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「て」


2000年鑑賞作品

ディナーの後にGIRL’S NIGHT OUT
1998年 105分 韓国 カラー
監督:イム・サンス 脚本:イム・サンス
撮影:ホン・ギョンピョ 音楽:ムン・ジュンホ
出演:カン・スヨン/ジン・ヒギョン/キム・ヨジン/チョ・ジェヒョン/ナム・ミョンチョル


2000/2/9/水 劇場(キネカ大森)
あまりにもあからさまな性に関する会話と、キワドいセックス描写に、これがいわゆるコリアン・エロスモノかとひきかけたものの、いや、これは女性のセックスに関するディスカッション映画だ、と思ったら俄然面白くなった。幅広い世代の女性からのアンケートを元に作り上げられたという脚本は、(確かにこれをこの男性監督だけが考え出したのだったらちょっと異様だ)おそらく役者三人の現場でのアイディアや、アドリブも加味し、よりリアリティを感じさせるバツグンに興味深いものになっている。三人はそれぞれ個性的だし、当然全部の意見に共感できるわけではないのだけど、何といっても生々しいほどの女性の性の本音は、男性のそれとは違ってナカナカ聞く機会を得られなかったことに改めて気づく。これはそういう意味でほんと画期的な作品。

恋人がいるにもかかわらず、自由にセックスを楽しむデザイン会社の社長であるホジョン、一人の彼だけとセックスし、結婚を夢見るけれど、いまだ絶頂感を感じたことのないヨニ、セックスには興味津々で、キワドい会話を率先して話しながらも、まだバージンである大学院生のヨニ。この女性三人がどういうつながりか共同生活しており、セックスについての議論を展開し、彼女たちが親友同士としてより強く結びつく過程をも描かれる。一緒に暮らしているのに、その同じ家に男を引き入れ、いやそこまではいいんだけど、そこで堂々とセックスしちゃうあたりがちょっとスゴイなあ。そのあとで一緒にご飯食べたりもしちゃうんだもん。

@ホジョン(カン・スヨン)は奔放にセックスを楽しんでいるけれど、実はそうではなく、セックスに自信のない男性も彼女によって救われているといったような存在なのかもしれない。やたら寝まくる彼女だけど決してイヤな印象は与えず、バリバリしたカッコイイ女性と思わせるのが凄い。彼女には自分のセックスを客観的に見つめる目があり、男が女をセックスにおいて見下していることに怒りを感じている。彼女の主張は今まで考えてみもしなかったセックス観で、頼もしい。

Aヨニを演じるジン・ヒギョンは、中山美穂ばりの素晴らしい美人で、おみ足も美しく、スタイルバツグン。しかし彼女はしがないウェイトレスで、この生活を変えるためには結婚しかないと考えている女性。恋人とのセックスでは積極的になれず、オルガスムスを感じたこともない。しかし、ホジョンのように、別の男とセックスするなんて、考えたこともない。セックスの話にも、他の二人と違ってノリが悪いのだが、彼女が一番、そのことに興味を持ち、悩み苦しんでいるのかもしれない。自分の×××をどう思うか、とホジョンに聞かれ、嫌悪感を顔に表しながらも、風呂場の鏡でのぞきこみ、転んで腕を折ってしまう彼女は哀しい滑稽さ。しかも病院で出会ったばかりの朴とつそうな好男子と、「こんなこと初めて」と思いながらデート、セックスし、見事にその後ソデにされてしまうのである。あの男、ほんとニコニコしてとってもイイ感じだったのに、女のナンパなんて慣れない感じだったのに、最初から、美人のヨニが自分と同じく遊びなれた女だと思って近づいたのか……ああっ、なんたること!彼に電話をしてもいつもいなくて、彼からの連絡を待ちつづけるヨニはまたしても哀しく滑稽で。ある日、偶然街で見かけた彼に声をかけるものの「ああ、あの時の……」とすっかり忘れていた様子。ガックリして、彼と反対方向に行こうとするとハイヒールのかかとが折れて、立ち尽くしてしまう彼女の姿は、ああ、これまた哀しく滑稽。こんなにイイ女なのに!

