り近い年下男子との恋愛は、そらまあ基本的には恋愛に年齢は関係ないと私は思ってるけど、佳子さん、そして岡本君も、ビックリするぐらいそのこと気にしないんだな、と思って……。私の方が古い感覚なのかな(爆)。むしろこの年の差をなぜ設定したんだろうと思うほど、それに関しては障害がないのねと思う方が、やっぱり考え方が古いんだろうか(爆爆)。
確かに、古いのかもしれない。ただ普通の恋愛として、ほんのタイミングで会えない期間が長引いたことにやきもきしたり、ほんっとうに、普通の恋愛の悩み。
……やっぱりさあ、同じ40代独身女子としてはさ、二回り、ってことは、20代なんだろう男子、可愛いと思っちゃう訳さ。お肌もぴちぴちで。
松雪泰子さまはとっても美しく、お肌も美しい、女優さんだから同じ40女子である私らと比べたらいけないぐらい美しいけど、やっぱりぴちぴち20代男子と並ぶと、やっぱりやっぱり……お母さんに見えちゃうんだよ。
それがね、それが……すごく、哀しかった。恐らく作り手、そして演じ手はそんな意図はないだろうし、これは日本的な良くない価値観だと判っちゃいるんだけど、でもまだまだそういう価値観ははびこっているし、その年齢差になんで全く悩まないのと思っちゃうのは、そういう厳然とある社会的価値観を無視していることだと思うからさ……。フランスとかならいいんだろうけど(爆)。
そして佳子さんのファッションも、凄くファッショナブルで素敵だと思うけど、40代突入して厳しくなる派遣社員生活で、こんなとっかえひっかえ女子力高いファッション、そして靴にもこだわれるのかあ……と思っちゃうのは……職種も全く違い、技能もないこちとらがけんつく思うべきではないんだろうけれど。
正直な印象でいえば、佳子さんは一見して孤独そうに見えるけど、こんな恵まれてる人、いないよ。一人でバーで飲む金銭的余裕もある。連絡が欲しい人から来なくて欲しくない人から来るとか、どんだけモテてんのかと思う。
飲み過ぎて仕事に遅刻しても、後輩からの心配着信68件だけで済んじゃう。……派遣社員なんだよね?これだけで首切られそうなもんだが……。
そしてちょいちょい顔を出す、ムダに恥ずかしがる乙女描写は、ないないない、40超えて心の中でハズいと思っても、演技できるのが40超えた独身女でしょ!!
ちょっと、甘えた感じに終始感じちゃったのが、共感しきれなかった原因だと思われる。子供っぽすぎると思っちゃったんだよね。自転車を違法駐車何度もして、落ち込むとかあり得ないでしょと思っちゃう。法令は守りなさいよと。
本作の収穫は、めっちゃカワイイ、金出して買いたい黒木華嬢であった。まさに佳子さんが言うように、天使。つまりあり得ない存在であり、作品自体も……かな。★★☆☆☆
ところで何度か言及されるのだが、悠山は柔術家であり、渡は柔道家である。柔術が伝統であるのに対して、柔道は新しき道のような、劇中ではそんなイメージで語られる。
悠山は年齢のこともあるが、警察署の師範としては新しき実践的な柔道を、しかも若く力のある人に指導してほしいと思い、勇退したんであるが、そこを悠山の一番弟子である辻堂は逆にとらえる。師匠は老いぼれて力がなくなったから辞めさせられた、柔道なんて新興ものに柔術家が負けるわけはないと。
この辻堂という男はなんたって悠山の一番弟子なのだから力はあるのだが、自信過剰で人を見下すクズ男で、だからこそ悠山は彼に警察署師範の後継をしなかったし、この道場を任せるつもりもないのはそういう人間性の部分だということをぜんっぜん判ってないヤツなんである。
そして秋子に横恋慕していた彼は彼女にソデにされたことですっかりひねくれまがり、愛人である料理屋の女将の元に入り浸って昼日中から酒浸り。冒頭は清水道場が水兵たちに道場破りの憂き目にあっているのに、すっかり酔いつぶれて寝ているんである。
水兵たちが、いわば実践の、ケンカ殺法で道場破りに乗り込んでくる。道場の門下生たちが片端からバッタバッタと投げられてしまうところにも、確かに柔術の、実践の弱さはハッキリと見て取れる。正直ここに辻堂がいたとしたって、水兵たちに勝てたかどうかは判らないのだ。
渡は乗りかかった舟で飛び込み、水兵たちを軒並み蹴散らして道場の窮地を救うのだが、考えてみれば、その後道場に門下生たちが汗を流している風景は、ないんである。まぁ、次々に事件が起こるからそれどころじゃないというのも確かにあるんだけど、柔術が実践にそぐわないといって消えていった時代なのかとか思ったりする。
しかし渡は悠山の武道家としての高潔な人格を即座に見て取って敬っているし、悠山の方も一目見て渡に惚れ込んで、柔術から新時代の柔道に手渡されて行く様を目を細めて見ている感じなんである。
その最たるシーンは、柔術が柔道に負かされることを、その身をもって体験したいと、渡と組み合うシーンであり、渡が遠慮して投げられ、参りましたというと、烈火のごとく怒るのだ。
「なぜわざと負けなさる。それでこの老人が喜ぶとでも思っているのか」「乱暴者の水兵たちに破られるより、あんたにやぶられたいと思ったんだ。一目であんたが気に入ったんだよ」と。
破られる、というのは、道場という意味以上に、柔術そのものであったんじゃないかと、ひしひしと感じられるのだ。
