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「め」


1999年鑑賞作品

メイド・イン・ホンコン香港製造/MADE IN HONG KONG
1997年 108分 香港 カラー
監督:フルーツ・チャン 脚本:フルーツ・チャン
撮影:オー・シンプイ/ラム・ワーチュン 音楽:ラム・ワーチュン
出演:サム・リー/ネイキー・イム/ウェンバース・リー


1999/7/14/水 劇場(銀座テアトル西友)
“香港映画のイメージを覆して本国で大ヒット”したという本作。そしてストリートで拾ってきたという出演者達のリアルな肢体と面構え。それを観て、ああ、香港映画って、新鮮で革新的に見えながら、実はかなり保守的だったんだなあ、と思う。そうだ、考えてみれば、今まで香港映画にこういう作風がなかったのももちろんながら、役者たちもどこか古い、甘いマスクの人たちばかりだった。主役チャウに扮する主演のサム・リーなど、永瀬正敏と浅野忠信を同時に思い起こさせるようなトンがった風体。彼の弟分役のウェンバース・リーもぶっさいくなところが愛らしいし、不治の病の女の子ペンに扮するネイキー・イムの、孫悟空みたいなベリーショートでキャラクターもののサルみたいなファニーな顔立ちは今までの香港女優には決して有り得なかった種類のキュートさ。彼女はスタイルが抜群に良く、劇中ウェンバース・リー扮するロンが彼女を見て何度も鼻血をぶっこくようにその太股ときたら実に肉感的である。かといっていやらしさは微塵もない。彼女が見晴らしのいい小高い山肌に林立する墓地の一つに登って、ロンに向かってひらりとワンピースの裾をめくり上げて白いパンツを見せるところなんざ、健康的な色香がさわやかに匂いたつ。

ほとんど直接的には触れられないながらも、中国返還に揺れる香港を描く命題を背負っている本作。その中で切なに生きる若者の疾走感は、今の日本では決して得られないものだ。もちろん似たような感覚の映画はある。キャストをストリートから持ってきたという点でも「ジャンク フード」などはその系譜だろう。しかしそれは、きわめて個人的な焦燥や、あるいはせいぜい風俗の中で右往左往するといった程度で、自分の生活、いや人生基盤が根底から揺るがされる国家というものの先行きの不安を根底に持つ本作の焦燥感にかなうわけはない。

この物語には、現在進行形で絡むことのない、飛び降り自殺した少女、サンの影が最初から最後まで支配する。彼女の自殺の原因は恋愛の苦悩だが、それがこの時代の香港の不安感を象徴するものとして、チャウやロン、ペンに重くのしかかる。特にチャウはサンが毎夜夢に出てきて、夢精し、起きだしてパンツを洗うという描写が何度となくくりかえされ、その奇妙なエロティックさが、強烈な印象を与える。まさしくサンの亡霊にとりつかれているのだ。自由と口にはしているが、展望があるとはおよそ言い難い、高利貸の取りたての手助けをして生活しているチャウ。ロンは知的障害者で、あおっちょろい学生たちにいじめられどおし(この学生たちの、白の上下の制服が象徴する排他的さ!)。ペンは提供される腎臓を待ち続けて(表面はえらく健康的ながらも)まさしく今にも死にそうである。これが凡百の青春映画だったら、彼らの未来は明るく描かれ、または明るい暗示を残して終わるところが、驚くべきことに主要登場人物であるこの三人が最後までに次々と死んでしまい、チャウが死んだ後には彼のモノローグがスクリーンに響き渡る。

彼らの死の原因はもちろん、中国返還とはなんら関係のないものだ。しかしこの先の見えない不安感と彼らの死を結びつけないわけには行かない。ロンが拾ったサンの家族にあてた遺書(恋人にあてた遺書の内容はその男の手にわたった時点で破り捨てられ、知る由もないが)に連鎖して応答をつづり、その後で自死の形で死んでいったペンとチャウ。障害者の弱さを全面に押し出す形で無残に殺されたロン。この先に一体何があるのか、決して楽観的になれない彼らの選択した(あるいはさせられた)結果の無残さ。