Bスニ(キム・ヨジン)は最も好きなキャラかもしれない。多分三人の中でひときわ若くて、他の二人から可愛がられているんだけど、その実、彼女の優しい包容力が、特にヨニにとって大きな慰めになっているのだ。恋に悩んでいるヨニの髪をスニが優しく洗ってあげるシーンが素晴らしい。彼女は落ち込んだヨニを黙って山に連れて行く。山は彼女のホームグラウンド。大きな自然に抱かれて、そしてスニの友情に慰められるヨニ。そのスニは、ある日ロストバージンの相手にヨニの恋人を選ぶが、何が何だか判らないままに終わってしまい、しかもそのたった一回で身ごもり、しかもしかも、豪雨の川に落ちてその子供も流産してしまう。彼女は「自分だけで育てようと思ったの。相手はあなたたちの知らない人。彼にもこの事は言っていない」と言って気丈な笑顔を見せる。

ヨニにしても、スニにしても、セックスで満足感を味わえず、そのことが意識していなくても劣等感を自分の中で積み重ねる結果となっている。これは多分男性にはあまりないんではないか、と思う。三人とヨニの恋人=四人の会話で、ヨニの彼が彼女たちの話を聞いて「俺も女性になって男の体の下でもだえたりしてみたい」と発言すると、ホジョンは「何言ってんの、女性が上にきまってるでしょ!」と喝破するんである(とか言いつつ彼女はいわゆる正常位の方が多いけど)。体位の時点ですでに男性にコントロールされているのが、そして最後まで男性の感覚で行ってしまうのが、女性がため込む劣等感の元凶のひとつであると言うがごとく。そしてそれを証明するかのように、かの男にフラれた後、ヨニは気乗りがしないという彼に強引に迫り、それまで下で受け身になっていたのが上となり、初めてのオルガスムスを体験するのだ。

この時のヨニは、両手で顔を覆い、もれ出る声を必死に押さえ、今まで感じたことのなかった絶頂感に幸福そうというよりは、泣き出しそうな顔を見せる。でもそれは、男性との一体感というよりも、下にいる男性なんてそっちのけで、それこそ女性だけの感覚で行ってしまっているようで……。結局どっちに転んでも同じ、幸福な一体感など幻想で、男と女はどこまでいってもすれ違ってしまうということなのかもしれない。それにしても韓国の女優さんはスゴいわ。脱ぎっぷりだけじゃなく、こういうシーンまでガンガンやってのけるんだもん。顔は中山美穂なのに。カン・スヨンにいたっては自慰シーンまである。別にピンク的映画でもない、一般の女優さんでここまで出来るなんて、日本じゃ望めないことだよなー。

三人で川の字になって就寝し、夜中泣き出すヨニをスニが抱きかかえて眠ったり、「女友達が少なかったの」と言うホジョンにヨニが親愛のキスをしたりする彼女らの優しい友情が素敵。三人とも幸せになってほしいなあ……。★★★☆☆


DEAD OR ALIVE2 逃亡者
2000年 97分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:NAKA雅MURA
撮影:田中一成 音楽:石川忠
出演:哀川翔 竹内力 遠藤憲一 エディソン・チェン 塚本晋也 青田典子 魔裟斗 伊佐山ひろ子 手塚とおる 田口トモロヲ 大杉漣 TEAH

2000/12/10/日 劇場(テアトル新宿/レイト)
これほどまでに、一気に伝説化した作品も珍しいのではないかと思われるほど、それもカルトとしてではなく(かといって、広く一般大衆に知れ渡ったわけではないけれど)一大エンタテインメントとして大爆発した「DEAD OR ALIVE 犯罪者」の、続編ではない第二作である。あれだけ盛り上がったんだから、そして1作目はちゃんと普通にロードショーだったんだから、レイトなんぞにしないで欲しかったのだが。

1作目の「DOA」は、三池テイストの中でもムチャクチャな部分を純粋に抽出したいわば野心作で、そう、三池監督は割と無頓着にさまざまなカラーの作品を繰り出すように見えながらもその実、個々の作品は結構バランスが取れていたりするのだが、「DOA」ではそうしたワクをすべて取っ払ったところに魅力があった。そして第二作。恐らく、第一作でノックアウトされたファンの期待を当然のごとく裏切ってやろうという意図のもとに、全くの違うテイストの作品として提示された今作は、そのバランス感覚を取り戻し、第一作の爆発がウソのように静けさとノスタルジックな空気が画面を支配している。全く違うものだから、比べるのもヘンだが、私としてはこっちの方が好み。そう、「中国の鳥人」いや違うな、「岸和田少年愚連隊 望郷」のカラー。と、気づくと本作も含め、これらは皆脚本がNAKA雅MURAなのだな。