てゆー、深い話をそっちのけで、物語はかなりアグレッシブに動く。なんたって嫉妬深い辻堂である。師匠には破門にされ、横恋慕していた秋子は渡になびき、もう、渡が憎くて憎くてたまらない。柔術対柔道ということ以上に、彼を倒さずにはいられない、というのを、最初の内は武道家として、みたいなコトを言ってたのに段々、そのしょーもない愚かな自尊心をあらわにしてくる。
同じく渡を憎んでいる水兵たちを子飼いにしてケンカを仕掛けたもんだから、渡の方が憲兵ににらまれて「教師のくせに帝国軍人とケンカしたのか!!」とかってビンタ(!!)されちゃって、投獄されてしまう。
渡は神聖なる武道をケンカにつかって世間を騒がせてしまったことを悔いて、悠山に師範職を返して、修行しなおすといって東京に行ってしまうんである。ケッペキ過ぎる。
「もともと警官と憲兵は犬猿の仲なんだから」と警察署長は必死に引き留めるが、渡は聞かない。悠山に挨拶をしたら引きとめられるからと、秋子も知らぬ間に下田を出てしまうのだ。
そして、舞台が東京に移る。昔の映画は尺が短いからありえない偶然がいっぱい起こるが(爆)、さっそく、渡を追いかけた秋子と、そして辻堂が早々に再会する。
しかもそれが、にっくき渡を追いかけてきた辻堂と辻堂の愛人の兄ちゃん(あ、言い忘れた。後述)が寄宿している武闘派団体のシゴトで、有力政治家の娘が乗っている馬車を襲撃したところを居合わせた渡が助け、その有力政治家の家で女中働きをしていたのが秋子だとゆー、そんな都合のいい話あるかーい!!とゆー、まあ……往時の映画あるあるだわね。
このお嬢様がイイ味出しててさ。いかにもおしゃまな世間知らずのお嬢様で、自分を助けてくれた屈強な渡にホレちゃって、私のお婿さんに!!て鼻息も荒い訳。
単なる女中として仕えている秋子は気が気ではなく、お嬢様から、渡様にはお好きな女性はいないのか聞いてと命じられて二重の意味で追い詰められて、そして聞く、聞いちゃう!!
「好きな人はいます」そうきっぱり答えた彼に背を向けた彼女、「それはあなたです」キャー!!キャー!!!!いやいや、秋子さん、それを予期していた訳じゃなかったの??まあそりゃ、そんなむつみごとがあった訳じゃないけれど……。そして……ここは時代よねぇ。その言葉だけで幸せだと書き残して、彼女は下田に帰ってしまう。
だってなんたってお嬢様に懸想されて、政治家の道だって約束されてて、武道家としても講道館の師範にならないかと誘われてるぐらいの前途洋々だもの。確かに当時の女子なら、それだけで幸せと、身を引いちゃうのかあ。
でも思いがけず、その当のお嬢さんが意外にイイ子で、「私ちゃんと知ってるの。だって圭子、もう大人よ。お秋を幸せにしてあげてね」と送り出すっつーんだから、泣かせるじゃないの!!
……で、だいーぶ言い忘れたが、渡を追ってきた辻堂と彼の愛人のお兄ちゃんね。このお兄ちゃんが琉球空手の使い手という設定なのだが、喋っている言葉はどー聞いても博多なまり。まあいいんだけど……。
このお兄ちゃんのキャラ設定というか立ち位置というか、なんかあまりにもランボーに放り込まれた感強しなのよね。そもそも中盤に急に入ってくる。喧嘩っ早くて破門されて、琉球を追われて妹の元に転がり込んだとか、ランボーな設定。柔術対柔道じゃ判りにくいから、ハッキリ違いが判る空手をぶっこんだのかなあと思うぐらいのザツさ。
「相手の身体をつかまなきゃワザがかけられない」柔術や柔道に対して、空手の有用性を語るのはナルホドと思わせるのだが、しっかり実践でそれを見せるのはラストもラスト、渡との一騎打ちなのだけれど、柔術対柔道は確かにその違いは判りにくかったものの、力の違いはしっかり判ったのに対して、判りづらい……てか、カットばっかり割って、全然リアル実践じゃない……。
あ、そのシーンはラストシーンだった。その前にひとつのクライマックスで、辻堂とこのお兄ちゃんが、寄宿している政治団体の手先となって渡を暗殺せんとするシーンがあって。
渡は彼らの襲撃に、「国民の名を語って時勢に便乗した辻斬りに用はない」と憤然と立ち向かうんだけど、多勢に無勢、川の中に転落した渡に拳銃をぶっぱなし、この場面で彼らは、もう渡を亡き者にしたと思い込んでいたのね。
で、舞台は再び下田に移り、清水道場を乗っ取るために老体の悠山を半死半生なまでに叩きのめした極悪非道の辻堂、そこへ帰ってきた渡、もう許せない!!と、それまでは人をむやみに憎みたくなかった渡が、恐らく初めて、人を憎んだ。コイツだけは、葬りたいと、思った。
「君のような男が武道を口にすることが、僕には我慢ならなくなった」この言葉が、すべてを物語ってる。
だから、とばっちりはお兄ちゃん、なのよね。なぜか博多弁の気のいい琉球お兄ちゃんは、妹かわゆしなだけ、なんだもの(そうか、妹も可哀想か……てか、あんな男に本気でホレていたってあたりが……)。
辻堂が妹のダンナだというからこそ彼を信頼し、加勢し、だからこそ渡を敵とみなしていたのに、この最後の決闘、先に辻堂がボロボロにやられる。次はわしじゃ!!と立ち向かうお兄ちゃん。ボロボロにやられる。
そこへ秋子が駆けつける。渡に駆け寄る彼女に、画面から見切れて、次第に近寄る、まるで貞子みたいに(爆)、ひん死の状態でも欲望ありありではいずりよる辻堂は、秋子の帯の端をひたとつかんで、あーれーとばかりに離さない。鬼畜、鬼畜!!
