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「わ」

2025年鑑賞作品

私にふさわしいホテル
2024年 98分 日本 カラー
監督:堤幸彦 脚本:川尻恵太
撮影:唐沢悟 音楽:野崎良太
出演:のん 田中圭 滝藤賢一 田中みな実 服部樹咲 髙石あかり 橋本愛 橘ケンチ 光石研 若村麻由美


2025/1/15/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
ここには何度か書いた記憶があるんだけれど、この監督さんはファーストインプレッションがとにかく良くなくて、その後話題作を撮っていらしてもついつい避けてきていたのだが、もう判ってる。きっとその最初は若気の至り(失礼だなー)で奇妙なテイストであったのが、むしろその後は映画という世界の王道中の王道を進んできているんだろうこと。
あぁようやく私も素直になれるわい。それでもそれでも、のん氏主演ということが、その気持ちを引き出したのは間違いない。彼女が出ているなら、絶対足を運ばなければいけない。恐らくそんな風に思わせてくれる女優さんは、今現時点で彼女一人だろうと思われる。

なんて可愛いんだろう……ため息が出てしまう。彼女の可愛さ、チャーミングさは、その唯一無二の声質の喋り方もあいまって、本当に、この世界にただ一人の奇跡の創造物、という気さえしてしまう。
舞台が昭和であり、原稿用紙に万年筆で書くというオールドスタイルの小説家であり、しかもタイトルの、ああ、そう、昭和の文豪たちがカンヅメとなって数々の名作を書き上げたホテル、というのは、若い頃にちょいと文学少女だったこちとらとしては、そりゃぁあれこれ心に浮かび、私の年代でさえ遠く憧れの文豪たち。

手書きで原稿を書いている小説家さんが一体いるのかと思う今、現代の若き彼らにとって、その感覚はいかほどのものなのだろうか。ああでもきっと、こんな風に、カラフルで、音がぱちんぱちんと鳴り響くようなキッチュな魅力に満ち満ちているのかもしれない。
私たちの時代には、遠く憧れの彼らは、総じてモノクロームだった。萌えもエモいもない時代には、やっぱり過去は過去で、ある種記録か歴史のようであった。こんなポップで心躍る昭和の文壇を楽しめるだなんて、思いもよらない!

でも、原作は現代の文壇が舞台だったんだね。映画化に際して1980年代にされたのだという。もし原作を読んでいたらその変更に怒り狂ったかもしれんが、すみません、相変わらず読んでいないもんだから(たまには読めよなー)、この変更が心躍る映画のマジックにしか思えないし、現代の新鮮さをも当然持ち合わせているのん氏なのに、この80年代というキッチュでカラフルな時代に、まぁよくもまぁ、ぴったりハマっちゃうのだ。
彼女の共犯者となる編集者役の田中圭氏も、当時のイケイケ編集者スタイル、絶妙な色味のシャツをインしたファッションが、ああ昭和、ああイケイケ80年代!!と心躍ってしまう。
ちなみに本作は2025年新年一発目の映画鑑賞だったのだけれど、まさにふさわしい!ちょっとブラックだけどのん氏の奇跡のチャーミングさですべてがぽんぽんとポップコーンのように弾けてしまう、この正しく楽しいエンタテインメントは、新年の祝祭感にぴったり!!

……どうも、興奮しすぎてしまった。いやーでも、何度も言いたいのん氏の魅力なんだもの。スマホどころか携帯電話もない時代の野心あふるる新進作家の猪突猛進、これはさ、これは……もう彼女で見ちゃったら、他の女優さんが思い浮かばない!!

