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危険な情事 若妻乱熟 (熟れた若妻 ザ・スワッピング)
1990年 46分 日本 カラー
監督:片岡修二 脚本:片岡修二
撮影:下元哲 音楽:
出演:大沢裕子 秋本ちえみ 千秋まこと 池島ゆたか 下元史朗
めちゃくちゃ大好き、やっぱり何とも言えぬ色っぽさ、下元史朗氏と、ミスターピンク、池島ゆたか氏が双方の夫としてがっぷり四つに組む見応え。
そもそも始まりはいきなり血まみれの女の死体から始まるというスリリングで、この始まりといい、後半の鏡を多用した思想的な表現といい、当時の作り手たちのザ・映画、スタイリッシュな魅力が存分に詰まってる。
下元氏演じる野沢は刑事。スワッピングした夫婦の夫、佐伯が池島氏。二人は取調室で予想外の再会をする。
スワッピングの時には偽名で、当然お互いの職業なんて知る由もなかった。ただその場限りの関係、秘密を守り合う同士。なのに今、二人はその秘密のみならず、すべてを暴こうとしている。
佐伯は当然、重要参考人ではあるけれど、のらりくらりとあいまいな証言を繰り返す。オチバレで言えば彼は、自分の妻をうっかり殺してしまった野沢の妻をかばっているのだけれど、こんなのらりくらりでは、早晩行き詰るのは目に見えているのに、彼の真意はどこにあったのか。
野沢も佐伯も、あの秘密のスワッピングの後、それぞれに偶然にお互いの妻に出会って、それぞれのパートナーには秘密の関係をもう一度持ったのだった。だからといって、佐伯が野沢の妻を愛していたとも思われないのに、自分の妻をうっかりと言えど殺されてしまったのに、なぜ自分への疑いをあえてはらそうとせずにのらりくらりとかわすにとどめたのか。
冒頭に据えられるスワッピング描写は、この場を提供しているとおぼしきセクシー女性がセルフプレジャーを披露して緊張している皆の士気を高め(ヘンな言い方だが、なんかそんな感じ)、おずおずと二組が入れ替わって愛撫をしだすと、じゃ、これからは頑張って!みたいに仕切り直すのがおかしくって、ちょっと笑っちゃう。
だが、笑っちゃうなんてのは、この時のみで、その後は心理戦というか、秘密合戦が続いていく。
そもそもなぜ彼らはスワッピングをしようなんて思ったのか。結果的には地獄への道行きへとなってしまったというのに。その理由は、野沢のみによって語られる。自身の性欲の強さなのだと。
それは妻だけでは満足できないということなのか、そういう風には見えない。彼は妻をきちんと愛している、だからこそ、自分の強い性欲で妻を苦しめないようにと、みたいな理由でここに臨んでいる感じなのだが、だとしたら矛盾もある。
だって、スワッピングなんだから、奥さんも同時に他の男とセックスさせるということなんだから。その矛盾が、後半になって、またまた彼自身の独白によって明らかになる。いや、独白ではないか、奥さんにイチャイチャ挑みかかる場面で言っているのだから。
お前とセックスしているところを、はたから見たい。それが興奮する。そのためには、他の男とセックスをしてもらわなければいけないというロジックになったからこそ、スワッピングという結論に至る訳だが、でもそもそも野沢は、奥さんとセックスしている自分を見たかったということなのだ。
それが彼の愛の形な訳なんだけど、その目的遂行のためにスワッピングを選んでしまったのが、そもそもの間違いだったのだ。
奥さんを抱いた別の男が自分の分身となり、スワッピング後、自分の知らないところでまた奥さんを抱いている。それをそのまま鏡のようになぞって、野沢もまた佐伯の奥さんを抱いている。
スワッピング後、野沢は都会の雑踏の中で、佐伯の奥さんにあの時の偽名で声をかけられた。東京には1,000万人の人がいる、その中で再会するなんて奇跡だと、彼女は野沢をダンナのいない間に自宅に招き入れ、関係を持った。
その全く同じ台詞を、取調室で野沢は佐伯から聞くこととなる。野沢の奥さんとその後偶然出会って関係を持ったことを語る時に。
1,000万分の1の偶然が二度も起こるなんて。一体、野沢の前に現れた佐伯夫婦は現実だったのかだなんていう思いもよぎる。だって、野沢の気持ち、というか願望しか、本作では明確にされないんだもの。
彼自身のアイデンティティが、少なくとも彼の奥さんを破滅に追いやったのは事実で、佐伯夫婦が合わせ鏡のように彼らの前に、野沢の欲望を満たす格好の相手として現れたけれど、じゃぁ彼ら夫婦はなぜ、スワッピングに至ろうと思ったのか。
今回が三度目だと佐伯夫婦は言っていた。佐伯の妻が野沢の妻にうっかり殺されてしまった時、佐伯はさほど驚かず、野沢の妻を逃がすことを選択した。
尺の問題もあってか佐伯夫婦の事情は全く描かれないので判らない。だからこそ、野沢夫婦、特に刑事である夫の、結果的には自身の性欲を言い訳にして、妻を巻き込み、自分を合わせ鏡とした夫婦を引き込み、最愛の妻を自殺に追い込んだ、だなんて図式に見える。
夫婦二組がスワッピングの顔合わせをした時、お互いの奥さんはソックリのファッションだった。真っ赤なツーピース、タイトスカート。最初目にした時は、これがスワッピングゲームの制服スタイルなのかと思ったが、先述したように野沢が、奥さんとのセックスを外から見てみたいと言った台詞ではたと思い当たったのだ。
最初から、このお相手は奥さんの分身であり、でも当然、現実そうじゃないからこそ、破綻していくのだ。愛しているからこそ、こんなムチャな選択をし、あり得ない偶然の再会をお互いにして、契約のスワッピングではない以上の秘密を持ち合ってしまった。
野沢の妻が、佐伯の妻をうっかり殺してしまったのは、本当にうっかりという感じではあったけれど、もう一度スワッピングをしよう、あなた、私の夫とヤって感じてたじゃないの、私もあなたの旦那さん、タイプなのよね、もうあのベッドでヤッちゃったしさ、みたいに言われて逆上して、取っ組み合いになって……。
でも、野沢の妻も佐伯の夫と再会してセックスしていたのに、逆上したのは……私の夫とセックスして感じてたじゃないの、と言われた一点だったような気もして。
