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港に灯がともる
2025年 119分 日本 カラー
監督:安達もじり 脚本:川島天見 安達もじり
撮影:関照男 音楽:世武裕子
出演:富田望生 伊藤万理華 青木柚 山之内すず 中川わさ美 MC NAM 田村健太郎 土村芳 渡辺真起子 山中崇 麻生祐未 甲本雅裕
本当に、先日ニュースで耳にして、30年経ったのかと驚いてしまった。私は非常に自分の記憶が失われるたちで、当時大学生だったと思い込んでいたら、とっくに卒業していた。一体何をどう勘違いしていたんだろう……。
そんなことはどうでもいい、いや、良くない。それだけ人の記憶はうつろいやすいのだから(言い訳だが)。とにかくあの時は、SNSどころかインターネットという概念すらなかった、気がする。……自信がないので調べたら、まさにこの1995年が日本におけるインターネット普及元年だったという。
だから今、現代の灯(あかり)が、そんなことが何もなかった時に起きた震災、自分が産まれる前の月に起こった阪神淡路大震災のことで、それを色濃く記憶していて人生も大きく変わってしまった父親と激しくぶつかるのはめちゃくちゃ判る。
しかしそこに、もう一つファクターがある。それは、彼女たち一家が在日コリアンであるということ。今の時代を生きる灯は、どうやらほとんどそのことを意識せずに生きてきた、らしい。少なくとも成人式あたりまでは。
同級生たちと成人式イベントに参加し、震災の記憶を呼び覚ます進行にまたか、とあくびをかみ殺している灯は、第一世代して来日し、苦労した親世代を敬っている父親とずっとかみ合わない。
でもそれは、もし震災がなかったなら、よくある父親と娘のすれ違いで、本質にぶち当たらずに過ぎて行ったのかもしれない。
東日本大震災が起きた時に、この時にはもうすっかりネット、SNSが普及していたから、良くも悪くも情報先行で議論され、問題提起され、露悪的にもなったけれど、あらゆる角度で何もかもが見えた、見えてしまったところはあったと思う。
阪神淡路は、30年経って、そうか、あの地域は在日コリアンの方たちが多く住んでいるのだったと気づき、発生した当初は、ライフラインを立て直すのに精いっぱいだったのが、徐々にあらゆる問題が見え始めて、そして30年も経って、外野の私たちが、そんなことに気付かされる、ようやく。
こうした甚大な災害が起こると、最初は当然生き抜くのに手いっぱいで、精神的なこと、家族間の問題、そうしたことが浮き彫りになるのは、本作のように時に30年後にさえ、なってしまう。
でもそれは果たして仕方のないことなのだろうか?当然、災害が起きたその最初から、心を病み、苦しんでいる人たちはいる筈で、本作においていえば、灯の父親は、ある意味、30年間、ずっとずっとそこから抜け出せずにいたのかもしれないと思い当たると、ゾッとする。
本作は灯が主人公だし、覚えている筈もない震災の記憶と、それを経験していないからダメなんだと言わんばかりの父親と確執に彼女が苦しむのが本当に辛いんだけれど、……私は、彼女の父親と同世代だからさ、判っちゃうのだ。彼は、そうした客観的な視線を持てずに、あの震災の苦しさの中に閉じ込められていたんだって。
ネットだのSNSだのといった、客観的な情報など使い慣れておらず、第一世代の母親と共に、精神的孤立に陥った。震災の時のことと、親世代が来日して苦労したことを、若干混同してしまっていることが、それこそ第三者的目線で観客からは判っちゃう。