それをお兄ちゃんが見ちゃう。お兄ちゃんは妹が、辻堂が秋子に心を残しているんじゃないかと心配していることを知っていたから、やっぱりそうだったかと頭に血が上ったどころじゃなく沸騰する。そうなりゃもう相手は渡じゃないんである。
てか、渡には双方ボッコボコにされていて、同じくひん死の状態で取っ組み合うもんだから、そしてじりじりと崖に近づくもんだから!!やめろ!と必死に声をかける渡も傷だらけだから容易に動けず、あわれ(なのはお兄ちゃんだけだが)二人は取っ組み合ったままがけ下に転落……マジか……。
そして、渡さん!!と近づく秋子と共にこの修羅場を去っていくシーンでエンドとゆーのもまあなっかなか、ランボーだけど。
それにしても香川京子がシワが足されただけでまったく今と変わらず、本当にそのまんまの可愛らしさで年を重ねたことに驚愕する。こういう人って、いるんだな……。
★★★★☆
そう、だってさ、城定監督がまったき商業映画でザ・青春モノを撮るなんてそれこそ思わなかった。そらまあ様々なジャンルや製作形態を縦横無尽に精力的に行き来しているお人ではあるけれど、こんな王道の青春映画は……初、じゃない?いや、ピンクやVシネの中でそういうジャンルはあったかもしれんが、まったき、商業映画の、青春映画とは!
しかもこれが、ひどく珍しい企画なのだ。もともとは高校演劇で作られた戯曲で、全国大会で最優秀をとったものなのだという。てことは、高校生が書いたということだろーか?そのあたりはちょっと探るも定かではないが……。
舞台作品を映画化する、というのはまあよくある流れだが、高校演劇、もしかしたら高校生が書いたものを映画化する、というのは聞いたことがない。しかも舞台はアルプススタンド(プラス、そこからちょっと離れたバックヤードぐらい)のみであるという特殊さ。
実はこの経緯を全く知らずに、いつものよーに城定作品だからとゆーだけでのこのこ出かけた私は、観終わった後に、あれ、そういえばマジでアルプススタンドだけだった。試合の様子を一切見せなかったのに、まるで一試合丸々見たような気持ちになったことに衝撃を覚える。
しかもその試合ではなく、本作が描くのは、ここで活躍している選手たちのようにはなれなかった演劇部、元野球部、帰宅部のメンメンであり、そして出場している野球部だって県立高校が奇跡の出場を果たして、いきなり甲子園常連校に当たって、最初からあきらめムードなのだ……。
まず、演劇部の二人である。あすはとひかる。甲子園というだけで強制的に応援に連れ出されて、野球部だけ特別扱いだよね!とぶーたれるあすはと彼女になんか気を使っている風のひかるはそれでも、いかにも仲良さげである。
アルプススタンドのはじっこで試合運びが理解できず、とんちんかんなこと言い合っている様が、野球部特別扱い発言と共に文化部あるあるという感じで楽しい。
でも、この時点ではまだ、彼女たちが演劇部であることや、とある大きな出来事を経験していることは明かされない。
そしてはじっこチームに加わるのが、甲子園出場の原動力になったスター投手の園田に勝てずに退部してしまった藤野君と、勉強だけが取り柄でずっとトップだったのに、吹奏楽部部長でしかも園田の彼女であるキラキラ女子に抜かれてしまった帰宅部の宮下さんが加わるんである。
物語の冒頭は、呆然と立ち尽くしたあすはを顔の見えない先生がしょうがない、となだめている画だった。その説明もされずに、ダルダルな応援シーンに突入するから一瞬のあれ?な感覚を残しつつも、そのシーンをしばらく忘れている。
しかし、「実は私たち演劇部も関東大会まで行ったんだよ」とアルプススタンドのはじっこチームになってなんとなく言葉を交わしだした藤野君にあすはは話し始めるんである。「正確には出られなかったんだけどね。部員の中にインフルエンザが出て」その発症者がひかるだということは、かなり後になって示されるんである。
演劇の大会に関しては、地方大会と全国大会は年度をまたぐから、今から頑張って全国に行けたとしても、自分たち3年生は出られない。つまり前回が最後のチャンスだったという訳で、その奇妙なからくりに藤野君はへぇ?と首を傾げつつも、でも関東まで行ったんなら今年もやればいいじゃん、といった気楽なスタンスである。
ひかるとの関係がまだ見えていないし、野球部でスター選手に潰された自分にとっては、文化部のその感じはイマイチピンときてないのかもしれない。
そして藤野君はベンチウォーマーである矢野君をくさしだす。あいつはヘタクソなくせに、試合にも出られないくせに、いまだに野球部に居続けていると。後々判るのだ。それが羨望であったことを。矢野君は純粋に野球が好きで、試合に出られるとかそんなんじゃなくて、努力さえも楽しい、そんな男の子だったのだろう。
藤野君もあすはもひかるも、そうなれたらどんなにいいだろうと、心のどこかで思っていたに違いない、誰かの、何かのせいにしていたことを、じわじわと思い知らされるのだ。
そして、宮下さんである。内向的で、だからこそ勉強だけを頑張ってきた。ウザい熱血新任教師、厚木先生に「友達いなきゃダメなんですか??」と食ってかかる彼女の気持ち、めっちゃ判る……。友達いなきゃダメなんてことはない。それは絶対そう言いたい。ムリに作ろうとか、グループに入る必要はない。
でも……今彼女は、魂が響き合う仲間に出会ってしまったのだ。そして忌み嫌う正反対のキャラの女の子の苦悩も知ってしまったのだ。そういう意味では宮下さんが私の心に一番、響いた。
