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アイ ウォント ユー/I WANT YOU
1998年 87分 イギリス カラー
監督:マイケル・ウィンターボトム 脚本:ユアン・マクナミー
撮影:スラヴォミール・イジャク 音楽:エイドリアン・ジョンストン
出演:レイチェル・ワイズ/アレッサンドロ・ニヴォラ/ルカ・ペトルシック/ラビナ・ミテフスカ
母親の自殺から一言も口をきかないという、この不思議な少年、ホンダの存在のまさしく不思議さはどうだろう!彼はいつでも集音マイクを持っている。声を発しないホンダが人々の声に(そう、彼が集めているのは他のどの音でもなく、自分が出すことが出来ない“声”なのだ)執拗に興味を持つ。彼は死んだ母親の吹き込んだと思しき寝物語を聞きながら眠りにつくのがお気に入りだが、姉スモーキーや憧れの人ヘレンのセックスの時の声をも安らぎの子守り歌のようにして聞いている。誰かも言っていたけれど、本当に彼はその風貌といい、唯我独尊が孤独と言い換えることが出来るようなところといい、「ガンモ」の少年に似ている。
その姉スモーキーもなんと魅力的なことだろう!それほど性的欲望が強いとも思えない、その痛々しいまでの細い肉体を、まるで殉教者のようにさまざまな男にさらすところは、このウィンターボトム監督の傑作デビュー作品「バタフライ・キス」のアマンダ・プラマーのようではないか。陽性の表情を見せる彼女が、不思議と静かな痛ましさを感じさせる不思議さ。弟がセックスの声を録っているのを、そしてその声に安らぎを感じているのを知っていて、隣室で男とセックスを繰り返す。その最中でも弟が眠れないでいるのを察知して、裸のまま弟のベッドに潜り込み、寝かしつける。その姿は普通の姉弟の域を越えている。といっても近親相姦的なそれではなくて、なにかこう、もっとセイントな。
そしてこの物語の主人公カップルであるヘレンとマーティン。ヘレンの色白の肌に映える真っ黒な髪と大きな瞳、真っ赤な唇のどこかエキゾチックにも映る官能的な魅力。二人が九年前どんな風に知り合って愛し合ったか判らないけれど、ヘレンには父親と関係があったかもしれないとさえ思わせる、年の離れた男を惹きつけるような、一種ロリータ的な魅力があるのだ。会ってはいけないと判っていながらヘレンのもとを訪ねてしまうマーティン。「入れてくれ」と懇願するマーティンを最初は拒みながらもそのドアを開けた時にはまるで長い間待っていたように抱擁に積極的に応えるヘレン。
その後の二人のセックスは何とも言いようがない。九年間の成長のあとを見ようとでもするように、一つ一つの衣服を彼女自身に脱ぐように指示するマーティン。衝動が押さえ切れず、彼女をソファに倒し、前戯もなにもなしにいきなり挿入するマーティンに対し、あえぎとも悲鳴ともつかない声と表情のヘレン。ヘレンの開いた足がマーティンの背中を挟み込む、異常な力の入り方が、見る者を戦慄に近い感情にさせる。ヘレンはまるでマーティンとのセックスを待っていたかのように、他の男とのセックスは強く拒絶していたのだけれど、そのセックスがこれである。彼女が本当に父親と関係を持っていたとしたら、彼女は今まで幸福なセックスを体験したのだろうかという気がしてしまう。いつもいつもこんな風に痛ましいセックスだったのかもしれない。
ヘレンはマーティンをこの上なく愛しているようにも見え、激しく憎んでいるようにも見える。マーティンはどうしようもなくヘレンを愛しているように見えるが、ヘレンに殺される時に発せられる衝撃の告白を聞くと、彼もまた、ヘレンを愛しながらも憎んでいたのではないかと思われ、彼が服役中、彼女との面会に一度も応じなかったというヘレンの言葉にふと思い当たったりする。マーティンが塀の中で九年間考えていたことは何だったんだろう。ひょっとしたらヘレンへの憎悪?でもヘレンと再会したとたんその気持ちが裏返ってしまったのか?……判らない。ただ彼ら自身にも説明がつかないであろう、その衝動的な感情の渦があまりにも痛ましいということだけだ。
そして音楽の悲痛さ!私はこの手の洋楽に全然詳しくないんだけど、まるでこの映画から生み出されたかのような「I WANT YOU」の、ギリギリの感情で絞り出されるようなリフレインがその痛ましいセックスシーンに重なってさらに重苦しくなる。あー……やっぱり、ウィンターボトム監督だなあ……。★★★★☆
そしてこの「アイズ ワイド シャット」である。……うーむ、訳が判らない。原作があるということで、そしてそれにほぼ忠実らしいんだけど、だからなんなんだ?というのが正直なところ。セックスと異常性欲の話?これが異常性欲なのか?私のこの“?”を助長するように、作品評は軒並み“キューブリック監督が……”“キューブリック的に……”のオンパレードで、ああもう、作品自体をもっとすっくりと見つめて論評してくれよお!てめえら、プロだろうが!といささかイライラ。作品自体だけだと語るのが難しいという気は確かにするのだけれど。
はっきり言って、この夫婦、別に悩むことなんか全然ないではないか。なーんにも、問題ない。妻の妄想はただの妄想で実際浮気したわけでもないし、夫がそれに対抗するかのようにいろんな性的世界に結構無邪気に入り込んでいくものの、入り込んでいくだけで結局肉体関係には及ばない。ま、しかし肉体関係=浮気というのは、実に陳腐な図式ではあり、根っこにずっと残ってしまう、思いや妄想の方が厄介だと言えなくもないけれど、そう思わせるだけの説得力もないんだよなあ……。面白いことにこの妻と夫、二人のセックスシーンも結局ないし、お互いの浮気の肉体関係もないのだよね。ま、夫が妻の話から妄想した妻のセックスシーンはモノクロで出てくるけど、二人とも映画の最初から最後までセックスをしない。お互いの性的妄想をふくらませるだけなのだ。そして最後の妻のセリフ、仲直りをするために「ファックしましょ」である。浮気が感情をからめたものと思っていたからこそ苦悩していた二人が(ハイソな人が陥りそうなコムズカシイ論理だよなー)、仲直りをするためにセックスするなんて、皮肉な話だ。
妻の妄想の話で、自らの性的欲望に気づかされた夫の話だったのかなあ。彼はどうやら娼婦を買ったこともないらしいリアクションだったし、怪しげな黒魔術的セックスパーティーに出席できると喜んで、深夜に貸衣装屋をたたき起こすことまでする無邪気さは子供っぽいとしか言いようがない。妻の妄想をきっかけに、そして患者を弔問に行ったショックからフラフラ行動したという言い訳にして、無意識下でずっとやりたいと思っていたイケナイことをやってしまって泣きながら後悔する……ほんとに子供っぽい描写に意識的にと言えるほど徹している。
予告編で使われていた映像はほぼ冒頭に出切ってしまう。つまり、思わせぶりに見せていた映像は作品のキーになるものは全くないのだ。ある意味では正しい予告編の見せ方なのかな、とも思う。あの映像から予測できるものは全くなかったけど、実際あの映像から展開するものはほとんどなかったもの。ニコール・キッドマンが相変わらず恐ろしく美しいのにはマイッタけど。あの、乳首が透けて見えるほどに薄い下着姿!悩殺だぜー。あとちょっと喜んじゃったのは、貸衣装屋の娘役で出てきたリーリー・ソビエスキー。おお、「25年目のキス」で達者な演技を見せたあの女の子ではないか!どこか知的でエキセントリックな感じの美少女ぶりは健在で、この娘の飛躍を期待したいところ。★★☆☆☆
ガタガタとゆれる列車の中でなんだか居心地悪そうに同席している大勢の人々、何人かの人々は親戚同士のようだが、全くの他人同士のような人もいて、列車の中だから他人同士が乗り合わせているのは当たり前なんだけど、その人たち同士もお互いに妙に意識している。実は亡くなった画家による「私を愛する者は列車に乗れ」という遺言に従って彼の葬式に向かう人々なのだが、その画家の葬式に向かっているというのも当地に着いて初めて得心するぐらい、何も説明されず、その遺言に至っては、いつ披露されたの?という感じで……あまりの退屈さに途中居眠りぶっこいてた私の責任だろうが……。
やたらと説明的な映画もある中、ここまで説明しない禁欲さがある意味潔い魅力があるのかもしれないが、この映画に関してはそれも感じられない。どこかある程度映画を観ている観客に向けて作られていて、そういう人たちがどこかで作品の情報を得て見に来るだろうというような、監督のおごりが感じられる気さえする。表現方法が悪い意味で内向的で、観客に対する視線が全く感じられず、かといって誰に向けているというのもなく……本当ならその亡くなった画家に向けてなければならないのだろうけど、そして向けているつもりなのかもしれないが、それも感じられない……ただただ点描される、人々の会話にひたすら??となったまま進行していくしんどさ。
登場する人物が多すぎる。しかも前述したように何の説明もなく、彼らの会話から情報を得るのも困難で訳が判らないまま、彼らの喜怒哀楽につきあわされる。もっと対象人物を絞り込んでくれれば面白かったかもしれないが、すべての人に思い入れがあるのか、あるいは誰に対してもないのか、話の焦点があっちこっちに飛びまくってますますもって訳が判らなくなっていく。
そのキャラクターの意味付けが訳が判らないものの、何とか印象を残してくれたのは、画家の最後の恋人であるブリュノ役のシルヴァン・ジャック。列車の中で以前出会った男と刹那的に関係を持つ彼は、体中から深い精神性を放出していて、いつも泣き出しそうな目とともにその繊細な美青年ぶりが忘れられない。そして何といってもまさしく美女なヴァンサン・ペレーズ!会話での説明を聞くまで、女性と信じて疑わなかったほどの完璧な美女ぶりで、彼女(?)が地下室でシャルル・ベルリング扮する画家の甥で靴屋のジャン=マリに次々とハイヒールを出してもらって履くシーンは、ひざまづいて靴を差し出すS・ベルリングとV・ペレーズの驚異的な足の美しさでまさしくフェティシズム的な妖しい魅力でクラクラくる。★☆☆☆☆
いかなる写真がアートになるのか。芸術にはいろんな表現形態があるけれど、写真は、特に現代ではシャッターを切ればそれなりの画質で撮ることが誰にでも可能だし、映像作品などと違って一瞬の切り取りに対する演出?技術なのでその見極めは一層難しい。そう言えば「ハイ・アート」の写真家も“プライベート・フォト”と言われる、特に技術を使わない、エモーショナルな部分を大切にする写真だったので、素人は、この写真がすばらしい、と批評家が言えばそうかな、と思うし、これはダメだ、と言われればやはりそうかな、と思わされる程度で。
