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「ひ」


1999年鑑賞作品

美女と液体人間
1958年 87分 日本 カラー
監督:本田猪四郎 脚本:木村武
撮影:小泉一 音楽:佐藤勝
出演:佐原健二 白川由美 平田昭彦 土屋嘉男 千田是也 田島義文 夏木陽介


1999/6/10/木/ビデオ(富岡氏所蔵)
タイトルのカルトなディープさで思わず引いてしまうが、これが大まじめにやっているんだからなおさら凄い。“美女”は白川由美が扮する歌姫。歌姫というところがまた正統派である。同じおミズでもホステスや踊り子じゃないところがいい。しかし同様にセクシーだしね。

第二福竜丸とか放射能による死の灰とかかなりシリアスなアイテムを使って、しかも全くふざけることなく“液体人間”のプロセスを作っていくから、キワモノ映画を想像して観出したこっちの腰はくだけるものの、次第に入り込んでいってしまう。

液体化してもなお人間の精神を持つ“液体人間”がヴァンパイアよろしく次々と人間に襲い掛かり、溶かし、自らの仲間に加えていく。ストップモーションがかかって人間の色が変わり、次のショットで服だけになっているというプリミティブな手法で液体化のプロセスを見せる。この液体人間、液体というよりゲル状か、ゾル状か、といったようなスライム状態で、窓からするすると忍び込み、床を這い、美女を襲う。こうして文字におこしてみると、これってかなりエロティックというか、そうした放射物を想起させるものがあって、だからこそ標的は美女が望ましいのだな。

火炎放射器で“絶滅”させたものの、まだどこかに……という余韻を持たせて終わる。終末戦争後に復活するのは彼らかもしれないと……。そういやあ、液体状の生物……アメーバとか……はいわゆる原生動物で、何万年も前の発生時から姿を変えず、驚異的な生命力と繁殖力で生き残ってきたのだから、これってちょっと説得力があったりして。

白川由美が登場するパブ?で演奏するジャズバンドがカッコいい。いでたちは白のタキシードとカタいのだけど、演奏はフランクでフリーなアドリブ合戦でゾクゾクする。もしかして、有名な方たちだったりして?

ところで……佐藤充は、地下水路を白川由美を拉致して逃げ回る犯人だった?そうなような、違うような……。★★★☆☆


美人秘書 パンストを剥ぐ
1997年 60分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:五代暁子
撮影:音楽: 出演:佐々木基子 佐野和宏 田口あゆみ

1999/2/25/木/劇場(亀有名画座)
これまた、名前だけはよく拝見する佐野和宏氏を初めて見る。結局夢落ち、というか、ホームレスの老人(演じている佐野氏は全然まだ若いけど)がずっと見ていた白昼夢だったという……。その白昼夢の中で小説家である佐野氏は原稿をワープロで打っているんだけど、それがほとんど一本指状態で、ワープロで原稿かいてる作家の姿じゃないよーなどと思っていたのだけれど、その実際のホームレス老人が書いていたのは大学ノートにエンピツで、思わずなるほどと思う。

死期が迫った小説家が最後のエネルギーを使い果たすためのようにセックスと執筆に没頭する。4Pなんかも、やっちゃう。よう、まあ、と思うくらいさまざまな体位で、思わず、セックスって大変なのね……などと思ってしまったりして。ちょっとその辺の描写はキツかったけど(ま、ピンクを見慣れてないせいもあるわな)、どこかユーモラスな空気が常に漂っているから不快ではない。

この小説家の担当者が小説家の秘書に恋して思いを遂げるのに、妙なテクニシャンぶりを発揮しているのが、彼のちょっと太っちょな体つきとあいまって妙に可笑しい。舞台挨拶で明かされてしまっていたけど、なるほどトイレットペーパーでつながる白昼夢と現実のラスト、そこに集まるホームレス仲間にちゃんと担当者君も入っているのが面白いなー。★★☆☆☆


