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愛されなくても別に
2025年 109分 日本 カラー
監督:井樫彩 脚本:井樫彩 イ・ナウォン
撮影:福本淳 音楽:松本淳一
出演:南沙良 馬場ふみか 本田望結 基俊介 伊島空 池津祥子 河井青葉
今、書いてみて気づいた。大学生である女の子三人がそれぞれ、名字で呼ばれていることを。
私はいまだに友人同士名字で呼び合うから、それがおかしい訳ではないけれど、女の子同士の学生生活、友情や青春が描かれる時、映画でもドラマでも漫画でも小説でも、大抵が下の名前で呼び合っているものだった。そして男子は不思議と、名字で呼び合っているのだった。
そこにふと、日本の家父長制度の根深さを感じたりもする訳で、つまり、女子はいずれ結婚して名字が変わるのだから、という……。でも本作の彼女たちは苗字で呼び合っている。それはいずれ結婚して、だなどと言う、今の時代にはあまりにも古臭い価値観を否定している、というんじゃなくて、名字という、親の監視下に置かれている鎖の象徴で縛られていることを示唆しているんじゃないかと、今、本当に今、書いていて、そう思った。
名字は親につながる。その下のファーストネームもまた、親につけられた、ということで確かに鎖とはなる。特にキラキラネームが付けられた木村さん(水宝石と書いてアクアと読む!)などは最たるものだけれど、それでも、やっぱり名字の強い意味合いとは比べ物にならないのだ。
主人公の宮田が、すぐに働いてほしかったのに、という母親を押し切ってでも大学進学したのは、後にコンビニのアルバイト仲間の男の子に問われて答える、まともなところに就職するために、大卒という肩書が必要なのだということなんである。いまだにそうなのかと、やっぱりそうなのかと、本当に悲しくなる。
大学は、高校までと違って、自分が学びたいことを学びに行く場所であるべきなのだ。なのに、私の学生時代から今に至るまで、就職のための肩書でしかないことが変わらないことに、本当に失望している。
身勝手な母親に縛られている宮田が、楽し気な学生たちに攻撃的に壁を作るのが……彼女もまたその点幼いのだが……本当に哀しくて仕方がない。
そしてそれは、江永も木村さんも同様なのだから、一体、大学という場所は少なくとも女の子たちにとって、真の意味合いを果たさないままこの数十年を来たのかと思うと、だからこの国はダメなんだよ!!と思っちゃう。
いけないいけない、本作の問題点からは外れた話になってしまう。本作は、いわゆる毒親に苦しめられた女の子三人の物語。そのうち二人がツートップとして関係性を築き、この沼から最後には突破する。つまり、もう一人の突破は見られないまま終わってしまう、ことが、少し苦しい。
宮田は、シングルマザーの母親から、搾取され続けてきた。男を連れ込み酒を飲みセックス。掃除洗濯、炊事に至るまで娘にやらせて、散らかしているのは自分なのに、大学生だからって調子乗ってんじゃないの?とか言い散らかし、ねー、ごはんまだ?ホットサンド食べたいとか言い募り、なのに出かける時間だからとあっさり食べ残し、後食べていいよ、愛してるよ!とか言ってせかせか出かけていくのにはアゼンとする。
愛してる、これを言っとけば、この母親自身がオッケーだと思っているんだということが、すぐに判っちゃう。ちょっとだけホッとしたのは、愛してると言われて、宮田が複雑な表情を浮かべたこと。この言葉に、彼女が救われて、搾取されている自分を見失っている訳じゃなかったから、それを改めて判らせてくれた江永との出会いで、逃げ出せたのだ。
江永は学内で、とゆーか、木村さんによって、あの人は関わっちゃいけない、殺人犯の娘だから、という噂を立てられている。噂、であるけれど、まぁ本当である。殺人犯、という言葉から連想するのとは違って、誤解を恐れずに言えば、むしろそんな気概もないというか、飲酒運転で人をひき殺し、その後逃走中の行方不明なんである。
江永はその父親からレイプされていた。そのことを知った母親は怒って、娘と共にこのクズ父親から離れてはくれたけれど、でも、生活のために身体を売れと言った。
それは……父親からレイプされた娘に対する保護の気持ちより、夫をとられた女としての気持ちの方が上回ってしまったのか。江永は家を出て、どういう経過か、現役生より少し年上の状態でこの大学に在籍している。
宮田と江永はバイト仲間で、講義も一緒になるけれど、話すこともなかった。宮田もそんな気はなかったし、江永はいつもイヤホンで外界を閉ざしていたから。それが、休んだ講義のノートを取らせてもらうために、これまた孤立していた木村さんに宮田が声をかけたことから、江永にたてられている噂を知ることとなる。
木村さんもまた過保護と束縛の母親に悩まされていて、それぞれに毒親を持つ三人の女の子が交わることになるんだけれど、結果的に木村さんだけが、その結末を見ることが出来なかったのが、凄く辛かったのね。
