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「は」


1999年鑑賞作品

HEARTハート/HEART
1998年 84分 イギリス カラー
監督:チャールズ・マクドガル 脚本:ジミー・マクガヴァン
撮影:ジュリアン・コート 音楽:スティーヴン・ウォーベック
出演:サスキア・リーヴス/クリストファー・エクルストン/リス・エヴァンス/ケイト・ハーディー/アンナ・チャンセラー/ビル・パターソン/マシュー・リス


1999/11/12/金 劇場(シネ・アミューズ)
愛というよりは、独占欲、激情、妄想。そしてまたしても血が絡む愛情の物語。「ポーラX」の姉弟のように、“……かもしれない”、という曖昧なものではなく、はっきりとした血のつながりが提示される血の呪い。

マリア(サスキア・リーブス)が16の時に生んだ子だというのだから、マリアはまだ34歳。女として花盛りなころを息子とたった二人きりで過ごしてきた。どうやら私生児らしく、彼女の結婚歴とか、子供の父親に関して何一つ語られることはない。まるで、彼女と息子が運命の相手同士だったかのような、父親など最初から存在せず、突然必然のように二人現世に現れ出て生きているかのような。その息子が唐突に交通事故に巻き込まれて死んでしまう。彼がドナーカードを持っていたため、心臓が適合したゲイリー(クリストファー・エクルストン)に移植されることになる。

子供のいる人への提供を、とマリアが望んだにも関わらず、ゲイリーとその妻、テス(ケイト・ハーディー)に子供はいない。夫が心臓疾患でセックスできないためにテスは作家、アレックス(リス・エヴァンス)との浮気にふける。後にこの夫婦と近づきになったマリアはテスに言う。「ピルを飲んでいるのね、子供は欲しくないの?」と。

なるほど、マリアは“マリア”なのだ。セックスすることなく子供、キリストをさずかった“マリア”。そう考えるとこれはかなり皮肉な解釈。ゲイリーに宿っている息子の心臓の鼓動を聞き、マリアは言う。「鼓動を聞けばあの子だと判る。それは写真でも記憶でもなく、血と肉を分け、私の子宮にいたものなのだから」いつまでも息子の死から立ち直れないマリアは「幼い頃に死んでしまっていたのなら諦めがついたのかも知れない。でもあんな強くてたくましい、美しい男になってから死んでしまうなんて!」と泣き叫ぶ。“マリア”なんだとしたら、子宮(ヴァギナに通じる意として)に存在した“男”は息子ただ一人。若くして不合理に死んでしまった点で息子にキリストを想像させるのもおかしくない。かつて彼女の子宮にいた“男”=息子はそのからだ全体で、この時点ではその息子の“一部”が生き長らえているというしかけもエロティックではないか。

処女懐妊したマリアは汚れなき、という点で、いわば理想の女性像のわけだが、あの「司祭」で、やはり宗教と性(ゲイと、ここでも近親相姦!)をからめた脚本家(ジミー・マクガヴァン)だということで、このシニカルな解釈に妙に確信が持ててしまう。聖母マリアにとっての唯一の“男”が息子であるキリストだったなんて。マリアはゲイリーに、息子が幼かった頃のある夜、寝苦しそうにしていた息子が勃起していたのを見て、口で処理してやった話までする。……うん、正直そこまで言わなくたって、彼女の息子に対する、世間一般的に見れば“常軌を逸した”愛情はよく判る。

一方、こちらもやや常軌を逸するほどに妻、テスを愛するがゆえに必要以上の嫉妬にかられるゲイリーと、愛よりも子供よりも満足いくセックスが大事、とばかりに奔放なテス。ゲイリーは心臓を移植されてから体力トレーニングに精を出すようになり、テスとのセックスにもやたら積極的になる。ゲイリー曰く「提供者は好色な奴だったんだ。やつの性格が自分に移った」マリアの息子は、次期オリンピック候補とまで言われたボクシングの優秀な選手だったわけで、まさしくボクサーさながらにトレーニングをするゲイリーに乗り移ったと言える描写、ならば、“好色な奴”というのは?この時にまたしても思い当たるのだ。おそらく、母親、マリアとの関係を。マリアの家で彼ら二人の写真を見たゲイリーは言う。まるで姉弟みたいだ、と。マリアは母親というには若すぎるし、美しすぎる。……これはうがち過ぎではないだろう。大人しい主婦のように見えるニットのいでたちも、体の線が出てやたらなまめかしい。

物語自体は思いもよらない展開へと大きく動いていく。そもそも冒頭にすでに、血だらけのマリアが、息子、いや、その前まではゲイリーのものであった心臓を入れているとおぼしき鮮血したたる紙袋を持って列車に乗り込み、下車し、息子の墓にそれを戻そうと掘返しているところを警察に連行される場面で始まる。観客はてっきりマリアが心臓被提供者を殺し、その心臓を手に入れたのだと思い、その結末に向かってひたすら走っているのだと思い込まされているのだが、実際マリアは誰も殺していない。嫉妬にかられたゲイリーがテスとアレックスのもとに乗り込み、あやまってテスを殺し(オノで……やめてくれえー)、アレックスをも殺し、その場面に居合わせたマリアの前で首をかき切って自殺する……その前の場面で、ゲイリーの心臓は息子のものではないと(おそらくマリアにつきまとわれているのをいやがったテスの頼みによって)移植した医者から告げられるマリアがその医者の顔を発作的に切り付けたメスによって。しかしマリアは三人とも自分が殺したと主張し、監獄行きとなる。……なんだろう、もう生きる望みをなくしたんだろうか、などと思いながら見ていると、まだ場面は続いている。刑務所の中を歩くマリア、ふとひとつの独房の前で立ち止まり、ふいにドアを開ける。息子が巻き込まれた交通事故を起こしたドラッグ中毒の女が、またしてもドラッグを鼻から吸引している。「ニコラ・××××(名字忘却)!」女の名前を叫ぶマリアの後ろ姿で唐突にカットアウト。

彼女はどの場面で、この、息子を奪った女に復讐できるかもしれない、と思ったんだろう。あるいは、息子の心臓を取り返したうえで、この女を……ということで、全てが何もかも計算ずくだったのか……いやいや、それこそあまりにもうがち過ぎだ。

ゲイリーが飛行機を操縦する設定になっており、冒頭から、そして各場面で見事な空撮が非常に印象的。この空撮も含めて、ショットがことごとく切れ味がいいのだ。マリアが血だらけの紙袋を抱えて歩くショットですら。ああ、この血だらけのマリアの場面は非常に画になる(という言い方もおかしいだろうか)。この映画を一発で印象づける秀逸なショット。そういう画がある映画は意外になかなかない。★★★☆☆


ππ
1997年 85分 アメリカ カラー
監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:ダーレン・アロノフスキー
撮影:マシュー・リバティック 音楽:クリント・マンセル
出演:ショーン・ガレット/マーク・マーゴリス/スティーヴン・パールマン/ベン・シェンクマン

1999/9/7/火 劇場(シネマライズ/レイト)
なんかね、もう、いろいろと刷り込みされてしまっていて、観る前から。シネマライズの周辺の道路には“π”の文字がいたるところにペイントされているし(しかも均一の細かい文字で!……これはアメリカでの公開の時にもやったらしい)、色を何パターンも変えて次々と出てくるチラシは変形版で、そのおもてには3.14……とπの数字がぎっしりとデザインされ、予告編はパラノイアっぽく見てるだけで偏頭痛に襲われそうで(本編もそうだ)。この作品のHPがまた凄いんだ、恐ろしく濃密。思わず引き込まれて1時間近くも読みふけってしまった。このアロノフスキー監督が「TOKYO FIST/東京フィスト」に、それ以前に主演のショーン・ガレットが「鉄男」に衝撃を受け、塚本晋也監督に大いなるリスペクトを捧げているんだそうな。こんなところにも塚本ジュニアが!

数字にとりつかれた男、マクシミリアン・コーエン。世界の全ては数字で解明できると信じている。曰く、1.数字は大自然の言語である。2.私たちのまわりの全てを数字によって置き換え、また理解することが出来る。3.どんなシステムの数字も、グラフにするとパターンが生じる。……すなわち、大自然のあらゆる所にパターンは存在する。のだそうだ。この彼の主張、というよりほとんど怨念めいた固執観念が、何度も繰り返されてモノローグされる。何度も繰り返されて、というのはこの映画の特徴で、このマクシミリアン……マックスが偏頭痛を抑えるための何種類ものクスリを飲む、小型砲のような(!)皮下注射を打つ、部屋のドアに取り付けた幾つもの鍵を順にかけていく、といった場面が繰り返し現れる。それも細かくカットを割った、サンプリング的な手法で。……そうだ、「トランスミッション trancemission」も同じような手法を使っていたけど、あちらが圧倒的に退屈で面白くなかったのに、なぜこの「π」はそれが恐ろしいまでの衝撃度を持ってこちらの脳を刺激してくるのだろう。たたみかけてくるようなリズムのせいか。画面にひっきりなしに現れる数字や記号や図面がマックスだけでなく、こちらの脳みそも引っ掻き回される心地がする……そのせいか。

脳みそを引っ掻き回してくるものはまだまだある。自作コンピューターの、マシンというよりモンスターのような造形、マックスがすべての究極だと到達する、完全形のらせんとそのらせんからできている様々な有機物たち、こめかみに何かが埋め込まれたような跡、それをほじくりだそうドリルをつっこむイメージ、謎のマイクロチップ、コンピューターにとりついたねっとりしたバグ。人間を妄想狂にするための映画なのではないかと思わせるほどのカットの連続!

