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「ふ」


2025年鑑賞作品

ファーストキス 1ST KISS
2025年 124分 日本 カラー
監督:塚原あゆ子 脚本:坂元裕二
撮影:四宮秀俊 音楽:岩崎太整
出演:松たか子 松村北斗 吉岡里帆 森七菜 YOU 竹原ピストル 松田大輔 和田雅成 鈴木慶一 神野三鈴 リリー・フランキー


2025/3/6/木 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
大人の夫婦愛、ラブストーリーに、松たか子という正真正銘の実力ある女優を持って来て、タイムスリップを絡めてくる、というのは意外というか、凄い冒険とさえ思う。タイムスリップ恋愛モノはどこか……そうね、そもそもは大林映画のイメージもあるからだろうか、青春の味がする思い込みが確かにあったかもしれない。

本作は、もう予告編で示されているからここはネタバレにはならないと思うが、事故死してしまった夫を、15年前にタイムスリップすることで救えるんじゃないか、それは私と恋に落ちず、結婚しないこと、私と結ばれない運命にいざなうこと、という、それはそれは切ない基本線。
そして、しかしそれは、過去を変えることによって未来を変えてしまうこと。タイムスリップにおける禁断の、タイムパラドックスに真正面から斬り込んでいる。これが、どうなるのか、という見応えがある。

結果的には、実に大人の対応として、タイムパラドックスは起こさなかった。大人の対応をしたのは、事故で死んでしまう未来を知ってしまった夫であった、というのが、彼を救おうと何度も何度も15年前に旅する妻の、言ってしまえば浅はかさを示すことになったんじゃないかと思ったり。
なんだかもやもやしたのはそのあたりだったのかもしれない。どうやって回収するの?彼女の浅はかな行動に対してさ!とかひっそり思っていたのかもしれない。なんだか心の中であらさがしばかりしながら見ていた気がしたもの。

あんなにお互い好きになって結婚したのに、なぜこうなるのか、という、世の中の夫婦事情を社会的検証したモデルケースのように描く前半。離婚届に記入し終わり、それを夫が今日、仕事帰りにか提出するというところまで来ていた。
いや、物語の冒頭はもう早速、夫の非業の死の場面からだった。ホームに転落した赤ちゃんを乗せたベビーカーと若い母親、彼女たちを助けようと迫りくる電車をものともせず飛び降りた夫の駈(カケル)。

後にタイムスリップした先で、そんな運命が待っているとは思いもしない彼に、妻のカンナは、見知らぬ人を助けて死の危険にさらされる時、家族のことを考えないのかと、責め立てる。
まさにそれを回避するためにカンナは過去へと何度も何度も舞い戻っているのだからその問いは当然とは言えるのだけれど、ほぼ離婚決定だった夫に対してそんなこと言うのは理屈が合わなくない??

タラレバは良くない。そう思うのは、本作がタラレバありきの物語だから。もう冷え切った夫婦生活だった。お互いがお互いを思いやれなくなっていた。こういう場合、それぞれ自分が正義になっている。そしてそれは、決して客観的に見ることはできない。夫婦の問題を、客観的に見る立場の人なんていないから。
だから、同性としては、夫婦生活に突入した途端、思いやりを失った夫に対して失望したカンナの気持ちは凄く判るけど、でもそれは、やっぱり同性から見るからなのだ。なのに、破綻した夫婦生活に関しては、夫側の視点は排除されている。カンナ側からの視点で、どんどん自分から距離を置いて行ったように見えてしまう。

これが、夫と離婚してその後一人で生きていく女性の物語なら、それでいいのよ。ワキ役となる夫の事情なんて、主人公の視点だけで語られていいんだから。でも本作は、最終的には二人は対等、じゃない?
15年後の未来から来る、未来の妻と恋に落ち、自分が事故死する運命を知り、結婚生活で愛する妻を哀しませたことを知り、まだなぁんにも悪いことしてない若き夫が、入れ替える必要もない心を入れ替え、未来の自分の尻拭いをして幸せな結婚生活を15年送って、死ぬる運命の日を待つ。

うっわ、こう書いちゃうとめちゃくちゃ悲惨。こんなの耐えられるの。駈は  学者で、何万年もの歴史を刻んできた学問を通して、タイムスリップという現象を、ファンタジーではなく、学理的にあり得ることとして受け止められる器を持っている。
だから、突然目の前に現れた、年の離れた女性であるカンナに惹かれる理由を、そういう運命があるならなるほどと、過去現在未来は、レイヤーのように同時存在しているという認識を、学問的に自然に会得している彼はすんなり受け入れるんである。

すみません、なんか文句ばっかり言っちゃってるけど、15年前にタイムスリップした、つまり若き駈と40半ばのカンナが、これはたった一日よ、たった一日で、駈の方が運命感じて彼女と恋に落ちるという繰り返しが、まぁ、キャラメルのように甘くて、キュンキュンしまくって、もうこれだけですっかり満足、お腹いっぱい。
それこそ劇中のカンナが若き駈から言われる殺し文句「これ以上僕をドキドキさせないでください」にズキュンときて、タイムスリップのおかわりを繰り返して、そのたびにメイクもファッションもオシャレしてイイ女にランクアップしていくところとか、笑っちゃうけれどトキメキラブストーリーとして最高でさ。

そう……タイムスリップしている、真冬から真夏の15年前に旅しているカンナである。その日は、まさに駈とカンナが出会う運命の日でもあるのだ。新進デザイナーとして意気揚々とオシャレホテルの開幕式にやってくる若きカンナと、大学教授の助手として、古生物学者の駈が出会う日だったことは、ここにうっかり迷い込んだカンナは当然、その瞬間に判っていた筈。
でも、なんとなく、ぼんやりと、そこんところは観客には曖昧にされていたような気がする……いや、ニブい私が気づかなかっただけかもしれんが(爆)。