チャウの部屋には「ナチュラル・ボーン・キラーズ」「レオン」、ペンの部屋には「マイ・プライベート・アイダホ」のポスターが貼られている。結構意識的に画面に入り込んでくるそのポスターに意味を求めるべきだろうか?“生まれながらの殺人者”では決してないチャウ、あるいは、絶望的に運命的なカップルである二人に重ね合わせたか……それを言ったら「レオン」も「マイ・プライベート・アイダホ」もしかりか。

サンの映像の時に顕著なブルーのクリアな画面と、チャウたちの暮らすピントの甘い画面の対比が今一つはっきりしないのがちょっと気にならなくもないし、いささかまとまりのなさというか、突っ走った勢いがふっと散漫になる印象も受ける。死をどこかメルヘンチックにとらえているようなところもひっかかる。しかし、痛々しいほどの痩せた体を、しなやかにバウンドさせて鋭角的につっこんでいくサム・リー存在そのものが疾走しているから充分。★★★☆☆


メッセージ・イン・ア・ボトルMESSAGE IN A BOTTLE
1998年 分 アメリカ カラー
監督:ルイス・マンドーキ 脚本:ジェラルド・ディペイゴ
撮影:ケレイブ・デイシャネル 音楽:ガブリエル・ヤード
出演:ケビン・コスナー/ロビン・ライト・ペン/ポール・ニューマン

1999/7/1/木 劇場(丸の内プラゼール)
亡き妻への愛のメッセージを瓶に入れ、誰に読まれることなく没することを願って(かどうかはしらないけど)、海に投げ入れた男。それを拾い上げ、そのメッセージに心うたれた夫の浮気で離婚したばかりの女。そしてその二人の出会いと短期間で燃え上がる思い……うー、書いているだけで、恐ろしく陳腐な展開である。

亡き妻を胸に秘めながらも、目の前にあらわれた女性、テリーサに心惹かれる自分にとまどいを覚える男……ということなんだけど、おいおい、お前、ほんとにとまどいを覚えてるのかあ?と言うほど、あっさり彼女とラブラブモードに入っていく彼に首をかしげてしまう。だって、それほど愛している妻が亡くなってから、まだ2年しか経ってないんだよ!?それとも、まだ2年、というのは日本人的考えなのだろうか……。訪ねる女も、もう最初から彼と恋仲になろうと思っているかごとき近づきかたで、彼らがあっという間に(滞在している2、3日の間に)もうキスするわ、二人きりでセイリングするわ、ワイン飲みながら暖炉の前でベタベタし、結局は泊り込んじまうわで、おまえら、少しは逡巡しろよ、そーいう立場だろうが!と思わずにはいられない。なんでもこれでも二人のラブシーンはだいぶ削った(ケビン・コスナー言うところの「亡くなった妻をまだ忘れられないのに、他の女とキスばかりしてたんじゃ、現実的でないだろう」という意見を取り入れたらしいが……)ということだが、充分多いわ!感情が盛り上がる前からベタベタしてるんだから。監督言うところの「ケビンがキスするのをファンは見たいんだ」という意図だけはしっかり伝わるというお粗末ぶりなのだから困ってしまう。

お楽しみだけの恋だったのだと、女が都会へと戻っていく。「それでも、お互いの電話番号は知っているのだから」と、名残惜しそうにキスを繰り返し、未練たらたらで帰っていく女。そして彼女を見送り、彼女が帰ると何の迷いもなく電話をかける男。……少しは悩んでくれ……。そして都会へと男が訪ねてくる。一日目は女の息子を交えた三人で過ごし、明日は息子は友達の家に泊まらせるからと女は言う。やっぱりあんたたち、そーいうことをしたくて会ってるんかい、と嘆息したくもなり、もう第一日目から息子の見ていないところでキスしまくりで、恋愛映画の機微はどこ行っちまったのかねえ、と思う方が青いのだろうか……。大体、息子も息子で、そんなあっさり男と仲良くなるなよ……いくら父親と離婚した母親とはいえ、他の男と仲良くなるのが面白いはずはないのに、そして年頃的にもうそうした複雑さを持ってるはずなのに、このあっさりしたクリアぶりはなんなんだ!

