home!

「に」


2025年鑑賞作品

二十歳の原点
1973年 89 分 日本 カラー
監督:大森健次郎 脚本:重森孝子  森谷司郎
撮影:中井朝一 音楽:小野崎孝輔
出演:角ゆり子 鈴木瑞穂 福田妙子 高林由紀子 丹波義隆 大門正明 地井武男 富川徹夫 川島育恵 津田京子 京千英子 北浦昭義 渡辺ふみ子 八木啓子 モーデン・ティム


2025/8/31/日 録画(日本映画専門チャンネル)
何年か前に原作を読んでいたんだけれど、映画となった本作に接して、あれっ、なんか全然違う……と思って。
そもそも原作となった著書は、鉄道自殺で命を散らした高野悦子氏の日記そのものであり、はっきりとした物語がある訳ではない。もちろん、日記なんだから彼女の行動や、家族や友人たちとの出来事も書かれていて、時系列として見れば物語もつむげるし、当然取材も行っているのだろうから、いわば、お話は出来てしまうのだ。

数年前に読んだ時、とにかく鮮烈な印象があって、でもそうしたお話が自分の中には残っていなかったから、本棚から引っ張り出して改めて読み直したんだけれど……あぁ、映画にしちゃうとこうなっちゃうんだ、というのは、感じてしまった。
誠実に作られてはいると思う。印象的な彼女の言葉のピックアップ、闘争へとのめり込んでいくに従って、可愛らしい女の子の様相から、寂寞とした相貌、男の子のようなファッションになっていくところ、そして、湖の中に素裸で入っていくラスト前シーンはまさに彼女の詩のように美しく、まさにまさに、著書の最後が、その美しい美しい、水晶のような詩の描写がそれだったから、このシーンだけで良しとしたいぐらい良かったけれど。でも……。

本作は昭和48年に作られている。彼女が亡くなったのが44年、著書が刊行されたのが46年、あっという間のスピード。いかにこの著書がセンセーショナルなヒットを放ったか、映画化というところまで突っ走っていったかが想像される。
それは、彼女が没頭した学生運動の熱がまだ冷めやらぬ、いわばリアルタイムだからこその意味があったと思うし、実際本作の、闘争シーンの凄まじさは、その当時だからこその、すぐそばにあった現実だからこそのリアリティで、今まで見たことのあるそうしたテーマのどの作品よりも、素晴らしい迫力だった。
それこそが、本作が作られた一つの意味であったようにも思う。戦争映画もそうだけど、やはりその時代と近いところで作られるっていうのは違う。どんどん、現代の価値観で作られて行ってしまうから。

映画となった本作での悦子は、もちろん闘争に没頭はするけれど、一見した印象としては、闘争の先頭に立つ先輩への憧れ、年上の男性への恋心、手近な男の子とのラブアフェア、という流れがあって、結局普通の女の子なんだよネ、みたいな作り方に見えちゃうのが、凄く、違う!!と思ってしまった。

もちろん、著書からもそれはうかがえる。そしてそれこそが、魅力でもある。国家権力や大学という組織に学生である彼女の存在そのものが潰されてしまうという危惧をもって、それがどんどん加速していったあの時代の闘争の記録、でも絶対に、その一方で彼らたちそれぞれに青春があったのは間違いなく、そしてなんたって二十歳近辺の彼や彼女が、心も身体も当然の欲求があるに違いないのだ。
そのせめぎあいが胸を苦しくさせるし、この著書が今も読み継がれているのは、その点。思想書ではない。思想はあるし闘争に命を懸けたけれど、でも誰もが一人の人間、青春を生きていたのだということなのだ。でもそれを、映画として作り上げられると、彼女の中の葛藤が、思想の部分が欲求に簡単に負けてしまう。そう見えてしまう。

特に家族との関係性においては、かなり陳腐に見えてしまったのが辛かった。まさにあの時代の、昭和の、女の子を大学に行かせるってだけでありがたい親、卒業したら見合いして結婚、みたいな。そんなことは重々承知しているんだから、わざわざ見せないでほしかった。一気に、俗に落っこってしまった。
彼女がもがき苦しんでいたのはそんなところじゃない。確かに家族との決別は書き残されているけれど、そんなお茶の間ドラマみたいなことを再現してほしくない。
実際、あったのだろう。取材もしたのかもしれない。でも、闘争と自身の欲求と、正義や真実は何かともがき続けたこの原作著書を、ありきたりの女の子だったと描くことで、彼女の苦しみをぶち壊してしまった気がしてならない。

ありきたりの女の子だったのだ、なのに、あの時代では、という意図だったのかもしれない。判らなくもない。確かにそうだったのだろう。年若い女の子が、酒やたばこをヤケ気味に覚えたり、恋や性的欲求にうろたえて自分を否定しまくったり。
正常だよ。めちゃくちゃ正常。普通の女の子。こんな時代に、闘争に身を捧げ、最後には命を散らした彼女を、普通の女の子だったんだと描きたくなるのは判る。実際間違ってはいないのかもしれない。けれども……何か違う気がしてならない。

それは、原作となる著書が、あまりにも美しく、死へと向かっていくに従って、どんどん透明度を増し、そのまま彼女が天に吸い込まれていったかのごとく、信じられないほどの完成度で、美しい詩で、途切れているから。
この詩を綴った後に、彼女は列車に身を投じたのかと思うと、こんな、形骸的な物語にしてくれるなと思ってしまう。

