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ガールズ ナイト/GIRLS’NIGHT
1997年 103分 イギリス カラー
監督:ニック・ハラン 脚本:ケイ・メラー
撮影:デヴィッド・オッド 音楽:エド・シェアマー
出演:ブレンダ・ブレッシン/ジュリー・ウォルターズ/クリス・クリストファーソン
はっきり言って最初のうちは、このわがままで自分中心の超高ビー女(という言い回しも嫌いだが、まさしくそんな感じなんだもん)、ジャッキーが我慢ならなくて、特に彼女が働いている工場で、上司から経営者に敬意を払え、と言われた時に「ジャップなんか」と吐き捨てた時はほんとにシメてやりたかったけど。そしてドーンが“ガールズ ナイト”のビンゴで大金を当て、それを迷いもせずジャッキーと山分けにする(と言いつつドーンの夫、つまりジャッキーの弟が見かねてジャッキーに渡す額を減らすんだけど)。それを期にジャッキーが一方的に夫と別れて愛人の家に転がり込み、愛人に疎ましがられるあたりは、当然だよ、ざまーみさらせ、と正直思ったけれど、穏やかで弱そうにみえるドーンの方が実は強い精神力を持っていることにジャッキー自身が気づく時、今までの傍若無人な彼女の振る舞いが弱さを隠す鎧であったことにこちらも気づいて愛着を覚えるようになる。家族に自分の癌のことを知らせないドーンは、でも、あまりにも一人で抱え込みすぎるところが難点で、それを強引にほじくり返すジャッキーの存在が助けになっているところがいい。この辺、正反対ということが逆にお互いを支えあえる、いいコンビになるという、上手い語り。
せっかく大金を当てたのに、その直後に不治の病を宣告されるドーン。それを家族の誰にも知らせず、退院してくると、家ではわがまま勝手な子供たちがまたもくだらないことでけんかをしている。それを見て思わず泣き出すドーンがかわいそうで、てめーらいいかげんにしろ!と見てる観客も怒鳴り付けたくなる。ドーンの異変にただひとり気づいたジャッキーは、長年の夢だったラスベガス旅行にドーンを連れ出すジャッキー。「テルマ&ルイーズみたい」とはしゃぐ二人。最後の思い出となるその旅行が、ネオンが降り注ぐラスベガスで陽気に描かれるから救いになる。ハンサムなドアボーイに二人してときめくあたり、結構似た者同士かも?なんてクスリとさせられたり。ここに出てくる、妙にニック・ノルティ似のカウボーイ、コディのクリス・クリストファーソンがとてもいい。今までの、外見や若さだけで男に引っかかっていたようなジャッキーが、結婚に失敗したという共通点から、いや、もっと心の深い部分で共鳴しあうものを持つコディに惹かれる。ここではあからさまに描かれないまでも、ジャッキーとコディの心遣いで、コディとデートしたドーンの言葉でコディもまた同じ気持ちであることが判るのだ。
そしてドーンの死。彼女の存在の大きさに、ドーンの夫や子供たちも改めて気づいて慟哭する悲しいお葬式。彼女が家族やジャッキーにあてて残したプレゼントがベッドの下に残されている。「まったく、なんて人かしら……」死んだ後まで他の人に気遣うドーンにあらためて涙するジャッキー。ジャッキーにはコディが貸してくれたカウボーイハットが。ドーンの気持ちを読み取ったジャッキーは再びラスベガスへと発つ。ほこりっぽい砂漠の中、Gパン生地のミニタイトとサングラスでたたずむジャッキーのスタイルの良さ!そこにトラックで現れるコディのカッコ良さ!「ドーンは残念だった」「……ええ」そこで抱き合う二人の姿に、それまで以上に泣いてしまうのはなぜかなあ……。★★★☆☆
そのイヤな部分というのは、いわゆる“映画へのオマージュ”の部分に他ならない。「CLOSING TIME」はもうそれだけで構成されているような映画で、もともとわけが判らないものが多いフランス映画の、さらに意味不明版といったおもむきで、映画監督の名前を羅列する場面の醜悪な自己陶酔さには本当にやめてくれよと身をよじったものだった……。本作では、その意味不明な部分は影をひそめていて、非常に魅力的な会話が、それもテンポよく、カッティングも絶妙にすすめられていく。演じる2人の男、落ちこぼれヤクザの柄本明と、ポリスである椎名桔平の掛け合いの絶妙さ。んで、椎名桔平扮する会田から「映画の話はやめろ」と再三ツッコまれるように、ここでの柄本明扮する小松がその“映画へのオマージュ”のかたまりなんである。その部分がこの監督の作品の魅力なのだと言われているのかもしれないが、私にとっては、会田の存在が救いである。……彼も時々映画のことを口にするけれど。
前作でのそれはフランス映画だったが、今回は劇中でも公言しているように、もうまんまタランティーノである。喪服姿(イメージはダークスーツ)の二人の男、一人が倒れて上体だけ起こし、一人がそれを銃でねらっているという構図は、「レザボア・ドッグス」での最も有名なスチールそのまんま。彼ら二人と絡む若いカップルのうち女の方は「パルプ・フィクション」のユマ・サーマンとそっくりなボブカットと白いシャツで、小松に銃を突き付けられているにもかかわらず「スティーブ・シェーミじゃなくて、スティーブ・ブシェーミ。ブが二つなんです。そんなことも知らないなんてモグリですよ。ひょっとして「ファーゴ」も観てなかったりして」と言って小松を怒らせてしまう。「どこの世界にブを二つ続ける名前をつける親がいるんだよ。そんなのいるわけねえだろ、スティーブ・シェーミなんだよ。」と訳の判らん理屈で怒る小松がオカシイ。そう、映画的知識のある描写より、こういうヌケたところが数段チャーミングなのだ。
映画へのオマージュを捧げるのはいい。でも、そのやり方によって、観客を遠ざけていることに気づいてほしいのだ。こんな、わざわざ全てを口に出して、好きな映画や監督や俳優(ここではもっぱらハーベイ・カイテル)を並べ立てられても、まるで電車の中で知ったかぶりの会話を聞かされているようで、ちっとも面白くないのと(さらに言えばただ腹立たしいのと)同じで、はっきり言ってしまえば無粋。そうした固有名詞を知っていたって、ちっともカタルシスを感じない。ましてや知らない人にとってはナニヲカイワンヤなのではないか。それにこういうのは“映画へのオマージュ”とは言わないんじゃないのかなあ……。
それでも★★★★☆をつけてしまうのは、やはり抜群に面白かったに他ならない。前作のワケノワカラナサとは打って変わっていて驚いてしまう。前作がフランス映画への、本作がアメリカ映画への傾倒と考えればこんな判りやすいこともないが。そう考えると小林監督の本質の見えにくさがやや気になる。しかし映画は一個一個のものだから、本作の面白さを素直に受け止めたい。
一人の女の葬式に向かう二人の男、白一色の冬の北海道の一本道を、ヤケ酒のビールをあおりながら車を飛ばす。その女、文子(環季)は会田の別れた元妻、そしてその当時の小松の愛人。彼女が本当はどちらを愛していたのかで口喧嘩を繰り広げる二人の会話がとにかく笑える。柄本明はいわずもがなだが、椎名桔平は意外にこんな、ライトでコミカルなセリフの応酬が上手いのだ。「葬式に行くって言ったら、ついでに仕事してこいって」「仕事って何だ」「死体の始末だ。トランクに入ってる」どんな事情かは明かされないものの、その死体は小松の弟だということが後に判明する。
口喧嘩が頂点に達した二人が、お互いに銃を突き付け合うところにあらわれるのが若いカップル(北村一輝、舞華)。おお、北村一輝!そうだ、彼は「CLOSING TIME」に(当時は北村康)出ていたのだった。あの作品で彼は「ポンヌフの恋人」のアレックスを体現していたんだっけ……彼だけが素敵だったもんなあ……。いやいやそんなことはどうでもいいのだが、ここでの彼はいかにも頭の悪そうな男で、心配する女をよそに乾いた笑いを立てるのが可笑しい。そう、その銃を突き付けてる場面に遭遇したこの女、「「レザボア・ドッグス」のつもりかしら。どっちがハーベイ・カイテルやってるのか聞いてこよっと」というノーテンキさ。かくして彼と彼女は男二人にアホな会話で引き回されて、最終的に殺されてしまうんである。ここでのそれぞれの会話は、ひたすら映画の話で押す柄本明と舞華より、緩急つけて脅す桔平氏とそれにボケなリアクションする北村一輝の二人が絶妙!