過去現在未来がミルフィーユのように同時に存在している、という世界観を、駈はすんなり受け入れていたけれど、さすがに時空が違う同一人物が同じ場面で存在することは難しく、若き自分を遠く視界の隅にとらえただけで、カンナは足腰が立たなくなるほどになってしまう。それで駈に事の次第がバレてしまう訳で。

現在の時間軸でカンナを糾弾する、駈の師事していた大学教授の娘、里津。これはねぇ……。こんなん、言わせんなよ。同性としてこんなこと言いやがるヤツはサイテー、ぜぇったいに友達にはなれない。
判る、判るよ、言いたい気持ちはさ。久しぶりに偶然再会した、かつて恋していた男が、どうやら今は不幸らしい、疲弊していて、その直後に事故死して、私だったらそんなことにしなかった!と。

でも、これこそ究極のタラレバだよ。言っちゃダメなんだよ。あんただって、こうなる、こうさせちゃう可能性はあるんだから。誰と結婚したとかじゃなくて、駈が非業の運命となったのは、彼自身の避けられない運命、まぁ……こんなことは言いたくない、哀しすぎるけど、まっとうで、優しい人だったから、なんだもの。

そうね……この、元カノにさえなれなかった教授の娘の、あまりにもあまりな言い様にイラッとしたよね。駈と離婚直前であった冷ややかな夫婦生活を送っていたカンナだから何も言えずにいたけれど、いや、どんな状態であったって、こんなこと他人から言われる筋合いないね!
だって、テメーが結婚相手になったからって、上手く行ったかなんて判らないじゃない。あんなにお互い恋しあった駈とカンナでも破綻したのに、なんでオメーだったら上手くいくとか思うわけ??

女子がこんな軽率なことを言うような生き物だと思われている、とか極端に反応してイラつくあたりがフェミニズム野郎の悪いところさ。軌道修正。
15年前にタイムスリップして、自分と出会う前の若き夫とキュンキュンしまくるカンナ=松たか子氏のチャーミングさには、さすが!!である。遺影の夫に浮気じゃないからね、あなたなんだから、といちいち言い置いてタイムスリップするのが可愛い。まぁ基本的に女子は若くて可愛い男子に弱いからね(爆)。

あ、そうか……それこそが、女子的には弱点というか、そこを突かれている気がして悔しい気持ちがしたのかな。40半ばのカンナと出会って運命を感じた駈が、これから15年若い彼女と出会って恋に落ち、15年後の君に出会えるんだと嬉しそうに言うのはそらぁグッとくるけど、でもさぁ……。
つまりは、15年若いカンナはことの事情が判らず、未来の自分を反省した夫の優しさで幸せな夫婦生活を送り、ある日突然、夫が事故死しちゃう展開になる訳でしょ?

……うーん、うーん……。私もさ、何にもやもやしているのかよく判らないんだけれど……、幸せな夫婦生活を送ることになった二人が、夫の方が運命を判っていたという結末が、イヤだと思う。悔しいと思う。納得できないと思う。
物語のほとんどは、その事情を握っている妻、女性側、カンナが奔走する、まさにエンタテインメントで楽しませるからうっかり騙されそう(というのは言い過ぎだが)にもなるけれど、結局は、あんなに頑張ったカンナは何の記憶も残らず、彼女からもたらされた事情を飲み込んだ駈が、自分勝手な夫の態度を(未来の自分なんだからある意味濡れ衣なのに)改め、妻を愛し、穏やかで幸せな15年を続ける。

これはさ、ズルいよ。なんか結局女の文句たれを正義に転換させることで、男が理不尽に反省させられ、良き夫となり、でも運命を受け入れて死んじゃう、美談!!みたいになっちゃうじゃん。
そんなこと、女は望んでないよ。それは、前半でカンナが言ってたように、世間からいい人と思われるより、愛する家族のために無責任にも生き続けてほしいんだよ。いや、そこまで極端な言い方はしてなかったけど(爆)、でもそういうことでしょ?

美談をドラマ化したいとか言って、わっかりやすいマスコミ関係者を登場させたりして、しかもそのキャスティングにYOU氏を当てたりして、これはかなりわざとらしくあざといと思っちゃったんだけれど、その回収は特段なされてない感じだったから、これもまた気になったかなぁ。松たか子氏、松村北斗氏のカップリングはとても素敵で、ドキドキ、キュンキュンしたけれど、あーあ、つまんない私のモヤモヤでごめんなさい。

あ、もうひとつ。これもまた同性として気になっちゃったんだけど、今の技術は素晴らしく、若く見せる、老けて見せる技術は繊細に素晴らしいんだと思う。だからこそ、今現在の松たか子氏が、現在時間軸を演じているんだと思って見ていると、若き日のカンナとして登場する彼女に、メイク、ファッションは当時、それは当然、それ以上にちゃんと若い、これはどこまで技術的修正してるの?
そこに気を取られちゃって、つまりさ、15歳違いの恋愛事情を、片方その年数技術的に若返らせている訳で、めっちゃ目を凝らしてしまって、これは……同時期に生きていて、彼女の年齢が判っちゃうからこその理不尽さだってことは判っちゃいるんだけど。でもさぁ、ズルいよね。男子側は、老けメイクになるからそんなに苦労しないだろうもの。若くピチピチの状態が現状の彼なんだもの。ズルいズルい!!

でさ、結局……幸せな結婚生活を15年続けて、駈は運命通り、事故死してしまう。それを駈は判っていたから、妻のカンナに手紙を残すんだけれど、逡巡した結果、そもそもの事情、カンナがタイムスリップしてきて、自分が事故死する運命にあることを告げちゃったことを伝えないんだよね。
この日事故死する運命は判っていた、でもそれが何故なのかを書けずに、妻への愛を綴るだけ。いやいやいや。これで妻のカンナが涙を流して終わるってのはないよ。だって、夫が、自分が今日死ぬと判っていたから妻に残した手紙、なのになぜそれが判っていたのか説明できずに、君を愛していたよで終了、それを読んだカンナが涙を流して終わりって、ないないない。そんなんで騙されると思ってるのか、女をバカにすんなよ!

