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ミーツ・ザ・ワールド
2025年 126分 日本 カラー
監督:松居大悟 脚本:國吉咲貴 松居大悟
撮影:塩谷大樹 音楽:クリープハイプ
出演:杉咲花 南琴奈 板垣李光人 くるま 加藤千尋 和田光沙 安藤裕子 中山祐一朗 佐藤寛太 渋川清彦 筒井真理子 蒼井優 村瀬歩(声) 坂田将吾(声) 阿座上洋平(声) 田丸篤志(声) 鵠沼藤治(声) 菅田将暉(声)
冒頭、由嘉里は歌舞伎町の道端で動けなくなっている。侮蔑的な思いをさせられた合コンで泥酔、もう死ぬんじゃないかとまで思っているのは、その打ちのめされた気分からだけれど、死ぬ、だなんてことを、彼女は本当に判っていた訳じゃなかった。
声をかけてくれたやたら美人な女の子、ライを見上げて、あなたのような顔になりたかった、あなたのように生きたかった、とぶつけるように言って、そしてゲーゲーと吐いてしまう。
思えば確かに、冒頭からこんな勝手なことを由嘉里は言っていたのだった。あなたのように生きたかっただなんて、顔がキレイというだけからの判断でライのことなど何も知らないのに。
実際ライは無責任な由嘉里の言葉に、観客が思った通りの言葉を返すのだけれど、その時も、そしてその後も常に彼女は淡々としていて、怒った風でもなく、だったら300万で私の顔になりなよ、300万、あげるから、と由嘉里の手を取って、歌舞伎町の雑踏をぐんぐん引っ張っていく。
まるで御伽噺のような始まり。オフィシャルサイトを覗いてみると、現代版不思議の国のアリスなのだと。不思議の国のアリスってそんな話だっけ。つまり、由嘉里にとってのそれだけの異世界ということか。
それは、歌舞伎町の世界でもなく、キレイな顔の女の子の世界でもない。死にたい、ということがどういうことなのか、真にどういうことなのか。
いや……そんなにも突き放すのは言い過ぎかもしれない。観ている時にはそこまで明確に感じた訳じゃない。鑑賞後、オフィシャルサイトに接して、ライの抱える死への希求が、希死念慮、という言葉で言われることを、私は初めて知った。
この言葉、本当に初めて知った。自殺念慮というのもその一歩踏み込んだ先にある言葉らしいが、そうなるとライとはちょっと意味合いが変わってくる気がする。自殺願望と言うのとも違う。ライが言っていたように、自分に与えられたギフテッド、死を思うことで生きていることが私のアイデンティティ。まるで詩のような言葉。
由嘉里は擬人化焼肉漫画「ミート・イズ・マイン」をこよなく愛し、そのキャラ同士をBL設定に妄想して楽しんでいる、彼女が胸を張って言うところの腐女子なのだが、胸を張ってはいるけれど、でもそれを自虐としてとらえている自分もいる。その自虐も含めて誇りであるんだけれど、それには気づいていないように思える。
仕事と趣味だけの人生で終わることに焦っている、と吐露するが、仕事と趣味だけで生きていくって最高の理想じゃん、何を悩んでいるのかマジ判らんと思っちゃうのは、男女雇用機会均等法なんてものが言葉だけで、全く機能しないまま社会人になってしまった私世代だからなのかなぁ。
正直言うと由嘉里のキャラは、美人のライに、その美人なことだけで判定する、つまり、自分をブスキャラとして、あなたなんかには判らないでしょうというスタンスで行くのが、傲慢としか感じられなくて、ちょっと、どうしようかと思った。
それは恐らく、というか、当然に、……由嘉里を演じる杉咲花氏が、ライに嫉妬するような風貌じゃない、しっかり可愛いからなぁ、というところがあって……。
これは、難しいところだと思う。そんなことを凌駕して、役者さんは演じることができるのだから。でも、可愛いからさ、杉咲花氏が可愛い、というのが頭にあるのが良くないのかもしれんけれど。
てなわけで、ちょっと気になって原作を当たってみる。最近はちょっこし試し読みが出来るもんだから。冒頭だけだったけれど、そして、特に改変もされずに映画の中に映し出されていたけれど、文章で読むと、その先述した違和感……というほどじゃないけれど、そんな気持ちが、ちょっと解決される気がする。
ある意味、思った通り、というか。由嘉里は単純かつねじくれている、という矛盾した女の子なのだ。趣味に没頭し、幸せな筈。硬い仕事も得て、まぁそれなりにやりこなせている。なのに自分は侮蔑されている、恋愛にも縁がない、てゆーか、恋愛に興味ないくせに、自嘲モードに入ると、私なんて気分に入っちゃう。
だから、美人に救助されると、あなたには私の気持ちなんて判らないわよね、ということになる。なんという傲慢。
て、いうのを、ほんの冒頭だけれど原作小説で読むと、ありありと、手に取るように判っちゃう。由嘉里の、単純だけれどそれゆえにこじらせちゃっているのが、行間から抑えようもなくあふれ出ている。それは、この可愛い杉咲花氏からはなかなか想像できにくい、いわゆるイケてない女子であり、難しいなぁと思ってしまう。
杉咲花氏はとてもチャーミングに、腐女子、オタク女子に憑依していて、圧倒されるのだけれど、彼女の傲慢さこそがこの物語のキモであると思い至ると、その傲慢さが、腐女子であるという自身のアイデンティティが、美人のライは当然、勝ち組の女子である同僚たち、腐女子だと聞くと途端に凍り付く(と、由嘉里には見えてしまう)その他大勢たちには決して判らないだろうと思い込んでいることに起因することに気付いてしまう。