男二人がそんなこんなで通夜にも出られずじまい。閉店したバーに無理矢理入ってお互いそっぽ向き合ってビールをあおり(ここでの会話は「駅−station」……もういいよ)、ともに銭湯につかる。死んだ人々の幻想を見る二人。そして再び車を走らせ、到達する白い白い広大な大地。つぶれてしまったのか、時間外なのか、スキー場の、動いていない古ぼけたリフト乗り場が見える。そこで喋りながら動き回る二人を、小さく小さくとらえる位置までカメラはひたすら引く。この場面の雪の白と喪服姿の二人の黒のコントラストは圧倒的な美しさ。この場面だけでも観る価値あり、と言ってしまいたいくらい。
会田は「俺が文子の最後の男になるんだ」と彼女の実家から遺体を盗んできてしまう。……おいおい、死姦をやるつもりなのかよお……。それを責めた小松を殺し(これが例の「レザボア・ドッグス」な場面)一糸まとわぬ姿の彼女(さぞかし寒かろう……)をかついで雪山をひたすら登る。ぜいぜいとあえぐ桔平氏、うーん、重そうだ……。しかしこの、全裸の女の死体を肩にかついで喪服姿で白い雪の中を登っていく画も、恐ろしくキワモノの美しさなのだ。そしてまさに雪山の崖っぷちのところで彼女と二人横たわるショット(これも!)で物語は終わりを告げる……かと思いきや、訳が判らんことに、撃たれた筈の小松が目を覚まし、やはり撃たれて雪の中に埋められた若いカップルもその中から這い出して、物語は冒頭の、一本道を車で飛ばす二人の会話に戻っていくのである。うーん、なんなんだ。つまりはすべて誰かの白昼夢だったのか?
ところで、タイトルの「海賊版」ってなんでなんだろう。宣材では“現在、日本での映画製作に対するすべての既成概念を超えた……すなわち海賊版的作品と言いかえられる。”なんて、判ったような判らないような解説してるけど、つまり、何?それと、“日本では数少ないエンターテインメント作品”という言い方ももう聞き飽きたよ。それに、何を基準にしてそんな事言うんだ、絶対間違ってる!
もう一個だけナンクセつけちゃう(断るまでもなくナンクセばっかりだ……)。文子を幸せにすることが出来る、出来ないで問答していたセリフ、男が女を幸せに“する”んじゃなくて、男も女も自分で人生を選択して幸せに“なる”んだよ!もうそろそろこういう考え方はやめて欲しいもんだ。★★★★☆
「黒髪」:(これは全篇に言えることだけど)三國連太郎、若すぎて面影ない!この「黒髪」という話、知っていたような気もするけど、そうでなくてもオチは想像できるものの(これまた全篇に言えることなんだけど)、そうした所に視点が置かれるわけじゃないのだ。枯れた、慎ましやかな住まいでの暮らしから、豪奢なお屋敷での暮らしへ、そしてまた本当に愛している女のもとに戻ると、そこは一見前と変わらぬ慎ましやかな住まいに見えながらも、それは幻想で、すっかり朽ち果ててしまっているのが明らかになる。(これまたまた全篇に言えるのだけど……しつこい)とにかく美術セットが素晴らしく、これらの家を様々な距離と角度から収めていき、役者にクロース・アップすることは少なく、家自体が生きもののよう。黒髪にたたられて、顔もなにも真っ白になってしまうラストの三国氏の壮絶さが圧巻。
「雪女」:四篇中、最も魔力的な美しさを放つ一篇。何といっても岸恵子の雪女、不気味な美しさが非凡。普通の人間となって男に近づき、結婚する旅の女の時と雪女の時では、もう声からして全く違う。青い照明に照らし渡された中での雪女は、恐ろしいながらもまさしく惹き込まれる媚薬的な魅力を放つ。幻想的な空に巨大な目が浮かぶ描写はちょっとどうかなとも思うが、実験精神にはあふれている。
「耳無し芳一の話」:これまた面影なさすぎな中村賀津雄に丹波哲郎!耳無し芳一の話を見聞きする時にはいつでも“耳無し芳一ごっこ”を思い出してしまう……お風呂上がりとか、体の濡れてる時に、新聞紙の上をごろごろと転がると、はい、出来上がり、英字新聞だったら英語版耳無し芳一だッ!……失礼しました。こちらが話を知っているせいもあるのだろうけど、映像で観ると、もう明らかにお経が書かれていない耳だけがすでに目立って見えてくるんだよなー。この篇での圧巻は何といっても芳一の琵琶語りを聞いているずらりと取り囲んだ平家の亡霊たち。そこは平家一門の墓なので、その誰もいない墓の描写とオーヴァーラップして亡霊たちがいっせいに立ち上がるところを引いてとらえるショットは肌が粟立つものがある……。各篇ともにそうだけど、寺と墓が舞台であるせいか、最も静謐な印象を与える一篇。寺や墓場を俯瞰でとらえたシーンが印象的。志村喬の和尚さんがやはりいい。
「茶碗の中」:これは知らなかった話。そして一番ゾッとしてしまった。他の話は恐怖よりもその雰囲気や造形の美しさに目を奪われる部分があったのだけど、この一篇は充分ホラー的恐怖感を味わえる。茶碗の水(酒?)に映る男の顔。周囲には誰もいない。何度見ても、水を取り替えても、やはりその男の顔は映る。そして次第に口元に笑みが……うわあああ、こ、怖あー!それを見た侍、その水を飲み干してしまう。そして狂気に取りつかれていく……その侍にしか見えない、水に映った男が現れ、三人の男のお付きが現れ、髪を振り乱してそいつらと対峙する。……物語はここで急に放棄され、これが物語作家によって途中まで描かれた話だという展開になるのだけど、“人の魂を飲み干した人間は……”という言葉を現行の最後に、作家は姿を消している。原稿催促に来た出版元が水瓶の中を覗くと、その中に映り込んだ作家が、生気の抜けた顔で手をゆるやかに振っている……コワイ……。
NHK側で処理したのか知らないけど、30年以上前の作品なのに、画面の色合いの美しさにびっくり。全体に抑制の効いた引きの画面が多いので、人物が小さく、それにやっぱり美術、背景、セットが素晴らしいので、ああ、やはりスクリーンで観てみたいなと思う。★★★★☆
そう、冒頭の幽霊である按摩は、この長唄(?)のおっしょさん=中田康子に恋して恋して恋焦がれ死にしたのだという。左頬にあざをもち、冷たい手でおっしょさんのふくよかな体につかまるこの按摩と中田康子が一つ蚊帳の中にいるのを外側からとらえ、フェイドアウトするショットのエロティシズム!うとうとした彼女が目を覚ますと按摩はいなくなっており、そこに訪ねてきたこの按摩とそっくりの、弟と名乗る盲が兄は死んだのだという。按摩に来るたびに彼女の髪の毛を拾い集め、それをしっかり握って死んだという話に身震いする彼女。