でもそれが、本人には当然見えないし、娘である灯は、なんとなく判ってはいると思うけど、頭ごなしに無理解だと否定されて、傷つけられてその理解への道が蓋をされて、彼女も、病んでしまう。
その灯を演じる富田望生氏、そんなこんなで自身を追い詰め、負の感情を抱えきれなくなる有様が本当に辛く、芝居とはいえ、これはキツかっただろうなと思う。
多かれ少なかれ、親とは、いや、きょうだいとさえ、通じ合えず、理解し合えず、断絶することは少なくないと思うけれど、在日コリアンであることに震災が襲ってきて、それがなかったらもしかしたら、見過ごしてしまえたあらゆることが浮き彫りになってしまった図式。
それは……結果的に、良かったのか、悪かったのか。ちっとも話が通じない父親と、つまり過去の記憶を、アイデンティティを、苦しんだ過去を押し付ける父親と、断絶しちゃえばいいのにと外野は思うけれど、灯にはそれが出来ない、というより、それをきっと罪悪だと感じてる。
自分の思いが通じない、というか、判ってもらえるように説得できない自分を、責めてる。そんなん、さっさと断絶しちゃえと思うが、出来ないのはなぜだろう。
こんなこと言っちゃうとミもフタもないけれど、灯が父親に対して、それほどの愛情を持っているとはあんまり思わない。幼い頃から在日コリアンの苦しみ、震災の苦しみを、いわば押し付けてきた父親だったから。
だからこそ精神を病んでしまったのに、それも判ってもらえなかったのに、なぜ灯は父親を切り離せなかったのか。
少し話を戻すと……。災害が起きた直後は、緊急的な対応に終始してしまう。まずは命、ライフライン、住居の問題。その後に、というか、次第に、こうした家族間の問題をはじめとした複雑な問題が表面化してくる。
でもそれって、最初は緊急的な対応に終始するしかない、仕方ない、だったのだろうか?こうして阪神淡路で表面化したことを、後の災害、東日本では活かせていたのか?
震災後に産まれた子供たちが、そしてこうした出自の問題も複雑に作用して苦しむことを、30年も経たなければこうして作品として描出出来なかったのかと思うと、ネットだのSNSだのがどんなに発達しても、何と人間は経験も情報も上手く活かせていないかと思う。
灯は実家から離れて就職、1人暮らししたものの、精神のバランスを崩し、実家に戻ってきてしまう。成人式の日、両親の離婚話が持ち上がっていた。最後になるかもしれない家族写真を、険悪なムードになってしまって撮れなかった。
灯にはお姉ちゃんがいて、彼女はもう達観しているというか、もうこの家族は崩壊しているんだからと冷ややかだった。後に彼女主導で日本への帰化のシークエンスが本作の一つのキモになるのだけれど、お姉ちゃん、そして弟も同じ程度のクールさで、その方が今後何かと便利だからと。
特に恋人との結婚を考えているお姉ちゃんは、面倒な手続きを避けたいこともあって、そして同時申請の人数が多ければコストが安くなることもあって、家族にせかせかと働きかける。
それと同時進行で、灯の精神的ダウンが描かれ、それまでは薬ばかり処方する病院、舞い戻った実家での肩身の狭さで追い詰められていた灯に、友人がどうかここにかかってほしいと、クリニックを紹介してくれる。
そこから徐々に灯は落ち着きを取り戻し、小さな設計事務所への就職もかなう。所長はアルコール依存症と闘っていて、「人生、いろいろあるわな」の短い言葉が深く響いて、灯は無事採用。コロナ禍の厳しい状況の中で、町の人々、所長や先輩と仕事を頑張って行くのだが……。
所長を演じる山中崇氏が良くってね。アルコール依存症となって、でも頑張ってずっと飲まずに来たのに、コロナになって、やりがいを感じていた古い市場の再生プロジェクトもそれゆえに資金不足となっておじゃんになって、飲んでしまう、事務所で暴れてしまう。