「友達いなきゃダメなんですか?」が、高校一年生の私を思い出させたからかもしれない。先生に声をかけられて逆にみじめになるところも、めっちゃ思い出させた。私はその場所から親の転勤による転校という形で奇跡的に抜け出せて、まさに今につながる友達に出会うことが出来た。
でも大抵は、今いる場所で自分の居場所を見つけなければいけない。宮下さんが授業でペアになってくれたあすはのことを凄く嬉しかったのに話しかけられなかったこと、あすはの方も出来のいい宮下さんに話の接ぎ穂がなかったこと、そんなすれ違いが過去エピソードとして語られ、今ここに、アルプススタンドのはじっこで、運命の友情をつないでいることに心震えるのだ。
そしてそれをつなぐのが、あすはと気まずいままでいるひかるということも大きい。ひかるは、凄く人の心が判っちゃう女の子なのだと思う。
インフルエンザのエピソードのみならず、吹奏楽部部長の久住さんがエースピッチャーの園田君と付き合っていることをうっかり口を滑らして、慌てて否定しまくるとか、宮下さんの過呼吸にいち早く気づいて心配しまくったり、宮下さんと久住さんの一触即発に遭遇しちゃって、アワアワしちゃうとか、なんか可愛らしくて、優しくて、こんな友達欲しいと思っちゃう。
そういう意味で言えば、ひかる以外の、あすはも藤田君も宮下さんも久住さんも、当然苦しんではいるんだけれど、それは自分自身の苦しみで、ひかるだけが、他人に迷惑をかけてしまった、他人を傷つけてしまった。そしてその他人は……大好きな友達だったという経験が、大きく違ったのだと思う。
だからこそひかるが、ひかるこそが爆発したのだ。声を出せと、あのウザい新任厚木先生が、血を吐きながら、はじっこチームがだるだるしているのにかまいまくってきた。ウザかった。ほっといてほしかった。だって自分たちはグラウンドでキラキラ光っている選手たちとは違うんだから。
でも、と言う。ひかるが言う。あのスター投手園田君も甲子園常連校の凄い選手たちと闘っている。苦しんでいる。打たれる恐怖と闘っている。スタンドにいる自分たちの声なんて届かないとダルダルしているのはいかにも今風の高校生という感じだったし、最初はいかにもそう見えていたけれど、次第に彼らの苦悩が浮き彫りになってくると、そのダルダルが、自分を防御する、鎧だということがだんだん判ってきちゃうのだ。
そして、それをいち早く自覚して、だってずっとその鎧を、ここに来る前からかぶり続けてきたひかるだから、もう!!という感じで脱ぎ捨てるのだ。なんたって演劇部だから、厚木先生みたいに喉を傷めたりしない。腹から声を出して、ひそかに想いを寄せていた園田君を応援するのだ!!
宮下さんも、つられる。つられる、というか、園田君が好き、という気持を、ひかるにあばかれて、まさにつられてしまう。
そのあばかれかたが、イイのだ。「私も園田君、割と好きなんだ!」ひかるのこの言い方、宮下さんの気持ちを釣り出すためのワザとだったのか、定かではない。でもここから一気に二人の距離も縮まるし、そもそも宮下さんがあすはに対して持っていたひそかな感謝というか友情めいた気持ちを、あすはの友達であるひかるが、どこか誇らしげに思って、すくいあげたようなところがあったんじゃないのかなあ。
そして、キラキラ女子で勝ち組としか思っていなかった久住さんとの衝突も大きかった。久住さんの言い放った、「真ん中は真ん中で辛いんだよ」という台詞は、はじっこチームには思いも及ばぬものではあるんだけれど、久住さんも宮下さんと同じく、「友達いなきゃダメなんですか?」という気持があったんじゃないかと思って……。
真ん中、である。成績もよく、部活のキャプテン、信頼も篤い。でも……友達はいないんじゃないかという感じがある。とりまきはいる。それは久住さんにくっついていればとりあえずOKという感じの、宮下さんを嘲弄するようなことを言う、そんな下賤なヤカラである。
それは意外に、久住さんのこともどこか見下しているような感がある。自分が守られる軒先でしかないのだ。友達じゃない。
久住さんがそれを判ってて、崇め奉られているようで実はそうじゃないこと、判ってて、それを最後、勇気を振り絞って爆発させるシーンに心打たれる。声出して、もっと声出るでしょ!!それは……あのウザい厚木先生と同じ台詞ではないか。
声を出す。そんなシンプルなことが、これ以上ない気持ちの振り絞りなのだ。演劇部、なんだもの。あすはもひかるも。ひかるがあすはに、大会に出よう、全国出られなくてもいい、あすはと一緒に舞台に立ちたい、それだけ、と言うシーンに涙がこぼれた。
これは愛の告白だよ。結果を残したいとか、そんなんじゃない。同志として、やりたいことが一緒の仲間として、一緒にやりたい。そして演劇が好きだから。それだけだと。
藤野君はベンチウォーマーの矢野君をバカにしてた。いや、つまり、恐れていた。ただ野球が好きだという気持で続けていられる彼に。矢野君がピンチヒッターで出た。送りバントの役目。そのことにまだ藤野君は冷ややかな目を必死に向けていた。
でも送りバントは成功した。劣勢だった試合が、もしかしたらの空気を漂わせ始めた。はじっこチームのみならず、停滞していた応援がにわかに盛り上がり始める。
ここまでははじっこダルダル雰囲気でシニカルに見せていたのが一気に盛り上がり始める。試合は、グラウンドは、一切見せないのに、まるで目の前に熱戦が繰り広げられているように彼らと共に心の中で大声援を送る。この四人は、この試合、しかも五回表から人生が変わったのだ。
社会人となった彼らの再会が、これまたアルプススタンドのみで描かれるのが心憎い。なんとあの矢野君がプロ野球選手になり、その試合を見に来たというスタンスなんである。