浮気性の恋人と所帯を持つために、金が入用な彼女は、この寡黙な兄とは似ても似つかない軽薄な弟が言い寄ってくるのを利用して、彼の金を巻き上げようと画策する。嫉妬に狂った彼女の恋人が途中激昂してその計画を暴露してしまうのだけど、そのことを気にすることもなく、何度も戻ってくるこの按摩がブキミ。
口八丁手八丁のこの按摩が腹に据え兼ねた二人が、彼を殺すことを決意。魚の鍋に薬を入れて毒殺しようという魂胆。釣ってきた、まだ息のある魚をぶつ切りにさばいていく描写からもうスリリング。なかなか毒のきかない按摩をハラハラしながら見守る二人……突然苦しみだし、悶絶の表情で絶命する按摩、そのシーンの恐ろしさ!
井戸にその死体を投げ入れたものの、再び出てきた兄の按摩の幽霊によって、この二人もまた死へと至ってしまうわけだが、ラスト、男が女と縁を切るため、兄の按摩の幽霊を演じることを頼まれたという男が出てくる。この事で怪談としての薄気味悪さは薄れたかと思いきや、彼の出てくるタイミングは時間的に微妙にズレており、彼女の見た方の幽霊はやはりこの兄の按摩なのだ。蚊帳の向こうで畳敷きにひんやりと沈むように座っている姿を思い出して思わず背筋が凍りつく。
いやあ、それにしても色っぽかったね。モノクロの情緒もまた筆舌ものの色っぽさである。こういうのが今は絶対に望めなくなっているのがやはり残念なんだよなあ。
ところで、蚊喰鳥って、なんだろう?
★★★★☆
物語は実ーに判りやすい。お殿様の寵愛が側室のおこよから八百屋出身(!?)の新参者、おたきに移ったのを妬んで、おこよがいろいろと嫌がらせをするわけである。これまた実ーにわっかりやすいやつを。なぎなたの経験のないおたきを試合に引っ張り出してメッタ打ちにしたり、おたきが可愛がっているネコが八百屋育ちだから魚を狙うんだと言いがかりをつけたり。こんなわかりやすい嫌がらせをしかもお殿様の前で堂々としちゃうあたりがスゴイ。そしてこれまた堂々と殺しちゃって、いけしゃあしゃあと自殺に見せかけちゃう。しかし、可愛がってた猫が乗り移って、化け猫になっちゃうんだな、これが。
あんなに可愛らしげでたおやかなお姫さまが、もう面白がってるとしか思えないブッキーなメイクで登場するんだから嬉しくなってしまう。しかも首だけすっ飛んでおこよの喉にかみつくわの大サービスである。あんた、ほんとにうらみつらみあんのかい!?と思うほどのはしゃぎ(!?)ぶりなのだから!
恐ろしい映画のはずが、実はかなりカルト色の強いオバカ要素が入っていたのがかなり嬉しい?かもしれない……。★★★☆☆
妾腹の子(時代を感じさせる表現だ)であることから兄である伊勢守に必要以上の劣等感を感じる水野形部。しかも兄嫁である萩の方に横恋慕していて、言い寄っている現場を抑えられ、辱めを受けてしまう。今までの恨みつらみも積み重なっていたのだろう、兄を毒殺、自分にべた惚れしている女を使って萩の方を自分の言いなりにするべく、苛め抜く。それともこれはこの女の個人的嫉妬心からかなあ?
なんにせよ、イライラするほど相変わらずか弱くたおやかな殺される以前の萩の方=入江たか子。それでもお腹に宿った伊勢守の子と、何かとかばってくれる家臣(こいつとの関係はちょっとあぶないが、結局最後まで何があるわけではないのだよな)を心の拠り所になんとか気丈に生きていくのだけど、最愛の子を水野形部が差し向けた狼藉ものに奪われ(途中、かの家臣が取り返して別の場所でひそかに育てる)、そのことに責任を感じた側近の女房が自害してしまう。すっかり傷心の萩の方は水野形部によって天守閣に閉じ込められ、てごめにされそうなところをかの女に止められるが、この女、嫉妬に狂って萩の方を刺し殺してしまうのだ。
……とまあ、化け猫になるまではかなりてんこ盛りな展開である。んで、化け猫になってからはそれまでの抑制が反動になっているかのごとく、おおいに楽しませてくれる。しかし今回は面白いことに二度、三度とこの土蔵に塗り込められ、この家に代々伝わる観音像で封印されたりして、化け猫もそれを破るのに近親の人の夢枕に出るなど懸命である。
そんで、やっぱりあの、猫手をクイクイやって催眠状態であやつり、女を逆立ちさせたりブリッジさせたりする場面が出てくるんだよな。はては床にべったり開脚までさせて、もう可笑しくてたまらない。そしてその後の化け猫さんの活躍はJACもまっつぁおの大バトルで、実際の戦いシーンもさる事ながら、ひらりと梁に飛び移ったり、ケムリと共に天高く舞い上がったり、なんてことまでしちゃう。そしてちゃんと首に噛みつくお約束もありますです。
ラストは、萩の方の供養をし終わり、あの家臣と姉の行方を追って城に駆けつけた萩の方の妹が天守閣にのぼり、妙にいいムードでそこからの展望を楽しんでいる姿が引きのショットで捕らえられ、“終”となる。うーん、そんなさわやかな終わり方でいいのかあ?★★★☆☆
「死国」や「新日本暴行暗黒史 復讐鬼」の山間の村での閉鎖的な空気ならまだ判ったけど、ここでは外界に海が開けているというのに、その閉じられた世界は同じ。しかしそれは海があるために、より顕著なのかもしれない。山よりも海は外界を隔てる大きな壁になるのかもしれない。だって、この海が穏やかに凪いでいるところは一度も映されないのだもの……。船が難破する時の荒波、エイミー(レイチェル・ワイズ)が崖に立って眺めている海もいつでも波立っている。ここを渡っては出て行けないという明らかな障害。そしてその向こうにある、未知のものへの畏怖。あるいはその海の果てに村の人々はこの世ならざるものを見ていたのかもしれない。神か、悪魔か。海を愛するエイミーと、その海の向こうから来た未知なる人、ヤンコ(ヴァンサン・ペレーズ)は悪魔にされてしまった。