うっかりそこに居合わせてしまった灯の、まるで自分を見てしまったような、感情が抑えられなくなって泣きじゃくる自分自身をどうしようも出来なかったのを鳥の視点で見ているみたいな。
あの時の、灯の取り乱しようと、所長を抱き起して、抱きかかえて、抱きしめていた灯は、きっときっと、自分自身を無意識に感じていたに違いない。
辛かったけど、そうできたのは、対応できたのは、泣きじゃくりながらでも、先輩女子に助けを必死に求めながらでも、所長を救えたのは、あの時、自分自身をきっと、見つめられたからだと思う。
神戸という街は、コリアンの方たちだけでなく、港町ということもあって、様々な人たちが縁あって暮らしている。ボートピープルの東南アジアの人たち、ウクライナの戦火から逃れてきた若夫婦と幼子。古い市場を再建しようと頑張っている鉄板焼き屋の女性は、翻訳アプリを使いながら彼らと積極的に交流している。
年恰好からして幼い頃に震災に遭った彼女は、記憶がどれだけ残っているのかはさだかではないけれど、震災の時には産まれていたという自意識が、きっとあるのだと思う。
そこが、灯とのキャラクターの対照となっていると思うけれど、それを明確に示すわけではない。彼女は彼女で、ほんの幼い時で何も判らなかっただろうと思われているんじゃないかという葛藤があるのだろう。
ほんの数年の差、大きな差、でも、共有できる気持ちがあるこの二人が主軸となって、市場写真展が開かれる。めちゃくちゃ、グッとくる。
灯の職場の先輩女子も、素敵なんだよね。禁酒している所長の代わりに飲みに連れ出した先のおでん屋がまたイイ感じ。さらりと所長の事情を語り、ああ、だから灯を受け入れてくれる職場だったんだと判る。
やっぱり、職場の人間関係って、人生において、いっちばん、大事なんだよなぁ。若い頃はね、友達が一番大事だと思ってた。今でも友達は、めっちゃ大事と思ってるけど、それは、仕事、特に定職、生活に直に響く年代においては、哀しいかな、友人よりそっちの方が大事と思う。
ありがたいことに、私はそこから脱したけれど、その渦中にいる時は、そのことに気付かないんだよ。だから大変だし、だから、正確な判断が出来なくって、心傷んでしまう。
帰化のテーマが凄く重かった。それこそ灯は父親とめちゃくちゃぶつかって、過呼吸になっちゃってトイレに閉じこもって出てこれなくなっちゃう長尺のシークエンスが辛くて、こんな父親とは断絶しちゃえ!!って、メッチャ思ったけど……彼女のためにもそれがいいと思ったけど、言い切れない。
父親が言う、家族というワードは、のんきな日本人にとっては、意味するところが全然違うから。そしてそれを、震災後に産まれ、日本の教育を受け、父親は多分、時代的にも状況的にも必死に働くしかなかったからその想いを子供たちに伝えきれなかった。
母親は、女性ならではの割り切り方もあっただろうし、彼女自身が語る、夫が自分たちの家族よりも、姑を優先したことを、……恐らくその時もその後も、言えなかったんだろうな、しこりとしてずっと残っていったんだろうな。
もし、どっかの時点で、ぶつけてたらどうだったんだろう。あるいは、ぶつけてたのかもしれない、その上で、それこそ灯と同じ、かみ合わなさ、通じなさを感じていたのだとしたら……そもそもほぼ冒頭で示されていた別居はそりゃ当然だったのだろう。
お父ちゃんはきっと、ずっと、帰化しないんだろうなぁ。彼にとっては、彼以外の家族が帰化する気持ちが理解できないんだろうし、国籍が変わることで、家族でなくなるという彼の主張は、まるで戦時中みたいなナショナリズムだけれど、まさにそうなんだろう。