高校生の時から宮下さんをこっそり想っていた藤野君が、彼女とイイ雰囲気なのが嬉しいし、藤野君から園田君が社会人野球をやっていることを知らされ、藤野君は野球道具メーカーに就職してたり、あすはは教員となって演劇を教えていたり、もう心キュンキュンなその後まくりなのだ。
厚木先生は本当は野球部の顧問になりたかったのが、茶道部の顧問になって、でもめちゃくちゃ努力して、なんと全国大会に行ったんだというエピソードもここで語られ、心ぽっかぽかになる。
アルプススタンドのはしの方、だけで、試合も一切見せずに、高校生活のキラキラと苦悩、そしてその後の人生のスタートを見事に見せた。この戯曲が舞台に乗っているのは容易に想像できる。でもこれは、まさに映画であり、映画の中に人生が広がっているのが本当に嬉しい。
★★★★☆
前後編に別れてて、このキャストの配置ということは、後編は北村君が未來氏の相手となってくることはラストクレジット後の予告めいたワンシーンがなくても知れるが、前編の相手役となる勝地君に圧倒される。彼のこんな凄まじい芝居は観たことなかった。
いや、芝居っつーか、なんつーか……。使い古された言い方だけれど、肉体から何からその人になって、そこにいるのだ。それは未來氏も同じ。
ああだからボクシング映画は……ボクサーになるしかないから、もうその身体、そのフットワーク、その精神になるしかないから……殺し合いと言ってもいい殴り合いをするための人間にならなければいけないから、勝地君も未來氏も、そして後編では北村君も、私を打ちのめしてくれるのだろう。
勝地君はお寒いギャグを連発してはスベりまくる、冴えない芸人役。芸人としてひょうきんにふるまっている時の彼こそが、私にとっての見覚えのある勝地君、なのだが、そのままそっくりに見えるのだが、でもとても寂しい。とても空しい。
それはスベりまくっているからではなくて、彼はきっと本当はこんなことやりたくなくて、でもこうして生きて行くしかないから、という寂しさ虚しさが、透けて見えるのだ。なぜなのか、判らなかった。
彼が帰っていくマンションが超豪華で、勝手にとりまきが入り込んで夜な夜なパーティーやってて、部屋の持ち主の筈の宮木(勝地君)の居場所がなくなるという異常事態。
宮木の父親が大物俳優で、彼はカッスカスの二世タレントに過ぎず、だから軽んじられているのだということが判ってくる。
ボクシングのプロテストに挑戦して、プロ相手に試合をする、という企画にも、表情はアホっぽく軽薄にノリでやっているように見えた。周りではやしたてている芸人たちもいかにもな感じ。バラエティ番組で見ている感じ。
でも宮木は本気だった。ボクシングにのめりこんだのか、はたまた自分が自分だと見せるにはこのきっかけしかないと思ったのか。父親への反発か、いやきっと、そのどれでもない……。
勝地君についつい肩入れするが、主人公は未來氏である。未來氏演じる末永はかつては将来を嘱望された才能を持つボクサーだったけれど、ついにタイトルをとれず、しかし今も“かませ犬”としてボクシングにしがみついている。
名前だけはあげている選手だから、相手は彼に勝ったというハクが欲しい訳である。てことは全き八百長なのかとも思うが、そういうことでもないのか。ちょっと判然としない。
ジムのボスはかませ犬なんてウチにはいらねえんだよ!!とご立腹で末永に引退を迫るけれど、末永が応じないのは……ワザと負けている訳じゃない。本気で闘っているのに勝てない。そして挑戦者である若手選手が彼を踏み台にのし上がっていく。
それが判ってて、もう実力がないのが判ってて、でも一縷の望みをかけて、かつての輝きが忘れられなくて、ということならば、それはかませ犬と言えるのか。少なくとも末永は本気なんじゃないか。負けるたびに心が落ちていくにしても、その都度本気なんじゃないか。
まさにその末永が転落した、チャンピオンを決する試合で彼に勝った相手がクライマックスで末永に発する台詞が痛い。「俺はお前がうらやましいよ。かませ犬でも現役選手だから」
ボクシングというスポーツの刹那を思う。どんなにその競技が好きでも、現役でいられる時間は少ない。特にトップに上り詰めてしまったら尚更。防衛など何度も出来るものじゃない。
そこそこのところで、しかもかつての実力も認められての“かませ犬”がどんなに屈辱的であっても、それを認めて現役であり続ける末永にうらやましい、と彼は言った。皮肉のようにも、本心のようにも、聞こえた。末永自身はどうだったのか。
末永にボクシングを教えたのは父親である。世界チャンピオンになるんだと、冗談交じりながら半ば本気で指導していた幼い日々は甘酸っぱく回想される。今や酒浸りでテレビの前から一歩も動かない父親役は柄本明である。ごみ溜めの部屋はザ・男所帯。母親は死んでしまったのか。
宮木とのエキシビジョンマッチは、かませ犬の末永を追い出そうとしているボスなら受けるべき仕事じゃなかった。ボクシングに対するプライドがあるからこそ末永を許せなかった筈なのに、ジムの経営が厳しいからと受けるとは、なんという末永への侮蔑だろうか。
そのことにこのオッサンは気づいているのか。これで引退すればいいじゃんか、ぐらいなノリでファミレスのパフェをつつきながら末永に言う。
更に、バラエティの企画として宮木に二、三発くらって一回ダウンしてほしいなんて演出を提示されて、このボスは表面上は憤激するものの、それぐらいやってやれよと末永に言うのだ。おーまーえー!!!結局末永を売り渡したんじゃんか。育て上げたぐらいのこと言ってたくせに!!