この二人、ヴァンサン・ペレーズはもともとその流し目(!?)をよく言われていたし、レイチェル・ワイズの、圧倒的に意志的な瞳(と眉!)、絶対に屈しない肯定一本槍の瞳がとにかくものを言っていて、彼らは瞳で会話するのだ。どんな言葉よりもエモーショナルでエロティックな二人の目と目を合わす言葉なき会話。ヤンコがエイミーに交際を申し込みに行く時に手渡すリボンが彼女の瞳の色と同じ、スモーキーグリーンだというのも象徴的。しかし、その言葉なき、というのがあだになる、あまりにも哀しいヤンコの死。それまでは曲がりなりにも覚えたての英語で会話していたヤンコが、高熱に冒されて発するのは自分のふるさとの言葉。彼が訴えることが判らず、泣き叫ぶエイミーの悲痛さ。しかしそんな彼も哀しい。彼は自分がその時エイミーには判らない言葉を喋ったということを意識してなかったのだ。彼が「子供とは自分の国の言葉で話したい」と言っていたのを思い出す。愛する人と本当の言葉で語れない哀しさ。もちろん言葉よりも愛が、本物の愛がそれを乗り越えていることが描かれているのだけど、いや、本物の愛があるだけに、言葉の障害が哀しく、切ないのだ。豪雨の中を助けを求めてさ迷うエイミーを冷たく突き放す人々や、「なぜ出ていった!」とエイミーをせめる医師、ケネディの心無い言葉(逆にこっちが“てめえのせいでヤンコは死んだんだよ!”と胸倉をつかみたくなる!)に、悔しくて悔しくて涙が止まらない。
ケネディはヤンコが狂人などではなくロシア人であり、知性があることを見抜いて英語を教えた教養のある人だけど、エイミーが(ヤンコと同じく)変わっているのではなく、孤独を抱えているということが見抜けなかった。寛容な態度を取っているように見えながらも、彼が彼女にした仕打ちは村の人々と同じ。唯一エイミーを理解している、やはり孤独の魂を持つミス・スウォファー(キャシー・ベイツ)は車椅子で動けず、彼女を最大限に支えることは出来ない。全身全霊で彼女を愛し、理解しているのは、やはりヤンコ一人だったのだ。
彼女は一切の言い訳をしない。見てるこっちがもどかしくなるほど、どんな仕打ちを受けても何も言わない。でも自分のしていることには強固な誇りを持っているから彼女は恐ろしく美しい。彼女が「世界の果てまで彼を愛します」というラストの凛とした姿にそれまでの憤りが、背中がひんやりするほど感動になって大泣きしてしまう。ただ一つ、海に打ち上げられた難破船の水死体はあんなにきれいな状態にはならないと思うが……ま、そんな野暮なことは言いっこなしよね。★★★★★
最初に見せられるのは美人考古学者のアクションで、崖から落ちる直前のバスから間一髪脱出したり、スカイダイビングで逃げ出したりといった、ま、女性としては凄いけど、そんなもん?なんて思っていたのは、ワナだったのね(笑)。本作の主人公、ヴィンセントを演じるスタント馬鹿のハーディ・マーティンス(監督兼)が登場するや、おまえ、あほや!と言いたいほどの、自分で余計に引っ掻き回してるだろうとツッコミたくなる大スタント大会。どちらかというとカー(あるいは飛行機、ヘリ、などの空飛ぶもの、ショベルカーなんてのも含む)アクションが得意らしい。どうやったら芸術的に、連鎖的に衝突し、吹っ飛び、爆発するか。そう、ただただクラッシュしたり爆発するだけじゃないところにうならせられる。組織とのカーチェイスで(ここでまずひと盛り上がりある)ハンドルを切りそこね、車が空を飛ぶ、なんてとこまではまあよくある(?)。しかしその車が、たまたま(!?)そこにいたショベルカーのアーム部分にフロントガラスから突っ込んで宙ぶらりんになるなんているのを、しかもカットなしで!みせるんだから、もう度肝モノ(それでなんで当然のごとく生きてんだよ……)。地下鉄の中をゴーカート((笑)どっから調達したんだ?)でおっかけっこしたり(犬が引きずられているのが笑える)、トンネルにヘリがクラッシュするなんてのはお約束かな(そうなのか!?)。
しかし、カーアクションばかりではないのだった。こいつ、ジャッキーばりのアクションもやりやがる!上空で輸送機の腹の開いた部分(あそこは何て言うんだっけ?)での一対一のバトルは、うーん、どこかで見たことがある、ハリソン・フォードがなんかの映画でやってなかったっけ?というヤツなんだけど、もうしっかり、カメラ引いてます。そのまんま、CGも合成もカットでごまかすこともやってない!マジで、上空でやっちゃってるよ、こいつら……あほや!敵の車にひっつかまり、猛スピードで引きずられながら相棒にSOSの携帯電話をかけるわ(なんでそんな時にかける!?)、逃げる敵の飛行機にロープをつないで車でブレーキをかけ、止まらせようとするも、、車もろとも空に飛んでっちゃうとか、飛行機につながれたロープに捕まったまま上空高く舞い上がり、そのロープを切られてしまう場面なんて、イヤー!もうやめてえ!というぐらいの大迫力!ジャッキーよりスゴイかも……。
ほおんと、ストーリーなんてなかったら良かったのにねえ、というか、このあまりのアクションの凄さ&面白さで勢いあまって★★★★☆なんてつけちゃったけど、それがなきゃあ、かなりつまらん映画だぞ、これ(笑)。アクション部分だけで最初から最後まで突っ走ってくれてたら……あ、それじゃ、体が持たない?じゃあ、ストーリーの部分はあんな、しんねりねっちり語らんでも。早回しでさ(!?)なんでもこの監督兼ねた主演のハーディ・マーティンスは監督に専念したかったものの、やってくれる役者がいなくて(そりゃそうだろ……)自分で演じたとのことで。でも、彼、ただのスタントマンにしておくにはちょっと惜しいほどのハンサム。演技も平均点にイケてるし。なんでもヴィム・ヴェンダース監督の「時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!」にも出ていたんだとか(そういやあ、あれはドイツ映画だ)。うーん、そういえばいたかなこんな顔の人……。★★★★☆
その彼に惚れられる八千草薫の、三橋達也言うところの“この世のものとも思えない美しさ”もまた出色で、どこか生気の色を感じさせない不透明な白い肌、魅惑的なぽってりとした唇、その姿が人目を避けるように暮らす山奥の屋敷の中一人舞い踊る姿はまさしく妖気漂うという風情である。
彼女とまさに対照的な女性記者、これは佐多契子か、いつの時代も変わらず女性が男性社会でのし上がっていく難しさを匂わせてはいるものの、そこが現代ほど深刻にならず、楽天的なしぶとさで乗り切っている軽やかさがいい。現代でこういう風に描いたら、リアリティがない、と攻撃されそうだが、映画の中でくらいやはり女性ははつらつと働いていてほしいもの。面白いのは三橋達也演じる落ちこぼれ警官が、幼なじみのこの女性記者に、こんなむかない仕事は止めて、貴方にあった仕事を探してあげるから、と言われるところだ!