そこは、まだまだ当時の、90年代にはまだ残っている、夫を家で待つ貞淑な妻、というものがあったように思う。まるで昭和のホームドラマのように、エプロンをして食事の用意をしている野沢の妻、野沢は冷蔵庫からビールを取り出して給仕されながら飲んでいる、みたいな。もうこういう描写は、四半世紀後となった今は描かれないよね、と思う。
結果的に、女二人ともが、死ぬこととなった。野沢の妻はすべてが明るみになり、拳銃でこめかみを打ち抜いた。拳銃だなんて、日本ではあまりに非現実的な自殺手段、刑事である夫のものなのだとしたら、彼は職務上、糾弾されることになると思うが、そもそもの非現実感だ。
そこでそのままカットアウトされるような終わり方なのだから、やはり野沢の中に渦巻く、二重三重のドッペルゲンガー的感覚を思う。
特に印象的なのは、妻とのセックスを外側から見たい、という彼の欲望が明るみに出たシークエンスで、妻を荒っぽく抱きながら、鏡に映る自分たちを見ている。
そんな夫を責めるかのように、たたずむ野沢の後ろに、二重三重に重なり合いながら、鏡の中の妻が見つめている。何かとても、ミステリアスな中世の絵画のようなゾワリ感がある。
お前が俺に抱かれているところが見たい。そう言って酒の酔いに任せて奥さんを抱いた、その自分を、過去のフィルムを見るように野沢が見ている。スワッピングを勧め、俺も相手の女房を抱くから平気さと言った。
矛盾してる。俺に抱かれているところが見たい、の筈が、他の男に抱かれているが見たい、にスイッチし、それは物理的に自分じゃ不可能だからなんだけれど、でも彼の中では、俺に抱かれているお前を見たい、は変わらないままだったに違いないのだ。
だから、1,000万分の一の奇跡が二度も起きて、女が二人も死んで、すべてが崩壊してしまった。
野沢の妻のヘアスタイルがザ・90年代、毛量たっぷりのパーマ、しっかりカールされた前髪、工藤静香って感じ、いやー懐かしい。
ヘアスタイルもメイクも、セックスする時にもまったく崩れない女優魂も90年代っぽくて、たまらない。★★★☆☆
いや、それに、というのは違うのか。あの場面しかホント見ていない。本作で描かれるように、一緒に野球をしたり、バーベキューしたり、飲みに行ったり、そういう活動もあるということなのか。グリーフケア、という言葉をきちんと掲げているのだから、きっと綿密な取材の元に描かれた作品なのだろう。
確かに今まで、輪になって話し合って涙し、うなずき合う、みたいな、あの場面ばかりをいわば見させられて、時にその場面に遭遇する主人公なりが、鼻白んだり、していたのだから、その、いわばお決まりの解釈にぐっさりとナイフを突き刺すような勇気をもった作品なのだと思う。
宣材写真とタイトルのイメージからは、いわゆる泣ける映画、を想像していた。しかも若いカップルの一方が亡くなる、という物語もタイトルから既に判っちゃっていたから、あー、そういうの、やだな、苦手だな、と思っていた。でも違っていた。恐らく作り手側は、そうした感触になることを確実に避けているように思う。
結婚式を間近に控えた女子の方が突然の事故で亡くなってしまうのだけれど、結婚式のために用意していた写真たちの中から、ツーショットで映っている彼女の側だけ四角く切り取るパソコン上での操作から、それが遺影になり、お葬式になり、会葬者たちの会話から、事情が知れるという実にあっさりとした展開。
会葬者のすすり泣きは聞こえてくるし、娘を失った母親も涙声で婿となる筈だった彼に感謝を述べたりはするものの、彼、昴はまだどこか現実ごととして受け止められていない感じである。
ラジオ局で構成作家をしている昴は、カウンセラーの取材に出かけるのだが、まるで胡散臭げにカウンセラーの男性に冷笑を浴びせる始末なんである。心配した同僚がグリーフケアを勧めるものの、そりゃぁ渦中の人の気持ちを慮ると難しく……。
そんな中、故郷の母親から再三電話が入る。最初は、心配している親の、当然の反応だと思った。まぁ、そうではあったんだけれど、まさかの事情が待っていた。昴はその、まさかの事情のために故郷に長く帰っていなかったんだろうが、帰郷することにする。
それは、何故だったんだろう。それほどどこかで静かに心を静めたかったのか。でも、事情を抱える母親の元に帰ったら、もっともっと心にさざ波が立つことは判り切っていたのに。
ちょっとね、まるで、二本分の映画を見ているような気がするほどに、グリーフケアと昴の物語と、母親の物語は、凄く乖離を感じるのだ。この二人を親子にしなければ、一緒の作品の中で描くこと自体が不自然じゃないかと思うほど。
いや、グリーフケアを一番の主題にしていると考えると、それを知らない、というか、知っているのかもしれないけど、そんなことをやる気になるとは思われない母親と、最初こそ冷笑していたけれど取材を通してグリーフケアの考え方の中に入っていく昴、という図式を対照的に描くことが狙いだったのかもしれない。
泣ける映画と思っていたところが、そうじゃなかったし、むしろちょっと、怖いと思っちゃったんだよね。母親は夫を通り魔事件で亡くしている。犯人はハイティーンの少年と思しきなのだが、いまだ捕まっていない。昴は母親が心を病んで家がゴミ屋敷と化していることを帰郷前にぽろりともらしているが、いざ帰ってみると意外にもこざっぱりとしている。
そしてもっと意外、というか、意表を突かれたのは、見知らぬ若い男女が親し気に出入りしていたこと。それは一見、もうあの悪夢から母親は脱して、若者たちと楽しい時間を共有しているのかと思われたのだが、違ったのだ。
母親はずっと、ずっとずっとずっと、夫を殺した少年を探し続け、新しい情報がないかと毎月警察を訪れて、そのことだけで、人生を生きてきた。愛する美紀を失うまでは、昴がそんな母親を厭うていたことは想像に難くないし、実際かなりの狂気に満ち満ちている母。
時が解決しないこともあるんだと思わせる。まさに彼女にこそグリーフケアは必要なのだが、彼女は、決してそれを受け入れないだろう。昴が冷笑した以上に、“そんなこと”が自分の心を静める筈はないと、固く固く閉じこもっているから。
南果歩氏が演じるこの母親は、いわばかなりのホラーで、医療行為が出来る仕事をしているのだが、自分の夫を殺したんじゃないかと思いこんだ青年に目をつけ、それが招き入れている青年であり、持病がある彼が発作を起こした時、処置が出来たのにやったフリして、「あとはきっとお父さんが決めてくれる」とか涙目で言うんである。こっわ!
