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PARTY7
2000年 104分 日本 カラー
監督:石井克人 脚本:石井克人
撮影:町田博 音楽:ジェイムス下地
出演:永瀬正敏 浅野忠信 原田芳雄 堀部圭亮 岡田義徳 小林明美 我修院達也
予告編がムチャクチャ面白かった、もしくは、予告編でとても面白そうな映画だと思ったのは、それがこの作品のイイところを凝縮に凝縮していたからだ。つまり、凝りに凝った濃いキャラクターと、バカな会話、キャラをも含めたポップな美術、などなどである。それが、めまぐるしいスピードで展開される予告編は、予告編賞をあげたいくらい、素晴らしかった。それは「鮫肌男と……」も、そう。その時に感じたことを、本編でちっとも感じない。“イイところを凝縮”しているはずなのに。その“めまぐるしいスピード”がないから、と思われる。そこに提示されている素材が、そのスピード感にピタリと合っていたから、実際に本編を観た時に、あれ、全然違うじゃん!と思ってしまうのだ。何か、まともに語りすぎてて、中身が外見のハジケさと全くかみ合わないのだ。バカでクダラナ面白い筈の会話も時々はツボにはまるものの、子供の喧嘩のようにしつこくダラダラと繰り返されると、だんだんとウンザリしてきてしまう。
オフィシャルサイトを見てみると、なんだかキャラクターの裏設定ばっかり細かくって、それが実際の映画にまるで反映してない。裏設定の方が面白くて、本編がつまらんとは、何事なの!?これって、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の時にまさしく同じことを感じたんだよなあ。映画の裏側の楽しみを知るのにサイトはまさしく最適だけど、こんな風に逆転してしまうんじゃ、本末転倒じゃないのかなあ。キャラクターのワクばかりが出来ててその語りがつまんないんじゃ、なあ……。
このサイトで、キャラクター紹介とは対照的に、本来なら一番スペースを割くはずのストーリーがほんの10数行で終わってるというのも象徴的で。そう、この映画はキャラクター映画なのだ。キャラクターと、それを含めた意匠を見せる映画。そのためにとりあえずの設定とストーリーを与えられているに過ぎない。だったらなおさらではないか?安物のカメラとか、ニセモノのアルマーニとか、小ネタはいろいろと繰り出してきてそれぞれにそれなりに笑えるはずなんだけど、それを大きくまとめるリズムに欠けているから、面白がる気分も乗りきれなくなってしまう。
前作でも、そうしたキャラクターたちの中でただ一人面白かった我修院達也が今回も若頭役で少ない場面ながら強烈な印象を残しているんだけど、ただ彼の場合も、予告編以上に面白かったかというと……で。「君を殺すよ、ヨロシク!」なんて身体をガキガキに動かしてピストルの照準を次々に変えて向けられた相手がハッとなる描写、それこそ予告編のカッティングは絶妙だったのに、本編ではテンポがガタッと落ち、というか間延びしてて、せっかくの彼の突進演技が浮き上がってしまう。ハデなCMチックに車の解説をするところなんか、もうちょっと笑えても良かったのかなと思うんだけど、というか、その場面に限らず、全てのシーンにおいてポツッ、ポツッとギャグ場面やギャグ台詞が置き去りにされている感じで、強力に巻き込まれていかないから、どうも笑えない。でも私だけかなあ、結構観客はウケてたみたいだけど。
裏設定で詳細に描かれている(のが全く功を奏していない)、孤児院での幼なじみ同士で、男女関係の入り繰りをお手軽にしている永瀬正敏扮する三木、その兄貴分の堀部圭亮扮するソノダ、紅一点のカナの三人、そしてカナの婚約者であるという、金持ちの筈が実はただの元バイト君の“完全失業者”であるトドヒラの四人がホテルの一室で繰り広げる、痴話喧嘩なんだか、兄弟分の決裂なんだか、なんだかわかんないゴタゴタを、特製の覗き部屋から見ているのが原田芳雄扮するこのホテルの経営者、キャプテン・バナナと、浅野忠信扮する、のぞきの性癖に悩んでいる青年、オキタである。ま、このふたりの会話は確かに、オフビートと言えるのかもしれない。のぞきの趣味を共有する中年と青年の会話は、“キャプテン・バナナのぞきベスト10”をジャカジャカジャン!と展開するまでに盛り上がったり、「オバチャンが、パカーッではなくて、ジンワリ見せてくれた」なんていうオキタの実演解説なんかもかなり可笑しかったし。
原田芳雄ほどのベテランがノッて演じるからこそ面白いキャプテン・バナナ、の筈、なんだけど、ここでもなんかこう今一つはじけきらないなあと思うのは、何故だろう。原田芳雄の側に、テレではないんだろうけど、その“ギャグを演じてる”っていう空気が感じられちゃったりして、そのへんなのかなあ。「スリ」での枯れた可笑しみが絶妙だったのと対照的に、作り込みがどうもしっくりこない、なじんでない。浅野忠信は、もうこの人はあまりにも出過ぎなので、最近は“浅野忠信”としてのキャラクターになってしまっていて、どんなに千差万別のキャラを演じてても、新鮮味がなくなってしまった。思えば、この人の魅力は、その誰にもない新鮮味にあったのだものなあ。そこから突き破ってない気がする。それに、彼、話題作には出続けてるけど、じゃあどれが代表作なのだと思うと、傑出した印象が残るものがない気がするし。
若頭が登場して、のぞき部屋とこの部屋との境目が壊れ、一同ごっちゃ交ぜになってワケワカラン!という最大にメチャクチャに面白くなりそうな場面が、一番腰クダけてしまった。カナにひとめぼれしたオキタがチープな黄色いビニール製のヒーロー?コスプレで愛の告白をし、それをひたすらカナは拒絶し、キャプテン・バナナはひたすら「私はキャプテン・バナナ」というキメ台詞を繰り返し、その周囲でその他の人々が何やかんやとツッコミ続けるという、とこう書くと、なんだかやたら面白そうなのだが、その実は、そのメチャクチャ加減が交通整理されちゃって、ちっともメチャクチャじゃないのだ。それぞれが言う台詞がごていねいに個々のアップで撮られていて、収拾がつかなくなる面白さの筈が、収拾がついちゃってるんだもん。そんで全体を映す時は妙に落ち着いてカメラが引いちゃってるしさ。もうちょっと遊んだ動きの画にしてほしかったなあ。
うーん、なんか、“スタイリッシュな映像”というのも、聞き飽きた気がする……。作り込んではいるけれど、そこを超えたsomethingが感じられないと、映画はキツいんじゃないかなあ。今回は前回以上に女の子がつまんなかった。ラストの、騙されたハゲホテルマンのオチもじっくり見せすぎていまひとつ。★★☆☆☆
まっ、それはおいといて、映画はと申しますと、ちょっとファンタジックな趣を呈していて。別に妖精が出てくるとか、そんなんじゃないんだけど、現実の物語のようには思われないんである。サーカス団だし、空間を超えて会話しちゃうし。だからこそ、ルコント監督はモノクロで撮ったのかな、などとも思う。現実、というか、現在のような感じがしないとでも言うべきか、物語は全く違うけど、曲芸、運命の二人ということでフェリーニの「道」を思い出させないこともないから。あの作品もどこか、現実味を欠いたところが魅力の、残酷な愛の物語だったし……。本作は、確かに愛の物語だけれど、残酷ではない。しっかりとハッピーエンドを迎える。観ている間はハッピーエンドを望んで、期待通りに来たことでホッともするんだけど、なんだかあまりに予想通りのラストで拍子抜けすることも確か。冒頭、自殺しようとしたアデル(ヴァネッサ・パラディ)をガボール(ダニエル・オートゥイユ)が救ったのと対になった、ガボールをアデルが救うラスト。場所は違えど、同じ橋の上。でも確かに、物語全編、暗い影は見当たらず、明らかにハッピーエンドに向かって突き進んでいるから当然とはいえるけれど。あ、でも、「髪結いの亭主」だって、そうだったけど、ラストは一筋縄ではいかなかったでなはいか。そしてだからこそあの作品は名作たりえたのだ。
常時フェロモンを発散しているようなアデルは、意識的にも無意識的にも男を常に誘っていて、奔放に身体を重ねる。しかし彼女はどうやらそのつど本気らしく、いちいち傷つくのだ。この辺、図らずも男と女の違いをよくついているな、と思う。本能でセックスする男と、感情でセックスする女。その場で尽きてしまう男と、その先を期待する女。そんな図式。そして彼女は散々傷つき、ついには橋の上から川に跳び込もうと決心、そこをガボールに救われることとなる。カボールはナイフ投げの芸人。彼女に的としての並外れた才能を感じ、スカウトする。どうやら落ちぶれていたらしい彼は、その彼女の“才能”で息を吹き返し、目隠し(的の前にカーテンをかける)したり、的を回転させるなどの大技に神ワザ的な能力を発揮する。
輪郭がくっきりと際立つ、クリアーなモノクロ撮影が美しい。ガボールに拾われたアデルが「ローマの休日」よろしく、髪をベリーショートに切り、「プリティ・ウーマン」みたいに衣装を次々とかえて美しくなっていく様が、この“鮮やかな”モノクロに実にスリリングに切り取られていく。
アデルとガボールは、最後の最後までセックスはおろか、キスすらしない。キスになりそうな場面は何度かあるのだが、しない。勿論明らかに意図的なのだが、何だかかえって不自然な感じもして、キスくらいしろよ!などと思ってしまう。しかし、二人がそんな事を必要としていないことを表現するためだということは判るのだけど。旅の先々でもアデルは相変わらず行きずりの男たちを相手にするのだが、さあ、今からホンバン!という時に「ごめんなさい、やっぱりダメ、私が欲しているのはあなたじゃないの!」と駆け出してしまう(あんな所でやめられちゃ、相手もたまんないわな)。そしてアデルはガボールに追いつき、さあ、今度こそキスの一つも、と思っていると、「私が今何をやりたいのか判るでしょ」と言うアデルに「俺も同じだ」とガボール、「場所はどこでもいい」とアデル。……おおおー今度こそ……しかし電車のガード下?で展開されるのはナイフ投げなんである。そう、二人にとって、キスよりもセックスよりも歓喜を感じるのはそれなのだ。一見、禁欲的だが、見てみるとこれ以上官能的なものもない。筋肉をこわばらせ、テンションを一気に高めてナイフを投げるガボール、腕を悩ましげにあげ、的となるアデル。彼女の曲線を一寸かわしてナイフがドッと突き刺さる。アデルの唇から漏れる、安堵、いや、歓喜の吐息。まるでそれは、永遠に挿入されることのない、愛撫だけが続くセックスのようだ。挿入されれば(この場合はナイフが彼女に刺さって死んでしまえば)終ってしまうものだけれど、そうじゃないから、その歓喜(愛)は永遠に続くのだ。そしてその間ずっと二人は来ることのない、突き抜ける一瞬に向かっている。その一瞬を体験したいのか、二人は稼いだお金を常にギャンブルに賭ける。そこでいつも大当たりしてしまう。でももしかしたら、当たった絶頂感よりスッたそれの方が二人には必要だったかもしれない。こんな愛の形を持っている二人には。
アデルがその愛の形に気づかず、行きずりの男の一人を“王子様”だと信じてガボールの元を離れてしまう。そのとたんに何もかもが崩れていく。ガボールはその男の新妻を新しい的にするが彼女の足にナイフが刺さってしまうし、アデルの“王子様”との愛も、あっという間に冷めてしまう。そして二人はお互いを探し求め、空間を超えた会話が交わされていくのである。そのテンスが頂点に達したとき、自殺しようとしているガボールを今度はアデルが助ける。ちょっとホッとしながらも、アデルがガボールから離れ、二人が堕ちていくしかないままのラストを心のどこかで期待していた向きもあったりして……。★★★☆☆
半ばイメージの固まってしまっている役者を起用しても、実にフレキシブル。陣内孝則がここまで狂気をはらんだ謎の人物にハマるなんて驚きだし、そこにはバラエティ番組なんかで見せるコミカルなキャラクターは完全に拭い去られている。そう、これまではコミカルさにその威力を発揮していた彼のぐりぐりした出目が、ここでは血走った、彼の常軌を逸したキャラを象徴するそれとして圧倒的な力を持って迫ってくるのだから。もっと驚きなのは黒木瞳で、これまでの役柄では常にあった、美しやかな雰囲気は微塵も感じさせず、一秒を争ってアクティブに走り回り、傲慢なまでに自分の信念を曲げずに早口でまくしたて、化粧あれした40女の肌を見せる。こんなカッコイイ黒木瞳が存在するなんて……驚いた。
