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「て」


1999年鑑賞作品

テオレマTEOREMA
1968年 98分 イタリア カラー
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ 脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:ジュゼッペ・ルッツォリーニ 音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:テレンス・スタンプ/シルバーナ・マンガーノ/マッシモ・ジロッティ/ラウラ・ベッティ/アンヌ・ヴィアゼムスキー


1999/10/18/月 劇場(ユーロスペース)
一人の青年があるブルジョワ家庭に来訪し、その家庭が崩壊していく。その崩壊を表現するかのように、この映画内の時間の流れやリズムもまた崩壊しているといえる。青年は家族の全て……主人、妻、息子、娘、使用人を一目で魅了し、性的関係を(殆ど向こうから迫られて)結ぶのだけれど、一見して青年は同じ時間、すべての場所に居合わせていて、同時進行で彼ら全てを恍惚に導いているかのように思える。

台詞がほとんど無い。この青年にいたっては、一言も喋っていないんじゃないかと思えるほど(実際は二言三言位は喋っていたかな)。青年を演じるのはテレンス・スタンプ。「私家版」での美しい物腰で復讐を遂げる古書の贋作者がひどく素敵だった彼(ああ、「プリシラ」を観ていないのだ!)。そういえばテレンス・スタンプはどこの人?とりあえずイタリア人でないことは確か。「プリシラ」はオーストラリア映画で「私家版」はフランス映画だったけど、彼は英国人?え、違う?何にしても“美しい異邦人”ぶりはこの頃から健在で、すらりとした体躯と柔らかな金髪、冷たいまなざしと相反する口元の優しげな笑みが老若男女を問わずひきつけてしまうのが良く判る。そして、時間を超越する感覚を与えるのも……でも、この感覚は私だけが感じたのだろうか?

青年によって初めてつぼみを開かれた少女は彼が去った後、右手を強く強く握り締め、目を見開いたまま意識を失ってしまう。少年もまた、相手は同性だったけれど、性的体験は初めてだったのかもしれない。素っ裸で寝ている青年の毛布をそっと外して覗き見たところに目を覚まされ、自分のベッドに逃げ帰るものの、青年が少年のベッドにかけ、その後は暗示的にカットアウトされる。妻は青年がいなくなった後、同じような背丈、同じような髪の青年を街で拾いまくり、ことごとにセックスをする。主人は駅でいきなり服を脱ぎだし、素っ裸になり(!)、あてどもなく歩き出して、荒野にたどり着き哀しげな叫び声をあげる(これがラストカット!)みなそれぞれに哀れで痛ましくて自我が他人によってこれほど簡単に崩壊してしまうのかと、目を見張ってしまう。

しかし中で一番印象的だったのは見るからにカタブツそうな使用人の初老の女性。本を読みふける青年を凝視し続け、突発的にガス自殺を図り、それを助けた青年の前で横たわりスカートをたくし上げる。表情は能面のように変わらないのに、とめどなく涙はあふれ、頬は紅潮し、青年の手に熱く接吻をするのだ。彼が去った後、彼女は屋敷を離れ、帰郷する。ものも食べず、苦い草(聖書に出てくるニガヨモギか?)だけを食べ、屋根の上高く、空中に浮かんでしまうのだ!そしてその後、彼女は自らを土中に埋める。目から流れ出た涙は、小さな水たまりとなる。

正直言って、面白い作品では全然ない。台詞はないし、リズムには慣れないし、もう観てる間中辛くてしょうがなかった。ただ、家庭や、人間や、人間関係という、それぞれの小宇宙が、人の秘めたるセクシャルな欲望を引きずり出されることによって、崩壊すること、そしてその様を、まるで詩歌のように綴っていく手法にやはり唯一無二な力を感ぜずにはいられない。★★★☆☆


DEAD OR ALIVE 犯罪者
1999年 105分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:龍一朗
撮影:山本英夫 音楽:遠藤浩二
出演:哀川翔 竹内力 柏谷みちすけ 小沢仁志 山口祥行 やべきょうすけ 杉田かおる 倉沢桃子 寺島進 ダンカン 石橋蓮司 本田博太郎 鶴見辰吾 平泉成 塩田時敏

1999/11/29/月 劇場(中野武蔵野ホール)
このラストシーンをやりたくてこの映画撮ったんじゃないの!?と思うほど、なんとゆー、キているラスト!予告編でも使われていて、一体なんなんなんだあー?とワクワクしていた、哀川翔の背中からミサイル?大砲?がズコッ!とばかりにでてくるショットも凄かったが、それに対抗?して一方の主役である竹内力がなんと腹の中から光る石?をズアッ!と取り出す……って、オイオイオイ!二人の放った火炎放射?が衛星写真みたいな日本の地図の真ん中から飛び出してくるという、そこまでやるかあ!?しかもそこでカットアウトでクレジット、うっわー……。

と、こういうラストになったのも、哀川翔扮する城島刑事が妻と娘を自分の身代わりに吹っ飛ばされた(このシーンは凄かった)ための怒りからくるというもので、まあ確かにそこまで激烈な怒りでなければ大砲までは取り出さんだろうなあ。もう、怒りで常識の力を超えちゃっているのか、車がクラッシュして空高く舞い上がり、地面に車ごと垂直落下(!)してもまだ死なずに横転した車から這い出し、そんな狭いところにどうやってあの大砲を隠してたんだかというヤボなツッコミすら受け付けない気迫。この場面、哀川翔も竹内力も、なんでそんなんなってるのにナカナカ死なない!?倒れそうになる寸前で「ぐあああー!!!」と一歩出した足で踏みとどまるのには思わず大向こうから「イヨッ、ナントカ屋!」と声をかけたくなるほどのオットコマエ!