昴と母親のこの対照が最も強烈なのだが、もう一人、いわば昴に最も影響を与える人物がいる。このグリーフケアをどこか冷笑的に見ているという点では昴と共通点があったからこそ、昴は彼にちょっと、取り込まれてしまったようなところがあったのだろう。
岡田義徳氏演じる池内さんには、亡くなった愛妻が見えている。最初に出会ったのは、グリーフケアの集まりの後での居酒屋、池内さんは手を付けない食事を下げようとした新人バイトを激しく叱責した。陰膳ですらないのだ、そこに愛する奥さんはいるのであり、まだ食事の途中なんであり、失礼だよな、と彼は私たちには見えない奥さんに語りかける。
この池内さん、彼にこそ救いが求められるかも、と心のどこかで思ったかもしれない昴なんだけど、でも昴の元にあらわれる愛する美紀は、何も言ってくれない、だた黙って、そこに立ちすくんでいるだけで、それがまるで池内さんのせいみたいに昴はくってかかって、殴り合いの、というか、昴が一方的に殴りかかっちゃう。
観客としては、この時点ではどう受け止めるべきなのだろうかとか……。昴は池内さんが本当に奥さんが見えていると信じていたのか、でも自分にも、ものは言わずとも美紀は現れたのだし。
昴は、いいかげん奥さんがいるフリを止めてください、とヒドいことを言ったけれど、それは結構本心だったんじゃないかとか、つまり、苦しんでいる自分を翻弄させて、幻を見させた、という意味だったんじゃないかとか。
ちょっとね、母親の猟奇的な精神状態を抱え込んだままの状態もあいまって、池内さんもなかなかの深刻さだし、私の理解力不足なんだろうけれど、そんな、手を広げないでよ……と思っちゃったのは、正直なところかなぁ。
池内さんを演じる岡田氏は、彼のそのまんまのチャーミングさがあって、だからこそ昴をイラつかせるっていうのもよく判るというか。
一方で、母親の抱え込んだ闇は、きっと故郷から逃げ出した時から、昴には手に負えないことだったのだろう。だから、なんで故郷に帰っちゃったのかと、こんなしんどい状況になっちゃったらなおさら母親には会いたくないんじゃないのかなぁと思っちゃったところが、本作に対する唯一であり最大の違和感だった。
でも、愛する人を突然亡くしてしまっただなんていう経験を、共有できる存在だからということなのかと考えると、経験していないから判らないけど、そうか……と思わざるを得ない。
昴にも、観客側にも池内さんの愛妻は一切見えないから、だからフリじゃないのかと昴も言ったのだが、本当に池内さんには見えていて、でもそれを捨てなきゃいけないのかと苦し気に吐露した時に、このグリーフケアの主催者であるツダカン演じる牛丸さんは来てくれるんならいいじゃないですか、と言ったのだった。
昴が池内さんにふっかけたのも、美紀は来てくれるけれど、何も言ってくれない、という嫉妬からなのであった。でも池内さんは、葬式を出せていない、ちゃんとお別れが出来ていないからと、うなだれた。
成仏していないからなどという、ありがちなワードが一瞬頭に浮かんだけど、そうじゃないよね。奥さんがお別れ出来ていないんじゃなくて、池内さんが奥さんとお別れが出来ていないんだ。お別れしたくないから、お葬式も出せていない。
冷静に考えれば、池内さんも昴も、彼らに見えている愛妻は彼の心が作りだしたものだと思うけれど、でもまぁ……天国の女子たちも、それなりに出方を考えているのかもな。
言いかけて止まっちゃった形になってしまったけれど、グリーフケアのなんたるかが描けているかどうかはどうかなぁと感じたし、それを主軸にしてだとしたら、昴の母親や池内さんの人物設定は、少なくとも観客としてはただ劇場型、インパクト重視に見えてしまった気がした。
だからこそ、最も大事な、大切な筈の、昴と美紀、愛しあうカップルが、物言わぬ美紀、という設定が、もちろんそれが昴に哀しみと、それ以上の愛を確認させるということなんだろうけど、女に喋らせろよ!!と思っちゃって。
死んでしまった愛する人。見えているのに、何も言ってくれない。そして最後はただ抱きしめ合う。
いーやー。女としては、そんな慎ましいことせんよ!と思っちゃう。そして一方ではヒステリックが20年続いている母親でしょ。そりゃないなぁと思っちゃう。
だから、男子側の視点っぽいというか。男子の喪失に同情してくれよと見えちゃうのは、すみません、どうしてもフェミニズム野郎の思いがちなところだから。
母親が疑っている青年の恋人を演じる円井わん氏の、不愛想でそっけないけど、恋人をめちゃくちゃ愛して心配している描写が、本作の中でいっちばん、とても良かった。★★★☆☆
撮影スタートがどんどん迫ってくる中で、ことなかれ主義のスタッフたちはちっとも野島の義侠心に共感してくれなくて、というスリリングさが見どころと思う。でも野島自身も家庭を顧みない夫であり父親、という面を見せて、彼の持つ正義にそのまんま乗っかりたくない気持ちを持たせるあたりが絶妙である。
野島はどんどん、どうしたらいいか判らなくなって、取材が進めば進むほど、映画としようとしていた物語が崩壊していくことに呆然とするばかりなのだが……。
前段で軽く語られる、映画としようとしていたいわば原作、受賞した作文、そして本となった物語に対して、正直、なんか薄っぺらさを感じていたので、なるほどそうか、これはめちゃくちゃキモのところを抜きまくった物語で、これを書いた当時のARISAの真実は別にあるのか、そっちの物語の方がよほど映画にする価値あるじゃん、と感じたのであった。
そこに行きつくまでに彼女の母親や友人といった周囲への取材の中で、結局は悪意や嘲笑からくる一面的なARISA像を見せられて困惑していくのだが、でも結果、本人にぶち当たってみると、彼女が素直に語る辛い実態は、これこそ映画にすべき、ヤングケアラーとしても、親からの暴力や母親の責任放棄という点でも、とても意義ある物語だったから、あぁよかった、野島氏、ARISAが正直に語ってくれてよかったじゃん、これを映画にすればいいんだよと、私は思ってしまったもんで……。
なのに、そうはならない。その後も野島が取材をやめないことに、私は困惑してしまった。何を固めようとしているのかが、判らなくなった。ARISAの諦めきった、野島に対して正直にさらけ出したことに対して、ただカスったようにしか思えない展開に、一体野島は何をしたいの……と思ってしまった。
正直言うと、撮影スタートが迫る時点で取材をし出すというのも解せない。映画製作となるには、スタッフたちが語るように何か月も、いや、何年も前から企画がスタートしている。それを見込んでプロデューサーというトップも、現場で働くスタッフも、生活のスケジュールを組んでいる。
だからこそ、思いつきみたいに直前に取材して慌てる野島に、今言うなよ、といら立つんである。……そんな現場の事情なんて素人が判る訳もないし、映画ファンとしてそんなことを言うべきじゃないとは思うけれど、これを成立させようとするならば、直前の取材で判っちゃったという展開は、社会的スタンスにおいても、ないんじゃないの……と思っちゃう。
オフィシャルサイトでは、理想論を掲げるエゴイズム監督だの、現場任せで無責任なプロデューサーだのとめっちゃ悪口めいて紹介しているけれど、普通に大人なだけだと感じてしまう私がおかしいのか??