なんなん、これ。お互い好き合って恋に落ちて、結婚したのに辛い思いをさせた妻に、先々死んでしまうという免罪のもと、完璧な夫を”演じて”いた、とさえ思えちゃう。
昔に比べて比較的自由に離婚できる今の時代が、家父長制に苦しめられてきた女性にとって良くなってきたと思ってるから、男子に生き直すチャンスなんか与えんなよ、女子は一人で楽しく自由に生きていけるんじゃ!!と思っちゃう。

あーあ。もうこの時点で私、ダメね。あ、でも一つ、結婚した夫婦という題材ならば、子供を持つかどうかは当然発生する事象、少なくとも今の日本ならば、というところもスルーされたのもガッカリだったなぁ。
もちろん、そんなことが関係ないことが常識の社会になってほしいとは思ってる。でも、今は違うじゃない。だから、みんな、苦しめられているのに、夫婦生活を描いてそれに触れないのは、悪い意味でのファンタジーと思っちゃったかなぁ。★★☆☆☆


V. MARIA
2025年 94分 日本 カラー
監督:宮崎大祐 脚本:池亀三太
撮影:向山英司 音楽:SUGIZO
出演:菊地姫奈 藤重政孝 真雪 吉田凜音 サヘル・ローズ 西村瑞樹 まいきち 大島璃乃 佐藤流司 藤田朋子

2025/5/23/金 劇場(池袋シネマ・ロサ)
監督さんのお名前に見覚えがあったので、情報も入れずに飛び込んだが(それはいつものこと)、ビジュアル系バンド音楽をモティーフにしているという、初めて出会うジャンル映画であったことに驚く。
私自身が全くの門外漢なので、鑑賞後あれこれさまよっていると、実際V系(と言うのも、初めて知った)ファンの方の感想に出会ったりして、結構動揺していらしたりして、興味深いものがあった。

それは、本作の音楽を担当しているSUGIZO氏に根差すあれこれらしいのだが……気になる!そう、SUGIZO氏。劇中登場するバンドの中で私が知ってるのは彼が属していたLUNA SEAとX JAPANだけだもんな。
でも、それだけのビッグネームが音楽を担当し、どうやらファンの心をざわざわさせるようなネタが物語の中に仕込まれているというのは、かなり気合の入った企画に違いない。
と思いつつ更にさまよっていると、そのとおり、若手社員にアイディアを募った企画であり、実際に熱烈なバンギャルである方のそれが通っての本作であるのだという。

最近、ホントにここ1、2年のスパンで、こうした、生の迫力あるバンド演奏を主軸に、音楽を愛する人たちを描く映画によく遭遇する。メジャーにヒットしている音楽になんとなく接しているだけの私のようなヤツにとって、舞台の上のミュージシャンも、そのファンも、境目がないぐらいに熱く溶け合っていて、そのたびに感動していたのだけれど、本作はさらに一味違っていた。
一つのバンド、1人の歌手、といったことがメインモティーフになっていたそれらに比して、本作はハッキリと、ビジュアル系バンドに絞っていたから。

この言葉自体が誤解を招くというか、いや、そもそも私が無知だから何とも言えんけど、メイクして演奏するバンド、ぐらいな認識でいたから。
実際本作を観終わってみても、じゃぁビジュアル系って端的になんなのかというのは、難しい。でも、そんな単純なことじゃない、深い世界、それこそ、ヒロインの友人、ハナが言う、沼だよ、ということなのだと思う。

本作の上映前に、20分ぐらいだったかな、伝説のライブハウス、鹿鳴館が老朽化のために閉じる、その歴史を、店長さんとSUGIZO氏をメインの語り手として、ここで演奏したミュージシャンたちが語るミニドキュメンタリーが併映されていた。最初の単館公開の時はどうだったのか判らないけれど、拡大公開となった今回において付け加えられたのか、どうなのか……。

そもそも本作の中でも、ラストシーンは鹿鳴館で、マリアは亡き母のかつての恋人が、恋人であった母に向けて作った、自身のルーツである「MARIA」を、彼曰く30年ぶりに演奏する、というエモエモな展開なんである。これは、私のような、そもそも鹿鳴館というライブハウス自体を知らないという部外者にとって、その重要性を知らなければ本作の意味合いが大きく変わってくる訳で、だからこのミニドキュメンタリーを作ったのかなぁ、と思ったりして。
東海林のり子氏まで出てくるからビックリした。そうだそうだ、彼女はXのファンであることは有名だったけど、それだけじゃなく、ビジュアル系、そして、ライブハウスに足しげく通う、まさに彼女こそがバンギャルだったのだ。ならば劇中描かれる伝説のバンギャル、響子さんはモデルだったりして……。

伝説のバンギャルとか、そもそもマリアの母親がおっかけしててそのメンバーと付き合っていたバンドも伝説化しているし、その当時が描かれる、いい具合にソフトフォーカスかかったシークエンスとか、見ている時にもなんとなくこそばゆい感じはあったけど、先述した、ファンの方たちにとってはやっぱりそういう感覚はあったみたい。
どんなテーマであっても大なり小なり、こういう“盛ってる”度合というのはあるとは思うけれど、それを知らない外部の私のような観客にもそれが感じられたというのは、なかなか難しいと思う。
なんていうのかな……誰もに判ってもらえる物語を用意してしまったことが、ファンの方たちにとっても、単純に映画を見に来た私のような観客にとっても、すとんと落としどころが見えない結果になってしまったような気はする。