親から受け継いだ、ナショナリズム。生きていくために他の国に来ても、心を受け渡さないプライド。親から受け継いだそれが揺るぐ前に起こった震災と、その後あったであろう差別、心ない言葉。
灯が、姉、弟、母親が、帰化した後に何かが起こるのかもしれない。きっと、起こるだろう。私は本当に無知で、当時起こったことも何もかもすっ飛ばしても、自分の人生に影響ないとばかりに、平気だった、のは、でも、30代ぐらいまでかなぁ。
さすがに40過ぎたらいろいろ考えるようになった。だから、それまでは、考える必要もないし、灯のように、そんな昔のこと知らんわ!!という気持ち判るし、当然だと思う。研究者じゃないんだから。
私たちロートルは、そこを間違っちゃいかんのだ。若き未来ある彼らに、無意味な負荷をかけずに、朗らかでクリアな未来を創造していってほしい。★★★★☆
そして本作の主人公、うだつの上がらぬ二代目落語家、太紋を演じる野辺富三氏、本当に、売れないどうしようもないやる気もない落語家にしか見えなかった。本当に落語家さんなのかと思った。
それで言えば、彼の父親、一代目勘太であった名落語家を演じる渡辺哲氏、そりゃぁ彼は大ベテランで、数々の作品で名演を見せているが、彼もまた、耄碌してしまって、見る影もなくなってしまったかつての落語家にしか見えない。
ちょっとね……その老い方といい、凄く生々しくてショックを受けちゃう。親一人子一人で、認知症も進んでどんどん手に負えなくなっていく男所帯が、落語家の師匠と弟子という関係もゆがみまくってしまって、苦しいったらない。
あぁ、でもその問題は、後々になってあぶりだされるのであった。本作は昔ながらの演芸の世界と、メディアに打って出るお笑いの世界が並行して描かれる。太紋が惰性のように出ている演芸場と、明日のスター芸人を夢見る希子の世界線は、でも不思議とこの浅草の街でまじり合う。
だって。太紋と希子の母親陽子はかつて恋人同士だったと言うんだもの。今までだってきっとこの町ですれ違い続けていたのに違いないんだもの。それどころかひょっとしたら希子は太紋の……?
そこまで下衆なオチはつけられないものの、その可能性を捨てきれない、空白の時間。太紋は陽子のみならず、落語からも、父親からも、逃げ続けていた。
漫才をしたいのにネタが書けず、腐ってる希子が先輩芸人にアドバイスされて、演芸場で太紋の落語を見て心に刺さったところから奇跡の邂逅が始まる。いや、希子はこのネタを、聞いた覚えがあったということだよね。母親がしまっておいたカセットテープのありかを探し出せたのだから。
きっと小さな頃聞いた覚えがあったんだろう。このネタをパクって、いや、彼女言うところのインスパイアして自分なりの漫才に落とし込んで、やっと希子はお笑いへの光を見出し始める。
こうして書き起こしてみると、とても魅力的な構成と展開で、なのに見ている時はね、太紋の情緒不安定の爆走といい、希子の猪突猛進ぶりといい、希子の母親陽子は任されているスナックが上手くいかずにオーナーからひどい罵倒を受けているし、希子の相方の千恵はホストにハマって果ては自殺未遂を起こすし、なんかもう、台風に巻き込まれているかのようで、息も絶え絶えな気持ちなのだ。
でも、太紋と希子の、ひょっとしたら親子かもしれないけれど、そんなことをお互い思ってもいない、ジャンルは違えど芸事というところで奇跡的につながる、それがお互いの、特に太紋の、逃げ続けていた人生に大きな転機を与えるというメインテーマが愛しすぎて、この不器用な二人が愛しすぎて。
ああきっと、やっぱり二人は親子だったんちゃうんと思っちゃうのはそこんところで!