ヤングケアラーとなっている子供たちを救う、問題提起するための映画だと語る監督に、それが事実じゃないとしてもかとか、そんな社会的事実はウィキペディアですぐ判るとか言い募る野島。野島にとっては真実に目をつぶる監督やプロデューサーの方が悪なのだと、それが本作の観客に対するアプローチなのだとも感じるけれど、ARISA本人から本当の物語を聞いた野島が、そっちの重要性を提示せずに、スタッフの逃げや偽善を糾弾するのは、おかしいんじゃないだろうか??
うーむ、私の感じ方がおかしいのかなぁ。ARISAからの話を聞かなければ、周囲の彼女への、言ってみれば偏見に満ちた外堀だけに接していたなら、あぁ、あの薄っぺらい美談はウソッコだったんだ、実際はパパ活で稼いで遊び惚けて、父親の介護なんかやってなかったんだということになって、こんなウソの物語を映画にすべきじゃない、という義憤にかられる、それなら判るのさ。
でも実際は友人と言いつつ彼女たちはARISAの実態なんて判っていなかったし、父親から暴力を振るわれていたし、母親はお金を渡さなかったから彼女はお金を稼ぐ必要があって、当時中学生だった彼女はアルバイトもままならなかった、ということが本人の口から明らかになる。
しかも彼女自身、ウソを書いた訳じゃないけど、本当のことをすべて入れ込まなかったことで世間を欺いていたことをきちんと自覚していて、いつかはバレる、その時は償うつもりだ、とまで野島に宣言していたのだった。
この時点で映画製作に対する方向転換をどうするのか、というのは議論に至るであろうと思ったら、野島が彼女の真摯さを受け止めているように見えながら周囲への取材をやめず、自身をどんどん追い詰めていくもんだから、一体あんたは何をしたいの……と思ってしまう。
事実とは違う原作なんだと知っても、ヤングケアラーの実態を社会に示したい、と動じない監督や、ここは目をつぶって監督に力を貸してほしい、というプロデューサーは、野島が唖然とするほどには観客である私はおかしいと思わなかった。ここの受け取り方が違うと、価値観というか、本作の受け取り方が全然違ってしまう。
原作と映画作品との違いというのは、ファンも巻き込んでそのつど議論となる問題で、本作に関してはかなりイレギュラーではあるけれど、本質的に同じであるように思う。
もともと世に出された原作は事実とは違っていて、事実はもっと苛烈で、より社会性を帯びていた。監督さんが言う、ヤングケアラーの問題を社会に知らしめたい、という意味では、事実の方をこそ取り上げるべきとも思うが、それを暴露した野島自身がそう思っていなかったのだったら、そりゃどうにもならない。
元となった作文から、ベストセラーとなる原作本になるには、ゴーストライターが介在する。野島はそのライターに取材に行く。ARISAが、編集部にはすべて事実を伝えていた、でも編集部の判断であの本が出たと言ったからである。
忙し気に、うるさげに野島の取材に応えるライターは、編集部の意向に沿って書いただけだと言う。野島は、そんなことをして良心の呵責はないのかとか責め立てるけれど、うっとうし気にあしらって、彼女は仕事に戻るんである。
そりゃそうだよ。こんな間際に至って、ベテランな風情で動き回る助監督がやることじゃないよと思ってしまう。しかも、こんなうすっぺらなウソの美談を映画化しようとしたのはおめーらだろーが。真実の物語の方がよほど映画的だったのにさ。
そして、本の世界で、まぁ薄っぺらいけど、この程度の美談の方が安心に確実に売れる、という判断で世に出されたものにころりと騙されたのはおめーらだろーが。
自身の辛い記憶を封印しながら、そうした大人の社会に黙って従ってきたARISAのことを思うと胸が痛いのだ。演じる円井わん氏が独特な魅力で、すっかり観念している潔さが良くて、だから、野島は彼女に対峙したのに、何でなんにも判らねーんだよ!!と思ってしまう。
そして一方での、野島家庭の崩壊である。グレた娘ちゃんが糾弾するほどには、父親の勝手でお金に困窮したようには思われない。フツーの住居でフツーに暮らしている。
単なる反抗期とも思われるが、野島が、家庭に仕事を持ち込み、妻に給仕をさせ、娘の問題が勃発すると妻に仕事を休んで監視せよと言うもんだから、おいおい、いつの時代だよ、と……。
それこそ、野島を演じる北村有起哉氏や私たちの親世代、昭和の親はそりゃそうだった。でもそれを私たち世代は苦しんだし、嫌悪して、そうじゃない家庭や社会を築くように頑張ってきたんじゃないの、それを、北村氏にこんな父親を演じさせるのか!!と憤ってしまう。
もちろん、今だってそういう家庭はあるとは思うけれど、それをあえて描くのなら、その下で苦しむ子供たちを、その気持ちをきちんと、それこそ取材して描いてほしいと思う。
でも、そもそもの本作のテーマの下では、それを描き込むのは難しいと思うし、野島の苦悩や焦りを描くための要素として存在したのかなとも感じる。でも、それゆえにあのラストなのだとしたら、あんまりだと思っちゃう。
娘ちゃんがなぜあんなにもグレちまったのかってのが、解せなかったというか。私は姉がいたから、一人っ子の感じが判らないので何とも言えないけれど、彼女のグレ方が、徹頭徹尾、お金がないから、というスタンスに貫かれていたのが、そういう経済状況には見えなかったから、よく判んないなぁと思ったし、愛情に飢えてるとか、そういうことだったのかもしれないけれど、それを描き切る気もないような印象を受けた。
ホストに入れ込んだとか、繁華街で良くない仲間たちとつるんでるとか、めちゃくちゃベタな、ザ・不良少女(この言葉も古いが)な描写で、この娘ちゃんが実際はどう考えていたのか、それは野島の奥さんもそうだけど、ただステロタイプの、それもかなり前時代的な、昭和なステロタイプな女たちにされてしまったのが、凄く、イヤだった。