「めぞん一刻」で、響子さんに恋する五代君が、彼女の心の中に生き続ける惣一郎さんに嫉妬しながらも、「忘れるとか、そんなんじゃない、あなたはもう響子さんの心の一部なんだ、初めてあった日から響子さんの中に、あなたがいて……そんな響子さんをおれは好きになった。だから……あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と惣一郎さんのお墓に報告する。やはり、そういうものだと思うのだ。でも、ここでは女は最後まで男の中に生き続ける妻に抵抗感を覚え、そういう風に一人の人を思い続けている彼だから好きになった、と言うから、オッ、判ってるじゃん、と思ったがやはりダメで、結局彼は突然海で遭難死してしまう。なんというずるい逃げなラスト!こんなんで感動しろというのか……しかも人を助けようとして、なんていう単純なヒロイズムまでとってつけたように付加しやがって!

そして後に残された手紙というのがこれまたヘキエキするもので、また海に投げ入れようと思った妻への手紙に、君と同じくらい愛する人に出会ったと綴られているわけだ。そんな単純なことで片づけられるものなのか?同じくらい?そんな事何で判るんだ。それぞれの人に向けられる気持ちはそれぞれに違うはずで、そんな量とか重さとかじゃないだろう!妻を忘れられない、ではなく、心の中に妻が生き続けている自分で彼女を愛すればいいのであり、それを許容できない彼女なら、愛し合っているとは言えないのである。両方の女性を同じくらい愛した、なんて平等主義のアメリカらしいものの言い方。

更に言うと、彼は海の男で、彼女は都会の女。だから恋愛が成立しないとは言う気はないけど、恋愛が成就した後、彼らがどういう生活の仕方を編み出すのか、興味があったのに、それに対する逃げの姿勢も気に入らないのである。男を死なせて、もう永遠のロマンティシズムの彼方に葬り去ってしまう安直な決着のつけ方が!後に残された愛の手紙を朗読させて泣かせようとするたあ、何十年前の手法だよ……と言いたくなってしまう。

ケビン・コスナーは想像の演技の域を出ず、可もなく不可もなし。ロビン・ライト・ペン、彼女は何に出てても、主人公の男優の相手役女優、という良く言えば透明な、悪く言えば印象の残らない演技をする女優さん(彼女があの強烈キャラの持ち主であるショーン・ペンの嫁さんだというのが不思議)。例えば彼女が「フォレスト・ガンプ」に出ていたと言ったって、ああ、そうそう!と膝を打つような存在感を持たないのである。しかし、やたらに強烈な個性を押せ押せで出してくる役者ばかりのハリウッド界において、貴重な存在であることは確か。泣きのシーンでの彼女のナチュラルな美しさ、演じかたは大正解で、特にケビンに瓶のメッセージを拾ったことと、それを新聞に載せてしまったことを言えずにバレて、自己嫌悪に陥って友人の前で泣いてしまう彼女はなかなか良かった。

これだけケナシて、それでもこの作品が一つ星ではないのがなぜかというと、もう、ひとえに、ケビン・コスナーの父親役を演じるポール・ニューマンの素晴らしさに尽きるのだ。なんという、彼のカッコ良さ、チャーミングさ、上手さ、存在感の強大さ!新しく息子の前に表われた女性をしっかり捕まえておけ、と息子の尻を叩き、いやらしくない程度に彼女の美しさを賛美する。私なら断然ポール・ニューマンに口説かれたいけどなあ!生まれた時からもう何十年もこの地に住み、海の男であるという風情を漂わせる、キャップをかぶってラフな格好のポール・ニューマンは、その口吻、その表情、何をとってもチャーミングの一言で、もう惚れてしまう。そして息子が死に、飛んできた彼女と哀しみを分かち合う時の、スーツ姿の彼もまた、息をのむほどにカッコいい。穏やかな浜辺で、距離をとってたたずむ彼と彼女が、静かに歩み寄って抱擁するシーンの美しさときたら、もう、このシーンだけで許してやろう(何を?)という気になってしまうじゃないか!まったく、本物の役者ってえのはやはり違うね!彼を見る、ただそれだけの目的でこの映画を観ても充分に損しない。★★☆☆☆