カッコイイとは言え、彼女の行動、そしてそれが招く結果は痛烈なマスコミ批判である。特に、テレビ批判。それこそ「[FOCUS]」や、あるいは「「A」」でも感じたことだけれど、カメラが正義だと思っていること、映像が真実だと思っていること、について、とんでもない、それは正反対なのだと、どうしてそんなに簡単に騙されてしまうのかという問いかけである。そして騙されてしまうのは視聴者だけではなく、映像を操作している人間の側にも現れてくる。この主人公である編集マン、瑶子は映像にいかなる意味をも持たせられることを充分に判っていたはずなのに、渡された一本のビデオテープに映っているその映像が“真実”だと、ころりと騙されてしまう。その渡した人物が、自らの演出で自分を実直な人間に見せていたということもあるけれど、彼女に、編集によって真実を捏造しているという意識がないからだ。そこに使われている映像が作られたものでない限り、どう切り刻もうと真実なのだと、自分はその真実をより見える形で提供しているのだという驕り。必要な部分をカットすることもまた、捏造だということに彼女は気付かない。
江戸川乱歩賞を受賞したという原作のストーリーはミステリとしても非常によく出来ていて、実際彼女が追いかけていた、郵政省と大学の癒着問題から起こった殺人の真犯人は誰なのか、それは受け手に委ねられ、はっきりとは判らないまま終わってしまう。最初に彼女に“やらせ”テープを渡した、その後行方をくらました春名という男がその犯人の一翼を担っているのは確実だが、その春名と、そのテープによって犯人に祭り上げられる麻生が本当に共犯関係にあったのかどうか……。瑶子は麻生の“2秒の笑顔”が絶妙な位置に編集されていることで、すっかり麻生が犯人だと騙され、お株を取られることとなるわけだが、その後、彼女は麻生の言葉や、自分を隠し撮りしたビデオテープが送りつけられたりすることで、その都度考えが二転三転、麻生に「あんたたちの信念って、どこにあるんだよ!」と詰め寄られる羽目になるわけである。このセリフは後々、テレビ批判として実に痛烈に響く結果となるわけだが、しかしこの時点では、この隠し撮りテープが麻生の仕業だと瑶子は勿論観客も信じて疑わないので、彼女の言動にさして疑問を持つことなく進んでいってしまう……。実はここがこの作品の大きな罠で、最終的に大きく常軌を逸してしまったのは麻生ではなく瑶子であり、彼女は判りすぎるほど判っていたはずの映像の嘘に自らが絡め取られる結果となったのである。
彼女は自分が撮られたのなら、と麻生の家に忍び込んで隠しカメラを設定する。瑶子の編集によって世間から犯人扱いされた麻生は、妻子にも出て行かれ、その家はすさまじく荒れている。その隠しカメラにさらされたのは、彼が家族写真を包丁で切り刻んでいるという姿で、彼女はその映像を意気揚々と麻生に見せるのだ。「これが人間を映すということなのよ。私の寝顔なんか撮って喜んでた自分がバカみたいでしょ」彼女は最初にそうした歪んだ視点で映像を見た時に過ちを犯してしまったことをもう忘れてしまって、この映像が麻生の狂気を映し出したものだと信じて疑わないのだ。しかも、偶然映し出されたに過ぎないそれを、自分の力で撮ったとでも言わんばかりの語気……そう、この時点でも観客である私たちはまだ瑶子と同じように麻生が隠し撮りをしたと信じ込んでいるから、瑶子の行動は多少行き過ぎかなくらいには感じても、その台詞には何となくうなづいてしまう。しかし、瑶子との言い争いによって彼女に突き飛ばされ溝に落下した麻生が死んでしまい、死後にも隠し撮りのビデオテープが届けられることによって、麻生が隠し撮りの犯人ではなかったことが判明するのである。
いざその真実が判明してしまえば、麻生が家族写真を切り刻んでいたその姿が狂気などではなく、理不尽なことで家族に去られた男の強烈な孤独から出た行動だとあっさり理解できてしまう。映像が真実を映し出しているとしても、映像それそのものだけでは、人間は正しく判断する能力を持たないということ……私たちは、映像の持つ即実性にばかり目が行ってしまって、そのことに考えが及ばないのだ。そのことの方がずっとずっと大事なことなのに。麻生がどういう人物かというのは、主人公である瑶子、あるいは彼女がわであるテレビ、あるいはその観客である私たちの目からしか判断されない。しかし、ちょっと気をつけてみていれば、瑶子と麻生が似たタイプの孤独を持つ人間であること……子供から引き離されていること、ペットボトルを口飲みすることで象徴される一人であることの孤独(それは瑶子がその立場に追い込んだのだけれど)……が判るのだ。判定する側と、される側、ちょっと裏返せば簡単に入れ替わる。現にラスト、瑶子はその麻生の立場に簡単にひっくり返ってしまう。そして、真実はどこにあるのかなんて、もしかしたらたった一人の人間ぐらいにしか判らないかもしれないのだ。
瑶子と言い争いをしている時に麻生が叫び続ける言葉が、急に真実をついた切迫性を持って響いてくる。「会社と家を往復するだけの女が、世間や社会を判ってるつもりで穴蔵に潜り込んで切り刻んで、でっち上げる、何様のつもりなんだよ!」彼女は麻生が死んで、自分が捕まりそうになると、自分の編集技術で“真実”を作り出し、逃れようとするのである。「面白けりゃいいんでしょ、数字取ればいいんでしょ、やるわよ!」と叫ぶ彼女……ここに至って愚かな観客である私もようやく気付く。ああ、麻生ではなく、彼女が狂気にとらわれていたのだと。いや、彼女のそれはテレビ界で行われている日常であり、狂気などではないのかもしれない……いや、いや、それが日常となっていることが、狂気なのだ。テレビ、そして映像それ自体が狂気なのだ、と。
瑶子の部下である赤松役の山下徹大がなかなかいい。彼女のことを本当に尊敬して、心配して、慕っているのだろう。暴走する彼女を必死になって押しとどめようとするのだけれど、若い彼の力では彼女を振り向かせることが出来ない。それどころか、瑶子はあらゆる意味でどんどん麻生に惹かれていくのだ……赤松の心配を通り越した苛立ちは、一種の嫉妬なのかもしれない。偶発的とは言え、麻生を殺してしまった瑶子が腰縄に手錠をかけられて現場検証をしているところをマスコミがこぞってフラッシュをたく中、彼は涙をためた目を充血させてじっと彼女を見つめているのだ……それは哀しさを通り越して恨みがましい目にすら映る。
そしてその群集の中には、ホームビデオをやはり泣きながら構える瑶子の子供の姿が……。あの隠し撮りしたビデオテープは、会えない母親を懸命になって撮る瑶子の子供の手によるものだったわけだが、そうした純粋な心まで映し出せていたなら、こんな悲劇は起こらなかった。映像はいわばまだまだ未成熟なメディアなのだ。受け手の心理でどんな間違った意味をも持たせられてしまう。活字が表現手段として使われることで真実性を持ち得なくなり、ならばどこに真実を求めるのか、という所に現れた映像が、当初事実を映し出すものだとして迎え入れられたことは、至極当然のことであったけれど、活字と同じように、表現手段のひとつとなった映像が、それ自体はもはや真実を伝えるものではないということを、そして活字よりも大きく受け手の意識を操作されてしまうということを、もっと早く私たちは考えなければいけなかったのだ。映像はまだまだ新しいメディア……映画ですらまだ100年、テレビはその半分足らずの歴史しか持たない、発展途上のものなのだから。★★★★☆
確かにスキャンダラスな内容なのかもしれないが、調査の上で描いている物語とは思えず、どこか想像の域を一歩も越えてなくて、つまらない。テーマが「ホモセクシュアリティにおぼれて身を滅ぼした芸術家」なのだからかもしれないが、パゾリーニがことそれだけを芸術の上で表現しようとしたとは思えないのに(詩や小説は読んでいないから何とも言えないけど、少なくとも映画においては)、この作品の中に描かれるパゾリーニはただひたすらそのことだけを自分のアイデンティティとし、それだけが人生なのだとでも言わんばかりの勢いである。その矛盾した禁欲性が、この作品を狭いものにしてしまっている気がしてならない。もちろん批評家や観客が、その作品から勝手に反体制思想や宗教性、死の美学などをかぎつけることを監督自身がもしかしたら我が意と異なると思っていたかもしれない。けれど、なにも、そこに確実にあるはずのものでさえ見ないふりをして、ホモセクシュアリティの世界にだけ拘泥した芸術家、という描き方(にしか見えない)にしてしまっているのには首を傾げてしまう。
物語は三部構成になっていて、しかしわざわざ三つにハッキリ区切ってまで語る意味があるとも思えない。@パゾリーニが降り立った見知らぬ街で出会った少年グループ、その彼らをひとりひとり車の中に連れ込み、音楽をかけながら味わい尽くす話。A卒論のテーマだと嘘をついてパゾリーニに近づいた青年が彼と語り合う上で見えてくる巨匠の人間性(てほどでもないけど)。B駅で拾い、食事をともにした美少年に、映画出演をエサに車の中で関係を迫ろうとすると、抗われ、撲殺されてしまう、の3エピソード。@はパゾリーニの性的嗜好を描くための伏線、Bは既知の結末を描いたに過ぎず、よって大事なのはAのエピソードになってくるわけだが、これが先述したとおり、想像の小さな輪の中でまとまってしまっているのだ。ここで描かれるパゾリーニはホモセクシュアルの欲望が強いだけの、ただの落ちぶれた中年男である。晩年(とは思っていなかっただろうが)の彼がそうしたただの男だった、と主張しているのかもしれないが、それは違うと思うし、仮にそうだとしても突っ込みが甘すぎる。このエピソードの中でパゾリーニに近づくハンサムな若者、ヴァレリオは「昔は巨匠だったのかもしれないが、ここ10年は駄作ばっかりだ」と言う。そして新作(言葉じりから推測するに、「ソドムの市」のことだろう)を、彼の前では誉めるものの、裏に回ると罵倒する。しかしこのヴァレリオは小説家志望で、“ここ10年は駄作ばかり”と言っているのはどうやらパゾリーニの著作のことについてらしいのだが(そしてパゾリーニ自身も劇中でそれを認めるような発言をしている)、著作の評価と映画のそれとが、明確でないまま進んでいってしまう。これは明らかに“逃げ”だ。ずるい。(本作品の)監督の主張をあいまいのままにしているとしか思えない。ヴァレリオの母親には映画をこき下ろさせているけれど、いざパゾリーニと電話で話す機会があるとコロッと態度を変えるその描き方は笑ってしまうほどに俗悪。この母親に「この監督(パゾリーニ)の汚らしさや、眠ってしまうアントニオーニより「ジョーズ」が一番だわ」なんて言わせ、庶民を、芸術家に対して無理解なものと断定して、バカにしている態度も気に入らない。
監督は「シチリアの娼婦たち」、「肉屋」のアウレリオ・グリマルディ。前者は観ていないけれど、「肉屋」の意図を図り兼ねるほど無意味に、性の欲求を延々と映し出すつまらなさにヘキエキしていたので、この作品を鑑賞後、監督がこの人と知った時に、ああ、ナルホド、などと妙に納得してしまった。だってやっぱりつまんないもん。妙にネラッたモノクロ映像の思わせぶりな感じもあまり好きじゃない。ついでに言うと、「アントニオーニ、ジョーズ」……のくだりで、知ったかぶったワザとらしい高笑いを響かせた観客のオッサンもだ。★★☆☆☆
少女の首なし死体が続々と発見され、その容疑者になっている倉橋美智夫(鈴木一真)、彼は姿をくらまし、残った母(吉行由実)、妹二人(夏川ひじり、三輪ひとみ)は連日のマスコミ攻勢に疲弊しきっている。倉橋家の父は死刑によって亡き人、その血をやはりひいてしまっているのか……。下の妹の方の里美(三輪)は、兄の無実を信じきり、運命の糸に引かれるように霊能者、間宮(由良宜子)に助けを求めるのだけれど、それが事態をより混乱の極みに陥れる。そして、真犯人は意外なことに……!
