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ヴァージン・スーサイズ/THE VIRGIN SUICIDES
1999年 98分 アメリカ カラー
監督:ソフィア・コッポラ 脚本:ソフィア・コッポラ
撮影:エドワード・ラックマン 音楽:AIR
出演:キルステン・ダンスト/ハンナ・ハル/チェルシュ・スウェイン/A・J・クック/レスリー・ヘイマン/ジェームズ・ウッズ/キャスリーン・ターナー/ジョシュ・ハートネット/ダニー・デヴィート
女性の、少女期は特に、男性に対しては父親の影を見、その影響力から逃れられない部分があると思う。劇中の彼女たちは妙に大人びて見えるような部分がある反面、そうした“娘”としての要素の危うさを撒き散らしている。彼女たちの父親は娘を溺愛しているが、頼りなく、少々神経症気味な母親の厳しい規律の前に屈服してしまい、娘たちを救うことが出来ない。娘たちは時々は彼女たちのために努力してくれる父親を好いているのだろうが、そうした父親の力のなさが彼女たちの命を散らす原因の一つになっているようにも思う。劇中の彼女たちはそんな父親に対して一度も不満を漏らすようなことはないのだが、観終わった後に印象に残っているのは、厳しい母親に服従するしかない娘たちのか弱き姿よりも、彼女らよりもさらにか弱い父親に対する娘たちの、どこか慈悲にも似た視線である。
一番末っ子のセシリアが自殺未遂を経て実際に自殺で命を落としてから、他の四人が同時に命を絶つまでに相当の時間が費やされ、その間の時間がこの物語のメインとなっている。つまり、この残された四人の姉妹たちは、ずっとずっとセシリアの死の影をひきずっているのだ。周りの人たちが、そして両親でさえも彼女の死を忘却していく中で、多分彼女たちの中では逆に増幅の一途をたどっていたのかもしれない。……実を言うと、他の四人の自殺はなんとなく判る気もするのだ。セシリアの死にひきずられた部分、その甘美な死の誘惑にずっととらわれ続けていた部分があったと思うから。でもセシリアの死は、そうしたものがない分、本当にミステリアスである。しかし医師に「まだ人生の辛さを知る年にもなっていないのに」と言われた彼女が返す「でも先生は13歳の女の子になったことはないでしょ」という台詞がすべてを物語っているのだとも言える。まるでその台詞は、一体それ以外に何があるの?と問い掛けているようにも聞こえ、それは後に死を選ぶそれぞれの彼女たちに、「14歳の女の子に」、「15歳の女の子に」、と言わせるだけの不思議な説得力があるのだ。
残された四人姉妹のうち、一番下のラックスだけは、「人生の辛さ」を知ったとも言えるのだが。この四人の中で一番年下だとは信じられない大人びたラックス。演じるのはキルステン・ダンスト。びっくりしてしまった。ちょっと見ない間におそろしいまでに大人びて、少女と女性の間を揺らぐ年頃に成長していた彼女に。なんだか顔も全く違う気がする。彼女は学校一のプレイボーイに見初められ、初めてのロマンスからセックス、そして一方的に捨てられるまでを一気に経験してしまう。彼女にのぼせ上がったその彼がダンスパーティーのあと彼女とアウトドア・セックスし、次の日の朝彼女が目覚めると彼の姿はないという展開は容易に想像できたが……やはりこういうことはよくあるのだろうか。寝てしまうと急速に相手の女に対する興味が薄れてしまうというのが。女性には理解できないことだが。
この事件によって、彼女たちは母親によって自宅に軟禁状態となってしまう。父親はどこか痴呆の様になってしまって、そんな妻の強行になす術もない。彼女たちはこっそりと、彼女らに思慕を寄せる近隣の少年たちにSOSを送る。電話で彼らと彼女らが言葉も喋らず交互にかけあう70年代のポップスの名曲たち。画面の上と下で彼らと彼女らが区切られ、その心情を代弁してくれるレコードにじっと耳を傾ける。そのリリカルな描写は、直後に起こる悲劇をも継続してリリカルなままに包み込んでゆく……彼女たちに深夜呼び出された少年たちが見たものは、それぞれに実に多彩な方法で命を絶っている彼女たちの姿だったのだが、まるでそれは夢の中の出来事でもあるかのように、忍びより、さらりと去っていく。
