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「く」


2026年鑑賞作品

黒の牛
2024年 114分 日本 カラー
監督:蔦哲一朗 脚本:蔦哲一朗 久保寺晃一 上田真之 熊野桂太
撮影:青木穣 音楽:坂本龍一
出演:リー・カンション 田中泯 須森隆文 ケイタケイ ブランカ・アディカ 山口孝二 岸本学 エバレット・ケネディ・ブラウン サンディー海 勘緑 木偶舎 清水理江 二ノ宮隆太郎 今村幸代


2026/1/23/金 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
はっ!この監督さんのお名前は!!と、ちっとも覚えられない私が、あぁ、覚えていた、あの忘れられない奇跡の映画。まさしく、というか、納得、というか、こういう映画を撮る人なんだ、やっぱり、というか。
まさに瞑想、メディテーション映画。睡眠不足なのか、瞑想に取り込まれるのか、何度か夢の向こうに落ちそうになるのをこらえながら……だってこんなにも、時間と視線を悠久の向こうに連れ去るようなゆだね方ときたら、ないんだもの。
名もなき男を演じるリー・カンションの、静謐な表情がアップにとらえられたまま今ではない時間が過ぎていく。ホワイトアウトしたまま一向に戻ってこない時間が過ぎる、針のように突き刺さる激しい雨の音、書き出したらキリがない、詩のような、ユートピアのようなシーンの数々。

でもスタートは、というかひょっとしたら根本は、社会派を感じたりもする。山を国有化された民たちが怒って山を焼き払った。その民たちではないのだろう、この山に暮らしていた、自然と共存していた者たちが、路頭に迷った。
一人の名もなき男。いきなり下ももろ出しに登場するほどの、自然の中に生きている男。後に牛を得て不器用ながら農耕に従事する彼は、それはこの文明という名の人間社会の圧の中で生きていかなければならなくて、自然と共存するのではなく、自然を支配下に置かなければならなくなった。

いや、違うかも知れない。だってそもそもこの物語は、十牛図と呼ばれる禅に伝わる絵画がモティーフになっているのだから。
知らなかったことが恥ずかしい。だって禅宗系の大学に行ってて、必修で宗教学だって学んだのに。忘れていたのかなぁ……。

鑑賞後、どうしたって気になって、この十牛図のことを掘り下げて調べてしまいそうになるんだけれど、この映画を純粋に堪能できなくなってしまう気がして、強制終了する。あくまでこの十牛図にインスパイアされたという形だと思うから。
特に最後の、十枚目に関しては、劇場を出て生きていこう、みたいなメッセージがおちゃめで、宗教的、瞑想的に見えて、意外とエンタテインメントを希求しているのかもしれないとも思った。この男と牛さんの日々は、クスリとさせられるあたたかさに満ちていて、いつまでも見ていたいと思うぐらいだったから。

十牛図の一枚一枚に従って、物語は展開する。牛も、そして牛に出会う男も、自身を投影する者であるのは確かにそうなのだが、それに着想を得て、映画作品として描かれるとなると、牛は牛であり、男は男であるから、そこから観客が受け取る意味合いや手触りは千差万別、それが面白いと思う。
宗教的な啓示になれば、この男は出会った牛に対して自己の投影や神託のような描写が出てくるのだろうけれど、本作においては、いい意味でそれが排除されて、男と牛は、なんだか友達のような、恋人のような。
言いたいことが伝わらなくて、すれ違って、でも再会して、なんだよー、なんて気持ちになって、そして二人、寄り添って待ったりする、みたいな。

なんだかこのシークエンスだけで胸がいっぱいになる。大きな動物って、それだけで神格化される感じが判るし、この牛さんが、最初は追い回されて逃げ回っていた牛さんが、牛舎の中で男の手から草をむっしゃむっしゃとゆっくりはみはみするのがなんか、涙が出るほど愛おしくて。

それまでは自然の中で本能的に生きてきたであろうこの男が、人間社会の中に放り込まれる、というスタンスなのだけれど、それを、見事なまでに言葉なしに紡いでいく。
船でどこかに渡ろうとしている男たちを追いかけて乗せてもらおうとするが、追い払われたり、なんとかねぐらを見つけるものの、年貢を納めるように高圧的に告げに来る馬に乗った男たちが来たり、彼は言葉を発しないものだから、判っているのかいないのか、観客の方が不安になったりもする。

