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ザ・ゲスイドウズ
2025年 93分 日本 カラー
監督:宇賀那健一 脚本:宇賀那健一
撮影:古屋幸一 音楽:今村怜央
出演:夏子 今村怜央 喜矢武豊 ロコ・ゼベンバーゲン 水沢林太郎 伊澤彩織 天野眞由美 KYONO ロイド・カウフマン 一ノ瀬竜 神戸誠治 豊満亮 中野歩 かんた 小野塚渉悟 小林宏樹 松原怜香 横須賀一巧 ジョセフ・カーン マキタスポーツ 斎藤工(声) 遠藤雄弥
ラストのパフォーマンスに比して、ハルコたちザ・ゲスイドウズの演奏は、……これはハルコが怪獣のごとく絶叫するだけだからなんだけど、恐らく最初から他三人の演奏は上手いんだと思うんだけど、なんでこれでレコード会社と契約出来たの??というヒドさなんである。
ライブハウスに客は一人、恐らくこの青年は最初から彼らを追いかけている唯一のファンと思われ、ラスト、メジャーとなったザ・ゲスイドウズのCDショップのポップを嬉し気に眺め、意気揚々と一枚お買い上げしたりもする。
かといって、じゃぁこの青年がザ・ゲスイドウズのそもそもの実力を見抜いていたかどうかは??そこまでのサクセスストーリーじゃないんで(爆。まぁそこがいいんだけど)。
段ボール箱にたんまり売れ残ったCDをボン!と置いて、マネージャーはラストチャンスを言い渡すんであった。田舎に移り住んで働くだけで100万円が出る。移住して曲を作って結果を出せと。それまでの多額の借金をイヤらしくちらつかせながら、彼らにバンまで提供して(まぁそれは、メンバーが腹立ちまぎれにボッコボコにして落書きまみれにしたからなんだけど)、送り出すんである。
このマネージャーを演じる遠藤雄弥氏がちょっとイイ男で(照)。闇な作品や役柄で出会うことが多かったので、こんなくだらない、いや失礼、ポップな作品で楽し気に彼らを罵倒しているのが素敵で。
最終的には最初からお前らを信じていたとでも言いたげな態度を取るのは落ち着いて考えるとなんなん、とも思うが(爆)、そんなことはまぁ気にしない、気にしない。
なんといっても、ボーカルのハルコを演じる夏子氏である。私、初見かなぁ、覚えていないだけだろうか。ザ・気の強い女の子を顔立ちにハッキリと宿した、でもどこか抜けているようなところがチャーミングで、まさに、このハルコのために存在する女の子、と思った。
The27Cluという言葉は初めて知った。27歳で亡くなったアーティストたちを総称するものだのだという。それにとりつかれて、伝説のミュージシャンは27歳で死ぬのだと思い込んでいる。そしてそうでなければいけないんだと。
つまり自分自身が27歳で死ぬ、もう誕生日まで一年を切って、彼女は焦っている。それは、27歳で死ぬことが確定だから、時間がなくて焦っているらしく、まさに本末転倒で、マネージャーは執拗に、死なねぇよ!!と叱り飛ばすのだが、ハルコの心には届かないんである。
これこそが、面白いアイディアだと思う。27歳で死んだアーティストたちは、その未来が見えてはいなかった筈なのに、ハルコはそこんところが判っていないのが面白い。それがレジェンドの運命だと、自分がレジェンドだと確定しているのが、なかなかない視点と思って……。