孤児院で共に育ったシュウ(竹内力)とミズキ(哀川翔)が、暴力団組員とヒットマンとして再会する。シュウの属する暴力団幹部の殺人者として追われる二人は、かつての故郷、隠岐チブリ島へと向かう……。前作では完全に敵対関係だった二人が、今度は完全に共犯関係。標的だった人物を撃とうと思ったら思わぬ相手に先越されて「あら、あらら?」と声を上げる哀川翔に思わず吹き出し、第一作のパロディとして背中からバズーカならぬブロック石を取出して相手を打ちのめす彼にまたしても爆笑。三池監督が何故これほどまでに世界的に注目されるのかは、日本という世界観に全くとらわれず、しかし三池監督にしか出せないこの個性的なユーモアが国境を越えて通じるせいもあると思う。

今回の白眉は、もういろいろあるんだけど、子供劇団に出演することになり、嬉々として下ネタ連発する、その舞台も可笑しいが、リハーサルで背中にカメしょって手に足ひれもってスイスイ泳いでいる哀川翔!シュウとミズキが昔学芸会でとんでもない劇にしちまった思い出話を楽しそうにしているコーヘー(遠藤憲一)に、真っ青になって膝蹴り食らわす劇団を呼んだ町のオッサン、とんまな国籍不明の殺し屋三人組が、標的を人違いして、目の前にいるのに声を発せず携帯のメールで会話をするところ(コイツら、アホや!)、「馬波二郎」(字、違ったかもしれない)なんていうアホな名前の愛人を失い、その死体のボカシのかかった××××は冗談にしてはキツすぎるほどに長く、それに頬ずりして泣き伏す伊佐山ひろ子!このシーンに限らず、確信犯的にボカシを使うその手法が、やたらと絶妙で抱腹絶倒!

そして、バラしちゃいけないのは判っていながら、あー、言わずにはいられない!メタクタに銃弾を撃ち込まれて虫の息の筈のシュウとミズキが、しかし次のシーンで血だらけの姿のままでへーぜんと島へと向かう船に乗り込み、当然周囲の人々はぎょっとした顔。ミズキが友達の写真を撮ろうとしている女の子に「(二人で)撮ってやるよ」と驚く彼女たちを尻目にシャッターを切ってやり「……大丈夫ですか」と思わず聞く女の子に「だーいじょうぶだよお、ちゃんと撮れてるよ」と言う切りかえしには激爆笑!

本土に行く船の上でいつも食べていたというきつねうどんをすする二人。船が島に着かないうちに、ミズキはこときれてしまう。シュウは「……いっつも先回りしやがって」とつぶやき、次のシーンではミズキを背負って青い青い草原を登ってゆく。三池監督はね、ホントに男同士の世界がイイんだよなあ。逆に言えば、女性は今一つとも言えるんだけど(それが「アンドロメディア」が完敗だった原因かしらん)。でも、それでいいのだ。だからこそその世界がカンペキなのだから。しかし次回作、シネマ下北沢企画のラブシネマでは純愛映画を撮るらしいが……!?

それと落としちゃいけないのは、ああ!予告編を観た時から大興奮していた、俳優、塚本晋也の登板!大体、三池監督と塚本監督という顔合わせだけでもうゾクゾクものなのに、同じ映画を作り上げる共犯者としての二人だなんて、嬉しすぎる!これはぜひとも逆バージョンも考えて欲しいですなあ、塚本監督!三池監督なら、そのビジュアルからして画になりすぎだし、役者くらいチョチョイと出来そうだもん。いや、もう映ってるだけでインパクトあるって!それと、塚本監督とずっとコラボレーションを組んでいる音楽の石川忠も登板。他の監督での音楽は、ひょっとしたら初めてではないだろうか。なんか、すごーくワクワクするよなあ、こういうの!

んでね、本作の俳優、塚本晋也がもーもー、ホントに最高でね!ベタな手品を嬉々としてやり、しかもそれを哀川翔演じるミズキに見てもらえないことに子供のように地団太を踏み……俳優、塚本晋也は自作の時もそうだけど、情けなさをそのまま強烈なテンションにしてしまうっていう独特のワザを持ち合わせていて、それがなんともはや可笑しいのだ!特に、背中から旗を嬉しそうにピロピロ出すのには!それに対する哀川翔のドライなリアクションがこれまたピッタリで!あああ、塚本監督作品に哀川翔登板っていうのも観てみたいなあ!