闘うためには、大学を糾弾するためには、授業料を払いこむべきではない、でも、学生という立場を保持しなければ大学と闘えない、でも……という逡巡が、その授業料は当然、親から頂けるもので、彼女がいくら自分の中で、バイトをして、親からのお金は別管理と頑張っても、こうして実際の親を登場させて、親としての立場を表明したりしちゃうと、もう一気に、ただのワガママ娘バーサス子供に手を焼いている親、という図式になっちゃう。

もちろん、そういう側面はあっただろうし、実際に彼女の親御さんがどういう気持ちでいたのか、実地で聞きたい気持ちはあるが、でもそれは、ここでは必要だろうか??
大人になってしまうと、子供なりの正義を忘れがちになる。そして悦子は確かに彼らの子供ではあるけれど、この美しき著書の書き手である彼女は、この時代を、矛盾を感じながら生きたというところが最も重要な、まさに時代の証言者なのだ。家族との軋轢を想像で埋めてしまうだなんて、あまりにもヤボではないか。

桐島聡氏の死去、映画化もされたりして、当時の、学生運動から始まった闘争の歴史を、全然知らなかったし、なんだか知るのも怖い気がしていたから触れてこなかったけれど、ちょっとずつ、知る機会が増えている。
改めて、すべては学生運動から始まったんだと思うし、国際問題への懐疑から始まったのが、弱腰の国、なのに国家権力、癒着する大学組織、という流れになって、そうなるとなんだか、何が争点なのか、何に怒っているのか、今の時代から見ると判らなくなっている感じがする。

でも、闘わなければ。闘わないサラリーマンなんてクソだというところまで行く当時の感覚は、働いていないと判らないんだよなぁとつい思っちゃうが、それは、著書を読んでいたらそうは思わない。
それを、映画となった本作では、そう思わされちゃうのが悔しい。結局学生はノンキな立場で、汗水たらして働いている大人たちの立場を理解できないんだと。そういう視点で、本作が作られているような気もしちゃう。決してそうではないとは思う、思うけれど……。

入学当初はふわふわした、可愛らしい女子大生だった悦子、問題意識を抱える友人に呆れられるぐらいだった。でも、その友人の方が先に離脱。学園闘争が弾圧された後の、何事もなかったようなキャンパスに悦子は愕然とするけれど、友人はあっさりイメチェンしてキャンパスライフを謳歌している。

これもね……映画オリジナルなんだよね。この友人は著書に頻繁に登場し、悦子の心の友として描かれる。こんな裏切りの描写はないのだ。これはヒドいと思う。なんつーか、女をバカにしている。
この友達の設定を、東大に落ちて心ならず立命館に来たというのもあんまりだと思う。いやその、著書にないだけで、取材した結果の事実だったらゴメンなんだけど(爆)、でも、悦子さんの中では最後まで、この友達はそんな薄っぺらい存在じゃなかった筈だから、ちょっと許せないと思ってしまった。

本作は、確かに難しい。この当時の空気を、近い時間で即刻伝えている意義は確かにある。
当時の学生たちが、そもそもどういう心持で大学に行ったのか、最初から学問に対する気持ちはなかったのか、あったけれども大学組織が学生を商品としてしか見ていないことにゲンメツしたからなのか、あるいは、当時の、国際問題、つまりは日本という国家が卑怯であり、腰抜けであることを糾弾すべしと思ったのか。

日本という国は、ちょっと時間が経つとあっという間に、懐かしき記憶となってしまう。今こうして、著書を読み、映画を観て、あれだけ若者が憤り、闘い、思いつめて命まで散らしたことは何だったのかと思う。
それは、正直、この映画作品からは受け取れないと思う。心配する古き良き家族たち、ちょっと恋しちゃうバイト先の妻子ある上司、セックスを体験しちゃうバイトの同僚、最初は威勢よく闘争活動をしていたけれど、あっさり平和主義になった友達、何か、何か……めちゃくちゃ平凡な作劇に思えちゃう。悦子さんが苦しんでいたのは、そんなところではないでしょと思ってしまう。

勿論、判らない。彼女の著書は、いわゆる彼女の凡俗な、恋愛欲、支配欲、性欲が次第に綴られていくスリリングはあるけれど、そこを抜けると、どんどん、なんていうのかな……無菌化されていく感じがするのだ。不純物が全くない。
この著書が唯一無二なのはまさにそこで、言葉というものの最上の、至上のものを差し出している、その精神状態の崇高さ。でもそれは裏返して言えば、言葉という形骸化されたものに託すしかなくて、実際運動からどんどん離れていっている、その辛さが、著書からは見えている。
だからさ……この著書は、これでしかない、映画作品には出来ないんだよ。そう思う。少なくとも本作は、私は受け入れられない。高野悦子さんの、透明な心を映し出せたとは思えない。

映画化作品があったことは知らなくて、上司役で地井武男デスカ!!とワクワクしたりもしたが、でも……やっぱり原作があまりにも崇高だから、難しいと思ったなぁ。
今、作るとしたらどうだろう??理解が進む分、でも当時の空気感、精神、難しいだろうな。先述したけど、戦争映画のように、やっぱり近い時に作らなければ描けないリアリティはあるのだ。確かに本作はそれを、見せてくれていたとは思う。

でもでも、原作を読んでほしい。本当に、珠玉。判らない言葉や時代背景は調べながら読んでほしい。今はいいね、それが出来るから。★★★☆☆


トップに戻る