そんなことを言っちゃうのはヤボヤボ。でも、こういう、家族でも恋人でも友達でもないけど、絶対的なつながり、という関係性を、ごくまれに、ごくごくまれに映画で出会うと、その奇跡の絆に射抜かれてしまう。これはなかなか出会えないのだ。
後に母親の元カレだったということを希子は知って驚くものの、だからといって太紋を師匠と仰ぐ、でも友達みたいな関係性は崩れない。相方が自殺未遂しちゃった時、動揺した希子が真っ先に連絡するのは太紋なのだもの。でもその時、太紋もまた父親と殺し合いに近いケンカをしてしまって、死ぬ死ぬ言って、希子を怒らせるのだけれど……。
お互いに、弱くて、決してお互いに救い合える訳じゃない、助けられる訳じゃない。それが、不思議に、逆に、力になる。そこに至るまでには長い道のりはあるんだけれど。
そもそもの冒頭、太紋が弟弟子たちから形だけ立てられてはいるものの、明らかに軽く見られているのが判って、それを太紋もまた気づいていない訳がなくて、この針の筵に一体何年、いや何十年いたのだろうと、いやそれを思ったのは後からだけど。
この冒頭の時点では、ただやる気のない、観客にウケないのも気にしない、父親と二人暮らしのすさんだ生活も、その父親の聞くに堪えない罵倒もうるさげにしているような、こりゃ共感は難しいヤツだな、と思ったのだ。
でも、彼のネタを頂く承諾を得にきた希子と出会ってから、まるで鼻先にとまったハエをうるさげに払うような態度を取りながらも、そんなことにも気づかないような希子の、彼女のお笑いへの情熱に、表面上はそんなそぶりは見せなかったけれど、やっぱり動かされていたのだろうと思う。
希子を演じる辻凪子氏、フィルモグラフィーを見るとめちゃくちゃ、めっちゃくちゃ遭遇している筈なのに、うっそ、まるで初めて出会った気持ち!のん嬢を初めて見た時のような、圧倒的なチャーミング。野辺氏の強烈なキャラクターにガチでぶつかり合って、すさまじいダブル主演で、これは凄いと思った。
フィルモグラフィーを見れば、とてもキャリアがあることは判るんだけれど、本作でまるで初めて出会ったような気持だったから、劇中の役柄の感じでは20代前半ぐらいの感じがしたし、実際それぐらいのチャーミングさだったから、いやー、びっくり。なぜ私は今まで彼女を認識していなかったんだろう、バカバカバカ!
ついついダブル主演とまで言っちゃったけど、もちろん主演は太紋役の野辺氏であり、後半は認知症がどんどん進んでいく父親との苦しい展開がすさまじくもきちんとコミカルも交えて見事で。
本作は、芸事世界のリアルさもめちゃくちゃしっかり描く一方、次第に恍惚の世界に入っていく父親をなすすべもなく見つめる太紋、という、現代介護のリアルも見事に描いている。こんな風に、独身のままで、親一人子一人で、追い詰められる事例がまさに今、問題になっているんだろうと思う。
これだけで一本の映画を作れちゃうぐらいのテーマなのに、それを、弱い自分に向き合えなくて苦しんでいる大人や、芸事の世界の厳しさや、親子や友人同士でさえ本音を言い合えない苦しさや……、それを過不足なく、どころか、あふれる想いですべて取り込んでしまう勇気に、脱帽する。
凄くね、コミカルな部分も満載なのよ。太紋が本格的VR装置で、まぁどうやらAVを堪能しているらしい描写だけでも笑えるんだけれど、それを父親が拝借してアヘアヘ言っちゃってる場面は思わず噴き出しちゃう。
噴き出しちゃうけれど……太紋が、絶望極まりない勢いで父親からゴーグルを取り上げるのには、可笑しい筈なのに、なのに、なんだかとても辛くなる。
もう父親は、太紋を息子と認識できなくなってきている。四十にもなって、と罵倒した父親に、もう五十だよ、と太紋が聞こえないようにつぶやいていた時点で、父親の認知症を太紋は判っていた筈なのに、認めようとしない、というよりは、抱え込んでいた、相談出来なかった。
やっとヘルパーさんをお願いするまでに至り、彼女が連れてきた幼い息子さんと父親が無邪気に遊んでいるのは、後に彼女から言われなくったって、今目の前にいる自分はもう他人であり、この男の子を幼い頃の息子の自分だと思っているってことは、判っていた。
それが、哀しいことじゃなくて、父親にとって、父親が見ている世界にとっては、幸せなことなんだと、ラストには彼も観客も受け入れられるんだけれど、そこに至るまでは、辛かった。
なんたって太紋は逃げ続けていた二代目への重圧に苦しんでいたから。それを、元カノである希子の母親、陽子から喝破されるんだけれど。
陽子を演じる片岡礼子氏のきっぷのいいイイ女っぷりは、太紋が邪推するように、かつて自分以外の落語家たちと関係を持ってたんじゃないかというのは、まぁ判る気もする。ヤリマンだなどと陰口をたたいていたのは、彼女に岡惚れしていたそんな野郎どもだったんだろうし。
だから、もう20数年も経って、太紋だけだったと彼女が吐露した時の、太紋の、情けない、後悔してもしきれないあの表情はどうだったろう。思わず、よりを戻すかだなんて口走った太紋をグーで殴っちまったのはまぁ判るけれど……なんて人間て、その思い合う気持ちって、ままならないんだろう!!