何も知らずに入ってきた私のような観客を、吹き飛ばすような音楽だけの力で良かったのに、と思っちゃう。ビジュアル系の歴史、ライブハウスの歴史を上映前に丁寧に示して、そして本作自体も、その世界を知らなかった女の子が、亡き母の青春時代を追想する形で入っていく、なんだか、優しすぎる、というか、道徳の教科書みたいに思っちゃう。
もったいない。だって、こんなにもエネルギー爆発、エモーショナルな音楽、その中に、ミュージシャン自身の、偏見に対する葛藤や、ファッションやメイクだけじゃなくて、音楽的なものも豊かに融合することを目指したSUGIZO氏の強い信念を、その事前のミニドキュメンタリーで知るとさ、本編となる作品で、設定も物語も、使い古された家族と友情の物語になってしまっているのが、もったいない!と思っちゃって。

母子家庭で育てられたマリアが、母親を旅行先の不慮の事故で亡くすところから始まる物語。押入れの奥から、赤いガムテープで厳重に封じ込められた段ボール、いかにも開けろよというメッセージであるその中から出てきたのは、ビジュアル系バンドのアイテムあれこれ。
マリアはそもそもまずそれらがなんなのか、よく判っていなかったと思う。入っていたカセットテープを聞いてみようとしても、再生出来なかった、というところが、物語の始まりである。LUNA SEAやX JAPANのグッズが入っていて、メンバーのマスコット、同じものをぶら下げている女の子を登校中に発見する。その子こそが、親友となる運命の相手、ハナ。

同じ趣味を共有して、親友となる学生時代を描くというのは、定番中の定番だけれど、後にハナがマリアにいら立つように、本当にV系が好きなのか、亡くなったお母さんの手がかりで引っかかってるだけなんじゃないのか、私と一緒にいるところを同級生に見られて動揺していたじゃないかと、もうね、彼女の気持ち、めっちゃ判るからさ。
だから、マリアがこの音楽世界に本当に惹かれて、友達の目なんか関係ない!という経過がなければ、関係修復はないと思っていたんだけれど……。一見して、外見上は、マリアはそんな感じのことを口にするけれど、どうかなぁ。お母さんと、お母さんの元カレのことしか考えてなかったんじゃないの。

てゆーか、いろいろすっ飛ばしちゃったけど、そもそもね、マリアは、ママのことを何も知らなかった、ママが封印していた、逆に言えば発見されたがっていた段ボール箱を開けて、知ろうともしていなかったママの青春へと旅をする、ということなんだろうと思う。
神田川、とまでは言わないまでも、昭和さえ感じさせるバンギャルとバンドマンの恋は、ファンたちにリンチされた彼女、彼はミュージシャンを諦めると言って、そんな、音楽を諦める彼と音楽をやっている彼のファンであった彼女は、続かない、別れることになる。
母子家庭で育てられたマリアは、父親のことを全く聞いていなかったみたいで、突然段ボール箱から飛び出してきたあれこれからあちこち訪ねて、母親の若き頃の秘密を徐々に明らかにしていくんである。

この経過は、懐かしき昭和のアイドル映画的展開。学校で孤高の存在であるカッコイイ友達といい、私の青春時代にメッチャ見覚えある。だからかな……分裂、というか、分断してしまうのは。
この、昭和的友情物語に特化するのか、ビジュアル系バンド音楽の歴史に特化するのか。正直、どっちつかずだったかなぁと思う。わざわざ学校内のキラキラ系女子まで持ち出すんだから、ハナがいら立つのは当然である。

そもそも、マリアがこのキラキラ系女子たちとどの程度の友達関係だったのかがあいまいのままだったのが良くなかった気がする。
突然の母親の死で、当然しばらく休んで、登校してきたマリアに一見して心配げに近寄ってきた二人だったけれど、文化祭の出し物の話題を持ち込み、それがいかにもな今ハヤリのK-POPガールズアイドルをやろうということな訳。

これはさ、後にマリアがハマる、いや、ハマりそうになる、エモい時代のV系と対照させているんだから、だったらそこは徹底的に、私が惹かれるのはそっちじゃない、V系なのだと、ママがキッカケだったとしても、惹かれていっちゃったんだと、それぐらいの説得力がないとなぁと思う。
だってさ、めちゃくちゃありきたり、めちゃくちゃステロタイプ、ザ・女子高生としてこの友人女子たちが描かれるんだもの。女子高生はこんなもんでしょと言わんばかりで、凄く、悔しい。

伝説のバンギャル、響子さんを演じるのはサヘルローズ氏。宮崎大祐監督のお名前を覚えていた「VIDEOPHOBIA」が強烈な印象だったので、確認してみたら、その作品の、キーマンというか、モンスター的存在として出演なさっていて、鮮やかに想い出した!!
お抱え女優、信頼のあかし、なんかいいな。実際、彼女の演じる響子さんのように、この矜持を守り続けているファンはいるんだろうか。これもまた、そうであったらいいという幻想にも思えるけれど。

マリアのおばあちゃん、つまり、不慮の事故で死んでしまったマリアのママのお母さんを、藤田朋子氏が演じているのが、なんか、胸に迫った。そうか、もうおばあちゃんを演じるお年頃、そうかそうかとか思って。
そして彼女はさ、ボール・マッカートニーの熱烈なファンだったなぁと思い出したりして。音楽の、それもロックの、熱烈なファンであった彼女が、孫娘が思いがけずロックに出会ってしまった場面に遭遇したんだなぁと思って。

マリアが、ママの若い頃の、テレビのインタビューを受けている映像を見る場面があって、イイなぁと思うけど、それもまた、昭和的アナクロニズムで、娘のマリアが自身のアイデンティティに結びつけるまでの感動にはいたらなかった印象。
正直、その印象は全編に渡っていたかなぁと思う。説明的ミニドキュメンタリーじゃなくて、じっくりドキュメンタリー作品を撮った方が良かった気がするのだが。★★☆☆☆


ぶぶ漬けどうどす
2025年 96分 日本 カラー
監督:冨永昌敬 脚本:アサダアツシ
撮影:蔦井孝洋 音楽:高良久美子 芳垣安洋
出演:深川麻衣 小野寺ずる 片岡礼子 大友律 若葉竜也 山下知子 森レイ子 幸野紘子 守屋えみ 尾本貴史 遠藤隆太 松尾貴史 豊原功補 室井滋