娘ちゃんの反抗もその具体性が欠いていたけれど、奥さんが夫に給仕するばかりで、仕事を休むことに対してもただ従うだけで、あり得ない、あり得ないよ。なぜ、私の仕事を尊重しないのか、自分で食事の用意しろとか、あなたが娘と話してよとか、今の令和の女性でもこんな風に言えないの?そんなことない、そんなことないと思う。凄く、腹が立った。
ラストがまた、よく判らんのだ。そもそも、この映画製作がどうなったのか。野島はしつこく付きまとってきていた通信社の男に、どうやらすべてを暴露したらしい。
いきなり時間が飛んで、多分野島は外れたであろう、その映画が国際的な映画祭で賞をとっているのが報道されている。一方で野島は、苦悩の日々ではボーボーの髪とヒゲでだらりとしたファッションだったのが、すっきりしたお顔と白シャツにジーンズといういで立ちで、自身の監督作の準備に入っている。すべてが上手くいったと、幸せそうな様子に見える。
でも、カットが変わり、ビルの屋上に女の子が現れる。そのふちまで歩いてくる。際に立つ。ピンクに染めた髪、野島の娘ちゃん、だよね??
あれ?だって、今現時点で、すべてが解決されているように見えているのに……まさかと思ったらやっぱり、彼女は身を投じる。地べたに叩きつけられた、無残な血だらけの死体でカットアウトされる。
なんなん、これ……。結局、あれだけ、ARISAとも家族ともぶつかり合って苦悩を重ねたのに、今、それを乗り越えたように見せて、何にも、何にも、乗り越えてなかったってこと??
てか、ARISAは?どうなったの?暴露しちまったんでしょ?暴露した上で、製作された映画がフツーに国際的に評価されたのか、暴露したことで、いろいろあったのか、そこらへんを全部すっ飛ばすとか、ないでしょ、そこが大事なとこでしょ!!
なんか、凄く、納得いかない。ARISAの真実の物語こそが、ちゃんとそれを用意していた物語こそが、大事な問題を提示していると感じたから、この描き方はないなぁと思った。
娘ちゃんを死なせるのもさ……インパクトだけという感じがしてしまう。人を死なせるインパクトは、それだけの物語の根回し、説得、観客が納得できるものが必要だと思う。いたずらに死なせないでほしい。★☆☆☆☆
ある意味、オチバレというか、観客に隠されている部分がある。謎解きという訳ではないのでもう言っちゃうと、主人公の小西君が恋する桜田さんと、銭湯でのバイト仲間、さっちゃんは姉妹である。
あぁ、確かに謎解きではないけれど、予告編ではそれぞれの女の子を独立させて登場させていたから、やっぱりオチバレは良くないのか、ゴメン。
そうね、この事実は、あぁなんと哀しいかな、さっちゃんの事故死のあとに、彼女の家へ弔問に訪れることによって知れるのだった。泣き崩れる銭湯の店主が古田新太氏で、「空白」で交通事故で娘を亡くした、その娘役がさっちゃんを演じた伊東蒼氏だったことをまざまざと思い出し、胸が苦しくなった。
でも、伊東蒼氏は、出会うたびにそんな辛い役だったから、今回も確かに死んじゃって辛いけれど、小西君に片思いしている女の子で、バンド活動に打ち込んでて、バイトしてる銭湯で小西君とじゃれ合うように明るく働いている姿が可愛くて、そしてなんたって告白シーンが愛しくて切なくて、こんな、可愛い明るい彼女を見たのが初めてだったので、とても嬉しかった。
いきなりキモの部分に行ってしまって、いけないいけない。そもそも、小西君である。大学、これは福徳氏の実際の母校なんだという関西大学キャンパス。
小西君曰く、たったひとりの友人、山根が久しぶりと言うように、小西君はずっと大学に来れていなかった。大好きだったおばあちゃんが認知症の末に亡くなってしまったことが一つの原因だったみたいだけれど、きっと彼の中にいろいろあったんだろうと思う。
学内にたった一人の友人だというのも、学内での彼の気持ちの持ちようをいろいろ思ったりする。だからこそ小西君が恋に落ちてしまう桜田さんが、私は一人も友達がいないと言った時、シンパシィと共に、でも自分には山根がいると思い、彼女と友達になれたと思い、でもこれは恋なんじゃないかと思い、そんな甘酸っぱい逡巡が手に取るように見える。
小西君のそんな来し方を知ると確かに、情緒に少し波があるというか、はたから見たらちょっとヘンな人、と思われそうな感じはある。晴れていても折り畳みの日傘をさしているのは、武装しているからなのだと、桜田さんがお団子ヘアにしている理由と同じだと知って、嬉しそうに話すことで知れる。
日傘、なのかなぁ、いかにもペラペラに太陽光を通してしまいそうな安っぽい折り畳み傘。それを日傘と信じて晴れの日にもさしつづけていることことが、彼の危うさなのか。
小西君と山根が、いわゆる学生生活を謳歌する人たちを避けて、とっておきの場所でカップめんをすすったり、地べたに寝転がったり、地方出身者の山根が怪しげな言語アプローチをしたり、なんかもう、大学生!!って感じ!!と思う。
地元に彼女がいると嬉しそうに話す山根、小西君が桜田さんとのこれからを妄想してニヤニヤ話す感じ、この段階では、男子二人、とても楽しそう、とてもかわいくて、良かったのだ。
すぐに来る未来と思った。小西君と桜田さんは、授業を一緒に抜け出してから、急速に価値観を共有して、まず、一足飛びに親友になった感じだったから。
秘密の裏道、武装する日傘とお団子ヘア、大学にほど近い桜田さんのバイト先の大きな白い犬は、しばしば大学構内にも迷い込み、皆に愛されている。そして小西君はこのワンコに心底癒されている。首根っこをかき抱いて、恋人のようにハグハグしている。
まさかこのシーンが、思いがけない形でリフレインされるとは思わなかったが……。それはおいといて。