メッセンジャー
1999年 分 日本 カラー
監督:馬場康夫 脚本:戸田山雅司
撮影:長谷川元吉 音楽:本間勇輔
出演:飯島直子 草g剛 矢部浩之 加山雄三 京野ことみ 別所哲也 小木茂光 江原達冶 京晋佑 青木信輔 伊藤裕子

1999/12/30/木 劇場(シアターアプル)
いやー、本当にびっくりびっくり。正規の公開の時は、うん、ちょっとバカにしていたかもしれない。観る気もしないで観なかったのだけど、その後、どうやら面白かったらしいという話をちらっと聞いて、えー、うっそお、あれがあ?と観てもいないのに思い、でもそうなると、やはり気になり……とちょうどそう思っているところに、小鍛冶さんから、「読売新聞でもらった券があるんだけど」とお誘いを受け、一も二もなく応じた次第。

劇場の設備のせいなのか、最初は音声が今一つ不明瞭で、ちょっと気になったが、それも次第に直っていった。ホイチョイ・プロダクションズの原案ということで、今までと比べればぐっと地味な自転車便というテーマと言えども、またオシャレ感覚の映画なのだろうと高をくくっていたのが大いに裏切られる。多分、観客側のそうした意識を充分に判っているのだろう、冒頭登場してくる服飾ブランドプレスをやってるヒロイン、尚美(飯島直子)は全身これバブリーな女で、時代が変わったのも気づかないといった風な、しかし男の金で全てをまかなっているヤツ。あー、こういう女をまだ出してくるかあ、と思っていると、このご時世で、彼女の店はあっさり倒産、何一つ自分の持ち物のない彼女は文字どおり放り出されてしまうのだ。しかも、車で逃げ出した彼女は自転車便(メッセンジャー)の横田(矢部浩之)と接触、彼が足を骨折してしまって、示談の条件として彼の退院までメッセンジャーを引き継ぐことになる始末。……とかなりゴーインな展開ながら、警官の加山雄三の重厚さ(といっても重苦しくない明るさがあるところが味)、メッセンジャーの矢部浩之の抜群の間の可笑しさ(「岸和田少年愚連隊」の上手さはやはりマグレじゃなかったんだな!)で無理なく見せてしまう。

そして彼女がしぶしぶながら訪ねる、自転車便オフィス、トーキョー・エクスプレスは、まさに東京タワーの真下にあるというような抜群のロケーションで、しかしそのたたずまいはボロそのもの(笑)。この辺がね、私はちょっと感動してしまった。木造のボロの、オフィスというより事務所であるそこは、自転車とその部品がゴチャゴチャと並んで、仲間達の写真が所せましとならべられてて、油のにおいがしそうで、使い込まれて油光りしててとてもイイ感じ。そしてここの“責任者”である鈴木(草g剛)が彼女との自転車練習のあとに連れて行く古い銭湯(そこでTシャツや靴下のあとがくっきり出た日焼けにギャー!とばかりに叫ぶ直子サン、ナイス!)や、彼女に提供する入院中の横田の部屋(ここもまた自転車関係のモノであふれかえっている)、そして仕事の後に必ず寄る、軽食バー「P’sダイナー」の、古いアメリカが好きで作った趣なんだけど、おしゃれというよりは懐かしい、くつろげる感じの作りとか、とにかくこれまでのホイチョイ・ムービー(といっても全部は観ていないけど)にはなかった味わいが嬉しいのだ。