んで、ここではそのビミョーな、言ってしまえばちょっとインチキなあたりをとことん皮肉って笑い飛ばしている。でも皮肉な笑いではなくって、明るい笑い。主人公であるペッカー(エドワード・ファーロング)は、中古カメラを母親からもらうやその魅力にとりつかれ、家族や友人や恋人や街の人たち、はてはネズミの交尾や壁の下品な落書きにいたるまで、暇さえあればシャッターを押している。街を疾走しながら、なんの準備もかまえることもなく、したがって被写体も気楽な気分でポーズを撮る。自分の働くサエないカフェでペッカーは小さな個展を開く。それがアート・ディーラー(リリ・テイラー)の目にとまったことから彼の写真がいきなり芸術に昇進、若き写真家として一躍有名になってしまう。
目利きする(と言われている)人が持ち上げると、その価値が正確に判断される時間を待たないままに、祭り上げられてしまうコワさ。いきなりNYの大ギャラリーでの個展、超有名人たちが集まってまことしやかに批評し、豪華なパーティーディナーが振る舞われ、新聞や雑誌に彼の顔と名前が乱舞する。そのことに真っ先にイヤな顔をするのがペッカーの恋人、コインランドリーに勤める勝ち気なシェリー(クリスティーナ・リッチ)。ハイソな人々の気取りまくった世界は、田舎で生き生きと写真を撮るペッカーの場所では確かにない。ボルチモアに戻ったペッカーは有名になってしまったことで今までのように気軽に写真が撮れなくなってしまう。陶器人形のマリア様が喋ると信じている祖母はインチキ呼ばわりされ、甘いものがきれるとイライラしだす砂糖ジャンキーの妹は子供の虐待だと保護観察官に指導され、ペッカーの相棒である友人はその写真で万引きの常習であることが知れ渡ってしまう。それでも次の個展があるからと新作を急がされるペッカーは何とか写真を撮り、アート・ディーラーに見せる。何を見ても褒めまくる彼女に彼は言う。こんなの全然良くないよ、と。
この時初めて、あ、彼は本当に才能がある人なのかもしれない、と思う。自分の作品を客観的に見る目を持つ。ペッカーは彼の特集を組みたいと言って家族や友人にコッテリメイクを施して写真を取りまくっている「ヴォーグ」の写真家にこんなウソの写真を撮るな!とイカる。彼にとっての写真は単純明快、カメラを向けたそのままの人間が映し出される喜びなのだ。ペッカーはホイットニー美術館での個展をけって地元ボルチモアで次の個展を開催、そこには先のハイソなパーティーで彼が撮った、有名人たちのミットモない、でも明らかに真実の姿が切り取られていた。この邪気のないシニカルさ、確信犯め!この時、ペッカーの才能がホンモノだと証明されたのだ。それも彼自身によって。
ペッカーにフラれたアートディーラーは次なるスター写真家をともなってその会場に現れる。全盲の写真家なのだという。いい風景や人を感じ取ってシャッターを切るという彼。確かにそういう話は聞いたことがあるけれど、彼女にとっては写真の腕よりも、写真家のバックグラウンドが重要なのだな、とあらためて気づかされる。売れる写真家のバックグラウンド。要するにタレント性ですな。ペッカーは無意識的にもそれに気がついて彼女から離れ、自己を確立することに成功した。アイドルタレントがそこからの転換を図る時、自分で方向性が見えているか、自分で決められるかということが重要なのとおんなじだよなー。
んで、どこがお下劣なんだということだけど、彼の撮る写真の中に、うーん、なんだろうこれは……というものがあって、聞かれた客に相棒の友人がすかさず答える。「マン毛だよ、マン毛!」オーイ!!口に入れた食べ物を思わず吹き出す客。レズビアンショーをやってるエロ劇場で至近距離で接写した(……)それは、なにか前衛芸術のようなおもむきで、それをかのアートディーラーは絶賛して最初の購入者となるのだ。姉(マーサ・プリンプトン。えええ!ケバすぎてわかんなかった!)の勤めるホモバーでもペッカーは写真を撮りまくり、ティー(紅茶)バッグと呼ばれる、ホモダンサーの股間を客の頭にタッチする瞬間もモノにする。な、なるほど、ティーバッグねえ……(苦笑)。ま、お下劣なんていってもこの程度で、そのほかはキッチュながらもキュートな描写が続出。ペッカーとシェリーが仲直りする場面、彼女がアートに目覚めて「とれない白かびも紅茶のシミもアートなのね」「そうさ、心しだいなんだよ」(なんじゃそりゃ??)とラブラブモード、画面にキラキラいろんな色の星が流れ、盛り上がった二人が立ったままいきなりメイク・ラブ、しかも選挙投票所で!というのもミョーにカワイイ。
ペッカーを演じるエドワード・ファーロング。どこの紹介記事でも「ターミネーター2」の……と書かれちゃうのだけど、彼、ハリウッドメジャーの路線に浮かれることなくその後の作品選びは地道で慎重で非常に好感が持てるのだよなあ。確か「T2」でいきなり抜擢された時には、全然素人で演技経験もなく、キャラクターがピタリとくることから選ばれたようなところがあって、その後どうなるかなあと思っていたのだけど、その後の作品では確かにそのキャラを引きずっていて影のある役どころが多かったものの、選択眼がしっかりしていたから、真摯に演技を学んでいったように思う。「グラスハープ−草の竪琴−」なんてイイ感じだった。次回作の「アメリカン・ヒストリーX」も期待大。
そして本作での彼は、ああ、こういう彼が見てみたかったのだよなあ、と思わせる陽性のキャラクター。よく笑い、よく喋り、ポップに街を疾走する。いいねえ。こういう役の方が彼の本質に近いのかもしれないと思うほどイキイキとしてる。なんだかいつまでたっても若くて、一体彼いくつになったんだ?最初の年齢と全然印象が変わらない。それで言ったら彼の恋人役であるクリスティーナ・リッチも、胸はやけにデカくなったけど、そのベイビー・フェイスな印象は全然変わらない。でも彼女の場合、だからこそ逆にロリなコケティッシュさで妖しい色気がある。ああそして、私の大好きなリリ・テイラー!「ホーンティング」は未見だが、「身代金」などのメジャーの時はどうしても影うすく扱われてしまう彼女も、もともとカルトキングなジョン・ウォーターズならばっちり素敵だもんね。でもそれにしちゃ珍しくマトモな役どころだけど。関係ないけどリリ・テイラーとマーサ・プリンプトンの共演かあ、リバー・フェニックスの相手役同士だなあ、マーサはリバーの恋人だったしね……などと感慨深し。
なんでもこのお話、ジョン・ウォーターズの自伝的要素が強いとか?次に何をやるか、と問われるペッカーが「映画でも撮るかな?」と言って終わるラストに、うーん、ナルホド??ペッカーはジョン・ウォーターズの道、お下劣カルトキングの王道を進むのかあ!?★★★☆☆
本作はろう者の役は全てろう者によって演じられているだけではなく、監督はじめ、スタッフもすべて聴者とろう者が半々ずつ。世界でも類例を見ない画期的な映画作りだという。その結果はというと、素晴らしかった!何が素晴らしいって、映画における基本的なこと、作品としての面白さを軽々とクリアしていること。企画や製作過程がどんなに画期的だったりエポックメイキングなものでも、劇場に足を運ぶ観客にとってはこれ一点こそが大事なこと。前述した二作品「風の歌が聴きたい」の明るさと、「君の手がささやいている」の泣き、それぞれの要素が的確に織り込まれる。そして要素としては明るい笑いの方が圧倒的に多いのだ。全体が明るく輝いている。だからこそ泣きの場面も抜群に活きてくる。これは可哀想な人の映画ではないのだ。劇中ヒロインの朝子(忍足亜希子)はじめろう者の人々が、聴者から向けられる、可哀想な人々には優しくしましょうといった、同情の目を向けられることに反発する。私たちは可哀想な人なんかじゃない、耳が聞こえない、ただそれだけの同じ普通の人間なんだ、と。
消防士である夫、隆一(田中実)と娘、愛(岡崎愛)を持つ朝子は実にごく普通の生活を送っている。会話に手話を使う、ただそれだけ。学芸会の舞台に立つ愛に手話でセリフをカンニングさせるなんていう芸当も出来てしまう。で、ここである意味当然のように愛に対するいじめが起こる。お前のかあちゃん、へんなの!と。そしてこれもまた当然のようにクラス間での話し合いが持たれ、可哀想な人には優しくしましょう、となる。ここまでは「君の手がささやいている」にも描かれた展開。しかしここからは本作のヒロインの方がずっとアクティブ。彼女は手話の素晴らしさを世間に判ってもらうという使命に燃えて、ろう者劇団に飛び込む。積極的に団員を募集し、芸術祭参加に挑戦する。プロ集団、日本ろう者劇団を見学しその実力の高さにショックを受けたり、劇団に没頭することによって主婦の仕事がおろそかになって夫との関係が気まずくなったりする。ろう者だからというのではなく、一人の女性がぶつかる普遍的な出来事の数々。しかしもちろんろう者としての葛藤を描くことを忘れているわけもなく、世間の同情の視線が重荷だという朝子に「それが現実だよ。ろうはろうなんだ、つっぱるなよ!」と言う夫と口ゲンカ。手話なので明るいところでないと話が出来ないのを利用して彼女は執拗に電気を消し、それを夫が何度もつけなおす。そして彼女は出しにくい声をしぼりだし、不明瞭な発音で懸命に叫ぶのだ。「あなたには、判らない。あなたには判らない!」それも夫に背を向けて……。
聴者である夫、隆一もまた苦悩しているのだ。ろう者の夫なんだから、理解のあるいい夫、いい父親でいなくてはならないと、知らず知らず追いつめられてしまっている。隆一は仕事場の後輩(宍戸開)に聞く。「手話を覚えてから俺の日本語おかしくないか」「伝わるようにって、念を押すような話し方になったかな。でもちゃんと伝わってますから」「……そうでもないみたいだよ」自分の手を見ながらつぶやく隆一。
芸術祭の当日に起こるさまざまなハプニング。団員であるろう者どうしのカップルの妊娠が発覚し、彼女の両親が怒鳴り込んできて大混乱。そのことで朝子が愛を生んだことで難聴状態から完全なろうになってしまったことが愛に知られてしまい、ショックを受けた愛は飛び出してしまう。「愛の耳をママにあげる」と泣きじゃくる愛を抱きしめ、朝子は言う。補聴器のボリュームを最大にして聞いた愛の心音をはっきり覚えていると。時々それを心から取り出して聞くのだと。愛をどうしても産みたかった、愛の存在に感謝していると。いやあー、さすがにこの場面には泣いたねえ。
