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「た」


2000年鑑賞作品

タイタス/TITUS
1999年 162分 アメリカ カラー
監督:ジュリー・テイモア 脚本:ジュリー・テイモア
撮影:ルチアーノ・トボリ 音楽:エリオット・ゴールデンサル
出演:アンソニー・ホプキンス/ジェシカ・ラング/ジョナサン・リース・マイヤーズ/アラン・カミング/ジェームズ・フレイン/ハリー・レニックス/アンガス・マクファーデン/コーム・フィオール/マシュー・リース/ローラ・フレイザー


2000/12/1/金 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
観た後、何度も何度も悪夢のように蘇ってくる、レイプされたラヴィニアの姿。切り落とされた手首の先から枯れた小枝が生え(突き刺され)、舌を抜かれた口から鮮血がほとばしる。振り払っても振り払っても、このシーンばかりが脳裏に焼き付いて離れない。なんという残酷さ、そして……これを言うのははばかられるのだけれど、なんという……美しさ。

全篇、この言葉で集約されると思う。美しいというと、自分のモラルを信頼できなくなりそうな不安にかられながらも、そう言わずにはいられない、だけれど、正視するにはあまりに残酷すぎて。それにしても、シェイクスピアにこんな、まるでサディズムのような物語があるとは知らなかった。愛と復讐の物語……と言うより、自己愛と復讐の物語。武将タイタスは自らの自己満足的な正義のポリシーと、市民からの信頼を失いたくないが為に敵の女王、タモラの長男を殺す。そしてタモラは息子の復讐のためというより、プライドを捨てて必死に命乞いをした自分のプライドと、失った息子を哀しむ自分の心を何とか晴らしたいがために、タイタスに彼の息子を殺させ、他の二人の息子をも殺し、娘を陵辱させる。レイプされるラヴィニアにしたって、別に心優しき娘というわけではなく、肌の黒いムーア人、アーロンとむつ言をかわしているタモラを見つけ出し、それ見たことかと侮蔑の言葉を投げかける(その後彼女は恋人を殺され、自らもあの悲惨な目にあわされるのである)。

タイトル・ロールであるタイタスの、しかしなんという愚かしいことか。彼はどう見てもただのバカな世継ぎをあっさり皇帝の座につかせてしまって、自らをも破滅させるに至る。皇帝のために闘った彼の心に抱き続けた理想が、判断力をかくも鈍らせたのである。愛する人のいる娘の幸せが、皇帝に嫁がせることだとこれまた大間違いをおかすタイタス。そして一人、二人と子供たちを失ってゆく。そして復讐の復讐として、タイタスはタモラの残った二人の道楽息子(ラヴィニアを陵辱した二人)を惨殺、ミートパイにして差し出すのである。この場面……衣をすべて剥ぎ取られ、天上からつるされている、まるで精肉工場の牛のように哀れな二人の姿。天下は我が物がごときに暴れまくり、ゲームセンター(!?)でゲームに熱中するバカ息子どもが、味わうなんという惨めな姿。

そしてそれがディナーに差し出された後に繰り広げられる、どこか滑稽で歌舞伎の舞台のような動きと様式の殺戮場面。長いテーブルを滑って胸に燭台を突き刺され、止めようとした人も、こぼれかけたワインも一瞬ストップモーションされる。カメラが引くと、そこは最初にも登場したコロシアムの遺跡で、この凄惨な場面を多くの観客が見守っている。これは演劇の観客なのか?と思いきや、タイタスの、たった一人残った息子、ルーシャスが哀しみを抑えながら“市民”にみずからが後継者となることを宣言するのだ。そしてタモラとアーロンの間に出来た黒い肌の赤ん坊と、現代からこの世界に連れてこられた、ルーシャスの義息子である少年が、光り輝く未来?へと歩を進めるのである。

それにしても、このイマジネーションの洪水はなんなんだろう。時代設定にとらわれることなく、というよりは確信犯的にごっちゃにかき混ぜてしまう。現代のローマの建物や路地、今や朽ちてしまった遺跡を平然と舞台に使い、近未来的アナログ感?漂うメタリックな衣装や、ナチのような皇帝のいでたちなど、時代考証などヘでもないとすっ飛ばした、キャラの内面があふれ出る感覚的衣装。オーヴァーラップや一見してそれと判る特殊な映像処理が幻想か、現実か、悪夢か、といっためまいがするような感覚に誘って行く。特に、これまた再三だけれど、ラヴィニアが陵辱されるシーンの、それを喚起させるうすいブルー一色の映像処理など、まさしくイリュージョン、サーカスか前衛舞台の見世物のような、美しくもどこか怪しさ(妖しさではなく)が漂う。

舞台の演出家だから、と言いきってしまうには、あまりに独創的なその世界の構築には、時として突き放され、時として魅了されてやまない。こちらの理性や感情がかき回されてゆく。好きだ嫌いだ面白いツマラナイという部分での結果を下しにくい。これは……だから私の出した点数に意味をつけづらいのだけど。

愚かな、そして哀しいタイタスと、恐ろしく美しいネメシス、タモラをそれぞれ演じるアンソニー・ホプキンスとジェシカ・ラングが圧巻。★★★☆☆


タイムレス メロディ
1999年 95分 日本 カラー
監督:奥原浩志 脚本:奥原浩志
撮影:福本淳 音楽:青柳拓次
出演:青柳拓次 市川実日子 近藤太郎 余貴美子 若松武史 木場勝巳

2000/4/7/金 劇場(ユーロスペース)
さんざん、言っちゃおうかどうしようか悩んだ末やっぱり言わずにはいられない。つまんねえ映画だなあ、オイ!まあ、よくもまあ、こんなツマンナイ映画を作れたもんだ、と。ま、ただ単に私のキライなタイプの映画なのかもしれないけれど……これって、「青い魚」を観た時に感じた苛立ちと、奇妙なほどソックリ。淡々とした語り口を魅力的に見せるのがどんなに難しいかを理解してくれているとはどうしても思えない。静か、とか、止まった時間、とか他に行き場がない、とか、……そうしたものを心地よく優しく感じさせているつもりなんだろうか?たった95分の上映時間がまるで3時間にも感じられてしまうタイクツさに、頼むから早く終わってくれ……と観てる間中祈ってしまった。

