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早乙女カナコの場合は
2024年 119分 日本 カラー
監督:矢崎仁司 脚本:朝西真砂 知愛
撮影:石井勲 音楽:田中拓人
出演:橋本愛 中川大志 山田杏奈 根矢涼香 久保田紗友 平井亜門 吉岡睦雄 草野康太 のん 臼田あさ美 中村蒼
大学生のカナコが彼氏の長津田と出会ってからの、恋愛と仕事と友情の10年間を描く。大学に入学したての登場シーンのカナコ、演じる橋本愛氏と、演劇サークルの勧誘で寸劇をしていた長津田、演じる中川大志氏の、ジーンズにシャツをインしたどこか懐かしく初々しい大学生スタイルは、スマホを持ってる現代の物語なんだけど、数十年前の私の学生時代さえも思い出させるエモさなんである。
それはきっと、特に長津田が醸し出す、根拠のない自信、才能ある男を気取っているザ・子供な気恥ずかしさが、いつの時代にも、いつの大学生にも、そういう部分、そういう人っているから、だから頭を抱えたくなるぐらい恥ずかしくも、愛おしい。
ちょっと、中川大志君だとすぐにピンとこないほど、今まで私が彼に対して勝手に抱いていたイメージとは違う男の子。
口ばっかりで、デリカシーがなくて、金がないのに見栄を張って無駄遣いして、卒業しないことや就職しないことが、俺は普通の人間じゃないんだという虚勢の裏に、現実に向き合えない弱さを隠してる、そんな、まぁいわばクズ男を、しかもダッサいロン毛で登場するので、えー、中川君か!と思った。
なのに憎めない。愛してしまう。本作の惹句のとおり、「この男は、バカだ。でもずっと好きな私は、もっとバカだ。」がピタリである。
バカな女はカナコだけではなく、ぶりぶりの小悪魔然として登場する他大学の麻衣子もまた、長津田にゾッコンになってしまう。イイのは、この麻衣子が、いかにも同性の嫌悪を引き出すようなブリブリファッションのイケイケ女子っぷりで長津田にボディタッチ多めで近づくのに、なぜか彼女のことをイヤな女だと感じさせないことなのだ。
これは、凄いと思う。後に麻衣子が実は大学デビューであり、高校時代はさえない女の子であり(それを明かすのがブルーのブリーフいっちょの美少年弟だというのが、なにこれ!と動揺するのだが……)、物語の後半には、可愛いスッピン顔とダルダルカジュアルファッションで、めっちゃ可愛いじゃないの!とこっちの彼女にこそホレるのだが、その事実が意外と思わないほどに、なぜか、なぜだか、それが判っていたような気がしたのはどうしてなんだろう……本当に不思議。
この物語は、いわば女子三人の先輩後輩物語、と言える側面もあって、カナコ、麻衣子、亜依子の三人の女性が、女子にとっては自分の中にそれぞれある要素があって、そして後輩であり先輩であるという立場であるのがカナコであり。
一見、長津田との腐れ縁の10年をほろ苦く描くことがメインと見えながら、実際は、この女子三人による、妙齢女性の生き方を描く物語だったんじゃないのかなって。
だから、一見それぞれに恋のライバル、バチバチに見えそうになりながら、カナコと麻衣子、カナコと亜依子は、それぞれの恋人を介することで、自分の人生を見つめ直し、それぞれに親友と言えるほどの存在になる。めちゃくちゃ素敵なのだ。
だとしたら、長津田はいわば刺身のツマだよなぁ。ロン毛でサングラスで、レトロなヘルメットで女の子とバイク2ケツする長津田はマンガチックで子供っぽくて、確かに悩める女子たちの人生の踏み台になっている感はある。
カナコは夢の出版社からの内定をもらい、そっから急速に長津田はヒネちゃって、ふてくされちゃって、ほんっとコドモなんだけどさ、でもそのかたわらに、イケイケ女子(にその時は見えていた)麻衣子が寄り添っていたもんだから、フツーの恋愛ものの三角関係みたいにケンアクムードにはなる。なるけれども、そんなヤボな展開にならないのがものすごく稀有だと思って。
麻衣子も長津田のことがどうしようもなく好きなんだけれど、長津田がそういうダメなヤツであることも判ってきてて、カナコのことを思いながら自分の部屋に招き入れたり、無造作にキスしたりしちゃう長津田にイカってしまって、そっから急速にカナコと仲良くなる。
というか、スッピンまる出しの素朴な女の子に戻って、まるで猫のようにカナコに甘えだしちゃう麻衣子がめちゃくちゃ可愛いのだ。
そして、カナコの職場の先輩、そしてカナコの今カレになりかけている吉沢の元カノである亜依子がまた、グッときちゃうんだよなぁ。演じる臼田あさ美氏がつややかに美しく、未練がましいところが切なくてサイコーである。
彼女をお若い頃から見ているもんだから、こんな大人のイイ女になり、でも若い女に嫉妬めいた気持ちを持ってしまう、カッコイイキャリアウーマンだし、そんなこと思う必要ないのに、人生設計につまづいたことに戸惑う女性を素敵に演じていることに、めちゃくちゃ感慨を覚えてしまう。
本作のヒロイン、橋本愛氏は、大学生のカナコから演じていて、ちょっとそこには結構さかのぼっちゃったな、みたいな気恥ずかしさが可愛らしくもあったものの、そこから10年後が彼女のドンピシャの年齢あたりで、あぁやっぱりまだまだお若い。
発泡酒にコンビニのおつまみで飲んでいるのが大学生っぽいね、などとつい最近を懐かしんでいる感じが、あぁまだまだ、まだまだお若いんだよなぁと思ってしまう。
亜依子が示す、いわばもうちょっと先の女性の未来は、カナコにとってはそりゃぁ想像も出来ないだろうし、正直言って亜依子の思い描いていた未来像というのは、元カレへの未練もあったろうが、ちょっとレトロというか、それこそ私たち昭和世代の女が、どこか洗脳気味に描きがちなそれだったように思う。
だから、懐かしい感じがしたのだ。ほろ苦い感覚で。5年計画で恋人との結婚を思い描いて手帳に書き込んでいた亜依子、それが破れて、今は同僚の結婚式に複雑な想いで出席している。うっかりブーケをゲットしてしまう。そして元カレの家に酔った勢いで乗り込んでしまう。
……こうして書いてみても、かなりレトロな感覚である。私の時代の設定だったんじゃないかって、思っちゃう。ブーケ受け取って次はあなた、だなんて。でも今でもあるのかなぁ。
ここからさらに数年経って、亜依子は卵子凍結をしたことをカナコに告げる。恋愛とは別のこととして、と。
これこそリアルな現代の女性の感覚であり、確かにその感覚は、コロナや多様性の価値観が急速に広まったこの数年間で変化したから、あの頃まだまだ、結婚がゴールだと手帳に書き込んでいた女性は多かったのかもしれない。