末永に馴れ馴れしく接触してくる若いボクサーがいる。北村君演じる大村である。まだプロテストにも合格していない時点から、かませ犬のやさぐれボクサーである末永にからんでくる。
ぐっと若いし、まだプロでもないし、ナマイキにも見えそうなのに、なぜか憎めない。別のジムだし、末永にひどい試合ばかりしてるとか暴言吐くのに、なぜか憎めない。
大村はあっけらかんと、自分のプロテストを見に来てほしいとか言い、ホントに見に行った末永に嬉しそうに嫁さんを紹介し、嫁さんの手料理を食べに来ないかと誘いまでする。
マジか!!という超人的な人懐っこさ。さすがに末永は応じることはないが、この信じがたいキャラクターが後編でどう展開していくのか、ものすごく楽しみ。
世界マッチの前座、エキシビジョンマッチという形で行われた末永と宮木の試合は、実力の差は雲泥どころじゃなく、だからこそ番組企画として一二度まぐれでパンチが入り、一回ダウン、そこから火がついてボッコボコにしてくれていい、という演出が提示された訳で、末永が負ける筈はないし、そもそも相手にならない筈、だったのだ。
いや、結果的にはその通りだったんだけれど、相手にならなかったんだけれど、宮木は最後まで立ち続けた。緊張もあって練習通りに行かず、大ぶりな空ぶりばかりで早々に体力を消耗したから、早めにダウンするだろうという大方の予想を裏切った。
末永は読みそこなった。相手が素人だから、芸人だから、テレビの企画だからとひるんだのか、そういう訳でもなかったような気がする。宮木のパンチをよけるのなんて余裕だった。まるで子供相手、赤子の手をひねるとはこのこと、という実力の差は明らかに見えていた。だから番組の企画通り、一二度はパンチをくらってやり、一度はダウンもしてやった。その後ボッコボコにして、オワリな筈だった。
実際、ボッコボコにした。何度も何度も強烈なパンチをお見舞いしたのに、宮木は、何度も立ち上がった。エキシビジョンマッチ、ヘタレ芸人、番組の企画、そう思って高みの見物だった観客たちの心が一気に宮木に注がれた。
時間いっぱいまで。惜しみない声援が宮木に雨あられと降った。そして末永は……まるで負けたように悄然と会場を去った。
実際、負けたのだ。レフェリーは二人の手を高々と上げた。エキシビジョンマッチということもあって、会場の空気も読んで勝ち負けを決しなかったということだが、末永は負けたのだ。
ジムのボスは口をひん曲げて絶縁宣言をした。末永にうらやましいと語っていた頂点を争ったかつてのライバルは、もうボクシングを辞めろ、と末永に警告した。
かませ犬としては最高の仕事をしたということだろうが。末永が本気だったのは、きっと今までの“かませ犬仕事”と同様だったのだと思う。だからこそ毎回打ちのめされて、次こそはと思って。でも今回の相手は素人同様だったのだ。油断した訳ではなかった。でも……。
当然、末永は宮木の父親との葛藤を知らない。知っていたら、いや……。
ボックス、と拳を合わせ、この瞬間に闘うだけの相手、芸人だからとかテレビの企画だからとか、軽んじるべきではなかったのだ。一二回のパンチ、一回のダウン、それに応じてしまったのがいけなかったのかもしれない。
本気で勝ちに行っていた、きっと死んでもいいぐらいに思っていた宮木が、自分のパンチが末永に入ったことに、動揺していたあのシーンが忘れられない。え?なんで??と口にさえした。
セコンドに入った、宮木をしごいたトレーナーがあちらさんには事情があるんだろう、と言った。それこそ素人にだって推測できる事情を、テレビの世界で活躍している宮木がピンと来なかったことこそが、彼の本気度を痛切にうかがわせた。そして……テレビの人じゃないのに、末永がそれに毒されてしまったことも。
宮木の父親である大物俳優は風間杜夫である。宮木のカノジョから請われて試合を見に来て、それまではボンクラ息子に金さえ与えていれば、と思っていたらしいことがアリアリだったのが、立ち上がり続ける息子に涙を見せる。
かなりベタな展開ではあるけれど、素直に胸が熱くなる。そして……その裏に、ベテランかませ犬の末永の絶望があり、こちらの父親は息子に、もういいんじゃないか、と口にするのだ。
加えて、末永には別れた女房と一人息子がいて、息子ちゃんはパパが大好きで、この試合を観戦していたんだけれど、だけれど……。これはツラい。これを見てしまったのはツラい。
きっとそれまでは、どんなボクサー、どんな選手だってこと、知らなかったのだろう。かませ犬、だなんて。その意味さえ。
大好きなパパがテレビで試合する。ワクワクして観てた。元嫁が何度も電源を切っても、負けなかった。……元嫁との離婚の確執もデカそうだな、それは後編で描かれるんだろうか。水川あさみ嬢は最近、いい映画にメイン、ワキ関係なく出まくってる。凄いな。
ああ、後編、後編である。ボクシング、ボクサーは、女が入れない世界だと思う。もちろん女性ボクサーもいるけど、なんていうか……バッカじゃないの、というぐらいのストイック、没頭を、女はできないと思う。それがうらやましいのか、そうじゃないのか。★★★★☆