2025/6/15/日 劇場(シネスイッチ銀座)
うわぁ、これ、こんな映画作っていいの!京都の人たち怒らないかなぁ……。「翔んで埼玉」は県民大喜びだったけど、あれは全世界であるあるらしく、海外でもウケていたというが、京都というのは本当に、……こうして改めて描かれているのを見ると本当に摩訶不思議で、本当に真意がどこにあるか判らない。
それは確かにさ、昔から言われていたことではあったけど、確かにさ、京都の人たち自身も自嘲気味に言っていたとは思うけど……いや!自嘲気味じゃない、むしろあれは、それこそ誇り高き、だったのだ。本作の描写にヒヤヒヤしながらも、はたと膝を打ちたくなるのはそこなのだ。
日本人の奥ゆかしさ、謙遜という気質を、京都だけが高貴に持ち続けているのだと、そう誇っているってことではないのか??

いや……見ている時にはそんなことは思ってないけど(爆)、こんな真正面から、いわばおちょくっちまっていいのかと、ヒヤヒヤするばかりなんだけれど。
監督さんは愛媛のお人、そうか、企画と脚本は別にいらっしゃる、アサダアツシ氏。企画、ということは、本当に本作を作りたいと奔走したってことだ。そして自らオリジナルの脚本も書く、メチャ本気やんか。一見して漫画原作なのかなと思わせるようなところもあったから……。

主人公のまどかは相棒の漫画家、莉子とコミックエッセイを連載しているフリーライターという設定、京都にやってきたのもそのネタの取材のためで、コミックエッセイに落とし込まれる形でどんどん展開するのだし、本当にこのコミックエッセイが実際にあって、原作になったんじゃないかという錯覚させるぐらい、ありそうな感じがしたもんだから……。
最初のうちは。最初のうちは確かにありそうな感じがした。でもどんどん、怖くなる。まどかが、いや、彼女だけじゃなく、いろいろ暴走する。ラストのいきなりのカットアウトで唖然とするまで、この京都という摩訶不思議な魔窟をどんどん探検しまくる。

まどかの夫が京都の老舗扇店、「澁澤扇舗」の跡取り息子であることから、彼女はネタ取材に京都に赴く。このファーストシーンから、かすかな不穏が漂う。夫の真理央は実家にただいま、と声をかけるものの、踵を返してふらりと出て行ってしまう。
まどかはこの義両親とまるで、ほぼ初対面かのような感じに見えて、でもまどか自身が、漫画で生き残るためにがつがつしているし、この義両親は、……後に思い知らされるのだけれど、これぞ京都の、心の内を正直になんて出さない真骨頂だったのだ。表向きはとても気さくで親切で、まどかは本当に、娘として歓待されていると思っちまったんであった。

それがすべてウソだとは言わない、少なくとものんびりした義父(だからこそ一番怖いのだということがラストで判るのだが)は本当にまどかを歓迎しているように見えたし、実際そうであったと思う。
そう考えると……女たちが、京都の老舗を支えるのはダンナじゃなくて女将だから、女たちが、恐ろしいということだったのだ。

ちょっと話を戻すと、企画と脚本を手掛けているアサダ氏はてっきり京都の人かと思いきや、奈良の方。うっわ、微妙絶妙……。奈良から見ての、つまり近いけれど客観的に見える京都、ということなのか……こっわ!
奈良が京都に対して抱くあれこれを、外野からなぁんとなく感じたりしていたから、この立ち位置でシニカル(より毒味があるというか……)に京都を描くっつーのが、すげーなーと思って……。

でも、まどかにその立場を投影しているという訳でもないんだよね。性差もあるし、まどかは東京在住、夫は京都のボンボンではあるけれど、どうやらその重要性も、京都のことも、まったく判っていないまま、せっかくこの立場をコミックのネタにしない手はない、ということで乗り込んだのだから。
自分ではできない、ブルドーザーのように乗り込めるキャラクターとしてのまどか、だったのかもしれない。まさにブルドーザー。書き手が制御できなくなるほどに、どんどん暴走していく後半戦は怖いほど。

まどかの義両親を演じるのは室井滋氏と松尾貴史氏。最高である。夫婦漫才のようにまどかが感じるほど気兼ねのないように見えたのは、それだけ完璧な京都人だったということなのだろう。
お母さんの紹介で出会う、お母さんよりはひと世代若い女将さんたちは、一見して本音は見せないけれど、本音を見せてないよね、ということは判る親切さはあった。それは逆にイジワルに見えるってことなんだけど、まどかはさっぱり気づかないのが、観客であるこちらから見ても怖い。

京都イコール老舗を求めて女将さんたちに取材するも、それほど老舗じゃないとか、昔からの商品はなかったりとか、そこに接するとハッキリと、正直っつーか無神経っつーかデリカシーなく、ガッカリした顔をするまどか。京都なのに、という顔をする。
この導入だったから、京都の人々(てゆーか、女たち)の腹の見せなさにコワッと思いながらも、それに対抗するにはこれだけの無神経じゃなくちゃ行けないということなのか、と妙に納得する。

彼女の夫である真理央が、まどかを諫めながらも、自分自身が実家、ひいては京都から距離を置いている、腰が引けているというのが、彼は京都人だからその気質は判っているけれど、ボンボンはそれに太刀打ちできない、だからお江戸に逃げこんで、仕事という言い訳の中に囲い込まれているのかと。
まどかはそんな夫の本心は、結局最後まで知ったこっちゃない、んだったろうなぁ。相棒の莉子が夫の浮気相手と知ってもさして驚かず、というより、この時点でのまどかはもうイッちゃってるというか、京都を私が救うんだ!!というフェーズにいたから。