そうか、確かに不思議の国のアリスかもしれない。由嘉里が、ライたち歌舞伎町の住人達に出会う前の、まぁ一般的にフツーに見える世界では、同じ趣味を共有する友人たちと楽しく時を過ごす一方、勤務先では仮の姿として潜んでいた。
結果的には、その勤務先の先輩女性が実は!!という、その先の幸せな未来を予感させてはいるけれど、そんな可能性を、由嘉里はそもそも排除していた、ということこそがこじらせであったと思う。
ライが抱える希死念慮が理解できず、死への希求なんて良くない、私はライさんに生きていてほしい、ライさんが忘れられない彼氏さんに助けを求めるしかない、という方向に暴走する由嘉里に、ライを知る周辺の人々は、静かに諫める。
一見、由嘉里が最も忌み嫌う、チャラいホストのアサヒ君は、ナンバーワンである彼を支えているホステスの妻を持ち、離婚を切り出された矢先、嫉妬した得意客の恋人に刺されて生死の境をさまよう。
アサヒが連れてきてくれた静かなバーで、ひたすら優しいバーテンのオシン(渋川清彦氏、大好き!!)と、破滅的な作品ばかり書いている作家のユキに出会う。特にユキの、彼女自身が明かす人生は壮絶で、……言ってしまえばユキ自身が勝手に壮絶に落ちていったという感じなのだが、どうしようもなかったその経過を、由嘉里はただ唖然とするばかりで、理解することなんて、出来ないのだ。
だからライに対して、死にたいと思うなんて良くないこと、私はライさんに生きてもらいたい、そのためには何でもする、と意気込んじゃう。その由嘉里の、つまりは傲慢さに対して、静かな彼らは、静かに諫める。あなたが救われるために、ライに生きてほしいと言っているのだと。
生きる権利があるのと同じく、死ぬ権利もある、だなどと言ったら、危ない新興宗教のように聞こえかねないので、難しい。でも、私の知らなかった希死念慮という言葉が、いわば現代社会に生れ出たのだと思うと、素晴らしい救いの言葉、概念、のように思う。
死にたい、ということを、そう、ライが言っていたようにギフテッド、与えられた才能、その世界を描く才能だと定義するのは、いろんな変遷を経た人間社会が産み出した、決してネガティブではない、ひとつの思想かもしれないと思う。
それを、ライの周囲の人たちは……それぞれに、めっちゃ境遇が違うけれど、皆判ってた、ていうか、感じ取っていたのだ。
それを最も根源的に判っていたのは、蒼井優氏演じる破滅的作家、ユキだったと思う。陰のある彼女のオーラ、どこか観念的でもあるけれど由嘉里に発する彼女の言葉は、めちゃくちゃ説得力があった。
ポップに由嘉里に寄り添ってくれたホストのアサヒ君が、由嘉里を支えてくれた一番の人物。明らかにイケメンだし、由嘉里と一緒にいるのを目撃して嫉妬したコジラセ客が彼女を蹴り倒したり、その客の恋人に刺されて生死の境をさまようなんていうなかなかの展開はあるものの、一見してあっけらかんと、いい意味で普通で、ライに対しても由嘉里に対しても、性別を超えた、いや、性別を感じさせない天真爛漫さでホッとさせてくれる。
由嘉里の推し旅に、男女二人旅になるのに、なーんにも考えずに修学旅行みたいに面白がってついてくるようなチャーミング男子で、由嘉里がある意味すっかり心を許すもんだから、これはそーゆー展開もアリ?と下衆な勘繰りをしてしまうが、そんなことはないことこそが、尊いのだ。
由嘉里は、突然いなくなってしまったライを取り戻したくて、ライがずっと忘れられない元カレを取り戻すしかない、と思いこんじゃって、アサヒ君を巻き込んじゃう。
これはね……最初からアサヒ君が、アサヒ君だけじゃなく、オシンさんも、ユキさんも、みぃんな心配していたんだから。それはやっちゃいけないのだ。死にたいという気持ちを、死んでほしくないというのは、エゴなのだ。あなたの自己満足なのだ。
死にたい、でも実際に死ぬ選択をするかは、判らない。死への希求の自由であり、その先の選択もまた自由。凄い、そういうことなのか。そういう感覚は確かに、思いもよらなかったけれど、確かにそうだと思える。
自殺のニュースが出るたび、相談窓口が掲示されて、死ぬのはヤハリ避けるべきと思うけれど、死にたい、と思う気持ちそのものを封じ込めるのは、そうか、違うのかもしれないと思った。
初めての感覚。その感覚に至ると、由嘉里がライに対する愛という名の正義という名の……傲慢は、めっちゃ答え合わせできると思い、由嘉里は確かに、ライやその周辺の、由嘉里の知らない世界に生きている人たちの心持を知る由もなかったんだな、と思った。
そして一方で、身近な人たちに対しても、である。由嘉里が、一度めは全く関心なくただ会うだけでその描写さえ描かれなかった、男子との初デート。
LINEでのやり取りを散々クサしていたが、それは、彼の緊張からであることが実際に会った(2回目でようやく)ことで判って、由嘉里の腐女子カミングアウトに引くんじゃなくて、むしろ自分の自信のなさ、イケてない男子っぷりを告白してくれたんであった。偶然行き会ったライとアサヒがその様子をほほえましく見守っている。
これはさ、この男子と上手くいくんかなと思いきや、そー簡単にはいかない訳。てゆーか、心を許したんだから、彼とは恋人じゃなく、友達になったという展開が欲しかったなぁと思ったが、そう上手くはいかなかった。
難しいな。友達との関係性を改めて考えてしまう。友達って、どこからが友達なのか、という永遠のテーマを、思ってしまう。自分からは、言えない。友達だよね、ということに、めちゃくちゃハードルがある。親友だなんて、一生言えない。