天才博士のための実験体になったがために意識の調節によってガス状態になることが出来るガス人間、その博士は彼に追いつめられて死んでしまうのだが、この博士はこれまでにもこうした実験を繰り返し、今後も続けるつもりでいたらしいことから「つまりは俺はガス人間第一号というわけだ」と言う男。ただガス人間、ではなく、ガス人間第一号というのが効いている。しかもただの空気ではなく、ガスだから、それによって人を殺すことも出来る。空気人間より、ガス人間の方がタイトル的にもよほどインパクトが強いものなあ。このあたりはさすが変形人間者を多く手がけて興行的にも成功を収めてきた東宝の企画力とでも言おうか。それとも円谷特技監督あたりのアイディアかな?
「金のかかる女性だ」と言いながらも、惚れた女のためにガス人間になって強盗を繰り返す男と、落ちぶれながらもプライドは高く、そのために美しさを保ち、男に対して愛してはいるものの正直な態度がとれ得ない藤千代。ラストは警察の謀略によってチケットを買い占められた発表会会場で、ガス人間を一人閉じ込め、爆破させてしまおうという計画である。しかし彼女は出て行くことを拒み、ひとり凛として踊り続ける。それに従う彼女の下男(?)と見守るガス人間がなかなか泣かせる。ガスの充満した会場で、「結婚しよう」と彼女を抱きしめる彼の背中にライターを点火し、もろともに吹き飛ばされる彼女。おおーっと、かなりシリアスな心中ものだったのね!?
変形人間ものシリーズはその奇抜さよりも、変形人間(婉曲にまわりと違う人間を指しているのか)の非業の最期の哀切が秀逸なのだな……今作に関してはそれが恋愛感情をも巻き込んだことでさらに増幅するものとなった。いわば美女と野獣の変形パターン、と言えるかも。★★★☆☆
在日韓国人二世作家、柳美里の原作による、日韓混合スタッフ&キャスト、オール日本語の韓国映画という、まさしく日本文化解禁の韓国でのエポックメイキングな作品なだけに、かなりガックリなのである。柳愛里はひいきの女優さんだけど、彼女のほんにゃりとして、なおかつ独特の暗さを持つ個性は全く生かされず、コメディにもなりきれずに空まわり。柳愛里自身が投影されているはずのAV女優の妹役、松田いちほはただただうるさく、弟役の中島忍は、一点を見詰めて棒読みで台詞を言うという、あきらかにネラッた自閉症演技が舞台くさくて鼻につく。実際は作家だという父親役の梁石日(ヤン・ソギル)のヘタさには目も当てられず、母親役の伊佐山ひろ子はステロタイプすぎて逆に興ざめ。キャストで全然ワクワクさせてくれないのはツライ。
しかし最大の難点は、“家族映画を撮る”映画という二重構造のスリリングさをちっとも感じさせてくれないこと。シナリオ通りにやっていたはずが、途中から本音が出てきてしまいには大ゲンカ……というくだりが、一体どこからがシナリオからそれているのか、今の口論はシナリオ通りなのか、全く判らない。そこを感じさせなきゃ、この映画の意味ないでしょうが!シナリオが呼び水となって家族の真の姿が出てくるはずが、下手すると全てがシナリオ通りに見えちゃうんだもん。これはでも父親役の演技の下手さに負うところ大だけどさあ。
ま、でもあそこだけは本物のケンカというシチュエイションなのは判ったよ。クライマックス、家族旅行に来てテントを張り、夜になったらどしゃ降りと強風で(もちろん作り物の雨風)、手前に体育座りして傘をさしてもずぶぬれの姉と弟、後ろに小さく見えるテントで父親と母親が悪口雑言のバトル。夜の闇は深い群青で、画的に惹かれるものがあった。
姉が尻フェチの老陶芸家に尻を撮らせるくだり、すっぱだかでポラに向かってバックショットではしゃぐ柳愛里の奔放さが楽しい。母親の愛人や、映画監督がもっと予想外に弾けたら面白かったかもしれない。いやでもなあ、大体これで面白い映画を撮ろうという方が間違ってるんだよ。つまんないもん、この設定。でもこの設定で面白い映画撮ったら、それこそスゴイ手腕だけど。パク・チョルス監督、「301、302」もそこそこって感じだったし、ドカンと飛躍して面白くする度胸はなさそうだもんね。在日韓国人家庭ということをことさらに見せず、現代の家族として描いていくという姿勢もなんか優等生的でイヤだし、ちらちらと韓国の影を見せるくらいなら、そしてこんなにつまらなくなるくらいなら、在日韓国というテーマをもっとバーンと盛り込んじゃった方がまだよかった。
原作はどうなのかなあ、おもしろいのかなあ。でも何たって“芥川賞”だからなあ、紙一重だよなあ。大体が自伝的作家って絶対行き詰まりというか、先が見えちゃうんだもん、阿部昭とかそうだし。読み手が息苦しくなってつきあいきれなくなってしまう。私は苦手だ。同じように自分を投影するなら、太宰くらい確信犯的になってあざむいてくれないと面白くないのだよ。
ラストカットで完成映画を観ながら、いかにも本音っぽいことを言うのだけど、その実やはりカメラがこちら側にいました、という、おーい、ありがちすぎるぞお、的なラストにもげんなり。飛躍しやがれ!★★☆☆☆
主人公の“ガッジョ・ディーロ”、よそ者であるステファンは(しかし、原題そのままの邦題、ここでは大いに問題ありと思うけどなあ。何のことだか、どんな映画だかさっぱり判らないもの。原題が一番いいとはどうしても思えないんだけど……)最初、なんだか汚い格好や無精ひげのせいか、村の人たちじゃないけど、ちょっと変な人のように見える。雪道の真ん中で「もう歩くのはやーめた」と片足を軸に回転し出すしさ(笑)。
しかし、ほんとにヘンなのは彼を執拗に引き止める村の老人、イジドールで、彼は一体何を根拠に、ステファンを信頼し、どこが気に入って引き止めているのか判らないのが可笑しい。言葉はお互い全く通じていないにもかかわらず、あまり気にもとめていないところが凄い。このイジドールとの出会いがふるっていて、宿がなくて途方に暮れているステファンを見つけ、「今夜はあの若者と飲み明かすぞ!」と勝手に決め、ステファンが安宿はないかと尋ねようと、ニノ・ルカのテープを聴かせて、この歌手は知らないかと尋ねようと(ま、言葉が通じてないんだから)全く馬耳東風(ちょっと違うか)で、ステファンにウォツカをしこたま飲ませる。ステファンを自分の部屋に泊まらせた翌朝、村の人々が見知らぬ男に不審を抱いて騒ぎ立てるのだけど、しきりに“巨大な男”と言うのが可笑しいのよね……。だって、ま、確かに背は高いけど、馬鹿高いというわけではなく、村人の中にもそれくらいの身長を持った人は結構いるのに、やっぱり、見知らぬ人は威圧感を持って見えるということか知らん。