男性は、どうなんだろう。本作に出てくる男性は、長津田と吉沢。長津田は夢見るユメオ君。そして女たちに捨て置かれていく。
それでもカナコも麻衣子も彼のことが憎み切れなくて、少なくともカナコは長津田に対して激高したり、決定的な別れを突きつけたりはしてなかった。別れたよ、と麻衣子には言っていたけれど、そもそもの長津田が本当にそれを判っていたかどうか疑問だし、なのに麻衣子を彼女然として扱い、インスピレーションが浮かぶんだと言いながら結局脚本全然書く気ないし、というていたらくなのであった。
だからね、先述したけど、私がフェミニズム野郎だからなのかもしれないけど、長津田はどーでもいいのよ(爆)。吉沢も、まぁどーでもいいが、でも吉沢は、同じ不器用でも判るというか、同情の余地があるというか(爆)。
亜依子となぜ破局したのか明確なことは判らないけど、結婚まで見据えていた彼女のスケジューリングについていけなかったのかもしれないというのが感じられる、まぁ男ならではの覚悟のなさっつーか、危機感のなさっつーか、優しさと言い換えることは出来るけれども、みたいな。
そう考えてみると、長津田のいい加減さと比べるのも失礼なぐらい、吉沢はきちんとした、外野から言われるところの“ハイスペックな男”だけれど、女たちにとっては、……やっぱりみんな、恋する女だからさ、なんだかんだ条件つけがちだけど、そうじゃないんだよね。
だから、亜依子が、本当は吉沢のことをただただ愛していたのに、だから未練がましいのに、そこに、彼女が組み立ててしまった、女がやりがちな捕まえた男とのゴール計画、みたいなことがあって、きっと彼女はそのことを後悔している。
でもそれってさ、女性の価値が低いがための結婚が成功ゴールという悪しき価値観の刷り込みが、今だ消えずにいるっていうことだと思うからさ……。
つまりは、そういう価値観から抜け出せずにあがいている女性たちに比して、彼自身は苦しんでいる気持ちなのだろうけれど、結局はあっけらかんと、女からの愛を無邪気に待っている、という長津田の図式だったのだろうか。
カナコは久しぶりに彼に連絡をとってみる。もうこの時、カナコは自分が目指していた位置につけている。憧れの作家の担当編集者になり、出版記念パーティーに、今や母として奮闘する麻衣子や、結婚して海外で暮らす、学生時代ルームシェアしていた友人が顔をそろえた。
この憧れの作家というのが、同じ原作者の作品「私にふさわしいホテル」で主人公の小説家を演じていたのん氏、そのまんまの役柄で、そしてあの作品でも書店員として橋本愛氏が出てて、本作では小説家と担当編集者としての立ち位置という、もう、ムネアツどころじゃない双方向。
橋本愛氏が彼女のことを、特別な存在だと語っていることにめちゃくちゃグッとくる。そうでしょう、そうでしょう、と思う。全然タイプが違う、一見して、なんつーか、仲良くなりそうにない二人というか。でも、運命の二人、なんだよなぁ。
ラストはどうとらえればいいんだろう。カナコは長津田が、卒業や就職をすると誓ったことが、長津田らしくないと思って、それだけじゃないだろうけれど、別れを決意したのだった。麻衣子に受け渡す形だったけれど、彼女もまた早々に長津田を切り捨てた。
そして数年が経ち、ふと思い立つ形でカナコは長津田に連絡をとった。思いがけず一発でつながり、彼は芸能事務所でマネージャー業をしていると言い、若き日が瞬時に蘇ったかのように楽しく飲み交わし、ダンスをした。
そして、それっきりと思いきや、学生時代のように思わせぶりな呼び出しをかましてカナコを呼び寄せ、長津田は自分の脚本が有名な賞の佳作に入ったことを告げ、なんとなくイイ感じに彼女と一夜を共にする。
でも、カナコはそれが、イヤだったということなのか。翌朝、Tシャツにハーパンスタイルで彼の部屋から逃げ出し、長津田は必死に彼女を追い、そのカッコで電車に乗るつもりかよと言い、それでもカナコは走り続け、長津田は追い続ける。
カナコは、たかが佳作に入ったくらいでそんな態度を取るなと走りながらモノローグする。そしてカットアウトしちゃう。これは……。
まぁ確かに、大学時代から10年、書く書くと言って全然脚本を書かず、それでも俺は大成するとばかりに大口をたたき、言い寄る若い女の子を抱き寄せ、カナコを苦しませ続けてきたんだから、カナコの言い様は判らんでもない。
それこそ、若き日、インターンからこき使われて、内定もギリギリやっとで、就職までの間もまたこき使われているじゃないかと、カナコを嫉妬交じりに揶揄した長津田に対して、その賞をとってから言え!と叫んだのだった。
佳作といえど、とったのだから。てか、佳作だって、凄いことなのに、今、内部に入っているカナコはそんなおごった気持ちでいるのなら、それはあまりにも哀しいことだ。
だからこそ、このラストをどうとらえていいのかと、思った。バカでデリカシーがなくて、どうしようもないけど、彼を愛しいと思っているのなら、それだけが大事だと、思ってほしい。
個人的に、麻衣子を演じた山田杏奈氏が良かったなぁ。イケイケサークルに嫌気がさして友人とバチバチになったり、メイクやファッションバッチリが無理してたことが判ってナチュラルカジュアルになった姿もまた可愛くて、どちらも可愛くて、女の子好きにはたまらんわぁ。★★★★★
ラストのパフォーマンスに比して、ハルコたちザ・ゲスイドウズの演奏は、……これはハルコが怪獣のごとく絶叫するだけだからなんだけど、恐らく最初から他三人の演奏は上手いんだと思うんだけど、なんでこれでレコード会社と契約出来たの??というヒドさなんである。
ライブハウスに客は一人、恐らくこの青年は最初から彼らを追いかけている唯一のファンと思われ、ラスト、メジャーとなったザ・ゲスイドウズのCDショップのポップを嬉し気に眺め、意気揚々と一枚お買い上げしたりもする。
かといって、じゃぁこの青年がザ・ゲスイドウズのそもそもの実力を見抜いていたかどうかは??そこまでのサクセスストーリーじゃないんで(爆。まぁそこがいいんだけど)。
段ボール箱にたんまり売れ残ったCDをボン!と置いて、マネージャーはラストチャンスを言い渡すんであった。田舎に移り住んで働くだけで100万円が出る。移住して曲を作って結果を出せと。それまでの多額の借金をイヤらしくちらつかせながら、彼らにバンまで提供して(まぁそれは、メンバーが腹立ちまぎれにボッコボコにして落書きまみれにしたからなんだけど)、送り出すんである。
このマネージャーを演じる遠藤雄弥氏がちょっとイイ男で(照)。闇な作品や役柄で出会うことが多かったので、こんなくだらない、いや失礼、ポップな作品で楽し気に彼らを罵倒しているのが素敵で。