クライマックスは、希子の相方が入れ込んでいたホストの本性をようやく悟って、でもそれで傷ついて自殺未遂、太紋は父親との罵倒しあいで首を絞めちゃって殺しかけちゃって、自分の首を絞めても死ねなくて、父親と取っ組み合いになって、そりゃ、こんな二人が、電話で話しても、ぐっちゃぐちゃだよ。
でもそれでも、太紋が希子の電話での泣き声を、ようやく我に返って、心配して、あの巨体を必死に前に進めながら、彼女のいるであろう場所、母親の陽子が勤めているスナックにたどり着くと、オーナーと希子と陽子とが、まさに殺し合いの修羅場にいたのだった。
この場面は、本当に修羅場なのに、切羽詰まっている筈の太紋がなんだか次第に滑稽になっちゃって、でもそれが、愛しいんだよね。希子と陽子と太紋が、ウイスキーを一緒にあおって、なんだろう、特に決着がつく訳じゃないんだけどさ。
でも……その後のシークエンスで、太紋はずっと挑戦することから逃げ続けていた、父親から勧められていた古典落語、抜け雀を、希子は相方が入院中の中、たった一人で、太紋からパクった、いや、譲り受け、自分の情けないリアル恋愛遍歴をぶつけたネタを、それぞれの場所で、披露する、勝負する。
このカットバックは、ずるいよ、泣くしかないよ!!特にこの抜け雀という演目が、まさにまさに、名人の親を持ったしがない絵描きの話で、まんま太紋に投影されるのだもの。
そしてそれを、いつも情けない二代目を歯がゆく眺めていた観客二人が、つまりそれでもいつも足を運んでいてくれていた常連さんたちが、はっと足を止めて、抜け雀か、とつぶやき合い、太紋の魂の高座を見守るのが、凄く凄く、胸打たれるのよ。
ちょっと書き損ねたことを言うとさ、監督のお抱え役者、今野氏が演じる売れっ子落語家が、でも実は借金を抱えてて、師匠が恍惚の人であることをいいことに、連帯保証人のサインをこっそりもらおうとするシークエンスがあって、当然太紋は激高するんだけれど、結局さ、太紋はそんな事態にまで父親を放置してしまっていた訳で。
でもこれって、本当に、今の日本社会で、親も子供も、きちんと救いを得られる社会ではないことを、しっかりと浮き彫りにしていて、本作は、もういろんなチャームがあるんだけれど、こんな重大なテーマを、しっかりと描き切っていて、それが本当に、凄いと思ったなぁ。
とにかく、太紋を演じる野辺富三氏、希子を演じる辻凪子氏の圧倒的なチャームにやられまくり、もうそれだけでも奇跡的であるのに、その二人が体現する演芸とお笑いのリアル世界だけじゃなく、親一人子一人の閉じられた介護問題、ホストに依存してしまう女性、シングルマザーに象徴される、女性に容赦なく襲ってくる理不尽な男性優位社会、こう書いてしまうと絶望しまくりだけれど、ひとつひとつ、しっかりと、なんとかでも立ち向かう彼らを描く、描いてくれたことが、凄く良かった。★★★★★