脳みそが引っ掻き回される……それがもっと具体的に示されるのが、マックスが見る幻想(悪夢?)だ。閑散とした駅のホームの階段に、まさしく“生きている脳みそ”が置いてある。ふるふると震えて、鼓動すらしていそうな、生々しい……それを、彼はおそるおそる、そっとつつく。その瞬間に彼の頭に電流が走るような激痛が走る。それにもかかわらず、まるで魅入られたような彼は何度もそれを繰り返す。そして白くバーストする。そしてまた……。

彼の唯一の友人といってもいいような、かつてはπにとりつかれ、落ちぶれた数学者、ソル。彼のもとで碁を打つシーンが印象的だ。まさか碁が出てくるとは思わなかった。実際には中国が起源だろうが、劇中では日本のものとして言及されていたよう。碁はゲームの中で最も難しいと言われている。複雑で、一目見ただけでは勝敗が判らない知的ゲーム。この白と黒の碁石のコントラスト、こんなに美しかっただろうか、と思わず目を見はる。

そう、本作はモノクロームなのだけど、これまで見たどのモノクロームよりも鮮烈な印象を与えるのだ。なんでもネガではなくてポジを使うことによって、黒か白しかない、灰色のない映像を作り出したのだという。本当にこのびっくりするほどのコントラストの強烈さは……!黒はあくまで黒く、そして暗く、吸い込まれそうなブラックホール。白はあくまで白く、全てを跳ね返してしまう光、あるいはホワイトホール。凄い。本当に凄い。

マックスはコーヒーショップでしつこく話し掛けてくるレニーによって、古代イスラム宗教の文字が全て数字で置き換えられる話に興味を持つ。彼がひたすらコンピューターにむかって究極の数字を追い求めていると、このコンピューターは、ふと200桁あまりの数字を吐き出して、自壊してしまう。この216桁の数字……ソロもまた到達して、恐れ、数学をやめてしまった数字であり、その古代宗教の最後に到達する、神に近づく数字であり、それどころかすべてのものに通じる数字……すべてのもの……イコール、神、だ。彼の頭脳で株式市場をその手にしようとする追手や、神に近付こうとするその宗教一味らがマックスを追いつめる。しかし、彼は、“到達”してしまったのだ。それを見てしまえば、あとはもう何もない。全てを壊し、彼は今までなかった、穏やかな日常を手にする。数字など、まるで遥か彼方になったような。ソルは再び216桁の数字を目にすることで、自死を選んでしまった。ある意味マックスが到達したところも境地も似たようなものであったのかもしれない。

ただ、こんな風に明快な展開をつけてしまうのはちょっとツマラナイかな、という気もする。ある種、不条理な面白さのままずんずん進んでいってたのが、中盤当たりから、そのミステリアスな数の論理に理屈や結論をつけようとして、果てはアクション映画ばりのおっかけっこまではじまって、神を結論としてしまう。確かに216桁で神があらわれるとか、数字による言語とか、凄く面白いとは思うんだけど、カフカもかくやと思われるほどの前衛的なスリリングさがあったから、もうそのまま空中分解して、放棄しちゃったらさらに面白かったのに……なんて、あまりにも無責任すぎる言い方なのは判ってるんだけど、やっぱりきっちりしたストーリーや教訓をつけたがるところはアメリカ映画的だなあ、と思ったりして。★★★★☆


ハイ・アートHIGH ART
1998年 101分 アメリカ カラー
監督:リサ・チョロデンコ 脚本:リサ・チョロデンコ
撮影:タミー・ライカー 音楽:シャダー・トゥ・シンク
出演:アリー・シーディ/ラダ・ミッチェル/パトリシア・クラークソン/ガブリエル・マン/ビル・セイジ/アン・ドゥオン

1999/6/18/金 劇場(シネマライズ)
これがアメリカ映画だなんて、ちょっと信じられない。そりゃアメリカで作られる映画の数が膨大なのは知っているし、その中には(特にインディペンデント作品の中には)ヨーロッパを匂わせるような詩情豊かな感性を持つものも多数見られるけれども、この映画はそういうものとも違う。とんがった感性を持ちながら柔軟で、固定観念にとらわれておらず、エロティックでありながら突き放した視線を持っている。この作品を気に入ったというジャン=ジャック・ベネックスが“どの映画とも似ていない”と評したのもうなづける……どの映画とも、というよりどの国の匂いも持っていないような映画。

いわゆるレズビアンを取り扱っていながら、印象はそこにとどまらず、かといって写真というアートを印象づけるわけでもなく、人の感情も焼き付けられる直前に冷酷に引き離されて宙に浮いたまま終わる。劇中に出てくる写真の出来不出来が非常に微妙なところで決定され、その差違を見せられるこちらに、ああ、そうかもしれないとあいまいにうなづかせるのと同じ感覚で、人の感情もまた揺らいでいる。傑作だと言われた写真は傑作に見えるし、薄っぺらだといわれる写真は薄っぺらに見えるけれども、じゃあ何が違うのかというと、どちらもおなじプライヴェートフォトであり、その価値の決めかたはひどくあいまいで、人の感性で図られるだけのものなのだ。この映画全体の印象が、それを揶揄しているもののように思えるのである。

ニューヨークのフォトマガジン「フレーム」で憧れの編集の仕事に就いた若きヒロイン、シド。水漏れの原因を尋ねに行った上の階に住んでいたのは伝説の写真家、ルーシー。彼女の写真家としての存在は知らなかったシドだけれど、家中に貼られたプライヴェートフォトの魅力にいっぺんで惹きつけられる。……いやシドが惹きつけられたのは最初からルーシー自身だったかもしれない。あるいは彼女の部屋の鬱屈した雰囲気。同棲している今は堕落したドイツ女優、その仲間たちが跳梁跋扈しているといった感のあるヘロインの充満した暗い空気。その時にはレズビアンだということをルーシーは明かしてないけれども、彼女がレズビアンだということはすぐに首肯される。変な意味ではなくて、レズビアンの女性って……特に男役の方のレズビアンの女性って、どこか共通したものを感じるのだ。なんだろう、「バウンド」のジーナ・ガーションもそうだし……。ちょっと例えは悪いけど、宝塚の男役の人みたいな感じだろうか。

演じるはアリー・シーディ。ぶっ飛んだ。彼女といえば(古いけど)「ショート・サーキット」である。あれはハリウッド娯楽作品のように見えてナカナカのハートフルな映画で私は好きだったのだけど、あれでロボットと恋するヒロインだった彼女。それっきり忘れていたけれど、あの毒にも薬にもならないようなティーン女優だった彼女が、こんな物憂げな、けだるげなレズビアンのフォトグラファーにピタシとはまるなんて!ヒロインのシドを演じるラダ・ミッチェルもロリ入ってて可愛らしいけれど、この作品では断然このアリー・シーディに釘付けである!監督であるリサ・チョロデンコもまたレズビアンなのだそうだが、写真で見るチョロデンコ監督はそのけだるげな感じがこのルーシーによく似ているのだ。

かつて商業写真の世界に疲れて写真を撮らなくなったいうルーシーは、シドの誘いになかなか首をたてに振らないのだけど、彼女の中に、シドを撮ってみたいという気持ちが働いて、シドを専属の担当編集者にすることを条件に「フレーム」のカバーを撮影することを承諾する。しだいにルーシーに惹かれていくシド。同棲している男性もそのことに気づいて彼女のもとを去っていく。ごくごく自然にキスを交わし、撮影を行うという別荘に同行しておぼつかない手つきでルーシーをおそるおそる愛撫するシド、彼女をいとおしげに見つめるルーシー。その晩がすぎ、シーツにくるまるシドを、そして自分とシドのツーショットを次々にカメラに収めていくルーシー。ここで見せるシドの当惑したような、陶酔したような、紅潮した頬の表情がなまめかしい。

同棲している恋人グレタとシドの間で、そして頑迷な母に悩まされるルーシーが、グレタとともに普段やっていないヘロインを吸引するシーンから、その明朝、シドに唐突にルーシーの死が知らされるに至り、ラストは出来上がった「フレーム」の中の、永遠に封じ込められたシドとルーシーの蜜月が映し出される。声もなく涙を落とすシド。はたしてルーシーはなぜ死んでしまったのか?慣れていないヘロインの急激な摂取のせいなのか、それになぜヘロインを吸おうと思ったのか……シドとの房事の時には、シドから(ヘロインの力に頼らない)純粋な関係でいたいと言われてドラッグを投げ捨てたルーシーだったのに……。あるいは彼女の死はグレタとの心中なのか?シドにルーシーの死を告げる、ルーシーやグレタの仲間であった男性は、グレタのことについては何も言っていないのだけど……。

そう言えばルーシーには生気が乏しかった。写真を撮るのも、シドを見つめる目も、グレタに対しても、時々激昂したような様子を見せる時でさえ、どこかに青春の情熱を置いてきてしまっているような感じがあった。彼女が写真を捨て、隠遁生活をおくっている時に、ふと飛び込んできたシドという新鮮な果実を、本当に愛していたようにも見えたけれども、その実ルーシーは最初からカメラのこちら側からシドを眺めていたのかもしれず……。だからといって本当に愛していたのがグレタだったかというとそれも??なのだけど。

プライヴェート・フォトの定義のゆらぎとでも言おうか、愛する人を写真に撮る、撮られるという親密さ、でもそれはやはり表現手段であり、私生活であると同時に写真にされ、さらに雑誌のカバーを飾ったりするととたんに商業的、仕事的意味が優先されるに至る。もちろん被写体と撮影者の関係性の深さがその写真に力を与えているのだけれど、写真のシャッターを切る時には二人の間には距離がある。タイマーを使って二人同時の写真を撮る時でも、意識はカメラのレンズとシャッター音に向けられている。

彼女らのセクシュアリティのゆらぎもまた同様。シドは特にそうだけれど、彼女らにはいわゆるレズビアンとしての特別な意識はない。ストレートの人がその性的嗜好を特別考えていないのと同様に。ただそれは、ここでもシドが特にそうなのだけど、レズビアンもストレートも、自由に、軽やかに飛び越えているように見えて、その実彼女自身の存在意義がゆらいでいることをも意味しているのだ。憧れの編集者にはなれたものの、まだ編集アシスタントという未熟な自分、彼女の恋愛の仕方もまたいまだ、頼れる相手を求めている段階である。ルーシーに対して純粋な恋だけの感情ではなかったのは、ルーシーと寝る段になって「あなたに恋しそう」と言う台詞でも明らかで、彼女は野心や打算の方が大きく働いていたとも言えるのだ。……そう考えるとあるいはルーシーの突然の死もそうしたことが引き金になっているのかもしれないのだけれど……。いずれにせよ、恋愛でも仕事でも突然中空に放り投げられたようなラストのシドはかなり可哀想かもしれない……。

暗いアパートの中のドラッグパーティ、水漏れする陰うつな湿り気、妙に整然とした編集室の冷たい感覚、光が満ち溢れているのになぜか沈んだ空気の別荘、……インドア撮影の陰影が、これまたいわゆるハリウッド映画のベタッとした撮影と全く違って、トラウマ的な強い印象を残す。★★★★☆


ハイロー・カントリーTHE HI−LO COUNTRY
1998年 114分 アメリカ カラー
監督:スティーヴン・フリアーズ 脚本:ウォロン・グリーン
撮影:オリヴァー・ステイプルトン 音楽:カーター・パーウェル
出演:ウディ・ハレルソン/ビリー・クラダップ/パトリシア・アークェット/ペネロペ・クルス/コール・ハウザー/サム・エリオット/ダーレン・バロウズ/ジェイコブ・ヴァルガス/ジェームズ・ギャモン/レイン・スミス/カティ・フラド/ジョン・ディール