最終的には最初からお前らを信じていたとでも言いたげな態度を取るのは落ち着いて考えるとなんなん、とも思うが(爆)、そんなことはまぁ気にしない、気にしない。
なんといっても、ボーカルのハルコを演じる夏子氏である。私、初見かなぁ、覚えていないだけだろうか。ザ・気の強い女の子を顔立ちにハッキリと宿した、でもどこか抜けているようなところがチャーミングで、まさに、このハルコのために存在する女の子、と思った。
The27Cluという言葉は初めて知った。27歳で亡くなったアーティストたちを総称するものだのだという。それにとりつかれて、伝説のミュージシャンは27歳で死ぬのだと思い込んでいる。そしてそうでなければいけないんだと。
つまり自分自身が27歳で死ぬ、もう誕生日まで一年を切って、彼女は焦っている。それは、27歳で死ぬことが確定だから、時間がなくて焦っているらしく、まさに本末転倒で、マネージャーは執拗に、死なねぇよ!!と叱り飛ばすのだが、ハルコの心には届かないんである。
これこそが、面白いアイディアだと思う。27歳で死んだアーティストたちは、その未来が見えてはいなかった筈なのに、ハルコはそこんところが判っていないのが面白い。それがレジェンドの運命だと、自分がレジェンドだと確定しているのが、なかなかない視点と思って……。
この言葉は知らなかったけど、芥川とか太宰とか宮沢賢治とか中原中也とか、まさにこの年齢近辺で早世している小説家のことを、多感な時期の私もめちゃくちゃ意識していたことがあって、ちょっと判るなぁとか思っちゃって。
でも、この、シリアスな、深層心理に根差すようなハルコだけれど、のんびりとした田舎町でのんびりとした生活、ハルコ自身はもんどりうっているのだけれど、そうは見えないオフビート世界観で、なんともほっこりしちゃう。
ハルコはじめメンバーたちは総じて不器用で、農作業も目も当てられない状態なのだけれど、村民たち、特に最初に迎え入れてくれたおばちゃんは心あたたかく、いかにも幸せそう。
ハルコ達に提供された一軒家には、今は亡くなってしまったその住民たちが残していったあらゆるものがあって、引き出しをいちいち開けながら、ねぇなんかあるー!!と絶叫するのとか、可笑しい。
それが派手な和服で、無造作に彼らはそれを拝借し、結果的にはイカした衣装となるのだから、上手く出来てる。
ハルコの創作の苦しみが本作のメインとなっているんだけれど、ここがもう、まさに本作のオンリーワン、個性、まぁ言ってみればバカバカしさで。
ハルコはThe27Cluもそうだけど、ホラー映画のフリークで、部屋にはミュージシャンの写真と共に映画のポスターも数々貼りつくされ、メンバーたちにこんな曲が作りたい、と伝える時に、ミュージシャンとホラー映画の知識をミックスさせた、実に独特なオーダーを出す。これが、メンバーそれぞれに、一人一人に刺さり、1人ずつ、最初はドラム、そしてベース、ギターと、想いが伝わっていくんである。
私もホラーが好きだった時期があるし、アルジェントとかフルチとか、心躍るけれど、オーダーの組み合わせが独特過ぎて、咀嚼しきれないうちにメンバーがぴかーん!みたいに受け取っちゃうのが、悔しくて。待って待って待って、もう一回言ってもらえる??みたいな……。
こういう、オタク的、マニアック的なものを、判る人には判る、判らなくてもナンセンスで面白い、という展開が、ガンガン進んでいって、あぁ、自分ちで、まき戻して、調べたりして、あぁなるほどとか、そんなんあるかい!とか思いながら観たかった!とか思って。
ハルコのそうした独特のオーダーは、ジョン・ケージと名付けられた、元の住民が飼っていて引き継いだワンコが啓示を授けたんであった。うっわ、口だけCGで動いて喋らせとる、やっすいCMな演出、まさにこれこそが確信犯なチープ演出なのだが、私はにゃんこ奴隷だが、これが正直好きじゃないので、ツラい(爆)。ナンセンスな魅力こそとは判っているので言いづらいが、ツラい(爆爆)。
まぁとにかく、ハルコはこのジョン・ケージに奮い立たせられ、まさに神の啓示を得たとばかりに突然卒倒し、リーガンの緑ゲロを吐き(これが判っちゃう自分を誇りに思う♪)、見事な曲を書き上げて、海外の有名フェスに出るからパスポートとっとけと、おばあちゃんに言い捨てて、再上京するんである。
マネージャーは掌返して彼らを売り出すことを決め、一気に世界中にファンが広まる。世界中の街頭インタビュー、ファンへのそれなんだけど、これがまた確信犯的に安っぽくて、改めて本作の描きたい主軸というものを示すハートの強さを感じたりする。アメリカと韓国とカナダだけ。カナダがやたら尺長いのは何故とか(爆)。
だけど、でもつまんない町ブラロケで失敗してしまって、つまりお茶の間の人気者になりそこなってしまって、マネージャーは激怒するんだけれど、結局はここで本当の火がついたということなんだろうなぁ。
デモテープ、いまだカセットテープだというのが胸アツである。そのカセットテープが人格化され、マキタスポーツがしゃべる、というのはそうかそうか……という気持ちにもなるが、全世界的にカセットテープがエモいということになっているのかもしれんなぁ。それを人格化というのも、確かに私の子供時代の創作物においてのなつかしさを感じる。
本作は、バンドのサクセスストーリーにはなっているけれど、メンバー同士の話し合いとかぶつかり合いとか全然ないし、ハルコだけが苦悩して、緑ゲロ吐いて(爆)、覚醒して、ラストかっこ良くパフォーマンスしてのカタルシス。
でもそれでいいんだろうなぁ。観客賞を受賞した映画祭もあったというのは、観客が求めているのは時にそういうことじゃなくって、面白くって、スカッとして、結果カッコイイ!!ということなんだと思うから。
伊澤彩織氏が出てきたからビックリした!アクションしないから、いやでも、彼女だよね??と思って。ベースのリュウゾウが岡惚れしちゃう村娘。でも金髪で、アクセサリーつけて、最終的には村のイケてる男子のバイクにニケツしてるところを目撃して沈没、いいねぇ。立て続けに役者やってる喜矢武豊氏に遭遇して、それもまた面白くもビックリ。
満足のいく曲が出来て、世界に打って出る!というラストのパフォーマンスで、彼らを愛情深く見守ってくれて、でも突然死んでしまったおばあちゃんが、まぁなんと、ゾンビとして見守っている。
それは、ハルコがホラーが大好きで、愛していて、この新曲も、ゾンビ愛を存分に歌ったものだから。何人もの増殖おばあちゃんゾンビなもんで、なかなか感動は難しいが、とにかくこのラストパフォーマンスは素晴らしかったから!