木村さんは地方から出てきているんだけれど、しょっちゅう母親から心配の電話がかかってくる。彼女自身が自我と生活を保てていたら良かったんだけれど、いわゆる新興宗教にハマってしまって、宮田と江永が彼女を救出に向かう感じになってしまう。
つまりはそれで、過保護の母親の術中にはまらせるというか、だから上京なんてさせるべきじゃなかった、1人暮らしなんてさせるべきじゃなかった、大学はやめさせて、連れ帰る、それが親の義務だという展開になってしまう。
宮田が思わず木村さんに言うように、自分のバイト代のほとんどを生活費として召し上げられるどころか、奨学金まで使いこみされていた彼女と比べて、少なくとも金銭的には恵まれている木村さんは、それほどの不幸じゃない、とジャッジされてしまうのは、そうした、即物的側面においては判らなくもない。でも、そうじゃないんだよ、でもそれをうまく言えない……と逡巡しながら見守っていたら、木村さんが、見事な反駁を見せてくれた。
不幸って、他人と比較できることじゃない、と。本当にそうだ……。宮田自身がそれにとらわれていた。江永に出会ったことで、自分の不幸が負けたと思ってしまっていたから。だから、自分よりも不幸じゃないジャッジを下して、木村さんにヒドいことを言った。救いに行ったのに、それが偽善だったことを、木村さんから突きつけられた。
救いだったのは、江永が、年齢的にも経験的にも先輩で、そうしたところを乗り越えていることである。不幸の勝ち負けを求めちゃってる、不幸中毒だと冷静に断じる。
江永は、父親がひき殺した女性の一人息子に付きまとわれ、殺されそうにまでなる。その最初の危機の時に、宮田もまた母親と初めて衝突し、家を飛び出して、それ以降二人は同居生活となるのだけれど、この時、江永は宮田に、こんな大変なことになっていたことを、告げてなかったんだよね。
そして再び襲ってきたこの息子、マジで殺されそうになっている江永に、宮田はなかなか助けに行けない。助けて、と江永が苦し気に訴えているのに。このシーンは結構な尺を使っていることもあってなかなか辛い。
宮田は、母親のデリカシーのない奔放さも影響しているのか、性的なことへの嫌悪感が生理的、本能的に凄くあって、江永と手を振れあっただけで吐き気を催してしまうぐらいの重症である。
そんな宮田が、性的、というんではないにしても、突然乱入してきた男が江永を組み伏せ、首を絞めている場面に動揺し、一度姿を隠してしまうのには、本当にハラハラする。
トイレの芳香剤をスース―して気持ちをおさめようとする宮田、あの芳香剤は相当強烈なにおいだと思うんだけれど、……性的なことへの嫌悪が、ケミカルな、非現実的な匂いへ逃避することでおさめられているだなんて、辛すぎる。
江永は、殺されかけたというのに、この青年を逃がしてしまう、許してしまう。あの人も被害者だから、と。それは……どうなのかなぁ。これを許してしまったら、江永も、そしてその青年も、違う意味合いではあるけれど、親に隷属している、つながれた鎖に苦しんでいる、そこから逃れることが許されない、と諦めてしまっているようなものじゃないのだろうか。
いや、今はそう、その同志としての気持ち、その先の解放があるという意味合いだとは思いたいけれど、でも、殺されかけたのに、マジで殺されちゃったかもしれないのに、宮田の反応も遅すぎてオイー!と思ったし、優しく判断するには難しかったかなぁ。
女の子友情好き、シスターフッド大好きなこちとらとしては、江永と宮田の、辛い経験の共有ではあるけれど、木村さんを救い出す道行きのカントリーロード的な、スタンドバイミー的な、田舎の一本道の自転車二人乗りとか、途中の小さな滝つぼでうっかり自殺未遂かもと思わせるところとか、キュンキュンきちゃうのであった。
江永が一足早い大人で、遺伝子ついじゃった酒飲みで、でもカルピスと焼酎を割るっていうあたりがやっぱり若い女の子でさ、宮田が成人した、本当に12時のタイミングで、バイト先のコンビニで二人あれこれお酒を選ぶ可愛さ、それを見守る、それまではなんかメンドくさい先輩男子だった男の子が、あたたかく見守ってる感じとか、ちょっと良かったなぁ。こういうね、ほんのちょっとした、なにげない幸せが、不幸中毒を少しずつ、癒してくれると信じたい。
今、現代、クローズアップされているけれど、いつの時代もあったのだろうとは思う。子供にとって家族は最初に触れる社会で、人生初だから、経験がないから、それが世界の全てだと思ってしまう。
ちょっとね、ホント、取りようによっては少し怖い妄想も出来ちゃうかもと思ったんだよね。主人公マナが一緒に暮らしていたあいが突然姿を消し、その行方を追う物語なのだけれど、マナがまるで恋しているかのように描写するそのあいという女の子は、顔を見せない。いつも画角から見切れている。
だって、本当に、不思議なんだもの。そもそものマナとあいの出会いは、甘やかな、いい時代の少女まんがのボーイミーツガールのようだった。友人に連れられてきたクラブのカウンターで身をすくませていたマナに、あいが声をかけた。騒音で聞き取れず、あいはカセットレコーダーに声を吹き込み、イヤホンの片方をまなの耳に装着させ、かちゃり、と再生させたのだった。