ビッグ・ショー! ハワイに唄えば
1999年 105分 日本 カラー
監督:井筒和幸 脚本:井筒和幸 安倍照男 塩田千種 金子弦二郎
撮影:浜田毅 音楽:藤野浩一
出演:室井滋 尾藤イサオ 都はるみ 加藤茶 原田芳雄 竹内結子 大森南朋

1999/5/18/火 劇場(錦糸町楽天地)
ありゃりゃんりゃん。こりゃ一体どうしたことだろう??あの傑作「のど自慢」の“ボーナス編”とも言うべき作品だということで、「のど自慢」のラストクレジットの後にすでに製作告知が行われていた時から(タイトルは少し変更になったみたいだけど)とても楽しみにしていたのに、おっとビックリ大コケである。二番煎じ的な企画やタイトルにも、井筒監督ならそれを逆手に取ったメチャオモロイもんを作ってくれると確信してたのに、二番煎じのままで終わってしまった。

数々のギャグがまず全く笑えないのが苦しすぎる。しょっぱなの「だんご三兄弟のCD買ってきてね」というFAXが流れるシーンや、壊滅的音痴なセクシーギャル(武田久美子)が爆笑する観客に(劇場の観客は笑えずシーン)「シャラップ!」と言って半ケツ状態のお尻を出し、ペンペン叩くとかいう俗っぽさもしらけるし、死語的なギャグを次々繰り出して、引きまくりである。いろんなエピソードがふんだんに盛り込まれているのはいいんだけど、室井滋扮する赤城麗子がやらかす発砲事件など、登場人物たちが画面の中でバタバタ、キャーキャー言ってるだけで、思い付きで用意されたシーンという印象がぬぐえず、こっちは戸惑ってしまう。加藤茶のプロモーターや、背中に唐獅子の刺青をした気障な前座歌手、漁火リョウタに扮する山本太郎も、もっと可笑しくていいはずなのに、本人だけが喜んでやっているという感じだし。「イノセントワールド」では、そのぶっきらぼうさがたまらなく複雑で清新な魅力にあふれていた竹内結子もここで演じられる麗子の付き人のキャラはなんかバカっぽくてがっかりだし。全体にどうも散漫な印象。

そういえば、「のど自慢」でも前半部分で、その散漫な印象を感じなくもなかったのだ。ただあの作品の場合、その前半部分で丁寧に活写された数々のエピソードが、すべて彼らが歌うのど自慢のステージの一曲にきれいに収斂されていく感動が、すべてのことを帳消しにするぐらい素晴らしく、あの作品を傑作たり得ていた。それが本作では赤城麗子ただひとりに絞った内容のせいなのか、あるいは「のど自慢」ではそれぞれの人のいわば人生を語らせていたのが、ここではハワイというハレの状況での3日間の出来事で、心に訴えるものがないからなのか、「のど自慢」同様、都はるみと一緒にステージで「大阪しぐれ」を歌うクライマックスは鳥肌と涙が一緒に出てくるくらい感動するのだけれど、それまでのエピソードが必然のものだった、と感じるまでには至らない。

女子プロレスのハワイ公演の前座で歌う赤城麗子に惚れ込み、彼女を家に招待して、はては45人もの親戚一同に紹介してプロポーズまでしてしまう日系人の青年に麗子もまた恋してしまう。この青年の朴とつな魅力はとてもよかった。麗子が彼のタロ芋畑の作業を手伝おうと、ワンピースの裾をまくってぬかるみに入っていく。太股ギリギリまで見せてかなりアブナイのだが、まあ、室井さんの足の何ときれいなこと!