ハルコを演じる夏子氏が衝撃的にチャーミングで、私、出会っていたかなぁ。ちゃんとチェックせねば、ホントに。★★★☆☆
インディーズ映画、そしてコロナ禍での資金不足を、本丸の東映京都が「脚本が面白いから」と救いの手を差し伸べたというのが、何より本作の幸福な運命を物語っている。
実は農家だということで話題になっていた監督さんの経歴を見ると、農家稼業はここ2年ほどで、そもそも撮影部プロだったのだと知ると、なるほどうなづける。実は農家、ということをやたらクローズアップしたがるのが、いかにもマスコミだったんだなぁと判るとなんだかなぁ。だって映画ファンからすれば、スタッフクレジットにずらりと監督さんの名前が連打されるのは、インディーズ出身の神、これまた技術畑出身の塚本晋也監督なんぞを思い起こさせてジーンとするのだもの。
タイムスリップに至るまでの冒頭は、幕末、会津藩士と長州藩士という、あぁ私が苦手な日本史、幕府とか新政府とか対立する地方藩士の図式とか、結局頭に入らないままこんな年になってしまった自分にまたしても突きつけられ、やっぱり時代劇、難しいんだよなぁ、とアホな私はドキドキである。
ことのほかシリアスで重厚な斬り合いで、こらー大変だ、マジな時代劇だと腰が引けかけたところで、雷鳴がとどろく。腕の立つ長州藩士と斬り合って、すわ、というところであった主人公、愛すべき会津訛りの高坂新左衛門が、目を覚ました先はなんとなく見覚えがありそうでなんだかヘンな町並み、町娘が再三絡まれるのを助けようとしたら、見たことのないカッコをした男たちに怒鳴られる。そこは時代劇の撮影所だったのだ!
このアイディア一発で、もう勝ち、というか。でも私が勝手に想像していたのとは、ちょっと違った。最後まで高坂が、あるいは後に登場する、まさにあの時斬り合っていた長州藩士、現・時代劇スターの風見恭一郎が、自分があの時代からタイムスリップしてきたことを、今の時代の誰にも明かさずに終わるとは思わなかった。
ヤボなことを言えば、本人証明も出来ずに現代日本で生活していけるんかいなと思うが……新左衛門は記憶喪失ということでここまで乗り切っているけれど、風見はどうだったのか、そんな状態で時代劇スターまでのぼりつめて問題なかったのかなぁと、あぁヤボなことを考えちゃう!!ここまで大ヒットしちゃって、シネコンにまでバンバンかかっちゃうと、そういうツッコミされているんだろうから、つまりは心配になっちゃう。
余計なお世話よね、ごめんなさい。新左衛門を演じる山口馬木也氏、お顔とお名前はめっちゃ目にしていたが、まさにそれが一致していなかった最たるお人。めちゃくちゃ、お顔とお名前は知ってた!そうだったのか!という嬉しき驚き。
こんな風にインディーズ映画が幸福なヒットを飛ばすと、本当の意味でのバイプレーヤーズにスポットライトが当たるのが楽しい。当然長年のキャリアがあるからお芝居は素晴らしく、長年見てきたお人なのに、なんだか突然発見したように驚いてしまう。
突然飛ばされてきた令和の時代に戸惑い、何より自分が死守すると誓っていた幕府が滅亡して140年も経っているんだと呆然とする新左衛門は、それでも、その豊かな日本に時に落涙さえする。そうした場面が丁寧に描かれているからこそ、幕府を倒した長州藩主に時を超えて遭遇して、一度は積年の恨みを再燃させようとまで思うけれど、踏みとどまれる。
本作は基本チャーミングなコメディだし、新左衛門を愛すべき存在として信頼し、支える現代の人々……撮影所近くのお寺の住職夫婦、何より新左衛門が想いを寄せることになる助監督の優子とのほのぼのとした、どこか懐かしい舞台コントをほうふつとさせるやりとりが何よりの魅力で、だから、意外というか、つまりはこれ以上ないメリハリなんだけれど、まるで違う映画が二本入り込んでいるぐらい、雰囲気が違う。
まぁそこに至るには、実に30年のタイムラグで再会したかつての長州藩士である風見の登場を待たなければいけない。新左衛門は、侍であった自分が生きていくには、風前の灯火であると言われている時代劇の世界で、斬られ役としてお役に立つしかない、と思い立つ。
それはまさに30年前の風見がそうであったことを後に知ることになるのだけれど、知ったとて、その時は新左衛門はまだ風見への恨みを払しょくできずにいる。幕府が倒れ、新しい日本が産まれたがゆえに、こんなに豊かな国となったことが判っていても。それは、自分たちが生きていた時代を映し出す時代劇が風前の灯火であることを鑑みると、なんだかねじれた愛憎だったのかもしれない。
で、そう、なんだか意外だったのよ。タイトルからして、タイムスリップしてきた侍と現代人たちとのギャップで笑わせるコメディだと思っていたから。それはまぁ、そうなんだけれど、てっきり現代人側がそうと知って、タイムスリップしてきたからだもんな、みたいな展開になるんだと思い込んでいた。遠い未来で生きていくには、その時代にいわばおもねるしかないと思い込んでいたのが、私の、現代人のおごりだったのかもしれないと思う。
風見は新左衛門を、撮影所を取材したワイドショーで見つけた時、即座に時代劇に戻ることを決めた。新左衛門を敵役として抜擢して。