そしてそして私の大好きな遠藤憲一が竹内力、哀川翔の二人に加わる三人目の仲間として出てくるのもむっちゃ嬉しいのである。これまではどこかクールな役柄が多かった気がするのだけど、昔の仲間に会って一気に少年時代に戻ってしまう、島の漁師コーヘーが、なんでまあ、これほどまでにハマッてしまうのか!同じ孤児院仲間だった女の子を妻に迎えているというあたりの、純粋な愛情が育っていったとおぼしき素朴さ?も凄くイイ。

シュウ、ミズキ、コーヘーの三人で小学校の校庭に押しかけ、サッカーをし、大人の自分にはひどく低い鉄棒にノスタルジーを感じ(そこで見せる哀川翔の超人的アクロバティック鉄棒!)、登り棒で××××をこすった思い出に笑いあい、ふと気づくと校庭のみならず学校もシーーーンとしていて、「夏休み、なんだよなあ」なんてつぶやくんである。かつての少年三人組が、少年時代に戻りながらも、でも戻れっこない甘やかで切ない気分が、引いたカメラにほこりっぽい校庭と青い空を映し出した時にいっそうかきむしられて、……たまんない。

シュウとミズキはコンビを組み、飢餓の子供たちにワクチン代を寄付するためにと、殺し屋稼業をスタートさせる。そこで見せる、前作とは全く違うCGの使い方。シュウに黒、ミズキに白、とそれぞれ天使の羽を生やさせる。彼らの「クズ一人殺して10万人の子供を救う」という殺しの動機と、この臆面もないCGは、しかしなんだか奇妙なほどに説得力がある。……それが、可笑しくも壮絶なラストへとなだれ込んで。10万人の子供を救うより、彼ら二人を助けたかった、なんて思わせちゃうのだ。

ゲスト出演みたいな、彗星を観ながら涙を流すトモロヲさんが好きだなー。金髪の哀川翔が、でもやっぱりやっぱり塚本晋也よりも遠藤憲一よりも、めっちゃカッコ良くって、トボケ加減がこれまた素敵で、あーもう、最高!シリーズ3も内定済だそうで、またしても全く違うカラーを見せちゃうんだろうか、見せちゃうんだろーなー!★★★★☆


デトロイト・ロック・シティDETROIT ROCK CITY
1999年 95分 アメリカ カラー
監督:アダム・リフキン 脚本:カール・デュプレ
撮影:ジョン・R・レオネッティ 音楽:J.ピーター・ロビンソン
出演:エドワード・ファーロング/ジュゼッペ・アンドリュー/サム・ハンティントン/ジェームズ・デ・ベロリン・シェイ/ナターシャ・リオン/リン・シャイ/メラニー・リンスキー/シャノン・トゥイード/KISS

2000/11/1/水 劇場(シネマミラノ)
KISSのことなどぜえんぜん知らない、それどころかこれがKISSのコンサートへ行くために必死になる男の子達の話だというのも全く判ってなくて観に行ってしまった私ってフトドキモノ?いやー、だって、最近さらに作品選択のセンスがイイ(というか、キワモノが似合うようになった!?)エドワード・ファーロング君が出てるからさあ、と思ったもんで(だけど「T2」は観てないのよね、私……)。いまだに高校生役だけど、でもいまだに高校生役が実に良く似合う。それも、この時代設定、1978年のちょっといきがった高校生がやけに微笑ましいのよねー。

彼を含めた主人公の少年四人組、“不道徳バンド”KISSの大ファンで、彼らのコピーバンドを結成していて、「これを見逃したら一生後悔する」というKISSのコンサートを観るためデトロイトへ向かうのを心の底から楽しみにしている。しかし何度となくそれをジャマする手合いが入る。……その間に神父にメスカリンを盛ったピザを食べさせてブッ飛ばせ、ストリップし、ゲロを吐き(ここは必見!ジューサーいっぱい分のゲロをザーザー吐くんだから、爆笑!)強盗しようとしたら先を越されてその強盗をやっつけてヒーローとなり、しかしその店を一歩出たら、さっきイチャモンつけちまったガキにボコボコにやられ、教会の告解室で童貞を失い、オトナのオンナに童貞を奪われ、……そしてその果てに、そうした経験を踏まえて生かした上で(笑)めでたくKISSのコンサート会場に入れるのだ!

もうね、冒頭からギャグが冴えまくってるんだよなあ。体を思いきり使ったギャグが気持ちよくって、腹の底から笑ってしまう。女子トイレでクサってたら、そこに女の子が入ってきちゃって、慌てて個室に隠れる四人。隣の個室に入った女の子をのぞこうと四人で便器に乗っかってたら、便器が壊れて四人ともどもドアに向かって倒れ込み、そしたら連動して全てのドアがぶっ倒れ、将棋倒しのようにドアがバタンバタンと倒れていく(あー、なんか文字で説明しても上手くいかない!)、用を足してた女の子(ちなみに屁も聞かれました)は絶叫する……“トイレでのギャグ”というベタな部分を吹き飛ばすようなスバラシサにはもう抱腹絶倒で死んじゃうかと思った!