腐女子はついついそんな妄想をしがちであるが、でも、マナはあいに恋していたとしか思えないんだよなぁ。あるいは、もうひとつの、先述したようなちょっと怖い妄想も浮かぶのだけれど。オチバレでもないのか、オチがなんなのかもないのだから、でも、最後まで顔を出さなかったあいは、本当に存在していたの?と思っちゃったのだ。
マナはまず、あいと出会ったクラブに赴く。誰もがあいのことを知っているけれど、どこか雲をつかむよう。スタッフの女の子が、裏アカ知ってますか、と突然不穏なことを言う。全然動かしてなかったけど、と確認してもらったら、「二児の父」ナントカというアカウント名の男性とコンタクトをとっている。
そして、その「二児の父」さんに会ってみる。待ち合わせの恐る恐る加減がマナの、示されてはいたけれど、内向的で、人付き合いが苦手で、でもあいと出会って幸せで、あいともう一度会いたいと願う必死の熱意が出ていて、ドキドキしてしまう。
プロデューサーさんの愛犬であり、だから実名のとうふ、であり、雪乃しほり氏とダブル主演として堂々クレジットされているんである。
その経緯を知ると、このとうふに、どこまでの意味を持たせていたのか、癒しの存在としてパーフェクトだったから何もそんな、意味もなく深掘りしなくても良かったのかとも思うけれど。
マナは犬が苦手で、だから突然とうふを引き渡されて困惑しかなかった。恐る恐る遠巻きに見て、部屋で一緒にいてビクビクしている始末だった。
とうふに、あいが宿っている、とまで考えるのは危険かなぁ。あいはマナに、マナに見せたい場所を見つける旅に出る、とカセットテープに言い残して姿を消した。その声はとても明るくて、その身勝手さを糾弾する気持ちを失わせるほどのものだったし、それってまさに、マナに対するあいの愛の言葉としか思えなかった。
そしてあいはマナにとうふを残したのだった。中盤、あれは夢だったんだろうと思うんだけれど、初売りに行く約束をしたのになかなか起きないあいに、マナが起こしに来る場面。あいは、とうふと散歩に行ってきなよ、と告げて、マナはとうふに引っ張られる、とうふ目線のカメラワークで、ぐんぐん引っ張られる。
特に、マナが発見した、あい所蔵のカセットテープから突き止めて会い行った「もう年単位で会ってないかもしれないけれど、近くに感じている友人」だと語った女性、特に台詞に出す訳でもなかったけれど、マナの嫉妬というか苛立ちは、なんか凄く感じられちゃって……それとも、そんな風に受け取ってしまう私が、腐女子的妄想に傾きすぎなのだろうか??
あいであり、マナであり。この表記はオフィシャルサイトなり、ネット上のデータでそうと知れるけれど、確かに劇中では音でしか判ってなかった。
これを、どうとるのか……。最初から二人も、あるいは周囲も、普通に認識していたのか。それとも二人だけの秘密、つまり運命のように感じていたのか。
うがちすぎ、妄想しすぎ、考えすぎ。そうねそうね。とうふワンコの可愛さを愛でればそれでいいのよね。
これは凄い、凄いんだけど……思いっきり、手持ち(だよね?)カメラの手ぶれで酔ってしまって困った。これはね、凄いのよ。ものすごく緻密な計算で、動線、人物の動き、会話、すべてを寸分たがわず整えなきゃいけない。
これこのままワンカットで行くのか……もしかして最後まで?と不安を覚えてしまったが、良かった、開場までの流れだけだった。良かったとか言うなって話だけど(爆)。
で、すみません、私が単に三半規管が弱いだけということかもしれないし(爆)。ゴスペルをテーマとした映画は、まさにそれこそ「天使にラブ・ソングを…」以外に思いつかないかも。だから日本映画では初めての出会い。監督さんはまさにまさに、ゴスペルと共に生きてきた経歴のお人なんだ……。
ゴスペルのことは全然知らないのだけれど、後半の、あらゆるグループがパフォーマンスを畳みかけるのを体験すると、ゴスペルに限らずどんな分野も、伝統を大切にしつつ、それを打ち破る新しい波、その闘いがあれど、皆がそれを愛している、ということがあるんだなぁと思う。
東ちづる氏演じる増渕麗の没後1年のメモリアルコンサート。彼女の息子、タツヤがとても印象的。特に説明はないけど、多分一人息子で、多分母子家庭。演じる諏訪珠理氏がとても繊細な独特のオーラを放っていて。まさに彼がそのまま、一篇の詩のようである。
カメラがとらえる、一瞬一瞬の主人公という登場人物が、つまりメインとして紹介されている人物が実に22人もいて、この紹介を鑑賞前に見た時には、うっ、これは、私の苦手なオムニバス的なヤツかも、と身構えたのだが、そうではなかった。
序盤のそれを任されたのが、スタッフとして忙しく立ち働く南で、増渕麗の息子、タツヤをはじめあらゆる人たちから、今日歌いたかったんじゃないの、と問いかけられるのだが、そのたびに今日は裏方だから、と返すんである。