村人にやんやと言われるイジドールの所へ泊めてもらったお礼にと酒を持って表れるステファン。この時に、あ、この人ハンサムかもしれない、とようやく気づく。村の子供たちが言うように歯は大きいし、おでこはやたらと広くて(広いというよりでかいという感じ)、ちょっとフランケン入ってるような顔立ちなんだけど、笑顔が優しくて。
彼をインテリ扱いしているんだかなんだか、やたらともてなすイジドールが可笑しい。彼に合う靴をよその家から盗みだしてきたり、上げ膳据膳のもてなしようだ。ステファンが「いつまでもいられないから」と村を去ろうとするとどこまでも追いかけてきてなぜ行くんだ、何か不満があるのか、行かないでくれと通じてないにもかかわらずしきりに懇願し、次のシーンでは根負けしたのであろうステファンがイジドールの部屋にちょこんと座っているのが可笑しくて。
ほんとにさりげないんだけど、風景が美しい。ステファンはなんだかんだと引き止められているみたいで、雪の季節から、野原に淡い若草色がふわふわと芽吹くまでが描かれる。特に雪!両側を真っ白に雪化粧した木々が続く雪道の美しさは見惚れてしまう。ニノ・ルカを探し出すことが物語の主軸にはなっているけれど、ここで描かれるのはコミュニケーション&ディスコミュニケーションの問題であり、言葉が通じることですべてが通じるのか、という疑問がイジドールの息子が村人たちにはめられて(と、イジドールは思っているけど真相は判らない)牢獄にいることで描かれ、一方で全く言葉が通じないステファンが、彼の邪気のない魅力で村人たちとしっかり心を通わせていることで描かれる。実際ステファンの“通じてないのに通じてる”様は魅力的で、通じてなくてもしきりに言葉や相手の言葉を真似する音声を発しているのがいいんだろうなあ。お互いの言葉が判らないのをいいことに、下品な言葉を言わせあったりするしているのが可笑しいんだけど、最後の方になるとステファンはこの土地の言葉をほとんど覚えてしまっているみたいだし。
音声といえば、ステファンが手製の蓄音機をつくっていつもイジドールの部屋にかけてある、彼の父親の歌っているものだというレコードの音を蘇らせるエピソードも印象的。それで村人の心を一気にほぐしちゃうんだもの。それでなくてもこの映画のテーマは最初からニノ・ルカの歌だし、イジドールは楽士でバイオリンなんかさらっと弾いちゃうし、やはり音楽の力は偉大なんである。唯一フランス語がわかる女性、サビーナとステファンは恋に落ちるのだけれど、“通じているのに通じていない”のはここでも描かれ、彼女の牢獄にいる夫(イジドールの息子)への思いや、彼女の家に放火されて全焼したうえ、夫が死んでしまったときの苦しみをステファンは支えきれず苦悩することになる。ステファンは何を思って、彼らの歌を収めたテープを葬ったのかなあ。それを車の中から見つめるサビーナの笑顔に、彼ら二人の未来は大丈夫とは思うけど。★★★☆☆
と思うほど、この作品、世に流布している、ファンタジックで御伽噺的なイメージとはかなり違う、もっと突っ込んだ社会性をも持った作品なのだ。確かに一つの画面の中でモノクロとカラーが混在する手際は素晴らしく息を呑むし、それゆえのクラシカルでリリカルな魅力も満載なのだけど、実際監督が言いたかったのはそんなところにはない。……ただその言いたかったことを盛り込みすぎたというか、そのリリカルな部分との共存がなかなか難しく、空中分解してしまっている印象もなきにしもあらず、なんだけど。
モノクロのなつかしドラマ「プレゼントヴィル(“PLEASANTVILL”これが原題。愉快な、楽しい、快適な街というニュアンスか。次第に判ってくるのだが、これが実に深い意味を含んでいるのだ。だからこそ邦題をもっと考えてほしかったのだ)」オタクのデイヴィッドは奇妙な老人からもらったリモコンのせいで、なんとこのドラマの中の世界に妹のジェニファーとともに入り込んでしまう。このあたりはふと「カイロの紫のバラ」を想像しなくもない。あれは画面の中の主人公がこちら側に抜け出てしまう話だったっけ。映画(あるいはテレビ)ファンの考えることはいつでも同じなのだ。希望の持てない現代にうんざりし、いつも穏やかな日常が優しい両親の下で繰り広げられるこのドラマの大ファンだったデイヴィッドは戸惑いつつもすぐにこの世界に順応してしまうが、とばっちり的につれてこられたジェニファーは「こんなダサい世界!」(50年代の設定だからね)とぶんむくれ。しかし現金なことに自分にふられた役、メアリー・スーに好意を寄せているというハンサム・ボーイに目がキラリと光り、デイヴィッドが止めるのも聞かず、“性欲のない”この世界を壊しにかかる。
ドラマの中でいつもいつも同じ事を繰り返し、そのことに何の疑問も持たなかった人たちが……それゆえに中味もなーんにもなかった人たちが、二人の出現で大きく揺れていく。「君がレタスをのせないとチーズバーガーが出来ない」というくらい、毎日同じ事の繰り返しをしていた軽食屋のご主人、ビル(ジェフ・ダニエルズ)が、その歯車がほんの少し変わっただけで、その新鮮さにカルチャーショックを受ける。そしてデイヴィッドがちょっとヒントを与えたことで彼は自分が絵に生きがいを持っていると気がつくのだ。そしてジェニファーの手ほどきによってあっという間に広まる恋愛もといセックスの広まり。セックスを知った人から順にモノクロがカラーになっていく!デイヴィッドが演じるバッドとメアリー・スーの母親はなんとセックスのことを知らず(と言うことは父親もだろうが……物語の中だけの、作られたキャラクターだからね)、ジェニファーの入れ知恵でマスターベーションを知ってしまい、彼女の歓喜が庭の木に火をつけてしまう。火というものすら知らなかった街にとって大事件である。火は人間の進化の象徴だと説いていた評論家さんがいらっしゃったが、やはりそれよりそのものずばり、セックスの目覚めだろう。映画(に限らず小説などでも)の中では実に古典的な手法として火がその暗示として使われていたし。古くは「伊豆の踊り子」から、現代でも性描写を映すことを禁じられているインド映画(例えば「ボンベイ」)にそれを見ることが出来る。
セックスが人をカラーにしてしまうと最初のうち思っていた(観客も)のに、最初から奔放にセックスしていたジェニファーはいぜんモノクロのまま。しかし彼女にも色がつくときがやってくる。それは彼女が生まれてはじめて本を読み通した時。どうやら人間として何か目覚めるものがあったというようなとき、色がつくらしいのだ。これは後日談で語られるのだけど、現代の世界では自分のことを頭が悪いのだと思い込んでいたジェニファーが知識欲に目覚め、このプレゼントヴィルでなら大学に行ける、とこの世界に残ることを決意するのだ。このエピソードはなかなか気がきいている。