この言葉は知らなかったけど、芥川とか太宰とか宮沢賢治とか中原中也とか、まさにこの年齢近辺で早世している小説家のことを、多感な時期の私もめちゃくちゃ意識していたことがあって、ちょっと判るなぁとか思っちゃって。
でも、この、シリアスな、深層心理に根差すようなハルコだけれど、のんびりとした田舎町でのんびりとした生活、ハルコ自身はもんどりうっているのだけれど、そうは見えないオフビート世界観で、なんともほっこりしちゃう。
ハルコはじめメンバーたちは総じて不器用で、農作業も目も当てられない状態なのだけれど、村民たち、特に最初に迎え入れてくれたおばちゃんは心あたたかく、いかにも幸せそう。
ハルコ達に提供された一軒家には、今は亡くなってしまったその住民たちが残していったあらゆるものがあって、引き出しをいちいち開けながら、ねぇなんかあるー!!と絶叫するのとか、可笑しい。
それが派手な和服で、無造作に彼らはそれを拝借し、結果的にはイカした衣装となるのだから、上手く出来てる。
ハルコの創作の苦しみが本作のメインとなっているんだけれど、ここがもう、まさに本作のオンリーワン、個性、まぁ言ってみればバカバカしさで。
ハルコはThe27Cluもそうだけど、ホラー映画のフリークで、部屋にはミュージシャンの写真と共に映画のポスターも数々貼りつくされ、メンバーたちにこんな曲が作りたい、と伝える時に、ミュージシャンとホラー映画の知識をミックスさせた、実に独特なオーダーを出す。これが、メンバーそれぞれに、一人一人に刺さり、1人ずつ、最初はドラム、そしてベース、ギターと、想いが伝わっていくんである。
私もホラーが好きだった時期があるし、アルジェントとかフルチとか、心躍るけれど、オーダーの組み合わせが独特過ぎて、咀嚼しきれないうちにメンバーがぴかーん!みたいに受け取っちゃうのが、悔しくて。待って待って待って、もう一回言ってもらえる??みたいな……。
こういう、オタク的、マニアック的なものを、判る人には判る、判らなくてもナンセンスで面白い、という展開が、ガンガン進んでいって、あぁ、自分ちで、まき戻して、調べたりして、あぁなるほどとか、そんなんあるかい!とか思いながら観たかった!とか思って。
ハルコのそうした独特のオーダーは、ジョン・ケージと名付けられた、元の住民が飼っていて引き継いだワンコが啓示を授けたんであった。うっわ、口だけCGで動いて喋らせとる、やっすいCMな演出、まさにこれこそが確信犯なチープ演出なのだが、私はにゃんこ奴隷だが、これが正直好きじゃないので、ツラい(爆)。ナンセンスな魅力こそとは判っているので言いづらいが、ツラい(爆爆)。
まぁとにかく、ハルコはこのジョン・ケージに奮い立たせられ、まさに神の啓示を得たとばかりに突然卒倒し、リーガンの緑ゲロを吐き(これが判っちゃう自分を誇りに思う♪)、見事な曲を書き上げて、海外の有名フェスに出るからパスポートとっとけと、おばあちゃんに言い捨てて、再上京するんである。
マネージャーは掌返して彼らを売り出すことを決め、一気に世界中にファンが広まる。世界中の街頭インタビュー、ファンへのそれなんだけど、これがまた確信犯的に安っぽくて、改めて本作の描きたい主軸というものを示すハートの強さを感じたりする。アメリカと韓国とカナダだけ。カナダがやたら尺長いのは何故とか(爆)。
だけど、でもつまんない町ブラロケで失敗してしまって、つまりお茶の間の人気者になりそこなってしまって、マネージャーは激怒するんだけれど、結局はここで本当の火がついたということなんだろうなぁ。