隆一が無理矢理舞台にあげられてしまうなどというハプニングもありつつ、舞台は大成功。愛が眠る枕元で夫婦が語り合う。こうして子供の寝顔を見ながら手話で話せる自分たちは幸せだ、と。唇を重ねる二人がシルエットになり、目を覚ました愛がおしゃまなびっくり顔を見せるのがカワイイ。
この映画が主張したいことのひとつには、手話が言語の一形態だということもあると思う。劇中、ブラジルからの転校生に愛が今一つ通じない口話言語のかわりに手話を教えてコミュニケーションをとる場面が出てくる。愛はろう者がどうこうというよりも、手話の素晴らしさを身を持って証明することによって、自分に対するいじめとともに、ろう者に対する偏見を吹き飛ばす。そのことによって手話がろう者専用の道具ではないことをも示唆するのだ。聴者のエピソードによって、そしてこれからの時代をになう子供によって語らせるところに説得力がある。
ろう者である自分の子供に口話をさせる挿話も「風の歌が聴きたい」と共通しているのだけれど、「風の……」がそれをどちらかというと肯定的に描いていたのに対して、本作は否定的である。普通学校に通わされ、手話も習わせてもらえず、自分の声が聞えないのに喋るよう親に強要された女の子は言う。授業は何も判らないし、学校時代はただぼんやりと過ごしていた、ろう者にこんな素晴らしい人や世界が存在するなんて知らなかった、と。
ヒロインである忍足亜希子は一人の女優としてとても魅力的だし、可能性も感じさせてくれる。彼女に限らず、ろうの俳優たちの豊かな表情と肯定的な演技は皆非常に達者でレベルが高いのだ。先のろうの若者どうしのカップルや、劇団にただひとりの聴者としてはいる不破万作の奮闘ぶり、彼の奥さんのあき竹城、劇団リーダーの勝子が恋する仕事場の彼(本宮泰風)とのメル友からの展開などなど、脇のエピソードも存分に楽しい。実を言うと田中実目当てなだけで観に行ったんだけど(笑)予想外、予想以上に心いっぱいにさせてもらえた!★★★★★
ひどく私小説的な、自分の世界にただただ漂っている、それが魅力的になればいいけど、ならない。しかも、その独特の世界観だけに埋没してればまだ“美しい”だの“詩的”だのという言葉もひねり出せるものを、上海マフィアなんていう、映画の俗っぽさの象徴とも言うべきものを持ち込んできて、ガクッと来てしまう。
台詞をほとんど排除した世界は、それを語るだけの力量のある人でなければ(北野武監督とか)、ただの退屈な、自己満足な画面になるだけだ。
主人公である涼子が、美容室のタオルを下にいる和也の足元に落としてしまう。それを拾うことなく自分の部屋に行ってしまう和也。あるいは、一人花火をしている和也をただ佇んで見ている涼子に、花火をすすめる和也。「俺は花火は嫌いだ」……上手く語れば涼子と和也の微妙な心の揺らぎが見えてきそうなこれらのエピソードが、何一つ心を揺さぶってくれない。
それは寄るべきところで寄ってくれないカメラのせいか、あるいは見せるべき表情を見せてくれない俳優のせいなのか。それが“ストイックな演出”なんて言うのは納得行かない。勝手にストイックされても、判らない。ストイックを強要されても、困惑するだけだ。
何より我慢がならないのは、そのストイックな演出なんだか知らないけど、ラストの、夕暮れの風景と、涼子、それぞれの恐ろしいほど長いワンカット撮り。それに何を意味付けようとしているんだか。風景ならまだしも、彼女はただただ微動だにせず、ワンカットで魅せる全身の表情を持たず、その自己満足的ワンカットにつきあわされるこっちはイライラしてしまう。
沖縄のゆったりした空気を感じさせる路地や、青をかぶせた画面、そして音楽はひどく美しく、これで何とか加点されるけれども……。★★☆☆☆
ラストの数分の戦闘シーンで、あ、これってこういう話だったんだ……とようやく判るありさま。変身モノだったんですね、アキハバラ電脳組って。なぜこの少女たちがチョイスされてそうした能力を持っているのか判らないけど。アキハバラがもろとも吹っ飛ぶかもしれない地殻変動を救うため、宇宙に飛び立つ戦闘シーンの直前、言葉こそしないけれど、最後かもしれない夏休みを楽しむため、いつの間にやら彼女たちが三々五々集まり、人の誰もいなくなった銭湯につかり、浴衣姿になって、夜の校庭で花火をする。それも線香花火。最後まで残った人が勝ちと言って始めるのだけど、(当然ながら)あっという間に終わってしまって「私、勝っちゃったね」という言葉も寂しく響く。前半部分のワケ判らんテンションのスピードと違って、ちょっとしたノスタルジックを感じさせるこのエピソードはなかなか好ましかった。その直後の戦闘シーンとの対比のためもあるだろうが……。思えばこれって、サブタイトルが「2011年の夏休み」なんだよね。少女たちが過ごす夏休みのノスタルジックさ、しかも近未来、ということであの「1999年の夏休み」としっかりと符合するではないか!(当時は1999年は近未来だったわけだし)しかし、このことにアキバファンのどれだけが気づいていることやら……。
しかしね、私、この絵からしてかなり拒否反応なのだよ。カラフルな頭はまあいいとして(それ言ったらウテナもそうだもんね)髪のツヤがうるさすぎる。でっかい目もまあ、いいとして(顔の2/3……)、横顔の輪郭、何であんなに歪ませなきゃいけないんだろう。しかし昨今の漫画でちょくちょく見かけるんだけどね、ああいう輪郭の描き方。すごく、違和感がある。頬骨からあごにかけてグニャリと窪んだようなあの輪郭、あれがカワイイのだろうか……理解に苦しむわ。ただ動きにはちょっと面白いところがあった。いやいや……って時に揺らす手や、ヘロヘロになった状態のキャラが動く時のゆらゆらした動き。ペンを水平に持ってゆらゆら動かすと柔らかい物体が動いているような感じになるでしょ?、まさしくあの動きなのだよね。ああいう動きをアニメーションで見たのは初めて。
「少女革命ウテナ」と同時上映にもかかわらず、ウテナとこの作品のファン層ははっきり分かれていて、二本ともに観ていくファンは殆どいないようだった。偏見かもしれないけど、特にアキバファンの人たちの中にそれが多かったように思う。確かに作品カラーが違いすぎるし、二本立てにすることもなかったのかもしれない……いや、作品カラーが違うからこそ、二本立ての意味があったとも思うけど、その二本立ての魅力、……予期せぬ面白さを発掘するなんて発想は彼らにはないらしいことまでは、企画をした人は読めなかったのだね。まあ、そこまで考えてもなかったのかなあ。劇場マナーもテレビノリだった、と言うのは言い過ぎだろうか?★☆☆☆☆
ガーデニングもガーデニング、これぞモノホンの庭園作りである。自分の富を強調するため、広大な敷地に豪華な庭園を造る計画を立てる領主、トーマス・スミザー(ピート・ポスルスウェイト)のため呼び寄せられる庭園デザイナーの相棒であるメナー(とチラシにはあったけど、字幕の名前は違ったような……)(ユアン・マクレガー)。しかし実は彼はメナーの秘書であり、元々呼び寄せられていたデザイナーも、そしてメナーも海難事故で帰らぬ人となっていた。父の葬儀のために早急に金が入用な為、自分がメナーだと偽ってこの屋敷を訪れたのだ(以降めんどくさいのでこの秘書をメナーと表記)。しかし彼自身のデザイナーとしての腕も確かであり、彼は自分の腕試しのためもあってここにきたのかな、という気がする。そしてもう1人、この屋敷の有閑マダム、ジュリアナ(グレタ・スカッキ)の従兄弟で、彼女に横恋慕しているフィッツモーリス(リチャード・E・グラント)が、この庭園計画でスミザーを破産させようと画策している。メナーとフィッツの奇妙な利害関係の一致、そしてスミザー家の感受性豊かな一人娘、アン……しかし本人名乗るところのテア(カーメン・チャップリン)が物語に不思議な魔力を与える。
このテアを演じるカーメン・チャップリン、名前からも判るとおり、チャップリンの孫なんだそうな。ということは、ジェラルディン・チャップリンの娘かなあ?そっちとは別口の孫かな?彼女の詩の朗読から始まる本作、草の中にうずくまる玉子を抱いた鳥に草刈り人夫が近づいてくる詩を読む彼女の、情熱的にたっぷりとした唇が不安げに揺れる横顔アップに惹きつけられる。その前、タイトルクレジットのバックに揺れる影はこの彼女が朗読する中で出てくる草刈り人夫の影なのだけど、作品全体を覆う人間の疑惑と欲望みたいなものを、その捕らえにくい、あいまいな影に集約していて、最初から不穏な空気をたたえさせている。
田舎の暮らしに退屈しきっているジュリアナを演じるグレタ・スカッキの爛熟した色気はさすが。「レッド・バイオリン」の彼女もそうだったけど、こういう、官能的な役が彼女には非常に良く似合う。……でもどうしてだろう、別にそういう風貌でもないんだけど。若い男に言い寄るのをためらってもいい年の女であるにもかかわらず、それが全くない、女の魅力に絶対的自信を持っているのがありありと判る彼女。そんな母親に軽蔑と劣等感を同時に感じているであろうテア。自らの目的とテアに惹かれる感情、ジュリアナから寄せられる欲望、そしてフィッツの視線にさらされ、身動きできないメナー。演じるユアンは、この頃一番太ってしまったんではないかな。服を着ているとそんなに感じないんだけど、締まらない身体してんだから、脱ぎたがるのはやめろよ……。
庭園づくりの映画でありながら、庭園の魅力に力を注がない。庭園それ自体にあるはずの魅力をあえて描かないようにしているのではないか。それというのもここで描かれる庭園は、こうした人間たちの醜悪な感情の象徴だから。虚飾を明らかに感じさせる模写の彫像、鉄門で区切られる内と外が提示する排他性。庭園そのものが閉鎖性の象徴であり、林の中に自分の居場所を見つけているテアにとっては苦痛以外のなにものでもない。庭園が九分どおり完成し、お披露目パーティーが開かれたその日、テアは庭園内に熊手で砂の流れを作り、その中に石を配置する。いわゆる日本庭園の砂庭を作るわけだが、これは効いている。日本庭園の区画の曖昧さ、砂庭が象徴する川の流れが彼女の憧れる海へと続き、そして外へと通じる開放性をも暗示する。そして彼女がたんぽぽの綿毛を吹き、鉄門を開けて外へ出て行くと、大嵐が吹き荒れ、庭園はめちゃめちゃに壊されてしまう。金をかけた温室もそのきゃしゃな窓枠が気持ちいいほどに吹っ飛ばされる。その風の中でしまいには笑い、はしゃぎだしてしまうメナー。