変化を喜ばないモノクロ人間たちによって、色つき人間を制裁する動きが出てくる。その発端はかの二人の母親(ジョアン・アレン)が軽食屋のビルと恋に落ち、家を出ていってしまったこと。「家に帰ると妻がいなくて、夕食もないんだ」と呆然と仲間に訴える父親(ウィリアム・H・メイシー。その特異な顔の造作がこの50年代のホームドラマの父親にぴったり!)。この“夕食がない”というところに異常に反応する仲間たちは、やはり仲間の一人がシャツの背中にアイロンこげを作られたことを一大事のように披露し、この世界を直さなければならん、と一致団結する。そうか、この時代はそうした家族や夫婦間の問題が初めて浮き彫りにされていく時代だったのだ。それまでモノクロの中に色つき世界が乱舞することに単純に楽しんでいた雰囲気が次第にこの世界の存在意義、人間のあるべき姿という問題提起へと発展していく。
この夕、この街には初めての“本物の”雨が降り、狂喜する人々。次の朝には彼らの多くがカラーになっている。その中で一人、デイヴィッドだけがモノクロで呆然と池の淵に座り込んでいる姿にいささかギョッとする。彼はまだ自分の存在意義を見つけられないでいるのだ。このプレゼントヴィルの世界が居心地良かったのも事実。どっちつかずの自分を持てあましている彼をカラーになった恋人がじっと見つめている。しかし街でモノクロ人間に絡まれている母親を助けたことで彼もまたカラーへと変身する。おもむろに息子に鏡を見せる母親。大人になったことを祝うかのように静かに抱擁しあう二人。
街には「有色人お断り」の看板を掲げた店があらわれ、人種差別の問題にも言及していることが判る。そしてデイヴィドやジェニファーによってページが埋められた本が次々に焼かれるまさしく“焚書坑儒”な場面。そして禁止色、禁止曲。表現の自由の弾圧というやつである。作り物だった街が豊かになっていった要素が害毒として排除されようとする。どこの国でも一度は通る道。これをなくして豊かな文化を持つことは有り得ない。ここで原題の意味が生きてくる。見せかけだけのプレザント(快適さ)ではいられないのだ。モノクロ人間たちは今までの見せかけのプレザントが本当のプレザントだと思っている。しかし違うのだと。でもそれによって失うものがあるのだけど……。冒頭に示された現代の病気……エイズや地球温暖化など……が豊かさがもたらす弊害を指しているのは明らかである。しかし彼らは裁判で豊かな、中味のある自分たちを求めて闘う。この裁判場面では多分に言葉による説明に依っていて感動的要素が薄れてしまううらみがあるのだが……裁判好きのアメリカ映画だからしょうがないかなあ。
裁判に勝ち、街のすべてがカラーになった後、デイヴィッドはもとの世界に一人戻ることを決意する。観ている時は、何で戻るのか、このままここにいればいいのに、と思ったのだが、後から落ち着いて考えてみると、そう、彼はその現代に残された豊かさの弊害を責任を持って受け止めようとしたのかもしれない、と思い当たるのである。涙ながらに見送る母親と恋人を後に、自分の世界へと戻るとそこには、冒頭で愛人と旅行に行こうとしていた母親がキッチンで化粧も落ちる勢いで泣いている。「急にむなしくなったの。彼が若くても私は若返らない」「きれいだよ、ママ。本当に」そう言ってそっと母親の涙を抑えるデイヴィッド。プレゼントヴィルの世界の母親にメイクを施した時もそうだったけど、男性が女性の顔に触れるというのが……特にこの男の子(トビー・マグァイア)がそれをやると、内面的なエロティックさというか、何ともいえないドキドキ感がたまらなくいいのだ!突然大人びた息子に驚く母親に「いろいろ経験したんだ」と微笑むデイヴィッドは、向こうの世界でジェニファーに別れしな「お兄ちゃん、すっかりクールよ。どうしたの」と言われたのも納得の、冒頭のデイヴィッドとは別人のよう。そう、このトビー・マグァイアの、50年代にもぴったりはまるクラシカルなハンサムボーイは、そうした内面的な変化もしっかりスクリーンに刻み付けるその演技、かなり今後が要注目なのだ。
結末としては現在(カラー)の世界を讃歌しているわけだが、モノクロ世界の描写が瞠目モノ。古典的な顔の俳優とメイク、衣装できちっと撮っているせいもあって、モノクロ映画の美しさを久々に堪能できた。★★★☆☆
そう、これはタイトルが「カラオケ」。そして佐野史郎初監督作品。これじゃ、期待しちゃうでしょ、普通。自己陶酔と自分勝手、協調性と連帯感が、奇妙に融合してしまう、矛盾に満ちたこの魅力ある日本人の生み出した文化を、個性派俳優で心の中で何かヘンなことを考えていそうな佐野史郎氏がどう料理してくれるのかって。それが、前半の人物説明的シークエンスからようやっとテーマであるカラオケに興じるところにたどり着いたかと思ったら、そのカラオケシーン、この世代の人々が共有したナツメロをただひたすら楽しんで盛り上がっているだけという印象しかないのだ。これじゃ、普通の人のカラオケやっているのを見せられているのと同じではないか。佐野監督は「時代を超えても説得力を持つメロディや歌詞の良さをそなえているものを選んだ」などと語っているが、メロディも歌詞も断続的でまさしくカラオケ屋で垂れ流し的に聞こえてくるだけの印象だし。彼らが自分たちのルームに案内される途中、若者のグループが盛り上がっているのをドアごしに見て「今の音楽はみんな同じに聞こえる」などとほざく場面があるが、自分たちの時代の音楽(音楽ばかりとは限らないけど)を後生大事に宝物扱いし、感性を磨くことがないために、他の音楽の良さを理解できない頭のカタさを露呈しているとしか思えない。
中学時代の同級生である佐野史郎がアイドルと結婚した、という魅力ある設定も何ら生かされることはない。この若い新妻の姿が一向見えてこないのだ。彼女は妊娠しているんだか、何か体調を崩しているらしく、旅館先で終始不機嫌な顔をしていて、彼女を残して同窓会に行ってしまった夫は朝まで帰ってこない。東京へ帰る途中、自ら運転する車で事故を起こし、佐野氏は即死、自身も意識不明の重体という重い結末を迎えてしまう。ひょっとしたら彼女は自殺(心中)だったのか、彼女の心のダークサイドをちゃんと描いてくれていたら、この作品は抜群に良くなっていたに違いないのに。なぜ、彼女の描写をおざなりにするのか理解に苦しむほど、自分たちのたあいない内輪話に終始しているのだもの!