デモテープ、いまだカセットテープだというのが胸アツである。そのカセットテープが人格化され、マキタスポーツがしゃべる、というのはそうかそうか……という気持ちにもなるが、全世界的にカセットテープがエモいということになっているのかもしれんなぁ。それを人格化というのも、確かに私の子供時代の創作物においてのなつかしさを感じる。
本作は、バンドのサクセスストーリーにはなっているけれど、メンバー同士の話し合いとかぶつかり合いとか全然ないし、ハルコだけが苦悩して、緑ゲロ吐いて(爆)、覚醒して、ラストかっこ良くパフォーマンスしてのカタルシス。
でもそれでいいんだろうなぁ。観客賞を受賞した映画祭もあったというのは、観客が求めているのは時にそういうことじゃなくって、面白くって、スカッとして、結果カッコイイ!!ということなんだと思うから。
伊澤彩織氏が出てきたからビックリした!アクションしないから、いやでも、彼女だよね??と思って。ベースのリュウゾウが岡惚れしちゃう村娘。でも金髪で、アクセサリーつけて、最終的には村のイケてる男子のバイクにニケツしてるところを目撃して沈没、いいねぇ。立て続けに役者やってる喜矢武豊氏に遭遇して、それもまた面白くもビックリ。
満足のいく曲が出来て、世界に打って出る!というラストのパフォーマンスで、彼らを愛情深く見守ってくれて、でも突然死んでしまったおばあちゃんが、まぁなんと、ゾンビとして見守っている。
それは、ハルコがホラーが大好きで、愛していて、この新曲も、ゾンビ愛を存分に歌ったものだから。何人もの増殖おばあちゃんゾンビなもんで、なかなか感動は難しいが、とにかくこのラストパフォーマンスは素晴らしかったから!
ハルコを演じる夏子氏が衝撃的にチャーミングで、私、出会っていたかなぁ。ちゃんとチェックせねば、ホントに。★★★☆☆
インディーズ映画、そしてコロナ禍での資金不足を、本丸の東映京都が「脚本が面白いから」と救いの手を差し伸べたというのが、何より本作の幸福な運命を物語っている。
実は農家だということで話題になっていた監督さんの経歴を見ると、農家稼業はここ2年ほどで、そもそも撮影部プロだったのだと知ると、なるほどうなづける。実は農家、ということをやたらクローズアップしたがるのが、いかにもマスコミだったんだなぁと判るとなんだかなぁ。だって映画ファンからすれば、スタッフクレジットにずらりと監督さんの名前が連打されるのは、インディーズ出身の神、これまた技術畑出身の塚本晋也監督なんぞを思い起こさせてジーンとするのだもの。
タイムスリップに至るまでの冒頭は、幕末、会津藩士と長州藩士という、あぁ私が苦手な日本史、幕府とか新政府とか対立する地方藩士の図式とか、結局頭に入らないままこんな年になってしまった自分にまたしても突きつけられ、やっぱり時代劇、難しいんだよなぁ、とアホな私はドキドキである。
ことのほかシリアスで重厚な斬り合いで、こらー大変だ、マジな時代劇だと腰が引けかけたところで、雷鳴がとどろく。腕の立つ長州藩士と斬り合って、すわ、というところであった主人公、愛すべき会津訛りの高坂新左衛門が、目を覚ました先はなんとなく見覚えがありそうでなんだかヘンな町並み、町娘が再三絡まれるのを助けようとしたら、見たことのないカッコをした男たちに怒鳴られる。そこは時代劇の撮影所だったのだ!