この中途半端なオムニバス形式?も訳が判らない。映画冒頭、レンタカー屋で出会った行き先を決めていない夫婦喧嘩の家出男と、とにかく横浜に行きたいのだが酔っ払っていたため断られた青年が行動を共にする。このエピソードはかなり動きもあるし、それなりにコミカルな描写も用意されていて、そこから先の面白さを予感させなくもないのだが、そのエピソードはなぜこれを持ってきたのか訳が判らないままぷっつりと切られ、それが後の超退屈な物語に反映されることなど一切ない……監督がどういうつもりか知らないけれど、少なくとも反映されているとは感じられない。そしてこの映画の主人公たち、河本(青柳拓次)、チカコ(市川実日子)が古びたビリヤード場に現れ、何だか良く判らない音楽をタルそうに演奏、録音し、“この世に存在しないはずの男”篠田(木場勝巳)が画面の遠くの方、音の聞こえないところで殴りあいをし、田村(近藤太郎)はとてもプロとは思えないやる気の無さでピアノの調律をしている……正直言ってこうした人物たちの導入部でイヤな予感はしていた。

後で解説を読まなければ、河本がこのいりびたっているビリヤード場でバイトしているなんて判らない。彼は「行き場がない」とか言いながら、ほとんどの時間をこのビリヤード場で過ごしている。おいおいなんだよ、それってホームレスかい?とても流行っていそうになどないこのビリヤード場は近く閉められる運命にあるらしく、河本は篠田にここを買い取る気はないか、などと聞く。そしてチカコ。親に黙って学校(大学?)を自主中退した彼女は、母親に呼び出されて食事をし「言う必要もないと思ったから」などと言う。……私はもうこの時点でタイクツのイライラが怒りに変わってしまった。おーい、なんだよ、それ!そりゃ、この親子がそうした意志の疎通を全く行っていないという描写の延長線上にあるということは判ってるけど、お前、親の金で学校行ってたんだろうが!……それにその肝心の“空白のある親子”な実感すらこちらには切実に伝わってこない。はっきり言って、ただちょっと仲の悪い親子、という感じである。だからその後チカコが勝手に落ち込んでても(というか、彼女は終始表情がほとんど変わらないので落ち込んでんだか喜んでんだかさっぱり判らない)河本のように気にする気にもなれないんである。

チカコに密かに思いを寄せているらしい河本がそんなことをおくびにも出さずに「コーヒーいれるから飲んできなよ」とチカコを引き止めるこの場面。しかし、コーヒーいれて、帰ろうとするチカコを半ばムリヤリ引き止め、「……なんかあったの?」などとボソッと聞くことが、なんで「どうして、どうしてそんなに優しくしてくれるの?」となるのだ??それって優しくしてるのか?そしてうつむき(もしかしたら泣いている)チカコの頭を自分の胸に引き寄せる河本……どうやらここが二人の感情が交錯するもっとも盛り上がる場面のはず、……なのだけど、ダ、ダメだあ!私には何も感じられない!

古びたピアノが持ち込まれ、河本と篠田が浴びるほど酒を飲んだ翌朝、唐突に篠田が死ぬ。それを見つけたチカコに呼ばれる河本がたばこを吸いながらその死体を眺めるロングショットは理解しかねる……大体、ストイックに撮っているつもりだか何だか知らないけど、やたらとロングショットで、しかもワンカット撮りしたがるのにはほんとカンベンだ。遠くからでもその全身の存在で見せてくれる役者ならまだしも、それもかなわず、だらだらと映し出されても眠くなるだけなのに!

篠田が“もう死んでしまっている男”だということを知っているせいなのか、河本はこれを通報しようとせず、粗大ゴミの洗濯機の中に死体を押し込んでおく。なぜか悲しんでいる様子はない。判らないなあ……篠田さんは河本にとって結構大切な人だったんじゃないの?そして後から現れたピアノ調律師田村とともに船に乗ってこの死体を海の真ん中に捨てに行く。この場面で、かつて明るい陽光の中、篠田、河本、チカコの三人で楽しげに過ごした時間がフラッシュバックされる。……浮いているとしか思えないほどまるでそこだけがCMか何かのように妙に明るく、それがこの現在進行形の薄暗い時間の世界と差をつけているということなのだろうが、この監督がこうした世界観を作り上げたいと思っているのならば、この挿入部はぶち壊しだ。……どっちにしろこのツマラナサを救う手だてにはならないけど。

二人がそうしている間に、チカコはこの地を後にすることを決めたのか、このビリヤード場で荷物をまとめる。この場面を彼女を追って延々と延々と延々と映し出すこのラストシーンには、ほんとに参った。このことで一体何が言いたいのか、何かを表現したくてやってるのか、訳の判らないまま、彼女が出て行くのをじりじりと待ち続ける観客の身にもなってくれよ、てな感じである。うーん、うんざり、という言葉を感じたのはちょっと久しぶりだった。……この奥原監督がどういう作品でPFFで認められ、このスカラシップ作品を撮ったのか知らないけど、なんか“ぴあ”って、こういうタイプの作家が好きなのかなあ……そういやあ、あの衝撃作、「鬼畜大宴会」の熊切和嘉監督よりも、「シンク」の村松正浩監督をグランプリにした時にもそれを感じたもの。観客の視点を考えて撮る職人的作家より、自分の世界を作り上げる作家的作家タイプを評価するということなのかもしれないけど、その世界自体がつまんなかったらどーしよーもないでしょうが。かつては、いまや世界のツカモトとなった塚本晋也監督の破天荒さをグランプリにする裁量があったのに。……こういう世界を日本的だと評してでもいるんだろうか。これをグランプリにしたプサン国際映画祭も判らないなあ……やっぱり私の感覚がおかしいというだけなんだろうか……。

ビリヤード場の引き戸に貼ってある緑と黄色の大きな丸いシール(?)、それがこの作品のチラシで大きくなったり小さくなったり離れたりしてレイアウトされ、何種類もの別バージョンチラシを作っている。作品を観るまで、これが何を意味しているのか判らなかったけど、でも観た後も、なぜこれを使って何種類も別バージョンを作るほどこだわっているのかやっぱり判らない。それとも実はあのシールには大きな意味があるんだろうか……引き戸を開けたり閉めたりする度に近づいたり離れたりするのが人間関係を映し出してるとか?ちょっと無理があるなあ。★☆☆☆☆


太陽の誘(いざな)い/UNDER SOLEN
1998年 118分 スウェーデン カラー
監督:コリン・ナトリー 脚本:コリン・ナトリー
撮影: 音楽:パディ・モローニ
出演:ロルフ・ラスゴード/ヘレーナ・ベリストレム/ユーハン・ヴィーデルベリ