1999/12/3/金 劇場(シネマライズ)
サム・ペキンパーが映画化をのぞみ権利を取得するも、その夢かなわなかった小説を、スコセッシがスティーブン・フリアーズに監督を依頼して映画化を実現したという企画。なのでこれは遅くとも70年代までには製作されなければならなかった映画なのだ。90年代も末になって突如として現れたこの“西部劇”にどう対応していいか判らない。カウボーイ魂を宿す男と、その男にホレる従者のような若者、男と弟との兄弟の愛憎、女は母親か娼婦(的な女)であり、その娼婦もいずれ母親となり、子に愛情を注ぐ。いいんだけど、なんにも悪いことないんだけど、こうした作品を新しく作る意義があるのだろうか。必要とされた時代に多くの秀作を残しているのに、そして、今はそんな美しい人間関係は幻想にしかすぎないと判っているのに。だからこそ私たちは過去の西部劇の秀作を観て、昔ならこうした理想型があったのかもしれないと思いこそすれ、現代においてそうしたものが作られることには疑問を抱くしかない。

時は第二次世界大戦後、ところはニューメキシコ。ま、時代からいえば、西部劇にはちと新しいのかもしれないが。だからウディ・ハレルソン演じるビッグ・ボーイは“最後のカウボーイ”。押し寄せる近代化の波に逆らい、昔のスタイルのまま牧場を経営、その男気で人を、女を惹きつけるも、その男気ゆえに命を落とす。彼に憧れるピートにビリー・クラダップ。ビッグ・ボーイの恋人である人妻、モナ(パトリシア・アークェット)に心揺れ動き、昔からのガールフレンド、ジョセファ(ペネロペ・クルス)を傷つける。モナに気があるんだったら、さっさとジョセファに正直に言えってんだ。ジョセファはとうに気がついているのに、ピートはまるでジョセファを滑り止めの安全パイのように扱う。心では他の女を思いながら、平気で彼女に愛していると言い、抱く。“平気”ではないんだろうけど、このピートが純な男のように描写されるのは違和感がある。いわゆる“西部劇”において、女は男の慰め役でしかないからだ。ジョセファも、そしてモナも結局はそう。西部劇が数多く作られていた時代ならいい。いわゆる西部劇の“型”があって、そうした女性像もあるいは男性像もステロタイプ化されてて(それはいい意味でも悪い意味でも)、それがお約束とみんなが承知していたから。でも現代ではそうはいかない。数多い西部劇の中の一作ではなく、ひとつの劇映画作品として観られてしまうのだから。

そのモナを演じるパトリシア・アークェットは絵に描いたような娼婦的女だ。男が自分に気があることを充分に自覚している。判った上で残酷なことを言う。それでいて恋人に対しては従順で、愛に生きる女。ジョセファは無邪気でけなげ、恋人が他の女を思っていても彼から離れられない。彼女もまた愛に生きる女。ケッ!である。女はみんな愛に生きるとでも思ってるのか。まったく、不公平だよなー、男同士の友情は恋愛以上に崇高なものとして描かれるのに、女は愛、というより庇護にしがみついている存在なのだもの。

土地を牛耳る男、ジム・エドとその手下たちとの確執、モナの夫との争い、それでもビッグ・ボーイはなんたって、“カウボーイ魂を持つ男”だから、くじけない。数々の障壁を乗り越えて明日はモナとの結婚式という日、実家を訪ねたビッグ・ボーイは、ジム・エドの手下となった彼の弟、リトル・ボーイ(コール・ハウザー)の怠惰な生活を叱責し、日ごろから優秀な兄に対する愛憎がつもりつもっていたこの弟によって射殺されてしまう。リトル・ボーイの行為は愚かだけれど、彼が一番複雑な内面を持つキャラだったのかもしれない。彼がジム・エドの手下となったのも、兄を“射殺してしまうほど”愛していたのも、多分、ピートのせいなのだ。途中から兄と自分の間に入ってきたピート。そして自分よりも兄の信頼を勝ち取ってしまったピート。リトル・ボーイは多分根っからの“弟気質”。ビッグ・ボーイの代わりになる人を欲してジム・エドの下についたのかもしれない……。

ビッグ・ボーイの葬式も終わり、ピートは新天地を求めてこの地、ハイロー・カントリーを去る。モナのお腹にはビッグ・ボーイとの赤ちゃんが宿っており、彼女はこの地でビッグ・ボーイとの思い出を胸に、「絶対に男の子」だという子供に彼を見つめながら生きていくのだろう。あーあ、だよなー。結局女の幸せは結婚か子供かなんですかね?やだやだ。ジョセファがどうなるか描かれないのが気になるが、ピートは去るのだし(連れてったりするなよ)彼女は自分の道をしっかり歩んで欲しい。

地平線がうっすらと直線に走る広大すぎるほど広大な雄大な土地、そこを無数の牛を追って馬を駆る男たち。まっ、確かに美しいわな。ウディ・ハレルソン、なんか妙に若く見える。まるで20代みたい。以前より若く見えるのは私だけ?ちょっと甘すぎるマスクだけど、唐突に死んでしまう衝撃と、馬を駆るしなやかさは“最後のカウボーイ”にふさわしい美しさ。★★☆☆☆


白痴
1999年 146分 日本 カラー(一部モノクロ)
監督:手塚眞 脚本:手塚眞
撮影:藤澤順一 音楽:橋本一子
出演:浅野忠信 甲田益也子 橋本麗香 草刈正雄 原田芳雄 藤村俊二 江波杏子 あんじ

1999/11/15/月 劇場(新宿ピカデリー3)
昨今の日本映画に多い白痴的ヒロインはキライだが、まあ、これはしょうがない。もともとの原作からしてそうだし、タイトルロールだからなあ。と言いつつ原作は未読なんだけど。戦争下というのはそのままだろうけど、主人公の伊沢(浅野忠信)が国営テレビ局、メディア・ステーションで働いているというのはいくらなんでも脚色なのだろう。しかし、そのテレビ局の近代的な描写のほかは、まさしく昔の日本である、長屋、バラック、狭い路地、庭に飼ってるアヒルだのブタだの。そこに住む人々のいでたちも昭和初期の感じ。今はない、家の中や路地の奥にあった暗闇や影が確かに存在する。それが大きなポイント。伊沢が白痴女、サヨ(甲田益也子)を囲うのはまさしくその部屋の中の暗闇と影、押し入れの中なのだもの。おびえて逃げてきたサヨを押し入れの中に発見するシーンから、そこから出ようとしない彼女と一緒に押し入れで一晩過ごす伊沢、さらに原稿を書く伊沢の後ろで、押し入れに腰掛けるサヨが手と足を白く浮かび上がらせたまま、首で見きれていて胴体が真っ暗闇というちょっとゾッとさせるショットなど、印象的なシーンが多い。

この伊沢の住居環境と、仕事場、メディア・ステーションとは本当にまったく違う、二つの異世界。その二つの世界があまりにも乖離し過ぎていていささか戸惑う向きもあるのは正直なところ。しかしその間を伊沢を演じる浅野忠信のアナクロ的、近未来的、どちらにも通じる顔立ちと細身の身体が違和感なくつないでいく。それにこのメディア・ステーション、ただ近未来的というにはちょっと違う。ファシスト的なディレクター、原田芳雄が君臨する様はまさしくナチのようだし、超人気アイドル、銀河(橋本麗香)初めステージで歌い踊る女の子達はオリエンタルなメイクや衣装を施され、テレビ画面の字幕には中国語。伊沢はこちらの世界では銀河に翻弄される。全く喋らず、常におびえているサヨとは本当に対照的に、喋りまくり、伊沢を翻弄し、誘惑する銀河。そう、彼女はやたら哲学的な?ことをまくしたてるのだけど、なんだか何一つ意味をなしていないようにも聞える。女王のように振る舞い、すべての人にかしずかれながら、ただひとり、静かに銀河を見据える伊沢を恐れる彼女の、強烈な孤独感が重い。

全編、伊沢のナレーションで進んでいくのだが、ちょっとこれが……。浅野忠信、確かに個性的な声と喋り方なんだけれど、ナレーション向きではないのだもの。ナレーションの度に……うーむ、と思ってしまう。ああこれが、田辺誠一や上川隆也の声だったらなあ!なんて……。

サヨをどこからか連れてきた、伊沢の近所に住む“気違い”の男、木枯(草刈正雄)がいい。あの濃いめの顔を白髪まじりのザンバラ髪で隠し、伊沢の間借りしている家の庭に忍び込んでブタにイタズラ書きをするなんてことのほかはいたって静かで、石に顔を描いたりして過ごしている。「石と人間の違いが判りますか。人間には顔がある、石にはない。それだけのことです。サヨには顔がないのです」と言う。時々奇行をやらかす以外は、この男を気違いだとする要素はない。それどころか一級のアーティスティックな、あるいは本当の意味での哲学的な空気すらまとう。またしてもここに、「まひるのほし」なぞを思い出し、才能をひとかたにささげた人間の方が、いわゆる普通=平凡な人間よりずっと価値が上なのではとつらつら考えてしまう。ところで、男の場合は“気違い”で、女だと“白痴”なのかなあ?そういうわけではないのか……。

なんといってもラスト、空襲下を逃げ惑うクライマックスが圧巻。手塚監督、これがやりたくて撮ったんじゃないかと思うほど。炎の爆発、炎上のたびに、壮大なオーケストラ音楽が重なる連続ワザ、地の果てに逃げ延びた伊沢とサヨが石化していき、“神の住む山”からマリア観音のような光り輝く巨像が現出する。なんという大胆な表現。当然ながら完全に作り物なんだけど、不思議と圧倒的な存在感を、圧迫感をもって迫ってくる。

ところでなんでこれR指定受けてんの?やっぱ“気違い”“白痴”だからかなあ。そうだとしたら……あほらし。★★★☆☆


舶来仁義 カポネの舎弟
1970年 88分 日本 カラー
監督:原田隆司 脚本:原田隆司
撮影:吉田貞次 音楽:八木正生
出演:若山富三郎 山城新伍 渡辺文雄 グラシェラ 大木実

1999/6/22/火 劇場(新宿昭和館)
な、なんじゃ、こりゃ!?こ、これ、本当にマジに、大マジにやっているのだろうか!?恐ろしくフザケた、おそるべきオバカ映画だ……不勉強にも私はまったくこの映画の存在を知らなかったのだが、さらに恐るべきことにこれは“カポネの舎弟”なるシリーズになっているらしく、これはその第一作めで、さらに恐るべきことに第二作で終了しているらしい(笑)。大体が“舶来仁義”ってサブタイトルだけで大ウケである。本当ならこんなん★★☆☆☆あたりにしてやろうかというほどのサブイボものなのだが、あまりのアホさに逆に感心してしまったのでもう一つ献上である。

何がアホって、“アル・カポネのもとで修行をつんだ日系二世の殺し屋”ってとこでまず大アホである。その主人公、カポネ栗山が若山富三郎で、彼が引き連れている二人の子分フランクとジョオ(名前だけでもアホだが、ジョーではなく、ジョオ、というのが更に可笑しい)が山城新伍と渡辺文雄(どっちがどっちか忘れた)。なんと彼らは日本語を喋れないという設定で、日本で仕事をするにあたり、ここからは総て日本語で喋る、と言い合うのだが、どう聞いてもアホな外国人のマネをしているお笑い芸人といったケッタイな喋りで「オー、ビューティフルなフジヤマね」だの「ミルク飲むのトゥーマッチでお腹ゴロゴロよ」だのと、笑っていいんだかなんなんだかのスバラシサなのだ。中でも一番悪乗りしているのが予想通り山城新伍で、彼がこのケッタイな作品の企画を通したんじゃないの?と思うほど。

そうそう、ミルクがトゥーマッチ、というのは、若山富三郎扮するカポネが酒が飲めなくて、いつでも牛乳を飲んでいるんだけど、日本酒を入れるような大徳利に入れた牛乳を口飲みしたり、ブランデーグラスに入れた牛乳を手の上で転がしながら飲んだり、「寝覚めのミルク」と言ってテーブルの上に用意している牛乳をカクテルグラスに入れて飲んだりと、アホ大爆発なのだ。そしてお腹ゴロゴロ鳴らしてトイレに駆け込むのだが、「ジャパニーズスタイル、ミー、ノーよ」と言うわけで、肘掛けを便座の両脇に据え、即席の洋式便座を作るあたりも大笑いである。

大体が冒頭から馬鹿まるだしなのだ。もう、モロ007ノリのオープニングで、つけまつげに超ミニワンピの国籍不明美女がパンツ見せながらピストルをぶっ放し、その銃の先に登場人物の顔が丸く切り抜いて現れる。しかもその切り抜きの中でにやりと笑って見せる、このバカ三人集!