南を何くれとなく気にかけているディレクターの山田さんは、重鎮のあしらいもそれなりにこなすし、南へのおごりもデートじゃないからね、なんて付け加えたり、一見ちょっとチャラそうにも見えるんだけど、彼が一番、周囲が見えている。それは、最後の最後、増渕麗のビデオメッセージの撮影者として、彼女から呼び込まれてちらりと出演もする信頼関係で、もう一気にそれが証明されている。
チャラそうと言えばもう一人、女性アイドル、ユイのマネージャーとして来ている鎌田がまさにそうで、もうね、今や古臭いと思うんだけれど、今の時代、自分のやりたい歌だけやっていきたいだなんて、甘いんだよとかさ、そんなこと押し付けるオメーが今の時代判ってねーわ!と吠えたくなる。
ミナトは……劇中の感じでは彼が本当はどうしたいのか、ちょっとスカして大人の前では発言している感があるから判らないんだけれど、ただ、素直に、今この場で、表現したいことをしているということこそが、大事なことなんだということなのかもしれないと思う。
でもまさに、それに反抗してギターで弾き語りをするユイは、めちゃくちゃオンリーワンで、素晴らしかった。演じる南條みずほ氏は、そうねやっぱりシンガーソングライターだという。そうだよね!
なのにこのクッソマネージャーは、今更自分の歌をやりたいだなんて愚かだと腐す。おーまーえー、オメーが彼女の実力を魅力を引き出せなかったから今この状況にあるってことを、判ってねーのか!!
ユイに助言する、ゴスペルパフォーマーであるミナト。すみません、多分このあたりがめっちゃ睡魔に襲われてた(爆)。どうやら出自も含めてのあらゆるプレッシャーにさいなまれていたキャラクターらしい。
ベテランの音響スタッフが、奥さんの出産を控えていて、でも仕事中だからと着信に出なくて、なら電源切っとけよとちょっと思うのだが(爆)後輩男子が代わりに出て、ヒーフーを代打するシークエンスが、ちょっと良かったかな。
ゴスペルのパフォーマンス、それも数々のグループのクライマックスが圧倒的で、私が酔ってしまった前半のワンシーンワンカットも意欲的で、唯一無二の作劇だと思った。ゴスペルライブ、行ってみたい。★★★☆☆
確かに日本なのに、日本のさびれた地方の街角なのに、草笛氏演じるアンジーが風に吹かれてやってくると、まるでラテンアメリカの風が吹いている感じ。それは終始作品をご機嫌に彩る音楽がまさにそのテイストで、ワケアリ女、アンジーに草笛氏、めちゃくちゃ似合う、めちゃくちゃ素敵!
まさに風に吹かれてやってくる。徹頭徹尾、めちゃくちゃオシャレ、いや、オシャレという言葉じゃ追っつかない、着こなす、んじゃなくて、このドレスが彼女のためにかしづいているような。
すっかり廃屋状態のバー、不動産屋の札がぶら下がっている。その不動産屋に乗り込んだアンジーは無造作に札束をばん!と叩きつける。失礼ながらこんなご高齢の、とか不動産屋の主人は言うが、その一瞬だけだった。彼女に実年齢の失礼なんぞを言うのは。
この物件はワケアリで、なんか次々不審死やら自殺やらを遂げているってんで、それもあって不動産屋は駐車場にでもするべきだと難色を示すんだけれど、そこに現れたオーナーが、あぁ、大好き寺尾聰!!!もう一目見ただけで、あなたに貸します、と即決。
この主人、このオーナーのことが好きなのでは……。それはうがちすぎだったのかもしれない。最後までそんなことは示唆されないし。でも、このバーのお向かいの理容室の一人息子、青木柚君演じる麟太郎が、幼なじみの男子を思い続けていることがこの物語のひとつのメインになっているから、その橋渡しになっているような気もしたのだった。
そう思えば、麟太郎の母親、お向かいの理容室の女主人の満代も、ダンナを自殺で亡くしていて、もうすっかり恍惚の人になってしまったかつての姑から人殺し!!と追いかけまわされるという地獄のシークエンスがあったり、麟太郎が恋している先輩の妹が同級生で、プロレスラーを夢見て兄の特訓を受けていたり、何よりアンジーが店の改装のために声をかけるのがホームレスたちで、実は手に職を持っている男たちが人生を取り戻したり。
でもやっぱり、やっぱりやっぱり、彼女が絶対的な主人公。凄く不思議なんだけど、だって彼女自身に何があったかとか、その人生とか、全然判らないのに……それこそさ、この年齢の女性が一人、知らない街に現れるだなんて、普通に考えれば警察沙汰(違う意味で確かに警察沙汰だったんだけど)だけれど、そんなヤボなことは考えに浮かばない。
興奮しすぎて、すっ飛ばしてしまった。そうそう、ワケアリのアンジーだけれど、まずはホームレスの職人たちを雇いあげ、ボロボロの店を少しずつ作り上げていくんである。六平直政氏、黒田大輔氏、工藤丈輝氏のそれぞれ個性爆発のキャラクター。
彼は、通常でも、詐欺師グループを撃退する時にも、そしてすべてが終わり、大都会の雑踏の中でパフォーマンスを披露して拍手喝さいを受けている時も、まったく変わらず、同じく、彼自身の表現を披露している。
でもやっぱり、麟太郎である。高校三年生。家は理容室。彼が恋する幼なじみの先輩は、あれは墓石屋なのか……でも彼は自分のクリエイティビティを追及している感じ、そして妹はプロレスラーを目指して兄に特訓を受けている。