由嘉里の、母親との確執が、きっと原作ではよく判るんだろうけれど、ただただ由嘉里が反抗期、ってな感じで終わっちゃったので、母親の方にこそ年齢が合致するので、ちょっと、可哀想に思っちゃった、ついつい。★★★☆☆
本当に、先日ニュースで耳にして、30年経ったのかと驚いてしまった。私は非常に自分の記憶が失われるたちで、当時大学生だったと思い込んでいたら、とっくに卒業していた。一体何をどう勘違いしていたんだろう……。
そんなことはどうでもいい、いや、良くない。それだけ人の記憶はうつろいやすいのだから(言い訳だが)。とにかくあの時は、SNSどころかインターネットという概念すらなかった、気がする。……自信がないので調べたら、まさにこの1995年が日本におけるインターネット普及元年だったという。
だから今、現代の灯(あかり)が、そんなことが何もなかった時に起きた震災、自分が産まれる前の月に起こった阪神淡路大震災のことで、それを色濃く記憶していて人生も大きく変わってしまった父親と激しくぶつかるのはめちゃくちゃ判る。
しかしそこに、もう一つファクターがある。それは、彼女たち一家が在日コリアンであるということ。今の時代を生きる灯は、どうやらほとんどそのことを意識せずに生きてきた、らしい。少なくとも成人式あたりまでは。
同級生たちと成人式イベントに参加し、震災の記憶を呼び覚ます進行にまたか、とあくびをかみ殺している灯は、第一世代して来日し、苦労した親世代を敬っている父親とずっとかみ合わない。
でもそれは、もし震災がなかったなら、よくある父親と娘のすれ違いで、本質にぶち当たらずに過ぎて行ったのかもしれない。
東日本大震災が起きた時に、この時にはもうすっかりネット、SNSが普及していたから、良くも悪くも情報先行で議論され、問題提起され、露悪的にもなったけれど、あらゆる角度で何もかもが見えた、見えてしまったところはあったと思う。
阪神淡路は、30年経って、そうか、あの地域は在日コリアンの方たちが多く住んでいるのだったと気づき、発生した当初は、ライフラインを立て直すのに精いっぱいだったのが、徐々にあらゆる問題が見え始めて、そして30年も経って、外野の私たちが、そんなことに気付かされる、ようやく。
こうした甚大な災害が起こると、最初は当然生き抜くのに手いっぱいで、精神的なこと、家族間の問題、そうしたことが浮き彫りになるのは、本作のように時に30年後にさえ、なってしまう。
でもそれは果たして仕方のないことなのだろうか?当然、災害が起きたその最初から、心を病み、苦しんでいる人たちはいる筈で、本作においていえば、灯の父親は、ある意味、30年間、ずっとずっとそこから抜け出せずにいたのかもしれないと思い当たると、ゾッとする。
本作は灯が主人公だし、覚えている筈もない震災の記憶と、それを経験していないからダメなんだと言わんばかりの父親と確執に彼女が苦しむのが本当に辛いんだけれど、……私は、彼女の父親と同世代だからさ、判っちゃうのだ。彼は、そうした客観的な視線を持てずに、あの震災の苦しさの中に閉じ込められていたんだって。
ネットだのSNSだのといった、客観的な情報など使い慣れておらず、第一世代の母親と共に、精神的孤立に陥った。震災の時のことと、親世代が来日して苦労したことを、若干混同してしまっていることが、それこそ第三者的目線で観客からは判っちゃう。
でもそれが、本人には当然見えないし、娘である灯は、なんとなく判ってはいると思うけど、頭ごなしに無理解だと否定されて、傷つけられてその理解への道が蓋をされて、彼女も、病んでしまう。
その灯を演じる富田望生氏、そんなこんなで自身を追い詰め、負の感情を抱えきれなくなる有様が本当に辛く、芝居とはいえ、これはキツかっただろうなと思う。
多かれ少なかれ、親とは、いや、きょうだいとさえ、通じ合えず、理解し合えず、断絶することは少なくないと思うけれど、在日コリアンであることに震災が襲ってきて、それがなかったらもしかしたら、見過ごしてしまえたあらゆることが浮き彫りになってしまった図式。
それは……結果的に、良かったのか、悪かったのか。ちっとも話が通じない父親と、つまり過去の記憶を、アイデンティティを、苦しんだ過去を押し付ける父親と、断絶しちゃえばいいのにと外野は思うけれど、灯にはそれが出来ない、というより、それをきっと罪悪だと感じてる。
自分の思いが通じない、というか、判ってもらえるように説得できない自分を、責めてる。そんなん、さっさと断絶しちゃえと思うが、出来ないのはなぜだろう。
こんなこと言っちゃうとミもフタもないけれど、灯が父親に対して、それほどの愛情を持っているとはあんまり思わない。幼い頃から在日コリアンの苦しみ、震災の苦しみを、いわば押し付けてきた父親だったから。
だからこそ精神を病んでしまったのに、それも判ってもらえなかったのに、なぜ灯は父親を切り離せなかったのか。
少し話を戻すと……。災害が起きた直後は、緊急的な対応に終始してしまう。まずは命、ライフライン、住居の問題。その後に、というか、次第に、こうした家族間の問題をはじめとした複雑な問題が表面化してくる。
でもそれって、最初は緊急的な対応に終始するしかない、仕方ない、だったのだろうか?こうして阪神淡路で表面化したことを、後の災害、東日本では活かせていたのか?