お話といえば、三池監督お得意のチャイナマフィア&ジャパニーズマフィア&警察の抗争もの。こうした世界に詳しいのか、中国残留孤児に詳しいのか、はたまた新宿歌舞伎町に詳しいのか知らないが、この猥雑な雰囲気と、どこかインチキでバカなやつらの匂い、アーンド、クール&タフガイな男達を描かせたら右に出るものどころか、唯一絶対なお方。っつーわけで、男クササは百点満点だが、女性の表現となるとちょっとだけど。ま、ここではそんなもないらないし、私にとっては哀川翔が全編出ずっぱりなだけで嬉しいのである。

今回哀川翔は刑事役。おおおー!彼がチンピラでもマフィアでも一匹狼の殺し屋でも、麻薬の密売人でも、鳶職でもトラック野郎でも工事現場のあんちゃんでもないなんて!(……ほんとにこれらの役全てやってたかな……)短く刈りあげた頭が似合っている。彼は天パ気味なので(多分)伸ばしてたりオールバックしてたりすると、どうも古くさい髪型になってしまうのがアレだったんだけど、この頭はいいねえ。ブルドックみたいに精悍。それにこの顔だから今一つ気付きにくいのだけど、彼結構腰高で足が長くてスタイルがいいのだ。妻と娘が城島刑事(哀川翔)をたずねて署に来る場面で、上着を脱いで腰に拳銃をさしている彼の全身像のカッコよさを見よ!家族三人ファミレスでの食事会で、オムライスを頼む彼と、台湾マフィアから麻薬押収した時に、麻薬を隠すために一緒に運ばれていたバナナを食う彼が個人的にお気に入りだッ!(なんだそれ)

もう一方の主役は竹内力。哀川翔以上のこの強面じゃあアウトロー以外は出来ないだろうという役者に成長?したタフガイ。哀川翔とは初共演というのは意外だが、双方ともにこの手の作品での主役をはることが多いからだったのだろうな。冒頭、この二人がヤンキー座りをしてつぶやくようにカウントダウンして映画が滑り出す。視覚を刺激する目くるめく無数のショットの連鎖はこれから始まる“爆裂映画”のプロローグとして最適!

「日本黒社会 LEY LINES」から再登板の柏谷みちすけ(享助からひらがなにしたのだな。確かに読めないもんね……)は、ここでも純真真面目な青年を好演。なるほど、竹内力がこの弟を自慢にするのもよく判る。そうそう、竹内力の怒りの源の多くはこの最愛の弟を殺されたことにあるわけで。悪の稼業に手を染める兄に落胆しながらも、やはり兄弟愛には打ち勝てず、加勢して兄のかわりに銃弾を受けてしまう弟、冬二。このはかなさにぴったりの刹那的な美しさをもつ彼。そして「日本黒社会……」からの再登板組といえば、田口トモロヲ&北村一輝!アフロヘアでバカ丸出しのチンピラ、トモロヲ氏は判ったが、クレジットされていた“謎の踊る男”=一輝って北村一輝のことだよね!?どこに出てたあ?そのほかにもちょいと豪華すぎるんでないかい?と思うほどの、このキャストのメンメンはどうだ!情報屋の獣姦専門?のエロ雑誌編集者=ダンカン、ヤリテの組若頭=石橋蓮司、子煩悩刑事=寺島進、竹内力の相棒(子分?)=小沢仁志、山口祥行あたりはもちろんのこと、個人的なお気に入りはナサケナイ刑事、本田博太郎だなあ。「金融腐蝕列島[呪縛]」でもそうだったけど、こういうオドオドした小物ぶりが妙にハマッていて笑える。仕事なんてやる気無くて、屋上で尺八ばっかり吹いてる(しかも何本も持ってる……)上司(平泉成)も良かったなあ。中国人マフィアを嬉しそうに演じてた鶴見辰吾や、映画評論家なのになぜこんなことしてる!?な桜井組組長に扮する塩田時敏氏(田口トモロヲ氏と仲良しさんだから、その縁かな?)などなど面白すぎるぞ!

三池監督って、こっちが怖くなるほどの真摯さで迫る時と、凄くラフな感覚で撮る時の境目がキワキワで、たまらなく好きなんだよなあー!★★★★☆


dead BEAT
1999年 80分 日本 カラー
監督:安藤尋 脚本:安藤尋 伊藤秀裕 長田敏晴 及川中
撮影:鈴木一博 音楽:大友良英
出演:哀川翔 村上淳 真野きりな 根津甚八

1999/8/10/火 劇場(シブヤシネマソサエティ/レイト)
ムラジュン主演かと思っていたら、哀川翔がトップクレジットの、まごうことなき哀川翔主演映画!(なぜかどの媒体でもムラジュン主演のように書かれているのだが……やはり彼の人気と知名度ゆえなのかしらん)うっ、うっ、嬉しいー!ああ、哀川翔が出ずっぱりの映画、なんて久しぶりなんでしょう!この安藤監督に関しては初見だし、私は情報を持たないのだけど、もう、哀川翔を主演に迎えて、彼の魅力をこれだけ判ってらっしゃるだけで、パーフェクト!