高校三年生、恋する兄はもう、家業を継いでいる、妹は明確な夢を持って上京を決めている。
不思議なのは、絶対的主人公であるアンジーは、麟太郎のこの決定的アイデンティティティは、結局、知らないままなこと。不思議だなんて、ちっとも不思議じゃないか。そんなことは些末なことなのだ、アンジー=草笛光子氏にとっては。
でもまだ、過渡期なのかな。麟太郎がこの地方の町から東京へと出ていく決意をするのは、どうでもいいと思っていることがデフォルトであるところへ行きたい、その場所でこそ自分のアイデンティティが確保されるのだと思ったからなのだろうと思う。
麟太郎を演じる青木柚君が、自分自身の想いを耐え切れなくって、持ちきれなくって、うわーーーっ!て走る、全力疾走する場面が、凄く、良かった。凄く凄く、良かった。もうね……こういう瞬間って、もう大人になるとないよ。ないんだよ。
廃墟寸前だったバーを、ホームレス職人たちをスカウトし、見事素敵な店によみがえらせた。それまでにいろいろあって……アンジーに魅せられた人たちが、ささやかなオープニングパーティーに呼ばれる。そしてそこで、アンジーが実は、詐欺師集団を逆に騙して大金をせしめて逃亡中、という事実が明らかになってきて、ルパン三世さながらの逃亡エンタテインメイトが繰り広げられる。
凄くね、いい意味でのわざとらしさというか、予定調和がイイなと思った。この廃墟と化したバーは、呪われていると思われるぐらいの不慮の事故や自殺が続いていて、石田ひかり氏演じるキッツい信者が、キッツい行者を呼んで勝手にお祓いしようとするシークエンスがあって、これって描きようによっては危ないし、今の時代、取り上げるのさえ難しいと思うんだけれど、あっけらかんとコメディにしたおしたことが、凄いと思って……。
今の時代、いかにも今の時代の問題をしっかり入れているし、その問題提起から目をそらしていないのに、とてもハッピーで、いい意味で現実感がないから救われた。
全てが完璧な家庭なんてないと思うし、大なり小なり子供たちはそれなりに抱えて成長していく。その過程を、時代や社会がどう関われるかというのが、鍵なのだと思う。
アイチェルカーレ
2025年 60分 日本 カラー
監督:小池匠 脚本:浅見サト 小池匠
撮影:西岡空良 音楽:佐藤太樹
出演:雪乃しほり 吉川流光 河路由希子 中川可菜 中神円 小野匠 村松和輝 仁科かりん 小島彩乃 松瀬吹蕗 山口森広 井筒しま 木村知貴
2025/3/10/月 劇場(新宿K's cinema)
このタイトル、どういう意味なんだろうって、まず公式サイトに飛んでったが、そのサイト自体とても簡単なもので、タイトルの由来も載ってない。ざっと検索したらすぐに出てはきたんだけれど、まぁつまりは造語で、わざわざ作中でも、オフィシャルサイトでも触れるようなことはヤボだということなのかもしれない。
ミステリアス、とまでは言わないけれどとても雰囲気のあるタイトルで、それは本作の、取りようによってはいろいろ意味深に深堀り出来ちゃいそうな作品世界に似合っている。
最初からそうだから、そしてそれは最後に顔を見せてエンド、といった雰囲気ではなかったから、あ、これは最後まであいの顔は見せないんだと不思議と理解出来てしまう。
でも、ならば、なぜそうするんだろうと、まだ顔を見せる可能性はあったのに、見ている間中それを考えていたように思う。
その途端、周囲の騒音は一瞬の静寂となり、あいの声がマナの中に駆け抜けた。ラーメン食べにいかない?そんな他愛もない台詞だけれど、まさにこれはナンパ、いや、愛の言葉とさえ、マナの表情から受け取れてしまう。
確かにあいを知る人たちは次々に登場する。それは、マナがあいを見つけ出したくてコンタクトをとる人たちなのだけれど、誰もあいの行方を知らないし、あの子ならそんな風にふいに消えるだろうと言うし、それは彼女のお兄ちゃんでさえ、そう言うのだ。
すわ浮気!と思うあたりが昭和の女(爆)。でも、マナだって、その恐れは感じていたに違いない。そもそもあいがSNSをやっていたことさえ(ほとんど動かしていないにせよ)知らなかったのだから。
そして、それを知っているクラブのスタッフ女子に対するマナのどこかおどおどとした視線は、嫉妬のようにも、恐れのようにも感じられて。
そしてなんと予想外の展開、いや、もう一人の主演は宣材写真とクレジットに登場しているから判ってたけど、黒いフレンチブルドッグの女の子、とうふの登場。なんと、あいが、友人が受け取るからと譲渡の手続きをしていたんである。
この日、トークイベントでプロデューサーさんの前抱えのバッグにおとなしく収まり、その穏やかな姿は劇中のとうふそのもので、あぁ確かにこのとうふちゃんをスクリーンに登場させたいという、いわば飼い主の愛という名のエゴ(いやその)は判るわなぁ、と思ったり。
でも……やっぱり、さぁ。あいを徹底的に見切れさせ、それはある意味その存在を否定することでもあり、いわばその代わりとしてこの愛らしいとうふがマナのもとに授けられるのだから、やっぱりそこには意味合いを感じずにはいられないじゃない??