でもやっぱり大村が前編から意味ありげというか、最終的に末永を大きく変えるのはコイツだ、というオーラ満開で関わってくるので、彼押しなのかな、という気もしている。
なぜ見も知らぬ末永に昔からの知り合いのように親し気に声をかけてくるのか。奥さんの手料理を食べにこいと唐突に誘うのか。その謎が後編のしかも後半にバン!!と解決されると、すべてがひゅるひゅるとつながる音がするようだった。
なんのためにボクシングをしているのか判らなくなっている末永を、背水の陣の弱者としての無敵の強さで叩きのめしたのが宮木であり、何の解決も出来てないのにそのショックだけでボクシングをやめようとする末永の胸倉をつかんで引き上げ、そのこぶしで立ち直らせたのが大村。そんな図式だろうか。
そしてそれはどちらの組み合わせも、どちらかが死ぬかもしれないほどの死闘なのだ。ボクシングという、スポーツというには言い切れない、人生の哲学というか、教訓というか、そんなものが渦巻いている。
ところで末永と明美は、そんなに情を交わしたような感じだっただろうか。私、前編の感想文で彼女のことに触れてすらいなかったような気がする。
明美というのは末永がデリヘル嬢の送り迎えのバイトをしている、その店につい最近入ってきたばかりの、いかにもワケありな子持ちの女で、車いすユーザーのわがままなおぼっちゃま客に気に入られて、変態プレイに応じている、という女である。前編では明らかにされなかったが、その幼い娘と共にヒモ夫に虐待に遭っている。その描写があまりに凄まじく後編で描写される。
幼い娘は、まるで狂犬を閉じ込めるようなオリに入れられているのだ。普通のアパートの室内で。見たことのない画だ。そして本当に犬にやるように小窓を開けて水をやったりするのだ。
おもわずこぼしてしまった幼い娘に、明美はスイッチが入ったように激怒する。オリをガンガンとゆする。お前のせいで、お前のせいで。髪を振り乱して表情をかくした狂気の姿は鬼婆そのものである。
という……深刻な事態が、今考え起こしてみれば確かに前編でうっすら示されていたような気がする。末永はでも、彼女と車中でヤッたけど、それだけで、明美からこの子の父親になってよ、と言われた時、咄嗟に返す言葉さえ、もたなかった。
明美は冗談に紛らしたけれど、その語調から本気なのはうかがえてしまった。だからこそ言葉に詰まったのか、何も考えずにヤッたから言葉に詰まったのか。
だって末永は父親として失格なんだもの。男の子の常で、末永の息子ちゃんはお父さんが大好き。しかもボクサーなんだもの。カッコイイお父さんが自慢にきまってる。かませ犬だとは知らずに。
てゆーか、かませ犬という意味自体判っているかどうかの年齢だが、前編での宮木との試合を見てしまって、その意味を痛烈に理解してしまったのだろう。もうあんな試合しないで、と息子ちゃんは訴えた。
あの試合の末永は実力では圧倒的に勝っていたのに、相手の気力に負けた、ということだったのか。
一生懸命やった。子供のような言い方であの試合の自分を末永は奥さんに言い訳するけれど、それは確かにそうだと判るんだけれど、でも宮木のエネルギーの勝利に観客は酔いしれたし、スクリーンのこちら側の観客も胸打たれたから、どう判断していいか、判らなかった。
末永は決して手を抜いた訳じゃなかった。なのに息子ちゃんも奥さんも、そして末永のかつてのライバルや育ての親であるジムのオーナーも、なぜそんなにもあの試合の末永に怒りを覚えるのか。
後編に際してようやく判った気がする。でもそれは、言葉というものに明確には表せないことのように思う。試合の描写がすべてである。そして、大村との試合に至るまでにはあまりにも過酷なドラマが待ち受けている。
あの車いすユーザーの客と大村との間に確執があった。まさかこんなところがつながるとは思わなかった。大村が親に捨てられて施設で育ったということも、前編では言ってなかったと思うのだが……。
そこで奥さんと知り合い、結婚した。大村は今、児童施設でのボランティアにも行っている。ワンツー、ワンツー、と子供たちにミットを打たせている。
前編でのその描写に、特段意識を払っていなかった。そういうボランティアもやってるんだな、エラいな、という程度だった。つまり好感の持てる青年、としか思ってなかったのだ。
それが、車いす青年が大村を偶然のすれ違いで一瞬その顔をとらえた瞬間、フラッシュバックのように、信じられない回想映像が我々観客の前に差し出されるんである。車から引きずり下ろし、ボッコボコに殴り倒される青年。……車いすになったのはこれが原因だったとも思われるほどの残酷さ。
それを、指示する立場だったのか冷たく見下ろしている大村。やんちゃ、というにはすまない半グレのような雰囲気を漂わせていて、そう言えば大村の背中や腕にはハデな刺青が彫ってあるし、なかなかな経験を経てきていたのだ。
どこでその舵を全く違う方向に切ったのか。大村のいた施設に末永もまたボランティアで来ていた。ナマイキな態度を取る大村少年を軽くあおって、ちょいとパンチを浴びせた。大村から見れば“おじさん”な男にまるで歯が立たなかったことが、彼の記憶に長く残っていた。