逆にそういうあたりが、この映画が以前のホイチョイ・ムービーのようなヒットを残せなかった原因なのかもしれないけど。でも、そうしたリアルな生活の手触りと、抜群のコメディ・センス、自転車便の驚くべき疾走感、そのアクロバティックなワザも素晴らしく、そう、全てが現実感を確かにその肌に感じさせるところがさわやか。汗だくになった彼らがダイナーで口飲みする瓶ビールは本当に本当に美味しそう。尚美は最初、私はこんな所にいるはずじゃないもん、そんな汗臭い野蛮な飲み物!みたいな見栄っ張りから、高級シャンパンなんぞをオーダーするんだけど(しかしそういうものもあっさり出てきちゃうあたりが粋なんだよね。P'sダイナーの主人役江原達冶、イカす〜!)、ついにはたまらずビールに手を出しちゃう。そして尚美がなんだか気になる鈴木が「あの人がいつも飲んでるのを」と頼んでシャンパンを飲んでみようとするのを彼女に見つかり、「違うだろ、マスター!」と押しのけたりするのもカワイイんだよなあー。

ちょっと単純に悪役にしすぎでかわいそうかな、と思われる、自転車便に対抗するバイク便。ここからはじかれてトーキョー・エクスプレスに入ることになる兄ちゃんもいたりして。この兄ちゃん、キンキラな頭していながら、稼いだお金を実家に仕送りするという純朴さが泣かせるのだ。横田の恋人である由美子(京野ことみ)もまた、チームの一員となる。彼女が入ることになるエピソードがいいんだ。もう、こんな仕事やめてやる!と思っていた尚美のもとに横田から電話が入って、今日田舎に帰ってしまう由美子に届けて欲しいものがあるという。しかたなく長距離バスのバス停に向かう尚美。しかしバスは時間きっかりに出た後。渡された封筒からは携帯の着信音が。自転車を猛スピードで走らせて長距離バスを追っかける尚美のカッコイイこと!バスの車体をバンバン!とばかりに叩いて、「止まんなさいよーコラ!」そして由美子に渡したその携帯で何が話されたのか、うんうん、とうなずいてこらえきれず涙を落とす彼女。そして、そのくしゃくしゃの笑顔で「ありがとう」と尚美に言うのだ。それまで、必死になって届けてもありがとう一つ言われない、とぶーたれてた尚美の心にまっすぐに届いたその言葉。そして二人は一緒にバスを降りるんである。あー、久しぶりだなあ、女優さんたちがこんなに素敵に見えたのは。

尚美の活躍で、大手商社、安宅商社の契約を取りつけ、俄然忙しくなるトーキョー・エクスプレス。警視庁を定年退職した加山雄三も、都内の交通事情に精通しているということでメンバーに加わり、走り回る彼らに無線で指示を送るんである。秒刻みの時間と位置関係を瞬時に読み取って指示を出し、荷物の受け渡しをする胸のすくような傑作シーンの数々!「5、4、3、2、1、今だ!」と加山雄三が叫んで、橋の上から書類を落とすと、そこをバッチシのタイミングで走ってくる他のメンバーの手に落ちるなどという、おいおい、そりゃいくらなんでも……というシーンの続出なのだが、まあ、そんなヤボなことはいいっこなし。だって、文句無しにカッコイイんだもの!……と、こういったシーンが繰り広げられるのは主に、バイク便との、安宅商社の再契約をめぐって行なわれたレースにおいて。だから、敵からの妨害もバンバンきて、それをガンガンかいくぐって疾走する自転車のスリムなフォルムとスピード感の美しさに感じ入る。

ここでは尚美が一時、元の職場に戻らされているのだが、仲間の危機を察知した彼女、元恋人のエリート商社マンが止めるのを振り切り、メッセンジャーに復帰するんである。その意気、カッコよさ!横田がまたしても車に接触、そしてまたしても足を骨折し「またあ?」(当然関西なまりで。爆笑!)と天を仰いだところに、黒のタイトスーツですっくと立つ尚美(イヨッ!)。横田の後を引き継ぎ、タイトスカートの横をビリッと裂いて(日本一!)きれいな足をあらわに、こちらも妨害でケガした鈴木から書類をバトンタッチ。「どうして戻ってきたんだ!」と叫ぶ鈴木に、振り返りざま言う彼女の台詞はスローモーションで音声オフにされてるけど「あなたが好きだから!」と読める。うーむ、ちょっとそれはここで言って欲しい台詞じゃなかったけどね。