2000/8/20/日 劇場(シネ・ラ・セット)
1956年の設定だとか、白夜の続くスウェーデンの夏が舞台だとかいうことを全く知らないまま観た。だから最初は、夜9時の設定で、なんで窓の外が明るいんだろうとか些末なことが気になったりしてしまったのだが。原題は「太陽の下に」というところだろうか。一日中太陽にさらされ続ける、隠された秘密も感情もあらわにされるという意味合いが感じられる。邦題の狭まった感じより意味深である。

農夫をしながらの一人住まい、ずいぶん前に母親を失って、孤独で、しかも40歳になっても“童貞”のオロフが、新聞広告に家政婦を募集。やってきたのは目にもまばゆいブロンド、真っ赤に塗られた爪、セクシーな美脚を惜しげもなく披露する美女、エレンである。33だという彼女は華やかなだけではなく、大人の色香にもあふれている。オロフのたった一人の信頼できる友人を自認するエリックは心穏やかではなく、いろいろと彼女に探りを入れるのだが、見掛けによらずかなりシッカリモノの彼女はエリックを相手にしない。そしていつかオロフとエレンは惹かれあい、愛し合う。

恋愛感情と、言葉と、性的欲望(セックス)。この三つのつながりの不思議さや意味深さをひどく考えさせられる。セックスは恋愛感情から発生して欲しいと思いながらも、それだけを切り離して充分に成立してしまう哀しい現実を見過ぎていて。でも本作の“孤独な農夫”オロフに、この三つが無理なく連なっているのが嬉しかった。愛しているから愛していると言うし、愛しているから抱きたいと思う。そしてそれら全てが初めての経験だから、戸惑う。彼のこうした姿はイコール子供っぽいものとして片づけられ、先の三つの要素がはっきり離れることこそが大人の世界なのだと考えるむきすらある。でも本当にそうだろうか?子供こそがこの三つのつながりを判っていないんではないだろうか?

オロフは性的経験のないまま来たけれど、堪え忍んで40年の人生を歩んできた立派な大人だ。彼の友人として登場するエリックはアメリカに行った経験や女性関係豊かなことでオロフより人生経験のあるオトナだと思っている愚かなコドモ。彼の中ではこの三つはいまだはっきりと分かれており、しかもそれこそがオトナの生き方なのだと信じている。セックスしたいが為の小道具として「愛している」という言葉を発するエリックにはその実愛情は感じられない。あるのは自分に対する過剰な自信と自己愛。それと対照的に、オロフは正直な感情から言葉がほとばしり、その感情から性的欲望も発露する。これこそが大人の成熟なのではないだろうか?

華やかな外見からエレンを判断し、オロフの信頼を勝ち取っていく彼女を嫉妬も交えて疑惑の目をむけるエリック。そしてもちろん彼女の美しさに惹かれたのが出発点ではあるけれど、彼女の人間性を見つめ、見抜き、その自分の目を信じるオロフ。エレンが置き手紙をして出ていった時、その手紙に書いていないことを“朗読”するエリックに憤り、ああ、オロフ、信じないで!誰か、他の信頼できる人(あの新聞社の女性とか)に読んでもらって!とハラハラしたが、そんな心配は無用だった。オロフは「俺だってバカじゃないんだ」と、彼女を侮蔑する言葉を吐くエリックから手紙をもぎ取る。恋愛は時に友情を壊すとも言われ、エリックはまさしくその心境なのだろうが、こんな風に恋愛感情を知ることで視界が開け、真実の姿が見えてくることだってあるのだ。エレンはオロフの世界を広げた。それによってエリックの愚かさをもあばいたのである。エリックの言っていることはでも、他の、いわゆる世間の人間を代弁しているとも言えるのだが、多勢がいつも正しいとは限らない。オロフはエリックの言葉など信じていない。哀しいのはエレンが出ていってしまったという、その単純な事実だけ。

しかしエリックは哀れとも言えるのだけど。オロフより年下とはいえ、彼はもはや27歳。そろそろこの三つを連動させても良い頃である。しかし“アメリカ”という魔物が、彼の成長を阻んでいるような気がしてならない。彼は女の経験は豊かなのかもしれないが、本当の恋愛感情を持ったことがないのではないか。しかも彼はそんな今のままの自分が完璧な大人なのだと思っているのだ。……哀れである。

思えばオロフが字が読めないということも、なにか象徴的だ。本来形のないはずの、そしてだからこそ大切で意味のあるはずの“言葉”を、“文字”という“形”にしてしまった時から、まさしく言葉が形骸化していったのだ。オロフの持つ“言葉”は“文字”として残す術を知らない。書き換えたり訂正したりできない。だからこそ重く、だからこそ心を打つ。エレンの残した手紙も、オロフはその“文字”を読まず、そこに現れる彼女の“心”を思っているのだ。

エレンの華やかさは世間の目に無防備に見えながらも、その実逆に彼女の武装のようにも思えてくる。確かに彼女のような女性がオロフにホレるなんて、一見不思議かもしれない。過去の秘密を胸に抱いて身を隠す田舎で、その傷ついた心がばれないよう、触れられないようにと華やかに“武装”した彼女が、こんな風にピュアに自分を愛してくれる相手に出会えるとは思っていなかったのだろう。傍目にはオロフは彼女の外見的な華やかさ、美しさに参っているように見えるが、そうではないことを、思いを寄せられるエレン本人が一番感じ取っていただろう。“オロフのような男に”などと言うが、女はこんな男性に一番愛されたいのだ。

だから、オロフのもとに戻ってきた彼女が、全身黒に身を包んでいたのは印象的だった。「追い返されると思った」と涙ぐみ、オロフと接吻、抱擁するラストシーンには、ただただシンプルに感動。★★★★☆


太陽は、ぼくの瞳
1999年 90分 イラン カラー
監督:マジッド・マジディ 脚本:マジッド・マジディ
撮影: 音楽:
出演:モフセン・ラマザーニ/ホセイン・マージゥーブ/サリム・フェイジィ

2000/6/2/金 劇場(シネスイッチ銀座)
あの「運動靴と赤い金魚」のマジッド・マジディ監督の新作であり、モントリオール国際映画祭での初の二連覇を成し遂げた作品だという。前作のユーモラスさとは違い、かなりシリアスに考えさせる内容。しかし文明社会の弊害で今や日本などには望むべくもなくなった、奇跡を行う聖なるものの存在を確かに感じさせるところに救いを見出している。