セシリアが死んだ時、生気をなくしたように部屋の中で寄り添いあう四人姉妹の、むき出しにされた素足やほつれたブロンドの、どこか痛々しいようなエロティシズムが忘れられない。思えばそのはかなく美しいワンショットが、この作品の全てを語りつくしているとも思えるのだ。……あの時、彼女らはすでに妹と共に死んでしまっていたのではないかと思えるほど。四人の彼女たちが何故ああも一様に似通っていて、どこか幻想の様に美しかったのは、彼女たちが同じ意志を持ち合った、亡霊だったからではないかと思えるほどなのだ。すべては過ぎ去ってしまった、いわば物語として少年たちの回想によって紡がれるという手法も、そうした感覚に拍車をかける。ラックスの一件は少女期の事件として不可欠なものではあるけれど、それが彼女と、ひいては彼女の姉たちにそれほどの影響を与えているとは思われない。彼女たちの中には少女同士、特に姉妹同士が交わし合う秘密のテレパシーのようなものがあって、それが徐々にクライマックスを迎えた時、他人には理解できなくても彼女たちには必然だった、そして到達点だった死を迎えたのだと。そうした何も具体的でない、漠然としたことこそが、少女というもの、不可解な少女というものなのだと、理屈ではなく思うのだ。
少女が不可解なのは、少女期は多分、精神と肉体に大きな乖離があって、精神はこうした死の世界に近いようなところをいつでもフワフワとさまよっており、肉体はその目覚めを迎えていないか、迎えていてもその実感を精神と合致したところではっきりと認識できていないところにある気がする。そうした高揚した精神状態の時期に、死へのいざないがこんな風にスルリと入ってきたら、本当に理屈ではなく、それが当然、必然のこととして受け入れてしまいそうな気がする。死とはもちろん肉体的なことなのだけど、それ以上に精神的なファクターが多分に占めているから。生よりも、死の方がずっと精神的で、哲学的だから。この作品が、若き死を扱いながらも、どこかポップで幸福感に包まれているのは、彼女たちの死の選択が、必ずしも不幸だったと決めつけてはいないところにあると思う。
ブロンドでばら色の唇をした、真っ白い肌の5人、あるいは4人の美少女たちが画面を占めている、ただそれだけで、充分に見ごたえのある映画。色も光りもそのたゆたう空気も、現実味のないやわらかさで、心地よい。★★★☆☆
しかし別に彼女だけに熱狂してこんな浮かれた点数を献上したわけではもちろんなくて(かなりそれが占めてるけど……)、ああいいなあ、この世界観、これもまた、「時をかける少女」をはじめとした、80年代の角川映画みたいなんだもの。時代から取り残されたように閉じられた小さな町だからこそ、起こってしまっても不思議ではないようなファンタジーワールド。古びた、でも丈夫な木造日本家屋、「マーブル」なんて名前の、年季の入った小さな美容院、河童でも住んでいそうな、とぷんと凪いでいる大きな沼……その全てが、小さな神様たちや異形のものと共に普通に暮らしていた日本にかつてあった風景。でも今では、全てが人工の光の下にさらされてそんな神様も妖怪も逃げ出してしまう現代ではお目にかかれない風景で。
町に照明がほとんどない、夕方からもう完全に暗くなってしまう、闇にちゃんと何かが住んでいるこの感覚。色味が完全に押さえられたその画面の、灰色に落としたトーンもまた、その懐かしさと何かが起こりそうなざわざわした予感をかきたてる。ブラックホールのように奥が見えない、洞穴のような古いトンネル、そこを通り抜けてくる自転車に乗った男の子、待ち構えていた少女が後ろに乗り、時間が止まったような町を駆け抜けて行く。ああ、いいなあ……私はすっかり見とれてしまった。この男の子もまた、いいんだよなあ、FHIFAN?え?何者?はあ、モデルですか……どおりで存在感がある。逆説的な存在感。真っ白い肌、細い眉、七三分けの髪、カラーをきっちりつけた学ラン姿の彼、消え入りそうなその風貌が逆に強烈。しゃべり方も初音映莉子に負けず劣らずな嬉しくなっちゃう不器用さ。最近の若い俳優は妙にみんな小器用に芝居しちゃうから、こういう個性のひとつになる不器用さが失われているから。彼はいささかマザコン風な印象で、それというのも、父親がおかしくなってしまったせいなのだが……。
そう、ようやく本題である。この父親はうずまきにとりつかれておかしくなってしまったんである。薄暗い部屋に山と積まれた、さまざまなうずまき模様のものたち……その造形美のなんとなんとアヴァンギャルドで美しいこと!そしてそしてそれらを「ふふふふふ」とでも言わんばかりに不気味に嬉しそうに見つめる大杉漣のなんというハマりぶり!彼はオカしな役ばかり、それもみなハマってるんだけど、この役が一番ではないだろうか……彼は、陶芸家である桐絵(初音映莉子)の父親(諏訪太朗)に、うずまき模様の皿を作って欲しいと依頼する。ぐるぐる回るろくろをのぞきこみ、道端にしゃがみ込んでカタツムリをじっとビデオ撮影、うずまきが回る美容院「マーブル」の電光看板を盗み、味噌汁のなるとがないことに激怒する。そしてしまいには、洗濯機にみずから入り、うずまきに巻かれて死んでしまうのである!なんとまあ、ナイスすぎるわ、大杉漣!