震災後に産まれた子供たちが、そしてこうした出自の問題も複雑に作用して苦しむことを、30年も経たなければこうして作品として描出出来なかったのかと思うと、ネットだのSNSだのがどんなに発達しても、何と人間は経験も情報も上手く活かせていないかと思う。
灯は実家から離れて就職、1人暮らししたものの、精神のバランスを崩し、実家に戻ってきてしまう。成人式の日、両親の離婚話が持ち上がっていた。最後になるかもしれない家族写真を、険悪なムードになってしまって撮れなかった。
灯にはお姉ちゃんがいて、彼女はもう達観しているというか、もうこの家族は崩壊しているんだからと冷ややかだった。後に彼女主導で日本への帰化のシークエンスが本作の一つのキモになるのだけれど、お姉ちゃん、そして弟も同じ程度のクールさで、その方が今後何かと便利だからと。
特に恋人との結婚を考えているお姉ちゃんは、面倒な手続きを避けたいこともあって、そして同時申請の人数が多ければコストが安くなることもあって、家族にせかせかと働きかける。
それと同時進行で、灯の精神的ダウンが描かれ、それまでは薬ばかり処方する病院、舞い戻った実家での肩身の狭さで追い詰められていた灯に、友人がどうかここにかかってほしいと、クリニックを紹介してくれる。
そこから徐々に灯は落ち着きを取り戻し、小さな設計事務所への就職もかなう。所長はアルコール依存症と闘っていて、「人生、いろいろあるわな」の短い言葉が深く響いて、灯は無事採用。コロナ禍の厳しい状況の中で、町の人々、所長や先輩と仕事を頑張って行くのだが……。
所長を演じる山中崇氏が良くってね。アルコール依存症となって、でも頑張ってずっと飲まずに来たのに、コロナになって、やりがいを感じていた古い市場の再生プロジェクトもそれゆえに資金不足となっておじゃんになって、飲んでしまう、事務所で暴れてしまう。
うっかりそこに居合わせてしまった灯の、まるで自分を見てしまったような、感情が抑えられなくなって泣きじゃくる自分自身をどうしようも出来なかったのを鳥の視点で見ているみたいな。
あの時の、灯の取り乱しようと、所長を抱き起して、抱きかかえて、抱きしめていた灯は、きっときっと、自分自身を無意識に感じていたに違いない。
辛かったけど、そうできたのは、対応できたのは、泣きじゃくりながらでも、先輩女子に助けを必死に求めながらでも、所長を救えたのは、あの時、自分自身をきっと、見つめられたからだと思う。
神戸という街は、コリアンの方たちだけでなく、港町ということもあって、様々な人たちが縁あって暮らしている。ボートピープルの東南アジアの人たち、ウクライナの戦火から逃れてきた若夫婦と幼子。古い市場を再建しようと頑張っている鉄板焼き屋の女性は、翻訳アプリを使いながら彼らと積極的に交流している。
年恰好からして幼い頃に震災に遭った彼女は、記憶がどれだけ残っているのかはさだかではないけれど、震災の時には産まれていたという自意識が、きっとあるのだと思う。
そこが、灯とのキャラクターの対照となっていると思うけれど、それを明確に示すわけではない。彼女は彼女で、ほんの幼い時で何も判らなかっただろうと思われているんじゃないかという葛藤があるのだろう。
ほんの数年の差、大きな差、でも、共有できる気持ちがあるこの二人が主軸となって、市場写真展が開かれる。めちゃくちゃ、グッとくる。
灯の職場の先輩女子も、素敵なんだよね。禁酒している所長の代わりに飲みに連れ出した先のおでん屋がまたイイ感じ。さらりと所長の事情を語り、ああ、だから灯を受け入れてくれる職場だったんだと判る。
やっぱり、職場の人間関係って、人生において、いっちばん、大事なんだよなぁ。若い頃はね、友達が一番大事だと思ってた。今でも友達は、めっちゃ大事と思ってるけど、それは、仕事、特に定職、生活に直に響く年代においては、哀しいかな、友人よりそっちの方が大事と思う。
ありがたいことに、私はそこから脱したけれど、その渦中にいる時は、そのことに気付かないんだよ。だから大変だし、だから、正確な判断が出来なくって、心傷んでしまう。
帰化のテーマが凄く重かった。それこそ灯は父親とめちゃくちゃぶつかって、過呼吸になっちゃってトイレに閉じこもって出てこれなくなっちゃう長尺のシークエンスが辛くて、こんな父親とは断絶しちゃえ!!って、メッチャ思ったけど……彼女のためにもそれがいいと思ったけど、言い切れない。
父親が言う、家族というワードは、のんきな日本人にとっては、意味するところが全然違うから。そしてそれを、震災後に産まれ、日本の教育を受け、父親は多分、時代的にも状況的にも必死に働くしかなかったからその想いを子供たちに伝えきれなかった。
母親は、女性ならではの割り切り方もあっただろうし、彼女自身が語る、夫が自分たちの家族よりも、姑を優先したことを、……恐らくその時もその後も、言えなかったんだろうな、しこりとしてずっと残っていったんだろうな。
もし、どっかの時点で、ぶつけてたらどうだったんだろう。あるいは、ぶつけてたのかもしれない、その上で、それこそ灯と同じ、かみ合わなさ、通じなさを感じていたのだとしたら……そもそもほぼ冒頭で示されていた別居はそりゃ当然だったのだろう。
お父ちゃんはきっと、ずっと、帰化しないんだろうなぁ。彼にとっては、彼以外の家族が帰化する気持ちが理解できないんだろうし、国籍が変わることで、家族でなくなるという彼の主張は、まるで戦時中みたいなナショナリズムだけれど、まさにそうなんだろう。
親から受け継いだ、ナショナリズム。生きていくために他の国に来ても、心を受け渡さないプライド。親から受け継いだそれが揺るぐ前に起こった震災と、その後あったであろう差別、心ない言葉。
