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「そ」


1999年鑑賞作品

宗家の三姉妹宗家皇朝/THE SOONG SISTERS
1997年 145分 香港 日本 カラー
監督:メイベル・チャン 脚本:アレックス・ロウ
撮影:アーサー・ウォン 音楽:喜太郎 ランディ・ミラー
出演:マギー・チャン ミシェール・ヨー ヴィヴィアン・ウー ウィンストン・チャオ ウー・シングォ チャン・ウェン


1999/3/9/火 劇場(岩波ホール)
脚本のアレックス・ロウはヴィヴィアン・ウー演じる美齢に最も魅力を感じたそうだが、監督も意図していただろうし、そして誰が見たってこれでの最大メインは慶齢を演じたマギー・チャンだ!しかし演技力の差でこうなったんじゃないの?と思うほど、マギー・チャンが圧倒的に上手いのだもの。キャラクターの強さで得をしているのかなあ、と思わないでもないけど、それで行ったら美齢だって結構強いキャラクター。それなのになぜここまでマギーが魅力的なのだろう。

夫である孫文とともに歩んだ共産主義の道。理想を追求するため腐敗した国民党を脱退。理想をまっとうせんとする時のマギーは、その白い顔がペール・ブルーに見えるほどに張り詰めた空気を持ち、カリスマ性すら放って全く美しい。長女のミシェール・ヨーがちょっとかわいそうだったかなあ。彼女が結婚した相手は妹二人とは違って、富豪とはいえ、いわゆる一般人。その財力をもとに妹の窮地を救ったりもするけれど、一人一歩退いている感はぬぐえない。ただ、この富豪の夫というのがケッサクなキャラクターで、え?田口浩正?かと思わせるおおらかな風貌、「玉子を34個も使ったんだ」と嬉しそうに巨大な月餅を運んできたり、一人でコメディリリーフを担っている。妹二人が夫と結婚したのにはもちろん愛情が先にあったとは思うけど、共鳴する思想とか、あるいは美齢の場合は権力とかもまた多分に働いていたのに対して、長女の靄齢はほんとに愛情だけで結婚したんではないかと思うほどにほのぼのムード。

日本に亡命した孫文と彼を追った慶齢の日本でのシーン、またけったいな日本描写が出てくるのでは、とちょっとドキッとしたが、杞憂。日本との合作なんだから、当然か。美しい京都の描写……竹林をそぞろ歩く様、着物を着たマギー、神社での神前結婚式、すべてが魅力的。戦争での日本の描写も、腰が引けることなく、かといって過剰にもならず、たんたんと史実を描写する公平感覚に頭が下がる思い。あくまで“宗家の三姉妹”映画たらんとして、戦争問題に感情的になるのを意識して押さえている冷静さを感じる。

物語は今でも生きている美齢の回想を軸に、幼女期から三人が最後に会した難民救済までを、ところどころ時代を反復しながら進んでいく。全くもって歴史に弱い私も混乱することなく物語に入って行ける語り口。それは三姉妹の人生の流れを重視した、歴史大作というより物語映画になっているから。あまり男性、女性と言いたくないけど、この辺がやはり女性監督ならではかな、と思う。中国人のアイデンティティをテーマの一つとしながらも、キリスト教徒である宗家のきらびやかなクリスマスの描写や、英語がちゃんぽんに混じる会話(特に「ガッデム!」「リディキュラス!」など憤慨した時に英語が入ってくるのが面白い)、それに対して日本の士官学校に学んだことを心密かに誇りにし、日本との抗戦を共産主義者との内戦を理由に放棄する蒋介石の描写が面白い。特に、自分には判らない英語で三姉妹が会話するのを密談のように思って激昂する蒋介石のシーンは彼の苛立ちがビリビリと伝わってくる。

こういう所で聞くとほんとに日本人の作曲というのが信じがたい大名曲、「蘇州夜曲」や、中国の風景に不思議とはまるこちらはアメリカの名曲「峠の我が家」など既存の曲が心に染みる。三姉妹の物語とは言いつつ、こうしたさりげないところでそれこそアイデンティティや国の問題に言及しているところが心憎い。★★★☆☆


双生児 GEMINI
1999年 84分 日本 カラー
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 音楽:石川忠
出演:本木雅弘 りょう 筒井康隆 藤村志保 もたいまさこ 石橋蓮司 麿赤兒 田口トモロヲ 村上淳 内田春菊 大方斐紗子 広岡由里子 猪俣由貴 浅野忠信 竹中直人