しかしなんたって素晴らしかったのは都はるみ御大で、歌の素晴らしさはもちろんなんだけど、彼女のほんわりしたチャーミングさにはもうノック、ノック、ノックアウト!である。ちょっと気の強そうな関西弁もまた心地よい。そう、その彼女と麗子がステージに立つクライマックスの前、招かれた青年の親戚一同が会すパーティーで、自分の生い立ちを話す麗子が自分から歌を取ったら何も残らないことに気づいて涙を流すシーンではふーんという感じだったのが、都はるみの前座ステージにようやく間に合い、「大阪しぐれ」を歌い出すと、舞台の袖から一緒にはるみさんが歌いながら出てくる!劇中の赤城麗子は、いや室井さんはもう本気で泣いているし、劇中の観客やスタッフ、見てるこっちも、大泣きである。そしてラストクレジットははるみさんの「好きになった人」の一人舞台がバックに映し出されるのだが、自在に飛び跳ね、走り回り、語り掛けるように笑いかけるように歌うはるみさんの、何という素晴らしさ、チャーミングさ!この、ライブシーンで終わるせいもあって、もう映画の印象ははるみさん一色。惚れたわ……。★☆☆☆☆


ビッグ・リボウスキTHE BIG LEBOWSKI
1998年 117分 アメリカ カラー
監督:ジョエル・コーエン 脚本:ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン
撮影:ロジャー・ディーキンズ 音楽:カーター・バーウェル
出演:ジェフ・ブリッジス/ジョン・グッドマン/ジュリアン・ムーア/スティーブ・ブシェミ/ピーター・ストーメア

1999/2/19/金 劇場(シネマライズ)
やはり映画は詩心なのよねえ……と思う。コーエン兄弟が他のいわゆる凡百のハリウッド映画作家たちと違うのは、まさしくそこなのだ。詩心、いや、文学の心と言った方が正解かもしれない。私にはなぜそんなに評判が悪かったのか理解できなかった「未来は今」も、なぜそんなに評判が良かったのか理解できなかった「ファーゴ」も語るべきストーリーの前にその心があるからなのだ。映像の魔術師なんて言われてるみたいだけど、そのファンタスティックな映像にこそ、あるいはそれ以前の描写に文学的な心があると思うなあ……。

それはちょっとしたことにこだわるところ……例えば主人公のデュード(ジェフ・ブリッジス)が部屋の敷物をやたら大事にしてたり(面白いのは彼がその敷物自体を大事にしているわけでなく、“部屋の敷物”に重点を置いていることで、自分と間違われたもう一人のリボウスキ氏の家から高そうなペルシャ絨毯を嬉々として持ってくるあたり笑える)、廃車かと見まごう車を(盗まれた時に警察で“錆色”と言ったからどんな色かと思ったら、たんに錆びてるだけだった……)手荒に乗りまわしているわりにはなくなったと判るととたんにうろたえたりとか、そういう描写に感じることが出来る。

あるいはデュードの親友であるウォルター(ジョン・グッドマン)がベトナム戦争の兵士で、全く関係のないことにまでベトナムを絡めて(本人は関係あると言い張っているところが可笑しい)一人で激昂し、キレまくるところとか。ここで重要なのはこれがベトナム戦争に対して意見しているというようなうがったことが全くなくて、彼のキャラクター造形の手段に過ぎないというところなのだ。とかくハリウッド映画はベトナム戦争の功罪を描くのがお好きだが、それが自己反省なのか、あるいは実は正当だったと主張したいのか、とにかく鼻につくことがほとんどで、そのことに対しての皮肉であるのかもしれない。いや、きっとそうだ!

スティーブ・ブシェミが今一つ空回りしているのが残念だったなあ……いや、空回りが可笑しさに昇華するものならいいんだけど、なんとなく存在感ないまんまで終わってしまった気がする……敵との銃撃戦で、ウッとか言って倒れるからてっきり撃たれたのかと思ったら、心臓麻痺だったというのは可笑しかったが……。それでほんとに死んじゃって、彼の遺灰を撒こうとしたデュードとウォルターが、骨壷(いや灰壷か)の値段の高さに恐れをなして、コーヒーショップでコーヒー豆の空缶をゲットして(あれは絶対コーヒー豆を買って空にしたんではなく、店の空缶をもらってきたんだと思う!)灰壷のかわりにしちゃうのも笑った。その遺灰をまたしてもベトナムのことを持ち出して祈った後に海に撒くと、向かい風で二人にほとんどかかってしまうところも大笑い!そのシーンで、ウォルターの後ろの切り立った崖の上を二人の人物が歩いていくのが画面の上端に小さく映ってるんだけど、あれは偶然?演出?