主人公は目の見えない男の子、モハマド。彼は都会にある全寮制盲学校で家族と遠く離れて生活している。学校が休みに入り、次々と仲間たちの親が迎えに来る中、彼の父親だけは待てど暮らせど現れない……そんな冒頭からもう不穏な空気が漂っている。彼を引き取れないと学校に電話してくる父親を説得してモハマドを連れて帰るように言う教師。モハマドは最初から父親が現れない、と心の一方で思っているようなところがある。もちろん父親が現れると涙で顔をぐしゃぐしゃにして喜ぶのだけど、モハマドはやはり目の不自由な人ゆえの、その場の状況、人の表情や気持ちを敏感に察知する能力に優れているようだ……しかし現れた父親が実に複雑な表情をしているのまでは、嬉しさのために気づくことが出来ない。

この父親がなぜモハマドを引き取ることに難色を示しているのか……それはやもめの彼が、恋人と無事結婚するためにはモハマドの存在がジャマだからだ。彼だって息子であるモハマドを愛しているはずなのに、それが見えなくなってしまっている。彼は自分ほど哀れな人間はないと思い込み、一生懸命やっているのになぜだ、と嘆く。目が見えない、ただそれだけのことで父親によって傷つけられるモハマドの方がよほど哀れだということに気づかないのだ。そんな彼は人間の弱さ、愚かさを一身に体現している。本当の愛情がすでにそこにあることに気づかないという点で、実際一番哀れな人間なのかもしれない。

祖母や妹たちは帰ってきたモハマドを喜びいさんで出迎える。そこには何の疑心もない愛情だけがあふれていて、モハマドが目が見えないことなど、ごくごく当然のことであり何の足かせにもなっていないのだ。むしろ父親がそこまでしてモハマドの目を気にしている方がおかしく感じられるほどである。しかも彼女たちにとって心でものごとを感じることが出来、心優しいモハマドは誇りなのだ。そして妹にとっては素晴らしい速さで点字で読み書きし、村の学校の生徒や先生たちを驚かせるという点でも、自慢のお兄ちゃんである。

父親は目が不自由なモハマドの将来が不安だから、と言って、やはり目が不自由な大工さんのもとへ住み込みで修行させることを決意する。彼の行為は一見父親の愛情から出ているように見えるがそうではない。父親としてきちんとモハマドを見ていれば、彼が探求心旺盛で、もっともっと勉強したいと考えている、目が見えないなんてハードルを越えられるほどの、利発で将来有望な少年だということが判るはずだからだ。彼の行動はまさしく自分の保身から出ているに他ならないのだが、彼は懸命にそのことから目をそらそうとする。自分は父親としてこの子を心配してやっているんだ、と自分自身に言い聞かせようとしている……自分でもこれが愚かな、間違った行為だと心の底では判っているから。だから彼の愚かさはただただ哀しいばかり。大工のもとにムリヤリ連れて行かれ、誰にも愛されていない、神様だってなぜ目の見えない人間をお造りになったのか、と泣き出すモハマドの涙が、この父親の愚かさを哀れんでいる分も入っているような気がしてくる。

このモハマドを迎えに行こうと、祖母が雨の中出かけて、この父親によって連れ戻された彼女は体調を崩して死んでしまう。自分の行動が原因で愛する母親を亡くした上、恋人との結婚話も取り止めになった父親は、モハマドを迎えに行く。しかし帰途、川に渡された橋が壊れ、モハマドは雨で増水した川の濁流に飲み込まれてしまうのだ!一瞬、これでジャマものはいなくなった、とでもいったような躊躇した表情を見せる父親にドキッとするも、父親は意を決してモハマドを助けに川へ飛び込む。しかし物凄い勢いの濁流になすすべなく、ただただ流されていくしかない。モハマドの姿ももはや見えない。……このシーンは本当に驚くべき大迫力。一体どうやって撮ったんだろう。モハマドのシーンはごまかしもきくけれど、父親は本当に増水した川に飛び込んだのだろうか……死んでしまう!

気を失った父親がふと気づくと、そこは海岸で、まわりを見回すと、遠くにモハマドが倒れているのが見える。砂に足を取られながら必死に息子のもとへ走り寄る父親。抱き上げるも、息子の体にはもはや生気がない。モハマドを抱きしめ、ただただ泣きむせぶ父親……しかしモハマドのだらんと下がった手がズームアップされ、そこに光が当てられる。天上からの光。そして、その手がピクリと動くのだ。そしてそのままカットアウト。

手を通してすべての物事を感じ取ることが出来るモハマドが、その手にいつか神様を感じることが出来る日がくるんだと、あの大工さんに話していたこととリンクしてくるラストなのだが、これはモハマドが生き返ったと単純に考えるべきなのか、それともモハマドが死してその境地に達したということなのか。しかしこの描写は、モハマドに対する救済というよりも、自分の愚かさゆえに、本当に愛する人たちを立て続けに亡くしてしまったこの父親に対する神様の慈悲の様に感じられたのでやはり前者か。心で色や光をすら感じられるモハマドは、すでに神様を感じ取っていたとも思えるし。

広大な麦畑を吹き渡る風の音(画もキレイ)や、独特な鳥の鳴き声、その他いろんな音が、実に丁寧に拾われていて印象的。それはまさしくモハマドの世界観であり、音だけですべてを、いやすべて以上のものをその身に感じられる素晴らしさだ。視界は180度すら行かなく、見えることがかえってその狭い視界に世界を限定してしまう。でも聴力は、その狭い視界にジャマされることなく、360度の世界をピュアに感じ取ることが出来る。そしてプラスアルファをも。そういう点で、やはりモハマドがすでに神様を感じていたのは疑いないように思う。

五感がそろっていることが幸せとは限らない、と、ある一つの感覚を研ぎ澄ますことによって見えてくることの方が大きいのだという図式は、あらゆるものが増えることによって、どんどん大切なものがその手からこぼれおちてしまう文明社会を暗に批判しているようにも思えてくるのである。★★★☆☆


だれも知らない夏の空
1999年 79分 日本 カラー
監督:中治人 脚本:中治人
撮影:朝倉義人 音楽:内橋和久
出演:いしのだなつよ 渡辺智江 加茂大輔 椿野晋平 東野健一 浜勝人 キタモトマサヤ チャンキー松本 北野勇作 若浦宗八 橋本耕二