灯が、姉、弟、母親が、帰化した後に何かが起こるのかもしれない。きっと、起こるだろう。私は本当に無知で、当時起こったことも何もかもすっ飛ばしても、自分の人生に影響ないとばかりに、平気だった、のは、でも、30代ぐらいまでかなぁ。
さすがに40過ぎたらいろいろ考えるようになった。だから、それまでは、考える必要もないし、灯のように、そんな昔のこと知らんわ!!という気持ち判るし、当然だと思う。研究者じゃないんだから。
私たちロートルは、そこを間違っちゃいかんのだ。若き未来ある彼らに、無意味な負荷をかけずに、朗らかでクリアな未来を創造していってほしい。★★★★☆
宮下公園がMIYASHITA PARKとなり、その変遷は……あぁそうだ、確かに、思い返せば、ホームレスの人たちの排除問題が取りざたされていたんであった。そのことを忘れていた自分にゾッとし、でもこうやって、人は残酷に、弱者を排除していったことを、ちょっと心にとめたつもりなのに、忘れて行ってしまうのだろう。
という、問題提起は物語中盤にはっきりとした意思表示として置かれ、そういう意味では社会派映画として硬質な側面も見せる。どこか、記録映画のようなカットの切り方もする。
でも本作はあくまで、一つの家族の物語。エンケン氏演じる建築デザイナーが、妻と二人の子供と共に、別荘に来ている。最初から、妻の顔はなかなか見えない。
車から荷物を運び出す時も、さっさと家の中に入っているし、キッチンで何かを準備している後ろ姿だし、夫が仕事で呼び出されたことに不機嫌になって二階の部屋に閉じこもっている時も、西日のような不安定な光が差し込む部屋で、拗ねた幼子のようにソファに横になって丸くなる。
そしてそれきり、彼女はいなくなる。てか、いきなり10年半後に飛んでしまう。
正直言うと、この奥さんの造形が、私はずぅっと、いやだいやだと思ってしまっていた。夫との会話では、彼女もまた、同じ建築の仕事をしていたということだった。だから君なら判るだろうと夫は言った。今が大事な局面、建築という仕事で成功するのは容易ではないと。それは家族のためなのだと。
家族のためを言い訳にし、結局は仕事を理由に家族を見捨てる、これは、私の親世代なら当たり前のことで、憤る気持ちさえわかないぐらいのことだった。でも、いまだになのかと思った。
この夫婦はまさに私世代。つまり、私たち親世代を見て育ち、こうはなりたくないと思った世代。そのはずだと思っていたのに、まるで昭和の夫婦を見ているみたいと思って愕然とした。
いや、これがリアルなのか。家庭に入り、夫の仕事に理解を示そうとするも、限界を迎えてしまう妻、いまだにこれがリアルなのか。
観終わった時には、そんなん今の時代ねぇだろ、と言いたい気持ちしかなかったが、でもこれが、いまだに現代の現実だとしたら、そうなのだとしたら……。良くない良くない、フェミニズム野郎はここんところだけで立ち止まってしまう。少し落ち着いて、先に行かなければ。
妻は、つまり、自死してしまったということなのだろうか。明確にはされない。いきなり10年半後に飛んで、あの時幼かった姉と弟はそれぞれに人生を歩んでいる。
姉の恵美は恋人との結婚を控え、同居のための引っ越し準備をしている。弟の蓮はお祝いの生花の配達の仕事をし、姉の引っ越しを請け負っている。会社のバンを借りられるからと。
借りられたけれど……その時には彼は、クビになっていた。配達先の展示会場で、父親と再会したから。母の死後、数年会っていなかった父親と会ってしまって、動揺したのか、確信をもって怒りをぶつけたのか。
一方姉の恵美は、あくまで冷静を貫いている。もう関係ない人だと。会うつもりもないと。なのに、弟がムリヤリの形で親子再会の場を設けてしまう。
蓮はどういうつもりで、こんなにも反発しているのに父親との接触を試みるのか。寡黙な彼は、時に姉から苛立たし気に問われても、その胸の内を吐露することはないので、観客は時折、いや、ずっと、彼にこそ少し苛立ちを感じ続けてしまう。
この弟君が、監督さん自身を投影しているのかなと、ちらりと思ったりもする。会いたくもない筈なのに、好きだ嫌いだも判んないのに、結論も出ぬまま父親に無言の苛立ちをぶつけてしまう、息子というもの。
そんな風に思うのは、娘や妻(であり母)、つまり、女子たちの想いが正直あまり……胸に届かない感じがしたから。男子的物語だなと、思ってしまうのは、フェミニズム野郎の良くない偏見だとは思うのだけれど。
いやむしろ、姉の恵美のそもそものスタンスは、リアリティがあると思った。実際のところ自分自身で、どういうこだわりがあるのか、それに目を背けているのかもしれないけれど、でも今は自分の人生、パートナーとの関係性こそ、悩みがある、想いを砕いている。
結婚を前提としての同棲に、どこか定まらない不安を感じた彼女に、恋人が真摯に向き合ってくれるシーンはとても良かったし、とてもリアリティがあると思った。
だからこそ、弟の蓮に何も告げられずに突然父親に引き合わされるのが、これはないよなぁと思っちゃったし、それ以降、なんかムリヤリ、母親への想いにはせるように持ってかれる展開に感じてしまって……。
ちょっと戻るのだけれど、ハッキリ、実在固有の施設、MIYASHITA PARKを持って来て、そのデザイナーとしての漣の父親、家庭を顧みず、奥さんを死に追いやったというスタンス。
監督さんのお父様が実際にデザインに関わったのは事実であるとのことで、まんま投影しているというのはそうなのだが、誰もが気になって検索すれば、そりゃぁ、有名大手の工務店の共同事業によってだと出てくる、そりゃそう。