もう一人のリボウスキ氏の娘であるジュリアン・ムーアがイケてたなあ。抽象画を描く彼女は天井から釣り下げられた滑車で飛び、絵の具を飛び散らせて絵を描くという破天荒さ。「フェミニズム主義者がセックス嫌いだなんてウソよ」「セックスをしましょう。セックスは嫌い?」といきなりデュードの前で裸になったり、コトの後でヨガみたいな体勢をして「妊娠しやすくなる体勢よ」と言ってホワイト・ロシアンを口にしたデュードを吹き出させたりする。そうそうこのホワイト・ロシアン、そのほかにもデュードは「カルーアはあるかい?」なんて言ったり、牛乳で割る甘いカクテルが(ホワイト・ロシアン)が甘いかどうかは知らないけど、なんか甘そうだもの)お好きらしい。だからあんなに太ってるのかなあ……だってそんなに(というよりほとんど)食べる描写は出てこないにもかかわらず、そう、ひたすらその牛乳カクテルを飲んでばかりいるんだもの。

ちょっと戻るけど、デュードを吹き出させた後に彼女が言う台詞がふるっている。「父親になれなんて言わないから安心して。私が欲しいのは子育てに無関心で無責任な男なの」ここに至って、彼女がデュードに負わせたあごの軽い傷に対して執拗に病院にかかることを勧め、その病院でなぜか「パンツを下げて」と言われたデュードのシーンに得心がいくのだ。そうでなくてもあのシーンは可笑しかったが……

たった二回の短い登場シーンにもかかわらず圧倒的な存在感で釘付けにした変態ボウラー、ジョン・タトゥーロ!全身紫のジャージ姿、紫のシースルー(!)ソックスを上に引き上げる動作をスローモーションで映し、一本に束ねた黒髪に変なネットをかぶせ、マイボウルを中腰で布に乗せてさっさか磨くあの姿勢!(しかもマネージャーも一緒に!)英語の発音も独特で、なにかスパニッシュなまりのような抑揚がその紫姿とあいまってむちゃくちゃおかしく、彼の挑発(?)に本当に目が点になっている三人の表情の可笑しさときたら……!

予告編でもチラシでも使われてて、そのせいでこの映画はてっきりもんの凄いファンタジーかと勘違いしてしまった、殴り倒されて気絶しているデュードが見るミュージカルシーンは傑作(ケッ作?)!ボウリングのピンが扇子状になった絵を冠にした女性ダンサー達、その足の下を回転しつつ、レーンの上をやや浮きながら滑っていくデュード、ボウルの穴に入り込んでレーンを転がっていくのを指の穴から見ている目の回る映像、夜景の上を気持ち良く飛んでいたと思ったら、手にボウリングの玉を持っていたせいでぎゅーんと急降下してしまう!そのどれもがとにかくアホでいいんだなあ!★★★☆☆


緋牡丹博徒 二代目襲名
1969年 95分 日本 カラー
監督:小沢茂弘 脚本:鈴木則文
撮影:吉田貞次 音楽:渡辺岳夫
出演:藤純子 高倉健 嵐寛寿郎 長門裕之 清川虹子 待田京介 天津敏 大前均

1999/6/17/木 劇場(新宿昭和館)
受け付けのところに「緋牡丹博徒……はフィルム状態が悪く……」なんて断り書きがしてあって、昭和館にかかる映画ではよくあることなのになあ、と思っていたら、ほんとにとんでもなくフィルムの状態が悪かった……。画面が完全にセピア化しているなんてことはもはや珍しくもないけど、しんみりセリフを聞かせるところでボコボコ飛ぶし。よくこれで上映する気になったよなあ、と思うほどだが。