女の子二人が同居していたちんまりとしたアパートで、ワンコを飼ってて大丈夫なのかなと、昭和おばちゃんは現実的な心配をしてしまう(爆)。そして、とうふがマナに訴えてるのは散歩だろうなと思うと、怪訝げに遠ざけるマナに、それぐらいは察しておくれよ……とハラハラしたり。
あれは……引っ込み思案のマナを、あいがいなければ外に出かけることも躊躇していたマナを、連れ出すために、とうふを授けたということに見えちゃう。だとしたら、あいは本当に存在したのか。誰もがあいのことをこんな人物だったと語るけれど、その自由人っぷり、奔放っぷりは、まるで夢のようで、現実味がないっちゃ、ない。
でもさでもさ、もう言いたくて言いたくてたまらんから言っちゃうけど、いわばオチというか、結局あいが見つからなくて、残されたカセットテープを聞いたり入れ替えたりレーベルを書きかえたりするんだけれど、そこでね、タイトルを書き直す。仁藤愛、水本愛、これは……。
マナが、帰ってこないあいのことを思いながら、最初に出会ったクラブのカウンターで、開店前の静かなその空間で、どこか所在なげにカセットテープを入れ替え入れ替えしている。そしてそのタイトルにそれぞれ書かれた名前、マナ、あい、それは同じ愛、という漢字。
さらにさらにそれとも、鑑賞中ずっと感じていたことだったけれど、あいは本当にいたのか。マナの中に疑似恋愛的に登場した、自分の分身としての“愛”じゃなかったのか……。
でもさ、女子のいわば、本質の怖さを本当に判っているか否かで、いくらでも妄想のベクトルは広がっちゃうんだもの。見切れたあいがラスト、帰ってきたらしいことを、ハッピーエンドととらえていいのかどうか……。★★★☆☆
雨ニモマケズ
2024年 90分 日本 カラー
監督:飯塚冬酒 脚本:飯塚冬酒
撮影:岩川雪依 田村専一 音楽:
出演:安野澄 諏訪珠理 上村侑 木村知貴 山中アラタ 中野マサアキ 和田光沙 福谷孝宏 深来マサル 山崎廣明 宇乃うめの 三森麻美 片瀬直 富岡英里子 笠松七海 生沼勇 神林斗聖 南條みずほ 小寺結花 尾込泰徠 梅垣義明 東ちづる
2025/2/10/月 劇場(新宿K's cinema)
前半、30分くらいかなぁ、ワンカットで撮っているんだよね。開場前の準備、リハーサル、来場者の案内、舞台監督の怒号、出演者のワガママ放題、大物ゲストに浮足立ったり、宅配弁当屋さんに横柄な態度をとった芸能マネージャーが組み伏せられたり、どうやら不倫男女の、その奥さんがにこやかに現れたり、というのを、メインとなる人物をすれ違うたびに切り替えて、会場内をぐるぐる、あらゆるところを、表も裏も回りながら、カメラが追っていく。一度もカットをかけることなく。
凄いことは判ってるんだけど……酔いました、完全に。頭痛くなっちゃって、後半は見事なゴスペルライブを数々見せてくれただけに、健全な状態で堪能したかった!というウラミが残る。
これねぇ……クリエイターとしてこれをやってみたいんだろうなと思う。一度はやってみたいんだろうなと思う。でもこうして撮りきることが出来ても、それだけで成功じゃないと思うんだよなぁ。「アイスと雨音」が、まさにこのワンカット映画を、本当に最初から最後まで完璧にやり遂げたことを思い出すと、奇跡の所業だと改めて思ったり。
この物語、東ちづる氏演じるゴッドマザー的存在が亡くなって、その1年後のメモリアルコンサートという設定、そのまんまじゃないにしても、多かれ少なかれ、事実、真実が盛り込まれているように感じる。ゴスペルという、いわば海外文化に対しても日本の重鎮みたいな輩がいて、梅垣義明氏演じるそうしたうるさ型が、こんなものはゴスペルと認めないよ!とか、めっちゃありそう―!と思う。
正直、かんっぜんにウーピー・ゴールドバーグをモノマネしたアフロウィッグで楽屋でわちゃわちゃしているそれなりの妙齢女性たちから始まるし、彼女たちは客席で弁当を食べていてスタッフに注意されたりするし、うっわ、どうしよう、こういうおばちゃん物語に付き合わされるのかと(言い方……)思ったりしたのだが、彼女たちの中にも物語があるし、そして何より、これからこのゴスペルシーンを担っていく若者たちの葛藤の物語こそが、あるんであった。