中学時代、仲が良かったという佐野氏、段田安則、黒田福美の三人を中心に、集まった7人の感情の連鎖がカラオケと酒の狂乱の中に描かれるという趣向は、こんなの、第三者が見て何が楽しいの?というほど陳腐。7人しか集まらないのは、幹事をつとめる段田氏が、もう最初から内輪の仲のいい人たちにしか声をかけていないという感じすらして辟易。ま、ここがそれだけ田舎で、みんな東京とかの大都市に行ってしまったということなのかもしれないけど(集まった人たちは、昔からの自営業をついでいるパターンが多いし)、でも、他の都市に行ってしまった人には声をかけてないのかなあ。そうした閉鎖的な地方都市の味わいもまたあいまいに過ぎる。段田氏の息子で、まさに反抗期真っ盛りの中学生である男の子が、ホモのストーカーにつけねらわれ、ツバをねだられるというワクワクする展開もあるのだけど、このエピソードも中途半端なんだよなあ。段田氏が自分の経営する写真館(この写真館という魅力的な設定もぜえんぜえん生かされない)でボーっとしている時、その後ろをこのストーカーが忍び込んでくるのが鏡に映るというスリリングなシーンまで用意されているのに、その後の展開が何一つ描かれないし。大体、この中学生の描写、寒すぎるんだよなあ。いくら地方都市だからって、男の子が、まだ付き合ってもないクラスメートの女の子を、名前にちゃん付けで呼ぶか?自分たちの中学時代に思いを入れているのかもしれないが、それは思いの入れどころが違うだろう……カラオケ屋で援助交際しているいまどきの(死語か?)女子高生、という描写があるのと矛盾しているしさあ。
そしてラストは、彼らの中学時代の思い出の曲であるというカルメン・マキの「戦争は知らない」が、佐野氏の追悼ソングのようにして歌われる。カラオケのバックは、戦争の場面や、学生運動の映像で、いきなりメッセージ色を色濃く打ち出してくるのに困惑せずにいられない。この世代の人たちにとっては共通認識で心にグッとくるのかもしれないが、これもまた内輪ウケであり、しかも他の世代の人たちにとっては非常に居心地の悪い、置き去りのされかたなのである。実際には戦争を知らない世代の人たちに、正義を振りかざした戦争論を意気揚々と語られるほど後味の悪いことってないかもしれない……などと思ったりして。中途半端な保守的さ。それに今までの展開のカラーから明らかに浮いてしまってるし。佐野氏が死んだことでいきなり家族の結びつきを実感する段田氏、という描写もまたお寒い。
ああー、もう、つまんなかったよ。こうしてぐだぐだ思い返してみると、やっぱりつまんなかった!★☆☆☆☆
しかし何と言っても面白かったのは、二人のけったいな展開よりも、同じアパートの奇妙な住人たちの顔ぶれ!一番手を叩いてしまったのは自分で山奥まで探しに行った水を売っている塚本晋也監督!自信のあるその水を大家さん(渡辺えり子!)に飲ませると、彼女が腹痛をおこしてしまう。結局それは水のせいではなく、彼女の食べあわせが悪かったんだけど、彼女のつばめ(!)であるボクサーの男性(試合ではむっちゃ弱い)が、塚本監督の部屋へ怒鳴り込んできて彼をぶちのめしてしまう。そんで、やはりアパートの住人である泉谷さんが塚本監督を介抱するんだけど、これがなんだかあやしくて、誤解だったことを謝りにそのボクサーが訪ねると、何と塚本監督に泉谷さんが添い寝しているのだ!そしてそのボクサーの突然の登場にビックリして起き上がる二人。まるで“その”現場を押さえられたカップルみたいでやたら可笑しい!そのあと、塚本監督は目の当たりにせっせとメイクをする描写も出てくるし(そう言われれば妙に葉月里緒菜チックな黒目がち&くまどりな目だった!)とにかくやたら怪しい(妖しい?)のだ!
そして北村康改め北村一輝の登場の嬉しさよ!北村さん、最近ちょっと痩せすぎな感じで心配。もう最初っからパンを食べながらエッチビデオをじいーっと見てる場面で、昼に夜に繰り返される隣室の喘ぎ声に、最初のうちは興味津々で聞き入っていたのが、次第に夜も眠れなくなり激昂する。水色縦ストライプのパジャマ姿で大家さんの部屋にちょこんと正座し、怒りまくってまくしたてる様がユーモラス。そしてやたら扇情的なカッコで(「一条さゆり 濡れた欲情」の伊佐山ひろ子ばり!)買い物に出かけた邦子をつけ、彼女が誘拐された女子高生であること、彼女の首に賞金が懸けられていることを知り、警察署に飛び込むが二分遅れで彼女が保護されていることを知り「遅かったの?」てなギャグな情けない表情で崩れ落ちるのもグー!岩岡の勤める会社の事務員で、やったら岩岡に言い寄って急所をぎゅうとつかむ石井笛子、この人、このアナウンサーチックな雰囲気でこういうことやるからさらに隠微な可笑しさが漂う。それを見るともなしに見てしまう同僚の男性の微妙な表情も可笑しい。
ついに警察に捕まり、国選弁護人と面会している岩岡が途中で音声を切られて口だけが動いているショット、あれ何言ってるの!?★★★☆☆
神田川を挟んで向かいのマンションを望遠鏡で覗く二人は“少年が母親に犯されている”のを発見して「これはいかん!」となるのだけれど、浪人生と思しきその少年、部屋中にマジックで描いた暗記すべき英熟語カードや、変な進路標識なんかがあって、どうもオカシイ。母親の愛撫にも積極的に応えている様子で、その愛撫の仕方も、双方ともにかなりオカシイ。ハンメルンの笛吹きのようにフルートを路上で(!)吹きながら練り歩いている少年はどう考えたってオカシイ。受験勉強に行き詰まったのか、橋の上から飛び降りようとした少年を母親が間一髪引き止めるんだけど、そこでどうしたことか母親が突然声高らかに歌いだし、それにあわせて少年までもユニゾンし、手の振りまでつけ、最後はハモってしまうという凄すぎるシーンをワンカットでカメラ据えっぱなし!
正面から行ってもダメ、窓から行ってもこの母親に怪力で追い返された二人が手に花火を持って再度窓から突入する。母親をすまきにしている間、少年はしゃがんで花火をじっと見てみたり、フルート吹いて跳ね回ってみたりとやはり相当オカシイ。ここで女子大生に“犯された”少年、母親の体にしか反応しないように仕込まれていたかと思いきや、その後この女子大生を求めて神田川を横断!連れ戻そうとする母親と女子大生、少年の3人が川の中でくんずほぐれつ、蹴飛ばし殴り飛ばして闘う様が、女子大生の恋人がOLとセックスしているシーンとのカットバックで延々と繰り広げられる。
最後は何と、母親を戸板に乗せて流れに向かって蹴飛ばしてしまう少年!晴れて二人っきりになり、全裸になって屋上でセックスする二人、ゴロゴロ転がり屋上の柵ががたんとおっこち、少年が声も立てずに落下してしまう!本気で唖然!そして女子大生も続けて飛び降りてしまうのにさらに唖然!一体なんなんだー!!★★★★☆
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