桜田さんが言った、タイトルにもなっている、今日の空が一番好きだと思うようにするという、いわば座右の銘。それが、小西君にとっては運命の言葉だったんであった。彼にとってはそれは、大好きだったお祖母ちゃんからもらった言葉なのであった。
その言葉によって桜田さんに対して急速に恋に落ちる次第となるんだけれど、でも先述した、秘密が明らかになると、その言葉は、彼女たち姉妹の、早くに亡くなってしまった父親によってもたらされた言葉なのであって、だとしたら、さっちゃんもまた、その言葉を胸にこれまで生きてきたに違いないのだった。
すべてが明らかになった時に、桜田さんは、私は一年留年しているから、とさらりと言う。何かがあったのか、小西君と同じような事情があったのか。父親が亡くなったのは幼い頃だからと、あぁ、お父さん死んでるのねとさらりと受け取ってくれと彼女は言っていたけれど。
さっちゃんの方にね、このお父さんは印象的に、夢のように現れるのだ。ハンモックに座ってアコースティックギターを抱え、ぽろりぽろりと弾いては歌う。さっちゃんはそれを、夢の中なのか、銭湯にざぶんと飛び込んだ水の底で見る。
お父さんと出会う。にこにこと笑ったとってもハンサムなお父さん。その時にはさっちゃんはちゃんと、ちゃんと、というのもおかしいけれど、水面の上へと昇って行ったのに。
さっちゃんは、そして桜田さんは、ひょっとして、小西君とそれぞれに出会っていたことを、知っていたのだろうか??小西君が銭湯の店長と弔問に訪れた時、桜田さんはさして驚いた風がなかったから……。
さっちゃんは、小西君から桜田さんとの話を聞かされて、まだ恋心の自覚がなかった彼にそれを指摘して、それはつまり……彼女が小西君に恋しているからこそ判っちゃったことであって。
桜田さんとは出会ってまだ一週間、ならば私が、一週間前に想いを伝えていたら違ったのか。でも、小西君が私に全然興味がないことは判ってる。だって小西君、私の名前知ってる?と……。
さっちゃんと呼ばれ続けてて、彼女は小西君の本名を知ってて、小西君は、彼女の本当の名前を知ろうとしなかった、いや、知ろうと欲しなかった、ということだろう、彼女の気持ちとしては。
私には全然興味がないの、判ってる、と吐露した彼女の気持ちが痛いほど判る。さっちゃんが大好きなスピッツの初恋クレイジー、前奏がとにかく最高、小西君も絶対聴く、と言っていたのに、その最初から、さっちゃんはそれが、彼自身は自覚していなくても、社交辞令だと判っていたのだ。
バイトの代打のお礼に食事をおごるといったって、それが実現しないことも判ってた。でもそれをドキドキ楽しみにしちゃう訳でさ……。残酷!!
いや、これはね、こういうのはね、仕方ないよ。世界中に無数にある辛く切ない片思いだよ。でも、死んじゃうんだもんなぁ……。
これは映画世界、原作となった小説世界における、ベタなドラマティックではあると思う、確かに。でも世界中に無数に埋もれている、この無意識の残酷さを、フィクションの世界で、対象者を殺してしまうまでしなければ、その残酷さを、あぶり出せないという思いだったんじゃないかなぁと思ったりして。
小西君も、桜田さんも、悪人でも罪人でもないし、それぞれに辛い思いをしている。でも全く意図していないところで、他者を、それも、深くかかわり合っている他者、桜田さんにとっては身内である妹を傷つけている。
そしてそれは、まさに人生そのものだけれど、テキト―になった大人になると、そんなことはままあることよと、目を背けてしまうんだけれど。
さっちゃんから、決死の告白をされて、これ実に長い長い告白で。これはね……結構な衝撃だった。恋心を告白するシーン、古今東西ある訳だが、最長ではないかと思われる。
このさっちゃんからの告白を受けて、ラストシークエンスで小西君も、まぁこともあろうにさっちゃんの遺影の前でそれをやりやがるのだが。
さっちゃんの、小西君への告白シーン、もうダメだと判ってる、自分に一ミリも興味ないと判ってる、自分の想いをもし一週間前に告げていたらという後悔、もういろんなものがあふれ出してどんどんどんどん止まらない、どこか舞台の芝居のような饒舌さは、うっかりするとワザとらしさにつながりそうなものなんだけれど……これは、凄い、見たことない、と思ったなぁ。
長尺の告白シーン、見たことない、オリジナリティ。しかもそれを、小西君はさっちゃんの遺影の前で桜田さんに展開する。こう書いてみても、彼自身も言っていたし、ちょっとないよねと思わなくもないのだけれど、純粋と残酷は、これほどまでに親和性が高いものなのかと思う。
小西君に長尺の告白をしたさっちゃんが言っていたのは、私は小西君の名前を知っている。でも小西君は私の名前を知ってる?ということだったのだった。知ってたら、そりゃ知ってたらさ、桜田さんとの関係にすぐに気づいただろう。いや、そんなことじゃなく、さっちゃんは、小西君がまるで悪気なく、自分に対して無関心であることに、傷ついていたのだった。
それは、悪意でも何でもないから、責めることも出来ないのだ。さっちゃんというあだ名のまま、名前を知ろうとしないことも、スピッツの名曲を聴く聴く詐欺をしても、それはバイト先、職場でのよくある世間話、それを彼女はよく判っているから……。でも小西君は、判ってないのによくある制度を施行しやがるから、観客としては腹が立ってしまう。
弔問に行って、ようやく苗字を知り、桜田さんとつながるっていうのが、辛すぎるよ。でも恋って、青春って、こういうもんなんだよなぁと思うから……。純粋で、残酷で、自分勝手で。それが出来ちゃう強いハートを持っている最後の年代。
桜田さんと待ち合わせをした約束を反故にされた小西君が、それがこんな哀しい出来事によるとは思いもよらず、自分をストーカーと思って遠ざけたとか勝手な妄想をして、友人の山根にも辛くあたって、閉じこもる。彼はきっと、これまでもこんな繰り返しだったんだろうと推察される。