つまり、もっとも狂っていたのはこの母娘三人だったことが明かされるわけだけど、この霊能者が絡んできてからの、母娘を狂乱に陥れる周囲の人々のトンデモぶりはなかなか見事。女霊能者、間宮もオカルトコミックに出てきそうな黒魔女風でイケてるのだが、それ以上にイイのが彼女のアシスタントである当麻(下元史朗)。彼は倉橋家の未亡人である母、暎子を手始めに、インラン姉かおり、そして里美までもその手に堕としていく……。いやいやいや、「アナーキー・イン・しゃぱんすけ」でスカトロ&赤ちゃんプレイにのめり込む男を演じてた下元史朗が、同じくヘンタイ男とはいえ、理知的でちょっとイイ男をやっているのには驚きである。カメラに向かって「霊的逆探知!」などと解説するアホなシーンでもその雰囲気は崩れないんだよなー。私はラストクレジットを見るまで同一人物とは気づかなかった!
おなじく「アナーキー……」組で、最近観る映画観る映画やったら顔を見る諏訪太朗は、今回、かなりシツコくてイヤーな刑事役。しかし彼の白眉は、この映画の白眉でもある三輪ひとみのレイプシーンにおいて!彼は彼女をレイプしようとして彼女をひっぺがし、みずからも脱いで覆い被さるのだけれど、そこをかの当麻に引きはがされ、首に縄をかけられてつるされ、絶命した?ところで当麻によって抱きかかえられた里美に挿入させられるのである!!!これだけでも充分エグいんだけど、その上、後ろに回った当麻までもパンツを下ろし、同時に里美の後ろからグイグイと××××!痛さに顔を歪めて刑事の死骸にしがみつく里美!その死骸の泡まじりのよだれを流した形相!うわわわわ、三輪ひとみ、まあ最初からどこかイッちゃってるコだなあとは思ってたけど、……いいのかあ!?
いつもヘンな大杉漣は今回もやってくれる。FBIの大佐である彼は、テレビのキャスターに身をやつし、里美を監視して彼女に語り掛けてくるのだけれど、それが家族にバレそうになった時、手下のルーシー(栗林知美)とともにレオタード姿になって美容体操?しだすのには大爆笑!うーん、あまり下半身は映し出して欲しくなかったりして!?そのルーシーはいかにもこういう時に出てくるキレた女殺し屋のキャラクターでなんてこともないんだけど、イイのはもう一人の手下である成本役の阿部寛である。彼は最近とみにこうした一筋縄ではいかないキャラの方向に活路を見出していて、しかもそれがなかなか成功していて侮れない。自分のヘマをへーぜんとルーシーのせいにして彼女を見捨てるあたり、そのベタな美男顔が間抜けとクールさを同時に醸し出してて、ハマッてますわ。
実は犯人は母娘三人であって、しかも里美は兄、美智夫との禁断の愛の結果をそのお腹に宿しており、追手から追いつめられ(ここで里美がなぜかカンフーの達人で大活躍!?)、背水の陣となったところで兄に「お願い、もう一度抱いて」とこう相成るわけである。二人は絡み合う。そして追手に惨殺され血みどろで死骸を草原にさらすのである。……これがねー、この血が、その呪われた血と同時に、性的なものをも暗示しているようで実に実にエロティック。しかも里美は白目をむいて舌を出し美智夫の上に覆い被さってて、もしかしたらその絶頂の極みに?などと想像してしまうとさらに……うーむ、近親相姦もまざって、エグさとエロのぐっちゃぐちゃですなあ。
眉と瞳に異常に力を入れて、その霊力で尾行刑事をボキボキに殺しちゃうなんていうシーンも迫力な三輪ひとみ、しかし基本的には彼女が見せるマゾ系演技はマニアにはたまらん!?ものがあるかも。さすがに母、姉のようにあらわにまではならなかったけど、清楚な白&レースの下着姿が生唾ものです。黒沢清監督作品などでいつもシックでコワい音楽を奏でるゲイリー芦屋が、ここではそれも保持しつつ、笑っちゃうようなアナクロなメロディラインとアレンジを聴かせるのも要ポイント!★★★☆☆
まあその話は置いといて、しかししかし、本当に篠原監督は私の琴線に触れまくりのお人なんだから!彼自身は実はこういうタイプの作品ばかりが続いていることは本意ではないらしいのだけど、「悪の華」の失敗を思うとやっぱり、篠原監督はこの路線でしょう、と思ってしまうのだ。ああ、「月キャベ」ああ「洗濯機は俺にまかせろ」に「きみのためにできること」!どこか少女マンガ的な甘さを持ちながら、その実その演出は真っ直ぐ正攻法で、何らてらうところがないのに(大林監督と似ているようで決して似ていないのがこのあたり)、いやだからこそその積み重ねが頂点に達した時にどうしようもなく泣かされてしまったり、どうしようもなく幸福にさせられてしまう。……こうして見てみると、篠原監督が若い世代からだんだんと大人の世界=自分に近い世代に移行していっていることが判る。だからこそ本作は田中麗奈扮する聡夏の物語ではなく、その親世代、この三人の大人たちの物語なんだと得心がゆく。
物語自体はいい意味でも悪い意味でも本当に(昔の)少女マンガ的と言うべき甘さを持っている。突然の病床につく母、二人暮らしとなる父親と素直に向き合えず、理由のない反抗心をつのらせる娘、愛妻の発病に動揺し、娘との距離をつかめない父親、オルゴールの中から出てきた、若き日の母が出せなかったラブレターと、娘が探し出すその差出人である母のかつての恋人……。ダムに水没した村や、“願い桜”の下で出会うというシチュエイション、古いオルゴールやその名もなき曲の甘美なメロディ、どしゃ降りの雨の中、散り行く桜の中を疾走する少女、などなど、とにかくそうしたこれでもかのアイテムが実に満載に用意されているのだけれど、それをことさらに強調することなく、とにかく丁寧に描出して行く。淡々としているようでいていつもその下にドラマチックな空気をはらんでいる篠原マジック!久石譲の音楽は気をつけて使わないとかなり大仰に甘すぎるのだけど(それが大林監督「ふたり」や「はるか、ノスタルジィ」みたいにすっくりハマる時もあるけれど)、ピンポイントで使って、どっぷり漬かることを避けることでその危険を上手く回避している。
母のかつての恋人、藤木(真田広之)がどーしよーもない汚くてアヤシイ中年のオッサンだと判った聡夏は、母の夢を壊すまいと二人を合わせる前に彼の改造計画を実行する。このふたりの掛け合いはなかなかに楽しい。何と言ってもあのメチャカッコイイ真田さんが、恐ろしくこ汚いアパート(?というのもはばかられるような……)に住んで、人が訪ねてくると税金か国民年金の取りたてかと窓から逃げ出し、トレーナーの上下でパチンコ屋に入り浸るようなオッサンを演じていることに狂喜してしまった。聡夏が母親、志津枝さんの出した手紙の住所からたどって彼の住所を探し出すのだけど、彼の住居がだんだんとランクダウンしていく様子に、その落ちぶれようが如実によく判る。
まッ、真田広之なんだから、どんなに汚くてもカッコよくなっていくのはトーゼンで、この聡夏ちゃんに買ってもらったスーツでバリッと見惚れるイイ男に戻って病床の志津枝さんに会いに行くシーンはほんとにドキドキもの。ああ、このふたりのシーンは、麗奈ちゃんには悪いけど、やっぱりさすがだよなあ、と思わせる名シーンで、まさかと思う人が訪ねてきて思わず布団で顔を隠し、しばしそのまま固まってしまう志津枝さんと、聡夏ちゃんにダメ出し出された「やっ、久しぶり、元気?……病院で元気、はないよな……」なんていうトンマな呼びかけもその久しぶりのぎこちなさがにじみ出ている藤木の、言葉にならない短い、でも一生涯忘れないであろう再会の時間が切なくて素晴らしい。二人の会話には、プラトニックな恋愛などではなかったであろうその過去の恋愛関係が言葉には出さなくても感じられ、でもそれがいい意味で過ぎ去ったこと、そして二人がそれぞれに人生で大切な人を得、今はお互いに忘れられないけれどそれは現在形ではない、大切な思い出の人として双方を思い合っているのが感じられて胸が熱くなってしまう。ああこの辺が、凄くいいんだ。まあ、そうはならなかったとは思うけれど、不倫などと言う空気は最初から最後までどこにも感じられないところが。甘いのかもしれないけれど、でも不倫なんていう展開になってしまう方がもっと(別の意味でも)甘いと思うし。
このあたりまではちょこちょことしたシーンだけながら、その短いショットの積み重ねで妻への愛情を痛いほどに感じさせてくれた夫、平田満が、(多分藤木の計らいで)藤木のかわりに聡夏のセッティングした夜の願い桜に駆けつけるクライマックスでもう私は大泣き状態なんである。この時聡夏は母から藤木が病院に来たこと、彼がここに来ないことを知らされているのだが、一瞬、藤木が来たのかと顔を輝かせるも、それが父だと知ると当然ながら戸惑った表情を見せる。しかしその後ろで、母の志津枝が心底嬉しそうな顔をしていて……。ここは聡夏が生まれたすぐ後、三人で旅行をした時に来たのだという。母だけの思い出の場所じゃなかったのである。この満開の桜の木の下で親子三人で写真を撮ろうという時、カメラのセッティングをしながらひそかに目頭をおさえる父、平田満にこちらもぼろぼろと涙がこぼれてしまう。フラッシュを忘れたから、とカメラ露出の5秒間、静止を命じられ、逆にふざけあう三人のこの焼き付けられた濃密な5秒間、何と切なく、なんと素敵なのだろう!