1999/9/21/火 劇場(有楽町スバル座)
次回作は「バレット・バレエ BULLET BALLET」だとばかり思っていて、その公開をもう1年以上もじりじり待ってたから、突然東宝の大劇場大スクリーンでの予告編で“塚本晋也”の文字を大きく見た時には、本当に本当にびっくりした!まさか、塚本監督の名前をメジャーで見る日が来ようとは……!そっからはもう、期待半分、不安半分。その唯一無二のテンションの高さで、私も含め、熱狂的な支持者がいる一方で、ストーリー性が希薄だなどと言われもしている(ケッ)塚本監督が、原作もの、それも江戸川乱歩をどう料理するのか……塚本カラーを残すことができるのか、と。だって、本当に想像も出来なかったんだもの。

参った、参りましたね。塚本監督がこんなしんしんとした演出を見せてくれるとは!双子の兄、幸雄の方ではノーブルで、しかも闇になにか潜んでそうな不気味さを、弟捨吉の方ではそれまでの塚本カラー健在といった感じのアヴァンギャルドで奔放な世界観を、しかもその二つの相反する世界を巧みに交錯させるその手腕。未読だけれど、原作からかなり大胆な改変をしたというそのオリジナルな脚本は、幸雄と捨吉、妻のりんの三者三様の心理描写に過不足なく徹していて、ともすれば破綻の危険があるところを実にうまくさばいている。

いつでも自分で撮影している塚本監督だけれど、今回ほどその映像が鮮烈に目に焼きついたことはなかった。撮影監督としての力量、才能も並々ならぬものを感じる。特に幸雄がわの、屋敷内での空気感は凄い。夜、ガラス窓から差し込む青い月明かりが廊下に描く縦横な模様、光の差し込まない部屋の歪んだ鏡、中央のテーブルに花を置いて幸雄(の方だったと思うけど)とりんを両サイドに置く、完全なるシンメトリカルな構図は完全すぎるがゆえに逆に均衡の危うさをほのめかす。そう、一見記号的に無機質な完全体に見えるそれが、ふとした事で表情も変えずにガラガラと崩れていく感覚……登場人物の眉がつぶされているのにもその感覚を強く感じるのだ。このアイディアは正解だった。ヘアメイクの柘植伊佐夫氏の提案だったそうだが(なんでも当初はお歯黒も……)、感情があらわになる時でも、抑えられている不気味さは、その感情をコントロールしきれない危うさなのだから。

二役を演じる本木氏、特に捨吉の演技の方で、ああ、これって、塚本監督だあ、と監督自ら演技をつけたのが判る箇所があって、嬉しくなってしまう。今までの本木氏には決して見られなかった、井戸に突き落とした兄を上から眺めている捨吉の、その狂気の声と表情!そしてりんを演じるりょう氏の良さも想像以上。彼女が一番、眉を落とした効果を発揮している。美しさと、不気味さ。子供のような泣き顔と、妖艶な笑顔、川岸にほつれた髪でたたずみ、振り返った時の呆けたような表情。

もたいさん、面白すぎるんですけど……彼女のしぐさは、別におかしいことをしているわけではないのに、何故こんなに可笑しいんだろう!ぞうきんがけをしたり、まくらをぽんと置いたりするだけで、なんだかもう、笑っちゃって仕方がない。狂気の中にユーモアがある、塚本ワールドの住人そのものだ……これからも塚本作品への出演をぜひ願いたい。こんな所にまで出るなよ……と思わず嘆息してしまう浅野忠信氏、ま、いいんだけど。むしろ塚本作品今回が初という方が意外かもしれない。トモロヲさんは盟友だから当然、石橋蓮司氏も、「鉄男」組だからね、……でも竹中直人氏は、ああやっぱりという感じで、ま「東京フィスト」から参加はしてるけど、あの時だって、塚本ファンですうーといった感じの押しかけっぽかったしさ。なんかどの監督に対してもそう言って出まくってる気がするのは気のせい?

そして次作はいよいよ待ちに待ちに待ちに待った「バレット・バレエ BULLET BALLET」だッ!「電柱小僧の冒険」の時に予告編を見た……それだけで、ああもうこれぞ塚本映画というパンキッシュで破壊的なエネルギー、早く、早く観たい!!★★★★☆


底抜け大学教授THE NUTTY PROFESSOR
1963年 107分 アメリカ カラー
監督:ジェリー・ルイス 脚本:ジェリー・ルイス/ビル・リッチモンド
撮影:ウォレス・ケリー 音楽:ウォルター・シャーフ
出演:ジェリー・ルイス/ステラ・スティーブンス/キャスリーン・フリーマン/デル・ムーア/レス・ブラウン/ハワード・モリス/エルヴィア・アルマン