厳格な母親に足をエキスパンダーでくくられちゃった男の子が必死になって電話を取るとその反動で後ろに跳ね飛ばされちゃうのや、チケットを奪い取ろうとした男の子二人(小学低学年くらい……こんな年の子達しか脅せないあたりが情けなくて笑える)が遊んでいたゴム人形の両手が引っ張られているのもヤケに可笑しかったし(なぜ可笑しかったというと……観ないとその可笑しさは判らない!)、もうほんとに言い出すとキリがないんだけど……。例えばもっと細かい部分、その日の夜にコンサートに出かける彼らが、そのうちの一人の厳格な母親(このキャラも判りやすいけど、出し方が上手くて出てくる度に笑える)にチケットが見つかってしまったことを知る場面で、エドワード・ファーロングが理科の実験かなんかをやってるのか、目が大きく見えるスコープのようなメガネをかけたままボーゼンとしてるのなんかも、やたらと可笑しいのよねー!

ほんと、こういう映画に私ってヨワすぎるよなー。世界で一番好きな映画は「青春デンデケデケデケ」だし、「バンドワゴン」(あの有名なアステアの作品じゃなくて、1996年製作の同タイトルの青春映画。しかし、この映画、シネマスクエアでの公開時も今一つ盛り上がってなかったみたいだし、それ以降全然名前を聞かなくて、ビデオが出てるのも見たことない。誰一人有名な人は出てないけど、でもほんとこの「デトロイト……」みたいに笑えて可愛くて愛しい作品で、私大好きだったんだけどなあ……)もホレまくったし。

で、こういう映画って、恋愛に無垢な頃だった、好きな子にひたむきにドキドキしてたり、思いがけず好かれてドギマギしたりする部分を同時に描いていて、それがなんとも大人になっちまったこっちの琴線をくすぐりまくるのよねー。本作でも、四人それぞれにきちんとそういう要素が用意されていて、「乙女の祈り」のメラニー・ウィンスキー(!)が「ずっと好きだったの」とドラムの男の子(役名忘却)にたまらずにキスを浴びせるのは泣かせたし、ストリップ劇場で目をつけられたゴージャス美人に迫られたエドワード・ファーロングが、車の中でコトに及び「いけね、もう出ちゃった(!笑)」「いいのよ、でもまだ大丈夫でしょ(……笑)」そしてそのコトの後、「俺は男娼じゃないし、お金を受け取ったらこの出来事を全部ダメにしてしまうような気がする」「これは支払いじゃないの、あなたが使おうと思ってたことに使って」というやり取りもちょっと泣けたかも?

こうしたハートウォーミングな部分と、メチャメチャ冴えてるギャグの部分が、素晴らしいテンポの良さで展開されていくのがたまらなく気持ちイイ。四人の少年が、学校からは多少目をつけられてるものの全然ワルじゃなくって、それどころかボーカルはあがり症だし、ドラマーはシャイで母親に頭があがんないし、ギターだかベースだか、長髪の子の方はここ一番で取りこぼすドジだし、もう一人の子はやたらと道徳家だし。彼らがこの旅を通じて、色んな意味で成長していく、そういう彼らだからこそ、その成長がとてもヴィヴィッドに感じられるのだ。正直、色んな意味でご都合主義だし、そりゃねえだろと思ったりする部分も多々あるんだけど、それは逆にこの映画だからこその確信犯的な楽しさでもある。

それにしても、ファーロング君は、その涼しげな顔立ちからは想像も出来ないなまっちろい身体がたまんないね!も、ほとんどユアン・マクレガー状態なんだけど(笑)。でもそこがまたイイのよね。マッチョな男たちがディスコサウンドに乗ってストリップしている場所で、緊張からか飲み慣れない酒のせいか(笑)ゲロをタップリ吐いた後、KISSの曲でノリノリで脱ぎまくり、しかしそのパンツは股間にKISSメイクの顔のイラスト入りで、しかも半ズボンみたいなダサいパンツで(笑)。その身体とそのパンツでその腰フリとは、思い切っててイイぞ、ファーロング!でもね、彼はやっぱり美しいよ、ちょいと目の下にクマ出来てるけど(笑)。実際の年のせいか他の男の子達より色っぽいし、(これまたイキがってるんだけど)タバコをくわえて遠くを見る表情なんかが、すごくドキッとするんだよなあ。