そう言えば、タイトルである「悪魔のくちづけ」は、庭園内に設けられた迷路園を意味していたと思う。囲い込まれた庭園の中でさまようという矛盾性に満ちた、翻って考えてみれば開放性への憧れを内包した場所だ。その憧れをシュミレーションする場所。出て行く勇気や能力は持てないままに、遊戯として興じるしかない人間の愚かさ。出来上がった虚飾の庭園内の、これまた虚飾の最大の象徴物である小高い丘にくつろぐ、庭園の外に住む人々を苦々しげに見つめるスミザーの本心はそうした嫉妬になかったか。
自ら仕掛けた罠が回りまわって、体内から青くなってしまう毒をあおり、死んでしまうフィッツ。青い毒……!何と詩的な……。屋敷を追われたメナーはテアに愛を告白し、彼女の憧れる海へと向かう。窮屈な衣服を脱ぎ捨て、白い海岸にくつろぐ二人の姿は、今までいかに窮屈な場所にいたかを痛感させられる。庭園の閉鎖性と海の開放性。文字にすれば陳腐だが、そこは映像の力。
……とまあ、ガーデニングと言いつつ、実はガーデニングを否定的に描いていると言えなくもない作品。それにテアの愛する文学を一つの要素として描こうとしたせいか、正直ややわかりにくい描写。しかしなんともいいがたい不思議な魅力(魔力)に満ちているのは、やはりそのテアを演じるカーメン・チャップリンの存在感のせいか。それに庭園作りがメインになる映画なんてちょっと他にない。そのスノッブさもまたシニカルな魅力を放つ。★★★☆☆
言いたいことをはっきり言えない、そもそも言いたいことがあるのかどうかすら判らない悟(安藤政信)という青年がヤクザの車にぶつけてしまい、事務所で脅されている最中になんとそこがガス爆発。地味で真面目で後輩からもアゴで使われるような看護婦静子(石田ひかり。相変わらずアップになると肌荒れてますね。)がその音を聞きつけて駆けつけ、生き残っている悟と出会う。そして重傷の1人を残して全員死んでしまった組の金を手に入れて逃避行する二人。しかし、「ひみつの花園」でもそうだったが、矢口監督はお金に人が振り回される話が好きなのだろうか。ここで手に入れたのは二億余りの大金。血で汚れたその金をなんとコインランドリーで洗濯、乾燥させるという、文字どおりのマネーロンダリングな描写はナイス。
どこかに出かけていて事故に遭うのを免れたチンピラども6人(ジョビジョバ)が、見舞いに訪れたただひとり生き残った組の若頭、黒岩(松重豊)から命令されて、悟から金を取り戻すために動き出す。この6人が一番弾けてて面白かった。手分けして探そうとかいうことを全く考えず、いつも6人でどやどや行動し、悟の部屋を見つけてちわーっすとばかりに入り込み「あ、俺んとこと間取りいっしょじゃん」と何気なくつぶやくアドリブ(でしょう!)がなぜか妙に可笑しい。そこから悟と静子が走り去るトラックに飛び乗って逃げるという、まさしくサスペンスアクションな展開で逃亡してしまうと、もうあっさり見つかんないでしょ、とあきらめて、ラーメン屋でまたどやどやメシを食ったりする。そのてきとーさ加減が何ともはやいいのだな。しかしまた静子がひったくられた金を追っかけて取り戻し、犯人を捕まえる様子をコンビニの防犯カメラに撮られてニュースに流れたことから(静子はそのために警察から感謝状までもらってしまう!)、小さな車にぎゅうぎゅう詰めになって(あくまで6人一緒なのだ)またどやどやと悟たちを追っかけに来るのだ。
ヤクザの患者に若手看護婦が次々に挫折する中、ベテラン婦長(角替和枝)だけが彼を上手く扱い、なんだかちょっといい雰囲気になったりする。そして300万出すから、という買収にあっさり応じて、まだ安静状態の彼と外に出てしまう。この角替和枝がいい。ひょっとしたら独身の設定かな?てきぱき若い看護婦を先導する老練な(とはちょっと言いすぎかな)看護婦さんが、ひょっとしたらアリかも、ってな感じで寄せる黒岩への好意と、それが裏切られた時の、置き去りにされただだっ広い道路で自販機を蹴飛ばす哀切感!いやー、上手いわ。
メガネを外し、髪を切り、服をかえ、どんどんキレイになっていく静子を目をまんまるくして見詰める悟=安藤政信がいい。彼は本当にはずさないんだよなあ。ただ今までの役柄はどこか根っこにシャイさや、内向的な部分が共通していて、それ以外の役を演じた時に、彼がどう弾けるかは未知数なのだけど、とにかく一生懸命に取り組んでいる感じも伝わるし、非常にここまでいい感じに来ている。ひったくられた金を追っかける時も、ヤクザやチンピラ6人が追っかけてきてガムテープでぐるぐるまきにされ、金を脅し取られたかに見えた時も、最初は悟が何とかしようと一生懸命がんばるんだけど、結局は静子の粘りや機転で(爆発、炎上したかに見えた金は、静子が悟にも言わずにバスタブの湯の中に移して隠していたのだ)乗り切ってしまう。最初から最後までキャラが変わらない悟と、自分の中の願望や本質を見事に具現化させて大変身を遂げる静子。でもそれは悟という起爆剤があったからこそ。ラスト、真っ赤なオープンカーに乗ってどことも知れず疾走する二人はなかなかお似合いなのだ。
……こうして書いてみると、破天荒な展開で、面白いキャラも多いし、……うーん、やっぱり面白かったのかもしれないと、悩んだりするんだけど……でもこれはやはりフィーリングなのだよな。私にとってはやっぱりうーむ……という感じなのだもの。なんだろう、間とかテンポとかのずらし加減がしっくりこないのかもしれない。絶妙さがない、とでも言おうか。★★☆☆☆
母親、と言っても、本当の母親ではない。しかも、正規の母親でもない。くだらない男に引っかかってヤリまくられたせいで子供が生めなくなった女優くずれの女(佐々木ユメカ)が、思いあまって乳児をさらってしまう。ソープ嬢をやりながらその子供を育てる女と、40にもなってコンビニでバイトをしている男(佐野和宏)との出会い。「ねえ、ナプキンないの」という女に紙ナプキンを差し出す男。「あたし、生理なのよ。これ使えっての」ちょうど生理用ナプキンがきれていて「この辺、生理の女が多いのかな」と一人ごちる男。この最初からして何かオカシイ。
この男と幼なじみとおぼしき二人の男(下元史朗、諏訪太朗)の三人は不良中年隊とも呼びたいバカ三人組。いつもつるんで諏訪はベスパ、佐野と下元は自転車にのって田舎の一本道をのんびり並走する。この三人を真正面から捕らえたショットは全く関係ないけどサブ監督「ポストマン ブルース」の堤真一、堀部圭亮、大杉漣の三人のショットを連想しちゃうよなあ。スピードは全然違うけどさ(笑)(しかも一人はベスパなのに!)。年をとっても性欲が全然枯れない、と嘆き?つつ三人でソープに行く。はい、性癖(文字どおりの)ご開陳。佐野はまあ普通だけど、諏訪はアナル好き、しかし尻のゆるい女に当たって顔の前でこかれて苦虫顔。一番強烈なのが下元で、(新聞勧誘の)スーツの下には大人用紙オムツをつけ、トイレでブリブリとその中に排泄し、赤ちゃんプレイとスカトロプレイで女をヘキエキさせる。この男、精神的に異常をきたしてきたのか、商店街の真ん中で服を脱ぎ、そのオムツいっちょの姿になって自転車で逃げ去ったりする(あれはひょっとして望遠で撮ってる!?)。ついには新聞勧誘先の主婦をこのヘンタイプレイでレイプし、捕まってしまう。バカなだけでなく、なんとなく哀切である。
さてさて、佐野は先の女とこのソープで再会するわけで。そして再びコンビニで会ったりしているうちになんとなくこの女の家にいつくようになってしまう。道端で急に“もよおして”セックスを迫る女に(通りかかった人がヤッてる二人に気をとられて交通標識に激突するのには爆笑!)こんな、露出狂のヘンタイ女が俺には似合いだ。という佐野のモノローグ。
一見穏やかに進むかに見えた日常がふと軌道をずれる。いつものように(!)卓球場でライバルとムキになって試合をする佐野。この卓球の場面は三人の不良中年隊がカケをしたり、やたら上手い子供に訓練を受けたりするので再三登場するのだけど、早回しを使ったりして妙に笑える。田舎の卓球場。うーん、グーだ!そう、そこで佐野のすっ飛ばしたラケットが子供の額に命中(ショットを決めたと思いきや、手にラケットがなく、あら?と言う佐野が可笑しい)。子供を病院に連れていった佐野に、女が狼狽して駆けつける。どうしてあたしに黙ってこんな所に連れてきたの、何かに書いた?指紋を取られた?男があきれて、ここは病院だぞ、なんで指紋を取るんだ、と言う。女のあまりのただならぬ様子に男は不審に思ってこっそりと部屋を捜索する。“乳幼児誘拐”の新聞記事の切り抜き。
男が本当の両親のもとに話しに行ったと思い込み、あせって車を走らせた女はくだんの大樹に激突、あっさりと死んでしまう。それから時は10年後に飛び、成長した子供=青年が誘拐事件を起こしている場面になる。誘拐したのは彼の本当の両親が彼のかわりに養女にした女の子。佐野は女のかわりに子供を精いっぱい育て、コンビニも店長へと昇格したが(しかしやる気なく、いまだ不良中年隊と店のスナック菓子を肴に座り込んで酒盛りしてるけど)いつしか青年も自分の出生を知るところとなり、荒れはじめてしまう。青年の行動を知った不良中年隊の佐野を除く二人が、青年の未来をおもんばかって、いや単にヒマだったのかもしれないが、彼の犯罪を横取りするような形で誘拐犯にすりかわる。現場から逃げおおせた青年を追って佐野が行くと、青年が佐野に銃を向ける。何で教えてくれなかった、なんで僕を育てた。父親面するな。あんたに僕の気持ちが判るか!二発、三発と足に銃を撃ち込まれ、話すつもりだった、と息も絶え絶えに言う佐野。そして胸に銃を撃ち込まれ、死んでしまう。青年は大樹へと車を走らせ、降り、根元に腰を下ろしてこめかみに銃を当てて引き金を引く。死んでしまう。
あれ?確か冒頭で青年はだれかに撃ち殺されたんじゃなかったっけ?確かそれは父親=佐野氏だったよなあ……と思っているうちに、その車で青年に股間に銃を発射されて殺された(と観客が思い込まされた)女の子がたんに生理になっていただけで目を覚ます。そしてふたたび大樹に車が着くショットとなり、そこからは若き日のあの女が、奪った赤ちゃんを抱いて大樹をまぶしげに見上げている。生も死も、時間も錯綜し、何から始まったのか、どう終わってしまったのかが全て人生の、あるいは輪廻の回転軸の中へと吸い込まれていく感覚。全てはここから始まり、そして全てはここで終わったのだと。どこかさわやかな、しかし切ない幕切れ。