1999/11/23/火・祝 ('98/12/10)TV
ジェリー・ルイスを今更ながら初見。おっと正しくは初見ではないや。クストリッツァ監督の「アリゾナ・ドリーム」で観ていたんだった。エディ・マーフィーがリメイクした「ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合」(これも未見)のオリジナル版だが、ジェリー・ルイスの(当初はディーン・マーチンとのコンビで)コメディに「底抜け」がつけられてるから、これも当然邦題はその底抜けシリーズの一環。今だったら絶対こんな素っ頓狂な邦題つけられない。「底抜けてんやわんや」だの「底抜けやぶれかぶれ」だの……イカしてるわあ。

ちょっとどころかかなりサエない大学教授であるジュリアス・ケルプ(ジェリー・ルイス)が特殊薬を開発、夜にはキザなプレイボーイ、バディ・ラブに大変身、クラブで学生たちの圧倒的な人気を得るけれど、学園祭に招かれた彼は薬の効果が切れ、正体がバレてしまう。しかし利発な女子学生、ステラ(ステラ・スティーブンス)だけは彼の内面を見てくれていてめでたくハッピーエンド。とまあそういうお話。まっ、ストーリーなんぞはこの場合どうでもよくて、ひたすらジェリー・ルイスの身体的ギャグをタンノウすればいいんだけど。ただ、これ吹き替え版なんで……ケルプの時とバディの時とは(これがバレる原因になる)声がまず違うので、ルイスが実際どういう風に喋っているのかが判らないのは残念なのだけど。ただ、この作品の場合吹き替えは正解。何故って、二人、もしくは三人が同時にまくしたてる場面が何度となくあるから。ケルプが人の反応を全然見ていなくて、自分の言い訳をとうとうと喋り続けたり、なんといっても白眉なのはバディ・ラブが自分の出演を許可させるために学園長をおだてあげるシーン。すっかりイイ気分でテーブルの上に登り、ハムレットの一節を披露する学園長のアホさは笑える。

しかし、さすがといおうか、バディ・ラブに扮した時のスイングを歌う彼の見事さはみもの。うーん、確かにカッコいい。しかし彼が言う「世界一イイ男」とまでは思わないけど(笑)。でもね、ステラがちゃんと本当のケルプ教授にホレたように、ケルプ教授のキャラクターはほっとけないかわいさがあるんだな。いや、見た目はメチャブーだけど。いや、そのブーさ加減がかわいらしいのよ。ほんとドリフじゃないけど、実験に失敗して学園内で大爆発させ、全身真っ黒になったり、生徒にバカにされて薬瓶の棚に押し込められたり、身体を鍛えようとしてジムに行き、巨漢の男達にオビオビしてたりするケルプはなんか愛しいものがある。それに、バディ・ラブというのは聞えてきた歌詞や何かから名前をとったもので何というかアメリカ〜ンなカルい感じなんだけど、ジュリアス・ケルプという名前、なんか哲学的というか、学識的というか、やっぱり知的な感じだよなあ。そのあたりの対比も上手い。やはり名は体をあらわす!?

オープニングからかかるのは「星影のステラ」うーん、なるほど、ステラに捧げる曲なのね。判りやすうー。しかし、この「星影のステラ」のホーンセクションアレンジといい、先のバディ・ラブのスイングといい、さすがアメリカという感じのショーアップされた音楽が気持ちいい。

しかし、ジェリー・ルイスというとどうしても私はパッと歌手のジェリー・リー・ルイスを思い出してしまう。何でこんなに名前が似てるんだろうなあ?★★★☆☆


ソドムの市SALO O LE CENTIVENTI GIORNATE DI SODOMA
1975年 118分 イタリア カラー
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ/セルジオ・チッティ
撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:(監修)エンニオ・モリコーネ
出演:パオロ・ボナチェッリ/アルド・バレッティ/ジョルジュ・カタルディ/ウベルト・パオロ・クィンタヴァッレ/カテリーナ・ボラット/エルザ・デ・ジョルジ

1999/10/8/金 劇場(ユーロスペース)
ぐえええ。なんというエグい映画なんだ!ジョン・ウォーターズの「ピンク・フラミンゴ」よりはるかにエグい映画が存在するなんて、思ってもみなかったなあ……。いや、「ピンク・フラミンゴ」と比べるなんて、間違ってるのかも……いやいや、ある意味、表と裏の作品同士のような気がする。双方ともにエグさが増すほど、「ピンク・フラミンゴ」ではその俗悪趣味がカルトになり、「ソドムの市」では宗教美学的、反体制的な強烈さを放った。吐きけがするほどにキテる映画なのにもかかわらず、どこか大マジで、美学的匂いがプンプンする、そしてそれが突き詰められて絞り出される、叫びのような強烈な反体制思想。