そして最後のギャグとなる、チケットを奪い取られたことを偽装するための四人の“本気の”殴り合いでは、荘厳で華麗なオペラ?がかかってスローモーションでこれまた抱腹絶倒!最後まで気を抜かない!しかも、最後の最後は、母親にドラムスティックを折られたあの男の子が、ドラマーの投げたスティックをしっかと受け止めて狂喜するニッコニコのラスト!もう、たまらんす。

満杯となった劇場は、恐らくKISSのファン、あるいは洋楽ファンが多勢を占めているのだろう、ミュージシャンの名前が出てくる部分などで大ウケで、特に私の両隣で一人で来ていた男性二人は、二人ともそうした通なところでバカウケするもんだから、私はちょっくら肩身が狭かったんだけどね。でも、そんなこと知らなくったって、もう全然オッケー!ほんと、もっと早く観にくれば良かった……これって、そうした洋楽ファンに向けての宣伝展開だったんじゃないの?だって、私この作品の存在自体、今一つ把握してなかったもん。あー、でも、ギリギリでも観られて良かった。こういうカワイイ映画に熱狂したのは久しぶり。気持ちよかったー!★★★★★


天国までの100マイル
2000年 104分 日本 カラー
監督:早川喜貴 脚本:田中陽造
撮影:田村正毅 音楽:藤井尚之
出演:時任三郎 八千草薫 大竹しのぶ 羽田美智子 村上淳 柄本明 筧利夫

2000/12/12/火 劇場(渋谷東急3)
原作者、浅田次郎自身の体験をもとにした物語。心臓病の母親を鴨川にある有能な執刀医のいる“100マイル先の”病院まで運ぶという、軸になるのはたったそれだけの物語。“天国までの”などというタイトルだから、一生懸命運んだのに着いたら死んでしまったとか、手術が上手く行かなくて死んでしまったとか、そういう結末を予想していたら、その母親は助かった。でも、それまでの間にその母親も、そして彼女を運ぶ主人公も死を覚悟していて、生とは、死とは、人生とはということを何度となく考えることになる。

主人公のヤスオは自分の経営していた不動産会社が倒産して、莫大な借金を抱え、妻子も去り、情けで入れてもらった会社の仕事も全く上手く行かず、というより身が入らず、給料はソックリ養育費として右から左である。彼が何とか生きていけるのは「こんな一気にどん底に突き落とされた人は、めったにない。その哀愁が、たまんない。大好き」と言って彼を居候させ、食べさせてくれているホステス、マリのおかげである。そんなある日、もともと心臓の悪かった母親がまた病院に運ばれ、このままだと死を迎えるばかりだと知る。“仕事が忙しい”と、他の兄弟たちは見舞いにも来ず、密かに彼女の世話をしていたのはヤスオの別れた妻である英子だった。

「あなたと別れても、あの子はお義母さんの孫なのよ」「お兄さんたち、お金だけ出して、死ぬのを待ってる」「私がなにかしてあげるわけには行かないの。そうしたら、私、何でヤッチャンと別れたんだか、判んなくなっちゃう。私がなんなのか、判んなくなっちゃう」英子の言葉は、家族というものがなんであるかを痛切に考えさせられる。本当の家族である子供たちが、その家族であるが故に甘え、大切な人をアッサリ失うことも何とも思わない人間になってしまっていることを、痛烈に批判する。

家族の愛がなんであるか、を考える時、この英子と、ヤスオの面倒をみているマリとの比較も考えなければならない。マリは、哀しく不思議な宿命を持った女。彼女は堕ちている男を愛さずにはいられない。助けずにはいられない。そして、彼女の力によって男が力をふきかえした時、その男もマリを愛していても、何故だかサヨナラせずにはいられないのである。どうして?と思うのだけど、そうなのだ。

一方英子は今だって夫を憎んでいるわけではなさそうだし、気にかけてるし、そんな風に思ってくれているんなら、別れずに一緒に苦労を乗り越えていってくれれば良かったのに、と思うのである。マリはヤスオが彼女をまだ愛していると思い込み、そして彼の話から、英子もまたしかりだと思い、ヒモの男を疎ましがるはすっぱな女をわざと演じて二人のヨリを戻そうとする。その話を母親を運んだ先の病院からかけた電話で聞いたヤスオは、鼻水垂らして、泣く。「愛してるよ、マリ、ウソじゃないよ」と。それを聞いたマリは、「わ、わあー、わあー……嬉しいよ、ヤッサン。ありがとう」と、涙を落としながら、ものすごーく幸福そうに、言うのだ。