2000/9/10/日 劇場(中野武蔵野ホール/レイト)
ギターを抱えた姉妹二人がおっきな口を開けて楽しそうに歌ってる。歌いながら旅してる。夏の空がどこまでも青くって、そのギターとその声がどこまでも響き渡って、みんなみんないい人で。まるで童話みたいな映画。ああ、いいなあ、こんな映画が観たかったんだと思わせる。出てくる二人はあどけないけれどプロのミュージシャン、音楽映画としても非常に秀逸で、そのまっすぐな歌声で素直な歌詞がドーンとこちらに届く。

シンガーソングライターを夢見るナツが、ポッポちゃんと名乗って歌いながら旅を続ける姉、トモに憧れ、ある日ギターとともに「全国ツアーに行く」と島を出る。都会の路上で歌っている時に出会った路上生活の兄弟、ダイスケとシンペー。シンペーは不思議な小屋の絵を描き続けていて、そんな弟を「1枚も売れへんけどな」といいながら黙って見守っているダイスケ。一方、トモは(後ほどこの兄弟の親だと判明する)紙芝居のおっちゃんと意気投合、即席コンビを組むが、おっちゃんは「この山の向こうの別荘へ(この木の上の“別荘”がシンペーの描く小屋なわけだ)」と去って行く。そして偶然、ナツとトモが行き会って……。

彼女たち二人とも、ビックリするほど声が大きくって、元気で、(実際は勿論他人なんだけど)ああ、姉妹だなあと思ってしまうのだが、その実、スピーカー付きのバンで自分を宣伝しながら旅する姉トモと、かなり行き当たりばったりな妹ナツとはやっぱりずいぶんと違う。ヨッパライが集まる場所で請われて歌うトモの姿に、ナツは「お姉ちゃん、いつもあんな場所でやってんの」と問うと、トモは「時々な。結構お金になるねんで」と答える。そして車がエンコした二人、トモは「仕方ない、お父ちゃんのスネかじりに行こ。あたしたち、とんだドラ娘やな」とナツと二人で帰郷するも、屈託なく父親に駆け寄る妹を遠く眺めて、自分は引き返してしまうのだ。船の上で大きな声で歌いながら去って行くトモを防波堤を走って追いかけるナツは、「いつかお姉ちゃんなんか追い越してやるから!!」と声を限りに叫ぶ。このナツのセリフはミュージシャンとしての姉に対抗するように聞こえながら実は違う。トモは高校生活が残るナツ自身のためと、たった一人になってしまう父親のために妹を島に送り届けたのであり、決心して家を出ていった自分はまだ帰れないと思っているのだろう。確かにそのあたりの大人の考えは、今のナツには太刀打ちの出来ないものなのだ。

実際、二人の歌っている歌も、元気がいいところはソックリだけど、ずいぶんと趣が違っている。ナツは自分の気持ちをストレートに歌詞に込める。トモは童謡のような歌を創作し、時にはオジサンウケするスタンダードも歌う。素直でいることがそのまま許されてしまう“妹”と、自分の好きなことをやりながらも、親のことを考え、妹のことを考え、どこかで自分を押し殺してしまう“姉”がそれぞれに見え隠れする。……不思議。二人は実際の姉妹では勿論なく、それぞれのオリジナル曲を劇中で歌っているのに。そして二人でニギヤカに歌うのは、姉の曲なんだよね。やっぱりお姉ちゃんにはかなわないかあ?

ナツと出会う兄弟、ダイスケとシンペーも、そうした兄と弟の違いを感じさせる。風来坊な父親にアンビバレンツな感情を抱く兄と、ただ素直に父親を恋しがる弟。父と兄の下の、ただただ被保護者である弟に対して、弟に対しては保護者にならざるを得ない兄、この関係はそのままナツとトモにも当てはまる。……お姉ちゃん、お兄ちゃんって、大変なんだなあ……(と思う妹の私)。

ナツとトモは、いわゆる美少女ではないんだけど、ほんとうにキレイな水で育ったというような伸びやかなピュアさと、愛くるしさ、そしてそのてらいのないまっすぐな歌声で、すぐに観客を魅了してしまう。シンプルなアコースティックギターを抱えて、Tシャツとジーンズ、時には首にタオルとほっかむり!?なんていうスタイルで気持ち良さそうに歌う二人はほんとうにチャーミング。川辺で温泉を掘って(掘ったのはダイスケとシンペーだけど)二人してつかり、トモがナツに「あんた、おっぱい大きくなったんちゃうん」なんていうところは「ふたり」でユーレイになった姉、千鶴子(中嶋朋子)がお風呂に入ってる妹、実加(石田ひかり)の前に現れるシーンを思い出したりして。

二人がいなくなっても、娘たちの歌っているテープを聴いて一緒に口ずさみながら漁をするお父さん。帰ってきたナツにもただ一言「おかえり」と言い、何も言わずに去っていったトモを慈しむように遠くに眺めやる。ああッ!いいなあー、何かちょっと涙が出そうになってしまう。演じるのはロケ地の島で有名人だという地元の素人さん。しかし何とも言えない味わいを出しているんだなあ、これが!★★★★☆


ダンサー/THE DANCER
1999年 94分 フランス カラー
監督:フレッド・ギャルソン 脚本:ジェシカ・キャプラン/リュック・ベッソン
撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:パスカル・ラファ&ポズ
出演:ミア・フライア/ガーランド・ウィット/ロドニー・イーストマン/ジョシュ・ルーカス/フェオドール・アトキン/カット・キラー

2000/10/18/水 劇場(丸の内ピカデリー2)
あまりにもプロデューサーであるリュック・ベッソンの名前ばかり、まるで監督作品ででもあるかのように喧伝されているのを、実際の監督であるフレッド・ギャルソンに対して気の毒だと思いながらも、まぁ、フツーの映画だったしなあ……。このミア・フライアという情熱のダンサーありきの映画で、それ以外の部分ではさしたる感慨も無い。言葉の喋れないダンサーという、彼女のダンスの魅力だけを純粋に抽出した設定が、動きを音にする装置を研究している若い科学者との出逢いという展開に発展する。しかし彼女のダンスと、この科学者の研究のエピソードはかなり異質な不協和音をかもしていて、どうもひとつの作品の中に落ち着いていない。