もう一人忘れられないのが、この母の郷里、長野県上伊那郡でメーターの壊れたタクシーの運転手をしている豪快な白川雪松を演じる佐藤充で、彼が聡夏たちを待って夜の満開の願い桜の下でニコニコと手を振っている場面は監督の言にもあったけれど本当に何とも言えない胸に迫るものがあるんだよなあ……。こういう言葉にならない全身から醸し出される大人の役者たちのアンサンブルに本当に心地よく酔わされてしまった。そうだ、それにこの桜……篠原監督はやっぱり植物やそよぐ風を画面に迎える時が一番素晴らしい力を発揮するのだ!★★★★☆
話といえば、なんてことはない。実に実に、シンプルな話。都会から小さな村にやってきた若い教師に、村一番の器量良しの少女がひと目で恋をする(しかし、ひとめ惚れするような青年かなあ……イヤイヤ……)。母親は、身分が違うからあきらめなさいとさとすが、彼女はただその気持ちを押さえ切れなくて、一生懸命美味しい料理を作ったり、その教師が通る道で待ち伏せてたりする。その行為は、なんの言い訳も用意されておらず、何のためらいもなく、言葉に出さなくても彼女の気持ちがすぐに判ってしまうほどにまっすぐで、赤面するほどに正直である。待ち伏せてた少女のあまりの可愛さに(だよな、絶対!)教師は一緒にいた生徒の子供たちに彼女の名前を聞く。そうすると、その生徒が去って行く少女の小さな後ろ姿に「先生が名前を聞いたよ!」と叫ぶのである。恥ずかしそうに、しかしとてつもなく嬉しそうにかすかに揺れる彼女の肩が、ああん、もう、たまんない!
教師の方も彼女に近づきたいために、彼女が来ている井戸に水を汲みに行こうとするところを「先生にそんなことやらせられません!」と阻止されたりとか、なんかもう、そういうあまりにもあまりにも懐かしく歯がゆく可愛い恋の行為が素晴らしくて。現代じゃ、こういう物語は作れない。そう、これは、冒頭、父親の訃報を聞いて村に帰ってきた青年が、村で有名な父と母の恋物語を回想する物語で、夫が亡くなったことに身も世もなく哀しんでいるこのオバーチャンが、かつての美少女、ディなのである。無論、夫はこの若い教師。
40年連れ添って、しかも最後の最後まで恋に落ちた時と変わらぬ愛情を保ち続けていたらしいこのオバーチャンに驚くのだが、その後、この、小さな宝石のような物語を見せられるに至って、なんだかそれも納得してしまうのだ。しかし、18の時に出会ってから40年ってことは、まだこのオバーチャン、60前の筈なのに(結婚してからと考えても60位でしょ)、ちょっとしわしわすぎないかしら、だからオバーチャンと呼びたくなるんだけど。もう80くらいにすら見えるぞ。
だから、男と女の役割がきっちり分かれていた時代のお話で、今では到底望めない(望もうとも思わないが)その厳格な分担は、どこか美しい伝統を思わせる。少女ディは一日中、生活のための仕事に没頭する。井戸に水を汲みに行き、その小さな肩に重そうな桶を二つ担いで、かまどに薪をくべ、朝昼晩の料理を作る。いつでも忙しく立ち働いているその姿は、何の迷いもなく、美しい。そして、その合間を見計らって彼女は教師の朗読を聞きに学校の脇をすりぬけ、帰り道を待ち伏せするのである。ただそれだけの生活が、きらめくほどに美しいのである。
彼女が心を込めて作る料理が、とてつもなく美味しそうでね!特に湯気をあげてつやつや光るきのこ餃子には惚れ惚れした。それにこのきのこ餃子は実に切ない役割を負わされてて、文革(のせいだというのは後から解説を読んで知ったが)のあおりで町に引き戻される教師のためにその餃子を包んでひた走り、追いかけて追いかけて、でも追いつけなくて、ついに転んで大切な瀬戸物の器も割ってしまうのである。教師がくれた大切な赤い髪留めもどこかに飛んでいってしまっている。この器を、「娘の心を奪った男が使っていたから」と、母親が瀬戸物修理屋に直させて(スゴい伝統?技術!)戸棚においておき、それを見つけたディが涙のしずくをこぼす場面の胸が締め付けられるほどの切なく、そして彼女のとんでもない可愛さがッ!
約束の日、帰ってくるはずの彼を待って、吹雪の中村と町をつなぐ一本道に立ち続けるディ。その木立と同じように彼女の髪が一本一本白く凍りつき、眉毛に雪が積もる。ついに彼は現れず、家に戻ったディは高熱を出して倒れてしまう。この時には既に教師とディの恋は村中の周知の事実。なんたって、“自由恋愛”は村では初の例だったというんだから。娘のために、一日だけでも何とか彼を呼び戻せないか、と懇願する母親。そんなことをするまでもなく、そのことを聞いた教師はいてもたってもいられなくなって戻ってくる。ディの知らないうちに、意識を失っている彼女のもとで一晩中看病して。目を覚ましたディが、学校の、彼へのもとへ駆けてゆくと、もう皆二人のことを公にして「先生!ディが会いに来たよ!」と叫ぶのである!バタン、と戸を開けてディと向き合う教師。周りを取り囲む村民たち。ああー、いいシーンだなあ。
でも、その後彼はそのムチャな行為のために再び連れ戻された後、実に二年間彼女と引き離されていたというのだから、泣けるのである。そう、手も握ることなく、ただ目と目を見つめあっただけで、その恋心を育んできた二人、彼が戻ってくる二年後、彼女は再び同じようにその道に立つ。そしてその後は決して離れることのなかった40年、教師が死に、彼女は昔のしきたり通り、というより、その大切な道を再び二人でたどりたいがゆえ、遺体を担いでその道をたどりゆく葬儀を反対を押しきって行うのである。かつて、彼の赴任で建てられた校舎の為に、というより彼のために赤い布を織ったように、彼の棺にかける布を織って。
そして、その担ぎ手に、かつての教え子たちが訃報を聞きつけて三々五々、やってくる。奪い合うように、交互に担ぐ。これまた、泣ける!現代のこのシーンはモノクロで、夢のように美しかった過去のカラーシーンを思い出すと、なんだかもう、素直に泣けちゃうんである。……なんだかんだ言って、チャン・イーモウにはいつだってやられちゃうんだよなあ。どこかかたっくるしい巨匠のようなレッテルを何ら気にすることなくスルリとカラーを変えてしまう、というより、自分の欲求にしたがってつるりと素朴で美しい物語を紡いでしまう彼に、なんだか悔しいような気もしながらも、惹かれずにいられない。この、顔アップの連続やオーヴァー・ラップ、カラーとモノクロの使い分けといった、臆面もないようなてらいのない演出方法が、泥くさくなりそうなのを全然恐れてなくって、実際泥くさくなんぞならなくて、詩情ゆたかな物語になっちゃうんだもんなあ。
とにかくチャン・ツィイー、なのである。彼女を見るためだけに作られたような、映画なのである。★★★★☆
荒くれものな男たちの中に、なぜかインディアンの女が一人。奥地に住むインディアンとの交易の切り札の娘なのだ。ブーン言うところの「インディアンにしてはなかなかな」美しい娘。この女は英語を喋れない。それでもその気の強さと優しさに二人の男は恋をする。
西部劇において、女は明らかな異物。いや、西部劇に限らず、である。西部劇はそれがもっとも顕著に出た、いわば映画の、そして社会のもっとも原始的な面を映し出している。酒場にちらりと女はいるものの、この映画で登場する女性は本当にこのティア一人だ。言葉が通じない彼女のことを「何を考えているのか判らない」と言いつつ惹かれていくブーン。実に象徴的。男にとって女は理解できない生き物であり、本能をおびやかし、男同士の友情を壊す存在。
多くの男たちが乗り込むこの船には、インディアンの陽気な男や、すぐにフランス語?で喋りたがり、ブーンの叔父に「イングリッシュ!」とたしなめられるチビ男など、なかなか楽しいキャラも見られるのだが、もっぱら話はこの二人を中心に進んでいく。一歩引いたところで穏やかに笑っているような印象のジムと、思い込みが激しくて人情に篤いブーン。ティアはもちろんキーパーソンなのだけれど、彼ら二人の関係を(多少の問題は起こるものの、意外なことに不自然なほど他の男たちとはそれほど面倒を起こさない)揺さぶる役割に過ぎないのだ。
ティアはしかし、女の武器を使ったりすることはせず、言葉が通じない中で必死に抗い、陽気に笑い、果敢に救出にも向かう。うーん、典型的なよく出来た女房ですな。余計なことは一切言わず(この場合は通じない)、美人で優しく勇猛果敢。ティアの言葉が判らないので、余計に彼女は理想の女性に仕立て上げられているような気がする。
ジムはどっちかというとコメディ・リリーフな感じもする。イイ男なのにねえ。指をケガして切断しなければならなくなった時、景気づけに思い切り酒をあおり、さあこい、とばかりに度胸を据えたものの、まるでついでみたいにさっと、あっという間に指を切られると(これは笑える)もう切られたのに急に怖じ気づいて、「どこだ、俺の指はどこだ!」ともう泣きそう。飛んでった指をさながらコンタクトレンズを落としたみたいにはいつくばって探しはじめ、それにしたがって他の男たちもはいつくばり、形のいいお尻が画面のこちらがわに次々と並べられるのには爆笑!