でもそれは、誰かの責任にはせず、国の事業としてやっているんだと、いかにも日本的な、ぼやかしだという印象は当然、受ける。
もちろん、こんな大事業が、一人のデザイナーの責になる筈もないのだが、本作においては、あえて、一人のデザイナーの責、漣の父親の責、というスタンスをとっているように思える。それは、家庭を顧みなかった男の罪なのだと。
難しいところで……責任の所在をはっきりさせないように、国の事業だと、企業の責任などないのだと、何度私たちは、この論理にいら立ってきただろう。
でも、個人の責任とするのはさすがに乱暴すぎる。そんなことを望んでいるんじゃなくて、国が、行政が、自治体が、問題をぼやかすことに憤っているのだ。個人の責任を問いたいんじゃない。
漣の父は、大きなデザイン事務所を抱え、海外から連れてきたスタッフも数多くいる。その中の一人の女の子が、人道的にどうかと思われる事業にゴーサインを出した彼、社長に、思い切って直談判する。
このシークエンスは、10年半前、彼が奥さんと別荘で辛いやり取りをした、それをそのまま思い起こさせる。なんといっても、おなじ台詞が繰り返されるから。
水掛け論。そんなことを言ったら、水掛け論じゃないか、彼はそう言うのだった。奥さんとのやり取りの時にも思ったけれど、決して水掛け論なんかじゃなかった。自分の弱さを追及されそうになって、本能的に議論を止めようと発した言葉、そして彼自身、その自覚がないのだ。
水掛け論、と言われた途端に、あの時の奥さんも、スタッフの女の子も、絶望を感じて黙り込んだ。少なくとも、私はそう思った。だから……彼の前に、彼を許すがごとく、奥さんが降臨するのは、そりゃないよと思ってしまった。
あんなにも顔が見えなかった奥さん、何を思っていたのか、示されることさえ許されなかった奥さん、自死したらしい彼女が、すべてを許す前提で、夫の前に現れるなんて、そりゃないよと思ってしまった。
それは、今を生きている、彼女と同世代の女子だからだけれど、でも私は、そりゃさ、家庭を持ってもいないし、そりゃ判らないさ。彼女が何故死んでしまったのかも、彼女自身にしか判らないことだけれど、だったらなおさら、生きている人の希望妄想を具現化するのは、絶対に、絶対に、してほしくないし、するべきじゃないと思ってしまった。
どういう思いを抱いて死んでしまったにせよ、今、この家族の前に、こんな良心的に幽霊として登場しないよ。そんなクッソお人よしじゃないよ、女は。妻であり、母であることを、幻想として強要しているとしか思えなくて、とても受け入れがたく思ってしまった。
一方で、MIYASHITA PARK、その変遷は、経過が確かに記憶にあるだけに、企業や個人がどう関わっていったのか、本作の描写がどこまで事実に即しているのか気になるところではあるけれど……。
東京の中でも、渋谷の劇的な変遷は本当にすさまじく、なんか怖くて、映画を観に行ったりピアノ教室に通ったりで訪れるけれど、その用事だけを済ませて、周りを見ないようにしてそそくさと立ち去る、多くの人が、そうだろうと思う。
本作の登場人物たちも、渋谷に深く根差している訳じゃない。ただ、異邦人であると思う。渋谷はまさに、異邦人たちがさまよっている街。
父親の恋人が子供たちに接して事情を察し、もう私は一人で生きていくことを決めた、というスタンスになる。娘の恵美とは偶然、それ以前から友人であるのだが、恵美はそれを知らぬままである。
判らなくもないけれど、ないけれど……恋人であることに、子供が介在する、してしまうのは、ほんっとうに、湿度高い日本的だと思う。
まぁ、この彼と、亡霊の奥さんにがっつり未練たっぷりな彼とこのまま続けていくのはキツいかもしれんが、ここを突破してこそ、現代日本女子ではないのか、いや……そもそも、本作はこんな具合に、かなーりかなり、令和の世とは思われん、男子に甘々な価値観があるからさ。
渋谷という街自体が捕まえ切れないほどに変遷を繰り返し続けているから、その中で普遍的な家族を、アイデンティティを持って描くことの、難しさを感じた。
いやその、私が腐女子のフェミニズム野郎ってこともあってさ。渋谷という先進的な街をモティーフにしているんだけれど、言ってみれば昭和的とも思える家父長価値観が残っていた、んじゃないのかなぁ、それが現代日本の重要な問題点なんじゃないかなぁと、思ったりした。★★☆☆☆
そして本作の主人公、うだつの上がらぬ二代目落語家、太紋を演じる野辺富三氏、本当に、売れないどうしようもないやる気もない落語家にしか見えなかった。本当に落語家さんなのかと思った。
それで言えば、彼の父親、一代目勘太であった名落語家を演じる渡辺哲氏、そりゃぁ彼は大ベテランで、数々の作品で名演を見せているが、彼もまた、耄碌してしまって、見る影もなくなってしまったかつての落語家にしか見えない。
ちょっとね……その老い方といい、凄く生々しくてショックを受けちゃう。親一人子一人で、認知症も進んでどんどん手に負えなくなっていく男所帯が、落語家の師匠と弟子という関係もゆがみまくってしまって、苦しいったらない。
あぁ、でもその問題は、後々になってあぶりだされるのであった。本作は昔ながらの演芸の世界と、メディアに打って出るお笑いの世界が並行して描かれる。太紋が惰性のように出ている演芸場と、明日のスター芸人を夢見る希子の世界線は、でも不思議とこの浅草の街でまじり合う。
だって。太紋と希子の母親陽子はかつて恋人同士だったと言うんだもの。今までだってきっとこの町ですれ違い続けていたのに違いないんだもの。それどころかひょっとしたら希子は太紋の……?