そのダンサー、インディアと科学者アイザックの、言葉ではなく心でのコミュニケーションは微笑ましくもあるが、主題のひとつにすらなっておらず、なんとなく流れていくだけである。一応、その装置を使ってのダンスがラストのクライマックスに用意されてはいるものの、その音が彼女をどれだけ助けているかは今一つ疑問で、結局は彼女のダンスだけがそこに、以前より洗練された形で披露されているだけなのだ。

サタデーナイトにクラブでDJとのバトルを繰り広げるダンスシーンで、インディアに扮するミア・フライアはこの映画の観客の前に初めて姿を現す。なるほど、確かにそのダンスは圧倒的だが、カメラがあんまり落ち着かないのと、細いたくさんの三つ編みをしている彼女の髪が、動きを強調しているのは判るものの、あまりに目にうるさすぎて何をどう踊っているのかよく判らなくなる。彼女のダンスを見せたいのなら、小手先で躍動的に撮ろうとするのは逆効果ではないだろうか。

妹の才能にホレこんで、日常の仕事もままならないマネージャーである兄がなかなかイイ。言葉が話せないのだけを理由に、最終まで残ったブロードウェイのオーディションに妹が落とされたことを激しく抗議する彼、突然現れた科学者、アイザックに反発しながらも、「あんな幸福そうな妹は初めて見た」と協力を申し出る彼……。大人になりきれない少年のような彼が、実際は彼よりずっと大人である(その障害故にいろんなことを感じてきたのだろう)インディアを自分だけが守っていくんだとかたくなに信じているところがイイのである。

まあ、だからといって、泣くまではいかない。ブロードウェイで落とされる場面でも、予測がついているから泣いたりはしなかったのだが、たったひとつ、涙が出た場面がある。それは、インディアがダンスの先生をしている聾唖学校での場面、オーディションのショックで初めて遅刻してきたインディアが、心配する子供たちに取り囲まれる。一人の女の子が、つたないながらも一生懸命に描いたのだろう、クレヨン画を差し出す。単純だけど、ここでふと涙ツボを押されてしまった。子供たちが手話で彼女を一生懸命になぐさめ(手話は判らないけど)、彼女が一人一人を涙にくれながらギュッと抱きしめるのも、そのツボに連続ワザで効いた。

でも、あれやね、最近見るダンスはみんなこういう感じで。ヒップホップ系とでもいうのかなあ。ミア・フライアのダンスはそれともちょっと違う気はするんだけど。昔とあるダンスマンガ(槇村さとるの「ダンシング・ゼネレーション」じゃ)で「どんなダンスも基本はバレエの基礎にある」ってあったけど、なんか今はそれもなくなっちゃってる気がする。ミアは確かに劇中のトレーニング場面で、さすが身体の柔らかいところを見せもするんだけど、スポーツの準備運動とさして変わらないし。

「奇跡のダンスだ」などと絶賛してたけど、ラストの今一つ煮え切らないようなダンスより、冒頭のダンスの方が私はスゴいと思ったけどなあ?★★☆☆☆


ダンサー・イン・ザ・ダーク/DANCER IN THE DARK
2000年 140分 デンマーク カラー
監督:ラース・フォン・トリアー 脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:ロビー・ミュラー 音楽:ビョーク
出演:ビョーク/カトリーヌ・ドヌーヴ/デイヴィッド・モース/ピーター・ストーメア/ジョエル・グレイ/ヴィンセント・パターソン/カーラ・セイモア/ジャン・マルク・バール/ブラディカ・コスティク/ショブハン・ファロン/ゼルイコ・イヴァネク/ウド・キアー

2000/12/23/祝・土 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
とてつもなく圧倒され、頭が痛くなるほど泣き、こうして時間が経って思い出してもやっぱりたまらず涙が溢れてくるのを抑えられなくても、でも、もう二度と観たくない、観たくない!と思う。感動作?これは感動なのか?違う!違う!違う!ただただひたすらやりきれなく、絶望的に哀しいだけだ。そうは思っても、否定は出来ない。傑作だとは思いながらも、でも★★★★★もとてもつけられない。二度と、観たくないから。だって、あんまりだ、あんまりだよ、こんな、こんな、こんな……。

時代設定は60年代ぐらいにしているらしいけれど、でもこんな映画を観ちゃうと、常日頃から思っていた思いを新たに強固なものにしてしまう。絶対、ぜえったいアメリカには、住まない。いつ無実の罪(本作のセルマの場合は無実とまではいかないけど)をきせられて、死刑にされて処刑されるか判らない。陪審員制度という、なんという不公平でインチキで単純なこと!これが民主主義なのか!?単なる、口八丁手八丁の弁護士に騙されてるだけのアホウどもではないか!平気で、一人の人間を死に追いやってしまう。「死刑!」だなんて、ガキデカじゃあるまいし、なぜそんな判断を下せるのだ。そして、金のある人間だけが助かるのだ。そうした口の上手い弁護士を雇えるから。でも、セルマは。裁判の場面、セルマの弁護士が口を開いている場面が、まるでない。被害者側の弁護士の一方的な申し立てで彼女は処刑されてしまうのである。彼女自身もあまりにも愚かなんだけど、だって……。

故郷チェコを離れ、アメリカにやってきたセルマ(ビョーク)は、段々と視力が失われていく中、工場で、内職で、懸命に働き金をためる。自分の遺伝のために、息子の目の光も失われるのを防ぐため、手術代を稼いでいるのだ。そのことは、誰にも言っていない。精神的な動揺が息子の目にさわることを極度に恐れている。しかし、大家であり、自分が仕事中息子の面倒を見てくれている夫妻の、その夫で警察官のビルが、浪費家の妻には言えないけれど、実は借金で首が回らないのだと彼女に打ち明けたことで、セルマは自分の秘密も喋ってしまうのである。……彼には話してはいけなかった!