途中、「毛皮商会」による陰謀があったり、インディアンの襲撃に遭ったりと、西部劇ならではのスペクタクルたっぷりの合戦シーンも盛りだくさん。実際の戦いもそうだが、船で川を上っていく彼らを、対岸から列を成して、監視するようにずっとついてくるインディアンの群集の不気味さなど、敵との争いも緩急巧みに描かれる。そう、川を上っていくから大変なのだ。ロープで船をよいしょ、よいしょと引いていく。敵の襲撃があると、大急ぎで船に戻らなければならないし。そうこうしているうちに一人、二人と仲間が倒れていく。
ティアの計らいもあって、ようやく目的地に着いた彼ら。ティアは実はその土地の身分の高い娘だったのだ。言葉は通じなくても彼女とお互い心惹かれるものを感じていたブーンは彼女と関係を結んでしまう。と、テントの外では突然のお祭り騒ぎ。ティアとブーンの結婚祝だというのだ。アセッたブーンに叔父が言い放つ。「言い逃れは出来んぞ」笑えるけど、女の立場ではあんまり素直には笑えないなあ。
一度はジムたちとともにその土地を離れるブーンだけれど、悩んだ末、ティアのもとに戻ることを決意する。実は彼は自分の兄がインディアンに殺されたと思い込んでいて、そうしたわだかまりもあったわけだが、そんなことにこだわっている自分の狭い了見を改めることとなる。しかしラストシーンはブーンと彼女の再会シーンではなく、ジムとブーンの別れのシーンである。「(交易のために)来年会えることを楽しみにしている」と言うジムと抱擁をして別れるブーン。彼女とのハッピーエンドなど、どうでもよく、やっぱりこの作品の主題は男の友情な訳ですね。しかしキレイすぎる気もするけど。ひょっとするとジムのほうがティアに惚れていて、彼女をより理解していたとも思えるのだが……。
それにしても、こういう男の友情って逆にお互い踏み込んでいない気もするけれどどんなもんだろう?それにやっぱり男は友情、女は恋愛を一番にとるというのが世間一般の常識のように語られてて、そうだとすると女は永遠に片思いだよな……。★★★☆☆
そうだ、あんな状況下に置かれて、それこそ冷静になれる人間なんて、ほんの一握り、そしてそれを全うできるのもほんの一握りなのだ。早々に、仲間に対して銃を向ける者もいる、仲間を信じていたはずが、ちょっとだけタガが外れて凄惨な殺し合いになってしまう場面もある。……それにしても、この設定、子供になめられた大人が、子供を恐れるが故に作ってしまった“新世紀教育改革法”、それが殺し合いとは、でも恐ろしいことにそれがそれほど荒唐無稽なことに思えなくて。そして大人の側でそうしたことが決められてしまったら、子供は、もう、どうしようもないのだ。あらがっても、従わせられてしまう。その子供が大人になるまで、何の手立てもないのだ。確かに今の少年犯罪は恐ろしいけど、もしかしたら大人たちはそこのところを忘れているかもしれない。こんな状況になったのは子供たちのせいなのか?いや、そんなわけはない、子供たちが押し込められているのはあくまでも大人の作った社会規範の中だということを。
二度目に観た時は、最初から涙が止まらなかった。一度目の時は、涙なんか出なかったのに。鑑賞中の感情が、全く違っていた。彼らが、どういう風に追いつめられて、どういう風に死んでしまうのか、判ってしまっているせいなのかも知れない。必死に抵抗を試みる子達も、あっさりと、無残に殺されてしまうことを。あるいは、疑いあって殺しあってしまうことを。修学旅行の途中で拉致され、無人島に連れてこられて、このゲームに参加させられたことを知る42人、解説ビデオのお姉さん(宮村優子)のアニメチックにはしゃいだ声が恐ろしく、早々に額にナイフを刺されて、そして首を吹っ飛ばされて(しかもかつての教師に!)死んでしまう生徒二人にドギモをぬかれる。
一人一人名前を呼ばれて、サバイバルバッグを手渡され、外に出ていく場面、「ずっと、友達だよ」「判ってる!」泣きながら抱き合い、たまらず走り去る女の子、恋人の手をギュッと握り締め、目をそらして出ていく女の子、……やっぱり、女の子の描写に、泣いてしまうのだ。拡声器を武器に手渡された女の子二人が、親友と共にみんなに必死になって呼びかけ、でも無残に殺されてしまうやりきれなさ。好きな男の子の腕の中で、でも彼が好きなのは自分じゃなくて、「かっこよくなったよ」「お前こそ、世界一カッコイイ女だ」「……ありがとう」と絶命する痛ましさ(栗山千明、キレイ!)。その男の子が好きな女の子に会いに行って、撃たれてしまい、息も絶え絶えになりながら告白、彼女が絶命した彼に「どうしてよ、一度も口聞いたことなんて、なかったじゃない、判んないよ、私どうすればいいの!」と泣き叫ぶ悲痛さ(しかもその直後彼女は鬼女、光子に「死ねばいいの」と殺されてしまうのだ!)、その彼女たちの人生のほんの短い最後の時間があんまり哀しくて、ただただ涙が止まらない。
そして特に、あの灯台のシーンは……仲良しグループで立てこもり、何とか助かる方法がある、と信じていたはずが、その内の一人が食事に毒を盛って仲間が一人死んでしまったことで(しかもそれは、仲間を殺そうとしたのではなく、自分の好きな人を殺してしまったかもしれない男の子に対してせっぱつまってやったことなのだが)、極限状態の中で奇跡的に明るく笑いさざめきあっていた彼女たちも、あっという間に銃を向け合うことになってしまう。相手が銃を向けたら、自分も向けるしかない。殺したくなんかないのに、一度始まってしまったら、止められない。「せめて、明日までは生きられると思ってたのに!!」と叫んで絶命する女の子、「バカ!助かるかもしれなかったのに!」と泣きながら息絶える女の子。……血にまみれた彼女たちが死屍累々と横たわるその場面は、恐ろしく、そして哀しく美しく、本当に号泣してしまう。かのきっかけを作ってしまった女の子は、ブルブルと震え、「ごめん、みんなのこと好きなの、忘れてた」と階段を駆け上がり、飛び降りてしまう。
それにしても、あの相馬光子は、凄かった。彼女を演じた柴咲コウ、彼女の名前がクレジットでもかなりの特別扱いの位置にあったのも納得で。ヒロイン、前田亜季扮する典子に向かって「死ねよ、ブス」と言っちゃえるほどの?美貌の持ち主。彼女に対して一瞬優位に立つ女の子が生理を証拠に詰め寄る場面も凄かったが、一発逆転で「殺して何が悪いの、人にはそれぞれ事情があるのよ」とぶっ放す光子はやっぱりもっと凄かった。特に、何の説明もされずにほんの一瞬挿入される、あの壮絶なワンカット!全裸で血まみれの男子二人を置き去りにして、上着を引っ掛け、鎌の血を振り落として立ち去る俯瞰の場面には、鳥肌が立った。彼女、二人と寝て、そして殺したんだろうな、やはり……。でも、そんな風にしぶとく残酷な彼女が、でも殺される時は本当に一瞬で、安藤政信扮する不気味な転校生、桐山に背後からやられてしまう。生にこれほど執着していた彼女が、ほんとうに一瞬にして絶命してしまう
助かることになる二人、七原秋也と中川典子は、仲間と闘うことをしない。凄惨に殺しあっていく周囲の仲間たちと対照的で、自分以外のクラスメイト全員殺さなければ生き残れない、という趣旨からは完全に外れているというこの皮肉。いや、それこそが大事なのだ。みんなに必死に呼びかけた女の子二人や、パソコンと戦闘技術のある三村のようになにか手だてを講じるわけでもなく、そして川田に守られすぎているという感じはあるけれど、彼らが生き残れるのは、徹底した非暴力主義だからなのだ。
秋也が初めて自覚して人を殺すのは、ゲーム終了後、典子に銃を向けたキタノに対してだけである。しかもキタノの持っていたのは、水鉄砲であり、キタノは典子が好きだったのだ。彼の手になる絵には、殺しあうほかの生徒たちの中央ににっこりと微笑んで光り輝く彼女の姿が描かれており、それを見せられた時、恐ろしさと同時に彼自身の哀しさにたまらず襲われてしまって、衝撃的である。恐ろしさというより、やっぱり哀しかった。この場面でも、ムチャクチャ泣いてしまった。キタノ、生徒を何人も殺したりして、恐ろしくてとんでもないヤツだけど、でも後に残るのは少女を思った苦い切なさとやりきれない哀しさだけなのだ。
中学生版仁義なき戦いとでも言いたいような、“実録風”を不謹慎に楽しんでしまうエンタテインメント性をも持ち合わせている。ここが凄い。これだけの描き方なら、もっと不愉快になってもよさそうなものなのに、それがない。そこに描かれている殺戮や暴力は、昨今のアクション映画のように、意味なくファッション的に行われているものがひとつもないからだ。想像を絶する恐怖と痛み、生きたいと思う痛烈な未来への欲望、未熟だけれど大切なアイデンティティ、友達や恋人への思い……そうしたものが、凄惨な殺し合いの場面に濃厚に感じられる。だから、“だんだんと殺しの場面に慣れて来てしまう”と思うことがイヤだったし、もう一度観たいと思ったし、そしてそれを再認識して、とにかく涙が溢れどおしだったのだ。この作品を“三池崇史か石井克人に撮らせて単館上映が正しい映画化(本作の脚本家で製作者でさらに深作監督の息子である深作健太氏弁)”だなんて、思わないよ。だって、三池監督や石井監督にやらせたら、そりゃ全く違う、面白いものになったかもしれないけれど、こんな風に命の痛ましさを感じられるものになるとは思えないもの。それこそアクションはカッコイイけどその点が無感覚なゲーム風になってしまうんではないか。
全く、国会議員たちは実際に試写を見てもゴネてるというんだから、一体何を見てるのか。確かにキツい描写なのはもちろんだが、本当に怖いのは、そのキツい描写が意味もなく描かれている場合なのではないのか。だからこそ現実感を失い、生や友達や未来の大切さを理解できずに少年犯罪が生まれてしまうのではないか。子供への影響を云々するなら、この作品は見せるべきである。少なくとも、子供を恐れ、こんな愚かな法律を作るような情けない大人にはなるまい、と思うだろう。
東映の波しぶきの映像から強烈な音楽が鳴り響き、一日四回繰り返される放送のシーンに流れるクラシックともども、物凄いインパクト。特にこの冒頭は、一気にこの映画へと心を鷲づかみにされていく。このあたりの持っていきかたは、さすがアクションの深作欣二!主人公の藤原竜也と前田亜季は徹底して受けの演技なので他の生徒役の子達と違ってハデなシーンもあまりないのだが、それでも全身で感情を表現しようとしているのがひしひしと伝わってくる。そして双方ともに助演賞をあげたいッ!と思ってしまった二人の転校生、山本太郎と安藤政信(鬼気せまる不気味な殺人鬼を彼にふるとは!ついに、自身のイメージを突き破った!)は本当に素晴らしい。彼二人ともビートたけし=北野武がらみでのデビューということを考えると、なかなか感慨深いのだ。
今年暮れになって登場したすべりこみの問題作だけれど、ぜひぜひそのスキャンダラス性に臆することなく、映画賞を荒らして欲しい。★★★★★
フルーツ・チャン監督との第二段のコンビ作という事ばかりがクローズ・アップされるが、その実、サム・リー主演の物語というわけではない(そう惹句にはあるけれど……)。それこそ「メイド……」では香港の中国返還を迎えたあらゆる焦燥感を象徴するような役回りだったが、今回それが課せられるのは、彼より一世代上の兄とその仲間たちである。そして「メイド……」では明確に中国返還の影響を受けていたわけではなく、そこに若さゆえの憤りを重ねあわせる感じだったが、本作ではまさしく明確にその影響を被っている。
英国軍香港部隊に従事していた彼らは当然の事ながら職を失い、ヤクザの世界の末端で食いつなぎ、銀行強盗を未遂し(全く同じ格好のグループが銀行から出てくるのにハチ合わせする場面は爆笑!)、どうにも冴えない。「メイド……」で描かれたように、この中国返還に際して若い世代も決して幸せではないのだけれど、彼らは若者達のしたたかなエネルギーに嫉妬と羨望の眼差しを向け、中国返還の式典に浮かれ騒ぐ香港の街に同調するように、次第に自分の足元さえも見えなくなっていく。
シュン(サム・リー)の兄、ガーイン(トニー・ホー)元軍曹とその部下達は、部下達というより、実にのんびりした仲間たちなのだ。その描写はいつもとぼけたユーモラスさを発散させている。海パンいっちょで浮かべたいかだの上で水をかいて進む、銀行強盗をするための訓練場面でも、しっかりアーミーのカッコをして真剣な彼ら、「なーに本気になってんだヨ」とでも言わんばかりのサム・リーに向かって、一応にらんでは見るものの、ほとんど少年同士のふざけあいさながらに果物(?)をぶつけあう無邪気さ。でもその無邪気さに笑っているうちに、それらの場面が心の中に蓄積されていって、なんだか切なくなってくる。彼らの行き場がどんどん失われていくのをまざまざと見せつけられるからだ。