そこまで下衆なオチはつけられないものの、その可能性を捨てきれない、空白の時間。太紋は陽子のみならず、落語からも、父親からも、逃げ続けていた。
漫才をしたいのにネタが書けず、腐ってる希子が先輩芸人にアドバイスされて、演芸場で太紋の落語を見て心に刺さったところから奇跡の邂逅が始まる。いや、希子はこのネタを、聞いた覚えがあったということだよね。母親がしまっておいたカセットテープのありかを探し出せたのだから。
きっと小さな頃聞いた覚えがあったんだろう。このネタをパクって、いや、彼女言うところのインスパイアして自分なりの漫才に落とし込んで、やっと希子はお笑いへの光を見出し始める。
こうして書き起こしてみると、とても魅力的な構成と展開で、なのに見ている時はね、太紋の情緒不安定の爆走といい、希子の猪突猛進ぶりといい、希子の母親陽子は任されているスナックが上手くいかずにオーナーからひどい罵倒を受けているし、希子の相方の千恵はホストにハマって果ては自殺未遂を起こすし、なんかもう、台風に巻き込まれているかのようで、息も絶え絶えな気持ちなのだ。
でも、太紋と希子の、ひょっとしたら親子かもしれないけれど、そんなことをお互い思ってもいない、ジャンルは違えど芸事というところで奇跡的につながる、それがお互いの、特に太紋の、逃げ続けていた人生に大きな転機を与えるというメインテーマが愛しすぎて、この不器用な二人が愛しすぎて。
ああきっと、やっぱり二人は親子だったんちゃうんと思っちゃうのはそこんところで!
そんなことを言っちゃうのはヤボヤボ。でも、こういう、家族でも恋人でも友達でもないけど、絶対的なつながり、という関係性を、ごくまれに、ごくごくまれに映画で出会うと、その奇跡の絆に射抜かれてしまう。これはなかなか出会えないのだ。
後に母親の元カレだったということを希子は知って驚くものの、だからといって太紋を師匠と仰ぐ、でも友達みたいな関係性は崩れない。相方が自殺未遂しちゃった時、動揺した希子が真っ先に連絡するのは太紋なのだもの。でもその時、太紋もまた父親と殺し合いに近いケンカをしてしまって、死ぬ死ぬ言って、希子を怒らせるのだけれど……。
お互いに、弱くて、決してお互いに救い合える訳じゃない、助けられる訳じゃない。それが、不思議に、逆に、力になる。そこに至るまでには長い道のりはあるんだけれど。
そもそもの冒頭、太紋が弟弟子たちから形だけ立てられてはいるものの、明らかに軽く見られているのが判って、それを太紋もまた気づいていない訳がなくて、この針の筵に一体何年、いや何十年いたのだろうと、いやそれを思ったのは後からだけど。
この冒頭の時点では、ただやる気のない、観客にウケないのも気にしない、父親と二人暮らしのすさんだ生活も、その父親の聞くに堪えない罵倒もうるさげにしているような、こりゃ共感は難しいヤツだな、と思ったのだ。
でも、彼のネタを頂く承諾を得にきた希子と出会ってから、まるで鼻先にとまったハエをうるさげに払うような態度を取りながらも、そんなことにも気づかないような希子の、彼女のお笑いへの情熱に、表面上はそんなそぶりは見せなかったけれど、やっぱり動かされていたのだろうと思う。
希子を演じる辻凪子氏、フィルモグラフィーを見るとめちゃくちゃ、めっちゃくちゃ遭遇している筈なのに、うっそ、まるで初めて出会った気持ち!のん嬢を初めて見た時のような、圧倒的なチャーミング。野辺氏の強烈なキャラクターにガチでぶつかり合って、すさまじいダブル主演で、これは凄いと思った。
フィルモグラフィーを見れば、とてもキャリアがあることは判るんだけれど、本作でまるで初めて出会ったような気持だったから、劇中の役柄の感じでは20代前半ぐらいの感じがしたし、実際それぐらいのチャーミングさだったから、いやー、びっくり。なぜ私は今まで彼女を認識していなかったんだろう、バカバカバカ!