このアイディア一発で、もう勝ち、というか。でも私が勝手に想像していたのとは、ちょっと違った。最後まで高坂が、あるいは後に登場する、まさにあの時斬り合っていた長州藩士、現・時代劇スターの風見恭一郎が、自分があの時代からタイムスリップしてきたことを、今の時代の誰にも明かさずに終わるとは思わなかった。
ヤボなことを言えば、本人証明も出来ずに現代日本で生活していけるんかいなと思うが……新左衛門は記憶喪失ということでここまで乗り切っているけれど、風見はどうだったのか、そんな状態で時代劇スターまでのぼりつめて問題なかったのかなぁと、あぁヤボなことを考えちゃう!!ここまで大ヒットしちゃって、シネコンにまでバンバンかかっちゃうと、そういうツッコミされているんだろうから、つまりは心配になっちゃう。
余計なお世話よね、ごめんなさい。新左衛門を演じる山口馬木也氏、お顔とお名前はめっちゃ目にしていたが、まさにそれが一致していなかった最たるお人。めちゃくちゃ、お顔とお名前は知ってた!そうだったのか!という嬉しき驚き。
こんな風にインディーズ映画が幸福なヒットを飛ばすと、本当の意味でのバイプレーヤーズにスポットライトが当たるのが楽しい。当然長年のキャリアがあるからお芝居は素晴らしく、長年見てきたお人なのに、なんだか突然発見したように驚いてしまう。
突然飛ばされてきた令和の時代に戸惑い、何より自分が死守すると誓っていた幕府が滅亡して140年も経っているんだと呆然とする新左衛門は、それでも、その豊かな日本に時に落涙さえする。そうした場面が丁寧に描かれているからこそ、幕府を倒した長州藩主に時を超えて遭遇して、一度は積年の恨みを再燃させようとまで思うけれど、踏みとどまれる。
本作は基本チャーミングなコメディだし、新左衛門を愛すべき存在として信頼し、支える現代の人々……撮影所近くのお寺の住職夫婦、何より新左衛門が想いを寄せることになる助監督の優子とのほのぼのとした、どこか懐かしい舞台コントをほうふつとさせるやりとりが何よりの魅力で、だから、意外というか、つまりはこれ以上ないメリハリなんだけれど、まるで違う映画が二本入り込んでいるぐらい、雰囲気が違う。
まぁそこに至るには、実に30年のタイムラグで再会したかつての長州藩士である風見の登場を待たなければいけない。新左衛門は、侍であった自分が生きていくには、風前の灯火であると言われている時代劇の世界で、斬られ役としてお役に立つしかない、と思い立つ。
それはまさに30年前の風見がそうであったことを後に知ることになるのだけれど、知ったとて、その時は新左衛門はまだ風見への恨みを払しょくできずにいる。幕府が倒れ、新しい日本が産まれたがゆえに、こんなに豊かな国となったことが判っていても。それは、自分たちが生きていた時代を映し出す時代劇が風前の灯火であることを鑑みると、なんだかねじれた愛憎だったのかもしれない。
で、そう、なんだか意外だったのよ。タイトルからして、タイムスリップしてきた侍と現代人たちとのギャップで笑わせるコメディだと思っていたから。それはまぁ、そうなんだけれど、てっきり現代人側がそうと知って、タイムスリップしてきたからだもんな、みたいな展開になるんだと思い込んでいた。遠い未来で生きていくには、その時代にいわばおもねるしかないと思い込んでいたのが、私の、現代人のおごりだったのかもしれないと思う。
風見は新左衛門を、撮影所を取材したワイドショーで見つけた時、即座に時代劇に戻ることを決めた。新左衛門を敵役として抜擢して。
時代劇スターとして君臨したのに突然そこから引いて現代劇に行ったことを新左衛門から責められると、彼らが同じ時代を過ごした遠き昔、風見はふりかかる火の粉を振り払うように、武士を一人、斬り殺したことを語る。その死にゆく顔が、ずっと忘れられなかった。完全フェイクである時代劇で斬り殺す芝居が、耐えられなくなった。そして時代劇を離れたというんである。