判りやすい敵として、“ヨソモン”である、あれこれリノベーション野郎の不動産会社社長、上田がいて、彼を敵視することで、漫画で攻撃しまくることで、まさに今のネット社会、SNSの負の効力を駆使して誹謗中傷しまくる(彼女はそれを誹謗中傷と思っていないところがコワいのだが)。
上田は最初こそイカり、抵抗し、脅すのだけれど、まどかは彼が、京都人ではないことを知ってからまるで同族嫌悪のように攻撃しまくり、降伏させてしまう。
でも彼女自身は義理のお母さんを間違った方向から救うんだとマジで思い込んでいるヤバさで、お母さんから、ついに、これまで絶対に真意を見せなかったお母さんから、嫌悪をまっすぐにぶつけられることになる。こ、これは……。

この展開になったら、さすがにまどかもショックを受けると思った。京都人は真意を見せない、今の言葉は真意なのかと、自身が叱られて糾弾された老舗の女将さんに、臆せずいちいち電話して確認をとるまどかの心臓の強さを思ったら、確かにこんなことでへこたれる訳もないんだった。
ダンナが浮気している事実を突きつけられても、それが相棒の莉子だと判っても、あれ?私、全然傷ついていない、ということにこそ一瞬戸惑っているように見えたまどか。自分自身がヨソモンさんであることで火がついたように見える、京都への偏愛、ズカズカ踏み込む身勝手な義侠心。演じる深川麻衣氏が一見して無害そうに見える女の子なだけに、逆に怖くって、その無神経さが。

まどかの標的とされる、実はヨソモンさんであった、今は京都人に染まっているってところが彼女の神経を逆なでする上田である。演じる豊原功補氏がまー絶妙で。いい感じの年頃、若すぎもなく老けすぎもなく。いい年ごろでこの京都に溶け込んでいる。
いい感じにエネルギッシュで、京都の人たちに信頼されている感を醸し出している。でも実際は、されていないってあたりも、お互いそれを判って親し気にしている感じもめっちゃリアリティである。

それをまどかが暴くに至る訳だが、そんなことは彼に関わっている京都のベテラン陣は誰もが判っていることであり、上田自身もそう思われていることを判ってて差し引きしながら商売をしている訳であり、そこにまどかが、正義はここにあり!!と突っ込んできたから、上田は怒った訳さ。でも女たちは、知らんふりをしているってところがミソなのよね。

まどかは義理のお母さんのためにと上田を徹底的に糾弾したんだけれど、そしてその間、義理のお母さんは何にも言わなかったんだけれど、上田が降参した後、まどかがお母さんのためにやったった!と思った後、お母さんはまどかに反旗を翻す。
私はマンションに住みたかったんだと。かまどで料理するなんて手間はもうやりたくないと。つまり、余計なことしやがって、である。マンションの快適な暮らしを夢見ていたけれど、この古都で、老舗に嫁いで、それが言い出せなかった。年若い嫁は、手のかかるかまど料理やらを美味しいですねと持ち上げて、だったらと手順を教えたりもしたけれど、でも……マンションの便利な暮らしを私はしたいんだ!!と……。

あぁ、本当にそうだ。勝手な理想の押し付け。こんないわゆる“丁寧な暮らし”は、体力と時間があるからこそできるし、やりたいと思っていなければ、ただただ苦痛なだけなのだから。
この部分をちゃんと取り上げたのが、良かったなぁと思った。それこそさ、老舗じゃない、ふつーの会社員の妻であり専業主婦であった私の母は、良く言っていたから。かまどなんてのはなかったけど、一軒家じゃなく、マンションがいい。管理会社が全部やってくれると。
なんかこれがね、京都に対する無責任な憧れ、実際に京都に住んでいる人たちの想い、でもそれを全部飲み込んでしまったら、世界中のそれなりにお金のある年は平均化されちゃうんだろうなぁ、って。それを本作は示そうとした部分はあるんじゃないかって。

まぁでも……ラストは、それどころじゃない、っつーか、えぇ?ここでカットアウト??というアゼンさである。まどかが、自分だけで突っ走ってしまって、女将さんたちからも総スカン食っちまって、でもそれでもめげなくて、という流れではあった。義理のお母さんからも辛らつに、あなたのことキラい!とまでハッキリ言われて。
でも、その先があったのだ。女たちがキツかったから。最後の最後で、そうじゃないと思っていたお母さんも、お母さんこそが最もキツかったから。まさかお父さんに驚かされるとは思っていなかった。でも、お父さんはさ、京都の中で闘ってはいなくって、薄暗い茶室の中で、ネットの匿名で、上田を攻撃していた。殺人予告までしていたもんだから、警察に連れてかれちゃったんである。なんとまぁ……。

京都の、「ぶぶ漬けどうどす」マインドが、プラスマイナス、こんなにも飛躍しちゃう。中盤までは、のんびりとした物語のように見えたけれど、後半は特にまどかのイキりが引っ張って、人間のエゴ全開の展開。
意外に一番怖かったのは、相棒の莉子ちゃんだったかもしれない。最初はおどおどついてくるだけだったのに、事態が殺伐としてくると、率先してデジタルスケッチをする。デジタルスケッチっていうのが、今の時代だなぁと思うし、それがそれこそが攻撃的描写になっているのが思いつかないアイディア。★★★★☆


フロントライン
2025年 129分 日本 カラー
監督:関根光才 脚本:増本淳
撮影:重森豊太郎 音楽:スティーブン・アーギラ
出演:小栗旬 松坂桃李 池松壮亮 森七菜 桜井ユキ 美村里江 吹越満 光石研 滝藤賢一 窪塚洋介

2025/7/12/土 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
絶対に観なければならない作品だと思いながらも、ちょっと怖気づいていた。あの時にあった人間の、そしてもちろん自分自身の中にあるイヤな部分に直面せざるを得ないことを恐れていたから。
でも、そんなことは幼稚な憂いだった。フラットに、とても見通し良く、しっかりとエンタテインメントで見せ切った本作は、オフィシャルサイトでプロデューサーの増本淳氏が語っていたように、彼が書いた脚本を読んだ監督さんが、増本さんの怒りの要素を切りましょう、と提案したことがすべての根幹であったのかもしれない。