ついついダブル主演とまで言っちゃったけど、もちろん主演は太紋役の野辺氏であり、後半は認知症がどんどん進んでいく父親との苦しい展開がすさまじくもきちんとコミカルも交えて見事で。
本作は、芸事世界のリアルさもめちゃくちゃしっかり描く一方、次第に恍惚の世界に入っていく父親をなすすべもなく見つめる太紋、という、現代介護のリアルも見事に描いている。こんな風に、独身のままで、親一人子一人で、追い詰められる事例がまさに今、問題になっているんだろうと思う。
これだけで一本の映画を作れちゃうぐらいのテーマなのに、それを、弱い自分に向き合えなくて苦しんでいる大人や、芸事の世界の厳しさや、親子や友人同士でさえ本音を言い合えない苦しさや……、それを過不足なく、どころか、あふれる想いですべて取り込んでしまう勇気に、脱帽する。
凄くね、コミカルな部分も満載なのよ。太紋が本格的VR装置で、まぁどうやらAVを堪能しているらしい描写だけでも笑えるんだけれど、それを父親が拝借してアヘアヘ言っちゃってる場面は思わず噴き出しちゃう。
噴き出しちゃうけれど……太紋が、絶望極まりない勢いで父親からゴーグルを取り上げるのには、可笑しい筈なのに、なのに、なんだかとても辛くなる。
もう父親は、太紋を息子と認識できなくなってきている。四十にもなって、と罵倒した父親に、もう五十だよ、と太紋が聞こえないようにつぶやいていた時点で、父親の認知症を太紋は判っていた筈なのに、認めようとしない、というよりは、抱え込んでいた、相談出来なかった。
やっとヘルパーさんをお願いするまでに至り、彼女が連れてきた幼い息子さんと父親が無邪気に遊んでいるのは、後に彼女から言われなくったって、今目の前にいる自分はもう他人であり、この男の子を幼い頃の息子の自分だと思っているってことは、判っていた。
それが、哀しいことじゃなくて、父親にとって、父親が見ている世界にとっては、幸せなことなんだと、ラストには彼も観客も受け入れられるんだけれど、そこに至るまでは、辛かった。
なんたって太紋は逃げ続けていた二代目への重圧に苦しんでいたから。それを、元カノである希子の母親、陽子から喝破されるんだけれど。
陽子を演じる片岡礼子氏のきっぷのいいイイ女っぷりは、太紋が邪推するように、かつて自分以外の落語家たちと関係を持ってたんじゃないかというのは、まぁ判る気もする。ヤリマンだなどと陰口をたたいていたのは、彼女に岡惚れしていたそんな野郎どもだったんだろうし。
だから、もう20数年も経って、太紋だけだったと彼女が吐露した時の、太紋の、情けない、後悔してもしきれないあの表情はどうだったろう。思わず、よりを戻すかだなんて口走った太紋をグーで殴っちまったのはまぁ判るけれど……なんて人間て、その思い合う気持ちって、ままならないんだろう!!
クライマックスは、希子の相方が入れ込んでいたホストの本性をようやく悟って、でもそれで傷ついて自殺未遂、太紋は父親との罵倒しあいで首を絞めちゃって殺しかけちゃって、自分の首を絞めても死ねなくて、父親と取っ組み合いになって、そりゃ、こんな二人が、電話で話しても、ぐっちゃぐちゃだよ。
でもそれでも、太紋が希子の電話での泣き声を、ようやく我に返って、心配して、あの巨体を必死に前に進めながら、彼女のいるであろう場所、母親の陽子が勤めているスナックにたどり着くと、オーナーと希子と陽子とが、まさに殺し合いの修羅場にいたのだった。
この場面は、本当に修羅場なのに、切羽詰まっている筈の太紋がなんだか次第に滑稽になっちゃって、でもそれが、愛しいんだよね。希子と陽子と太紋が、ウイスキーを一緒にあおって、なんだろう、特に決着がつく訳じゃないんだけどさ。
でも……その後のシークエンスで、太紋はずっと挑戦することから逃げ続けていた、父親から勧められていた古典落語、抜け雀を、希子は相方が入院中の中、たった一人で、太紋からパクった、いや、譲り受け、自分の情けないリアル恋愛遍歴をぶつけたネタを、それぞれの場所で、披露する、勝負する。
このカットバックは、ずるいよ、泣くしかないよ!!特にこの抜け雀という演目が、まさにまさに、名人の親を持ったしがない絵描きの話で、まんま太紋に投影されるのだもの。
そしてそれを、いつも情けない二代目を歯がゆく眺めていた観客二人が、つまりそれでもいつも足を運んでいてくれていた常連さんたちが、はっと足を止めて、抜け雀か、とつぶやき合い、太紋の魂の高座を見守るのが、凄く凄く、胸打たれるのよ。
ちょっと書き損ねたことを言うとさ、監督のお抱え役者、今野氏が演じる売れっ子落語家が、でも実は借金を抱えてて、師匠が恍惚の人であることをいいことに、連帯保証人のサインをこっそりもらおうとするシークエンスがあって、当然太紋は激高するんだけれど、結局さ、太紋はそんな事態にまで父親を放置してしまっていた訳で。
でもこれって、本当に、今の日本社会で、親も子供も、きちんと救いを得られる社会ではないことを、しっかりと浮き彫りにしていて、本作は、もういろんなチャームがあるんだけれど、こんな重大なテーマを、しっかりと描き切っていて、それが本当に、凄いと思ったなぁ。
とにかく、太紋を演じる野辺富三氏、希子を演じる辻凪子氏の圧倒的なチャームにやられまくり、もうそれだけでも奇跡的であるのに、その二人が体現する演芸とお笑いのリアル世界だけじゃなく、親一人子一人の閉じられた介護問題、ホストに依存してしまう女性、シングルマザーに象徴される、女性に容赦なく襲ってくる理不尽な男性優位社会、こう書いてしまうと絶望しまくりだけれど、ひとつひとつ、しっかりと、なんとかでも立ち向かう彼らを描く、描いてくれたことが、凄く良かった。★★★★★