風見がもともと、今の新左衛門と同じように斬られ役からスタートしたことを思うと、斬られている方が楽だったのに、斬る方になってしまって耐えられなくなったんだなぁ、と思って……。あくまで時代劇、フィクション、フェイクなのに。
それこそ実践と、見せるための剣劇アクションとの違いを、重鎮の殺陣師に教わるシーンがとても興味深くて。振りかぶった刀が後ろにぶら下がったら敵に当たっちゃうから天に向かって刀を上げろとかさ。全然、違うんだよね。
それをむしろ、現代の私たちの方が判ってる。主人公が決め台詞を言っている間に、斬られ役どもが生真面目に待っちゃってるんだから。でもその世界を、何より自分たちが生きていた時代の世界だからと、伝えたいと思って、それが時代劇を愛する撮影所スタッフたちと共鳴するという奇跡。
新左衛門が一度は殺陣師の重鎮にみっちり教えを請うて、いわばフェイクの戦いをその身に叩きこんでさ、そしてこの世界で生きて行こうと思っていたのに、それをくつがえしちゃう因縁の相手が現れちゃう。しかも、あの時は自分より若かったのに、30年早くこの世界に飛んできちゃって、今や時代劇の大スターとなってる。
これも素晴らしいアイディア。新左衛門に、フェイクの時代劇ではない、そもそもの人生を思い出させ、死ぬほどの葛藤が死ぬほどの決闘を産み出し、そしてまたフェイクの時代劇の世界を、真摯に生きていくことを決意する、だなんて。
クライマックス、新左衛門が風見にいわば決闘を申し込む形になる、真剣を使ってのアクションが採用されるシーン。真実なシーンを撮りたい、事故があっても役者たちで責任をとるという血判まで押した誓約書を突きつけ、二人は、冒頭の、あのつまりはさ、殺し合いを、ここでやり直すことになる。
このクライマックスシーンは、いや、判ってるよ、真剣を使っているというテイさ。そういう設定さ。でも、重く響く刀がぶつかり合う音、絶妙なカット、間合い、このシーンにこそ、監督さんは勿論、新左衛門を演じる山口氏、風見を演じる冨家ノリマサ氏、その他のキャストも、スタッフ全員が、命を懸けたことが伝わってくる。このシーンだけで時代劇映画の歴史に残ると言いたいぐらい。
ちょっと、難しい部分はあったと思う。ひとつのテーマというかカラーで統一することは出来なかったと思うから。先述したように私が勝手に想像していたような、過去から来たサムライさんだと認識している現代の人たちとのワチャワチャではなく、そっちを選んでしまうと、全きコメディには出来なくなる。
もちろんそれが作り手側のやりたいことであって、一方でコミカルを示しながらも、本当に描きたいのは幕末の、大きく時代が動いた、でもその末端で不安を抱えながらも、でもやるしかない、死んでもかまわないと思っていた侍たちだったんだと思う。
そう思うと、新左衛門がまるで中学生の初恋のように、若い、かなり年下の優子に対しておどおどしていて、それを風見がからかうようなシークエンスが、微笑ましいけれど、ちょっとギャップがありすぎて現実味が薄れちゃったかなぁ、という残念さはある。
そうね、コメディとシリアスが、どちらのパートも素敵だったからこそ、その橋渡しというか、上手く乗り切れなかったのは理解の足りない私のような観客側の問題だったのかもしれないのだけれど。
でも、こういうところにこそ技量が問われるというのは、あると思うから。何度か先述したけど、新左衛門を支える住職夫婦、何より優子が、彼の秘密を打ち明けられないままなのが、うーん、もちろんそれは、作り手側の判断だし、それだけ過去を背負っているというのも判るんだけれど、それじゃ結局、本当の意味で分かり合えないと思っちゃうし、優子が真剣アクションにメッチャ心配して、新左衛門を平手打ちまでする怒りに、彼が応えられてないと思っちゃう。