全編佐野氏のモノローグと、それに合わせてセピア色した写真ショットが折々挿入されるのが抜群に効いている。特にかの青年がグレた時、テーブルにウンコしてそれを割り箸で拾う佐野氏の後ろで彼が反抗的な顔をしているショットは最高!大樹に真っ直ぐに向かって激突寸前で止まったり、反対に大樹からぐーっと離れていくカメラ、その一本道が道の果てまで続いていくショットといい、一体ここはどこ?と言いたくなる素晴らしいロケーション。こういうすっかり取り残された感じの田舎のロケーションが上手いんだよなあ、瀬々監督って。★★★★☆
現代のティーンエイジャー達の破滅的な姿を残酷なまでにリアルに描いていながら、このラリー・クラーク監督作品に(つまり前作である「KIDS」ともども)共通して感じられるのは、不思議とそうしたキレた感覚ではない。これが昨今跋扈しているいわゆる“ポスト・タランティーノ”何ぞと呼ばれている派とはちょっと違うところであるように思う。面白いことに、底流に流れているのは女性たちの母性の視線だ。「KIDS」ではそれがエイズにかかってしまった女の子一人が背負う形になって、どこか自己犠牲的な、納得できない部分を感じさせもしたのだけれど……いや今作でも、ボビーを必死に止めようとした少女、ロージーが結局死んでしまうし、やはり女性の自己犠牲的な表現は健在といえる。ただ、そこをフォローする大人の女性、シドの存在があることが大きく違う。いわば、“女性の母性の視線”の完全形を少女と成年の女性の連携プレーで見せた、と言える。
それはまた、ひるがえって言えば、男性の幼児性もまた提示しているのだろう。思えば「KIDS」の時だって、“処女食い”を自慢にしていたトンデモナイ主人公の少年の論理は、言ってみれば美味しいお菓子をいくらでも食べられる、とか、キャラクターカードを誰よりも多く集める、とかそんなレベルのものであったように思う。女の子はそんな少年の弊害にあって悩むことになるのだが、彼女の母性はまだ未完成で、彼はもちろん、彼女自身さえも救い出すことが出来ない。そういう意味では、今作は、監督の視線が少し柔らかになったのかな、と思う。
そして今作で見せる男性の幼児性は、最初、ケガしたボビーを救い出したことから父性をも感じさせたメルの方により多く感じることが出来る。一度“キレる”と手のつけようがなくなってしまい、すべての人を、ボビーをさえ疑ってかかって殺そうとしてしまうメルは、客観的に、冷静に考え直すことが出来ないという点で、まさしく赤ちゃんそのものの単純さだ。世間ではそれをクレイジーとか言うのだろうけど、何のことはない、成長してないだけの話なのだ。それはメルがキレた時の描写……大声を上げて足をバタバタさせる……に非常に判りやすく見ることが出来る。デパートなんかで、オモチャを買ってもらえなくて駄々こねてる子供そっくり!
主人公であるボビーを演じるヴィンセント・カーシーザー、初めてみるのだけれど、まあ、嫌になるくらいの美少年である。時々女の子に見えるくらいキレイな顔立ち。物語の展開上、何度となく裸になってロージーとヤリまくるのだけど、そのきゃしゃな頼りないガタイときたら!(お尻の穴をのぞきこむように映すのはやめて欲しい……なにか、毛が生えてるんですけど)まさしく少年の、ガラスの肉体なのだよなあ……。それを考えると、少女の肉体というのは、同様にきゃしゃで頼りなくはあるけれど、母となる要素……胸のふくらみ……はすでに出来上がっているし、実際にロージーは妊娠するのだから(流産してしまうけど)やはり、少年よりも少女の方が大人になるのが早いのだ。いや、少女は最初から大人だけれど、少年は最後まで大人にならないとも言える。“大人の男”というのは概念上の存在で、その理想を演じることすら、少年の快楽の一つなのだから。やはり、子供を産むという機能を持っている、それだけで少女は“大人になる”“大人にならなければならない”という重い十字架を背負っているのだ。だからこそ、女性が魅力を保ち続けることが男性に比していかに困難なことか……。
そう、そのロージーのナターシャ・グレッグソン・ワグナー、実にキュート!なんとまあ、ナタリー・ウッドの娘さんだとか。「ロスト ハイウェイ」に出てた?覚えてないなあ……。彼女がドラッグ中毒が直接の原因になって命を落とす場面、ベッドから落ちて頭を床に突き刺して膝をつき、お尻をたかくあげた格好でこときれているみじめな哀れさときたら……。
さすが貫禄の演技を見せる御両人、ジェームズ・ウッズとメラニー・グリフィス。あれほど強硬にボビーを殺そうとしていたメルを、ボビーを逃がした彼女が一発殴られるだけで抑えることができるのも、やはりシドのメルへの影響力を感じることができるのだよなあ。ロージーは死を賭してまでボビーを止めようとして出来なかったのに、やはり、シドは完成形の母性だ。オトナコドモなメルの変貌を楽しそうに演じるジェームズ・ウッズのハチャメチャぶりがオモロイ。★★★☆☆
大木監督自体はゲイではないと思うんだけど(いや、多分)。これもやっぱり、“地方の空気”が多分に作用しているんだろうなあ。照明の調節を全くしていないような、自然光をそのまま取り入れているんではなかろうかと思われるほどの、ひたすらに白く、やわらかな光が、スクリーンを通してでも眩しく感じられるほど、ハレーションを起こして画面が真っ白で見えなくなるのも気にせずに映し出す(後半、ちょっとそれは落ち着くんだけど)。
電車でいっしょする青年を追いかけた男の子がタイトルの言葉である「あなたがすきです、だいすきです」と告白する冒頭でいきなりひきつけられる。古ぼけたアパートが林立する間の小道を軽くキスして二人して歩き出す男の子二人、同棲相手が「ノンケの男に告白するなんて」と愕然とし、その相手に会って同じ台詞を(まるでその言葉を返却したように)繰り返す男の子、その場面を見た当事者の彼と、小さな商店街のある田舎町をおっかけっこする、原っぱでシーツをかぶって寝転ぶ、等々なにか、非常にリリカル。
そのゲイの男の子達が妙にオネエ言葉なのが気にならないでもないけど……。その男の子の先輩格のゲイのお方が全くのオネエさまで、その部屋に貼ってあるポスターはグレッグ・アラキの伝説のハード・コア・ゲイ・(ロード)ムービー(っつっても私は観てないけど)「リビング・エンド」ではないか!そして飾ってある花は水仙。……うー、まさしくナルシス、ナルシシズム!★★★☆☆
と歯噛みするほど、劇場内はガラガラなのである。もう!めっちゃイイのに!……というわけで私はしっかり二回観て、このケチの私が久しぶりにパンフレットを買い、いろんなシーンを思い返してはニコニコしているのだった。しかし、大林映画は宗教だ。はまる人はものすごくはまる。監督をもひっくるめて大好きになる。監督のキリスト様みたいな、仏様みたいなあの笑顔と独特のエロキューションにノックダウンさせられてしまう。宗徒達にとって尾道はまさにメッカ的な聖地だ。必ず一度はお参り(旅)する。しかし信仰していない人たちにとって大林映画や監督が苦手だったり鼻についたりするらしい。うーん、それもなんとなく判る気もするんだな。大林監督の臆面もないファンタジーの描き方なんかは特に、相当ハマって観ないと、身悶えするほど恥ずかしい部分もある事も事実。しかしそれはいつでも驚くほど実験的精神に満ちていて、その勇気には驚かされるのだ。
佐藤忠男氏が「こんなにいい人間ばかりで果たしてドラマになるのだろうか」という、大林映画には顕著な部分を偽善的にとらえて嫌うむきも多いようだ……確かにね。異様に楽天的な、現実味のなさは否めないものがある。しかし、そんな監督やそんな映画が一方であってもいいじゃない、と大林宗徒の私は思うのである。ま、そのせいで文部省選定なんていう、宣伝には逆効果にしか思えないこっ恥ずかしいお墨付きまでもらっちゃってるわけだけど、このいい人ばかりが奏でる、愛らしい物語が、他ならぬいとしい街、尾道で展開されたら、もう私はパブロフの犬状態なんだから……
とは言うものの、私は尾道映画の中でただ一つ、前作である新尾道三部作二作目「あした」だけはどうもいただけなかった。ヒロインである高橋かおり、大林監督のジャン・ピエール・レオーとでも言うべき(と言ったのは誰だったか、まさに言い得て妙!)林泰文、両者の役者としての成長ぶりには目をみはるものがあったけど、たくさんの登場人物のそれぞれ全てに時間を割りふろうとして、散漫な印象になってしまっていたし、なにより、そのほとんどのシーンが幽霊船が現れる夜に集中し、尾道の魅力である小道や坂、そこからのぞく切り取られた愛らしい海などがちっとも堪能できなかったものだから……。新尾道三部作第一弾である「ふたり」が私にとって、すべての映画の中で一、二を争うほど大好きな作品だっただけに(この作品を観て、尾道にも足を踏み入れたのだよ)失望感は大きかった……。
しかし!本作で、尾道は夏の光を取り戻したのだ!……そうだ、尾道は、すべての季節の中でやはり夏が一番良く似合う。気が遠くなるほど暑くて、入り組んだ小道の影すらも照らしわたしてしまうほどのピーカンの夏。実際、ピーカン待ちが行われたという本作の撮影、監督の記憶にある、夏中ピーカンだった幼い時の尾道とは違って、やはり現代の夏は大気中の成分の違いのせいか晴れの日が非常に少なかったということだけど、この、まるで作り物かと見まごう様な青空と入道雲に、永遠の夏休みを感じて心がぎゅっとなってしまう。
そしてその中を小林桂樹扮するおじいちゃんと、孫のボケタこと由太が手をつないで空を飛ぶ!目を閉じて、息を止めて「マキマキマキマキマキマショウ、マキマキマイタラユメンナカ、マキマキマキマキマキマショウ、マキマキマイタラヤクソクネ」という、映画館を出る頃にはすっかり口ずさんでしまう、このキュートな呪文を唱えて。しかもこの臆面もない空を飛ぶ描き方がなんともはやいい。いわゆるハリウッド式CGなんかだったら、もっと自然に“らしく”空を飛ばせることくらい可能だろう。しかし、この飛び方がいいんである。空をバックに折り紙を動かしてるみたいな。そしてふんどし丸出しにして平泳ぎの足で突き進む小林桂樹!あー、もうたまんないね!