序盤のシークエンスで彼と生活を共にする、それは偶然拾い上げられたのか何なのか、老婆がいるんだけれど、明らかに老婆なんだけど、ちょっとセクシャルな雰囲気も感じたりして……しわしわのおっぱいまる出しにしたり、×××を清めさせたりとビックリしちゃうんだけど、そこに性的なものを感じてしまう意識こそが、ヤボなのかなぁ。
この彼が冒頭まる出しで登場したことを考えると、こんなことは、生物として当たり前の、つまり人間というエゴが愚かしいことってことなのかもしれない。

そのおばあちゃんが亡くなり、彼は再び一人きり。その時に、うっかり、本当にうっかりという感じで牛に出会う。そばにはばったりと倒れて、遠目ではあるけれどいかにも死んでる、完全に死んでる、持ち主と思われる人物のうつ伏せの死体。
男と牛の絶妙な距離感。その後、まるでコントみたいに男と牛は追っかけっこを展開する。何が何でもこの牛を捕らえねば、というほどの意識がある訳ではない感じの男、牛もまた、えっ、この男に対してどうしたらいいの、という戸惑いの距離感。ユーモラスなテンポ感で、二人の追っかけっこが丁寧に尺を取って描かれる。このシークエンスはとても好きだなぁと思う。

その後、逃げ出されたり、エサを食べてくれなかったり、なかなか距離が縮まらないんだけれど、手から草を食べてくれて、男の作業を寝そべってゆったり眺めたりして、もうなんだか、胸がいっぱいなるシーンが続く。この幸せな展開で終わってほしいと思うぐらいなのだが、田中泯演じる禅僧が、いわば、そもそもの本作の根幹である禅の世界に引き戻す。
やってくれるなと思わなくもないというか。何も知らないこの男に、この牛は神のつかいであり、つまりはさ、おめーの所有物じゃねーんだわ、と言い渡したような気がした、のは、後から思えばなのだが。

農耕作業に従事させる、そのプロセスを、この禅僧が男と牛に教え込んだ。その結果、この牛の真面目な働きっぷりが評判になって、あちこちに駆り出されることとなった。誇らしいことではあるけれど、その間、絆を深めた男と牛は離れ離れになるのであった。
牛がいわばビジネスとして引き渡されるシークエンスも、礼儀にのっとったやり方として、まるで神の目線のように俯瞰で、たっぷりと時間をとって描かれるもんだから、判らなくなってしまう。えっ、だって、男と牛は、まるで恋人か、家族のように、あたたかな絆を築き上げたのに、ドナドナの牛のように、ビジネスに売られていくのかと。

なんだか私、どんどん本質から離れていくような気もする。宗教画である十牛図が元になっているのに。でも、それこそが映画の醍醐味であると思う。何も知らずに、映画に対峙して、どう思って、何を感じ取るか、なのだから。
売れっ子の牛は貸し出されまくり、男はその時何を思っていたのか。誇りに思うより、寂しそうな方があったと思う。

牛と共にやっていた農耕作業を一人で頑張っていたところに、村人がやってくる。貸し出していた牛が死んでしまった、申し訳ない、と。
不思議と予感はあったような気がしていたけれど、観客であるこちらはええー!と思い……でも男は、感情が失われたかのように、ただその事実を受け止めて、でもその後、……あの描写はどういうことだったんだろう??

すべてが元に戻る、そういう描き方だった。それまで、狭い画角のスクリーンで、モノクロで描かれてきた。ホワイトアウトして、すべてが忘れられたような感覚になった。突然スクリーンがワイドになり、死んでしまったと言われた牛、いや、あの牛じゃないのか、なんだか若いような、いや、ていうか、ワイドになって、更にカラーになってるし!
男が牛と出会った時に、遠目に描かれた、飼い主であったであろう男の、めっちゃ死んでる、ってなうつ伏せの死体。それに呼応するように、誰の視点かも判らない、あれは何?子牛の死体??もう、これまためっちゃ死んでるそれが描かれる。
遠い遠い、海の向こうの火山が爆発している、雷まで鳴っている。のどかな草原のこちら側では牛が穏やかにその光景を見ている。

そして、海岸へと移る。あの爆発を見ていたとおぼしき牛、その後ろから、次々と、子牛たちが連なってくる。なんだろう、これは……。あの男があんなにも苦悩して、一匹の黒い牛と心を通わせたのにと思うが、そもそも、このカラーとなって、ワイドとなった世界で、人間は存在するんだろうか??
カラー、ワイドとなったとたん突然、人間の気配が消えたような感覚があった。神様に返された気がした。男が、牛が死んだと聞いたとたんに、この世界に見切りをつけたような気がしたのもあったから。

不思議な魅力に満ちた映画だったなぁ……まさしくメディテーション。映画というものの可能性を改めて強く感じた。★★★★☆/font>


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