それは私が、フェミニズム野郎だからかなぁ。男子が自分のプライドを優先して、いやその意識すらなく、女子の気持ちをないがしろにする、しかも無意識にさ!というのが許せなくて、でも100年以上前から来たサムライ男子かぁと思うと、……いやでも!それで許されるなんてことになれば、ダメダメ!みたいな……あぁ、私はやっぱ、ダメだな。
時代劇が苦手なのは、日本史が苦手なだけじゃなくて、やっぱりやっぱりフェミニズム野郎だからなのさ。凄く可愛らしくチャーミングで、一方で素晴らしき完成度の時代劇で、ギャップ、メリハリ、とても素敵な作品だった。それは確かなのだけれど。★★★☆☆
二つのファクター。震災とコロナ。舞台は三陸の地方都市。いや、田舎町と言った方が正しいかもしれない。
震災の記憶を誰もが色濃く持っている。ヒロインである百香(井上真央)が震災で失ったものがなんなのか、最初は判らないけれど、次第次第に……この町のマドンナである彼女に岡惚れする独身男たちの結束や、父親ではなく後に舅だと知れる章男(中村雅俊)の話から判ってくる。
「モモちゃんの幸せを祈る会」の男たちが手をこまぬいている限りは、彼女はこの哀しさの中から抜け出るきっかけさえなかった。そこにやってくる、ザ・よそ者の晋作である。
東京のでっかい企業に勤めていることが後に知れることになる晋作は、彼ら地方民から見ればエリートサラリーマンで異次元の存在だっただろうけれど、後に知れる前に、晋作はするりと彼らの信頼を得てしまう。
晋作を演じる菅田将暉氏が、ちょっとオドロキの垢ぬけなさで、えーっ、こんなに土くさい菅田氏、見たことない!と喜んじゃう。
もともとイケメンという訳じゃないと思うが(いやその……何でもかんでもイケメンでひとまとめにするのは違うと思うからさぁ)、それにしても、なんつーか、イモっぽい!釣りで日焼けした様子といい、基本釣りファッションで、もちろんしっかりとプロフェッショナルに固めているんだけれど、実用スタイルでファッショナブルじゃないし、本当に、釣りを愛し、海を愛し、だからこの三陸に来たんだ!!というのが、その単純スタイルを納得させちゃう奇跡の素朴さ。
彼がクライマックスで叫ぶように吐露する、震災もコロナもどうでもいい、そんなこと気にしたこともない、ただここが大好きなんだという台詞が、それまでのコミカルに封じ込められた中で苦しく哀しい記憶を、それを生真面目に抱えてなきゃいけないと無意識に思っていた彼らを、こんなシンプルな言葉で救うのが、すんごく刺さるのだ。
おっといけない、とっととオチに行ってはいけない。そもそも、この三陸の小さな町の役場に勤めていた百香が、社会問題となっている空き家解決の担当者になるところから始まる。
百香自身も空き家を持て余していた。しかも新築。家具も家電も装備済み。百香は章男と一緒に暮らしていて、観客の目からも、二人は親子なんだろうと思っていたんだけれど、違った。漁師である章男の船に飾られていた写真が、カメラがしっかり寄らないから気になっていたんだけれど、彼にとっての息子と孫、百香にとっての夫と子供たちが命を落としたんであった。
晋作はというと、コロナ禍によって彼が勤める大企業は完全リモートワークが出来ちゃう整備が整えられてて、これ幸いと好きな釣りが出来る移住を検討、そこに百香の提示した“神物件”がヒットしちゃう。
まさかこんなにすぐに希望者が現れ、しかもまさかこんなにすぐに来ちゃうとは思わなかった百香、しかもそれが東京の人であることに、焦ってしまう。あ