主な登場人物は、四人。この哀川翔扮する柴田、彼のもとで動く真(村上淳)、売り飛ばすために真が盗んできたベンツのトランクに放り込まれていた“生き返った死体”エミ(真野きりな)、情婦のエミを殺そうとしたヤクザ、上村(根津甚八)。客のいないバーを経営している、どうやら過去にヤクザとして殺しの経験もあるらしい柴田が、膨大な借金を清算するために真を使って車とばしをしている。その盗んだベンツにはボストンバッグに詰め込まれた大金と、トランクには左目に眼帯をした女の“死体”。死体を森の中に捨てようと車を飛ばして再びトランクを開けると女の目がパチリと開き、一目散に駆け出す。それを追いかける二人。柴田が追いつき、女を組み伏す(いいなあ……哀川翔に組み伏されるなんて)。「何もする気はない。あんたが生きているにこしたことはないんだ。なんだってあんた、あんなところにいたんだ」「わからない、おぼえてない」記憶がないというその女を仕方なくバーに泊める柴田。柴田に黙って大金を持ち帰る真。

自分のことは“とりあえず”エミと呼んでくれというその女は、実際は記憶を無くしてなどいない。店から自分が情婦をしていた、自分を殺しかけた男の携帯に電話を入れる。無言。その男、上村は“死体”のみならず、横領した組の金もろとも盗みさられたことで、血まなこになってベンツの行方を追っている。いなくなったエミのかわりに、他の女に眼帯をさせてプレイを楽しもうともするが、身が入らない。

そう、この眼帯。「この左目はあなただけしか見ない。この眼帯をしている限り、あなたのことを意識し続ける」という“約束”のもとにしているというもの。このセリフにはしびれた!演じる真野きりなは、その角度を持った眉と小さくつり目気味の猫目、きゅっと小作りな唇、すべてのパーツが個性的で、ふてぶてしい存在感を否応無しに放ってくる。この若さで愛人ではなく恋人でもない、情婦を演じられるのも納得。

携帯の記憶機能でバーの場所を突き止めた上村が柴田を訪ねてやってくる。このベテラン二人の息詰まる攻防戦はストイックな男同士の色気を放って圧倒的。画面の左右ギリギリ端っこに彼ら二人を配置して、お互いの腹を探らせる異様な緊迫感。柴田はエミに関わらないようにと注意を促すためママチャリを駆って真の部屋に赴く。「やばいんなら逃げちゃいますよ。一緒に行きますか」という真に「俺は暇が好きだから」と断る柴田。隠れて二人の会話を聞いていたエミが、柴田が帰った後真に言う。「ほんとは来てほしかったんでしょ。柴田さんが好きなんだね」無言の真。「柴田さんは暇が好きなんだけど、俺はそんなの判んない」と言っていた真だが、そう、エミの言うように柴田のことが好きなのだ。きっと誰よりも。消しようもない過去を背中に背負って静かに暮らしている柴田が。黒を基調にしたラフな格好をして、時にはサングラスをかけ、ママチャリに乗る姿すらもカッコ良すぎる哀川翔!仕事がら時間が遅く、家族ともすれ違い、子供の寝顔をのぞくぐらいしか出来ず、昼間、がらんとした部屋で仰向けに横たわる柴田は、家族がいるにもかかわらず孤独を全身にまとっている。

金と女を追って真を追いつめる上村と、上村を追ってくるヤクザ。途上、エミは柴田に電話をかける。「ねえ、そこで何待ってるの?」その言葉が柴田の心のどこを揺さぶったのだろう……車を飛ばして真たちを追う柴田。そこではすでに、上村に殴り倒されてボコボコになった真と、上村に左目を打ち抜かれて今度こそ本当に死んでしまったエミ、上村との銃撃戦でヤクザたちは死に、上村自身も瀕死の状態になっていた。まず柴田は真を救い出し、落ちていた拳銃を拾って息も絶え絶えの上村に近づく。「あんた、幸せそうだね」と上村に話しかける柴田。「……あんたは……」その後の言葉が続かず、銃を向け合いながらもぱたりと息絶えてしまう上村。それを引き取って柴田が言う。「幸せだよ。家族いるし、借金あるし」すでに絶命した上村に一発、二発と弾丸を撃ち込む柴田。……なぜだか……このセリフには打たれてしまった。そしてこのシーンでもまた感じてしまう男同士のエロティシズム。やはり引きの画面で両端に二人を置き、静かに銃を向け合うショットは、お互いに撃つ気がないのがよけいに奇妙なエロを感じさせる。

そして真を車に乗せ、走り去る柴田。そこに落ちていた大金に気づいていなかったんだか、手もつけずに。いや、“借金がある”ことを幸せだといった柴田だもの、気づいてはいたんだろう。彼にとっては借金が、自分の存在証明と家族への愛、絆、なのかもしれない。山のように来る督促状で紙ヒコーキを作る彼が見せる静かな微笑は、投げやりなものではなくて、幸福の微笑なのだろう。それにしても……柴田と真の二人が生き残ったのだ……。ある意味、真の想いの成就。この二人は分かちがたい関係なのだなあ……世間から存在を否定されているような、“人間失格”コンビが、お互いを支えあって生きている。その片方は片思いにも似た感情を持っている。……この切なさが、たまらない。