その夫の奇行に悩まされる妻(高橋恵子)のその後の狂いぶりもまたイイ。夫の死後、彼女はうずまきを極端に恐れ、自分の指の指紋や、頭のつむじを取ってしまおうと、自分の体を傷つける行為にでるありさま。ついには耳の中にもうずまきの器官があることに気づいて、耳をついてしまうのだ……あああ、痛えよお、やめてくれえ。
人間が巨大なカタツムリになったりと、奇怪なことが起こり始める黒渦町。「この町はうずまきに呪われている」と言う秀一(FHIFAN)は桐絵に一緒に逃げようと言うのだけれど、時すでに遅し、うずまきにとりつかれた秀一は全身雑巾のようにねじれて死んでしまう!「ごめん……君を守れなかった」という秀一にすがりつき、泣き叫ぶ桐絵。いいわあー、青春もの定番の図。そしてその後、黒渦町は怪奇現象にとりつかれて壊滅状態になってしまったらしく、そして桐絵はどこかに消え去ってしまったらしく……ああっ、この不条理な感覚もまたたまらない!
桐絵のクラスメートで、白鳥麗子ばりの高ビーな女を怪演する佐伯日菜子がグー。この年で女子高生演っちゃうというのも嬉しいが、さすが、年の功(!?)の強烈な押し!いち早くうずまきにとりつかれた彼女は、それでなくてもハデなくるくるヘアーが、うずまき状になって宙空に舞っているヘンさが最高!しかし私がお気に入りだったのは桐絵の親友役で、ボケギャグをかまし桐絵に「……三点」なんて言われちゃうショートカットの女の子、三輪明日美ちゃんだ。メインの配役表に載ってなかったからややしばらくお名前が判らなかった。教えてくださった方々、ありがとうございます。あー、この子、めっちゃめっちゃカワイイ〜!そしてもう一人、これは怪演はトーゼンでしょう、桐絵に惚れ込んで付きまとうストーカー男子高校生(!)、阿部サダヲだッ!「グループ魂のでんきまむし」以来久々に見ました。いやー、やっぱり彼はイイ。舞台人ではあるけれど、もっともっと映画に出て、第二第三の大杉漣、田口トモロヲとなって欲しい!