そして登場する美女、これがなんとFBI捜査員というんだから、もう抱腹絶倒である。この美女にあっさり陥落し、一緒に東京見物に出かけちゃうカポネ御一行様。行った先はどうやら後楽園ゆうえんち(笑)で、頼むからギャングの服装の男三人が一緒にコーヒーカップに乗るのはやめてくれえ……。映画館にも入っちゃったりする。そこでは何と若山富三郎主演のモノクロ時代劇が上映されていて、カポネ(つまり若山富三郎)が「ナイスな役者ね」と自画自賛するのを「ノーノー、三文役者よ」と山城新伍がまぜっかえす。この内輪受けが最高に可笑しい!さらにこの劇中映画もどうやらカポネものらしいのだが、格好はしっかり和式だし、なんていう映画なんだろう?気になる!彼女がFBIだということが判っても恋に落ちてしまったカポネ。カポネにアイラブユーと言う彼女に「ユーラブミー?FBIがギャングに?」と大袈裟な身振りで驚くカポネも可笑しいが「ミーもアイラブユーよ」としっかりキスをかわすあたりあっぱれ。「ギャングとFBIが恋に落ちるなんて、ハリウッド映画でも作らないね」「そうそう、そんなの作るのは東映くらいよ」という自虐ネタも最高!

ラストはなんと着流しスタイルで敵地に刀とピストルで乗り込む三人集。カポネが「カッコイイネ、コウジ・ツルタみたいでしょ」と御満悦、「じゃあ俺はケン・タカクラだ」と渡辺文雄。じゃあ俺は?という山城新伍に若山富三郎がイイでしょ、というカポネ。あんな大根役者はイヤだという山城新伍、とここでもしっかりたわむれて、いざ敵地到着。刀でバッサバッサと、ピストルでガンガンやって皆殺し、そこに捉えられていた女FBIを助け出す。

しっかし、こういう映画もしっかりつくられていた時代がうらやましいわ……二本立て、三本立ての時代だったからこそ出来た芸当だわな……だって、これを一本いくらの料金で観せられたら、やっぱり腹立つと思うもん(笑)。★★★☆☆


八月のクリスマスCHRISTMAS IN AUGUST
1998年 97分 韓国 カラー
監督:ホ・ジノ 脚本:オ・スンウク/シン・ドンファン/ホ・ジノ
撮影:ユ・ヨンギル 音楽:チョ・ソンウ
出演:ハン・ソッキュ/シム・ウナ/シン・グ

1999/6/13/日 劇場(シネマスクエアとうきゅう)
久々にやられてしまった……。主人公の青年が死んでしまうということで、死ぬことで泣かそうなんて、そんな安易な手に引っ掛かるもんか!と思っていたけどあっさり引っ掛かってしまった……。

もうとにかく素晴らしいのは小さな写真店を経営する主人公の青年ユ・ジョンウォンに扮するハン・ソッキュで、なんでも韓国の人気スターでこの四年間の主演作がすべて大ヒットしているという……まるで韓国の役所広司?彼は常に微笑んでいて、この笑顔がもうどうしようもなく魅力的なのだ!穏やかで、優しくて、この人の側にいつまでもいたいと思わせる。かつて思いを寄せていた、幼なじみの出戻り女になぜ結婚しないのかと聞かれてやはり微笑みながら「君を待ってたんだよ」なんて言っちゃって、こ、このおー!そんな事言われたら、私だったら結婚しちゃうぞ!?もう、このあんちゃん、素敵すぎる!

しかし次第に(というか、最初からもう病院に行っているシーンが描かれるし、常に薬飲んでるんだけど)彼が余命いくばくもないことが判ってくる。どうして、どうしてそれであんなに笑っていられるの!?とよけい胸を締め付けられる。彼はいつも軽やかにスクーターに乗っていて途中主人公の女の子に出会うと必ず引き返してきてくれる。その笑顔をたたえて。それなのにもう戻ってきてはくれなくなってしまうなんて!彼は親しい人誰にもそのことを告げていない。優しい笑顔だけをみんなの記憶に残して逝ってしまおうとしているのだ。

しかし死期が近づき、彼が一人でいるシーンになると、彼の顔から笑顔が消える。あんなにも笑顔が地の顔のようだった彼の顔とは思えないほど暗い影がさしている。友人と飲めない酒を飲み、酔った勢いにまかせて「もうすぐ死ぬんだ」と冗談めかして言う彼。「酒飲んで死のう!」と奇声をあげ、交番であばれる彼は、ここでも酔ったことを理由に荒れる。翌日心配した友人から電話をもらうも、「酔っていて覚えていない」と嘘をつく彼。そんなはずない。彼はどうしてもどうしても自分の心の中の納得できない部分を吐き出したかったのだ……。着実に死の準備をする彼。父親のためにはビデオの操作法を、そして写真店の後継者のためには手順をポラで撮影して現像機の操作法を手書きで丁寧に残していく。なんて切ない……。

好きな女の子の写真を引き伸ばして欲しいと言って来る小学生三人組の相手をし、そのケンカをからだ全体で押しとどめる青年の微笑ましさ。家族写真を撮った後、自分の葬式用の写真にと、より鮮やかなチョゴリを来て再来する老女性が何といっても印象的。撮影前に鏡をのぞく彼女の“女”の部分……家族写真の時には眼鏡をかけたままでないと印象がぼやけてしまっていたその女性はここでは眼鏡を外し、穏やかな笑顔がとても美しく映るのだ。彼女を映す青年の穏やかな笑顔は、ここでは少し意味あいが違って見える。葬式用の写真……彼もまた自分の葬式用の写真をとることをここで決意したんだろう。

店に頻繁に、時にはただおしゃべりしにだけ来るヒロインの女性。駐車違反のキップを切る仕事をしている彼女はまだとても若く、もうすぐ死んでしまう青年と違って、これから先の時間をいっぱい持っているという感じが伝わってくるはつらつとした、すこし生意気なところがチャーミングな女性である。彼女に対してもまたいつも変わらぬ笑顔で接する青年。しかし次第に気持ちが親密になってくる。距離がだんだん近づいてくる。スクーターの二人乗り、どしゃ降りの雨の中小さな傘に寄り添って入る二人……けして肩を抱いたり手をつないだりはしない、彼女は彼に恋をするのを恐れるかのように“おじさん”と呼びかけ、彼もまた自分に先がないことを知っているから彼女を優しく見守るだけである。「おじさん、なぜ私を見ると笑うの?」と聞く彼女に彼はやはり笑ってそれには答えない。彼にとって笑顔は鎧(よろい)であり、優しさであり、そして愛なのだ!

彼が倒れて入院し、しばらく写真店を留守にしている間に彼女の異動が決まる。そのことを告げようとなんども写真店を訪れる彼女、手紙を戸に差し入れ、最後には苛立って店のガラスを割ってしまう。夏から秋になり、店に戻ってきた青年はその手紙を読み(内容は明かされない……ことごとく禁欲的なんだよなあ。いかにも泣かそうというわざとらしさが全然ない)彼女の新しい勤め先に行ってみるが、ウィンドウのこちら側から彼女を見つめたまま会わずに帰ってしまう!カメラの手前のピントのぼやけた手で、ガラスごしに彼女の姿に触れるシーンの切なさに涙があふれる。どうして、どうして何も告げずに行って、いや逝ってしまうのか!でもそれが彼なのだ。彼のいやになっちゃうくらいの優しさ。彼女に当てて書いた手紙も投函されないまま、彼女の写真とともに箱に封印されてしまう。

彼が自ら自分の葬式用の写真を撮る。静かに椅子に座り、すこし哀しげな顔のままカメラのタイマーがあがるのを待つ彼は、ふと気がついたように少しだけ笑顔を作る。しかしその笑顔は生前に見せたようなあの素敵な笑顔ではなく、唇の端がちょっとあがっただけの、やはり哀しい笑顔。その顔でシャッターが切られ、そのままモノクロになり、葬式の写真となる。彼が死ぬ場面や、そのことで家族が泣く場面など一切表れないまま、冬の写真店のショットに切り替わる。湿って重そうな雪に埋もれた店の中から今の経営者が(父親のようにも見えるけど……)出てきて、あのスクーターに乗って帰っていく。そこへあらわれるあのヒロインの女性。ウィンドウに近寄ると、彼女の写真が他の記念写真の見本とともに飾られている。その写真だけラフなもので、しかしとても愛情のこもったもの……思わず笑みを浮かべる彼女は、かつてぎこちなく口紅をひいていた彼女とは違い大人びていて、化粧慣れして、とても美しくなっている。そこに重なる彼女あての彼の手紙のモノローグ。……君への愛を持ったまま旅立つことが出来る、ありがとう……もう、もう泣かせやがって、コノヤロー!(猪木調)である!しかしこの手紙はこの時点で彼女に届いているのだろうか……いや届いていないような気がする。それに彼の死自体、いまだ彼女は知らされていない気すらする。あの箱の中からいつかはこの手紙が発見され、彼女のもとへ届けられるのだろうけど、それはきっとずっとずっと先で……もうそう考えるとさらに泣けるのだー……ううう。

思えば写真店経営という設定もとても効いているのだ。人の思い出を記録する、幸せな記憶を封じ込める仕事。彼は他人の幸せの記録係ばかりずっとやってきて、自分の幸せにはとんと縁がなかった。皮肉にも、彼に死期が近づいてからふいとあらわれた天使が彼女。彼はそれだけできっと満足だったんだろうな。彼女に何も告げなくても、彼女に対して愛を、そして彼女から何も告げられなくても彼女からの愛を得て旅立てることが……でもでも本当になんて切ないんだ!