物語はこのおじいちゃんの、幼き頃の心残りを由太が共に旅をするという展開。子供であるということももちろん、いつも「どうしてかなあ」と考えている(うー、めっちゃ可愛い!)ボケタこと由太が現代のスレた子供とは全く別の地平にいるからこそ、おじいちゃんの世界に入り込めるのだ。ラストでおじいちゃんは死んでしまい、後を追うようにしておばあちゃん(菅井きん)も死んでしまう。お見合い結婚でおじいちゃんと一緒になり、好きだ嫌いだと考えたこともなかった、というおばあちゃんだが、その実、だれよりもおじいちゃんを理解し、愛し、おじいちゃんの幼き日の切ない恋と、その心残りを知っているようだった。長恵寺の弥勒様の小指が見つかったことをおじいちゃんに知らせる時の、おばあちゃんの感極まった泣き顔で、それが判るのだ。おじいちゃんと一緒に空を飛べなかったおばあちゃんが、死んで後、由太の前に、おじいちゃんと、おじいちゃんの初恋の相手で11歳で死んでしまったお玉ちゃんと一緒に手を繋いで空を飛んであらわれる、そのすがすがしさと切なさ。
今まで尾道映画を数多く作ってきた監督が、今回初めて尾道弁で映画を彩った。今まで尾道を舞台にしていながら、標準語だったのだよなあ、気にならなかったけど。でもこの尾道弁がまた、なんともはやいいんだ!特に年配の、おじいちゃん、おばあちゃんから聞こえてくる時。もちろんネイティブな訳じゃないんだけど、やはり若い人が喋るよりずうっと味がある。都心からこの尾道に遊びに来た由太が、帰る頃にはすっかり尾道弁になっているのも嬉しくなってしまうじゃないか!
もおお、ほんとにこの由太、かわいすぎる!思慮深くて、心細やかで、優しい子。寝間着にしている大きなTシャツの袖から首を出したりするのさえ愛しい。笑顔の練習したり、おじいちゃんにすいかの種を飛ばされたりする時の、絶妙の表情の変化。舌足らずなその口調。そしてこれはもちろん小林桂樹の力もあるであろう、おじいちゃんと一緒の時の彼が、とにかくキュートなのだ!あー、もうこの子を見てると、子供嫌いの私も男の子が欲しくなってしまう!尾道の陽光に照らされて、ずんずん日焼けをしていくのもいい。文化系っぽい子なのに、なんでこんなに自然の中を駆けている様子が似合うのだろう……。そしてこれはこの子だけじゃなくて、劇中に出てくるミカリ(勝野雅奈恵。そう、勝野洋&キャシー中島のお嬢さん。そのスクリーン映えはなかなかいい感じ。しかもスゴイダイナマイトボディーだ!)もそうなんだけど、汗をかいている様子をちゃんと見せるのだよね。それがとても夏を感じさせて、ちっともうっとうしくなくて、逆にさわやかなのだ。うーんやはりこれは若さのなせるワザか!?
由太のお母さんを演じる松田美由紀が相変わらずいい。ほんとにこの人の可愛らしさ、たまらなく好きなのだよなあ。このお母さんと恋愛&出来ちゃった結婚したという嶋田久作、大林監督にかかるとその異形の風貌が優しいいい人になってしまうこの不思議。そして登場場面は少なかったけど、由太のお姉さん役で新人の佐野奈波、シャープな美少女ぶりがそそられる。今後に期待したい女の子。大林監督作の常連であり、「青春デンデケデケデケ」で絶妙の夫婦役だった根岸季衣とベンガルがここでも“白玉だんごを食われる家の妻”“白玉団子を食われる家の夫”としてチョイ役ながらしっかり夫婦役なのがたまらなく嬉しい!
「ふたり」や「はるか、ノスタルジィ」の時にはこれ以上の人はないと思った久石譲が大林映画から離れたが、大林監督のペンネームである學草太郎が音楽担当となって、あ、このほうが良かったかもしれない、と思う。久石譲氏に通じるような、ノスタルジックでメロディアスな部分を持ちながら、これはこの人にしか出来ない、臆面もなく(またこの表現が出てしまった……もちろんいい意味で、ね)さわやかさを歌い上げる、主題歌や挿入歌。おじいちゃんと由太が空を飛ぶ時に女声コーラスで歌い上げられる「あの、夏の日」など、やってくれるわ!と思うほどの究極さ。できないよ、普通ここまで……。なにか最初から文部省選定ネライなんではないかと思うほどだもんね。
また尾道に行きたくなってしまった……。自分たちの街を、こんな映画にしてくれる監督がいる尾道の人たち、幸せだよあんた達あ!★★★★★
健さんと安藤昇(多分。……しつこい)がけんかする場面をトウモロコシをかじりながら楽しそうに観戦するたっつあんがかわいい。そう、この人がこんなにかわいいとは思わなかったなあ。やんちゃ坊主のようで、会話のリズムの軽さもひたすら可笑しい。たっつあんと健さんがちょっと物事が込み入って頭が混乱すると「頭がもつれてきやがった」という独特の表現をするんだけど、それがラスト、たっつあんが裏切り者の仲間によって受けた傷で(その後安藤昇がたっつあんにナイフを握らせてその男を殺させるあたりが泣かせる)死んでしまう時「……これでやっと頭のもつれがとれたぜ」と言わせるところがいいよなあ……。
そうそう、脱獄前、網走刑務所内での描写も面白かった。新入りの42番として入ってくる健さん。牢の中はもういっぱいになっていて、牢名主によって病弱な男と新入りの健さんが始末されることが決められる。せき込む男にぬらしたちり紙で窒息死させようとする男達をぶん投げる健さん。牢名主が健さんを天井高く持ち上げるけど、落とされた健さん、すかさず牢名主を羽交い締めにして形勢逆転、いとも簡単に地位が交代してしまう。ここですっかり恐れ入った元牢名主と牢獄の男達が自分の罪状を得意げに披露するのだけれど(強盗、殺人、処女暴行(ただ暴行じゃなくて、処女暴行っていう罪名があるんだろうか……)前科13犯、刑期20年。などと)、健さんは特に挨拶せずにさっさと寝てしまう。健さんに元牢名主が「罪状をお聞かせ願えませんか」(妙に低姿勢なのが可笑しい)と言うと、健さん一言「国家機密漏洩、脱獄、殺人、無期懲役」と言ってのけ、それまでの男達の恐ろしげな罪状がたちまち矮小なものになってしまう迫力。
囚人たちのリンチが趣味の所員が杉の木を倒す作業で健さんを木に登らせ、ゆすって木を倒せという。にやにや笑いながら木の上の健さんを眺める所員と告げ口した囚人の足の後ろに、健さんを支持する囚人たちによって木片が埋め込まれ、倒れてきた木から逃れようとした彼らは後ろにけつまづいて重傷を負う。その一連の細かいカットの連続がまさしくドキドキワクワク!