末永の試合の動向は欠かさずチェックしていた。そして運命の、日本チャンピオンを決する試合を、彼は後の奥さんとなる彼女と見に来ていた。死闘の末、末永は負けたけれど、そのことにガッカリするどころか、大村は深く感動していた。「負けたのに凄い」と。
その言葉がその時の末永に届いていたなら、違っていたのかもしれない、と思う。
そしてその後、大村は悪い仲間ときっぱりたもとを分かち、ボクシングを始めた。ずっと彼の心の中には末永があったのだ。それが、前編から満ち溢れて、隠しようもなく表れていたのだ。まるで恋みたいに。
大村は奥さんとの間に愛しい子供も成して、デビュー以来破竹の勢いで勝ち続けて、まさに無敵の状態だった。
それをねたんだ車いす青年に、殺されかけた。ナイフで片目を切りつけられた。眼球に致命傷を得て、日常生活には支障はないが、試合なんかしたら失明の恐れがある、と通達された。
その一方で末永は明美が娘を殺しかけて捕まっちゃうし、働いているデリヘルは他の店に女の子を引き抜かれて風前の灯だし、散々だった。
デリヘルの店長は末永の幼なじみで、大人になって再会した時から妙になつっこく末永にまとわりついている、子供どころか幼児のような単純さというか陽気さというか純粋さを持つ、吃音の男。
演じるは今最も才能あふれる監督は誰かと問われれば、この人をあげるであろう二ノ宮隆太郎氏だが、役者としても本当に素晴らしく、本作のゴロウちゃんはちょっと……何かの賞をあげたくなるぐらいである。
いかにも経営手腕がなさそうな頼りなさ、どんどん女の子がいなくなって、なかば事務総務経理にも参画しているような超ベテランデリヘル嬢、兼子女史が支えている。
熊谷真美!現役のデリヘル嬢役!!当然、そのトウのたった感じが笑いにも変わるのだが、敵陣に討ち入りに行って、まさにここでも死闘を繰り広げ、返り討ちにあったゴロウちゃんが、彼女との結婚を決意、兼子女史が病院の廊下で落涙を抑えきれないシーンは泣かせるんである。
しかし、なんといってもなんといっても。末永と大村の試合。大村が望む最後の試合の相手に末永を指名してきたことを、末永も末永のジムのオーナーもいぶかしむ。
このオーナーがね、前編ではさ、大事に育てて来た末永がかませ犬に堕落しくさっていることにイライラして、突き放す一方でジム経営の苦しさからテレビの企画を受けちゃったりしてさ、なんかハラたつ、このジジイ!!と思っていたのだが……。もう、最後には泣かせる。
大けがを負っていわば引退試合だけれど、大村は大きな注目を集めた花形スター。その大村が末永との試合を申し込んできたことに、最初はさ、最初は、前編の時と同じように話題性やカネで受けさせようとしているのかな、と思った。
でも、何かをかぎ取ったのだろう。受けるなら本気で、そして末永の本気も感じ取って、めちゃくちゃ鬼マジなサポートをする。
こんな場面は前編にはなかった。もうお前、さっさとヤメろよ、恥さらし、ぐらいな雰囲気がアリアリだった。それは末永の才能を嘱望していた過去があったからこその、育てる側としての自信のふがいなさもあったのか。
あのね、もう……試合シーンは、末永と大村の試合は、言うことないよ。言っちゃダメ。見るしかないのよ。最後のラウンドまでお互い立ち続けるのは前編と同じだけど、実力が拮抗している試合だから全然趣が違う。
でもやっぱり、大村の方が勢いと若さもあって、上回っているのだろう。末永のジムのオーナーは、最後のラウンドの前ぐらいで、このままだと殺される(という言い方はアレだがまさにそうなんだもの)と危惧して、引くことを提案するんだけど、末永は引かない。
「最後までやらせてくださいよ」「この感じですよね。」めちゃくちゃ気持ちよさそうに、顔中ボッコボコに腫れているのに、オーナーに満面の笑顔で言った。
その瞬間に、ぐっしゃぐしゃに泣き顔にくずれたオーナーの顔が、忘れられない。ビシャッ!!!と観客である私も、涙があふれた。ばっかやろう、という声が泣き声で震えているのに、めちゃくちゃ嬉しそうなのが、胸が沸騰する想いだった。
大村が、負けたのに凄い、と感動と興奮を抑えられなかったあの気持ちが、まさにこのクライマックスの二人の試合で判った。
そういう意味では、前編の宮木はその境地に入れてもらえなかったのかとも思うが、考えてみれば当然のことだ。彼は素人だったのだから。素人だったのに、末永を打ちのめしたからこそ、大村との試合とは違う大きな意味や衝撃を残したのだ。
末永は奥さんにも未練を残しつつ、明美や明美の娘を心配したりと女関係では最後までぼんやりとした頼りなさを残すけれど、そんなところまでキッチリしてたら、女としても商売あがったりと思う。
てか、ボクシングに人生を賭けた男たちの物語には、女たちはこの程度にしかやっぱり絡めないのか、という悔しさの方が強いのだ。肉体の差と、それを境遇を突破する武器にするのには勝てないよ。実際……。★★★★★