この銀行強盗のくだりは本当に面白い。黒づくめに英国軍放出の武器でキメた彼らがそれぞれを「広州」だの「香港」だのとコード・ネームで呼び合う時、シュンだけが、ナントカカントカ二丁目の……と長ったらしい住所を口にし、仲間ににらまれると「……その二階のデカパイクラブ」と結ぶ。覚えられるのか、と突っ込まれると「俺常連だもん」としれっとして言う彼。実際次に点呼を取る時には非常にすらすらと言ってのけるのだからもう爆笑!その車に間違って入り込んでしまった、銀行入り口でハチ合わせした、もう一つの強盗グループのリーダーである女が、このシュンに習ってコードネームを言おうとし、皆にザッ!と銃を向けられるところなども爆笑モンである。
彼女は実は、シュンやガーインが世話になっているヤクザのボスのご令嬢であり、彼女と関わった事で彼らの運命は大きく転回していくのだが、ガーインと彼女は直接言わないながらもお互いに何かシンパシィのようなものを感じあい、しかし彼女は英国に旅立ってそのまま別れてしまう。仲間たちが次々と自分の居場所を見つける中、一人出遅れてしまったガーインはその苛立ちをいきがった少年グループ(ほんと腹立つナマイキさ!)にぶつけ、因縁をつけてきた少年を執拗に追い回して、足に向かって銃をぶっ放し、ついにはその少年の頬に穴を空けてしまう!冒頭、幻想シーンなのか、電車に乗って目をつむっているガーインの頬に穴が空いており、ひとりの小さな男の子がその両頬を貫通した穴から向こう側をのぞき見るという、シュールなショットが用意されていて、それと連動したこのシーン。血だらけの少年の頬の向こうに風景が見えるという、残酷ながら、妙に乾いたユーモアと展望を感じさせる面白さ。
それを証明するように、ラスト、運送屋の仕事に就いているガーインが映し出される。香港に戻ってきたくだんの彼女はガーインに気づいて喜びいさんで話し掛けるも、「人違いだ」と彼はにべもない。しかし彼女を避けて画面のこちらがわに歩いてくる彼、実に嬉しそうな笑みを浮かべているんである。非常に後味さわやかなラストは、「メイド……」の時とは明らかに違い、どこか監督の心情の変化を感じさせるものがある。
今回サム・リーはこのようにいささか脇に徹している感があるのだが、彼の出る場面はいつでもユーモラスさとトンガったアブナさを同時に放つ不思議な面白さがある。その白眉はなんといっても、バスの中でかしましくくっちゃべっている少女達に業を煮やして、その二階建てバスの二階の窓から一人の少女を放り投げてしまうシーン。その少女は途中にクッションとなる車の上に落ちてから道路に落ち、命に別状はなかったようだけれど、それにしても……と呆然としていると、乗客は拍手喝采、仲間の少女達まで彼にサインをせがむぶっ飛びぶりだ!少女達といえば、タクシーの中に使用済みナプキンを置き去りにするというエグいいたずらをする場面もスゴかった。そのタクシーの運ちゃんが探し回ってようやく見つけた彼女たちに、仕返しに使用済みおむつ(まさか自分で……!?しかも“大”だ!)をなすりつけるというさらにモノスゴイ場面まで……。
なんと音楽担当とカメラマンが同じ人とは不思議。このセルロイドみたいなクリアーブルーな画面が何とも言えない切なさを醸し出す。★★★☆☆
物語のモチーフは、ジゼル。と言われても、劇中のカホルのように私もその物語を知らなかった。恋人に二股をかけられ、悲しみのあまり死んでしまったヒロインが、亡霊となってさまようストーリー。カホルは「四谷怪談みたいね」と言う。そしてこの劇中でも二人は同じ一人の男を恋人にしている。しばらくの間、それに二人は気づかない。
ドイツからロンドンへバレエを踊りにやってきたヴェロニカと、ロンドンに住む行くえ知れずの恋人を追ってきた女優のカホル。ヴェロニカがアルバイトするホテルでの出会い。不眠症のカホルが部屋中散らかしっぱなしにして、バスタブで寝ているところを、ハウスキーピングのヴェロニカが入ってくる。彼女は部屋の状態と誰もいない様子に驚くのだけれど、可愛らしいワンピースと真珠のネックレスに心を奪われ、こっそりそれに着替えてくるくると踊り出す。バスルームまで来ると、カホルが寝ているのに遭遇し、驚いて立ちすくむ。寝ぼけまなこのカホルが「……おはよう」と言って、キャミソール姿で出てくる。……この出逢いのエピソードは、二人の少女の真っ白な陶磁器のような肌と、双方とも英語がネイティブじゃない、がゆえにゆっくりと丁寧に喋る様子と、そんなものがあいまって、とても可愛らしく印象的である。年は知らないけど、そして少女と言う年でもないのだろうけど、このシーンから既に美少女映画だなあ、と思わせる。
それは二人がアンダーヘアまで惜しげもなく見せてともにサウナに横たわったり、激しくセックスする場面が現れても不思議とその印象は変わらない。むしろ強まる気すらする。犯しがたいほどの白い肌と、薄い胸が痛々しい華奢な肉体、恋人を友達と共有しているとは知らずにいる哀しい無邪気さがそう感じさせるのか。……よく判らないけれど。このヴェロニカ役のニコル・マルレーネも、カホル役の川越美和もそうした不可思議な少女性を最後まで保ち続けている。川越美和、彼女のことを知らないわけじゃなかったけど、意識してみたことなんて全然なかった。こんなに可愛らしい顔立ちの人だったろうか。そして、こんなにキレイな日本語の発音で話す人だったろうか。ジャパニーズイングリッシュで話す様も、ほんと判りやすいシンプルな言葉で話しているのだけど、それが好感が持てるというか、ほんとの発音の英語より美しく感じてしまう……不思議と。
彼女たちが交わす会話は、だからとても言葉がシンプルなのだけど、そう、言葉がシンプルであればシンプルであるほど、その話の内容はどんどん深まって、どんどん濃厚になっていく。それは、どんな話をしていても、……セックスのオルガズムの話をしていても、つまるところ「愛とはなにか」という話であり、お互いに知らないながらも同じ恋人を持っているから、そのシンパシィはどんどん深まってゆく。カホルがカズヤ(ヴェロニカにとってのケン)とセックスし、カズヤが出ていった後ハウスキーピングに現れたヴェロニカがハダカのまま寝ているカホルをつつきまわして戯れる。そしてカホルが「いいもの見せたげる」とゴミ箱から使用済みのコンドームを取出し、「さっき、したの」「まだあったかい、まだ生きてる」などと二人じっとそれを見つめる様は、二人の絆を……強めるようにも、断ち切るようにも思える、微妙で、しかしリリカルな場面である。それは、ついさっきまでベッドの上でくすぐりっこしてはしゃぎまわってた彼女たち二人が、まるでセックスしているかのような、そんな官能を感じさせもしたから、余計に微妙なのだ。
ヴェロニカのケンであり、カホルのカズヤである彼は、でもなぜかイヤなヒドイ男と感じることはない。彼の存在もまた微妙である。彼女二人を物語るために存在するかのようでいて、実は彼一人が全てを超越しているかのようでもある。彼は赤と黒のツートンカラーのジャケットを着ていて、なんだかそれが滑稽に感じられるような気もするし、それが彼の不可思議さを醸し出しているような気もする。
最初の場面で墓堀人夫が巨大な墓穴を掘っている。彼は数十年墓穴を掘ってきた中で、こんな巨大なものは初めてだと言う。その中に、カホルとケン=カズヤの関係を知ってしまった。ジゼル姿のヴェロニカが静かに入って行く。それを、ケン=カズヤとカホル、そしてヴェロニカの相手役で彼女にホレているサイモンが百合の花を手にして見守っている。それは本当に不思議な場面で。彼女は死んでそこに横たわるのではなく、みずからその中に入ってゆくのだから。でもそれは、確かに彼女自身が入ってゆくのだけれど、それがまるで海の中に沈んでいくかのように見えるのだ。真っ暗な巨大な穴は、段々と大きくなって彼女を飲み込んでしまうように見える。……なぜこの墓穴はこんなにも巨大なのか?彼女の哀しみを表現するためなのか、それとも哀しみにくれる彼女をそんな風に飲み込んでしまうためなのか。
ヴェロニカに惚れているけれど、どこか疎ましがられている(はっきりと態度や言葉に表すわけではないのだけど、何故だかそう感じてしまう)サイモンもまた重要人物ではあるのだけど、彼に関してはあまり感慨はなかった。ただ彼が、死というものに魅せられていて、死んだカナリアで遊んだとか、語っている様は印象に残ったけれど。そうそう、なぜこの映画がそんなにも長いのかというと、この登場人物たちの、役のキャラクターではなく、役者個人のことを語る、語り尽くす場面がとても多いせいでもあるのだ。
それは時にうっとうしいほどに長く続くのだけれど、いわゆる脚本でキャラを構築しているのとは全く違った、現実の人間で架空のキャラを構築していくそのアプローチは、濃密なキャラというのとはまた違った、奇妙にリアルな人物造形をなすことに成功している。しかしそのリアルさは、あくまでこの映画の中だけのリアルさであり、他に替えのきかないリアルさなのだ。それだけこの映画の世界観は独特で、薄氷のような、トランプで作ったタワーのような危うい均衡を保っているという感じで、その唯一無比のバランス感覚には脱帽である。
こうした世界の作り方は、ややもすると新人監督によくありがちな、こっちが見たくもないいわゆる私小説風の、死にそうなほど退屈なものになりそうなものなのだが、それが全くないのは、こんな風に計算されない瞬間瞬間が連なっていっているように見えて、それが実は非常に計算されており、というか、計算は後からかもしれないけれど、後計算にしても、とにかく彼女たちの心の揺れから、それが大きく振りきってしまうまでを実に丁寧につづっているからだろう。その揺れと振幅を映し出すには、確かにこれだけの時間を必要としたのかもしれない。……正直、観ている間は、長い!早く終わって!とずっと思っていたけれど、こうして今その珠玉のシーンをつらつら思い返すと、どうしてもむげに否定することが出来ないのだ。
愛の物語、だけどこれは、ヴェロニカとカホルの愛の物語、だったんじゃないかな。とどうしても思うのは何故だろう。ヴェロニカはカホルに嫉妬したのではなく、ケンに嫉妬したんではないかと思ってしまうのは。しかし例えそうであっても、ヴェロニカはそれに自覚的であったとは思わないのだけれど、だからこそ、哀切で美しいのだ。
でもそうした、物語的なことは一切省いた、本当に詩としての、一大叙事詩としての芸術性に富んでいる、と思う。……何度もしつこいけれど、一気に観るのはツラいんだけど。映画も芸術と言われるけれど、今まではやっぱりどこかでただの娯楽だという認識は否めなかったのだが、ここにおいて、映画もまた小説や詩、絵画と同じ高い芸術の域にまでようやく達したのだ。同じ意味でピーター・グリーナウェイもそうなのだろうが、この矢崎仁司の世界観の方がしっくりとそれを実感できる。タイトルから既に、芸術的。このタイトル、ほんとにひどく美しい。今までの映画のタイトルの中で、一番と思えるくらいに。劇中の物語にもテーマにも殆ど関係がないのに、とてもこの映画に似合っているのもファンタスティックな魅力。★★★☆☆
何か「ナチュラル・ボーン・キラーズ」などを思い出してしまったが。あの作品はあまり評価は高くないようだけど(もっぱらタランティーノの脚本をオリバー・ストーン監督がブチ壊したと言われてるみたい。でもタランティーノを必要以上に持ち上げ過ぎじゃないかしらん?)“絶望的に愛し合っている運命のカップル”ミッキー&マロリーを演じるウッディ・ハレルソンとジュリエット・ルイスの圧倒的な演技で私の中ではかなり強烈な印象の映画だった。 殺人は男と女の愛を加速度的に深めていく秘密の麻薬みたいなものなのかもしれない。その“血”という介在物はどこか生々しいエロティックさを感じさせもする。ことにこのレイとマーサのカップルは、他人の性的欲望を利用して凶行に出ているのだからなおさらである。
実際にどうだったのかは知らないけれど、このどう見ても醜いとしか思えない巨体女のマーサ、しかもいつもぶすったれている彼女を甘いマスクで女を自由自在に扱うことが出来るレイがホレるというのも不思議な話なのだが。ただ、彼はいつもターゲットとしてオールドミスやカタブツ女など、どこか冴えない女ばかりを選び、それは結婚詐欺師としてのプロの選択としてまあ当然といえば当然なのだが、私はそこに、自分を確実に愛してくれる女を追い求める、哀れで愚かな孤独な男の影を見たような気がして。実際、マーサが同行している間にも、標的である女性を彼が本当に好意を持ってしまうケースが出てくる。しかしその時やきもちを焼いたマーサが捨て身の行動に出たことでレイは彼女の真実の愛と、自分の彼女に対するそれを身を持って知ることとなる。