正直、タイトルとなっている宮沢賢治の詩、そしてラストにタツヤがそれを一人、ステージで朗読するのも、な、なんで?いきなりここだけ物語と乖離してるやん、と思ったのだけれど、今こうして改めて考えてみると、母親が亡くなって、身の置き所がないようにこの会場の片隅にいて、でも母親と関わった人たちが、つかず離れず彼のことを気にしていて、そしてその人たちも自分たちの人生がそれぞれにあって……という中に、タツヤの内向的なオーラで雨ニモマケズを朗読すると、そういうことなのかも……と、いや、どういうことなのかよく自分でも判んないんだけど(爆)、とにかくとても、雰囲気があったから。
本当に、流れていく。人生のように。この、1人の愛すべきゴッドマザーのメモリアルに集まった人々の、観客も含めてすべての人たちに一人一人、尊い人生があって、それを代表する形で、22人の一瞬の人生が切り取られる。
本当に、繰り返し、そのやりとりが描かれるから、彼女はなぜ今日は裏方なのか、裏方だけに専念することを選んだのか、ものすっごく気になっちゃうが、それが一切明らかにされないのは、うーん、どうなのかなぁ、とはちょっと思ったかなぁ。
22人の登場人物それぞれが主人公として物語があるから尺が足りないのかもしれんが、回収できないのなら最初から投げかけないでよとも思うし……。だってかなり思わせぶりな感じだったからさ。今日歌えない理由が何かあったんだと思うじゃん。しかも彼女は、22人の中で最も多く登場、まんべんなく走り回るから余計に。
ユイはミナトに、……彼とはどういう関係だったのか、すみません、頭が痛くてちょっと眠くもなっちゃって(爆)、追いきれてないんだけれど、でも男女のあれとか、そういう感じではなかった。表現者として生きていきたいと思ってて、でもそれが、若さゆえ大人に搾取されそうな状況にあって。
ユイはそれがずっと出来なくて、商業ベースに乗っても、売れなくて。彼女のことを何にも判ろうとしない傲慢強欲高圧なマネージャーに反抗する形で、Tシャツにデニムで、ギターを抱えてステージに上る。彼女がそもそもどういう活動、アイドルとしてキラキラだったのかなと推測はされるけれど、これまた判らないままだったので、ちょっとモヤっとする部分はあった。
ゴスペルを習っていた筈だけれど、披露する歌にはゴスペル色はなくって、本当に私(わたくし)の世界に自ら降りていく、覚悟を感じるパフォーマンスで、聞き入っている聴衆の表情で、それが本物だと、確信できた。
いやその……売れる売れないってのは、難しい問題はあるんだろうけれど、本作の監督さん、50過ぎてるとトークで語っていたから私と同世代、昭和世代の、パフォーマーをちっとも尊重せずに、戦略のコマのように扱っていたのを、子供ながらに感じていたエンタメ業界を、反映している感じがする。
だけど、今は違うよねとも思うので、ちょっと違和感はあったかなぁ。それともこんな昭和臭、いまだにあるの?だとしたら、かなり問題だと思うけれど……。
柳楽優弥っぽい濃いめのイケ男子で、フィルモグラフィー見る限り、遭遇している筈なのだが、今回お顔とお名前が初めて一致したかも。
ベテランスタッフは、私よりも10ぐらいは下かなと思うんだけれど、きっと監督さんの、私と同じ世代であろう監督さんの価値観を、つまりは昭和的価値観をちょいとかぶせられている感があったけれど。40ぐらいの男子だったら、ベテランであってプライドがあっても、こんな昭和な対応とるかなぁと思うし、とってほしくないとも思うけれど、まぁとりあえず、新しい命が産まれて良かった良かった。
アンジーのBARで逢いましょう
2025年 88分 日本 カラー
監督:松本動 脚本:天願大介
撮影:福本淳 音楽:
出演:草笛光子 松田陽子 青木柚 六平直政 黒田大輔 宮崎吐夢 工藤丈輝 田中偉登 駿河メイ 村田秀亮 田中要次 沢田亜矢子 木村祐一 石田ひかり ディーン・フジオカ 寺尾聰
2025/4/17/木 劇場(シネ・スイッチ銀座)
凄い良かった。日本でもこんな映画が作れるんだと思って。それは勿論、草笛光子という稀有な存在があるからであり。
だってオリジナル作品というのが嬉しいじゃないの。インディーズ系ではなく、こんな大女優を招聘した商業映画でベストセラーの原作もない、オリジナル作品というのは昨今、本当にお目にかかれないから。
彼女の低い声、ぱしりと断定する物言い、鋭い眼光、でもチャーミングな物腰と笑顔。一瞬一瞬が本当に画になる人で、それは監督さんもオフィシャルサイトで語っていたし、本当にそう。リヤカーの後ろに真っ赤なドレス姿で後ろ向きに座って、ぴらぴらと手を振る、その姿がなんてキマって、粋なんでしょう!