石炭掘削に湧き立つ熊本。しかし輸送手段が船から鉄道に替わりつつあり、その鉄道の建設を矢野組がしきっていた。しかし組長が死に、その後を若きお竜さん=藤純子が引き継ぐ。様々な妨害をそのたおやかでしなやかな体躯と手腕で乗り切る藤純子はまったく奇蹟のように美しい!セピア化しているものの、画面に残る紫(濃い藤色かな?)の着物は彼女のためにあつらえたようにしっくり、しっとりと似合い(だから“藤”純子なのかと思うくらい!)、彼女を一目見てメロメロになった石炭成り金、銭形金造(笑)が「ろうたけた人だ」と言うのに思わず膝を叩いた!そうそう!美しい、きれい、しなやかだけでは言いつくせない。ろうたけた、というのがぴったりだ!

冒頭彼女が助ける、ヤクザから足を洗おうとしている若い男とその恋人。女の方がだいぶ遅くなってから登場する健さんの妹である。この冒頭シーンでお竜さんと一緒の馬車に乗り合わせ、調子良く彼女を口説いたはいいものの、この若い男を追ってきたヤクザものに恐れをなして逃げ出すのが長門裕之。彼はその後また調子良くお竜さんの組にいついてしまう。しかしこの長門裕之、いつもいつもこういう役で、それがまた上手いんだな!口先は軽くて、相手に本気にとられないんだけど、本当は本気でその彼女に惚れていて、最後はその彼女を救うために命を落としてしまうという……。ここではその相手とは誰あろうお竜さんで、また調子良く手に接吻しようとした彼をかわしたお竜さんが「本気で好きな子にしなさいな」というと「いるんですよ」という彼。「あら、そうなの」全然気づかないお竜さん。そしてその直後、侵入して放火してきた敵に立ち向かって彼は殺されてしまうのだ。「……お竜さん……」とつぶやきながら!

それにしてもこの映画では随分と人が死ぬ。お竜さんが組を引き継ぐことになったのは叔父である組長が死んだからだし、この長門裕之、そしてなんと健さんまで死んでしまう!その度に涙を落とす藤純子がもおおお、美しいの何の!しかし今回特に見とれたのは、健さんに彼の妹とくだんの若い男との仲を認めさせるため、彼の足を洗わせ、とうとうと健さんに説得する場面で、伏し目がちにうつむき加減のアップの彼女の、これこそ筆舌に尽くし難い美しさ!なんなの、あの唇、あの肌、あの瞳、あの眉、あの生え際、あのうなじ……!総てが完璧で、そしてどこかアンバランスに揺れているところも色っぽくて。劇中「23歳です」と言う彼女、ひええええ!

しかし、彼女がひそかに好いていた(そして多分健さんの方も)男を死なせるというあたりの、そして彼と彼女との間には何もないままにそうなってしまったストイックさが潔いよなあ……。でもこの凛としたお竜さんにはそれが実にふさわしい。そしてこの健さん、最新主演作「鉄道員(ぽっぽや)」では鉄道に人生を捧げる男だったのが、ここでは輸送船から鉄道に替わっていくことに複雑な思いを感じながらも、鉄道開発に協力する男、という役どころなのが面白い。★★★☆☆


秘密
1999年 110分 日本 カラー
監督:滝田洋二郎 脚本:斉藤ひろし
撮影:椋野直樹 音楽:宇崎竜童
出演:広末涼子 小林薫 岸本加世子 金子賢 大杉漣 石田ゆり子 伊藤英明 篠原ともえ

1999/9/28/火 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
秘密、というのは母と娘が入れ替わってしまった、そのことだけだと思っていたから、さすがにラストには仰天させられた。原作を読んでなかったから。なるほど、これじゃ論議も呼ぶわなあ。若い娘の肉体を手に入れた母親が、自分の人生をもう一度楽しむために夫をだましたと取られかねないわけだから……しかし、真相は?