時代劇スターとして君臨したのに突然そこから引いて現代劇に行ったことを新左衛門から責められると、彼らが同じ時代を過ごした遠き昔、風見はふりかかる火の粉を振り払うように、武士を一人、斬り殺したことを語る。その死にゆく顔が、ずっと忘れられなかった。完全フェイクである時代劇で斬り殺す芝居が、耐えられなくなった。そして時代劇を離れたというんである。
風見がもともと、今の新左衛門と同じように斬られ役からスタートしたことを思うと、斬られている方が楽だったのに、斬る方になってしまって耐えられなくなったんだなぁ、と思って……。あくまで時代劇、フィクション、フェイクなのに。
それこそ実践と、見せるための剣劇アクションとの違いを、重鎮の殺陣師に教わるシーンがとても興味深くて。振りかぶった刀が後ろにぶら下がったら敵に当たっちゃうから天に向かって刀を上げろとかさ。全然、違うんだよね。
それをむしろ、現代の私たちの方が判ってる。主人公が決め台詞を言っている間に、斬られ役どもが生真面目に待っちゃってるんだから。でもその世界を、何より自分たちが生きていた時代の世界だからと、伝えたいと思って、それが時代劇を愛する撮影所スタッフたちと共鳴するという奇跡。
新左衛門が一度は殺陣師の重鎮にみっちり教えを請うて、いわばフェイクの戦いをその身に叩きこんでさ、そしてこの世界で生きて行こうと思っていたのに、それをくつがえしちゃう因縁の相手が現れちゃう。しかも、あの時は自分より若かったのに、30年早くこの世界に飛んできちゃって、今や時代劇の大スターとなってる。
これも素晴らしいアイディア。新左衛門に、フェイクの時代劇ではない、そもそもの人生を思い出させ、死ぬほどの葛藤が死ぬほどの決闘を産み出し、そしてまたフェイクの時代劇の世界を、真摯に生きていくことを決意する、だなんて。
クライマックス、新左衛門が風見にいわば決闘を申し込む形になる、真剣を使ってのアクションが採用されるシーン。真実なシーンを撮りたい、事故があっても役者たちで責任をとるという血判まで押した誓約書を突きつけ、二人は、冒頭の、あのつまりはさ、殺し合いを、ここでやり直すことになる。
このクライマックスシーンは、いや、判ってるよ、真剣を使っているというテイさ。そういう設定さ。でも、重く響く刀がぶつかり合う音、絶妙なカット、間合い、このシーンにこそ、監督さんは勿論、新左衛門を演じる山口氏、風見を演じる冨家ノリマサ氏、その他のキャストも、スタッフ全員が、命を懸けたことが伝わってくる。このシーンだけで時代劇映画の歴史に残ると言いたいぐらい。
ちょっと、難しい部分はあったと思う。ひとつのテーマというかカラーで統一することは出来なかったと思うから。先述したように私が勝手に想像していたような、過去から来たサムライさんだと認識している現代の人たちとのワチャワチャではなく、そっちを選んでしまうと、全きコメディには出来なくなる。
もちろんそれが作り手側のやりたいことであって、一方でコミカルを示しながらも、本当に描きたいのは幕末の、大きく時代が動いた、でもその末端で不安を抱えながらも、でもやるしかない、死んでもかまわないと思っていた侍たちだったんだと思う。
そう思うと、新左衛門がまるで中学生の初恋のように、若い、かなり年下の優子に対しておどおどしていて、それを風見がからかうようなシークエンスが、微笑ましいけれど、ちょっとギャップがありすぎて現実味が薄れちゃったかなぁ、という残念さはある。
そうね、コメディとシリアスが、どちらのパートも素敵だったからこそ、その橋渡しというか、上手く乗り切れなかったのは理解の足りない私のような観客側の問題だったのかもしれないのだけれど。
でも、こういうところにこそ技量が問われるというのは、あると思うから。何度か先述したけど、新左衛門を支える住職夫婦、何より優子が、彼の秘密を打ち明けられないままなのが、うーん、もちろんそれは、作り手側の判断だし、それだけ過去を背負っているというのも判るんだけれど、それじゃ結局、本当の意味で分かり合えないと思っちゃうし、優子が真剣アクションにメッチャ心配して、新左衛門を平手打ちまでする怒りに、彼が応えられてないと思っちゃう。
それは私が、フェミニズム野郎だからかなぁ。男子が自分のプライドを優先して、いやその意識すらなく、女子の気持ちをないがしろにする、しかも無意識にさ!というのが許せなくて、でも100年以上前から来たサムライ男子かぁと思うと、……いやでも!それで許されるなんてことになれば、ダメダメ!みたいな……あぁ、私はやっぱ、ダメだな。
時代劇が苦手なのは、日本史が苦手なだけじゃなくて、やっぱりやっぱりフェミニズム野郎だからなのさ。凄く可愛らしくチャーミングで、一方で素晴らしき完成度の時代劇で、ギャップ、メリハリ、とても素敵な作品だった。それは確かなのだけれど。★★★☆☆
鶴瓶さんと知世さんが夫婦とは、思わず年齢差を数えそうになってしまうが、そーゆーところが日本人のヤボなところ。実際の西畑夫妻はどうだったのか、西畑氏が妻の皎子(きょうこ)さんと結婚したのは35歳の時、というのを後追いの記事で知って、映画の中では皎子さんが、昭和の悪しき価値観、女性の婚期をクリスマスケーキの売れ残りと例える25歳ぐらいとしているのだから、10歳差ぐらいなのかな?