まあとにかく、そこからの尚美のカッコよさときたら!相手のバイク便に間に合うにはこれしかないと、管制塔の加山雄三が指示するのは、駅の構内を自転車で突破していくこと!もちろん改札も自転車で宙を飛んで!乗り越え、たくさんの人たちが通る連絡通路を疾走し、ついに、安宅商社に着いたバイク便に追いつく。アセッた敵が急いでエレベーターに乗るも、後から乗り込んできた男達がなんだかんだ議論しながら色んな階のボタンを押すもんだから、激怒したこの男、エレベーターの中でつかみ掛かり、押しのけられた拍子に背中で全ての階のボタンを押してしまうのには爆笑!途中でエレベーターを降り、ぜいぜい言いながら階段を登って届けるオフィスにまでたどり着くと、そこに自転車に乗ったまま別のエレベーターに乗ってきた尚美が走り出してきて、見事大逆転、うおー、カッコイイ〜!!

これまでさまざまな映画で、いろんなタイムアクションを見たけど、こんなにドキドキの、そして胸のすく、カッコイイそれを見たことはなかったと思うほど。いやー、飯島直子、予想以上のカッコよさです。オーバーアクション気味のタカビーな女も、イヤミにならずにかわいらしい。「こんな、レースクイーンくずれのオバサン」みたいなことを言われる時の、ムッとする顔すらも(しかしこの言い得て妙な表現!)。大成功の後の祝杯の席で、「あの時なんて言ったんだよ」とニブい、ヤボな質問をしつこくする鈴木に「ウルサイ!」と唇でふさぐ、その直前でストップモーションされるラスト、かわいかったわあー。

そして出色なのが、ラストクレジットで流れる、チームみんなで歌い踊るラップミュージック。これが最高に笑える。これを見ずに席を立っちゃだめだよ〜!もうその最初から面白かったのに、クレジットだというんでさっさと帰っちゃう人がいて、えええ?と思ってしまった。特に矢部氏の可笑しさは当然ながら、ほんと、素晴らしいッ!お腹抱えてしまったよー。きっちりと定石通りに作られた娯楽映画の秀作、いや、もうもう、ほんとに驚きの傑作です。予想外だったから、特に!★★★★☆


メビウスTRANCE
1998年 91分 アメリカ カラー
監督:マイケル・アルメレイダ 脚本:マイケル・アルメレイダ
撮影:ジム・ドヌール 音楽:サイモン・フィッシャー・ターナー
出演:アリソン・エリオット/ジャレッド・ハリス/クリストファー・ウォーケン/ロイス・スミス

1999/8/5/木 劇場(シブヤシネマソサエティ)
八角形メガネなんて、本当にあるのね。萩尾望都の「トーマの心臓」の中でサイフリート・ガストがかけていたメガネ。この中ではクリストファー・ウォーケン扮する、魔女の死体に魅入られた男、もうほとんど目が見えないという彼がかけている。微かに色のついたその八角形のメガネは、何か異様な精神状態を思わせるようで気味が悪い。やっぱりちょっと、普通ではないよなあ、C・ウォーケンって。

主人公であるノーラに扮するアリソン・エリオット。この人って面白いことに、実に死んじゃうキャラが多いよなあ。「この森で、天使はバスを降りた」しかり、「鳩の翼」しかりで、こんどは死なない役かな、と思っていたら、今度は何度も転生を繰り返す、いわば“何度も死ぬ”役回りである。まあ、死ぬのが好きなのねえ、この人。彼女の小作りな顔と痩せた体が醸し出す、どこか軸が不安定な、影の薄さ、幸の薄さを逆に存在感に転化しているような、しんねりとした雰囲気が、そうした役を引き寄せるのかもしれない。

おおお、ノーラの夫役、ジャレッド・ハリスではないか!「I SHOT ANDY WARHOL」で、若き日のウォーホルに扮し、ストーカー女に微かに戸惑いながらも大して動じていないようなところが色っぽかった彼。いやあ、素顔(?)はこんな感じなのね。普通だな……いや、ちょっとやっぱり異形入ってるかな。クリストファー・ウォーケンが異形すぎるから(ほんと強烈よ、この人)彼が普通に見えるのかも。