そうだよ、ビル、てめえええ!みんな、てめえのせいだ!彼女の金を盗み、彼女に銃を向け、彼女が自分を襲っていると見せかけてもみ合ううちに自分に向けて弾が発射されてしまう。「金を持っていくなら俺を殺してからにしろ、殺せ、後生だから殺せ!」やめて、駄目だよセルマ、だめ、だめえ!でも、なんだかその状況はとてもとても避けられなくて、セルマは悲痛の叫び声をあげながら、ビルに向かって発射するのである。二発、三発、四発……。息子の手術の期限ギリギリだったのだ。今を逃すと息子は失明を逃れるチャンスを失ってしまうのだ。

……ああは、言ったけど。ビル、彼に対してもそうむげに罵倒は出来ないのだ。彼は、とても弱い人間で、そう、遺産を相続しても、その金も妻に湯水のように使われて、金がないと言ったら妻が去ってしまうのではないかと思うと、言い出せない。愚かだ、愚かなんだけど、その人間としての愚かさ、弱さは、ひとごとではないのだ。彼はセルマの金のありかを知って、盗んでしまった。もう、ギリギリだった。彼女に言うように、一ヶ月後には返す気だったのかもしれない、いやそうだと思いたい。でも、セルマは、もっとギリギリだった。息子の一生がかかっていたのだ。そして、その悲劇は起こってしまう。

セルマの生きがいは、ミュージカル。工場で働きながら、芝居の稽古に通っている。彼女は時折、夢想する。その場面がミュージカルになるのだ。この、ビルとの惨劇の後も、彼女の空想のミュージカルで彼と彼女は和解する。あるいは工場で働いている時も、すばやく働ける自分をミュージカルで夢想する。裁判の時も、父親の名前に勝手に拝借したチェコの映画俳優が法廷に現れた時、その彼と共にタップダンスを踊る自分を夢想する。でも、夢想、なのだもの。彼女の心の中だけのことなのだ。許してくれる人も、抱きしめあう人も、現実ではない。何という哀しさだ、何一つ、報われない。絶望の先にあるのは……息子の将来?息子の目の光はそれほどの希望なのか。なぜ、なぜそこまで無償の愛をささげられる?あんなにも、死への恐怖におびえているのに!

それが母親なのだろうな。でも、残酷だよ。息子だっていつかは知ることになる。自分の目のために、自分の人生と引き換えに母親が理不尽に命を奪われたことを。彼は、一生それを背負っていかなくてはならないのだ。……どっちが辛いだろう。目の光が失われるのと、自分のために母親が死んだことを背負って生きていくのと。

でも、セルマ。なぜ、あんなにガンコに黙っていたの?何が起きたのか、どうして彼を殺すまでに至ってしまったのか。沈黙の誓いは、ビルがウソをついたことで破られたも同然だったではないか。そして彼が死んだ後でさえ、どうして黙ってしまうのだ?そのことが、自分を窮地に追い込んでしまうというのに。……ううん、判ってる。彼女が黙っているのは彼のことではなく、息子の目のことを黙っているんだって。息子がそのことを知ってしまうことによって目にさわるんだって言うけれど、でも、それだけだろうか。「自分が生んだことで、目の病気が息子に遺伝してしまった」ことに対する彼女の贖罪の気持ち。でもおかしいよ、だって彼女が生んだからこそ、息子はこの世に生を受けられたのではないか。

セルマにぎこちない愛情をよせるジェフ(ピーター・ストーメア)、彼女の親友で、「目よりも母親が必要」と彼女を助けるためにギリギリまで奔走するキャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)、監房の中で彼女にシンパシイを感じ、最後まで寄り添い、彼女の人間としての尊厳を守ろうとする女性刑務官といった人々が、このとてつもなく哀しい物語を、なんとか救っている。そうだ、確かに感動の方向に向けているかもしれない。ああ、ジェフ、あなたの、こんな時になってようやく言うことが出来た「愛してる」の言葉が、キャシーの、セルマが首をくくられる直前に息子のメガネを彼女に手渡し手術が成功したことを告げた無言の言葉が、板に括り付けられて死ぬのではなく、自らの力で立って死なせてあげようとした女性刑務官が。

……だめだ、思い出すと、どうしても泣いてしまう。最後まで、最後の最後の最後まで、何とか助からないかと願ってたのに、ダメだった。でも、想像を絶する恐怖の中で、セルマは、空想の中ではなく(だよね?)、歌うのだ。歌っているセルマは、なぜか、なぜだか、もういいよ、大丈夫、とでも言ったような輝いた顔をしてて、でもその歌声に哀しい気持ちが、やりきれない気持ちがどうしようもなく無限に増幅してしまって。最後までの必死の願いは、断たれた。ブザーが鳴り、彼女の足の下の床がぬけ、宙にぶら下がるセルマ。そして、カットアウト。……目にこびりついて離れない、ぶらさがっている彼女が……。

ビョークは、、そう、同じラース・フォン・トリアー監督の「奇跡の海」のエミリー・ワトソンと顔に共通点がある。どこか小犬のようで、幼児性があるところが。「奇跡の海」は私かなりの拒絶反応を示してしまったのだが……女性の、ちょっと異常ともいえるような愛情の示しかたが。ああ、でも本作にしたって私は同じことを思って、やっぱり拒絶反応を示しているのかもしれないんだけど。でも、判らない。哀しくて哀しくて、その感情の海に溺れてしまって。

本当の歌姫であるビョークの歌声が、凄いのだ。もちろん彼女は世界的なシンガーであるのだけど、この映画の歌声は、まさしくセルマで、セルマそのもので。魂の、歌声だ……どこか民謡のような節回しが、よけいに感情のさざなみを起こす。彼女の夢想するミュージカルシーンは、どれもこれも、みんな普通の人々で、労働者で、彼女が実際に憧れてるアステアだとかのミュージカルのような、ハレの世界ではない。でも、ハレなのだ。やっぱり。リアルで生々しくて、生命の力に溢れていても、ハレなのだ。……だって、彼女の現実(ケ)は、こんなにも無残で、暗くて、上手くいかなくて。ああ、でもでもきっと、彼女の中ではこの夢想も現実のうちなのだろう。だから、生きていけたのだ。そして、死に直面して足が震えて歩けなくなったり立てなくなったりしても、その度に歌を思い出して現実の自分を思い出せたのだ。

それこそ「奇跡の海」の時にはカメラの粒子の粗さはともかく、その揺れが、なんだかかえってわざとらしくて、それに車酔いのようになっちゃってどうもダメだったのだが、本作ではそれほど揺れもなく、でもやはり画面は暗く、粗いのだけど(デジカム?)それが今回は、生命力、生々しさ、現実感として感じられる。だからこそやりきれないし、哀しいのだけど。列車でのミュージカルシーンで、天に届けとばかりに歌い上げるビョーク、あの時には特に、セルマがビョークなのではなく、ビョークがセルマだった。愛するジェフがかたわらにいて、そして「見えなくなってもいいの。私はもう、美しいものすべてを見たから」と、それはほんとにネガティブではなく、哀しいけれどポジティブに歌い上げる、真のディーバが、そこにいた。