前述したけれど、いかにも泣かそうとするわざとらしさがないのは非常に好ましい反面、しかしわりと突き放しているというか、これは不満である部分でもある。こっちが入り込もうとすると余韻が短いまま次のシーンにいってしまい、それがラストクレジットでもそうで、歌の歌詞(主人公の俳優の歌声!)もあいまって泣いている最中だというのに、歌が全部終わらないうちにラストクレジットが終了してしまって幕になってしまう。禁欲的というよりは、不親切だよなあ……と思わなくもないんだけど……。でもそれを補ってあまりある程、良くて良くて良かったから文句は言うまい!★★★★★


8mm8mm
1999年 123分 アメリカ カラー
監督:ジョエル・シューマカー 脚本:アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー
撮影:ロバート・エルスウィット 音楽:マイケル・ダンナ
出演:ニコラス・ケイジ/ホアキン・フェニックス/ジェームズ・ガンドルフィーニ/ペーター・ストルマーレ/アンソニー・ヒールド

1999/5/23/日 劇場(錦糸町楽天地)
はてさて、これは“本当に怖い”か?いやいやさっぱり怖くない。それどころか、もう退屈である。物語の雰囲気に合せているだけで単純に画面が暗いのも眠くなっちゃうのを助長する。二時間以上あるのもキツい。

怖い、という要素を主人公の探偵が依頼されるスナッフ・フィルム(本当の殺人シーンの実写フィルム)に限定しているのが弱いのである。最初からネタバレしちゃってるし、それ以降、新たな意外な恐さが出てくるということもない。「セブン」が怖かったのは、途中経過が不気味で、どんな結末が待っているかが判らなかったからだ。その点、本作は突き詰めれば単なる犯人探しである。くだんのスナッフフィルムの怖さはというと、当たり前ながら本当の殺人フィルムなど作れようはずもないために、寸どめにして、N・ケイジの怖がる顔で想像させようというのだが、人の怖がる顔で怖がらせようなんて至難の技である。それこそ「悪魔のいけにえ」ぐらいじゃないと。

フィルム中で実際に少女を殺しているマスクの男の顔を見ようとN・ケイジ扮する主人公の探偵、トム・ウェルズは躍起になる。そしてはがされた仮面の下から出てきたのは、温和な男の顔だったというオチ。まあここまではなんてことはないのだが、ここからがいけない。この男を激情に駆られて殺そうとするトムだが、やはり躊躇してしまう。その躊躇が人間を殺すことに対してなのか、彼が悪鬼の顔をしていないからなのかは定かではないが、もし前者ならばトムにはまだ救いようがある。だからこそ、ここで止めておけばよかったものを、事もあろうにトムは殺された少女の母親に電話をかけ「あの子を愛していたわ!」と泣き崩れるその言葉を免罪符に、マスクの男を撃ち殺してしまうのだ!そしてイヤなことに、そのことに対してまだ鬱々とし(だったら殺さなければよかったのに!)そこに届いた少女の母親からの感謝の手紙で救われる。なんとぞっとする殺人の正当化の物語か。しかもトムはそのマスクの男に、何も知らない敬謙なキリスト教徒である母親がいることも見ているのに、結局はその男個人の罪だけを見て、勝手に制裁を下すのである。つまりは、自分や少女の家族を優先して、男の家族を犠牲にした……神の目によって選択したのだ。ただの人間なのに!

でもこういう展開はハリウッド映画にはありがちかなあ。なんだかんだ言いつつ、悪を滅することにカタルシスを感じさせずにはおかないらしい。マスクの男の母親が出てきた時、複雑な展開を期待したのにコレである。まったく。やたらと「セブン」を引合いに出すのも嫌なのだが(でも宣材で「セブン」の脚本ということをやたらうたってるんだからしょうがないよね)かの作品が退廃的な映像でかなり瞠目させられたのに比して、本作はただただ画面が暗いだけというのも滅入る。その暗さに恐怖が潜むとか、人間の心の闇が表されているとか、耽美的なほの暗さがあるとか、そんなもんなーんもないのである。もうちょっと色彩設計しろよと言いたくなる。表情も見えづらいし。

N・ケイジを闇の世界に案内し、相棒となり、最終的には非業の死を遂げてしまうホアキン・フェニックスがなかなかいい。ミュージシャンを目指しつつも今やポルノ雑誌店のバイトに身を落とし、エロなカバーに隠してカポーティーなんかを読んでいる、ケイジ言うところの「本当はお前は頭がいい」奴。肉色の地に浮世絵がプリントされた刺青シャツは笑ったが、妙に似合っている(しかも寸が足りなくて腹が出ている)。ガタイの良さの中に、犬のような(いい意味での)従順さを漂わせた、そう考えれば不思議な印象。しかし恐ろしく兄、リバーには似ていない。そういう意味でも今後の展開が楽しみな俳優かもしれない。★☆☆☆☆


パッション・フィッシュPASSION FISH
1992年 135分 アメリカ カラー
監督:ジョン・セイルズ 脚本:ジョン・セイルズ
撮影:ロジャー・ディーキンス 音楽:メイソン・デアリング
出演:メアリー・マクドネル/アルフレ・ウッダード/デヴィッド・ストラザーン/ヴォンディ・カーティス・ホール/アンジェラ・バセット

1999/11/18/木 劇場(岩波ホール)
こういう作品に対して、★★☆☆☆なんていう点をつけるのは、なんだか自分が人非人みたいで心苦しいのだけど……。面白くないわけではない。それなりに心あらわれ、それなりに感動し……“良質な作品”を絵に描いたような映画で、ことさらに感動を押しつけることもなく、そういう点でも好ましいのだけど、135分というやや長めの尺に丁寧に語っていくことも、全部ひっくるめて、非常に優等生的な感じ。かえって見終わった後の印象が薄いのだ。

不慮の事故によって両足の自由を失った女優、アリス・メイ(メアリー・マクドネル)と、麻薬におぼれた過去のある看護婦、シャンテル(アルフレ・ウッダード)。昼メロ専門の女優なのに変にプライドばかり高いワガママなアリス・メイに白人、実は中流以上のインテリ家庭出身だった寡黙なシャンテルに黒人を持ってくる設定からして周到な人種問題への目配せが見える。別にあざといと感じるほどではないのだけれど。最終的に女同士の友情に落ち着くのも、いかにも“良質な作品”やねー。いや、実際そうなんだからいいんだけど、なんとなく面白くない。

実は7年も前の作品。今世間をやたらとにぎわす“癒しと再生”をテーマにした先駆けの作品なのだろう。ほんと、最近この“癒し”は横行しすぎてかえっていやになっちゃうんだけど。“都会に傷つき疲れた二人の女性が癒され、再生する大自然”うっわー、ほんといかにもやね。この女優の方にはアル中問題もあって、それをかつて麻薬中毒で苦しんだ看護婦が身につまされて更正させるあたりもね。そう、そのためにシャンテルは母親の権限も奪われており、久しぶりの娘との再会と別れも描かれる。何から何まで思いつくこと盛り込み過ぎの感。大河がゆったりと流れるルイジアナ、彼女らそれぞれ二人には憎からず思う男性も現れる。アリス・メイにはかつての幼なじみ、大工のレニー(デヴィッド・ストラザーン)、シャンテルには25人もの妻と大量の子供を持つチャーミングなプレイボーイ、シュガー(ヴォンディ・カーティス・ホール)。レニーには妻子がいるし、シャンテルとシュガーも恋人めいた関係にはなるけれど、最終的にはどうということにはならない。二人とも役柄的にも演じる俳優もほんとにナイス・ガイで素敵なんだけど、彼女らそれぞれを、深い事情を知るわけでもないのに精神的に助ける役割を果たしている。妙に都合よく。……いくらなんでも意地悪な見方すぎるだろうか。でも、なんかほんと、あたりさわりなさ過ぎる気がして。

アリス・メイは最初テレビばかり見ている。リモコンを握りしめ、これが私の生きがいなんだ、と。ただただ受け身で眺めている。もちろんこれは、アリス・メイがそれまでそのテレビの世界で生きていたからこその皮肉な描写なのだけど、私はなんとなく別の意味で身につまされてしまった。ただただ受け身で見るだけで、何も生み出せない観客の立場を考えてしまって。つまり、ただただ映画を観ている自分が、だから何になるんだと、いつもふと考えてしまうから。その過ごした時間を無にしたくなくて、何かを残したくて文章を書き、こうしてHPにしているけど、ひとりよがりでむなしい感じはいつでもつきまとっている。もちろん映画は受け止める観客が最後に存在するからこそのものなのだけれど……。テレビをぼんやり眺めているアリス・メイの姿が、あまりにも無意味な時間を過ごしているものだったから……。

面白かったのは、有名人になったアリス・メイのもとにかつて自分がいじめたことなんてすっかり忘れて無神経に訪ねてくる“幼なじみ”と、ロケの途中に立ち寄ったという、昼メロ時代の仕事仲間である女優たちとの対比。どちらも彼女の突然の不幸の話題を避けることはしないんだけど、一方の“幼なじみ”が本当に無神経で、いわゆる健常者の高みの立場からものを言っているのに全然気づいていないのに対し、女優たちは、一人の仲間、友達として普通に心配し、普通に談笑する。最初の“幼なじみ”はシャンテルに頼んで追い返したアリス・メイも、この仕事仲間たちとは夜遅くまで楽しく話し込む。アリス・メイの親友だったらしい(本人は仕事仲間と言っていたけど、彼女が一番親身になって心配していた)黒人女優が、調理場に引っ込んだシャンテルに話し掛ける。あなたとアリス・メイは上手く行っているみたいね、と。暗に彼女を頼む、と言っているよう。一般的に言って仕事仲間より古くからの友人に重きを置きがちな世間の常識に、異を唱えるこの双方の挿話は面白い。

タイトルの“パッション・フィッシュ”とは、監督オリジナルだというおまじない。捕まえた大きな魚の胃袋に入っていた小さな魚を握りしめて愛する人のことを考えれば願いがかなうのだという。……かといってこの設定が生きているかというとちょっと疑問だけど。結局彼女らは誰を思って祈ったんだか、あるいはその願いとは何だったのかは判然とせず……ま、そんな事はどうでもいいことなのかも知れないが。★★☆☆☆


発熱天使
1999年 109分 日本 カラー
監督:前田和男 脚本:前田和男
撮影:岩渕弘 音楽:(挿入曲)NIKKOS
出演:椎名桔平 リュウ・ウェイ ツン・チュン ツン・ハオ ジン・シン