ちょっとこの点数ははしゃぎすぎたかしら……でも、この世界観、もう一度じっくりじっくり観たいと思わせるカルト味と同時に普遍的な娯楽映画の要素をも持っていて、意外とそういう作品って少ないのだよなあ、最近。どちらかだけにかたよっている気がするもの。いい意味でメジャー作品の同時上映作品!って感じそのもの。ぜんぜん期待しないでいて、オマケ的な感じで観たら、あらびっくりお買い得、ってやつですね。特撮技術もふんだんに使っていながら、うずまきの雲や竜巻、顔のオーヴァーラップなど、この“いつの時代ともどこともつかない”設定にぴったりマッチした風合いが感じられて、技術を押し売りする感じがしないし。しかも、この監督の若さ(30歳!)も加味すると……ああ、やっぱり、この作品、大好きだ!★★★★★
そして、本作である。ますますもって、私のグルグルは増幅される。一体、何なんだ、この映画は?おでん屋に恋して、処女をささげようと決心した“走るのが好きな女子高生”の疾風怒涛の物語を描きつつ、そしてその作品のメイキング(?というか、台本読みリハーサル風景)を見せ、まあ、そこまでは判るのだけれど、そこに、アラーキーこと荒木経惟と舞踏家、麿赤兒、ファッションデザイナー、荒川眞一郎の表現経過をたどるドキュメンタリー映像が折々に挿入されてくる。まったく、このドラマとは、関係なく、である。荒川氏デザインのドレスが出てきたり、アラーキーが出演者の女の子たちのオーディションを兼ねたフォト・セッションをする場面(モロ出し全裸の女の子達の集合写真がインパクト)、女子高生とおでん屋のセックスシーンと重ねあわせた麿赤兒率いる大駱駝艦の舞踏シーンなどの、ほんのちょっとのリンクはあるものの、ほぼ関係なくこの二つの世界が共存しているのだ。共存、というのでもないかもしれない。
しかし、この劇映画としてのドラマ部分と、彼らの表現ドキュメンタリーをつないでいる部分が、先にいったホン読みリハーサル部分であり、この部分はまさしく、劇映画を作り上げる表現ドキュメンタリーである。別に、ただこの疾走する恋愛物語をだけ語ってもいいはずなのに、この部分を挿入することで、明らかに突き放されている。少女は何故走っているのか、それにつられてなぜおでん屋も走るのか、セックスの欲望と、純愛の関係は?セックスから生まれる恋は?さまざまな疑問が浮き上がってくる。
「私としてください!」と突然のあからさまの申し出をアッサリ断られたこの女子高生、“男と待ち合わせをする”ハチ公をロープで腰にくくりつけて、渋谷の街から持ち出してしまう!待ち合わせが出来なくなる!と怒り、追いかける大勢の群集。まあ、このハチ公はツクリモノなのだが(当たり前だ)渋谷の駅前交差点、センター街と、「あたしも男と待ち合わせしたーい!」と絶叫してズルズルと引っ張って行くこの少女と大群衆、かなりのインパクトがある。あの渋谷でよくこれだけの画が撮れたなあ!全員がエキストラというわけではないだろう。日の出ているうちの(多分……照明で昼にしてるわけでは、ないよね)渋谷でのこのロケ撮影は!そしてこの一途な?少女が再びおでん屋に現れ、彼女の激しさと、群集の後押しで、ついついこのおでん屋「俺は、お前のこと好きじゃないんだぞ、それでもやっちゃっていいのか?」という展開になる。拍手が起こる群集(!)。
キスの仕方から手ほどきを受けるこの女子高生が、「(舌を入れるために)口を開けるんだよ」と言われてガッと大口を開ける!いざ挿入、というところでおでん屋の部屋のボロいガラスが突き破られて、隣の屋根の上に転がり落ちる二人!初めて男のモノが入った時、痛さに顔を歪めながら「嬉しい、嬉しい!」と叫ぶ少女!なにかこう、性欲の、根本の純粋な部分を見せられた気分。しかも少女はそれが愛情と不可分なのだ。そして思いが遂げられた後、少女は姿を消し、こんどはおでん屋が突然点された恋の炎に気づき、彼女を追いかけるために走り出すのである。
追いついた時、少女はもはや別の男を追いかけている。「お願いだ、恋しちゃったんだよ、抱かせてくれよ!」と絶叫するおでん屋。少女は立ち止まり、座り、ドカッと股を広げ、「(パンツを)突き破ってきな」と挑発する。台車みたいなのに乗って、必死にピストン運動をするおでん屋とその下になった少女は、どんどん道を走りぬけてゆく。浅く水の張られた湿地帯に転がり込む二人。少女が唐突に「結婚しましょう。子供は二人産むわ」と言いだし「結婚式場までタクシーで行きましょう」と言うのである。走り続ける少女を追いかけ続けてきたおでん屋はガクゼンとし、タクシーから飛び降りて、血だらけになりながら(この時外側から!浴びせられる血のしぶきは一体……)タクシーに乗ることを拒否する。走るんだ、と。そして二人は手に手を取って走り出すのである。