あああーそれにしてもそれにしても、やっぱり哀川翔、めっちゃカッコいいいい!!なぜ観客が4人しかいない!?★★★★☆


天使が見た夢LA VIE REVEE DES ANGES
1998年 113分 フランス カラー
監督:エリック・ゾンカ 脚本:エリック・ゾンカ/ロジャー・ボーボット
撮影:アニエス・ゴダール 音楽:
出演:エロディ・ブシェーズ/ナターシャ・レニエ/グレゴワール・コラン

1999/2/22/月 劇場(シネスイッチ銀座)
ひょんなことから同居することになるイザベルとマリー。この二人の関係には絶対に恋の感情があったと思う。少なくともイザベルの方には。最初に声をかけた時から、いや、彼女を目にして声をかけようと思った時から、彼女の中にはその感情が働いていたと思う。彼女は最後まで男と寝ない。最初のうちマリーとはしゃぎまわっているイザはほんとやんちゃな男の子みたいに陽気なのに、マリーが男との関係を開始してから、その大きな瞳が哀しい光をたたえ出すのだ。彼女がバイト先の女の子を連れてきて泊まらせたのだって、マリーの嫉妬を誘い出すためだったのかもしれない。マリーと別れた男にマリーとのことを相談するイザは、お互い同じ人を好きになってしまって振り向いてもらえない同士のように哀しい。

イザは自分が居候しているマリーの住み処の本当の持ち主である、事故で意識不明になった娘、サンドリーヌ(母親はその事故で死んでしまった)に何度となく会いに行く。まるでマリーへの思いの埋め合わせをするかのように、いや、彼女をマリーのように思って見つめ続けているようにも見える。家に残されたサンドリーヌの日記には、マリーと同じように男に恋してのめり込んでいる様子が刻々と書き込まれているのだもの。その日記に惹かれ、サンドリーヌを目覚めさせるために枕元で日記を読むイザ。サンドリーヌは目を開け、一時は容体が悪化しながらも、回復の兆しを見せていく。マリーと大喧嘩して家を飛び出したイザが、サンドリーヌの容体が好転したことを聞き、マリーの元へ行き、寝ている彼女を起こさずに置き手紙を書く。“サンドリーヌは死なない、また生きるのよ!あなたも自分の思いのままに生きて……”その手紙をしたためた直後に飛び降り自殺を図ったマリーを呆然と見下ろすイザ。サンドリーヌの生に吸い取られるかのようなマリーの死はあまりに残酷だ。それは彼女がイザのあふれる愛に全く気付かずに死んでしまったことが!

マリーがのめり込むクリス(グレゴワール・コラン)は多分ある一方での男性の象徴だ。男の、女との決定的に違うところ……女は感情で恋をするけど、男は外見や肉体……より具体的な感触を恋愛の始まりの決め手にしているということだ。その後に感情の高まりがあったとしても、始まりの点で女と大きく違うのはそこなのだ。クリスの場合、そこからマリーへの感情の高まりにまで発展することが出来なかった。マリーは、肉体で揺り動かされた後に、感情が肉体を追い越してしまった。それにしても思うのだけど、これが男女逆転している話だったら、イザとマリーはこんな決定的な破綻を迎えることはなかったと思う。女同士の友情はあって欲しいけど、いやあるところにはあるんだろうと思いたいけど、やはり幻想なのではないかと思ったりもする。以前だったらそういう説に対して非常な反発を覚えていた。それは男女平等を、男女が同じ感覚の生き物と勘違いしているところにあって、やはり、男と女は決定的に違い、恋愛において、そして友情の形においてそれが顕著にあらわれるのだ。女に友情が本当にあるのだろうかと……一人の男の出現でそれはこんなに、いとも簡単に崩れ去ってしまう。

私はイザにばかり肩入れして観てしまったから、マリーの苦しみをイザの恋心を通して見てしまう。気が強そうに見えて、その虚勢は弱い自分を鎧で防御しているマリー。彼女自身はそのことに気付いていただろうか。気付いていなかったかもしれない。判ってて気が強いフリをしていたら、もっと自分をコントロール出来ていたかもしれないもの……そういう意味ではマリーの方が無垢でさらけっぱなしで、いつも傷だらけなのかもしれない。イザはマリーと出会う前も、マリーが死んでからもしたたかに生きているし。

イザを演じるエロディ・ブシェーズの可愛いことときたら!マリーを演じるナターシャ・レニエの方は「ジョージア」のメア・ウィニンガムのような風貌で(脱いだら胸がとっても小さかった……)どちらかといえば地味なのに対し、エロディの長く、濃く、密度のあるまつげにふちどられた、冗談みたいに大きな瞳が音のしそうなまたたきをする時、大きくて奥歯まで見えそうな大きな口からきれいな歯がビッグ・スマイルでこぼれる時、スクリーンが彼女のものになる。ほんのりと柔らかそうな、いつも何か言いたげな唇、これまた濃くて黒くて意志的な眉(傷痕なのか、右眉に切り込みがある)、ジーン・セバーグのようなベリー・ショートが頼りなさげな細くて白い首筋を強調する。……ああ、まるで、あのシャルロット・ゲンズブールの少女時代のような、危うい少女と少年の間を行き来する魅力。いつも短いたばこをギリギリまで吸っているその唇、マリーとの隔絶が増しているのをことさらにあらわすかのように手入れもされず剥げていく黒のマニキュアが塗られた指に、彼女の寂しさを感じるのはどことなくエロティック。彼女には彼女ただ一人の空気しかない。家族の話はしないし、旅人として放浪しているし。そして二人の少女の生と死に立ち会う彼女にそうした中性的な、微妙な存在感があるのは当然かもしれない。タイトルの“天使”は彼女なのだと……。★★★★☆