この言葉にはハッとした。企画したプロデューサーが脚本を書き、それを託された監督が、演出、というプロの目からそれを見抜いたのが凄いと思った。
私は基本、脚本が映画を決める、だから監督が脚本を書くべきだと思ってて、それは大林信者だったからそのメソッドを崇拝していたのだが、こうした社会派作品においては、そのメソッドは逆効果なのかもしれない、と初めて思った。
素人目に見ても取材量がハンパなかったことは、あらゆる視点からの物語が驚くほど緻密で豊かであることから伝わってくる。

DMATの医師や看護師たち、彼らの指揮官、厚労省、ダイヤモンド・プリンセス号の乗客、乗員、マスコミ、etc……。最初の頃は厚労省を窓口とした国の立場は、この未知のウイルスを国内に持ち込むな、というスタンスだった。
今から考えればあまりに愚かで幼稚な考えなんだけれど、水際で入って来れないように出来ると本気で思っていて、それが正義だと思っていた。未知のウイルスが発生した中国が諸悪の根源で、中国人は勿論、すべての外国人がウイルスを持ち込むエイリアンであった。

それが国内にまん延し始めると、その責任転嫁が都会、東京に住む人たちになり、こんな狭い島国の中でさえ分断が起こるのだけれど、まさにそれが、始まっていたことを、こうして客観的に見ると、懐かしいような苦さで思い出すのだった。
まさしく、プロデューサー氏が言うように、あの豪華客船には世界の縮図が詰まっていたのだった。まるで遠い昔の鎖国を思い出させる差別の視線は、日本国内にとどまらなかったのだということを改めて思い出させた。

当時、私自身はあまり、その報道を見たりはしていなくて、そんなにネット上でも苛烈に批判や中傷や差別が飛び交っていたことを、改めて知る感じがあった。それは私が独り身で、家族に対する差別とか、そうしたことに無縁だったからかもしれない。
そして改めて、そうか、豪華客船だものね、沢山の国の乗客がいたんだということを、知るんである。お恥ずかしいんだけれど、日本に停泊していたんだから、なんか日本人が主な乗客だったとか、勝手に思い込んでいた。
実際は実に56カ国、4000人近い乗客乗員がいて、パニックの中では英語も上手く通じない様は本当に……こんなことがあるなんて、想定している訳がないから。

乗員スタッフは二人に集約される。フィリピン人スタッフのアリッサは、小さな子供を抱えている乗客に笑顔で心を砕く。そして後に発症してしまい、乗員ゆえ、搬送が後回しになってしまう。
日本人スタッフの羽鳥(森七菜)は、通訳が出来るスタッフとして、最後の最後まで重要な役割を果たす。でもその最初はいかにもその若さゆえ、躊躇する場面も多いんだけれど、夫が搬送され、一人残され、夫の様子がわからなくて取り乱す老婦人を必死にケアするところから、彼女自身、変わってゆく。

おっと、なんかかなりサイドから攻めてしまった。本作は脂ののった年代の男子アクターが招集され、もうそれ自体に見応えがあるのだ。
主人公、DMATの指揮官、結城には小栗旬氏。彼一択だったんだという期待に応える。彼だけがチームから離れて、外側からの指示だから、そりゃ凄く難しかっただろうと思うのだけれど、ほぉんとにね、彼の人懐こさの中の誠実さ、という唯一無二さが、なし得たと思う。

結城に対峙するお役人、厚労省の立松も面白い。演じる松坂桃李氏は、最初こそザ・お役人という形で結城と対立するんだけれど、この非常時に柔軟に決まりを変えていくことを結城から提案され、突っぱねるかと思いきやなるほどと取り入れ、それでなくても有能さと粘り強さで、最初から結城を驚かせるコネクションワザを発揮するんである。

後半はちょっと心弱っちゃって結城から叱咤されたりもするんだけれど、その時の言葉がイイ。偉くなれよ、と。そうなったら俺たちがやりやすくなるから、と。
私たちのような一般社会の人間は、もうお役人と言えばお堅い、融通が利かない、失言していなくなっちゃう、という認識。でもきっとその裏に、こうした有能な人たちがいるからこそ、私たちはそれなりにいい感じの生活をしていけているのだろう。

偉くなる、というのは、そうした目に触れるトップになる人物になるっていうんじゃなくて、基盤を支える、その指示を出せる権利を持つお役人になれる、ということなんだろう。昨今の政治事情を見ると、ここを読み違えたらエラいことになる、ということを思ってしまう。難しいことなんだけれど。

マスコミ側の描写がなかなかにシンラツだけれど、これはどんなジャンルの映画でもよく見る光景ではある。でも、豊富な取材を徹底したことが感じられる本作だし、複数のキャラクターやエピソードをまとめて集約してもいるというから、マスコミの中でも一つの局、一つのキャスターに絞ったやり方の中に、さまざま織り込まれているのだろう。
光石研氏が演じるたたき上げのテレビマンはいかにもな、大衆が欲する、失敗をスクープしてこいというスタンスで、その下で働く現場ディレクターの上野(桜井ユキ)は最初こそイケイケに取材する気マンマンだけれど、結城と真摯に対峙する機会があったこともあって、マスコミとしてのあり方に疑問を持つようになる。
正直言えば、マスコミの葛藤まで描くのは、この未曾有の出来事の最初のクラスターに際して、手が回らないんじゃないかとも思った。現場の殺人的なパニックだけで充分すぎるほど映画になると思ったから。