いい意味で?美女と野獣で(爆)、美しい知世さんを慈しみ、愛している鶴瓶さん、という情景はとても美しい。慎ましい生活。これぞ長屋というような……本作は実際の時代に即しているから、新婚生活をスタートさせたのは昭和40年代、コロナが蔓延したつい最近までも、変わらぬ懐かしさ満載のご近所づきあい満点の長屋生活。
いや、特にそれが描写される訳じゃないんだけれど、唯一回覧板を回しに来るおばちゃんだけなんだけれど。でもそのおばちゃんを演じるくわばたりえ氏が、若き日の西畑夫妻の時も、今の時間軸でもおんなじ、永遠のおばちゃんとして登場するのがイイんだよなぁ。
そう、二つの時間軸で描かれる。若き日、出会って結婚するまでに至る、重岡大毅氏と上白石萌音氏のパート、そして鶴瓶さんと知世さんのパートである。
貧しい山間で育ち、学校であらぬ疑いをかけられてイジメに遭い、飲んだくれの父親の稼ぎのなさもあいまって、学校に行けなくなって、たまりかねて山をおりてから、なんとか生きてきた今まで、読み書きができないままの保であった。
事情を汲んで雇ってくれた寿司屋の大将のもとで必死に修行し、真面目に働き、それが認められて皎子との見合い話が持ち上がった。見合いの場で一目惚れ状態の保だったけれど、読み書きができないことはどうしても言えなかった。
皎子の方にも負い目があって、自分たちきょうだいを苦労して育ててくれた姉を思うと幸せになる決断が出来ない、と一時去ってしまうのだけれど、そのお姉ちゃんが、やけどの顔をさらしてほがらかに保に会ってくれて、妹を幸せにしてほしいと請うた。
読み書きができないことを、明日は絶対に言うと、大将に誓っていたのに、結局そのまま言えずに結婚してしまって、半年まで経って、回覧板に署名をしなければいけないところで、隠しきれなくなってしまう。
正直、明日は言うと言ってたやんか!言わないまま結婚するって!!と思っちまうが、現代の、いろんな事情を汲みとってくれる多様性の時代とは確かに違っていた昭和の空気を多少なりとも知っているから、ぐっと飲み込んでしまう。
劇中では、皎子さんが夫に当初は教えていたけれど、仕事の忙しさもあいまってなかなか続かず、だから定年後に彼が夜間中学に通うと決意したこと、そして少しずつではあるけれど読み書きが出来るようになっていったことに、ちょっと嫉妬したわ、と可愛らしく白状する(その時、もう彼女はいないというのが切ないのだが)のだけれど、実際はどうだったのかなぁ。
なんか勝手に、この部分はいかにも映画的作劇なような気もしたが(爆)、きちんと取材もしているのだから、こんな邪推を言ってはいけない。どうもね、あまりにも美しい物語だから、昨今こうした物語を素直に受け取れないのは良くないやね。
でもそう、夜間中学の恩師、ヤスケン演じる谷山先生が言うように、現代でも驚くほど多くの人たちが、あらゆる事情で読み書きができずに大人になり、苦労しているのだという。
そうだろうと思う。だって、日本って、普通に出来ることだと一線を引いたところから少しでも外れる人たちを、まるで視界に入っていないかのごとくに平気で排除するから。
それはあらゆる局面によって存在し、一見して“普通”に見える人たちの中にも存在するのだから、読み書きが出来ないなんてありえない、と思っている社会に対して、助けを求めるどころか、抹殺されてしまうぐらいの思いで生きてきたことは容易に想像される。
遅ればせながら朝ドラを追いかけているんだけれど、「おちょやん」のモデルになった浪花千栄子氏がまさに保氏と同じような境遇で教育を受けられず、お芝居に夢中になって台本を教科書に必死に勉強した描写があった。
そらまぁ大分時代は違うけれど、戦時中が絡んでいたり、山奥だったり、父親が酒飲みだったり、かなり共通していて、それが、今現在ご健在で生き生きと活動されている世代にあるということが、結構衝撃というか……。それこそ、朝ドラに描かれている、遠い昔の、そんな時代を生き抜いた日本人だったのね、と思っていたから。
保氏は私の親世代よりかはちょこっと上だけど、まぁそんなぐらい、親から聞いている子供時代はそれなりに大変そうと思っていたけれど、私の両親は、教育という点に関しては高校までしっかり出ている。
父親は大学出の同僚、後輩たちに出世を追い抜かれていった悔しさを語っていたにしても(これぞ昭和的だよね。能力じゃなく、学歴だというさ)、つまり、高校までは行けていたのは、当時としては、どれぐらい恵まれた環境だったのか、今の時代となっては想像も出来ないのだけれど。
それこそ今の時代ではまた全く別の理由で、学校に行けない子供たちは数多くいる訳で、本作の中でも描かれる。家から出ることが出来なくて、同世代と話すことが出来なくて、ついたてを立てて授業に臨む男の子。正直、この彼の壁を突破するのが簡単すぎて、いいのかな……とも思ったけれど。
まぁそれは、同世代、ではない保氏だからこそ出来たんだろうし、演じるのが鶴瓶さんだからあっさり納得させられちゃう部分はあるんだけれど、でもちょっと、これは危険ちゃうのん、と思ったかなぁ。そんな簡単じゃない、と思っちゃうのは、当事者じゃない私が言うべきじゃないのだろうとは思うが……。
そして、彼と同世代の女の子がしれっと入り込んで、きゃりぱみゅちゃんやベビーメタルの話題で彼の気持ちを引き出すのだが、これまたかなり単純というか、簡単すぎるというか……。
あんなついたてまでして、親が心配げについてきたりして、めっちゃ深刻だったのに、鶴瓶さんがふつーに話し込んじゃうのは、NHKの番組じゃん。良くないよ。そんな簡単じゃないよ。
夜間中学にはいろんな事情を抱える生徒たちが学びに来る、ということを示すのはとても有効なことだと思うけれど、彼らの大事に守っている壁を、鶴瓶さんだからという感じであっさり壊すのは、ちょっと納得できないなぁ。
夫の頑張りを見守り続けていた皎子さんなのだけれど、病に倒れる。あれは、具体的に、なんという病気だったのだろうか。脳の系統だったのだろうか。皎子さんは、思わず知らず、夫に当たり散らしてしまう自分に落ち込んでいた。保氏も、愛する妻のために力になりたいのに、何もできないことに悶々としていた。
彼ら夫婦には娘二人がいて、それぞれに孫も満載で、娘も婿も孫たちもみぃんな彼ら夫妻を愛していて、優しくて、こんなんズルいわ!と思うぐらいなんだけれど、どんなに周囲に、身内に、愛されていたとしても、夫婦同士の愛の見つめ合いには、入り込めないものなのかなぁ。
結構ね、この問題は、ちょくちょくぶち当たって、結婚もしてない、当然子供もいない、私のようなヤカラは、考えてしまう。西畑夫妻の出会いはとても美しく、いい感じに当時の時代感を再現してくれる重岡大毅氏、上白石萌音氏の胸にきゅーんとくるあらゆる場面が愛おしいから全然いいの、いいんだけれど。