スキーバス事故に巻き込まれた、杉田平介の妻直子と娘藻奈美。妻が死に、娘が助かった……と思いきや、その娘の体に妻の人格が宿っていた。娘の体で人生のやりなおしをはかり、医大にまで通ってしまう妻。そして2年後、突然娘の人格が戻ってきて、だんだんと妻の人格が後退……ついには最後の別れを告げて妻の意識は完全になくなってしまう、だったはずがラストで全てが覆される。そこからさらに数年後の藻奈美の結婚式、昔そうだったように平介のあごの剃り残しにさわる彼女に「直子なのか……お前ずっと直子だったのか!?」と驚愕する平介。それに対して何とも答えず微妙な表情の彼女のアップがしばらく続いて、映画はカットアウトされる。

自分の人生を楽しむためだけに数年間も夫の前では娘の人格のままでいたとしたら、これはオソロシイ精神力の持ち主なのだよね。では、夫への愛がために?……娘の体ではどうしても夫婦として愛し合うことにためらいを持つ平介を不憫に思って、他の人との幸福をつかんでもらうため、藻奈美が戻ってきたような芝居をして消えたのかなあ、とも思ったけど(一応それが一般的な見方らしい)、その後も平介は再婚してないようだし、彼女が本当にそう考えていたのだとすれば彼女の方が結婚するというのは、違うでしょう?百歩譲って結婚はまあいいとして、それならば、自分が直子のままでいたということも自分の胸にしまったまま行くと思うのだけど……でないとフェアじゃないよ。自分で芝居を打っといて、最後まで演じきらないというのは……そんなの愛じゃないよ。

と、もやもやとした気持ちを抱えて本作のHPをあさり、掲示板をチェックすると、やはりみんな議論はこの点に集中している(あとは原作との違いと、そこを訪れる人は大抵涼子ちゃんのファンだから、彼女の賛美ね)。面白かったのは、彼女はずっと藻奈美だったのでは?という説。事故から生還し、父親が妻の死に落胆しているのを見てとって即座に母親のフリをして父親の気持ちが落ち着くまで母親を演じ続けた、というもの。その論の拠り所は、もし本当に直子だったのなら、あのメイク・ラブ・シーン(未遂)の初々しさは不自然だ、と言うんだよね……うーん、確かに。ま、それだけで言ってるのじゃないけど。しかし、現時点でのヒロスエの立場では、あの描写がせいいっぱいではないだろうか?しかし、さすがにあのシーンの彼女は美しかったよね。若いもの、肌が!品のいいスリップ姿からすらりと出た足と、意外に大きな胸にドキドキだ……彼女のファンとしては、パンツ脱がされるだけでも結構うおっと思ったけどさあ。……ま、そんな事はどうでもいいんだけど、この説にはやはりちょっと無理がある。だってそれならば学校で不自然な行動を取る理由は無いわけだもの(平介が見てるわけでもないし)。それに平介との過去のことを全て知ってるのもいくらなんでも無理があるし。

思わず人格(性格)環境決定論なるものを思い出してしまった。人の性格は遺伝子とかよりもその環境によって決定されるという(ま、そのまんまだけど)あれ。この場合の環境とは、直子にとっての藻奈美の体だ。私はこれが愛の形だとかはやはり受け取れないのだよ。もっとシビアに、直子自身が劇中で言っていたように「藻奈美として生きる権利がある!」ということなんじゃないかと……。そりゃ最初は直子だって平介を愛しているし、藻奈美の体になってしまったことよりも、自分が直子として生き残ったことに重点が置かれて、それまで通り平介と寄り添って生きていくつもりだったのだろうとは思うけど、藻奈美の体が直子の(もう確立されたと思っていた)人格形成に影響を与えていったのではないかなあ。だってやっぱり、人間って自分の生活スタイルや立場の中でものを考えるでしょ、ほら、若い人の立場で、とかいうあれ。中味は40歳のオバサンでも、10代の女の子としての生活が一方であるならば、やはり、そこでの意識の変革は避けられないし、若いパワーがそれまでの意識を侵蝕していってしまったんではないのだろうか。大学に通い始めて、それまで一緒だった生活がだんだんと離れていく直子と平介は、親離れしていく娘とそれに戸惑う親の関係そのままだもの。