もう中年というより壮年にさしかかった四人の権力者の男達が、美少女、美少年を力によって駆り集め、閉ざされた館の中でひたすら変態趣味にふけるという、ちょっとするとギャグになりかねない話。いや、ある部分、例えばスカトロ描写などは充分にギャグ的なのだけど、あまりにリアリスティックにスゴすぎて、本当に吐きけがしてくるありさま。大体がして、冒頭、この男達が彼らを脱がして吟味する、その目つきを見ただけで、もうゲッソリしてきちゃうもの……。情欲を駆り立てる話をピアノの伴奏に合わせて語るケバ女も相当にヘン。細部描写が足りないと男達に突っ込まれると、くるくると踊りながら歩み出てきて、「それはごめんなさいねー」なんて言ったりして。ああもう、一体この人たち何考えてんの!?

通常の男女のセックスを行った者、宗教的な行い(祈ること、だろうな)をした者は死刑に処する、という法規のもと、汚れを知らぬ少年少女たちを、いわば手ほどきするかのように変態地獄に陥れていく。そして最終的には拷問、殺人。しかし、それもまた彼らの性的欲望を駆り立てる光景になるというのだから、戦慄せざるをえない。……そう、これがなければ、ただのヘンタイ映画だと無理して括ることも可能なのだろうけど、目玉をくり貫かれたり、頭の皮をはがれたり、舌を切り取られたり(……望遠鏡で覗き見ているというロングショットではあるけれど、ことごとにリアルなんだもん!)というむごい場面を見物しながら満足げな笑みを浮かべて、おつきの少年にシゴかせるなんてことに至ると、ああ、これなんだ、きっと監督が言いたかったのは、と思う。別にヘンタイ映画を作りたかったわけではなく(ま、それもあるだろうけど……そうでなかったらこんなに徹底してやらないよな)弱い人間の不幸に、そう、殺されるまでに究極な場面になればなるほど、恍惚を覚える人間の愚かしさを。原作はかのヘンタイ作家、マルキ・ド・サドだけど、時代設定を第二次大戦下、しかも敗色の色濃いイタリアに設定し、ファシズムが横行する中での狂宴に仕立て上げた監督の意図にふと思い当たってしまう。

大便を食わす描写がエスカレートして、不規則な食生活をさせた後、一日中お腹にため込んだ大便を皿に大盛りにして夕食の宴にするという信じられない光景が!……しかも、あのリアルな……うー、チョコレートかなんかで作ってあるんだろうとは思いつつも、涙を流して吐きながら食べている少女の姿に、本当に胸が悪くなってしまう……。反抗的な少年と少女に性の恍惚を仕込み、正常な男女のセックスをけしかけておきながら、その直前「お前たちの清い花を散らすのは私たちだ!」と乗り込んで彼らを犯す。そしてその後ろからまた別の男が突っ込んできて……この権力者達はゲイもヘテロもいるんだけど、なぜか総じてアナル主義で、それが“上品な趣味”だと言ってはばからないのだ。このあたりも、非生産的なことに対しての監督の皮肉な視点が感じられるような気がする。だって、そのアナル趣味に対してはどこか乾いた笑いを誘い出すところがあるのだもの。

徹底的に戦慄的なほどに俗悪描写のあらんかぎりをつくしているにもかかわらず、妙に落ち着いて品のいい調度品に囲まれた館で、しかもカメラは常に引き気味に映し出すものだから、美学的な雰囲気が常に横溢している、そこが凄い。真っ暗な部屋の中、“美尻”を品定めするために並べて四つんばいにさせ、ライトで照らしたり、たまらずマリア様に祈った少女が喉を掻き切られて血を流して倒れているのにもかまわず、情欲をかきたてる“お話会”を決行したりと……。そう、宗教的な行い=神に対する祈りを禁じていることによって、余計にその渇望が常に作品を覆っているから、それまで以上にこの作品はある意味宗教的なのだ。でも何という皮肉!劇中で少女が「神様、私たちを見捨てるのですか!?」と絶叫する、その言葉通り、彼らが救われることは遂にないのだ。それこそが、戦争や、それが生み出したファシズム、あるいは体制に対する痛烈な批判ではないか?

パゾリーニはこの作品の撮影直後、出演者で同性愛関係にあった少年に撲殺された……まさかこれが遺作になるだろうとは本人思っていなかったのかもしれないが、どちらにしても、最後の作品で性を取り扱ったという点で、現在の映画「アイズ ワイド シャット」を持ち出さずにはいられないんだけど、この違いは一体なんなんなんだ!?一見そうは見えないけれど、実は最後まで社会的だったパゾリーニと、やはり一見そうは見えないのだけど、最後まで個人的だったキューブリック、そんな対比が見えてくる気がする。★★★★☆


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