そして、当時の当然の価値観として語られていたから、もう歴史的事実だから、女性の婚期クリスマスケーキになぞらえる問題も、今ならあり得ないと言っても仕方ないからさ。
でも、そうね、今ならあり得ない、というところを、皆判ってるからと、すくい上げなくて良かったのかどうかというのは、少し考えてしまう。娘二人、娘婿、孫たちも西畑夫妻にめちゃめちゃ優しく聞き分けがよく……いいんだけど。
お父さんが読み書きができない、ということを、娘二人は判っていたけれど、婿はどうだったのか、孫にはお祖母ちゃんである皎子さんが教えていたから……。当時者の、いわば負のアイデンティティを、夫婦間の愛の物語だけで囲い込んじゃっている感じがしたのが、すんなり受け入れられなかった原因かもしれない。
てか、こーゆー、感動モノで作ってるらしい感じについつい身構えてしまうのが良くないのだろうが。
奥さんが思いがけず先に亡くなってしまって、その病名というか、病気の特徴が、ぼんやりと示されるだけで、保氏が妻に何もできないことに落ち込んで、妻もそう思わせたことに落ち込んで、で、亡くなってしまうまで行っちゃう展開が辛かった。
そこでもう保さん落ち込んじゃうし、学校行けなくなるし。これを、実際はどうだったのかと追究したくなるのはヤボだとは思うが、でも、そうでなかったと思いたいような。
だって、保氏は夜間中学の存在、その意義を知らしめる活動に積極的に動いていたというんだしさ。
劇中で描かれていたように、他人と関われない男の子や、戦災から逃れてきたアジアの男の子や、保氏と同じように教育の機会に恵まれず、でも意欲満点で高校、大学まで行く!と元気マンマンのシニア女子や、もう本当にさ、社会人という肩書にあぐらをかいて、ぼんやりと過ごしている自分が恥ずかしくなっちゃう。
本作は決して、お涙頂戴的な展開にしていないし、この夫妻の娘たち、その婿、孫たちも、そしてそうね、夜間中学の同級生たちも、フラットに接していて、その中で、現代の世界情勢も感じ、その中で頑張っている、この日本に希望を感じて来てくれている留学生たちの思いを重く受け止めるし、とても、意義ある作品だった。
ラスト、中学生たちと共に、夜間中学の卒業、かつての在校生も見守っての卒業式は、お約束な展開だったからちょっと悔しいけど、涙涙。うっかり言い損ねていたけれど、和やかで全く圧を感じさせない夜間中学のバツイチ教師を演じるヤスケンがとても良かった。★★★☆☆
二つのファクター。震災とコロナ。舞台は三陸の地方都市。いや、田舎町と言った方が正しいかもしれない。
震災の記憶を誰もが色濃く持っている。ヒロインである百香(井上真央)が震災で失ったものがなんなのか、最初は判らないけれど、次第次第に……この町のマドンナである彼女に岡惚れする独身男たちの結束や、父親ではなく後に舅だと知れる章男(中村雅俊)の話から判ってくる。
「モモちゃんの幸せを祈る会」の男たちが手をこまぬいている限りは、彼女はこの哀しさの中から抜け出るきっかけさえなかった。そこにやってくる、ザ・よそ者の晋作である。
東京のでっかい企業に勤めていることが後に知れることになる晋作は、彼ら地方民から見ればエリートサラリーマンで異次元の存在だっただろうけれど、後に知れる前に、晋作はするりと彼らの信頼を得てしまう。
晋作を演じる菅田将暉氏が、ちょっとオドロキの垢ぬけなさで、えーっ、こんなに土くさい菅田氏、見たことない!と喜んじゃう。
もともとイケメンという訳じゃないと思うが(いやその……何でもかんでもイケメンでひとまとめにするのは違うと思うからさぁ)、それにしても、なんつーか、イモっぽい!釣りで日焼けした様子といい、基本釣りファッションで、もちろんしっかりとプロフェッショナルに固めているんだけれど、実用スタイルでファッショナブルじゃないし、本当に、釣りを愛し、海を愛し、だからこの三陸に来たんだ!!というのが、その単純スタイルを納得させちゃう奇跡の素朴さ。
彼がクライマックスで叫ぶように吐露する、震災もコロナもどうでもいい、そんなこと気にしたこともない、ただここが大好きなんだという台詞が、それまでのコミカルに封じ込められた中で苦しく哀しい記憶を、それを生真面目に抱えてなきゃいけないと無意識に思っていた彼らを、こんなシンプルな言葉で救うのが、すんごく刺さるのだ。
おっといけない、とっととオチに行ってはいけない。そもそも、この三陸の小さな町の役場に勤めていた百香が、社会問題となっている空き家解決の担当者になるところから始まる。
百香自身も空き家を持て余していた。しかも新築。家具も家電も装備済み。百香は章男と一緒に暮らしていて、観客の目からも、二人は親子なんだろうと思っていたんだけれど、違った。漁師である章男の船に飾られていた写真が、カメラがしっかり寄らないから気になっていたんだけれど、彼にとっての息子と孫、百香にとっての夫と子供たちが命を落としたんであった。
晋作はというと、コロナ禍によって彼が勤める大企業は完全リモートワークが出来ちゃう整備が整えられてて、これ幸いと好きな釣りが出来る移住を検討、そこに百香の提示した“神物件”がヒットしちゃう。
まさかこんなにすぐに希望者が現れ、しかもまさかこんなにすぐに来ちゃうとは思わなかった百香、しかもそれが東京の人であることに、焦ってしまう。あ
ぁそうだ、まさにこのコロナ禍の時の、地方と首都圏のケンアクな関係性だ。都会で蔓延しているコロナ菌、帰省するな、地方に来るな、という大合唱、あの子帰省してたんだってよ、とこそこそ陰口をたたかれていたという話とか。
村社会という以上に、人間ってこんなに情報に左右されるんだ、あの時の未知のウィルスに対する恐怖の感情って、まるでSFみたいだなと思って、それが判りやすく、都会の人間への拒絶になっていたことを思い出してしまう。
まさにその図式ではある。百香は晋作に対して、まるでバイキン扱い、これ以上近づくなと、会話もスマホ、除菌スプレーをまき散らし、とにかく2週間、この家から出るな、と厳命する。
もちろん東京にいた晋作だって、すっかりリモートワークだったし、状況は判っていたけれど、リモートワークだったら地方でもオッケっしょ、という逆転の発想で移住を思いついた訳で、そうか、多少なりとも地方の住民感情を伝え聞いていなければ、こういうことになるのか。
いや、あの時、こういう状況は報道されてもいた。晋作が、先述したように、クライマックスで叫んだように、そんなことはどうでもいいと、今なら素直に私たちも飲み込める当然の価値観を、ナチュラルに持っていられたからこそ、彼はこんな仕打ちにもめげず、2週間隔離という厳命もいい感じに自分勝手な判断で破りまくって、結果的にこの地になじみまくってしまう。