この夫婦は無類の酒好きで、いつも酒を飲んでいる。酒好きというより、もう完全にアルコール依存症。ノーラの方はフラッシュバックから逃れたいための酒浸りと思えなくもないけど、とにかく医者から完全なる断酒を言い渡される。キリスト教が文化的なバックボーンになっている、主に西欧の国って、酒をことさらに悪者扱いするようなところがあるんだよなあ。神道や仏教的文化を持つ国とは酒に対する距離の取り方が違う。あ、でもフランスやイタリアなんかは水がわりにワインを飲むし、やはりこれはカタイ民族性を持つアイルランドとか、異様なほどの健康賛美のアメリカなんかに見られる現象なのかもしれない。それに酒を悪しきものとして扱う映画だと、それじゃお酒がかわいそうだよ、という飲み方をするんだ……おいおいそれじゃ、味判んないだろう、という感じで、バーボンやウィスキーでも麦茶を飲むみたいにガーッと行くんである。とてもお酒が好きな人の飲み方とは思えない。

怨念ものなんだけど、なんだかちっとも怖くない。確かに雰囲気は満点。デジャ・ヴュのように、前世の悪夢のように、ノーラの脳裏にフラッシュバックであらわれる白っぽく粗い映像、ノーラの故郷の、決して晴れることはないんではなかろうかというような曇天、灯りが点いているのに思いっきり暗い屋敷のだだっ広さ。それらすべての要素と、田舎への長い長い道を車がひたすら走っていくショットなど、その恐怖の雰囲気づくりは「シャイニング」を即座に連想させるのだけど、かの作品がその、車が山道を登っていく、そのシーンだけで、なぜか震え上がるほどに怖かったのに対して、本作は、こうした雰囲気がまるで功を奏してくれないのだよね。なぜだろう……リズム、かなあ。見せ方が単調だといえば単調。

それに“得体の知れないものの恐ろしさ”がないのも一因かも。わりと早い段階でもう“魔女の死体”が登場しちゃうし、その怨念の話も聞かされちゃうんで、あとは展開がほとんど読めてしまうのだもの。それに、その魔女が、ノーラの魂に入り込もうとしているがゆえに、彼女そっくりの姿だというのも、あー、一人二役だあ、などと思わせて、シーンごとに、やっぱり二人一緒に映ってる場面ないや、とか、あ、この後ろ姿はスタントだあ、などと思って見てしまうからさらに。

大体が、魔女というのがファンタジックすぎるのかもしれない。ホラーが怖いのは、それが現実世界に起こるかもしれない恐怖なのだもの。怨念はあるかもしれないと思わせるけど、魔女となるとね……地下室に横たわる魔女の死体だなんて、児童読み物の世界。しかも、その半ばミイラ化したような魔女が生き返っちゃうなんて、「ハムナプトラ」じゃないんだからさあ、などと突っ込みたくもなるのだ。そう言えば、顔半分が崩れたままのシーンなんて、それこそ「ハムナプトラ」のイムホテップ状態だもんね。

あ、“得体の知れない恐怖”といえば、本作の中の子どもたちにはそんな所があった。大人たちが割とキャーキャー言っているのに対して、この屋敷の養子である女の子とノーラの息子は妙に落ち着いて、いや冷めているのだ。すわった目で、じっと見つめている。怖い。女の子はノーラが来てこういう惨劇が起こることを全て承知していたかのような悟りの表情を見せるし、息子の方は、その魔女に恐怖よりも、シンパシイを感じているかのように吸い寄せられ、抱き取られ、消えてしまう(取り返されるけど)。そういやあ、前述の「シャイニング」でも双子の幽霊と、連れてこられた男の子はそうした冷めた怖さを漂わせていた。子供は異世界に近い。生まれる以前の世界にいた時からの時間が大人よりも経っていないから。現実世界でも、子供が理由もなく消えてしまうのって、こんな所に理由があったりしないかな、などとふと考えてしまう。★★☆☆☆