山根君はたまらず一度リタイアするけれど、小西君からの、気持ちとしては勇気を振り絞っての、でも表面上は軽く誘ったランチに応じてくれたのが、凄く凄くグッとくる。山根君を演じる黒崎煌代氏がとても良くて。凄くさ、小西君にキツい言葉を投げかけられて、傷ついたに違いないのに、優しいんだよなぁ。
テレビの音量を最大に出来るか否かチャレンジが、繰り返し示される。めっちゃ、若者チャレンジだなぁと微笑ましくなる。でもこのチャレンジが、ラストに効果的に発揮される。本当はさ、妹のさっちゃんから思いを寄せられたのに、そのさっちゃんの遺影の前で、桜田さんに告白するなんて、という前提の上で。
スピッツの初恋クレイジー。さっちゃんが、私がいないところで私を想って聞いてくれたらいいなという言葉があまりにも切ない。だから、小西君が桜田さんに、さっちゃんの遺影の前で爆音の初恋クレイジーの中、聞こえているかどうかなんてどうでもいい、みたいな中で、想いを告白するのが、めちゃくちゃ純粋だけど、めちゃくちゃ残酷。
純粋と残酷が共存するのが、青春の、それも、大人になりかけの、大学生という稀有な人生の時間帯の奇跡だと思った。さっちゃんの名前を、苗字と下の名前を、最後の最後で、ようやく小西君が認識するのが、でもその時点で、姉の桜田さんと思いを交わすのが、純粋と残酷がマックスに過ぎて。
桜田さんが、関西大学の最初の女子学生であるジャーナリスト、北村兼子の展示に小西君を案内するシーンが印象的だった。彼女にとっての誇り。この学校の偉大なる先輩なのに、知られていないことを悔し気に語る。
劇中では、反戦デモのような行進に小西君と山根が加わるシーンもあり、青春時代の、大学生時代の、大人ではあるけれど子供の、まっすぐな正義のきらめきがまぶしい。忘れてしまうのだ。失ってしまうのだ。こんなに簡単に手に入る正義のきらめきを。★★★★★
あ、でも、私が見逃がしていたのだった。この問題のめっちゃ先輩である足立正生監督がいち早く作ってたのだった。うわー、見逃がしていた!これほんと、イチハヤ合戦やね、こうなると、足立監督作品を見るのも怖い気がするのだが……。
私のような輩が一番良くないと思うんだけれど、無知以上に関心がない、そんな時代があったのねという感じ。でも、あの指名手配のポスターはずっと目にしていて、その何人かの中でもいつも右下にいた、めっちゃ笑顔の、なんていうかめちゃくちゃ楽しそうな笑顔の、大学生活謳歌してます、みたいな、顔立ちも端正で、こんなに笑顔の青年が、ずっと逃げ続けているんだ……とぼうっと思い続けていた。
そう、本当に、あのポスターの中で一番印象に残っていた、あの笑顔が。
私が物心つく前の一連の爆破テロ事件のことを、この機会に調べてみようかとも思ったが、そうしてしまったらそっち側にどっぷり浸かってしまいそうな気がしてやめた。
やはり映画は映画作品としてだけ、対峙したい。参考文献としてクレジットされていた書籍を後からいろいろ読んでみようとは思っているけれど。
高橋監督は同時代の人だから、彼らの思想についても思うところがめちゃくちゃあるとは思うけれど、本作においてはそれをなるべくなるべく避けるように腐心しているように見えた。
今の観客、何にも知らない、私のようなアホな観客に、最低限の、当時の社会情勢、彼らの思想を、フラットに、想いを置かないように、遠く望遠レンズで覗くかのように、慎重に、説明しているような感じがした。
でもその中で、やっぱりちょっと、ちょっとというか、隠しきれない想いはなんだか感じてしまった。死者を出してしまったことへの苦悩、日本が侵略したアジアの各国の民たちへの申し訳なさ、彼らの代わりに肥え太った日本の金持ちたちを成敗すること、といった……。
こういうこと、今のあんたたちは知らないだろと、単なるあぶねーテロ野郎たちが逃げ続けてたと思ってるんだろと、ふつふつとした想いを、感じ取れた気がした。
実際、全然知らなかったから……そもそも、これより少しさかのぼる学生運動が最も盛んだった時期の、その思想のなんたるかもいまだによく判ってなかったんだから。
劇中、桐島が恋人から別れを告げられる時に言われる、時代遅れ、という言葉が一つのキーワードなんだけれど、彼の想いは時代遅れ、なんだろうか??学生運動は次第に暴徒化したこともあって、そもそもの理念が見えづらくなっていって、社会現象化としてしか語られなくなってしまって、それが一種の流行のようになって、彼女はそう言ったんだろうし、時代もそんな風に収めてしまったんだろう。
でもおかしいよね。学生運動、そして桐島が継続していた活動は、それをテロや暴力的手段にしたことが、現代の目から見れば間違っていると判るんだけれど、でも当時は、それでしか訴えられないと、本気で思っていて、その想いは、間違った世界を良くしたいという、本当に、信じられないほど、純粋な想いだったのだ。それが、時代遅れと言われるだなんて。
本当に恥ずかしながら全然知らなかったので、彼らの思想が、いわゆる左と言われる、それを追求するために手段が極端になってしまった、ということなんだけれど、それがさ、その手段を選んでしまったのはまさに時代というかさ……。
人の思想って、本当に時代に左右されると思う。戦争の時代に近いほど、お国のためにが当たり前になるように。そして当時は、そうした、いわば右的な縛りから解放され、世界の一員になったんだと、喜びをもって乗り込んだ若者たち、だったんだと思う。
でもその少し前の戦争で日本はアジアを植民地にし、侵略し、それが今でも、経済大国という名において食い物にし続けていることに、失望し、怒った。日本人として、恥ずかしいと思った。