1999/10/26/火 劇場(シネ・アミューズ/レイト)
ドキュメント・ドラマ。なるほどこういうのがドキュメント・ドラマなわけだ。その前日観た「駅弁 EKIBEN」もまたそうだった。面白いことに時々しりとりみたいにして、観ていく映画の共通点がつながれていくことがある。時代も国もジャンルもすべてすっ飛ばして。「駅弁」でのナビゲーターは主演の映画監督だったが、本作では旅人の椎名桔平。しかしここでは“旅人”であり、名前すらも与えられていない。彼が次々と会うことになる中国アートシーンの旗手たちは全て実名、本人なのだが桔平氏が彼本人だという示唆はない。彼は北京に疾走した友人を探しに来た旅人。あくまでそのスタンスをくずさない。

北京に、失踪した友人を探しに来る、しかも手がかりは彼が20数年前に撮影した人民解放軍の服を着た少年の写真1枚のみ。友人が「夏の北京を見たい」と言っていたという、ただそれだけの理由で、本当に彼がここにいるかどうかすら判らない。あるいは、そんな友人なんて本当に居るのか?私には次第にそれが桔平氏本人に思えてきて仕方がないのだ。彼は通じ合わない言葉で会話を続けるのが好きだという。彼の孤独を、表面上だけでも埋める作業として。彼が日本語、相手が中国語でかわりばんこに喋る。全く通じてないのになぜか楽しくなってくる。第三者である私たちは字幕を通して、ほんの一瞬二人の会話がかみ合う時の快感を味わうことが出来る。

桔平氏が日本語でどんどんコミュニケートしていく姿は実に痛快。屋台のオバチャンにも、自転車屋のおじちゃんにも、投宿しているボロ宿のオッサンにも多少の身振りはつけるものの、日本語で思うままに喋る。しかし不思議と予想される嫌な感じがしないのは、彼がそれで本当にコミュニケートしようとしていて(言葉を通じてという意味ではないコミュニケーション)、実際にしちゃっているからなんだろう。彼は言う。「言葉が通じていることが、本当に通じていることになるんだろうか?」言葉で通じる部分は確かにほんの少し、あるいは全くないのではと思うことすらあるのは事実。言葉は意味の置き換えにすぎないから。自分の感じていることを言葉に置き換えるその過程と、それを相手が自分の意味として取り込む過程、その間に言葉がどんなに変化しているかなんて、当人同士ですら判らない。言葉はあくまで記号であり、人間を表現することは出来ないのかもしれない。彼は真摯に相手の話を聞き、相手を言葉ではなく、感覚というか心情で理解する。それが最も顕著なのは、桔平氏が最後に会うことになるモダンダンサーの金星(ジン・シン)

彼女は中国初の性転換手術を行った、モダンダンスの天才。中国で表現を弾圧されたことも、あの天安門事件も、そして性の不一致で悩み、愛する男性の愛を一生受けられない彼女の孤独も、その全てがたとえようもなく凄まじく、それこそ言葉でなんか表現しえっこないのである。彼女はそれをモダンダンスで表現するのであろう。登場シーン、ロングワンピースの衣装に身を包み、板張りの舞台でしなやかに踊るジン・シンは筆舌ものの美しさであり、そして哀しみを内包していたのはそういうことだったのだ。それでも彼女は旅人に語る。「あなたは中国語が判らないのね。だったら中国語で話すわ」この台詞に前述した、言葉の意味するところ、表現の問題が集約されているであろう。彼女は自分の心情を言葉に置き換えて再確認しながらも、それを言葉として相手に届けることはしない。桔平氏は、その姿をそのままストレートに受け止めることによって、彼女の孤独を、哀しみを、愛への渇望を、理屈でなく、感覚で受け止めるのだ。このシーンは本当に感動的(というのもありきたりでイヤなのだけど)で、私たちも彼女の言葉が判らないとしたって、いや、判らなかった方が良かったかもしれないと思うほど。

桔平氏が写真の少年であるジン・シンに到達するまでに出会う人物たちも、みなその孤独を言葉ではなく表現に置き換えていく人たち。そして彼らの全てに、あの天安門事件の6.4が重くのしかかる。画家のリュウ・ウェイはマシンガンのようにしゃべくりまくるが、彼の描く絵は、6.4以来、現実主義に至り、グロテスクな肉色が乱舞する。寡黙なロック・ミュージシャン、ツン・チュンは、6.4のことは絶対に話したくない、一生話さないとかたくなに言う。売れっ子CMプロデューサーで中国きっての大金持ちであるツン・ハオは、金を手にする度に友人や恋人が去っていくと語り、桔平氏に対し、「友人というのは一目見た瞬間に判るものだ」と惚れ込み、なにかともてなしをする。彼もまた6.4で理想に幻滅した一人であり、それが金もうけという“表現”に変わった。しかし常に自分が成り金に見えないかとおびえている。ジン・シンが全存在をかけて彼を愛しているのに、そして彼にとってもまた彼女がかけがえのない存在であるにもかかわらず、彼女の愛に応えることが出来ない。

彼らは確かに一様に孤独だけれど、多分同じだけすべての人間が孤独を抱えているのだ。彼らは自分の持つ孤独に気づいているという点で、他の人間よりもしかしたら幸福なのかもしれない。孤独を抱える自分は、自分にとっての最大の理解者であり、友人だから。そして孤独を共有するほかの信頼し得る友人を呼び寄せるから。孤独で、いや、孤独を自覚していることでつながっていく友人は、お互いにそれぞれの方法で孤独を表現し、それを芸術に昇華し、その芸術の魂によって結ばれているソウル・メイトなのだ。

それにしても劇中ほんとよく食べる桔平氏。あげパンを豆乳に浸して食べる、羊肉の串焼きに辛味タレをつけて食べる、表面いっぱいに唐辛子が埋め尽くされた鍋をごはんとともにほおばる、北京ダック、さそりのからあげ……etc.etc.時に早回しで見せられるその食べっぷりは爽快極まりなく、おそろしく美味しそうで、桔平氏のコミュニケートツールと言っても過言ではあるまい。実際、彼があげパンを食べているのを、見知らぬ少女がテーブルの向かい側に座って楽しそうに見物しているのが、その後のさまざまなアーティストとの出会いのとっぱじめになるのだ。彼女は桔平氏が最初に出会う画家、リュウ・ウェイの同棲相手、ニェム。非常にチャーミング&キュートでカワイイ!

本当に、ありきたりな言い方でなんだけど、不思議な味わいの映画だった。だだっぴろい天安門広場、自転車をのんびりとこぐ時間の流れ、これまで見たことのないコミュニケーションの取り方とその濃密さ。6.4に切り込みながらも切り込みきれない傷痕の深さ。桔平氏はフィクションの側でありながら、どこまでがフィクションなのか、あるいはフィクションなどなく、桔平氏そのままではないのかと思うところもあり、彼がジン・シンに心惹かれているところや、ジン・シンが彼女の心情を受け止めてくれた桔平氏に感謝してキスするのも、フィクションを超えたところにある気もして。完全にドキュメンタリーとして肩肘をはると、逆に撮る側の主張が入り込んでしまうのを抑制するため、明らかに虚構をどこかに設定することで、このようにフィクション以上にノンフィクションな深みが出てくるところがドキュメント・ドラマのいいところなのだろう。なんにしてもすこぶる魅力的な作品。★★★★☆


バッファロー’66BUFFALO’66
1998年 113分 アメリカ カラー
監督:ヴィンセント・ギャロ 脚本:ヴィンセント・ギャロ
撮影:ランス・アコード 音楽:ヴィンセント・ギャロ
出演:ヴィンセント・ギャロ/クリスティーナ・リッチ/ベン・ギャザラ/アンジェリカ・ヒューストン/ジャン=マイケル・ヴィンセント/ミッキー・ローク/ロザンナ・アークエット

1999/8/9/月 劇場(シネクイント)
夏休みということと、観た回の時間のせいもあるだろうけど、行ったら恐ろしいほどの長蛇の列にびっくり仰天。この劇場で並んでいるところなんか初めて見た!(ま、以前とは館名が違うけどさ)しかもこの偏った客層!……いわゆるシブヤ系映画に連なる結果となった本作、その年齢層に驚異的な速度で拡大しているのは結構なことだけど、そこから一滴もはみ出せないのが気になるといえば気になる……。

突然のヴィンセント・ギャロ(以前、少なくとも92年の「アリゾナ・ドリーム」の頃はヴィンセント・ガロの表記だったが……)の大ブレイク!いやいや本当にびっくり。これは絶対にあの公開前の、ギャロ自身が手がけたという予告編のおかげだよ。あれは本当にクールだったもの(公開後はフツウの予告編になっちゃって残念)……内容を知らせないのは正解だったかもしれない。だって、内容はというと突き詰めるとこれが、ボーイ・ミーツ・ガール、プラトニック・ラブ。ファッションや音楽はトンがってるし、主人公ビリー(ヴィンセント・ギャロ)の言動も手荒なんだけど、ふとよーく考えてみると、拉致したとはいうもののビリーはレイラ(クリスティーナ・リッチ)に暴力を振るうなんてことは絶対しないし、銃をぶっ放して流血する場面も彼自身の頭の中だけの映像なのだもの。あんなにヒドイ両親に一生懸命自分の幸せを……本当は不幸なのに……伝えようとして懸命になっているビリー。あれだけけなし倒された友人、グーンが「友達やめたくなる」と言いつつきっとずーっとビリーと友達やってるのは、彼もまたそういうビリーの本質を判っているからなのだろうと思う。いい友達じゃないか!バカでマザコンだけど。

冒頭、無実の罪で刑務所に入れられ、出所してきたビリーが寒々しい冬の閑散とした街をトイレを我慢して走り回る。“愛する妻”役のレイラを拉致し、彼女の車がマニュアル車なので運転できず、レイラに運転を強要して実家へと向かう。息子の出所よりも(いや多分どんなことよりも)地元アメフトチーム、バッファローの試合が大事な母親(アンジェリカ・ヒューストン)と、昔は歌手だったという何考えてんだか判んない、しかし激しやすい性格は多分ビリーに受け継がれている父親(ベン・ギャザラ)。自分の少年時代の写真もろくにとっておいてくれず(そのくせ自分たちの写真は手の届くところにきちんとファイルされている)、チョコレートアレルギーだったことも覚えていてくれないような、はては現在の自分のことさえも気にかけていないような両親に、誠意と愛をつくして幸せな結婚生活を演出するビリー。

彼の頭の中に浮かんでは消える過去の映像が別画面となってコラージュされるコミック的手法は、今までありそうでなかった気がする。四人のテーブルでの会話が、常に違った組み合わせの三人で切り取られる不思議なリズムは、舞台やテレビで折々見られる、みんなこちら側に向かって座っているような不自然さ(それをことさらネラッてやっていたのが、森田芳光の「家族ゲーム」だったりするんだけど)に、わざと不自然な手際で対抗しているような、彼独自の出色のワザ。そう、最初のうちはこうした独自のノリになかなか乗り切れなくって、ただ事ではないことが展開しているのは判っていながら、どうしよう、どうしようと思っていたのだけれど、この家族シーンのあたりからその不思議な味わいのリズムに体がノッてくる。最初引いていたビリーの粗雑さも、彼の孤独がそうさせるのだとだんだん判っていとおしくなる。時々、ビリーの目が、濡れているのだよね。特別泣いているということを言わないのだけど。それが凄くググッとくる。

ボウリングの名手で、ボウリング場に専用のロッカーを持ち、出所してからも変わらぬ腕を見せるビリー。これがほんと、凄いのだよ。まっすぐ投げない。はしっこの方からグインと投げるんだけど、それが見事な弧を描いてズバン!と真ん中、ストライクをうちとるのだ。ここでは突然のレイラの哀愁のタップも見られるし、なんだか物語にはちっとも関係なさそうだけど、だからこその名シークエンス。

クリスティーナ・リッチをキャスティングしたのも非凡だけれど、彼女にこんなエッチでロリータな格好をさせ(あの水色のストッキング!)金髪の髪にラメ入り水色アイシャドウというモノスゴいメイク、はては銀色のハイヒールを履かせるという凄まじいファッションセンスに仕立て上げるのが超絶非凡。登場シーン、彼女はダンスかエアロビかなんかを習っていて、このいでたちで物憂げに踊っているのが異様というか何というか、凄いものがあるのだ。しかしこの銀色の靴はイイよね。これとビリーの赤いブーツはセットでおとぎばなし的雰囲気を醸し出す。“赤いブーツと銀色の靴のカップル”に割引制度を設けた劇場のはからいはクールだ!