ダラダラと歩き、そこら中に座り込み、ガンダムのような足をした女子高校生たちに対する皮肉りとも思えるし、生活のサイクルが落ち着いてしまうと、もはやそこに安住してしまう大人に対する皮肉りとも思える。そしてそのタイトル、「うつしみ」は、といえば……劇中で身体→現身→虚身などという言葉も指し示されるのだが。そして荒川氏によって作られた、壁に溶け込んでいる不可思議なニットシャツといい、言葉で言うには難しい。表現活動とは、どんなに生々しくても、それは現実の肉体を持たない。そこにあるのは表現という虚ろ、虚身。麿赤兒のダンスも、荒川眞一郎のデザインも、アラーキーの写真も、扇情的であればあるほど、刺激的であればあるほど、生身の肉体から遠のき、観念的な世界に突入してゆく。そして、遠のけば遠のくほど崇高なものになってゆく。確かにその肉体の生々しさを追求しているはずなのに、である。表現と、肉体と、そのレベルの到達点の極、ギャップ。
走りに走りに走り続ける少女は、肉体をどのように使うかという点で肉体の具現化に他ならない。しかし、その“肉体をどのように使うか”という、同じ問いに対する性欲は、その行為と、性欲という観念とに分けるとその点において全く違う。性欲は突き詰めれば愛情になり、観念的になり、崇高になる。しかしその行為に移し替えた時に、それは肉体が感じているただのセックスとなり、消えてしまうのである。少女は、移し替えたとたん、一端その愛情が、消えてしまった。逆におでん屋は彼女に対して性欲を突き詰めていなかったから、彼女とのふれあいがきっかけで逆に愛情となった。肉体と精神とは不可思議。精神とは、虚身か。
園子温は、詩人。やっぱりこの人は私にとってナゾの人なのである。★★★★☆
思えば、彼はその“存在しない”という究極の孤独の存在としてパーフェクトなのだ。船内で産み落とされ、その親は名乗り出ることなく、陸地に一度も降りることなく、その生涯を終える。正確な出生日が判りようはずもなく、船に乗ってはいるけれど、(おそらく)パスポートはないし、陸地にももちろん身元を証明するものなど何もなく、その航海の間、船客たちが知るだけの存在。この物語は彼の唯一の親友であったトランペット吹きのマックス(プルート・テイラー・ヴィンス)が、爆破されるこの船の中に絶対に1900(ティム・ロス)がいるはずだと、彼の話を物語っていくのだけれど、最後に会うのもマックス一人で、1900はそのまま爆破される船に残ってしまう。つまり、1900はここで彼の話上でしか存在しないのである。もしかしたら、マックスの幻想、あるいは作り話と言ったって通ってしまう。
1900が陸地に行くことを選ばず、その船で最期を迎えることは、最初から予測できた。秀逸な邦題がそれを象徴してもいるのだが、彼の“存在”は、存在しなかったからこそ意味があるから。1900がもはや廃船となったさびついた船の底で、マックス相手に、なぜ一度下船しようと思ったたあの時、そして今まで船を降りなかったのか、その理由を説明するくだり、いわく、船が彼の世界であり、終わりのない大都会に対する恐怖を語るのだけど、その彼の説明は正直ピンとこない。もっと本質的なところ、彼が生まれ、育ち、その人生を過ごしたところ……海の上で終焉を迎えるのだ。生物の根源である海、そこでなければ生きられない。あるいは彼はこの船の子供だと言うべきかもしれない。そこから外の世界へと産み落とされることのないまま、船という子宮の中でしか生きられない子供。
書類上に存在を残すことが出来ない。残すことに意味を置かない。それは生けるものとしてとてもリアルであると同時に、人間社会では御伽噺になってしまう。この皮肉。人間は自分の存在を証明するのに、なんて無味乾燥な方法をとるしかないのだろう。1900のように、存在せずに、でも確かに存在して生きていけたならどんなにか美しいか。でも美しいがゆえに、これ以上の孤独もないのだ。だからこそ人間はそうして自分の存在を無粋ながらも刻印してくのかもしれない。