リモート会議の分割画面、何か今となってはすっごく懐かしい。もちろん、今でも行われているのだろうけれど。社長が登場して、こっそりみんなが離脱しまくって晋作と社長が二人きりになっちゃうとか、このコロナ禍で生まれたリモート会議システムをみんなが共有していなければ、これでユーモアを産み出すことも出来ない。
晋作が海の幸の食卓にご満悦で、そこにタコが送られてきて吸盤すいつきまくりのタコとプロレスか!という格闘する場面を同僚たちがボーゼンと眺めているシュールなシークエンスとか、最高なんだよなぁ。
おっと、脱線してしまった。そう、社長が興味を示すんである。地方の空き家物件に格安で移り住んで豊かな生活を送っている晋作に、コロナ禍で進んだリモートワークと全国の空き家問題がビッグなビジネスチャンスを産み出すと。
これってめちゃくちゃリアリティあるし、実際に会社ごと本社を地方都市に移したという話も聞くし、本当に進んでいる話なのかもなぁ。
地方の空き家問題は数十年前から聞いていて、その解決策なんて思いもよらない、というのが都会信仰が強い私たち昭和世代の認識だったけれど、ネットが普及、コロナ禍以前からどこにいても仕事は出来る、というのが、大手企業、IT企業中心に急速に広まった。
正直、私が従事している現金主義、アナクロニズムな卸業界はまだまだ難しいのだけれど、でも入院中でもパソコンを持ち込んで出来る仕事があるだなんてことが、少なくとも事務方には大いに助けになったし。
晋作のガッツ、というか、そこまで考えていなかったのかもしれないけれど、目の前に海があるのに釣りができないなんて、地元民と接触してはいけない、でも地元の海ならいいでしょ、という言い訳から、サングラスに帽子という怪しさ満点の姿で、結局市場にまでウロウロしちゃう。
独身男チームから、市場よりスーパーの方が安いのが判ってないからよそ者だ、と断定されるあたりが、あぁ、あるあるだなぁと思って。それでも晋作にとっては東京の価格に比べて激安なのだ。
つまりはさ、そんなことを調査しちゃうほどに、男たちは晋作のことが気になっていて、そこんところに隔離期間を終えた晋作が無邪気に飛び込んでくると、これもこれもと“おもてなしハラスメント”をぶちかましちゃう。
東京ではこんなもの食べれねーだろ、塩辛は日本酒とか甘い甘い、白ワインとのマリアージュだとか、あぁ見ているだけでこの店に飛んで行きたくなる!
コロナ禍以降、今でも被災地は、原発もあったし、観光事業は苦しい状況であると思う。何度も言っちゃうけどクライマックスで晋作が言ってくれた、そんなことはどうでもいい、ここが好きなんだという、それだけの魅力を、知ってほしいと思う。
晋作の同僚たちが空き家ビジネスのためにやってきて、東北六県が言えないぐらいのレベルに独身男チームはイライラしたりもするけれど、でもそれは、東北民がじゃぁ、東海、近畿、北陸、四国、九州等々、ちゃんと言えるのかということでさ。
私が東北に住んでいたこともあって、一時はそうしたことにイライラしたこともあったけど、私だって言えないもんなぁということに気付くと、それきっかけに、知りたくなるっていうこともあると思う。知りたいとか、住みたいとかっていうのは、地理的知識じゃなくて、震災のこともよく判ってない、考えてもいない晋作のような人が、きっとその場所の魅力を百パーセント純粋に見つけてくれるのだと思う。
晋作が東京の人だと言われ、舞台となるこの地方都市で暮らす人々は、産まれてからずっとここに住んでいて、東京からコロナを持ち込むなと罵倒し、都会民は、被災地の人たちは何でもやってもらえるのが当たり前だと思っていると苦言を呈する。
辛い。どちらも判ると言えば判るけれど、なんていうか……。私はどちらでもないのだ。今はうっかり東京に住んでるけれど、地方民。でもそれも、転勤族の子供で、地元というところがなくて、地方からも都会からも、お前は違うだろと言われている感が常にある、ずっとある。
だから、本作での、都会に対するコロナ菌扱いに対しても、被災者が被害者ぶってると思われているということも、どちらもめちゃくちゃ判る、苦しい、哀しいんだけれど、どちらに対しても、真の当事者になれない苦しさがある。
それを晋作は、都会側の人間であって理不尽なことを言われて、態度とられて辛かったに違いないのに、ふわりと乗り越えちゃう。そのコツを教えてほしいと思っちゃう。だって、除菌スプレー浴びせられた最初から数えて、とにかくひどい対応だったのに。そんなポジティブになれないよなぁ。
一番大きかったのは、晋作の隣の家(とはいえ、田舎だからそれなりに離れているけど)のおばあちゃんの存在だったと思う。いろいろ事情は察しただろうけれど、問題の空き家に越してきた晋作に差し入れをくれたところから交流が始まり、料理をしたり、縁側で一緒にご飯を食べたり、パチンコに通う彼女を送り迎えするまでになり、家族の話とか、いろいろ聞いて信頼された。
パチンコ屋で倒れた彼女を救急車で付き添い、その葬儀の場面から一気に物語が動き出す。
都会に住むおばあちゃんの家族は葬儀に来れなかった。でも、代わりに、というか、晋作の勤める大企業の社長が訪れ、空き家ビジネスが具体的に動き出す。
このおばあちゃんの家がまさに、キーポイントになる。この町の空き家事情を網羅して、すぐ住める、軽い修復が必要、大きな修復が必要、といったランク付けがなされ、それによってトラブルも発生するのだけれど、このおばあちゃんの家が、いわば、ロールモデルとなった。
近年は寄り付いていなかった息子たちが、最初は残置物はすべて捨てていいと言っていたのに、見ていくうちに、その想い出に、落書きとかさ、シール貼られているタンスとかさ、ぐっときちゃって。
でも一年に一度ぐらいしか帰れない、家は人が住まなければ荒廃してしまう。ならば、この状態をいい感じに残すリフォームをし、帰省する期間以外を貸し出すのはどうか、と晋作は提案するんである。
ビジネスなのだから、それなりに残すとはいえリフォームは完璧に美しく、昭和女子的には正直、全然残ってないやんか、と思っちゃったんだけれど、どうなんだろう……。難しいなぁ。
この活躍により、一時本社に戻された晋作が、再び神物件にアクセスし、プロポーズしていた百香と再会、籍は入れないという選択を舅も理解するという、あたたかなハッピーエンド。
ひとこと言いたいことがあるとすれば、モウカザメの心臓、東京でも食べられるよ!ウチの店でも仕入れてるし、大手とか、高級な店とかではないかもしれない、むしろ東京下町、心ある伝統を受け継ぐ店で、食べられると思います。
レバ刺しが永遠に食べられなくなった絶望を救ってくれたあの時を、思い出すなぁ。めちゃくちゃウマいよ、ぜひ食べてみて!!!★★★★☆