そう、彼女予告編で見た時に、まあずいぶんと太っちゃったなあ、と思ったけど、ひょっとしてヴィンセント・ギャロ、彼女に“太れ命令”を出したのではなかろうか?レイラはこの体型だからレイラなのであり、そうでなければこれほど不幸な、痩せぎすのビリーを支えられない。ココアが好きな、甘くてぷわぷわしたもので出来ているようなレイラ。触れられることに拒絶反応を示すほど愛情に慣れていないビリーの優しさを見抜いて、少しずつ触れていく。二人がベッドに横たわっているシーンがいい。ビリーが吹き出すほどぎこちなく角度をつけて彼女から離れているのが、少しずつその角度が修正され、ふとキスを交わす。またぎこちなく硬くなるビリーがとんでもなくセンシティブで愛しい。

彼が一人の男を殺すために部屋を出て行くのを察知して、泣きながら彼をそっと抱きしめ、愛していると言うレイラ。この時、見せるヴィンセント・ギャロの表情が抜群にイイ!髪が適度に乱れ、今にも泣き出しそうな、切なさを漂わせてなんだか別人のようにハンサムなのだ。そして彼は復讐を遂げるべくサイケなストリップ小屋に向かうのだが、そこで展開される殺しは(前述したように)彼の頭の中の想像。しかしこのシーンがまた出色なのだよ!男の頭、そして自分自身の頭に弾丸を撃ち込んだ直後のショット、頭の反対側からぶちょっと出たペンキみたいなジェル状の血と、ギャロの歪んだ顔のコミカルさ!そしてここでかかる、予告編でも使われていたクールな音楽!

そしてビリーは殺しを思いとどまり、グーンに愛してくれる女が現れたことを幸せそうに告げ、レイラの待っているホテルへと駆けていく。おおっと、なんだか突然のラブラブ光線にびっくり。そう、ビリーがレイラの愛の真実に気づいて、いや信じられるようになってからのラスト数分間、本当に突然キュートなラブストーリーの様相を呈するのだ。いやいやビリーは、もとい、ギャロは、この数分間のために、この数分間に向かって、走り続けていたのだ。ゴール直前からふと恍惚感に昇華していくような、ランニング・ハイ。直前の幸福感の絶頂さ……それゆえ、ビリーがレイラのもとへ駆け出すのに往来を渡ろうとする時、まさかここで車に跳ねられて死んじゃうんじゃないだろうな……などと心配になったりしたのだけど、ラストカット、静止画像で二人の寄り添う姿があらわれ(また掟やぶりな終わりかただ)、ほっと安心。

つや消しのような手触りの映像がこれまたクール。あるいはこれはビリーの孤独な世界観の色なのかもしれないけど。それにオープニング、ラストともどものクレジットが白地に黒ゴシックでドカンドカンと打ち出していく、ローリングも使わないもので、これもむちゃくちゃカッコいい。これ、編集はギャロ自身じゃないんだよね。こんな個性的な繋ぎ方、絶対自分でやってると思ったのに、それに自分でやりたがると思ったのに。ま、なにはともあれ、日本とは違って、アメリカは俳優の監督作品に成功率が高い気がする。それもその個性が揺るぎないものとして凝縮されるようなシャープな秀作がぽんと生み出される。これ以降ギャロがメガホンを取る時、正直一体どんな展開になるのか予測もつかないのだけど、ぜひぜひ第二作が観てみたい。 ★★★★☆


母の眠りONE TRUE THING
1998年 128分 アメリカ カラー
監督:カール・フランクリン 脚本:カレン・クローナー
撮影:デクラン・クイン 音楽:ポール・ピータース
出演:メリル・ストリープ/レニー・ゼルウィガー/ウィリアム・ハート/トム・エヴェレット・スコット/ニッキー・カット/ローレン・グラハム

1999/12/1/水 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
ガンにおかされた母親(メリル・ストリープ)の看護をするために、キャリアを中断して家に呼び戻される娘(レニー・ゼルウィガー)。母娘双方の女としての生き方の選択を照らしだす。子供は母殺し、父殺しと言われる、それぞれの存在を否定することによって成長を遂げるが、この娘、エレンはまさしくその象徴的な存在。家庭に閉じこもり、夫の帰りを待つだけ、活動はもっぱら地域の婦人会のみ、という母親の生き方に反発して、野心あふれるジャーナリストとしての道に邁進している。しかし他人の不幸をスクープで追い回すような仕事にあくせくし、仕事を取られることを極端に恐れる彼女の生き方もまたギスギスとしていて、幸せそうには見えない。彼女が父親からの命令で家へと帰り、母親と対峙することで、小さな世界に生きているだけのように見えた母親が、自分よりももっともっと自由にはばたく心で、皆に愛情を注いで生きていたことに気づく。

しかし、と思う。女性の生き方としてまるでこの二つの選択肢しかないような感じに見えてしまう。ここではこの母親が最終的には肯定的に描かれ、もちろん彼女が、最初エレンの目に映っていたような夫の不義も知らずにのほほんとしている家庭の主婦ではなく、全てを飲み込んだ強さを持っていたことは描かれるけれど、それでも彼女が全てを飲み込んだままにさせられていた家庭の主婦であったことは否めない。もちろん当初のエレンのように、家庭の幸せを作り上げることを全面否定しているかのような、ことさらなキャリア・ウーマン、ウーマン・リブの固まりのような生き方も首を傾げてしまうけど。それでいうと、一見二人はステレオタイプに型にはまり過ぎているように見えもするが、実際いまだに女性の生き方はこれぐらい限定されたままとも言えるのだ。どうあるべきとか、そんなことを考えずに、ただ“自分”としてナチュラルに生きていくことがまだまだ出来ない現実。

エレンの理想で自慢だった父親(ウィリアム・ハート)の仮面がどんどんはがされていく。見栄っ張りで、自分勝手。自分が一家の大黒柱だと主張して、仕事を理由に妻の看護のための休暇も取ろうとしない。女子学生と浮気もする。最後になって、彼が妻に去られることを極度に恐れているためにそうなったことが明かされるのだけど。しかしコイツはいちばん手におえないタイプだ。表面上は実にいい父親、いい夫。これみよがしな演出で家庭の平和をもりあげ、娘の仕事に理解を示す。しかし妻が病気で倒れた時、なんだかんだと理由をつけながらも娘に看護を押しつけるのには、やはり彼の世代では、あるいは男性の中にはまだまだ父権的考えが色濃く残っていることを痛感せざるをえない。弟は大学があるからという理由で看護を免除される。大学なんて休学させればいいではないか。もちろんそれは大学より娘の仕事が重要というのではなく、大学も仕事もみんな一時的でいいからやめて、みんなで看護すればベストだったのだ。あるいは完全にプロの手にまかすか。父親の頭の中に「母親の看護は娘がするもの」という考えがなかったとは言い難い。

だんだんと体の自由がきかなくなっていく母親は、手を貸す娘に苛立たしげにこう叫ぶ。まだ私はあなたの母親なのよ!と。結局彼女に残されたアイデンティティはそれしかなかったのだ。それも、息子にとっての母親ではなく、娘にとっての母親という地位しか。弟は明らかに父親に将来を嘱望されている(彼は大学を辞めてテニスのコーチになり、それを裏切ることになるのだが)。いわば弟は父親の管轄なのだ。人生の指南は娘に対してしか出来ない。妻としての地位も、いや夫の女としての存在というべきか、それも危うくなっている。

男性は本能と理性のバランスによる生き物で、女は感情だけで生きている生き物であるように思う。自分の記事の感想を聞く娘に父親は言う。お前の文章は感情的すぎる。もっと骨太な言葉を選んで書け、と。父親は大学教授をしながら小説家の夢を捨て切れない男。何年もかかって書き上げた小説がやっとどこかにひっかかるのだが、その小説を最初に誉めてくれた有名な作家が、それをすっかり忘れていたことに落胆する。彼の書く文章はどのようなものだったのだろうか。多分、エレンが“感情的”と評されるなら、彼は理性的な文章を書いていたのだろう。しかしどちらがいいといえるのか。エレンは心のほとばしるままに書く(生きる)。しかし父親は、理性というウソに塗り固めて書く(生きる)。理性で生きるのは、本能的衝動に全てを支配されるのを恐れるせいなのか。男が浮気と家庭を両立させることが出来てしまうのと、女にそれが出来ないことの理由がここにある気がする。あるいは仕事と家庭の両立も同じことが言えるのかもしれない。女は多分、感情以外何もない。本能的衝動が感情とイコールになっている。あるいは感情から発生して本能的衝動になる。根本的に違い過ぎるのだ、男と女は。それで男女平等社会をつくるだなんて無理な理論なのかもしれない。

母親の唯一の趣味はモザイクだった。誤って割ってしまった皿のかけらを集めて色と形で丁寧につなぎあわせていく。それはまるで、人生が、生活が、感情が壊れることを恐れているかのよう。しかし、モザイクは細かい亀裂が無数にある、“修復不可能”を絵にしたようなもの。だから余計にはかない美しさがあるのだが……。

母親が苦痛から解放されたいためのように見えた自死も、あるいは、人生を“壊される”よりも自分で壊してしまう、最後の、彼女の最大の選択だったのかもしれない。冒頭、夫のサプライズバースデイパーティーで「オズの魔法使」のドロシーに扮してみせた姿が印象的だった彼女。それが彼女が美しく輝く最後の姿だったとは何という皮肉。あの往年の名作映画、現実世界はモノクロで描かれていた。夢の世界の方が幸せそうだった。彼女もそうだったのかも知れない。そして、魔法の国なんて、ないのだ。★★★☆☆


ハムナプトラ 失われた砂漠の都THE MUMMY
1999年 125分 アメリカ カラー
監督:スティーヴン・ソマーズ 脚本:スティーヴン・ソマーズ
撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:ブレンダン・フレイザー/レイチェル・ワイズ/ジョン・ハナ/アーノルド・ボスルー/ケヴィン・J・オコナー/ジョナサン・ハイド

1999/7/11/日 劇場(錦糸町楽天地)
あまり知られてないことながら、'32年製作のホラー映画「ミイラ再生」(ホラー映画のスター、ボリス・カーロフ主演)のリメイク作品である本作。原題もちゃんと同じ「THE MUMMY」(ミイラ)な訳で、何でこんな一見何のことやら判らない邦題にしちゃったかしらね、と首を傾げてしまう。ま、映画を観れば、このタイトルにしたかった訳も判るけど。シンプルに「ミイラ男」とか「ザ・ミイラ」とかのほうがよっぽど伝わると思うけど……それじゃダサイのだろうか?