しかしそう考えてみると、“真実の愛”などというものは、実際愚かなだけのものなのかもしれない。それは破滅をもたらし、許されぬ犯罪を生み出し、何ら意味ある結果を残さない。思えば“男女の愛”などというものはそのたった二人の間にしか存在しない、二人以外のあまたの他人には何の意味もないものだ。でもその愛と、愛を共有する誰かを欲して人々はさまよい続ける。そしてマーサとレイのターゲットとなる女達もまたその強烈な欲求者だということはいうまでもない。
その生々しい殺人描写や、ヒステリックな感情のほとばしりは、しかし時に失笑気味の可笑しさすら感じることがある。例えば二人の真意に気づいたターゲットの老女にマーサがハンマ−を振り下ろす時、そのゴツッという音となんの扇情的な編集も施されない淡々とした引きの画面は、笑うところではないのに思わず笑いが出そうになるし(実際たまらず笑っていた人もいた)。でもそれが余計に恐ろしいのだ。しまいには愛の証しとして殺人行為を強要するレイと、それにどこか嬉々として応えているかのようなマーサの“愛”の愚かさが、そしてその“愛の愚かさ”が誘発する犯罪の愚かさが。でも愚かすぎるがゆえ、それがより純粋さを増している。彼らは憎むべき殺人者ではあるけれど、どこか肩入れしたくなるのは私たちの愚かさを凝縮して一身に体現し、なおかつそれがピュアな愛へと昇華しているからだ。愛は確かに愚かなもの、だけれど愚かだからこそ美しいのだと。
その愚かさに気づいたマーサは自ら警察に通報し、二人はとらえられる。引き離された彼ら、裁判を前にマーサのもとへレイからのラブレターが届けられる。文通クラブで知り合った二人だが、この手紙だけがレイの本心をつづった唯一真実のラブレターだった。それを読みふけり、多分泣いているであろうマーサ。その後電気椅子に送られた二人。死してしか安らかに一緒になることが出来なかったのか……。★★★☆☆
母親というのは絶対だ。お腹の大きくなる過程、産み落とす過程、授乳をする過程……その全てにおいて、親だという証拠がある。しかし、父親はそうではない。その子の父親であるかどうかというのは、双方の記憶か、あるいは自覚による取り決めにしか過ぎず、“本当の父親”なんぞというのは、ある意味ロマンティックな幻想に過ぎない。それに、幼い子供にとって“本当の父親”というのがどういう意味を持っているのか真に判っているわけでもない。
自分が生まれる前に死んでしまった父親の幻想を追うサーニャと、その母親があてどなく列車に乗る。……なぜ、そういうことになったのかにも興味がわくが、映画はそこまではたどらない。その列車の中で、軍服姿のたくましい男、トーリャと出会う二人。運命的なものを感じたのか、合った視線を離そうとせず、そのまま必然的ででもあるかのように列車の中で交わうトーリャと母親のカーチャ。そして三人一緒に列車を降りる時、カーチャは言うのだ。「これからはこのおじさんをパパと呼びなさい」と。
まあ、よーするに母親にとっちゃあ、自分の好きな男=子供の父親でしかないのだ。このカーチャは息子であるサーニャが実父を夢見ていることなんかつゆ知らず、それどころかその男=前の夫のことなんかサッパリ忘れている。しかしサーニャはなかなか幻想の父親を振り払うことが出来ない。しかも、このトーリャ、自分のママとイチャイチャして、自分をジャマにするのだもの……子供らしい、嫉妬心。
若い二人、それも恋に落ちたての彼らだから、幼い子供をおざなりにセックスにはげんでしまっても、まあ仕方がない。それにこのトーリャ、そういう意味では女を大切にしてるし、その責務を果たせばサーニャの面倒もちゃんと見ている。母親には出来ない、ケンカの仕方や心構えの伝授をし、「俺の父親はスターリンなんだ」とチャメッ気のあるウソをついて、サーニャの目をまんまるくさせ、すっかり彼を信奉させてしまったりする。そう、トーリャは確かに魅力的な男なのだ……ある一点を除いては。
それは、彼が軍人のフリをしたコソ泥だということである。軍服姿で人を信用させ、気前良くサーカスなんぞに隣人たちを招待して、その留守を漁ってドロン、というのが彼の手口である。当然、それを知ったカーチャは驚愕し落胆して彼と別れようとするのだが、出来ない。しかし、サーニャを跡継ぎにしようとするようなトーリャに、「あんたほど愛した人はなかった」と言いながらも別れるをつげる。……しかしその日は、トーリャが投獄されてしまう日でもあった。彼女はやはり彼に一目会いたくて、監獄中継所で彼を待ち続け、そして、ほんの一瞬目を合わせた後、その極寒の地で妊娠中絶から腹膜炎をおこしてアッサリと死んでしまう。
あの日、サーニャはトーリャを乗せた車を追いかけて、初めて「パパ!」と呼んだのだ……小さな身体をせいいっぱい走らせて、転んで、泣きながらそう叫び続けるサーニャにはたまらず落涙。トーリャの刑期は、七年。施設に入ったサーニャは辛抱強く待ち続ける。きっと、トーリャが迎えに来てくれるだろうと。サーニャにとって、トーリャは父親になっていた。この世でたった一人の身内。しかし、偶然出会ったトーリャは、自分のことを覚えていなかった。サーニャが母親カーチャの名前を口にして、しばらく間をおいてから「ああ、あの、列車で一発やった女!」と言い、そばにいたウェイトレスに「妬くなよ、一発やっただけの女だよ」と笑う始末である。その、汚らしい言葉と、薄汚れた格好。サーニャの目の縁が赤くなってきて、涙がどんどんたまってゆく。
観客である私も、怒りを抑えられない。なんていう男だ、なんていう男だ!カーチャはあんただけを愛して、あんたのために死んだんだよ、サーニャはあんたを父親と思って、ずっとずっと待ってたんだよ!!と……。だから、サーニャがトーリャからもらった銃を手に彼を殺しに行く時も、早く殺せ、殺しちゃえ!!なんて心の中で叫ぶのだけど、でも、本当にサーニャが彼を撃ち殺してしまった時に、爽快感など、やはりある訳もない。サーニャも、重苦しい気持ちを抱えて施設に帰り、「あんな男ははじめからいなかったんだ、出会わなかったんだ」と思おうとするのだ。
トーリャは、本当にカーチャもサーニャも忘れてしまったんだろうか?あの時、そう思ったサーニャもそして観客である私も、だからひどく憤慨したのだけれど、もし、もしそうではないんだとしたら?泥棒の仕事は続けているらしいけれど、あの頃の堂々とした羽振りの良さはなく、コソコソとしてすっかり薄汚く落ちぶれてしまった自分を見せたくなくて、そう言ったんだとしたら?そういう意味ではこれ以上の、父親らしい父親はないのではないか?私は甘いのだろうか。サーニャが彼を撃ち殺したとたん、そんな考えが頭をもたげてしまって。
あるいは、サーニャが自分を殺すことを、誘い込むようにあんなことを言ったようにも思えてくる。あの時のトーリャは、かつての自信満々だった影は見られなかった。軽薄に笑ってはいたけれど、どこかに諦念があったようにも見えた。はっきりと自覚はなかったにしても、うっすらとした死への願望はあったのではないか。自分の息子に殺されることは悲劇だけれど、自分が望んだことならば、幸せな結末だったのかもしれない。しかも息子に渡した銃で。……考え過ぎだろうな。でも、そう考えでもしなければ、なんだかたまらないんだもの。カーチャもサーニャも……そしてこれほど愛され続けていたことを自覚していないトーリャも可哀想すぎるのだもの。
幼年期と少年期の、サーニャ役の二人の男の子はオッソロしく可愛かった。幼年期はいたいけで、少年期は傷ついた心が繊細にその白い肌を染めて……傷ついた少年って、画になるんだよなあ……。★★★☆☆
「ハピネス」という漠然としたタイトルと、数多くの登場人物が出てくること、そして下ネタ満載の予告編ではどうもピンとこなくて観ようという気も起きてなかったのだけど、これがあの「ウェルカム・ドールハウス」の監督作品だと知るや、もう即日劇場に向かっていた。あああの「ウェルカム・ドールハウス」はどうしようもなく好きだったのだ!超絶ブサイクな女の子のふてぶてしさが、でも実は傷つきやすい心が、もうなにか身につまされちゃって。“内容と見た目はキツいけど、登場人物たちに対する視線は優しい”というのはこの時から変わらないんだなあ、一発屋じゃなかったのだ。アメリカ映画で監督にホレこむなんて、私にとってはとても珍しいこと!
物語は、それぞれにさまざまな不幸を抱える三姉妹を中心に、彼らの周囲の人物の不幸っぷりをどんどん見せ、さながら不幸競技会のおもむきである。男運無さ過ぎ(流されやすいのが原因か?)の末妹ジョイ(ジェーン・アダムス)と、もの憂げで悩ましいセクシー女流作家の次女ヘレン(ララ・フリン・ボイル。「アフターグロウ」といい、この人って奇妙な面白さがある)、幸福で理想的な家庭を築いていると本人も周囲も信じて疑わなかったけれど、その実一番の不幸に見舞われる長女のトリッシュ(シンシア・スティーブンソン)の三姉妹は勿論おもしろいのだけれど、彼女らはいわば狂言回しのようなところがあって、強烈なのは彼女らの周囲の男性たち。ヘレンにホレてる隣人のデブ男、アレン(フィリップ・シーモア・ホフマン)はイタ電しながらマスをかいて壁に飛んだ精液をノリがわりに写真をピンナップし(!)、ジョイがボランティアで働く移民のための英会話学校で出会うロシア人、ヴラッド(ジャレッド・ハリス。うそお!こんなスケベったらしい顔だっけ……ヒゲのせいかな)は「故国での仕事は泥棒」とこともなげに言ってヤリ逃げする(まさしく泥棒だ……しかもジョイのハートまで盗んだ!)。しかし一番スゴいのはトリッシュのダンナのビル(ディラン・ベイカー)で、彼は自分の性癖の少年愛をひた隠しに隠しているが、息子の友達たちに対する性欲を押さえ切れず、遊びに来た彼らを睡眠薬で眠らせてコトに及んでしまう。何とか相手を眠らせようとするアタフタは吹き出してしまうほど可笑しいのだけれど、それがバレて家庭が崩壊してしまうキツさは正視できないほど。パパにだけ打ち明けていた「クラスでイッてないのは僕だけ」という息子ビリーのカワイイ悩みもシャレにならない。ビリーはコトが発覚した後、パパに泣きながら質問するのだ。「パパは何をやったの?またやりたいと思うの?」それに対してビルはこれまた泣きながらも正直に答え、「ボクにもそういうことするの?」とトドメを打ってきたビリーに「……オナニーで我慢する」とこれまたトドメを打つ。泣きじゃくる親子が可哀相で愛しくてたまらない。
そうそう、このビリーが父親に性的な悩みや質問を投げかけるシーンがとてもイイのだ。イクってなんのこと?、とかアレの長さを計ったことある?と問いかけるビリーにえらく論理的に答え、「パパがやってみせようか?」だの「問題は長さじゃない、太さだ。その方がより充実感を得られるんだ」と大マジ顔で答えるビルがたまらなく可笑しい。彼に限らず本作に出てくる人物たちのこうしたトンでもない発言は、しかしみんな大マジだからひどく可笑しいのだ。……ああでも、性の悩みって、人間の根幹に関わるものなのに、マジメになればなるほどなぜこうも可笑しいのかなあ。うーん、これぞ人生の不可思議さよ。
ああそうだ、性的悩みが高じてもっとスゴいことをしてしまった人物がいた。これは女性。アレンの隣人で彼に密かに思いを寄せているこれまた巨体のクリスティーナである。彼女はマンションの警備員に惚れられ、レイプされてしまう。そのことを彼女に好意を持ちはじめたアレンに告白する彼女は、「セックスがイヤなの。アレが体の中に入ってくるなんて、我慢できない」と涙ながらに訴えるのだが、その告白内容はモノスゴく、「キスするふりをして首を捻じ曲げたの、それ以外なにができるの?」 とか、「死体は切り分けてビニール袋に入れ冷凍庫に入れたわ」とか泣いてはいるけど、チョコファッジのかかったアイスクリームを食べながら言うんである。コーラをすすりながら段々引いていくアレンがこれまたとてつもなく可笑しいのだが、彼が「アレも(切ったの)?」と問うと、これだけオソロシイことをしたくせに「まさか!あんなもの二度と触りたくない」と目をむいて反論するクリスティーナ。「友達でいてくれる?」と懇願するような目で訴えるクリスティーナに気おされるように首を縦に振るアレンがこれまた可笑しくてたまらない!