彼女が演じる、まず登場では相田大樹というペンネームの作家、中島加代子は、文壇の巨匠、東十条宗典(滝藤賢一)にデビュー作を書評でこき下ろされたことでミソがつき、いまだ単行本刊行に至っていない。
ファミレスでバイトを続けながら、文豪気分を味わうために有名な山の上ホテルに自腹で投宿したら、大学時代の先輩で有名出版社の編集者、遠藤(田中圭)に遭遇、天敵の東十条が上の階のスイートルームにカンヅメになっていると知る。
にっくき東十条、そしてコイツが原稿を落とせば自分がという千載一遇のチャンス!!加代子は嘘八百を並べ立てて東十条の部屋に侵入し、原稿を落とさせる作戦を見事成功させるのだが……。

巨匠の文豪を演じる滝藤氏が絶妙オブ絶妙。手練れの役者、重厚も喜劇も凄い振り幅で演じるお方なのは無論判っちゃいたが、稀代のエイリアン役者、のん氏との化学変化は予想がつかなかった。
いやー、最高だったなー。なんていうか、本当に楽しそうに演じていらっしゃった、と言ったら失礼だろうか??高級クラブの色っぽいママにウン百万円のお着物をプレゼントするなんてゆー、昭和&バブル&悪しき男社会マンマンの下心を見せてはいるけれど、生ぐさいエピソードやシーンが披露される訳でもなく、結局このママも含め、東十条周囲の女子たちは皆加代子に取り込まれてしまうのだから。

すみません、原作は未読だからアレなんだけど、そういう、私のようなフェミニズム女子が沸騰しちゃうような男子キャラを滝藤氏の手練、そしてのん氏との化学変化にオシャレに昇華させて、なんか、か、可愛いかも……と思わされてしまうのは、ちょっと悔しい部分はあるんだけどなぁ。

加代子は、この前時代的巨匠の書評に潰されるところから始まり、その後、名前を変え、別人を装いしたたかに這い上がっていくたびにこのおっさんと対決することになって、まさにフェミニズム野郎のこちとらとしては、敵!!と思うのだけれど、これは……お互い、才能を結局は認め合っていて、相乗効果で創作意欲が高まって、メデタシメデタシ、ということを、悔しいかな、納得させられちゃうからなぁ。
その意味では、判りやすくぶつかり合う二人よりも、そのために手を借りる大学の先輩の編集者、遠藤こそがキーマンというか、ネックというか、こいつこそが、要注意人物だったのかもしれん、いや、まさしくそうだ!!と思うのだけれど。

今の時代では作家本人の才覚よりも、手練れ編集者の嗅覚と指導こそが重要、みたいなことが一般にも広く知られるようになって、それはいわば美談としての二人三脚として語られることもあるけれども、ワレラシロート読者にとっては、やっぱりそれって、長年の疑問だし、今こうして、そもそもの原作では現代の物語だから、その手法はしっかり継承されているわけなんだけれど……。
ずっと、そうなんだろうか?新人の時だけ、なんだろうか?ずっと、なんだとしたら、作家のクリエイティビティとか、アイデンティティってどうなるのとも思うし、でも、劇中の東十条のように、巨匠としていわば放置されて、ギリギリまで書けなくなったら新しい才能にとってかわられるかもとかいう恐怖は当然あるだろうし……。
もちろん、昭和の伝説の文豪たちにも、才能ある編集者のエピソードは数々あるけれど、でもやっぱり、今の時代に語られるような、作家と編集者の、いわば策略チームみたいなこととは、違ったよね、と思うと……。

有能な編集者である遠藤は、加代子の味方ではあるけれど、それは彼女の根性と才能を冷静に評価しているだけであって、スター性のある女子高生作家が現れると、加代子を簡単に斬って捨ててしまう。しかし結局彼が入れ込んだ結果、この才能をプレッシャーで押しつぶしてしまう。
なんという皮肉かと思う。結局彼は、自分の手でスターを育てたかった、しかも若い女の子、マイ・フェア・レディは名作だが、でも現代の視点で考えると、やっぱりあれは、男がか弱き女を自分の理想に育て上げて支配下に置きたい欲望という、恐ろしき物語であると思う。
それを、若き女の子が潰されてしまう結果となり、遠藤は加代子の元に戻ってくるというのは……なかなかに、あぁなかなかに、許せないと思っちまうんである。