どっちにしても、娘藻奈美のもともとの存在意義が、非常になおざりにされていることがひっかかる。最初こそ、娘の体を取ってしまったことに苦悩を感じている直子だけど、それ以降はその体を使っての人生やりなおしに終始していて、娘が本当の意味で死んでしまったことに対して、殆ど悲しんでいないみたいなんだもの。平介に関しても、中の直子の人格にばかり目を向けているし。途中藻奈美が戻ってきたのが直子の芝居なのだったら、藻奈美は本当にあのスキーバス事故で死んでしまったわけだし……体だけが死んでしまった直子にはお葬式で悲しんでくれる人たちがいたわけだけど、藻奈美に対しては、悲しんでくれるのは両親しかいないはずが、その部分が非常に希薄だったのが、後になるほどに凄く気になってしまう。でも、ラブ・ストーリーに集中するためには仕方なかったのかな……あまり欲張ると散漫な内容になっちゃうし。原作はどうなのだろう?

二役(?)を演じわけた涼子ちゃん。なかなかがんばっていたのではないだろうか。ただ、その元となる母親役の岸本加世子が、もともと可愛らしいタイプの奥さんだから、その人格が若い娘に宿ってもさほど違和感がないのだよね。涼子ちゃんが言うほどにオバサンオバサンした演技ではなかったし、もちろんそれで正解だと思うし。というのも、直子の人格を演じている時の涼子ちゃんは、ああ、岸本さんだったら確かにこういう感じ、と思わせるから。そう、岸本さんだったら「あれ、どうする?エッチ」とかあっさり言いそうだもんね。夫といちゃいちゃもしそうだし。……その辺の微妙なさじ加減が、あるいは「全然演じわけてない!」という見方も生みそうだけど。だから、妻の人格が去っていく(とされる)シーンで岸本さんにバトンタッチするのは、だめだよお。そりゃ、その後、直子の芝居だったことが明らか(?)にされるけど、やはりここは涼子ちゃんの演技のまま行ってほしかった。逆にしらけるもの、内面がわざとらしく具現化してる感じで。涼子ちゃんの内面演技を信頼してたら、こんなことしないと思うけど……信頼してなかったのか?滝田監督……。

苦悩する夫の小林薫、いいけど、これは演出のせいだろうなあ、コミカルさが空まわりというか……。個人的好みとして、あまりコミカルな描き方は抑えてほしかった。切ない感情に集中できない。柴田理恵さんとか、もう出ただけでギャグなもんだから、この辺はいかにもテレビ色という感じで、ガクッときてしまう。(「双生児」のもたいさんの時にはそんなこと思わなかったのに……やはり一人一人の役者さんの使い方をしっかり把握してるか否かということなのだろうか)うーん、もともとこういう所が、滝田洋二郎監督、今一つ私苦手なのだよね。これを例えば、そうだなあ、篠原哲雄監督とかが撮ってたら良かったなあと思うのは、単に私が篠原ファンだからだろうが。直子(藻奈美)の結婚相手となる、事故を起こした運転手(大杉漣)の息子、金子賢のバックグラウンドも、ちょっとおざなりな描き方で気になったけど、この時間内じゃ、しょうがないかも……彼が、ラーメン屋で働いているというのは、一生懸命さが具体的に判っていい感じ。石田ゆり子、高校教師なのに露出しすぎだ。あれじゃ、平介を誘惑しているの、ミエミエ。