天使に見捨てられた夜
1999年 109分 日本 カラー
監督:廣木隆一 脚本:小川智子
撮影:佐藤和人 音楽:セロファン 西池崇 河野薫 高内シロウ
出演:かたせ梨乃 永澤俊矢 大杉漣 嶋田博子 西山水木 田口トモロヲ 真行寺君枝 パンタ

1999/7/15/木 劇場(中野武蔵野ホール)
最近は女ハードボイルドものが無理なくカッコよく登場するようになったなあ、とあらためて思う。「ドッグス」や「女刑事RIKO 聖母の深き淵」のヒロインたちより、年齢的に、よりハードボイルドに相応しいかたせ梨乃。ダイナマイトなボディを常にパンツスーツで包み隠し、女の武器を使うなんてことはしない。しかし、夫と死別した過去を持つ彼女の本能的欲望は抑えようもなく、容疑者であり、しかもイヤな相手と肉体関係に及んでしまう。それも一度ならず。……そう言えば、前述した二作でも彼女たちのそうした描写があった。「女刑事RIKO……」の方では強要される場面ではあったけど。男性のそれとは違って、女が主人公になるとそれって避けられないものなのか?でも性的欲望は男性の方により顕著だと思うのだけどなあ……だからこそ男性ハードボイルドではそれを完全に押し殺すか、あるいは、まるで感情を絡まないセックスとして描くかになってしまうのか?……難しい問題だ……。

タイトルのせいでもないだろうけど、ほとんど全篇夜である。しかも確信犯的に登場人物たちの表情が判るような照明は使わず、夜の闇に溶け込むような、その中で人物がうごめくような撮り方をしている。欲望も猜疑心も、その闇の中で不気味に跋扈している。つややかな色を持つ夜ではない。新宿二丁目が重要な舞台となりながら、ネオンサインも極力画面には入ってこない。すすけたような暗い画面。自分の本心さえも探り当てるのが困難なような、心の中の色みたいだ。

AVビデオの中でレイプされた疑いのある一色リナ(嶋田博子)捜索を友人の渡辺(西山水木)から依頼される女探偵、村野ミロ(かたせ梨乃)。この一色リナに扮する嶋田博子、「MIDORI」に続いて廣木監督作の登板である。「MIDORI」のタイトルロール、主人公の女子高生役で扇情的なシーンを淡々とこなしていたデビューが実に衝撃的だった彼女、ここでは登場場面は少ないながらも、はすっぱに見えながらその実傷ついた少女を陰影深く演じている。やはりこの子はあなどれない。もっと映画に出て欲しいのだけど……あまり見ないなあ。この作品にもしっかり出ているトモロヲさん。白髪交じりの髪とひげで、似合わなすぎる老け演出だ……。彼もまた廣木監督再登板。このキャラは監督とトモロヲさん自身の遊び心でしょう。

このリナを探してAVビデオ制作会社をたずねてミロが出会う、そこの社長である矢代(永澤俊矢)。女が生理的に嫌悪感を持つタイプの言を振りかざす男でありながら、女が生理的に惹きつけられてしまうフェロモンを発散する男。上手い。永澤俊矢は見るたびに驚かされる。阿部寛、田辺誠一、鈴木一真と、最近のデルモあがりはあなどれない。「随分男とヤッてないんだろ」ともてあそぶように言う、そのとことんカルい口調!激昂しながらも、突然訪ねてきた矢代の誘惑に抗えないミロ。しかもなんて性急なセックス。そこには何も、恋愛感情はもちろんただの感情すらも入り込んでいないことが判りすぎる。つらい。「100%レイプじゃないセックスなんてあると思うか?」矢代の放言が耳に残る。……ああそうだ、きっと確かにそうなんだ。そしてそれがなぜかというと、男性は本能が先に、女性は感情が先に立って肉体関係を持つから。だから、この場面でのセックスもまた、女の目から見た時につらすぎるのだ。

物語はリナの実父が伝説のロッカー、トミーであり、実母で政治家夫人である八田が渡辺にリナ捜索を依頼、トミーと、真相を知った渡辺ともども八田が殺害したことが明らかになる展開となる。裏に出まわっている、自殺場面を収録したCD−ROMで、実の両親に血を流しながら語りかけるリナ。しかしリナは死んではおらず、矢代のもとに身を隠している。矢代はリナに対して父性的感情と、欲望との狭間でオロオロしている感じで接していて哀れで滑稽。「待って!リナ、死んじゃダメ!あなたをずっと探していたの!」追いかけるミロにリナはくしゃくしゃの顔で言い放つ。「リナはビデオの中で死んだの!」リナは彼女の芸名だ。本名はマキコ。しかし矢代からもそしてきっと誰からもリナと呼ばれていたであろう彼女の、その叫びが心に突き刺さる。そう、あのビデオの中でレイプされた“リナ”を彼女は心底葬り去りたいのだろう、マキコと呼ばれたいのだろうと。