窓一つない牢獄に一人入れられる健さんはそこで自分と自分の父親の過去の鍵を握るロシア人に出会う。13年もその牢獄に閉じ込められ、死んでいくその男マルコフの棺桶に隠れ、脱獄を試みる健さん。すんでのところで冬のオホーツク海に投げ入れられるところで(というか、実際に棺桶が崖を落ちていくシーンを先に見せてから運び人(最初に健さんに助けられた病弱な男)と健さんが二人並んで座っているシーンになるから一瞬ドキッとしちゃったよ……いくらなんでも冬のオホーツク海から脱出はキツイ……)何とか声に気付いてもらい網走からの脱出成功。んでそこから西部劇よろしく革のつなぎに身をつつみ、馬を走らせて雪野原を走り回るという映画のスクリーンに実に映える展開。雪の上での決闘では湿り気のない雪のきゅっきゅっとした感触が伝わってくる。それにしても吹雪の中でのシーンは寒そうだ……。★★★☆☆
近頃何かと倦怠期気味の熟年夫婦、夫は便利屋を営むラッキー(ニック・ノルティ)、妻は往年の映画女優だったフィリス(ジュリー・クリスティ)。この二人には子供がいないのだが、実はかつて娘がいて、ラッキーとの間の子でないことを彼が知った時に取り乱したのを彼女が目撃、それっきり家を出て帰ってこないのである。一方、子供が欲しくてたまらないのに夫にその気がまるでないことに苛立つ妻、マリアンと、前述の熟女好みの夫、ジェフリーの若者夫婦。最初に接触するのは、マンションの内装にこの家を訪れたラッキーとマリアン。マリアンは子供が欲しいっつーよりも、ただ欲求不満なだけなのでは?と思うほど、労働者の筋肉を盛り上がらせているラッキーを一目見た時からどうも挙動がおかしい。一方のラッキーも、娘が出ていって以来、妻の希望により彼女との性生活はごぶさたなので、結構あちこちで遊んでいるらしく、マリアンの欲望にも敏感に反応する。ミニのタイトスカートでブラウスのボタンを余計に開け、実に判りやすいポーズで誘惑……いや違うな、もうヤリたいんだけど……てなソワソワ態度でラッキーに近づくマリアンが笑える。このマリアンに扮するララ・フリン・ボイル、ちょっと久しぶりですね。まあ、この、しなるような肢体を見よ!驚くほど細く、しかも長身。とくにぴったりとしたニットの上とパンツスタイルの彼女はまるでヒョウのようにしなやかで美しい。彼女の美しさを見るだけでもちょいと価値ありですよ。いやほんと。
一方のジェフリーとフィリスはというと、双方ともに夫、妻を探しに行ったリッツホテルのバーで出会う。というより、ジェフリーがフィリスを見初めて引っかけたんだけど。このジェフリーという男、「それなりの男」などと自称し、熟女好みの自分を上質の女を好むゆえだと思ってるらしいけど、なんのことはない、コイツはただのマザコンである。子供を作らないのだって多分そう。子供に子供は育てられないという単純な理由。しかし、フィリスに惹かれた彼の審美眼はなかなか確か。フィリスは映画界時代の仲間で娘の本当の父親だった男性が(彼は知らないままだったが)死んでしまったこともあって、いつも以上に物憂げ。一人バーで酒をあおっている彼女は年を重ねた女性が醸す、まさしく“上質のワイン”がごとき美しさで、まさにはきだめに鶴である。ジェフリーはぞっこん惚れてしまって、仕事の旅行のパートナーにまで誘う。そこで彼と関係を持ちそうになるも、ふと我に帰ったジェフリーが部屋を出て行く時「いいのよ、気にしないで」と笑って送り出すフィリスの哀しそうな笑顔も胸をつく美しさ。
ラッキーとフィリスはたった一度だけ来た娘からの手紙(それはもう二度と会わない、という内容だったけれど)の消印だったカナダに移り住んでいる。しかしあれから八年、娘の消息は杳として判らない。フィリスは橋の上を歩いていく娘を観たというが、情緒不安定気味の彼女の言うことをラッキーはにわかには信じがたい。しかしそれは本当だった。ラッキーもまた、橋の上に娘を見つけ、大急ぎで追いついて許しを請う。「キャシーだろ?美しくなった。どうか許してくれ」娘は一言も発さない。……
お互いの関係がバレる時がやってきて、やや強引にお互い元の相手と引き戻されるが、ぎこちないままの日々が続く。若者夫婦の方は、突然夫がたまった欲望を吐き出すように妻を抱くものの、間違いをおかしてしまった、と言って妻を落胆させる。この場面、ソファからテーブル、また向かい側のソファへと、発情した犬のようにコロコロと転がりながら性急にセックスする二人をコマ落としで描写し、もう最初から実のある(意味のある)セックスではないと、突き放したブラックユーモア。コマ落としといえば、マリアンがラッキーを迎えるために部屋の中のものをいろいろと移動している場面でも使われており、この若者夫婦、特にマリアンは徹底的におちょくられている感じ。
このマリアンが子供を身ごもる。夫とは別居状態だが、彼女はこの子供が夫との関係修復につながると信じていて、穏やかな笑顔を見せている。一方の熟年夫婦は情緒不安定が頂点に達し、ちょっとゾッとするほどの顔で泣き叫ぶ妻を夫が優しく押しとどめているところに娘が帰ってくる。ベールごしに両親をじっと見つめる娘。双方ともに子供が夫婦の、そして家族のまさにかすがいとなって働くように見えるも、映画はそこでカットアウトとなり、実際にそうなるかは判らないままに終わる。マリアンの子供だって、本当にジェフリーの子かどうか…ラッキーの子かもしれないじゃないか。…そこに残るのはもてあましたままどうしようもない、大人の子供のような感情、それはただ滑稽なだけのようにも見え、ひたすら哀しいようにも見える。複雑な味わいはまさにワインか。
幾何学的ともいえるほどに計算ずくに構築される人間の交差、その舞台劇のような展開。音楽の使い方がちょっとおもしろいのだ。すべてがコンピューター制御されているかのような若者夫婦の家で、マリアンがセックスを盛り上げようとかけるムードミュージック、ロックやら、それを阻止しようとするジェフリーのクラシック、がボタン一つで変わっていく。そのBGMかと思いきや、この映画自体のサントラだったり、その逆だったり、観客を完全にはぐらかす。しかし基本としては陽性のジャズが全編を覆い、これが素晴らしく心地良い。★★★☆☆
美都子(板谷由夏)が怒鳴ってタモツ(小林宏史)が食い下がるというこの夫婦、けんかばっかりしてそうだけど、最後まで見ると本当に、これぞいい夫婦じゃないんだろうかと思うぐらい、とても素敵。奥さんの美都子は気が強いなんてもんじゃなく気が強くて、プロレスの間接技が得意だという(二人の出会いがプロレス研究会!)、離婚に納得しないタモツの指を間接技でキメてハンコを押させたというつわもの、一方のタモツは売れないけれど腕はありそうなフリーカメラマンで裁縫はじめとした家事一般が得意。
こうして見ると完全に尻にしかれていそうで、タモツの打たれ強さに、あ、違う、この夫が掌握しているんではないかとふと思い当たるのだ。優しさによって妻を掌握する夫。優しさは最大の強さだなー、情けなさと非常に混同しやすい、いや、実は情けなさもおおいに入っている。でも情けないって、実はこんなにカッコいいことだったのかというか、タモツが一見して情けなく見えるのは女に執拗にすがっているように見えるところにあるんだけど、蹴られても技決められても絶対に諦めないところに、タモツのカッコ良さがあるのだ。
美都子は一度口に出した意地からタモツを決して許さないと言い続けるんだけど、だんだんとタモツのことを本当に好きなんだなあということがとてもよく伝わってきてニコニコしてしまう。本当に嫌いだったらただ冷たく無視するだけだろう。彼に対して意地になるのも怒るのも、彼を好きだから。可愛い女性だよなあ。その辺までタモツがちゃんと判っているところもニクイ!
離婚騒動の原因になるタモツとマユ(辻香織里)の関係は、実は私にとってはとても魅力的だった。美都子が「絶対に肉体関係がある」と疑うのも一般的な解釈としては当然かもしれないけど、「異性としての魅力はあると思うけど、でも本当に友達関係」っていう感覚、私は絶対にあると信じていたいところがあるから。というか、こういう感覚はむしろ男性に求めるのは難しいのかなと思っていたもんで、男性である大谷監督が脚本もつとめてて、男性キャラにそれを言わせるというところが、とても嬉しかった。マユがちょっとタモツに惚れているというのもいい。そしてそれでもお友達、それが素敵なのだ。完全にストイックにお友達だと言い張らないところがとてもリアル。マユの奔放さもいやみにならない可愛さ。
それにしても大杉漣氏のはしゃぎぶりはどうだ!いろんな役をやる人ではあるけど、こんな大杉さんははじめて見た気がする。娘ほど年が違う妻にまーくんと呼ばれ(!)彼女の前ではかなり幼児化する。トイレから出てきた時お尻をぺろんと出していた時にはもう本当にウケてしまった!「小さな頃からズボンぬいで入るんですよ」って、なんだそりゃ!その場しのぎの嘘で美都子から好きだと言われて「ドキドキしたなあ」と美都子の太股に手をやり、それを戻されること2回、胸に手がいったところで美都子に手を間接技でキメられ、それでも懲りずにもう一度トライしてまたまた間接技に「ギブアップ、ギブアップ」という大杉さん、可笑しすぎだよ!
監督のインタビューによれば、小林宏史氏はタモツの役には抵抗があって「女なんか、一発で押し倒してそれで終わりなんだから、なんでこんなに俺が頭を下げなくちゃいけないのか」という男っぽい人(そういうのを男っぽいっていうのか?)だそうだが、そんなことを思っていたとは考えられないほどタモツにはまっていた。それにそれがとても魅力的で。繕いものやちょっとしたおつまみを作る時の包丁さばきなどの手際が非常にサマになっていて、まさしくタモツそのものなのだ!美都子さんにせまるたびに再三間接技をキメられて「ギブアップ、ギブアップ」と床を叩く可笑しさ!ああーなんともはや、素敵な映画が現れてしまった!★★★★★
だから、何でヒューホみたいな軽薄ヤローとコンビ組んでんのかなあと、最初は思うわけだ。好きになった女の子と普通に恋愛すればいいのに、なんて。実を言うとその答えは最後まで明確に出ることはないのだけど、でも、ヒューホもまた、ガーフを好きでたまらないこと、そして後述するラストで、ああ、この二人でいいんだ、と思えるのが不思議。
上手くいっていた二人の生活が、ララの出現で軌道を外れはじめる。思いっきりクールで、会話の続かないララに、はじめ手を焼いていたガーフなんだけど、エッチもせずに一晩中おしゃべりして、彼女にとことん惚れてしまう。シベリアから来たという、黒髪に黒い瞳、特徴のある発音で(英語を)喋るララは、見るからにエキゾチック!最後の最後まで何考えてんだか判んないのに、確かにたまらなく魅力的で、私も彼女にノックアウトされてしまった!オランダ語は判らないはずなのに、天性のカンの良さなのだろう、ヒューホの言わんとするところを鋭敏にキャッチする。ヒューホをファック・ボーイと命名し、ガーフとは絶対に寝ないのに、ヒューホとは何度もセックスするララの真意ははかりかねるのだけど、なんとなく判る気もしたりして……それぞれの人間性をよーくとらえた対処法とも言えるかも。