その夜、勇気を振り絞ってヘレンの部屋に行くアレンはしかし案の定フラれ、クリスティーナの部屋のドアを叩く。セックスはイヤだと言っていた彼女を尊重してか、ベッドの上に背中合わせに縮こまって寝る二人がなぜこんなにもいとおしいのだろう。
多彩な登場人物と多彩なエピソード、そしてカラフルな画面(チラシの印象もそんな感じ)とは裏腹に、静謐といってもいいくらいに静かに語られる物語が、ジワジワジワジワ懐深く潜り込んできて、一瞬も聞きもらすまいと目と耳をすませずにはいられない。「ウェルカム・ドールハウス」ではガンガンに使っていた音楽の印象も強かったのだが、本作では実に静かに進行していき、しかしテーマソングとしてピンポイントに効果的に使われる「ハピネス」の、幸せを追い求める歌詞が身につまされ、ラストクレジットではこの曲が明るく軽快に演奏される。その最後の印象がまるでこの映画の全ての印象になってしまうような、こんなに、どこか陰惨といってもいいような物語が、なぜかとてつもなく明るくサワヤカに思えてしまうチカラ技を見せるのがスゴい。★★★★★
予告編ですでにもう鳥肌ものだった、鋭い音楽(石川忠と塚本晋也、これ以上のコラボレーションはないでしょう!)といちいちこちらに突き刺さってくるようなカッティングのオープニングからすでに吹き飛ばされそうになる。しかしそこからは断続的に不思議な静けさに支配され、あっ、これは今までの塚本作品にはなかったリズムだ、と思う。今まではただただ圧倒されたまま突っ走っていた感じだったけれど、今度は違う!「東京フィスト」の男もナサケナかったけど、本作の男はそれだけではなく、いやそういう要素以上に付け入る隙のない死の諦念に支配され、暴力に転化してしまうほどの悲哀に満ちている。恋人を拳銃自殺で亡くした男、なぜそんなことになったかわからず戸惑い、それと同じ拳銃を手に入れることに必死になる。そのうちに拳銃そのものにとりつかれる。密造し、ヤクザにだまされ、不法入国の女と偽装結婚してまで、拳銃に執着する。前作までにはどこかにただよっていたユーモラスさも、本作では探すことが出来ない。
この主人公のキャラクターはいわば、しょぼくれたオッサンである。理由も告げられずに恋人に死なれ、10代のガキにボコボコに叩きのめされ、どんな時にも穴をあけなかった仕事も手につかなくなっていく。しかし、この主演である役者塚本晋也……ちょっと待て、塚本氏こんなにカッコよかったっけ!?カッコイイという言葉はちょっと軽すぎて語弊がある気がする。何と言ったらいいのか……特に後半、真野きりなとの2ショットが多くなる時、疲れきった表情で、それでもなお走り続けようとするその全身のオーラが、セクシーと言ってもいいほどの、(矛盾した表現かもしれないが)禁欲的な色気を発散していて……。全てが終わり、彼女と一緒に呆然と座り込んでいる時、走り続けた二人が欄干?によりかかって空に向かって両手を広げている時、軽く開かれた襟元といい、よれた衣服といい、何とも言えず色っぽいのだ。これまで画面で見てきた塚本晋也は、いつでも若さから来る無防備さ、みたいなところがあったのに、ここでは大人の男で……整理しきれないものを内側にいっぱい抱えて、でもその行動はバカみたいに一直線な。そのギャップにとてつもなく心惹かれる。
デビューして間もない頃の真野きりな、「がんばっていきまっしょい」では田中麗奈より真野きりなにその女優としての資質を注目すべきではなかったんだろうか。「dead BEAT」でも驚嘆したけれど、彼女の鋭角的な存在感は凄い。その眉、その目、その口元!その全てが人を見下す小悪魔的魔力に満ちていて、すんなり伸びた美しい足をあらわにした超ミニの革のスカートと同じく革のジャケット、ブーツをはいて男たちを背に従えこちらを見据えて真っ直ぐ歩いてくる街頭でのショットときたら、背筋がぞくぞくするほど。度胸試しなのか、地下鉄のプラットホームに半分だけ足をのせ、走りぬける電車にかかとをこすらせ火花を散らすシーン(激しくゆれる画面がスリリング!)での彼女も凄く、カリスマ的な雰囲気さえ醸し出す。そしてまた、塚本晋也扮する中年男の前で見せる迷い猫のような不安げな姿もいい。彼女と塚本晋也がお互いに手の同じ位置に噛んだ歯の傷跡を、まるでキスするようにもう一度自分で噛み直すシーンに一瞬だけかいま見えるエロティックさ!
まさかこんな所で鈴木京香が出てくるとは!予告編でちらっと顔と声を見せた時から、どーう見ても聞いても鈴木京香だけど、でも、塚本“インディーズ”映画で鈴木京香なんて、まさか!と思ってたら、ほんとに鈴木京香だった!回想シーンのみに出てくる、死を選んでしまう恋人に扮する彼女はそのギリギリの精神状態で目に涙を溜め、じっとこちらを見据えて震える声で絞り出すように語る……美しい!
金属的な音楽のすさまじさと、それがひっそりとやむ時の静けさ。この一瞬!に賭けた、ゆれる画面と間抜きでカッティングされることで暴力的に迫ってくる映像の持つ恐ろしいまでの力。もう、観ているだけで本当に痛いのだ、塚本晋也の映像は。そのモノクロ映像は白と黒がはっきりと際立つ美しいものではなく、フィルムの質感がグレイの色に出ているような感覚。黒とグレイ。そこに潜んでいる、いつでも爆発しかねない、いや、もう待ちきれずにふつふつと爆発している感情の渦。街中で暴力沙汰を起こしながら、一方で普通に就職しようとしている10代の若者の、本人にさえ判らないのではないかと思われる読めない心のうち、得体の知れない恐ろしさと、そこに切り込む“糸の切れてしまった”中年男。その間で翻弄される一丁の銃。その銃はバイオレンス映画にむやみやたらと出てくる銃のオンパレードではなく、やっと、やっと手に入れた、その男自らの命を絶つための銃であり、最後にはその呪縛から解放されるための銃。
そう……全てが終わり、座り込んだ二人、真野きりなの方が「さて、行くか」とつぶやいて立ち上がる。続いて塚本晋也も立ち上がる。歩いてゆき、じゃあここで、みたいにして二人反対方向に歩き出す、やがて走り出す。息を切らして走る、二人それぞれのショットが交互に映し出される……そこで唐突にカットアウトされ、ラストクレジット。なぜだか、何だか泣きそうになってしまうような解放感に心が震える。その尖った荒々しさ、猛々しさはそのままに、それが静かに潜み、洗練され、哀切さや色気までをも発散させるほどに成熟した塚本映画……待った甲斐があった!!★★★★★
Gジャン、Gパンがやんなるくらい似合う原田芳雄。しかも、素裸にGジャンがキマッてしまう。無造作に伸びた髪の毛と、太い眉、まぶしげに細めた鋭い眼光を隠す大きめのサングラス……その長身は、強烈な男くささと同時にある種の繊細なもろさをも思わせる。彼と出会い、惚れ込んでつきまとう住所不定、無職のフーテン、ゲバ作に佐藤蛾次郎。彼の個性には異論のないところ。もちろん「男はつらいよ」のイメージは強いが、彼個人のキャラクターの方が俄然強いので、問題なくなるところがスゴい。うっとうしがる塚田に「俺、あんたが好きなんだ、大好きなんだよお!」とニコニコ迫る彼は最高!この原田芳雄と佐藤蛾次郎が、今回の昭和館のプログラム、三作をそれぞれつないでいる。うーん、渋い作品選択?
塚田の舎弟、藤竜也もさすがに若いが、彼は今とあまり印象が変わらない。なんといってももう喜びに喜んじゃったのは、地井武男のぶっとびなキザさだ!30年前の地井さん、彼がこのキャストの中で一番今と違うかもしれない、そのキザさが決まるほどのハンサムで(いや、別に今がハンサムじゃないと言ってるわけじゃないけど)、まあ、白のスーツ(!)なんて着込んじゃって、薄い青の色つきメガネ(!)なんてかけちゃって、しかも連れている女はもうふるいつきたくなっちゃうような最高にイイ女。情事の後「俺は今度こそ確信を持って死ぬような気がするぜ。お前、そうなったら気にしないでさっさといい男を見つけるんだな」と言うセリフからして鼻血が出そうなほどキザだが「男はあんたでもうこりごりよ」と返す女に「可愛いこと言うじゃねえか」と口の端を上げて笑い、さあもう一発(!?)とばかりに抱きしめて唇を奪うカンペキさ。うわー、地井さん、キザだけど……キザだけど、カッコイイ!
しかも彼の死に方がまたふるってるんだよなー。ガラス戸の外に誰か来たために戸を開けに行こうとする彼、そのガラス越しに刺されて、白いスーツを血だらけにしてもんどりうって倒れる。絶叫しながら彼に駆け寄る女。彼は塚田からもらった腕時計をした手首を目に近づけ、「見えねえ、見えねえよ!」と言って絶命するんである。女はその後、その時計を塚田に届け、「最後まであんたのことを気にしてた。男同士にはかなわない。妬けるわ。それで言ったら男と女の結びつきなんであっけないものよ。だって私、もうあの人の顔すら思い出せない。嘘だと思うでしょ、ほんとよ」と言って、背を向け立ち去る……さっきまで笑顔だったその顔を涙でぐしゃぐしゃにして。
ゲバ作が縛りつけられた手足をトラックに引かされて、入院先の病院で息を引き取り、滝川(藤竜也)は塚田とともに斬り込んだヤクザ組織内で絶命。一人生き残った塚田も、逃走し、追われた荒野で後ろから撃たれて壮絶な死をとげる。……原田芳雄がゆっくりとその荒野に倒れ込むのをロングショットでとらえ、カットアウトされるラストシーンは、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」のそれを思い出させる鮮烈さ。★★★☆☆