ミロが唯一心を許せるのが、隣人であり、新宿二丁目でバーをやっている友部(大杉漣)。控えめな描写で彼が同性愛者であること、彼の経営するバーがいわゆるゲイバーであることが提示される。しかし彼には離婚歴があり、妻がわに引き取られた子供もいる。おたがい伴侶に去られた経験を共有していることもあって、恋愛や友情という言葉でも説明できない感情で結ばれているミロと友部の関係はどこか哀しいながらも優しさに満ちている。依頼人である友人、渡辺が殺され、矢代に侮蔑的な言葉をかけられ、傷心のまま友部のバーに向かうミロ。「私は何?お友達?お客さん?」「両方」「女は嫌いなの?」「ええ。でもミロさんは好きですよ」「女とはやらないの?しようよ」友部を愛撫し出すミロを優しく押しのける友部。「無駄なんですよ。いいじゃないですか、このままで。」……演じる大杉漣が素晴らしい。最近必要以上にテンションの高い演技でうーん……という感じだったのが、ここでは「HANA−BI」を思わせる静謐な演技がひときわ輝いている。直した自転車にミロと二人乗りし、真夜中無邪気に走り回るラストシーンの優しさに胸がいっぱいになってしまう。こんな一生ものの関係をだれかと築けたら、と切に思う。★★★☆☆


天使の恍惚
1972年 89分 日本 モノクロ/カラー
監督:若松孝二 脚本:出口出(足立正生)
撮影: 音楽:山下洋輔トリオ
出演:吉沢健 横山リエ 荒砂ゆき 足立正生 秋山ミチヲ

1999/2/23/火 劇場(BOX東中野)
私にはこの時代の知識がないし、政治には疎いしで、……でも、年月を経てこの時代にいる私が見ると、そういうことではない部分に感じ入ってしまう。これもまたパートカラー、でもカラーが使われている部分が限られていて、だから、その部分に何かの意味を感じてしまうのだ。

冒頭の、10月と秋のセックス、失明して白濁した目を中空に見据える10月、国会議事堂に向かって突っ込む車のショットから、一転、荒野を走り去っていく車がかなたで爆発する、……いや、何かの意味ではなくて、それらが何の意味もない、意味を持ち得なかったということかもしれない。彼らが言う個的な(これはこの時代特有の造語だな……)戦いが世界を変えるという思想が、セックスしながらもそうした革命のことをひっきりなしに喋っていることが。「市民も大衆も何も変えられない、個的な精鋭だけが、世界を変えることが出来るんだ!」と絶叫するその言葉が。

彼らは執拗にセックスをするけれども(まるでそれすらも思想の一部のように!)その時にもずっと革命のこと、戦いのことを口にしている。それはいくら耳を澄まして聞いていてもさっぱり訳が判らない(私だけか!?)。彼らはセックスの時にもキスをしない。彼らの口はただただ革命を語ることだけに使われているのだから。

だからか、その交情シーンはどんなに激しくても官能性を感じることがないのだ。それゆえ、ああ、やっぱりキスとはどんな行為よりもエロティックなのだなあ、と妙に感心してしまう。秋のスパイとなり、10月のやり方にいらだちを持つ“坊や”(この人名前出てこなかった……と思う)、彼もまた実にならない思想をことあるごとに叫び続けるのだけど、彼が秋のスパイをやめ、10月についていこうと決心したその時、彼の言葉が急に聞こえ出すような気がする。彼は思想よりも戦いよりも10月が好きだったんではないか。それを彼自身が気づいていたかどうかは判らないけど。

仲間たちがそれぞれに討死にし、この“坊や”と10月だけが残された時、ベッドに静かに横たわる10月と、10月を見下ろしている彼のショット、そして二人の会話に、なにか妙に感情的な色っぽさを感じたりして……。「一人より二人の方がいいよ」と一緒に行くことを10月に切望する彼に、「お前が失敗したら俺がその後を引き受ける」「だってあんた、俺がどこに行くか知らないじゃないか」「いや、判ってる」「じゃあ、またどこかで会おう」「いや、もう会うことはない」

墨汁のように撒き散らされる血が脳裏に焼き付く作品。そして全編を彩る山下洋輔のジャズ!近作「カンゾー先生」ではあんなにもクールで軽やかだったのに、ここでは何とその作品世界の重苦しさを煽り立てていることだろう!音符は存分に跳ねているのに。最初に10月を裏切った秋が、10月がついに自分のもとにこなかった時、彼女の絶叫と山下洋輔トリオのフリージャズが交互にめまぐるしくカットバックされるシーンの迫力!そしてそのまま10月が(失明しているのに何の迷いもなく)雑踏をまっすぐに抜けていくラストクレジットにかかる不安を予感させる旋律……。ううっ、サックスの中村誠一氏、初めてお顔を拝見してしまった……。★★★☆☆