そういうことだったのか……全然、知らなかった。無知な自分が恥ずかしいけれど、でもどれだけの今の日本人がそれを、知っているだろうか??桐島はじめ、テロを起こした当時の青年たち、何組も組織がいて、その後次々と逮捕され、日本赤軍まで巻き込んだのだから、そりゃ簡単に、一概に、彼らの思想を、起こしてしまったことを擁護、まではしないにしても、まぁなんというか、そうか、そういう想いでいたのか、と知って、なんていうか、衝撃だった。
だってそれは、驚くほど今の日本に、まさにタイムリーと言いたいぐらい今の日本の状況につながっていて、桐島たちが憂いていたことが何一つ、解決されていないから。
戦時中の植民地、その後も大企業がアジア進出によって彼らを搾取していることへの怒りが思想の根幹だった。
今は違うと思うけれど私たちの学生時代、つまり、桐島たちの子供世代ですらまだ、植民地のこと、アジアの人たちへのひどい行為のことを教えられていなかったのだから、それを知った時の青年たちの怒りと恥ずかしさと義侠心の爆発は想像に余りある。
それが学生運動の一つの根幹だった筈だし、それは決して、時代遅れだなどと言うことで片付けられることではない筈なのに。なのに、時代遅れの逃亡犯として、桐島が逃げ続けたことは、現代まで生き続けてきたことは、生き証人としてのとても大切なことを残したように思う。
今、まさにタイムリーに選挙で、新しい政党が出来て、外国人排斥を訴え、支持を得ている。もちろん、今の時代に起こっているあらゆる問題があるからだけれど、でも、今でも消える筈のない解決されていない、桐島たちが闘った外国人たちへの排斥問題が、私をはじめ、現代の日本人が全く判っていないことへの焦燥が、この早い映画の製作へとつながっていたと思う。
桐島にそれを、言わせているから。今、令和の若者が、グローバルな世界で生きている筈の若者が、桐島と一緒に現場で働いている金髪の若者が、ウソつくのはやっぱ在日だからですかね、などと言う。いまだに、いまだに!!
桐島はその理不尽さに怒り、闘い、今逃亡の身にあるというのに、何一つ変わらない今に絶望し、吠える、やりきれない思いを。温厚な桐島の変貌に驚く若者たち。
桐島は何故、逃亡し続けたんだろうか。仲間たちは次々に捕まった。確かに重大なテロに関わったけれど、捕まった仲間たちは実刑くらったけれど、リーダー格でもない桐島が死刑になる訳もないだろうし、生涯逃げ続けるなんて、その恐怖の方が絶大だと思う。でもそれは、一生逃げ続ける結果となったことを、私たちが知ってしまったから思うことなのかもしれない。
小さな工務店に住み込みで長年働き続けることになる桐島は、警察の追手に怯えながらも、小さな友情や小さな恋に心安らぐ瞬間もある。でもそれは、名前も何もかも捨てた彼にとっては、その手に取ることも許されないことなのだけれど。
でもそうだろうか。桐島は、うーやんとして同僚や隣人に信頼されていたし、愛されていた。そうでなければ、ひとつところでいることなんてできない。
そう、驚いたのはこの点についても。逃亡生活、転々と逃げ続けていたかと思いきや、何十年も同じ工務店で住み込みで働いていたということ。正社員でなくともフルタイムで働いていたら税金や年末調整、マイナンバーの確認等々、雇い先には義務が生じる筈だから、現金支給で偽名のまま通ってしまっていたことがかなり驚きなんだけれど、そうしたことがあいまいな時代から勤め続けていると、結構そのまま通ってしまうんだ……昭和のルールのまま令和まできちゃうんだと。
これもさ、こうした発覚によって、いい方向で変わっていってほしいと思う。逃亡し続けられるスキがあったことが、彼にとって良かったのかどうか判らないから。
名前さえ与えられず、謎の男のまま、窃盗容疑でしょっぴかれる隣人の男と、つかのまの友情をかわす。銭湯で隣り合ったり、くさやをプレゼントされて煙もくもくになったり。演じる甲本雅裕氏は、そもそも何をしでかした男なのか最後まで判らなかったけど、桐島が、彼にもだけど、誰一人として、真実を打ち明けられなかったことを、改めて思い知らされる人物のように思う。
活動を共にした仲間たちとは連絡をとることができる筈もなく、日にちを決めてまた会おうと言い合った同志とも、すれちがったままであった。何十年も後に桐島は、別の同志の著書から、その、一番近い同志、宇賀神が、何十年もの実刑をきちんと服役して、出所したことを知る。
桐島たちが憂いて、怒って、信じて、突き進んだ、自分の国が犯した侵略を、苦しんでいるその国の民たちのために立ち上がったことを、当時においてさえ時代遅れとされたことを改めて思う。
もちろん、そのためにとった手段は、あり得ない暴挙。でもこれってさ、本当に時代だと思う。思想は時代に左右される。この思想を世に知らしめるための手段の、時代。それこそ戦国時代なんてその判りやすさの筆頭。でもそれは、彼らがやっちまった、いわゆる戦後、成熟した文明大国ではやっちゃいかんことなのだ。
犠牲者を出してしまったことに本気で落ち込んでいる彼らを、きっと監督さんは見せたかったんだと思った。その後続いたテロでは、死者は出していないってことがあるから。
でもそれを声高に言ってしまったら、テロ野郎たちを擁護するのかということになっちゃうから……本作を作るのは、本当に難しかったと思う。もっともっと言いたい、描きたいことがあったと思うけれど、凄く抑えている感じがあって……。
予告で見た時に、指名手配ポスターの写真の桐島氏の笑顔に、演じる毎熊克哉氏がめっちゃソックリで、これは来た!と思った。普通の青年として、生きていける筈だった、いや、生きていた桐島聡を、実名の彼を、とてもチャーミングに、愛しく、演じていて胸に迫った。★★★★☆