二度と観たくない映画だけど、結末なんて特に思い出したくもないけれど、でも、このシーンだけは、思い出したい。魂が、歌っているから。★★★★☆


団地妻 不倫でラブラブ
2000年 分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林政広
撮影:音楽:
出演:横浜ゆき 林由美香 さとう樹菜子 本多菊雄 伊藤猛 川瀬陽太

2000/7/25/火 劇場(中野武蔵野ホール:P-1 GRAND−PRIX)
驚いてしまった。サトウトシキ監督というと非常に雰囲気というか、やるせない美しさを感じさせるようなイメージがあったもんだから……なーんて言えるほど観てないんだけれど、恥ずかしながら。サトウ監督がいわゆる「一般映画」と呼ばれるものを撮った時と、ピンク映画の特集上映なんかで一般劇場にかかった時に観てるだけだから。しかしやはりピンク四天王の一人、そんなもんじゃなかったのだ。なんなんだなんだんだこのトンでもない展開はぁ!?久しぶりにお腹がよじれて一回転しそうだったよ!

タイトルは「不倫」で団地のお隣同士の二組の夫婦、ときたらその両方の夫と妻が入れ替えになり……と予想できるような単純な?展開は見せない。言ってみれば、このタイトルはホント、正直なのだな。妻どうしがラブラブになって(!)温泉旅行へと出かけてしまうんだもの。しかも残された夫どうしもラブラブになる(!!)。妻が突然いなくなった朝、双方の夫が「腹へったよ、なにか作ってくれ」からはじまってウロウロと妻を捜しまわり、「なんでだよ」などとつぶやく台詞も逐一同じなのには笑った。しかしこんなことで笑っている場合ではなかったのだ!

実はこの二人の夫のうち片方が、お隣さんであるもう一方の夫に片思いしてたんである。それを知った彼の妻はちょっとした腹いせにと、何も告げずに妻どうしで温泉旅行へと出かけてしまう。妻がいなくなると何も出来なくなり会社まで休んでしまった双方の夫は、暗い部屋で顔を突き合わせて黙って座っている。何かを言い出そうとしている(後から思えば)密かに相手に片思いをしていた夫A、それに気づいた夫Bが、「言いかけたんなら言ってくださいよ」「いや……」「いやって何ですか」「いや……」「またいやって言う」……この二人の淡々と展開されるトボけきった会話は、最初から最後までとてつもなく可笑しい!!

と、夫A、意を決したように「妻たちが楽しい思いをしているんだから、ぼくたちも楽しいことをすべきだと思うんです」夫B「楽しいことって、なにを」「ホモだちになりませんか?(……ナンジャトテ!?)楽しいと思うんだけどなあ(ちょ、ちょっと待て!!)、いかがです、ホモだち(いかがですって……オーイ!)」という予想だにしないモノすごい展開!

予想通り妻たちの方もそーゆー関係になるのだが、ま、女同士の場合は見た目キレイだし、あんまり驚かない。この旅館にはもう一組、若いカップルが投宿していて、「刺青を入れているから(別にヤーさんというわけではないらしい。肉体労働者であるという彼の、ほんの興味本位で入れたものなんだろうな)彼女の父親に反対されて結婚なんか出来るわけがない」と思い込んだ青年の方が、彼女のためを思って別れる決心を告げている。彼女は黙って受け止め“最後のセックス”だとばかり、服も脱がず何度も絡み合う二人。

この二人の話が実はこの作品の主題ではなかったんだろうかと思われるんである。彼は、彼女に結婚したいということすら言っていない。プロポーズする前からあきらめてしまってて、ふとしたことからぽろりと出た彼の気持ちを聞いた彼女は「そんなの聞いてなかったわよ。なんで男らしく言わないのよ!結婚に親は関係ないでしょ!」と激怒、露天風呂に彼を蹴倒してしまう(身体が垂直のまんま落ちてしまう彼には爆笑!)。すったもんだした挙げ句、星降る木立の中を浴衣姿でそぞろ歩きながら「明日お前のお父さんに会うよ」「……」「会ってくださいって、言えよ」「……会ってください」と言う場面はちょっと泣けたなあ。

さて家に残された問題の夫どうしは、「一発ヤリ終わって」ハダカでテーブルを挟んで座り、テーブルの真ん中で湯沸かしポットが湯気を立てている(この画は可笑しすぎる!)。夫Bが「君はホモだからいいけど」などと発言したことに夫Aがキレ、「今はそんな定義はないんだよ!ホモもそうでない奴もダメな奴はダメ、それが現代の定義なんだ!」となんだか妙にムツカシイ言葉を使って怒りまくる。「もう一発だ。服なんて着るな。パンツだけにしろ。何度も脱がすのが面倒だ」などとキレついでに言い、浴びるように酒をくらう夫A。言われた通りパンツひとつでベッドで待つ夫B(……素直だな)。しかし夫Aはそのまま帰ってしまう……訳が判らずに引き止める夫Bを振り切って。

妻二人は帰る前の晩、「お互い亭主を大事にしましょ。でもこれからも身体をあたためあいましょうね。でも、それだけ」と言い交わして帰途につく。団地に着くと玄関前で熱いキスを交わしている夫どうしが!(しかも唇を離した時糸引いてるんですけど……)負けじと「あたし達もキスしましょ」と(!?なんでそうなる!)唇を重ねる妻どうし!かくて二組はまるで何事もなかったかのようにそれぞれの寝室で愛を確かめ合い(会社に行こうとしてたのに……また休んだのね)めでたくジ・エンド。

まるでプールみたいに広大な露天風呂のある(女三人はそこで無邪気に泳ぎまくる)温泉旅館は、でもとてもひなびた雰囲気。雪がそぼ降るのもあいまって夜の場面が多い画面はしっとりとした質感。このあたりはやっぱり私の好きなサトウトシキ監督、なのだよなあ。そういえば、夫達側のシーンもやたらと部屋が暗く、ミョーにアヤしい雰囲気を醸し出してるのが可笑しかったなあ。もうとにかく、何が何だか判らないけれど、コリャ大傑作!

ちなみに本作品、P-1 GRAND−PRIX(ピンク映画トーナメント)優勝だそうです。オメデトウゴザイマス!★★★★★


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