……彼女は去ってしまう、やっぱり。とこのシーンで確信してしまう、なぜか。このシーンだけで、母親の手術は成功し、ヤスオも立ち直り、そしてその時にはマリはいなくなっているのだ、と。そしてそのとおりになっている。ヤスオは多分、妻子の元に戻り、マリのことは決して忘れないけれど、でもそれでも、時々思い出す、そんな存在になるのだろう。彼女の無償の愛は、この物語のどんな愛よりも、そう、ヤスオの母親が彼に対する愛情よりももしかしたらピュアで深い。彼女は夢のように、そうまるで最初から存在していなかったかのように、消えてしまうのだ。

マリを演じる大竹しのぶは、ああ、ヤスオ役の時任三郎とほぼ同じ年なんだ。英子役の羽田美智子がすごく若いから(大竹しのぶより11コ下だ)、なんだかずいぶんと年くって見えたけど。でもそれももちろんネライに違いない。若くて美しくて、ヤスオをまだ愛してる元妻に、引導を渡す場面でのマリは、その老け加減も切なくて哀しくて。めっちゃくちゃ泣けるのだ、愛おしくて。

300万もの借金をしている金貸しの男に、他に頼る人がいなくてヤスオがガソリン代だけでも、と金を借りに行くシーンがあるのだが、この男がまた泣かせるんだ。うだつの上がらないヤスオに「お前は金のありがたみがぜっんぜん判ってない」と厳しく叱りつけながらも、ヤスオが車に母親を横たえているのを見ると「オイ、これはどういうことだ」と心配し、彼女が調子が悪そうなのをみてとって「ババア、大丈夫か。そんな体勢だから苦しいんだ。身体を起こさなきゃ」と荒っぽい口調ながら親身になって手を貸してくれる。そしてカードと“借金の利息の二万円”だけを抜き取ったサイフをまんまヤスオに渡すのである。ただ甘く優しいだけの友人じゃなくて、でも手を差し伸べてくれる、本当の優しさ。

その前のシーンでヤスオは離婚調停した弁護士に電話で金を無心するのだが「そんなことなら、お前も死ねよ」と言われ「……そっか、死ねば、いいんだ」とボーゼンとしていて。「死ね」だなんて、悪口で割と考えずに使う言葉だけれど、一銭の金もない、そして瀕死の母親を運ぶ途中のヤスオには、これ以上の残酷な言葉はない。でも気丈にブイサインを出す母親を振り返り、ここで自分が死ぬわけにはいかないと思いとどまるのである。そして、この優しき金貸し男が、助けてくれる。

母親が「私のためではなくあの子のために助けてくれ」と、私は別にどうなってもかまわないのだけど、私が助からなければあの子は駄目になるから、だから私を助けてくださいと言った、それに俺は約束したんだ、と柄本明扮する医者が言う。缶ビールをヤスオにすすめながら、そして自分も飲みながら。土下座して、助けてください、お願いします。と言うヤスオ。約束したからな、俺は、切るぞ、ヤッチャン。と肩を叩いて。そして、母親は助かる。助かる場面は特に描かれない。手術室に涙乍らに送り出すヤスオの場面から、「おふくろは助かった」とナレーションが入って、こんどはバリッとしたスーツを着たヤスオが道を歩いているシーンになる。マリの部屋には、「あの言葉、嬉しかったよ、ありがとう」と書いた置き手紙だけが置かれ、ガランとしている。

……今はもう去ってしまった愛と、彼のためにつながれた愛と、そしてこれから作り出して行く愛と。ヤスオの人生は、これからだ。★★★☆☆


天使の楽園
1999年 61分 日本 カラー
監督:鈴木章浩 脚本:鈴木章浩 タカシトシコ 黒澤潤
撮影:鈴木章浩 黒澤潤 音楽:KUJUN 大木裕之 藤島晃一
出演:今泉浩一 末広あきら 黒岩アキラ 葉月螢

2000/8/7/月 劇場(中野武蔵野ホール/レイト)
思いがけず葉月螢が出ていてラッキーと思ったら、これもともとは成人映画だったのだ。でも薔薇族映画(ゲイムービー)だから、彼女は(最後の最後、引きの画面でちらりとセックスシーンがあるものの)全く脱がず全く絡まず、団地妻でも女子高生でもなく、普通に働いて(どうやらライターらしい)生きてる普通の女性を演じてて、何だかとても新鮮。彼女の演じる玲子は逆にそうした性的なことから距離を置いているようなキャラクターで、一緒に住んでいるソラオとも、ことある毎に呼び出す後輩?のシンペイとも(最後にはセックスするものの)関係しない。それはセックスだけというより、人間との距離を置いているようでもある。ソラオは「いつのまにか居着いて、どこかに出かけても必ず帰ってくる」ネコみたいな存在だが、やはりネコのようにある日突然置き手紙を残して姿を消してしまう。