天井桟敷のみだらな人々ILLUMINATA
1998年 120分 アメリカ カラー
監督:ジョン・タトゥーロ 脚本:ブランドン・コール/ジョン・タトゥーロ
撮影:ハリス・サヴィデス 音楽:ウィリアム・ボルコム
出演:ジョン・タトゥーロ/スーザン・サランドン/クリストファー・ウォーケン/キャサリン・ボロウィッツ/スーファス・スーエル

1999/6/4/金 劇場(シネスイッチ銀座)
20世紀初頭のニューヨークの劇団を舞台に繰り広げられるドタバタ喜劇。とはいうものの、そのコスチューム・プレイとシニカルな味わいはヨーロッパの感覚がある。劇中に出てくる男色評論家がイタリア人だったりするし、ジョン・タトゥーロにしてもスーザン・サランドンにしても、キャサリン・ボロウィッツにしても、スマートな頭のよさそうな感じが、やはりヨーロッパっぽさを感じさせる。

そう、何と言ったって男色評論家、ベヴァラクアに扮するクリストファー・ウォーケンを一番に挙げないわけには行かないだろう!ほつれた髪、白塗りチックな顔、妙に赤い唇、微妙に太りぎみの体格。特に表情を作っているわけでもないのに、彼がアップになるごとに爆笑の渦につつまれる、その内面から出てくる下心。彼がジョン・タトゥーロ扮するトゥッチオ(これもアメリカ人じゃないような名前)の舞台に出ている(彼にとっては)ハンサムな男優を気に入って彼を自分の部屋に呼ぶ。いくらヘンタイでも力がある評論家だから、劇団員は嫌がるこの男優を力ずくでベヴァラクアのもとへ行かせる。二人を両端にとらえたショットで、画面の中央手前にアップで映る男性裸身の彫刻!そしてこの男優がふと目をやるとそこには男性同士が絡み合うデッサン画が……。かわるがわる画面の手前でアップになり(この男優の方はいささかヤケ気味に)、レコードにあわせて絶唱したりピアノを弾いたりする、あんたら一体何やってんの!?という可笑しさ。そして絶唱しているベヴァラクアの隙をついて一目散に逃げ出す男優の、上体の起きた逃走スタイルの可笑しさ!この男優を演じる俳優(ごめんなさい、役者名判らない)の微妙な表情もまた絶妙、絶品で、ほんとにこの二人の場面は出色の名(迷かな、やっぱり)シーンの連続!

物語は第一幕から第三幕までに別れていて、このエピソードは第三幕に当たるのだが、やはりこの第三幕が出色で、それぞれの野心をかなえようとする人間たちの奇態が、それぞれ同時進行で、まるでおのおのの場面に中継カメラを設置しているかのように交互にあらわれる。役者としての、そして女としての下心丸出しにトゥッチオにせまる大年増女優、セリメン(スーザン・サランドン。おおお、乳まるだし!)、愛の明かしにと、なぜか足でタンスをまわし出す男とそれに狂喜する女、ゆすりにあっている男を助けず、観察して役者の肥やしにしろという男と若い役者が、その場面を再現するとあやうく本当のゆすりに勘違いされそうになる……等々。全くバカばっかである。この再現コンビが逃げた直後、そこに先の男優が必死に逃亡してきて笑わせてくれる。

おのおのが色んな人に横恋慕している。トゥッチオに恋していて、彼がいずれは自分と逃げてくれるだろうと夢見る若い女優は、その甘さを看板女優で座長でもあるレイチェル(キャサリン・ボロウィッツ)に指摘され、その気持ちを芝居に投影させろと言われてしまう。レイチェルはトゥッチオを愛しているが、当のトゥッチオはこの若い女優とレイチェル、さらにはセリメンの間を行ったり来たり。さらにレイチェルには夫がいて……という具合に不倫や浮気という概念さえも混沌としている感覚。たった一人の人に愛を捧げる感覚が真実ではないような気さえしてくる。

第一幕で昏倒した男優を勝手に死んだことにしてしまい、自分の芝居を上演するチャンスをつかんだトゥッチオ。第三幕に至って、その芝居の全貌が現れる。第一幕でやっていた悲喜劇とは全く違う、ある種哲学的な、人間の愛の真実に迫るとでもいった趣。シンプルな背景にシンプルな白の衣装が美しく、静かで端正な芝居。それぞれが一人語りをしているかのような台詞の応酬。ここだけ別の映画のように、第一幕、第二幕とは全く色を異にしている。“たった一人に愛を捧げる”ことを真実とし、一人の女性を、女優を選ぶために書いたかのような、トゥッチオの芝居。

……というとなにか感動的にも思えるのだけど、正直あまり感慨は感じられなかった。むしろ、第一幕、第二幕のテンポがそがれる気がして。第一幕で、急遽トゥッチオの芝居が上演された後のパーティーで、気もそぞろのトゥッチオの幻想が見せる人々の痴態や、♪トゥッチオ、トゥッチオ〜♪の合唱。それと交互にトゥッチオの落ち着きの無い目のアップが挿入されるという、キッチュな感覚で全編を貫いてほしかった。予告編で使われている部分なのだけど、この部分もまた他の場面から浮き上がっていて、しかしすこぶる面白い。この場面とクリストファー・ウォーケンの場面がなかったらかなりフツーの映画ではないかと思うくらいなのだ。だからこそ、惜しい。★★★☆☆