ガーフがララをシベリアに帰してあげるために、といままでためた金の分配を言い出したことから、ヒューホとガーフの仲が崩れはじめる。最初に15ヶ国の女の子をひっかけた方が全額取るというカケにのり、せっせとナンパに精を出すガーフ。その間にしまくるヒューホとララ。ララの底知れない魅力に惹かれながらも、彼女にゾッコン惚れているガーフの気持ちを思うとやり切れず、カケにも身が入らないヒューホ。そしてその気持ちが爆発しララを殆どレイプ状態でファックしてしまうヒューホ。……ララは部屋を出ていく決意をする。その直前、ヒューホとは全然違う優しいセックスをガーフとしたかと思うと、そこで自作自演の腹上死の狂言を仕掛けるララ!ガーフがうろたえてヒューホに助けを求めて出ていっている間に彼女は行方をくらましてしまうのだ……二人の金を奪って。
実はある時点でガーフはララとヒューホの関係を知っていた、というのがミソ。ガーフもまた、騙されっぱなしではなく、ララの奪った金を言葉巧みに奪いかえし、ララを煙に巻く。しかししかし、それでもまだ彼女にホレてる、というところがガーフのガーフたるゆえんなのだよなー!“シベリアで会いましょ”という彼女のメッセージに喜んで、ほんとにシベリアに行っちゃうラストシーンは最高!ちゃんとヒューホと共に、ララと名づけた犬つきだ。どこまでも白い白い世界に、寒そうながらもはしゃぎまわる二人。もはやララを探すとかいうのはどーでもよくなってるあたりがイイのだ!ヒューホはやっぱりガーフの最高のパートナーなんだよなあ……どんなことやらかしても、彼の気持ちをいつもいつも気にしてるんだもの。一番ガーフに惚れてるのは彼かもしれない。
モノクロで光の露出オーバーの画面を折々挿入してくる意図がはかりかねるなあ……ま、意図なんてなくて、ただたんにビジュアル的なリズムをねらっているんだろうなと思うのだけど、なんか、かえって逆効果な感じ。だって、アムステルダムの街の描写がビビッドな配色で魅力的なのに、そのインサートでそちらのリズムが壊されてしまうのだもの。この色彩のガッとしたパワーのまま突き進んでくれたらもっとトンでたと思うのだけど、妙に手練を発揮しようとすると裏目に出るのだよ。
フランス語みたいな独特の呼吸の入ったアクセントのオランダ語が新鮮。街の色合いとひしめきあいがオモチャ箱みたいだ。……一種こうした現実ばなれした街の風景が、ヒューホとガーフのような奴等をもまたゲーム的な要素として許容するフトコロがあるのかもしれない。ソフトドラッグや売春が合法であるというアムスに来る女の子達がこの二人に声をかけられてついていくという時点で、そうしたゲーム性を理解して楽しもうとしていると言えなくもないからなあ……。ま、なんにせよ、この設定ながら、不思議なほど嫌悪感がなかった。純粋に楽しめた作品。★★★☆☆
超ミニ、ボディコンのおそらくこれがAYAKOさん、首と右足にギブス、片腕を三角巾で吊り、松葉杖をついているというおっそろしく痛々しい格好で病院の玄関で看護婦さんに見送られる。何度も何度も振り返ってお辞儀をしつつ、ゆっくりゆっくり家路へと向かうAYAKOさん。小さな駅につき、松葉杖を取り落として切符を買うのに往生していると、一人の男性が助けてくれて切符を買ってくれる。そこから何か発展するかと思いきや何もなく、男性に丁重にお礼を言って(いるんだろう。声は聞こえない)改札を抜ける。階段を上り下りするのも異常に時間がかかり、危なっかしい。彼女の、むき出しにされたこれまたおっそろしく美しい左足に目が行く。スカートの中までのぞけるくらいなめるように撮るカメラ。そして彼女はなんとか電車に乗り、駅に着く。
途中コンビニに寄って買い物を済ませてくる彼女を外から眺め、道端の自販機でエロ漫画雑誌を買い、小さなアパートにたどり着く。さすがに疲れた様子で茫然とへたり込む彼女。やがてカップラーメンを食い(ギブスに麺が触ってる……)カール(あのスナック菓子の)を食い、ほっと一息。エロ漫画雑誌を読みながら自慰行為にふけるAYAKOさん。果て、そして映画は終わる。
ほんとにただただ退院してきたAYAKOさんを撮り続けているという、しかも30分かけて!なんなんだ、なんなんだ、これは?という不可思議な作品。ただやはり緊縛師、ダーティ工藤監督の作品なので、オナニーしている彼女のショットと彼女が緊縛されているモノクロームの映像をカットバックするところがあって、彼女がエロ漫画ではなく、自分の縛られているのを想像しているかのようにも取れるあたりは面白い。その緊縛シーンは、窓を開け放しにし、小さな扇風機がけだるげに回っている畳敷きの、これまた小さな部屋に縛られて放り投げられるように横たわっている(おそらく)AYAKOさん、というもので、息苦しいほどの暑い夏の午後に……なんていう想像をかきたてられる。想像をかきたてられるといえば、彼女がなぜこんな大怪我をしたのかなど全く語られず、こんな大怪我で家に帰るのに迎えに来る人すらいないというのもなかなか興味深いのである。
しかし……これカメラが不安定すぎなんだよなあ……特に駅の構内の階段を追うカメラが、彼女の下半身のショットを執拗に収めようとするあたりでやたらと揺れ、私はすっかり酔ってしまって具合が悪くなってしまった。ドキュメンタリータッチを狙っているのかもしれないけど……キツかった。★★☆☆☆
いつも「いつかでかいことをやってやる」てな事を言って妹に金を借りてばかりいる太郎。兄を心から愛している妹は、真人間になってもらいたいと切に祈っている。兄もまた、妹に楽をさせてやりたいと思うからこその一発逆転人生を狙っている。一応太郎に惚れているストリップ嬢もいるし、太郎もその女性と暮らしていて、妹とその女性は共に太郎を心配しているという“同士”なのだけど、この妹と兄の関係は、特別だ。勿論プラトニックだけど、この世でたった一人の兄と妹同士で、他人が入り込めない絆で結ばれている。昔の日本ってこういう兄妹がいたんだよね、確かに。あ、でも現代でも市川準監督の「東京兄妹」なんか、まさにその世界だよなあ……ま、あれは、かなり時代を超越してたけど。
大きくクレジットされているからワクワクしながら待っていた清川虹子と宍戸錠。いつまでたっても出てこないから、まさか随分顔が違うけど、あの人がそうかしらん、などと、他の出演者の顔をまじまじと見つめてみたりして。ただ単に、特別出演の色合いが強いだけでした。もう物語りも後半になってようやっと登場。清川虹子はその地域で一目置かれている女任侠道のボス。対立する二つの組を自らの手打ちでいさめようとする。殺されちゃうとはいえ、ドスのきいた(声も!)女ボスの度量は圧倒的で、カッコいい。宍戸錠、それはないでしょう!というくらいのチョイ出ながら(セリフもほとんどない)、その存在感たるや!付き従う組員たちの後ろ、カメラのピントもあっていないようなところで不気味にゆらゆらと首を動かし、それだけで不穏な空気を観客に予告する。……さすが!そして清川虹子をバッサリ!やってしまうのだ。
この悪行三昧のすみれ組を見兼ねて(だって、くだんの太郎も殺されてしまうんだから)彼らと対立する組の鉄五郎(葉山良二)とともに斬り込みに行く鬼頭。まさしく「昭和残侠伝」シリーズさながらの、二人並んで、そこに小林旭の歌うテーマソングが流れるというシーン。葉山良二は常に着流しだけど小林旭は結構洋装もしていて(このシーンではどっちだったっけ……)ま、その顔立ちと上背だから似合うんだけど、小林旭もやっぱり着流しがバツグンなんだよなあー。★★★☆☆
ま、全くなかったといえば嘘になるが、そうした感情を呼び起こす前に、周到にめまぐるしくカットが変わっていって、陶酔的なそうした国粋主義が意識的に排除されている感じがしたのだ。これは泣きの場面でもそうだったけど、こっちが感情移入しようとする前に軽くかわして次に行ってしまうようなところがあって、このマイケル・ベイ監督、照れ屋さんなのかもしれない……と思ったりして(まだ35歳!……若いのね)。
とはいえ、そのためにあまりにカットが割られすぎて、めまいを起こしそうになって訳が判らなくなってしまうけど。特に宇宙に打ち上げられて、燃料が漏れるところからはじまる一連のパニックは、画面がめまぐるしすぎて何が起こってんだか訳が判らない。ゆえに画面は忙しいけどこっちはちょっと退屈してしまう。それはこの映画の主軸となる宇宙での掘削場面でも同様。危機感を味わう前に、どういう状況になっているんだか判らないのだ。
ま、それは単に私の頭がノロいからそうなのかもしれないけど。どっちにしろ、この映画をそんな感動だけで語るのはもったいないし、何より間違ってるぞ!全体に横溢している、若々しいテンポに満ちたユーモアを語って欲しい。街の破壊が描かれる寸前にゴジラグッズを売ってる路上の男性を描いたりする、パロディ感覚も好きだし、前半の、石油掘削場での、ブルース・ウィリスとベン・アフレックのおっかけっこなんて壮大なスラップスティック、とにかく可笑しくてたまらないスティーブ・ブシェミと扮する天才地質学者と、巻き舌のロシアなまりがそこはかとなく可笑しいピーター・ストーメアの二人のキレ具合!(「ファーゴ」の二人かあ!)このピーター・ストーメアがやたらとロシアのことを持ち出して来るのもおかしいし、宇宙船内で修理をしてる時に「部品はアメリカの宇宙船もロシアのも台湾製だ」とか言う。台湾製というのが妙に笑える!危機的状況にある宇宙での掘削場面で緊張をほぐしてくれるのは、この二人のおバカさ加減にあるのだ!
多分アメリカではその映像とテンポの良さでお祭り騒ぎ的なヒットだったと思うけど、日本ではその少ない感動場面にだけ絞ってヒットしているというあたり、お国柄ですな。
んで、周到にアメリカのリーダーシップ主義を避けているとはいえ、最初から各国と相談しろよ、とか、ついでみたいに“フランスや日本とも”なんて言うな!とか、モスクにひれ伏す中東の人々の描写があざといとか、爆破される上海のアナクロい描写が笑っちゃうとか、まあやっぱり言いたくはなる。
ただここで良かったのは、いままでは大統領はヒーローで、その決定が人類を救う、てな展開が多かったのが、この作品では、大統領が早まった命令を下し、それを必死に軌道修正する、というくだりがあったことだ。ここで悪者になるのが黒人軍人だというのは少々時代遅れだが、管制塔で奮闘するビリー・ボブ・ソーントンがカッコいいから許す!(うーん、「アポロ13」のエド・ハリスを思い出す!)
ラスト、犠牲になるブルース・ウィリスは、ま、そうした一連の展開はあまりに読めすぎるものの、なかなか渋かったし、ベン・アフレックと「愛してるよ!」の相互攻撃は、ちょっとこいつらアブないぞ……とは思うものの、結構魅せた。でも立ち直り早いよなあ、ベン・アフレックが到着する頃にはリヴ・タイラーは父親の死はどこへやらの満面笑顔だし、その後すぐハッピー・ウェディングの描写とは……。それに、ブルース・ウィリスの最期にはあれだけ泣かせにきといて、他のメンバーの死にはえらくあっさりしてるのって随分じゃない?
いやあ、それにしてもやかましい映画だった。どこの劇場でもそうなのかなあ。音響で騙されているような気がしないでもない、あれじゃ耳が壊れちゃうよ……。★★★☆☆
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