んで、ハムナプトラがなんなのかというと、ごていねいにサブタイトルで説明しているように、伝説の中で消えた、そしてラストにまた封印されてしまう“失われた砂漠の都”の名前である。死者の都と言われるそこで、3000年もの昔、国王の愛人アナクスナムンと許されざる恋に落ちた魔術師で高僧、イムホテップが彼女を生き返らせる儀式の最中にとらえられ、棺の中でミイラになりながら永遠に生き続ける極刑を受けてしまう。そして1923年、その伝説の都、ハムナプトラを求めて訪れた若き探検家リック(ブレンダン・フレイザー)と、古文書を手に入れたい図書館司書エヴリン(レイチェル・ワイズ)、そして彼女の兄で財宝を狙う詐欺師ジョナサン(ジョン・ハナ)が連れ立ってこの都に足を踏み入れることになる……。

「アイ ウォント ユー」「輝きの海」とアート系秀作を連打している注目のレイチェル・ワイズが、しかもイギリス女優ながらこんなコテコテの娯楽大作に出るというのは驚きだが、ここでの彼女は今までの印象と全く違っていて、軽くウェーブのかかった髪と、妙に細くて長い眉……写真で見た時はこれがレイチェル・ワイズとはにわかに信じがたかった。しかしお茶目なキャラでアクティブに逃げ回る彼女はなかなか魅力的。それというのも、共演者である主演の片翼、ブレンダン・フレイザーもまたチャーミングなのも大きいのだ。実はこの作品を観ようと思ったのも、彼が出ているからというのもあって……。ふりかえってみると、ブレンダン・フレイザーの出演作を私は一本も観ていないのだけど、彼が「原始のマン」「ハードロック・ハイジャック」「ジャングル・ジョージ」などと、オバカでポップなノリの映画に嬉々として(?)出演しているフットワークのよさに、前々から注目していたから。そして実際にスクリーンで動いている彼を見ると、え、この人ってイイ男じゃないの!エヴリンが助け出す首吊り処刑の場面で、なかなか死なない彼に「首の丈夫な奴だ」という刑務所長の言葉が実際にうなづける、立派な首がたくましく、それに連なる身体もアメフト系にがっちりしているのに、マスクは甘く、笑うとびっくりするほどチャーミング。しかしここでの彼は荒くれ者に扮してわりといつでも仏頂面なのだが、顔が整っているからそれもまたハンサム。ま、身体の大きさに比例して、剣を振り回すアクションは鈍重なのだけど、ある意味その重みが存在感でもあるのだな。

話としてはこちらが主演とも言えるミイラ男、イムホテップに扮するアーノルド・ボスルーは、若き日のショーン・コネリーかユル・ブリンナーかと思わせる、エキゾチックで強烈なセックス・アピールの持ち主。「ハリウッドでの外国人のキャリアは悪役からスタートする」と言って真摯に取り組んでいる感じが伝わる彼の今後に期待したい。エヴリンの兄でカネに目がなく、調子のカルいジョナサンを演じるジョン・ハナ、どっかで見たことある、この緊張感のない顔立ち……と思っていたら、ナルホド「スライディングドア」のお方でしたか。こずるい傭兵ベニ(ケヴィン・J・オコナー)のしぶとさも楽しい。

ま、多少長いかな……という気もしないでもないけど。二時間以上だからねえ。笑っちゃうくらいこれ見よがしな、わっかりやすいCG技術を駆使した映像にはいまさら驚く気もない。だからどんなに砂嵐が襲ってこようと、ゴキブリみたいな肉食昆虫スカラベが大軍でジャラジャラ音をたててなだれ込んできても、生々しい(ジューシーという表現をしていた……)ミイラが動き出しても、衝撃的ではないのである。進化しすぎたCGは想像力を奪って逆に怖くも何ともなくなる典型的な例ですな。まあいいけど、これは娯楽大作なわけでオリジナルと違ってホラー映画ではないわけだし。

とはいえ、モロッコロケの魅力が充分に伝わるどこまでも続くすな砂漠や、そこでラクダに乗ってほてほて進む(本人たちは過酷だろうが)叙情的な画、エジプト風衣装のレイチェル・ワイズの美しさ(あの眉毛はいただけないけど)はマル。ブレンダン・フレイザー、ちょっと惚れたぞ!★★★☆☆


バンディッツBANDITS
1997年 109分 ドイツ カラー
監督:カーチャ・フォン・ガルニエ 脚本:カーチャ・フォン・ガルニエ/ウーヴェ・ヴィルヘルム
撮影:トルステン・ブロイアー 音楽:ペーター・ヴァイエ/ウド・アルント/フォルカー・グリッペンシュトロー
出演:カーチャ・リーマン/ヤスミン・タバタバイ/ニコレッテ・クレビッツ/ユッタ・ホフマン

1999/4/23/金 劇場(PARCO SPACE PART3)
バンドを結成した四人の脱走女囚が主人公で、監督も女性(女優かファッションモデルかと思われるくらいの超美人!)の完全な女性映画ながら、女性映画に付きまといがちの偏狭的な女性賛歌の匂いが全くない。それなのに、しっかり女性賛歌を真正面から歌い上げていて、それが痛快になっているという凄さ!

歌い上げるというのも文字どおり、何たってロックバンドだし、しかもかなりハードなロック。ギターとボーカルを担当するルナ役のヤスミン・タバタバイが黒髪と黒い瞳で女子校のスポーツ部にいたらさぞかしモテただろうと思われる中性的な魅力を発散している。彼女は男がらみの罪状である他の三人のメンバーと違って罪状が強盗というあたりのアッケラカンさが、どこか子供の純真さにも通じていて、最初はメンバーに対して突っ張っているものの、彼女たちの罪を犯したやんごとなき事情を聞いてヘコんだり、メンバーの死に泣きじゃくるところなど、彼女の脆さがとても魅力的なのだ。そして突っ張ってるところも女の子の部分を必死に隠しているようでもあって、途中彼女たちの人質に半ば自らなった美青年(ホント、いやらしいくらいの甘いマスクが実に判りやすい)がその匂いをかぎつけて彼女に迫るのもむべなるかな、なのだ。

バンド結成当初、なかなか見つからないドラマーに苛立つメンバーの前に、抜群の技術を持って登場するエマ。かつてジャズバンドのドラムをしていたというお墨付きの彼女は、妊娠中に暴行を受け、子供を流産、その男を射殺したという苦い罪状を持っている。最初眼鏡をかけて、どこか冴えない物理教師風だった彼女が、自らのフィールドである音楽を得て、まさしく水を得た魚のようにどんどん魅力的になっていく。ほんとに神々しいまでに。他の三人もそうだけど、彼女の変貌は本当に顕著。

女性バンドゆえの魅力とか、男勝りのとか、そんな形容詞をぶっとばす迫力の彼女たちの演奏シーンがとにかく素晴らしい。そう、これは女性バンドではなく、女囚バンドというところがまさしくミソなのだ。女囚ゆえの有無を言わさない迫力。社会からつまみ出された女囚たちの中でも仰ぎ見られる存在だった彼女たちに備わった当然のカリスマ性。脱走した自分たちが手配されていないことに憤慨してテレビ局に売り込み、ニュース映像の中で奔放に歌う彼女たち。そしてパブで演奏している男性バンドのへなちょこぶりに我慢ならなくなって飛び入り演奏する彼女たちのなんというカッコよさ。そのパブでの演奏では、男性を揶揄するかのように登場が真っ赤なセクシードレスで(一体どこで用意したんだ)、一転、ド迫力のギグで圧倒する。特にルナのボーカルの圧巻さ!そこで警察に取り囲まれるのだが、すでに観客を味方につけている彼女らは人質をとってあっさり逃亡に成功してしまう痛快さ!

この“観客を味方につけて”というのがラストの伏線にもなっている。メンバーの一人、キーボードのマリーが死ぬ。警察に挟まれた目も眩む橋の上で車に火をつけ(マリーの願いが火葬だったのだ)海(河?)に飛び込む彼女たち。エマが一人逃げ遅れてしまうのだけど、ルナともう一人のメンバー、エンジェルがこれまた痛快に助け出すことに成功する。脱出方法はあるし、けして生きることに悲観的になっているわけじゃない三人なんだけど、メンバーの中で一人年かさで皆の心の拠り所だったマリーの死が、彼女たちの心に波紋を投げかける。エンジェルが「生まれ変わったら、マリーのような、そしてエマのような、ルナのようなひとになりたい」と言う。途中でハンサムな人質を放り出したところでも判るけれど、彼女たちの男性を、いや誰をも入り込ませない運命の絆が、悲劇的というより、どこか高みへと導かれるような死へと向かうのだ。

彼女らのデモテープを持っているレコード会社が勝手に発売したCDが大ヒットしていて、街中にバンディッツのポスターが氾濫している。渋滞した車で彼女たちを見つけてサインをねだる人々で黒山の人だかりになるほど。このあたりも実に痛快。そして運命を心に決した三人が、廃虚の建物の上で最後のライヴを決行する。彼女たちを抑えようと警察が登っていくと、そこに集まったファンにダイブして脱出する彼女らのカッコよさにゾクゾク!しかし……脱出するためのはずの船の階段にたどり着くと警察が銃を向けている。ずっと彼女たちを追いかけてきた女性刑事が思わずやりきれないように顔を背ける。その時、死んだマリーが、船に佇んでいる……穏やかな顔で振り向く彼女たち三人。差し出されたマリーの手に三人の手が差し伸べられるショットがラストだった。ええ、なんで!?という衝撃と、ああ、やっぱり……というどこかさっぱりとした哀歓を残した。死もまた一つの幸福な結末なのかもしれないと……。★★★★☆


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