ぁそうだ、まさにこのコロナ禍の時の、地方と首都圏のケンアクな関係性だ。都会で蔓延しているコロナ菌、帰省するな、地方に来るな、という大合唱、あの子帰省してたんだってよ、とこそこそ陰口をたたかれていたという話とか。
村社会という以上に、人間ってこんなに情報に左右されるんだ、あの時の未知のウィルスに対する恐怖の感情って、まるでSFみたいだなと思って、それが判りやすく、都会の人間への拒絶になっていたことを思い出してしまう。
まさにその図式ではある。百香は晋作に対して、まるでバイキン扱い、これ以上近づくなと、会話もスマホ、除菌スプレーをまき散らし、とにかく2週間、この家から出るな、と厳命する。
もちろん東京にいた晋作だって、すっかりリモートワークだったし、状況は判っていたけれど、リモートワークだったら地方でもオッケっしょ、という逆転の発想で移住を思いついた訳で、そうか、多少なりとも地方の住民感情を伝え聞いていなければ、こういうことになるのか。
いや、あの時、こういう状況は報道されてもいた。晋作が、先述したように、クライマックスで叫んだように、そんなことはどうでもいいと、今なら素直に私たちも飲み込める当然の価値観を、ナチュラルに持っていられたからこそ、彼はこんな仕打ちにもめげず、2週間隔離という厳命もいい感じに自分勝手な判断で破りまくって、結果的にこの地になじみまくってしまう。
リモート会議の分割画面、何か今となってはすっごく懐かしい。もちろん、今でも行われているのだろうけれど。社長が登場して、こっそりみんなが離脱しまくって晋作と社長が二人きりになっちゃうとか、このコロナ禍で生まれたリモート会議システムをみんなが共有していなければ、これでユーモアを産み出すことも出来ない。
晋作が海の幸の食卓にご満悦で、そこにタコが送られてきて吸盤すいつきまくりのタコとプロレスか!という格闘する場面を同僚たちがボーゼンと眺めているシュールなシークエンスとか、最高なんだよなぁ。
おっと、脱線してしまった。そう、社長が興味を示すんである。地方の空き家物件に格安で移り住んで豊かな生活を送っている晋作に、コロナ禍で進んだリモートワークと全国の空き家問題がビッグなビジネスチャンスを産み出すと。
これってめちゃくちゃリアリティあるし、実際に会社ごと本社を地方都市に移したという話も聞くし、本当に進んでいる話なのかもなぁ。
地方の空き家問題は数十年前から聞いていて、その解決策なんて思いもよらない、というのが都会信仰が強い私たち昭和世代の認識だったけれど、ネットが普及、コロナ禍以前からどこにいても仕事は出来る、というのが、大手企業、IT企業中心に急速に広まった。
正直、私が従事している現金主義、アナクロニズムな卸業界はまだまだ難しいのだけれど、でも入院中でもパソコンを持ち込んで出来る仕事があるだなんてことが、少なくとも事務方には大いに助けになったし。
晋作のガッツ、というか、そこまで考えていなかったのかもしれないけれど、目の前に海があるのに釣りができないなんて、地元民と接触してはいけない、でも地元の海ならいいでしょ、という言い訳から、サングラスに帽子という怪しさ満点の姿で、結局市場にまでウロウロしちゃう。
独身男チームから、市場よりスーパーの方が安いのが判ってないからよそ者だ、と断定されるあたりが、あぁ、あるあるだなぁと思って。それでも晋作にとっては東京の価格に比べて激安なのだ。
つまりはさ、そんなことを調査しちゃうほどに、男たちは晋作のことが気になっていて、そこんところに隔離期間を終えた晋作が無邪気に飛び込んでくると、これもこれもと“おもてなしハラスメント”をぶちかましちゃう。
東京ではこんなもの食べれねーだろ、塩辛は日本酒とか甘い甘い、白ワインとのマリアージュだとか、あぁ見ているだけでこの店に飛んで行きたくなる!