1900は初めてピアノに触れたときから、オリジナルの曲を、しかも高度な演奏技術を持って弾きこなした。……しかしその幼い1900の演奏場面、ペダルに足が届いてないのに、音にしっかりダンパー効果がかかっているのはどうかと思ったけど。まあそれはともかく、1900のピアノ演奏の場面はどの場面もすばらしい。有名なジャズピアニストとピアノでの決闘をするエピソードなど、まさしく映画という御伽噺ならではの素敵なウソなのだけど、勝負がつく怒涛のごときアドリブ合戦には本当にワクワクしてしまうし、1900が“暴走”してジャジーなソロを聞かせるところは、バンドリーダーが「暴走するな」と言いつつ、彼もまた多分期待しているのだろうと確信させるスリリングさ。チラシや予告編、タイトルのイメージではクラシックかな、と思わせたのが、ジャズピアノだというのが嬉しい。
でもジャズピアノというのも、孤独の象徴かな、と思う。「ジャズには名曲はない、名演奏があるだけだ」と言ったのは誰だったか。もともと、音楽というのは究極かつ、孤独な芸術だ。他の芸術と違って、音楽は時間の中にしか存在できない。映画も時間芸術だけれど、ちょっとズルしてスチール写真でその存在を確認することが出来る。でも音楽は、そんなふうに止まって、ここがこうだああだと検証できないのだ。まるで1900の存在を象徴している。その中でも「名演奏」しか存在しないジャズにおいては、その傾向が顕著である。クラシックならば、完璧な楽譜におこし、その楽譜によって頭の中に音楽を再生して、検証することも可能だろう。「名曲はなく、名演奏しかない」ジャズにはそれも出来ない。ジャズはもっとも孤独な芸術なのかもしれない。そしてだからこそ魅力的なのだ、
ピアノが全く出来なかったという1900役のティム・ロスのピアニストぶりには全く驚くばかりなのだが、彼の美しい指と、その指がそのまま姿になったかのような繊細な面立ちがその演技に一役買っている。なんといっても印象的なのは、1900がマックスの前に初めて現れる場面、嵐で大揺れの船内で船酔いに悩まされるマックスを素敵な方法で救出するくだりである。右へ、左へと歌舞伎役者のようにたたらを踏むマックスの前をちっともふらつかずにすたすた歩く1900。船で育ったゆえの慣れなんだろうけれど、もうそれだけで、1900がこの世の人ではないような気がしてくる。そしてピアノのストッパーを外し、嵐の揺れに合わせて滑りまくるピアノにマックスを“乗せ”、弾きまくる1900!なんで、椅子とピアノが離れないのかしらん、などと思うのはやっぱりヤボ?
1900のたった一つの存在証明であるレコードのエピソードは美しすぎるほどに美しい。丸い船窓の外に美しい少女を見、彼女を思って奏でられた音が吹き込まれたレコード。三等船室に彼女を見つけ、眠る彼女にしようとしたくちづけが未遂に終る。そして手渡そうとしたそのレコードも渡せないまま、彼女は船を降りてしまう……。彼は彼女への思いを断ち切れなかったのだろう、船を下りる決意を固めるのだが、そのタラップで見やった、無限に続く摩天楼に自分の居場所を見出せなかったのか、きびすを返してしまう。彼がこのまま船を下りることが出来たら、この少女とのエピソードは美しいまま完結しただろう。彼はそれができなかった……だからこれは、結構残酷。彼の恋は本物じゃなかったというより、彼の、というよりは人間の存在意義の方が恋よりまさってしまうことを、証明してしまっているのだ。彼は、いわゆる人間社会において存在しない。だから恋もできないのか……残酷である。
彼がピアノを絶えず弾いているのは、やはり自分の存在証明にどうしても聞えてしまうのだ。「千年旅人」のユマやツルギのように、「私はここにいます、私はここにいます!」と、あらんかぎりの声をつくして叫んでいるように。そういえば、「千年旅人」にもピアノが出てきた。ユマがアリアを歌いながら弾くアプライト。あのピアノもこれ以上なく孤独だった。そして美しかった。1900が弾くピアノはユマのそれとはちがっていつでも人に囲まれているけれど、それはいつでも違う人たちで、だからこそ逆に彼らがいつかいなくなってしまうことを否応なく予期させ、どうしようもなく孤独なのだ。そしてやはり、だからこそ美しい。
船が爆破される直前、1900が今はないピアノの鍵盤を夢想してそっと指を走らせる。そのほっそりとした指は今もきちんと爪が切られているのだ。もう、きっと何ヶ月も、ひょっとしたら何年もピアノを触ることが出来ずにいたのだろうに……永遠のピアニスト。その指に一番、胸がつまった。★★★☆☆