後に登場する、彼女に騙された詐欺集団はまさに、こんなバァサンに、と侮ったに違いないが、アンジーとひとことでも言葉を交わせば、アンジーはアンジーという存在であるというだけですべてを超越していることが判るのであった。
あっけにとられた不動産屋主人が外に出て一服つけながら、二人があっという間に打ち解けて話が盛り上がっている様子を窓越しに眺めて、いくつになっても年上の女がいいのかねぇなどとつぶやくから、あれっと思った。昨今は多様性が叫ばれる時代、それを入れ込まなければという義務的な感覚を感じることが、それもなぁと思いもするけれど、でもとにかく、感じちゃったのであった。
アンジーは狂言回し、というか、触媒というか、彼女によって人生があぶりだされ、輝きだす、という構成ではある、確かに。アンジーは謎だらけだし、どこか御伽噺チックなキャラクターで、そのまんまディズニーランドのアトラクションにいそうなぐらい。
象徴的なのはラストで、この街を後にしたアンジーが広大な自然の山道で、ヒッチハイクする、なんとまぁ羽織袴姿でバイクをぶっ放すディーン・フジオカに拾われ、イカしたお姉さんとしてニケツするっている、さいっこうのラスト。まさにこれが、アンジー、演じる草笛光子様でしか作り上げられない女性像!
特に工藤氏演じる、ひとこともしゃべらない、麿赤児を思わせる前衛舞踊を披露する男が、凄く良くて。いい感じにファンタジーで、いい感じにリアリティ。現実社会に適応できないんだけれど、すさまじい才能を持っている、それを披露する場がない、てか、披露する気もない、ナチュラルボーンアーティスト。
アンジーは職人としての六平氏をまずスカウトしたけれど、彼はホームレスの仲間たちを数珠つなぎに紹介して、その中に、この孤高の芸術家がいたんであった。
言葉を発さないから判らないんだけれど、だからこそ彼のアイデンティティはずっと揺るがなく一定していて、ホームレスでいても、アンジーに雇われて働いても、その中で思いがけず人とふれあいが出来ても、そしてその一連の非日常が終わり、さぁこれからどうしようか、と思い切って都会でのパフォーマンスに踏み出ても、変わらなくて、踏み外さなくて、凄く良かった。
誰かに出会って、きっかけになって、変わって、それもまた、素敵だけれど、そして彼もそれはあったけれど、自分自身を見失わない、それはまさにアンジーにつながると思ったし。
何気ない感じで描写するんだけれど、この兄妹は、幼なじみだからさ、麟太郎が兄にずっと恋しているのを知っているし、リンタロウもこの二人に自分の気持ちがバレているのを判っているに違いない。
麟太郎は恋する先輩にどうするんだと問われて、実家の理容室を継ぐのかと問われて、何も言えなかった。だって、彼にとって大事なのは、将来の職業ではなく、彼への恋心であり、それゆえの自身のアイデンティティだから。
麟太郎が母親に決死の思いでそのことを告白すると、母親は、知ってたよ、とこともなげに言った。ことさらに、こともなげに言ったのだろうと思うけれど、それは息子の気持ちを和らげるという意味であり、本当に、そんなことどうでもいいことだと彼女は思っているだろうし、実際、そのとおりだし。
そんな風に、明確に明文化して思ったんじゃないかもしれない。でも苦しい、この思いを、いわば異質な、異星人的なアンジーと出会ったことで、麟太郎は自身と向き合ったっていうことなんだろうなぁ。
走るしかない、全速力で走るしかない。そして、すべてを放出して、自分の内面に降りていって、何かを見つけ出して、人生が始まる。そしてその人生の転換期、瞬間に、アンジーに出会った。このトンでもないマダム、トンでもない経歴の彼女を、詐欺師集団から逃げ出させるなんて経験をして、麟太郎、もう無敵じゃないの!!
このキャラをわざわざ作り上げたのに、コメティとして受け流すって、今の時代、なかなか勇気のいることだし、技術のいることだと思うんだけど、サラリとやっちゃったことに、スゲーと思っちゃって。
直面しなくていい、さらりと受け流してほしい。でも判ってるよという、もうこれはマジックだよね、奇跡に近い、それをアンジーはまき散らして、そして去って行った。羽織袴のディーン・フジオカのバイクにニケツしてさ!マジ最高!!★★★★★
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