コロナ禍以降、今でも被災地は、原発もあったし、観光事業は苦しい状況であると思う。何度も言っちゃうけどクライマックスで晋作が言ってくれた、そんなことはどうでもいい、ここが好きなんだという、それだけの魅力を、知ってほしいと思う。
晋作の同僚たちが空き家ビジネスのためにやってきて、東北六県が言えないぐらいのレベルに独身男チームはイライラしたりもするけれど、でもそれは、東北民がじゃぁ、東海、近畿、北陸、四国、九州等々、ちゃんと言えるのかということでさ。
私が東北に住んでいたこともあって、一時はそうしたことにイライラしたこともあったけど、私だって言えないもんなぁということに気付くと、それきっかけに、知りたくなるっていうこともあると思う。知りたいとか、住みたいとかっていうのは、地理的知識じゃなくて、震災のこともよく判ってない、考えてもいない晋作のような人が、きっとその場所の魅力を百パーセント純粋に見つけてくれるのだと思う。
晋作が東京の人だと言われ、舞台となるこの地方都市で暮らす人々は、産まれてからずっとここに住んでいて、東京からコロナを持ち込むなと罵倒し、都会民は、被災地の人たちは何でもやってもらえるのが当たり前だと思っていると苦言を呈する。
辛い。どちらも判ると言えば判るけれど、なんていうか……。私はどちらでもないのだ。今はうっかり東京に住んでるけれど、地方民。でもそれも、転勤族の子供で、地元というところがなくて、地方からも都会からも、お前は違うだろと言われている感が常にある、ずっとある。
だから、本作での、都会に対するコロナ菌扱いに対しても、被災者が被害者ぶってると思われているということも、どちらもめちゃくちゃ判る、苦しい、哀しいんだけれど、どちらに対しても、真の当事者になれない苦しさがある。
それを晋作は、都会側の人間であって理不尽なことを言われて、態度とられて辛かったに違いないのに、ふわりと乗り越えちゃう。そのコツを教えてほしいと思っちゃう。だって、除菌スプレー浴びせられた最初から数えて、とにかくひどい対応だったのに。そんなポジティブになれないよなぁ。
一番大きかったのは、晋作の隣の家(とはいえ、田舎だからそれなりに離れているけど)のおばあちゃんの存在だったと思う。いろいろ事情は察しただろうけれど、問題の空き家に越してきた晋作に差し入れをくれたところから交流が始まり、料理をしたり、縁側で一緒にご飯を食べたり、パチンコに通う彼女を送り迎えするまでになり、家族の話とか、いろいろ聞いて信頼された。
パチンコ屋で倒れた彼女を救急車で付き添い、その葬儀の場面から一気に物語が動き出す。
都会に住むおばあちゃんの家族は葬儀に来れなかった。でも、代わりに、というか、晋作の勤める大企業の社長が訪れ、空き家ビジネスが具体的に動き出す。
このおばあちゃんの家がまさに、キーポイントになる。この町の空き家事情を網羅して、すぐ住める、軽い修復が必要、大きな修復が必要、といったランク付けがなされ、それによってトラブルも発生するのだけれど、このおばあちゃんの家が、いわば、ロールモデルとなった。
近年は寄り付いていなかった息子たちが、最初は残置物はすべて捨てていいと言っていたのに、見ていくうちに、その想い出に、落書きとかさ、シール貼られているタンスとかさ、ぐっときちゃって。
でも一年に一度ぐらいしか帰れない、家は人が住まなければ荒廃してしまう。ならば、この状態をいい感じに残すリフォームをし、帰省する期間以外を貸し出すのはどうか、と晋作は提案するんである。
ビジネスなのだから、それなりに残すとはいえリフォームは完璧に美しく、昭和女子的には正直、全然残ってないやんか、と思っちゃったんだけれど、どうなんだろう……。難しいなぁ。
この活躍により、一時本社に戻された晋作が、再び神物件にアクセスし、プロポーズしていた百香と再会、籍は入れないという選択を舅も理解するという、あたたかなハッピーエンド。
ひとこと言いたいことがあるとすれば、モウカザメの心臓、東京でも食べられるよ!ウチの店でも仕入れてるし、大手とか、高級な店とかではないかもしれない、むしろ東京下町、心ある伝統を受け継ぐ店で、食べられると思います。
レバ刺しが永遠に食べられなくなった絶望を救ってくれたあの時を、思い出すなぁ。めちゃくちゃウマいよ、ぜひ食べてみて!!!★★★★☆