でも、違うのだ。本作の志は、そんな小さなところにはない。今となっては何が起きたか誰もが身に染みて体験している新型コロナウイルスという災害の、その入り口としてあまりにもドラマティックだった豪華客船でのクラスターという出来事、いや、言ってしまえば事件は、プロデューサー氏が言うように世界の全ての縮図だし、56カ国という乗客がいたということはまさに世界だし。
なのに私たち市井の日本人たちは、豪華客船でのクラスターということに、どこか一歩引いた目線でいて、でも日本人の乗客がいるんだよね、無事で降りてほしい、ぐらいのスタンスでいた、ような気がする。言葉がろくに通じず、家族が重篤になって搬送されて一人きりになり、時にそれが小さな子供たちだったりしていた状況を、どれだけ想像出来ていたのか。少なくとも私は、ちっとも知らなかった。

DMATは東日本大震災をきっかけに組織された、災害救助に特化した専門医療集団だが、ウイルス災害の経験がないという。そもそものこの前提が知らなかったし、いやでも確かに、ウイルス災害ってのが初めて聞いたし。
コロナ以前となると、もう昔々のコレラとかさ、そういうことじゃないのと思うと、それに対応していない素人集団とか言われただなんて、ヒドい!と思っちゃうが、そういうことじゃないのかなぁ。

専門の感染医が異議を唱えたYouTubeが物議をかもし、奮闘していた医療従事者たちがごっそり減ってしまうというシークエンス、そんなことがあったんだ……と。後に削除されたというそのYouTube動画が、ラストクレジットにちゃんと記載されていたことに、うっわ、取材と承諾、えぐっ!と驚いてしまう。
偏見や差別や齟齬があったにしても、それを認めて応じて、この作品が作られていることを改めて感じて、心が震えてしまう。

DMATの現場指揮官、仙道を演じる窪塚洋介氏がまた、イイ。彼は独特のキャラクター、エロキューションの持ち主で、誤解を恐れずに言えば、使いどころが難しい、それだけ魅力はあるけれど、というお人だと思うんだけれど、そうか、小栗氏が推薦したというのがグッとくるじゃないの。まさしく!

小栗氏演じる結城がお役人との板挟みに悩んで、現場の仙道に弱きめいた口調になった時に、きっと結城の欲しかった言葉を怒りをもって与えてくれて、そして結城が恐る恐るその真意を測るように、つまり自分自身の気持ちと信念を立て直して電話をかけた時、けろっとして、ワザとだよ、みたいに返すのが、イイ、実に窪塚洋介!!って感じなんだよなぁ。
彼はホント、唯一無二だよね。この独特さ、たった一人、風に吹かれている感じ。でも仲間たち、下にも上にも信頼されている感じ。

クライマックスは、下船しての乗客たちを、開業前の大病院に搬送するシークエンス。なるほど!と思う。取材に基づいての本作だから、本当にこんなことがあったのか……。
それまでは、空き病床を必死に探して、それも当然、未知のウイルスに対する反感や偏見があって、それも先述のように、外国人に対するそれがあって、上手くいかない。結城も自身が勤務する病院のスタッフが不安を訴えてきたことで対立してしまう。

開業前の大学病院が受け入れる、という大逆転。思わず調べちゃったよ、本当にそうだったんだ……。開業前であったって、地域住民の反対、スタッフの拒絶はある、もう当然、あの時の空気感を思い返せば当然、ある。でも、そんなことがあったんだなぁ……ごめんなさい、当然に報道されていたんだろうけれど、全然知らなくて。
これぞ、誤解を恐れずに言えば、なんて映画的なんだろうと思って。マスコミの目から守って護送車で輸送する長丁場、その中で体調を崩す乗客たちを、乗員の羽鳥をスマホで通訳させながら、なんとかたどり着かせるなんというスリリング!

マスコミ側にいた桜井ユキ氏が、結城との対話を経ながら、センセーショナルな取材をしなくなる経過は、理想的だけれど、実際のマスコミはどうだったんだろうかとも思う。取材が豊富なことを感じさせる本作だから、マスコミ側の人物もきちんと取材しているだろうとは思うけれど……。
彼女の上司の光石氏が、私はめっちゃ彼が好きだからさ、でもいかにもステロタイプな、視聴者が欲しがる画をとってこいと、お前が行かないんなら、いくらでも替わりはいる、というもんだから、なんか心が痛くなっちゃった。

この、いくらでも替わりはいる、という台詞、もう古今東西言われつくしているけれど、そんなことで正義を覆させようとする愚かさは、もう令和の時代には滅びてしかるべきだと思う。という、観客の想いをくみ取ってくれて、彼女は自分が信じる取材を、一か月近く閉じ込められた乗客たちに対してしてくれて、凄く心が休まった。
私がそうであったように、あの時、テレビ報道をそれほど見ていなかった人も多かった、そういう時代、一方で、本作でも描かれていたような、一方的なSNS発信もあり、本当に難しい時代を象徴している時の大災害で、それを時を経て、じっくり取材して描いた本作の意義は、計り知れない。

DMATの派遣医の一人である真田(池松壮亮)、一人娘と妻との三人暮らし。何か言いたいことはあるけれど、夫の信念は判っている奥さん。いつ終わるかもわからぬミッションを終えて帰ってきた夫は、コロナと近いところで働いていたから、近づきがたく、奥さんと対峙する。でも奥さんは、そりゃさ、そりゃ、ハグするわさ。もう言葉もいらんのさ。
確かに、彼が危惧していたように、愛する娘ちゃんが差別にあったかもしれない。本当にヒドい心の狭い社会が、あの時あぶりだされた。でも、この時、娘ちゃんがあっさり明るく、パパ帰ってきた!と声をあげ、奥さんは声もなく、ダンナの胸に顔をうずめた。
彼女にはたくさん、たくさん、今まで言えなかった言葉があるだろう、それが、この言葉のないハグにこめられていて、凄く、なんというか……。

めちゃくちゃ、見ごたえがあった。凄く、見ることを怯えていたんだけれど。まるで映画になることを見越していたような、ドラマティックなあの出来事は、いろいろ試され、いろいろ学びを授けたことだった。あらためて、乗客、乗員たちの話を聞きたいと思った。★★★★★


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