「ソラオは死んだの。私の目の前で飛び降りて」そんなウソをついて、彼女はソラオとよく一緒にいたタカチに初めて声をかける。タカチはゲイでAV男優。ソラオを介してお互いをどこか疎ましいように思っていた二人。しかし同時に二人はソラオという愛するものを持つ共犯関係でもあったのだ。ソラオはいつもニコニコとして、好きだよ、って言ってスルリと交わしてしまうところなんかも本当にネコそっくりだった。そんな風にはぐらかされるようにされればされるほどこっちが執着してしまうところまで。ソラオは藤原竜也風の、驚くほどきゃしゃな、ココロときめく美少年。彼はカラダを売っていた。でもソラオとタカチが関係する場面はない。玲子ともない。そしてふっといなくなってしまう。本当にまぼろしだったかのように。

ある日タカチもいなくなる。しばらくして玲子のもとに彼からの葉書が届く。郷里の高知で(高知だからタカチ、なのだ)実家の旅館をやっているのだという。彼は玲子を招待し、彼女はシンペイを連れて行く。「高知がこんなにいいところだって、初めて気づいた。ここは男の子がみんなキラキラしてて、天使みたい」と嬉しそうに言うタカチに、「エッチしてるの?」なんてからかう玲子。タカチは自分の父親がゲイなのではないかという話をしたりする。未知の世界にじっと耳を傾けているシンペイ。彼は若さ特有の不安定なより所の無さで、自分を決め兼ねているようなところがある。そんな彼が、自分のハッキリとしたアイデンティティを持ち、しかしそれゆえに苦しんでいるタカチに出会うことで彼の中の何かが大きく揺り動かされていく。

「男の子がみんな天使みたい」であるという高知は、この映画の音楽を担当し出演もしている、映像作家の大木裕之がこだわっている土地でもある。そう言えば彼もまた、薔薇族映画(「あなたがすきです、だいすきです」)を撮っているし。光が満ち溢れて夢のように明るくて(撮影監督には監督自身も加わっているのだな!)、素朴で、無垢で、そんな、確かに天使がいそうな土地。そこにきらめく男の子達を天使と呼ぶタカチもまた、天使(になってしまった)のだ。

冒頭と同じ場面がラストにも繰り返される。冒頭では気づかなかったけれど、それはAV現場の仲間たちでいとなまれた、タカチの追悼パーティーだった。連れだって行った玲子とシンペイも、彼の死を知らなかったらしい。「彼、ゲイだったのね。そういえばいつも全然勃たなくて、しらけてたっけ」などと話す仲間たち。いささか呆然と座り込む二人をよそに、いつしかそこここでセックスをはじめる彼ら。シンペイが玲子に「……帰りましょうか」と声をかけ、二人は辞去する。そして玲子の部屋で、無言でお互いを求め合う二人。

その間にタカチのモノローグが挿入される。暗い背景に、カメラに向かって話す彼は、しかしどうやら誰かを相手に話しているという感じらしい。ひどく台詞が不明瞭で聞き取りにくいのだけれど、「あんたはやさしい人だよね。一目見た時からそう思ってた」という台詞が聞こえてきてドキッとする。……ひょっとして、タカチは殺されてしまったのだろうか、と思って……。この時のタカチは何だかひどく淋しそうで、哀しそうで、ひょっとしたら泣いてるんじゃないかと思うくらいで。タカチはきっとずっと、高知の天使たちにソラオを追い求めていたんじゃないのだろうか。あの夢の少年を。幸福だといい、そうも見えながら、愛する少年を失ったタカチの孤独は結局ごまかしようもなかった。そしてタカチも“消えて”しまう。彼もまた夢か幻のように。

やはり冒頭とラストに現れる、階段途中の、こちらにお尻を向けた横たわる男性の全裸体、そのまるでモノクロのようなショットが、あれはもしかしたら殺された?タカチなのかもしれないけれど、不思議とどこか詩的で。タカチの自虐的な垢抜けなさや、玲子やシンペイの不安定さ、そして何よりソラオの現実感のない美しさがそうしたリリカルさを作り出している。哀しいリリカル。★★★☆☆


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