メリーに首ったけTHERE’S SOMETHING ABOUT MARY
1998年 119分 アメリカ カラー
監督:ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー 脚本:ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー/エド・デクター/ジョン・J・ストラウス
撮影:マーク・アーウィン 音楽:ジョナサン・リッチマン
出演:キャメロン・ディアス/ベン・スティラー/マット・ディロン/リー・エヴァンス/クリス・エリオット

1999/3/11/木 劇場(錦糸町楽天地)
なんだなんだこの笑えなさはー!はっきり言って、これがあの素敵な素敵な「ウェディング・シンガー」の興行成績より上行ってるなんて納得いかないんである。あちらのドリュー・バリモアを可愛いと思った目には、キャメロン・ディアスは確かにキュートでも、その完璧すぎるボディがドリューの魅力には到底及ばないんである。まっ、比べる方がおかしいのは判ってるんだけど……。

お下品&残酷ギャグで全編がなっているこの作品。アメリカ人はどうか知らないが、そして日本人でも私以外の観客がどうかは知らないが、とにかく全く笑えない。“メリーに首ったけ”になってしまった男達がみんなヘンで、ストーカーまがいになったり、主人公であるテッド(ベン・スティラー)のゆく先々にギターとパーカッションの二人組が(ごていねいにアコースティックだったり、エレキだったりと種類をシチュエイションで変えている)伴奏してまわったり、可笑しいはずなのになんで可笑しくないんだろう。テッドが高校時代、メリーとプロムに行く直前にやらかす××××をジッパーに挟み込んじゃうドジを、想像させるだけにしときゃいいのにその部分を見せちゃうのもイヤだったし、ホモや知的障害者(メリーの弟ウォーレン。アホ呼ばわりされるわ、実際アホに描かれるわ……)や身体障害者(実際は全くの健常者である詐欺師のタッカーが松葉杖をついてヘンな格好でガタガタする)をネタにしたギャグがギャグにまで昇華しきれてなくて嫌悪感を持っちゃう。言ってしまえば、ジンマシンを持った精神異常者、というのも、イヤな描き方だ。彼、ドムが精神異常者だと判る前、「ストレスがたまるとジンマシンが出るんだ」と言い、「ためたままデートするな」とテッドにマスをかくことをすすめる場面では、あー、この人はじゃあ、タマってるんだ(笑)、と思って面白かったのに、彼がほんとの靴フェチのヘンタイで、ジンマシンがどんどんひどくなって目の下に白にきびが出来た顔でメリーに迫るに至っては、先のギャグもどこへやらの笑えない嫌悪感でガックリ。

犬にドラッグを食べさせて危うく殺しかけるところも、犬の硬直した感じが変にリアルなせいか、いやあな感じの方を強く与える。“この映画は動物に害を与えていません”というラストクレジットの一文のほうがよっぽどギャグ。しかし、害を与えてなくったって、こういう残酷描写の方がいただけない気がするけど。チラシ写真や宣材に使われている、メリーの前髪がヘアジェルもどきでピンと立ってる、そのヘアジェルの正体を知って、吐き気がしてしまう。うー、いくらなんでもこれはちょっと行き過ぎだよ!

まともな役をやっていた時を思い出せないくらい気がつくとヘンな役ばかりやってるマット・ディロン、盗聴してメリーの理想の男性像に先回りするキャラ、これももっと笑えていいはずなんだけど……。先述したイカサマ身体障害者であるタッカーはそれが露見した時点でもう問題外。ラストだって、元カレとヨリを戻したまんまで終わった方がまだよかった。メリーと結ばれるテッド役のベン・スティラー、まるで魅力を感じないのもツライ。彼が高校時代、歯に歯列矯正をして、なんか「ウェインズ・ワールド」のガースみたいな冴えないぶりで(あっ、でも、ガースは私、好きだったけど。)、その彼をメリーが「シャイで可愛かった」とうっとりと語る場面、実はメリーが一番ヘンな奴で、類は友を呼んでいるんじゃないか、と思わせる場面だけはちょっと面白かった。あと、ラストクレジットで、流れる歌を各シーンの各キャラがミュージカルよろしく歌ってるのも面白い★☆☆☆☆


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