でもまぁ、東十条が散々に痛めつけられたから、代わりにで、可哀想だけど(爆)、時代設定が違えど、その時代をリアルにモーレツサラリーマンとして生きている遠藤には、やっぱりまだまだ、判らないのだろう。家庭があるのかもしれないけど出てこないし。
一方で遠藤は、しっかり者の奥さんと反抗期真っただ中の娘という、女系家族の中で縮こまっており、そこに野心と復讐心マンマンの加代子が、まさに最終攻撃で全身ハリネズミのように尖らせている勢いで乗り込んで来たら、ついつい同情してしまう。

悔しいけど、私の親世代の、父親世代のモーレツぶりと、その苦しさは、子供の頃は判らなかったけど、父親見知りするぐらいに、他人ぐらいに他の世界の人だったけど、今だったら判るもんなぁ。
髙石あかり氏が演じる娘が、全くの他人なのに同性で話を聞いてくれるというだけで加代子を信頼してしまうこと、父親より圧倒的に母親に加担してしまうこと、その年頃には何の疑問もないだろうが、あと10年も経ったら、判るんだよ。お父ちゃん、ごめんねと思うんだよ。昭和の娘と父親はそうなんだよなぁ……。

やっぱりやっぱり胸アツだったのは、のん氏と橋本愛氏の共演。やっぱりやっぱり、特別だと思う。あまちゃん後初共演だった「私をくいとめて」の時も本当に泣きそうに感動したけれど、本作も、良かったなぁ。
売れない作家、編集者もつかずに一人で書店まわりをしているやさぐれ加代子は、伝説的書店員に売り場のポップを書いてもらいたいと、プライドも何もかなぐり捨ててへりくだりまくる。遠藤がご執心の女子高生作家とペンネームの名字が同じことから混同されたことにもめげず、それどころか書店界隈の万引き常習者をとっつかまえて、この書店員の信頼を得ちゃうんである。

なんつーか、本当に……何度見ても、のん氏と橋本愛氏の共演は、胸が熱くなる。全然タイプが違うし、友達になりそうな感じもしないし、現場でしか会わないのかもしれないけど、でもやっぱりやっぱり、きっと特別なんだよなぁ。
勝手な想像ではあるけれど……こういう感覚こそ、同時代で作品を観ることが出来ている観客と作り手側の、奇跡的幸福な関係性だと思う。

誤解を恐れずに言えば、いわばのん氏の可愛さファッションショー的な楽しさだけで充分堪能できる作品、新年に鑑賞したこともあって、もうそれだけで満足、という気持ちもある。
でもやっぱり、わざわざ舞台を昭和に移しただけあって、きっと今でも、原作となっている現代でも色濃くあるであろう、若い女性の才能が男の出世欲に利用され、結果的に女全般が軽んじられていることが、そうね、あったよ、当たり前に。
私は子供だったけれど、だからこそ絶望していたもの。私が大人になる未来に、改善される気もしなかったし、実際されなかった。まぁだからこそ、というか、女性はその逆境故に強くなったとは思うけどね。

のん氏のように、かろやかに才能を開花させている女性を見ると、彼女がこうして演技で私たちロートルの悔しさを晴らしてくれてはいるけれど、本当に、本当にあなたたちは、頭を押さえつけれらていない?女だから、女だてらに、女が知恵をつけたら生意気になって困るねとか冷笑されてない??
私は今、半世紀ぐらい前の男性作家の小説を読んでいる。何の疑問もなく、男子はこういう発言をし、登場する女性キャラクターは自覚的発言も許されず、その立ち位置に甘んじている。

その時代に私が生きていたら、どう想ったのだろう。お札に採用される女性が、与謝野晶子であり、津田梅子である。もちろん先進的な活動はしているけれど、ワレラ女性にとっての感覚としては、男性にとっての判りやすい無難オブ無難。
なぜ平塚らいてうが採用されないのかと、ずっと思ってきた。女性のアイデンティティを発する女は、この国ではいまだに冷笑されるのかな。のん氏のように、可愛らしくチャーミングで、そしてめちゃくちゃ個性的な女性が、いわば性差を軽やかに乗り越えていくニュートラルな女性が、こんなつまらない昭和的愚痴を、ふっ飛ばしてほしいと、きっとそうしてくれると、信じている。★★★★☆


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