電送人間
1960年 86分 日本 カラー
監督:福田純 脚本:関沢新一
撮影:山田一夫 音楽:池野成
出演:鶴田浩二 白川由美 土屋嘉男 中丸忠雄 平田昭彦 河津清三郎

1999/6/28/月 ビデオ(富岡氏所蔵)
電送人間といえば「蝿人間の恐怖」を思い出すわけで。でもまあ、人間、あるいは物質を電送するって、結構誰でも考えるんだけど、そして出来そうな気がするんだけど、音と違って、物体って電送できないのかね?やっぱり。

遊園地の“スリラー・ショウ”なる、ま、お化け屋敷ですな、そこで人が刺されて殺される事件が発生する。犯人の後ろ姿を目撃した人はいるが、犯人は忽然として消え、消息がつかめない。新聞社の学芸部なのに首を突っ込んでくるのが鶴田浩二。電送装置に使う冷却装置を扱う会社に勤める白川由美。電送人間を追ってきた鶴田浩二と戸口でぶつかって出会う白川由美というベタベタなきっかけ。そしてもう次にはいきなりバラの花束持ってあらわれる鶴田浩二、その彼をあっさり部屋に入れてしまう白川由美……うーむ。

電送人間がうらみつらみを持って殺人を繰り返すのは、戦争終結直後に不正に金を横領した軍の上司に復讐するため。扮する中丸忠雄は、白川由美の会社に訪ねてきた時に彼女の同僚が「冷却装置のお客さん?どうりでぞっとする感じの人だわ」と言ったのが実にうなづけるような、不気味な冷ややかさで圧倒する。変形人間ものとか、科学ものとか、特撮ものとか言うよりは、どこかまだ敗戦のトラウマを引きずっているような陰湿なテーマ性がつきまとう。

電送人間を追って山奥の荒野というような場所に集ってくる男達のシーンが印象的。その荒涼とした風景の中に、ほとんど黒っぽい寒々しい色を身につけた男達が、ふと上からのアングルでとらえられたりするカットはどこかシュールで魅惑的である。★★★☆☆


電柱小僧の冒険
1987年 47分 日本 カラー
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 音楽:塚本晋也
出演:塚本晋也 田口トモロヲ 藤原京

1999/9/21/火 劇場(BOX東中野)
塚本監督は1960年生まれだから、これは27歳の時の作品なんだあ。これでぴあフィルムフェスティバルグランプリをとった作品。ずっと観たかったんだよねー。「鉄男」にしたって、私は公開当時地方にいたからリアルタイムで観れるはずもなく(でもなぜかチラシは持ってるんだよね……多分夏休みに、ねーちゃんのところに遊びに行って、ひねもす映画館巡りをしていた時にgetしたんだろうな)、初めて観たのはビデオでだったのだけど、その時の衝撃たるや、もう、言葉では言い表せないものだったのだもの!その時からずっとずっと、監督のフィルモグラフィのいっとう上にある、この不思議なタイトルの作品が観たくて観たくてたまらなくて。塚本監督がNHK教育の「SIDE−B」(大好きな番組だった……)に出た時にちらりと観て、もうますます観たくて身悶えしてしていたのが、ほんとうにようやくようやく観る機会を得たのだっ!同時上映の「塚本晋也10000チャンネル」で高校時代に映画少年として「ギンザNOW」に出ているのや、PFFでグランプリを撮った時の塚本監督まで観られて恐ろしく感激。塚本監督にとっての演劇の土台が大きいことも改めて知る。なんか、この前衛演劇スタイルは、寺山修司みたいだ。

うっわ、もうトモロヲさんがいる!すでにしてこの時からトモロヲさんは塚本監督の盟友だったのだ。「鉄男」の藤原京氏も同じく。本作での彼女は、すでに塚本印が出ている鉄スクラップを身にまとった、作られたイヴ。真っ赤な唇に加えられた鉄パイプ(?)がなまめかしい。なんかスゴいハードロック系メイクでハイテンションな塚本監督(だよね!?)もモノスゴく、電柱小僧を助けに来る、前の時代の電柱小僧の熊本弁(!!??)に抱腹絶倒、電柱にぶら下げられた白熱電球で勇気百倍。世界を破滅するヴァンパイア達に立ち向かう電柱小僧!

8ミリ作品ということで、少々色が褪せてしまって見づらいウラミはあるものの、もう既に、本当に、塚本作品を語る時に出てくる手法や、受ける印象が全て詰まっている……驚異的なほどに!27歳というと、もうちょっと大人ぶったところが出てきそうなところが、もう嬉しくなっちゃうほどの、いい意味でのガキ感覚。でもこの一見キッチュに見えるアイディア(電柱小僧!)は非凡だし、気の遠くなるほど時間がかかったであろうコマ撮りも、惜しげもなくオソロシイほどのハイスピードで繋いでいくし、効果音へのこだわり、そしてなにより、「鉄男」で驚かされた金属スクラップの前衛芸術的な造形美術が、すでにこの作品で非常に完成度の高いものとしてあらわれていることに驚嘆。一見カルト作家のように見えがちながら、映画が総合芸術だということを、塚本監督自らが何役をも兼ねるていることで(もちろんそれだけじゃないけど)身をもって感じさせてくれる、そこが凄いのだ!★★★★☆


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