しかししかし、この作品を観ていて思ったのは、もう、ラーメン食べたい、明太子食べたい、ソフトクリーム食べたい!これですよ。ラーメンに関しては、カップラーメンね(めちゃめちゃ明星食品にノセられてるけど……しっかり新発売の「徳力」だもんなあ。やはり最初に提供のメーカーありきで平介の仕事の設定がなされたのかしらん)。これが同じくカップラーメンを食べるシーンがやたらと出てくる「Hole」だと、絶対食べたいなんて思わなかったのに(あれじゃ雨の味とかしそうだもんな……)。明太子は切らずに茶碗からはみ出そうな奴を一腹丸々ごはんにのせて。うー、やったら美味しそう!翌日の昼ご飯に、とりあえずカップラーメン、プラスされてしまいました。★★★☆☆


火を噴く惑星
1962年 分 旧ソ連 カラー
監督:P・クルシャン 脚本:
撮影:A・クリモフ 音楽:
出演:V・エメリヤノフ/G・ジョーノフ/G・ヴェルノフ

1999/6/2/水 劇場(銀座シネパトス)
……うー、すごいキッチュな出来のSF!金星に向かう宇宙飛行士。途中、何基かあるスペースシャトルは思わぬ隕石群などでやられ、生き残った五人の宇宙飛行士たちは決死の覚悟で金星に降り立って様々な目にあうという話なんだけど……。

まず、星空を飛んでいるロケット型スペースシャトルのあまりのチープさにほとんどドギモを抜かれる。ブリキっぽい色つやの機体、まるまるとしたデザイン、どぎつい色のライン。飛びかたもいかにも手で動かしましたという感じで妙に可愛らしい。いくら1962年の映画とはいえ、これはないんでないの?といいたくなるほどなのだが、これがジョークでやっているんだかどうだかすらも判らない。役者の演技からするとどうやら大マジらしいのだが……。しんと静まり返った空気の中で、哲学的に響くロシア語の発音!死ぬかもしれない男に正統派美女は涙を流す。……どうやらマジらしいのである。

一人連絡係としてシャトルに女性が残り、男性たちは金星に降り立つ。この金星の描写がスゴい。どう見てもあれはドライアイスのけむりがもうもうと立ち込め、あとはまんまの地球の風景や、セット撮影の手作りの木や岩。身体に糸をつけて探索するという描写にいきなり笑わされる。しかし残った二人の男性はおしゃべりに夢中で糸をつけた男性の危機に気付かない。その危機というのが……!巨大な肉食植物?に食われそうになっているというのだが、植物の作りのなんと手作りっぽさ!ほとんど屋上のショー並みである。この植物に食われそうになっている男性というのも、どう見たって自ら巻かれて足をバタバタさせているだけに見えるという、これがほとんどエド・ウッドの映画の世界というか……。これまた大マジで危機を演じる役者にツボをつかれる。さらに、小型ゴジラ!?や、プテラノドンみたいな鳥竜も出てきて、その動きのトロさたるや、ほとんど芸術である。しかし、彼らはこれまたこれまた大マジで恐怖にさいなまれているのだ!

更にすごいのが、“最新型”のロボットで、組み立て式、形状はこれまた恐ろしくレトロなロボコン状態。敬語でしか命令を聞かないという設定もイケてる。溶岩が流れる所を二人の宇宙飛行士を肩にかついで渡っていくのだが、途中まで来たところで、障害物発生とかなんとか言って、二人を降ろそうとするのだ!妙にスローモーに必死にバタバタする二人の姿がとにかく可笑しい!

シャトルの中で肩に妙な器具をつけ、屈伸運動をしている男性や、ぎこちない無重力状態の中をはしゃぎまわる女性など、笑っていいんだかなんなんだかという描写の可笑しさよ!“他の星の宇宙船が先に到達しているかもしれない”とか、謎の美しい声が聞こえるとか、本気でマジでSFやってるから、どう反応していいのやら困っちゃうのである。ひょっとして社会的問題を投げつけようとしてた……かもしれない!?★★☆☆☆


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